私は理事長室の無意味に重いドアを体全体で押すと、堂々と中に入った。
でも・・・蓉子さまと目が合うとやっぱり全身から溜め込んだエネルギーがふわふわと抜けていくような気がして・・・。
ダメじゃん!!こんな所で躓いてどうすんのよ!私!!!
「あら、祐巳ちゃんごきげんよう。どうしたの?怖い顔して」
「いえ、その・・・よ、蓉子さまにお話がありましてやってきました!!」
蓉子さまはガチガチに緊張してる私に近寄ってきてそっと私の肩に手を置くと、そのままソファに座らせてくれた。
いや・・・い、いいですよ!お茶なんて!!それどころじゃないんですから!!
聖さまと仲直りをして、遅くなっても聖さまが晩御飯を家で食べるようになって、早一ヶ月。
瞳子ちゃんと可南子ちゃんの言動とか行動もようやく落ち着いてきた今日この頃だったんだけど、
そこに持ち上がった次の課題。それは・・・修学旅行!!!今まではね、聖さまには全然関係なかったのね。
でもさ・・・今年は聖さま二年の担任なのよ!てことはよ・・・聖さまも修学旅行行っちゃうじゃん!!
今も目を閉じれば思い出す。あの修学旅行のプリント貰った時の聖さまの嫌そうな顔・・・。
そしてチラリって私を見て、更に大きなため息を落としたんだよね・・・。
あれってどういう意味だったんだろう・・・まぁ、今はそれはいい。とりあえず重要なのはその修学旅行が結構長いって話よ。
いや、そりゃ行くなとは言えないわよ、学校行事だもん。それは分かってるの。でも・・・じゃあ私が行く訳には・・・。
そう思って今、私はここにいる訳。
「で、どうしたの?」
蓉子さまはそう言って私の向かい側に座ると私の前に今淹れてくれた紅茶とクッキーを出してくれた。
ほんと、いっつも思うんだけど、この学校の先生達って皆お菓子好きだよね。でもちっとも太らないから・・・凄い。
羨ましい通り越して、ちょっと妬ましい。いや、今はそんな話してる場合じゃないか。
私は大きく息を吸い込んでドンと机に手をついた。その拍子に蓉子さまはほんのちょっと驚いて飛び上がる。
「蓉子さまっ!修学旅行の件でお話があるんですがっ!!」
言った・・・言ったわ・・・やれば出来るじゃない・・・私・・・。私の言葉に蓉子さまは目を丸くする。
そしてにっこりと微笑んで私の肩を叩いて言った。
「なぁに?どうしたの?そんなに改まって」
「いや・・・その、修学旅行はその・・・どちらへ?」
「?去年と一緒よ。どうして?あ!今のうちに聖にお土産頼んどきなさいね!」
忘れないようにね!そんな事言って笑う蓉子さまは可愛い。すんごく可愛い・・・可愛いけど・・・憎たらしい!!
「そう!それなんですけど!保健医は・・・保健医は行かなくてもいいんですかっ!?」
私の気持ちはもう蓉子さまの胸倉を掴んでいた。いや・・・気持ちだけだけど・・・。
でもね、それぐらい気分はもう、皆と一緒に修学旅行に行ってる訳よ!だからどうか・・・どうかこの気持ちを汲んで!!
ところが・・・私の心とは裏腹に聞こえてきたのは蓉子さまの大爆笑で・・・。
「あはははは!!突然何を言い出すのかと思ったら!祐巳ちゃんが一緒に行っちゃったら誰が学校の保健医をするのよー!
もう、冗談はよしてちょうだい・・・あぁ、お腹痛い・・・」
「そ・・・そりゃそっすよね・・・」
もうね、完全に夢は打ち砕かれちゃった。儚かったなぁ・・・サヨナラ・・・私のささやかな夢・・・。
「そ・・・それじゃあせめて蓉子さま・・お願いがあります」
「ええ、なに?」
「聖さまが現地の人と浮気とかしないよう見張っててくださいね・・・」
ガックリと肩を落としてポツリと言った言葉に、蓉子さまは更に笑った。
「OKOK!ちゃんと見張っとくから安心しててちょうだい」
「・・・約束・・・ですよ・・・」
「分かったってば。それに大丈夫よ、生徒の目もあるんだから。安心してちょうだい、祐巳ちゃん。
もし聖がどっかで誰かと何かしてても生徒がちゃんと目を光らせてると思うから!」
「・・・・・・そっすか・・・・それなら安心っす・・・」
ああ、どうして私体育会系?蓉子さまはきっと信頼できると思う。それよりもやっぱり心配なのは・・・。
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今日も遅くに家に帰ってきた聖さまは相変わらず一日の終わりのニュースを見ながらご飯を食べてた。
あ!もちろん私も一緒にね!
「聖さま・・・修学旅行・・・楽しみですか?」
「っ・・・ごほっ・・・な、なに、急に?」
ど、どうして動揺するのよー?サラダのきゅうりがポロリとお箸から落ちる。それを見つめながら私は言った。
「まさかとは思いますけど・・・浮気・・・するつもりとか無いですよね?」
「なっ、バッ、バカ言わないでよ!する訳ないでしょ!?」
「本当に?絶対の絶対に誓えます?」
「誓えます!ていうかさ、私だって本当は行きたくないのよね・・・正直」
聖さまはそう言って落ちたきゅうりを拾って食べた。ほんと・・・3秒ルールはどこへ行ってしまったんだろう・・・。
まぁそれはいいんだけどさ・・・そっか・・・聖さまもほんとは行きたくないのね・・・。
はぁ〜あ、なんだかなぁ・・・何て言うんだろ、こんな気持ち。確かにそんなに離れる訳じゃないんだけどさ。
でもさ、なんかさ・・・仲直りしたとこなんだよね、私達。
それなのにこの状況・・・最早何かに操られてるんじゃない?とか思っちゃう。
「聖さま・・・私、今日蓉子さまに直談判に行ったんですよ」
「はあ。何を?」
「そりゃ!私も修学旅行に行きたいです!って・・・でも・・・笑われちゃいました。何の冗談?って・・・や、確かにね、
分かってたんすよ、自分でも。私が居なきゃ学校の保健医どうすんのよ?とは思ってたんすけどね・・・。
どうしても言いたかったっていうか、言わずにはいられなかったっていうか・・・どっちにしても、
あっさり断られちゃった訳ですけど」
「ふーん。どうでもいいけど、どうして体育会系なの?」
いや、それはどうでもいいと思うのよ。突っ込むとことかソコじゃないし!それ以前に別に突っ込むとこないし!!
私のこのブルーな気分を誰も分かっちゃくれないんだな・・・きっと・・・グス・・・。
やだ、泣きまねとかしてたら本当に涙出て来ちゃったよ・・・ほんの冗談のつもりだったのに。
「ちょ、何も泣かなくても・・・そう・・・そんなに私が浮気するんじゃないかって心配なの?」
「ちがっ!そうじゃなくて!離れるのが・・・・嫌なんですよっ!!」
もう正直になろう。正直聖さまが浮気しそうとかそれ以前に、私はただ聖さまと離れたくないだけなの。
ていうか、何か嫌な感じがするんだよね・・・今までもずっと感じてたんだけど、何か・・・嫌な予感がする。
それが聖さまの事なのか私の事なのかは分からないけど・・・一体なんなんだろう・・・。
俯いた私の頭を聖さまは優しく撫でてくれた。顔を挙げると聖さまは切なそうに笑っていた。
「私も離れるの嫌。でも・・・たった一週間だよ。こないだよりもずっと短いし、大丈夫」
「・・・そう・・・ですよね・・・」
「そうそう。ほら、さっさと食べて、お風呂は入ろ?」
「うぁい・・・」
「・・・やる気のない返事ね、ったく」
やる気なんて出る訳ないじゃない。聖さまはいいよ、そりゃ。イタリアだもんね。あーもう!お土産何頼もう?
すっごい高いのねだってやるんだから!!
第百二十七話『イタリア』
イタリアか・・・イタリアね・・・これでもう何回目だろうな。ついでに言えばどうして蓉子も来るのかな。
大人しく学校で理事長やってりゃいいじゃん!絶対職権乱用だと思うのよ。ついでに祐巳ちゃんへのお土産もなぁ・・・。
『ヴェ、ヴェネツィアン・グラス!?』
『はい!とっても綺麗だと祥子さまに聞きましたから!お揃いのグラスでお酒飲みましょうよ!』
『と・・・とっても綺麗だけど・・・あれは結構・・・高いのよ?しかもお揃いって・・・』
最低でも二つ買ってこいって事!?私の言葉に祐巳ちゃんは瞳を潤ませた。
『だって・・・何でもいいって聖さま・・・言ったもん・・・』
『・・・・・・・・・・・』
承諾するしかないじゃない。あんな顔されたらさ。
そんで家でる前、当たり前っちゃ当たり前だけど祐巳ちゃんはやっぱり私から離れようとはしなかった。
『わだじぼいぐ〜〜〜〜!!!!』
『分かった!分かったから!とりあえず、ほら、新婚旅行の下見してくるだけだからっ!!』
でも、これがいけなかった。涙ボッタボッタ落として私を見上げて祐巳ちゃんは言った。
『だっだらよげい一緒にいぐ〜〜〜〜!!!!』
『・・・・・・・・・・・・言えてる・・・・・・・・・・・・・・』
これから一週間、先が思いやられる。でもどうしてだろう・・・少しも重いとは・・・思わないんだよなぁ・・・。
今までの私なら間違いなく重いなぁとか思ってただろうけど、全然そんな事思わなかった。
むしろ私までつられてちょっと泣きそうになっちゃったりとかして。口には出さなかったけど、本当は私も行きたくないの。
だって・・・離れたくないよ。せっかくいつも通りになったのに・・・もう離れないって言ったのに。
その矢先にコレ・・・だもんなぁ・・・。私は空港の中を見渡しながら大きなため息を落とした。
そんな私の隣にツツツと蓉子が寄ってくる。
「随分と浮かない顔ねぇ〜。前の時はあんなにも楽しそうだったのに〜」
「・・・何年前の話よ」
確かに。大分前に担任持った時に修学旅行行った時はそりゃ楽しかったわよ!
だって、現地でナンパするのが目的だったんだもん。でもさ・・・今回は違う。純粋に修学旅行の引率って立場なんだよね。
何度も何度も大きなため息を落とす私を見て楽しそうな蓉子・・・ああもう!腹立たしいったらありゃしない!!
ほんと、コイツだけはどうしてこんなにも憎たらしいんだろ!?
私のイライラした雰囲気を感じ取ったのか、さっきからクラスの学級委員が列を綺麗に並べなおそうと必死になっている。
「あー・・・ほら、そこ、ちゃんと学級委員のいう事聞いて。でなきゃ置いてくわよ」
「「は〜い」」
クラス委員は私をチラリと見てペコリとお辞儀を返してくれる。皆がこんぐらい素直なら楽なのになぁ・・・。
そんな事を考えながら飛行機に乗り込んだ。で、気になる隣は・・・蓉子かよ・・・。
「どこまであんたと一緒なの?」
「あら、失礼ね。私は祐巳ちゃん直々に頼まれてるんです!聖が浮気しないように見張っててください!って」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
よもや蓉子を使うとは・・・やっぱり祐巳ちゃんは賢くなってる。そして私は本当に信頼が無い。
それは仕方ないのかもしれないけど、もうちょっとぐらい信頼してくれてもいいと思うんだけどなぁ。
でも、その答えは意外なところで出ることに・・・なる。
長い長い飛行機の旅を終えたら今度は時差ボケ・・・コレが結構辛い。
とりあえずホテルで休憩を取る予定だった生徒達は散り散りに各自部屋へと戻ってゆく。
で、私達はと言えば、一応個室だった。これだけはほんと、ありがたい。
部屋まで蓉子と一緒だったらどうしようかと思ってたから。
私は時計を確認して日本が今は夜中だという事に気づいて電話は控えておいた。絶対祐巳ちゃんもう寝てるだろうしね。
でも・・・そう思ってたのも束の間、突然私の携帯が鳴りだしたんだ。
こんな時本当に思うのは、世界中つながる携帯は凄く便利。特にこんな時は。
「もしもし?」
『あー・・・もう着いたんですねー』
眠そうな祐巳ちゃんの声。眠いんだったら早く寝ればいいのに。私はそんな言葉を飲み込んだ。
多分・・・私が無事に着いたかどうかを確かめるためにずっと我慢して起きててくれたんだろうと思うと、そんな事言えなくて。
「うん、着いたよ。そっちはどう?何かあった?」
『んー・・・特には何も。そっちはどうです?』
「うーん・・・飛行機ん中でずっと寝てたからなぁ・・・それにほんと、今着いたとこだし」
私の答えに祐巳ちゃんは笑った。何だか離れてるんだけど、近い感じがして嬉しかった。
普段あんまり耳元でこうやって声なんて聞かないから、妙にドキドキする。だから私、電話って結構好きなんだよね。
それを祐巳ちゃんに言うと、祐巳ちゃんは恥ずかしそうにポツリと言った。
『・・・私も・・・ドキドキしますよ・・・』
って。誰から見てもラブラブな私達の邪魔をするものなんて何もない。今まではそう思ってた。
本人同士の気持ちさえしっかり繋がってれば何があっても揺らぐことなんてないって。
でもさ、今回の新人とか担任の件で思ったんだ。だからってそれに甘んじてたらいけないんだって。
例えば祐巳ちゃんが必ずしも私と同じことを考えてるとは限らないし、辛さの度合いなんて人それぞれなんだって知って、
どれだけ言葉や態度で示そうとしても、なかなか100%伝わる事なんてなくてさ。
だからこそ大事なものは必要以上に大事にしなきゃ・・・ダメなんだよね・・・多分。
「さてと。それじゃあ今日はこのくらいにして、祐巳ちゃんはもう寝なさい。また明日電話するから」
私の声に祐巳ちゃんは小さく頷いた。泣いてるのか眠いのかは分からないけど、とりあえず寂しそうでは・・・ある。
『それじゃあ聖さま・・・おやすみなふぁぁ・・・す、すみません!おやすみなさい!』
「ふふ・・・・お休み」
ガチャン。そして電話は切れた。どうやら、泣いてたんじゃなくて必死になって欠伸を堪えていたみたい。
何だかんだ言いながらいざ離れてしまうと祐巳ちゃんは強い。いや、我慢・・・してるのかな?それは分からないけど、
とりあえず私も頑張らなきゃね。一週間か・・・短いようで長いよね、案外。でもこれが終わったら・・・もう本当に離れないから。
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「だから・・・どうして私が蓉子と一緒に行動しなきゃなんない訳?」
「だって、私聖ほど英語得意じゃないし」
そんな理由で一日中追い回される私の身にもなってよ・・・私はとりあえず軽く蓉子を睨んで歩き出した。
ところで・・・今回の修学旅行は非常に楽。だって一日目からずっと自由行動だもの。
多分これには蓉子の策略が絡んでるんだと私は踏んでるんだけど、実際のとこはよく分かんない。
「さて、どこ行く?」
「そうねぇ・・・聖はどこがいいい?」
「えー・・・蓉子の行きたいとこでいいよ」
「あら、そう?」
そう言った途端、蓉子の顔がパッって輝いた。ほんと・・・コイツも素直だよなぁ。とりあえず私は大人しく蓉子に着いていこう。
そうすれば迷子になる事もないだろうし。はぁ〜あ・・・やっぱ、祐巳ちゃんと来たかったなぁ〜・・・。
新婚旅行に下見・・・か。ほんと、私もよく言うよね。まだそんな覚悟なんて・・・出来てないのに。
第百二十八話『SRGん家!』
聖さまがイタリア行って今日で何日めだっけ・・・一週間って・・・長いよ・・・。
逢えた時の二週間と全く逢えない一週間じゃ訳が違うもん、どう考えたって。はぁぁぁぁ。
私は保健室の窓から空を見上げて大きなため息を落とした。
「抜け殻ですね、まるで」
突然の声にビックリして振り返ると、そこに居たのは乃梨子ちゃん。
「び・・・びっくりした・・・どうしたの?珍しいね」
「そうですか?たまには祐巳さまと一緒にお昼でも・・・と、思ったんですが・・・どうしてあなたも居るんです?SRG」
「へ?」
私は乃梨子ちゃんの台詞を聞いて驚いて目を丸くした。SRGといえば、最近やたらと私の傍にいる。
どうしてです?って聞いても笑うだけで何も教えてくれないし・・・一体どうしたんだろう?
