ただ傍にいられればいい。
でもそれだけじゃ足りない。
狭い車道の端っこの方を、茶色い傘が先頭に立って進んでゆく。
後ろから聞こえる足音も、息遣いも、その全てが愛しく思える…。
決して手に入らないのかもしれない。
でも、手に入れたい。強い強い想いは今、雨音と一緒にセイの心の中に降り続けた。
「聖さま」
「んー」
そんな事を考えながら歩いていると、突然後ろから声が掛けられた。
「あの方、・・・・聖様のお友達は、何ておっしゃるのですか」
横をすり抜けてゆく車の音でユミの声は上手に耳に入ってこなくて、思わずセイは聞き返した。
「え?」
「ですから、お名前は」
ユミはほんの少し声を大きくしてセイに尋ねるが、車の音もちろんだが、何分にもセイはユミに背中を向けている訳で…。
「あ?悪い、よく聞こえないから後でね」
…ほんの少し冷たかっただろうか…?
それきりユミはセイに話しかけたりしなかった。ほんの些細な事だけれど、ユミの行動一つ一つが妙に気に掛かる。
そして気がつけばいつも頭の中はユミの事で一杯になってしまうのだ。
バス停二つ目を目前にして茶色い傘が道を曲がった。
そこから更にバス停一つ分ぐらいの距離を歩いてゆく。
重い制服に砂利のついた傘…長い距離を歩くにはこれ以上ないのではないのか?
とゆう程の悪条件の中、ようやく彼女が足を止めた。
「さ、どうぞ」
…さ、どうぞ…って言われても…。
ユミは目をしぱしぱさせながら案内された家を見上げてみる。
どうみても一戸建て。寮とゆう感じでも下宿とゆう感じでもない…。
すると、セイも同じ事を考えていたのか、小さく呟く。
「ふーむ」
「ここが、・・・その」
ユミが茶色の傘の人に話しかけようとしたが、すでに門の中へと入っていってしまっている。
ユミは自分の姿をマジマジと見つめると、急に不安になった。
いいのだろうか?こんなにも上から下までずぶ濡れになっているのに家にまでついてきてしまって。
「聖さま、あの・・・」
ユミはセイに尋ねようと何気ない気持ちでその華奢な肘に手を伸ばしたが、
その手をスルリと抜けるようにセイはさっさと歩き出してしまった…。
「お邪魔しまーす」
多分、深い意味はないと思う。ただセイはユミの手に気がつかなかっただけだ。
…なのに…どうして…?こんなにも寂しく感じるのは。こんなにも心が凍るのは…。
本当に小さな事なのに、さっきからユミはセイの言動と、行動の一つ一つが気になってしょうがなかった。
優しい事を言ったり、突き放すように聞き返したり、
沈んでいる時気がついてくれたり、こちらから手を差し出すとフイに逃げたり…。
まるで長い鬼ごっこでもしているようだった。どうすればいい?どうすればこの人は捕まえられるの?
いつも風のように捉えどころのない人だけれど、風のようにただすり抜けていくだけではなかった。
出来るならばその風を自分の所で留めておきたかった・・・。
「あーん、待って」
ユミはそんな考えをしている自分を否定するように頭をブルブルと振ると、セイの後に続いた。
それはただのワガママだから。セイもサチコと同様、物ではない。自分のモノには決してなりはしないのだから…。
茶色い傘の彼女が大家さんに了解を取った後、ユミはチラリと大家さんを見た。
でも、すぐにカーテンを閉ざされて、結局挨拶は出来なかった・・・。
その後も振り返ってみたけれど、やっぱりカーテンは閉じたままだった・・・。
その閉ざされたカーテンが、何故か無償にセイとかぶってしまう。
決して自分を触れさせないような…そんな感じがとても似ているように思えた…。
その後、離れにある彼女の家に行くなり、お風呂と下着まで借りてしまったユミは感謝と申し訳なさでいっぱいだった。
しかも、お風呂から出ると彼女はユミの制服まで乾かしてくれているではないか・・・。
「見ている分には素敵だけれど、ワンピースの制服っていろいろ大変よね」
「あ、私がやります。すみません、気がつかなくて」
ユミが慌てて駆け寄ると、彼女はドライヤーを高くもちあげ呟いた。
「いいの、やらせて。・・・むしろやりたい」
相変わらずピクリとも笑わないまま真顔でユミを見つめる。
「そう、やってもらいな。彼女、祐巳ちゃんより器用そうだ」
キッチンから戻ってきたセイが、そう言って背後からマグカップを差し出した。
