私は何も見えてなかった。

何もみちゃいなかったんだ…。



「そうだ、聖さま」

ユミは隣に座っているセイの肘のところをそっとつまむと囁いた。

「ん?」

「あの、さっきの・・・」

「さっきの?ああ、うん」

セイはそう言って窓際でユミの制服を乾かしている彼女に目をやった。

「あのさ、祐巳ちゃんが名前は何ですか、って聞いてるんだけれど」

「!」

コラ!ちょっと待て!!それとなく教えてくれれば済む事を、どうして本人に聞く!?

ユミは凍りついた表情でセイの横顔を見つめるが、セイの顔は真剣そのものだ。

「ああ」

ユミはガックリと肩を落とすと彼女の方に顔を向けた。

「ああ、ごめんなさい。自己紹介がまだだったわね。加東よ。加東景」

「・・・かとう、けい」

カトウ、ケイ…サトウ、セイ…うわぁ…そっくりだ…だから聖さまは言いたくなかったのかな…。

「あっ!」

ユミがそんな事を考えていると、隣のセイが突然叫んだ。

ユミは何事!?って顔をして思わずセイに視線を戻すと次のセリフに固まった…。

「そうか、おぬしが加東景だったか・・・・・・!」

「え」

状況がイマイチ飲み込めないユミはケイとセイの顔を交互に見つめる。

セイは驚いたように目を丸くしているのに対してケイはと言えば、あきらかに呆れたような顔をしている…。

「佐藤さん。もしかして、私のこと誰かわからないままついて来たの」

「うわっ・・・・!」

ケイの言葉にユミは思わず声を上げた。そして思った・・・この人、きっとどこかズレてる…って。

…しかしだ…とゆう事はアレか?

私は全く友達でもなんでもない人の家に上がり込んでお風呂まで借りて制服を乾かしてもらった…と?