乃梨子ちゃんの後ろからひょっこりと顔を出したSRGは乃梨子ちゃんの頭をよしよしと撫でながら、保健室に入ってくる。
「まぁまぁ!食事は大勢でした方が美味しいでしょ?それに今は二人ともパートナーが居なくて寂しそうだし」
SRGはそう言って笑ったんだけど・・・多分寂しいのはSRGと一緒な筈。
だって、蓉子さまってば嬉々としてイタリアについてっちゃったもんね・・・。
つかさ、どうして保健医は行かなくてもいいのに、理事長は一緒に行っちゃう訳〜?そんなの不公平だよ!
まぁ・・・言えないけどね、そんな事。私はだから、とりあえず三人分のお茶を用意してお弁当を取り出す。
「相変わらず可愛らしいお弁当ねぇ」
「そうですか?これでも随分手抜いたんですけど・・・」
私の言葉に乃梨子ちゃんが笑った。それで?って顔して。でもね、手・・・抜いたんだよ、本当に。
だって・・・聖さまの・・・分作らなくてもいいんだもん・・・。久しぶりに一人分しか作らないとやっぱダメ。
どうしても作りすぎちゃうし。だから晩御飯は最近毎日お弁当の残り物だもん。それを話すと今度はSRGも笑った。
「幸せな悩みよね〜。で、乃梨子ちゃんもやっぱり寂しい?」
「ええ、まぁ・・・でも、祐巳さまほどではありませんよ、流石に」
「ああ・・・でも、多分聖もこんなんなんじゃない?きっと」
今頃腑抜けになってるわよ!そう言ってSRGはお腹抱えて笑うんだけど、
これってもしかして私を元気付けようとしてくれてるのかな?だとしたら・・・ちょっとだけ元気になれそう。
私はリリアンの卒業生じゃないし、ましてや皆の事もまだ殆ど知らない。
それでも・・・少しくらいは私の事仲間だと思ってくれてるのかな?そんな風に考えたら、妙に嬉しかった。
やっぱり聖さまはいいな。だって、こんなにも楽しくて素敵な仲間にずっと囲まれてたんだもん。
ちょっとだけ・・・羨ましいよ。私はもう一度窓の外を眺めた。空は真っ青で雲一つない。
聖さまも今、私と同じ空を見てたりするのかなぁ?そんな事言ったら乃梨子ちゃんにあっさり否定されてしまった。
「イタリアはまだ朝の6時ですからね。まだ起きてないんじゃないですか?」
「そうよねぇ、聖だからねぇ」
「・・・うぅ・・・やっぱり・・・」
まだ寝てるかー・・・ちぇ、こんな時ぐらい早起きしてもいいと思うんだけどな。
でもそんな事をあの聖さまに望んだって無駄だって事は私が一番よく知ってる。
「ところで祐巳ちゃん、聖の居ない間ご飯もずっと一人で食べてるの?」
「ええ、そうですけど・・・どうしてです?」
「乃梨子ちゃんは?」
「私も一人ですけど・・・」
私達の答えを聞いて、SRGがニヤリと笑った。こ・・・怖いよ・・・SRG・・・。
「そう・・・じゃあ今晩うちにいらっしゃいよ、二人とも。私がご飯作ってあげるから!」
「「・・・は?」」
「だから、今晩はウチでご飯食べない?って誘ってるの」
な・・・何だかあらぬ方向に話が進んでるんですけど・・・まぁいっか。私は乃梨子ちゃんと顔を見合わせて頷いた。
「「それじゃあ・・・お邪魔します」」
「よし!決まり!」
それにしてもSRGの家か・・・初めて行くなぁ・・・やだ、何だかドキドキしてきちゃったじゃない!!
いや、変な意味じゃなくて、普通にって意味なんだけど。だってさ、聖さまのお姉さまの家だよ?
そりゃ私、リリアンの事は分からないけど、最近ようやくスール制度ってのが分かってきた。
SRG曰く、スール制度ってのは姉の言う事が絶対なんだって!怖いよね!
だからよく見極めて妹にならなきゃいけないって言ってたけど・・・SRGが行っちゃった後、乃梨子ちゃんにその話をしたら。
「・・・祐巳さま・・・もう少し人を疑いましょう・・・」
「え?う、嘘なの!?」
私の質問に頷く乃梨子ちゃん・・・ヤラレタ・・・また騙されたよ・・・。呆れたような顔で私を見つめる乃梨子ちゃんの目が、
何だか突き刺さる。もしここに聖さまが居たら、きっともっとバカにされてたんだろうなぁ。
ああ、聖さまのあの嫌味とかが懐かしい・・・こんな事考えてる私は、もう相当重症かもしれない。
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さ・て・と。お土産も持った。身なりも・・・OK!後はここで乃梨子ちゃんを待つだけ!
駅前の大きな本屋さんの前で私は何度も何度もガラスで姿を確認しながら乃梨子ちゃんを待っていた。
聖さまのお姉さまのお宅・・・それだけで非常に緊張する。でも多分、私よりも乃梨子ちゃんの方が緊張してるに違いない。
だって、お姉さまのお姉さまのお姉さまだもん。ここは私がしっかりリードしてあげなきゃね!一応私の方が年上だし!
ブツブツ言ってた私は、だから乃梨子ちゃんが目の前に居るのにも全く気付かなかった。
「ま・・・さま・・・祐巳さま!」
「うぁぁい!?」
「大丈夫ですか?放心状態でしたけど」
冷静な乃梨子ちゃん。そして必要以上に驚く私・・これじゃあどちらがリードされるのか分からない。
恥ずかしくてもういっそ逃げ帰ってしまいたいけどそうはいかない。顔を挙げた私に、乃梨子ちゃんは相変わらず淡々と言う。
「ところで祐巳さま、体育の成績は良かったですか?」
「は?どうして?多分・・・人並みだったと思うけど」
「そうですか、なら大丈夫かな。さ、行きましょ」
そう言って私の手を引く乃梨子ちゃん・・・つか、どうしてSRGの家に行くのに私の体育の成績が関係・・・あるんだろ。
そして私はほんの少しだけ見栄を張ってしまった。本当は体育の成績はそんなに良くない。
実を言うと・・・2だったんだ。いつも。もちろん10段階評価で。
で、でもね!聞いて!!体育の授業のテストって、やたらと緊張する訳よ!
そんでその度にお腹痛くなっていつもの力が発揮されない訳!
だからその2って数字も必ずしも正しいとは言えない訳で・・・ゴニョゴニョ。
私は心の中で必死になって言い訳しながら乃梨子ちゃんの後について行く。
「はい、これが祐巳さまのです」
そう言って渡されたのは真っ黒で大きなフルフェイスのヘルメット・・・ちょ・・・ま、待って、乃梨子ちゃん・・・。
まさかとは思うけどこれって・・・私は乃梨子ちゃんの袖を引っ張って恐る恐る尋ねた。
「乃梨子・・・ちゃん?これって・・・まさか・・・」
「ええ、そのまさかです。私、バイクで来てるので、ほら、アレ」
乃梨子ちゃんの指差した先にあったのは・・・とんでもなく大きな真っ黒のバイク。や・・・ヤバイ!嘘なんてつくんじゃなかった!
でも、今更もう遅い。乃梨子ちゃんに促されるままヘルメットを装着した私は恐々バイクに跨った。
「それじゃあ祐巳さま、しっかり捕まっててくださいね。落ちたら洒落になりませんから」
「う・・・うん・・・」
ドルンドルンって重低音が辺りに響き渡る。ど、どうしよう・・・こ、怖いんすけど・・・。
私は必死になって乃梨子ちゃんにしがみつくと、ギュって目を瞑った。
そして、その瞬間・・・バイクがとんでもない音を立てて走り出す。・・・や・・・やっべー・・・超こえぇぇ・・・。
思わず口が悪くなるほど怖い。いっそ失神しようかしらって思うほど。
曲がり角に差し掛かるたびに乃梨子ちゃんが体を傾けるから必然的に私も体が傾く訳よ。
膝っ子増とかがね、もう地面擦れ擦れな訳よ。膝当て・・・膝当てが欲しい。すぐにでも。
でもあんなもの小学校の時にローラースケートの練習以来つけたことない。でもね、アレが今すぐ欲しい!!
それに・・・寒い。尋常じゃないぐらい寒い・・・。膝はガクガク、上半身は寒さでブルブル。
これじゃあ降りてもしばらくは揺れそうよ!バイクって・・・バイクって・・・格好いいのは・・・見た目だけなのかしら?
それとも、慣れたらそうでもないのかしら?そこんとこはよく分からないけど、とりあえず聖さまは車派で良かった。
今心の底から・・・そう思う。
第百二十九話『Dear.My.penfriend』
そう言えば静はイタリアに行ったんだっけ。そんな事を思い出したのは、志摩子の一言を聞いたから。
蓉子のおもーい荷物を持ってホテルに戻ってくると、ロビーの所で優雅にお茶してる志摩子が居た。
「おー志摩子」
「あら、お姉さま。それに蓉子さまも・・・凄い荷物ですね」
「でしょ?殆ど蓉子のだけどね。知ってる?この袋の中、これ全部ポルチーニ茸なの。どんだけキノコ食うのよって話でしょ?」
ありえないよ、ほんと。見てよこの袋!スタンダードな買い物袋(中)の中にキノコがどっさり・・・正直・・・気持ち悪っ!!
そんな事いいながら志摩子に近寄ってゆく私の後をツカツカと追いかけてくる蓉子。
「うるさいわね!好きなんだから別にいいでしょ!!」
「ふん。そのうち朝、目覚めたらキノコのオバケにでもなってんじゃない?」
そう言えば昔、マタンゴってホラー映画があったけど・・・あれは怖かったなぁ・・・もうね、尋常じゃないぐらい怖かったのよね。
だって、そのせいで一週間ぐらい毎晩マタンゴにうなされるし、キノコ食べられないしで大変だった・・・。
もしも蓉子がキノコの食べすぎでマタンゴみたいになったら・・・・・・・こ、怖いっ!!怖すぎるよ蓉子っ!!
「よ、蓉子!もしも・・・もしもキノコのオバケになったら、絶対に学校来ないでねっ!!」
「あんた・・・一体どんな想像してんのよ・・・」
だ、だって・・・マタンゴは怖いよ。まぁ、それは置いといて。私はにとりあえず荷物を置いてウェイターを呼んだ。
そしてコーヒーを注文して志摩子の向かいに腰掛ける。
「で、志摩子、明日のご予定は?」
私の質問に志摩子はにっこりと笑った。そして、志摩子の次の一言で静の事を思い出すことに・・・なる。
「明日ですか?明日は静さまとご一緒する予定なんですが」
「静?・・・ああ・・・そう言えば彼女はイタリアだっけ」
「ええ、良かったらお姉さまもご一緒にどうです?」
「いいね。久しぶりに私も会いたいし。そんな訳で蓉子、明日は他の人と一緒に回ってちょうだい」
「はいはい。でも聖・・・わかってるでしょうね?」
蓉子の冷たい声・・・分かってるよ。浮気なんかしないってば!
