いざって時の勇気が欲しい。
鳴らない電話を待つのも、かけなければ、なんてプレッシャーも、
もう・・・沢山だ。
『そっか、じゃあ今度は2人でデートしようか?』
夏休みに入って初めの一週間はケイに電話をし倒したセイも、ユミの夏休み日程表を手に入れてからは、
ケイに電話をすることは無くなった。
だからといってユミに電話をかけれたわけでは無くて、ましてやあんなセリフを言ってしまった手前、
どう切り出せばいいのか、そればかり考えて結局夏休みの初めは、何もしないまま終わってしまっていた…。
「・・・はぁぁ」
セイは、書きかけのレポート用紙の上に突っ伏すと大きな溜息を落とす。
タイトルを書いた所で止まってしまっているレポート用紙が、セイの迷いや葛藤を、
まるで反映しているようにも見えた。
手元にはいつでも出られるように携帯電話が置いてある。
もし今誰かから電話がかかってきたら、きっとワンコールででれるだろう。
ストラップも何もついていないとてもシンプルな携帯電話・・・。
こんなにも誰かからの電話を待った事はなかった。
だからと言って誰でもいいわけでは・・・ないんだけれど・・・。
セイはピクリとも働こうとしない携帯電話に目をやると、その銀色のボディを指先でコツンと弾いた。
「・・・ちょっとは仕事してよ・・・」
そんな事携帯電話に言ったって、かけてきてくれる相手が居ないのだから、
働きようもないのは解ってるけど…。
机の引き出しに大事にしまわれたユミの夏休み日程表…今日の予定は確か何も無かったはず…。
プルルルルル・・・・プルルルルル・・・・・
突然手元に置いてあった携帯電話が、小気味よい振動と共に鳴り出した。
「うわっ!!び、びっくりした・・・」
セイはイスからずり落ちそうになるのを堪え、体勢を立て直すと恐る恐る電話に手を伸ばす・・・。
…この時、どうして誰からかかってきたのかを確認しなかったのか…どうして誘いにのってしまったのか…。
「もしもし?」
もしかしたら・・・なんて淡い期待を抱いて、セイはかなり上機嫌で電話に出た。
「・・・もしもし・・・どうしたの?やけに機嫌がいいじゃない」
・・・この声・・・
「・・・蓉子・・・?」
「ええ。なによ、私じゃ駄目みたいな言い方ね」
「別に…駄目じゃないけど・・・どうしたの?蓉子が電話してくるなんて珍しい」
駄目じゃないけど、残念だと声に出ていた、あるいは出してしまったのだろう。
ヨウコの声のトーンが少し落ちる…セイはそれに気付いて、反省した・・・。
「急用…という訳ではないのだけれど…今日ちょっと会えないかしら?」
急用ではない、と言うわりに切羽詰った感じのヨウコの声…。
「・・・今日?いいよ。どこ行くの?」
「どこって訳でもないのよ・・・ただ話したい事があって」
「ふ〜ん。まぁ別にいいけど・・・じゃあ私がそっちに行くわ。ウチじゃ落ち着いて話も出来ないし」
セイの言葉にヨウコは突然黙り込んでしまった・・・しばしの沈黙が続く・・・そして。
「いいえ、薔薇の館に行きましょう。あそこなら落ち着いて話が出来るわ」
薔薇の館…リリアンから離れられないセイ…あそこから逃げられないのは自分だけだと思っていたけれど、
案外ヨウコもあそこからずっと、離れられないのかもしれない…。
セイにとっては、失くしたモノも多く、得たモノも多いあの場所・・・。
ヨウコにとってはどうなのだろう・・・?あの場所に縛られる理由なんて・・・あるのだろうか・・・。
「・・・解った・・・じゃあ一時間後に校門前で」
「ええ、ごめんなさいね、無理言って・・・」
ヨウコが電話をかけてくる事がすでに珍しいのに、その上謝るだなんて…これは相当かもしれない…。
セイはそう思いつつ、いいよ、と言って電話を切った。
クローゼットを開けると、中にかかっている服の中からシャツを一枚取り出す。
シャツを取る時に、隣にかかっていたリリアンの制服が下にポトリと落ちた・・・。
セイは、落ちた制服を拾い上げてクローゼットに掛け直し埃をはたくと、思わず目を細める。
「・・・懐かしいな・・・」
三年間ずっと着続けた制服…憎しみも、苦しみも、悲しみも、喜びも、幸せも…。
全て一番そばで見守ってくれていた。
三年間の全てがここに詰まっている…もう二度と袖を通す事は無くても、この制服は捨てられない…。
「・・・行ってきます・・・」
セイは高校時代そうしていたように、クローゼットを閉めながらボソリと呟く。
クローゼットが閉まるとき、ほんの少しだけ・・・制服のスカートが風で翻った・・・。
セイが学校につくと、そこには既にヨウコが腕組をしながらじっとこちらを眺めていた。
「・・・案外早かったのね」
ヨウコは、セイの顔を見るなり真顔でそんな事を言うものだから、セイはつい可笑しくなって笑ってしまう。
「失礼ね。私だって毎回遅刻してる訳じゃないんだから」
・・・なんて・・・説得力ないか・・・
「そう?私の知る限りでは・・・相当な遅刻魔だったように思うけど」
「・・・しーましぇん」
