どうしようもないほど脆い気持ち。


どうしようもないほど弱い心。


ウソをつくのと、真実を言うのはどちらも同じぐらい苦しい…。




誰かをこんなにも好きになるのは初めてだった。

こんなにも誰かを必要とするのも初めてだった…。

もっと知りたい…でも知られたくない…もしかするとセイもこんな風に思ってくれていたりするのだろうか…。

ずっと一緒に居られればそれでいい、だけどそれだけでは終わらない。

ユミは暗くなりかけた露天風呂からの景色を眺めながらポツリと呟いた。

「どうしよう…聖さまに…嫌われちゃった…」

一筋の涙が頬を伝う・・・。

セイは今、あの部屋で一人何を思っているのだろう。

もしかしたらこんな旅行来なければ良かった、などと思ってるかもしれない…。

何も言わないユミの事を、不安に思っているかもしれない…。

そう思うとユミの心は途端に、何かに締め付けられたように苦しくなってくる。

呼吸がしにくい…息ってどうやって吸うんだっけ…?

「…あれ…なん…か…へ・・・ん・・・」

・・・どうして私・・・聖さまから・・・離れたり・・・し・・・たの・・・

もうすっかり日は落ちて残す所あとわずかの太陽が、ユミを照らし出す。

遠のいてゆく意識・・・落ちてゆく太陽・・・最後に思い出すのは、旅行前に言っていたセイの言葉・・・。

『ねえ、祐巳ちゃん!ここにしよう!この景色を2人で見ようよ!!そうしたら、きっといい思い出になるよ!』

そう言って嬉しそうに笑ったセイ。手に持ったパンフレットには太陽が沈む瞬間のキレイな写真。

・・・ああ、だから・・・さっき・・・

だからセイは突然お風呂に行こうと誘ったのだ。どうしてもこの景色をユミと見たかったから・・・。

恥ずかしいなどと考えていたのは自分だけで、セイにそんな気はサラサラ無かったのだ。

どうしてもっと、ちゃんと話を聞かなかったのだろう・・・どうして信用出来なかったのだろう・・・。

謝りたい、ちゃんと。そして言おう・・・今思っている正直な気持ちを・・・。

「・・・でも・・・だめ・・・かも・・・も・・・う・・・会え・・・な・・・い・・・」

呼吸がどんどん苦しくなって、頭の芯がボンヤリとし始めた。

こんな時間なのに人はいない。助けを呼ぶ事すら出来ない・・・。

グラリと傾ぐ景色…ギリギリまで保っていた意識が、やがて薄れていこうとしていた・・・。

「祐巳ちゃん!?」

・・・遠くの方から聞き覚えのある声・・・愛しい人の・・・でもここに居るわけがない。

だって、嫌われてしまったから・・・それでも・・・夢にまで出てきてくれるなんて・・・。

「せ・・・さ・・まぁ・・・ごめ・・・な・・・さ・・・」

それだけ言うのがやっとだった…ユミは遠ざかる意識の中で、確かにセイの姿を見たような気がしたから…。



「祐巳ちゃんっ!!」

セイは慌ててお風呂の中に手を突っ込むと、ユミをお湯から引きずり出した。

そして、そのまま抱きかかえると脱衣所まで運んでゆく。

置いてあった長いイスの上にそっとユミを横たえる…イスからすべり落ちる腕が、セイの不安を掻き立てた。

「・・・祐巳ちゃんっ!?祐巳ちゃんっ!!目を開けてっ!!!お願い・・・だから・・・」

そう言えば大分前にもこんな事があった。あの時はただ眠っていただけだったけど…今度は違う。

息はしてるし、水を飲んだ訳でもなさそうだけれど、目の前で倒れて…しかも泣いていた…。

「祐巳ちゃん…謝るから…あんな事言ってごめん…だから…お願い、目を開けて…私を見てよ…」

セイは目頭に熱いものが込み上げてくるのを感じた…もう、どうする事も出来ない…と、その時…。

突然、お風呂のドアが開いた。

「失礼しま〜す、お掃除入りま〜す・・・あら!!」

多分、従業員であろうおばさんがバケツやら箒やらを手に入ってきたのだ。

そして、イスに横たわるユミと、今にも泣き出しそうなセイを見るなりこう言ったのだ。

「あらまぁ…今日はこれで3人目だわぁ。お姉ちゃん、大丈夫よ。

とりあえず服着せて団扇かなんかで扇いでたらすぐに気付くから」

おばさんはそう言うと、添えつけてあったタオルをセイに手渡してくれた。

セイが呆然としながら、言われるがままユミの身体を拭いていると、おばさんは浴衣を手にこちらへやってくる。

「ここはねぇ、お湯の温度が高いからすーぐのぼせちゃうの。

とりあえず起きたら何か飲ませてあげて。そうねぇ、出来ればスポーツ飲料とかがいいかしら」

おばさんはニコニコしながらセイが拭き終わるのを隣で待っている。

「・・・はい、ありがとうございます」

セイは少し戸惑いながらも、おばさんにお礼を言って場所を譲った。