ギロリと睨んだ私を見て、蓉子は満足そうにキノコ袋を抱えて部屋に戻ってゆく。
あーあー・・・ホクホクしちゃってまぁ・・・そんなに好きかね、あのキノコが。
私はコーヒーを飲みながら静の顔を思い出す。静とは高校の時に初めて会ったんだっけ。
志摩子が薔薇様になる時に突然立候補してきた一人の少女。それがリリアン1の歌姫だったなんて事、私は全然知らなくて。
あの時・・・静に告白をされた日の事を、私は今でもよく覚えてる。あの気の強い静が涙目で言った言葉をまだ・・・。
それまで私は色んな子に手を出したけど、静には・・・出さなかった。その理由は簡単。
だって、静はきっと私に本気になってしまうって分かってたから。
だからあの日・・・川原で歌っているのを見つけた時も声は掛けなかったんだ。
何となくだけど、静が私を待ってるような気がして声がかけられなかったのかもしれない。
あの時は既に私は祐巳ちゃんが好きで、とてもじゃないけどもう一度同じ子を振るなんて事出来なくて・・・。
でもそれは間違いだったのかもしれない。あの日、ちゃんと私の想いを伝えて良かったのかも・・・しれない。
静には幸せになってほしい。私が羨むほどの幸せを・・・掴んでほしい。歌姫なら歌姫らしく、今も胸を張って歌っていてほしい。
私は・・・本当に静の歌が好きだったから・・・。
「静・・・元気かな」
「ええ、元気ですわ・・・きっと」
「・・・そうよね」
志摩子の言葉に私は微笑んだ。あの静の事だ。元気じゃない訳がない。あぁ、何だか明日が待ち遠しくなってきた!
私は最後のコーヒーを飲み干すと、志摩子に別れを告げて部屋に戻った。
今、日本は夜中の三時。起きてる訳ないんだけど、祐巳ちゃんの声が聞きたくて私は電話する。
『ふぁい?』
「ごめん、起こしたよね?」
『んー・・・せさまぁ?なんれすか・・・なんかあったんれすか?』
眠そうな祐巳ちゃんの声。でも・・・ちゃんと電話には出てくれるんだなぁ。きっと電話を枕元とかに置いて寝てるんだろう。
でなきゃあの祐巳ちゃんだもん絶対寝てる途中で起きる訳がない。
「明日ね、静に会うんだ」
『静・・・さま?そうれすか!よろしくお伝えくださいね!』
「うん、伝えとく。えっと・・・そんだけなんだけどさ。起こしちゃってごめんね?」
私の勝手なワガママにつき合わせてごめんね?そんな言葉を飲み込んだけど、祐巳ちゃんは怒っちゃいなかった。
さっきからしきりに、静さまかー、などと嬉しそうに・・・欠伸交じりに呟いている。
もしかすると祐巳ちゃんも静に会いたいのかな?あんまり接点が無かったようにも思うけど、やっぱりそれでも懐かしいようで。
『一緒に写真とか撮ってきてくらふぁぁぁ・・・いよ』
「・・・今欠伸ついでに喋ったわね?まぁいいけど・・・分かった。写真撮ってくるね。それじゃ、おやすみ」
『ふぁい、おやすみなさい』
かちゃん。本当にどうでもいい定期報告だけど、それでもこういうのは結構大事。
やっぱ離れてると、姿が見えないと不安になるから。だから祐巳ちゃん・・・祐巳ちゃんももっと電話してきて・・・いいのよ?
遠慮なんてしないでもっと声、聞かせて?こんな台詞・・・恥ずかしくて絶対言えないけど。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
翌朝、私は志摩子と二人で静との待ち合わせ場所に向った。ちょっとした広場になってるそこは、やっぱり海外だーなんて思う。
噴水とかがさ、違うよね。センスがいいよね、やっぱ。建物とかもそうだけどさ。
いや、日本の建物も好きなんだけど、ね。神社とかお寺とかそういうのは。
やっぱさ、それぞれの国の色ってものがあるじゃない。それに自信持ってる感じが素敵だなぁって思う。
まぁそんな話は置いといて。しばらくすると、隣に立っていた志摩子が突然小さな歓声を上げて誰かに手を振り出した。
「志摩子さん・・・聖さまも!お元気でしたか?お二人とも」
静だった。ちょっと見ない間に少し・・・色っぽくなった。私はにっこりと笑って志摩子と一緒に静の所に駆け寄ると、
久しぶりの再会を喜んだ。
「お久しぶりです、そうだ!アレ、食べましょうか」
そう言って静が指差したのはイタリアンジェラートのお店。そう言えばこっちに来てからまだ食べてないっけ・・・本場なのに。
私達は頷いて静の後についてゆく。すると静は慣れた様子で三人分のジェラートを注文してくれた。
こんなとこ見るとさ、もうすっかりイタリアが板についてるように見えるよね。うん・・・静、格好いいよ。日本に居た時よりもずっと。
「ところで聖さま、最近新任の先生が二人いらっしゃったんでしょう?」
「うん、そう。もうね、大変」
「お姉さま!いけません、そういう事いっちゃ!」
「だーって、本当に大変なんだもん。特に可南子ちゃんが」
そう言って私は口を噤んだ。どうして静が・・・新任の教師の事を知ってるんだろう?
私の不思議そうな顔を見て、静はあのイタズラな笑みを浮かべる。何だかその顔を見て私は安心した。
だって・・・静ってば本当に知らない人みたいになちゃったんだもん!
「祐巳さんから聞いてないんですか?私、祐巳さんと時々メールでやりとりしてるんですよ?」
静の言葉に、私はジェラートを思わず落としそうになった。ちょ、な、なんつった?今。祐巳ちゃんが静と・・・メール?
そんなの初めて聞いたんだけど・・・ていうか、祐巳ちゃん・・・意外に隠し事上手なんだ・・・何となくそっちの方がビックリだわ。
「は、初めて聞いた!そうなの!?」
「ええ。最初は祐巳さんからメールが来て、それを私が返してから何となく・・・最近じゃちょっとした楽しみなんです」
「へぇ・・・そうなんだ。全っ然知らなかった」
何だか・・・ちょっとだけショックだわ。私だけ仲間外れじゃん。でも、静は言った。
「でも、安心しました。祐巳さんと聖さま、上手くいってるみたいで。最近ちょっと色々あったみたいだし」
「そ、そんな事まで知ってんの?!」
あんの子狸・・・どんだけ話してんのよ・・・まさか洗いざらい全部話してるんじゃないでしょうね!?だとしたら相当恥ずかしい。
だって、今までのこと全部筒抜けだったって事じゃん!!私は苦笑いしながら流れ落ちるジェラートを舐めながら言った。
「じゃあ祐巳ちゃん心配してたでしょ?私が浮気するんじゃないかーって」
でも、私の言葉に静はキョトンとしてる。
「いいえ?そういう心配はないみたいですよ?」
「そう・・・なの?」
「ええ。ただ、自分たちの関係は約束みたいなのが無いから怖い、みたいな心配はあるみたいですけど。
聖さまの事を信頼してないとか、そういうのは無いと思いますけど・・・ねぇ?志摩子さん」
「ええ、だっていつか祐巳さん言ってましたから。お姉さまは一度好きになったら、一生愛してくれそうだって」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
祐巳ちゃん・・・私の事・・・信頼してない訳じゃなかったんだ・・・。なんだ・・・もう!何だか肩から力がドッと抜けた。
今までさ、浮気しないで!って言われるたびに私はそんなに信用ないのかな?って思ってたけど、
そうじゃなかったんだね。ただ・・・あれは口実だったんだ、きっと。約束の無い私達にとって、言葉だけが・・・繋がりだもんね。
正直に言うのが恥ずかしいから、今まであんな風に言ってたんだ。人づてにだけどそんな事を聞いた私は、
自分でも気付かないうちに笑ってた・・・みたい。怪訝そうな二人の顔を見たら、一目瞭然だったから。
「だから、何があっても祐巳さんを幸せにしてあげてくださいね?いい加減聖さまも覚悟決めないと」
「そうですよ、お姉さま。お姉さまの事をそんな風に言ってくれる人が、世の中に何人ぐらい居らっしゃっるか!」
「・・・二人とも言いたい放題言ってくれるよね・・・」
でも、ほんと、そう。志摩子と静の言うとおり。こんな私をあんなにも盲目的に愛してくれる人なんて、きっとそうは居ない。
おまけに私も想いを返してるって意味では、祐巳ちゃんしか居ない訳で・・・。
「大事に・・・しなきゃね・・・」
「「そうですよ!」」
二人の声はピッタリと重なった。それが何だかおかしくて思わず笑ってしまう。祐巳ちゃんとの将来か・・・そうだよね。
いい加減私もいい歳なんだし、ここらへんでそろそろ本腰入れて考えなきゃだよね。
見上げた空は高かった。今頃祐巳ちゃん、何やってんだろうなぁ・・・いや、寝てるか、まだ。
後二日。後二日の辛抱だから、もうちょっとだけ・・・待っててよね、祐巳ちゃん。
第百三十話『SRGん家2』
SRGん家はそんなに遠くなかった。ただ・・・一言言わせてもらえれば。バイクは・・・もういい。
「大丈夫ですか?祐巳さま」
「だ・・・大丈夫じゃないれふ・・・」
私はヨロヨロとバイクから降りると、乃梨子ちゃんの腕にしっかりとしがみついた。
苦笑いを浮かべる乃梨子ちゃんの顔が、逆光で何だかやたらと神々しく見える。
やっと地に足がついたのね・・・これが・・・地面の温もりというやつなのね・・・!
私はそんな事に感激しながらフラフラとおぼつかない足取りでSRGの家を目指した。
SRGの家は賑やかな街の中心部のマンションだった。私達が住んでるとこみたいに大きくはないけど、まだ新しくて随分綺麗。
インターホンを押すと、中から軽快な声がする。そしてドアが開いた瞬間・・・物凄くいい匂い・・・。
「うわぁ・・・いい匂いがしますね〜」
「ちょうど今出来たとこだったのよ!さぁ、どうぞ、二人とも上がってちょうだい!」
「「あ、はい・・・それじゃあお邪魔します」」
私達はSRGに言われるがまま中に入ってリビングを見て感嘆の声を上げた。
この人・・・見かけによらず実はかなりのしっかりものだ・・・。部屋を見ただけで何となくそれが分かってしまった。
だってね、カレンダーの隣に一か月分の領収書とかが入った壁掛けがかけてあったりとか、
小分けにされたDVD入れとかがそれを物語ってる訳よ!よくよく見たらDVDはちゃんとあいうえお順に並んでるし・・・。
人間ってほんと・・・見かけによらない。
どうやらそれは乃梨子ちゃんも感じたようで、部屋の中を見回して苦笑いを浮かべている。
「なぁに?どうしたの、二人とも」
「いえ・・・なんか、もしかしてSRGって実は凄いマメなんですか?」
かなり失礼な質問だとは思うけど、聞かずにはいられなかった。私の言葉に乃梨子ちゃんも隣で頷いている。
「どうかしら・・・まぁ少なくとも聖よりはマメだと思うけど。あ!でもあそこまで私綺麗好きじゃないわよ?」
そう言って笑ったSRG。確かに。聖さまの潔癖症はもう凄いもん。
ちょっとでも埃が落ちてたらもう掃除機かけ始めるからね、あの人は。だから絶対私の部屋には入れられない。
ていうかそもそも入りたがらないけど・・・グス・・・。私の顔を見て笑う二人・・・もしかして私、また顔で喋ってた??
「さて、それじゃあ早速だけど、ご飯にしましょ!」
「「はーい」」
SRGが全てやってくれた。何て楽チン!私は目の前に並べられた豪な食事を前に手を叩いて喜んだ。
だって・・・どこのパーティーよ?ってぐらい、SRGの手料理は凄い。そうか・・・実はSRG料理上手なんだぁ・・・。
「さ、どうぞ」
「「いただきます」」
そして一口食べて・・・更に感動!!もうね、超美味しい!!私が涙目でご飯を頬張っていると、SRGがそれを見て笑う。
「祐巳ちゃん、そんなに慌てて食べなくてもまだあるから」
「だ、だって・・・お、美味しいですよSRG!意外ですけど!!」
「・・・一言余計よ・・・でも、ありがと」
目の前で頬杖をついてニコニコしながらご飯食べる私達を見るSRGの目はとても優しい。
そんえふと思ったんだ。SRGは聖さまを見るときもこんな顔・・・してるんだよね。まるで本当の家族を可愛がるみたいに。
「SRGはどうして聖さまを妹に選んだんです?」
突然、乃梨子ちゃんが言った。それは私も前から聞いてみたかったんだ、是非。だってあの聖さまだもん。
あの人を妹にしようだなんて、相当肝が据わってないと無理だと思うのよ。
「聖を妹にした理由?そうね・・・顔かしら。あの子本当に綺麗な顔してるじゃない」
「「はあ」」
何だ・・・顔か。一番納得できるけど、何となく納得したくない感じ?もっとさ・・・他にも理由あんじゃん?