ガックリとうなだれて、でも悪びれた様子の無いセイに、ヨウコは小さく溜息を落とすと苦く笑った。
「卒業式以来かしら・・・久しぶりね、聖」
「ん、久しぶり」
「髪・・・切ったのね・・・何かあったの?」
ヨウコはセイの髪に触れようとそっと手を伸ばしたけれど、すぐにその手を引っ込めた・・・。
セイがピクンと、警戒したように小さく体を震わせたのが見えたから・・・。
「…どうしてそう思うの?」
怪訝な顔をしてヨウコの反応を伺うセイの表情は、ヨウコのとてもよく知っている顔…。
ヨウコが『ガラス』と例える顔…。
「別に意味はないわ。ただ、あなたが髪を切るときは大抵何かの節目じゃない」
「そうかな、別に何もないんだけど・・・しいていえば大学生になったぐらい?」
片方の口の端だけを上げてニヤリと笑うセイ…。
まるで、これ以上踏み込むな、と牽制をかけるような…そんな雰囲気。
「そう。いいわね、短いのも。よく似合ってるわ」
「ありがと。蓉子は・・・変わってないね」
相変わらず肩口でバッサリと切りそろえられた髪は、まるでヨウコの意思の強さを表しているようで…。
「・・・悪かったわね・・・何も変わってなくて」
「いやいや、いいじゃない。蓉子らしくて私は好きだけど?」
冗談めかしてそんな事を笑いながら言うセイ・・・。
「・・・・・・・・・・・・・・」
セイの何気ない一言…好きと言う単語がヨウコの胸に突き刺さる…。
そんなセリフを言わないで…そんな顔で笑いかけないで…。
「で、話ってなんなの?とりあえず中入らない?あっついんだけど」
「・・・そうね。そうしましょ」
「ここに来るの久しぶりだわ。懐かしいわね」
「懐かしいって言うほど時間経ってないじゃない」
セイはヨウコの前に紅茶の入ったカップを置くと、苦笑いしながら席につく。
「やっぱりそこなの?」
「蓉子こそ」
薔薇様と呼ばれた時のように、所定の席に座る二人…思わず顔を見合わせて同時に笑いをこぼした。
「さて、じゃあ本題に入りましょうか」
「うん」
「話っていうのは祥子の事なんだけれど・・・」
セイの持っていたコーヒーカップが少し揺れた・・・中身は・・・無事だったけれど・・・。
「さち・・・こ・・・?」
「ええ、どうかして?」
明らかに動揺するセイに、ヨウコの胸は破裂しそうだった・・・。
・・・まさか・・・ね・・・
「いや、何でもない・・・でもどうして祥子の相談を私にするの?」
「さあ?・・・なんとなく・・・かしら」
「ふーん。で?何」
セイはコーヒーを一口すすると、上目遣いにヨウコの顔を見上げる。
すると、ヨウコは小さな溜息を落として、頬に手をあて呟いた。
「祥子がね、言うのよ。最近祐巳ちゃんの様子がおかしいって。あなたどう思う?」
「・・・どう?って聞かれても・・・私の前じゃ相変わらずだけど・・・」
多少挙動不審になったりするぐらいで、これといってユミに変わった所など無いように思うのだが…。
「・・・そう・・・あなたの前では普通なの・・・ていうか、あなたそんなにしょっちゅう祐巳ちゃんに会ってるの!?」
「いや、ただ大学は敷地内にあるからね。この間みたいに会うことはあるよ」
ウソをついた。本当は結構外で会っているのに…何故かヨウコには言えなかった・・・。
きっと、ヨウコはユミの姉の姉だから…それに、ヨウコに知られてはいけないもう一つの理由・・・。
それは、変におせっかいを焼かれても困るから・・・多分咄嗟にそんな事を思ってしまったんだろうと思う。
そんなセイのウソを気付いているのかいないのか、ヨウコは一人ブツブツ何か呟いた。
「そうよね…会う機会も多いわよね…やっぱり…」
「蓉子?どーした?」
「えっ?ああ、ごめんなさい。私には祥子の言いたい事がよく解らなかったのよ…漠然としすぎてて」
「漠然としすぎて?どういう意味?」
ヨウコは目の前のカップの縁を指先でなぞりながら言葉を探す・・・。
実際どう言えばいいのかよく解らない・・・。
サチコから聞いたユミの態度は、まるで自分にそっくりだったのだから・・・。
「どうもね・・・祐巳ちゃんに、誰か他に好きな人が居るんじゃないか?なんて言うのよ、あの子ったら」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
・・・どういう・・・事・・・?
セイのカップが小刻みに震える…。
ウソだ…そんな事ウソだと言って…。
体中の血液が、物凄い勢いで体中を駆け巡る…。
息が苦しくて、もうヨウコが何を言ったのかさえ解らなくなりそうで…。
『祐巳ちゃんに、誰か他に好きな人が居るんじゃないか?』
ヨウコの口から聞いた、その一言が・・・頭の中でリフレインする・・・。
勘違い…すれ違い…。
そうであって欲しいといくら願っても、
返ってくる答えはNO。
それが現実で、それが真実。
それを知るのはいつも最後で、
当事者なのに取り残される・・・置いてかれる・・・。
悪い芽は、早目に摘み取った方がいいなんて。
ここまで育ってしまったら・・・後はもう、枯れるのを待つしか無いのに…。