今まで、誕生日が大嫌いだった…。
自分の名前が嫌だった…。
クリスマスに生まれた、私の名前…。
本当に…大嫌いだった……。
12月25日。
世間ではロマンチックなクリスマス。私にとってはただの誕生日。
一般的には羨ましがられたりするけれど、私にとっては不幸な出来事以外の何者でもない。
これだったら、まだお正月に生まれた方がいくらか幸せだったように思う…。
正月ならめでたいし、1年の一番初めに生を受けたなんて、素直に素敵だと思えるし、
お年玉だって多少奮発してもらえたかもしれない。
でも…それがクリスマスだったとしたら…?
今でも語り継がれるような、そんな人物と同じ誕生日だったとしたら…?
「そもそもクリスマスなんて、本来私には関係ないんだよ!」
セイは、目の前で優雅にお茶などすすっているユミの目の前にバンと拳を振り下ろした。
あまりの突飛な行動と言動に、ユミの目は真ん丸になり飲んでいたお茶が通り道を間違えて、むせ返るのもしょうがない。
目を白黒させながら必死になって息を吸おうとするユミの背中を、セイは軽く叩きながら苦笑いしている。
その顔は大丈夫?と言っているようにも見えるが、ユミにとっては全然大丈夫などではない。
むしろ一歩間違えば死んでしまうところだ。
「な、なんなんです!?急に」
まだ、コホ、と小さく咳をするユミをセイは心配そうに見つめながら恥ずかしそうに頭をかくと、
その場でユミに深々と頭を下げた。
「いや、ごめんごめん。たださ…ほら、世間ではクリスマス一色じゃない?それがなんだか癪でさ」
癪に触る…そう、それが一番近い。
なんだか無性にイライラするのだ…。
「癪…ですか?」
ユミは小首を傾げてセイの顔を不思議そうに覗き込むとそう呟くと、
セイは無言で頷き今までユミが飲んでいた湯のみに手を伸ばし残りを一気に飲み干した。
「どうしてです?街とかとても綺麗じゃないですか…キラキラしてて」
「…………お茶、いれてくるね」
「聖さま…?!」
…一体どうしたんだろ…聖さま…。
そう、ここのところ、セイの元気がない。と、言うよりは、何かに対してずっと腹を立てているようだった。
一緒に住みだしてセイを怒らせることはしばしばあったけれど、こんな風に特に理由もなく怒る事などない人なのに。
ユミがそんな事を考えていると、新しいお茶を入れに席を外していたセイがリビングへと戻ってきた。
戻って来たセイの表情は、上辺は笑っているけれど、やはりどこか不機嫌そうに見えて仕様が無い。
思いきって聞いてしまいたいけれど、それをすることによってより一層セイの御機嫌が斜になってしまってもいけない、
と思ったユミはやはりただ黙っているしかなかった…。
一方セイはと言えば…。
全く何も聞いて来ないユミに、セイは多少のいら立ちさえ覚えていた…。
事の起こりは二人がようやくベッドの中に入ってしばらくしてからの事…。
それまでは機嫌よくふつうにおしゃべりしていたセイが、突然くるりとユミに背を向けた。
「聖さま?」
…おかしいな…いつもなら…
いつもなら、もっとユミにじゃれついて来てユミが眠るまでずっと手を握っている…筈なのに…。
セイは今日に限って早々にそれを切り上げて、さっさと向こうを向いてしまった。
最近のセイの機嫌の悪さとこの態度…。
ユミはセイを怒らせているのは自分なのだろうか、と口を開きかけたその時。突然セイが口を開いた。
「何も聞かないんだね?」
ポツリと呟いたその声は、どこか寂しそうでドアの隙間から部屋に吹き込む風にかき消されてしまいそうなほど切ない。
「………」
「それは気を使っているの?それとも聞きたくないの?」
少しだけセイは声を荒げると、またくるりと向きを変えた。
セイの石膏のような顔が鼻の先を翳めるんじゃないか?