でも、私達がそんな事考えてるのなんて、きっとSRGにはお見通しだったに違いない。
SRGは私達の顔を見てクスリと笑って言った。
「だからね、あの子がどんな風に成長するか見てみたかったのよ。
それと・・・聖はいつでも一人ぼっちみたいな顔してたじゃない。それがね・・・嫌だったのかもしれないわ」
「・・・?」
「一人で勝手にやっていきます!みたいな態度がね、気に食わなかったのよ。
誰かと関わりを持って、少しでも周りと接触することで、あの子はもっと傷つかずにすむような気がして・・・だからかしら。
奇しくも私はロサ・ギガンティアだったしね。ちょうどいいかなって思ったの」
「なるほど、それなら納得できます」
乃梨子ちゃんは淡々と言った。多分、それは昔の聖さまを知ってるからだ。でも私にはよく分からなかった。
だって、昔の聖さまのことはよく分からないもの。出逢った時既にあんな人だったし・・・それをSRGに言ったら、SRGは笑った。
「それは違うわよ、祐巳ちゃん。祐巳ちゃんが来たから、あの子はあんな風になったのよ。ねぇ乃梨子ちゃん?」
「ええ。祐巳さまが来る以前は軽いだけで、中身なんて無いように見えましたから」
そ・・・それは乃梨子ちゃん・・・言い過ぎなんじゃ・・・でも、乃梨子ちゃんの言葉にSRGも頷く。
「軽くなる事で自分を守ってたのかしらね、あれは。だから本心なんて誰にも言わなかったし、
今ほど佐藤聖という人間があんな人間だったんだって思った事はないわ。
そうね・・・わかりやすく言えば、リリアンの知ってる聖さまはただ軽いだけ。昔を知ってる人は、重いだけ。
でも佐藤聖は違う。ワガママで自己中で、意外にあったかくてヤキモチ妬き。祐巳ちゃんが知ってるのはどれ?」
「私・・・ですか?私が知ってるのは・・・最後の聖さま・・・でしょうか」
だって、他の聖さまなんて知らない。私が知ってるのは・・・最後の聖さまだけだもん。そしてそれは今も変わらない。
あの火事の時、後先考えずに飛び込んだ私を追ってきてくれたのは・・・聖さまだけだったから。
あの時に初めて、この人は実は優しいんだろうか?なんて思って・・・それにずっとワガママで自己中だったし。
「ほらね、祐巳ちゃんには最初から佐藤聖で居たのよ。私達には決して見せなかった、本当の自分で」
「・・・本当の・・・自分?」
「そう。だから聖は私達には見せられない部分で、祐巳ちゃんを好きなんでしょうね、きっと。
だって、他の人に聞いてみなさいよ。皆聖の事大抵は怖がるか、軽いって言うわよ?」
「全くもってその通りです」
私は言葉に詰まった。だって、聖さまはそんな事言わない。絶対に。
でも・・・いつか由乃さんが言っていたっけ。聖さまは祐巳さんと他の人をちゃんと区別してるって。
あの時はそれを聞いてもあんまり分かんなかったけど、今SRGと乃梨子ちゃんの話を聞いて何となく分かった気がする。
私はじゃあ、もうちょっと自信持っていいのかな?聖さまが言ったように、聖さまの隣を歩く時胸を張っても・・・いいのかな?
最後にSRGは言った。
「だからね、あの日した祐巳ちゃんへのキスは、そのお礼だったの。私の知らない聖を見せてくれたから、祐巳ちゃんは」
「あ、あれはもう・・・いい加減忘れてくださいよ!」
私達の会話に乃梨子ちゃんは一人首を傾げている。だから私が説明しておいた。バカ丁寧に。
「なるほど。では祐巳さまのファーストキスは聖さまではなくてSRGなんですか。それはいい事を聞きました」
そう言って珍しく意地悪な笑みを浮かべる乃梨子ちゃんの顔は・・・間違いなく白薔薇属性だわ・・・。
でも分かってるんだけどね。乃梨子ちゃんは別にそれを誰かに言いふらしたりはしないだろうって事ぐらい。
私達は笑った。散々笑ってSRGの美味しい手料理を食べて。でも私は・・・聖さまに逢いたかった。
今イタリアはちょうどお昼ぐらいだろうけど、きっと聖さまは生徒達の世話で手一杯だろうし、
もしかしたら蓉子さまや志摩子さんと買い物中っかもしれないと思うと、電話できなかった。
はぁ・・・なんか、もうちょっとワガママになれたらなぁ・・・そう、聖さまの半分ぐらいでいいから。
そんな私の独り言に乃梨子ちゃんもSRGも笑う。
「聖の半分ぐらい祐巳ちゃんがワガママになって聖がもう少しワガママじゃなくなったら最高なのにね!」
「確かに」
聖さま、言われたい放題ですよ!でも・・・それはほんと、そう思う。だからって、嫌いな訳じゃ・・・ないんだけどね!
聖さまのワガママは、私や皆を思ってのワガママだって・・・知ってるから。
それを表に出さない聖さまはやっぱり損してると思うけど、でもそれが・・・聖さまの味なのね!きっと!
それから私達は色んな話をした。学校の事やリリアンの昔話。乃梨子ちゃんとSRGがいた頃とじゃ随分違ってて面白かった。
やがて夜も更けて私はSRGが送ってくれることに・・・なった。
車の中で話したのは他愛もない話だったけど、家いついてサヨナラするときにSRGが小さくウインクして、内緒よ、って呟いた。
「実はね、最近私が祐巳ちゃんの傍にずっと居たのはね、聖に頼まれたからなの」
「聖さまに!?な、何を頼まれたんです?」
まさか・・・私が浮気しないように見張っとけとかそんな事頼んだんじゃ・・・不安になってそう聞いた私に、SRGは笑っていう。
「祐巳ちゃんがね、自分の居ない間に泣かないように、寂しくないように少しでもいいから構ってやってください、ってね、
頼まれたの。あ!でも、今夜の事は私の独断で決めた事だから誤解しないでね?
私も蓉子ちゃんが居なくて寂しいから、二人を呼んだのよ」
「そう・・・だったんですか・・・」
私は泣きそうになった。私は蓉子さまに聖さまが浮気しないように!って言ったけど・・・、
聖さまは私が泣かないようにって頼んでくれてたんだって分かって、胸がギュって締め付けられそうだった。
「でもね祐巳ちゃん。私は聖にそんな事頼まれなくても祐巳ちゃんの傍に居るつもりだったのよ、本当は」
「・・・え?」
「だって、聖の大事にしてる子が泣いたりするのはやっぱり嫌だからね!」
それだけ言って、SRGはもう一度ウインクしてそのまま行ってしまった。サヨナラも聞かずに。
私は・・・なんて自己中なんだろう。多分、聖さまよりもずっとずっとワガママだ。
聖さまは逢えなくても遠くからでも私を大事にしてくれてる。私は・・・どうだろう?大事に想ってるけど・・・大事にしてるかな?
私が出来ることって一体なんだろう?私は・・・もしかすると守られてばっかりだったのかな?
そんな風に考えると、涙が溢れてきた。聖さまが好き。それは間違いないし疑いようもない。
私・・・聖さまみたいに誰かを・・・愛したい。私は・・・聖さまを好きって気持ちじゃ、絶対に誰にも・・・負けてないから。
第百三十一話『言いたくて、言えなくて』
昨日夜中に聖さまから電話があった。でも私は枕元に電話を置いておいたおかげで聖さまからの電話を逃すことはなくて。
こんな夜中に非常識な!とか、普段の私なら思ってたかもしれない。
でも・・・今の私ならきっと、どんなに非常識な時間に電話がかかってきても、きっと怒らないと思うの。
だってね、こんなにも長い間聖さまと離れるの・・・付き合いだしてから初めてだったから・・・。
今日も私はまた枕元に携帯を置いてある。今日は確か、聖さまは静さまと会うって言ってたっけ。
そんな事を考えながら鳴らない携帯をしばらく握り締めてたんだけど、ただでさえ欲求不満だった私はなかなか眠れなくて、
聖さまの枕に顔を埋めてたんだ。聖さまの枕には聖さまがいっつも使うシャンプーの匂いとかが染み付いてて、
最近じゃ寂しいから私もそのシャンプーを使ってるだなんて知ったら・・・聖さまなんて言うだろう?
きっと、私の使うんならちゃんと買い足しておいてよね!・・・とか言うんだろうなぁ・・・はぁぁ。
「うぅ・・・聖さまぁ・・・ぐすっ」
涙を堪える代わりに鼻水が垂れてくる。ああ、今聖さまが居なくて本当に良かった。
こんな私を見たら絶対絶対バカにするに決まってるんだから!でもね・・・そんな聖さまでもいいから逢いたくて・・・。
何となく聖さまのがいつも寝てる方の引き出しを開けてみたりとかして。
「・・・ん?なに、これ・・・」
私はその引き出しの中に入っていた一冊の本を取り出した。
聖さまの引き出しには眼鏡と文庫本の他には何も入っていない。後はこの本だけ・・・でも・・・こ、これって・・・。
私はこの本を知っていた。確か一週間ほど前の事、聖さまはげんなりした様子で保健室に来て言ったのだ。
『はぁぁ』
『どうしたんです?』
『ああ、それがね。お姉さまにこんなもの借りちゃって・・・ていうか、無理矢理押し付けられたんだけど!
どうしろってのよ、こんなのをさぁ』
そう言って聖さまが見せてくれたのは・・・思いっきりエロ本だった。ていうか、エッチのレクチャー本?
固まる私を見て聖さまは苦笑いしてたんだけど・・・聖さままだ返してなかったんだ・・・。
案外私が寝た後とかにこっそり読んだりとかしてたんじゃ・・・そう思った私は思い切って一ページ目をめくって・・・慌てて閉じた。
「ふぉわぁぁぁぁ・・・ど、ど、いや、だ、ダメよ、祐巳!み、見ちゃダメ!!」
そして本をそっと引き出しに返す私。だ、だって!い、一ページ目から既に始まってるんだもん!事が!!
そりゃ閉じるよ!つか、聖さま!!早く返しておいてよっ!!!そして私は頭から毛布を被ると、枕に顔を埋めた。
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「・・・へぇ・・・すごーい・・・あっ!コレそう言えばされた事あるような・・・ないような・・・」
私は本をペラリとめくると、食い入るように必要以上に詳しく書かれてある絵を見つめながら溜息を漏らした。
え?何見てるのかって?そ、そりゃ・・・あの・・・さ、さっきの本?なんだけど!だ、だって!どうしても気になったんだもん!!!
ああ、誰に言い訳してるのか最早分からない。それにしても聖さま・・・どうしてこんなのをあんなにも淡々と読めるんだろう。
あの人の何が凄いって、こういう本をさ、公共の場でも普通に読めるってとこだと思うの。
いや、実際にこんなの読んでるのかどうかは知らないけど、多分普通に顔色一つ変えずに読めると思うんだよね。
私なんてさ、絶対に顔に出ちゃう。これは間違いない。だってまず絶対どもっちゃうし。
それにしても・・・私は一枚一枚ページをめくりながら大きなため息を落とした。
何だかさ、こんなの読んでると余計に聖さまに逢いたくなっちゃう。
今まではね、こんなにも聖さまと離れた事なんて無かったし、こんなにも触られなかった事なんてなかったの。
だからかな・・・こんなにも・・・切なくて何だかモヤモヤするのは。
聖さまの顔とか思い出すだけでさ・・・私は枕元に置いてあった手帳(学校から持って帰ってきてるんだ!)
を開いて聖さまの高校時代の写真を眺めてその写真にそっとキスを落とした・・・と、その時だった。
突然胸がキュンってしたんだよね・・・それから、なんとも言えないあのドロリとした感覚・・・ま、まさか・・・。
私は慌てて下着の上からそこを確かめて・・・あぁ・・・私って・・・変態なのかも・・・。
「もうやだぁ・・・聖さまぁ・・・」
多分原因はあの本だと思う。これは間違いない。でも・・・こんなの初めてだった。
まさか写真にキスしただけで・・・その・・・濡れるなんて!どれだけ・・・どれだけ私は聖さまが好きなんだろう?
ていうか、どれだけ私ってば聖さまとのエッチが好きなんだろう!?もうね、自分は嫌になる!
今までさ、聖さまに逢うまではこんな気持ちってあんまりなかったのよ。どっちかって言えば、
そういう行為は無くても平気だとすら思ってて・・・それなのに今は・・・5日触れられないだけでこんなになって。
一旦そういうのを自覚してしまうと、もう無視出来ない。聖さまの事考えるだけで私の中から次から次へと溢れてくる液体。
「うぅ・・・どうしたらいいの・・・?」
胸とか苦しいし、奥は溶けそうなほど熱い。そっと触れた一番な敏感な場所はもうすっかり大きくなってて、
ほんの少し触れただけなのに身体がピクンって反応した。あぁ・・・もう!聖さま、助けてよ!!
でもいくら呼んだって聖さまは帰って来ないし、電話する訳にもいかないし・・・。
ましてやこんな風になってる私を知られたくないし!もうこれ以上大変な事にならないように足の付け根に力を入れても、
それが余計に一番敏感な場所を刺激するばかり。もうどうしていいか分からなかった。気がつけば私は・・・泣いていた。
その時だった。突然枕元の電話が鳴ったのだ。ど、どうしよう!?よりによってこんな時に!!!
でも出ない訳にはいかないし・・・だから私はとりあえず震える手で電話に手を伸ばした。
「も・・・もしもし」
『おー、まだ起きてたんだ?ていうか、早く寝なきゃダメじゃん』
元気そうな聖さまの声・・・や、やだ・・・声が近くて余計にドキドキする・・・そう思ったらもうダメ。
また私は足にギュって力を込めた。生暖かい感触を太ももに感じる。私がそんな事になってるなんて知らない聖さまは、
いつもの調子で喋るんだけど、生憎私の耳には何も入ってこない。
と、とりあえずお手洗いに行くなり、お風呂に行くなりして下着を穿き替えたい所だけど、でも電話中じゃそれも出来なくて。
そんな私のおかしな雰囲気に聖さまは気づいたんだと思う。
『祐巳ちゃん、どうしたの?なんかあった?』
「い・・・いえ・・・そういう訳では・・・その・・・ないんですけど」
『そーう?なんか元気なくない?』
あなたの声のせいで濡れるんです、なんて言える訳がない!!ていうか・・・も・・・ダメ・・・。身体が・・・熱いよ・・・聖さま・・・。
「っふ・・・ん・・・」
思わず漏れた甘い声・・・私はそれに気付いて慌てて両手で口を塞いだ。
ヤ・・・ヤバイ!!どうしよう?絶対今の・・・聞かれた・・・よね?恐々聖さまの反応を待つ私に、ようやく聖さまの声が届いた。
『・・・何、今の声・・・まさか・・・今誰かと居る訳?』
冷静で冷たい声に、私の身体は震えた。どうしよう・・・聖さまってば変な誤解してる。
私が誰かと浮気してると・・・思ってるんだ・・・。でも、そうじゃない。むしろそれよりももっと性質が悪い。
「ち・・・違いますよ・・・一人です!」
『じゃあどうしてどもるのよ?ていうか、どうしてあんな声出す訳?』
「そ・・・それは・・・」
い・・・言えないよ・・・そんなの。黙り込んだ私に、聖さまの大きなため息が聞こえてくる。ああ、怒らせちゃった・・・。
そして決定的な聖さまの一言。
『もういいよ、それじゃあね』
がちゃん!それだけ言って乱暴に切れた電話・・・私はもうどうしていいか分からなくて電話っを握り締めたまま泣いた。
だってね、言えないよ、そんなの。どうして言えるっていうの?恥ずかしいに決まってるじゃない!!