本当は誰にもユミの裸を見せたくない…けれど、今はそんな事を言っている状況ではなかった・・・。

「そんな深刻な顔しなくても大丈夫よ〜。30分もすればきっとピンピンしてるから」

おばさんはそう言って浴衣を素早くユミに着付けると、笑ってセイの肩をバシバシと叩く。

「すいません…何から何まで…とりあえず部屋連れて帰ります」

セイはきれいに浴衣を着付けられたユミを見つめると、思わずふっと頬を緩めた。

…もう大丈夫…もう怖くない…。

セイはユミをヒョイと抱き上げるとおばさんに一礼する。

「あら、一人で大丈夫?手伝おうか?」

「いえ、慣れてますから。それじゃあ…本当にありがとうございました」

…そう、祐巳の重さには慣れてる…いつもこうやって彼女の重さを確かめてきたのだから…。



ユミを両手に抱きかかえたまま部屋へ戻ると、敷布団だけ出してそこへ寝かせた。

小さな寝息を立てるユミの身体を、部屋に置いてあった団扇で扇ぎ続ける・・・。

「目が覚めたら・・・何て言おう・・・」

セイは未だ目に焼きついて離れないユミの裸体を思い出して顔を赤らめた。

「・・・キレイだったな・・・」

細くて華奢な腕や足…小振りだけれど形のいい胸…こうやって少し冷静になって思い返すと、

何だか恥ずかしくてしょうがない・・・。

今までキスまでしかした事がなかったけれど、いつからかそれ以上を望んでしまっていた。

同性同士なのに身体まで欲しがるなんて、自分でもどうかしてると思う・・・。

でも、その肌に触れるだけで高まる想いは、キスとは比べ物にはならなかった。

だからあの時あんな事をつい言ってしまったのだ・・・決してふざけてではなく、真剣に。

心の底から溢れる想いをユミに素直に伝えたけれど、その結果ユミを怖がらせてしまった・・・。

言わなければ良かった…でも、あの時はもうどうしようもなく自分の感情が止められなくなっていた。

それでもあの台詞を言った事で、ユミはもっと自分との事を考えてくれていたのかもしれない、とも思う。

でなければこんな事にはきっとならなかった…。

セイはまだ湿ったままのユミの髪を一筋すくいあげると、そっとその髪に口付ける。

「髪・・・伸びたね」

出逢った時よりも、ユミの髪は随分と長くなった。

もうトレードマークだったツインテールは卒業したけれど、それでもあの頃の面影はまだしっかりと残っている…。

恥ずかしさを隠すためにふざけて抱きついたりしたのも、わざと怒らせるような事を言って遊んだのも、

なんだか随分昔の様な気がする・・・。

セイは薄いピンク色に蒸気した頬いそっと触れると、涙の後を静かに伝った…。

いつも泣かせてしまう…きっとこれからも…でも、その涙は出来れば自分だけの為にとっておいて欲しい。

泣かせてしまったという罪悪感と、泣いてくれるという安心感が、セイの心の中にはずっとあった・・・。

「んっ・・・う・・・ん・・・」

突然、ユミは小さな声を漏らした…。頬を撫でるセイの指がくすぐったかったのだろうか・・・。

「祐巳ちゃん!?」

セイが慌てて声をかけると、やがてユミはうっすらと目を開きセイの顔をじっと見つめている・・・。

「・・・てん・・・ご・・・く・・・?」

まだ寝ぼけているのか、それとも冗談なのかは解らない。

それでもユミの第一声に、セイの身体からホッと一気に力が抜けた。

「いくら天国でも、こんな美人はそうそう居ないよ」

セイが冗談めかしてそう言うと、ユミの口元が少しゆるむ。そして。

「…何言ってんですか…もう…」

そう言ってユミは、ふふふ、と小さく笑った・・・セイも思わずつられて笑う・・・。

でもその笑顔はすぐに消えて、やがて泣き出す手前の顔になる・・・。

「聖さま・・・あの・・・私、謝りたくて・・・」

「うん?」

「お風呂…一緒に入りたくなかった訳じゃない・・・です」

「うん」

「ただ・・・その・・・恥ずかしくて・・・でも、それが言えなくて・・・だから・・・」

ポツリ、ポツリ、と呟くユミの言葉・・・これが本心だったのだろう・・・。

「…うん。そんな事だろうと思ってた…私こそごめん…良く考えればすぐに解った事なのに…あんな言い方して」

セイがそう言ってユミの暖かい手を軽く握ると、ユミはその手ごと自分の目を覆った。

「・・・っく…ごめっ・・・なさ・・・い・・・」

「もういいって。お互い様だよ。私は話を聞こうとしなかったし、祐巳ちゃんは思ってる事を言えなかっただけだし…。

だから、泣かなくていいよ・・・もう自分を責めなくていいから」

セイの手の甲は、ユミの涙で濡れる・・・。

