第百七十五話『祐巳のロザリオ』


どうしよう・・・私は途方に暮れてた。どんなに探しても見つからない・・・。手首をさすると、そこには何も無い。

私は痛い足を引きずってあちこち探し回った。所々の木の枝に私の服の切れ端がくっついてる。

でも、ロザリオだけが見つからなくて・・・私は泣きそうだった。いや、もう泣いてた。

「どこ行ったのぉ・・・?」

泥まみれになった手で涙を拭った私は、また這いずってロザリオを探し出した。下着姿で。

こんなとこ誰にも見せらんない。たとえ聖さまにも・・・そんな事を考えながら。

それにしても・・・どうして私はこんなにもドン臭いんだろう。いっつもいっつも誰かに迷惑かけて、怒られて。

そりゃしょうがないよ。瞳子ちゃんの言った事はもっともだ。だって、私は本当に注意力がない。

だからいつもこうやって誰かに助けられるはめになるんだ。私は石に腰掛けて大きなため息を落とした。

と、その時だった。何かが私の前を横切った。その時に何かがキラリと光る。

「ロザリオっっ!!!」

私は勢いよく立ち上がった。でも、既にロザリオは高く高く舞い上がって・・・そう、ロザリオを持っていたのは・・・カラス。

そう言えばなんかで聞いた事がある。カラスは大そう光物が好きだとか何とか。

私はカラスが止まった木を揺さぶって、どうにかカラスがロザリオを落とさないかと願った。

でも、カラスは私をチラリと見ただけでうんともすんとも言わない。

「うっ・・・ひっく・・・返してよ・・・お願いだからぁ・・・」

とうとう泣き出した私に向ってカラスが鳴く。私・・・カラスにまでバカにされて・・・もうどうしたらいいのか。

その時だった。崖の上からよく知ってる人の声が聞こえてきた。

私はその声につられるみたいに這いずって、元の場所に戻ってみると・・・。

「居た居た。もう、どこ行ってたのよ!」

「聖さま・・・助けに来て・・・」

私が感動しようとしたその瞬間、聖さまは私を見てポツリと呟いた。

「うわぁ・・・悲惨・・・」

「ひどっ!!」

・・・その言葉はあんまりにも酷いです。私だって分かってますけど!!

聖さまは私の姿を見て肩を震わせている。隣に居る瞳子ちゃんの方がまだ心配そうな顔してくれてる。

「とりあえず、ロープ渡すから上っといで」

そう言って聖さまは私の目の前にロープを垂らしてくれた。私はそのロープに捕まってふと思い出した。ロザリオの事を。

「どうしたの?早く上っといでってば」

「ダメ・・・行けない・・・まだ・・・」

「なんで?私、そこまで行くの絶対嫌だからね」

聖さまはそう言って怒ったような視線を私に向ける。でも、行けないものは行けない。

私は首を横に振った。そしたら聖さま、多分本当に怒ったんだと思う。絶対に降りるの嫌だって言ってた崖を下りてきて、

私の前に立って私の手首を思い切り引っ張った。そして有無を言わさず私の腰にロープを巻きつけてキツク縛る。

「瞳子ちゃん、引っ張って」

「えっ!?は、はい・・・」

瞳子ちゃんは聖さまの言葉に頷いてロープを引っ張り出した。ちょ、ちょっと待ってよ!!なに、この実力行使!!

私は抵抗した。でも、背中を聖さまに押され、ロープで引っ張られたらどんなに抵抗しても到底敵わない。

どうにか崖の上に辿り着いた私は、聖さまを睨んだ。

「なによ、その目」

「私・・・嫌だって言ったのに・・・」

「だからどうだって言うのよ。あのね、皆に心配かけてた奴に文句言う筋合いなんて無いの。よく覚えときなさい」

「・・・でも・・・」

私は言いかけた。でも、聖さまはもう聞いてはくれなかった。だって、私の頭に服を被せてそのまま歩き出してしまったから。

置いてきぼりにされた私を慰めてくれたのは瞳子ちゃん。私に服を着せてくれて、ポツリと言う。

「聖さまだって、心配してらしたんですよ」

「うん・・・分かってる・・・でも・・・ロザリオが・・・」

涙が溢れてきた。あれは聖さまに貰ったロザリオだ。一生一緒に居るって誓ったものだ。

それを失くして私・・・帰れない・・・。私はとうとうその場に蹲って泣き出してしまった。年甲斐も無く。

それぐらい大事な物だったんだ。私にとっては。そこらへんのアクセサリーなんかとは違う。大切な大切な・・・。

大声で泣き出した私に気付いた聖さまが、ようやく振り返って戻ってきてくれた。

「みっともない。なに泣いてんのよ」

「聖さま!そういう言い方はどうかと・・・せめて理由ぐらい聞いてあげたらいかがです?」

瞳子ちゃんの言葉に、聖さまが溜息をついた。大声で泣く私を見下ろしてまた大きなため息。

「どうしたのよ。どっか痛いの?」

私はその言葉に首を振った。違う。痛いとかそんなのならいくらでも我慢できる。でも、そんなんじゃない。

私は言葉の代わりに左腕を聖さまに突き出した。聖さまはその左腕を見て首を傾げている。

「なに?」

「ロザ・・・リオ・・・どっか・・・行っちゃった・・・ロザリオがどっか行っちゃったのっっ!!!」

突然叫んだ私を見て、聖さまは驚いたように私の手首を眺めた。

「そんな事・・・あのねぇ、ロザリオなんていつでも買える。でも、祐巳ちゃんは一人しか居ないのよ?

そんな格好でウロウロして、もし何かあったらどうするつもり?それこそロザリオそころじゃないでしょう?」

聖さまの言うことは最もだった。でもね、私にとって、あのロザリオは本当に大切なものだったの。

ワガママだって事は分かってる。皆に迷惑かけたことも。私は聖さまの言葉に頷いて立ち上がった。

足に走る痛みなど、今はどうでもいい。

「聖さまの言う事・・・正しい・・・でも・・・大事なのっ!!それぐらい・・・大事だったの!!!」

聖さまを見上げて怒鳴った。こんな山奥で喧嘩なんて、本当はしたくない。悪いのは私。それも分かってる。

私はまた涙を零した。その涙を聖さまが乱暴に拭いてくれる。

「それは・・・分かってる。でも、私はロザリオよりも祐巳ちゃんの方が大事。私の気持ちもちょっとは汲んでよ」

そっと呟いた聖さまの言葉は、私を責めるようなものではなかったけど、私の心に突き刺さった。

怒ったような顔の裏に隠れた表情は、決して私には見えない。でも、言葉には痛いほど表れてたんだ。

「・・・うん・・・」

ポツリと呟いた私は何も無くなってしまった手首を見て、頷いた。それと同時に聖さまのホッとしたような溜息が漏れる。

オロオロしたような瞳子ちゃんが目の端に映って、私は今自分がどんなにワガママを言っていたのかを思い知って、

もうどうしていいか分からなくて・・・。

「ごめんなさい・・・」

私は瞳子ちゃんと聖さまに頭を下げた。その頭を聖さまが乱暴に撫でてくれる。

それから、私は瞳子ちゃんの提案で嫌がる聖さまにおぶってもらう事になった。

「それにしても・・・ほんと、人騒がせな人ですね、祐巳さまは」

「ほんと、ほんと。なにがロザリオよ。それどころじゃないっつうの。おまけに重いし」

「うん・・・ごめん・・・なさい・・・」

私は聖さまと瞳子ちゃんにもう一度謝った。でも、やっぱり心のどっかで引っかかるのはあのロザリオ。

何も無い手首がこんなにも寂しいなんて、考えた事もなかった。それぐらい私はあのロザリオに精神的に助けられてたんだ。

でもね、聖さまの背中は・・・あったかかった。凄く、凄く・・・あったかかったんだ・・・。


第百七十六話『カラスとロザリオ』


祐巳ちゃんが失くしたロザリオは、私達の未来を約束するためのものだった。

だからこそ、余計に祐巳ちゃんは執着したんだと思う。未来に怖がりで、繋がりがないと不安がる祐巳ちゃんだからこそ。

私は背中から聞こえる寝息を聞きながら山道を歩いていた。

隣を歩く瞳子ちゃんが呆れたみたいな顔して祐巳ちゃんを見上げてるけど、不思議なことに私はホッとしてた。

祐巳ちゃんは時々、何かに怯えたみたいに泣き叫ぶ事がある。それがどうしてなのかは分からないけど、

何かに怯えて怖がってるのは確か。いつか聞けたらいいなとは思うけど、まだ聞く勇気は・・・ない。

ていうか、とりあえず祐巳ちゃんは泣き虫なんだ。ちょっとした事ですぐ泣く。

でも、いざって時は・・・案外強い。それまで黙々と隣を歩いてた瞳子ちゃんが、突然ポツリと言った。

「聖さまはよく祐巳さま付き合ってられますね」

「まぁね。慣れればどうって事ないよ」

「・・・慣れ・・・ですか・・・」

「そう。何でも慣れればどうってことない」

言い方は悪いけど、人との付き合いなんて慣れだ。嫌なとこももちろんある。でも、それは慣れてしまえばどうってことない。

だって、それよりも好きなとこのが勝ってるんだから、我慢するしかないんだし。慣れるしかないじゃない。

私の言葉に瞳子ちゃんは笑った。そうですか、と。

「じゃあ、祐巳さまのどこが好きなんです?嫌いなとこも許せるほど好きなとこってどこなんです?」

「その質問、前にも答えたような気がするけど?」

確か、あれは病院で。まぁ、もうちょっと違う質問だったような気がするけど。

「気のせいですよ、きっと」

瞳子ちゃんはいたずらっ子みたいに笑った。まぁ、瞳子ちゃんがそういうのなら、仕方ないからそういう事にしといてあげよう。

祐巳ちゃんのどこが好き?この質問は私も今まで色々考えてきた。でも、いくら考えてもやっぱり答えなんて出なくて。

ただ、一つだけはっきりしてるのは・・・。

「そうね。私だけを見てくれるよね、いつも。今のロザリオにしてもそう。私だけじゃない、この子って」

「・・・はあ?」

「だから、祐巳ちゃんには私が一番なんだって、そう思わせてくれるって事。

人間さ、どんなに好きでもやっぱりたまには余所見しちゃうじゃない。

少なくとも、私が今まで付き合った人は皆そうだった。あの栞でも・・・ね」

「栞さまが?それはないでしょう?」

私の言葉に瞳子ちゃんは驚いたように目を丸くした。でも、私の言葉は事実。

栞は私よりもずっと大事なものがあった。いつだって。私が一番って訳じゃ・・・なかったんだ。

「栞は人間の中では私を一番愛してくれてたかもしれない。でも、彼女が一番愛したのは・・・私じゃない。

神の道が彼女にとっての一番だった。そういう意味で、だけど」

「聖さまの言う一番は・・・この世の全ての中でって・・・意味ですか?」

「そう。だからなかなか難しいの。そんな風に想ってくれる人なんて、なかなか居ないでしょ?」

私の求める愛は、一途な愛。私だけを想ってくれる誰か。二番が居てもいい。でも一番は・・・私でないと嫌。

その点祐巳ちゃんは私が一番なんだっていつも思わせてくれる貴重な人だった。

まぁ・・・それは付き合いだしてから分かった事だったんだけど。あの事故の時、私ははっきりとそれを知った。

それがどんなに嬉しかったか、どれほど幸せだったかなんて事、きっと祐巳ちゃんさえ知らないはず。

「でも、一番になるのはそんなに難しいでしょうか?」

「難しいよ。だって、世の中の全てよりも私が一番よ?それって・・・自分の命よりも大事って事よ?」

「自分の・・・命・・・祐巳さまは・・・そういう人なんですか?」

「瞳子ちゃんは見てたじゃない。祐巳ちゃんが私を庇ったのを」

「?」

瞳子ちゃんは私の言葉に首をかしげた。ああ、そうか。

瞳子ちゃんにはきっとあの時の祐巳ちゃんの行動が見えてなかったんだ。

「あの時ね、階段から落ちたのは祐巳ちゃんが先だったでしょ?

その時、私は祐巳ちゃんを助けようと思って手を伸ばしたけど・・・、祐巳ちゃんは私の手を掴まなかったの。

それどころかこの馬鹿、伸ばした手引っ込めて笑ったのよ?どうかしてるとしか思えないでしょ?

・・でも・・・うれしかったの、私。咄嗟の時に人って本性が出るじゃない。それまで見えなかったモノが見えるじゃない。

だから、落ちた後の祐巳ちゃんの言葉も何もかも・・・嬉しくて仕方なかったのよ」

あの事故以来ずっと考えていた事を誰かに話すのはこれが初めてだった。

自分の中でどんな風に消化すればいいか分からなかったから。

どうしたって一人になりたくなる時はある。でも、それ以上に祐巳ちゃんが私の一番だったんだ。

私がずっと求めてた愛。それは私を何よりも一番に想ってくれるって事。誰よりも、どんなものよりも。

私と誓いを交わしたロザリオを失くしたってだけで号泣する祐巳ちゃんを見て、

私が本当はどう思ってたかなんて事、誰にも言わない。あんな風に泣かれても少しも重いと思わない。

それは多分、祐巳ちゃんが真剣だから。いつだって私だけを見ていてくれるから。

だから今までみたいに重いとか、そんな風には思わないんだ。

最近になって、ようやく私は自分の求めていたものを探し当てた。それはあまりにも単純で、あまりにも欲深い。

でも、多分誰でも・・・思ってる事。皆気付かないだけで。私は背負った祐巳ちゃんをもう一度背負いなおして、

また歩きだした。その時に祐巳ちゃんの口から小さな寝言が聞こえてくる。

「んー・・・ロザ・・・リオが・・・せ・・さまの・・・ロザ・・・」

私はその寝言を聞いて呆れたみたいに笑った。

「ほらね。私が一番でしょ?」

「・・・みたいですね・・・。それにしても、どこに行ったんでしょうね・・・ロザリ・・・オ・・・あっっ!!」

突然、瞳子ちゃんが正面を指差して短く叫んだ。瞳子ちゃんの指差した先に居るのはカラス。ちなみに、結構・・・デカイ。

私はその足に絡まったものを見て、小さく息を飲んだ。キラキラ光る祐巳ちゃんのロザリオだった。

でもさ、カラスって近くで見ると結構・・・いや、かなり怖いよね・・・。私はゆっくりとカラスに近づくと、そっと手を差し出した。

するとカラスは怒ったみたいに大きな声で鳴いて威嚇する。でも威嚇されたってこっちだって逃げらんない。

だって、祐巳ちゃんが大泣きするぐらい大事にしてたロザリオが今目の前にあるんだもん。

どうにか・・・どうにか落としてくれさえすれば・・・私はそんな事を考えながらカラスの足をじっと見つめていた。

その時だった。突然、後ろからスッと瞳子ちゃんがやってきて、何を思ったのか突然カラスに飛び掛ったのだ。

「なっ!と、瞳子ちゃん?!」

私が叫ぶよりも先に、瞳子ちゃんはすでにカラスの首を素手で掴んでいて・・・。

「さ、聖さま。早くロザリオを」

「う、うん・・・ありがと・・・」

はっきり言って、衝撃映像だった。いや、ショッキング映像だった。小鳥なら分かる。小鳥なら。可愛いし小さいし。

でもね、カラスを素手で捕まえるのは・・・怖すぎる。その絵面は怖すぎるよっ!!

私は驚いたようなポカンとしたカラスの足からロザリオを取ると、一歩後ず去った。だって、本気で怖かったの。瞳子ちゃんが。

「取りました?」

「え・・・ええ」

「そうですか。じゃ、カラスさん、ごめんね」

そう言ってカラスを土の上に放した瞳子ちゃんの顔を、カラスはじっと見つめている。そりゃそうだ。

カラスだってまさか素手で人間に捕まるとは思ってもみなかっただろう。少なくとも、私は思ってなかった。

カラスはしばらく放心状態で瞳子ちゃんを見詰めてたけど、やがて恨みがましそうに瞳子ちゃんに一声鳴いて、

どこかへ飛び去ってしまった。私は瞳子ちゃんを見詰めてカラスが飛んでった空を見上げ、もう一度瞳子ちゃんを見た。

「凄い・・・特技ね」

「昔から素早かったんです」

「へぇ・・・」

そういう問題じゃないと思うけど。でもそれは言わないでおいた。きっと瞳子ちゃんにとっては大した事ではないんだろう。

だって、何事もなかった様な顔してるし。私は・・・そんな瞳子ちゃんがちょっと怖かったんだけど。

とりあえずロザリオは戻ってきた。これでもう祐巳ちゃんは泣かないですむ。私はもう一度瞳子ちゃんにお礼を言って、

歩きだした。ようやく別荘についたのはもうすっかり夕方だった。

私達が戻るなり、皆私達の事よりも祐巳ちゃんの心配をしてた。ま、そりゃそうだろうけど。

だって、祐巳ちゃんは私の背中でグッタリしてたから。熟睡してただけだけど。ほんと・・・どこまでものん気な子。

でも、ほんと良かった。君が無事で・・・。


第百七十七話『旅の終わり』


あんなにも長いと思っていた合宿も今日で終わり。そう思うと、何だか寂しかった。

夏休みの半分以上をここで過ごして、少しだけ皆の事がまた分かって。SRGが名残惜しそうに別荘を見上げ微笑んだ。

風にさらわれそうになびく髪を押さえながら。

「もう夏休みも終わりね」

「ええ・・・そうですね・・・」

私はSRGの隣に立って、別荘を見上げてやっぱりSRGみたいに笑った。

そんな私を見下ろしてSRGは小さく笑って私の手首を指差す。

「綺麗ね、それ」

「はい!聖さまに貰ったんです。クリスマスに・・・でも」

「でも?」

私は昨日の事を思い出してまた泣きそうになった。だって、本当に失くしてしまったと思っていたから。

そして、きっともう見つからないだろうとも。でも・・・目が覚めると私は服を着替えていて、

手首にはまるでほんの少しも離れた事などないみたいにこのロザリオがかかっていた。

多分、聖さまか瞳子ちゃんが見つけてくれたんだと思う。

だって、ビックリして聖さまにどこにこのロザリオがあったのか聞いたら、苦笑いして聖さま言ったんだもん。

『聞かない方がいいんじゃない?私もあんまり思い出したくないし』

それってすっごい怖いと思わない?そんな言い方されたらもうその先を聞こうだなんて思わないよ、普通。

だから私はそれ以上はもう聞かないでおいた。それに、聖さまが思い出したくないんなら、それ以上聞く必要もないと思うし。

その事をSRGに言うと、SRGは軽く笑って私の頭を撫でてくれる。

「いい子ね、祐巳ちゃんは」

「そうでもないです・・・ワガママだし、強情だし、自分勝手ですから」

「あら。それは聖でしょ?」

SRGの言葉に、私は首を小さく振った。違う。聖さまのワガママさと私のワガママさは・・・違う。

本当は聖さまよりもずっと私の方がワガママなんだ。苦笑いを浮かべた私を見てSRGも困ったように笑う。

「はいそこー、いちゃつかない!ていうかさ、二人とも荷物ちょっと持ったら?」

そう言って私達の間に割り込んできた聖さまが、軽く私達を睨んでそのままスタスタと歩き去ってゆく。

確かに。私は自分の手を見てSRGの手を見てみた。私達は聖さまの言うとおり何も持ってない。

でも、聖さまの手には沢山の荷物。それは私のと聖さまの分。

ちなみに、私は足を怪我してるからって理由で蓉子さまが私の荷物を全部聖さまに持たせたんだけど・・・。

聖さまはそのせいでちょっとだけ不機嫌。多分、私の隣に寄り添ってるのがSRGだからってのもあるんだろうけど。

私はSRGを見上げて肩をすくめてみせた。するとSRGは笑ってウインクして私の背中を軽く押す。

「聖さまー!!待ってくださいよ〜〜」

私の声に聖さまはチラリと振り返って私を眺めてフンって鼻を鳴らす。

「また転ぶわよ」

「転びませんよ!もう!」

「はいはい。どーだか」

それでも聖さまは待っててくれた。足を引きずりながら歩く私を決して迎えに来てはくれなかったけど。

ようやく聖さまに追いついた私は聖さまの腕にぶら下がるみたいに腕を組む。これが私の小さな幸せだったりする。

って言ったら、聖さまはきっと迷惑がるんだろうな・・・。

「重いってば」

・・ほらね。でもいいの。だって、私は聖さまとこうやって歩きたいんだもん!

よやく麓まで辿り着くと、そこには蓉子さまが運転するワゴン車が私達を待っていた。もちろん、他の皆も。

ようやく姿を現した私達を見て、由乃さんが飛び跳ねながら手を振ってくれる。

私はそれでもゆっくり歩いた。だって、少しでも聖さまとこうして腕を組んでいたかったから。

でも・・・肝心の聖さまってば・・・。

「・・・あっつい!!もう、一人で歩いて!!」

「・・・・・・・・・・・」

聖さまの言うとおり今日は暑い。でもさ、だからってさ、そういう言い方ってないと思うの。

私の腕から自分の腕を引っこ抜いた聖さまはそれでもゆっくり歩いてくれた。一応・・・優しいのは優しいんだけどなぁ・・・。

しょんぼりとうな垂れた私を見て聖さまが意地悪に笑う。

「そんなに腕組みたかったら、お姉さまと組めば?」

「なっ・・・」

ムッカーーーー!!!なに、その言い方!!違うじゃん!!私が腕を組みたいのは聖さまだけだって知ってんじゃん!!

それなのに、そういうこと言う訳?しんっじらんない!!

「聖さまなんて嫌いっ!!もう知らない!!」

「いたっ!!こ、こら、ちょっと!!」

聖さまの向こう脛を思い切り蹴った私は、その場から逃げるみたいに皆の元に急いだ。

とは言っても、足が痛いから想像したよりはずっと遅かったけど。それでもいいの。だって、聖さまってばあんまりじゃない!!

「祐巳ちゃんってば!!待ちなさいって」

「嫌ですっ!!もう顔も見たくありません!!」

でもさ・・・私、歩くの遅いんだよね。聖さまの歩く事の早いのなんのって・・・。スタスタ歩く私の肩を掴んだ聖さまは、

グルリと私を回して私を見下ろす。な、なによ・・・こ、怖くないんだからね!!そんな顔しても!

私達の横をSRGが、おさきに〜、とか言って通り過ぎてゆく。私はそれを横目で見送りながら聖さまを見上げる。

「ごめん、言い過ぎた」

「・・・・・・・・・・・・・・」

「許してくれないの?」

「・・・・・・・・・・・・・・」

誰が許すもんですか!!私はそんな事を考えながらふんってそっぽを向いた。

「もう!ほんと強情なんだから」

「んんっ!?」

私は目を見開いた。だって、突然聖さまの唇が・・・唇が・・・。私は必死にはがそうとした。聖さまを。

でも、聖さまはしっかり私の顎を固定してて離してくれない。どれだけポカポカ胸をなぐっても。

そうこうしてるうちに何だかもうどうでもいいような気分になった私は、体の力を抜いた。

そして、それと同時に聖さまの唇も離れてゆく。目を開けた私が見たのはペロリって舌なめずりした聖さまの意地悪な顔。

「でも、単純よね」

「も・・・もうっ!!」

私はもう一度聖さまの胸を叩こうとしたけど、生憎それは避けられてしまった。そして聖さまは走り出す。車に向って。

「あん!ちょ、待ってくださいってばーーー!!」

「やーだよっ♪」

いたずらっ子みたいな聖さまの声に、思わず私は笑ってしまった。ほんと・・・聖さまってば。

でもね、旅行はこれで終わり。夢見たいだった夏休みも・・・もう終わり。

肌寒くなってきた夜の風が、もうじき訪れる秋を告げてる。秋といえば・・・やっぱり学園祭。

あぁ、また忙しく・・・なるんだろうなぁ・・・。でも、きっと楽しくなる・・・はず!


第百七十八話『新しい日に』


朝から大忙しだった。朝一番にふと思ったんだ。今日、衣替えをしようって。それから買い物に行こう。

新しい冬服買いに。ついでに秋物もちょっと見てー・・・うん!そうしよっと!

私はだから、まだ夢の中に居る祐巳ちゃんを叩き起こしてその事を告げた。

「えー・・・買い物って・・・どこにです?」

「さあ、それは内緒」

「・・・なんですか、それ・・・」

訝しげな祐巳ちゃんが私を見上げる。でも、まだ教えてやんない。ていうか、そもそも決まってないし。

とりあえず衣替えの準備を始めた私の傍で何かを待つ祐巳ちゃん。

「・・・なに?」

「いえ・・・またいらない服は出ないかと・・・」

両手を出して何かを待ってる祐巳ちゃん。私はそんな祐巳ちゃんに呆れたように言った。

「あのさ、言いたかないけど夏服は止めといた方がいいと思うよ?」

「どうしてですか?」

「だって・・・サイズが・・・」

そう言ってチラリと祐巳ちゃんの胸を見た私の行動で何かを察した祐巳ちゃんは手をグーにして怒った。

でもさ、実際問題サイズ合わないじゃん。ほんとの事じゃん!それなのにそんなに怒んなくてもいいのに。

祐巳ちゃんは結局、ブツクサ言いながら部屋を後にした。それから衣替えは順調に進んで、全部終わったのは昼過ぎ。

「お腹減りましたよ〜聖さま〜〜〜」

這いずるみたいに部屋から出てきた祐巳ちゃんのボサボサになってしまった髪を綺麗に結びなおした私は、

有無も言わさず祐巳ちゃんの手を引いてそのまま家を出た。どうせならランチも外でしようと思ったから。

車の中で、祐巳ちゃんが嬉しそうにルームミラーで何度も何度も自分の髪を見てニヤニヤしてる。つか、ちょっと気持ち悪い。

「えへへ。聖さま美容師さんにもなれますよ、きっと!」

「そんぐらい・・・誰でも出来るでしょ」

「いいえ!少なくとも私には出来ません!」

「ああ・・・」

祐巳ちゃん不器用だもんね。簡単なポニーテールでさえ必死だもんね。私の小さな幸せ。祐巳ちゃんで遊ぶ。

私の髪は細くてダメ。くくっても巻いてもすぐに戻っちゃうし、すぐに解けちゃう。昔それでよく母さんに言われたものだ。

『聖ちゃんの髪は綺麗だけど癖がねぇ・・・いらないとこについちゃうのよね』

内心ほっとけ!って思ったけど、あの頃の私はそれをまるでお人形さんのように大人しく聞いてた。

いい子だったんだ、ほんとに。だから余計に今は毎日自分勝手に生きてるのかもしれない。

でも、そんな未来のない人生なんてつまらない。そんな風に思ったのは一体いつからだったんだろう。

誰かと一緒に生きるのもそんなに悪くないと思ったのは・・・。

私はチラリと隣を見た。祐巳ちゃんはまだルームミラーの自分にニヤニヤしてる。だから、気味悪いって!

知らぬ間に零れる笑顔の理由は知ってる。私は、この子と生きたいって思ったんだ。心の底から。

祐巳ちゃんと一緒に、普通の幸せを望んだ。家を買って、祐巳ちゃんの好きな犬と私の好きな猫を飼って、

毎朝一緒に学校行って、帰りには晩御飯の材料を買いに行く。夜は一日の事を話して、そして眠る。

そんな普通の幸せを。私達の間にある境界線は薄いようで結構分厚い。世の中がそんなに甘くないのも知ってる。

でも今はもう時代は変わり始め、女は男に養ってもらって、女は家を守るなんて、そんな時代じゃない。

女にも自分の人生を生きてく権利があって、女一人でも十分やってける時代。

ただ一人は・・・嫌だったんだ、私は。瞳子ちゃんにも言ったけど、私は誰かをずっと探してた。

だから私はもう一つの未来をめざそうって思ったんだ。祐巳ちゃんと二人で・・・女二人で生きて行く道を。

きっと反対されると思う。子供だって作れない。でも、それでも別にいいと思う。二人で居れば、それでも十分だと思うから。

「祐巳ちゃん、なに食べたい?」

「んー・・・うどん!」

「りょーかい」

車は交差点を右に曲がってどんどん進む。うどんは郊外の方に美味しい店があるんだ。

私のお気に入りの店なんだよ。祐巳ちゃんになら・・・教えてもいいかな。なんて、素直に言えたら楽なんだろうけど。

そんな事を考えながら私は車をどんどん郊外に走らせた。やがて見えてきたポツンと立つ小さな建物。

「見える?うどんならあそこがオススメなの」

「へぇ・・・聖さまって、食べ物やさんよく知ってますよね」

「まぁね。だって、デートに誘う常套手段じゃん。食べ物屋と遊ぶとこは」

私の台詞に祐巳ちゃんの頬が引きつった。ヤバ・・・余計な事言っちゃった・・・。でも、その経験が今はこんなにも役立ってる。

「そうですよね・・・聖さまは・・・遊び人だったんですもんね」

「今は違うってば!もう・・・もしかして一生それ言われ続けんの?私」

「多分・・・一生言いますよ」

祐巳ちゃんはそう言って顔をしかめた私をからかった。ったく!変に学習してるからやり辛いわ。

ま、こんな日常もありだと思うけど。何より楽しいし。祐巳ちゃんが私のことをどう思ってるかなんて、正直分からない。

あんな事瞳子ちゃんに自信満々に言ったけど、ぶっちゃけあれは私の小さな願いみたいなものだから。

でもね、それでもいいの。少なくとも私にはそう思えるってだけでも随分違うと思うし。

未来に不安なのは私も同じ。明日の事なんてどうなるかわかんないし、未来を見たいとも思わないけど、

でもだからって見た事もない未来に怖がるのは違う。どんな道が出来てるのか分からないからこそ、楽しいんだから。

車を止めたら、それと同時に祐巳ちゃんが車から降りてすでに店の前でメニューと睨めっこしてて、少しだけ笑っちゃった。

「そんなにお腹減ってたの?」

「そりゃもう!ペコペコでした!」

そう言って私を見上げる祐巳ちゃんの笑顔が、私の笑いを誘う。こんなにも笑う人間じゃなかったのに。

いつも何かに怒ってるようだ、と言われた事が何度かあった。実際には怒ってた訳じゃない。

ただ・・・そう、つまらなかった。毎日が制限された空間の中で起こって、そして過ぎてゆく。

そこから一歩外に出れば何も残らない。そんな人生が面白いはずもない。だから私は飛び出したのかもしれない。

限られた空間から、少しでも人生を面白くするために。でも、出てみて初めて分かった。

日々が楽しいかどうかは、付き合う相手にもよるのだという事を。実際、色んな人と付き合ったけど、

面白かった事なんて殆ど覚えてない。ていうか、なかったんじゃないのかな、記憶にないってことは。

だから今を余計に大事にしたい。私の人生なんだ。私が決めてなにが悪い。

まぁ・・・必然的に祐巳ちゃんは巻き込むことになると思うけど、それは・・・諦めてもらおう。

ていうか、私に見つけられちゃった日から、もう案外祐巳ちゃんの運命は決まってたのかもね。

それを言ったら・・・もしかしたら祐巳ちゃんは怒るかもしれないけど。とりあえず私のしなきゃならない事。

それは、母さんにも言われたようにケジメを付ける事。父さんにも、祐巳ちゃんの両親にも。

私の決意・・・それは、正式なお付き合いを始めなきゃならないって事。私達はもう言うほど若くないし、

このままズルズルしてるのも嫌。カクシゴトはもうしたくないから。特に祐巳ちゃんとの事は。

だから・・・学園祭が終わったら、キチンと話そう。祐巳ちゃんに・・・そして・・・皆にも・・・。

席についた私達。まだ祐巳ちゃんは目の前のメニューに頭を悩ませてる。

「メニュー決まった?」

「それが・・・うどんにしようか蕎麦にしようか迷ってて・・・」

「は?うどんが食べたいっつってたじゃん!」

だからここに連れてきたのに。どうして蕎麦と迷うのよ。つか蕎麦なら蕎麦でまた違うとこがあるんだって!!

私は祐巳ちゃんの手からメニューを取って手を上げた。それを見た店の人がすぐさまオーダーを取りに来てくれる。

「何にしましょ?」

「えっとね、この今日のオススメってやつと、A定食お願いできる?」

「かしこまりました。今日のオススメとA定食ですね。少々お待ち下さい」

「はい、どうも」

メニューを店員さんに返した私をすんごい顔で睨んでくる祐巳ちゃん。私はそんな祐巳ちゃんの眉間を指差して言った。

「皺。出来るよ、そんな顔してたら」

「えっ?!や、やだ・・・って、そうじゃなくて!!どうして勝手に頼んじゃうんですか!!」

「だって、祐巳ちゃんに任せてたら夕方までかかってもメニュー決まらないでしょ?

それに、蕎麦は蕎麦で別に美味しいとこがあんの。だから今日はうどんね」

私の言葉に祐巳ちゃんは大きなため息を落として眉間の皺を一生懸命伸ばし始める。そんなに・・・気にしなくてもいいのに。

多分、私の考えてる事なんて何一つ知らないんだろうな、この子。でも、それでもいい。何も知らなくても、何も分からなくても、

今この時に一緒に居られるのなら。だって、目の前にご飯が置かれた途端、祐巳ちゃんの顔は輝いてたしね。

うどんを一本すすってホウって溜息をつく祐巳ちゃん見てるのも面白いし。

「美味しい?」

「はいっ!ああ・・・日本人の心ですよね、うどんと・・・お茶!!」

「・・・よく言うわ。散々蕎麦とうどんで悩んでたくせに」

「何か言いました?」

「べっつに。さ、じゃ私も食べよっかな。あ、それ一口ちょうだい」

私の箸はすでに祐巳ちゃんのA定食のカツに伸びてた。それを見た祐巳ちゃんが、あっ!って顔してたけど、

私はそれを無視してカツを口に放り込む。

「聖さま・・・自分の食べたいもの頼みましたね?」

「あ、バレた?だってどっちも美味しそうだったんだもん」

「もう!ほんと、しょうがない人なんだから」

この台詞もほら、この子が言うとこんなにも優しい。だから私は不貞腐れながらうどんをすする祐巳ちゃんをしばらく眺めてた。

熱いうどんを猫舌の祐巳ちゃんが美味しそうに食べるのを。毎日が楽しい。毎日笑ってられるのがこんなにも嬉しい。

暖かい言葉も、暖かい空気も、この子の傍でなきゃ味わえないっていうのなら、私はもう、この子を離さない。

「いいじゃん、別に。どうせお会計は私でしょ?」

「ええ、もちろん!」

笑った祐巳ちゃんが日に溶けそうに見えた。ほんの一瞬だったけど。淡く光るオレンジの光は、私ごと・・・包み込む。


第百七十九話『ロミオとジュリエット』


学園祭とは、ある意味教師が一番楽しんでいる。そう思うのは私だけだろうか?あと、体育祭も。

私は理事長室で一人ウハウハしている蓉子ちゃんを見て心底そう思った。

「蓉子ちゃん、で、陸上部の出し物の事なんだけど・・・」

私の台詞に顔を挙げた蓉子ちゃんは、手元の紙をじっと見詰めてにっこりと笑った。

「ええ、大丈夫ですよ。SRG。陸上部の出し物は今年もおでんで行きましょう」

「ありがとう!でね、重要なのはここからなの!ただのおでんじゃつまらないじゃない?

だからね、陸上部らしく競争させるっていうのはどうかしら?」

「・・・競争?」

「ええ!皆でおでんを賭けて戦うの!!」

熱いおでんを巡って戦う生徒達・・・中にはリタイヤする者も出て来るだろう!でも!!皆おでんの為に走るの!

全速力で!!命がけで!!!どうよ!!私は自信満々で蓉子ちゃんを見た。でも・・・。

「それは・・・どうでしょうね。おでんを賭けて皆走りたがるでしょうか?」

「うっ・・・そ、それは・・・」

たかがおでん・・・それは私もチラリと思ったけど!!でもね、楽しそうじゃない。ところが蓉子ちゃんの意見は厳しい。

「やっぱりおでんは普通におでんを売る事に専念した方が私はいいと思うんですが」

「・・・ダメ・・・なのね?」

「まぁ、ぶっちゃければ。そうですね、ダメです」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

蓉子ちゃん・・・あなたのそういうキッパリした所、とても好きよ・・・でも、何だか心が痛いわ。

私はしょんぼりとうなだれて理事長室を後にしようとしたその時だった。

「あっ!SRGちょっと待ってください。まだお話があるんです」

「えっ?!」

私に?話?蓉子ちゃんが!?私は喜んで振り返った。だって、これかなり珍しい事よ?

振り返った私に蓉子ちゃんが言った。

「今年の教師の出し物は去年と同じで演劇でいいと思いますか?」

・・って。教師の出し物・・・確か去年は演劇だった。しかも主役は聖。でも、聖ときたら本番当日になって逃げて・・・。

代打で出た祥子の演技は散々。終わったあと、演劇部の子達に思い切り笑われたのを今もよく覚えている。

私は苦笑いしつつ去年のことを思いだしていたんだけど、蓉子ちゃんはそんな私の考えを読んだみたいに言う。

「今年は聖を主役に置くのはやめておいた方がいいですかね?やっぱり」

「そうね〜・・・相手が祐巳ちゃんでもない限りあの子、絶対出ないわよ、きっと」

「そう・・・ですよね。引き止めてしまってすみませんでした」

「いいえ、いいのよ」

理事長室を出た私。大きなため息を落として窓の外に視線を移した。

いつになったら蓉子ちゃんに伝わるのかしらね、この気持ちは・・・そんな事を考えていた私の心を、

きっと神様が見透かしたに違いない。その日の職員会議。私達は皆目を丸くした。

「というわけで、今年の私達教師の出し物は去年と同じで演劇でいきたいと思います。

それで、その劇の内容なんだけど・・・何かいい案はありませんか?」

まぁ、何だって別にいい。どうせ私は例年通り裏方に回るつもりだし。

私は欠伸をしながら蓉子ちゃんの心地よい声を聞いていたんだけど!

「はいっ!蓉子さま、ロミオとジュリエットなんてどうでしょうか?」

祐巳ちゃんだった。元気に手を挙げていつもの祐巳ちゃんらしくないほど堂々としてる。

祐巳ちゃん・・・大きくなったものね・・・思わず目を細めた私にも気付かない祐巳ちゃん。

「ロミオとジュリエットか・・・・なかなかいいかもしれないわね。でも、配役はどうするの?」

「ロミオが蓉子さま、ジュリエットが・・・そうですね。SRGなんてどうでしょう?」

「「はぁ!?」」

それを聞いた私と蓉子ちゃんの声が一つに重なった。満々の笑みで誇らしげに席につく祐巳ちゃんの顔を、

聖は呆れたように見てる。祐巳ちゃん・・・嬉しいけど・・・嬉しいけど・・・わ、私がジュリエットなの?

私はあんぐりと口を開けたままの蓉子ちゃんを見て苦笑いを浮かべるしかなかった。

「ゆ、祐巳ちゃん?でもね、私は結構当日忙しいの・・・だからとてもじゃないけど主役なんて・・・」

「いいえ、蓉子さま。主役はSRGですよ!それに・・・生徒達もきっと喜びますよ!」

「そ、そうかしら?で、でも私は良くてもSRGがなんて言うか・・・」

そう言って蓉子ちゃんはチラリとこちらを見た。その手前で祐巳ちゃんが私を見てにっこりと笑いかけてくる。

こ、これは・・・もしかしなくても祐巳ちゃんは私の事を思って配役を決めてくれたんでしょうね・・・。

まぁ、確かに。いつまでもグズグズしてたって始まらないのは分かってる。自分でも。

チラリと聖を見ると、聖は相変わらず呆れ顔。そりゃそうか。

多分この子は私と蓉子ちゃんの関係なんてどうでもいいと思ってるでしょうし。

私は心を決めた。それによくよく考えてみれば今回のこの劇で何か変わるなんて誰にも言えないし、

何も変わらないかもしれないんだし・・・よし!決めた!

「私は構わないわよ、別に」

「「「「「おー!!」」」」

私の答えに皆が感心したように一斉に蓉子ちゃんを見詰める。さぁ、蓉子ちゃん。後はあなた次第。

やたらにドキドキするのは、多分気のせいじゃない。だって、ロミオとジュリエットなんて王道中の王道だし。

私は蓉子ちゃんをじっと見ていた。そんな私の視線に気付いたのか、蓉子ちゃんはチラリとこちらを見てゆっくりと頷いた。

「・・・分かりました。私はロミオをやります。SRGはジュリエットをお願いします」

よし!よし!よし!よしっ!!!心の中で激しくガッツポーズをした私に気付いたのは、恐らく祐巳ちゃんと聖ぐらいだろう。

でも、すぐさま我に返っていつもみたいに微笑む。

「ええ、よろしくね」

「・・・はい」

それから、私達の猛特訓は始まった。私はありえないぐらいのドレスを着て、

蓉子ちゃんは格好良い衣装で颯爽と私を追いかけてきてくれる。ああ・・・これが現実ならいいのに。

心の中で何回この台詞を飲み込んだか分からない。それほど、私は気がつけば蓉子ちゃんが好きだったのね・・・。

窓の外に沈む夕陽に見惚れながら、私はポツリと言った。

「ねぇ、蓉子ちゃん。王子様は・・・いつか現われるものだと思う?」

窓枠に肘をついて呟いた私の台詞に蓉子ちゃんは目を丸くする。私は、視線を蓉子ちゃんに向けることが出来なかった。

だって、きっと今見てしまえば心の中をあっさりと読まれてしまいそうな気がしたから。

「SRG・・・結婚・・・したいんですか?」

「・・・は?」

「いえ・・・だって、王子様が来てくれるのを待ってるんでしょう?」

「いや・・・あの・・・そうじゃなくて・・・」

「まさか・・・既にお相手が!?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

違うんだけど・・・そうじゃなくて・・・。私はガックリとうな垂れた。この子・・・もしかしなくても相当鈍い。

王子様か・・・私はそんなの待ってない。どっちかっていうとお姫様を待ってるんだけど。

これはやっぱり、ちゃんと言わなきゃ伝わらないのかもしれない。特に・・・蓉子ちゃんには。

私は立ち上がって蓉子ちゃんを真っ直ぐ見詰めた。すると、蓉子ちゃんも何故か私を真っ直ぐ見つめ返してくれる。

こ・・・これは・・・いけるかも・・・そう思った。だって、あまりにもその目が・・・真っ直ぐすぎて。

「蓉子ちゃん!実は・・・私・・・」

「SRG・・・すみません、気がつかなくて」

「いえ、いいの。何も言わない私が悪かったんだもの。あのね、実はね・・・」

「いえ、分かってます。そうでしたか・・・SRGが・・・」

「ええ、そうなの!分かって・・・くれたのね?」

「はい・・・」

「蓉子ちゃん・・・」

私は細い蓉子ちゃんの手をキュっと握った。蓉子ちゃんの手は・・・冷たかった。

そんな私の手を強く握り返してくれる蓉子ちゃん。でも何故かその顔はあまり嬉しそうではなくて・・・。

でも、ああ・・・これで私も報われる。

「それじゃあ・・・練習再開しましょうか」

「ええ、そうね」

やった・・・ついにやったわ!!聖!!祐巳ちゃん!!特に祐巳ちゃん、ありがとう!!

あなたのおかげで通じたわ!!私の心が!!!!!!!

それからというもの、私は毎日毎日蓉子ちゃんと二人きりで練習した。

何も無かったけど、それでも私にはそれが最高のデートだった。

だって、好きな人とずっと一緒に居られる事ほど幸せな事はない。

長い長い台詞も蓉子ちゃんに宛てたものだと思えばいくらでも覚えられたし、私はもうとにかく夢中だった。

これが劇の練習だって事も、すっかり忘れてしまいそうなほど・・・。


第百八十話『The truth or lie』


「ていうかさ、どうして私が蓉子の相手役なのよ?」

聖さまは不機嫌そうに保健室にやってきてこんな愚痴を言った。でもね、それを言いたいのは私の方。

だって・・・聖さまの演じるロザラインと蓉子さまのロミオ・・・濡れ場があるんだもんっっ!!!!

聖さまは台本を何度も何度も読み返しては、その場面の反対ばかりしていたけど、結局それは却下になってしまった。

まぁ、濡れ場と言っても大したシーンじゃないんだけどね、もちろん。

でも・・・演技って分かってても、なんか嫌。

だから私も、もちろん蓉子さまも台本書いた江利子さまに文句を言いに行ったんだけど・・・。

『ダメ。変えない。ていうか、そっちのが面白いじゃない?』

この一言で結局決定。ちなみに私の役は・・・ロミオの友達で殺されるマーキューシオ。

絶対私に出来る訳ない。それはもう、間違いない。だって、こんな言い争いが例えお芝居でも私に出来る訳ない。

ついでにその事についても江利子さまに言いに行ったんだけど・・・。

『そっちもダメ。もう決定。だって、その方が面白いし』

江利子さまはほんと、全ての事を面白いってだけで決める。これはこれでいかがなものかと思うんだけど・・・。

「祐巳ちゃんはまだいいよ・・・私なんて・・・私なんて・・・こうなったら、何が何でもさっさと終わらせてやるわ。

事と次第によっては、勝手に台本も変えてやる!」

「せ、聖さま・・・それは流石にちょっと乱暴なんじゃ・・・」

「いいの。あいつ、私がどんな芝居するか楽しんでるだけなんだから」

聖さまは、一度言ったら絶対に聞かない。私はそれをよく知ってる。だからこそ、この劇が多分、

とんでもない事になるだろう事なんて、何となく予想がついてた。多分、・・・それは江利子さまも。

だから気付かなかったんだ。ここのところSRGの機嫌はすこぶるいいって事に。

そして、それとは反対に蓉子さまの機嫌が・・・あまり良くない事にも。

練習を始めて一週間が過ぎたある日の事。私は理事長室の前で立ち止まった。

持ってた出席簿と資料がバサリと束になって落ちる。

「う・・・そ・・・そんなの・・・嘘よ・・・」

クルリと踵を返した私は、この事を誰に言えばいいのか分からなかった。怖くてSRGには聞けない。

だからと言って、聖さまにも聞くことが出来なくて・・・。私は俯いたままトボトボと保健室に戻った。

さっきの蓉子さまの台詞が脳裏を過ぎる・・・。

『SRGは・・・学校を辞めてしまうかもしれません・・・』

どうして!?だって、あんなにも蓉子さまの事好きだったのに、どうして辞めちゃうの?

そしてふと思った。もしかしてSRG・・・必死に明るく振舞ってるけど、実はもう蓉子さまに気持ちを打ち明けたのかも。

で、振られちゃった・・・とか?だからいっそ辞めちゃおうとか思ったのかも!!

もしそうだとしたら・・・どうしよう!?私、そんなの嫌だよ!!自然と涙が溢れてきた。

SRGには、本当にお世話になった。今までずっと。聖さまも私をいつも気にかけてくれてたけど、

SRGはいつもそっと見守ってくれてたような気がする。あんなにも素敵な人を振るなんて!

蓉子さま・・・見る目がないよっ!!あんまりだよっっ!!!

「どうしよう・・・辞めちゃったら・・・どうしよう・・・」

私は涙を拭って鼻をすすった。こんな事、誰にも言えない。

もしかしたらSRGが学校を辞めちゃうかもしれないなんて事・・・絶対に・・・言えない。

それに、口に出してしまえばその瞬間に現実になってしまいそうで辛かった。

SRG。お願い・・・辞めたりしないで・・・。そう思う気持ちと、振られた時の辛さが思うよりも痛いって気持ちも分かる。

だからこそ何も言えない自分が憎かった。だってそうでしょう?なんて慰めればいい?私には・・・何も言えないよ。

だって焚き付けたのは私だもん。全く責任が無いって言ったら、きっと嘘になる。

私は机に突っ伏して泣いた。SRGは大好きなんだ。本当に。聖さまへの愛情みたいなのではないけど、

お姉ちゃんの居ない私にとって、SRGは本当にお姉さんみたいな存在だった。

私は余計な事をずっとしてきたのかもしれない。役に立とうとして、それどころか関係をぶち壊すなんて・・・。

「私は・・・バカだ・・・ほんっとに、救いようのないバカ・・・」

良かれと思ってした事が、相手にとっては重荷になることがあるって事をちゃんと分かってるつもりなのに、

どうしてちゃんと出来ないんだろう。その時だった。誰かが保健室のドアをノックした。

私は慌てて涙を拭いて出来るだけ明るく返事しようとしたけど、やっぱりどんなに頑張っても鼻声で・・・。

「ど、どうしたの?何泣いてるの!?もしかして・・・また聖に何か言われた?」

SRGだった。私は小さく首を振って笑顔を繕う。でもその笑顔を見たSRGはすぐさま私の元に駆け寄ってきて、

真新しいハンカチをそっと差し出してくれる・・・ああ、やっぱりこの人は優しい。

もしも聖さまに逢ってなくて、この人に会ったら、もしかしたら好きになっちゃってたかもしれないと思うほど優しい。

「大丈夫?一体何があったの?」

「ちがっ・・・本当に聖さまの事じゃ・・・ないんです・・・」

私が泣いてるのはあなたの事なんですよっ!どれだけそう言いたかったか。

でもSRGが決めた事に私が口出すのは間違ってると思うし、何よりも私が手を出してSRGが振られたのなら、

なおさらもう余計な事は出来ない。私はSRGの顔をじっと見つめた。

「本当に・・・大丈夫?あのね、私、祐巳ちゃんに話したい事があって来たんだけど・・・今ちょっといいかしら?」

「・・・・・・・・・・」

ほら、きた。きっと、辞めるって言うんだ・・・私は俯いて無言で頷いた。そんな私の肩をSRGが優しく撫でてくれる。

涙がまたボロボロと零れ落ちて、もう当分止まりそうに無い。そんな私を見たSRGは苦笑いして言った。

「まだ話すべきじゃないかしらね?」

「いえっ・・・そんな事は・・・」

そりゃ正直あんまり聞きたくない。だって、辞めるだなんてそんな事・・・でも、聞かない訳にもいかない。

いつまでもこんな風にグチグチ泣いてたって状態が良くなる訳でもないし、ましてや悪くなる一方だもん。

でもね、聞きたくない真実ってのもやっぱりある訳で・・・私はキッって顔を挙げた。

そしたらSRGは何故か・・・笑ってたんだ。ていうよりも、微笑んでた。何故か凄くすっきりした顔して。

ああ・・・そうなんだ・・・SRG・・・やっぱり・・・気持ちは一つなんですね?そう思ったらもうダメだった。

私はSRGに抱きついてワンワン泣いてた。

「辞めないでくださいっSRG!!私、私・・・そんなの・・・嫌です!!」

「・・・は?誰が辞めるの?」

「・・・へ?」

SRGの胸に顔を埋めた私は、顔を挙げてSRGの顔を覗き込んだ。でもSRGは私を見下ろして不思議そうな顔してる。

えっとー・・・ちょっと待って?えっと・・・辞めない・・・の?もしかして。じゃあ・・・あの蓉子さまの言葉は・・・。

私は昔から早とちりが得意だった。そして・・・注意力も散漫。保健室のドアの所で、誰かが何かを落とした。

「おね・・・さま?祐巳・・・ちゃん?」

「「聖(さま)っ!?」」

「・・・・・・・・・・」

無言で踵を返した聖さまは落としたお弁当箱も拾わずそのまま保健室を出て行ってしまう。

それを見て慌てたのは私よりもSRGだった。ガタンと立ち上がって私の身体をそっと離すと、そのまま後を追おうとする。

でも、それは私の役目だった。今回は。私はSRGの腕を掴んで静かに首を振った。

「祐巳ちゃん?」

「私が・・・追います。今度はちゃんと、自分で聖さまを連れ戻してきますから」

あれはまだ私達が付き合い始める前。その時もこうやって聖さまは私とSRGを誤解して保健室を飛び出した。

あの時、私は追わなかった。だって、それは私の役目ではなかったから。

でも・・・今回は違う。今回は聖さまを追うのは私の役目。あのときみたいな想いは・・・もうしたくない。

私の言葉にSRGは頷いた。そしてそっと私の背中を押してくれる。渡されたのは聖さまが落としたお弁当。

私はそれを受け取って保健室を飛び出した。もう、あんな想いは・・・嫌。やっぱり私にとっての一番は聖さま。

だから、聖さまは・・・私がちゃんと追いかけなきゃダメなんだ。

どれぐらい走ったのかな。いや、多分実際にはそんなに走ってないと思う。だって聖さまが行くとこは何となく分かってたから。

屋上の壊れた鍵のついた窓をまたいで、私は屋上にでた。もうすっかり空気は秋でちょっと肌寒い。

ブルルと震えた私は屋上を見渡したけど誰も居ない。でも聖さまは絶対ここに居る。

屋上のさらに上。梯子を上った先に聖さまは居た。足組んで転がって真っ直ぐ空を見つめてる。

「風邪ひきますよ」

「別にいーよ」

「いいって事はないでしょう?」

「構わない。いっそ寝込みたい気分だから」

私をチラリとも見ずに聖さまは言った。語尾が少し怒って聞こえるのはきっと私の気のせいじゃないと思う。

「隣、座ってもいいですか?」

すると聖さまはチラリと私を見てまた空に視線を戻した。多分、勝手にすれば?とか思ってるんじゃないのかなぁ。

私は梯子を上りきって聖さまの隣に腰を下ろして、聖さまみたいに転がってみた。

澄み切った秋の空はどこまでも高い。流れる雲がどんどん通り過ぎてゆくのを、私はじっと見つめてた。

聖さまが今何考えてんのか考えながら。

「曇ってさー・・・人の心と同じ。どんどん流れてくんだよね」

突然、聖さまがそんな事言い出した。私は驚いて聖さまを見て思わず首をかしげてしまう。

そんな私を知ってか知らずか、聖さまはどんどん話を進める。

「心が変わるのは誰にも止められない。例え、どんなに頑張ってもね。でもね、絶対に諦めたくない事だって・・・あるの。

私にとってはそれが祐巳ちゃんなんだけど、でも・・・もしかしたら祐巳ちゃんはそうじゃないのかもね」

溜息交じりに漏れた聖さまの声。それは流れる雲よりも早く私の心に届いた。どうしていいか分からない私は、

聖さまに何も言えないままただ黙ってるしかなくて・・・でも、そんな私の態度が余計に聖さまを傷つける。

「私さ、今まで多分こんなにも誰かを好きになった事って無かったと思うの。だから余計に実感が湧かないんだよね。

一緒に居る事が、こうやって追いかけてきてうれる事が、一緒に暮らしてるのが。

いつか私達はお互いを空気みたいに思ってしまうのかな?・・・それってさ・・・寂しいよね」

「私は・・・聖さまを空気みたいに感じた事は一度もありません」

「そう?でも、何も教えてくれないじゃない」

「そ・・・それは・・・」

「私なら分かるだろう、とか、そんな風に思ってるんなら・・・間違えてるからね」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

