大事だと思った時にはもうない。

大切だと気づいた時には…もういない。



日曜日の夕方、ユミは最後の希望を振り絞ってサチコの家に電話した。

これでもし居なかったら…?

そうしたらもう、終わりだ。

もし居たなら金曜日の事を素直に謝ろう。

そしてちゃんと話をしよう。そして以前のような姉妹に戻りたい…。

『小笠原でございます』

お手伝いさんか誰かだろうか?聞きなれない女の人の声がした。

祐巳が名乗りサチコが家にいるかどうか、を尋ねると女の人は少し考えるように間を置くと『お待ち下さい』

と言って電話を保留にする。電話から流れる音楽…何の曲だっただろう…。

「・・・お姉さま、いるんだ」

ユミはサチコが家に居る事を知ってホっと胸を撫で下ろした。

そうか…今日はどこにも行かなかったんだ…誰とも居なかったんだ…。

一瞬そう思った。・・・なのに・・・電話に出たのはサチコではなかった。

『もしもし。祐巳ちゃん?』

・・・・・・・・・・・。

「はっ?」

『柏木です。久しぶりだね』

・・・カシワギ・・・

電話に出たのは事もあろうか銀杏国の王子様、その人だった。

ちょっ、ちょっと待って、どうして!?どうしてこの人が電話に出るの…?