と思う程近くに来て、思わずユミは仰け反ろうとしたけれど、セイがユミの腕を力強く掴んでそれを許してはくれない。
「私から話すまで祐巳ちゃんは聞かないつもり?」
呆れているような、怒っているような…そんな複雑な表情を浮かべたセイの顔は、
月明かりに照らされてとても綺麗に見える…。
ユミがただぼんやりとその顔に見とれながら質問の答えを考えていると、
セイは諦めたように溜め息を一つ落としユミの腕を掴んでいた手を緩め、
そのまままた向きを変えてプイとユミに背を向けてしまった……。
「聖さま…ごめんなさい…」
ユミの一言がシンとした部屋に木霊する。
冷たい空気を震わせてようやく紡ぎ出した言葉は、セイの怒りを増長させるには十分すぎる程で…。
セイはガバっとベッドから上体を起こすとユミに冷ややかな視線を落とす。
その顔は怒りというよりも、哀しみに近かった……。
「…どうして祐巳ちゃんが謝るの?悪いのは私でしょう?理由も知らないのに謝らないで!!」
リユウモシラナイノニアヤマラナイデ…
セイの言った一言がユミの胸に鋭い爪を立てる。
どうしてこんな風に怒られたのか、ユミには全く分からない。
ただ言えるのは、セイがこんな風に怒るのをこの時ユミは初めて見た気がした。
いつも慎重に周りを見て怒るセイ…なのに、今日は違う。
とても感情的で、ユミに対して怒っているのか、他の誰かに怒っているのか…それとも自分自身に…。
「聖…さま…?もしかして…聞いてほしかったんです…か?」
辛い事…悲しい気持ち…ユミの中にもある。
誰かに聞いてほしくて、でも誰でも言い訳ではなくて…自分からは言い出せなくて…だから少しでも気に掛けて欲しくて…。
ユミもそっと上体を起こし、セイの背中から腕を回すとセイをギュウっと抱き締めた。
身体越しに伝わってくるセイの体温と鼓動がとても心地よい。
「……………」
セイはユミの回された腕を振り解く事もせずに、ただじっとユミの手の甲を撫でている。
とても愛しそうに…とても寂しそうに…。
ユミはそんなセイにもたれるようにおでこを背中に押し当て、小さく、でもはっきりと言った。
「聞かせて下さい…聖さまの思っている事を。何に腹を立てているのかを…私に」
ユミの声は部屋によく通った。まるで恋の歌を歌っているかのように、甘く…切なく。
「…私…クリスマスに生まれたの…」
「ええ、知ってますよ。とてもロマンチックですよね」
ユミの言葉に、セイはピクリと肩を震わせると顔だけをこちらに向け自嘲気味な笑みを浮かべた。
「ロマンチック…ね。まぁ、世間ではそうかもね。でも…私にとっては…私の誕生日だ」
「?ええ、そうですね…嫌なんですか?」
首を傾げて不思議そうに尋ねてくるユミは、もう文句のつけようが無いくらいに可愛い。
「うん、嫌い。大嫌いだよ…クリスマスは。それに…この名前も…」
「名前…も……どうしてか?って聞いてもいいですか?」
ユミの質問にセイは小さく頷くと、ゆっくりと話し出した。
どうして最近機嫌が悪かったのかを…。
「最初に言っておくけど…子供っぽい理由で怒っていたって…笑わないでくれる?」
「…ええ、もちろん」
「そう…最初は確か小学校の時だったかな…なんかね、名前の由来を調べる授業があったんだ」
「あ!それ知ってます!私もお母さんに聞いた覚えがありますから」
そして、その時初めて自分の名前にはそんな願いが込められていたのだと知った。
自分の幸せの為に一生懸命考えてくれたのだと思うだけで胸が熱くなったのを、今でもユミは覚えている。
「そう、私も母親に聞いたの。名前の由来を…そしたら返ってきた答えがクリスマスに生まれたから、だったのよ」
セイの話によれば、聖という字は聖者につける名だという…。
ちなみに、聖者とは…偉大な信者を意味する。
「それは…すごいお名前ですね…」
ユミの率直な意見は、セイの心にどう伝わったのかは分からない…。
でも、少なくとも下手に取り繕った言葉よりは、幾分マシだったには違い無かった。
「そう、すごいお名前でしょ?字の意味を調べた時は自分でも驚いたよ。何!?これ?って…。
そして母親のいうあまりにも安直な名前に愕然とした…」
「愕然…?」
「うん。ああ、私の事なんて見てなかったのかな?って思えたんだ。ただクリスマスに生まれたから聖。
だったら正月に生まれたら賀正だったの?みたいな…ね」
「…賀正…」
それはさすがに無いんじゃないのかな?って思う。
それはあんまりだろう…ユミは少しだけ自分がセイの事を賀正さまと呼ぶ所を想像して笑うと、
セイは恥ずかしかったのか小さく笑わないって約束でしょ?とユミをたしなめた。
「ご、ごめんなさい…賀正がおかしくて」
「もう、笑うんなら続きは話さないよ?」
「いえ、もう笑いませんから続き、話してください」
ユミはセイの腰に回していた腕に力を込めると、じっとセイの顔を見つめ、話しの続きを待った。
「私の誕生日は皆が祝ってくれる。それはいい。パーティーとか盛大にやってくれるのも嬉しいし…。
でもね、その中の何人が本当に私の誕生日を祝ってるんだと思う?