はっきりと、心の中で思ってたことを言われた気がした。私の甘えをズバリとついた聖さまの言葉は、

多分今まで聖さまがずっと私に感じてきた不満だったんだろうと思う。淡々とした聖さまの言葉。

でも、本当はとても・・・寂しそうな声。私は思わず聖さまに抱きついた。

でも聖さまはそれについてはまるで何も感じないみたいに抱き返してもくれない。

「せ・・・さま?」

「必死になって祐巳ちゃんを追い出そうとしたの、昔。どんどん好きになってく自分が怖くて。

でも出来なかった。結局私は祐巳ちゃんを好きだと自覚して、そしてまた失う。

いくら空気みたいに思おうとしたって、それは無理。だって、祐巳ちゃんはいつも触れられるとこにいるんだもん。

だから自分のものみたいに感じちゃう。祐巳ちゃんにも感情は・・・あるのに」

「聖さま・・・聞いて・・・」

「でも!我慢出来ないのよっ!!私はどうすればいい!?こんなにも好きになって、私・・・どうすればいいのよっ!!」

聖さまは聞いてくれなかった。私の肩を強く掴んで睨みつけてくる。私は・・・腹が立った。

聖さまにじゃない。いや、聖さまにもだけど。あまりにも身勝手な自分自身に。それと同時に凄く悲しかったんだ・・・。

だってさ・・・それって結局私の事信用してないって・・・そういう事?そんな風に思ったら凄く悲しくて。

「私・・・聖さまが好きなんです。聖さまじゃなきゃ嫌なんです。でも・・・聖さまは私の事心配ばかりしてる。

私・・・そんなに信用ない・・・ですか?」

私の言葉に聖さまは黙り込んだ。何も言わないでただ黙って俯いた。それは・・・肯定・・・だったのかもしれない。

「聖さま?」

嘘でもいいから、そんな事ないよって言って欲しかった。でも、聖さまは嘘は・・・つかない。重要な嘘は決してつかない。

私はそれをよく知ってた。だからそれ以上はもう何も聞けなくて。

「祐巳ちゃんは私を信じてるの?」

ポツリと呟いた聖さまの言葉。私は考えた。そうだ・・・自分はどうなんだろう?って。

だって私だって相当なヤキモチを妬く部類に入るから。だから聖さまの言葉に私は声を詰まらせた。

「・・・分かりません・・・」

「・・・だよね。今までの私を知れば、きっと誰でもそう言う。いくら言葉で否定したって・・・ダメ・・・なんだよね・・・」

聖さまの声は泣きそうだった。それほど震えてたんだ。


第百八十一話『弱さ』


祐巳ちゃんはいつも何かに怯えたみたいな顔をして私を責める事がある。

いや、責めるとはちょっと違うか。何ていうか、そう、尋ねてくることがある。

それはあの事故からさらに激しくなったような気がする。目を潤ませて途切れ途切れの言葉で私を探る。

探られるのは別に嫌じゃないし、責められるのだって怖くない。ただ、哀しそうな瞳を向けられるのだけが怖い。

また私は失敗するのかな。そしたら今度はどうなるんだろう。

いつもそんな風に考えてた私こそが、誰よりも将来に怯えてたのかもしれない。

繋がりのない未来。約束の無い未来。

自業自得とはいえ、今までしてきた自分の態度をそう簡単には許せるはずがないだろうという、

半ば諦めにも似た気持ち。祐巳ちゃんが信じてくれないんじゃない。そう、私が信じてないんだ。

だから祐巳ちゃんはそんな私の心の中を探っていつも怖がってたのかもしれない。

「聖さま?」

「なぁに?」

「まだ・・・怒ってます?」

「・・・いいや」

流れる雲を見上げながら、私は呟いた。人の気持ちと同じように流れてくだけだなんて言ったけど、

本当は人の気持ちはそんなにも早く流れない。何かが無い限り・・・きっと。

こんな時、私はいつもどうしてたかな。どんな風に距離を取ってたっけな・・・。

それすら思い出せないほど、祐巳ちゃんって存在はもう私の一部みたいなもの。

だからこそ、こんな時は・・・ゆっくりと身体を起こした私に習って祐巳ちゃんも身体を起こして、私を見上げる。

「ちょっとだけ・・・距離おこっか」

「・・・は?」

「だから、私達、お互い冷静になれないまま付き合いだしたじゃない。

よく考えれば、今までこんな話にならなかった事の方が不思議だよね」

「・・・聖さま・・・言ってる意味がよく・・・分かんないんですけど・・・」

怪訝そうな泣きそうな祐巳ちゃんの顔。まるで置いてきぼりにされた子犬みたいな顔してる。

でもね、私思ったんだ。ただ心の中で決意しただけじゃ、何も変わらないって。

いくら考えてたって気付くはずないよね、そりゃ。だって、何だかんだ言ってもずっと一緒に居るんだもん。

それじゃあやっぱりダメ。どれだけ私が祐巳ちゃんを想ってるのか、祐巳ちゃんが私をどれぐらい想ってくれてるのか、

ちゃんと真剣に考えなきゃ・・・いけないんだ。

「あのね、少し離れようって言ってるの。私が実家に帰るか、祐巳ちゃんが一旦実家に戻るか、どっちがいい?」

突然の私の言葉に祐巳ちゃんの目が点になった。そして次の瞬間、涙が溢れてくる。

しばらく私達は無言でお互いの顔を見つめていた。

でも、私の心を知ったのか、祐巳ちゃんはゆっくりと立ち上がって小さく微笑む。

「私が・・・実家に戻ります・・・だから・・・聖さまは今まで通り・・・あそこで暮らしてください」

こんな時の祐巳ちゃんはとても潔くて格好いい。私がもし祐巳ちゃんの立場なら、きっとこんな風に言えないし笑えない。

でも私は真剣だった。今度こそ本当にちゃんと祐巳ちゃんの事を考えなきゃいけない。

「分かった。じゃ、そうしよう」

「ええ、それじゃ」

「うん・・・じゃね」

祐巳ちゃんが立ち上がって梯子をゆっくりと降りて行くのを私はじっと見つめてた。

姿が見えなくなってようやく、私は自分が泣いてる事に気づいて・・・そっと唇に触れると冷たい。

「キスぐらい・・・してってくれてもいいじゃない・・・祐巳ちゃんのバカ・・・」

ああ、もう!自分から言い出した事なのにもう後悔してるなんて知ったら、祐巳ちゃんは何て言うだろう。

笑うかな?それとも呆れる?もしかしたら抱きしめてくれる?・・・なんて、ある訳ないか、そんな事。

涙は拭かなかった。そしてそのまま、また仰向けに転がって空を見上げた。いつの間にか灰色の雲に変わってた。

雨雲は周りの小さな雲を吸い込んでどんどん大きくなってゆく。

そしていつの間にか私の視界はどんよりと薄暗い雲に覆われてしまった。

「こういう雲はなかなかどっか行かないんだよなぁ・・・」

いつまでもいつまでも私の上に居て、気分をさらに悪くさせるんだ・・・いっつも。

祐巳ちゃんは私がもう祐巳ちゃんの事を好きじゃないって思ったのかもしれない。

でも、そうじゃない。そうじゃ・・ないの。どうか、神様、祐巳ちゃんが変な誤解してませんように・・・。

家に帰ったらもう既に祐巳ちゃんは居なかった。テーブルの上に置かれた今日の晩御飯。

冷蔵庫には一週間分ぐらいの食料が入ってる。劇の練習はパートに別れて進める。

だから出番が一緒にならない私と祐巳ちゃんは、ここんとこずっとバラバラに帰ってた。

大抵祐巳ちゃんのが先に終わるから、晩御飯の支度をして待ってくれてたんだ・・・昨日までは。

でも、テーブルの上に置かれたメモはそんな私と祐巳ちゃんの距離を表したみたいに儚い。

『とりあえず、晩御飯は作っておきました。明日からは・・・ちゃんと自分で作ってくださいね。

それと、冷蔵庫の野菜室に白菜が入ってますが、それは20%OFFで買ったので、なるべく早く食べてください。

P・S風邪・・・引かないよう気をつけて。   祐巳』

「・・・祐巳ちゃん・・・」

さりげなく優しい祐巳ちゃん。どんだけ子供扱いすんのよ、私の事。

気付けば私は車の鍵を持って玄関のノブに手を掛けていた。

多分・・・迎えに行きたかったんだと思う。でもそんな自分を戒めたのは、私の中の祐巳ちゃんで。

『聖さま、一度決めたんでしょう?』

「うん・・・そうだった」

いつからか私の中に住み着いた祐巳ちゃんは最早、妄想の粋に入ってるって言っても過言ではない。

久しぶりに一人きりの我が家。ここって・・・こんなにも広かったっけ?部屋を見渡してみても誰も居ない。

当たり前だけど寂しい。部屋の内装は大して変わってないはずなのに、祐巳ちゃんが来るまではこれが当然だったのに。

部屋の真ん中で立ち尽くした私はその場にしゃがみこんで体育座りをしてた。長い間ずっと・・・。

祐巳ちゃんが持ってきたクッション、ティーカップ、食器棚が私を無言で責める。

二人で使おうと思って買った大きなベッド、ソファ、テーブルが私を睨みつける。それでも私は動けなかった。

家具達の声は私には届かない。いつまでもいつまでも・・・。

私、こんなに弱かったっけ?いくら自分に聞いてもその答えを誰もくれなくて。

「何やってんのかな・・・私・・・」

つかさ、どうして私こんなやり方しか知らないんだろ・・・そんな自分に嫌気がさしてくる。

追い出して何が変わるのか、何も変わらないのか。そんなの誰にも分かんない。

ただ分かるのは、私は昔に戻りたいだなんて全く思ってなかったって事。

祐巳ちゃんと居てたまに一人になりたくなる事があったけど、

でもそれは必ずそこに祐巳ちゃんが居てくれるって分かってたからで、

こんな風に全く一人になってしまうのは全然望んでなかったんだって事・・・。

ああ・・・私はなんて弱い人間なんだろう。いや、人間なんて案外こんなものなのかな。

弱みを作ってしまった。いつの間にか知らない間に。祐巳ちゃんという人を愛してしまう事で、

私は本当に・・・弱くなってしまった。これがいい事なのか、それとも悪い事なのか。

確かに祐巳ちゃんが強みになる事もあるけど、大半は弱さに繋がってしまう。

だからこそ、少し距離を置こうって思ったんだ。でも、それは間違いだったのかな・・・もう、分かんないよ・・・。

その日、私は一人であの大きなベッドで眠った。

でも夜中に何度も目が覚めて結局夜明け前に自分の部屋のベッドで眠ったんだけど。

朝、いつもみたいに祐巳ちゃんが居る時の癖で寝てたら案の定遅刻して、朝っぱらから蓉子に怒鳴られて。

祐巳ちゃんは苦笑いしてそんな私を見上げてた。

だから小さなウインクをしてみせると祐巳ちゃんは真赤になって俯いてしまって・・・。

ほんの一晩離れただけなのに、何だろうこの新鮮さは。不思議だった。私は同じ子にもう一度恋に落ちたんだ。

それが何だか恥ずかしくてそっと視線を伏せると、蓉子は何を勘違いしたのか私の肩をポンと叩いてお説教を止めた。

放課後、珍しく私の方が祐巳ちゃんよりも先に劇の練習が終わった。適当にやてれば早く帰れるって事に気づいたんだ。

「さて、祐巳ちゃん待たなきゃ・・・っと、そうだった。待たなくていいんだっけ・・・」

車の鍵をグルグル回しながら私はそのまま歩き出した。隣の教室では祐巳ちゃんが刺されるシーンを演じてる。

ドアを開けて顔を出すと、祐巳ちゃんはパァって顔を輝かせた。つか・・・止めて・・・そんな顔・・・しないでよ。

私は零れ落ちそうな言葉をどうにか飲み込んで、たった一言、じゃあね、とだけ伝えてそのまま足早に教室を後にした。

車に乗る前に一度だけ祐巳ちゃんの居た教室に視線をやったけど、すぐに後悔した。

祐巳ちゃんはほんの少しだけ首をかしげて唇を噛み締めて・・・泣き出す一歩手前の顔してたから・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あれから一週間。ある日、家に帰ったら郵便受けに何かが入ってた。裏返して宛名を見たら、それは静からのエアメール。

私は荷物を玄関に放って静からの手紙を開けた。簡素な便箋はいかにも静らしい。

『聖さま、祐巳さんへ。  お久しぶりです、お元気ですか?私は相変わらず毎日毎日歌ってます。

今回突然こんな手紙を書いて、聖さまも祐巳さんもきっと驚いてるんでしょうね。でも、どうしても言いたいことがあったので、

手紙を書かずにはいれませんでした。聖さまは以前、私に言いましたよね?祐巳さんとの関係について、ケジメをつけたいと。

私、あれからずっと考えてたんですが、聖さまと祐巳さんは今のままでも十分な繋がりがあると思うんです。

だから聖さまにとってケジメと言うのは、きっととても難しいものなんでしょう。

ですが、私から見た二人はもう、そんな迷いなど無い様に見えるのです。

祐巳さんとしてるメールのやりとりを見ている分には、ですが。

聖さま、祐巳さん、一番大事なのものを・・・見失わないでくださいね。いつまでも私が羨むような恋をしていてくださいね。

そして・・・いつか結婚式をどこかの教会で挙げる事があれば、教えてください。

私、その時は必ず二人だけのために歌いに行きますから   静』

手紙はそれで終わってた。私は手紙を何度も何度もそれこそバカみたいに何度もその手紙を読み返して、思った。

私にとって一番大事なもの。それは祐巳ちゃんだったはず。それなのに、何かが目隠しして私達の仲を邪魔しようとして。

それは紛れも無い私自身。私は目を閉じた。私たちの事を認めてくれてる人が居るという事がどれだけ心強いのかって事が、

今ようやく理解する事が出来た。私は大きな勘違いをしてたんだ。戦う為に祐巳ちゃんと居るんじゃない。

一生離れたくないから、私達は一緒にいるっていうのに・・・。

それは祐巳ちゃんの家族にしてもそう。認めてもらう為に私は挨拶に行かなきゃいけない。

何年かかっても説得するっていう意思が、今までの私には・・・足りなかったんだ・・・。

もうすっかり夕陽は沈んだ。窓を開けたら冷たい空気が流れ込んでくる。私はそれを胸一杯に吸い込んだ。

手にした携帯電話は相変わらず誰からもかかってこない。それどころか着信履歴も発信履歴も祐巳ちゃんばっか。

私はそのうちの一つの番号を押して相手が出るのを待った。私は、もう迷わない。私は私らしく。

自分の為に祐巳ちゃんを巻き込む。私の未来に。


第百八十二話『信じる気持ち』


実家に突然帰った私の顔を見てお母さんは言った。

「あら、一人?晩御飯作りすぎちゃったわ」

多分、私が帰るという事は当然聖さまも一緒に帰ってくるって事だとお母さんは勝手に思ってたみたい。

だから私は苦笑いして言った。

「聖さまはお仕事で忙しいから」

「あら〜そうなの?大変ねぇ・・・担任もつと・・・」

頬に手を当てて残念そうなお母さんに嘘をつくのは心苦しかった。ていうか、もう私泣きそうだった。

明日も学校はあって、嫌でも聖さまと顔を合わせるだろう。でも私・・・上手く話せるのかな・・・。

露骨に無視されたりしたらどうしよう?面と向って別れようって言われたら・・・どうしよう・・・。

そんな事ばかり考えてた私は持ってきたアルバムを開いた。蔦子さんや美奈子さんに貰った写真ばかり貼った、

聖さまと私だけのアルバムを。写真の中の聖さまは皆私に向って笑いかけてくれる。

まぁ・・・笑ってるやつばっかじゃなかったけど。それでも私達二人で映った写真の聖さまはどれも笑ってた。

呆れたような苦笑いとか、驚く私を見て大笑いとか、そんなんばっかだったけど、それでも良かったんだ。

だって、私の幸せがそこにあったから。そしてアルバムの最後を飾るのは告白された時の写真だった。

今の私から見たら憎らしいぐらい嬉しそうな顔してる自分。

「自分にヤキモチ妬くなんて・・・どうかしてるよね・・・」

アルバムを閉じた私は革の装丁の端っこを指先で弾いた。自分にヤキモチを妬く人間が他人にヤキモチ焼かないはずが無い。

私は唇をそっとなぞった。震える唇・・・聖さまとキスしたいよ・・・。

「う・・・せ・・・さま・・・ひっく・・・」

聖さまに逢って、今までどれぐらい泣いたかな。どれぐらいキスしたかな。目を閉じるとすぐにでも思い出せるのに、

傍に居ないなんて。こんなのおかしいよ!だって、こんなにも好きなのに!!どうして私達・・・繋がってられないの!?

「どうしてよっ・・・どうして出てけなんて言うのよっ!!!聖さまの・・・聖さまのばかぁ・・・」

ばかって沢山言った。嫌いって沢山言った。でも、どれも本気で言った事なんて無かったのに。

それでも聖さまは私の傍にずっと居てくれたのに。

いつの間にか私はそんな聖さまに甘えて、心のどこかで許してくれるって思ってて、

聖さまの気持ちなんて考えた事も無かったのかもしれない。愛があれば、好きでさえいれば大丈夫だなんて、

それほど儚いものもないのに。だから私はいつも怖かった。本当はね・・・ずっとずっと怖かったんだよ、聖さま。

何か聖さまとの繋がりが欲しくて仕方なかったんだよ。皆の前で誓いのキスをして、指輪を交換して。

それが私の小さいころからの夢で、聖さまとそれを叶えたいっていつからか思ってて。

聖さま以外じゃありえないとか・・・思ってて・・・。勝手にだけど。聖さまはいつも何考えてんのか分かんない。

だから余計に本心を知りたくてわざと試したりしたけど、その事に聖さまがどんな風に感じてるかなんて、

私・・・考えた事も無かった。ううん、考えてた。でもね、足りなかったんだ、きっと。聖さまって人をまだ、よく知らなかった。

それを知ったつもりで居たんだ・・・私は。ねぇ聖さま・・・私、あなたを忘れる事なんて出来ません。

私達の未来が並んでるのかどうかさえ分からなくて、私はまた泣いていた。聖さまの少しがどれぐらいの時間なのか、

私には分からなかった。もしかしたら、聖さまもこんな風に泣いてくれてるかもしれない。そう思うと、心は少し楽になる。

でもそれはほんの少しの間だけの事。すぐにまたあの嫌な感じの怖さがやってきて私を連れていこうとする。

「聖さま・・・聖さまぁ・・・聖さまぁぁ・・・」

枕に顔を押し付けて誰にも聞こえないように叫んだけど、聖さまは答えてはくれない。

結局、その日は晩御飯を食べることが出来なかった。お母さんは心配してたけど、食べられなかった・・・。

私には食べろって言うくせに。どこからかそんな声が聞こえてきた気がして、何度か振り返った。

でも、そこには誰も居ない。当たり前だ。だって、ここは私の実家だもん。でもね、でも・・・本当に聞こえたんだ。

次の日、学校で聖さまは普通だった。普通すぎて私はちょっと呆気に取られたぐらい。

でも帰りは・・・待ってくれてなかった。劇の練習が先に終わった聖さまは私の練習してた教室にチラリと顔を出して、

じゃあね、それだけ言って聖さまは車に乗り込んでそのまま私を置いて帰っちゃったんだ・・・。

窓の外の銀杏並木が私を慰めるように揺れるけど、私は聖さまの車が見えなくなるまでずっと、そこから動けなかった。

蹲った私の肩を誰かが叩いてくれる。顔を挙げたら、それは瞳子ちゃんだった。

「祐巳さま、風邪引きますわ」

「ん・・・ありがと・・・」

差し延べられた瞳子ちゃんの手を取り立ち上がった私は、結局途中まで瞳子ちゃんと一緒に帰ることにした。

道中色んな話をしたけど、反対方向の電車に乗る瞳子ちゃんとは駅でお別れ。

「それじゃ、祐巳さま。また明日、ごきげんよう」

「うん、ごきげんよう・・・あの・・・」

「はい?」

「何も・・・聞かないんだね」

どうして聖さまと一緒に帰らないの?もしそう聞かれたらどんな風に言って誤魔化そうかって考えてた。

でも瞳子ちゃんは最後まで聞こうとはしなくて。何だかそれが余計に悲しかったんだ。まるで放っておかれてるみたいで・・・。

そんな私の気持ちとは裏腹に瞳子ちゃんは言った。いつもみたいに少し怒ったような表情で。

「だって、祐巳さまと聖さまが別れられるなんて思いませんもの」

「・・・・・そう・・・かな・・・」

「ええ、そうですわ。だって、学校でもずっとお互いの事しか考えてないんですもの。

そんな人達が別れられるだなんて誰が思います?今はたまたまそういう時期なだけで、

どうせ一週間もすればお二人ともケロっとしてるに違いありませんわ。

そんな人達の事をいちいち気にしてたらこっちの身がもちませんもの」

「・・・瞳子ちゃん・・・」

「それでは、ごきげんよう」

「うん・・・ありがとう」

「私は思った事を言ったまでですわ。誤解なさらないように」

「うん、だね」

私の言葉に瞳子ちゃんが今度はにっこりと笑った。その笑顔はとても優しくて可愛らしくて。でもやっぱり素直じゃない。

そこが・・・可愛いんだけど。私は顔を挙げてホームを目差した。

あの愛しい家ではないけど、瞳子ちゃんがあんな風に言うんなら私はそれを信じよう。


第百八十三話『すれ違い』


私達はいつも順調に事を運んでいたように見えていたけど、それは全部気のせいだった。

本当は私達の心はいつもギリギリに張られた危なっかしい糸の上を歩いていて、

どちらかが手を離せばあっけなく切れてしまいそうな細い細い糸にすぎなかった。

でも、そんな関係に嫌気がさしたのは私。だから今、こうしてここに居る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

電話を握り締めた私は祐巳ちゃんが電話に出るのをひたすら待っていた。

いつから私達の歯車は狂い初めていたのかなんてもう分からない。

多分、ずっと目隠ししてただけで本当は初めからあったのかも。でも、お互いそれには触れないでいたから、

今こんな事になってるに違いない。電話は誰も出ないまま鳴り続けた。

ったく、こんな時に限って電話に出ないんだから!つか、もしかしたら、無視とかされてるのかも。

そんな風に考えると何故か急に自分から言い出した事に自信がなくなってくるからいけない。

そりゃあんな事言い出した私も悪かったと思うけど!でも仕方なかった。お互い少し離れるべきだったんだ、あの時は。

私は電話を大人しく置いた。誰も出ない電話などあっても意味が無い。いつか祐巳ちゃんに言われた台詞が蘇る。

「その通りよ、祐巳ちゃん・・・今まさにその言葉をそっくりそのままお返しするわ・・・。仕方ないな、お風呂でも入ろ」

いつもなら当然のように私が髪を洗い終えたぐらいに祐巳ちゃんが入ってくる。

この一週間は誰にも文句言われずにお風呂の中で本を読んだりする事が出来た。

でも本を閉じてふと現実の世界に戻ってきた時、誰も居ない部屋を思って溜息が出て・・・。

多分ね、また私の勘違いだと思う。祐巳ちゃんとお姉さまの事。それでも責めずにはいられなかった。

自分の事を棚に上げて身勝手な台詞ばっかり浮かんできて。挙句の果てに距離を置こうだなんて、

あまりにもワガママな自分に笑いまで出てきちゃって。ほんと、私一体どうしちゃったんだろう。

昔はこんなじゃなかったはず。もっと冷静だったし、こんなにも誰かに踏み込んだ事なんてなかったのに。

お風呂から出て携帯を見たら、不在履歴に15件も祐巳ちゃんからの着信があった。

「15件て・・・」

しかもそのどれにも留守番メモが入ってる。私はその一件一件を聞いて笑ってしまった。

だんだん慌て出す祐巳ちゃんの声が何だか妙に嬉しかったんだ。

でも最後の一件を聞いて私は慌ててかけなおすはめになった。

『聖さま!?やっぱりどうかされたんですか?!い、今!今から行きますからっっ!!!』

もう本当に彼女は早とちりでおせっかい。それはずっと変わらない。

だから折り返した私の電話に祐巳ちゃんが気付くはずもなく・・・。

仕方なく、私は祐巳ちゃんの実家に電話する事にした。

電話に出たのは祐麒。多分祐麒は私の一大事だとでも聞かされたんだろう。

『さ、佐藤さん!?あ、あれ?祐巳が佐藤さんが電話に出ないって言って・・・あれ?』

「あー、まぁね。お風呂だったからね。出れないよね」

『ああ・・・お風呂・・・えっ!?ゆ、祐巳そっち向かいましたけど・・・』

その言葉に私は時計を確認して大きなため息を落とした。

「うん、知ってる。で、祐巳ちゃん車で出かけた?それともバス?」

『えっと、夜の運転は嫌だからって30分ほど前にバスで行きましたけど』

「了解。ありがとね、それじゃ、おやすみ」

『・・・お世話かけます・・・色々と』

「いいえ、どういたしまして」

電話を置いた私はそのまま車の鍵を握って家を出た。ほんと、早とちりにもほどがあるっ!

多分この時間だともうこっちに向うバスも電車も終電しかないだろう。それでも祐巳ちゃんは来ると言う。

万が一電車に乗り遅れても、彼女はきっと歩いてでも来ようとすると思う。それだけは何とかして阻止したい。

つうか、どうして家でじっとしてないかな。こんな時間にフラフラうろつくなっていつも言ってるのに!

なんっか・・・腹立ってきた・・・おまけに寒いし!!車に乗り込んでそのままマンションの駐車場を物凄いスピードで出る。

そしたらほんの少しはスッキりするけど、ふと我に帰って止めた。こんな運転してるってバレたらまた怒られちゃうし。

いや、いやいや、よく考えたらここは私が怒っても全然いいとこだよね?

「ったく・・・次から次へとほんとに・・・」

駅についたのはそれから10分もしなかった。ロータリーの駐車場の所で他の車に紛れて待ってた私は、

ふとあることに気付いた。ここで待ってても祐巳ちゃんが気付かなかったらどうすんの?って。

車はちらほらとしかないし、多分普通なら気付くと思う。でも・・・相手はあの祐巳ちゃん・・・だもんなぁ・・・。

「気付くわけないか・・・ああ、もうっ!!!!」

ドアを乱暴に開けて車から降りた私はいつ来るかも分からない彼女を待つため、駅の改札口で震えながら待つことにした。

お風呂あがりだから寒いし、髪も半乾きだからもうこれで風邪引かなかったら嘘だと思う。

もしも風邪引いたら祐巳ちゃんを散々こき使ってやる・・・そんな事を考えながら一人で待つ駅の改札口はとても静か。

おまけにさっきから頭の中で回るのは何故か蛍の光。もうどうしようもなく寂しい訳。

自分が今何やってんのか、とかそんな事よりもただひたすら寂しくて・・・。

好きで好きで堪らないから早く逢いたい!!とか、そんな風に考えられるほど私は若くない。

どっちかっていうと、今の私を占めてるのは無鉄砲な祐巳ちゃんに対する怒りの方が大きいと思う。

それでもこの寒いなかこんなとこで待つ私は、何だかんだ言ってもやっぱり祐巳ちゃんが好きなんだろうな。

「でなきゃ誰がこんな寒い思いまでして待つもんですかっ」

やがて終電の電車が駅のホームに入って来て、ちらほらと人が降りてきだした。

そしてその中でも一番パジャマっぽくてなりふり構わず改札を抜けてくる人物が居て、思わず私は心の中で願ってしまった。

どうか祐巳ちゃんがあれじゃありませんように・・・と。でも、私のしょうもない願いなど神様が聞いてくれる訳がない。

「祐巳ちゃん・・・どうしよ・・・声、かけたくない・・・」

パジャマの祐巳ちゃんは周りの人からの冷たい視線などものともせず勢いよく改札口を飛び出して、

バスのロータリーに向って走り去ろうとする。ここに私が立っているのにも気付かずに!

だから私は慌てて追いかけた。でも祐巳ちゃんはさらにスピードを上げて走り出す。くそ・・・どうして逃げるのよ!?

私が祐巳ちゃんを捕まえたのは交差点を祐巳ちゃんが物凄いスピードで渡ろうとしたときだった。

「ぎゃうっ!!」

叫んだ祐巳ちゃんは必死になって私の腕から逃げようとする。でも私は離さなかった。そりゃそうよね。

やっと捕まえたのに今離しちゃ意味ないし、車止めてるのこっちだし。それでも祐巳ちゃんは抵抗を止めなかった。

それどころかさっきよりもじたばた暴れて足が私にバシバシ当たる。もしかして・・・私に気付いてない・・・とか?

あり得る。祐巳ちゃんならあり得る。大きなため息を落とした私は、祐巳ちゃんの頭に軽いゲンコツを落として言った。

「ちょっと!痛いってば!」

「・・・へ?」

私の声に祐巳ちゃんは我に返ったのか、恐る恐る私を見上げた祐巳ちゃんの顔が強張ってる。ヤバイ・・・そんな顔。

でも、次の瞬間、その表情が崩れて祐巳ちゃんがその場にへたり込んでしまった。

「聖さま・・・でしたか・・・」

「そうよ。誰と勘違いしてたのよ?」

「いや〜・・・痴漢かと・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

ち、痴漢・・・まぁ、確かに。突然腕引っ張られたらそう思うかもしれない。

でもね、でもさ、どこの誰がこんないい歳して派パジャマ姿の人襲うってのよ?むしろ怖くて近寄れないわよ。

誘ってるとかそういうの通り越して何の罰ゲームかと思っちゃうって普通。

「まぁ何だっていいわ。とりあえず無事で良かった」

「それはこっちの台詞ですよっ!!どうして電話に出てくれないんですかっ?!」

「どうしてって・・・先に出なかったのそっちじゃん」

「わ、私はお風呂に入ってたんですっ!」

「私もよ。だから祐巳ちゃんのいつもの早とちりよ。私は別に倒れてもないし、失踪もしてない」

私の言葉を聞いて祐巳ちゃんは安堵の溜息を落とした。本当に心の底からホッとしてるようなそんな祐巳ちゃんを見て、

改めて実感する。ああ、私は愛されてるんだ、と。こんなにも思ってくれる子とどうして離れようと思ったんだろう?

何を不安がる必要があったんだろう?だってさ、普通出来ないよ。電話に出ないからってパジャマで電車に乗るなんて事。

せめて着替えようよ?そう突っ込んだけどでも、その方が祐巳ちゃんらしい。

でも・・・こんな時間に外出るのはやっぱり良くない。私はもう一度祐巳ちゃんの頭にゲンコツを落として軽く睨んだ。

「今、何時だと思ってんの?」

「えっと・・・えっと・・・ごめんなさい・・・」

祐巳ちゃんは時計をチラリと見て一瞬表情を歪めてしょんぼり俯いて呟く。まるで小さな子供みたいに。

ま、仕方ない。今回の事はこれぐらいで許してやろう。私は大きく伸びをして大声で言った。

「あーあ。何かお腹減ったなぁ〜ラーメン食べたいなぁ〜」

「お、奢ります!私が奢りますからっ!!」

必死になって私の腕を掴んだ祐巳ちゃんの目は態度以上に必死で、それが可愛くて仕方なくて・・・。

「そう?じゃ、ギョーザも食べていい?」

「ええっ!もちろんですともっ!!・・・うぅ、グス・・・」

「なに?何か文句あんの?」

「い、いいえっ!とんでもないっす!!」

ビシって格好良く敬礼をした祐巳ちゃん。でも、パジャマ。しかもウサギさん柄。一体いくつぐらいから着てるんだろう?

「さ、じゃ行きますか」

「はいっ!」

一週間も離れてたのに、こうやって夜に普通に隣を歩くのがいつの間にか自然になってた。

そんな事に気づいた私は、そっと俯いて笑みを漏らす。それを不思議そうに見つめる祐巳ちゃん。

でも教えてやんない。あれだけ私に寒い思いさせた挙句、心配させたんだから。

これぐらいの罰は大目に見てくれるだろう、きっと。


第百八十四話『人それぞれ』


どれだけ離れても心は繋がってるって、いつもそう思っていたかったって言ったら、聖さまは笑うかなぁ?

少なくとも私は聖さまをもっともっと心の底から信頼とかしたかった。でも、不思議だよね。

言葉でどれだけ信頼してるって言ってても、どっかで疑っちゃう自分も居たりしてさ・・・。

それが人間ってものだよ、ってそんな風に言われたら見も蓋も無いんだけどさ、でもそれって理想だと思うんだ。

理想は幻想に近いだなんて・・・ほんと、上手い事言う。

実際、いつまで経っても聖さまを信じきれない私も幻想を抱いてただけなのかも。

そんな事を考えながらラーメンをすすっていた私の肩を聖さまが揺すった。

「ちょっと!麺!麺が凄い事になってるってば!!」

「へ?・・・うわっ!!!」

溢れんばかりの汁・・・と、麺。そうか・・・私すすってるつもりで実は全くすすれてなかったのね・・・・。

「不器用な癖にいっちょ前に考え事なんてしながら食べてるからそんな目に遭うのよ」

笑う聖さまの笑顔が、何故か優しい。距離を置こうと言ったあの日以前よりもずっと優しい。

もしかしたら聖さまは何かを悟ったのかもしれない。私ひとりを置いて・・・って、別に置いてかれた訳じゃないんだけど。

こんな時、私はいっつも聖さまが羨ましくなる。だって、聖さまはいっつも私の一歩前を歩いていくんだもん。

決して追いつけない距離ではないんだろうけど、なかなか縮まらないほどの距離をいつだって。

まぁ・・・それと同時にすんごく悔しくなるんだけど。私は聖さまの言葉にちょとだけ頬を膨らませて、

急いで麺を口の中に詰め込んだ。でも急ごうと思えば思うほど喉が詰まって・・・。

「ぐっ、ごほっ!けほっ!!」

「あーあー・・・大丈夫?ほら、手伝ってあげるから」

そう言って私の麺を自分の入れ物に移す聖さまのどんぶりにはもうスープが無い。それでも聖さまはた黙々と食べてくれた。

でもね、そんなの見てたらなんか切なくなるじゃん。

だから私は自分のスープをすくっては聖さまのどんぶりに放り込んでいると。

「ちょっと!止めてよ!!苦労して全部飲んだんだから!」

・・だって。良かれと思ってやったことが裏目に出るってこういう事を言うんだ、きっと。だから私も言い返してやった。

「つけ麺ですよ、今流行の」

「流行よりも今は食べることに専念しなってば!」

そうよね、その通りよ、聖さま。こうしてる間にも麺はどんどん膨らむんだもんね。

それから私は今までの倍の速さでラーメンを食べ始めた。冷めてちょうどいいぐらいの温度!美味しい!!

そんな私の隣で聖さまは眉をしかめてる。

「どうしました?」

「いや・・・冷めてるなぁ、と思って・・・」

「そうですか?」

「うん。これ・・・美味しい?」

「はいっ!」

「ふーん・・・人それぞれだね」

呟いてまた麺をすすり出す聖さまの横顔は本当に険しくて、思わず私は笑ってしまった。

だって、おかしかったんだ。どうでもいい事かもしれないけど、私は今まで必死になって聖さまに合わせようとしてたんだって。

だから今の聖さまの台詞はまるでそんな私の心の中を見透かしてたみたいで。

人それぞれ。分かってるんだけど、分かってない。そんな風に割り切れなくて苦しくて、何かに当てはめようとしてたのかも。

でもそうじゃないんだよね。私達は私達の付き合い方があって、

それは誰になんて言われても変える必要なんてないのかもしれないだんなてことに今更気付くなんて・・・。

「聖さま?」

「うん?」

「私・・・今日、泊まってっても・・・いいですか?」

何せ私パジャマだし。すっかり忘れてたけどさ。そんな私の質問に聖さまは少しだけ考え込むみたいに首をかしげた。

「いいけど・・・どうしたの?急に」

「何となく・・・久しぶりに聖さまの隣で寝たかったから」

「・・・なるほど。でも、寝れないかもよ?」

冗談めいた聖さまの言葉に私はにっこりと微笑んだ。だって、そう言ってくれたのが凄く嬉しかったから、冗談でも。

求められなくなるのは寂しい。でも、求めてさえくれればまだ・・・安心できる。

私の笑顔を見て驚いたのか照れたのかどっちかは分かんないけど、聖さまはちょっとだけ視線を伏せた。

「ま、別にいーけど」

俯いたまま呟いた聖さまの声はどこか投げやりに聞こえた。でも、それが本当は投げやりなんかじゃなくて、

ただの照れ隠しだって事を私は知ってる。ほらね、こんな事ならすぐに分かるのにな・・・。

ラーメンのスープを飲み干すと、どんぶりの底に『頑張れ!』って書かれてた。

多分、受験シーズン用なんだと私はすぐに思ったんだけど、聖さまはその文字を見て苦笑いして言う。

「余計なお世話よ。私はいつも頑張ってるっての」

半笑いでどんぶりに突っ込む聖さまの顔は、私には到底分からないような事を考えてる気がして少しだけ遠くに感じた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

で、ラーメンを食べ終えて家に着いたのは既に25時をとっくに回って、もうすぐ丑三つ時になろうとしてる。

「とりあえずシャワーもっかい浴びてきていい?」

「ええ、どうぞ」

自分の家なんだから別に私にわざわざ断らなくてもいいのに。なんて一瞬思ったけど、ふと思い出した。

私はこの家から今家出中だったって事を。あまりにも自然だったからついつい忘れちゃってたけど。

「はぁ・・・何だか私が居た時より綺麗・・・」

相変わらず、聖さまは毎日毎日掃除をしてるんだ、きっと。ちょっとした埃とかを見つけてはしつこくしつこく。

だって、いつだったか言ってたもんね。

『祐巳ちゃん、いい?埃はね、一つ見つけたら100はあると思いなさい!これが掃除の極意なんだから』

埃をまるでゴキブリみたいに言う聖さまの顔は超がつくほど真剣だった。それはもう、怖いくらいに。

でも、それが聖さま。私とは違う。人・・・それぞれ。

「分かってたはずなのにな・・・どうして間違ったんだろ・・・」

こんなんじゃまだまだ教師失格だ、私。誰かと一生付き合っていたいと思うのは、

その人をどれだけ認められるかって事なのに。私、何一つ分かってなかったんだ。そして、聖さまも私をあんまり信用してない。

それを悲しいとは思うけど、責めることは・・・出来ない。だって、それが聖さまなんだから。

だったら私が聖さまに疑われるような事をしなければいいだけの話・・・なんだもんね・・・。

シャワーを浴び終えた聖さまに続いて、私もシャワーを浴びた。鼻をスンってしたら、聖さまのシャンプーの匂いがする。

何だかそれが妙に懐かしくって、気付いたら涙とかがちょっとだけ零れてて、

私はシャワーを顔に思い切りかけてそれを誤魔化す事にした。だって、どう考えても泣くほどの事じゃないし。

リビングに戻ると、聖さまがソファにふんぞり返って珍しくテレビ見てた。それもお笑い番組。

「面白いですか?」

「んー・・・イマイチ。祐巳ちゃんのが面白いかな」

「し、失礼な」

私は別に笑いとってるわけじゃないんですからっ!そんな私の言葉に聖さまは笑う。

ほらね、やっぱり祐巳ちゃんのが面白いって。でもどうしてだろ・・・何だ悪い気はしなかった。

私は笑われてるんだけど、それよりも聖さまに笑ってもらえるのが嬉しかったのかもしれない。

何だか堪らなくなって後ろから聖さまに抱きつくと、聖さまはそっと私の腕を撫でてくれた。

「どうしたの?」

「・・・何となく・・・」

「そう・・・何となく・・・ね」

「うん・・・」

その言葉が最後の台詞だった。その次の言葉を話そうとした私の唇を塞いだのは聖さまの唇。

驚いて目を丸くしたであろう私の目を咎めるのは聖さまの瞳。肩眉を上げて目をつぶれって合図してくる。

「ん・・・っく・・・っふ」

目を閉じるのと同時に聖さまの舌が私の口の中にすんなりと入ってきて、まるで長い間してなかったみたいに優しく、

でも激しく口内をかき回される。声を我慢できなくて苦しいのに、それでも幸せだった。

キス一つがこんなにも幸せな気分にさせてくれるなんて、もうとうの昔に忘れてたみたいに・・・。

「キスするの、何日振りだっけ?」

「えっと・・・一週間とちょっと・・・です」

「そっか。修学旅行の時よりもしてないんだ」

「そう・・・ですよ・・・」

聖さまはもう既に私のパジャマを脱がしにかかってて、私はそれを止めようとは思わなかった。

だって、聖さまの細い指がボタンを一つづつ外してゆくのをじっと見てるだけで十分ドキドキしてたから・・・。

そんな見つめてるだけの私に聖さまは不満そうに言う。

「祐巳ちゃんは脱がせてくれないの?」

って。ほんの少し前がはだけた聖さまのパジャマ。久しぶりに見る聖さまの胸の谷間に、

私が緊張してないはずも無かったのに、こんな事言われたら・・・もう、私・・・。

「いいん・・・ですか?」

「もちろん。私が止めたことあった?」

無い。無い・・・けど・・・でも、聖さま自分がして欲しくない時は絶対に脱がないじゃない。

でも今日は脱がせてもいいって言う。これはもしかすると、聖さまなりに誘ってるのかな?

「もしかして聖さま・・・誘ってます?」

いつも聖さまが私に聞く台詞。こんな事自分から言うなんて考えた事もなかった。そんな私の言葉に笑う聖さま。

意地悪に、でもどこか挑戦的に。

「そう、誘ってるの。いつまで経っても私を求めてくれないもんね、祐巳ちゃんは」

「そんな事・・・」

「無い、とは言い切れないでしょ?でも私だって女だもん。たまにはされたい時もあるよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「あ、でも今日は別。今日はしたいし、されたいの。だから私も祐巳ちゃんを攻めるから、覚悟しといて?」

そう言って小さく首を傾げた聖さまはもう、本当に可愛かった。それに聖さまは間違ってる。私はいっつも聖さまを求めてたよ。

でも、それを言い出せなかっただけで。恥ずかしくてどう言えばいいのか分からなくて。

結局私はやっぱり聖さまに甘えてたんだ。何でも聖さまに言わせてばっかで、私は何も言えなかった。

でも、それがいけなかったんだ・・・きっと。私は聖さまの目を真っ直ぐに見つめて頷くのを見て、聖さまは満足げに笑って、

ソファから私を引き摺り下ろして絨毯の上に転がした。そのまま上から覆いかぶさってくる時に、

フワリとシャンプーの匂いがして・・・でも、それはいつもの聖さまのシャンプーじゃなくて。

「シャンプー・・・私・・・の?」

そう、それは私がいつも使ってたシャンプーだった。鼻をヒクヒクさせる私の手首を掴んだまま、聖さまが苦く笑う。

「あー・・・バレたか。だって、寂しかったからつい・・・」

ほんのちょっとだけ顔を赤くした聖さまが凄く可愛くて、思わず腕を伸ばした私はそのまま勢いよく聖さまを抱き寄せた。

聖さまはその反動でバランス崩して、そのまま私の上に倒れ込んでくる。生暖かい息が首にかかってちょっとくすぐったい。

でも聖さまの身体は凄く温かくて、まるでまだシャワーを浴びてるような気分になってしまいそうなほどで・・・。

それに、さっきの聖さまの台詞。それはまるで私の台詞でもあったんだ。

わざわざここを追い出された次の日、聖さまの使ってるシャンプーを買いにドラッグストアに走ったんだもん。

だからきっと、私の髪からも聖さまのシャンプーの匂いがすると思うんだ。

案の定、聖さまはそれに気付いたみたいに笑って私の顔を覗き込んで、困ったように笑った。

「まぁ、あれだ。お互いよっぽど寂しかったのよ、きっと」

「ええ、そうですね」

「良かった。こんなとこは思ってる事同じで」

聖さまはそう言って私の首筋に顔を埋め、舌を這わせ始める。私はその動きに耐えられなくて逃げようとするんだけど、

聖さまは離してくれない。それどころか、たまに噛んだりするもんだから・・・。

「つっ!・・・んっ、やぁ・・・」

私の反応を面白がってる聖さまの顔。得意そうな、満足そうな顔。でもたまに意地悪に笑うんだ、いつも。

何だかそれが悔しくて、私は聖さまの胸にそっと触れると、聖さまの舌が一瞬止まった。

「ん・・・ぁ・・・ん」

ほんの少し弄っただけなのに、今日の聖さまはやけに反応がいい。でもその仕返しとばかりに聖さまが胸を攻めてくる。

「やっ、ちょ・・・あぅ・・・ん・・・んぅ・・・」

「ほら、どうしたの?もう終わり?」

「そんなこっ・・・ふぁ・・・あん・・・」

触りたい・・・けど、それ以上に私も今日は何か・・・変・・・。やけに聖さまの手とか舌とか表情に感じてしまう。

指先で胸の先端にほんの少し触れられるだけで声が漏れて、自分でも熱くなってるのが分かるほどで・・・。

そんな私の反応に気を良くしたのか、聖さまは胸を口に含んで舌先で胸の先端を転がし始めた。

「あっ!んん!!!・・・はっ・・・ぁ・・・ん」

もう片方の手は反対の胸を包み込んで離さない。私はどうにか聖さまに触れようとしたけど、生憎手が届かないし、

今は正直それどころじゃない。襲い掛かってくる快感に連れ去られまいとするのが精一杯だったから。

胸を触られたり舐められたりするだけで絶頂に達しそうになってるなんて聖さまが知ったら、きっと呆れちゃう。

「はぁ、あっ・・・ん・・・はぁ、はぁ、ぁん、っふ・・・」

いやらしく響く聖さまの舌の音が一定のリズムで聞こえてくる。それにしばらく聞き入ってたら、その時はやってきた。

「あっ、せ、さま・・・ダ、ダメ!!そ、れ以上・・・は・・・あっ!んっ、やっ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・んっ!!!」

聖さまの口が胸から離れた。そしてマジマジと私を覗き込む。私はといえば、あまりの恥ずかしさに思わず両手で顔を覆って、

聖さまの顔を直視する事が出来なくて・・・。

「嘘・・・まさかイッたの?」

冗談でしょ?そんな声が聞こえてきそうなほど聖さまは驚いてるようで、私の一番敏感な部分を下着越しにそっと触れて、

ピタリと手を止める。自分でも分かってた。多分、もう凄い事になってるって・・・でもさ、恥ずかしいじゃない、そんなの・・・。

まさかそんなにも聖さまに感じてたなんて、言える訳・・・ないじゃない!本当はね、今日逢った時からずっと触れたかった。

触れられたかった。だから、濡れたのだって今イッたからじゃない。聖さまの言動や行動一つ一つに、私はもう・・・。

「ほんとにイッたんだ・・・そっか・・・早かった・・・ね・・・」

呆れた、というよりは、聖さまも戸惑ってるような口調。そんな聖さまよりも私の方が絶対もっと戸惑ってるけど・・・ね。


第百八十五話『笑顔の意味』


私の言葉や行動がこんなにも祐巳ちゃんに影響を与えてるだなんて、今まで考えた事もなかったし、

それは私自身もそう。誰かの言葉や行動をこんなにも気にするだなんて、私らしくないっていうか、

私じゃないみたい。だから余計に祐巳ちゃんと居ると戸惑う。私はほんの些細な祐巳ちゃんの仕草や表情を見ては、

安心したり不安になったりしてしまうから。それでも祐巳ちゃんと一緒に居たいと思うのは、

信じてもなかった運命の出逢いだと思っているからなのかも・・・しれない。

祐巳ちゃんは肩で息して私を見上げてて、私はその瞳の奥をじっと窺ってる。

「なに?」

「いえ・・・綺麗な顔だなぁ・・・なんて思いまして」

「はは、なにそれ」

綺麗だなんて、そんな言葉別に今はいらない。でも、祐巳ちゃんは私をマジマジと見つめて呟いた。

「私と聖さま・・・一体どこが違うんでしょうかねぇ・・・」

だって。それも結構本気で言ってるっぽいから笑える。

真剣にそんな事言う祐巳ちゃんの顔も、私から見たら結構綺麗だと思うんだけどな。

「やっぱり目の大きさとかでしょうか・・・」

「目は祐巳ちゃんの方が大きいと思うけどね、私は」

「じゃあ・・・形?聖さまは結構垂れ目ですもんね。・・・そっか!だからそんなに甘い顔なんだ!!」

「でも祐巳ちゃんだって別につり目ではないと思うけど」

「まぁ、そうなんですけど・・・昔よく狸に似てるって言われましたし・・・」

「狸・・・ね」

一体どこの誰にそんな風に言われたのかは知らないけど、初めて祐巳ちゃんを見た日の私の感想とあまりにも同じでつい、

笑ってしまった。でも、狸はなかなか愛嬌のある顔してると思うんだけど、ね。

「それに鼻の高さだって違うし、口も・・・う〜ん・・・人間なんて皆ついてるもの同じなのになぁ。

・・・形が違うだけで、やっぱり随分印象って違うもんなんですかね・・・」

「突然なんなの?生物の勉強?」

「いえ・・・ふと思ったんですよね。もしも、聖さまと私の子供が出来たとして、

そしたら絶対聖さまに似た方がいいな〜とか思うんですよ」

「そうかな?私は祐巳ちゃんに似た方がいいと思うけど」

その方が絶対可愛いに決まってる。性格も顔も。でも、私の答えに祐巳ちゃんは頬を膨らませた。

「そんな事ないです!!どうせ育てるんなら、私は聖さまに似た子を育てたいです!!」

「そ、そう?」

「はいっ!」

力いっぱい頷いた祐巳ちゃんは私の首に腕を回して甘えるように囁いた。

「まぁ・・・夢の話なんですけどね・・・」

ポツリと呟いた声があまりにも寂しくて、何だか泣きそうになってしまって・・・そうなんだ。

私と祐巳ちゃんじゃどうやったって子供は作れない。それこそ、誰かが発明でもしてくれないかぎりは。

それを思うと、いつも後一言がどうしても言い出せなくなってしまうんだ。結婚しよう、その一言が・・・。

私と祐巳ちゃんだけの問題じゃない。私も祐巳ちゃんも一人娘で、私達の家族はそれなりに孫を期待とかしてると思う。

それを奪う権利って、私に本当にあるのかな?

そんな事考えるのと同時に、頭のどっかでは二人の気持ちさえ一つならとも思うわけで・・・。

「夢・・・か。ねぇ祐巳ちゃん、私と子供が作れたとしたら、もうとっくに私と結婚してくれてた?」

「それは・・・聖さまがもし、男の人だったらって意味ですか?」

「そう・・・ね」

別に男になりたいとかそんな事考えた事なかったけど、たまに思ってしまうのも事実で・・・。

私の質問に祐巳ちゃんは小さく笑った。でも、私にはどうして祐巳ちゃんが笑ったのか理解する事が出来ない。

「どうでしょうか。私は聖さまとなら今でも結婚しますよ?」

「・・・子供が作れなくても?私が女でも?」

「はい。だって、断る理由なんてどこにもありませんし」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そう」

祐巳ちゃんはキッパリとそう、言い切った。うっかり潔くて格好いいと思ってしまった。

やっぱり子供は祐巳ちゃんに似ていて欲しい。自分の幸せを掴む為の能力の高い、祐巳ちゃんに似ていて欲しい。

私は祐巳ちゃんを抱きしめて強引に唇を奪った。誰かにはっきりと自分の道を指し示せるような、

そんな存在は貴重。そして今まで自分勝手に生きてきた私にはそういう存在が必要。

じゃあ、これから先もう何があっても祐巳ちゃんを離す事は出来ないと、そう思う。

「あ・・・っん」

「愛してる・・・祐巳ちゃん・・・離れないで・・・傍に居て・・・」

唇をほんの少し離して呟いた言葉に祐巳ちゃんが返事をする隙間はなかった。これは私からのお願い。

些細だけど、ささやかだけど、絶対に叶えたい私の・・・夢。子供なんて別に居なくてもいい。

私達二人きりでもきっと上手くやっていける。私はそんな願いを込めながら深い深いキスをした・・・。

ようやく唇を離した時には既に祐巳ちゃんの目は潤んでて、私に何かを求めるように抱きついてくる。

「なに?」

それでも意地悪な私はその答えを知っていてもわざといつも焦らす。祐巳ちゃんの答えが聞きたくて。

そんな私を軽く睨んだ祐巳ちゃんが恥ずかしそうに呟いた。

「聖さま・・・・・・・・・・して?」

「祐巳ちゃんはしてくれないの?」

小さく首を振る祐巳ちゃんの仕草が、凄く可愛い。そんな顔されたら私、きっともう止まらない。

一週間とちょっと離れて過ごしてたなんて忘れそうなほど、私はだって、祐巳ちゃんっを求めていたから・・・。

「じゃ、祐巳ちゃん上になって」

「・・・はい・・・」

いつもみたいに祐巳ちゃんは恥ずかしそうに私に後ろ向きに跨る。

そっと指を伸ばすとそこはもう、いつでも私を受け入れる準備は出来てて、ほんの少し触れただけなのに小さな声が漏れた。

「今日はやけに敏感ね」

「そ、そんな事・・・」

「ないって言える?もうこんななのに?」

「い・・・意地悪・・・ですね・・・」

「そうよ、知らなかった?」

むぅって頬を膨らませたままこっちを振り返る祐巳ちゃんを見て、私は笑った。

祐巳ちゃんの中心はもう赤く染まって、ほんの少し触れただけでもきっとまたイッてしまいそうなほど濡れてる。

「聖さまだって・・・凄いもん」

そう言って仕返しとばかりに私の中心をそっと撫でる祐巳ちゃんの指は背筋がゾクリとするほど冷たい。

思わず身を捩った私を見て、今度は祐巳ちゃんが言った。

「聖さまも敏感じゃないですか」

「そりゃね、だって感じない訳ないじゃない?ほら、お喋りはもう止めようよ」

そう言って私は祐巳ちゃんの一番敏感な部分に触れないようその周りを執拗に舐め始めると、

祐巳ちゃんの口から甘い声が漏れてくる。祐巳ちゃんの声はとても心地いい。可愛らしくてたまに・・・壊したくなる。

「ぁっ・・・ん・・・っぅん・・・っふぁ」

「手が止まってるわよ?今日は私にもしてくれるんでしょ?」

「んぁ・・・はっ・・・い・・・」

何かを我慢するみたいに身体が震えるのを堪えた祐巳ちゃんの細い腰にそっと指を這わせると、

ビクンって跳ね上がる仕草が私は好き。ほんのちょっと舐めただけで溢れてくる愛液も、私の指の動きに合わせて漏れる声も。

祐巳ちゃんが私の一番敏感なとこを必死になって舐めるのを見るのも、その度に漏れる私の声に満足げに微笑む顔も大好き。

「んっ・・・ふぁ・・・上手に・・・なった・・・ね・・・んん」

私の言葉に笑顔で答える祐巳ちゃん。私はだから、そんな顔見るたびにまた祐巳ちゃんが愛しくなる。

どうすれば私が喜ぶのかとか、どうすれば私が声を出すのかとか、いちいち確認しながら優しく舐めてくれるんだ、いっつも。

私は祐巳ちゃんの中心に中指を差し入れ、ゆっくりと動かし始めた。もう我慢出来ない。

祐巳ちゃんの身体が、そう言ってるような気がしたから。私が指を入れたのと同時に祐巳ちゃんの身体が大きく跳ねる。

「ふぁっ・・・んっくぅ・・・」

「あ・・・ん・・・はぁ・・・ん・・・」

漏れる声はもうどちらのものか分からない。ただ、目の前のこの子が私の指に合わせて動くのが見たくて、

私はもう一本指を差し入れる。指先にまとわりつく愛液が指を伝って手首まで流れてくるのがただ愛しくて・・・。

「あっ・・・ん・・・せ・・・さま・・・奥・・・にあた・・・って・・・あっ・・・んっ・・・」

「奥?ここ?」

「あん!やっ・・・あっ、あっ・・・んぁ・・・っふ」

さらに深く突いた指に祐巳ちゃんの身体が今まで以上に痙攣したのを見て、私は笑った。

祐巳ちゃんの舌と指はもう、完全に止まってる。それどころじゃないって感じで。

「ほら、止まってるってば」

「やっ、あっ、はぁ・・・らって・・・そこは・・・だ・・・め・・・んぁっ・・・っくぅ」

「ダメ?どうして?気持ち良さそうに見えるけど?」

「やぁ!い、いわな・・・いで・・・くださ・・・あぅ・・・んん!!」

「ねぇ、ちゃんと私にもしてよ。でなきゃ一緒にイけないじゃない」

私の言葉に祐巳ちゃんは小さく頷いた。でも、目は涙目。何かを堪えながら、恐る恐る祐巳ちゃんの指が私の中に入ってくる。

「ふぁ・・・ん・・・冷たくて気持ち・・・いい・・・ぁん・・・」

「はぁ・・・あっ・・・ぅん・・・はぁ・・・はぁ・・・」

必死になって私の中を掻き回す祐巳ちゃん。その必死さが私の中に入った祐巳ちゃんの指から伝わってくる。

戸惑いながら、でも私をイカせようとする祐巳ちゃんを愛しく思わないはずがない。

少しづつ速度を速めていく私に従って祐巳ちゃんの指も早くなる。

「舐めて、祐巳ちゃん」

「ふぁぃ・・・ん・・・んく・・・」

コクンって小さく祐巳ちゃんの喉が鳴るたび、心臓がまるでどっか行きそうなほどドキドキして堪らなかった。

私も既に真赤に染まった祐巳ちゃんの一番敏感な所を優しく舐め始める。

「あっ・・・熱・・・んぅ・・・はぁ・・・あっ・・・」

「ん・・・もっと・・・ねぇ、祐巳ちゃん・・・もっと・・・掻き回し・・・あっ・・・ん」

頭の奥がボーっとしてきて、今自分が何をしてるのかも分からなくなって・・・。

それでも指と舌だけはまるでそこだけ意思があるみたいに祐巳ちゃんを求めるのを止める事も出来なくて。

叫び声にも似た祐巳ちゃんの声すら、私にはまるで心地いい音楽に聞こえたりし始める。

「いっ・・・ん・・・あぁ・・・聖さま・・・熱・・・い・・・奥が・・・あぅ・・・んっんん」

「んっ・・・ぁっ・・・はぁ・・・私・・・も・・・イキそう・・・」

身体の奥が寒いわけでもないのに震える。全身が祐巳ちゃんを受け入れて、まるで虜になって逃げられないみたいに。

それが気持ちいいのか、辛いのかは分からない。でも我慢できそうになくて、私は必死になって舌と指を動かした。

手首まで流れた愛液はもう、肘の辺りまで流れて光ってる。私の唇から溢れる愛液も頬を伝ってシーツに染みを作り始めた。

飲みきれないほどの液体は祐巳ちゃんが私を感じる証で、多分祐巳ちゃんもそれを感じてくれてるに違いなくて。

祐巳ちゃんはもう限界に近いんだと確信したのは、それからすぐの事だった。

それまではスムーズに動いてた指が何かに締め付けられるように動くのを遮ろうとする。

それでも私は動かし続けた。祐巳ちゃんに愛を伝えるにはこれが一番手っ取り早いって事を知っていたから・・・。

「んっ・・・ぁ・・・はぁ、っくぅ・・・ん」

「あん・・・っふ・・・ぅ・・・んぁ」

少しづつやってくる闇にも似た快感。いつも一瞬寸前で怖くなる。でも私はそれを伝える術を知らないし、

ましてや誰かにそれを分かってもらおうとは思わない。その時だった。ほんの少し、祐巳ちゃんが微笑んだのだ。

私の中に入れた指を舐めて微笑んだんだ。私はそれをマジマジと見つめてポツリと言った。

「ど・・・して笑う・・・の?」

「わかっ・・・ない・・・でも・・・嬉し・・・ん・・・」

嬉しい。よく分かんないけど、祐巳ちゃんはそう言った。その答えを私は知ってるような気がするのに何故か言葉にならない。

何も言えない私は、どうすればいいか分からなくてただ黙って目を閉じていた。

そして・・・頭の芯の方がボンヤリとしてきて、真っ白になっていく。なにもかもがもうどうでもよくなる。

私という人間すらもうどうでもいいように思えてきて、私は小さく笑った。

多分、これがさっき祐巳ちゃんの言った言葉の答えなんだと思う。幸せっていうのかな、嬉しいのかな、それは分からない。

でも何かが確かに笑えるんだ。気持ちよくて、もうどうでもいい。

人間なんて全てがどうでも良くなったら最後には笑えるもんなんだ。

そんな事に気づいた私は、また祐巳ちゃんに何かを教えられた気がした。

そうしたらほら・・・不思議だけどまた祐巳ちゃんが好きになる。

「あっ・・・ん・・・せ・・・さま・・・はぁ、はぁ、・・・私・・・も・・・う・・・っん!」

「うん・・・いいよ・・・イッても・・・いいよ・・・」

不意についた言葉はいつもの意地悪な私の台詞とは正反対だった。

いつもなら絶対こんな事言わない。もっともっと焦らして反応を楽しむのに、今日は違った。

もっともっと祐巳ちゃんとしたいことがあったんだ。エッチよりもずっとずっと大事な事を・・・。

だからって別に、早く終わらせたいとか思ってる訳じゃない。むしろ時間がもっとあればいいのにとさえ思う。

まぁ、止まればいいとは・・・思わないけど。私は祐巳ちゃんの奥に沈めた指を激しく動かし始めた。

それに習って祐巳ちゃんも私の中を痛いぐらい掻き回してくれる。そして必死になって舐めてくれる。

私はそっと視線を伏せた。唇から溢れる祐巳ちゃんの愛液が頬を伝うのをただ感じていた・・・。

「ふぁ・・・んっ・・・あっ、あん、はぁ・・・はぁ・・・いっ・・・ん・・・や・・・あっ、あぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

「あっ・・・んんっ・・・ふぁ・・・はっ・・・あっんん・・・んぁ・・・あっ、あ・・・っくぅ・・・っ!!!」

しばらく私達は動けなかった。いや、動かなかったのかも。だって、このままでいいと思ってしまったんだ。

まだお互いの中に沈んだままの指を動かそうとはしなかったし、

指に伝わる祐巳ちゃんの振動をもう少し感じてたかったってのもあるのかもしれない。

でもね、完全に力の抜けた人間ってのは結構重い。祐巳ちゃんは放心状態で私の上に完全に寝そべってるし、

私は私でもう祐巳ちゃんを動かす体力も残ってなくて・・・。

「・・・重い・・・」

ポツリと呟いた声に祐巳ちゃんが小さく笑った。いや笑ってる場合じゃなくて、重いのよ。

「んー・・・もう少しだけ・・・」

「嫌よ。ほら、早く降りて」

「うー・・・んっ・・・ぁ・・・」

ゆっくりと祐巳ちゃんの中から指を抜くと、その反動で祐巳ちゃんの身体が震える。

「抜いただけじゃない」

「だ、だって・・・」

ようやく動き出した祐巳ちゃんが私の上からモゾモゾと降りて四つん這いになって私の横に倒れた。

そしてそのまま私を見上げてポツリと言う。

「綺麗な顔・・・」

「またそれ?」

「さっきよりもずっと・・・綺麗・・・」

「それはそれは・・・ありがとう」

面と向ってこんな風に言われると何だか恥ずかしくなる。照れた私を見て祐巳ちゃんは笑ってるけど、

本当は私も思ってる。いつもいつもそんな風に・・・思ってる。私の言葉に不満げに笑った祐巳ちゃんは、

大きく伸びをして私の腕を引っ張って無理矢理その上に頭を置く。そして小さな欠伸をして私を上目遣いで見て微笑んだ。

「聖さま!キスしてくださいっ」

「ええ?さっき散々したじゃない」

「んー・・・もっと!」

「・・・はいはい。ところで・・・週末、予定空けといてね」

「へ?」

そう言って祐巳ちゃんの唇に軽いキスした私の顔をポカンってした瞳が見つめてくる。

何か言いたそうなんだけど、なにから聞いたらいいか分からないってそんな顔で。

私はもう決めた。週末、祐巳ちゃんを連れて祐巳ちゃんの実家に挨拶に行く、と。


第百八十六話『挨拶』


聖さまと過ごした時間はほんの僅かだった。それでも私の胸にはまだ、あの日聖さまがつけた痣がしっかりと残ってる。

お風呂の中でそれを見るたび、あの夜の事を思い出して、そして次の日の朝を思い出す。

私はてっきり、もう聖さまは許してくれてるんだとばかり思ってたのに、そうじゃなかったんだ。

そもそも、どうして私が追い出されたのかもよく分からないまま、私はまたあの家を出て今も実家にいる。

聖さまの出した距離を置くという事。私にはどうしてそれがそんなにも重要なのかがわからなくて、

相変わらず毎日毎日泣いて過ごした。今はただ、聖さまの言葉を信じるしかない。週末、予定明けといてね。

あの約束だけを待つしか・・・ないんだ。聖さまと距離を置いて一つ思ったのは、

私はもう聖さまが居なければ真っ直ぐに歩けそうにないって事。ていうよりも、前を向けそうにない。

あれから私は毎日毎日同じ事ばかりを考えて過ごしていた。聖さまが言った言葉の意味を・・・。

「聖さま・・・結婚・・・したくないのかな・・・」

泣きそうな顔で自分が男だったら今すぐにでも結婚してくれる?なんて聞かれたのは、これが初めてだった。

聖さまはきっと、私よりももっともっと複雑にものを考える人で、

好きだからって気持ちだけでは結婚には踏み切れないんだと思う。本当はとても優しい人だから、

周りの人達の事まで考えちゃうに違いない。そして自分をどんどん追い詰めるんだ・・・いっつも。

私は、聖さまに逢うまでは自分が女の人に恋してしまうなんて考えてもなかったし、ましてや結婚なんて考えた事もなかった。

ただ漠然とこのまま一人で生きていくのか、それとも親に勧められた人と結婚するのか、そんな風に考えた事はあったけど。

でもいざ好きな人が出来てしまうと、どんどん欲張りになっていく自分を知った。

もう二度と聖さまと離れたくない、聖さまと一生ずっと居れたら、それこそ、聖さまと子供が作れたら・・・、

そんな私の考えがもしかしたらいつの間にか聖さまを苦しめていたのかも・・・しれない。

勘のいい人だから、私の気持ちなんてきっと知ってると思う。

だからこそ、そんな私を冷静にさせようとして距離を置こうと言ったのならば全て納得がいく。

でもね、聖さま・・・距離なんて置いたって私の気持ち・・・変わらないんだよ・・・。

それどころかどんどん好きになっていくばかりで、もうどうしようもないんだよっ!!

