いっそ、言ってしまいたい・・・。
この想いをキミに伝えて・・・。
携帯電話を握り締めたままセイは部屋の中央でただ立ち尽くしていた。
窓の外に向けられた瞳には何も映されていない。
頭の中には、ぼんやりと白いモヤがかかっているようで気分が悪い。
まるで夢の中に居るような・・・そんな気配。
「夢・・・そう・・・これは夢なんだ」
セイは自分の腕を思いっきり抓ってみるが、痛くない。
やっぱり夢なのだろうか?
・・・いいや、これは現実だよ・・・
誰かが頭の奥で呟く。その声に耳を傾ければ最後、セイはきっと電話をかけなければならない。
彼女に・・・誰よりも愛しいユミに・・・。
頭の中を流れるのは、何故か「戦場のメリークリスマス」・・・。
今日は遅くまで誰も帰ってこない。
しょうがないのでセイはキッチンの中の戸棚からカップラーメンを一つ取り出すと、それにポットのお湯を注ぐ。
3分待って…っていうのがカップラーメンのセオリーだけれど、麺は出来れば少し硬めがいい。
セイが、2分35秒あたりを目安に壁にかけてあった時計と睨めっこをしていた時だった・・・。
誰も居ない静かな部屋の沈黙を破ったのは電話のベル。
いつもなら出ない。居留守を使って電話をやりすごすのだけれど、今日の電話はちょっとしつこい。
・・・仕方ないな・・・
セイは席を立つと、受話器に手をかけ小さく深呼吸をする。
「はい、佐藤です」
高くもなく低くもない、よく通る声・・・でも、その声からはおよそ感情というものが見られない。
ほんの少しの沈黙・・・気まずい空気。いっそこのまま切ってやろうか、そう思った矢先。
ようやく相手が口を開いた・・・。
「夜分遅くに失礼します。小笠原祥子と申しますが、聖さまはご在宅でしょうか?」
「祥子・・・」
思いもかけない相手からの電話に、セイは思わず受話器を落としそうになる。
「せ、聖さま?どうかされまして?」
突然のガチャガチャという音にサチコは驚いたのだろう、さっきの余所行きの声ではなくなっている。
「いや、祥子が電話かけてくるなんて珍しいな〜なんて思ってさ」
セイはザワつく心を必死に抑えながら出来るだけ平静を保つ。
「・・・・・・・・・」
「・・・どうかしたの?何か用事があったんでしょ?」
サチコがわざわざ電話をかけてくるとなると、学校の話では無さそうだ。
そんな事は姉であるヨウコに話せばいいのだから。
となると、用事というのは一つしか思い当たらない・・・多分ユミの事だろう・・・。
「ええ、祐巳の事でお聞きしたい事がありまして」
ほんの少し上ずったサチコの声・・・もしかするとさっきまで泣いていたのだろうか・・・。
「いいけど・・・私は何も知らないよ?」
「・・・知ってるんですか!?」
この場合はきっと何を話そうとしているかって事なんだろうな…。
セイはそう思いつつ机の上に置かれたままのカップラーメンに目をやった。
きっともう完全に伸びてしまっているだろう…全く、ブヨブヨの麺なんておいしくないのに…。
セイは小さく溜息を落とした。
「まぁ、大体は。蓉子からこの間聞いたとこ」
「・・・そうでしたか・・・お姉さまに」
「うん。祐巳ちゃんに他に好きな人が居るんじゃないか、って事でしょ?」
「・・・はい」
・・・やっぱり・・・でもどうして私に・・・
「悪いけどさっきも言ったように、私は何も知らないよ。それに・・・案外祥子の勘違いじゃないの?」
そであって欲しい。相手が自分ではないかもしれないのだから・・・。
しかし、セイのそんな些細な願望も、あっという間にサチコに否定されてしまった。
「いえ…それは無いと思います…こう見えても私は祐巳の姉です。
妹の様子がおかしい事ぐらいすぐに解りましてよ?」
・・・祐巳ちゃんの様子がおかしい・・・
サチコの声には少し怒りが含まれているような気がした。
それが誰に当てたものなのかはわからないけれど・・・。
「それは失礼。で?私なら何か知ってると思った?」
「はい・・・祐巳は聖さまになら相談するかもしれないと思ったので・・・」
「そう…相談…ね。でも…私にはしないんじゃないかな…特に色恋沙汰はね」
そう、ユミはきっと恋愛の相談はセイにはしないだろう。
シオリの話を聞いた時、ユミは泣き出しそうな顔をしていたのだから…。
わざわざそんな体験をした人間に恋愛の相談役は持ってこないだろう。
「…そうですよね…いくら聖さまでもそこまでは解りませんか…」
「うん。残念だけどね」
落ち込んでしまうサチコの声…その雰囲気からして、サチコはとても重症に見えた・・・。
「どうして…私じゃないんでしょう…何がいけないのでしょう…」
サチコの声に、怒りとも悲しみともとれる悲痛な叫びが混じる。
「あのさ、祥子。どこが悪いわけでも無いと思うよ。ただ…祥子、何か勘違いしてない?」
「…勘違い?」
「そう、勘違い。祐巳ちゃんが誰を好きになろうと、それは祐巳ちゃんの自由だよ。
姉妹と恋愛は必ずしもイコールじゃないって事ぐらい、祥子だってよく知ってるでしょ?
現に私は志摩子を恋愛の対象に見た事はないし、お姉さまにも無い。
尊敬はしてるけどね、それは恋愛感情ではないよ。
祥子は祐巳ちゃんの姉。それはきっと一生変わらないと思う。祐巳ちゃんにとっても多分そうだろうし。
でもさ、祐巳ちゃんの好きな人を突き止めて祥子はどうしたいの?どうするつもりなの?