でも聖さまが誤解する気持ちも・・・分かる。見えないんだもん。離れてるんだもん。電話だけが、声だけが頼りなんだもん。
そりゃ聖さまだって・・・不安になるよね・・・。私は思い切って聖さまに電話をかけなおした。
もう恥ずかしいとか言ってられない。それどころじゃ・・・ない。電話をかけると、しばらく誰も出なかった。
絶対聖さまは携帯を近くに置いてあるはずなのに、それでも出ないって事は、無視してるんだ・・・電話・・・。
もう切ろう・・・10回コールしても出ないんだ。そう思って電源ボタンを押そうとした矢先に、電話が繋がった。
『はい?』
怒った時の聖さまの声がする。私はその声を聞いてビクンって身体を強張らせると、大きく息を吸い込んだ。
仲直りしなきゃ。呆れられても、変態だと思われても、嫌われるよりは・・・ずっといい。
「聖さま・・・ごめんなさい。本当に私・・・今、一人なんです」
『ふーん。で?』
「さっきの声は・・・その・・・せ、聖さまの・・・聖さまの引き出しにあった本が・・・だから、写真にキスしてその・・・」
ああもう・・・国語力ゼロだ、私。案の定聖さまから何の返事も返ってこない。その代わり聞こえてきたのは大きな溜息。
「だから!聖さまの引き出しにあった本を読んだら、眠れなくなちゃって!それで聖さまの写真にキスしたら・・・余計にその・・・」
濡れちゃって・・・とは、流石に言えなかった。だって・・・どう考えても恥ずかしすぎるよっ!!
でも、聖さまはやっぱり聖さまだった。
『だから何?私の写真にキスして、どうしたのよ?』
意地でも言わせるつもりなんだろう、私に。もしかしたら今聖さまは笑ってるかもしれない。
電話だから生憎それは分からないけど・・・絶対面白がってる!!
「だから・・・その・・・もう!!聖さまのバカっ!!どうしてあんな本置いとくんですか!!!!」
『それは私のせいじゃないでしょ?だって、勝手に祐巳ちゃんが読んだんじゃない』
「そ・・・それはそうですけど・・・」
『で、どうだった?感想は?ていうか、私に何か言いたい事あるんじゃない?』
ど・・・どうしてそれを・・・。相変わらず意地悪な聖さまの声。私の中の熱なまだ全然冷めない。
それどころかどんどん熱くなって・・・もうシーツまで濡れてる。我慢出来ない・・・なんて、思っちゃったんだ・・・情けないけど。
「聖さまぁ・・・私・・・聖さまに・・・逢いたい・・・触って・・・欲しいの・・・」
・・聖さまは無言だった。でも・・・私はそれでも十分だった。だって、ちゃんと思ってる事・・・言えたもの。
しばらくの沈黙の後、ようやく聖さまの声が聞こえてきた。ほんの少しの笑い声と一緒に。
『はい、よく言えました。いいよ、結果的には祐巳ちゃんが一人でする事になるけど、それでよければお相手するけど?』
「・・・は?」
い、今・・・何て言いました?ていうか、な、何をお相手してくれるっていうの?聖さまの言ってる意味が分からなくて、
思わず私はそう聞き返してしまった。
『だから、祐巳ちゃんが一人でするのを私がリードしてあげるって言ってるの』
「・・・わ、私が一人で!?」
『そう。だって、私まだイタリアだし』
そ・・・そりゃそうだけど・・・で、でも・・・私はゴクリと息を飲んだ。ど、どうしよう・・・そんなのって・・・アリなのかな?
でも私の心とは裏腹に、身体は正直で・・・それを聞いた途端、また私の中から愛液が溢れだした。
そんな私を察してたみたいに、聖さまが囁く。
『もう我慢出来ないんでしょ?ほら、だってもうこんなじゃない』
まるで見てるかのように言う聖さまの声はとても妖艶。だから私は泣きたくなった。
もう!どうして聖さまイタリアなんかに居るのよ?どうしてまるでいつもみたいにそんな事言うのよ!?
そんな事言われたら私は・・・どうすればいいのよ・・・。
第百三十二話『電話で○○○』
私はさっきからずっと笑いが止まらなかった。別に何かがおかしくて笑ってるんじゃなくて、嬉しくて笑ってるんだ。
「祐巳ちゃん可愛いね。ねぇ、祐巳ちゃんの手は私の右手。だから私の言った通りに動かしてね。いい?』
『う・・・は・・・い』
ああもう!何て可愛いんだろう?ていうか、どうしてこんなにも素直なんだろう!祐巳ちゃんの声は震えてて、凄く恥ずかしそう。
でも荒い息遣いが妙に艶かしい。
「まずは胸ね。どうすれば一番気持ちいい?いっつも私がやってるみたいに触ってみてよ」
ちょっと躊躇ったような空気が痛いほど伝わってくる。でも、しばらくの沈黙の後聞こえた甘い声。
『ん・・・ぁ・・・』
「どう?気持ちいい?案外ドキドキするでしょ?」
ていうか、私がドキドキする。はっきり言って私もこんなの初めてだし。多分終わる頃には私も濡れてるんだろうなぁ・・・。
また一人でしなきゃかも・・・そんな事考えながら次の指示を考える私の耳に届くのは、祐巳ちゃんの喘ぎ声だけで。
『あ・・・ん・・・せ・・・さまぁ・・・』
「そのままなぞるみたいにして指、祐巳ちゃんの一番感じるところに持ってって」
『あ・・・で、でも・・・』
「でも、何?」
『下着・・・は?』
「下着はまだ脱がないで。その上からゆっくり触るの」
『ん・・・ふぁ・・・ぁあん』
どうやら指先は下着の上から一番敏感な場所に辿り着いたらしく、祐巳ちゃんの声が更に大きくなった。
それに伴って息遣いがどんどん荒くなってくるのが分かる。やば・・・ど、どうしよう・・・私までなんか・・・。
いや、でも今は祐巳ちゃんの相手するのが先決だよね。
そう思った私は必死になって脳内のいやらしい祐巳ちゃんを追い払った。
「さて、そろそろいいかな・・・下着脱いで、ゆっくり・・・まずは中指を入れて動かして。初めはゆっくり・・・ね」
『は・・・い・・・あッ!・・・んぅ・・・っく・・・』
うーーーーわーーーーどうしよう・・・マジでヤバイ。だって・・・だって・・・お、音が聞こえるんだもん!!
居ないはずの祐巳ちゃんがすぐ近くに居るような錯覚・・・これは多分間違いじゃない。
『あ・・・せ・・・さま・・・ど・・・しよう・・・んん・・・わ、私・・・も・・・』
「えっ!?も、もう?」
ていうか、早くない?私は耳元で聞こえる水音と祐巳ちゃんの喘ぎ声にドギマギしながら慌てて次の指示を考えてたんだけど。
『だって・・・ずっと・・・ァん・・・がま・・・んんっ・・・して・・・た・・・から・・・・っはぁ・・・あん・・・』
この言葉を聞いて私は覚悟を決めた。祐巳ちゃんが苦しそうにそんな事言うもんだから、私はもう切なくてどうしようもなくて。
あの広い部屋で今祐巳ちゃんは私の声を頼りに自分を慰めてるんだって思ったら、凄く哀しくて。
喧嘩した訳でもないのに離れ離れになってさ、挙句の果てにずっと我慢してただなんて、切なすぎるよ・・・そんなの。
「分かった。じゃあ電話置いて、左手でさっきのとこ触って・・・私にちゃんと声・・・聞かせて?」
『ん・・・でも・・・はずかし・・・』
いや、ていうか今更恥ずかしいとかさぁ!思わず笑ってしまった私の声は祐巳ちゃんの喘ぎ声に掻き消された。
だから私は目を閉じて祐巳ちゃんの姿を思い浮かべてただ声を・・・その声を聞いていた。
次第に大きくなる水音が余計に私を熱くさせる。
『あ・・・んん・・・っくぅ・・・ふぁ・・・あッ、あん、はっ、あ・・・あっ!やっ・・・あぁぁぁぁぁぁぁん・・・はぁ・・・せ・・・さまぁ・・・っふ・・・』
祐巳ちゃんは、大抵イク時に私の名前を呼ぶ。何のためらいもなく、私を呼ぶ。余韻のような甘い声が時々聞こえるけど、
それよりも私は今、祐巳ちゃんがどんな顔してるのかが気になった。だって・・・泣いてたりしてたら・・・どうしようって、
切なくて悲しくて寂しくて泣いてたら・・・どうしようって思ったんだ。
「祐巳・・・ちゃん?おーい・・・」
電話口から何も聞こえない。いや、祐巳ちゃんの息遣いは聞こえるんだけど、それ以外何も聞こえない。
多分まだ電話は下に置いてあるんだろう。イッたあとの祐巳ちゃんは動かないからなぁ・・・。
そんな事考えてたんだけど、意外にすぐに祐巳ちゃんが電話に戻ってきた。とても・・・恥ずかしそうに。
『あ・・・あの・・・わ、我に返るとコレ・・・相当・・・恥ずかしい・・・ですね・・・』
って。そりゃそうだよ!そんな祐巳ちゃんの感想に、思わず私は笑ってしまった。だって、心配して損したよ、ほんとに。
「でも、なかなかいいでしょ?ていうか、少しはスッキりした?」
『う・・・は・・・い。まぁ・・・でも・・・』
「でも?」
『やっぱり・・・聖さまの方が上手。早く・・・逢いたいです・・・』
「それは・・・私の手に?それとも私に?」
何かさ・・・あんまり褒められてる気がしないんだけど・・・ていうか、複雑だわ、その感想。
でも祐巳ちゃんは私の質問に拗ねたように呟いた。
『そんなの・・・聖さまに決まってるでしょ!』
ああ、良かった。そう言ってもらえてホッとした。でもこんな事言ったらまた祐巳ちゃん怒るだろうからいわないけど。
でもさ・・・なんかさ・・・私は電話越しに祐巳ちゃんに言った。正直に。
だって・・・あんな声聞いたら、私だってもう・・・我慢出来ないよ。
「ねぇ、祐巳ちゃん、もっかいしない?」
私の質問に祐巳ちゃんの沈黙・・・何となく、何考えてんのか分かるんだけど・・・。
『マ・・・マジですか?』
「マジです。ていうか、祐巳ちゃんばっかズルイ!私だってドキドキしたい!」
冗談混じりに言ってるけど、結構本音なんだよね。だって・・・やっぱどうせするんなら私だって一緒に・・・したいよ。
そんな私のワガママに、案外祐巳ちゃんはあっさり乗ってくれた。
『いい・・・ですよ・・・でも・・・』
「でも?」
『次は聖さまも一緒に・・・するんですよね?蓋開けたら私だけだったってオチは・・・嫌ですからね?』
・・そんなオチ考えてもみなかったよ・・・祐巳ちゃん。ていうかさ、ほんと、疑り深くなったよね。
まぁ、そんなとこも可愛いんだけど。思わず笑った私に祐巳ちゃんが怒鳴る。あまりにもいつもの風景すぎて、
思わずこれが電話なんだって忘れそう。こんな風にずっと続いてくのかなぁ・・・そうだといいなぁ・・・。
いや、イタリアと日本じゃ・・・こんなにも離れてるのは・・・嫌だけど。
「大丈夫。ちゃんと私もするから。ていうか、したいの、祐巳ちゃんと。たとえ電話越しでも・・・ね」
『そう・・・ですか・・・なら・・・いいですよ・・・』
愛のあるエッチって何だろう?声を聞きたいとか、顔が見たいとか、そういう事なんだろうってずっと思ってた。
でも・・・実は違うのかもしれない。ただ求めるだけじゃなくて、ただ気持ちよくなりたいだけじゃなくて、
祐巳ちゃんと一緒に、この人だからしたいと思う事なのかな?
だから私たちはこんなにも離れてるのに我慢できなくなっちゃうのかな?
普通に考えたらさ、一週間ぐらい我慢出来るよ。でも・・・それすら出来なくなる。別にそういう気分じゃなくても、
何故か触りたくてキスしたくてどうしようもなくなる。こういうのを・・・愛っていうの?
初めはそこまで思わなかった。ただ単に祐巳ちゃんとなら上手くいきそうとか単純に思ってたけど、今は違う。
祐巳ちゃんとじゃなきゃ、上手くいきそうにない。何でも。それこそエッチでも、普段の生活でも何でも。
私・・・こんなにも祐巳ちゃんの事・・・好きだったんだな・・・大丈夫なのかな、この先・・・。
何だか先の事を想像して心配になってきちゃったよ。
・・・でも、祐巳ちゃんは本当は私がこんなにも祐巳ちゃんの事好きだなんて・・・知らないんだろうなぁ。
「ねぇ祐巳ちゃん、私の事・・・好き?」
突然の私の問いに、祐巳ちゃんは案の定言葉を詰まらせた。そしてはにかんだような笑い声が聞こえたかと思うと・・・。
『あったりまえじゃないですか・・・好きじゃなきゃこんな事・・・出来ませんよ!』
「そりゃそうか。だって、相当恥ずかしいもんね」
『ほんとに・・・どれだけ恥ずかしいか・・・でも、聖さまと一緒なら・・・別にいいかも』
「・・・そうなの?」
嬉しい事言ってくれるじゃない!でも・・・喜んだ私に返ってきた答えはあまりにも切なかった。
『だって・・・聖さまもするんなら私の事考える余裕なんてないでしょ?』
・・だって。言っちゃなんだけど、私は祐巳ちゃんと違ってそっちにばっか夢中になんてなんないんです!