聖さまは元々相当遊んでたような人でいつも自分の人生は自分で切り開いてきた人だ。

だからもしかしたら、こんな私みたいなタイプを少し重いと感じていても全然不思議じゃない。

「・・・聖さま・・・」

部屋の姿見の前で服を脱ぐと、胸の辺りにある赤い痣。それを指先でそっとなぞった。

聖さまはあの夜とても優しくて、いつもと少し雰囲気が違った。だから余計にこんな事考えるのかもしれない。

あの日の夜に近づいたと思ったのに、また離れてしまった。人間の繋がりなんて、ほんと驚くほどあっけない。

私は今、それを痛感してる。ワガママなのかな・・・聖さまとずっと一緒に居たいって思うのはそんなにもワガママなのかな・・・。

本当の事を言えば、結婚なんてどうだっていい。子供だって要らない。聖さまさえ居てくれればそれでいい。

ただ、皆に・・・認めて欲しかったんだ・・・私達の事・・・皆に。でもそれは私の勝手なエゴでしかない事も知ってる。

「あれが最後・・・なのかなぁ・・・?私、振られちゃうのかな・・・」

聖さまは今、何してるんだろう。私の事を少しでも想ってくれてるのかなぁ?それとも全然違う事考えてる?

そんな事考えたらまた涙が溢れてくる。こうやって私は毎日毎日泣いて過ごした。こんなにも週末が怖いのは初めてだった・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

週末。聖さまがやってくるのは知ってる。でも、いつまで経っても私は布団から抜け出す事が出来なかった。

その時が来るのを今か、今か、と怯えるだけで、怖くてずっと布団の中で震えていたんだ・・・。

お昼をほんの少し過ぎた頃、インターホンが鳴った。多分・・聖さまだ。こういう時の私の勘はよく当たる。

案の定、階下から祐麒が私の名前を叫ぶ。でも私はやっぱり出られなかった。

布団を頭から被って声が出来るだけ聞こえないようにして・・・なによりも聖さまに逢いたくなかった。

この2〜3日泣いてばかりだった私はきっと、酷い顔をしてるだろうから。

それでも祐麒は私の名前を叫ぶ。最後にはお母さんやお父さんまでもが私の名前を呼び始めて・・・。

「祐巳ちゃん」

微かにだけど聖さまの声が聞こえた気がして、私は布団から恐る恐る顔だけ出してみた。

でも部屋には誰も居ない。じゃあ今のは・・・空耳?そう思ってふとドアの所を見ると、そこには幻の聖さまが立っている。

「早く下に下りようよ。皆待ってるよ?」

「で、でも・・・私、きっと振られちゃう・・・そんなの・・・嫌だもん。私・・・聖さまと離れたく・・・ないんだもんっ!!!」

「・・・誰と離れたくないって?」

突然の冷たい声に、私は驚いて顔を挙げた。ドアの前でこっちを睨んで立っているのは・・・紛れもなく聖・・・さま・・・。

聖さまは布団から顔を出した私を見て小さく、うっ、って呻いて次の瞬間苦笑いする。

「ぶっさいくな顔・・・土偶みたい」

「ど、ど、ど!!」

土偶ですって!?ひっさしぶりに逢った恋人の顔見て言う台詞?!それ!!!ありえないっ!!!

私は立ち上がって聖さまの真正面までツカツカと歩み寄った。そして聖さまを見上げて(土偶みたいな顔で)、

はっきりと聖さまの答えを聞こうとしたけど、その前に聖さまに腕を捕まれてそのままズルズルと引っ張られる形で、

リビングに連れ出された私は、今から一体何が始まるのか全く分からないままただドキドキしてた。

リビングには皆集まっていた。お父さんも御母さんも、祐麒だって居る。皆私達をにこやかに見てる。

でも、聖さまの顔だけは何故か・・・真剣だった。握った聖さまの手がなぜか少しだけ汗ばんでて、

私にまでその緊張が伝わってくる。そんな私達を見たお母さんが不思議そうに私と聖さまを交互に見つめて、

私達の前に紅茶っを差し出してくれた。

「どうしたの?二人とも・・・まぁ、座りなさいな」

「いえ、このままで・・・今日は突然お邪魔してしまって申し訳ありませんでした。

本当はちゃんと事前に連絡しておくべきだったんですが、

こんな事になってしまった事を深くお詫びします・・・本当に申し訳ありません」

「せ・・・聖さま?」

一体何を言い出すのか、私にはさっぱり分からなくてただひたすらドキドキするしかなくて・・・。

でも、聖さまが私の手をギュって強く握ったのを感じて、私は静かに息を吸った。こうなったらもう、聞くしかない。ちゃんと。

聖さまの言葉を一言も聞き逃さないように・・・。今の私に出来るのは、多分・・・それだけだ。

この先どんな未来が待っていたとしても・・・。私はだから、聖さまの手を強く握り返した。

でも聖さまはチラリともこちらを見ないで、ただ真っ直ぐにお父さんとお母さんを見詰めてる。

「おいおい、一体どうしたんです?佐藤さん」

「そうよー、そんなに畏まらなくってもここはあなたの家みたいなものなんだからー!ねぇ、あなた?」

「そうだぞ。君はもう娘みたいなものだ!わははははは」

お父さんとお母さんは聖さまの鬼気迫る雰囲気を和らげようと必死だった。もうね、ほんと必死。

でも、聖さまは少しもその空気を緩めようとはしなかった。ただ黙って頭の中で言葉を組み立ててるような顔してる。

しばらくの沈黙が続いて、やっと聖さまの唇が動いた。私の両親に頭を深く下げ、はっきりと。

でも、その言葉を聞いても私を含め、他の皆もポカンとしてて・・・。

ただ祐麒だけが口笛なんて吹いて全部理解顔で・・・。

「せ・・・聖さま・・・?い、今・・・なんて・・・言いました?」

私の言葉にお父さんとお母さんはうんうんと頷くそんな私達を見て、聖さまは困ったように微笑んで、もう一度静かに言った。

「お父さん、お母さん、祐巳さんと結婚前提でお付き合いするのを、許していただけませんか?」

一言一言をはっきりと静かに言った聖さまは、大きく息を吸い込んでチラリと私を見てそっと私の肩を押して、

ソファに座らせてくれる。私は目の前に置かれた紅茶を一気に飲み干すと、もう一度頭の中を整理してみる。

ちょっと待って、今聖さま・・・なんて言った?結婚前提でお付き合いさせてくれって・・・そう・・・言ったの?

私の家族にそう・・・・言ったんだよ・・・ね?え?ちょ、待って。きょ、今日って一体・・・何しに来たの?

私に別れ話いうつもりだったんじゃ・・・なかった・・・の?あれ?え?

「「「ええええええ?!」」」

ようやく回路がピタリと一致したタイミングはお父さんもお母さんも私も同じだった。

皆して目を丸くして聖さまをじっと見つめてたら、それをずっと見てた祐麒が茶化す。

「皆今おなじ顔してたよ。反応も全く同じ・・・親子って怖いな」

「ちょ、ちょっと待ってちょうだい、佐藤さん・・・一体・・・どういう・・・事?」

祐麒を鮮やかにスルーしたお母さんは聖さまを見上げまだポカンとしてるお父さんの代わりに、

前にズイっと乗り出して説明を求めた。そんなお母さんの質問に聖さまはただ黙って頷く。

「私達、実は皆さんに黙ってた事があります。私達が一緒に住み始めた本当の理由は、家賃が折半になるからじゃなくて、

本当は・・・お付き合いを始めたからだったんです。あれから二年、毎日毎日祐巳ちゃんと過ごしてきました。

喧嘩したりモメたりする事も随分ありましたけど、最近になってふと思ったんです。

私達、このままずっと一緒に居られるのかな?って。今の日本の法律上、私達は結婚する事は出来ません。

でも黙ったままお付き合いを続けても、きっといい事なんて・・・無い。皆にもちゃんと認めてもらわないとダメだって、

気付いたんです。結婚という形は取れません。法律上では。でも、結婚式を挙げる事は・・・出来ます。

だからどうか、私達のお付き合いを許してもらえませんか?」

聖さまはそこまで言って頭を下げた。それはもう、長い間ずっと・・・頭を下げてた・・・。

長い長い沈黙を破ったのはお父さん・・・だった。お父さんは立ち上がって聖さまを睨みつけて私の腕を強引に引っ張って、

自分の隣に立たせて、叫んだ。

「な、何を言い出すのかと思えばっ!!ふざけるなっ!!ウチの娘は女に嫁に出す為に居る訳じゃないんだっ!!!

祐巳、お前、まさか本気で付き合ってた訳じゃないんだろ?ちょっとした人生経験だと思ってたんだろ!?」

私は、この言葉を聞いてなんて答えればいいのか分からなかった。いや、お父さんの言ってる意味が分かんなかった。

だって、聖さまは何も悪くないここまで追い詰めたのは・・・私なんだもん。それは痛いほどよく分かってたし、

聖さまは私に誠意を見せようとしてくれたんだって事もよく分かってた。だから、聖さまが責められるのは間違ってる。

聖さまが顔を挙げ、真っ直ぐに私を見つめる。猫みたいな視線で私の瞳の奥を覗き込んできた。

私はだから、お父さんの隣から離れて聖さまの隣に戻り、真っ直ぐにお父さんとお母さんを見据えて言った。

「お父さん、私、聖さまと付き合ってた事黙ってたのは悪いと思ってる。でも、遊びだなんて思った事、一度もないよ?

結婚だって、私から言い出した事だし、告白だって私から・・・したんだもん。だから、巻き込んだのは私なんだよ、お父さん。

お母さんも・・・聞いて。私、聖さまの事好きで好きでしょうがないの。お母さんいつか言ってたよね?

どうしようもなく好きな人が出来たら、その時は周りから何を言われてもきっと運命は繋がるわ、って。

私、聖さまがその相手だと思ってる。聖さま以外じゃ・・・ありえないと思ってる。

もしもここでお父さんとお母さんが承諾してくれなくたって、私は聖さまと別れる気なんてないからね。

私は・・・聖さまと未来を歩きたいの。この先ずっと繋がるのは、聖さまが・・・いいの」

私がそこまで言ったときだった。聖さまが私の頭をそっと撫でて言ったんだ・・・優しく、でも・・・悲しそうに。

「祐巳ちゃん、そうじゃないの。私ね、前に祐巳ちゃんが言ってたこと思い出したのよ。

皆に知って欲しいって思うのはいけないことなのかな?って祐巳ちゃん・・・言ったでしょ?あれからずっと考えてた。

私、大事な人にだけ知ってて欲しいって、そう、言ったよね?大事な人って、じゃあ誰?一番大切なのは、じゃあ・・・誰?

そう考えた時にやっぱり家族だろうなって思ったの。だから、認めてもらわなきゃ意味がないの。例え、何年かかっても、

祐巳ちゃんや私の家族にちゃんと認めてもらわなきゃ・・・意味がないのよ。だから私は今日ここに来た。

何年かかっても私は必ず祐巳ちゃんと結婚式を挙げる。それは約束する。

私だって、もう祐巳ちゃんと離れたいだなんて・・・思わないから。でも、それは今すぐにじゃない。

私達を認めてもらえるまで私は何度でも説得しに来るよ。だって・・・結婚式には皆にも出て欲しいじゃない?」

涙がね、知らない間に零れてた。ううん、溢れてきた。

私が思ってるよりもずっと、聖さまは私の事を、家族の事を考えてくれていたのだ。

皆がいるのに、私は聖さまに抱きついて声を出して泣いてしまった。感謝とか、なんだか不思議な感情で一杯だった。

「佐藤さん・・・言い分は・・・分かりました。祐巳は・・・本当にそれでいいの?佐藤さんとはその・・・」

お母さんは言葉を濁した。それは私と聖さまが一番懸念してた問題。子供。私は聖さまを見上げ、微笑んだ。

そしてゆっくりと頷く。いざとなれば、人工授精だって出来る時代だもの。そんなの、何の障害でも・・・なかったんだ。

「いいの。私は子供を産む事よりも、聖さまと一緒に居る方がきっと・・・幸せだと思うから」

繋いだ手が熱い。聖さまは俯いてたけど口の端は微かに上がってて、微笑んでるようにも見えた。

お父さんは私と聖さまを交互に見てはさっきからしきりに頭を掻き毟っている。

ドカっと勢いよくソファに座り込んで、まだ何か言いたそうにしてたんだけど、やがて口を開いた。

「許さんぞ・・・女が女と結婚などと、そんなバカげた話・・・大体!どうやって近所に説明するんだ!?

お前、自分たちさえ良ければそれでいいと思って・・・」

お父さんが急に黙り込んだ。お父さんの後ろから祐麒が口を塞いだのだ。お父さんは顔を真赤にして祐麒を睨んだけど、

祐麒は無表情でお父さんを睨み返し、静かに言った。

「親父、それ以上言ったら、祐巳はこの家出てくぞ。俺たちより大事なもんがあるんだよ、祐巳にはもう。

昔みたいにもうお父さん、お父さんって後ついてきちゃくれないんだよ。いい加減大人になれよ。

お袋も、子供とかそんなものどうとだってなるだろ?それよりも大事なのは、本人の気持ちなんじゃないの?

祐巳には祐巳の人生がある。仕事もちゃんとあって、好きな人も居る。今度その好きな人と結婚式を挙げたいってだけじゃん。

どこにそんなに問題があるんだよ?親父もお袋も一回経験してんだから、祐巳の気持ち分かってやれよ」

「「祐麒・・・」」

まさかこんな所で祐麒が助けてくれるとは思ってなかった私は驚いて聖さまを見た。

でも、聖さまはまるでそうなる事を分かってたみたいな顔して祐麒に向って笑顔を向け、

祐麒も祐麒で聖さまのその笑顔に笑顔で返したではないか。ちょ、ちょっと待って・・・何だか凄く寂しいんですけど・・・。

でも、祐麒の言葉はとてもよく効いた。特に両親には。お父さんもお母さんもそれを聞いて黙り込んで、

同時に小さな深呼吸をすると、私達を座らせた。

「祐麒の言うとおり、そうよね。子供を産む為に結婚するんじゃないんだものね。好きだから・・・結婚・・・するのよね。

お母さん、そんな事も忘れちゃってて・・・ね、お父さん・・・?お父さん?」

お父さんの腕をお母さんが肘で突付いてもお父さんは微動だにしない。お母さんは俯いたお父さんの顔を覗き込んで、

苦笑いしてティッシュのケースを無言でお父さんに手渡した。それを受け取ったお父さんはやぱり無言で鼻をかんで涙を拭く。

・・つか、泣いてたの!?まだ聖さまが挨拶に来ただけじゃんっ!!

ようやく顔を挙げたお父さんの目は真赤だった。グスって鼻をすすって真っ直ぐに私達を見つめてくる。

私と聖さまは今度は何を言われるのかと思ってドキドキしてたんだけど、

私達を見てお父さんから溢れたのは言葉じゃなくて、涙だった。

「父さんもなぁ、分かってるよ。いつかはそりゃ、祐巳も嫁に行くって。でもそんななぁ、まだいいじゃないか。

そんなに急がなくてもいいじゃないか。佐藤さんが悪いって訳じゃないんだよ、ただ・・・なんだか悔しくてなぁ。

祐麒が言ったみたいに、もうお父さんのお嫁さんになるーとか言ってくれないんだなぁとか思うと、もう・・・う・・・ぅぅぅ・・・」

「お、お父さん・・・まだ佐藤さんいらっしゃるんですよ?そんな今泣かなくても・・・」

「いいや、言わせてくれ。佐藤さんのとこに嫁ぐって言うんだから、これはしっかり聞いといてもらわないと。

女だからとか、そういう理由で本当は反対したんじゃないんだ。ただ、皆と違う生き方は苦労する。

その苦労に・・・まぁ、祐巳が君を巻き込んだ訳だけども、その苦労に巻き込まれてくれると決めたのなら、

最後までどうか巻き込まれてやって欲しいんだよ。

途中で・・・投げ出したりしないでやってほしいんだよ・・・わかってくれるかい?」

「はい。分かってます。その覚悟も、もう出来てます」

「そうかー・・・ならいいんだ。・・・で、でも、今すぐに結婚式を挙げるというのはだなぁ!

いかんせん、急ぎすぎというか、な?そうだろ?母さん」

「・・・お父さん・・・見苦しいですよ」

お父さんの同意をお母さんは冷たく叩き払ってしまった。お父さんはそれを聞いて明らかにショックそうな顔してるけど、

お父さんの意見を飲んだのは、意外にも聖さまだったんだ。

「いえ、お父さんの言うとおりだと私も思います。私も急いで雑な結婚式をするよりは、

じっくり考えて一生思い出に残るようなものにしたいんで。だから、結婚式を挙げるのはもう少し先になりそうです。

それに・・・その前にしなきゃならない事もあるし・・・」

そう言って聖さまはチラリと私を見た。でも、私にはその視線の意味は分からなかったんだけど。

聖さまの言葉にお父さんは手を叩いて喜んで、お母さんはそんなお父さんを呆れたように見てた。

その後、私達は散々お母さんに出逢いから付き合うまでをまるで少女のように根掘り葉掘り聞かれ、

お酒を飲んで酔っ払ったお父さんに絡まれてた聖さまは私の小さいころの話を延々聞かされ続け、

結局聖さまから家についたって連絡があったのは、夜中を過ぎた頃だった。

私は結局、その日は実家に残って夜中まで久しぶりに家族水入らずで過ごし、

明日の事を思って胃が少し痛くなって。でもそんな私にお母さんとお父さんが言った。

「大丈夫よ、祐巳ちゃん。祐巳ちゃんなら・・・大丈夫。だって、お父さんとお母さんの子ですもの」

「そうだぞ、祐巳。佐藤さんを想う気持ち誇りを持て。今時あんな人はなかなか居ないぞ」

それを聞いた祐麒が苦笑いして言う。

「散々反対したくせに・・・まさか泣くなんてね」

「し、仕方ないだろうが!お前、可愛い一人娘がだなぁ!!嫁に行くということはっ!!どういう事かと言うとだなぁ!!!」

「祐麒、お父さんまた泣いちゃうから止めなさい」

私はそんな家族のやりとりを聞きながら、聖さまの震えた手を思い出していた。

聖ささまは頑張ってくれた私のために。次は・・・私が頑張る番・・・だよね。震えたあの指先は、だって、

私たちの未来の為に頑張ってえくれた・・・証拠だったのだから・・・。

私の子供の頃の夢。お嫁さん。条件。私と同じぐらい、お父さんやお母さん、祐麒のことを大事にしてくれる・・・人。

私はやっぱり夢を叶える事が出来たんだ。そんな事が胸をついた。


第百八十七話『挨拶 リターンズ』


昨日家についたのは、夜中だった。祐巳ちゃんの小さい頃の話を延々聞かされた挙句、

家についたのは夜中。ありえない。でも・・・楽しかった。

あれほどドキドキしてたのに、そんな事もう忘れそうなほど楽しかったんだ。

だから本当は私も昨日泊まってしまいたいぐらいだった。祐巳ちゃんのお母さんが泊まって行ったら?って言ってくれたのも、

本当に嬉しくて仕方なくてでも、まだ手放しには喜べない事を思いだしたんだ。

今日は・・・私の実家に・・・行く。一番の難関・・・父さんに逢う。そのためにはどうしても一人になりたかった。

だから祐巳ちゃんをあそこに残し、私だけ帰ってきたのだ。父さんに会うのはどれぐらいぶりだろう?

昨日寝る前にそんな事を考えてみた。母さんにはこないだ会ったけど、父さんには・・・本当に会ってない。

つまり、父さんはまるで祐巳ちゃんの存在すら知らないって事。まずどこから説明すればいいのか、そんな事を考えてるうちに、

窓の外は明るくなってやがて夜が明けた。昨日祐巳ちゃんちに行く前に確認を取ったから、今日は家に父さんは居る。

絶対歓迎されないし、もしかしたら追い出されるかもしれない。でも、それでもいい。

私は何年かかっても両親にちゃんと伝えると誓ったのだから。昨日、祐巳ちゃんの両親に・・・。

私が家を出たのはもうお昼過ぎだった。その足で祐巳ちゃんを迎えに行って、それから実家に帰る。

祐巳ちゃんちに向う途中、何度も何度も逃げたくなったもういっそ、祐巳ちゃんも学校も全てから逃げてしまおうかとも思った。

でも、そんな事考えるたびに昨日の祐巳ちゃんのお父さんが頭を過ぎって、

その後すぐに祐巳ちゃんの泣き顔を思い出して・・・。結局、私に逃げる場所なんてもう無い。

私の帰る場所は・・・あったとしても。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

道中、祐巳ちゃんは始終無言だった。私のギアチェンジする手をじっと見つめたまま、動こうともしなかった。

ようやく実家についた時にはもう、日は傾き空は真赤に染まっていた。それはまるでこれからの私達を暗示するかのようで、

なんだか気分まで闇の中にすっぽりとうずもれてしまいそうになる。

どんどん進む私の後を無言でついてくる祐巳ちゃんは、まるでペンギンのよう。

祐巳ちゃんが今何を考えてるのか、私には分からない。

ただ、祐巳ちゃんも昨日の私のように、尋常じゃないぐらい緊張してるって事。それと、多分多少の・・・恐怖も。

家に入った私達を出迎えたのは母さんだった。笑顔で私と祐巳ちゃんの手を引いて、それはもう嬉しそうに。

「ああ、祐巳ちゃんのおかげだわ!聖ちゃんがこんなにも早く帰ってきてくれるなんて!」

「いえ・・・今回は聖さまは自発的に・・・」

「あら、そうなの?で、今日はどうしたの?お父さんずっと待ってたのよ?」

「うん、その事なんだけど・・・とりあえず、父さんに会わせてくれる?」

「ええ、そうね!あなた!あなた!!聖ちゃんが帰ってきたわよ!!」

母さんが父さんを呼んだ。それでも、一向に父さんは出て来ようとは・・・しなかった。あの人はプライドが高い。

だからきっと、私が家を出たあの日からずっと私が泣いて帰ってくるのを待っていたに違いない。

私が悪かったと、認め許しを請うのをずっと・・・。その態度がなんだか凄く腹が立って、私は祐巳ちゃんをその場に残し、

一人でリビングに上がり込んだ。案の定、父さんはソファに座って新聞を広げ、私を見ようともしない。

だから私は父さんの持っていた新聞を取り上げ、言った。

「ただいま。先に言っとくけど、謝りに来た訳じゃないからね」

「・・・ああ。分かってる。話があるんだろう?」

父さんの答えは意外だった。母さんが何か言ったのか、それとも父さんが何かに感づいたのかは分からない。

ただ私はずっと気になってた。父さんの後ろに居る、見た事もない人が。何だかやけにニコニコした笑顔で私を見るその人は、

多分私よりも歳はずっと上。少し遅れてリビングに入ってきた母さんの後ろには、

申し訳なさそうに祐巳ちゃんが縮こまってついてきてた。するとその男の人は言ったのだ。

「社長、僕のお嫁さんになるのはどちらの方なのです?」

・・と。その言葉に私と祐巳ちゃん、そして何故か母さんまでもが凍りつく。そんな事無視した父さんは淡々と続けた。

「ああ、こっちだよ。この背の高い方がそうだ。気に入ったかい?」

「ええ、もちろんです、社長」

「「「・・・・・・・・・・・・」」」

ちょっと待て。一体・・・どういうこと?私は母さんに視線をやってみたけど、

母さんの顔を見る限りどうやら母さんも何も聞かされていなかったようだった。

「さて、聖。では話をしようか。お前は今日、私の部下と結婚してもらう。もうこうするしかないんだ、分かるな?」

父さんの言葉に、私は固まった。もう逃げ出してしまいたかった。机の上には真っ白な婚姻届。

ご丁寧に判子まで隣に置いてある。私はそれにチラリと視線を落とし、大きく息を吸い込んだ。

祐巳ちゃんがそっと私の手を握ってくれたのだ。こんなにも祐巳ちゃんの手が力になった事は、今まで無い。

それだけ私にとって祐巳ちゃんの存在は大きく、揺ぎ無い。私はゆっくりとその手を握り返すと、母さんを見た。

でも母さんはまだ父さんを睨み続け、何かを我慢するように唇を噛み締めている。

「父さん、父さんの話はそれだけひょね?じゃあ、次は私の話をさせてもらうわ。

今日帰ってきたのは、あなたに報告があったからよ」

「報告?なんの?お前が私に報告できる事など何もないだろう?」

「どうかな。私、この子と結婚するわ。いえ、分かってる。法律的には無理だって事ぐらい。

でもね、結婚式を挙げる事は出来るのよ、知ってた?お互いに誓う事はできるの。こんな紙切れに縛られなくてもね」

私はそれだけ言って、机の上の紙切れを大袈裟に破いて見せた。父さんはここでようやく顔色を変えて、

私と祐巳ちゃんを睨みつけてくる。右往左往してるのは父さんの部下で、どうしたらいいか分からないとでも言うように、

皆に交互に視線を走らせて焦ってる。そんな部下を手招きしたのは母さんで、母さんは冷たい声で彼に言った。

「お帰りはあちらですわ、ごきげんよう」

「え?ちょ、しゃ、社長!?」

部下は父さんに救いを求めるけど、父さんはそれを知らん振り。彼はほんと、いい迷惑だったに違いない。

それでも渋々出て行くところを見れば、父さんが今までどれだけワンマンだったのかが窺えた。

父さんは立ち上がって私の前までやってきた。そして私を見下ろし、事もあろうか祐巳ちゃんを突き飛ばしたのだ。

「きゃあっ」

「「祐巳ちゃんっ!!」」

母さんと私が祐巳ちゃんに駆け寄ろうとした。でも、私の腕は父さんにガッチリ捕まえられてて動けない。

「あなたっ!!なんてことするんですかっ!!」

「うるさいっ!お前は黙ってろ!!大体お前が育てたからこんな娘になったんじゃないのか!?

恥ずかしいと思わないのかっ?!」

いつもの台詞だった。父さんはいつもこうやって母さんを押さえつけてきた。それを小さいころから見てた私は、

小さい頃から父さんが苦手だった。怒るとすぐに母さんに八つ当たりして、私はダメだと言う。

それは全て母さんのせいなのだ、と。私にはそれが耐えられなかった。いつも、いつも・・・。

唇を噛み締めて俯いて言葉を捜してた私に追い討ちをかけるみたいに父さんが言う。

「聖、お前はもう何度も何度もこうやって裏切られてきただろう?どうしてそれが分からないんだ?

何度も何度も同じ過ちを繰り返して、それが何の役に立つ?

女は家に入り、家庭を支え、子供を育てるのが一番の幸せだとどうして気付かないんだ?」

この言葉に私の中の何かが爆発した。私は父さんの手を振り払い、

母さんに抱きかかえられている祐巳ちゃんの元に駆け寄って祐巳ちゃんを抱きしめ叫んだ。

どうか・・・お願いよ、私に力をちょうだい・・・祐巳ちゃん。心の中でそう、願いながら。

「じゃあ!母さんは幸せ!?父さんから見て、母さんが幸せそうに見えるの!?

毎日毎日仕事仕事で家に居ない。たまに帰ってきたかと思ったら子供の事で責め立てられて、それのどこが幸せなのよっ!!

母さんをこの家に閉じ込めて、今度はそうやって私も閉じ込める気!?私はそんなのまっぴらごめんよ。

私の幸せは自分で探すし、自分で掴むわ。あなたに私の幸せが分かってたまるもんですか」

「せ、聖さま!」

言いすぎですよ、祐巳ちゃんの唇がそう動いた。でも、長年降り積もった不満はもうこんな事じゃ収まりそうにない。

止める祐巳ちゃんを無視して叫び続ける私を驚いたように見ていた父さんは、ふと母さんに視線を移した。

「お前は・・・この子のこと知ってたのか?」

父さんの言葉に母さんは無言で頷くと、立ち上がって言った。

「あなた、もう止めましょう。聖ちゃんは聖ちゃんなりにちゃんと考えてるから今日ここに来たんですもの。

ね、そうよね?聖ちゃん」

でも母さんの言葉に父さんが耳を傾ける事はなかった。父さんはそんな母さんを睨んで、今度は祐巳ちゃんを睨む。

「君は・・・名前は?」

「えっと・・ゆ、祐巳・・・です」

「そうか。君には悪いが、すぐに聖と別れてもらう。聖、お前はここに戻ってきなさい」

「なっ・・・」

私は言葉を失った。この人には、きっと何を言っても伝わらない。そう・・・思った。でも。

「どうしてっ・・・私・・・私は、聖さまと別れたりしません!聖さまを裏切ったりしませんっ!!」

祐巳ちゃんは違った。私も母さんも諦めかけてるのに、祐巳ちゃんだけは・・・違った。

私の手を握る祐巳ちゃんの指先は震えて、汗でぐっしょり濡れてる。それでも祐巳ちゃんは真っ直ぐに父さんを見てた。

大きな目で父さんだけを・・・見つめてた。

「裏切るとか裏ぎらないとかそういうことじゃないだろう?常識的に考えて、女同士で結婚など・・・笑い話にもならない」

「どうしてですか!?好きな人と結婚したいと思って、何が悪いんですかっ?!私は聖さまが運命の人だと思ってます!!

もう二度と離れたくないと、聖さまが階段から落ちた日にはっきりとそう、感じたんですっ!!」

「何が感じた、だ!そんな曖昧な感情など、何の証明になると言うんだ!!」

「もう・・・もういい加減にしてっっ!!!」

母さんだった。私は母さんがこんな風に父さんに叫んだのを初めて聞いた。それはどうやら父さんも同じだったようで、

ほんの少し目を丸くして母さんを見てる。私も祐巳ちゃんですら。そんな私達の事を知ってか知らずか、

母さんは話し出した。

「私達、いつまでこうやって生きていくの?ねっぇ、あなたっ!!いつまで続くのよっ!?」

私は口を挟む事も出来ないまま、父さんと祐巳ちゃんと母さんのやりとりを聞いていた。

祐巳ちゃんがこんなんにもはっきりと私の事を話すのは、これが初めてだったような気すらして・・・。

それでも父さんは譲らなかった。呆れを通り越して怒りに変わるのが顔色で分かる。

多分、それは祐巳ちゃんも分かってるだろう。多分、私にも分かっていた。この後のことをきっと、誰もが予想・・・してた。

「出て行けっっ!!!!もう二度と聖に近づくなっ!!」

「嫌ですっ!!出て行きませんっっ!!!私は・・・っ!!!」

祐巳ちゃんの言葉が途切れた。私は目の前で起こった事が一瞬、理解できず、ただ指先が離れるのを感じ、

その直後、母さんの叫び声を聞いて・・・気がつけば私は父さんに掴みかかり、

そして・・・目の前でしゃがみこんだ父さんを見下ろしていた。

「っ、聖ちゃん!!」

「聖さま!!」

「・・・聖・・・お前・・・」

自分が今何したのか、とか、祐巳ちゃんがどうなったのかとか、そんな事どうでもいい。ただ、私は自分でも驚くぐらい怒ってた。

こんなにも誰かに対して冷たくなれるのは、多分これが初めてで、きっと・・・最後だろう。

私は父さんを見下ろしたまま、祐巳ちゃんの手を取り、抱き寄せ言った。

「あなたに、理解してもらおうと思った私がバカでした。私は何されてもいい。でも、この子にだけは、指一本触れられたくないし、

ましてや殴るなんてもってのほか。私はもう、これ以上あなたに人生を滅茶苦茶にされたくないんです。

どうすれば私の言ってる事、いい加減理解してくれます?」

私を見上げた祐巳ちゃんは震えてた。父親に手を挙げた事を悔やんだりしてない。

それどころか今、こんなにも冷静な私がいる。ふと祐巳ちゃんを見ると、その頬は赤く染まり、

ほんの少し唇の端に血が滲んでいて、それを見て私はさらに冷静になって・・・。

冷たい私の声と顔を父さんも母さんもただ黙って見つめていた。でも、祐巳ちゃんだけが私にしか聞こえないようなか細い声で、

大丈夫、大丈夫とずっと・・・呟いていた・・・。私はその声を道しるべにどうにか自分を取り戻そうと必死だった。

今の私はまるで何かに憑依でもされたかのように冷たい。その事をいけないとか感じているのは、多分私だけじゃない。

大きく息を吸い込む私を見て、母さんが父さんに言った。静かに・・・とても静かに。

「あなた、今まで私達は聖ちゃんが間違ってると、ずっとそう思ってたわよね。

でも、それが間違いだったのよ。聖ちゃんは何も間違えてえなどいなかった。ずっとずっと・・・間違えていたのは私達の方。

今聖ちゃんが言ったように、私達は聖ちゃんの人生を滅茶苦茶にしてきたわ、今まで。彼女の話を聞かず、

鳥かごに閉じ込めて全て私達の思い通りになると、、それが正しい子育てなのだ、と。

でもね、違うのよ。そうじゃないの。いくら私達が言っても、聖ちゃんは人形じゃないんですもの、自分の足で歩いて、

自分の頭で考えるの。親の言う事ばかりを聞くのが正しい子供では・・・ないのよ。子育てに・・・答えなんて・・・なかったのよ!」

「・・・お前・・・自分が何言ってるのか・・・わかってるのか?聖がこのままでも・・・・いいのか?」

「いいとか悪いとかじゃない。これが聖ちゃんなの。私とあなたの・・・子なの!いい加減分かってちょうだい!!」

父さんは母さんの言葉をじっと聞いていた。私が殴った頬はまだ赤い。祐巳ちゃんと同じように・・・いや、

祐巳ちゃんよりも酷く腫れてきてる。その頬を押さえ立ち上がった父さんは、ゆっくりと大きなため息を落とし、

こちらを見て言った。

「祐巳ちゃん・・・と言ったかな?」

「・・・はい」

「殴って・・・すまなかった。痛かっただろう?」

寂しそうに微笑んだ父さんの顔は、昨日の祐巳ちゃんのお父さんの顔を思わせた。

娘を誰にも取られたない・・・父親の顔だった・・・。

父さんの言葉に祐巳ちゃんは無言で首を横に振ると、握っていた私の手をさらに強く握り締めて言う。

「私、聖さまの事本当に愛してます。今は、どれぐらい?って言われても証明は出来ないかもしれません。

でも、十年先、二十年先にはきっと、その答えが見えてくると思います。だからどうか、時間をくれませんか?

私が聖さまを愛してるとお父様に証明できた時は、その時は・・・私達が結婚式を挙げるのを許して・・・いただけませんか?」

「何十年先になってもそれが証明されなかったら・・・どうするんだ?」

「いいえ。証明して見せます。必ず」

祐巳ちゃんの目は真剣だった。私が今まで見てきたどんな人よりもずっと・・・綺麗だった。

私はその顔を見て、ようやく自分を取り戻した気がした。それに気付いたのか、祐巳ちゃんが私を見上げてにっこりと微笑む。

「どうか、お願いします」

祐巳ちゃんが父さんに頭を下げてくれるのを昨日の自分と重ねてみたけど、

どう考えても祐巳ちゃんの方がよく戦ったように思う。そんな祐巳ちゃんの頭を上げさせたのは、母さんだった。

「祐巳ちゃん、顔を挙げてちょうだい。こちらこそ、聖ちゃんを・・・お願いね」

「母さん?」

「お前!何を勝手に・・・」

「あなたは黙っていてちょうだい。私が聖ちゃんを育てたんです。ずっとこの子を見てきたんです。

もう私はあなたの言いなりにはなりません。私は私の生きたいように生きます。あなたがずっと、そうしてきたように」

母さんの言葉は辛らつだった。父さんも唖然とした顔して母さんを見てるけど、母さんはもう何も怖がってなんてなくて、

昔の、私の大好きだった母さんの顔で・・・。

「お母さんっ!!」

気がついたら私はまるで子供みたいに母さんに抱きついて泣いてた。

本当はね、ずっとずっとこうやって泣きたかった。私の事を知って欲しかった。いいんだよって・・・言って欲しかった。

母さんの胸で泣く私を優しく撫でる手は昔から少しも変わってない。

「あらら、どうしたの?急に子供みたいに」

「だって・・・だってぇ・・・」

まるで子供みたい。ほんと、自分でもそう思う。でも私は変われた。祐巳ちゃんのおかげで私は変われた。

そんな祐巳ちゃんは私の後ろで鼻をグスグスいわせてるから、きっともらい泣きでもしてるんだろう、きっと。

それが祐巳ちゃんだ。で、父さんはといえば・・・女三人が固まってしまえば、

もう男の出る幕は無いとばかりに足早にリビングを出て行こうとする。そんな父さんを止めたのは・・・祐巳ちゃん。

「待ってください!まだお返事をもらってません!」

その言葉に父さんは一瞬振り返り、視線を伏せポツリと言った。

「勝手に・・・しなさい。それから・・・もう少しぐらい、ここにも顔を出しなさい」

「あ・・・はいっ!」

祐巳ちゃんはペコリと父さんの後姿にお辞儀をして、クルリと振り返った。

「聖さまっ!聖さまっ!!!」

嬉しそうに飛び跳ねて私と母さんに飛びついてくる。そんな祐巳ちゃんの頬に母さんが触れ、ポツリと呟いた。

「ごめんなさいね。痛かったでしょう?」

「いえっ!これは勲章ですから!それに・・・聖さまが叩かれるよりは・・・ずっと・・・いい」

「「・・・祐巳ちゃん」」

それで私は思い出したんだ。あの事故の日、あの時も祐巳ちゃんは私を庇って階段から落ちたんだと。

祐巳ちゃんの私への愛の証明なんて、もうとっくに出来てたんだって事を。私は祐巳ちゃんをもう一度抱きしめて、

腫れた頬に軽いキスを落とした。その途端、祐巳ちゃんは痛さに飛び上がり、母さんは私の頭を軽く叩く。

「こら、聖ちゃん!何してるの、この子はもう!ほら、祐巳ちゃんこっちにいらっしゃい。手当てしましょ」

「せ、聖さま・・・い、痛いです・・・」

母さんに引きずられながら祐巳ちゃんは恨みがましい瞳を私に向けて、私はなんだかそれが可笑しくて。

「ごめん、つい!」

二人の姿が見えなくなって呟いた声はきっと誰にも届いてなかったけど、まぁそれでも・・・いっか。

しばらくしたら、リビングに父さんが戻ってきた。私しか居ないのを確認すると、頬を指差し顔をしかめ、何かを私に手渡す。

それを受け取った私が拳を握りなおしたのを見て、父さんは慌てて付け加えるように話し出した。

「そんな紙切れでも、結構誓いは硬いもんだ。そこに自分の名前と、相手の名前を書いて大事に持ってなさい。

先に言っておくが・・・結婚式には・・・仕事を入れるからな。必ず式の日が決まったら知らせるんだぞ。・・・それだけだ」

「・・・父さん・・・ありがとう・・・」

私の言葉にリビングを出ようとしてた父さんは一度だけ振り返ると、苦笑いして言う。

「母さんが何と言おうと、お前は私の娘でもあるんだ。それは・・・忘れないでくれ」

「分かってるよ、そんな事。あと・・・殴ってごめんなさい」

「いや、まぁいいさ。しかしいいパンチだった。お前が男だったらな、もしかするとボクサーか何かになってたかもな」

「ふふ、かもね。でも、生憎私は女だよ」

「女と結婚しようとしてるけどな」

「そう。でも、誇りは持ってる」

「そうだな。今のお前を見てたら、そう思うよ」

こんな会話を父さんといつかする日が来るなんて、一体誰が思ってただろう?

もしも私があのまま父さんや母さんの言うとおりに育ってたとしても、きっとこんな風には話せなかったに違いない。

私達家族は救われたのだ。祐巳ちゃんという、たった一人の少女に。初めて、家族に・・・なれたんだ・・・。

戻ってきた祐巳ちゃんの頬には大きな絆創膏。私はそれ以上にその柄に笑ってしまった。

「こんなのまだあったの?」

「いいでしょ、好きなんだから。聖ちゃんは全然つけてくれないから、祐巳ちゃんにつけたの。可愛いでしょ?」

大きなクマの絆創膏は祐巳ちゃんの頬の上でにっこりと笑ってた。でもそれを貼ってる張本人は・・・。

「え、えへへ。可愛いでしょ?」

恥ずかしそう。そりゃそうだ。もうすぐ30なのにクマの絆創膏て・・・。そんな祐巳ちゃんが何だか不憫に思えた私は、

こっそりと祐巳ちゃんに耳打ちする。

「嫌なら嫌ってはっきり言いなさいよね。でないと、あの人際限ないわよ?」

「えっ?!ま、まじですか?」

「大マジ。・・・母さん、よかったね。祐巳ちゃんもこういうの大好きだってさ!」

意地悪に微笑んだ私が母さんにそんな事言うと、祐巳ちゃんは驚いたみたいな可笑しそうな不思議な顔をして私を睨んだ。

「あら、そうなの?」

「え?ええ!そうなんですっ!もう大好きでっ・・・え、えへへへへ」

「・・・ばか・・・」

こんな所は断りきれないお人よし。でも、断るべきところはきちんと自分の意思を言える強い人。

私は祐巳ちゃんの肩に腕を回して、ポケットに父さんに貰った紙切れを仕舞い込んだ。

「なに仕舞ったんです?」

「内緒。そのうち見せてあげる」

そう言ってポケットの中の紙切れをさらに奥深くに押し込んだ私を祐巳ちゃんと母さんが不思議そうに見つめてくる。

でも、まだ内緒だよ。父さんと私だけの・・・ね。


第百八十八話『ジュリエットが嫌いなロミオ』


蓉子ちゃんの機嫌が・・・悪い。あの日からずっと・・・どうして?

私はジュリエットの衣装をつけたまま職員室を行ったり来たりしてた。どう考えても私は何もしてない・・・はず。

それなのに最近のロミオときたら、ジュリエットを睨む目が怖くて仕方ない。

かと思えば、突然優しく笑いかけてきてまたフッと哀しそうな表情を浮かべるのだ。

もう私は完全に蓉子ちゃんのおもちゃっと化してるような気がしてならない。

聖に聞いてもどうやらあっちはあっちでそれどころじゃなさそうだし、祐巳ちゃんもそう。

実を言うと私は結構恋愛下手で、今まであまり恋愛にいい思い出がない。だからって訳じゃないけど、

今回の事にしても結構慎重に事を運んでるつもり。でも、それでも私の想いは少しも蓉子ちゃんには届いてなくて、

それどころか今はどうして蓉子ちゃんの機嫌があんなにも悪いのかすら分からないなんて。

聖や祐巳ちゃんみたいに未来とかそんなのを考えてる訳じゃない。だからって遊びで付き合いたい訳でも・・・ない。

じゃあどうしたいの?って言われたら結構困るけど。

私は職員室に繋がった理事長室にチラリと目をやって大きなため息を落とした。

「あら、SRG。まだその格好でらしたんですか?」

背後からした声に振り返ると、そこには祥子ちゃんが劇に使う小道具の入った箱を持って立っている。

「祥子ちゃん・・・いえね、お芝居の事で蓉子ちゃんに聞きたい事があったんだけど、何だか忙しいみたいで。

だからここで待ってたのよ」

「お姉さま?お姉さまならさっき体育館ですれ違いましたけど?」

「えっ!?」

し、しまった!!理事長室には入り口が二つあったんだった!!!

私としたことが・・・入り口が二つって事は出口も二つって事じゃない!!

「ありがとう、祥子ちゃん!!」

「い、いえ・・・どういたしまして・・・あ、でも!!まだ居るかどうかは分かりませんよ!?」

「ええ、分かってるわ!!」

止める祥子ちゃんの声を背中に聞きながら私は駆け出した。くっそーーーーまさかあっちから出るとは・・・なんたる不覚!!

でも、私は体育教師。足には自信がある。全力疾走で構内を走るジュリエット。あれほど職員室と練習部屋意外では着るな、

と言われてたのに、私はそんな事も忘れるぐらい必死だった。それに、どうせ生徒はもう一人も残ってないはずだし。

「くっ・・・ジュリエット・・・重いわ・・・」

いつものスピードが全然でない私は仕方なく近道をする為に、いつか聖に教えてもらった窓から飛び降りて中庭に出た。

聖はほんと、ある意味ではこの学校を知り尽くしてる。

どこの鍵が壊れてる、とか、屋上のさらに上に上がるにはどうすればいい、とかそんな事ばかりを。

あの子はほんと、学生の時からよく居なくなる子だったから・・・そんな事を思い出して苦笑いした私は、

中庭を真っ直ぐ突っ切って体育館裏に出てこっそりと中を覗くと、舞台の上にまだロミオの格好をしたままの蓉子ちゃんが、

天井を真剣な目で睨みつけ何か考え込んでいる。口元がパクパクしてるから何か言ってるんだろうけど、

生憎何を言ってるかまでは分からない。でも、次の瞬間、突然蓉子ちゃんが誰も居ない舞台の上でお芝居を始めた。

「蓉子・・・ちゃん?」

ロミオは切なげに視線を伏せ、台詞を一言一言ポツリポツリと呟く。

それはまるで蓉子ちゃんが今本当にロミオと同じ気分なんじゃないか、と思うほど心が篭っていて、

見てるだけで何だか泣きそうになってしまった。最後のシーン、ロミオがジュリエットを見つけるシーンで、

蓉子ちゃんは本当に涙を流し、何もない舞台の上にまるでジュリエットが横たわっているかのような演技をする。

でもそこにジュリエットは・・・居ない。それに、私と練習をしてる時にあんな顔をしてくれた事も・・・ない。

今蓉子ちゃんが誰を想ってるのか、それは分からない。ただ、私は悔しかった。本当に・・・本当に悔しくて。

あそこに居ない自分。蓉子ちゃんの瞳に映らない自分。私は、ここで一体何をやってるんだろう?

舞台の裏から蓉子ちゃんに見つからないようにお芝居を見てた私は、ゆっくりと蓉子ちゃんに近寄った。

いや、近寄ろうと思った。でも・・・蓉子ちゃんが顔をパッと挙げ、突然叫んだのだ。

「どうして・・・どうして行ってしまうんですかっ!?ねぇ!!答えて・・・答えて・・・くださいっ・・・ジュリエット・・・」

頬を伝う涙がキラキラ輝いて床に落ちる。いつもきちんと整えられた肩までの髪がグチャグチャになるのも気にせず、

それでも蓉子ちゃんは舞台を叩いて叫び続ける。

「あなたが居ないと私・・・私・・・うぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

「・・・蓉子・・・ちゃん・・・」

まるで見た事ない蓉子ちゃんだった。こんなにも感情を剥き出して何がそんなに辛いのか、

何にそんなにも怒ってるのか。体育館中に響き渡る叫び声がその悲痛さを物語っていて、身体の芯がゾクリとする。

「蓉子ちゃん・・・いいえ、ロミオ」

私は意を決して舞台に足を踏み出した。私の言葉にビクンと蓉子ちゃんの身体が強張るのが分かる。

涙をゴシゴシ拭いて、髪をキチンと整えてシャンと立つ姿はもういつもの蓉子ちゃんの姿。

でも私はさっきの蓉子ちゃんこそ、何故か本当の蓉子ちゃんのような気がしてならなくて・・・。

いつか聖が言ってた、蓉子という人物。私は自分の妹でもない彼女のことを何も知らず、今でも相変わらず分からない。

それでも今、ほんの一瞬だけど彼女を知った気がしたと言ったら、蓉子ちゃんは怒るだろうか?