ユミの頭の中は軽いパニック状態。思考回路は停止してしまって何が何だかさっぱり掴めないでいる。

「あの・・・?」

『さっちゃん、家にはいるんだけれどちょっと電話に出られないんだ』

・・・サッチャン・・・

その言葉がやけに脳裏に焼きつく。しょうがない、スグルはサチコの従兄弟なのだ。

でも…何故電話に出られないの?突然黙り込んでしまったユミに、まるでフォローするかのようにスグルが言った。

『ちょっと車に酔って休んでいるんだ』

「車・・・」

やっぱりどこかに出かけていたのか…そう思うと絶望的な思いがユミの胸を支配してゆく…。

『誤解されないように言っておくけど、僕とさっちゃんが2人でドライブしたわけじゃないからね。

瞳子も一緒だから安心して』

「瞳子ちゃんが」

それだけは聞きたくなかった・・・まだスグルと2人でデートの方がマシだった・・・。

・・・一緒にドライブ出来るだけで嬉しいもの・・・

確かにあの時トウコはそう言っていた。

…私との約束は破るのに、瞳子ちゃんのお願いはあっさりと聞き入れるのか…。

そんな事を考え出すと、もうどうしようもなくマイナスな思いは止まらなかった。

「・・・そうですか」

『何か用だった?言づてがあったら伝えるけど。あ、瞳子に代わった方がいい?』

「いえ。急ぎではないですから。学校で会った時に話します」

『そう?悪いね』

スグルは電話があった事をサチコに伝えてくれると言っていたが、それは断った。

トウコと一緒にいるのならこの事を知られたくなかったのだ…。

ユミは静かに電話を切ると首にかけていたロザリオをそっと外した。

トウコを選んだのなら、もういい。本気でそう思った。

いつかこんな日がくるかもしれない、

とは思っていたけれどまさかこんなに早くにその日がやって来るとは思ってもみなかった。

八ヶ月前…すごくドキドキしたのを今でも思い出せる。

サチコの笑顔…冷たいロザリオの感触…まるで夢でも見てるみたいだった…。

でも、それももうお終い…長い長い夢は幕を下ろした…。


だから週明けからは薔薇の館にも顔を出さなかった。

今更サチコの顔を見るのも辛いし、妹を辞退すると決めたのだから、もう行く理由もない。

「いったい何があったのよ」

昼休みも放課後も全く薔薇の館に顔を出そうとしないユミを心配してヨシノが怖い顔をして詰め寄った。

「祥子様だって心配しているよ」

心配?そんなものする訳がない…。

「まさか」

「本当だってば」

サチコが今ユミを心配するとしたら、紅薔薇様の体面を保つためだとしか思えなかった。

「とにかく、今から一緒に薔薇の館に行こう」

ヨシノはユミの腕をとって引っ張る。でも、ユミはその腕を振り払うと全く反対の方向へと歩き出した。

「行かない」

「何があったか知らないけれど、きっと祥子様が悪いと思う。だから、一緒に抗議してあげる。

黙ったまま腹を立ててたら、永遠に仲直りなんてできないよ」

一緒に抗議してあげる・・・その言葉がユミの中に染み渡ってゆく…。

そう言ってくれるのはとても嬉しい…でも…。

「もう、その段階は終わったんだ」

ユミは静かにそう言うとヨシノを見つめる。

「心配してくれてありがとう。ごめんね」

「祐巳さん・・・」

ユミが上履きを履き替えてしまったのを、ヨシノはもう止めなかった。

ただ、泣き出してしまいそうな顔でユミを見ていた・・・。



昇降口を出ようとすると雨が降っていた・・・。

まだパラパラとしか降っていなかったが、その小雨具合がまるでユミの心の中のようだった。

鞄から折り畳み傘を取り出すとそれを開こうとする…でもこんな時に限ってなかなか上手く開かない。

・・・イライラする・・・こんな時あの人だったら・・・

ユミは優しくて頼りになる先輩の顔を思い浮かべる。

きっとセイなら、ユミの手から傘を取り上げてポンといとも容易く開くに違いない。

そしてユミが怒るのも分かってて「相合傘だね?」なんて言って茶化すんだろう。

あまりにもセイの事を容易に想像できてしまって、少しおかしかった。

そんな事を考えながら傘と格闘しつつ外に出ると、そこに誰か立っている・・・。

その人の顔を見た途端に、ほんの少し温かくなった気持ちが一気にしぼんでいくのがわかった。

「・・・祐巳」

「お姉さま・・・」

予想もしていなかった突然の出来事に、ユミの思考回路はまた停止しそうになったが、

ポケットの中の何かが太ももにチャリと当たるのを感じて、どうにか停止せずにすんだ。

「会えるような気がしたわ」

サチコは傘と鞄を持っていたから、これから帰るところなのだろう・・・。

「あなたには、ちゃんと話さなければならないわね」

ポケットの中でロザリオが静かに待っている…でもユミはサチコの一言に完全に固まってしまう。

…話…一体何の…?

いろいろな思考が頭の中を凄いスピードで駆け抜けてゆく…。

「祐巳」

サチコは一歩も動かずにいるユミに一歩近づくと、そっとカラーを整える…。

いつもならこんな些細な事でドキドキしていた…でも以前とは何かが違う…。

ドキドキはするけれど、それは誕生日の時に貰うプレゼントの中身のようなドキドキだった。

中身が分からずワクワクするけれど、いざ開けるとたまにとんでもないモノが入っている…そんな感じに似ていた。

まるでビックリ箱のような愛情・・・いつどんな時でも気の抜く事の出来ない…そんな愛。

「お姉さま」

あと何回ぐらいそう呼べるのだろうか…。

ユミがそんな事を考えていると、脇の所を誰かが通りすぎた。

「祥子お姉さま。お待たせしました」

「・・・そういうことですか」

・・・なんだ、そうだったんだ・・・

ユミは惨めな気持ちを飲み込むと二人にそっと背を向ける。

サチコはユミを待っていたんではなくて、トウコを待っていたのだ・・・。

「待って、祐巳さま」

歩き出そうとしたユミを呼び止めたのはサチコではなく、トウコだった。

どうして・・・?そんな疑問符がユミの頭を支配する。

「まだお話は途中でしょう?少し急ぎますので、立ち話はしていられないんですけれど。

歩きながらでよろしければ続きをお話になったらいかが?」

「えっ?」

今更何の話をすればいいというの?

「ね。紅薔薇様、そういたしましょうよ」

トウコの甘えた声がやけに大きく聞こえる・・・。

「・・・そうね。祐巳、そこまで一緒に帰りましょう」

サチコはあっさり過ぎるほどトウコの意見に従う。そんな光景がユミの怒りと寂しさをさらに増幅させた。

「いいえ」

ユミははっきりとそう言って首を振ると呟いた。

「もう、いいんです」

そう言って、傘もささずにその場を走り去った・・・。

「あっ、祐巳さま!?」

またしても呼び止めようとするのはトウコで、いつまでたってもサチコの声は聞こえては来なかった・・・。

髪を濡らして、顔もビショビショ…制服は水分を含んで重くなるし、傘だってちっとも役に立たない。

銀杏並木を進んで校門が見えてきたあたりで、ユミはようやく足を止めた・・・。

沢山の花の中、一つだけ黒い花を見つけたから・・・。

・・・あの傘は・・・

まだ相当離れているのに、どうしてあの人だと分かってしまうんだろう・・・。

どうしてあの人はいつも一番会いたい時にそこに居てくれるんだろう・・・。

「・・・聖さま」

この時、ユミの中で何かが弾けた。

後姿だけでこんなにもドキドキする・・・。

サチコと居る時とは明らかに違うドキドキ…そうか…そうだったんだ…。

前から感じていた違和感が、今ようやくユミの中ではっきりと分かれた。

サチコに対するドキドキが誕生日だとするならば、セイはクリスマスなのだ。

ドキドキしながら眠りにつくと、誰にも分からないようにこっそりと枕元に置いていく…中身は前から欲しかったもの…。


確実で的確な愛情…さりげない優しさと、一番理解してくれているとゆう安心感…そんな愛だった。





事件がなかったら見えなかった。


真実はいつだってそこにあったのに…。


心に正直になってやっと分かった。


愛したのはアナタだったんだって…。




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