止めるの?叱るの?姉としてそれをするのなら、それは間違いだと思うけど?」
「どうしてですの?姉は妹を正しく導いてやるものでしょう!?」
「だから、それが間違いだって言ってるの。
祥子が姉という立場から祐巳ちゃんの恋愛を止めようとしてるのなら、それはただの自己満足でしょ?」
「自己…満足…?」
「そう。ただの自己満足よ。それに、過保護だわ」
「・・・・・・」
「もし祥子が祐巳ちゃんに抱く感情が恋愛感情であるというのならば、
その時は祥子は祐巳ちゃんの恋愛を邪魔する権利はある。
やり方さえ間違えなければ…それは正当な行為だと…私は思う。
でも、もしそうでないのなら…応援してあげなさい。静かに見守るのも姉の務めというものでしょう?
祐巳ちゃんの人生は祐巳ちゃんのものだよ、祥子。
それを他人の私達がどうにか出来るものではないし、してはいけないんだよ、決して」
そう・・・誰にも邪魔は出来ないのだ・・・サチコにも、私にも・・・決めるのは全てユミなのだから・・・。
「よく…解りましたわ…聖さまはお姉さまと同じ事を仰るんですね…」
サチコは静かにそう呟いた。その声には全く抑揚がなく、
まるで何かを我慢しているような、そんな感じにもとれた。
「蓉子と?」
「ええ、そのような事を仰ってました。
ですが聖さま…私にはこの感情が恋愛感情なのかどうかまでは解りません。
ただ…祐巳を守りたいのです…祐巳が恋愛で・・・傷つくのは見たくないんです。
たとえこれが自己満足でしかないとしても、私は祐巳を守りたい」
サチコの声に一点の曇りもない・・・。その答えは揺るぎない自信に溢れている・・・。
でも、それはセイの心にある重い扉を開け放つには十分すぎる答えだった。
「・・・私のように傷つくのは見たくない?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
突然のセイの自嘲気味な笑い声に、サチコは思わず顔をひきつらせる。
セイの言葉は図星だった。ユミがセイのようになってしまうのをサチコは見たくなかった。
端から見ても痛々しいほど傷ついていたセイ…。
ユミがもしあんな風になってしまったら、サチコには耐えられそうになかった・・・。
そんなサチコの考えを知ってか知らずか、セイは淡々と話を続ける。
「まぁ、それはそうよね。あの時は随分皆に迷惑かけたもの。でも…誤解しないでね、祥子。
私はあの事で確かに傷ついたけれど、あの時の事を不幸だと思った事はただの一度もないからね。
あの時に傷つかなければ、私は大事なものを沢山失くしていたわ。
あなた達や、今の生活も…もしかしたら命さえもね。だから、私は後悔なんてしていない。
これだけは決して忘れないで」
静かな・・・でも強い意志・・・サチコはうな垂れると、セイの言葉に小さく返事を返した。
「・・・申し訳ありませんでした・・・私ったらなんて事を・・・」
そんなつもりが全く無かったと言えば嘘になってしまう・・・。でも、セイを傷つけたかった訳では無かった。
セイにもそれがよく解っていたのか、サチコが謝るのを聞くなり、いいよ、と軽く笑って言ってくれた。
セイのこんな所がとても羨ましく思える…たった一年の差なのに、こんなにも大人びて見えるセイが、とても…。
「祐巳がどうして聖さまに頼るのか・・・今少し解ったような気がしますわ」
「はは、それって褒めてるの?」
「ええ。だからきっと祐巳は一生聖さまの事を大事な友人として扱うのでしょうね」
「・・・・・・・」
何気ないサチコの一言…これはユミにとってセイはただの友人の一人でしか無いと言っているのだろうか…。
ユミの口からそう言われたのか、サチコから見てただそう思うのかは解らないけれど、
誰よりも傍でユミを見ていたサチコがそう言うのだから、もしかするとセイには全く脈がないのかもしれない・・・。
その言葉にセイの心にまた、暗いモノが頭をもたげてくる・・・。
不思議な事に、さっきの話よりも今の方がダメージが大きい。
いつの間にかセイの中のユミの存在は、誰よりも一番になっていたのかもしれなかった・・・。
「聖さま、今日はお忙しい所本当にご迷惑をおかけしました。
お話聞いて下さってありがとうございます。それでは、ごきげんよう」
「えっ!?あ・・・ごきげんよう」
・・・ガチャン・・・ツーツーツー・・・。
セイは受話器を静かに本体に戻すと、机の上に置いてあった携帯電話を握り締めて自室に戻った。
サチコに言われた言葉は、まるで死刑宣告をされたみたいに頭の中にこだまする・・・。
『一生大事な友人として・・・』
相手がユミでなければこれほど嬉しい言葉はない…でも…相手がユミだったなら…これほど辛い事はない。
ユミはセイの中でその存在を確実に大きなモノにしてゆく…。
あんなに愛したシオリですら、その影を薄れさせてしまうほどに…。
お姉さまに言われたあの言葉…『自分から一歩引きなさい』。
あの言葉を急に思い出す・・・動けない・・・これ以上先に進めない・・・。
・・・でも・・・今、無性にユミの声が聞きたかった・・・。
叶わない自分の想いを、いっそ伝えてしまいたかった・・・。
叶わない想いなら抱かなければ良かった。
初めから愛さなければ良かった。
何度も何度も同じ事を繰り返し繰り返し。
でも、後悔はしていない。
それが間違いだったとは思わない。
そう・・・決して・・・。