そして・・・それが思ってたよりもずっと嬉しかったのだと言ったら・・・。

「え、SRG・・・どうしてここに・・・」

「ちょっと聞きたいことがあって。ごめんなさいね、邪魔したかしら?」

「いえ・・・邪魔なんて・・・」

「ちょっとだけ見せて貰ってたんだけど・・・良かったわ、ロミオ。凄く・・・良かった」

私の言葉に蓉子ちゃんはほんの少しはにかんで微笑む。思い出せば、私がこのリリアンに務めだしてすぐ、

蓉子ちゃんがやってきたんだっけ。年下の理事長なんて!そう言って何人もの教師が辞め、本当に大変で。

でも蓉子ちゃんは負けなかった。絶対泣いたりしなかった。辞めると言い出した皆の前でこの子ははっきりと言い切ったのだ。

『別に構いません。私が自分で信用の出来る教師を集めてきてみせますから』

結局、殆どの教師が辞表を書き、蓉子ちゃんは毎日毎日遅くまであっちこっちに電話して、ようやく集まった人達・・・。

その殆どがリリアンのOBであり、蓉子ちゃんの知り合いで。凄く楽しそうだと思ったのを、今も覚えてる。

歳とかそんなの関係なくて、結局のところ、ピンチをどうやって切り抜けるかが問題なのだ。

そんな事を蓉子ちゃんは私に教えてくれた。教師という職業は簡単な仕事じゃない。

生徒の面倒だけ見てればいいって訳でもない。蓉子ちゃんの集めてきた人材は皆どこか偏ってて、

私も含め一癖も二癖もあるけど、皆大事なものは持ってる。蓉子ちゃんはそれがちゃんと分かってて選んでるのだ。

「そう・・・ですか?でも、本番では流石に出来ませんけどね」

「?どうして?凄く良かったのに」

「・・・だって、今のは・・・ジュリエットにあてたものではありませんでしたから」

首を傾げた私を見上げて蓉子ちゃんは切なそうに笑う。哀しさというよりは、どちらかと言えば不安そうな笑み。

そんな事よりも私は、今ようやく蓉子ちゃんが私を真っ直ぐ見て会話してる事に気付いて、そっちの方が嬉しくて。

ここのところずっと伏目がちに視線を伏せてばかり居た蓉子ちゃんだったから、余計にそう思うのかもしれないけど。

「そうなんだ。・・・ねぇ、覚えてる?蓉子ちゃんがここに来た時、皆・・・辞めちゃったじゃない?」

さっきの言葉の意味を知りたいけど、私が聞くべきでないのは知ってたし、きっと聞いても教えてくれはしないだろう。

でも、何か伝えたかった。私の想いに蓉子ちゃんが気付く事はこの先無くても、ただ一言、伝えたかった。

私の言葉に蓉子ちゃんは頷いて腰を下ろすと、私を見上げ目で合図してくる。隣に座れ、と。

でも、私は普段みたいに心が躍らなかった。何故かとても・・・冷静でいられたのだ。

私は蓉子ちゃんの隣んい腰を下ろし、うーんと伸びをする。そんな私を見て蓉子ちゃんは小さく笑った。

「聖みたい」

と。聖・・・か。それを聞いて今頃どこかでクシャミでもしてる聖を思い描いて笑う。

「聖ね・・・あの子も随分変わったわよね」

「ええ、ほんとに。やっぱり祐巳ちゃんのおかげなんでしょうね」

「そうねぇ。でも、蓉子ちゃんや皆の力も大きかったと思うけどね、私は」

「そうでしょうか?」

「ええ、聖が普通にOLさんやってる姿想像してみなさいよ。笑えるでしょ?」

毎朝スーツ着て、お茶汲んだりコピーとってる聖・・・だめ、絶対想像できない。

それを蓉子ちゃんに伝えると、蓉子ちゃんは大きく頷く。

「確かに、笑えますね。でも、案外どこでも上手くやってくんじゃないですか?彼女は」

「どうかしらねー。あの子はああ見えて寂しがりだからね。

何だかんだ言って蓉子ちゃんや江利子ちゃんを誘い出しては飲んでるんじゃないかしら」

「聖は・・・多分、私達は呼び出しませんよ。きっと。呼ぶなら・・・そうですね、大学の友人なんじゃないでしょうか」

そう言って蓉子ちゃんは視線を伏せた。親友とは言っても、親友には親友なりの距離がある、と、そう言いたいのかもしれない。

でも、それはそうかもしれない。聖がもしここに居なかったら、きっと私はもう彼女には会わなかっただろう。

それこそ、何かあった時にしか・・・。でも、それはそれでいい。どこかで元気にやってえいてくれたのなら、それでもいい。

でも、蓉子ちゃんは・・・違ったのかも、しれない。蓉子ちゃんも聖と同じ。本当はとても寂しがりや。

だからきっと余計に周りを知り合いで埋めたのかもしれない。私は俯いた蓉子ちゃんの頭を撫でて、

細い手にそっと手を重ねた。

「私ね、どうしてあの時ここに残ったか知ってる?」

「え?」

「あの時ね、もしも蓉子ちゃんが皆に言われたみたいに理事長を辞めたら、私も辞めようと思ってたの。

でも、あなたは辞めなかった。理想の学園を作るんだって言って、毎日遅くまで走り回ってたわよね。

それを見てね、思ったの。私は、ここでこの子について行こうって。だから私は辞めなかった。

最後に聞いてきたわよね?皆が居なくなった職員室で、SRGも・・・辞めますか?って」

「・・・ええ・・・」

「あの時、なんて答えたかまだ覚えてる?」

私の問いに、蓉子ちゃんは小さく頷いた。あの時、私は蓉子ちゃんが理事長質でたった一人、泣いていたのを知っていた。

誰も居なくなった職員室の机を一つ一つ撫でて、あの時もそう・・・こうやって一人で叫んでた。

私はそれを見てたんだ。ずっと・・・一人で立ってる振りして、本当は不安で不安で仕方なかったことも。

「SRGは・・・私を一人にしないって・・・そう、仰ったんですよね。置いてける訳ないでしょう?って・・・」

「そう。でもね、本当は違う。本当は・・・私も寂しかった。誰も居なくなった職員室があまりにも寂しくて。

だから残ったの。だから本当はね、蓉子ちゃんが私に恩を感じる事なんて何も・・・無いのよ?」

蓉子ちゃんがずっと私に感じてた恩。私には痛いほど伝わってきてた。黙っててもそういうのは分かってしまうもので、

私はその籠をいつもいつもぶち壊したかったのだ。聖の籠を祐巳ちゃんが壊したように、私も蓉子ちゃんの籠を壊したかった。

「ああ、そうか・・・なんだ、私ってば・・・」

ポツリと呟いた言葉に蓉子ちゃんが首を傾げる。私は気付いてなかったんだ。

本当は、ずっとずっと蓉子ちゃんの事好きだったんだって事に。そっか・・・だから、あの日蓉子ちゃんが泣いてるのを見ても、

声すら掛けられなかったんだ・・・。胸が痛くて、壁にもたれて蓉子ちゃんのすすり泣く声を聞いていただけで。

「ねぇ、蓉子ちゃん。最近、何にそんなに腹を立ててたの?」

「私がですか?私は別に怒ってなんて・・・」

「嘘よ。何かに傷ついてたじゃない。それは・・・どうして?」

私の言葉に蓉子ちゃんは黙り込んだ。一瞬開きかけた口をキュって結んだ蓉子ちゃんの顔は、もういつもの蓉子ちゃんの顔。

ああ、また失敗した。私はこうやっていつも、何一つ蓉子ちゃんから聞く事が出来ない。

ねぇ、蓉子ちゃん。それがどんなに悔しいか・・・あなた、知ってる?・・・いいえ、知らないんでしょうね。

私の心の中なんて、だって、全然知らないんですものね・・・。


第百八十九話『素直になど、なれなくて』


SRGの唇が微かに動いた気がして、私はその場から逃げ出したくて仕方なかった。

どうしてこの人からこんなにも逃げたいと思うのかが自分でも分からない。

ただ・・・そう、苦しく息が出来なくて・・・。こんな想いしたことない。

私はいつも一人でずっと立っていて、誰にも寄りかかったりしなかったはずじゃない!

それなのに舞台に立った瞬間、シナリオの中で倒れたジュリエットと、

この学園を出てゆくかもしれないSRGが重なった様なそんな気がして。

不意に溢れてきた涙は誰を想ったからなのか分からない。

お話の中のジュリエットを想ったのか、それともSRGを想ったのか。

ただ気がつけば私は叫んでいた。心の底から叫んでいたのだ。いかないで、と。

私がここに来た日、SRGだけが残ってくれた。私を一人になんて出来ないでしょ?そう言って。

でも、その言葉が嬉しかった反面、何故か辛かった。優しさが辛いと感じる時ととてもよく似ていたのだ。

私は気付かないうちにSRGに甘え、いつまでも傍に居てくれると勝手に思っていたのかもしれない。

けど心の奥底ではさっきSRGが言ったみたいに、私は今までSRGにどこか遠慮していた。

いや、違う。そうしていなければ、SRGが離れて行ってしまうと私は知っていたのだ。

舞台に座る私達の影が、天井に近い窓から差し込む光に照らされ長く伸びて重なる。

ジュリエットの影いすっぽりと包まれたロミオは、まるで私とSRGのよう。

私はどうして今、こんな気持ちでいるんだろう。どうしてこんなにも・・・泣きたいんだろう。

息が出来ないほどの苦しさなんて、私は知らなかった。でも、いつもいつも感じていたのだ、本当は。

私は隣に座ったSRGを見上げ、口を開きかけたその時。

『理事長〜〜どこですか〜〜?お電話が入ってますよ〜〜』

この独特な間延びした声は、間違いなく祐巳ちゃんだろう。生徒がもう誰も残っていない事をいい事に、

とんでもない呼び出し方をしてくれる。私が校内放送に微笑んだのを見て、SRGも隣で声を出して笑った。

「私、最近思ったんだけど・・・祐巳ちゃんってば、聖に似てきたと思わない?」

SRGが楽しそうに目を細め言う。でもそれは私もずっと思っていた事。

「ええ、ていうよりも、聖も祐巳ちゃんに似てきましたよね」

「ほんと。傍に居るとお互い似てくるって言うけど、あれは本当なのねー」

SRGはそれだけ言って舞台から飛び降りると、そっと私の方に手を差し延べる。

いつもの私なら!絶対に甘えない。自分で降りられます、とか言って飛び降りるだろう。

でも・・・今日は何だか甘えたかった。もう少しだけSRGに近づいてみようか、なんて思った。

差し延べられた手の平にそっと手を重ねた私をゆっくりと自分の方に引き寄せ、

躓かないように私がちゃんと着地するまで支えていてくれるSRG。

決して必要以上には私には触れない。でも、ちゃんと最後まで・・・見届けてくれる。いつも・・・。

それは昔から何も変わらない。高校の頃、聖のお姉さまなのにいつも私が困っていたら助けてくれていた、

私のかけがえのない人。ねぇ・・・本当に・・・結婚、されてしまうんですか?

この学校を・・・去るん・・・ですか?私を置いて?もしも私が祐巳ちゃんのように素直だったら、

きっとこんな時、甘えられたかもしれない。でも、私はいつまでもいつまでも待ち続けてる。

玄関に置いた山茶花の枝は絶えた事がない。私だけを愛してくれる人を探して、

それだけを願ってここまで来たけど、やっぱり・・・それじゃあいけなかったのかも・・・しれない。

重ねた手が冷たい。いつまでも手を離そうとしない私を見て、苦笑いを浮かべるSRG。

「あ・・・すみません」

「いいのよ、別に。このまま職員室に戻る?」

まるで聖みたいに微笑んだSRGは冗談めかしてそんな事を言った。

でも私は、うん、とは言えない。だからいつものようにきっと・・・。

「何を仰ってるんですか。さ、行きましょう」

「・・・ええ、そうね」

そと視線を伏せたSRGは何故か傷ついて見えた。でもきっと、それは私の錯覚だろう。

だって・・・SRGは、あと少しでこの学園を・・・去ってしまうのだから・・・。


第百九十話『』


学園祭なんてどうせ子供のお祭りだ。ずっとそう思ってきたけど、去年あたりから少し違う。

「聖さま〜〜〜」

「へぇ、割と似合うじゃない」

私は祐巳ちゃんの衣装を見て苦笑いを浮かべて、それと同時にこの衣装を選んだ学生に感謝した。

祐巳ちゃんは恥ずかしそうに指を弄りながら私を上目遣いで見上げて、えへへ、と小さく笑う。

「聖さまこそ・・・何だか新鮮ですね」

「そう?」

つかさ、どうして担任までクラスの出し物に協力して浴衣着なきゃなんないのよ?

私の着てる薄い紫色の浴衣は今朝早くに学級委員が私に渡してくれたもの。そして何故か・・・。

『そんな訳で佐藤先生。佐藤先生はこれ着てくださいね!で、福沢先生にはこれ、渡しといてください!』

『・・・は?どうして祐巳ちゃんまで?』

そりゃ思うよね。だって、まだ私は分かるわよ。担任だもん。でも、どうして祐巳ちゃんまでこれ着るの?

私の不思議そうな顔を見て、学級委員はにんまりと笑う。そして言ったのだ。

『大変だったんですから!福沢先生をどこのクラスの衣装にするか』

学級委員によれば。今年のクラスの出し物が決まった時、皆して祐巳ちゃんを取り合ったらしいのだ。

クラスを持っていない教師はどっかしらクラスの子達が口説き落として毎年毎年自分のクラスの衣装を着せる。

言われてみれば、去年私はどっかのクラスの喫茶店の衣装を着させられたのを今も覚えてるんだけど・・・、

今年はどうやら祐巳ちゃんんがその餌食になったらしい。

『いや〜祐巳ちゃん人気あるんですよね〜!危うく、隣のクラスに取られるとこでしたけど、

そこはほら!佐藤先生が付き合ってくれてるおかげでどうにか祐巳ちゃんをGET出来た訳ですよ!』

『・・・そうなんだ』

つまり、私をダシにして祐巳ちゃんをねじ伏せたって事ね。で、これを祐巳ちゃんに渡せばいい、と。

そんな訳で私は祐巳ちゃんに浴衣を渡して、クラスの子達にくれぐれも問題は起こすなって口をすっぱくして注意して、

で、保健室に帰ってきたら・・・か、可愛いじゃん。

桃色の浴衣を着た祐巳ちゃんは予想以上に可愛かった。まぁ、髪型がいつものツインテールってのが微妙だけど。

「ちょ、そこ座って」

「へ?は、はい」

素直に私の言うとおり椅子に座り込んだ祐巳ちゃんの髪を解いて下ろすと、髪はストンと背中の辺りまで落ちる。

「髪伸びたね」

何気なく呟いた一言に、祐巳ちゃんは何故か嬉しそう。満面の笑みで振り向いて自信満々に言った。

「聖さま髪長い子の方が好きなんですよねっ?」

「え?う、うん・・・まぁ・・・」

「ですよね〜えへへ!」

「な、なに?」

「べっつに!」

意味分かんないんだけど・・・つか、私、祐巳ちゃんに髪長い方が好きとか言ったっけ?

つか、ぶっちゃけ別に短くても構わないんだけど・・・。

でも、それは言えなかった。だって、あまりにも祐巳ちゃん嬉しそうに髪が伸びたって喜んでるから。

きっとまた、私は何の気なしに言ったんだろうな。きっとそうだ。

しかも、多分私が祐巳ちゃんを好きになる前の話・・・なんじゃないのかなぁ。

もしかして私がそんな風に言ったばっかりに祐巳ちゃんはずっと髪、伸ばしてるの?

もしそうだとしたら、それってかなり嬉しい。つか、可愛い。こんな時いつも思う。

祐巳ちゃんって、本当に可愛い人。しかも天然で可愛い。意地っ張りだけど、頑固だけど、

こういうツボはきっちりついてくる。それを再確認した私は、何だか嬉しくなってしまった。不覚にも。

「聖さま〜〜まだですか〜?」

「ん、もうちょっと」

髪ゴムを咥えて祐巳ちゃんの髪をまとめて、結わえると見えるうなじが妙にドキドキさせる。

祐巳ちゃんは、髪を上げた方が大人っぽくていい。いや、とは言っても童顔には変わりないけど。

そして私は髪を上げた祐巳ちゃんが結構好きだったりする。絶対自分じゃこの人、出来ないんだけどさ。

「はい、出来た。で、この後どうするの?」

「別に保健室に居なくてもいいって蓉子さまが言ってました!

簡単な薬とかは今日は各クラスに配ってありますから!」

「ふーん。じゃ、ちょっと遊びに行く?」

「はいっ!」

ちなみに祐巳ちゃんはまだ実家。どうしてかって言うと、あの後祐巳ちゃんのお父さんが風邪で寝込んで、

そして今度はお母さんまでもが寝込んでしまったのだとか。

流石に祐麒だけじゃどうにもなりそうにないって言って、結局祐巳ちゃんはあれからまだ帰っては来てない。

だから私達が逢えるのは学校しかない訳で・・・。

そして心配性な私は相変わらず毎日祐巳ちゃんの送り迎えをしてるって訳。

自分でも甘いと思う。でも、両方の家族に挨拶に行って、それなりの答えを貰えた時、

改めて祐巳ちゃんが大事だと、そう・・・思ったんだ。前よりもずっとずっと愛しくて仕方ない。

態度とかにはそんなに出さないけど、大切にしたい。いつまでも繋がってたい。

それに、祐巳ちゃんの家族も私の家族も大事になった。どうしてかな・・・挨拶に行っただけなのに・・・ね。

満たされた気分って言うのかな、こんな気持ち。上手く説明出来ないけど。

保健室を後にした私達はパンフレットを手に校内をウロウロしながら色んな話をした。

「えー嘘でしょ?大丈夫なの?」

「んー・・・多分、大丈夫だとは思うんですけどね」 

「しっかし、インフルエンザか・・・今年のはキツイみたいだから気をつけてよね」

どうやら、祐巳ちゃん一家はインフルエンザにやられたらしく、そろそろ祐麒の具合もヤバイとの事。

このままいったら確実に祐巳ちゃんもうつりそうな気がしないでもない。

でもそんな心配を祐巳ちゃんに告げると、祐巳ちゃんはにっこりと笑って言った。

「大丈夫ですよ!私を誰だと思ってるんですか!保健医ですよ!?なめてもらっちゃ困りますって!」

ドンって胸を叩いて咳き込む祐巳ちゃんを見て、私はますます不安になって。

ダメだ。この子じゃダメ。絶対三日後には聖さま〜〜って電話かかってくるに決まってる。

咳き込む祐巳ちゃんの背中をさすりながら、私はそんな事を考えてた。

でも絶対そんな事本人には言えないけど。まぁ、そうなった時はそうなった時だ。

とりあえず今は楽しもう。私は帯に挟んでた色んなクラスの食券やら遊ぶ為の券を出して、

扇状に広げて祐巳ちゃんに見せた。

「どれがいい?」

「ど、どうして聖さまこんなにも沢山持ってるんですか?」

「だって、皆がくれたんだもん」

そう・・・色んなクラスの子達が是非二人で来てくださいって私に券を渡して行ったのだ。

だから大概どの券も二枚づつある。で・も、。考える事は皆同じ。

困ったように笑った祐巳ちゃんはやっぱり帯の所から私のと同じぐらいの枚数の券を取り出し言った。

「どれがいいです?」

・・・と。お互い顔を合わせて苦笑いした私達は、仕方ないから片っ端から回る事にした。

行く先々で生徒達がお出迎えして私達の浴衣姿を褒めてくれる。

「あっ!佐藤先生に祐巳ちゃん!券あげるから遊んでってよ!」

「いや、私達すでにほら・・・持ってるの。で、ここは何やってんの?」

計4枚の券を見せた私達は苦笑いする生徒に案内されるがまま教室の中に入る。

視聴覚室を貸しきってのオバケ屋敷。まぁ、生徒達が作るもんだから大した事ない。

全然対大した事ないはずなのに、それでも怯える人が一人・・・。

私の袖を掴んで首をブンブン振って、頑として動こうとしない。

「祐巳ちゃん!大丈夫だって、そんなに怖くないってば!ほら見て?あんな小さい子も入れるんだよ?」

そう言って生徒が指差した先には小さな女の子。笑顔で出てきて出口で飴なんて貰ってご機嫌。

それを見た祐巳ちゃんは言った。

「あのね、あんなにも小さな子は恐怖心そのものが無い子も居るの!

だからいくら子供が怖くないって言っても、私はそんなの信じないからね!!」

「ゆ、祐巳ちゃん・・・そこまで必死にならなくても・・・」

「聖さまは黙っててください!!だから、私は絶対に入らないんだから!!」

「えーそんな事言わないで入ってってよ〜〜」

生徒相手に本気で嫌がる祐巳ちゃん。はぁぁ・・・もう、仕方ないな。

「分かった。じゃ、せっかく券貰ったんだから私は入ってくるわ。祐巳ちゃんはそこで待ってなさい」

「・・・え?こ、ここで?一人で?い、嫌ですよっ!!」

「どうして?だって、入りたくないんでしょ?」

「そ、それはそうですけどー・・・」

「じゃあ待ってなさい!」

「・・・はい・・・」

ったく、世話の焼ける。私は祐巳ちゃんっをそこに置いて一人でオバケ屋敷に入った。

中は薄暗いけど、全く見えないって訳でもない。

それに本物のオバケ屋敷とは違って、何となく気配がするからやっぱり言うほど怖くない。

でも祐巳ちゃんには・・・どうかな?あの子、真っ暗なのが既に怖いって言うもんね。

その時だった。ドアがガラって物凄い勢いで開いて外から叫び声。

「佐藤先生!佐藤先生っ!!祐巳ちゃんが・・・祐巳ちゃんが!!」

私はその声に驚いて、慌てて外に飛び出した。

すると、さっきの生徒が私の手を掴んで廊下の奥を指差し早口で言う。

「た、大変なんです!祐巳ちゃんが知らない男の人について行っちゃって!!」

「はあ?」

「だから!あっちに二人っきりで行っちゃったんですってば!!」

「そう、ありがと」

駆け出した私に生徒が言う。

「ちゃんと祐巳ちゃん奪還してきてくださいねっ!!」

・・・奪還て・・・まぁいいけど。何となく、誰かは予想ついてたから私はさほど慌てなかった。

こんな事するのは、だって、アイツぐらいしか居ない。

廊下を曲がって公衆電話の前の所に、二人は居た。やっぱり・・・。

「こら、この人攫い」

私の声に振り返った祐巳ちゃんは、にっこりと微笑んでこっちに向って走ってくる。

それを後ろで目を細めて微笑んでるこの男・・・そう、柏木だった。

「やぁ!夏以来だね」

「やぁ!じゃないだろ?お前、せめて受付の子に何か言ってから祐巳ちゃん連れてってよ」

「いや、すまないすまない。公衆電話を探してたんだよ」

「公衆電話?携帯は?」

普通、このご時世に携帯も持ってないなんてありえないでしょ。

私の問いに、もっともだ、と頷いた柏木は恥ずかしそうに笑った。

「家に置いてきてしまったんだ。ここについてから気付いてね。

で、探してたらちょうど祐巳ちゃんが居たのさ」

「なるほどね。で、もう用事は終わったの?」

「いいや。これから・・・だけど。君たち、何かあったのかい?」

柏木は私達を見て小さく首を傾げてそんな事を言い出した。

「どうして?別に何にもないけど。ねぇ?祐巳ちゃん」

「はい。特に何も・・・どうしてです?」

「いや・・・佐藤君が怒らないなんて不思議だな、と思ってね・・・いつもの君なら絶対怒るだろ?」

「ああ・・・言われてみれば・・・」

柏木の言葉は正しかった。いつもの私なら、きっともっと怒ってた。祐巳ちゃんを連れてった時点で、

それこそ物凄く怒ってた。でも、今日は何故か腹が立たなかったんだ。

どうしてかな?絶対大丈夫だ、なんて・・・思えたんだよね・・・。

私は祐巳ちゃんと顔を見合わせ、お互いの言いたい事を目で伝え合って笑った。

そんな私達を見て、柏木はさらに首を捻る。多分あの日、挨拶に行った日に私達の中で何かが変わったんだ。

目には見えない何かが、か細かった繋がりが、何故か今はとても強く思える。

ただ挨拶に行っただけなのに、それだけの事なのにこんなにも強く想えるなんて。

いつか祐巳ちゃんが言ってた、皆に報せたいって意味が、今ようやく分かった。

「何にしても今の君たちは何だかスッキりしてそうだ」

「そうね。まぁ、ある意味ではスッキりしてるかな。ね?」

私は祐巳ちゃんを見下ろしてにっこり笑うと、祐巳ちゃんは私の袖を掴んで笑って頷いた。

ほらね、こういうとこがなんかさ、前にもまして可愛く見える訳よ。

「おっと、それじゃあ僕はそろそろ・・・」

「ああ、それじゃ、また」

「ごきげんよう!」

どちらともなく手を繋いで歩き出した私達を見ても、もう誰も咎めたり冷やかしたりしない。

それが心地よくて、ちょっとだけ恥ずかしくて。そんな恥ずかしさを紛らわす為に、

ついつい私はまた意地悪してしまうんだ。

「あ、そうだ。早く行かないとタコ焼き売り切れちゃうよ」

「えっ!?そ、そうなんですか?」

「うん。だって、さっき窓から見たら凄い行列出来てたもん」

「ええ!?じゃ、じゃあ急がなきゃ!!聖さま、早くっ!!走ってくださいよっ!!」

必死になって私の手を引っ張る祐巳ちゃん。私は出来るだけゆっくりついてく。

イライラした感じでトロトロ歩く私を睨んで、それでも一生懸命引っ張る。

今までとは少しだけ違う空気が私達の間を流れてゆくのを感じながら、私は行列の無いタコ焼き屋を見てた。


第百九十一話『ロミオとジュリエット』


教師達の舞台は二日目のお昼からだった。聖さまと昨日、散々屋台を回って、

はしゃぎすぎたのか、どうも今日は今朝から身体の調子が悪い。

ちなみに昨日の夜、祐麒もとうとう力尽きちゃって・・・。

『祐巳・・・悪い・・・俺もう・・・無理・・・』

祐麒はそう言うなりリビングのソファで倒れて、熱を測ったら38.5分。

これはもう、完全に家族のインフルエンザがうつったとしか思えない。

夜間病院に連れてったけど、今流行ってるらしくてとりあえず注射とお薬だけ貰って帰ってきたんだけど・・・。

「はぁぁ・・・なんか・・・ダルイ・・・」

「ちょっと、ちょっと。そんなんで大丈夫?」

聖さまは私のおでこに冷たい手をあてて熱を確かめ、首を傾げた。どうやら熱はないみたい。

ああ、聖さま・・・手が冷たくて気持ちいい・・・。いや、そんな事言ってる場合じゃない。

私は綺麗なドレス着た聖さまにもうね、夢中。まだカツラこそつけてないけど、

胸の谷間とかがほら、あの外国映画の女優さんみたいになってる訳。

なんていうのかな、多分私がやったらオレンジぐらいの大きさなんだろうけど、

聖さまは胸がおっきいから、まるでそこにメロンでも入ってるみたいで・・・。

「ちょ!何すんのよ!?」

「いやー・・・つい・・・」

あんまりにも見事な胸だったからついつい触りたくなった衝動に駆られた私は、

心のままに聖さまの胸をつついて、代わりに頭を小突かれた。

聖さまは胸を隠して私を軽く睨むと、バカにしたように口の端をあげて笑って言う。

「それだけ元気があれば大丈夫か。もし倒れたら骨は拾ってあげるから、しっかりやんなさい」

「・・・うぁい・・・」

ヨロヨロと立ち上がった私は奇妙奇天烈な衣装に袖を通し始めると、

聖さまに手伝ってもらってどうにか着付け終了。・・・しっかし鏡で見るとこれは・・・。

「なんか・・・似合ってるのか似合ってないのか・・・」

微妙・・・聖さまが飲み込んだ言葉なんて、すぐに分かる。だって、私もそう思うんだもん。

まぁどっちにしても、私や聖さまの出番など、本当にちょっと。

だからどうにか切り抜けられる・・・筈!いや、切り抜けたい。

せめて倒れるなら舞台を降りてからにしたい。だって、聖さま骨は拾ってくれるって言ってたし。

とりあえず、舞台だけはどうにか・・・乗り切りたいっ!!

しばらくしたら、教師達が皆舞台裏に集まり出した。何だかグッタリしてる私を置いて、

聖さまが皆に事情を話してくれる。

「と言う訳だから、祐巳ちゃんの出番ちょっと削れない?」

「ええ、それは構わないわよ。幸い祐巳ちゃんの役はあんまり他の人との絡みも少ないし」

「すみません・・・」

「いいのよ。祐巳ちゃんはその代わり、刺される役だけはしっかりやりきってちょうだいね」

「はい・・・頑張ります」

江利子さま・・・いざって時は優しい・・・。私はそんな事に感動しながら、

そのまま引きずられるみたいに舞台裏へと運ばれてゆく。

そろそろ上演・・・ああ、どうしよう・・・ドキドキする。

「お腹・・・痛い・・・」

いつものことだけど、極度の緊張に私はお腹が痛くなる。でも今回は・・・緊張で痛いのか、

体調不良によるものなのか、よく分かんない。そんなわたしの隣に、

まだ当分出番の無いSRGが様子を見にやってきてくれた。

隣に座って舞台を眺めながら私の頭を撫で、ポツリと言う。

「ねぇ、祐巳ちゃん・・・」

「はい?」

「私ね、こないだまで勘違いしてたの。

蓉子ちゃんに自分の気持ちが伝わったとばかり思ってただけど・・・、

実際のとこ・・・どう思う?」

「ど、どう思う・・・ですか?ていうか、SRG・・・言ったんですか!?」

いつの間に!?驚いた私はマジマジとSRGの顔を見つめてしまった。

失礼かな、とは思いながらも覗き込んだ私を見て、SRGは特に気にする様子もなく微笑む。

「言ったっていうか・・・なにか勘違いされてるみたいなのよね。

祐巳ちゃん、何か聞いてない?」

「勘違い・・・はっ!!」

ま、まさかあれの事なんじゃ!!私は目を丸くしてSRGを見て、

どう言おうか考えてた。でも、私の表情を見てSRGは苦笑いしてる。

多分、大方予想がついたんじゃ・・・ないのかな。

「やっぱり・・・何か勘違いしてるのね?あの子」

「はぁ・・・多分。SRGがリリアンを辞めると・・・思ってるのかも・・・」

「私が?どうして?」

「それは・・・分かりませんけど・・・でも、私はたまたま聞いてしまったので。

蓉子さまがそんな風に誰かに言ってるとこを」

私の言葉にSRGは肩をすくめて大きなため息を落とし、優しく微笑んだ。

「私が・・・ここを辞める訳ないのにね」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

その声があまりにも切なくて、私は思わずSRGの手をキュって握ってしまった。

大丈夫。SRGの想いは、きっと蓉子さまに伝わります。そう・・・伝えたかったんだ。

でもいくら言おうとしても言葉は出てこなくて、それどころか涙が零れてきて。

「どうして泣くの?」

「だって、SRG・・・泣きそう・・・」

「いやね。泣かないわよ。いいわ、こうなったら私にも考えがあるわ」

SRGはそう言って気の強そうな視線を舞台にやると、聖さまみたいに意地悪に微笑む。

舞台では、これから幕が上がろうとしてるとこ。ロミオとロザラインの濡れ場だ。

いや、確かに過激じゃない。ただ手を取り合って、愛を囁くだけ。耳元とかで・・・でもさ!

やっぱりそんなの・・・見るのも嫌な訳よっ!!私はSRGの手を強く握り、

無言でそれに講義する。すると、SRGは・・・苦笑い。でも、私達二人、気持ちは同じ。

幕がゆくりと開いて、聖さまの台詞。生徒達の歓声や拍手が耳をつんざきそう。

『ロミオ様、私、この世の全てよりもあなたを・・・愛してるんです・・・』

聖さまはそう言って蓉子さまの隣に腰掛け、うっとりと蓉子さまを見上げる・・・はずが、

どう見ても・・・そうね、睨んでる。そして小声で聞こえてくるのだ。

台詞じゃない二人の会話が。

「ちょっと、そんなに近寄らないでよね」

「仕方ないでしょ!ドレスが邪魔で・・・くそっ!」

『ああ、ロザライン・・・僕も・・・君しか居ないんだ』

甘く見つめ返すロミオ・・・なのに、蓉子さまの目つきは聖さまと同じぐらい怖い。

睨み合う二人の・・・濡れ場?この後、ロザラインの腰を優しく抱き寄せるロミオ・・・なんだけど。

「ちょ!痛いっての!!このバカ力!!」

『ああ、ロミオさま・・・』

「うるさいわね、ゴチャゴチャと!!どこが腰だか分かりゃしないったら、もう!」

『ロザライン・・・』

SRGが隣で肩を震わせている。客席には細かい表情とか、小声なんて聞こえないだろうから、

これを聞けるのは私達教師だけ。二人がいかに嫌がってこの役所をやっているかが窺えて、

ぶっちゃけ・・・面白い。面白いんだけど・・・。聖さまがロミオの肩に腕を回した。

顔はもう、ほんと至近距離・・・。そんな聖さまの頬を愛しそうに撫でる蓉子さま。

「よ、蓉子さま!!くぅぅぅぅぅ!!!!!」

思わず握り拳を作って震わせた私を見て、SRGが呆れたように慰めてくれる。

「まぁまぁ、お芝居だから・・・ね?」

「そ、そうですよね・・・でも・・・」

何かが・・・そう、何かが許せない!!ああ、もうダメっ!!!その時だった。

見詰め合ってた(睨みあってたとも言う)二人は、やがて聖さまのリードでソファに腰掛ける。

『ロミオ様・・・私・・・』

「はっ、何が悲しくてあんたにこんな台詞言わなきゃなんないのよ」

『ロザライン・・・』

「それはこっちの台詞よ!いいでしょうね?振りだけですからねっ!!」

「あったりまえでしょ!!!バカ言わないでよ」

そっと目を閉じたロミオに、ロザラインから口付ける。観客席には背中しか見えないから、

実際にしてるのかどうかは分からない。それでもやっぱりリアリティーを追求した江利子さまは、

本番前に二人にこんな事を言っていた。

『いいわね?いくら見えないからってすぐに離れたりしたら承知しないわよ!?』

嫌そうにお互いの顔を見合わせた聖さまと蓉子さま。首を傾げてほんの少し視線を伏せる様子は、

いつもの聖さまがするキスと何も変わらなくて・・・余計にモヤモヤすんだけど!

でも私よりもモヤモヤしてる人が私の隣に・・・居た。

私の手を握ってた手がブルブル震えるなぁ?と思って見たら、SRGが物凄い怖い顔してて・・・。

まるで呪文みたいにブツブツ言ってるのが聞こえてくる。

「近いっ、近すぎるわよ!!聖・・・覚えてなさい・・・」

「SRG!!お芝居!お芝居ですからっ!ねっ!?」

「そ、そうね!で、でもね祐巳ちゃん!!ゆ、許せないわ・・・」

その気持ち・・・とてもよく分かります。はい。聖さまと蓉子さま、キスはしてない。

でも、顔は・・・近すぎると思うの。・・・やがて長かったキスシーンが終わって、

ロザラインとロミオのシーンは終了。

聖さまと蓉子さまがこっちに足早にギャンギャン言い合いしながら戻ってきた。

「大体ね!蓉子は力、強いのよ!!」

「失礼ね!そのドレスのせいでしょ?そもそも、どうしてあんた相手に優しくしなきゃなんないのよっ!!」

「それはこっちの台詞よ!!」

そこへ江利子さまが満面の笑みでよってきて、二人の間に割って入ると言った。

「いや〜良かったわよ〜二人とも!台詞じゃない素の部分の面白いこと!」

その言葉に蓉子さまも聖さまも無言で江利子さまを睨んだんだけど、江利子さまはそんな事お構いなし。

それどころか・・・。

「来年はこの二人主演でいきましょうか!」

だって。その言葉に蓉子さまも聖さまも眉をピクリと上げて、まるで双子みたいに声を揃えた。

「「絶対に、死んでも嫌っ!!」」

つか、私も・・・嫌。チラリと隣を見ると、SRGも小さく頷いてて、結局その話はそこまでだった。

だって、幕が上がったら、今度はロミオとジュリエットの二人の話しだったから。

慌ててカツラをつけるSRGを蓉子さまが手伝ってて、何だかそんな光景見てると・・・。

「お似合い・・・ですよね、あの二人」

ポツリと呟いた言葉に、隣に座り込んだ聖さまが無言で頷いてくれる。

「お姉さまもモタモタしてないでさっさと言えばいいのに」

カツラの髪をいじりながら聖さまはちょっとだけ口の端を上げて、からかうように言う。

「SRGにはSRGなりの考えがあるそうですよ?」

「そうなの?」

「ええ」

だって、さっきそう言ってたもん。だから私はもう、余計な事はしないことにする!決めた!!

つか・・・そんな事言ったら絶対後から聖さまに、だったら最初から手出すなよ、って言われそうだけど。

もう終わってしまった事は仕方ない。それに、SRGに今更謝っても、

逆に怒られそうな気もするし。おまけに今日はもう・・・私、あんまり動けそうにないし。

「身体、へーき?」

「んー・・・どうでしょう?」

苦笑いを浮かべた私を見て、聖さまも苦笑い。

「ほんと、クラスに一人は居たよね、こういう奴」

「どういう・・・意味です?」

「大事な所でこけたり、イベントの日に限って体調崩すようなドン臭い人って事」

おかしそうに笑う聖さまの瞳の奥は笑ってない。多分、結構心配してくれてるんじないのかなぁ?

何だかそれが手に取るように分かって、思わず微笑んだ私を聖さまは軽く睨む。

「終わったらすぐに薬、飲みなさいよ?ていうか、今日は私も祐巳ちゃんち行こうか?」

「いえっ!とんでもない!聖さまにまでうつしちゃったら大変!それに、大丈夫。

本当にヤバくなったら・・・電話します・・・だから、その時は・・・来て・・・くださいね?」

「・・・りょーかい」

フイって顔を背けた聖さまの耳が、ほんの少しだけ赤くなってて何だかそれが嬉しくて。

ロミオとジュリエットの有名なシーンがやってくる。蓉子さまの顔は何故かとても切ない。

「蓉子・・・なりきってるなぁ・・・」

「SRGもですよ・・・案外あの二人・・・」

「うん、両想いなのかもね」

聖さまが小さく口笛を吹いた。私も真似してみたけど、生憎私・・・口笛はふけない。

そんな私を見て笑う聖さま。SRGと蓉子さま・・・私たちみたいに幸せになって・・・欲しいなぁ。


第百九十二話『恋愛の教訓って、素直さだと思うの』


私はそんな事考えながら舞台を見てた。

ぶっちゃけ、ロザラインなんて脇役なんだよね。だから前半しか出番がない。

だから私は今、舞台の袖で祐巳ちゃんの必死の演技を見てた。マーキューシオ扮する祐巳ちゃんは、

敵役の令と揉めてるとこ。それにしてもあの二人、本当にこういう役苦手なんだなぁ。

『お前らにジュリエットは渡すものかっ!』

令の棒読み過ぎる台詞。でも、祐巳ちゃんも負けてない。あの微妙すぎる衣装を引きずって、

頑張ってる。さっきからずっと。それを蓉子がハラハラした様子で見てるのが何とも言えなくて。

『やめろ、ロミオ!ここで手を出しちゃダメだ!!』

『しかし!マーキューシオ!!』

「だ、大丈夫?祐巳ちゃん・・・」

「ど、どうにか大丈夫です・・・」

フラフラの足取りで、刺される前から倒れそうな祐巳ちゃんと、刺す前からハラハラの令。

見てる分には面白いけど、そうも言ってられない。

私は舞台袖で祐巳ちゃんがいつ倒れてもいいようにスタンバイしてた。

そんな私の隣でお姉さまがやっぱりハラハラした様子で祐巳ちゃんを見てる。

「あの子、熱あるんじゃない?」

「いえ、それが熱は無いんですよ。だから余計に辛いのかも」

いっそ熱が出れば本人も諦めて役を降りるだろうけど、熱が無い分あの子の場合、

頑張りすぎてしまうから・・・いつもいつも。私はきっと、心配そうな顔してたんだと思う。

そんな私の肩に置かれたお姉さまの手に力がこもる。

「聖はほんと、祐巳ちゃん一筋ね」

突然のお姉さまの言葉に、私は首を傾げた。そうかな?まぁ、確かに今までの私を見てれば、

そう思うのは不思議じゃないかもしれない。だって、自分でも驚いてるもの。

でも、祐巳ちゃんと付き合ってみればきっと分かる。あの子を置いて浮気しようだなんて、絶対思わないって。

つか、あの子を置いて浮気する暇なんて無いと思うの。だって次から次へと問題起こしてくれるから。

考えに考えた挙句、私が出した答えは・・・。

「祐巳ちゃんほど面白い子、居ませんから」

・・・だった。いや、まぁ間違ってはないけど、案の定お姉さまは笑ってる。

「私は蓉子ちゃん一筋でいられるかしら・・・」

「さあ・・・それは何とも言えませんけど・・・でも。

例えお姉さまであっても、蓉子を泣かせたら私は許しませんよ。多分、江利子も」

蓉子とラブシーンなんて絶対にありえない。でも、それは私が彼女を愛してないからじゃない。

ただ、愛の部類が違うだけで。蓉子は私にとって大事な親友。失いたくないモノの中の一つ。

蓉子がこの学校に誘ってくれた時、私は蓉子の涙を見た。私にまで頭を下げて、

まさか蓉子が泣くなんて思ってもみなくて。別に情に負けた訳じゃないけど、

そんな蓉子を見て黙ってられるほど私は薄情でもなかった。

まぁ、蓋を開けたら殆どが皆顔見知りって言う異常事態だったんだけど。

でもアイツ本当はきっと、かなり寂しかったんだ、今まで。ずっとずっとお姉さん気質だったから、

私達の面倒ばっかり見て自分の幸せなんてそっちのけだったから。

だから余計に蓉子には幸せになって欲しい。そしてその相手がお姉さまだったら・・・どんなに安心するか。

私はお姉さまをチラリと見て早口で言った。場面が代わりそうだったから。

「だからお姉さま、頑張ってくださいよ、蓉子の事。私、こう見えても結構応援してるんですから」

多分本当はあんまり興味なかった。でも、自分が幸せなんだって事に気づいて初めて、

祐巳ちゃんが言ったように皆が幸せになれればいいなって事が理解できた。

まぁ、祐巳ちゃんにつられて応援してるって言っても、きっと嘘じゃないかもしれないけど。

ほんとのとこなんてどっちでもいいじゃない、別に。

不幸になるよりはだって、幸せになる方が絶対いいに決まってるんだから。

「そうよね。私も・・・少しは聖を見習おうかしら」

お姉さまは舞台を眺めて目を細め、蓉子と祐巳ちゃんのやりとりを愛しそうに聞いてた。

舞台の上から祐巳ちゃんの叫び声。

『もう・・・それ以上は言うな!!もしもロミオを罵倒するなら、俺だって黙ってなんてないからなっ!!』

『ほほう、どう黙ってないのかな?そんな小さな体で俺に勝てると思うのか?』

令がおもちゃの剣を引き抜き、祐巳ちゃんに向って振り下ろす。

祐巳ちゃんはゆっくりとその剣を受けて倒れ、肩で息してる。でも多分、これは・・・演技じゃない。

ゆっくりと瞳を閉じた祐巳ちゃんの顔は、何故か少し微笑んでた。ちょっとだけホッとしたのだろう。

倒れた祐巳ちゃんの身体を抱いて蓉子が令を睨む。令は冗談抜きにちょっとだけ怯えた顔してる・・・。

『マーキューシオ!!貴様、よくもっ!!』

蓉子が剣を令に刺し、令が倒れ、暗転。その間に私はドレスを引きずって、

その場から動こうとしない祐巳ちゃんを抱きかかえて、早足で舞台袖に戻って祐巳ちゃんのおでこに手を当てる。

熱がさっきよりも少しだけ上がった・・・かな?祐巳ちゃんを心配そうに覗き込むお姉さまと蓉子。

「大丈夫だから、早く二人とも行って」

「「でも・・・」」

その時だった。祐巳ちゃんがうっすらと目を開け、お姉さまの手を掴んだのだ。

そしてボソボソと話し出す。お姉さまと私が耳を近づけると、祐巳ちゃんはもう一度話した。

「SRG・・・私、ここで・・・見てますから・・・ね。

だいじょ・・・ぶ。きっとうまく・・・い・・・く」

それだけ言った祐巳ちゃんは親指を立ててまた目を瞑ってしまう。

それを見てお姉さまが祐巳ちゃんの手を強く握って叫んだ。

「もう・・・もう喋らないで祐巳ちゃん!」

「そうよ!だめよ、マーキューシオ!!」

「二人とも・・・大袈裟だし、蓉子に至っては役に入り込みすぎだから。

ここは任せて、とりあえず二人とも早く行きなって」

ったく。すぐ悪ノリするんだから。私は祐巳ちゃんを抱きかかえたまま保健室に移動しようとしたんだけど、

それを祐巳ちゃんは嫌がった。

「私・・・最後まで見たい・・・」

「ダメ。寝ないと良くなんないよ?」

「でも!お願い・・・聖さま・・・」

ここでじっとしてるから。そう言って祐巳ちゃんは私の膝の上から動こうとしない。

いや・・・つかさ、私、重いじゃん?そんなとこにずっと居られたらさ。

でもいくら言っても祐巳ちゃんは動かない。仕方ないから、私達はそこで最後まで舞台を見る事にした。

演技はもう佳境まできてて、ジュリエットが牧師に薬を貰ってるとこ。

それをハラハラした様子で見守る蓉子の背中が、何故か酷く寂しそうで。

「蓉子」

「なによ?」

私の問いかけに蓉子は睨むように振り返った。多分、今それどころじゃないのかもしれない。

でも、今言わなきゃきっとずっと言えない。私は祐巳ちゃんを木で出来た椅子に座らせ、

蓉子の隣で舞台のお姉さまの演技を見ながら言った。

「いつまで理想の愛なんて待ってるつもり?」

「今、そんな話しないでよ!!台詞忘れそうなんだからっ!!」

「いいや、今じゃないとダメなの。あのね、あんたずっと待ってるだけだけど、

それじゃあこの先、何も変わらないわよ?それでもいいの?」

たまには自分から動かなきゃならない事もある。・・・と、思う。

言うだけで待ってたって、チャンスなんて掴める訳がない。私がこんな事言うのも何だけど、

周りが動き始めた時に自分も少しは・・・動かなきゃ。

多分、蓉子にとって、今がちょうどその時期にあると思うんだ。

「良く・・・ないわよ!でも、だからってどうしろって言うのよ!?

私が止めても、あの人には・・・迷惑になるかもしれないじゃないっ!!」

「・・・蓉子・・・」

一体何の話をしてるんだろ?よく分かんないけど、とりあえず蓉子も今、

相当切羽詰ってるって事だけはよく分かった。

舞台を睨む蓉子の目に、うっすらとだけど涙が浮かんでいたから。

私はそんな蓉子の背中をそっと押した。もうすぐ出番だ。倒れているジュリエットを見つけて、

ロミオが自ら命を絶つ。

「あんたはロミオじゃない。ジュリエットが居なくなっても、きっと生きていける。

だから思ってる事、ちゃんとジュリエットに打ち明けなさい。理想の愛とやらは・・・そうね、

それからまた考えればいいじゃない」

二人で。私はそんな言葉を飲み込んだ。蓉子は・・・そう、多分お姉さまが好き。私はそう確信してる。

「・・・ありがと、聖。あんたにまで言われたら・・・どうしようもないものね」

行ってくるわ!そう言って蓉子は微笑んだ。いつもの強気な笑顔じゃない。全然。

でも、その顔はどこかスッキりしてる。まぁ、一言多いけど。

私は祐巳ちゃんの隣に戻ってきてまた腰を下ろした。

「何話してたんですか?」

「んー・・・恋愛においての教訓?」

「はあ?それ、今必要でした?」

「多分ね。ま、嫌味はばっちり言われたけど。ほんと、蓉子は素直にお礼が言えないんだから」

困ったように笑った私を見て、祐巳ちゃんが苦笑いする。

「それを聖さまが言いますか」

「いいじゃん、別に。皆素直じゃないなーって話だよ、だから」

皆素直じゃない。特に恋愛においては、素直になれる人間の方がきっと少ない。

でもだからこそ、早く素直になった人が勝つんだ、きっと。

だから蓉子、私に嫌味言ってる暇があったら、さっさと自分の気持ちに気づきなさいよね。


第百九十三話『ラブストーリーは突然に』


今、正にそんな気分。ていうか、どうしてこのタイミングで聖があんな事言い出したのか、

意味分かんないんだけど。そのおかげでほら、私は台詞・・・忘れちゃって!!

倒れたジュリエットを目の前に、私は悩んでた。次の台詞を。もう、もう、もう!!

聖のせいだ!!(洒落じゃないのよ?)そもそも私がSRGのことをどう思ってようが、

そんなのどうだっていいじゃない!ていうか、私は別にSRGの事なんて何とも・・・。

私は目を瞑ったままのSRGを覗き込んでゴクリと息を飲んだ。

こうやって、改めてこの人の顔を見た事なんて、そう言えばきっと無かったような気がする。

それ以前に、私はこの人の事をこんなにも真剣に考えた事なんて・・・無かった。

目を閉じたSRGが片目だけ開けて、不安そうに私を見つめる。多分私の台詞を待ってるんだと思う。

そりゃそうよね。次の台詞・・・私だもの。でも・・・ダメ。思い出せないのよ!!

その時だった。SRGの唇が微かに動いた。私はその声を聞き取ろうと顔をSRGに近づける。

「ジュリエット・・・どうして・・・でしょ?」

「・・・ああ・・・」

『ジュリエット!・・・どうして・・・』

そう言えばそうだ。そんな台詞だった。私は大袈裟にジュリエットの胸に顔を埋め、

大声を張り上げる。もう恥ずかしいなんて感情はどこかに行ってしまったみたいに、

今の私はロミオになりきってたんだけど、それを聞いてSRGが苦笑いを浮かべる。

「大きな声ね」

「・・・すみません」

『私を置いて・・・こんな・・・こんな・・・』

これは私の今の心境そのもので、忘れたくても忘れられない。どうして?ねぇ、SRG・・・どうして?

私、あなたの事・・・どう思ってる・・・の?誰も教えてなんてくれないのに、

何故か答えはずっとそこにあったような気がした。でも私はいつもそれに目隠ししてた。

いつもいつも聖を見て羨ましいだなんてずっと思ってたって事を思い出して、

思わず笑ってしまう。聖は自分の好きなように生きて、少しでも好きになれたなら、

片っ端から声をかけて。そのどれも長続きしなかったけど上辺ではケロっとしてて、

傷ついた素振りも見せなくて。どうしていつもそんな風に強くいられるのか、

私にはどうしても理解出来なかった。だってそうでしょう?一度恋に落ちたら、

一生をかけて愛したいと、そう思うじゃない。でも・・・聖は違うんだなって思ったら、

それが凄く羨ましくて仕方なかった。いつだって恋愛においては素直だった聖。

浮気モノだけど、ある意味ではとても正直。どうすれば・・・素直になれるんだろう?

どうすれば理想の愛は見つかるんだろう?私はいつもそう。難しく難しく考えて、

そして・・・ドツボにはまる。足掻いても足掻いても抜け出せない泥沼。

いつかこんな事になるって事も、きっと分かってた筈なのに、それでも見ないようにしてた。

私はSRGの顔をもう一度覗き込み、台本には無かったキスシーンを演じてみた。

誰かが昔言ってたんだ。その人が好きかどうかは、キスしてみれば・・・分かるって。

いや、流石に突然キスは出来ないから、振りだけ・・・してみたんだけど。

「よ、蓉子ちゃん!?」

「あ・・・す、すみません・・・えっと・・・」

『君が居ない世界など、生きてる意味も無い!』

キス・・・する振りしても全然嫌じゃなかった。それどころか、もっとしたいだなんて思ってしまって。

これって・・・どういう事?私・・・もしかして・・・?

もうダメ!よく分んない!!私は持っていた短剣で胸を突いた。

そして、ジュリエットの上に覆いかぶさるように倒れる。

私と入れ替えに起き上がったジュリエットは、私の頬をそっと撫でた。

でも、こんなの・・・台本に無かったわよね?うっすらと目を開けた私を、SRGがじっと見下ろして、

小声で呟いた。

「蓉子ちゃん、さっきのキスシーンは・・・ただのサービス?」

意地悪に微笑んだSRGは猫みたいに色っぽい。艶っぽく光る唇が私の名前をなぞるのが、

妙にドキドキする。いつもはこんな風に名前を呼ばれてもドキドキなんてしないのに!

私の頬を撫でるSRGの手は、手袋越しだけど暖かい。私はSRGの質問に答える事が出来なくて、

それどころか、もう顔も見てられなくて・・・ゆっくりと目を閉じた。

『ロミオ!!どうして・・・どうしてもう少し待っていてくれなかったの!?』

そんなの、待てる訳ないじゃない。だって、好きな人が目の前で死んでるのよ?待てる訳ないって。

心の中で思わず突っ込んだ私は、ふと我に返った。私はじゃあ、どうだったんだろう?って。

待ちすぎて待ちすぎて、本当の心も見えなくなってしまったんじゃないの?って。

そして、あの日初めて気付いたんだ。SRGが、この学校を出て行ってしまうって知ったあの時に。

私にとってSRGは、ただの先輩なんかじゃ・・・無かったんだって事に。

高校の時、あれほど助けてくれた。お姉さまと喧嘩したら、SRGが私を追ってきてくれてたんだ。

泣いてる私を見ない振りして、冗談言ったり、たまには叱ってくれたり。そしてこの学校でもそう。

一人ぼっちになった私を支えてくれたのも・・・そうよ、SRGだったじゃない。

あの時、この人は何て言った?誰をこの学校に呼べばいいか分からなくて参ってた時、

この人は・・・私になんて言った?

『蓉子ちゃんのやりやすい様に選べばいいのよ。

私は、あなたの決めた事を間違いだと思った事は無いんだから』

そう・・・言ったじゃない。だから私は素直に自分の周りをOBで固めたんだ。

いつもいつもそう。私の背中を押してたのは・・・この人だった。

私がこの人を好きにならない理由なんて・・・そうよ、どこにも・・・無かったのよ。

気がつけば涙が溢れてきてた。私の涙を見たSRGは、やっぱりいつもみたいに気付かない振りをして、

台詞を言いながらそっとその涙を拭ってくれる。

この人の優しさに、どうして今まで甘えられていたんだろう。どうして普通で・・・いられたんだろう。

好きだと気付いた瞬間、今までの私が恥ずかしくなって今すぐここから逃げ出してしまいたくなる。

でも、私は逃げられなかった。どこにも・・・逃げ場なんて・・・無い。

耳に届くジュリエットの台詞。その一言一言が自分の心と重なる。

だから私は余計に我慢できなかったんだと思う。さっきまでは流れるだけだった涙が、

今はもう滝のように溢れてくる。それこそ、SRGの指先じゃ追いつかないぐらいの量で。

誰かの前で泣くのは嫌い。自分を弱く見せてしまうから。

でも、止まらない。気付いてしまった想いも、溢れる涙も。

最期の最期のキスシーン。顔を近づけてくるだけのちょっとしたお芝居。

どうせ、観客席からは何も見えやしない。だからここは適当でいいわ。江利子はそう言ってた。

ロミオとジュリエット。なんて哀しいお話なのかしら。結局すれ違ったまま死んでしまった二人。

どうしてこうなる前にもっと素直にならなかったんだろう?

どうして自分たちの運命を他人の手に預けてしまったんだろう?

