朝起きたら隣には誰も居ない…。

そんな生活が当たり前だったのに、

どうして温もりに慣れると寒さが分からなくなってしまうんだろう。

決して忘れてはいけない…忘れられる訳がないのに…。



「…んん?祐巳ちゃん…?」

セイはまだハッキリとしない意識の中で少女の名前を呼んだ。

それはもう、無意識の中で呼んでいるといってもいいぐらい当然の事で、

何の違和感もない。

そしていつものように、主人とはぐれた子犬みたいにフラフラとベッドから降りて、

ユミを探すのがセイの日課で、

ユミは大抵キッチンで朝食を作って笑顔でセイを迎えるのだけれど…。

「祐巳ちゃん…?」

セイはドクドクと高鳴る心臓を押さえつつテーブルの上に置かれている朝食と、一枚の紙切れに目をやった。

そこに少女の姿はなく、かすかに香る朝食の卵焼きの匂いだけが、

少女がついさっきまでそこに居た事を物語っていた…。

「…どうして居ないの…?」

急に不安になるのはセイの悪いクセで、少しでもユミの姿が目に入らないと、

途端にもろく崩れ去ってしまうような錯覚まで起こしてしまう。


ユミの居ない所ではまるで形の無い生き物のような…、

そんな気さえするほど彼女の存在はセイの中で大きく、大事なモノだった。

その存在が無いという事はセイにとってはとても重要で緊急事態だというのに、

こんな時は決まって頭の中が真っ白になって、何も動けなくなってしまうのだから始末が悪い。

「…どうしよう…」

セイはポツリとそう呟くと、とりあえずパジャマを着替えて出かける準備を始め出した。

何処に行く訳でも無い。ただユミを探しに行こうと思ったのだ。

そしてセイは机の上に置かれた朝食をさっさと済ませ、ここでようやく紙切れを手に取った。

『聖さま、おはようございます。よく眠れましたか?

私は少し買い物してくるので、家で大人しく待っていてくださいね!

いいですか?家にちゃんと居てくださいね?