だからちゃんと声だって聞けるし、顔だって想像出来るんですっ!!・・・って、どれだけ言いたかった事か。
フンだ。もう知らない。今の言葉、絶対後悔させてやるんだから。私はそんな事を考えながら電話を左手に持ち替えた。
さて、祐巳ちゃん・・・覚悟は出来た?
第百三十三話『浅はかだったのね・・・今、心の底からそう思ってます』
聖さまの吐息は思ったよりもずっと艶かしかった。ていうか、耳元で聞いてるからだろうけど、ありえないぐらいドキドキする。
もしかしてさっき聖さまもこんな気分・・・味わったのかな。こんな声聞いてよく我慢できたよなぁ・・・それに感心しちゃう。
『ねぇ祐巳ちゃん・・・ちゃんと祐巳ちゃんも私に言ってね?どこを触ればいいかとか』
「え・・・ええ!?で、でも・・・そ、そんなの・・・」
どう言えっていうのよ?そんなの!!む、無理よ!!賭けてもいい。でも・・・聖さまは吐息混じりに切なそうに呟く。
『じゃあ・・・私はどうすればいいのか分かんないよ・・・』
「で・・・でも・・・」
『さっき私が言ったみたいなのでいいから、ね?』
「う・・・は・・・い・・・頑張ります。で、でも!もしも私が喋れなくなったら、その時は聖さまは自主的にお願いしますね!」
多分早いうちにそうなるだろうから、一応先に言っておこう。そんな私の言葉に聖さまは声を出して笑った。
『なによ、自主的にって。まぁいいわ。それじゃあ・・・そうね、まずは・・・座って足開いて?』
「は・・・はい・・・」
私は聖さまの言う通り足を開くと、次の指示を待った。ていうか、既にこの格好が恥ずかしい。
『で、私はどうすればいい?』
「ど・・・どうすれば・・・いいでしょう?」
『・・・私が聞いてんのよ・・・私に尋ねてどうするの・・・』
わ、わっかんないよ!そんなの!!だって、いっつもリード取るのは聖さまだし!とりあえずだから、適当にいう事にした。
「じゃ、じゃあ・・・服脱いで・・・それから・・・」
ガサガサって服脱ぐ音が聞こえて、私は妙にドキドキした。目を瞑ると、聖さまの裸を想像する事が簡単に出来る。
や・・・ヤバイ・・・どうしよう・・・これって結構・・・ううん、かなり・・・ドキドキする。
『それから?』
「そ・・・それから・・・あーーーーもうダメ!!聖さま、やっぱり私には無理ですっ!!」
私は右手で顔を覆った。もう恥ずかしくて心臓がどうにかなりそう。
そんな私の声を聞いて聖さまは不機嫌そうに・・・でも、どこかおかしそうに言った。
『もう!しょうがないなぁ・・・それじゃあ・・・さっきみたいに祐巳ちゃん胸、触って。でも、さっきよりも強く・・・ね』
「は・・・はいぃ・・・」
自分の胸を自分で触るっていうのは、どんなに恥ずかしいか。ていうか、変に緊張する。
私はいつも聖さまがするみたいに自分の胸をそっと包み込んだ。
もう私の胸の先端は硬くなっていて、ほんのちょっとした刺激にも声が漏れてしまう。
「ぁ・・・ん・・・」
そんな私の声を聞いて、聖さまは小さく笑った。そしてしばらくしたら聖さまからも甘い声が漏れて・・・。
『ん・・・っふ・・・ね、気持ちいい?』
「ん・・・」
あまりにも恥ずかしくてそれしか言えなかった。だって・・・もうダメだよ。こんなにも耳元でそんな声聞かされたら私・・・。
開いた足の間から流れる液体がシーツにシミを作ってゆく。ああ、絶対怒られそう・・・。
そんな事を考えながら私は右手を動かしていた。いつも・・・聖さまが私に触れる時みたいに。
『胸はさ、もういいよ・・・ねぇ、祐巳ちゃんの中はもう大変?』
笑い混じりにそんな事言う聖さまが憎らしい・・・でも、確かに。私の中はもう大変。さっきしたばっかりだから余計に大変。
「え・・・え・・・」
『そっか。私もそう。だからさ、指・・・入れて?』
可愛らしくそんな事言う聖さまは今、どんな顔してるんだろう?いくら目を閉じてみても想像できなくて・・・。
何だかそれが哀しかった。やっぱり・・・一緒にしたいけど、近くに・・・居たいよ。
そんな事考えながら私はそっと指を中に差し入れた。私の中はさっきよりもずっと濡れてて、熱い。
おまけにほんのちょっと動かしただけでも身体が反応しそうなほど、敏感。
「ぅぁ・・・ッ・・・ん・・・」
『ん・・・ぁ・・・』
耳元で聞こえるのは聖さまの喘ぎ声だけじゃない。聖さまが指を動かすたびに聞こえる水音までしっかりと聞こえてきて・・・。
てことは、もしかして私のも・・・聞こえてるのかなぁ?それって・・・やっぱり相当恥ずかしい!!
でも・・・とまらないよ・・・もう・・・。
「せ・・・さまぁ・・・はぁ・・・ぁ」
『・・・ん?』
「・・・やっぱり・・・逢いたいよぉ・・・んぁ・・・」
『ん・・・そ・・・だね・・・んっふ』
切ない声・・・ねぇ、聖さまもそう・・・思ってくれてる?私に逢いたいってそう・・・思ってる?
指を少しづつ早く動かすと、奥の方がキュンってする。
この感覚が何とも言えなくて、甘いような痺れるみたいな感覚に、私は・・・。
「ぁッ・・・っぅ・・・ん・・・ふぁん・・・」
『ふ・・・も・・・そろそろ・・・げん・・・んん・・・・・・かい?・・・ぁん・・・ふぁ・・・』
聖さまの声は聞こえるのに、これが電話だって事も忘れて私は必死になって頷いてた。これは聖さまの手、聖さまの手。
そう思うだけで、私はこんなになって・・・逢いたい、囁いて欲しい、触ってほしい・・・抱いて・・・欲しいよ・・・聖さま・・・。
『それじゃ・・・指・・・も・・・一本入れて・・・もっと・・・うごか・・・して・・・』
切れ切れに呟く聖さまの声はとても切なそう。今、どんな顔してるんだろう?今、何を思ってるんだろう?
私の事、考えてくれてる?ねぇ・・・聖さま・・・。
「アッんん・・・っふ・・・ぁ・・・はぁ、あっ、んん!」
頭の奥がボーっとする。指が勝手に動いちゃう。でも恥ずかしいって感覚は無くて・・・もう、何も考えられない。
もうどうでもいい。どうなってもいい。そんな考えが頭を過ぎる。私は聖さまの甘い声と音を聞きながら指を動かした。
そして・・・やってきたあの感じ・・・胸の奥が熱くなる。頭が・・・真っ白・・・一筋の光が落ちてきたみたいな感覚。
足の付け根に必死に力を入れるんだけど、でも・・・。
「せぇ・・・さまぁ・・・わ、私・・・あっんん!!!」
『ん・・・私・・・も・・・もう・・・ん・・・ぁ・・・』
最後の時を二人で待った。多分私の方がいっつも早くイッちゃうから、今日は聖さまを・・・待ったんだ。
そして・・・。
『ぁ・・・ん・・・ゆ・・・みちゃ・・・ん・・・はっ、あぁ、あっ・・・ん』
でも・・・やっぱり我慢出来なかった。やっぱり・・・私の方が・・・早かった。足の先まで力が入って、膝がガクガクする。
私は携帯を聖さまだと思って強く握り締めた。こうしてれば・・・安心だったから・・・。
「あっ、ぅ・・・せ・・・さまぁ・・・聖・・・さまぁっぁあああああああああああ・・・・」
『ぅ・・・はっ・・・ぁ・・・・ん・・・あん・・・・っぅっふ・・・あッあぁぁぁぁぁ・・・・っふ・・・はぁ、あ・・・はぁ・・・』
私達の声は重なった。多分・・・聖さまが合わせてくれたんだ・・・私に。何だかそれが嬉しかった。
離れてても、ずっと一緒だったんだってそう・・・思えたんだ。しばらく私達はお互いの息遣いだけを聞いてた。
電話越しに聞こえてくるお互いの息だけを・・・。
『はぁぁぁ・・・なんか・・・思ってたよりも恥ずかしいね』
照れたように笑う聖さまの声。やっぱり私よりもずっと立ち直りも早い。私なんてまだ放心状態なのに。
でもそんな私を無視して聖さまは話し続ける。
『でも・・・うん。なかなか良かった。面白かった。
祐巳ちゃん相変わらず私の名前呼んでくれたし。いい加減(様)も取ってくれるともっと嬉しいんだけどね』
お・・・面白かった・・・この人の神経がやっぱりよく分からない。それにしても・・・そっか、そんなにも呼び捨てしてほしいんだ。
そんな事聞いたら、今度ちょっと呼んでみようかなって気になっちゃう。でも・・・それなら私もいい加減(ちゃん)はいらない。
名前で・・・呼んで欲しいよ、聖さま・・・。
「私も・・・聖さまに名前で呼ばれたい・・・」
『・・・呼んでるじゃん。何よ、苗字がいいって事?』
いや、そうじゃなくて!どうしてそうなるのよ!?私の無言の抵抗に聖さまは、冗談だよ、って笑った。
『祐巳ちゃんが私の事呼び捨てにしたら考えてあげる』
「そう・・・ですか・・・」
そりゃ下手したら一生無理かもしんないよ、聖さま・・・。苦笑いする私に、聖さまも笑った。イタリアと日本。
ありえないぐらい遠い。時差だって8時間もある。でも・・・こんなにも近い。電話考えた人は本当に凄い。
前よりももっと尊敬しちゃう!でも、多分こんなにも近く感じるのは電話のおかげだけじゃ・・・ないと思うんだ。
「イタリアに居ても日本に居ても・・・距離なんて関係ないんですね・・・」
私の言葉に聖さまは笑うのを止めて、静に言った。
『そうだけど・・・でも・・・やっぱり近くに居たいよ』
って!聖さまがこんな事言うのって、本当に珍しくて、私は思わず泣きそうになった。でも・・・グスって鼻をすすった所で、
聖さまは思い出したようにこんな事言うもんんだからさー・・・。
『あ!忘れてたけど、ちゃんとシーツは換えといてね!そのまま寝ちゃ駄目だからね!?』
「・・・聖さまって・・・ほんと・・・」
超がつくほど潔癖症で、超がつくほど鈍いんだから!!もう!信じらんないっ!でも何故か私は・・・笑ってる。
確かに、聖さまは鈍いけど、潔癖症だけど・・・そして私はとても浅はかだけどでも・・・やっぱりこんなとこも大好きで。
「分かってますよ。ちゃんと洗濯機にかけます!」
『ならいいの。安心した。それじゃあ・・・そろそろ祐巳ちゃんは寝る時間なんじゃない?ていうか、明日学校行けるの?』
洗えとか寝ろとかさぁ・・・一体私にどうしろっていうのよ?それに何よりもとりあえず今は携帯代が気になるんですけど・・・。
だって、これて国際通話でしょ?・・・ちょ、ヤバくない!?それを聖さまに言うと、聖さまは笑った。
『今月の祐巳ちゃんの携帯代は私が持つわ。いい経験させてもらったし』
「よ・・・良かった・・・じゃなくて!ありがとうございます!」
『・・・いいえ、どういたしまして。それじゃあ・・・おやすみ?』
ちょっとだけ寂しそうに私に尋ねる声が愛しくて思わずはにかんでしまった。聖さまと居ると色んな事が体験できる。
それに色々勉強にもなる。でも何よりも・・・毎日が楽しくてしょうがない。
人を好きになるってこんな気持ちなのかな?それとも・・・聖さまにだけ?それは分からないけど、とりあえず私は・・・。
「聖さま、愛してます。大好きです。・・・だから・・・明日も電話・・・くださいね?」
私の言葉にゴホッって咽る聖さま・・・なによー何も咽なくてもいいじゃない。
『了解。それじゃあ・・・おやすみ。それと・・・愛してる・・・じゃっ!』
「は・・・い・・・切れ・・・ちゃった・・・」
私の返事も待たずに電話を切った聖さまを責めようとは思わなかった。ただなんか・・・笑いが込み上げてきて・・・。
本当に!聖さまは照れ屋ですね!でも・・・そんな所が可愛いんですけど!
第百三十四話『いい人』
いい夢見てたのに、何だか突然目の前が明るくなった。な・・・なに?もう・・・朝??
「ん・・・だ・・・れ?」
ボンヤリとした意識の中でうっすっら目を開けるとそこにあった二人の不審者・・・。
「あらやだ、起きちゃった。さ、撤収よ、蔦子ちゃん!次は志摩子ね!!」
「イエッサ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
何が何だか分からない私の目の前を不審者その1(蓉子)と不審者その2(カメラちゃん)が横切って、
そのまま部屋を出て行ってしまった・・・ていうか、どうやって私の部屋の鍵・・・開けたんだろう・・・。
そもそもどうして私の部屋に居た訳?ようやく意識がはっきりしてきて、あの二人が持っていたものを思い出ししてみた。
そう・・・それは・・・カメラ。てことは、だ。わざわざここまで寝起きを撮りに来たって・・・そういう事?
「・・・あいつら・・・」
本当にしょうもない事しいなんだから・・・と、ここでふと我に返った私は自分の格好を思い出して・・・。
「あー・・・どこまで撮られたんだろ・・・」
そう・・・昨日あのまま寝たもんだから、もちろん私は何も着てなかった。
いや、下着は穿いてたけど!でも上は・・・まぁ、素っ裸だった訳。ていうかさ、普段から私割りと裸で寝るのね?
だからこういうとことか来てもついつい脱いで寝ちゃう訳。
だってさ!まさか朝っぱらから写真撮りに来るなんて思わないじゃない!!