でも、私もそう。いつもいつも自分の人生を誰かに預けて、ただ待ってただけ。

王子様はいつか現われるだなんて、そんなのお話の中でしか無いって分っていながら、

誰かに全部・・・預けてた。でもこれじゃあロミオとジュリエットと変わらない。

意地張って誰かに任せたって、いい事なんて無い。私はほんの少しだけ目を開け、

SRGを見上げてみた。すると、私に気付いたSRGはほんの少し意地悪に微笑んで、

台詞を叫んだ後、誰にも聞こえない小さな声で呟く。

『ロミオさま!今・・・私もあなたの元へ・・・』

「私なら、ただのサービスでなんて終わらせないわ」

「・・・え?」

そう呟くよりも先に、柔らかい何かが唇に触れ、気がつけば私は飛び起きてた。

「キ・・・キス!?」

会場の中はシンとしてる。チラリと舞台裏を見ると、

聖が腕組して呆れたみたいにこっちを見てて、その隣で祐巳ちゃんが口元を覆って驚いてる。

最後にSRGを見ると、SRGは私を見下ろしてにっこりと笑ってて・・・。

「いい加減理想の恋なんて探すの止めて、私にしときなさい。蓉子ちゃん」

この言葉に誰よりも驚いたのは、多分私。素直にならなきゃ、でも・・・言葉が見当たらない。

素直に・・・なりたい。私も・・・聖みたいに、

祐巳ちゃんみたいに・・・好きな人に好きって・・・言いたい。

驚いて涙は止まった。でも、その拍子にどうやら言葉まで止まってしまったみたいで。

「どうなの?なかなかいい人材だと思うんだけど」

SRGの声がどこかとてつもなく遠くから聞こえてきた気がしてたのに、どうしてだろう。

今は・・・こんなにも近い。言葉を失った私が素直になれるのは、

きっとこれが最後かもしれない。私はだから、ゆっくりと頷いた。まるで子供みたいに。

言葉には出来なかった想いを、頷く事で・・・表現した。

頷いた瞬間、私の耳に届いたのは拍手や歓声。なんだろ・・・この一体感。

お芝居なんて、多分もう皆どうでもいいんだ、きっと。あんなにも必死になって覚えた台詞も、

全部、全部、SRGが持ってった。文句言いたいけど、

私は生憎突然の事過ぎて腰が抜けてしまったように立てなくて。

そんな私を抱きかかえたSRGは、いや、ジュリエットは、

何を思ったのかそのまま舞台から飛び降りて駆け出した。さすがは体育教師。

私を担いでても結構早い。観客席の間を縫って走り抜けるジュリエットとロミオを拍手が追いかけてくる。

慌てたのは取り残された役者達で、ナレーションをしてた志摩子がオロオロしてるのが目の端にチラリとうつった。

そんな志摩子の隣からスイっと出てきた乃梨子ちゃんが、志摩子の肩をポンと叩いて、

マイクの前に立つ。

『こうして、キスで息を吹き返したロミオを担いで、ジュリエットはこの町を旅立ちました。

以後、二人の消息を知ってる者は居ません。きっと、どこかの村でひっそりと今も幸せに暮らしていることでしょう。

以上、教師と有志達によるロミオとジュリエットでした』

「乃梨子ちゃん・・・ナイスナレーション」

ポツリと呟いたSRGの声は、どこか楽しそう。でも・・・あのナレーションは無い。

どこのジュリエットがロミオ担いで失踪するって言うのよ?ありえないけど・・・でも、

誰もが一度は望んだ終わり。どうか、生きて。生き延びて。そして、幸せに・・・なって。

私達は、そう。原作とは全く違うエンディングを作り出したんだ。

知らない間に、望んでたエンディングを。私はSRGの肩に担がれたまま、そんな事を考えていた。

「蓉子ちゃん?」

「はい?」

「後悔・・・してないわよね?」

さっきまでは自信たっぷりだったSRGが、ポツリと言った。

後悔・・・そんなの、よく分らない。ただ、今ひとつ言えるのは・・・。

「分りません。でも、私は勝てない賭けはしません」

「・・・なるほど」

恐れ入ったわ。SRGの呆れたような声がおかしくて、私達は笑った。

あまりにも可笑しくて、涙が溢れた。こんな時でもSRGはやっぱり私の涙を見ない振りする。

「とりあえず、これからもよろしく。蓉子ちゃん」

「はい、こちらこそ」

今までただの同僚だと思ってた。でも、明日から・・・何かが変わりそうな、そんな気がする。

ほんの少し恥ずかしいけど、当分はまともにSRGの顔見れないかもしれないけど・・・、

今日、帰ったら山茶花はもう止めよう。だって、私はきっと、理想の愛を・・・手に入れた。


第百九十四話『今、流行の』


ガゼ・・・びいだ・・・。私はSRGと蓉子さまの誰かを彷彿とさせる告白劇を見てすぐ、保健室に運び込まれる途中。

「はぁぁ・・・良かったですね〜、聖さま。お二人ともほんと・・・まさか両想いだったなんて」

未だ興奮冷めやらぬ私は聖さまの腕の中で両手を組んでさっきの場面をまた思い出していると、

聖さまが怖い顔して言う。

「あんなの・・・私のパクリじゃん。つか、結局あの後二人のせいで滅茶苦茶だし。

いつまで経っても戻ってこないし。一体どこへ消えたのやら」

聖さまはどうやら劇の後始末についてまだ怒ってるみたい。そりゃね、大変だった。

理事長と体育教師が二人して失踪。乃梨子ちゃんがその場を何とか丸く治めるナレーションで切り抜けてくれたけど、

親や見に来てたPTAの人達の抗議に受け答えしたのは全部聖さまだったから。

それにしても、聖さまの言い訳は凄かった。詰め寄るPTAのおばさんを見下ろして言った言葉。

『ただのお芝居ですから。普通のロミオとジュリエットじゃ誰も見に来てなんてくれませんからね。

時代は変わるもんですよ。私達教師がその時代に取り残されてるとあっちゃ、教育もクソもありませんよね』

聖さまはこの台詞で全ての抗議を乗り切った。最後の方にはもうウンザリした様子で、ただの芝居ですってば!!

って叫んでたけど。何にしても聖さまはSRGと蓉子さまの尻拭いだ〜〜!なんて喚いてたけど、

まんざらでもなかったみたい。だって、聖さまだって絶対本当はあの二人の事祝福してるに違いないんだから。

「さて、とりあえず帰りまでここで大人しく寝ててちょうだい、マーキューシオ」

「うぅ・・・はい・・・」

聖さまはそれだけ言ってカーテンを引いて、保健室を出て行ってしまった・・・と、思ったら。

「忘れ物」

戻ってきて軽いキスしてまた保健室を出て行く。そんな聖さまの行動が何だか可笑しくて嬉しくて、

一人で毛布握り締めてニヤニヤしてた私は、多分相当気味悪い。

しばらくして保健室の天井を見上げると、思い出すのは二年前。やっぱり私は風邪引いて、

保健室で倒れた日の事。あの時は目を覚ましたら聖さまが心配そうに私を覗き込んでいたっけ。

目を覚ますなり私を軽く睨んで、そして・・・家にあげてくれたんだっけ。

何も無かった部屋に裸電球。ipodが無造作に転がった部屋の中で、私は聖さまの作ったクリームシチューを食べた。

あれが何故か凄く美味しくて、聖さまは料理出来るんだ!!って感動したのを今も覚えてる。

その後、怒られた事も。こうやって考えると、人間の記憶って結構優秀。

ふとした拍子に蘇る当時の気持ちとか、想いとかは一体いつまで覚えてられるんだろう。

「このまま一生・・・覚えてられるかなぁ・・・」

そうだといいなぁ・・・だって、忘れたくないもん。聖さまの行動とか言動とか、

そういうのは出来るだけ全部覚えてたい。幾つになっても、どれだけ時代が変わっても。

そんな事を考えてるうちにあっという間に時間は過ぎて、私は大人しくしてたおかげか体調も大分マシになって。

「そろそろ帰ろうか〜?」

聖さまが着替え終えて保健室にやってきた頃には、自分の足で立てるぐらいシャンとしてた。

「立ってへーき?」

「はいっ!熱も無いみたいですし、もう大丈夫です!」

「そ。ならいいけど。じゃ、買い物して帰ろっか」

「買い物?でも聖さまは・・・」

どうして?だって・・・帰る方向・・・反対なのに。

多分私はまた顔で喋ってたんだろう。聖さまはそんな私を見て口の端だけ上げて笑う。

「今日は祐巳ちゃん家で食べるわ。別に構わないでしょ?」

「はあ・・・でも、どうして・・・」

だって、ウチ来ても今、絶対面白く無いよ?それなのに聖さまは今度はにっこりと笑って言った。

「食事ぐらい作らせてよ」

って。それがね、何だか凄く嬉しかったんだ。私を始め、今皆インフルエンザに倒れてて、

正直私も自分だけじゃどうにもなりそうにないなって思ってたからかもだけど、

こんな風に言ってくれる聖さまの言葉が、だから凄く・・・嬉しかったんだ。

学校の帰りに二人で買い物するのが酷く久しぶりな気がするのは、きっと気のせいじゃない。

聖さまはカートを押す私の後ろからテクテクついてきて、時々立ち止まってはフラフラと居なくなる。

そして戻ってきたと思ったら、手に野菜とか飲み物とかを持って現われるんだ。

これがいつもの私達の買い物の仕方で、特に私達は何とも思わなかったんだけど、

改めて考えるとこれって何か不思議。初めの頃は聖さまと買い物行くってだけで舞い上がって、

それこそ緊張してテクテクついて行ってたのは私だったのに、いつの間にかそれが反対になって。

そしてそれがどんどん当たり前になっていったのを、こんなにも嬉しく思うなんて。

慣れてしまうのは嫌だけど、こういう慣れなら・・・いい。幸せだ。

「こんなもんかな?」

「ええ、多分・・・でも、これで何作るんです?」

「内緒」

今日の晩御飯は聖さまが作ってくれるらしい。張り切って・・・ってほどではないみたいだけど。

でも、嫌そうではない。聖さまの性格上、嫌な事は本当にしない人だから。

でも今日はご飯作ってくれるんだって!久しぶりに食べる聖さまの手料理。何だか今からワクワクするじゃない!

家に帰った私はまずお母さんの寝室に向った。お母さんは私を見て弱弱しく笑って立ち上がろうとする。

「いいってば!そのままでいいから。あのね、今日は聖さまが一緒に来てくれたの。

ご飯を聖さまが作ってくれるんだって」

「あらそうなの・・・ごほっ・・・悪い・・・げほっ・・・わねぇ」

お母さんは・・・重症。さて、次はお父さん。お父さんの寝室に入ったら、

お父さんはゴッホゴッホ咳しながらベッドに俯けに倒れてた。

「お父さん、ただいま。大丈夫?」

「おお、祐巳か・・・いいか、もし父さんに何かあったら、あの机の引き出しに入ってる・・・」

「お父さんってば・・・心配しなくても何も無いよ。それだけ喋れるんなら、大丈夫ね。じゃ、また後で」

「ゆ・・・祐巳・・・」

お父さんは・・・大袈裟。最後は・・・祐麒だ。実を言うと、あの子が一番心配。

多分、家族の中で一番酷いインフルエンザにかかってると思うの。

ていうか、そもそも一番辛い風邪引いてても彼は決してそれを言わない。だから余計に祐麒が一番心配だった。

私は祐麒の部屋っをノックして中に入ろうとした時、後ろから聖さまの声がした。

「お父さんとお母さんは大丈夫だった?」

「聖さま。ええ、あの二人はもう大分マシにはなってると思うんですけど・・・問題は・・・」

「祐麒か。我慢してそうだもんね」

そうなんですよね。祐麒はちっちゃい頃からしんどくても言わないんですよ。絶対。

私は祐麒の部屋を開けて中に入った。祐麒は微動だにしないで布団に蹲ってる。

「祐麒、祐麒・・・大丈夫?」

「んー・・・」

「本当に大丈夫なの?熱は?」

「んー・・・」

・・・ダメだこりゃ。そんな私を退けた聖さま。何を思ったのか祐麒の布団を無理矢理めくって、

嫌がる祐麒のおでこに手を当て驚いた。

「これ、病院行った方がいいんじゃない?」

「えっ!?そ、そんなに高いですか?」

「たぶん」

聖さまはそう言って祐麒の顔を覗き込み、心配そうに見つめてる。それに気付いた祐麒はと言えば。

それまで布団に包まってて聖さまが見えなかったんだろう。

今自分を覗き込んでるのが私じゃないと分かった途端、驚いて小さな悲鳴を上げた。

「さ、佐藤さんっ?!」

「ごきげんよ。大丈夫?」

「えっ?あ、あれ??ど、どうして・・・ごほゅ・・・ふひゅっ!!」

「「・・・・・・」」

祐麒・・・瀕死。私達は顔を見合わせて祐麒をとりあえず病院に連れていく事にした。

本人はかなり嫌がってたけど、仕方ない。あんな変な咳とくしゃみしてたし。

病院の待合室はマスクした人で一杯だった。それを見た聖さまは一人で車を降りる。

「私受付済ませてくるから、あんた達はここで大人しくしてなさい」

「「はい」」

それだけ言って聖さまは私達を残し病院の中に入ってゆく。病院から出てくる人たちは皆、

ぐったりしてて、本当に苦しそうで。どうやら今、インフルエンザは本当に流行ってるみたい。

聖さま・・・大丈夫かな・・・うつったりしなきゃいいんだけど・・・。

「祐麒、私ちょっと行ってくるね」

車を出ようとした私の手を、祐麒が引いた。咎めるような顔で首を横に振る。

「どうして止めるのよ?」

祐麒は大きなマスクをほんの少しズラしてほんの少し怒ったような口調で言った。

「佐藤さんの気持ち考えてやれよ。祐巳にうつったら嫌だから待ってろって言ったんだろ?」

それは・・・そうだけど。でも、私だって心配なんだもん。私の顔を見た祐麒は、今度は苦笑いする。

仕方ないなって感じで首を横に振って、呆れてる・・・っぽい。

「祐巳の気持ちも分かるけど、今佐藤さん倒れたら、誰が面倒見んだよ?

祐巳もそんななのに。佐藤さんそれ分かってるんじゃないの?自分がもし倒れても、祐巳が居れば安心じゃん。

だからそれ以上悪くならないようにここで待ってろって言ったんだろ?」

「・・・・・」

それはそうかもしれないけどー・・・でもでもでも!!!

俯いた私に、祐麒がポケットから出したマスクを差し出してくれた。

「これでもして大人しくしときなって。姉ちゃん」

「・・・ありがと」

姉ちゃんって・・・こんな時だけお姉ちゃん呼ばわりなんだから。

私はマスクを受け取って大人しくそこで待ってる事にした。

聖さまは、多分自分が倒れる事なんて想定してない。多分、本気で私を心配してるんだ。

何故か、私にはそれが痛いほどよく・・・分かったんだ。そして、きっと祐麒も知ってる。

聖さまの・・・気持ちを。私は何だか自分が恥ずかしくなった。

皆して私を心配してくれてるんだって事が分かって。

しばらくして聖さまが車に戻ってきて、仲良く並んでマスクしてる私達を見て笑った。

「そうやってるとほんと、そっくり。ほら、車降りて。次だから」

「「・・・はい・・・」」

笑われて釈然としない私達は顔を見合わせお互い嫌そうな顔した。それがまた聖さまの笑いを誘う。

聖さまは祐麒が車を降りたのを見て、私の手を取りゆっくりと歩き出す。

私とだけ手を繋いでくれる聖さま。いつもそう。私だけは特別に・・・大事にしてくれる。

「聖さま?」

「ん?」

「倒れたり・・・しないでくださいね?」

私は繋いだ手をキュって握って、聖さまを見上げた。聖さまはそんな私を見て、意地悪に微笑む。

「私が倒れたら困る?」

「・・・・・・・・」

そうじゃなくて!!聖さまが苦しそうにしてるの見るの嫌だから言ってんじゃん!!

睨んだみたいな私に気付いたのか、聖さまが慌てて言った。

「冗談だってば。大丈夫、私、昔からインフルエンザには強いから」

だって。なるほど、聖さまはインフルエンザには強いのか。その言葉がやけに安心する。

何の保障もないけど、でも・・・凄く、安心。これはきっと、聖さまの魔法に違いない。


第百九十五話『寂しくて切なくて』


聖が祐巳ちゃんの看病に追われてる間、私達もまた大変だった。

ていうか、そもそも付き合うってどういう事だっけ?

それすらもとうの昔に忘れてしまった私は、本当に恋愛音痴なんだと思う。

理事長室の大きな机に頬杖ついて溜息を落とした私。

SRGが好きだと自覚して初めて私はSRGを意識し始めて、

さらに最悪な事にまともに顔すら見れなくなって。

そんな私を知ってか知らずかSRGは聖と祐巳ちゃんの心配ばかりしてて。

そりゃ大事な妹ですもの。心配しない訳がない。

でも、少しだけ私の事も心配して欲しいだなんて、やっぱりワガママかしら?

「ワガママよね・・・そんなの・・・」

もう一度ついた大きなため息は、私の頭上に溜まりに溜まってそのうち雨でも降らせそう。

「何がワガママなの?」

突然の声に顔を挙げると、理事長室のドアの入り口のとこにSRGが腕組してニコニコしながら立ってる。

「え、SRG・・・いえ、ただの独り言・・・です」

「そう?じゃあ、そんな蓉子ちゃんにお願いがあるんだけど、いいかしら?」

「・・・はい、なんです?」

SRGが私にお願いだなんて、しかもこんな風に改まってってのは珍しい。

今まで何度も何度もSRGのお願いは聞いてきたけど、そのどれもロクでもないものばっかだったから。

例えば・・・スキーに行きたい、とか、他には・・・スキーに行きたい・・・とか、

えっと・・・あれ?スキーばっかりじゃない。それを私は毎回毎回無視してたんだっけ。

今思えば、もしかしたらSRGは私を誘ってくれていたのかしら?

そして私はそんなSRGの気持ちも知らずに散々その想いを無碍にしてきたんじゃ・・・。

不意に思いついたそんな考えが私をどうしようもなく酷い女のように責める。

でも仕方ない。。だって、あの頃は本当に何も思っていなかったんですもの。

そんな風に言い訳したって本当は知ってる。多分、私はただ逃げてただけなんだって事を。

だから今はこんなにもSRGの行動や言動の一つ一つが気になって仕方ないんだ。

SRGはそんな私の考えてる事なんて全く知らないだから・・・私に平気でこんな事、頼むのよ・・・。

「帰りにね、聖の家に寄ってくれないかしら?」

SRGの手にはチョコレートやお菓子の詰まった可愛い籠。私がそれに視線を走らせたのを見て、

SRGは小さく微笑んで頷いた。

「そう、当たり。これを届けて欲しいの。

ほら、聖も祐巳ちゃんも相当参ってるみたいだから。ね、お願いできる?」

「・・・分かりました・・・でも、私が行くよりもあなたが行った方が二人とも喜ぶと思いますけど」

鉄壁の女。影で私はそう呼ばれてた。でも、それは真実じゃない。

本当はただの焼きもち妬きで、勇気のないどうしょようもない女なのよ。

家に帰ったらジャージだし、家事も苦手。仕事しか出来ない奴なのよ!!

でも外ではそんな風に見せたくなくて、ついつい意地張って・・・私は本当に・・・。

喉が詰まりそうだった。苦しくて切なくて。SRGの小さな頼み事もすんなり聞き入れられないほど、

私は知らない間にSRGの事を好きになってたんだ・・・。

案の定SRGは意地を張った私を見て苦笑いを浮かべ、

そうね、と呟いてそのまま理事長室を出て行ってしまった。

「そんな・・・つもりじゃなかったのよ・・・」

誰も居なくなったドアに向って言ったけど、今更もう遅い。誰にも届かない声など、なんの意味もない。

私は机に突っ伏して涙は流さず心で泣いた。私・・・どうしていつも、こうなんだろう・・・。

帰り間際、SRGと目が合ったけど、私は軽い会釈だけして職員室を後にした。

それでもあの人は追って来ない。それは私の事を誰よりも理解しているからだと、

この時の私はまだ知らないで居た。それを私が知るのは、もっとずっと後の・・・事。

車に乗り込んでコンビニで冷めたお弁当を買う。いつもの事なのに、何故か今日は酷く寂しく感じる。

「私・・・やっぱり一人なのね・・・」

レジで並ぶ間、籠の中を見てポツリと呟いた言葉を、

偏ったお弁当とパックのアイスティーが慰めてなんてくれない。

ただ余計に私を苦しくは・・・してくれたけど。以前は聖もこんな生活だった。

帰りによくここでバッタリ会ったものだ。そしてお互いの籠の中を見て笑って。

『またそれ?一昨日もそれだったよね?』

『あんたに言われたくないわよ。聖こそ、昨日もそれだったじゃない』

嫌味を言って、一人じゃないって安心して。でも聖が祐巳ちゃんちに入り浸るようになってから、

彼女はとんとこのコンビニに来なくなった。だからもう、ここで聖に会う事はない。

それはとても嬉しい。親友が幸せなら、それにこした事はない。

「でもね・・・寂しいのよ・・・」

そう、独り言がどんどん増えて、さらに寂しさを募らせて・・・。

SRGの告白が私を変えたはずなのに、何故か余計に寂しいと感じてしまうなんて。

それはどうしてだろう?離れているから?それともSRGが聖や祐巳ちゃんの心配ばかりしてるから?

いいえ、違う。多分、それは自分に・・・自信がないからだ。

だからこんなにも・・・寂しいんだわ、きっと。

「温めますか?」

「・・・いいえ、いいわ。ありがとう」

一日の最後の誰かと交わす言葉がこれだもんね・・・切な過ぎるわよ、ほんと・・・。

SRGから毎日電話がある訳じゃない。そりゃそうよね。皆都合があるんですもの。

でも、もう嫌なのよ。散らかった部屋の中で真っ暗にしてテレビ見ながら夕食食べるのは!!

家に帰ってもする事は毎日同じ。シャワーを浴びてお弁当を温めて、テレビつける。

そして明日の書類やプリントを書いて、布団に潜り込む。テレビもつけたままで・・・。

誰かの話し声が聞こえてるだけで安心する私は、多分本当に寂しがりなのだろう。

「明日は・・・土曜日か・・・」

目覚まし時計の電源をOFFにして、私は布団を頭から被った。もう・・・寝よう。

どうせ明日も何の予定もないんですもの。週末なんていっつも同じ。

昼まで寝て、特に何もしないで。

私は布団から顔だけ出して散らかった部屋を見て大きな溜息を落とした。

「そろそろ掃除もしなきゃね」

でなきゃ、あんまりだ。聖じゃないけど片付けぐらいはしないと。

はぁぁぁ・・・これで付き合ってるって・・・言えるのかしら・・・。

私、いつからこんなにあの人の事好きになってたんだろう・・・。

どうしてこんなにも・・・逢いたいの?ああ、もう・・・嫌っ!!

布団の中でいくら蹲っても、寂しさは紛れない。でも、そのうちきっと・・・寝てしまう。

その時だった。突然インターホンが鳴った。枕元の目覚まし時計を見ると、

11時過ぎ。ったく。どうせ聖よね、アイツはいっつもこんな時間に何の約束もせずにやってくる。

私はせっかく温まった布団から出て、溜息をつきながら何の確認もせずに玄関を開けた。

でも、それが・・・間違いだった・・・。

「ご、ごきげんよう。寝て・・・た?」

「どっ・・・どうしてここに・・・」

頭の中が真っ白になるって、こういう事を言うのね。私は玄関先にサンダルのまま立ち尽くし、

私よりもずっと驚いた顔してるSRGを見上げてた。


第百九十六話『役割分担のススメ』


正直、言葉が出なかった。

だってね!学校の蓉子ちゃんとはその・・・イメージが違いすぎるって言うか、

ギャップが激しすぎるって言うか・・・とにかく!!私は失礼だとは思いながらも、

その場に立ち尽くして何も言えなかったの。

でも、蓉子ちゃんも私に負けないぐらいポカンと口を開けたまま私を見上げ、

まるで私が本物かどうかを調べるみたいに怪訝な目つきで私を上から下から眺めてる。

「えっと・・・ど、どうしたらいいかしら・・・」

あまりにも唐突に尋ねた私もいけない。それは分かってる。でも、何だか・・・そうね。

帰るきっかけを失ったって言うか、上がりこむきっかけすら失くしてしまって。

私の言葉に蓉子ちゃんが小さく首を傾げ、訝しげに私を見る。

ああ、もう・・・そんな顔しないで、お願いだから。私だって困ってるのよ、どうしたらいいか。

今日、いや・・・あの告白の日からずっと私達の間はずっとギクシャクしてて、

その原因がいまいちよく分からなかった私は、明日は土曜日だし意を決してここにこうやって来た訳よ。

それなのに、この様でしょ?もうね、自分が嫌。蓉子ちゃんから見た私の存在は、

つい最近まで聖のお姉さまで、蓉子のちゃんのお姉さまの親友。多分それぐらいの認識だったと思う。

でも、私にとっては違う。ただの親友の妹だって概念はなくて、それよりももっと・・・。

確かに、恋・・・ではなかったと思う。でも、恋に限りなく似てたのかもしれない。今、思えば。

蓉子ちゃんに気付かれないように息を小さく吸い込んだ私は、

ここで初めて蓉子ちゃんの顔をまともに見た。ていうか・・・化粧してない所を見るのは・・・初めて。

あ、もちろん社会人になってからの話だけど。スキーの時も見たけど、あの時はさして気にもしてなかったし。

こうやって改めて見ると蓉子ちゃんて・・・。

「あんまり高校の頃から変わってないわね」

この言葉に蓉子ちゃんはピクリと眉を上げた。ヤバイ・・・怒らせ・・・た?

絶対に怒らせたと思った私は小さく肩をすくめ、いつもみたいに沢山の言葉が返ってくるのを待った。

でも、それはいくら待っても戻ってはこない。それどころか。

「寒い・・・でしょう?どうぞ、中・・・入ってください」

「・・・え?」

「散らかってますけど」

思いもかけない優しい蓉子ちゃんの言葉。はっきり言って・・・こ、怖いわ・・・蓉子ちゃん。

ドアを開け放したまま私が入るのを待つ蓉子ちゃんに貼り付けたみたいな笑顔を返して、

私は家の中に足を踏み入れた・・・んだけど。散らかってますけど。

つい今しがた呟いた蓉子ちゃんの言葉が私の頭を何度も何度もループする。

なんていうか・・・そうね。汚い訳じゃない。ただ・・・散らかってる。

ええ、それが正しいわね、この場合。ゴミが散乱してるとか、そういう汚れ方じゃないのよ。

ただ雑誌とか、着替えとかが散乱してるの。

ふと足元に目をやると、そこに蓉子ちゃんの下着が落ちてた時には、もうどうしようかと思った。

リビングは、まぁ・・・そんな感じ。でも、意外なことに食器だけはどれもピカピカ。

だから私は思わずポツリと呟いてしまった。

「食器は・・・綺麗ね」

「食器・・・は?」

「あっ、いや!べ、別にそういう意味じゃ・・・」

言いかけて、ふと止めた。いや、そういう意味もなにも、この部屋は十分散らかってるわよ、って。

でも私の考えが分かったのか、蓉子ちゃんが苦い笑みを零す。

「いえ、いいんです。散らかってますから、食器意外は」

『は』をやけに強調した蓉子ちゃんの口調が非常に気になるけど、でも、うん。

怒ってはなさそうで安心したわ。私は改めて部屋を見回してもう一度蓉子ちゃんを見る。

「ジャージ姿にも驚いたけど、片付け・・・苦手なの?」

ドアを開けて一番に飛び込んできたのは見慣れたジャージ。高校の時の。

せめてセーラーならまだコスプレ?とか思うんだけど、

ジャージってなると・・・明らかに機能性を重視してるんだなってのが痛いほど伝わってきて、

何だかそこに蓉子ちゃんらしさを感じてしまった私は、多分相当今盲目的になってると思うの。

でもね、それでも別に良かったのよ。蓉子ちゃんが例えジャージ姿だろうが、

部屋がこんなに散らかっていようが、不思議な事に大した事ないように思えたんだもの。

小さく笑って尋ねた私に、蓉子ちゃんは真剣に考え込んでようやく導き出した答えが。

「小さい頃はもう少しマシだった筈なんですが」

だった。この真剣さも蓉子ちゃんらしくていい。真面目なんだけど、どっか抜けてる。

そこがこの子の可愛いところなのだ、昔から。

「そうなの。ま、別にいいんじゃない?部屋なんて自分が住みやすいようになるものよ」

「そんな・・・もんでしょうか?」

「そんなもんよ」

実際、もし私とこの先いつか一緒に住むようになったら、こんな部屋には住ませないけどね。

私はそんな言葉を飲み込んだ。だって、不安定な約束ほど曖昧なものはない。

守れないかもしれないなら、約束なんてするべきではないと思うし。

私の答えにようやく蓉子ちゃんは笑ってくれた。良かった。私がここに来てから、

蓉子ちゃんはただの一度も笑わなかったから。来ちゃいけなかったかと思った。

私は、聖じゃないけどどうしてこんなにも臆病なんだろう。たかが恋愛。

もっと楽しめばいいのに、どうも・・・ダメなのよね、昔から。

「えっと・・・とりあえず紅茶・・・入れますね。あー・・・そこらへんの物避けて座ってもらえます?」

「避け・・・え、ええ、そうね。そうするわ」

足元に散らばった雑誌や洗濯物を無造作に端っこに避けた私は、気がついたらそれを畳んで、

雑誌ラックに仕舞ってた。習慣って恐ろしい。この調子じゃ私、

きっと今からこの家の大掃除に突入しそうで怖い。そうだわ、見ないようにしましょう。

もう私は、蓉子ちゃん意外、何も見ないから!!それから私はずっと蓉子ちゃんを見詰めてた。

でも、これが案外良かったのかもしれない。紅茶を持ってやってきた蓉子ちゃんは、

私を見てほんの少しだけ頬を赤らめ、私の前にそっと紅茶を置いて言った。

「そんなに・・・見ないでください。恥ずかしいじゃないですか」

「ご、ごめんなさい」

ていうか、あんまり照れないでよ・・・何だかこっちまで恥ずかしくなるじゃない!!

でも、何だろうこの違和感・・・何だか酷く懐かしいような気がする。

学校ではだって・・・怒鳴ってばっかりだから。そして私は気付いた。

蓉子ちゃんって、実は相当猫被ってるんじゃ?って。しかも、悪い方の。

いや、どっちも好きだけどね、多分・・・この子損してる。

それを蓉子ちゃんに伝えると、蓉子ちゃんは苦笑いして言った。

「だって、仕事とプライベートは別ですから。それに、学校には・・・あなただけじゃないし・・・」

ですって!!くぅぅ〜可愛い事言ってくれるんだから!!

ああ、そうか。高校の時から私は知ってるんだ、この子のこういう所。

だから懐かしいと・・・感じるのね。それから私達は他愛も無い昔話で盛り上がった。

「蓉子ちゃんはお姉ちゃん気質だもんね」

「そう・・・ですか?でも、毎日寂しい思いをしてますけどね」

そう言ってチラリと視線を移した先にはコンビニの袋。中にはカップラーメンとか、

インスタント食品ばっかり入ってる。それを見て私は納得した。

どうしてあんなにも食器が綺麗だったのかを。蓉子ちゃんは片付けが苦手で、料理もどうやら苦手みたい。

「栄養偏るわよ?」

「だって、洗い物・・・好きじゃないんです」

「なるほど」

決してものぐさなタイプではなさそうなのに、人間って不思議。

でも蓉子ちゃんによくよく聞くと、どうやら彼女、ただのものぐさで家事が苦手な訳じゃないみたい。

蓉子ちゃん曰く。

「家事に興味・・・持てないんですよね・・・小さい頃は両親に叱られて片付けたりしてましたけど、

一人になるとどうも・・・」

つまり、誰かに監督されたら出来るタイプなのだ、この子は。

何だか蓉子ちゃんとする昔話は、ほんの少しだけど蓉子ちゃんの歴史の一部を見たみたいで、

思ったよりもずっと楽しかった。今まで見えてなかった一面が見えたり、

かと思えばちゃんと私の知ってる蓉子ちゃんも見えてくる。

聖がそう言えば言っていた。祐巳ちゃんと居ると楽しい、と。

理由は飽きないし、祐巳ちゃんを知るのは楽しいから。単純だけど、なかなか難しくて意外に深い。

蓉子ちゃんの歴史は私の知らない所からずっと始まってて、私の歴史も蓉子ちゃんと逢う前から始まってる。

そう考えると、聖の言っていた言葉の意味がほんの少しだけ理解出来るような気もする。

俯いてそんな事考えてた私に、何を勘違いしたのかポツリと蓉子ちゃんが呟いた。

「振るなら・・・今のうちですよ」

って。でもね、そんな事じゃ私の気持ちは変えられない。だから私は笑って言った。

ていうか、自然と・・・笑えた。

「蓉子ちゃんは家事が苦手。でも大丈夫。家事は私が全部してあげるから」


第百九十七話『目すら離せない』


私にはもったいない人だ。いや、以前からずっとそう思ってたけど、

今改めてそんな風に思う。だって、ここまで汚い部屋を見ても引かないし、

ジャージ姿見ても特に反応もない(心の中じゃどう思ってるか分からないけど)。

聖と江利子はここに来て真っ先に掃除を始めたけど、この人はしない。

何だかそれが不思議だった。聖や江利子の方が付き合いは長い。

それなのに、聖や江利子よりもこの人は私の事を・・・理解しようとしてくれる。

まさか今日、SRGがここへやって来るなんて思ってもみなかった私は、

いつものようにシャワーを浴びて夕食を食べて、そして布団に入った。

いつもの週末なら、間違いなくもう寝てる時間。それなのに、今日は・・・笑ってる。

しかも一人じゃない。これって、結構重要。いつもの私の時間に他の誰かが居るなんて、

こんなにも嬉しいことって・・・ない。私とSRGの昔話が終わったのは、

夜中の2時を少し回った頃だった。こうやって思い返すと、全く別の人生を歩いてきたはずなのに、

何故か昔から知ってるような気がして仕方ない。

「それじゃあ、私はそろそろ帰るわね」

「え・・・?」

立ち上がったSRGの袖を私は掴んでいた。自分でも気付かないうちに。

私はそんな自分自身に驚いて慌てて手を離したんだけど、何かを察したのかSRGはもう一度座り込む。

「寂しいの?」

呟くように落ちたSRGの言葉はあまりにも優しくて、心地良かった。

尋ねるような、何かを探るような不思議な響きが身体の中に溶けてゆく。

「・・・はい・・・」

こんなにも素直な私は私じゃない。いや、これも・・・私か。

私の返事を聞いたSRGは私の頭を優しく撫で、にっこりと笑ってくれる。

何だか、とても居心地が良かった。一人じゃないからじゃない。

相手が・・・この人だからだと、そう・・・思った。

「じゃあ・・・今日は泊まってもいい?」

一歩踏み込んでこられるのが分かる。でも私は怖がったりしなかった。

何故か心が言うのだ。この人には怯えたり強がったりしなくていいんだよ、って。

いつも頭で考えてた。心よりも先に頭を優先させてここまで来た。結果、一人ぼっちになった。

でも、それはそれで悪い事じゃない。ただ・・・たまには息抜きが必要なだけ。

私にも甘えられる誰かが欲しいだけ。SRGになら甘えられる。きっと私の本能は知ってたんだ。

だから見えなくなってたに違いない。本当に大切な・・・誰かに。

SRGの言葉に私はゆっくりと頷いて、ほんの少しSRGに近寄った。

そんな私を優しく抱きとめてくれるのは暖かくて華奢な腕。

しばらく私はSRGの腕の中でじっとしてた。

肩で切りそろえた髪が私の鼓動に合わせてフワフワ揺れるのを見つめていた。

「蓉子ちゃん、キス・・・していい?」

いつもよりも自信の無さそうな声が耳に届く。私はその声に顔を挙げ、じっとSRGの瞳の奥を見る。

SRGも私と同じように私の目の奥を覗き込んで、ゆっくりと瞳を閉じた。

長い睫毛の影が頬に落ちるのが綺麗だなんて考えてるうちに、私の唇は塞がれていて・・・。

「・・・ん・・・」

ロミオとジュリエットを演じた時よりもほんの少しだけ甘いキス。

全身が痺れるようなこの感覚は何だろう。前に付き合った人とキスしても、

こんな風には・・・感じなかったのに。気がつけば私はSRGの胸元をしっかり掴んでて、

それに応えるようにSRGも私をさっきよりもずっと強く抱きしめてくれる。

しばらくそのままで居たけど、突然SRGが思い出したように笑った。

「ジャージ姿じゃあまりきまらないわね」

綻んだ口元が私の笑いを誘う。ふと我に返ってみれば、そうだった。私はジャージなのだ。

「本当ですね・・・やっぱりこれじゃあ、あんまりですか」

「そうねぇ・・・ま、でもいいわ。今日の所は許してあげる」

冗談めかして言ったSRGの言葉が暖かい。私はその暖かさに今、

頭のてっぺんからつま先までどっぷりと浸かってしまいたかった。

勇気はない。いつまで経っても。でも、根性なら・・・ある。

私はまだ笑ってるSRGの胸に耳を当てた。そんな私の動きに驚いたようなSRG。

突拍子も無い私の行動にSRGの心臓の音が跳ね上がる。ああ、良かった・・・。

この人も私と同じぐらいドキドキしてくれてる。そんな事で幸せを確かめる私は、

どれだけ今まで不安だったのだろう。どれだけ・・・寂しかったのだろう。

柑橘系の香りがするSRGの香水。私はこの香りをずっと知ってた。

そっとSRGの首筋にかかった髪を払うと、それが合図だった。

真っ直ぐに私を見つめてたSRGが私の手を取り、そのまま私は散らかった雑誌の上に、

仰向けに転がっていた。

「せっかく苦手な洗濯したのに、皺になっちゃうわね」

「ほんとです。また明日洗わなきゃ・・・」

「いいわよ。蓉子ちゃんは家事向いてないみたいだし、私が洗濯してあげる。

ついでに・・・部屋の掃除も」

優しいというよりは、妖艶な微笑みに喉がゴクリと鳴る。

そして私は、それ以上・・・何も言えなくなった。

唇に重なる唇は濡れてて、何だかヒンヤリする。

息継ぎも出来ないまま私はSRGの唇の後を指先で辿ってゆく。

首筋に鎖骨、ジャージを下ろすジッパーの音、水野の名札がとうとう見えなくなった。

「あら、ジャージの下は何もつけてなかったのね」

「そ、そりゃ・・・寝るとこでしたし」

寝るときに下着はあまりつけないものでしょう?普通。

それをSRGに言うとあっさりと、私は何も着ないもの、と返されてしまった。

私はそんなSRGのワンピースのジッパーを下ろしてゆく。下着だけになったSRGは艶っぽい。

「ワンピースだと楽でしょ?」

「ええ、とても」

体育教師とは思えないほど華奢な身体に、しなやかな筋肉。この細い身体のどこに、

私を担いで走るほどの体力があったのだろう。あの時の事を思い出してもまだ、頬が熱くなるのを感じる。

そんな私を見てSRGが小さく笑う。

「なぁに?思い出し笑い?」

「ええ、あの日の事を・・・少し」

「ああ、なるほど。あれは聖を見習ったんだけど、どうだった?」

「そうですね・・・正直・・・恥ずかしかった・・・ですね」

正直に答えた私の言葉に笑うSRG。だって、本当に恥ずかしかった。

ただ頷いただけで、私達は何もかも分かってしまったのだから。今までの想いも何もかも。

「ぁん・・・ちょ、ま・・・」

SRGが私の胸に舌を這わせてゆく。私はまだ考え事の最中だったのに、

SRGはそんな事お構い無しに私を責め始める。私は身を捩じらせてその舌から逃れようとするけど、

すぐにそれを諦めた。だって、SRGが一瞬、私を睨んだのが分かったから。

「いい?私の事だけ考えて。私、本当はそんなに心広くないの」

真剣なのか冗談なのか分からない甘い口調でそんな事言うSRG。

それがあまりにも魅力的で、やっぱり私は頷く事しか・・・出来なかった。

「ふぁ・・・ん・・・」

堪えようとするのに声が出てしまう。私は必死になって両手で口を押さえた。

そんな手を振り払うようにSRGは私の腕を掴む。

「まだまだそんなものじゃないでしょ?あなたは」

「・・・え?」

「私には・・・全て見せて?」

この言葉が引き金だった。どうしてSRGは私の事をこんなにもよく知ってるのだろう。

私は確かに、聖の言うとおり恋愛にのめり込むタイプなのだ、いつだって。

私はSRGの首に腕を回し、そのまま抱き寄せた。何故か涙が零れそうになる。

「綺麗ね、蓉子ちゃん」

蓉子・・・ちゃん。私はSRGの唇に人差し指を当て、小さく首を振った。

「蓉子って・・・呼んでください」

私の目をしばらく見つめてたSRGは、口元だけで笑って静かに囁く。

「・・・蓉子」

「はい・・・アっ・・・ん」

胸の先端の硬くなった所を甘く噛むと、そのまま舌先で転がす。

ああ、そうか。前の人にドキドキしなかったのは、あまりこういう事をしてくれなかったからなんだわ。

でも、多分それだけじゃ無い。心の奥の何かが震える。零れ落ちそうな涙、漏れ始める声、

背中に立てた爪、甘く痺れる・・・快楽。

「あッ・・・やっ・・・はぁ・・・あっ、ん」

胸の先に当たる歯の感触が私の中の何かを溶かして、そして壊してゆく。

そう言えば昔、誰かが言ってたっけ・・・壊れたダムは、一度決壊すると二度と直らないって。

理性の文字がやがて薄れて消えてゆく。もう目の前のこの人しか見れない。見えない。

私はSRGの舌の動きに合わせて体を強張らせた。ダメよ・・・もう・・・ダメ・・・。

「はぅ・・・ん・・・ンっ!!!」

「あら、思ってたよりもずっと敏感ね」

「はっ、あッ、う・・・っく・・・」

SRGの舌がゆっくりと胸から離れてゆく。舌先から光る細い糸が私とSRGを繋ぐ。

そっと下着に手をかけたSRGは脱がす前にピタリと手を止め、

一度指先を口に含み不敵に笑ってそっと下着の上から一番敏感な場所を撫で始めた。

「ァんっ!!」

SRGの背中にさらに深く爪が食い込むけど、SRGはまるでそんな事気にもしないで、

そっと私の足を開かせ、そっと私の中心にキスを落とす。

それが酷く官能的で、私はそのSRGの行為から目を離す事が出来なくて・・・。

高校の時に出逢った人とはまた違う人。そして、私は・・・この人に確かに・・・恋してる。


第百九十八話『思ったよりもずっと・・・』


蓉子ちゃんは、思った通り着やせするタイプだった。いつもはビシっとスーツ着てるけど、

それを脱いだら・・・もう凄い。どうしよう、理性が・・・保てなくなりそう。

私の探してたお姫様は案外近くにずっと居て、今私の目の前で裸になって・・・。

蓉子ちゃんは私が思ってたよりもずっと可愛い人で、私の唇に人差し指をそっと当てて、

涙目で『蓉子って呼んで』って言われた時には、もうどうなるかと思った。

本気で、私・・・もうどうでもいいやって思っちゃった。教師だって、一人の人間。

普段は理性で行動しなさい!とか偉そうに言ってても、理性なんか保てなくなる時だってある。

今が・・・そう。私は下着一枚になった蓉子ちゃんをじっと見下ろした。

何時間でも何日でも見ていられそうなほど、蓉子ちゃんは・・・綺麗。

私は何かを望むような蓉子ちゃんの身体に人差し指を這わせ、その指先で辿った場所をもう一度、

今度は唇で辿る。その度に蓉子ちゃんの身体が小刻みに震え、私はその反応を見て楽しむ。

聖は自分もしてもらわなきゃダメだと言ってたけど、私はどっちかって言うと、

攻めたい方。攻められるのは・・・あまり好きじゃない。

だって、どう考えてもこっちの方が楽しいし!

それに、してもらってる間相手の顔が見えないってのも嫌。私はその行為に専念したいのだ、いつも。

ただ私の指先に舌に声に反応してほしいのよ・・・。私は蓉子ちゃんの耳元でそっと囁いた。

「そろそろいいかしら?」

そんな私の声に蓉子ちゃんは身体をビクンと震わせ私を恐々見上げる。

あの蓉子ちゃんが、耳まで真赤にして俯いてしまうとこなんて普段なら絶対に見れない。

これはだから、私だけの特権なのだと思うと心の奥が何かに満たされてゆく。

最後の下着をそっと脱がせると、下着と足の間に細い糸がきらめいて、

私を誘う。私はもう一度蓉子ちゃんの目の前で指先を舐め、

そっと蓉子ちゃんの紅く染まった小さな突起に押し付けてみた。

「あぅッ!!!」

今までよりもずっと大きな痙攣に私までゾクゾクする。今、蓉子ちゃんには私しか見えていないと思う。

それがどんなに快感か、あなたには分からないでしょうね、蓉子ちゃん。

私はずっと求めてきた。こうなる日を、こうする事が出来る日を・・・。

蓉子ちゃんの爪が背中に食い込むけど、今はそれよりもずっと楽しい事をしてるから、

あまり気にもならない。それどころかその痛みさえ快感に摩り替わってしまいそうなほど気持ちいい。

「ふ・・・ふふ。可愛いわ・・・蓉子」

ゾクリとするようなこの感覚は何だろう。どうしてこんなにも愛しく感じてしまうんだろう。

ありえないぐらい散らかった部屋の中で私達は一体何してるんだろう・・・。

蓉子ちゃんの一番敏感な場所はもう、さっきよりもずっと大きくて硬い。

尖った先端にそっと口付けると、両手で口を押さえて必死に声を我慢する蓉子ちゃん。

「あっ・・・あつッ・・・いの・・・」

「どこが?」

「ふぁ・・・中・・・が・・・溶けそ・・・んッ」

「そう、それは大変。どうして欲しい?」

意地悪な私。ある意味では、蓉子ちゃんもこんな私に逢うのは初めてだろう。

でも私・・・結構Sなのよね。実は。だから、さっき言ったように本当は全然心は広くない。

多分、聖よりも狭いんじゃないのかしら。でも・・・それはどうやら、蓉子ちゃんもみたいで。

唇に当てた指先をほんの少し咥えて涙目で囁くように蓉子ちゃんが呟いた。

「ぐちゃぐちゃに・・・して・・・?」

ああ・・・もうダメ・・・この子、完全に私のツボを知ってる。

「いいわよ、お望みどおりにしてあげる」

知らない間に唇の端が上がる。その顔が蓉子ちゃんにどんな風に映ったのか、それは分からない。

ただ言えるのは、蓉子ちゃんもまた満足そうに微笑んでるって・・・事。

私は中指と人差し指を蓉子ちゃんの中心にあてがい、一気に一番奥まで突き上げた。

「ひゃうっっ!!!んっ、はっ・・・ぁ・・・」

「どう?もっとして欲しい?」

私の質問に頷く蓉子ちゃんは、きっともう理性なんてどこにも無い。そして私も・・・。

忙しなく動く私の指と蓉子ちゃんの腰。

私が指を深く突き上げるたびに蓉子ちゃんの叫び声にも似た声が漏れる。

蓉子ちゃんの中から溢れてくる愛液は、私を確かに受け入れた証拠で、

蓉子ちゃんの声よりも時折大きくなる水音も全て私だけの・・・モノ。

突き上げるたびに一番敏感な場所が紅く尖る。もの欲しそうに。

だから私は蓉子ちゃんの足の間に顔を埋め、その突起を軽く噛んだ。

「あぅッ!!!やぁ・・・ダ、ダメ・・・も、はぁ、あっ、ん、はっ、ああ、アッ」

小刻みに震える髪が私達の激しさを物語って、背中にどんどん爪が食い込んで、

明日絶対お風呂に入る時に痛いって分かってても止められない。

私は蓉子ちゃんのお望みどおり、蓉子ちゃんの中を思いっきり掻き回した。

音はさらに激しさを増して、私もそれを蓉子ちゃんにも聞こえるように、

もっと大きな音にしてやろうと努力して。蓉子ちゃんの足を持ち上げて、中腰になった私は、

目の前の紅い突起を強く吸った。指は一番深い所に当たる度に締まる。

「ねぇ、見える?」

「やっ!そ、そんなの・・・はぅッ・・・ぁあ・・・んっ!!」

「見えないの?残念ね。凄く綺麗なのに」

紅く染まった一番敏感な場所も、真赤になった中も凄く綺麗。

溢れてくる愛液は全て舐め取る事は出来ないけど、きっと蓉子ちゃんも分かってるだろう。

自分が今、どれぐらい感じてるかを。

「あっ・・・ふあっ・・・も・・・私・・・イ、イきそ・・・う・・・っく」

「あら、もう?そうね・・・まだ初めてだし、こんなものかしらね」

私は蓉子ちゃんの顔が見えるように空いてる方の手で突起を強く擦った。

そして中は更に激しく突き動かす。その動きに蓉子ちゃんの腰がビクンと大きく震えた。

もう・・・すぐ・・・か。

私はそんな事を考えながら今まで以上に締まる蓉子ちゃんの中にもう一本指を差し入れ、

奥深く突いたその時だった。一瞬、蓉子ちゃんの息が止まって、次の瞬間・・・。

「あ・・・ぅ・・・ァ、あん、やっ、あっ、あぁぁぁぁぁぁ!!!!」

ドクドクと脈打つ鼓動と、締まる蓉子ちゃんの中心。指を出すのにも苦労しそうなほど、

私の指に喰らいついてくる。私はグッタリと動かない蓉子ちゃんの中から指が抜けてしまわないよう、

そっと蓉子ちゃんの隣に転がった。肩で息をする蓉子ちゃんの頬は赤く染まり、

恥ずかしそうに上目遣いで私を見てくるだけでそれ以上何も言わない。

でもそれでも良かった。私は・・・凄く満足してたから。

高校の時、薔薇の館で初めて逢った時、何て賢そうな子だろうと感心した。

聡明で気の強そうな瞳はとても強そうで。でもその反面、脆さも・・・帯びてた。

気の強い眼差しの後ろに隠れた弱さは決して誰にも見せなかったけど、

お姉さまに叱られたりするたびにこっそりと温室で涙を拭っていたのを私は知ってる。

あの時はどう声を掛ければいいのか分からなくて、

何も言わないでそっとハンカチを置いてきたりしてたけど、

次に日には必ずちゃんと洗濯して皺まで伸ばして薔薇の館に置いてあった。

今思えば、蓉子ちゃんは苦手な洗濯とアイロンを私のためだけにしてくれてたのだろうか?

もしそうだとしたら、それほど・・・嬉しい事はない。

蓉子ちゃんの髪を一束掴み、その髪に口付ける私をキョトンとした顔で見つめてくる蓉子ちゃんが、

何故か高校の時の蓉子ちゃんと重なって見えて・・・。

「さて、どうしようかしら」

「?」

「あなたのお姉さまに、何て報告すればいいと思う?」

「!!」

冗談交じりに言った台詞に、蓉子ちゃんは祐巳ちゃん並の百面相で答えてくれた。

親友の妹。あれほどちょっかいをかけるなって怒られたけど、もう遅い。

ちょっかいをかけるどころか、すっかりこの子にハマっちゃったんだもの・・・。

「とりあえず・・・その事はゆっくり考えましょうか」

「・・・はい」

私はそっと目を閉じた蓉子ちゃんの瞳と唇にキスした。私が動くたびに蓉子ちゃんの中がまた締まる。

「敏感ね」

「・・・放っておいてくださいよ・・・っん!!」

「そうはいかないわ。だって・・・これからずっと一緒に居るんですもの」

「・・・そう・・・ですね」

はにかんだように笑った蓉子ちゃんの顔は、私のよく知ってる蓉子ちゃんだった。

可愛くて賢くて、色っぽくて・・・愛しい・・・。

「さて!まだ体力・・・大丈夫よね?」

「・・・へ?」

「まだ休ませないわよ?だって、私、体育教師だから」

体力と根性はあるの。そう言った私に、蓉子ちゃんが声を出して笑った。

『根性比べですか?』って。何だか気恥ずかしい。

「愛してるわ、蓉子」

「!?」

「ふふ、祐巳ちゃんみたいで面白い」

「・・・・・」

祐巳ちゃんと比べられたのがおきに召さなかったのか、蓉子ちゃんは少しだけ頬を膨らませた。

そんな蓉子ちゃんが可愛いやらいおかしいやらで、もっと意地悪したくなるけど・・・、

今日はもう、ここらへんで止めておこう。

だって、どうせ週末が明けたらきっとまたあの蓉子ちゃんに戻っちゃうから。

「冗談よ。蓉子ちゃんの方が可愛いわ」

耳元で囁いた言葉に、蓉子ちゃんの耳が染まった。

ずっと一緒に居るって言うのも・・・・・・そうね、案外悪くないかもね。


第百九十九話『インフルエンザ』


祐巳ちゃんは案の定、家族のインフルエンザを貰ってダウン。

私はと言えば・・・。

「せ・・・さん・・・くるし・・・」

「あーちょっと待って!今、薬持ってくとこだから」

「佐藤さん・・・夕飯の買い物に・・・」

「祐麒に薬渡したら私が行きますから、大人しく寝ててください、お母さん」

「佐藤君・・・この仕事だけは終わらせたいんだが・・・ごほっ」

「お願いですから、じっとしてて下さいっ!」

「聖さま・・・お薬は・・・」

「だーーーーーっっ!!!どうして皆自分のベッドでじっとしてないのっ!?」

「「「「・・・ごめんなさい・・・」」」」

こんな感じで学校休んでまで毎日毎日、このインフルエンザの蔓延した家で一人戦ってる。

この状況でよく私にうつらないもんだ、なんて自分でも感心するけど、

万が一私まで倒れたら・・・そう思うとゾッとする。

でも、今日から私の仕事は大分楽になる・・・はずだった。

そう、ついさっきまでは・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一昨日、これ以上一人でどうにかするのはもう無理だと判断した私は、

母さんに電話した。

「もしもし母さん?」

『あら、聖ちゃん。どうしたの?』

「あのさ、モノは相談なんだけど、ちょっと手伝って欲しい事があるのよ」

『なに?どうしたの?』

私が誰かに相談なんて珍しい。多分、母さんはそう思ったに違いない。

電話越しの声が神妙な声に変わる。私はアドレス帳を開いて残りの有休を確認すると、

今朝の蓉子の電話を思い出した。

『ちょっと、聖!一体いつになったら出てこれるのよ!?』

確かに。これ以上私も学校を休む訳にはいかない。だからこそ、応援を呼ぶことにしたのだ。

そう、こんな時には母さん。この人しか居ない。そう思って電話したんだけど・・・。

「あのさ、祐巳ちゃんのご家族がね、全員インフルエンザにやられちゃって。

私ももうこれ以上学校休めないし、母さんちょっとでいいから手伝ってくれないかな、と思って」

母さんには母さんの都合があるのは知ってるし、何よりも祐巳ちゃんちの家族に母さんは会った事がない。

だから本当は頼む前から分かってたんだ、母さんがこの願いを断るって事は。ところが。

『そういう事はもっと早く仰い!!ちょっと待っててね、支度したらすぐに行くから!』

「え?来てくれるの!?ありがとう!」

電話はそこで終わった。それから母さんが福沢家にやってくるまで、

それはもう、早かった。大量の買い物袋の中には熱を下げる為のシートまで沢山入ってる。

なるほど、こういう所がやっぱり主婦は凄い。私、こんなの思いつきもしなかったよ。

突然やってきた母さんに福沢家の人達が驚かないはずもなかった。

まずお母さんはヨロヨロと出てきて深々と頭を下げ、母さんを更に恐縮させ、

お父さんは真赤な顔を更に真赤にしてしどろもどろ。祐麒に至っては、

結局一言も話せずに無言で俯いて耳まで真赤にしてた。最後に祐巳ちゃんは・・・。

「お、お母さま!?ごほっ!!がはっ!!!!」

「だ、大丈夫?私が来たからにはもう大丈夫よ、祐巳ちゃん」

「えぇ、本当に・・・すみません、ありがとうございます」

母さんに頭を下げた祐巳ちゃんに、母さんはポツリと言う。

「聖ちゃんだけで心細かったでしょ?もうゆっくり寝てていいからね」

「はぃ〜」

・・・だって。どういう意味よ、ったく。まるで私が役に立たなかったみたいじゃない!!

でも、それから皆は見違えるほど大人しくなった。

まずお母さんもお父さんも部屋から出てこなかったし、祐麒もそう。

祐巳ちゃんに至っては、あんなにもゴホゴホ言ってたのに、今はぐっすり。

「皆、ほんとに素直よね」

皆の変わり身の早さに私は呆れながらそう言うと、母さんは言った。

「ま、修行の差ね」

「修行・・・ね」

確かに、母さんやお母さんはこういう状態に慣れてるんだろうなぁ。

子供が居たりしたらやっぱ気なんて抜けないもんだろうし。

そういう意味ではほんと、尊敬する。母親という立場と・・・医者や看護士さんを。

私には絶対無理だ。ところが、この私の考えをもしかしたら神様が罰したのかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

話を戻して、今日。学校が終わって祐巳ちゃん宅に戻ると、夕食を作ってるはずの母さんが居ない。

家の中を探し回っても居ないし、携帯にかけても出ない。

私は祐巳ちゃんの部屋に行って母さんの居場所を聞こうとしたら、祐巳ちゃんまで居ない。

「ったく、どこ行ったのよ?」

家の中をウロウロしてた私は、お母さんの部屋の前でふと立ち止まった。

中から何やら楽しげな声が聞こえてきたのだ。思い切ってノックすると、中から明るい声。

「お邪魔します・・・って、何してんの?こんなとこで」

お母さんの部屋に、何故か母さんが居た。しかも布団の中に。これは一体・・・何事?

「聖ちゃん・・・おかえりなさい・・・それがね、朝から何だか熱っぽくって、

さっき病院に行ったら、私もインフルエンザうつっちゃったみたいで・・・」

「・・・・・・・・」

な、何ですって!?嘘でしょ??

つか、それでどうして母さんがお母さんの布団の隣に仲良く布団ひいて寝てんのよ!?