もしかしたら1人も居ないのかもしれない…ただ皆クリスマスを楽しんでるだけなんじゃないの?
…なんて思えてきてね…妙に飾り付けされた家とか、木とか見る度に苦しくなる。
私の誕生日はクリスマスなんだって嫌でも思い知らされる…皆がはしゃげばはしゃぐほど、私は1人取り残されて……」
…とても辛いんだ…
ポツリと呟いた声が、セイの今までのクリスマスに内心どう感じていたかが伺える。
「私はイエス・キリストみたいに万人を救えるような存在ではないし、誰かの助けになれるとも思えない…。
でも同じ誕生日というだけで無言のプレッシャーをまるで名前につけられたみたいだったんだ…」
計り知れないセイの想い。
セイがそんな事を感じながら今まで生きていたなんて、ユミはまるで知らなかった。
なんとも言えぬ重圧に、世間に押しつぶされそうになりながらいつも自分の誕生日を過ごしてきたのだ。
この人は…。
「聖さま…それでここの所ずっと機嫌が悪かったんですか?」
ユミはセイの背中に頬を押し当てそっと囁く。
「…まぁ…ね。後クリスマスにはあまりいい思い出がないからね」
苦い笑いをかみ殺すセイの顔に、ユミはすぐにピンときた。
「…栞さん…?」
今でもきっとセイの心のどこかに彼女が住んでいて、一生消える事はないのだろうと思う。
でも、ユミはそれでも良かった。忘れて欲しいとは思わないし、消えて欲しいわけではない。
たまには切なくなる事もあるけれど、
それでもセイの中のシオリもまたセイを形作る要素の一つなのだ、と今は思えたから…。
「栞…うん…彼女の存在もクリスマスを嫌う一つの原因なんだろうね」
寂しそうに呟くセイの横顔は、今はユミを見ていない。
心に住むシオリを見ているのだろう…。
ユミが寂しそうに俯くと、セイはユミの腕をそっと解き今度は身体ごとこちらに向き直り、
ユミの小さな身体を包み込むように抱き締めると、耳元でそっと囁いた。
「…でも…今はもう栞の事は辛く無いんだよ。
いい思い出がないというだけで彼女の幻想を追う事ももう無い。
ただ…今は祐巳ちゃんに居なくなられる事が一番恐い…。
それに、祐巳ちゃんには私の事をもっと知って欲しい…聞きたい事はその場で聞いてほしいし、ちゃんと叱って欲しい…」
「…聖さま…」
そうか…それで…
ユミはセイの胸に顔を埋めると、泣き出しそうになるのを必死に堪えた。
今ようやくセイについて一つ分かった事があったのだ…。
今までセイがどうしてユミのピンチに都合良く助けに来てくれていたのか…。
もちろんユミの事を大事にしてくれていたから、というのもあるけれどそれだけじゃない。
きっと、セイはとても敏感なのだ…人の心にも自分の心にも…。
だからユミだけではなく、誰の心にもきっと敏感に反応していたのだろう。
でも、そんな敏感な人だからこそ自分の事は上手い具合にはぐらかしていたのではないだろうか…。
それを見つけてくれる、本当の自分を見てくれる誰かを…ずっと待っていたんじゃないだろうか…。
ユミにはどうしてもそう思えてならなかった。
「聖さま…聖者になんてなれなくていいんですよ…ううんならなくていいんです…。
その代わり…私だけの聖さまで居て下さい…どこにも行かないで、もっと私に…聖さまを見せてください…」
「…祐巳ちゃん…」
ユミは潤んだ瞳でセイの瞳を真直ぐに見据えている…。
それは願いというよりは挑戦のようにも思えた。
どこか挑戦的な瞳は、上辺のセイではなく、本当のセイを捉えて離そうとはしない…。
「どこにも行かない…ううん…どこにも行けない、かな…もう…祐巳ちゃんを置いてどこにも行けない…」
セイは小さく呟くと、ふっと笑みを漏らす。
ようやく見つけてもらった…ようやく捕まえてくれた…本当の自分。
ワガママで感情的な…とても寂しがりやで臆病な自分を…。
彼女が去った夜、クリスマスプレゼントの箱の中にそっとしまったもう1人の自分…。
今ようやく箱の中からノックする音が聞こえた気がした…。
明日はクリスマス…一年の中で一番嫌いな日…そして…一年の中で一番愛しい日……。
触らないで、私の大事なプレゼント…。
開けないで、私のパンドラの箱。
むやみに触って開いてしまえば、そこから流れ出る私を誰が見つけてくれるというの?
誰にもみつけられない…誰にも見つからない…。
そうして私は、1人でこの世界から去ってゆくの?
中から聞こえてくる音は、もう1人の私。
それを見つけてくれるのは…………。