晩御飯は外食にしましょう、と言いたい所ですけど今日は家で二人きりでお祝しましょうね。

それじゃあ、行ってきます。     祐巳』

「釘…さされちゃった…」

手紙に…。

セイは手紙の文字をもう一度目で追いながら笑いをかみ殺した。

セイの行動パターンはユミにはすっかり分かっているようで、なんだかおかしかったのだ。

そして、こんなささいな事に幸せを感じる自分も、全くどうかしていると思う。

ユミに会うまでは不安な事が多かった。小さな事で常に不安を抱いていた。

こんな小さな事が幸せだと思える事などなかった…。

身近な幸せに気付く事など、ほとんど無かったのだ。

自分を理解してくれる誰かの存在…自分だけを見てくれる人が居るという事…。

「幸せだなぁ…私は」

思わず漏らした台詞は紛れも無く本心で…。

セイはユミの残した手紙を握りしめるとその場にうずくまって込み上げてくる笑いに身を任せた。

いつしかその笑いは嗚咽に変わり、両目からは温かいものが溢れ出す。

何故涙が出るのか分からない…でも、その涙はとても幸せな涙だった…。



お昼過ぎ、セイの携帯が微かな振動と共に鳴り出した。

着信はユミから。

何もすることがなく、ただ窓の外を見ながら何時間もぼんやりとしていたセイにとって、

その着信をどれほど待っていたのかは、きっとユミは知らないのだろう。

セイは小さく深呼吸をすると、静かに電話をとった。

「…もしもし?」

『あ!もしもし聖さま?ごめんなさい!予定よりもお買い物が長引いてしまって…。

退屈だったでしょう?』

セイの機嫌をうかがうようなユミの声が、どこか楽しげなのに気付いた。

「…随分と御機嫌じゃない」

どうしてユミの機嫌がそんなにいいのか…。

何か楽しい事でもあったのだろうか…。

セイはイライラしつつユミの答えを待った。

『え…だって…嬉しいじゃないですか…』

「何が?」

煮え切らないユミの態度に、セイのイライラはぐんぐん上昇してゆく。

何がそんなにユミにとって嬉しいのか…ユミの幸せをどんな時でも一緒に感じたいと思うのに…。

もちろんセイ自身の幸せも…ユミに感じて欲しいと思うのに…。

ユミはそんなセイの心を知ってか知らずか、少し解答に困った様子で口を噤んでしまった。

「もしもし?祐巳ちゃん?」

セイは出来るだけ優しい口調で尋ねたつもりだったが、実際ユミにはどう聞こえただろうか…。

きっと今、セイが怒っていると思っているに違い無い。

別にセイも怒りたい訳ではないのに、こうも黙り込まれると無性に腹が立ってくる。

『…ごめんなさい…聖さま…怒ってます、よね…。

ただ…私が居ないから不機嫌なのかな?って思うと…なんだか嬉しくなってしまって…。

ごめんなさい…今すぐ帰るので…もう少し待ってて下さいね…』

今にも泣き出しそうな声で、電話越しにそうユミは呟くとユミは電話を静かに切った。


トボトボと歩く足取りは重い。

荷物も同じぐらい重いし、もういっそこのままここに置いていってしまいたいけれど、

ふと、バッグの中の小さな箱が目に入って、それを思いとどまった。

箱の中には大切な人への大切な贈り物が入っている…。

これを渡した時、セイは一体どんな顔をするだろうか…。

喜んでくれるだろうか…それとも困ってしまうだろうか…。

ユミはそんな事を考えながらこれを選んだ。

セイにもあの嬉しさを知って欲しいと思ったから…。

それなのに、結果的にはセイを怒らせてしまって、

挙げ句の果てにこんなにも辛い想いをしている自分がここに居る。

「…また間違えちゃった…」

泣き出してしまいたいけれど、こんな道の往来で泣いてしまえるほど、ユミはもう子供ではない。

「帰っても怒ってるかな…」

ユミはそうポツリと呟くと、次の電車がやってくるのを、ただひたすら待っていた。

風は想像していたよりもずっと冷たく、ジーンズを履いていてもその温度に思わず震えてしまうほど。

高校を卒業してからというもの、セイと一緒に居る時以外は穿かないスカート。

どちらからいいだした訳でもない自然に出来ていた暗黙のルールは、

ユミの中ではセイ以外の人を好きになる事などこの先無い、という証でもある。

ユミはジーンズの膝のあたりを撫でながら、

自分で決めたルールにほんの少し笑みを漏らすと、丸めた背中をピンと伸ばした。

やがて電車がホームにやってきて、周りの人達がゾロゾロと動き出す。

今日はクリスマス。

沢山の人が大荷物を抱えて電車に乗り込んでゆく…。

ユミはシートに腰掛けると、荷物を邪魔にならないよう足元に置き、周りを見回した。

正面に立つ中年のおじさんの持つ袋の中には子供の為に買ったのか、おもちゃの箱が顔をのぞかせている。

そんな光景にユミは思わず目を細めた。

ブランドものの袋を下げた男の人…これから愛する人に会いにゆくのだろう。

幸せそうな顔がそれを物語っている。

なら私は?私は皆の目にどう映っているんだろう?