ちょっと待ってよ!!それってかなり厚かましいんじゃ…。

ユミの背中に何か冷たいモノがスーっと流れ落ちる。

しかしセイは、そんなユミの表情で何かを察したに違いないのに、ケロっとして答えた。

「顔は何となく見たことがあったし、私のこと佐藤さんって呼んだし。それに」

・・・それに、もうこれ以上黙って見ていられなかったし・・・。

セイはそんなセリフを飲み込むとコーヒーに口をつけた。

「祐巳ちゃんをどこかで乾かすのが最優先だったし」

「あの、じゃ加東さんは」

「別に佐藤さん一人だったら声なんてかけなかったわ。見ず知らずの高等部の生徒にもね」

初めて会った時から思っていたけれど、なんだか加東さんはとても淡々と話す人だ、とユミは思った。

そしてあまり笑わない・・・でも・・・悪い人ではなさそうだった。

このセイがいくらユミの為だとは言っても、信用出来そうにない人の家に上がりこむとは思えなかったのだ。

案外この2人、実は似ているのかもしれない・・・。

「だって、事情も知らないのに手なんて出せやしないもの」

「そりゃ賢明だ」

セイは上手い具合いケイの話に合いの手を入れる。まるで漫才のコンビのように…。

「雨の中で泣いていた女の子が、頼り切っていたからかしら。佐藤さんの印象が変わったの。

ただチャラチャラしているだけの女子大生じゃないんだ、って」

チャ、チャラチャラ…確かにセイの表面だけ見ればそう見えるのかもしれない…。

事実ユミだってそう思っていたのだから…でも違った。

本当は傷つきやすくて、とても繊細な人だった…だからこそ、何かしらピンチの時には必ず一番に察してくれてたんだ…。

「言ってくれるわね。けど、あなたはどうなの。

私の印象にも残っていないほどつき合いの悪い人間が、よくもまあこんな世話をやいてくれるものだわ」

…なんて。ほとんどのクラスメイト覚えてないけどさ・・・。

クラスメイトの事よりも、今気になってしょうがないのはユミの事だった。

だから正直顔と名前が一致しないのはケイだけではない。

好きな子の事意外頭に入らなくなるのは昔からの悪いクセだ…。

セイはチャラチャラがお気に召さなかったのか、ケイに突っかかってゆく。

しかしケイは顔色一つ変えずに淡々と話している・・・。

どうやらこの2人の間には結構強烈な出会いがあったらしい…のだが…。

それでも人を覚えないセイに、ユミはある意味尊敬の念を抱いてしまう…。

この人はやっぱり大物なのかもしれない、と。

「とにかく、人は話してみないとわからないものだわ。ね、佐藤さん」

ケイはそう言ってセイの顔をじっと見つめた。

「こんなんで、私のことわかった気になってるの?」

「ほんのちょっとね。少なくとも、思った以上に奥が深い人間だってことくらいはね」

セイは口ではそう言いながらも、まんざらでもなさそうな表情をしている・・・。

しかし、それはケイも同じだった。やっぱりこの2人って…似てるのかもしれない…。

ケイは制服を乾かし終わった後、ユミの髪も乾かしてくれた。


・・・でも・・・その間一度もセイはこちらを見ようとはしなかった・・・。


セイが気を利かしてユミの家に電話を入れてくれたおかげで、母の機嫌は上機嫌だった。

なにせ母は前からセイの大ファンなのだから・・・。

外に出ると空はウソみたいに晴れている・・・。

「時間が逆転したみたいだ」

セイはぽつりとそう呟くと黒い紳士用の傘をブンと一振りして、ついていた水滴を落とす。

・・・時間が逆転・・・か。どうせなら時間が戻ってくれればいいのに・・・。

サチコとユミが出会う前ぐらいまで時間が戻ればいい・・・そうすればあんな賭けをしなかった・・・。

山百合会に入れやしなかっただろう。たとえばユミが一般生徒だったらこんなにも苦しくなかったのかもしれない…。

ましてやお姉さまがいなかったら、もしかしたらもっと自信があったかもしれない・・・。

でも…現実は違う…ユミのお姉さまはサチコで、サチコは大切な後輩…。

それにサチコを傷つければ、きっとユミも傷つく…それだけは…見たくない。

セイはもう一度傘を意味もなく降ると大きく息を吸い込んで空を見上げた・・・。


いつか・・・いつか、私の心の雨もこんな風に止むだろうか・・・。


ケイにお礼を言ってセイと2人でバス停目指して歩く途中、ユミはずっとサチコの事を考えていた。

もしかしたらもう、戻れないかもしれない…でもそれはしょうがない…。

ユミはとても大切な人に気づいてしまったから…。

もちろんサチコの事もとても大事だけれど、身内に対する大事と愛しい人への大切さはまた違う…。

でも、このまま何も言わずサチコと別れるのはイヤだった。

すれ違ったまま何も出来ずに終わるのだけは…どうしてもイヤだった。

「祐巳ちゃん。ゴロンタの話を覚えている?」

セイは唐突に呟いた。そして、今のユミはまるで傷ついた子猫のようだ、と付け加えた。

ユミ胸の辺りで、何かがチリと燃えたような気がした・・・。

傷ついた子猫…それは同情で助けたということだろうか…?

それならばやっぱりユミはセイには何とも思われていない事になる…。

ユミは泣き出しそうなのを必死に堪えると、小さく頷いた・・・。


ユミを猫に例えたのは、心の底からそう思ったわけではなかった。

だったらどうして…?理由は簡単だった。

これ以上深入りしたくなかったのだ。どうせ頼りになる先輩!ぐらいにしか思われていないのだから…。

だからあえてユミを猫に例えたのは、ある意味自分に言い聞かせたものだった。

私がユミを助けるのは、同情からなんだ、と。他に他意はないのだ、と…。

そうする事で、どうにか最後の線を踏みとどまってこれたのだ。

・・・これでいい・・・これでいいんだ・・・。



バスに乗ると高等部の子達が何人か一緒に乗り合わせた。

皆こちらを見るとお辞儀をして、キャアキャア言っいる・・・。

ユミも笑ってお辞儀を返す…いつもの事なのに何故か今日はそれが辛い。

どうしてかは、分かってるけど・・・。

セイと2人きりでいる所を誰にも見られたくなかった。なんとなく秘密にしておきたかった…。

・・・2人だけの時間を、もっと大切にしたかったのだ・・・。

そんな事を考えると妙に恥ずかしくて思わずユミは俯いた。

セイはお辞儀を返してすぐに俯いてしまったユミを横目でチラリと盗み見た。

何故か顔が赤い…一体どうしたというのだろうか…。

…それにしても…ユミは後輩に人気があると誰かが言っていたが、あれはどうやら本当だったようだった。

何だか少し妬けてしまう。

自分はもう毎日会う事は出来ないのに、あの子達は会えるのだ、と思うと無償にくやしかった。

同学年じゃなくても、せめて一つ上ぐらいだったらもう少し一緒に居られたというのに・・・。

そうすれば・・・もう少し近づけたかもしれないのに…。

セイは流れてゆく景色を見ながらつり革を持つユミの肘に、そっと自分の肘をぶつけた。

突然肘をぶつけられたものだから、ユミは思わず声を出しそうになるのをグっと堪え顔を上げた。

するとセイはユミの顔も見ずに、ボソリと呟いた・・・。


「送らないね」


なんだか寂しさと切なさが混じったような、なんとも形容しがたいセイの口調…。

…一体何を考えているの・・・?知りたい・・・全てを見てみたい…この人のココロがほしい・・・。

ユミはセイの横顔をちらりと見てみたが、夕日が射して表情がよくよみとれない・・・でも・・・少し泣いているようにも見えた…。

ユミはそっとセイから視線を外すと、今沈んでいこうとしている夕日を見つめた・・・。


「はい」


…本当はまだ離れたくない…。

こんなにもハッキリとそう願うのは、もしかするとシオリの時以来かもしれない…。

片時も離れたくなくて、一緒に逃げよう、と言ったあの時の気持ちにとてもよく似ていた。


・・・離れたくないのなら、さらえばいい・・・。


気を抜くとそんな考えが頭を支配する・・・怖い・・・失うのが怖い・・・自分でなくなるのも怖い・・・。

もう、逃げられない・・・ここから出られない・・・。

セイは沈んでゆく太陽を睨みつけると、どうしようもない感情を飲み込んだ・・・。




この瞳さえなかったらキミが見える事はなかった。


この口さえなかったらキミの名を呼ばなくてすんだ。


あまりにも甘美なその響きと、あまりにも無垢なその姿は、


私の心を・・・黒く・・・濁してゆく・・・。





レイニーブルー   沈む太陽  編