そんな私の考えが分かったのか、母さんは申し訳なさそうに言う。

「一度はね、家に帰ろうとも思ったんだけど、よく考えたらお父さん今出張中だし、

聖ちゃんはこっちで皆の看病してるでしょ?それなら母さんもこっちに居た方が聖ちゃんも楽だと思って」

「いや・・・そういう問題じゃなくて・・・で、祐巳ちゃんは?」

つかさ、普通帰るでしょ。もしくは、大人しく入院でも何でもすりゃいいのに、

どうしてわざわざ福沢家に留まるかな!?しかも・・・また一人面倒見る人増えてるし・・・。

「祐巳ちゃんなら祐麒君連れて今日の夕飯のおかず買いに行くって出て行ったけど・・・大丈夫かしら?」

「・・・あのバカは・・・」

どうやら、母さんまで倒れた事で家事をする者が居なくなった福沢家はまたピンチに陥った。

で、それを阻止すべく祐巳ちゃんが祐麒と買い物に行った訳ね・・・今一番重症なのに。

私は母さんをキッと睨んで、言った。

「あのねぇ、祐巳ちゃん今一番重症なのよ!?母さん全然平気そうじゃない!」

「佐藤さん、落ち着いて。でもね、ほら私達もう若くないから、ね?」

「そうよ、聖ちゃん。年寄りはいたわらないと」

「・・・・・・・・・・・・・」

こ、この二人・・・いつの間にこんなにも仲良く・・・。こんな風にタッグを組まれると、

私にはもうどう足掻いても太刀打ち出来る訳がない。とりあえず私が今出来るのは、

祐巳ちゃんと祐麒を追いかける事・・・みたい。

ああ、もう・・・どうにかして皆いっぺんに元気になる方法・・・ないかしら。

もしくは・・・私にもインフルエンザうつらないかしら・・・。


二百話『家族ぐるみのお付き合い』


ごほっ・・・昨日はお母さま特製雑炊を食べた。美味しくて涙出そうだった。

がはっ・・・そして今日のおかず。これがなかなか決まらない。

頭はボーっとするし、ハッキリ言って私は瀕死。私よりもほんの少しだけマシになった、

祐麒と一緒にここまで来たけど、祐麒だってまだマシになった程度。

「祐巳〜もう今日は出来合いのもんですまそうよ・・・」

「うん・・・そ・・・だね・・・ごほっ」

返事するのもやっと。そしてもう、祐麒も人の事心配してる余裕も無いみたい。

私の酷い咳を聞いても、もう何も言ってくれないのがいい証拠だ。

足取りは兄弟揃ってフラフラ。どうして聖さまだけがあんなにもピンピンしてるのか、

私には到底理解出来なくて・・・。鍛え方?多分、そうよね。だって聖さま体力ありそうだもん。

それに比べて私は・・・。今朝、お母さまはやってきた。真赤な顔してフラフラしながら。

家事をしてくれるんだけどいつものキレがないし、何だか・・・あまりにもドン臭いから、

思わず私は聞いた。

『お母さま?もしかして・・・うつったんじゃありません・・・?』

私の言葉にお母さまは目をまん丸にして体温計で熱を測り・・・飛び上がってた。マジで。

人間って不思議だよね。熱測って初めて、自分の症状を理解するのよね。

お母さまはそれから、まるで電池が切れたみたいに動かなくなってしまった。

私はお母さんの隣にもう一組布団を引いて、そこにお母さまを寝かせた。

『だ、だめよ、祐巳ちゃん!私がこんな所で寝てる訳には・・・』

身体を起こそうとしたお母さまを止めたのは・・・お母さん。

『無理しないで、佐藤さん。少しよくなるまでここで寝てればいいのよ〜』

お母さんは自分が多少マシになってきたから、多分暇だったんだ。

だから無理やりにでもお母さまを逃すまいとしてる。そんなお母さんの餌食になるそうなお母さまはと言えば。

『でも・・・いいのかしら・・・』

『いいの、いいの。私達、ほら!歳だから!』

その言葉にお母さまの顔は一瞬キョトンってなった。あーあー怒らせた。私はそう、思ったんだ。

でも、お母さまってば・・・。

『そーよね〜。どうせ聖ちゃん、今日もこっち来るでしょうし、それまでじゃあ休ませてもらおうかしら』

『どうせなら泊まっていけばいいんじゃなぁい?』

お、お母さん・・・また無茶言って・・・お母さまにはお母さまの家庭が・・・。

私の脇腹を祐麒が突付く。苦い顔しながら目で、止めろ、って訴えてくる。

でもね、祐麒・・・こうなったらもう、誰にも・・・止められないよっ!

『そんな、悪いですわ』

『あら、どうして?だって、佐藤さんのご主人、今日も出張でいらっしゃらないんでしょう?

そんな誰も居ない家に一人で帰せる訳ないじゃない!』

『う〜ん・・・それも・・・そうよね!そしたら聖ちゃんも泊まっていくかしら?』

『あら、やだ!楽しそう!!うふふ!』

『・・・・・・・・・・・』

・・・こんな感じでサクサクと物事は決まり、私と祐麒は何が何だか分からぬまま、

買い物を命じられた訳なんですけども。

そして夕方、少し横になったらマシになったと言うお母さまの言葉に、祐麒が言ったのだ。

『一応、病院に行った方がいいんじゃ・・・』

って。・・・で、病院に行ったら案の定・・・。

『・・・インフルエンザですって・・・』

『・・・やっぱり・・・』

私達は顔を見合わせて苦笑いするしかなかった。

こうなったら、元気なのはもう聖さましか居ない。あの人だけが頼りなのだ。

そして・・・ヒーローはいつも・・・遅れて登場する・・・ものなのよ・・・がふっ!!

「ゆう・・・き、私・・・も、ダメ・・・かも・・・」

足元がフラついて、地面がグワングワンして見える。ヤバイ、私、本当に重症だ。

「お、おい、大丈夫かよ、祐巳・・・祐巳!?」

祐麒の声がずっと遠くの方から聞こえてくる。地面がフワ〜って近寄ってきて、

私は今、自分が倒れそうなんだって事にようやく気づいて・・・。

でもね、人間って不思議だよね。絶対こんな所で倒れられないって分かると、

必死になって意識保とうとするのよね。で、私も耐えた訳。もう、これでもかってぐらい。

その時だった。目の端に誰かが映った。手を伸ばすと錯覚だろうけど届きそうな距離。

私は必死になって手を伸ばして、聖さまの叫び声を聞いた。

「祐麒!!身体張って祐巳ちゃんを守れっっ!!!」

「うぁ!?は、はいっ!!むぎゅぅ・・・」

「はぁ・・はぁ・・・せ・・・さまぁ・・・」

手を伸ばしたら、聖さまどころか周りに居た沢山の人たちが集まってくる。

皆口々に心配そうな声かけてくれるんだけど、私は聖さまだけを探してた。

「ちょっと、大丈夫?ほら、捕まって。車戻るよ。お!祐麒、お疲れさん!」

小走りに寄ってきた聖さまは私を立たせて腰の所に手を回して支えると、

空いた方の手で私の下敷きになっていた祐麒を助け起こす。

「いててて・・・」

「痛くない痛くない!ほら、あんた達は車戻ってなさい。買い物は私がしとくから」

聖さまは私の持ってた買い物カゴを取ると、代わりに車のキーを渡してくれた。

で、愛想なくそのまま買い物とかしに行っちゃって・・・なんだかなぁ・・・。

でも、そう思ったらクルって振り返って、ちょっと顔しかめて見せたりするもんだから、

それだけの事なのに嬉しくなっちゃったりとかしてさ。

「祐巳・・・ニヤけてるぞ、顔」

「え?そ、そう?」

両頬を押さえて思わず顔を真赤にした私は、祐麒に支えられながら聖さまの車まで辿り着いた。

ちなみに、そっから先の意識は・・・無い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

気がついたら私は自分の部屋のベッドに寝てて、何だか気分も少しマシになってて。

でもやっぱり身体は重い。部屋を出てリビングに行くと、何だか凄くいい匂いがしてくる。

キッチンに入ると、そこには何故か聖さまと祐麒の姿。

「いや、だからこれは今入れるべきでしょう?」

「いいや、後だね。だってさ、今入れたら絶対変な味になるって」

「そう・・・ですかねぇ・・・あ、祐巳」

「えっ?ああ、おはよう、起きたの?もう平気?」

聖さまと祐麒が同時にこっち向いてくる。

私は何だかそれが憎らしくて無理矢理聖さまと祐麒の間に入り込むと、

二人は何故か苦笑い。多分私がヤキモチ妬いてるんだって事、分かったからなんだと思うんだけど。

「祐巳ちゃん、気持ちは分かるけど、もう少し寝てなって」

「嫌ですっ!」

「祐巳ー、お前、良くなりたいだろ?」

「絶対に嫌っ!!」

そんな私に二人はまた顔を見合わせて苦笑い。む〜〜〜〜!!!なんっか腹立つ!!

「分かった。分かったからせめて座ってなさい」

「そうそう、佐藤さんの言うとおりだって」

「うー・・・」

仕方なく私はキッチンが良く見えるソファに腰掛け、

クッションを抱いて二人を見てた。否、監視してた。

それから二人の料理するとこをずっと見てたんだけど、

どうも危なっかしくて見てられない事に気づいて・・・。

「ちょ、聖さま。それ・・・入れるんですか?」

「え?ダメ?」

「いや・・・まぁ・・・いいですけど・・・祐麒!!それは、ダメ!!」

「美味しいと思うんだけど」

「・・・・・・・・・・・・」

ああ、この二人にやらせてたら絶対に変な物食べさせられる。特に祐麒。

コイツに作らせたら絶対にダメ。普段家で絶対料理してなさそうな気がするもん。

ああ、なんか・・・またクラクラしてきた・・・。

「ほら、祐巳ちゃん倒れそうじゃん。もう、ちゃんと寝てなって!」

「・・・・・・・・」

いや、そうじゃないと思うの。多分、これは・・・そうね、熱のせいじゃない。

ああ、何か歌の歌詞みたいでいいな、今のフレーズ。ちょっと古いけど。

いやいや、そんな事はどうでもいい。とりあえず、私はここでしっかり見張ってなきゃ。

せめてお母さまが回復するまでだけでも!!

夕ご飯を食べるのにリビングに集まってきた面々は、何だか変な感じだった。

私が思うぐらいだから、多分他の皆はもっとそう思ってるに違いない。

私の向かいに聖さま。そして聖さまの隣にお母さま。その向かいがお母さんで、

テーブルを挟んでお父さんと祐麒・・・なに、この構図。

皆沈黙のまま、誰かが話し出すのを待っていた。だってこの空気!

なんか張り詰めてるって言うか、ほんと変な感じで!!

でも、そこは流石聖さま。前に私に言った台詞はどうやら嘘じゃなかったみたい。

『私、あんまりどんな状況にも緊張ってしないのよね』

あの台詞が今、こんなにも蘇る。

「えー・・・それじゃ、食べましょうか?」

「え、ええ!そうね!美味しそう!これ全部佐藤さんが?」

「いや、半分は俺」

お母さんが祐麒の言葉にピクリと肩眉を上げたのを私は見逃さなかった。

そしてそれはお父さんも同じ。お父さんは私に小声で聞いてきた。

「祐麒が作ったやつはどれだ?」

と。だから私は言ってやった。はっきりと。

「大丈夫。鼻詰まってて味なんて分かんないって」

って。その子声のやりとりを聞いて聖さまが笑う。思わず私もおかしくて笑っちゃった。

まぁ、祐麒は一人腑に落ちない顔してたけど。そんなやりとりのおかげで皆の緊張の糸が切れた。

何だか珍しい組み合わせで食べる夕ご飯は、いつもよりも楽しくて美味しくて。

食事の最後に私は空になったお皿を見つめて無意識のうちに呟いてた。

「お父様も・・・来られたら良かったのに・・・」

この一言に聖さまとお母さまが顔を見合わせてにっこりと微笑む。

「ありがとう、祐巳ちゃん。そんな風に言ってくれて」

「そうそう、あんな父親でも気にかけてくれるなんてねー」

冗談めいた聖さまの言葉の裏には、やっぱり私と同じような考えがあったんだと思う。

食事が済んで皆薬飲んで、部屋に戻った後私は聖さまと二人きりになった。

聖さまが食器を洗う横で、私は一生懸命お皿を拭いている途中、

ふとお皿を洗う手を止めた聖さまが言った。

「母さんがね、食事中に笑ったでしょ?」

何かを思い出すように宙を見ながら呟いた聖さまの横顔は、何故かとても幼く見えて。

私は何も言わずただ頷いた。

「あんなの、私初めて見たのよね。やっぱ凄いね、福沢家って。そりゃ私も堕ちるわ」

「ど、どういう意味です?」

意地悪な笑みを浮かべてそんな事言う聖さまに慌てて言い返すと、聖さまはにっこりと笑った。

「褒めてんの」

「そ、そうですか」

「そうですよ」

こんな時思う。聖さまだって、十分凄い。だって、恋を知らなかった私に・・・恋を教えたんだから。

それどころか・・・愛まで・・・私に・・・。


二百一話『愛の覚書き』


もうすぐ・・・乃梨子と初めて出逢った日から何年が経つのかしら。

私は手帳をパラパラとめくって赤い丸印の書かれたページでふと手を止めた。

運命の日と言っても過言ではない、この日。私達が初めて出逢った日。

昨日、夜遅くにあった乃梨子からの電話。どうしても明日、逢いたいとの事。

明日は・・・運命の日。乃梨子がそれを覚えていてくれただけでも嬉しかったのに、

まさか乃梨子から逢いたいだなんて!

ああ、マリア様・・・私、こんなにも幸せでいいんでしょうか?

私達の間には由乃さんと令さまのような既に家族とも思えるような絆はない。

ましてや祐巳さんとお姉さまのような深い繋がりも無いような気がする。

私達を繋いでいる絆は、もっと柔らかくて暖かいもの。

それでも十分だと、いつもずっと思っていたのだけれど・・・。

最近お姉さまと祐巳さんの雰囲気が少し変わった事に気づいたのは、私よりも乃梨子が先だった。

『あの二人・・・何かあったんでしょうか?』

『どうして?』

『何だか・・・まるで揺れなくなったというか・・・すみません、よく分かりませんけど』

乃梨子の言葉は言い得て妙で、すれは私も微かに気付いてた。

思い切って祐巳さんに聞いてみても、特に何も無いと言うし、お姉さまもそう。

特に何もない。でも、確実に何かが変わったような二人を見て、

ほんの少しだけ・・・羨ましいと・・思ってしまった。

人を羨んではいけない。そう教わってきたはずなのに、私はいつからこんなにも・・・。

「はぁ・・・マリア様、どうかこんな私をお許しください」

いくら祈っても懺悔しても悔やみきれない。自分が憎くなる瞬間でも・・・ある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

翌日、私は乃梨子との待ち合わせ場所に5分前についた。

いつだったか、祐巳さんたちとダブルデートというのをした時に、

待ち合わせ場所に早く着いたのは私と祐巳さんだった。

そして祐巳さんは、お姉さまが来るまでの間ずっと、

ショーウィンドウのガラスで髪を直したり服を直したりして私に、変じゃない?って聞いてたけど、

そんな祐巳さんが私には凄く可愛く見えたのを覚えてる。

あの時、恋をするとこうなるもんなんだ、なんて何故か凄く思ってしまって。

お姉さまにしてもそう。祐巳さんと乃梨子がジュースを買いに行ってる間、

チラリと私を見て言った。

『初めてだよね、志摩子とこういうとこ来るの』

『ええ、そうですね』

『今日は・・・楽しい?』

『はい。お姉さまは?』

私の質問にお姉さまはほんの少し照れたように笑って言ったのだ。

『そうねー・・・せめて寝癖が直れば完璧だったんだけど』

お姉さまや私がまだ学生の頃、私はお姉さまがこんなにもお洒落な人だとは知らなくて。

その事を知ったのは、同じ職場で働きだしてからの事だった。

それも、祐巳さんがやってきてから。それまではお姉さまはそんな素振り一切見せなかったけど、

祐巳さんが来てからはよく怒鳴ってたから。『服が汚れる!!』とか、『私の鞄がっ!!!』とか。

でも祐巳さんと一緒にいるようになってお姉さまは外見だけにこだわらなくなった。

例え祐巳さんにコーヒーを零されようが、アイスクリームをつけられようが、

そりゃ顔は引きつってるけど、怒らなくなった。

私はそんなお姉さまを見て、やっぱり素敵な人だと実感したっけ。

人は恋をすれば変わる。お姉さまも祐巳さんもいい方に変わったけど、

じゃあ私はどうなんだろう?誰かを羨んでばかりいる私は・・・誰かに可愛いとか、

素敵だと思ってもらえるだろうか?ふと見るとショーウィンドウ。

私は祐巳さんの真似をして、髪を直す振りをしてみた。でも、やっぱり・・・何かが違う。

「志摩子さんっ!お待たせ!!」

「!?乃梨子!」

突然の声に驚いて振り返ると、そこには真っ黒のライダースーツに身を包んだ乃梨子が立っていた。

「ごめんね、遅れちゃって」

「いいえ、いいのよ。それより・・・またバイクで来たの?危ないから出来るだけ止めてって言ったのに」

私は乃梨子のバイクが好きじゃない。だって、いつ事故に巻き込まれるかと思うと、

本当に怖くて。でも、そんな私の心配など他所に乃梨子は無邪気に笑った。

「嫌だな、志摩子さん。大丈夫だって。それに、今日はどうしても志摩子さんに見せたいものがあったから」

「私に?見せたい物?まぁ、何かしら?」

「まだ内緒だよ!さ、これ被って、うん。スカートじゃないね」

乃梨子から受け取ったのはヘルメット。そうか・・・私も乗るのか。

私はそれを渋々受け取って、乃梨子の肩に捕まってバイクによじ登った。

実を言うと、乃梨子のバイクに乗るのは・・・これが初めてで。

「しっかり捕まっててね?」

「え、ええ」

乃梨子の細い腰。こんなにも華奢なのにこんな大きなバイクに乗るなんて、

やっぱりどう考えても危ないわ。私はそんな事考えながら乃梨子の腰にしがみついた。

今まで乗らなかったのはそうすれば乃梨子がバイクを止めてくれると思ったから。

でも、どれだけ言っても乃梨子は止めようとはしてくれない。

それならいっそ、一緒に乗った方が安心だって事に気づいた。

だって、私が一緒に居たら、乃梨子は絶対に危ない運転は出来ないだろうから。

打算的な私がこんな時チラリと顔を出す。でもこんな私は嫌いじゃない。

バイクは低いエンジン音を周囲に轟かせながら軽快・・・とは言えないけど、走り出した。

土、日だから道は混んでる。でも、湾岸線に抜けると道は呆れるほど空いてる。

「志摩子さん!!聞こえる!?海だよっっ!!!」

「えっ!?なに??よく聞こえないわっ!!」

乃梨子の声が風に浚われてどんどん私の後ろに流れてゆく。

私はその声を拾い上げようと必死になったけど、どんなに頑張ってもそれは出来なかった。

乃梨子はきっと私に声が届いてない事に気付いたんだと思う。

左手をスッと上げて、今まで私が怖くて見れなかった景色を指差した。

「え・・・なに?」

私は恐々顔を挙げて乃梨子の示した先に視線を移すと・・・そこには。

真っ青に輝く海。

「まぁ・・・綺麗・・・」

「見えるーー??」

「ええっ!!見えるわーーーーっっ!!!」

車だと、こうはいかない。風を体一杯に受けて、こんな風に海を見るなんて。

真っ青な海に溶けてしまいそうなほど、今私は自由を体全部に感じてるような、

そんな不思議な感覚。私は、この時初めてどうして乃梨子が嫌がる私を、

バイクに乗せてくれたのかが分かった。乃梨子はこの感じを私に伝える為に誘ってくれたのだ。

しばらくしてバイクはゆっくりと止まり、私はまた乃梨子にしがみついてバイクから降りた。

「大丈夫?怖くなかった?」

「ええ!平気よ!とても気分が良かったわ!」

バイクはやっぱり怖いし危ない。でも、なるほど。どうして乃梨子がバイクに夢中になるのか、

ほんの少しだけ分かった気がした。

バイクを置いて誰も居ない浜辺に下りた私達は、しばらくそのまま砂浜に座って海を眺めてた。

頭上にカモメが何羽か円を描いてクルクル飛んでる。

「鳥って、あんな気分なのかしら?」

カモメを指差して言った私の言葉に、乃梨子は小さく笑う。

「どうでしょう?もっと気持ちいいんじゃないかな。何せ体一つで飛べますからね、あいつら」

「そうね・・・でも、割と似てるんじゃないかしら」

「そうですか?そんなに気持ちよかったですか?」

「ええ!私、初めてあんなにも体一杯に風を感じたわ」

興奮して身を乗り出した私に乃梨子が笑う。落ち着いて志摩子さん、って優しく。

「でも、どうしてここなの?私、海に行きたいなんて言ったかしら?」

確かそんな事一言も言ってないと思う。いや、海は好きだけど。

すると乃梨子は少し考えるように空を見上げ、ポツリと呟いた。

「志摩子さんが・・・最近元気無かったから。何かに捕まっちゃったのかな、と思って。

いや、私が志摩子さんと一緒に海に来たかったって理由の方が大きいですけど」

私の顔を見て慌てて言葉を付け加えた乃梨子の優しさが苦しかった。

だって、その・・・通りだったから。何かに縛られ、まるで高校の時のようだった私。

自分の中の葛藤と戦って身動きが取れなくなって・・・。

言うべきか、どうか。とても迷った。でも、私はさっきあれほどの自由を感じたばかり。

何も怖くないような、そんな気がしてた。乃梨子になら、何でも打ち明けられそうな、

そんな・・・気がしてた。

「私ね、どんどんワガママになるの。

祐巳さんや由乃さんが・・・何故か凄く羨ましく思えたりして・・・。

いくらマリア様に祈っても全然消えなくて・・・私、一体どうしちゃったのかしら?

自分でも・・・よく分からないのよ・・・」

涙こそ流れなかったものの、零れ落ちる手前では・・・あった。

乃梨子と居るといつもこう。幸せなのに泣きそうで、切なくて。

そんな私を見て乃梨子がそっと私の手の上に手を重ねてくる。

「志摩子さん、それは違うよ。

だって、いくら志摩子さんが祐巳さまや由乃さまを羨んでも、

あの二人にはなれないし、私だってそう。聖さまや令さまにはなれない。

私達には私達の付き合い方があるんだって、聖さまが前に言ってたじゃない」

「それはそうだけど・・・でもね、乃梨子。

たまに・・・たまにね、凄く不安になるの。私達、いつまで一緒に居られるのかしら?って。

凄く・・・怖くなるのよっ・・・」

「そんなの・・・私だって怖いよ。だから、今日ここに志摩子さんを連れて来たんじゃない。

志摩子さん、私ね、きっとこの先志摩子さん以外誰も好きにならないと思う。

だからね・・・指、出して?」

乃梨子はそう言って私の左手を持ち上げ、ポケットの中から何か取り出した。

そして子供みたいに笑って言ったのだ。

「ちゃんとセオリーに乗っ取って、お給料の三か月分のだよ」

「え・・・?」

そっと、優しく包み込むように私の左手の薬指に指輪がはまった。

金色の、淡い光が海と太陽の光を反射して輝く。一瞬、これが何を意味するのか分からなくて、

私はもう一度乃梨子を見上げた。

「結婚・・・しよ?ううん、一生・・・私の傍に居てください」

いつも乃梨子はあまり感情を表に見せない。どちらかと言えば淡々としてて、

仲間内でも何考えてんのかよく分からないと言われるほど。

でも、私の前では・・・違った。よく笑ってよく怒る。私は、そんな乃梨子が・・・好きだった。

誰よりも私の心を理解して、いつも辛い時に私を支えてくれていた人。

私に、断る理由は・・・無かった。

「・・・あり・・・がとう・・・」

「ううん、お礼を言うのは私だよ」

涙を零した私にそっと綺麗な真っ白のハンカチを差し出してくれる優しさとか、

それ以上は何も言わない距離感だとか、そういうのが私には凄く心地よくて。

私の心の枷など、乃梨子にとっては昔と変わらず大したものではなくて。

「不思議ね。乃梨子は私の気持ち、何でもわかるのね」

ポツリと言った私の言葉に、乃梨子が優しく笑った。

「違うって。だって、私が志摩子さんと同じ気持ちなんだよ。

だから何でも分かってるように映るだけで、本当は私、何も分からないんだ。

実を言うと、それも突っ返されたらどうしようかと思ってたもん」

「そんなっ・・・返す訳が・・・」

「うん。志摩子さんんあら、そう言うだろうなって思ってた。

私はそれを知ってて渡したんだから、本当は私、ズルイんだ」

小さく舌を出した乃梨子の顔はいたずらっ子みたいで何だか可愛かった。

その顔を見て思わず笑ってしまった私を見て、乃梨子も声を出して笑う。

その後キスをせがんだのは、私。乃梨子はそんな私を見て頬を赤らめてたけど、

私はそれに気付いてない振りをしてそっと目を閉じた。

潮の香りが体全体にまとわりついて、泣きそうな甘いキスをして。

帰りはとてもゆっくりだった。乃梨子曰く、日が暮れると風が冷たいからね、との事。

でも本当は知ってる。少しでも一緒に居たかったの、まだ。

離れたく・・・なかったの。私は乃梨子の背中にしがみついて、頭をその背中に当てた。

門限ぴったりに家の前についた私達はまだ離れたくないって思いと、

それでも帰らなきゃって思いが交錯して何も言えずにいたんだけど。

そんな気分を和ますように乃梨子が冗談めかして言った。

「私の夢はね、志摩子さんとツーリングする事なんだ」

「ツーリング?」

「そう。バイクに乗って二人でどこまでも行くの。気持ち良さそうでしょ?」

ツーリング・・・そうね・・・いいかもしれない。私は笑って頷いた。

そして、その乃梨子の夢が私の夢になる。

「それじゃあ・・・えっと、おやすみ!」

「ええ、おやすみ。とても楽しかったわ。それと・・・これ・・・ありがとう」

「あはは・・・安物だけどね・・・」

「十分よ。私にはもったいないぐらいだわ」

月明かりの下に光る金色のシンプルな指輪。私はそれを右手でなぞりながら言った。

乃梨子と夜の挨拶と、誰にも見られないようにしたキスで、今日のデートは終わり。

家に帰った私は、早速ノートパソコンを開いた。

「えっと・・・ツーリング・・・バイク・・・っと・・・あら、結構・・・するのね」

真剣になって調べ物してたらかかってきた一本の電話。相手は祐巳さんだった。

『志摩子さん?ごめんね、こんな遅くに』

「いいえ、いいの!どうかして?」

『なんか・・・いやにご機嫌じゃない?志摩子さん・・・』

「そうかしら?あのね、聞いてくれる?」

『う?うん』

私の頭はもう、乃梨子と交わした夢で一杯だった。そして、誰かにそれを伝えたくて。

電話越しの祐巳さんの声が凄く怪訝そうだけど、今日はそんな事少しも気にならなかった。

「あのね!私、バイクの免許を取ろうと思うの!」

『・・・は?!』

「そして、乃梨子といつか、ツーリングに行くの!

どこまでも・・・目的地なんて決めないで。素敵でしょう?」

『あっ・・・あわわわわわ』

言葉の出ない祐巳さんと、幸せ一杯の私。私の夢は、乃梨子の夢。

乃梨子の夢は、私の・・・夢なんですもの。それが、私達の・・・付き合い方なんだわ、きっと。


二百二話『デートの神様』

ど、どうしよう・・・デ、デートに着て行く服が・・・ないわ・・・。

私は散らかった部屋の中で下着やら脱いだ服を踏みつけながらウロウロと歩き回ってた。

引き出しや箪笥の中はあれこれ引っ張り出してもうぐちゃぐちゃ。

最後にデートしたのは・・・あれはいつだったかしら?

もう覚えてないほど遠い昔の事で、私はデートって単語がこの世にあることすら忘れてた。

それぐらい・・・それぐらい昔にしたっきりなのよ!!デートはっっ!!!

私はその場にうずくまって頭を抱え、大きなため息を落とした。

どうしてこんな事になったのか・・・今でもはっきりと残るSRGの声。

そう・・・あれは、昨日の夜の事。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

シャワーを浴びて部屋の中でゴロゴロしながらテレビを見てた私の元に、

一本の電話がかかってきた。こんな時間に電話してくるのは、多分SRGだ。

SRGはいつも私の暇な時間を見計らってタイミング良く電話してくる。

シャワーを浴びてのんびりしてる時や、ご飯を食べ終えてまったりしてる時とかに。

思うに、タイミングのとても良い人なのだろう。

もしくは、それだけ私の事を理解してくれているかどちらかって事だと思う。

これが愛というものなら、私達は中々優秀な方だと自分で言うのも何だけど思う。

もしもこれが聖なら、多分シャワーの途中やご飯の真っ最中、

あるいは私が夢の中に突入しようかって時にかかってくるから・・・アイツは、

多分相当間の悪い人間。いや、私とは全く違う生活習慣なんだろう。

私は電話の着信画面を確認して、思わずテレビを消して正座した。

電話とテレビを両立出来るほど器用ではない事は、私自身が一番よく理解してる。

「も・・・もしもし?」

『あ、もしもし蓉子ちゃん?今時間大丈夫?』

「え、ええ!もちろんです」

まぁ・・・例え寝てたとしても、この人の電話なら私は多分こう答えるだろうけど。

私はそんな自分がおかしくて思わず笑ってしまった。

私達が初めて夜を一緒に過ごしたのが、もう一週間ほど前の事。

結局SRGは次の日私の家の中の大掃除をして、おまけに夕食まで作って嵐のように去って行った。

まぁ・・・せっかく掃除してくれたのに、案の定一週間も経てばここは散らかってるけど。

それでもSRGは、来週も来るからね、そう言ってここを後にした。

という事は、多分今週もまたここへ来てくれるって事だ。

私は勝手にそう解釈して、週末を楽しみに待った。それはもう、気味悪いほどに。

聖曰く『恋で人は変わるって言うけど、蓉子は変わりすぎだと思うよ』なんて言われるほど、

最近の私は浮かれてた。だって、どうしようもなく幸せなんですもの!仕方ないじゃない。

知らず知らずの内にニヤけてしまうんですもの!!どうしようもないじゃない!!

私はそんな事を考えながら受話器の向こうで笑顔を浮かべてるであろうSRGを想像して、

目を細めた。SRGの声はいつも以上に弾んでて、何かをペラペラとめくる音の合間に聞こえる鼻歌が、

SRGの気持ちを物語ってて、それを聞いて私まで思わず鼻歌なんて歌っちゃったりして。

私・・・こんなにも可愛い女だったのね・・・なんて、思わず自画自賛しちゃったりして。

あくまで心の中でだけだけど。こんな事、絶対に、口が裂けても言えやしない。

特に・・・親友二人には。そんな事考えてた私を突然現実に引き戻す声。

『あのね、蓉子ちゃん前に見たい映画があるって言ってたじゃない?』

「え?ええ・・・覚えてらしたんですか?」

そりゃ確かに言ったけど、あれは独り言のつもりだったのに・・・まさか聞いてたなんて。

しかも、それをちゃんと覚えててくれるなんて・・・そんな些細なことが嬉しくて仕方なかった。

さりげない優しさとか、そういうのならこの人は誰にも引けをとらない。

私は多分、この人のそういう所に惹かれたんだと思う。

もちろん、それだけなんかじゃ・・・ないけど。

『当たり前じゃない。でね、今週の土曜日に一緒に観に行かない?』

「ええ、もちろん喜んで」

『そう、良かった!断られちゃったらどうしようかと思ってたの』

「?どうしてです?」

『だってもうチケット買っちゃったんですもの。気が早いなんて呆れないでね?』

そう言ってSRGは笑った。恥ずかしそうに。でもね、私は・・・笑わなかった。

だって、そうでしょ?笑えないわよ、そんなの。嬉しくて仕方ないもの。

思わず漏れる笑み。声は出さないように心の中で静かに笑った。

誰にも伝えられないこんな気持ちを。

「ありがとうございます、SRG。待ち合わせはどうします?」

『そうね。迎えに行きましょうか?』

「いえ・・・その、どこかで待ち合わせしましょう。お手間を取らせるのも悪いですし」

『あら・・・そう?私は手間だなんて思わないけど・・・まぁ、たまにはいいかもね。

じゃあ、そうしましょ。K駅前に10時ね』

「はい!土曜日の10時にK駅前ですね」

『ええ、それじゃあね。楽しみにしてるわ』

「はい、私も」

電話を切ってしばらく私は大の字に転がって、今の電話を思い返しては一人じたばた暴れてた。

「映画ですって!前から見たかったやつ!!ふ・・・ふふふ」

傍から見たら多分相当気味悪いと思う。でも、そりゃ独り言も飛び出すわ!

だって・・・映画よ?映画!これって、デートの定番じゃない!!

そう、デートよ!今週末は家でゴロゴロなんかじゃないのよ!?

私は勢いよく起き上がってカバンの中から真新しい手帳を取り出した。

手帳を開くと、くっついてた小さなシャーペンが嬉しそうに顔を出す。

「プライベート用の手帳・・・やっと用事が書き込めるのね!」

大事に開いた手帳を一枚づつめくってゆく。ああ、こんな動作をいつかこの私がする日が来るとは。

仕事用の手帳はそれこそ、びっしり書き込んである。

でもこの手帳は・・・真っ白。どれだけ私に用事が無かったかが伺えて、最近では見るのも嫌だった。

それでも毎年手帳を二冊買ってしまうのは、きっと一種の賭けだったんだと思う。

今年こそはこの手帳が予定で埋まりますように・・・そんな、些細な願い。

そして記念すべき予定第一号は・・・映画館。

「ちょっと派手さに欠けるけど・・・まぁ、いいわよね。書き込めるだけでも大した進歩だわ」

今週の土曜日の所に赤いペンで映画館と書き込む。

もう子供じゃないから流石にハートとかは書けないけど、気持ちの中では・・・書いてる。

ああ、私ってほんと・・・なんて分かりやすい人間なんだろう。

そして思ってたよりもずっと少女漫画を地で行こうとしてる。

それからしばらくはその手帳を見つめてはニヤニヤしてた。

「はぁぁぁ・・・デートか・・・デートね・・・ふ・・・ふふ・・・えへへ・・・。

デート・・・なんていい響きなのかしら・・・デートかぁ・・・デー・・・はっ!?」

私は勢いよく起き上がった。そして一直線に洋服ダンスに向かって走った。

思い切り良く開けた洋服ダンス。目に飛び込んでくる洋服達はどれも・・・。

「ヤバイわ・・・スーツとジャージしか無いじゃない・・・」

その場に崩れ落ちた私は、ずっと仕舞い込んであったダンボールを引っ張り出してきて、

片っ端から中を開け、必死になって探した。デート用の服を。

「ない・・・ない・・・ないっ!!どうして服が一着も無いのよ・・・嘘でしょ・・・」

いいや、嘘じゃない。だって覚えてるもの。昔の服は全て小さくなってしまって、

全部古着に出したのを。そしてそれから服は確か数えるほどしか買ってない。

しかもスーツばっかり。だってね!スーツって便利なのよ!!

冠婚葬祭いつでも使えるし、学校もこれで十分。家ではジャージだし、

あんまり外にも出ないからこれで十分だったのよ!今までは!!!

「ああ、もうっ!!!どうしたらいいの?!」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして・・・今に至るという訳。私はしばらく部屋の中をウロウロウロウロ歩き回って、

部屋の引き出しという引き出しを開けては服を探したけど、出てくるはずもなく・・・。

「・・・こうなったら・・・誰かに借りるしかないわね・・・」

頭の中に、ポンって聖の顔が浮かんだ。アイツはほんとどうしようもないけど、

身だしなみに関しては天下一品。むしろ、身だしなみの為に働いてると言ってもいい。

それぐらい彼女はよく服を買うし、センスも・・・いい。

時計を確認すると、まだ0時を回ったとこ。私は慌ててサンダルを履いて家を出た。

いつもはこうやって私も迷惑かけられてるんだ。たまには・・・いいだろう。

エレベーターで下の階に下りると、親友の家のインターホンを何度も何度も押した。

「ちょっとー早く出なさいよね!!」

いくら鳴らしても聖も祐巳ちゃんも出てこない。これは・・・居留守かっ!!

「そうはさせるもんですか!!ピンポンピンポンピンポン!!!!」

こんなにも誰かの家のインターホンを連打したのは、多分小学生の時以来だ。

あれはそう・・・私がまだ善悪の区別がつかなかった頃・・・。

その時だった、鍵がカチャリって開く音がした。

私はその音を聞いて勢いよくドアノブを引っ張ると、聖は驚いたような顔して私を見つめてる。

「よ、蓉子??」

「ちょっと失礼」

片手だけ挙げた私はそのまま聖の腕をくぐって中に入ると、聖の部屋へまっしぐら。

後から慌てた聖が追いかけてくる。

「ちょ、一体何なの?何事!?つか、今何時か知ってる?」

「知ってるわよ。あんたもいっつもこんな時間にこうやって来るでしょ。

たまには我慢しなさいよ」

「いや、そりゃそうだけど。

私はほら、そういう人間だし、つか、蓉子はこんな事する人じゃないっていうか・・・」

つまり何か。私がこんな事するようには見えないからしてはいけない、とそういう事か。

私は聖を見上げてキッって睨んだ。

「私だってこういう事するによ。時と場合によってはね!ほら、いいから出しなさい」

スッと手を出した私をじっと見つめる聖。首をかしげて怪訝な顔してる。

その後ろから、眠そうな顔の祐巳ちゃんがひょっこりと顔を出した。

「あれ〜?蓉子・・・さま?」

「ごきげんよう、祐巳ちゃん。起こしちゃってごめんね」

「いえ・・・別にいいレスよ・・・でも、どうされたんです?」

「そうよ。何よ、何を出せって言うのよ?」

「服よ。持ってる服全部出して。そして貸して」

「はあ?」

聖は私の言葉にキョトンってした。固まったままの聖の代わりに答えてくれたのは、祐巳ちゃん。

「服でしたらそのタンスの中に・・・」

「あっ!バカ!!!」

「あら、そうなの?ありがと」

私は祐巳ちゃんの指差したタンスを開けて中を覗き込もうとした・・・でも。

その前に聖が立ちはだかる。

「ちょっと待った。一体何する気?」

「何って・・・さっき言ったでしょ?借りるのよ」

「どうして?」

「それは・・・だって、デート・・・なんですもの。今週の土曜日に・・・」

頬に手を当てて顔を赤らめた私を胡散臭そうな顔して睨む聖。

それとは裏腹に祐巳ちゃんは・・・嬉しそう。手を叩いて喜んでくれてる。

ほんと、この子は素直で可愛いわねぇ。聖の彼女にしとくのなんてもったいないわ。

「まぁ、百歩譲って貸すのはいいけど・・・絶対汚したりしないでよ?」

「分かってるってば!私、外に出たらちゃんとするもの!」

「それは知ってるけど・・・でもなぁ・・・って、あっ!こら!!勝手に!!!」

聖が言い終わらないうちに私は聖のタンスの中をひっくり返し始めた。

でも・・・いいのが無い。何て言うか、初デートにぴったりな可愛いのが・・・・無い!!

「これも違う!これも駄目・・・ああ・・・これも・・・イメージじゃない!!」

「ちょっと!!見終わったらちゃんと元に戻しなさいよ!!

どうしてそこら辺にポイポイ捨てるのよ!!」

「だって、いちいち吊るしてたら奥までちゃんと見えないのよっ!!」

「そうですよね〜?服選ぶ時はそうなりますよね〜?」

「ええ、そうよね。聖が几帳面過ぎるのよ。もっと楽に生きなさいよ」

「そうですよ」

「・・・あ、あんた達ね・・・」

苦虫潰したみたいな聖の顔は、引きつってる。

足元に散らばった服を一着一着丁寧に拾い上げ大きなため息をつく背中が、

何だか家を掃除してくれた時のSRGの背中とは随分違う。

はっ!そんな事よりも!とりあえず服よ、服!!

結局、私は聖の服を全て部屋の中に散らかしてデートに着ていけそうな服を選んだ。

でも・・・やっぱり趣味って人それぞれ違うのね・・・。

私のイメージするデートとはかけ離れた服ばかりで、思い通りの物は見つからなくて。

その時、ふと視界の端に祐巳ちゃんが映った。

私はユラリと立ち上がってそのまま祐巳ちゃんの肩をガシっと掴む。

「ぎゃうっ!!」

「祐巳ちゃん・・・何も言わずに祐巳ちゃんの服も見せてちょうだいな・・・」

こうなったら、何が何でも探し出すわ。デートの服を!!

俯いた私の顔はきっと見えない。それでも、祐巳ちゃんは青ざめた顔で何度も頷く。

そんな私を見て聖は服を片付けながらポツリと言った。

「こわ・・・蓉子さ、祐巳ちゃん怯えさせてどうすんのよ」

「うるさいわねっ!!さ、行くわよ、祐巳ちゃん!」

「は、はひっ!!」

しばらくして・・・私は見つけた。理想の服を!可愛くてそれでいて・・・スマートな服を!!

「これよっ!!こういうのを探してたのよ!!!」

「はあ・・・」

「こ、これ借りてもいい?」

「え・・・ええ、どうぞ」

私は服を握り締めて祐巳ちゃんの顔を覗き込んだ。やっぱり、聖より祐巳ちゃんよね。

ったく。聖に期待した私がバカだったわ。祐巳ちゃんの服を持って部屋を出ようとした私の目の前に、

聖がまた立ちはだかる。今度は・・・何よ?

「一応、着てみた方がいいいと思うけど」

「どういう意味?」

「だって。それ祐巳ちゃんのだよ?どう考えてもサイズがね・・・」

語尾の方は私にしか聞こえないほどの小声でボソリと呟く聖。

私はその言葉にふと我に返った。そうよ・・・私と聖ならまだしも。

祐巳ちゃんと私のサイズは・・・多分違う。

私は聖の言葉に頷いて祐巳ちゃんの部屋を借りて服を試着してみたんだけど・・・。

「あぁ・・・ここに来てこんな壁があるなんて・・・」

丈とかウエストは大丈夫・・・ただ・・・胸が、胸がっ!!!

祐巳ちゃん・・・どうしてこんなにも小さいの・・・。

鏡の前で呆然と立ち尽くす私の耳に届く聖の声。

「・・・やっぱりね・・・諦めなさい、蓉子。いいじゃない、いつものジャージかスーツで」

そんな聖の声に怒る祐巳ちゃんの声。

「やっぱりってどういう意味ですか!?ねぇ!!聖さま、どういう意味なんですかっっ?!」

「や、別に深い意味は・・・ほら、蓉子!とりあえずそれ脱いで、もう帰りなよ、ね?」

聖の慌てたような声。祐巳ちゃんのキーキー怒る声がどこか遠くから聞こえる。

ああ・・・私はどうすれば・・・こんな事ならちゃんと普段から服は持ってるべきね。

ええ、そうよ。そのとおりよ。服は大事。いざって時にすっごく困る・・・そう、今の私のように。

私は聖も祐巳ちゃんも居るのにノロノロと着替えて理想的だった服をそっと祐巳ちゃんに手渡した。

「ありがとね・・・祐巳ちゃん・・・」

「い、いえっ・・・あの・・・すみません・・・」

「いいえ、いいのよ。だって、祐巳ちゃんのせいなんかじゃないもの。

そうね、あえて言えば聖のせいよ」

「ど、どうして私のせいなのよ!?」

私はちらりと聖の手を見て、その視線を祐巳ちゃんの胸に向けた。

そうよ、聖がもっと頑張れば祐巳ちゃんの胸だってもう少し大きくなるでしょうに。

「はぁぁぁ・・・あんたも頑張りなさいよね・・・」

その言葉と私の動作できっと聖は全て理解したんだと思う。

「余計なお世話よ、ったく。育ちすぎた蓉子が悪いんじゃない」

まぁ、何て言われても別にいいわ、今は・・・そんな事よりも、服よ、服!

ああ、デートの神様・・・私は初デートに一体何を着ていけばいいのでしょう・・・?


二百三話『目がチカチカ・・・するのよ』


蓉子ちゃんは遅刻なんてするような子じゃない。それは私が一番よく知ってる・・・つもり。

でも、待ち合わせの時間になっても蓉子ちゃんはやって来なかった。

さっきからもう何回時計を見た事か。さっきからもう、何度電話しようと思った事か!

でも・・・出来なかった。何故か出来なかった。

なんか、そういうのって蓉子ちゃんを信用してないみたいで嫌・・・だったのかもしれない。

「ああ、映画が・・・」

あと10分で始まる。私はもう一度時計を確認した。

・・・遅い・・・遅すぎる!!ま、まさかどこかで事故にでも遭ったんじゃ!?

私は急いで携帯を取り出して発信履歴を探した。

とは言っても、最後に電話したのは蓉子ちゃんだから、探す手間もなかったけど。

携帯を鳴らして待ってたら、凄くいいタイミングで後ろに居た人の携帯が鳴った。

・・・ん?ま、偶然よね、ありえない話でもないし。

私はだから、何も気にしないで電話に集中してたの。ところが・・・。

『SRG!?今、どこに居るんです?』

そんな怒鳴り声がすぐ後ろから聞こえてきて、私は慌てて振り返った。

そして・・・携帯を落として、それ以上何も言えなくて・・・。

「よ、蓉子ちゃん・・・」

「え?・・・あっ!!え、SRG・・・」

私の声に蓉子ちゃんも振り返った。ていうか、だ・・・誰?

唖然とする私の目の前に居るのは紛れも無い蓉子ちゃん。

で、でも・・・か、髪が・・・長い・・・。

何も言わない私に嫌気がさしたのか、蓉子ちゃんは私の携帯を拾って私に手渡し言った。

「SRG?どうかされました?」

「い、いえ・・・全然・・・気がつかなかった・・・わ・・・」

何ていうか、可愛い。ええ、それは認める。でもね・・・でも・・・服が・・・。

どうしてピンクハウスみたいなの!?ヒラヒラしたピンク色がま、眩しいわ!!

別にピンクハウスが悪い訳じゃない。そうじゃないんだけど・・・。

上から下までまるで舐め回すみたいに見つめる私の顔を見て、蓉子ちゃんはピンときたのだろう。

スカートの裾をちょっとだけ持ち上げて、小首を傾げる。

「・・・似合いませんか?」

「う・・・ううん!!似合ってる!怖いぐらい似合ってる・・・けど、

そ、そんなの・・・持ってたんだ?」

「いえ、これは江利子のです。このカツラも・・・恥ずかしい話なんですけど、

私・・・家にスーツかジャージしか無くて・・・だから、慌てて借りて来たんですけど・・・、

場違いでした・・・よね・・・やっぱり」

いや・・・いやいや。まぁ確かに?中世フランス並みの格好は流石にいかがなものかと思うけど、

髪は・・・似合ってる。ていうか、やっぱりこの子美人だわ・・・。

しかも江利子ちゃん。普段どんな服着てるのよ!!まさか、普段からこんな装いなの!?

私は蓉子ちゃんの手を引いて何も言わず歩き出した。

そんな私の後ろから蓉子ちゃんは慌ててついてくる。

「ちょ、SRG?あの・・・映画館はあっち・・・ですけど」

「ええ、分かってるわ。でも、その服・・・歩きにくいでしょ?」

ていうか、ちょっとだけ恥ずかしいのよ!並んで歩くのがっ!!!

でも、真顔の蓉子ちゃんにそんな事言えるはずもなく・・・。

もっともらしい言い訳をした私はなんて卑怯なんだろう。でも言えない!

この子、だって絶対江利子ちゃんに面白がられてこんな服着せられたに違いないもの!

ああ、何て素直なのかしら。それに何だか・・・必死。

それが分かるから余計に可愛くて仕方なくて。もしも私が聖だったら、

絶対にこうしたはず。いや、聖でなくてもきっとこうする。

私たちの思う蓉子ちゃんは、こんな子じゃない。もっと気丈だし、しっかりもしてる。

でもテンパると・・・そうでもない。動けなかったり、簡単に騙されたり。

自分を見失うとでも言うのかしら。いつもの蓉子ちゃんとはほど遠い、

まるで別人みたい。でも、正直今はそれが嬉しい。

だってそれぐらい蓉子ちゃんは今日のデート・・・テンパってたって事でしょ?

いい意味でも悪い意味でも私の事を意識してくれたのだとしたら、

それほど嬉しい事なんて無いじゃない。まぁ、流石にこの格好じゃ一緒に歩くのは恥ずかしいけど。

ていうか、あまりにも私の服装との違いが激しすぎて、色合いも・・・補色だし・・・。

「あの・・・SRG?一体どこへ行くんです?」

「着くまで内緒よ。いいから、ちょっとだけ付き合ってちょうだい」

「・・・はい」

恥ずかしそうにじっと繋いだ手に視線を落とす蓉子ちゃん。

いや、繋いだ手よりも多分今の私と蓉子ちゃんの格好の方が恥ずかしいから!!

私たちはそれから、何を話していいかも分からずに歩いた。私の行き着けの服屋に向かって。

ヅラはいい、ヅラは。せめて、着替えましょう。店についてそう言った私に、

蓉子ちゃんは怪訝そうな顔をした。

「やっぱり・・・似合わなかったんですね・・・」

「そうじゃないの!可愛いわ!凄く可愛い!!でもね・・・私の格好・・・見てちょうだい。

私・・・緑なの。ね?チカチカするでしょう?私たちが並んで歩いたら」

「・・・ああ、そう言えば・・・」

蓉子ちゃんは納得したように頷くと、私の後に着いて回って沢山ある服を楽しそうに見て回ってる。

なんだ・・・別に服選びに興味が無い訳じゃないんだ・・・。

私はそんな事考えながら蓉子ちゃんが見て回った服を一着一着見てある事に気づいた。

どうも、蓉子ちゃんはいっつも祐巳ちゃんが着てるような服が好き・・・らしい。

だって、どれもこれも可愛らしいフリルのついたやつとか、そういうのばっかり見てるもの。

だから私は思い切って聞いてみた。蓉子ちゃんが今手にとってるやつ・・・も、可愛い。

「そういうのが好きなの?」

「えっ!?や、あ、あの、私は・・・別に」

慌てて服を元に戻す蓉子ちゃん。必死になって隠そうとしてるけど、全然隠しきれてない。

手を伸ばして乱暴に仕舞い込まれた服を取ると、蓉子ちゃんに合わせてみる。

色は薄い水色。色合いとしてはまぁまぁか。それに、似合ってない事もない。

むしろ、今の髪型にはピッタリ。

「ちょっと着てみない?」

「え?」

「ほら、早く早く!」

私は強引に蓉子ちゃんを試着室に押し込むと、さらに店内を回った。

あの服に合いそうなスカートも探さなきゃいけないから。

「あの・・・SRG?」

「ああ、着れた?どう?どこもキツくない?」

こう見えてこの子、結構胸あるもんねぇ。私はちらりと胸に視線を移してハッと我に返った。

だめだめ!これじゃ聖と変わらないじゃない!!

私の質問に蓉子ちゃんは恥ずかしそうに頷くと、私の手の中にあるスカートを見て笑う。

「それ、可愛いですね」

「でしょ?これ、きっと合うと思うの。良かったら着てみない?」

「ええ?で、でも」

「大丈夫だから。絶対似合うから」

「そ、そうですか?それじゃあ・・・」

なるほど、この子ってばこうやって江利子ちゃんの言う事聞いたのね、きっと。

全く!江利子ちゃんときたら、真剣な蓉子ちゃんをおもちゃにして!

明後日学校で会ったら文句言わなきゃ!私がそんな事考えてる間に、

蓉子ちゃんはすっかり着替え終わっていた。

うん・・・やっぱりこういうのがいいわ、蓉子ちゃんには。

固すぎず柔らかすぎない。普段の蓉子ちゃんのイメージを残しつつ、甘いイメージも追加。

ああ・・・私ってば・・・天才!!

まだ試着室でまごまごしてる蓉子ちゃんを置いて、私は店員を呼びに行く。

そしてそのままお会計。蓉子ちゃんはその一連の行動をポカンとして見てた。

脱いだ服を紙袋に入れてもらって店を出た私の袖を蓉子ちゃんが引っ張る。

「なぁに?」

「ど、どうして・・・こ、こんなのいただけません!」

「いいの。それは私からのプレゼントって事にしておいてちょうだい」

「だ、駄目ですよ!出来ません!!」

「いいえ、するのよ。私の我侭で着替えさせたんですもの。それはプレゼントさせてちょうだい。

はい、この話はもうお終い!」

「そんな・・・でも・・・」

「でもはなし!!それでも気が済まないなら、そうね。今晩の夕食を奢ってちょうだい。

蓉子ちゃんの好きなお店の、好きなものを私に奢って?」

少しでも蓉子ちゃんに近づきたい。どんな些細な好みでもいいから、知りたい。

そんな風に思うのは、別に最近始まった事じゃない。

蓉子ちゃんを好きなんだと自覚したその日から、ずっと知りたかった。

好きな店、好きな番組、好きな花、好きな歌。何でもいいから知りたかった。

蓉子ちゃんの事を、少しでも・・・いいから。鬱陶しいかもしれない。

でもね、それが恋だと・・・私は思うの。令ちゃんや由乃ちゃんのように、

何もかもを知りたいの。そのためにはこれぐらいの出費など、どうってことない。

こうやって街を二人で歩いたり、映画館に映画を見に行ったり、

小さな事だと思う。でもそれが今までは出来なかった。私たちは他人だった。

でも今は違う。今は・・・他人なんかじゃない。ずっと先の未来まで繋がってる関係でありたいと、

そんな風に思うのよ。私は立ち止まってそっと手を差し出した。

その手を見て蓉子ちゃんが首を傾げる。ほらね、こういう時、何も言わないで通じるようになりたい。

いちいち言葉にしなくても、ちゃんと分かり合えるように。

「手、繋いで映画館まで行かない?」

にっこりと笑った私を見上げて、蓉子ちゃんはちょっとだけ笑った。

私の手に重ねた手は暖かい。まるでカイロみたい。それぐらい、蓉子ちゃんは緊張してる。

でも、それは私も同じ。私は蓉子ちゃんの手を握って、大げさに振って歩いた。

「ちょ、SRG、恥ずかしいですよ!」

「だって、何だか気分いいんだもの!たまにはいいじゃない、ね?」

子供みたいにはしゃいで、好きよって伝えて、手を繋いで歩きましょうよ。

そんな想いを込めて蓉子ちゃんを見ると、蓉子ちゃんは笑って頷いてくれた。

きっと言葉通りの意味しか通じてないのかもしれないけど、それでも構わない。

だって、だって・・・蓉子ちゃんってばほんと・・・可愛いんですもの!きっと、もう一生・・・離せない。


「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

私たちの関係はある日を境にガラリと変わった。もう焼きもちなんてあんまり妬かない。

たまにはそりゃ・・・妬いちゃう事だってあるけど。

でもね、私たちの絆は多分ずっと強くなったと思うんだ。

周りもどんどん変わり始めて、また季節が変わって・・・そうやって見えない何かは確かに、

少しづつ強くなってゆくんだと思う。私は、今もそう・・・思ってる。

きっと、これからもずっと。


二百四話『何でもないような日にも』


特に何も起こらない毎日。でも、何かが変わりそうな日。

今日は朝起きて一番にお茶を入れたら茶柱が立った。

そんな何でもないような事なのに、何故か嬉しくて仕方ない。

ふとカレンダーを見ると、もうすぐまた一年がやってくる。

聖さまと出逢ってからもう何年になるんだろう。付き合いだしてからは?

そう遠くない過去の事のはずなのに、何故かそんなのどうでもいいやって思えちゃうから不思議。

私がカレンダーの日付を数えてその日があと何日なのか数えていると、

聖さまが起きてきた。日曜日なのに、珍しい。

「おはよう・・・何見てんの?」

「おはようございます。いえ、また一年が経つんだなぁって思って」

「ああ・・・」

私の隣、肩越しからカレンダーを覗き込んだ聖さまがカレンダーを見て、

何でもないように呟いた。なによ!もうちょっと感慨深くなってみてもいいのに!

でも、私は少し賢くなった。私と聖さまは随分価値観が違う。

感動する場面も違えば、怒るとこも違う。だからこんなすれ違いにいちいち腹立たないし、

距離を感じたりもしない。聖さまは聖さま。私は私でいいんだって気づいたし。

それを聖さまに言ったら、聖さまはちょっとだけ笑って言った。

「まぁ、賢明なんじゃない?」

「・・・・・」

なんてあっさりした回答。ま、これが聖さまだ。

「で、朝ごはんは?」

「もうとっくに出来てますよ!」

全く!とっくに出来た挙句に冷めちゃってるわよ!!

いそいそとテーブルの上に食事を並べ終えるのを待っていた聖さまは、

私が席につくなりどこかのパンフレットを私に差し出す聖さま。

「なんです?これ」

なになに・・・エステ特集・・・は?・・・エステ??

パンフレットには初回3000円引きのクーポン券がくっついてて、

私はそれを覗き込んで首を傾げた。つか・・・どういう意味よ?

もしかして、最近ちょっと太ったのがバレた・・・とか?

怪訝な顔した私を見て聖さまはコーヒーなんて優雅に飲みながら視線だけをこちらに移す。

「聖さま、エステ行くんですか?」

「いいや、私じゃなくて祐巳ちゃんが行くの」

「ああ、なんだ・・・って、えええええ!!??」

ちょ、待ってよ、どういう事?

私、そりゃ確かにもう若くないし肌だってピチピチじゃないかもしれない。

体だって随分鈍って、おまけに逆上がりも二重飛びも出来ないけど!

だからってどうして突然エステに行かなきゃなの!?それって・・・酷くない?