ふとユミの頭にそんな想いが過ってゆく。

沢山の荷物を抱えて、愛する人にこれから会うというのに、どうしてこんなにも浮かない顔をしているのか…。

たった5分ほどの会話…たった5分…。

それだけの会話でユミの気持ちをこんなにも左右させる事が出来るのは、きっとセイだけ…。

ユミの心を乱すのも幸福にさせるのも、今はあの人しかいないのだ、と。

電車の外を流れる景色は、やがて白いものが目立つ様になり、

ユミが降りる駅に近付いた頃には辺りはすでに真っ白だった…。


電車が停まり、人がまばらに降りてゆく。

ユミも他の人に荷物がぶつからないよう、気をつけながら電車を降りると、はぁ、と小さく息を吐き出した。

真っ白な息が雪に溶ける。

ホワイトクリスマス…とてもロマンチックだけれど、こんなにも大荷物じゃあ迷惑以外の何者でもないな、

と自分の心の変わりように思わずユミは苦い笑みをこぼした。

「さて…どうしたものか…」

ユミは改札を出て空を見上げると大きな溜め息を落とした。

両手には大荷物。傘があったとしても、このままではさすことなど到底無理だ。

「しょうがない…このまま帰ろ…」

ユミはガックリと肩を落とし、両手に持った荷物を持ち直し二三歩歩き出したその時。

後ろからスイと透明の傘が差し出された。

ユミは驚いて振り返ろうとしたけれど、荷物が邪魔してどうにもうまくいかない…。

すると、その傘の持ち主はゆっくりユミに近付いて言った。

「そのまま帰る気?」

「!?」

この声…聞き間違える訳がない。他の誰の声よりも好きな声…。

「家につく頃には雪だるまになっちゃうよ?」

「聖さまっ!?」

ユミは荷物をその場にドサリと落とすと、勢い良く声のする方を振り返り、顔も確認せず抱きついた。

「祐巳ちゃん?」

突然抱きついて来たユミを、引き離す訳でもなくただ不思議そうに頭を撫でる仕種…。

ユミはこの仕種が大好きだった。

全て受け入れてくれるような…そんな気がしたから…。

「聖さまっ…聖さまっ!あいたか…った…」

そんなに離れていた訳ではないのに、何故かずっとそう思っていた。

何度も何度も引き返してセイと二人で出直そうと思った…けれど…。

セイはイルミネーションされている街はあまり好きではないと言っていたし、

とても気持ち良さそうに眠っていたから、起こす気にはどうしてもなれなかった。

重い荷物をここまで運んだのも、寒い思いをしたのも、全部セイの誕生日を祝う為…。

大嫌いなクリスマスを少しでも笑顔で過ごしてもらう為だったのに…。

それなのに今こうしてセイが目の前に現れて、セイの笑顔が必要だったのは自分自身だったのだと気付いた。

ユミ自身がセイの笑顔に会いたかったのだ…。

「私っ…ごめんなさい」

肩を震わせながら涙声ですがりついてくるユミを、

セイはしっかりと抱き寄せると足下に落ちた荷物を拾い上げた。

「だ、だって…私聖さまを…怒らせてしまったし…まだ怒ってると思ってたから…」

ユミはセイを上目遣いで見上げると、その表情を確認する。

すると、セイはバツが悪そうに微笑むとユミのおでこを軽くこづき言った。

「あれは…怒ってたんじゃないよ。ただ…私も………あ〜もういいじゃない。

ほら、寒いから帰ろう?」

セイはプイとユミから視線を逸らすと荷物を抱え直すとスタスタと歩き出してした。

ユミはそれが府に落ちなくてセイのコートの袖をつまんだけれど、

セイは立ち止まる事なく逆にユミの手をグイっと引いて手をつなぐと、

そのまま自分のコートのポケットの中へと入れてしまう。

セイの手はユミの手よりも冷たくて、どれぐらい前からここでユミの帰りを待っていたのかな?

なんて考えると、また泣き出してしまいそうだった…。

それがさっきのユミの質問の答えだったのだろう…。



「それにしても随分買ったね〜。一体何作るの?」

「まだ内緒ですよ」

「ええ〜…まぁいいけどさ…食べきれる量にしてね?」

ようやく家に辿り着いた二人はそんな事を言い合いながら笑いあった。

ほんの数時間前に喧嘩して、でもまたすぐ仲直りして…。

こんな事を繰り返しながら付き合っていくのもなかなかいいものだ、と。

苦しいだけではない。かといって幸せな事ばかりでもない。

どちらも同じぐらいの比率でやってきて、それを越えてゆくのがきっと恋愛の醍醐味なのだろう…。

「祐巳ちゃん、クリスマスツリーとかないけど…いいの?」

ユミだって本当は大手を振ってクリスマス気分に浸りたいだろうな、なんて事ぐらいセイにも分かっていた。

昨晩セイの言った事をきっと気にしているに違い無いだろう、ということも。

「ええ、別に構いませんよ?パーティーが出来ればそれで」

「なるほど」

ユミの言葉はとても明解で分かりやすかった。

要はパーティーが出来ればどんな日だって構わないのだ。

たとえクリスマスでも、誕生日でも特になんでも無い日でも…。

「それって複雑なんだけど…」

セイには、まるで誕生日などどうでもいいと言われたみたいな気がしたから…。

「いえ、そういう意味ではなくてですね…う〜ん…なんていうか、

誰かの事や何かを思って一番好きな人と祝えるのなら特にこだわる事もないかなって…思いまして」

「つまり…今日は私を思って二人で祝えれば何でもいいと?」

そういう事なのだろうか?