セイはユミを抱き起こすと出来るだけ優しく抱きしめる…。

ユミの身体はまだ熱い…少し早い心臓の音がセイにも伝わってくる・・・。

「じゃあ・・・嫌いじゃない・・・?」

「ん?」

「私・・・の事・・・嫌い・・・じゃな・・・い?嫌いに・・・なってない?」

ズズズ、と鼻をすすりながらそう呟くユミの声は、まだ少し震えている。

「嫌いじゃないよ。全然嫌いじゃない。前より・・・ずっと好き」

「・・・ほんとう?」

「うん。・・・あー、でも・・・その事に関しては怒ってないけど、コレについては別だからね」

セイはそう言ってユミの身体を少し離すと両手でパチンとユミの頬を挟んだ。

ユミは思わず顔をしかめ、不思議そうにセイの顔を見つめている・・・。

「お風呂はのぼせる前にちゃんと上がりなさい!!でないと、心配するでしょう?」

そう、本気で心配した…あまりにも遅いから様子を見に行ってはみたものの、

もしあの時様子を見に行っていなかったら…と思うと…怖くてしょうがなかった…。

セイのその真剣な顔を見たユミは、シュンと俯くとポツリと呟く。

「・・・はい」

そして、素直に頷くとセイの鎖骨の辺りにコツンとおでこをくっつける。

「…良かった…嫌われてなくて…」

ユミはそう呟くとそのまま、また眠りの世界へと落ちて行ってしまった…。




ユミが目を覚ますと、目の前にはセイのアップ・・・。

「ぎゃうっ!!!??」

あまりのアップに思わずそのまま後ずさろうとしたけれど、セイの腕はガッチリとユミの腰を捕まえて離さなかった。

今までセイが一人暮らしを始めてから何度か遊びに行った事はあったけれど、こんな風に眠った事はなかった。

大抵ユミが怯えるから…もしくはセイが我慢出来なくなる為、安全な距離をとって眠っていたのに…。

・・・これは・・・近い・・・近すぎる・・・!!

セイのアップはいい。セイのアップは!!こんなに間近で見ても美人だと思えるのだから…。

しかしユミはどうだろう…果たして自分のアップは堪えられるのだろうか・・・?

ユミがそんな事を考えながらセイの腕の中でもぞもぞしていると…。

「ん〜…どーした?もう大丈夫なの?」

…ヤバイ…起きた…。

ユミはまだ眠そうなセイの顔をじっと見つめて、固まったまま動けなくなってしまった。

「・・・おっきな瞳・・・」

・・・はい?

ユミの表情から何かを察したのかセイが笑う。

「いや、瞳がおっきいなぁ・・・と思って・・・可愛い」

セイはそう言ってユミの身体をぎゅーっと抱きしめると、そのまま首筋にキスをする・・・。

「ひゃんっ」

突然の出来事にユミは驚いて思わず変な声を出すのを確認すると、セイは笑いながらユミを解放して冷蔵庫へと向かう。

「知ってた?祐巳ちゃん、キミは驚くと3割り増しぐらい目がおっきくなるんだ。そして私はその顔が結構好き」

「はあ」

・・・ああ、だから高校の時ああやって驚かせて遊んでたのか・・・

へらん、と笑うセイの顔…ユミの前でしかしないどこにも力の入らない笑顔・・・。

セイは冷蔵庫から取り出したスポーツ飲料をユミに手渡し、言った。

「ほら、これ飲んで水分補給して・・・それから・・・後でもう一回、今度は一緒にお風呂行こう?」

「えっ!?でも・・・私・・・」

ユミがそこまで言うと、セイの笑顔は意地悪な笑みに変わっていた。

「まさか…まだ恥ずかしいなんて言わないよね?」

「・・・・・・・・・」

「だって、今更でしょ?」

・・・それって、どういう・・・

「下着は自分でつけてね?祐巳ちゃん」

・・・下着・・・

ユミが慌てて浴衣の前の所から中を覗き込んだ・・・。

「っ!!!!」

「ね?もう恥ずかしくないでしょ?ちなみに身体拭いたのは私だからね」

残念な事に浴衣を着せたのは私じゃないけれど・・・。

ぎゃぁぁぁぁぁ!!!!!

声にならない叫び声は、上手い具合にセイに伝わっただろうか・・・。

ユミのクルクル変わる表情を、セイはただ満足げに微笑んでいる・・・。

こんな事なら恥ずかしがらずに初めからセイと一緒にお風呂に入っていれば良かった…。

でも、そんな事を言っても今更もう遅い…。

こうなったら後は、セイがあまり覚えていない事をひたすら祈るしかないのだった…。




・・・でも、その事のほうが・・・なんだかありえなさそう・・・。






キミから聴こえる言葉は


どれも聞き逃したくないと願うのに。


どうしていつも最後まで聴けないんだろう。


どうしていつも途中で遮ってしまうんだろう。


臆病な心のせいで私はいつも


肝心な所を聞き逃す…。





海へ・・・  第五話