わなわな震える手を見て聖さまは知らん顔。いただきますも言わないでパンを齧る聖さまを、

こんなにも憎らしく思った事は多分今までに一度も無い。

「ちょ、や、あの!!ちゃ、ちゃんと説明を・・・説明をしてくれないと、

意味が分かんないっていうか、え・・・えええ?!!」

「説明も何も、エステに行って来いって言ってるだけでしょ?

その他に何の説明がいるの?」

「いや、だからですねえ、どうして私がエステに行かなきゃならないのか、と」

「どうしてって・・・こないだ綺麗になりたいって言ってたじゃない。

だからお姉さまにいいとこ紹介してもらって、もう予約までしたんだから、

行かないとは言わせないわよ」

「なっ、なっ!!」

なんですとぉぉぉぉ!!??す、既に予約までしてるですって!?

私はもう一度パンフレットをガン見して隅々まで読んだ。

もうね、虫眼鏡まで使わないと読めないんじゃない?って思えるほどの小さな字まで。

目を細めて少し離してパンフレットを読む私を見て、聖さまが表情を歪めてポツリと言う。

「やだ、その歳でもう老眼?やめてよね。ついでに眼鏡も作れば?いい加減」

「・・・・・・・・・・」

今それどころじゃないの。聖さまはちょっと黙ってて。

無言で睨んだ私に気づいたのか気づいてないのかは分からないけど、

食べ終えた食器を持って聖さまはそのままリビングを後にした。

そう言えばもうすぐ学期末のテストだっけ。聖さまこの時期になると機嫌、悪くなるんだよなぁ。

いや、今はそんな事よりももっと重要な事がある。

私はパンフレットを持った手をふるふる震わせながら、

一番下に書いてあった小さな字を声に出して読んだ。

「えっと、なになに?

・・・尚、予約をキャンセルされた場合、違約金が発生しますのでご注意下さい・・・なにこれ!?」

ちょ、待って。も、もいっかい・・・。

「予約をキャンセルされた場合、違約金が発生しますのでご注意・・・ください〜?ナニコレ!?」

ちょ、これ!!私はパンフレットを持って聖さまの部屋をドアを乱暴に叩き、

返事が返ってくる前に部屋に踏み込んだ。

「もうちょっと静かに入ってこれないのかな、祐巳ちゃんは」

「そ、そんな事言ってる場合じゃないですよ!

聖さま、ちゃんと読みました?ねぇ、これちゃんと読みました!?」

「読んだよ。違約金でしょ?もったいないから、明日から一ヶ月ちゃんと通ってね?

志摩子と蓉子と一緒に」

「はぁ?!」

ど、どうして志摩子さんとよ、蓉子さままで?もう訳分かんない!訳わかんなぁぁぁいっ!!

でも、気がついたら私は何も言わず頷いてた。多分、心のどこかで諦めたんだろう。

もしくは違約金が発生するという事実が私の中の何かを突き動かしたのかもしれない。

「あ、そうだ!ちなみに明日は私も一緒に行くからね」

「はあ」

「そのクーポン、一枚で5人までいけるの。もったいないじゃない?」

「はあ・・・」

「ちなみに、志摩子と蓉子がこれからここに来るってさ」

「は?」

聖さまはそう言って携帯を取り出し軽く振った。ちょ、待ってよ。

一体何なの?今朝の茶柱は一体・・・何だったの?

その時だった。インターホンが何回も何回も鳴り響く。

それを聞いて聖さまは頭を抱えて不機嫌に呟いた。

「蓉子め・・・また連打する。ウチのインターホン壊す気なのかな!?」

蓉子さまがこうやってインターホンを連打するのは今日が二回目。

ちなみに、前の時はただ服を借りにきただけだったんだけど、そうか・・・。

あれからもう1年も経つのね・・・早いなぁ。

私は鍵を開けドアを開けようとした。でも、それよりも先にドアが勝手に開いて、

物凄い剣幕の蓉子さまがズカズカ上がりこんでくる。

多分・・・私の事すら視界に入ってないっぽい蓉子さまは、

またもやまっすぐに聖さまの部屋に向かってゆくと、乱暴にドアを開いた。

その後から志摩子さんが申し訳無さそうに入ってきて、

その後ろからSRGがさらに申し訳なさそうに入ってくる。

「ご、ごきげんよう。志摩子さん、SRG」

「ごきげんよう、祐巳さん」

「ごきげんよう、祐巳ちゃん。ごめんなさいね、止めたんだけど・・・」

そう言ってSRGは視線を奥に移して大きなため息を落とした。

「いえ、かまいませんよ。きっと蓉子さまは私の代わりに言いたい事言ってくれそうな気もしますし」

「そう言ってもらえると有難いわ〜!祐巳ちゃん流石!いい子!!」

「いえ、そんな・・・所で、志摩子さんは一体またどうして・・・」

志摩子さんは指先をもじもじしながら上目遣いで私に手招きする。

なんだろ・・・耳かせって事かな?私は志摩子さんに近づいて耳を傾けた。

「あのね・・・実はそのぅ・・・私、引っ越すことになって」

「そうなんだ!え?でもどこに?今、実家だよね?」

「ええ、そうなんだけど・・・そのね、乃梨子の所に・・・行こうかと思って・・・るの」

「そうなの!?いいじゃない!乃梨子ちゃん喜んでるでしょ?」

「ええ、そうなの!やっと私たちもひとつ屋根の下よ!

もう寒い中待ち合わせ場所で凍えたりしなくていいんだと思うと嬉しくて仕方なくて」

「あ・・・ああ、そうなんだ・・・」

そ、それだけ?もっと他にも喜ぶとこ沢山あるでしょうに・・・。

ま、志摩子さんはいっつもこんな感じだからもう慣れたけど。

志摩子さんと言えば、最近何の心境の変化か突然教習所に通い始めて、

なんと!大型二輪の免許を取った!皆はそりゃもう驚いて、絶対危ない!!

とかって散々反対したんだけど、後から乃梨子ちゃんに聞いた話では、

教習所に通ってる生徒たちの中では志摩子さんの運転がピカ1だったんだって。

というのも、普段志摩子さんって大人しそうに見えるけど、

バイクに乗ると自分を見失う・・・らしい。それってちょっと危ないんじゃ?

多分そんな事思ったのは私だけじゃない。皆思ったはず。

でもまぁ、本人が良ければ別にいっかってとこで話は落ち着いたんだけど、

聖さまだけは最後の最後まで口を尖らせて、気をつけなさいよ!!なんて、

まるでお母さんみたいに言ってた。

「あんたね!!一体どういう事なのかちゃんと説明しなさいよねっ!!」

「ああ、もう、うるさいな。そんな怒鳴らなくてもちゃんと聞こえてるってば」

聖さまの部屋から怒鳴り声とうんざりしたような声が交互に聞こえてくる。

私たち三人は顔を見合わせ、苦笑いを浮かべるしかなかった。

ああ、もうほんと。今朝の茶柱・・・幸せがやってくるような気がしたんだけどなぁ・・・。


二百五話『決断の時』


退屈な毎日は記憶にも残らないで過ぎてくばかりだわ。

私は窓の外を見て大きなため息を落とした。最近の面白かった事と言えば、

志摩子が免許を取った事。しかも大型二輪ですって。

何でも乃梨子ちゃんとツーリングに行く為らしいんだけど、

志摩子がバイクを運転してる所を想像すると、何故か笑える。

私はそれを思い出して漏れる笑みを噛み殺した。何か面白いこと・・・ないかしらねぇ・・・。

授業が終わって放課後、職員室はうるさいから教室でのんびりしてたら、

珍しく祥子が声をかけてきた。

「江利子さま!こちらにいらしたんですのね」

「祥子・・・どうしたの?」

「この前したお話の答えをお聞きしたいのですが」

「ああ・・・そうね、もうちょっと待ってもらえないかしら?

そんなに簡単に決められないわ」

「そうですよね・・・分かりました。でしたら、心が決まりましたら、また連絡くださいね」

「ええ、ありがとう」

祥子は最近、祐巳ちゃんの写真を机の上に置くのを止めたらしい。

祥子曰く、最近は自分のすぐ傍に祐巳ちゃんと瞳子ちゃんを感じるんだとか。

それってちょっとオカルトチックだけど、まぁそれもいいんじゃないかな。

聖と祐巳ちゃんが付き合いだした当初は何かしら怒ってばかりいた祥子も、

今はもうすっかり落ち着いて今では祐巳ちゃんとの間に何かしらの友情を見つけたらしい。

だから最近の祥子はすっかり大人で・・・そうね、面白くない。

そしてまた一人になった私の所に今度はにぎやかな叫び声。

ああ、この声は・・・可愛い可愛い孫の声に違いない。

「江利子さまっ!!」

ほらね、当たり。

「どうしたの?由乃ちゃん」

「どうしたのじゃありませんよっ!!どうしてくれるんですか!!

間に合わなかったら!!!」

由乃ちゃんは多分、あの事を言ってるんだろう。私は少し笑って由乃ちゃんをとりあえず座らせた。

「まぁまぁ落ち着いて。間に合わなかったらって言うけど、それは私のせいではないんじゃない?

だって引き受けたのは令じゃなくてあなたなんだから」

「そ、それはそうですけど!!

だからって毎週毎週令ちゃんを連れまわす事ないじゃないですか!!」

「毎週だなんて失礼ね。先週と先々週だけじゃない。そして今週も」

「やっぱり・・・毎週じゃないですかっっ!!!!!」

由乃ちゃんはそう叫んで立ち上がった。机をバンって叩いた指先は絆創膏でいっぱい。

私はその指を見てちょっとだけ不安になった。

「まさかとは思うけど、あなた・・・手で縫ってる訳じゃ・・・ないわよね?」

「まさか!!私だってそんなバカじゃありません!ミシンで縫ってますよ!」

「そ、そう・・・ならいいけど」

ていうか、どうしてミシンを使ってそんなにも怪我するのかしら?

不思議だわ・・・ていうか、謎だわ。もしかして布と一緒に指まで縫ってるのかしら?

いやね、そんなの着るの・・・。私は想像して苦笑いをこぼし、

そして少しだけ由乃ちゃんに謝った。令には本当に話があったから毎週呼び出してたんだけど、

まぁ・・・可愛い孫の為だ。ここらへんで令を返してあげましょ。

「分かったわ。じゃ、今週と来週は令は呼び出さないから、その間に頑張ってちょうだい。

あと、くれぐれも・・・」

「本当ですか!?良かった!!本当に間に合いそうに無かったんです!!!

あ!もちろん心得てますよ!この事は、誰にも誰にも、内密に!!ですよね?」

「そう。そう言われてるから。私は言いたくて仕方ないんだけど、ま、仕方ないわね」

それからしばらく私たちは令の事とかを散々言い合った。

いつも通り、本当に穏やかで何だか眠たくなってくる。

「あっ!お姉さまに由乃!!ここに居たんですね!」

「「令(ちゃん!)」」

「もう!二人とも探したんですよ。お姉さま、今週の事なんですけど・・・」

「ああ、もういいの。今週は由乃ちゃんに付き合ってあげてちょうだい」

「は、はいっ!良かったね、由乃!」

令は爽やかに微笑んで由乃ちゃんに手を差し出した。由乃ちゃんもそれを見てにっこり微笑む。

「うん!・・・って、どうして私が良かったのよ!?良かったのは令ちゃんでしょ?!」

「え?い、いや・・・で、でも由乃が間に合わないとか何とか・・・」

「間に合うもんっ!!令ちゃん居なくても間に合うもんっっっ!!令ちゃんのバカッ!!!嫌い!!」

「あ、ちょ、由乃〜〜〜!!!お、お姉さま、すみません、それじゃあ、失礼します!」

「ええ、ちゃんと仲直りしなさいよ」

相変わらず、あの二人は騒がしい。令がいらないことを言って由乃ちゃんが怒る。

いつもの事ね、ほんと。でも・・・私はあの二人が大好きなのよね。

見てると、こっちまでついつい笑っちゃう。まるで自分の事みたいに面白くて仕方ない。

私はほんと、恵まれてる。いい妹に可愛い孫。一番楽しい時間なのよね。

時計を見るともう五時になろうとしてる。もうすぐ会議が始まるわね・・・退屈だわ。

私は立ち上がって大きな欠伸を一つ落とした。窓の外ではSRGが笛をリズム良く吹いてる。

部活の顧問もなかなか大変よねぇ・・・大変と言えば。最近蓉子が気持ち悪い。

そう、あの劇が終わってからずっと。ニヤニヤニヤニヤしながら話しかけてくるのよ。

あの蓉子が!あれほど気味悪いものもないわね、ほんと。

人間って変わろうと思えば案外簡単に変われるんだわ。それにSRG。

あの人はほんと、凄いわ。多分この学校の一番の伝説になるわね。

だってあの蓉子を落としたんですもの。ある意味世界征服をするよりも難しいと思うのよ、

蓉子と付き合っていくの。でも、あの二人が喧嘩してるとこ見た事無いし・・・。

何よりも面白かったのが、二人の初デート!!夜中に蓉子が家に押し入って来て、

青い顔して言ったのを私は今でも忘れられない。

『江利子・・・何も聞かずに一番可愛い服を貸してちょうだい』

『・・・?』

『何も聞くなって言ったでしょ!?』

『聞いてないわよ』

『あ・・・ああ、そう』

私は寝ぼけてただけ。多分。でも蓉子は必死だった。あんなにも必死な蓉子を見たのは、

ほんと久しぶりで。だからかしら。すぐにピンときたのよね。

私は言われた通り何も言わずに私の持ってる服の中で一番可愛い服を貸し出した。

とは言っても、それは兄が私にと言ってくれたもので、実は私は一度も袖を通してない。

だって・・・あんまりにも派手で・・・ていうか、私の趣味とはかけ離れてて着れなかったの。

でも親友蓉子の為だと思って私はそれを貸し出した。

そしてそれを大人しく試着した蓉子を見て、思わず噴出したのは言うまでも無い。

『どうして笑うのよ?!』

『い、いえ・・・その髪型がいけないのよ、きっと。ちょっと待ってて』

そう言って私は少しはマシになるだろうと、カツラまで貸し出したというのに。

駄目だった。蓉子には似合わない。それでも蓉子はカツラと衣装を持って、

ルンルン言いながら跳ねて帰った・・・ところを見ると、近々デートだったのだろう。

そして翌週、私は何故かSRGに呼び出された。

『ちょっと江利子ちゃん?』

『はい?』

『蓉子ちゃんに貸した服についてなんだけど、いいかしら?』

『ええ、どうぞ』

ほらきた。私は内心期待してたのね、きっと。

『蓉子ちゃんは素直なんだから、ああいう服はすすめちゃ駄目!』

『私は何も言ってませんよ。一番可愛い服を貸してって言われたから、

貸したんです。まさかデートに着ていくなんて。

てっきり何かの罰ゲームか何かだとばかり思ってたんですけど』

私は嘘をついた。だって、絶対その方が面白いと思ったんだもの。

案の定、SRGは苦笑いして小声で呟いた。

『駄目よ、蓉子ちゃんああいうの好きみたいだから。でも似合わないのは自覚してるみたい』

『・・・・・』

この時、私の中の蓉子のイメージが大きく崩れた。そして前よりももっと好きになった。

完璧だと思ってた彼女の意外な趣味。ロリータにも近いドレスが好き。

隠してるけど、本当はああいうの喜んで着てたのかなとか思うと、

蓉子は私をダシにして着たって事になる。そしてSRGはそれを知った上で、

蓉子には何も言わないでいるんだわ。そう思うと私の知らない所で、

二人の絆みたいなのがしっかりと繋がれてるような気がして少しだけ寂しくなった。

まぁ、そんな大袈裟なもんじゃないけど・・・ね。何にしても、仲良いいのが一番ね、ほんと。

私は教壇に上がって机を撫でた。生暖かい木のぬくもり・・・特に感慨深い事もないわね。

「あっ!江利子さま、こちらにいらしたんですね!さ、早くいらっしゃって下さい。

職員会議が始まってしまいますわ」

そう言って感傷に浸ってないけど、そういう気分をぶち壊したのは瞳子ちゃん。

「私が居なくても会議は出来るでしょうに」

「いいえ、そうはいきません。そう言ってこの間の会議にも出なかったじゃありませんか!

さ、いきますわよ!」

「はいはい」

小さな手がしっかりと私の手を掴む。瞳子ちゃんは祥子の妹。

でも私はあんまり面識ない。それは当たり前かもしれないけど、何せ祥子の妹。

多分、私には見えないだけでこの子はきっと大物だ。そうに違いない。

「あれ?江利子さまに瞳子さん、まだこんな所にいらしたんですか?」

「か、可南子さん!?」

廊下をテクテク歩く私を引っ張る形で早足で歩いてた瞳子ちゃんが、突然立ち止まった。

瞳子ちゃんが立ち止まったおかげで私は瞳子ちゃんの靴を思わず踏んづけてしまったけれど、

瞳子ちゃんはそんな事お構いなしに立ち止まったまま。

ふと、可南子ちゃんの視線が私たちの手に落ちた。そしてにっこりと笑う。

「仲良しですね」

たったそれだけの言葉。その言葉に瞳子ちゃんは慌てて私と繋いだ手を見て、パッと離した。

可南子ちゃんと言えば、この子はいつからこんなにも柔らかく笑うようになったのだろう。

初めてこの学園にやってきた時は、あんなにも鬼気迫るオーラを醸し出していたのに、

今ではまるで牙の抜けたトラ。もしくは角の無い鬼。

祐巳ちゃんと聖との間に割って入ったこの二人に何があったのかは知らないけど、

いつの間にか祐巳ちゃんと笑って話したり、聖にちょっかいかけられて怒ったりしてる所を見ると、

もうあの時のわだかまりは全く無いみたい。あの時はほんと、どうなることかと思ったけど、

聖のあの顔を見ればすぐに分かる。この子、本当はいい子なんだって事が。

私がそんな事考えてると、突然それまで黙ってた瞳子ちゃんが怒鳴った。

「べ、別に特別仲が良いわけではありませんわっ!ね?江利子さま!?」

「え?ええ・・・」

あまりにも必死な瞳子ちゃんの目に私は頷くしかなかった。

そんな私たちを見て可南子ちゃんが苦笑いを浮かべる。

「えっと・・・すみません?」

「どうして謝るんですか!!私は別に謝って欲しい訳ではありませわ!

た、ただ変な誤解を招きたくないだけで!!」

「はあ」

可南子ちゃんは困ったように私に視線を走らせ、助けて、と目で訴えてくる。

そうは言われてもねぇ・・・そして私はふと思った。

ははーん、この二人さては・・・なるほどね、そういう事か。

小さく笑った私を見て、可南子ちゃんと瞳子ちゃんはバツが悪そうに俯く。

ふと見ると可南子ちゃんの手には大量のチョークやら黒板消しが握られている。

なるほど、この子は蓉子にお使いを頼まれたのね。そうだ!

「可南子ちゃん、それどこへ持っていくの?」

「え?あ、倉庫にです・・・けど」

「ならちょうどいいわね。瞳子ちゃん、可南子ちゃんを手伝ってあげてちょうだい」

「え!?ど、どうして私が・・・」

「先輩命令よ、ほら早く!私は先に職員室へ向かうわ。でないとまた蓉子に怒られちゃう」

「えっと・・・それじゃあ、半分持ってくれますか?」

可南子ちゃんが恐々瞳子ちゃんに言った。

そしたら瞳子ちゃってばフイってそっぽ見て手だけを差し出す。

ほんと、素直じゃないんだから。でも、この子達今まで知らなかったけど・・・案外可愛いわね。

「仕方ないですわね。手伝ってさしあげますわ」

「ありがとうございます」

「いいえ、どういたしまして」

そう言って二人は歩き出した。私はその背中が見えなくなるまでずっと見てた。

「ま、がんばんなさいな」

職員室に向かう途中、突然辺りがピカリと光った。この光は多分・・・。

「江利子さまの微笑み激写!って、まだこんな所に居たんですか?」

「ええ、今から向かう途中よ。蔦子ちゃんはまだ部活?」

「はい。もうちょっとで終わるんで、それから会議に出席します」

「そう。それじゃ、先に行ってるわね」

「はい!では、これで失礼します」

蔦子ちゃんはほんと、相変わらずねぇ・・・噂によれば蔦子ちゃんの部屋はもう、

どっかの個展みたいになってるって聞いたけど、一度行ってみたいものだわ。

それに祐巳ちゃんも大喜びしてたっけ。蔦子さんに沢山写真もらったんです!!って。

それはもう、嬉しそうに。祐巳ちゃん・・・か。あの子が来てから随分この学校も変わったわね。

何よりも聖が変わった。あの偏屈教師が。聖はねぇ・・・見た目はいいのに、

中身があれだから皆触れるのが怖かったのよね、彼女に。

でもそれを怖がらなかった祐巳ちゃんの根性と強さには、流石の私も脱帽だわ。

ほんと・・・いつかも思ったけど、私もあんな恋がしたいわ。

それに・・・。

「・・・綺麗ね・・・」

渡り廊下から外を見ると、校舎がピンクに染まってた。蓉子に貸した服ぐらいピンク。

どこか物悲しい雰囲気がするのは、そう見せる正体が夕陽だって事を知ってるからだと思う。

私、これからもここに居るのかしら?それとも、もっと面白い事を探すのかしら?

何にしても、もう十分かもね。この学校で色んなものを貰って、

私はこれから何が返せるだろう。皆に・・・何を返せるかしら?

当たり障りなく生きてきて、面白い事に飛びついて。でも肝心な事忘れてた。

私には大事なモノが沢山あって、そして何よりもそれをもっともっと大事にしたいって事を。

職員室に入ると、皆が一斉にこっちを見た。一人一人見渡すと、皆それぞれ思い思いの顔してる。

それが何だかおかしくて、私は小さく笑った。

「私、今学期でここ辞めるわ。祥子、あの話進めておいてちょうだい」

「「「「「「「え・・・ええええええええ!!??」」」」」」」

後悔なんて無いわ。だって私はいつも、生きたいように生きてきたもの。

だから今度は、皆の為に生きるわ。まぁ・・・大半はやっぱり自分の為・・・なんだけど。


二百六話『ある手紙の内容は・・・』


ある日、一枚の手紙が届いた。返信封筒が入ったそれは、家族分あった。

差出人は聖さん。何故か祐巳の名前が無いのが気になったけど、

それは中の手紙を読んで納得した。あの人は本当に、祐巳をおもちゃにしてるんだなぁ。

ていうか、ウチの家族は皆知ってる。今、祐巳と聖さんの周りで何が起ころうとしてるのかを。

ただ知らぬは祐巳のみなのだ。これを知った時、祐巳は怒るだろうか?

それとも喜ぶだろうか?ちなみに、俺は怒る方に賭けてる。

父さんは喜ぶに違いない!って言ってたけど。そうかなぁ?だって、自分だけ除け者だよ?

しかも当事者なのに・・・聖さんもほんと、人が悪いよなぁ。

俺は手紙の封を切って中身を取り出した。

中にはまるで学校で配られるPTAから保護者宛のプリントみたいなのが入ってる。

流石教師!こういうのは普段から作りなれてるんだろうなぁ。

なんか素っ気無さ過ぎる気もするけど、まぁ、こんな所にお金かけたくなかったんだろうな。

手紙の内容は凄く簡単で、要は絶対に話すな、喋るな、くれぐれも祐巳には内緒に。

それと・・・おまけみたいに出席表がついてた。聖さんらしいと言えば、聖さんらしい。

あの人もほんと、面白い人だ。いつか祐巳が酔っ払って言ってたっけ。

『聖さまはれ〜スルメみたい!そう、こ〜んな感じで噛んでも噛んでも味が無くならないろ〜。

れね、いつまでも飲み込めないんらよれ〜』

そう言って祐巳は裂きイカを結局お茶で流し込んでたけど、なるほど。

今その言葉通りだと思った。俺は母さんと顔を見合わせて苦笑いすると、

ペンで丸つけて返信用封筒に手紙を入れた。そこへちょうど仕事が一段落した父さんがやってきて、

麦茶片手に俺たちの手の中にある手紙を見つけて目を輝かせた。

「お!来たか!!よしよし、どれ、父さんのはどれだ?」

「これだよ、ほら」

父さんは忙しなく手紙の封を切って中の手紙を読んでニヤニヤしてる。

正直、自分の親ながら気持ち悪い。

「あなたのは何て書いてあったの?」

「ん?ああ、家の事お願いしますって」

「あら、そうなの。私にはね、料理の事が書いてあったわ!ほら!」

そう言っていい歳して手紙を見せあいっこする夫婦。

見てるこっちがこっぱずかしいよ、ほんとにもう。ていうか、聖さんもマメだな。

一人一人に違う手紙あてるなんて。つか、どうして俺には口止めだけな訳!?

もう一回マジマジと手紙を見ると、裏にこんな事書かれてあった。

どうも後から書き足したらしく、シャーペンで殴り書きみたいな筆跡で。

『お父さんとお母さんが暴走しそうになったら、祐麒、頼んだからね』

「・・・・・」

ちらりと隣を見て俺はがっくりと頭を垂れた。そして心の中で呟く。

『りょーかい』

飛び跳ねて喜ぶ母さんと、まだブツブツ言ってる父さん。

確かに、聖さんの言うとおり、これは誰かが止めなきゃ間違いなくこの二人は暴走する。

「さて!じゃあ、仕事の続きに取り掛かるかな!」

「あっ!あなた、聖ちゃんに電話しなきゃならなかったんじゃなかったの?」

「お、そうそう、夢中になってて忘れる所だった!えっと・・・聖ちゃんの番号は・・・と」

たどたどしい手つきで携帯の番号を押す父さん・・・つか、聖ちゃんって・・・。

いつからそんなにフレンドリーなんだよ!?もう訳わかんないよ。

母さんは母さんで聖ちゃん聖ちゃん言ってるし、そりゃ分からないでもない。

聖さんは美人だ。近年稀に見る美人だ、それは認めよう。

嬉しいのは分かる。浮かれるのも分かる。でも!頼むからはしゃぎすぎないでくれ!!

そんな言葉を飲み込んだ俺は、手紙を三人分持って郵便ポストに向かった。

そして・・・事件はその夜起こった。もう皆が寝静まった午前二時。

小腹が減って階下に下りると、リビングから話し声が聞こえてきたのだ。

「本当にそれでいいんですか!?」

「?」

一体何の話をしてるのかさっぱり分からないけど、

父さんがあんなにも顔を真っ赤にして怒ってるのを、俺は初めて見た。

その時、父さんの手に持たれていたのは缶ビール。

飲んでた所に電話がかかってきたのか、

それとも一杯ひっかけてからかけたのかは・・・分からないけど。

しばらくの沈黙の後、父さんは手を伸ばしてハンズフリーにしたかと思うと電話を机の上に置いて、

静かに話し出した。

「私もね、反対でしたよ。でもね、二人は本当によくやってる。

あなたもそうでしょう?あの二人を見てたらそう思うでしょう!?」

『・・・私は、娘に嫌われてるんです。出張ばっかりで家庭を顧みなかった。

今更そんな父親ぶって、娘が喜ぶとは思えないんです・・・』

「そんな・・・あなたまさか、それが本心だとは言わせませんよ!」

『そりゃ、私だって、私だって・・・でも・・・どうしても後一歩が踏み出せないんだっ!!』

「そんなに勇気のいることじゃないと思いますよ・・・どうかお願いですから、

あの子達の幸せを見守ってあげましょうよ。

その門出じゃないですか、一緒に参列しましょう?」

話し声はそこで途絶えた。長い・・・長すぎる沈黙。

鼻をすする音が電話の向こうからとこちら側から聞こえてくる。また泣いてんのかよ、親父!!

まぁ、それはいいとして。大人は、というよりは、親という立場は何かと複雑らしい。

俺にはまだ分からないけど、それだけが痛いほど伝わってきて。

『・・・そうですね・・・もう少し考えてみます』

電話の向こうからポツリと漏れた声は、諦めにも似た安堵だった。

一人じゃないんだって分かった時の、あの感じに似てるのかもしれない。

父さんがそれを聞いて笑った。ビールをグイっと飲んで、優しく言う。

「今度、釣りにでも行きましょうよ、佐藤さん」

・・・って、聖さんのお父さん!?いや、薄々感づいてたけども!

しかも釣りに誘った?!な、何があったの!?いや、一体どんな繋がり??

よく分かんないけど、動揺してるのはどうやら俺だけらしくて。

『いいですね、釣りか・・・何年ぶりかな・・・』

「沢山釣って皆を驚かせましょう!」

『たまには父親らしい所も見せたいですからね』

「そうですよ!その意気ですよ!!」

『はは・・・やっぱり福沢さんは、いえ、家内に聞いた通り、

そちらのご家族は皆素敵な方ばかりなようで、

私は少し安心しましたよ。そして納得しました。

どうして祐巳さんがあんなにも真っ直ぐに育ったのかを』

「いえいえ、そちらこそ、聖さんは本当に気配りも行き届いてて、

ウチの娘がいつも迷惑ばかりかけてるんじゃないかと冷や冷やしてるぐらいですから」

『いやいや、祐巳さんは本当に可愛らしい。聖にも少し見習って欲しいぐらいで・・・』

「いやいや、こちらこそ聖さんを少し見習って、もう少ししっかりしてもらわないと・・・」

そして落ち着くとこはお互いの娘を褒めあって・・・。

まぁ、最終的には結局こうなるよな、娘の父親なんて。

せめてもの救いは、娘自慢じゃなくて良かったよ、ほんと。

いや、遠まわしに自分の娘を褒めてる・・・のか?

どっちでもいいけど、二人ともいい加減にしとかないと、明日辛いぞ!

心の中でそれだけ突っ込んで俺は・・・寝た。

翌朝、リビングには死体のように転がった父さんの姿。

床に散らばった缶ビールが昨夜の惨劇を物語っていた。

母さんは大体の事情は何となく知ってるようで何も言わずに呆れて微笑んで、

そっと父さんに毛布をかけてた。ああ、夫婦っていいな・・・。

「ん〜〜祐巳〜〜〜嫁になんか行かせないぞ〜〜〜」

「お父さんったら、往生際が悪いんだから!」

「・・・・・・・・・・」

ほんと。昨日あれだけ佐藤さんに説教してたくせに。

でも、うん、こういうのも・・・悪くないか。

とりあえず父さんと佐藤さんの名誉を守る為にも、

昨夜の事は当分聖さんと祐巳には黙っておこう。でないときっと、後が怖い。

何にしても、祐巳の驚いた顔が今から既に目に浮かぶ。多分、賭けは俺の勝ちだけど。


第二百七話『ドキドキ報告』


「間に合わない!間に合わない!!間に合わないっっっ!!!」

「よ、由乃さん・・・あ、あの私・・・ちょっとお手洗いに行きたいんだけど・・・」

「ちょっと祐巳さんっ!!動かないでよっっ!!!!足に針刺すわよ!?」

「えっ!?は、はい・・・」

私は踏み出そうとした足をそっと元の位置に戻して、肩で大きく息を吸った。

針と糸を持った由乃さんは最強。ていうか、逆らったら後が怖い。

ていうか、そもそもどうして私がこんな所でこんな事をしてるのか。

こうやってかれこれ30分はずっと立ち尽くして、

おまけに由乃さんに針で刺されそうになってるのか。

それには深い深〜〜〜い訳がある。全ての原因は相変わらず聖さまの一言から始まった。

そして今、私は思い知ってる。

きっとこれから先、一生かかっても聖さまの思考回路を読み取る事なんて出来ないんだろうなって。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

溯る事二時間前。今日は終業式だった。朝から天気は良くて、

最高の終業式日和で、私は朝からずっとウキウキしてた。

だって、明後日から生まれて初めての海外旅行だったから。

一週間前、聖さまが夜寝る前にポツリと言った。

『休み入ったらさ、どっか旅行行こっか、久しぶりに』

あまりにも突然だったけど、実は私は知ってたんだ。

最近やたらと聖さまの部屋に旅行のパンフレットが置いてあったから。しかも海外のばっかり。

本当はだから、私知ってたんだけどここは驚いて喜んでる振りしとこうと思って、

手を組んで無駄にはしゃいで見せた。やっぱりこういう気配りは大事だと思って。

驚かせようとしてるんなら、それに乗るのも嫁の務め!!でしょ?

『ええ!どこに行くんですか!?ブラジル?それともハワイとか?』

『・・・どうしてブライジル?ま、別にいいけど・・・そうね、前に約束したイタリアにしようか』

私の質問に聖さまが怪訝な顔した。

だ、だって聖さまの部屋に『ブラジルぶらり旅』ってパンフがあったんだもん・・・。

『イタリア?』

『そう、イタリア。行きたがってたでしょ?』

『はいっ!聖さまと行けるんならどこでもいいです!!』

『そ?なら、イタリアで決まりね』

イタリア・・・それは無かったよね?まぁ二人で行くんならどこでもいいけど!

そんな訳で私たちは春休みが始まったらすぐに一週間のイタリア旅行に行く事になった。

私はもう、嬉しくて嬉しくて仕方なくて、結局その夜眠れなくて・・・。

天気はいいしウキウキしてる。でも・・・寝不足。

「さっきから欠伸ばっか。ちゃんと寝ないからそんな事になんのよ」

聖さまは車の中で苦い顔してルームミラー越しに私をチラリと見て言った。

私が寝不足なのは一体誰のせいなのか、と!聖さまのせいでしょ!?

や、まぁ私が勝手に喜んで朝まで喋り倒したのがいけなかったんだけど。

「ふぁ・・・でも、だって!旅行ですよ!?海外旅行ですよ?!そりゃ眠れませんよ!!」

「旅行は明後日からでしょ。今日はちゃんと寝なさいよ?」

「分かってますってば!このままだと夜の8時ぐらいには眠くなりますから!」

寝不足で。私の答えに聖さまが笑った。それは困るなぁ、って。

でもこの時の私は、この言葉について深く考えなかった。

だって、どう考えても旅行の事の方が大事件だよ!

相変わらず私たちはこんな調子だった。毎日何も変わらない。

喧嘩もするし、言い合いだってする。でも笑い合う事も・・・沢山。

聖さまに出逢ってから毎日が楽しくて、初めて誰かに自分をぶつける事が出来て。

これでもう何回目の春休みがやってくるんだろう。もう随分と時間は経ったような気がするのに、

思い出せばすぐ昨日の事みたいに蘇る記憶。

たまに思い出して二人で一晩中話す事もある。でもその度に言い分は違ったりして、

所々すれ違ったまま覚えてたり、私の考えてた事と、

聖さまの考えてた事が随分違ったりして何だかおかしくて。

いつまでもこんな風に変わらず生きてくのかな、なんて感傷に浸ったりしてさ。

乗りなれた聖さまの車。ふとハンドルを握る聖さまを見て、私はそっとその腕に触れた。

七部袖を着た聖さまの腕にうっすら残る傷が一番苦い思い出を蘇らせる。

「傷・・・残っちゃいましたね」

「目立たないから別にいいよ。

それに、この傷のおかげで祐巳ちゃんの本音を知る事が出来たんだし?」

そう言って聖さまは笑った。あの時の事を私はハッキリ覚えてない。

でも聖さまの中では、きっととても重要な事だったんだと思う。

「そうですか。じゃ、安いもんですよね、この傷も」

「いや、それとこれとは別。ちゃんと責任はとってもらうからね」

聖さまの言葉が嬉しくてついつい調子に乗った私に切り返してくる答えは、

やっぱり昔と何も変わらない。まぁ、これが聖さまなんだよね。

冗談っぽく笑った聖さまを見て、私も笑った。聖さまの責任か。

喜んでとるよ、そんなの。決して言葉には出さないけど、心の中でずっと思ってた事。

絶対聖さまには直接言わないけど、ね。

学校について職員室に行くと、江利子さまが机の上を片付けてた。

江利子さまと言えば、この前突然学校を辞めるとか言い出して、

皆を驚かせた。令さまは涙目で江利子さまの肩を掴んでブンブン振り回してたし、

蓉子さまに至っては・・・拳を振り上げて怒ってた。危うく流血騒ぎになるんじゃないかって程。

でも江利子さまの意思は固くて、結局誰も江利子さまを止める事は出来なかったんだ。

でもね、私思うんだ。江利子さまが辞めるって言った時の顔が、

決して悲壮ではなかったから、きっと何か新しい面白い事を見つけたんじゃないのかな、って。

いつもいつも面白い事を探してはウロウロしてた江利子さま。

そんな江利子さまが学校を辞めるって言い出したのは、きっと何か理由があるんだと、

私は・・・思ってる。聖さまは、そうかな〜?なんて言ってたけど。

それにきっと江利子さまの事だ。今までどおりフラリとやってくるに違いない。

そしてまた面白い話を聞いて帰ってゆくんだ。そうに決まってる。

でもね、寂しくなるなー・・・とは、思う。やっぱり寂しいよ。江利子さまが居なきゃ。

『別に何も変わんないんじゃない?江利子が居ても居なくても』

『そう・・・だといいけど』

『大丈夫だって、どうせアイツ普段から居るのか居ないのかよく分かんなかったんだし』

聖さまはそう言って蓉子さまを慰めてた・・・のかどうかは分かんないけど、

蓉子さまはどうやら聖さまのこの言葉に納得したようで。

『そうよね!居ても居なくても大して変わんないか』

『・・・随分な言い草ね、二人とも・・・』

そんなこんなで結局、今日の終業式をもって江利子さまはこの学園から去る事になった。

「あ、祐巳ちゃん悪いんだけどそれ、取ってくれない?」

江利子さまは私の机にはみ出てた何だかよく分からない置物を指差す。

「はい、どうぞ」

「ありがと・・・あ、良かったらこれ、いる?」

「へ?ど、どうも・・・」

よく分からない江利子さまの置物は、

まるで形見分けのように私の机の上に置かれたままになった。

ていうか・・・これ、何て生き物なんだろうな・・・。江利子さまはこんな感じで、

他の皆にも自分の私物をそれぞれ配って歩いた。でも、由乃さんと聖さまだけは。

「いりませんよ、そんなガラクタ!」

「あら、どうして?私との思い出じゃない」

「思い出って・・・こんな壊れたゲーム機もらって誰が喜ぶんですか!

大体、さっきから見てたら江利子さま、自分のいらない物持って帰るのが嫌だから、

そうやって皆に配ってるんじゃありません!?」

この言葉に江利子さまの顔色が変わった。ていうか、図星・・・だったの?もしかして。

江利子さまはその後聖さまにそれを渡した。でも聖さまってば・・・。

「ん、ありがと」

「いいえ、どういたしまして・・・って、ちょっと!!どうして捨てるのよ!!」

「だって、壊れてんでしょ?これ」

・・・だって。

聖さまは蓉子さまから渡されたプリント見ながら江利子さまから受け取ったゲーム機を、

そのままゴミ箱にポイ。そりゃ江利子さま怒るよ、聖さま・・・。

相変わらず職員室は騒がしい。でもこれがここの日常。いつもと何にも・・・変わんない。

そして、終業式が始まった。何も変わらない・・・筈だった。

蓉子さまの挨拶。格先生からの注意事項(あ、もちろん私からもね!)。

で、江利子さまの挨拶。嬉々としてマイクの前に立った江利子さまは、

チラリとこっちを見て微笑んだ。私にはそれが何を意味するのか分からなくて、

とりあえず微笑んだんだけど・・・。

そう長くも無い江利子さまの挨拶。もちろん生徒たちはザワめいた。

チラホラ聞こえてくるのは泣き声・・・だろう、きっと。

でも江利子さまは笑ってた。とても楽しそうに。で、最後にこんな言葉を付け加えたんだ。

『でも、今日は私が主役じゃありません。だって、楽しい事がこの後起こるんですもの』

それを聞いた隣に座ってた聖さまがポツリと苦い顔して呟いた。

「あのバカ・・・余計な事を・・・」

「聖・・・さま?」

な、なによ、この後起こる楽しい事って・・・私は聖さまを見て首を傾げた。

でもそんな私には気づかないような聖さまの横顔は、何故かとても綺麗で。

江利子さまがマイクを置いて自分の席に戻った。そして最後に・・・聖さまの挨拶。

聖さまはマイクの上に立って、何やら紙切れをポケットから取り出した。

おかしいな・・・聖さまいっつもあんなの書かないのに・・・。

スピーチとかそういうの得意・・・っていうか、書くほど長い挨拶なんてしないのに。

私はこの時、気づくべきだったのかもしれない。聖さまや皆が何を企んでるのかを。

マイクのスイッチを確認した聖さまが、最後の挨拶を始めた。

『えっと・・・大体の注意はいっつもと同じね。羽目外さずに適度に楽しみなさい。

それと、江利子じゃないけど私からも報告が一つ』

「ほ、報告!?」

一体何を報告するというのか、私はまた何も聞かされてないよ!?

思わず立ち上がろうとした私の肩を、SRGが掴んだ。

「祐巳ちゃん、まだ終わってないでしょ?」

「そ、それはそうですけど・・・でも!」

だって、前の時もそうだった。突然あの人はいつもとんでもない事を言い出すんだもん!!

・・・確かに私の予感は当たってた。相変わらず聖さまはとんでもない事を突然言い出したんだ。

『えっとー・・・私、結婚します』

「はあ??!!誰と!?」

き、聞いてないよ!?私、何にも聞いてないっっ!!!ていうか、誰と!?

ちょっと待って!私・・・もしかして今までずっと浮気されてたのっ!?

思わず立ち上がって叫んだ私を見て、教師陣は皆呆れ顔。

そして生徒は・・・皆ポカンってしてる。うん、その反応が正しいよね、私もそう思う。

色んな想いが交錯して私は何だか・・・一人ぼっち?

そんな私の質問に、聖さまは淡々と答える。いつも通り笑いを堪えながら。

『誰とって、祐巳ちゃんに決まってるじゃない。他の誰とすんのよ?』

「・・・・・・・・・」

いや、だから私と結婚・・・けっこ・・・け・・・?

「えええええええ!!!!????」

き、聞いてない!そっちも聞いてないよっ!!!私はヨロリとその場に座り込んで、

SRGにもたれかかった。そんな私を見て聖さまはさらに続ける。

『と、言うわけで3時から大聖堂でこの後結婚式するので、良かったら皆も来てちょうだい。

以上、報告終わりです。あ、そうそう忘れるとこだった。はい、これ、サインしてね、祐巳ちゃん』

そう言って戻ってきた聖さまの手にはさっきの紙切れ。

その紙には既に聖さまの名前と判子が押してあって・・・えっとー・・・これって・・・。

「そ、婚姻届。実際出せる訳でもないけど、書くだけでも違うじゃない?気持ちが」

「・・・・・・・・・・・」

頭が真っ白になるって、こういう事を言うんだ、きっと。

私は聖さまを見上げた。私の手には婚姻届。聖さまはそんな私を見下ろしてにっこりと笑う。

「大丈夫?頭、ついてきてる?」

「・・・・・・・・・・」

頭がついてきてるかって?ついてきてる訳ないじゃないっ!!そう言おうと思ったのに、

言葉がすんでの所で出てこない。そして私は全てを理解した。

私が喜んだイタリア旅行・・・あれは、新婚旅行なんだ。

そして前から計画されてたんだわ、私の知らない所で・・・。

そこまで考えた所で、私の思考回路は・・・途絶えた。

遠くから聞こえる聖さまの声とSRGの笑い声。

「やっぱり3時からにして正解だったわね、聖」

「ええ、絶対気失うと思ってたんですよね」

「・・・・・・」

そう思うんなら、何事も事前に・・・事前に連絡をして・・・くださいよ・・・。

怒りよりも、嬉しさよりも何よりも今は・・・ビックリで頭が一杯。

ううん、むしろ胸一杯。そっか・・・結婚・・・するのか・・・私・・・。

手の中に残された婚姻届に熱がこもる。

この紙切れ一枚で、私は聖さまの・・・お嫁さんになれるのか。サイン・・・しなきゃなぁ・・・。

保健室で気がついた私はしばらくまだ放心状態だった。

手の中にはまだ婚姻届が握られてて、さっきまでのが夢じゃない事を思い出させる。

そっとその紙を開くとそこには既に聖さまのサインがある。

丁寧な字で『佐藤 聖』と書かれたサインの隣には掠れる事なく押された判子。

そのさらに隣はまだ空白で、誰かに書き込まれるのをじっと待ってる。

私は机の上に置いてあったボールペンを取って、

聖さまの名前の隣にそっと自分の名前を書き込んだ。

鍵のついた引き出しを開けるとそこには高校時代の聖さまの写真。

「聖さま・・・」

写真の聖さまはもちろん返事なんてしてくれない。

でも、いつもよりもその写真が微笑んでるような気がして何だか私まで笑っちゃって。

引き出しに入ってたのは写真だけじゃない。奥の方に手を突っ込んで判子を取り出した私は、

自分の名前の隣にやっぱり途切れないようにしっかりと判子を押した。

それを目の前に掲げてにんまりと笑う私。そこへ、突然令さまが慌しく入ってきて、

ニヤニヤする私を後ろから担いで令さまが走り出す。

驚いて声も出ない私と、ハァハァ言いながら走る令さま。

こ、これから一体何が起こるのか私は全身からまた血の気が失せていくのを感じた。

ついた場所は家庭科被服室。

そこには鬼のような顔した由乃さんが仁王立ちしてて、手には純白の布と針と・・・糸?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

で、今に至るという訳。それから私はかれこれ30分このまま立ってる。

ちょっとでも動いたら刺すわよ!?って由乃さんに脅されながら。

「由乃!!そっちはもういいから、こっちもどうにかしなきゃ!!」

「令ちゃんうるさい!!そう思うんなら令ちゃんがやってよ!!!」

「私は胸のとこやるから!!・・・もう、どうしてこんなの引き受けるのかな、由乃は・・・」

「何か言った!?」

「・・・何も・・・」

令さまは素早く手を動かしてチクチク私の胸元を縫った。由乃さんはさっきからずっと、

裾の所をチクチクチクチクしてる。その針さばきの危なっかしい事!!

私は純白のドレスが赤く染まらないか冷や冷やしながらそれを見てたんだけど、

由乃さんの言うとおり、今はそんな事よりも間に合うかどうか、それが心配だった。

ていうよりも、どうして聖さまがあえて由乃さんに頼んだのかがよく分からない。

確かに由乃さんは家庭科の先生だけど!だけど!!

何度由乃さんは学校を燃やしそうになったか!

何度由乃さんは絆創膏だらけの手で学校に来たか!!

いや、それよりももっと考えなきゃならない事が沢山ある。だって、聖さまとの結婚式だよ!?

相変わらず私だけ何も知らなかったみたいだし(いや、生徒もか)、

それどころか、後2時間もしないうちにその結婚式が始まろうとしてるなんて!

結婚式というからには招待客とかの問題も色々あるじゃない?

でも、そんな問題はやっぱり全部聖さまが手配してた・・・みたいだった。

「おー、祐巳綺麗じゃん!」

「祐麒!?ど、どうしてここに・・・」

突然の訪問者の声に私が振り返ろうとすると、下から由乃さんが針をチラつかせて睨む。

だから私は声だけで判断するしかなかった。祐麒はそんな私の前に回りこんで、

何やら封筒をヒラヒラさせてニヤリって不適に笑う。

「どうしてって、祐巳の結婚式だからに決まってんじゃん」

「そ、その封筒は・・・」

「これ?これは招待状。まぁ、聖さんらしく中身はまるでPTAの保護者会みたなプリントだけどさ」

封筒を開けて祐麒は中身を私の目の前にかざす。た、確かに・・・保護者会のプリントね、これは。

流石、蓉子さま曰く、腐っても教師・・・。

私はそのプリントを奪い取って中を読んだ。簡潔な招待状がくっついたそれは、

どう見ても結婚式の招待状には見えない。

でも、そっか・・・最近やたらと聖さま宛に手紙が届くと思ったら、これだったのね。

ああ・・・どうして私は気づかなかったの!?もうね、自分が情けないよっ!!

両手で顔を覆った私は笑う祐麒の声と、由乃さんの叫び声を聞きながら大きなため息を落とした。

そこへもう一人、誰かが踏み込んできて私の顔を覗き込む。それはSRG。

「やだ!まだ顔出来てないじゃないっ!!ちょ、ドレスもまだなの!?」

「SRG!!助けてください〜〜〜」

藁をも掴みたい由乃さんはSRGにまで助けを求め、

SRGはそれを聞いてすぐさま針と糸を持って縫い始めた。

三人の教師は皆必死になってドレスを縫っている。

そして私は、マネキンのようにじっと立ったまま願った。

どうか・・・どうか時間までにこのドレスが間に合いますように!

それを祈るばかり・・・だった。


第二百八話『結婚式準備』


「結婚式ってさー、ただ立ってるだけで皆がやってくれるもんじゃないの?」

私は大きな花の沢山入った花瓶を体育館から運んでいた。

ポツリと漏れた台詞に、一番先頭を歩いてた蓉子がクルリと振り返って怒鳴る。

「あんたが結婚式の資金をケチるからでしょ!?

こうなったら言わせてもらうけどね!あんたいっつも突然なのよっ!!

どうして参列者自ら花運んだり赤いカーペット敷いたりしなきゃなんないのよっ!?」

「まぁまぁ蓉子。聖が突然なのは今に始まった事じゃないじゃない」

「江利子!!あんたもよっ!!あんたもいっつも突然なのよっ!!!!

何よ、急に辞めるって!?結婚式と同じぐらいビックリしたわよ!!」

「蓉子、一ヶ月エステ通ったんでしょ?そんな怒ってばっかりじゃエステの甲斐なくなるわよ?」

江利子の言葉に蓉子は、ハッ、って顔して慌てて眉間の皺を伸ばし始めた。

その途端に持ってた花束がドサリと落ちる。

「ちょ、大事にしてよね!」

「うるさいわねっ!!どって事ないわよ、落ちたぐらい!!元々は土に生えてたんだからっ!!」

「「・・・・・・・・・・」」

いや、そういう問題じゃなくてさ。どっか論点のズレた蓉子の言葉に、

私は江利子と顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。

それにしても結婚式ってほんと、大変。会場選びもだけど、そっから先の長い事。

引き出物だとか、飾りつけとか、お色直しとか、そんなのばっかで、

途中で嫌になって、結局全部自分でやる羽目になったんだけど、

それはそれで今は良かったと思ってる。だって、全部自分の好きなように出来るし。

うざったいのは全部無しにして、会場は学校の大聖堂。

もちろんゴンドラとか生い立ちの上映会とかは全部無し。その代わり二次会は祥子に頼んで、

小笠原グループ系列の豪華なホテルでやる事になった。

結婚式に呼ぶのはもちろん身内だけ。後、親しい友人ぐらいだけど、

私にも祐巳ちゃんにもそんなにも親しかった友人は居ないし、

そもそも私たちの事知ってる人って言ったら・・・殆ど学校の人間じゃん?

ようやく会場の設営を終えたのがちょうどお昼。今頃祐巳ちゃんはまだ保健室でグッスリだろう。

昨日、散々朝まで喋り倒してたから、絶対当分起きないに違いない。

ここまでずっと黙ってるのは、なかなか大変だった。祐巳ちゃんはああ見えて、意外に勘がいい。

出来るだけそういう話題は避けて皆にも口止めして。それがどんなに大変だったか!

え?どうして祐巳ちゃんには黙ってたかって?それは、凄く簡単。

祐巳ちゃんが知ったら、きっと喜んだと思う。でも喜びすぎてまた頑張りすぎると思ったんだ。

で、絶対どっかでまた余計な事して話をややこしくするから、大事だからこそ黙ってた。

それに私、祐巳ちゃん驚かすの楽しみなんだよね。

ていうか、最早趣味と言ってもいい。それを祐巳ちゃんファミリーに言うと、

皆喜んで賛成してくれた。ほんっと、どこまでも面白い家族。

私は出来上がった会場に一人満足げに微笑んで、そのまま被服室に向かった。

被服室では由乃ちゃんと令が四苦八苦しながらまだ注文したドレスと格闘してる。

「どう?そろそろ出来た〜?」

「「聖さまっ!!」」

由乃ちゃんの手の中には私の渡したドレスの下絵と、針。

令の手の中にはグッタリとしたドレス。なんだ、もう大方出来てるんじゃない。

「それが・・・それが、このレースが!ここのレースがぁぁぁ!!!」

由乃ちゃんは頭を掻き毟って私のドレスを描いた紙をしわくちゃにした。

ああ・・・頑張って描いたのに・・・。そんな癇癪を起こした由乃ちゃんを令がなだめてる。

多分、この三ヶ月ずっとこうやってこのドレス縫ってたんだろうな・・・。

そもそも、どうして私が令ではなくて由乃ちゃんに頼んだのか。

それは物凄く簡単な事だった。初めは令にお願いしようと思ってんだ、私は。

でも令に言っても絶対・・・。

『そんな!私には無理ですよっ!!恐れ多くてそんな事出来ませんっっ!!!』

とか言うに違いない。だからあえて、由乃ちゃんに頼んだんだよね。

そうすれば絶対由乃ちゃんは引き受けてくれるし、おまけに一人じゃ出来なくて令に頼む。

結果、令がやってくれる。そんな方程式が私の中にはあったんだよね。

だから、これは私の計画通り。

ただ計画とは違ったのは・・・由乃ちゃんが思った以上に不器用だったって事。

まさかこんなにもギリギリになるなんて、流石に思わなかった。

でも今見る限りじゃ多分、ギリギリ間に合うだろう・・・きっと。

「ま、頑張って!期待してるから。由乃ちゃんなら大丈夫。

最後までちゃんとやりきるって信じてるからね」

「え・・・?は、はいっ!!頑張ります!!島津由乃!!今まで以上に頑張りますっ!!」

「そうそう、その意気で頑張って(令、頼んだわよ?)」

私は由乃ちゃんには気づかれないよう口だけ動かして令に言うと、令は無言で頷く。

よしよし。順調順調。えっとー・・・次は二次会の件か。

祥子は職員室に居た。他の皆はそれぞれの役割分担をこなしてくれてるみたい。

なんだかんだと言いながらも、皆楽しそうに結婚式の準備をしてくれてて、嬉しい。

私が自分で結婚式の準備をする!って言い出せたのは、皆が居たからなんだって事に、

改めて気がついた。そして、それぐらい私は皆の事を信頼してたんだって事も。

「祥子、会場の方どう?」

「ああ、聖さま。ええ、今やってますわ!こんな感じでどうでしょう?」

そう言って祥子はパソコンの画面上に二次会の会場の設営イメージ図を出してくれた。

「こ、これは・・・」

「どうです?素晴らしい出来でしょう?」

「え、ええ・・・で、でもちょっと派手・・・じゃない?」

「そうでしょうか?だって結婚式ですもの!これぐらいしないと!!」

「そ、そうかな・・・」

まぁ、これだけの会場でこれだけの会場設営であの値段だもんね。

文句は言えまい。ただ気になるのは・・・。

私は画面の上の方、『聖さま&祐巳結婚式二次会』と描かれた大きなプレートを指差し言った。

「ね、これ気のせいかな?私の名前・・・ちっちゃくない?」

私は目をこすってもう一度画面を見た。ううん、見間違いなんかじゃない。絶対ちっちゃい!!

そうね、大体祐巳ちゃんの名前がフォント30だとすると、私の名前はその半分ぐらい。

でもそんな私の疑問を祥子は笑って否定した。

「嫌ですわ聖さまったら!聖さまは一文字だからそんな気がするだけですわ!」

「そ、そう・・・かな・・・」

「ええ、気のせいですわ!!」

「そ、そう・・・」

いやいや、一文字とか関係無いって!絶対ちっちゃいって!!!

だって、フォントの大きさが半分よ!?ありえないって!!!・・・でも、ま、文句は言えまい。

例え会場の至るところに祐巳ちゃんの写真が散りばめられてあって、私の写真が一枚も無いとしても。

時計を見ると後2時間程で式が始まる。そろそろ祐巳ちゃん・・・起きたかな?