しかしあいつら・・・あの写真をどうするつもりなのか・・・と!まぁもういいけどね。半裸の写真ぐらい別にどうって事ないと思うし。
あ!でも、祐巳ちゃんのは別!祐巳ちゃんのは絶対に誰にも見せないし撮らせない。
「ったく。ほんと、ウチの学校は変態ばっかりだわ」
右を見ても左を見ても変態ばっかり。でも毎年毎年やってる恒例行事でもある。
毎年こうやって教師達の寝起きドッキリ写真が数枚撮られる訳だ。だから教師の方もある程度は覚悟してるみたい。
それに、絶対嫌だ!とか、何か理由があった場合は事前に申し出ておくと・・・こないらしい。
まぁ、それなら初めからそんな事すんなよ!って話なんだけど・・・でもこの写真、意外に生徒達からも受けがいいらしくて・・・。
蓉子は去年のお姉さまの写真を大量に売って、ウッハウッハしながら私たちに言った。
『やっぱりいいわね〜臨時収入って!!さて、これは全て学校への募金になる訳ですけども、一割は被写体に送られます。
で、被写体のSRGがこのお金で飲み会を催してくれるそうなので、皆さん、今夜は盛り上がりましょう!!』
でもそれを聞いてたお姉さまはその蓉子の言葉に口をポカンと開けて微かに首を傾げて居た所をみると、
・・どうやら一言もそんな事言ってなかったみたい。
てことは、完全に蓉子の独断と偏見で利用されるって訳だ、あのお金は・・・。
まぁ・・・まだ着服されないだけマシかもだけど・・・それにしたって職権乱用だよ、あれは完全に。
朝のシャワーを浴び終えて着替えた私は、時計を確認してからテレビをつけた。
ニュースはもちろん当たり前だけどほとんどイタリアの中の事件ばかりで大して興味もなくて。
でもまだ時間・・・結構あるよなぁ・・・朝ごはんまでに。今日で修学旅行も、最終日。長かったようで案外早かった。
ついこないだ祐巳ちゃんにしがみつかれて服に鼻水まで付けられてたのが、まるで昨日の事みたい。
エッチしたのもいい思い出だけど、今回の旅行で一番心に残ったのはやっぱり静だろうか。
久しぶりに静に会って思った事。それは・・・やっぱり自分に正直に生きようって事。
ずっと歌いたいと言ってた静は本当に生き生きしてて、輝いてた。綺麗に・・・なってたんだ。それに比べて私はどうだろう?
色んな事に迷っていつまでも素直になれなくて、これじゃあやっぱりダメだ。色んなものにケリをつけなきゃ。
でなきゃ・・・輝けない。祐巳ちゃんの隣に・・・居られない。学校に戻ったら、日本に戻ったら、ちゃんと問題と向き合おう。
それから・・・静にも志摩子にも言われたけど、ちゃんと祐巳ちゃんとの未来をそろそろ考えなきゃ・・・だよね。
私はだから、泣きじゃくる祐巳ちゃんを置いてイタリアに来て良かったのかもしれない。
踏ん切りがついた訳じゃないけど、少なくとも真剣に考えなきゃって気はしてきたし、
これ以上祐巳ちゃんを不安にばかりさせてらんない。そんな事考えてるうちに時間は既に8時・・・ヤバイ!!
「ご飯残ってるかな・・・」
部屋の鍵を掴んで部屋を飛び出した私と入れ違いに志摩子が戻ってくる。
「志摩子!おはよう。まだいいのあった?」
「お姉さま、おはようございます。さぁ・・・どうでしょう?多分ポルチーニ茸はもう無いかと・・・」
そう言って苦笑いする志摩子・・・ああ、蓉子がね、全部食べちゃったのね・・・まぁ別にいいけど。
とりあえず私はそろそろお味噌汁が飲みたい。ていうか、コッテコテの日本食が食べたい。
でも生憎海外に来るとそういうの・・・出ないんだよねぇ・・・。
「とりあえず早く食べて今日は買い物しなきゃ」
祐巳ちゃんに頼まれたベネツィアングラスは絶対忘れられない。他にも何か買ってってやらないとな・・・。
でなきゃあの様子だと絶対に拗ねてると思うし。他には・・・ああ、一応祐巳ちゃんちとウチの家族にも何か買っとこう。
何がいいのか全然分かんないけど・・・まぁ気は心って奴だ。
「あら、聖今日はどうするの?」
食事する所にはまだ蓉子がのんびりとデザートを食べていた。
私はその向かい側に腰を下ろすとそんな蓉子の食べた後の食器を見て苦笑いした。
「今日は買い物。ていうか蓉子、キノコ食べつくしちゃったんだって?」
「あら、失礼ね。別に私キノコばっかり食べちゃいないわよ」
「どうだか」
フンって鼻を鳴らした私に何も言い返さないところを見るとあながちそれは間違いでもないみたい。
「で、今日は買い物するの?珍しいわね、聖が買い物なんて」
「あのねぇ、何のために今日まで蓉子の買い物に付き合ってたと思ってんの?今日の買い物の為に決まってんでしょ?」
でなきゃ誰があんなキノコばっかり入った袋なんて持って歩きますかっての!
蓉子のおかげで大体店の傾向とかどこが安いとか分かったから、それは助かったけど。
それを蓉子に言ったら蓉子は苦笑いして私のトレーからスクランブルエッグをすくって食べた。
・・よくヨーグルト食べたスプーンと同じスプーンで食べれるな・・・。
なんて思いながらその光景を見ていた私に蓉子が驚いたように言った。
「こんな事しても聖が怒らない・・・これは奇跡かしら!?」
「別に・・・だって祐巳ちゃんもいっつもそうやって私の取るし・・・」
今更っていうか、そういう事でいちいち怒んのも面倒くさいっていうか。祐巳ちゃんと居て人と暮らすって事が大体分かってきた。
プライベートは大事。でも、そればっかり大事にしてたら心の中なんて分かんないし、だんだん信用出来なくなってくる。
少しでも好みを知りたいから嫌いな物でも食べるようにしたりとか、少しでも近づきたいから同じ映画を見てみたりとか。
好きな音楽とかそういう表面的なものばっかりじゃなくて、もっと内面的な所も覗いてみたいって思うのはなかなか面白い。
どこまでされたら怒るのか、どこまでなら平気なのか。そういうのが少しづつなくなればいいなと思うし、
我慢しなくてもいいようになっていきたいと思うから・・・。
「ふーん・・・祐巳ちゃんがねぇ・・・あんたたちほんとにお似合いよね。
聖は大らかな祐巳ちゃんを見習ってその神経質な性格がちょっとだけ大らかになって、
祐巳ちゃんは聖のそういう繊細な所を見習って・・・全く反対なもの同士の方が案外上手くいくのかしらね・・・」
「そうかもね。でも・・・全くの正反対って訳でもないのよ、私達は。
根っこの所が実は似てたりとか、ちょうどいい距離が私たちは似てるから上手くいくんじゃない?」
「・・・そんなもの?」
「そんなもの。ま、蓉子のそのギャップを愛してくれる人が早く見つかるといいわね」
私はそう言って家での蓉子を思い出して笑った。多分、私がどうして笑ってるかが分かってるんだろう、蓉子は。
顔を真赤にして私を睨んだ。
「なによ、いいでしょ?別に!!高校の時のジャージが一番楽なのよっ!!」
「はいはい。でもさ・・・部屋はもうちょっと片付けようね」
意外だけど蓉子が愛用してる普段着は高校の時のジャージ。しかも胸の所に『水野』ってちゃんと名前まで入ってる奴。
片付けるのが下手くそで、案外ズボラ。でも学校じゃそういうとこは絶対に見せないし、そういう素振りすら出さない。
でもさ・・・そういう蓉子をちゃんと見てくれる人ってきっと居ると思うんだ。
むしろそういうギャップがいいって人が居るかもしれないし。蓉子の場合、真実の愛とか探してたぐらいだから、
多分かなり恋愛にハマるタイプだと思うのよ。だから・・・お姉さまはちょうどいい。
あの人は綺麗好きできっと蓉子の面倒ぐらいちゃんと見てくれると・・・そう、思うのよ。
「部屋ね・・・片付けって苦手なのよね・・・あーあ・・・いい人居ないかな」
「案外・・・近くに居るんじゃない?もっと周りも見てみれば?」
「・・・聖に慰められるなんて・・・私も落ちぶれたものね・・・」
「・・・・・失礼ね・・・・・・・・」
ほんと、失礼だ。でも・・・周りをもうちょっと見てみなよ、蓉子。案外そういう人は・・・近くに居るもんだよ。
さて!そろそろ買い物いこっかな。立ち上がった私に何故か蓉子もついてくる。
「なによ・・・まさか一緒に行く気?」
「もちろん!どうせ暇だし」
「言っておくけど、今日は荷物持ちしないからね!!」
「大丈夫だって!今日は何も買わないわよ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「蓉子の・・・嘘つき・・・」
私は両手に抱えた大量の袋を抱えなおした。な〜にが、今日は買い物しないわよ!だ。聞いて呆れる。
朝食を終えた私達は、まず大通りから見て回った。二日前に目をつけてた可愛らしいグラスを買う為に。
で、それはまだあったからそれ二つ買って、それから実家と祐巳ちゃんの実家への買い物もして、
最後にもう一個祐巳ちゃんが喜びそうな綺麗なランプを買った訳よ。その間およそ1時間ぐらいかな?
で・・・それからだった。蓉子が羽を伸ばし始めたのは。
あれから既に2時間。私は蓉子の荷物と自分の荷物を抱えて今もまだ蓉子の買い物につき合わされてる訳で・・・。
「聖!あそこ行きましょ!」
「ちょっとちょっと!まだ買う気?ていうか、分かってる?私の手は蓉子と同じで二本しかついてないんだからね!?」
「やーねー、そんなの分かってるわよ!ほら、、行くわよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
全然分かってないじゃない・・・。前言撤回。お姉さま・・・蓉子と付き合うのは多分、相当体力と気力と忍耐が必要そうです!
やっと蓉子の買い物地獄から開放された時には既に夕食の時間だった。
遅くに戻ってきた私はこっぴどく学年主任に怒られ、蓉子は理事長だからお咎めナシ・・・これって絶対不公平だ・・・。
そんな事を考えながら夕食を食べて時間を確認したら、既に夜の9時。日本は今・・・完全に夜中。
それでも一応と思って祐巳ちゃんに電話したんだけど・・・10回コールした所で留守電に繋がった。
「・・・やっぱり寝てるか・・・」
私は携帯を切ってベッドに転がった。夜中なのは分かってるし、寝てて気付かないのもしょうがないと思う。
でもさ・・・何だかちょっとだけ悲しかったんだ。
何となくだけど祐巳ちゃはどれだけ寝てても私からの電話は起きてくれるような気がしてたんだよね・・・勝手な話だけど。
だから悲しいというよりは、寂しいって言うほうがしっくりくるかもしれない。
鳴らない電話ほど寂しいものは無い。繋がらない電話ほど虚しいものは無い。
でも・・・いっか。どうせ明日の夜には祐巳ちゃん本人に会えるんだから。
そう思った私は、だから電話の事なんて少しも気にかけずにそのまま眠りについた。
日本で今、祐巳ちゃんの身に何が起こってるかなんて全く知らずに・・・。
第百三十五話『不実なキス』
朝起きると何だか妙な気分だった。だって、あんなエッチ初めてだったし、おまけに聖さまの声がまだ頭から離れなくて。
凄くドキドキして、その反面無性に切なくなって。でもあれはあれでいい経験・・・だったのかもしれない。
ていうか、そうでも思わないとやってられない。私は不用意にニヤける顔を押さえつつ、学校に行く支度を始めた。
でも・・・学校についてもまだニヤけるのは収まらなくて、だから生徒達はおろか先生方にまで気味悪がられてしまって・・・。
「祐巳さん・・・朝から気持ち悪いよ・・・さては聖さまと何かあったんだな〜?」
そう聞いてきたのは勘の鋭い由乃さん。ただでさえ猫みたいな目を細めて更に意地悪に微笑んだ。
本当は黙っとこうと思ったんだけど、私はどうしても堪えられなくなってついつい由乃さんに話してしまった。
「ええええ?!で、電話でエ、エ、エッ・・・むごがっ!!!」
「由乃さん!!声が大きい!!!」
私は慌てて由乃さんの口を勢いよく塞いだ。全く・・・由乃さんったら本当にもう!でも・・・私はすっかり忘れてたんだ。
由乃さんが黄薔薇属性だったって事を。由乃さんに話した事で、昼過ぎには仲間内の教師達は皆その事を知っていた。
「ゆ、祐巳・・・ほ、本当なの?あ・・・あの・・・う、噂は・・・」
そう言って昼休みにやってきたのは祥子さま。指をフルフル震わせながらかなりの力で私の肩を掴んでそんな事を言う。
何のことだかサッパリ分からない私が首を傾げると、祥子さまは私の耳元でこっそりと囁いた。
「だから・・・あの事よ。ゆ、祐巳が聖さまとその・・・で、電話でその・・・・・・」
私はそこまで聞いてビックリして立ち上がった。多分、私の顔をみて祥子さまは何かに納得したのだろう。
ヨロリとその場に倒れこんで、涙目で私を見上げて言った。
「そう・・・本当なのね・・・ああ、私の可愛い祐巳が聖さまに・・・聖さまに・・・きぃぃぃぃぃ!!!」
「あっ!ちょ、祥子さまぁぁ!!!」
ちょっと待って!!そう言おうと思った時には既に祥子さまの姿は保健室には無かった。
それから色んな人がやってきては私に真相を尋ねに来て・・・最後、SRGが来た時には・・・。
「祐巳ちゃ〜ん!聞いたわよ〜昨日聖と電話使って遊んだんですって〜?
何でも物凄いプレイだったとかって聞いたんだけど本当?」
「で・・・電話を使って・・・?」
ちょ、何だか話がどんどん変な方向に行ってません?
ていうか、由乃さんめ〜〜〜〜〜!!!もう二度と内緒の話するもんか〜〜!!