「ええ、まぁ。平たく言えば、ですけど」


「へ?複雑にですか?う〜ん…そんなに複雑ではないですけれど…。

つまりはキリスト様の誕生日は皆お祝するでしょう?」

「うん」

「でも、本心でキリスト様の誕生を祝ってる人なんていると思います?

信者でなければ祝いませんよね?」

…まぁ、そうだろう。しょせんは会った事もないひとの誕生日を誰が心から祝うというのか…。

「じゃあクリスマスなんて大して意味ないじゃない」

「いえいえ、大事なイベントですよ。大事な人と過ごせるチャンスじゃないですか、クリスマスは」

「…………それだけ?」

「ええ。多分。でも、私はとても素敵な事だと思いますよ?

たとえその日を利用してでも、幸せな時を大事な人と過ごせるんなら…」

「なるほどね…で?祐巳ちゃんはどうなの?本当はクリスマスしたいんじゃない?」

セイはソファに腰掛けているユミの隣に座ると、ユミの指をそっとなぞった。

ユミはくすぐったそうに笑いながらセイの肩の頭を置く。

「私は…ラッキーですよ、とても」

「ラッキー?」

「ええ、だって、本当にこの日をお祝する事が出来るんですから…」

「…どういう意味?」

「だから…クリスマスに頼らなくても聖さまと過ごせるんですから…とてもラッキーだと思うんですよ、私は…」
「……………」

そうか…私の誕生日だからクリスマスじゃなくてもいいのか…

セイは嬉しかった。ただ純粋に嬉しかった。

クリスマスよりも、自分の誕生日が優先された事がとても嬉しくて…。

クリスマスなのに、部屋を見渡しても飾りつけはおろかツリーすらない、


それでもいい、と、それがいいと言ってくれた事がとても嬉しかったのだ…。

「祐巳ちゃん…ありがとう」

「?なんです、急に」

セイは肩に置かれた頭の上に、自分の頭をのせるとポツリと呟いた。

不思議そうなユミの声が、温もりがとても心地よい…。

「べっつに。ただ何となく」

セイの嬉しそうな声に、ユミもまた嬉しそうに笑う。

「変な聖さま」

「変〜?そんな事言うのはこのお口?」

「ひゃうっ!?」

セイは勢い良くユミの腰に腕を回すと、グイっと自分の方へ引き寄せた。

ユミはといえばセイに完全にもたれていたものだから、

あまりにも勢いよく引っ張られて思わずバランスを崩し、そのままソファに仰向けの形に倒れこんだ。
「うわっ?!」

それを支えきれなかったセイもまた、ユミの上に倒れこむ…。

ちょうど鼻と鼻が翳めるぐらいの距離…互いの息遣いが妙に気恥ずかしい。

夏の旅行からお互いそんな雰囲気にならないよう、気をつけていたのだけれど…。
「ご、ごめんっ」

セイは慌てて顔を離すとユミの上から身体をずらした。

「い、いえっ…そ、そろそろ御飯の支度してきますね」

まだドキドキしている心臓…。

何故かセイの顔がまともに見られない。

ユミはセイから視線を外すと、身体を起こし立ち上がろうとした。

「っ…待って」

セイは立ち上がろうとしたユミの手首を強く掴むと、

グイっと上体を起こし真っ赤な顔で戸惑っているユミの唇に、自分の唇をそっと重ねた。

「んん!?」

あまりにも突然の出来事に、ユミの瞳はいつも以上に大きく見開かれている…。

「祐巳ちゃん…好きだよ…」

セイは真直ぐユミを見つめ、逃げてしまわないように指と指の間に自分の指を絡ませた。

「…聖さま…」

「覚えていて…私は祐巳ちゃんが思ってるよりもきっとずっと…祐巳ちゃんの事…好きだから…忘れないでね」

聖はそう言うと、もう一度ユミの唇にキスを落とす。

「私…も…です…」

ユミはセイの首の後ろに腕を回し、ギュウっと強く抱き締めた…。

この想いが、少しでもセイに伝わるように祈りながら…。





クリスマスと誕生日…。


どちらを優先しても、本当は構わない。


でも、誰か1人でいいから私を見て欲しかった…。


だからといって誰でもいいわけじゃない。


君1人が祝ってくれたなら…それが最高のプレゼントになる…。








ハッピーメリーバースデー   第一話