「ミルクココア。祐巳ちゃんのは特別にお砂糖入りね」
「・・・いただきます」
ユミはセイからカップを受け取ると、元いた場所に座りなおした。
そしてセイの淹れたココアを一口すする…あったかくて…とても甘い…。
セイはユミの好みを今でもしっかり覚えていて、絶対に失敗する事はないんだ…なんて自惚れてしまう。
「ここ、置くね」
セイはそう言って茶色い傘の彼女の分を置くと、ユミの隣に腰を下ろした。
そして、横目でチラリとココアをおいしそうにすするユミを見て微笑んだ。
決して薔薇の館全員の好みを覚えているわけではない。でも、ユミの好みだけはどうしても覚えずにいられなかった…。
実際自分で試しに飲んでみたが、あまりの甘さに思わず苦笑いした事を、今でも鮮明に思いだせる…。
「ここ、落ち着くなぁ」
セイは隣からするシャンプーの良い香りに少し戸惑いながら、それを悟られないように天井を見上げそう呟いた。
…この子の隣がいい…ここが一番落ち着く…。
そう思うようになったのは、さほど昔の事ではない。でも、いつの間にか安心出来るのはユミの傍しかなかった…。
セイはそっと瞳を閉じると外から聞こえる雨音にそっと耳を傾けた・・・。
雨音は心地よい音楽になって耳に届く。こうしていられたらどんなに幸せだろう・・・。
ずっとそう願ってきた…でも、今回の事で一つハッキリした。それは、その願いはきっと叶わない…とゆう事。
あれだけサチコに一途なのだ…どうあがいても、きっとユミがこちらを振り向いてくれる事はないだろう。
どうせ傷つくのならば、今のうちから少しづつ距離を開けた方がいいのかもしれない・・・。
シオリの時のように後戻り出来なくなってからでは遅いのだ…。
そんな事分かってる…でも…すでに後戻りなんて出来るはずもなかった…。
気がつけばユミの事を考えていて、今何をしてるのか、どんな夢を見たのか、なんて考えてしまうのだから。
まるでタチの悪い癖のようにそれは日常的になっていて、止める事なんて出来なかった…。
そしてそれがセイの毎日の小さな贅沢にもなっていた。
もはやユミを想う気持ちはセイの一部で、それを否定する事など…出来なかった…。
…でもこの想いを伝えればきっとユミは困るだろう…泣きだすかもしれない…。
とても優しいから軽蔑はされなくても、きっと友人には戻れない。
…また、私はそうやって一人になるんだ・・・。
セイは薄く笑うと少し冷めたコーヒーに口をつけた…。
「・・・ええ」
落ち着く…のはきっと、セイが隣に居てるからだ、とユミは思った。
もちろんこの家はとても居心地がいい。でも一人ではきっとこんなにも居心地は良くなかっただろう。
でもセイの傍にはいつも穏やかで優しい空気が漂っていた。
それは本当は作り物なのかもしれないけれど…本当はもっと嵐のような人なのかもしれないけれど…。
でもユミはそれで良かった。たとえ、風が吹き荒れてもそれに触れる事が出来るなら、それが良かった。
セイは一体自分の事をどんな風に見ているんだろう。そう思うと不安になる。
迷惑ばかりかけて、卒業式の前の日には、それでいい、なんて言っていたけれど、本当に今のままでいいのだろうか…。
サチコの事にしてもそうだった。この想いを打ち明けた時サチコはどうするだろう。
…きっと軽蔑される…。
ユミは心の中でそう呟くと隣でチビチビとコーヒーを飲んでいるセイに目をやった。
サラサラの髪がコーヒーを飲むたびに規則正しく流れる・・・。
・・・触れてみたい・・・。
好きだと感じた途端に溢れるような欲望と想いは、一体どうすれば収まるんだろう?
触れれば収まるのだろうか?言ってしまえば楽になるのだろうか…?
でも、もし拒絶されたら?…いや、その方が確率としては高いのだ…。
それならば言わない方がいい。ずっと友人で居られるのならその方が幾分か幸せだろう・・・。
ユミは小さくため息をつくとそっとセイがさっきそうしたように、天井を見上げた・・・。
ユミのココアの匂いとセイのコーヒーの匂いが混ざって、甘苦い匂いになる…。
・・・まるで、今の2人の気持ちを映し出したみたいに・・・。
すれ違って、ねじれて。
真っ直ぐになったと思ったら、方向転換。
まるでメビウスの輪のように二つが出会う事はない。
いっそどこかを切ってしまえば、そこはただの一直線になるのに…。