私は保健室に急いだ。でも、保健室には既に誰も居ない。

多分私よりも先に令か由乃ちゃんがドレスを合わせに祐巳ちゃんを連れて行ったんだろう。

私はベッドに腰掛けて大きく息を吸い込んだ。

窓は開いてて、外から暖かい風は花の香りを乗せて入ってくる。

「春だなぁ・・・」

花粉症には辛い季節。でも今の私にはそんなのどうでもいい。

風に乗って運ばれてきたのは、花の匂いだけじゃなかった。私の足元にカサリと落ちた紙切れ。

それは、祐巳ちゃんが倒れる前に渡した婚姻届。私はそれを拾い上げて目の前にかざした。

私の名前の隣にしっかりと書き込まれた祐巳ちゃんの名前・・・の筈なのに。

「・・・間違えてるわよ、祐巳ちゃん・・・」

何早々と『佐藤 祐巳』なんて書いてんのよ。

・・・呆れるけど、でも・・・面白い。それに嬉しい。

それだけ祐巳ちゃんはウキウキしながら書いたって事なんだろう。

ついついうっかり『佐藤 祐巳』って書いてしまうほど嬉しかったって事なんだろう。

「佐藤 祐巳・・・か。でも、これは書き直しね」

私は婚姻届をポケットに仕舞うと、誰も居ない保健室を後にした。

書き間違えた祐巳ちゃんの名前を思い出して気がつけば知らない間に笑ってて、

思わず片手で顔を覆ったのは・・・花粉症のせいだって事にしとこう。

「あっ!!聖さま〜〜〜!!こちらにいらしたんですね!さ、そろそろ準備しますわよ!!」

廊下を歩いてる私を後ろから呼んだのは瞳子ちゃん。

小走りでやってきて、私の腕を引いてそのまま体育館の準備室に連れて行かれた。

そこで待っていたのは可南子ちゃんと蓉子。櫛やらヘアスプレーやらを持ち込んで、

何やら楽しそう。私は有無も言わせずそこに座らされて、

そこに瞳子ちゃんが加わって、それはもう大騒ぎ。

「さぁて、どんな花婿にしようかしら・・・モヒカンとか?」

「アトムはどうです?アトムは」

「あら、可南子さんに蓉子さま、それならお化けのQちゃんなんてどうでしょう?」

「いいじゃない、いいじゃな〜〜い!!」

「毛が三本ですか。悪くないですね」

「・・・・・・・・・・・」

好き勝手に言って私を見て笑う三人。そうだった、忘れてた。

この三人はそれなりに私に恨みがある人物だったって事を。

鏡越しに睨んだ私を見て三人は笑うのを止め、今度は真剣に話し出した。

それにしても体育館の準備室か・・・せめてどこかの教室でしてほしかったわ。

まぁ、皆には散々迷惑かけてるから文句は・・・言わないけど。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こうして、結婚式の準備は全部整った。祐巳ちゃんの様子を見に行った蓉子の話では、

あっちのドレスもどうにか間に合った・・・らしい。

結局、ドレスの仕上げは由乃ちゃん、令、そして何故かお姉さままでもが加わって、

三人がかりで仕上げたんだとか何とか言ってたけど・・・やっつけ仕事になってなきゃいいけど。

ま、そこは由乃ちゃんを信じる事にしましょう。

あと、願うならドレスにどうか血とかついてませんように。

流血ドレスなんて幸先悪すぎて笑えないし。

体育館準備室の窓からそっと外を覗くと、生徒達が次から次へと体育館に入ってゆく。

祝ってくれる生徒達は皆、式が終わるまではここで待機することになってるから。

私は椅子に座って小さなため息を落とした。静かな体育館準備室。

とてもじゃないけど、これから結婚しようかって人間が居るような場所じゃない。

「聖ちゃん!!」

「ああ、母さん・・・」

鏡と睨めっこしてた私の元にやってきいたのは母さんだった。いや、母さんだけだった。

母さんは私の姿を見て涙を浮かべて苦笑いしてる。

「ドレスじゃないのが何とも言えないけど・・・でも、素敵よ、とても」

「ありがと」

母さんからしたらそりゃ複雑だよね。娘の結婚式なのに、娘はドレス着ないで燕尾服だもんね。

そして私は母さんの後ろに視線をやって、もう一度大きなため息を落とした。

分かってた事だけど、やっぱりちょっとだけ・・・寂しい。

母さんは私のため息の理由をきっと分かってるんだろう。

私の隣に腰掛けて、私の頭をそっと撫でた。

「仕方ないわ。お父さん、今日は大事な出張だから・・・」

「うん、そうね」

父さんから戻ってきた招待状には、はっきりと『出席出来ません』に丸がついてた。

分かってた事だけど、でも・・・やっぱり来て欲しかった。

どんなに大事な仕事があっても、今回だけは・・・来て欲しかったんだ。涙は流さない。

でも心の中は、ポッカリ穴が開いたみたいに虚しい。

あの赤い絨毯を父さんと歩きたかった訳じゃない。そんな女の子らしい夢は無い。

でもね、参列は・・・して欲しかった。私たちの事を皆と一緒に祝って・・・欲しかった。

「聖〜そろそろ始まるわよ〜・・・っておば様!?こちらにいらしたんですか!?」

「蓉子ちゃん、久しぶり。さ、じゃあ私もそろそろ行くわ。祐巳ちゃん、楽しみね!」

「ええ、じゃ、また後で」

母さんは蓉子の脇をすり抜けて戻ってゆく。

その足取りが何故か重く見えたのは、きっと私の思い過ごしじゃない。

母さんもきっと、本当は父さんにも参列して欲しかったんだ、多分。

「おじ様、いらっしゃらないの?」

父さんの代わりをしてくれるのはお姉さま。

私は小さく頷くと、ネクタイを直すお姉さまの手を見つめてた。

どこからともなくやってくる花の匂い。大聖堂の前で立ち止まった私にお姉さまは言った。

「聖、長かったわ。あなたを妹にするって決めた時から、もうこんなにも時間が経った。

その間に色んな事があったわよね。でも、あなたはただの一度も私を頼ったりしなかった。

いつでも自分で道を決めてた。でもただ一度だけ、あなたは迷った。

そう、祐巳ちゃんに逢った時よ。あの時から色んな事が変わったわね・・・。

私は祐巳ちゃんとあなたが付き合う事になるなんて、本当は思ってもみなかったのよ。

結局いつか栞ちゃんとよりを戻すんじゃないかなって思ってたの。

でも、あなたは祐巳ちゃんを選んだ。それが正解なのかどうかは分からないわ。

ただ・・・私は正しかったと・・・そう、思ってる。

皆もきっとそう。だから、あなたはこれかも堂々と祐巳ちゃんと一緒に生きなさい。

いいわね、聖?」

お姉さまがこんな風に私に言うのは、栞を失ってその影を祐巳ちゃんに重ねてた時が最後だった。

私は黙ったまま頷いて、そっとお姉さまの手を取った。

こんな風にお姉さまと手を繋ぐのは、多分高校の時以来だ。

そんな私の手を握り返してくるお姉さまの心が伝わってくる。

「ただ、忘れないで。私はこれからもずっと・・・あなたの姉・・・だからね」

泣き出しそうなお姉さまの声を聞いたのは、これが初めて。そして知った。

お姉さまの想いを、愛を。結婚式を挙げるという事は、パートナーが決まるという事。

それに距離を感じてしまう気持ちは私にも分かる。でもね、お姉さま。

私だって・・・お姉さまと同じ気持ち・・・なんですよ?

「分かってます。後にも先にも私のお姉さまはあなただけですから」

私の言葉に、お姉さまは柔らかく微笑んだ。大聖堂の中からオルガンの音が聞こえてくる。

「さ、それじゃあ行きましょう・・・か・・・」

突然、お姉さまの手が私から離れた。私の後ろに注がれた視線は驚きで命一杯開かれている。

「?お姉さま?どうかし・・・た・・・父さん!?」

お姉さまの視線を辿った私の眼に飛び込んできたのは、他の誰でもない。

父さんだった。息を切らして髪もスーツもぐちゃぐちゃ。

それでも気にせず一生懸命走ってくる父さんを見て、私は思わず呟いてた。

「どうしてっ・・・」

泣きそうな私の肩をお姉さまが笑顔でポンと軽く叩いて大聖堂の中へ入ってゆく。

中から聞こえてきてたオルガンの音が、一旦止まった。きっとお姉さまが止めてくれたに違いない。

私は父さんに駆け寄って倒れそうな父さんの体を支えて言った。

「今日・・・出張で来れないって・・・」

「バカ、お前・・・どこの世界に娘の結婚式に出ない父親が居ると思うんだ」

「でも・・・」

「祝ってるに決まってる。お前の幸せは、俺とアイツが一番祝ってるに・・・決まってる」

父さんは恥ずかしそうにそう言って、私に腕を差し出した。

こんなにも投げやりに言った父さんの言葉が暖かくて仕方ないのは、

きっと言葉以上の温もりを父さんに貰ったからに・・・違いない。

「・・・だね。ありがと、父さん」

「ほら、早くしろ。皆を待たしてるんだろ?」

私は父さんの言葉に思わず笑って、その腕を掴んだ。オルガンの音がまた流れ始める。

大聖堂の扉が開いて、参列者たちが揃ってこちらに視線を向けた。

歩き出す間際、父さんがポツリと耳元で囁いた言葉は、きっと私は一生忘れない。

『おめでとう、聖。幸せに・・・なるんだぞ』


第二百九話『どきどき結婚式!!』


「は、早く早くっ!!」

「ちょ、待ってよ、もう!!どうしてこんな土壇場でこんなの見つけちゃうのよっ!!」

「そ、そんな事言ったってっ!!!これはマズイでしょっ!!」

「ああ、もうっっ!!!黙ってりゃ分かんないのに、令ちゃんのバカッ!!!!」

時計の針はもう3時。私は走ってた。ベールをなびかせて。

そしてその裾を由乃さんがまだチクチクしてる。何故かって?

それはね・・・令さまが直前になって剥がれかけたレースを見つけちゃったから!

令さまと由乃さんが後ろからギャイギャイ言いながらついてくるのを聞きながら、

私は全く別の事を考えてた。だって、結婚式だよ!?

普通、もっと落ち着いた気分でやるもんじゃ・・・ないの?

聖さまと居たら、どんなに大事な事でも落ち着いてなんてられない。

だって、いつでもどっかでビックリ箱を仕掛けてくるような人だから。

付き合い始めた時もそう。あの時も驚いたけど、絶対こっちの方がビックリする。

ようやく大聖堂の傍まで来た時、一人取り残されてたお父さんが仁王立ちしてこっちを見てた。

それと同時に由乃さんの叫び声。

「出来た〜〜〜〜〜!!!!!!!」

「やったじゃないっ!!由乃!!さ、休んでないで行くよ!!じゃ、祐巳ちゃん!」

令さまは由乃さんの手を引っ張ってさらに早く走り出した。

「は、はいっ!ありがとうございましたっ!!」

手を振る私に由乃さんの叫び声が聞こえてくる。

「祐巳さん、綺麗だよ〜〜〜〜!!!」

・・・って。あ、ありがとう・・・由乃さん。そして私は歩き出した。

自分の結婚式に向かって。聖さまの待つ、大聖堂に向かって・・・。

「祐巳・・・綺麗だなぁ、お前」

「あ、ありがと・・・」

お父さんはマジマジと私を見つめて既に涙ぐんでる。

そっと遠慮がちに差し出された腕を私が掴むと、とうとう涙まで零してしまった。

そして思い出す。聖さまが実家に挨拶に来た日の事を。

あの日もお父さんは泣いた。それも号泣。お父さんは胸のポケットから何かを取り出すと、

そっとそれを私の首にかけてくれた。

「なぁに?」

「お前にな、いつかやろうと思って。お前が生まれた日に買ったんだ」

私は首からかかったネックレスを見て、微笑んだ。

私の誕生石の入った綺麗でシンプルなネックレス。このドレスにとてもよく映える。

お父さんはそれを見て満足げに微笑んで、キッと斜め上を見て唇を結んだ。

きっとそうしてないと涙がまた零れてしまいそうだったんだと思う。

どうして分かるかって?だって・・・私も・・・そうだったんだもん。

大聖堂の扉が開いた。オルガンの優しい音がお父さんと私の鼻をすする音を掻き消した・・・。

一歩づつ前に進む。真っ赤な絨毯の先にはこちらを一瞬振り返った聖さま。

でも視線はすぐに私から逸れて、すぐに前に向けられてしまった。

周りを見渡すと聖さまの友達や(とは言っても加東さんだけど)、仲間の姿。

その一番前の席に・・・聖さまのお父様が居た。私は驚いて目を丸くしたんだけど、

お父様は私を見て皆と同じように笑顔で拍手を送ってくれてて・・・。

どうする事も出来なかった私は、零れる涙も気にしないで小さくお辞儀をした。

最大限の感謝を・・・お父様に送った・・・そして、皆にも・・・。

小さいころからの夢。ささやかだけど、絶対に外せない・・・私の夢。

それが今、叶おうとしてる。真っ赤な絨毯をお父さんと歩いた。

そして聖さまが振り返って、私の手はお父さんから聖さまへと渡される。

その時にお父さんがポツリと呟いた。

「幸せに・・・な」

その言葉に頷いたのは私だけでは無かった。聖さまもまた、私と同じように頷いたんだ。

そっと繋がれた手は、手袋越しでも暖かかった。こうして隣に並んで、初めて私は実感した。

燕尾服の聖さまの隣に居るのは、間違いなく私なんだ。そして、私は今日・・・結婚・・・する。

オルガンの音が止んで、私たちは前を見た。でも聖さまはただの一度も私を見てくれない。

牧師さんが小さな咳払いをして私たちを見下ろし、誓いの言葉を話し出した頃、

誰にも聞こえないような小声で聖さまがポツリと言った。

「遅かったじゃない。逃げられたかと思った」

「そんなっ、逃げるだなんて」

ここまで来て逃げるだなんて、とんでもないっ!ていうか、あの状況でどうやって逃げろと?

校門のとこにはズラリと生徒が居たし、皆が走る私を応援してくれてたってのに!

由乃さんと令さまにドレスの裾を持ってもらって走ってる間中聞こえてた声援。

祐巳ちゃん、おめでとーーー!!!って沢山の声。あれだけの声を聞いて、

私が逃げられる訳がない。それに・・・逃げようだなんて・・・思わない・・・よ。

だって私の・・・夢だったんだもん。横目で私を見下ろす聖さまの顔は苦笑い。

唇が、冗談よ、って動いたのが見えてホッとした。

「私、綺麗でしょう?」

冗談めかしてそんな事言った私を見て、聖さまはもう一度私を横目で見下ろす。

「ま、そうね、いつもよりは。胸は・・・相変わらずだけど」

「なっ!?」

思わず叫びそうになった私を睨んだのは聖さまじゃなくて、牧師さんだった。

チラホラと笑い声が後ろから聞こえてくる。ああ、もう・・・私たちはほんと、相変わらず。

そして聖さまはやっぱり・・・素直じゃない。もう絶対、さっきここに入ってきた時、

燕尾服着た聖さまに見惚れたなんて事、教えてやんないっ!

私はフンってそっぽ向いて、牧師さんの誓いの言葉が終わるのを待った。

でも・・・思ったよりも長いのね・・・誓いの言葉って・・・。

私はだから、これから先の事を考えてたんだ。この後、結婚式が終わったら、

まず初めに聖さまに文句言わなきゃ!だって、どう考えても突然過ぎたし。

私だってもっと結婚式を想ってドキドキワクワクしたかったのに!

それからその後は、やっぱりイタリアの事かな。何買おうかなぁ・・・。

ベネツィアングラスはもう買ったし・・・あ!そうだ!皆へのお土産も考えなきゃ!

一番お世話になってるSRGと蓉子さまにはやっぱりペアルックとかがいいよね。

で、適度にお世話になってる由乃さん達にはそうねぇ・・・やっぱりペアのがいいか。

こうやって考えたら、何だかこの学校カップル・・・多くない?

まぁ、その方がお土産選びも楽でいいけど。あれこれ考えてる私の腕を、聖さまが肘で突付いた。

「ちゃん・・・祐巳ちゃんってば!!」

「ぅぁいっ!?」

私は驚いてパッって顔を挙げた。隣で聖さまは呆れたような顔してて、

前で牧師さんがかなり怖い顔で睨んでる。え?な、なに!?

キョロキョロと辺りを見渡す私を見て、会場の中は爆笑・・・もしかして私・・・やっちゃった?

慌てて聖さまを見上げると、聖さまの代わりに牧師さんがゴホンと咳払いすると、

笑い声がピタリと止んだ。

「ではもう一度。よろしいですか?」

「はい」

「汝は、この娘を伴侶とし、病める時も健やかなる時も生涯愛する事を誓いますか?」

「はい。誓います」

聖さまの凛とした声が静まり返った教会内に響いた。

その途端、私は何故かこみ上げてくるものを我慢する事が出来なくて。

急に怖くなったっていうのかな。迷いとかそういうんじゃないんだけど、

これまでずっと考えてきたものとは違う恐怖っていうのかな。

これから先、私は聖さまの人生も背負う事になるんだって考えたら、

急に怖気づいてしまったのかもしれない。

そんな私の不安を察したのか、それとも聖さまもまた私と同じ事を考えてるのか、

聖さまが私の手を強く握った。私は思わず聖さまを見上げて何か言おうとしたんだけど、

聖さまは私を見下ろしてただ微笑んだだけで、何も言わせてはくれなくて・・・。

でも聖さまの気持ちだけはしっかりと伝わってきた。

だから私は、小さく頷くと牧師さんの言葉を待った。

「汝は、この娘を伴侶とし、病める時も健やかなる時も生涯愛する事を誓いますか?」

「・・・はい。誓います」

声は震えてた。言葉を発したらきっと泣いてしまう。思った通り、私の両目から涙が溢れ、

聖さまや牧師さんは慌ててる。でもそんな私を見る牧師さんの目はとても優しくて、

それが何だかひどく・・・嬉しかった。

「よろしい、では誓いのキスと指輪の交換を」

ここでようやく、私は聖さまと向かい合った。

聖さまは私の顔にかかったベールをそっと持ち上げると、照れくさそうに微笑んでポツリと言う。

「普段は緊張しないけど・・・流石にこうも静かだと照れるわね」

「そんな、今更・・・」

呆れたような私の顔を見て、聖さまは苦笑いすると私の手から手袋をそっと外した。

私の指にはまってた聖さまの命を救った指輪を外し、

それをシスターの持っていた赤い台の上に静かに置いてその隣にあった、

シルバーのやっぱりシンプルな指輪をゆっくり私の指にはめる。

前の時は私が眠ってる間に指輪ははまってた。でも、今回はちゃんと私の目の前で、

皆の目の前で指輪がはめられた。私はその指輪を目の高さまで持ち上げて、

マジマジと見つめて思わず微笑んだ。だって、嬉しかった。

いつの間にか新しい指輪まで用意してくれてた事にも、皆の前でこうやってはめてくれた事にも。

いつまでも指輪を眺めてる私に聖さまが小さな声で囁く。

「ちゃんと名前も彫ってもらったからね」

「えっ!?」

そ、そうなの?!そんな事早く言ってよ!!私が指輪を外そうとするのを、聖さまは慌てて止めた。

「ちょっと!後にしなさいってば!それよりもほら、私にもはめてよ。

でないといつまで経ってもキス出来ないじゃない」

「あ、ああ・・・そうですよね」

私は聖さまの薬指から指輪を抜き取ると、それを聖さまがしてくれたように、

ゆっくりと聖さまの指にはめた。ハラハラした様子でそれを見守ってた牧師さんは、

指輪の交換が無事終わったのを見て安堵の息をついたのを私は見逃さなかった。

「では、誓いのキスを」

牧師さんの言葉に合わせてオルガンがまた歌を奏でだす。

この感情を何て言うんだろう。私は差し込んでくる日差しに目を細めながら、

ただその時を待ってた。見上げた聖さまの瞳の奥が透けて見える。

色んな感情がそこにはあった。喜びとか焦りとか、憂いとか沢山。

でもそのどれも聖さまはきっと教えてくれない。でもそれはきっと私も同じ。

沢山の感情がまるで津波みたいに押し寄せてくるけど、繋いだ手から伝わる鼓動が、

その全てを優しく包み込んでくれてるような気がしたから。

新しい指輪の感じは、これから始まる私たちの新しい未来の証。

そしてこのキスはこれから始まる私たちの誓い。

私はだから、そっと目を閉じた。皆が居るのに少しも恥ずかしいとは思わない。

それどころか、今はまるでこの広くて大きな世界の中に聖さまと私しか居ないような気さえして。

「愛してる」

「はい、私も・・・愛してます」

どちらともなく紡いだ言葉はどんな誓いよりも固くて、そして強い。

重なった唇が、いつもよりもずっと軽いキスだったとしても、

今までしてきたキスのどれよりも意味のあるもので・・・。

どれぐらい私たちは唇を重ねてただろう。すぐ近くからゴホンって大きな咳払いが聞こえて、

私は我に返った。どうやらそれは聖さまも同じだったようで、

慌てて目を開けた私たちは顔を見合わせて思わず笑ってしまった。

でもね、あんなキスじゃ足りないよ。どんな言葉でも足りないよ。

私たちの誓いはだって、そんなんじゃ・・・全然足りないよ。

頬を伝う涙を、聖さまの人差し指が払って、そっと腕を差し出す。私は顔を上げて微笑んだ。

そして繋いでた手を離し、その腕にそっと手を通す。赤い絨毯は来た時よりもずっと長く見える。

これがこれから私たちが歩こうとする未来への一歩だとしたら、どんなに重い一歩だろう。

でもね、私・・・全然後悔なんてしてないよ?

聖さまの未来も私の未来も、全部ひっくるめて私は今・・・凄く幸せだから!


第二百十話『過去にありがとうを。未来によろしくを』


祐巳ちゃんがほんの少し予定よりも遅れた。大した時間じゃない。

でも私にはそれが酷く長い時間に感じた。もしも、もしも来なかったらどうしよう?

待ってる間、そればっかり考えてた。チラリと振り返ると父さんが心配そうな顔してて、

その顔を見て私はそんな考えを振り払った。私が幸せになるのを自分で疑ってどうする。

だから大聖堂のドアが開いた時、私は本当にホッとしたんだ。

そしてそれと同時に凄く・・・ドキドキした。

あのドレスは確かに祐巳ちゃんをイメージして描いた。

でも・・・あれほど似合うとは・・・思わなかったんだ・・・。

私は祐巳ちゃんを直視することが出来なくて、思わず視線を逸らした。

そしてそれがあまりにも似合いすぎてて素直になれなかった私を、どうか許してほしい。

でないともう一度同じ子に恋してしまうとこだった。

いや、もう何度もしてるか、同じ子に毎日毎日。

だからこそこれからもずっと一緒に居たいって、そう思ったんだもん。

でもね、流石祐巳ちゃん。こんな大事な時でも絶対外さず何かをやらかしてくれる訳で。

よりにもよってそれが誓いの言葉の時だもんなぁ・・・もうほんと、先が思いやられる。

そして誓いのキス。何度も何度も重ねてきた筈の唇なのに、こんなにも緊張するなんて。

皆の前でするからじゃない。沢山の想いが詰まってるから、あんなにもドキドキしたんだ。

そんな事に気づいたのは腕を組んで真っ赤な絨毯の上を歩き始めようとした時だった。

最初の一歩をなかなか歩き出さない祐巳ちゃんをリードするみたいに、

私は祐巳ちゃんの腕を軽く引っ張った。

そんな私を見上げてありえないぐらいの笑顔を零した祐巳ちゃん。

「なによ?」

「いえ、この一歩から全て始まるんだなぁと想うと何だか・・・ねぇ?」

祐巳ちゃんの頬に涙が伝った後が出来てる。私はその涙の意味をここでようやく知った。

沢山の想いが私の中にもある。これで良かったのか、とか、そんな迷いだってもちろんある。

でもそれも全部含めて、私はこの先をこの子と生きようと決めた。

それをきっと、祐巳ちゃんも感じてたんだ・・・。怖くないはずがない。迷わないはずがない。

それでも祐巳ちゃんと居たい。この体とか想いが無くなるまでずっと、ずっと・・・。

「踏み出すの、怖い?」

思わず漏れた言葉は私の本音だったのかもしれない。

でもそんな私の言葉に祐巳ちゃんは静かに首を振った。

「いいえ。ただ、ずっと覚えておきたいです。この気持ちを」

「そうね。ま、忘れたくても忘れられないでしょうよ、きっと」

「まぁ、そうなんですけどね」

何かを始める一歩前の気持ち。不安とか期待とか、そういうの全て。

それを覚えておきたいっていう祐巳ちゃんの気持ちはとてもよく分かる。

私はそんな祐巳ちゃんが愛しいんだ、いつも。そんな風に言葉に出来ない私の代わりに、

ちゃんと知っててくれるから。分かってくれてる祐巳ちゃんだから・・・。

 

そして私たちは歩き出した。未来への道は真っ赤な絨毯。

行きは父さんと歩いた。でも、ここから先は祐巳ちゃんと歩く。

それは別れじゃない。別に今までの私の生活との別れなんかじゃない。

ただ・・・そうね。引き継ぐだけ。

今までの自分と今までの祐巳ちゃんをこれからは二人で引き継ぐだけ。

「おめでと」

ってぶっきらぼうに言ったのは蓉子。お姉さまは言葉の代わりに私を強く抱きしめてくれた。

そして祐巳ちゃんの頬に・・・またキス!!

「ちょっと、お姉さま!?」

「やだわ、お祝いじゃない!」

「はわわわわ」

「ちょっと、SRG!?今、何しました?!」

それを見つけて物凄い形相でやってくる蓉子と、慌ててうろたえてる祐巳ちゃん。

「ヤバ!じゃ、聖、また後でね!」

「ちょ、どうして逃げるんですかっっ!!!」

蓉子はいつかみたいにアキレス腱伸ばして走り出した。

しかもちゃんとクラウチングスタートまでするあたりが本気だよね。

ま、いくら逃げてもすぐにつかまると思うけど。あ、ほら、捕まった。

お姉さまは蓉子にしっかりと腕を捕まれて戻ってきた。でもお姉さまの顔は嬉しそう。

「さて、これで私も思い残す事は何も無いわね」

そう言ってやってきたのは江利子。それにしても思い残す事って・・・そんな、

一生のお別れみたいな言い草・・・。案の定祐巳ちゃんは私の隣で苦笑い。

「あのね、江利子?あんたどうせちょくちょく来るんでしょ?」

「まぁね。だって、私、あんた達の為にここ辞めるんですもの」

「「は?」」

「おっと!まだ内緒だった!じゃね!とりあえず、おめでと!先に行ってるわね」

江利子は謎の言葉を残して私たちの前から姿を消した。アイツはまるで猫だ。

フラリとやってきてはすぐに居なくなるんだから。

「「祐巳さま、おめでとうございます」」

そう言って声をかけてくれたのは瞳子ちゃんと可南子ちゃん。

「こらこら二人とも、私にはおめでとう無いの?」

「だって、結婚式は女性の為のものだと父が・・・」

「私は可南子さんに聞きましたわ」

「あは・・・ははは」

コイツら・・・一体私を何だと・・・。困ったように笑う祐巳ちゃんはどこか楽しそう。

「あのね、忘れてるかもしれないけど、一応私も女性だからね?」

ほんと、失礼しちゃうわ、もう!でもま、祐巳ちゃんが楽しそうだから・・・いいけど。

それよりもこの二人は一体いつの間にこんなにも仲良くなったんだろ?

「「祐巳さん、聖さま!この度はおめでとうございます!」」

「はい、ありがとう。そしてお疲れ様」

「由乃さん、令さま、本当にありがとう!

私、まさか本当に間に合うなんて思ってもみなかったもんだからもう、嬉しくて嬉しくて!」

「祐巳さん、それ失礼だよ・・・私の手に・・・」

そうなんだ。祐巳ちゃんの言うとおり、最悪間に合わないと思ってたんだよね、私も。

でも無事こうして間に合ったのを見れば、やっぱり由乃ちゃんと令に任せて良かった。

どんなオーダーメイドを頼むより、やっぱり自分でデザインしたものを完璧に作りあげてくれた、

この二人に心の底から感謝してる。そこへやってきた志摩子と乃梨子ちゃん。

私と祐巳ちゃんを交互に見てうっとりと目を細めた。

「祐巳さん、綺麗だわ・・・お姉さまも素敵です」

「「ありがとう」」

「不本意ですが、聖さま素敵ですね。あ、祐巳さまは文句無しに綺麗ですよ」

「う、うん、ありがと」

「ちょっと乃梨子ちゃん!?」

「うふふ、乃梨子ったら正直なんだから」

志摩子まで!!それ、全然フォローになってないからね?一応言っとくけど!

全く。妹も孫もここは何の心配もなさそうよね、ほんと。

そして蔦子ちゃん!!さっきからパシャパシャと眩しい!!

軽く睨んだ私を見て、蔦子ちゃんは苦笑いしながらやってきた。

「おめでとうございます!お二人とも!!」

「「ありがとう」」

「祐巳っ・・・本当に、本当にお嫁に・・・行っちゃうのね・・・」

「祥子さま!二次会の事、聞きました。本当にありがとうございます!」

「いいえ、いいのよ。あれは私からの気持ちよ、何も言わずに受け取ってちょうだい」

「えっ!?じゃ、もしかしてタダ!?」

それだったらかなり嬉しいんだけど!思わず乗り出した私をギロリと睨む祥子。

フンって鼻で笑って、冷たい声で言う。

「祐巳の為ですから。決して聖さまの為じゃありませんわよ!」

「ラッキ。祐巳ちゃん、一か月分ぐらいの食料しっかり食べなね」

「はいっ!」

「ああ祐巳・・・なんて不憫な・・・」

ヨヨヨって泣きまねしながらも祥子が呟いた、おめでとうございます、は私の心に刻まれた。

最後に、今日私たちの為だけにイタリアから駆けつけてくれた静。

約束通り、オルガンに合わせて見事な歌を披露してくれた。

静を見つけたのは私じゃなくて祐巳ちゃん。

嬉しそうに静に手を振って、身を乗り出して静に何度も何度も頭を下げてる。

「静さま、本当にありがとうございました!本当に本当に、ありがとうございました!」

じんわりと祐巳ちゃんの瞳に浮かんだ涙を見て、静が優しく微笑む。

「いいの。祐巳さんも聖さまも素敵だったわ。今日はここで歌えて私、幸せだった。本当よ?」

「静さまっ!!」

思わず静に抱きつきそうになる祐巳ちゃんを止めた私は、静に一度だけ何も言わず頭を下げた。

言葉はいらなかったんだ。だって、静の気持ちも私の気持ちもきっとお互い知ってる。

そんな私を見て静も静かに頭を下げ、私たちはまた歩き出した。

私を見上げた祐巳ちゃんの瞳は零れそうで零れない涙に濡れてる。

「泣かないの」

「・・・はい・・・」

感動して色んな気持ちがごちゃ混ぜになって泣きそうな気持ちは分かる。

でもさ・・・今日はちょっとだけ我慢して、最後まで・・・笑おうよ。

皆に感謝してさ、ちょっとだけ大きな幸せに浸ろうよ、一緒に。

短いようで長い絨毯。皆が皆声をかけてくれるから、余計に長い。

でもこれが私たちの持ってる大切なモノなんだと思う。

決して失いたくない、離したくない大事な大事なかけがえの無い想い。

参列者の最後の列で、加東さんが物凄い笑顔で手を叩いてくれててちょっとビックリした。

あんな加東さんの笑顔、きっとこの先そうそう見れないに違いない。

そんな事を考えて笑った私を見て、祐巳ちゃんが怪訝な顔をする。

「や、ごめん。思い出し笑いだから気にしないで」

「・・・はあ・・・」

沢山の拍手の中、最後に私はある人と目が合った。

出席表は戻って来なかったけど、そうか・・・来てくれたのね・・・。

私はそれに気づいて祐巳ちゃんの腕を軽く叩き、参列者の席を指差した。

それに気づいた祐巳ちゃんが一瞬首を傾げ私を見上げ、

そして私の指の先を見て小さな驚きの声を上げた。

「栞・・・さん?」

「そう。一応出したの。返事は返ってこなかったけど・・・ね」

栞は皆と同じように笑顔で手を叩いてこちらを見てる。

でも私が驚いたのは、祐巳ちゃんの態度だった。まるで栞が来る事を知ってたみたいに、

慌てたりせずにゆっくりと栞に向かってお辞儀したんだもん。

そしてポツリと小さな声で呟いた声を聞いて、私は思わず微笑んだ。

『ありがとう・・・ございます』

栞にはきっと聞こえてないと思う。でもきっと、それはちゃんと伝わってる。

本当は栞に招待状を送るかどうかは凄く迷った。そりゃそうだよね。

だって、一度は付き合ってた人だし、ましてや祐巳ちゃんとの出会いは最悪だったし。

でも知ってほしかった。私が選んだ未来を栞にもちゃんと見て欲しかったんだ。

栞と別れたとき、私はもう生きれないとさえ思ってた。

でもね、そうじゃ・・・無かったんだ。私には皆が居た。祐巳ちゃんが・・・居た。

私のただのワガママだと思う。結婚式に出て欲しいだなんて、ほんと私は勝手。

だから招待状が戻って来なかったのもさほどショックでもなかった。

でもきっと心の中ではどこかで期待してたんだろうな・・・でなきゃこんなに嬉しいはずが無い。

私は祐巳ちゃんに習って小さなお辞儀を栞に送った。

そんな私たちを見て栞がにっこりと微笑んでくれて。

・・・その笑顔が私が好きだった頃の、あの笑顔だったから余計に嬉しくて。

もう私たちの間には何も無い。恋愛感情も慕情も嫉妬も何も。

あるのは、そうね・・・友情・・・なんだろうな。

「あ!もうすぐですよ、聖さま!」

「ん?ああ、ほんとだ」

赤い絨毯の終わりが見えて、祐巳ちゃんがパッって顔を輝かせた。

祐巳ちゃんが指差した先には開きかけた大きな扉。そこから差し込んでくる眩しいほどの光。

私たちは扉の前でしばらく待たされた。参列者が次々に退出してゆく。

やがて大きく開いた扉に私たちは思わず私たちは目を瞑った。

真っ白の世界が一瞬で私たちを飲み込もうとする。

その世界にはまだ何も描かれてない私たちの未来。

ゆっくり振り返ると、そこにはもう誰も居なくなった私たちの過去。

「いこっか、祐巳ちゃん」

「はいっ!」

私たちは腕を組んだまま赤い絨毯の最後を踏んだ。扉を一歩出ると、大きな歓声の渦。

そして私はある事に気づいた。この光景・・・どこかで見た事が確かにある。

ああ、そうだ・・・私はこの光景をいつだったか、夢で見たんだ。

あの時私は参列者の一人で、そして少し離れた所から祐巳ちゃんだけを見てた。

その隣に居る人物が見えなくて、それがあまりにも悔しくて切なくて、

・・・そして、泣きそうだった。遠い過去の記憶が、今鮮明に蘇る。

あの夢を見た日、私は祐巳ちゃんの事を愛してるんだって事を自覚したんだっけ。

私はそっと目を閉じてあの時の事を思い出した。そして次に目を開けると、

人ごみの間にあの時の私が見えたんだ。必死になって人ごみを掻き分けようとする私の姿が。

私は沢山の歓声に涙を流してる祐巳ちゃんの手を引いて、小さな声で言った。

「ねぇ祐巳ちゃん、そのブーケ、あそこに投げてくれない?」

「ええ!」

そう言って祐巳ちゃんは持っていたブーケを空高く放り上げた。

そのブーケは綺麗な弧を描いてゆっくりと誰も居ない場所に落ちる。

でも、私には見えたんだ。そのブーケがあの日の私の手の中に届いたのが。

そしてその隣には私の中にずっと居たあの幻の祐巳ちゃんの姿。笑顔であの日の私を見てる。

今の私に出来る事、それはこれぐらいしかない。

ここから先はだから・・・頑張ってね、あの日の・・・私。

沢山の参列者の間を歩く途中、私たちは沢山の声を聞いた。沢山の声援を貰った。

そのどれも私たちの心の中にしっかりと刻まれてゆく。

私は祐巳ちゃんの腕を引いて他の声援に負けないように声を張り上げた。

「ね、これからもよろしくね」

「こちらこそっ!」

ライスシャワーと花びらを浴びながら、祐巳ちゃんは私を見上げる。

その瞳にはもう涙は浮かんでない。

私の家族と祐巳ちゃんの家族が私たちの方を見ながら談笑してるのを見て、

何故か胸が苦しくなって。それと同時に私はようやく実感した。

これが現実で夢じゃないって事と、もう後戻りなんて出来ないって事も。

私は祐巳ちゃんを抱きしめて今度は深いキスをした。

あっちこっちから聞こえてくる声は心地よいメロディーになる。

驚いた祐巳ちゃんの目が完全に閉じた頃、私には確かに聞こえた。

あのむせるような花の香りに混じって、幻の祐巳ちゃんの声が。

『聖さま、私も・・・幸せですよ』

『私も・・・幸せよ、今・・・凄く』

ゆっくりと唇を離すと現実の祐巳ちゃんが目の前で笑ってる。

そして言うんだ、私の目を見て真っ直ぐに。

「聖さま、私・・・幸せです!」

まるでさっきの声が祐巳ちゃんにも聞こえたのかな?なんて思うほど、

その声はさっきの声とピタリと重なる。だから私は微笑んだ。

「私も。幸せよ、今・・・凄く、ね」

チャイムの音は、今日だけは鐘の音。


風に乗った花びらは清々しい香りを一緒に運んでくる。

私たちはそれを胸一杯に吸い込んで、しっかりと手を繋いだ。

皆の声援を背中に受けて、そのまま写真館に向かう為に。


花びらが舞うある春の日、私たちは結婚式を挙げた。

過去にありがとう、そして未来に・・・よろしく。










おまけのおまけ『きっと一生、忘れない』


長い長い一日だった。朝からバタバタしっぱなしで息つく暇も無かった。

私はウエディングドレスを着たまま足を投げ出して車の後部座席に横たわる。

「ちょっと、だらしないわね。せめて足隠しなさいよね」

「だってー・・・すっごく疲れたんですよ!緊張も一杯したし!!」

隣に座った聖さまは私の頭を膝に置いたまま、さっきまでの結婚式を思いだして笑ってる。

な、なによ?何がおかしいのよ!?

「緊張ねぇ・・・思いっきり牧師さんの台詞聞いてなかったくせによく言うよね」

「あ、あれは!!これからの事を考えてたらついボーっとしちゃっただけで!!」

「はいはい。そういう事にしときましょ」

呆れたみたいな聖さまは乱れた私の髪を直しながらまだ笑ってる。

そう言えば・・・私は勢いよく起き上がってさっきはめたばかりの指輪を外し、

その内側を確かめた。ずっと気になってたんだ!本当に名前が彫ってあるのか、どうかが!!

「ほんとだ!ちゃんと彫ってある!!ちょ、聖さまのも見せてくださいよ!」

「はあ?」

私は聖さまの指輪を無理やり抜き取って、二つを並べてみた。

私の指輪には聖さまの名前が、聖さまの指輪にはしっかりと私の名前が刻まれてて、

お互いの誕生石がシルバーの指輪にしっかりと埋め込まれてる。

聖さまは一体いつからこれを注文してたのか。ずっと一緒にいたはずなのに、

いつの間にこんな風に・・・私は二つの指輪を握り締めて俯いた。

でないと、聖さまの顔が直視・・・出来なかったんだ。

込み上げてくる気持ちはさっきまでとは比べ物にはならない。

さっきまではね、結婚式の事で頭が一杯だったんだ。そりゃ色んな気持ちがあったけど、

でも細かい所は何も考え付かなかった。いちいち感動してる暇が無かった。

でも今は違う。写真館に行くまでの間は、私は素に戻れたんだ。

私は聖さまの指に指輪をはめなおすと、そっと聖さまの指に自分の指を絡めた。

聖さまは相変わらず車の窓から外ばっかり見てるけど、

それでも何も言わず指を絡め返してくれた所を見ると、きっと聖さまも同じ気持ちに違いない。

それから私たちはもう何も話さなかった。

いや、いちいち話さなくても私たちの心は一つだったから。

写真館についた私たちを待ってたのは、家族と教師仲間だった。

皆ドワーっと集まってきてワイワイ言いながら私と聖さまの背中を押す。

聖さまは苦笑いしながら皆にされるがままになってたけど、決して私の手を離したりはしない。

どれだけ腕が千切れそうになったとしても・・・。

それが嬉しいやら痛いやらで思わず私も苦笑いしてしまった。

で、写真館に入るとそこに居たのは蔦子さん。カメラの前であれこれポーズをつけてくる。

どうやら蔦子さんはこの晴れ舞台はどうしても自分で納めたかったようで、

わざわざ近所の写真館を借り切ったのだとか。流石、カメラ小僧よね・・・。

「はい!じゃあ撮りますよ〜〜〜!」

真っ白な壁の前で並んで立つ私たちの写真は、これから一生の宝物になると思う。

私は蔦子さんの言う通り、そっと聖さまと腕を組んだり繋いだりしたけど、

突然誰かが言い出したんだ。『聖もドレス、着てみれば?』って。

私はそれに大賛成だった!だってもったいないじゃない!絶対聖さまも似合うと思うのよ!!

そんな訳で、慌しく私たちのお色直しは始まった。もちろん、私は燕尾服ね!

聖さまは私が脱いだドレスを着て鏡の前に立ってまんざらでもなさそう。

「似合ってますよ、聖さま!」

「あったりまえじゃない。ただ・・・」

「ただ?」

「・・・閉まらない・・・胸が・・・」

「・・・・・・・・・・・・・」

ポツリと申し訳無さそうに呟いた聖さまの言葉には、哀れむような響きが込められてる。

そうよね・・・そうに決まってる。私と聖さまの胸のカップ数は二つぐらい違うんだもんね!!

フンだ、なによ、なによ。いいもん、別に。私は聖さまの脱いだ燕尾服を着て鏡の前に立ち・・・。

こ、これは・・・何かを思い出す・・・そう、あれは祐麒の七五・・・いや、言わないでおこう。

「なんっか・・・七五三みたいね」

「う・・・」

言わないでよ!!私だって今思ってたとこなんだから!!!あえて黙ってたんだから!!

私は聖さまを睨んでフンってそっぽを向いた。そこへ令さまがやってくる。

「ああ、聖さまやっぱり似合いますね。あ・・・でも胸が・・・ちょっと待ってくださいね!

こんな事もあろうかと!!」

そう言って令さまはポケットの中からソーイングセットから小さな鋏を取り出して、

胸の辺りをチョキチョキしだした。するとどうだろう。

私仕様だった胸の所が、聖さま仕様になったじゃない!自分で言ってて切ないけど。

「さすが令。まさかこんな仕掛けになってるとは」

「いえ、どうせ聖さまも着る羽目になるんじゃないかと思って、由乃に黙って細工したんです。

まさか本当に役に立つとは思いませんでしたけど」

ほんと、さすが令さま。でも、素直に喜べない私。

そして令さまは私の着た燕尾服の袖と裾もなおしてくれた。物凄い速さで。

私たちは顔を見合わせてもう一度写真を撮りに戻った。

「聖・・・似合うわね。何だか面白くないわ」

「ほんと。もうちょっと笑いを期待したのに」

江利子さまと蓉子さまはそんな憎まれ口叩きながらも嬉しそうに笑ってる。

でも、一番聖さまのウエディングドレスを喜んでたのは、

・・・誰よりもやっぱり聖さまのお父様とお母様だった。

聖さまがウエディングドレスで出てきた途端、お父様の目から大量の涙。

そしてお父様を何故か慰める祐麒・・・何故・・・。

「聖・・・綺麗だ、聖・・・うぅ・・・」

「お、おじさん落ち着いて。そんなにくっついたらドレスに鼻水つきますよ!」

「おっと、そうだった・・・でもね、綺麗だと思わないか?うちの娘・・・」

「ええ、もう凄く綺麗です。綺麗ですから、ね?離れましょう」

そんなお父様を見て聖さまは複雑そうに笑ってる。そしてお母様はと言えば、

嬉しそうなんだけどやっぱり複雑そう。

聖さまに近寄ってきてマジマジと聖さまを見つめ、ポツリと一言。

「ドレスはやっぱり祐巳ちゃんの方が似合うわね」

・・・だって。さすが聖さまのお母さん。なんていうか、容赦ない。

「・・・悪かったわね・・・」

聖さまも聖さまでそんな切り返し。この親子はほんと・・・。

どこの家庭でも娘に弱いのは父親なんだなって事が凄くよく分かった。

そして母親は案外・・・辛らつだ。私はそんな事考えながら蔦子さんに言われた通り、

ドレスを着た聖さまの隣に立った。でも慎重差がありすぎて絵にならないからって、

結局聖さまは座らされて、何だか昭和の写真館に飾ってある構図みたいな写真になっちゃって。

それから私たちは慌てて着替えて場所をまた移動。

祥子さまの用意してくれた二次会会場へと急いだ。会場内はそれはもう豪華で、

至るところに・・・私の写真。

しかも赤ちゃんの頃からの生い立ち写真がびっしりと貼り巡らされてた。

「さ、祥子さま・・・こ、これは一体・・・」

ていうか、どうして私のだけなの?しかも何だかあの看板・・・聖さまの名前ちっちゃくない?

「嫌だわ、聖さまのもちゃんとあるに決まってるじゃない!ほら、あそこらへんに。

それに、字が小さいのはほら、聖さま一文字だから、ね?」

そう言って祥子さまが指差した先には、確かにある。聖さまの写真が。

でもさ、あれ・・・めちゃめちゃ端っこじゃん!!誰があんな所にまで見に行くのよ!?

それに字の大きさ。あれは明らかに違うから!!全っ然違うからっっ!!

でも何も言わないでおいた。だって、私の肩をそっと聖さまが掴んだから。

私は聖さまを見上げて何かを訴えようと思ったけど、聖さまは黙ったまま首を横に振った。

そして聖さまの心の声が聞こえてきた気がしたんだ。『タダだから』って声が。

だから私はやっぱり黙って頷いた。そんな私たちの元に祐麒がやってくる。

「お疲れさん、二人とも」

「ほんと、疲れたわ。もう一生したくないわね」

「それは聖さまが全部自分でやろうだなんて思ったからですよ」

本来結婚式はこんなにも疲れるもんじゃないと思うもん。

大体私は式の前に一時間も立ったままマネキンごっこしてたんだから!

「何よ。結構いい式だったじゃない」

「いや、それは否定しませんけどー」

それに私だってもう一生したくないよ。だって、聖さまとしか結婚したくないもん。

それを聖さまに告げると聖さまは、うんうん、って満足そうに頷いた。

「ごちそうさま」

そんな私たちの会話を聞いてそそくさと退散する祐麒。

確かに、身内のノロケなんて聞きたくないよね。

「あ、そうだ祐巳ちゃん。あのさ、言いたかないんだけど、これ、書き直しね」

そう言って聖さまに手渡されたのは婚姻届。え?どうして書き直し??

私が首を傾げると、聖さまは私の名前の欄を無言で指差す。

「・・・あっ!」

やだ、ここ・・・旧姓って書いてあるじゃん!!

「ちゃんと読もうね」

「はい・・・」

「ま、なかなか面白かったけど」

そう言って聖さまは笑った。佐藤祐巳ね、そんな風に何度も何度も呟いては笑う。

だから私は気づいたんだ。聖さまってば、実はまんざらでもなかったんだって事に。

本当はこれ見たとき結構嬉しかったんじゃないのかなぁ?自惚れかもしれないけど。

「ま、それは帰ったらでいいから。とりあえず今は楽しもう」

「はいっ!そうですね!」

壇上の上に視線を移した聖さまに習って、私も壇上を見上げた。

部屋が暗くなって、私たちの周りだけがパッて明るくなる。そして蓉子さまの声。

『聖、祐巳ちゃん、結婚・・・おめでとう!乾杯!!』

「ありがと」

「ありがとうございます!」

その声を待ってましたとばかりに割れんばかりの拍手。

あちらこちらから乾杯!って声と、グラスが合わさる音が聞こえる。

私は聖さまのグラスに軽くグラスをぶつけ、聖さまを見上げた。

「あのね、聖さま。私の方が先に聖さまの事好きになったけど、

でもこれから先もっともっと聖さまには私の事好きになってもらいますからね!

もう私無しじゃ生きれないぐらい好きになってもらいますから!覚悟しててください!」

自信満々の私を見下ろして聖さまが唇の端を上げる。

「ふーん、なかなか言うじゃない。楽しみにしてるわ。

これ以上どうやって好きにさせてくれるのか」

聖さまの言葉に私は耳まで真っ赤にした。こ、こんな告白の仕方って・・・ないよ。

それってまるで、今でも思いっきり好きって事じゃない!!

そんな私を見て笑う聖さまの顔はもうね、ほんと意地悪。でも、私の好きな顔。

私は背伸びをして聖さまの唇に自分の唇を押し当てた。

柔らかい感触とほんの少しお酒の匂い。ああ、これで本当に・・・終わるのね。

びっくりだった一日が、幸せすぎた一日が。

私はだから、思いっきり羽目を外す事にした。

今日だけはきっと、マリア様も神様も・・・許してくれる。

そして、これ以上の驚きはもう二度と味わう事無いと思う。

それほど今日の出来事は・・・一生忘れられそうに無い思い出になった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・なんて思ってたのはついさっきの話。

聖さまのびっくり箱は、どうやらあんなもんじゃ・・・終わらなかった。

ていうか、今どこに向かってるのかも分かんない。

「聖さま?どこ・・・行くんです?」

「家に決まってるじゃない。どこ行く気だったの?」

いや、家ですよ、そりゃ。私は家に帰る気満々でしたよ。

でも・・・家、こっちじゃ・・・ないよね?それとも私・・・実は相当酔ってるの?

そうか・・・そうかもな。だってあのシャンパン凄く飲みやすかったもん。

知らない間に道も分からないほど酔っ払ってたのかも。

はぁぁ・・・何にしても疲れたなぁ・・・早くお風呂入りたい。

そして私は知らない間にこうやって聖さまにもたれたまま寝ちゃってたって訳。

次に起こされたのはどこかの家の前。静かなそこは郊外のどこかなんだと思う。

暗くて分からないけど、周りには家も何も無い。多分・・・志摩子さんの実家の近所っぽい。

私は眠い目をこすって聖さまの腕にしっかりと捕まった。

「ここ・・・どこです?」

「あ、そうだ忘れてた。はい、これ、新しい家の鍵ね」

「・・・は?」

新しい・・・家?一体どういう事?私は手の中の鍵をじっと見つめ、

目の前の家を見上げてもう一度聖さまを見た。

聖さまはキョトンとした顔してるけど、その顔は今まさに私のする顔だろう。

「ここ、私たちの新しい家」

「はあ!?」

ちょ、待ってよ。一体いつの間に引越しを・・・いや、そうじゃなくて!!

一体いつの間にこんな家を・・・建てたのか、と!!

つか、なによ、この要塞っぽい家!!いやに近代的じゃない!!

そうね・・・例えて言うなら、うちの実家がもっと進化したっていうか・・・はっ!!

私はふとだいぶ前の聖さまの台詞が蘇った。うちの実家を見て、聖さまが呟いた一言。

『いいなぁ・・・私もこんな家に住みたいなぁ』

まさか・・・あれが引き金!?わ、私は聖さまんちみたいな白いお家に住みたかったのに!!

てことはちょっと待ってよ。もしかして・・・お父さんたちも皆・・・グル?

私の脳裏を一気に沢山の事が過ぎる。そんな私の顔を見て聖さまは何かを察したのか、

申し訳無さそうに苦笑いして言った。

「黙っててごめん。でも、色は白だよ。暗くて分かんないけど」

そ、そういう問題じゃなくてっっ!!!私はそんな言葉を飲み込んだ。

そして私の口からついて出た言葉と言えば・・・。

「そ、そうですか・・・それがそれは・・・良かったです」

ちがうっ!!こんな事が言いたいんじゃないのにっっっ!!!!

ここはもっと怒ってもいいとこなんじゃないの!?私っ!!!

でも、怒る事は出来なかった。だって、そもそもびっくりはしたけど腹は立たなかったんだもん。

どうしてかな。だって、確かに外観は聖さまの趣味丸出しだけど、

外の環境は・・・私の望んでた通りだったから。静かで、まるで二人きりみたいな場所がいい。

近くに川が流れてて、その季節に応じた香りがして、虫の鳴き声がちゃんと聞こえる所。

聖さまは嫌がってたけど、でもここは・・・まさにそんな場所だった。

沈丁花の香りがふわりと風に乗ってやってきた時に、それが・・・分かったんだ。

私は聖さまの後に続いて門扉を開いた。玄関の前まで来た時、聖さまがそっと避けた。

「祐巳ちゃんが開けて」

「・・・でも・・・」

「いいから。早く入ろうよ、寒いから」

そう言って私の背中を押した聖さまを見上げ、私は頷いた。

鍵を差し込んでカチャリと鳴るまで回すと、胸がドキンって鳴った。

ドアを開けるとそこは真っ暗。

手探りで電気のスイッチを見つけた私は電気をつけて思わず息を飲んだ。

「わぁぁぁ・・・ピンクだぁ・・・」

玄関とか廊下の壁紙の色は私の大好きな薄いピンク。

外観からは想像も出来ないぐらい可愛らしい内装。急いで靴を脱いだ私は、

そのままリビングのドアを開けて電気をつけた。

部屋は狭くてもいいからリビングは広いのがいい。

私の夢の話を聖さまはちゃんと覚えててくれたのね・・・。

私は聖さまの腕を掴んで、それからずっと家の中を探索して回った。

マンションよりもずっと広いから掃除も大変だと思う。何せちゃんと二階もあるんだもん。

小さな中庭は私の好きな花を植えよう。それから、出窓には沢山の緑を。

私はずっとずっと喋ってた。そして二階のある部屋の前で聖さまが立ち止まる。

「ここが祐巳ちゃんの部屋。一番日当たりいいからね。で、向かいが私の部屋ね。

これから毎日ここに帰ってくるのよ、私たち。ここでご飯食べて、ここで眠るの。

勝手に結婚式も家も建てちゃったけど、私こんなだけど・・・それでも好きで居てくれる?」

珍しく自信無さげな聖さまの声。

首を傾げて私を覗き込む顔は、答えが分かってるみたいに笑ってる。

「聖さま・・・」

聖さまはほんと、ワガママで自分勝手。でも、そのワガママは決して自分の為だけじゃない。

だから私は聖さまに抱きついた。かなり勢いよく。

「仕方ないから、好きで居てあげます。これから先もずっとずっと。

ほんとどうしようもない人だから、私が傍に居ないと・・・ね!」

そんな風に言った私に聖さまが声を出して笑って言った。

「そうね、その通りだわ」

って。でもね、本当は・・・私も同じ。聖さまが傍に居ないと・・・ね。

私は聖さまの手を引いてもう一度玄関の前まで出て、ゆっくりドアを開いた。

そして聖さまを見上げて頷く。

「「ただいま。これからよろしくね」」

『おかえり』

どこからかそんな声が聞こえた気がして振り向いたけど、そこには誰も居なかった。

でもきっと、気のせいじゃない。私たちは自分たちだけの家に・・・帰ってきたんだ。



私は、今日の事をきっと・・・一生忘れない。



恋を知らなかった私は、ここで恋して愛を知った。

私たちに終わりなんて無い。誰にも・・・無い。

いつでも新しい事がどこかに転がってて、そして私たちはそれを拾い集めてまた歩き出す。

私は聖さまと今日も手を繋いでる。明日も、その次の日もずっと、ずっと。

春休みが明けて私たちの新しい生活が始まった。毎日は相変わらずめまぐるしく過ぎてゆく。

そしてこれからもっともっと忙しい日がやってくるんだけど、

それはまた・・・いつかのお話。もう少し先のお話。

保健室の窓から差し込む光に目を細めながら、今日もまた聖さまと楽しくやってる。

きっと、何十年経っても私たちは・・・やっぱりここに居るんだと思う。

「聖さま、ほら!授業始まりますよ!」

「ん〜もうちょっとだけ〜〜」

「聖さまってば!!もう、担任外れたからってまた気抜いて!!」

「そうは言うけどね、担任ってほんと、大変なんだから!」

「いや、それは分かりますけど!でも、授業に遅れちゃマズイですよ!」

「はぁ・・・蓉子みたいな事言うね、祐巳ちゃんってば」

ふぁぁぁって大きな伸びをした聖さま。私はそんな聖さまを見て思わず笑った。

「なによ?」

「べっつに。何でもありませんよ!」

「・・・変な祐巳ちゃん」

聖さまはやっと立ち上がって保健室を出て行こうとする。そんな聖さまを私は止めた。

「聖さま、忘れ物ですよ」

背伸びをしてキスした私を見て、聖さまは驚いたみたいに大きく目を開く。

へへ、今日は勝った!私は自信満々に微笑んで胸を張った。

そんな私を見下ろして聖さまは意地悪に微笑む。

「次はもっと凄いの期待してるわ」

「・・・・・・」

負けず嫌いにも程がある。聖さまはほんと・・・私は聖さまの背中に小さく舌を出した。

そんな私を知ってか知らずか、

聖さまは手だけ振って振り返りもしないで保健室から出て行ってしまった。

「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

魔法の合言葉は、きっと誰かと誰かを繋ぐためにある。

私と聖さまがここで出逢ったように、誰かもまた誰かと出逢うために生まれて、

そして生きてる。私は今、心から・・・そう思う。

全てがここで始まって、そして今度また・・・新しい生活がここからスタートする。













長い長い間お付き合いいただき本当にありがとうございました!!
                                             銭麻呂



学園!マリみて教師物語  〜おまけ 後編2〜