「あら、違うの?それ聞いて今年のクリスマスプレゼントは決まったも同然だと思ったんだけど」
「・・・・・・・・・SRG・・・・・・・・・・」
一体何くれようとしたんですか・・・そもそもどうやって携帯なんて使うってのよ?ったくもう!
私はそんなSRGを保健室から追い出して、放課後の事務処理をしてたんだ。そこにやってきたのは・・・瞳子ちゃんで・・・。
ああ・・・また絶対何か怒ってる。瞳子ちゃんの顔を見て私にはそれが一瞬で理解出来た。
「祐巳さま・・・あの噂はどういう事です?
お姉さまも尋常じゃないぐらいショックがってるし・・・一体祐巳さまは誰が好きなんですかっ!?」
私は瞳子ちゃんの質問にキョトンとした。
だって・・・誰が好きって言われても、私は後にも先にも聖さま意外好きになった覚えはないし、付き合った覚えもない。
「あのー・・・瞳子ちゃん?何か・・・勘違いしてない?」
「勘違い?何がです」
「や、だからその・・・私が好きなのは・・・聖さまだけ・・・だよ?」
「嘘ですね、それは。だって、SRGとキスしたって言ってたじゃないですか!
それに、私のお姉さまがあんなにもショックがるなんてどう考えてもおかしいです!」
「いや・・・だからそれは・・・」
ああもう!どう言えばいいんだ!!多分・・・どう言ったって信じてくれそうにない。この雰囲気だと。
私は大きなため息をついて瞳子ちゃんを見上げた。私を睨み付ける瞳子ちゃんの目は完全に怒ってる。
「祐巳さまは、聖さまが好きだと言いながらSRGとキスしたり、
可南子さんとずっと一緒に居たりして・・・恥ずかしくないんですかっ!?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
SRGとキスしたのは・・・かなり不本意だけど、認めよう。でも・・・可南子ちゃんの事を責められても納得出来ない。
だって・・・私は本当に聖さまが好きで、聖さま意外じゃ考えられない訳で。それでも瞳子ちゃんは何かを誤解してて・・・。
それってやっぱり私のせいなんだと思う。私が態度でしっかりと表さなかったから・・・、
聖さまみたいに私だけを特別に扱ってくれるみたいに・・・はっきりと態度で表さなかったから・・・なんだ。
誰にでもいい顔するのは、優しいからじゃない。ただの八方美人なんだ。
あまりにもはっきりと態度に表すのは大人としてどうかと思うけど、
あまりにもその線引きが無かったら・・・やっぱり誤解される・・・よね。
私は瞳子ちゃんの目を真っ直ぐに見つけると、立ち上がってはっきりと言った。
「瞳子ちゃん。私、本当に聖さま意外の人を好きだなんて思ってないよ。そう見えたんなら謝る。でも、これだけは覚えておいて。
聖さまは私の特別な人。今までもこれからも。だから・・・本当に誤解なのよ」
その言葉に瞳子ちゃんは黙り込んだ。でもそう思ったのはほんの一瞬で・・・。
「でも!じゃあどうして好きでもないSRGとキスなんてしたんです!?あの時祐巳さまは否定しませんでしたよね?」
「あれは・・・だって・・・」
ある意味では事故。それに・・・本当にただのお礼のキスだったんだ。だから私にもSRGにも他意は全く無かった。
でもね・・・瞳子ちゃんの言う事も一理あるんだ。だって、結果としてはキスした訳だし。
それをいくら否定したって、結局言い訳にしか聞こえない。だから私はそれ以上何も・・・言えなかった。
そんな私を見て、瞳子ちゃんは静に保健室を出て行ってしまって・・・。
こうやってまた誤解の上に誤解が積み上がって行くんだと知った。
「はぁ・・・なにやってんだろ・・・」
溜息をついてベッドを振り返ってみても、そこにはいつもの常連のあの人が居ない。それだけでこんなにも寂しい。
こんな時聖さまはいっつも真っ先にやってきては私を庇ってくれた。慰めてくれた。私は・・・聖さまに守られてばっかり。
いつまで経っても・・・これじゃあダメだとは思うけど、どうすれば聖さまを守れるのか・・・分かんないよ。
ねぇ・・・皆どうやって一人で立ってられるの?どうやって誰かを守ってるの?
「なんてね・・・そんなの誰にも分かりっこないか」
答えなんて無い。多分・・・永久に。皆それぞれに大切な人を守ってるんだもん。
それに必ずしもあてはまる答えなんてある訳ない。
ただでさえ瞳子ちゃんにそんな事言われて凹んでたところにやってきたのは・・・可南子ちゃん・・・。
「失礼します」
「どーぞー」
上の空で言った私の返事に可南子ちゃんがいい顔した訳がない。でも、私だっていつでも笑ってる訳じゃない。
それに、大体何聞かれるかは予想もついてたし・・・ね。だから私は先に言っておくことにした。
「あのね、あの噂はかなり尾ひれがついてるから間に受けないでね」
でも、私の言葉に可南子ちゃんが顔を歪めた。そして俯いてボソリと言う。
「・・・じゃあ尾ひれがついてるだけで・・・真実・・・なんですか?祐巳さまは聖さまと・・・そういう事・・・してるんですか?」
「そ、そりゃ付き合ってるし・・・一応は・・・ねぇ?」
どうして私がこんなにも動揺しなくてはならないのか。ていうか!どうしてこんな事にいちいち真剣に答えてるんだ、私は!
それが恥ずかしくって俯いた私は、だから可南子ちゃんが私のすぐ目の前に居ることに全然気付かなくて。
「か・・・可南子・・・ちゃん?」
「祐巳さまは・・・私の想いには全然気付いてくれないんですね。高校の時からずっとあなただけを想ってきたのに・・・、
少しも気付いては・・・くれないんですね・・・なのに・・・聖さまとは・・・」
可南子ちゃんの言葉はそこで途切れた。そして・・・頭の中が真っ白になって、今自分が何してるのかも分からなくて・・・。
可南子ちゃんの舌が私の中に入って来てようやく、今私は可南子ちゃんとキスしてるんだって事が分かって。
「つっ!!」
「はぁっ、はぁっ・・・ど、どういうつもり!?」
私は可南子ちゃんを思い切り突き飛ばして立ち上がった。目から涙がボロボロ零れてくる。
ずっと・・・可愛い後輩だって・・・そう思ってた。私は可南子ちゃんが自分の事好きだなんて考えた事もなかった。
だから余計に・・・傷ついた。別に迷惑とかそういうんじゃない。裏切られたとか、そういうのでもない。
ただ・・・自分に腹が立ったのかも・・・しれない。あまりにも鈍感で無神経だった・・・自分に。
「私は今祐巳さまにキスしたこと、謝りませんから」
それだけ言い残して可南子ちゃんは保健室を飛び出して行った。それと入れ違いに瞳子ちゃんが入って来て、
机の下に落ちてたハンカチをそっと拾って言う。
「ね?言ったでしょう?あなたは、自分でも知らないうちにそうやって周りの人をその気にさせてるんです。
いい加減自覚したらどうです?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
何も・・・言い返せなかった。だって・・・私は誰にもそんな素振り見せてない。聖さまだけが・・・好きで、どうしようもなくて。
それなのに・・・どうしてそんな事・・・言うの?これは私の態度が招いた結果だったのかもしれない。
いつでも曖昧な態度を取ってきた私への・・・報い。私は何度も何度も口をゆすいだ。
聖さま以外の人とキスなんて、そんなの・・・嫌だった。私は聖さまとでなきゃキスしたいなんて思わない。
それ以上の事も。どんなに口をゆすいでも可南子ちゃんのキスの感触は消えない。
それどころか、罪悪感だけがどんどん募って・・・涙が次から次へと溢れてくる。
「聖さま・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・ごめっ・・・ひっく・・・うぅぅ」
その場に蹲って泣いていても誰も助けに来てなんてくれない。いいや、違う。これは私が招いた結果なんだ。
だから自分で解決・・・しなきゃ・・・いけない。その夜、私は聖さまからの電話に出ることが・・・出来なかった。
第百三十六話『涙の理由』
「ああ〜!!やっと日本だぁ〜!」
飛行機を降りて大きく伸びをしていた私の背中を誰かが小突いた。振り返るとそこには蓉子・・・。
「まだ仕事中よ。家に帰るまでが修学旅行」
「・・・へいへい」
今から生徒達を解散させて私達は学校に戻らなければならない。でもさー絶対生徒よりも教師のが疲れてると思うんだよ!
いっそ教師もここで解散にすればいいのに。でも・・・そうもいかない訳で・・・。
生徒が全員空港を出たのを見送って、私達はタクシーに乗り込んでそのまま学校へと向った。
あぁ、やっと祐巳ちゃんに逢える。一週間どうにか我慢したけど、やっと生祐巳ちゃんだ!
それを思うとどうにも嬉しくていけない。
「ふ・・・ふふふふ」
私は堪えきれずに声を出して笑ってしまった。そんな所をバッチリ蓉子に見られてて・・・。
「聖・・・学校ではイチャつくのは禁止だからね」
前もって釘をさされてしまった。ていうかさぁ、どうして蓉子はいっつもいっつも私を目の仇にするかね。
そんで、ふと前にお姉さまの言った言葉を思い出した。『蓉子ちゃんのあれはもう一種の趣味なのよ』って奴。
ああ、確かに。これはもう蓉子の趣味なんだ。私イビリ。そうに違いない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
タクシーを降りていざリリアンを目の前にすると、何だか・・・変に緊張する。
たかが一週間しか経ってないのに、どうしてこんなにもドキドキするんだろう。いや、その理由はちゃんと分かってんだけどね。
祐巳ちゃんの事が、それだけ必要だって・・・そう思ってるからだって事は。
歩くたびに買ったお土産が足に当たってガチャガチャ言う。でも・・・早く逢いたくてそんな事少しも気にならなくて。
「聖―先に職員室行ってるわよー」
「うん」
蓉子たちとは昇降口で別れた。私の行動なんて全てお見通しってことなんだろうな・・・きっと。
私は早足で真っ直ぐに保健室に向った。もうどこにも行かないよ。だから・・・どうか笑ってて。
ようやく保健室まで来た時、私は扉の前で大きく深呼吸した。まずなんて言おう?
やっぱただいま?それとも、逢いたかったっていうべき?いや何も言わずに抱きしめるのもいいかも。
私はそんな事を考えながら保健室の扉を勢いよく開けた。
「ただいま〜!」
やっぱ・・・挨拶はコレが一番。そう思ったから。でも・・・いくら待っても返事が・・・ない・・・。
おまけに保健室の中をいくら見渡しても祐巳ちゃん・・・居ない。
ど、どうして!?だって、扉には不在のプレートは出てなかったよ!?
・・・で、よく見たら・・・三つあるベッドのうちの一つのカーテンが閉まってたんだ。
「・・・まさか・・・」
私さ、空港に着いた時メール送ったのね。今からそっち帰るね、って。それなのい・・・返事が無いと思ったら・・・。
それってあんまりじゃない?今日帰ってくるのは分かってんだからさ!ちょっとは待っててよ!!
私はちょとだけ怒りながらカーテンを開けて中を覗き込んだら・・・案の定祐巳ちゃんは寝てた。でも・・・。
「・・・どうして泣いてるの?」
何か悲しい夢を見てるのか、祐巳ちゃんの頬を伝う涙。枕にまでシミが出来るほど泣いてたみたいで・・・胸がキュンってした。
笑っててって願ったけど、それは叶わなかった。それどころか、現在進行形で泣いてるなんて。
ねぇ・・・そんなに寂しかったの?それとも、何か嫌なことでもあったの?私はそっと祐巳ちゃんの肩を揺さぶった。
「んー・・・やめ・・・てよ・・・」
「祐巳ちゃん?どうしたの?祐巳ちゃんってば!」
一体何の夢を見てるのか、祐巳ちゃんは私の手を払いのけた。
それが何だか凄くショックで・・・さっきよりもずっと乱暴に肩を揺さぶったら、ようやく祐巳ちゃんがうっすらと目を開けた。
そして私の顔をマジマジと見つめ、また涙が溢れ出して・・・。
「せ・・・さま?・・・ほん・・・もの・・・?」
「それ以外に何に見える?」
本当は感動のご対面になるはずだったのにな。こうさ、私を待ってた祐巳ちゃんがブワーって抱きついてきてさ、
私はそれを派手に受け止めるわけ・・・って、ダメだ!ダメだ!これじゃあ祐巳ちゃんの妄想癖と変わらないじゃない!!
ゆっくりと祐巳ちゃんを抱き起こすと、まるで思い出したみたいに私に抱きついて・・・祐巳ちゃんは泣き出した。
「聖さまっ!聖さまっっ!ごめっなさい・・・ごめ・・・なさ・・・」
「祐巳・・・ちゃん?」
すがり付いてきてこんな風に泣くなんて、一体何があったんだろう?ていうか、どうしてそんなにも謝るの?
訳が分からない私はただ泣きじゃくる祐巳ちゃんの背中をさする事しか出来なくて。
本当はこんな風に逢いたかった訳じゃないのに、とか考えてて。
「どうして泣いてるの?ていうか、何で謝んの?」
「うっ・・・ひっく・・・ごめ・・・なさい・・・」
理由も言わずただ謝り続ける祐巳ちゃん。一体何がどうなっているのかサッパリ分からないよ、それじゃ。
どれぐらい祐巳ちゃんはそうやって泣いてただろう?
やっと泣き止んだ祐巳ちゃんはそれでも私に抱きついたまま離れようとしない。
「ねぇ・・・いい加減苦しいんだけど・・・」
「・・・もうちょっと・・・だけでいいですから・・・」
ていうか、胸がね・・・熱いのよ、祐巳ちゃんの息でさ。
だから私は無理矢理祐巳ちゃんの顔を持ち上げて、ようやくまともに祐巳ちゃんと目を合わせた。
「一体何があったの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
またダンマリ・・・一体何だってのよ、もう!
私はそんな意味不明な祐巳ちゃんの顎にそっと手を添えて、一週間ぶりのキスを・・・しようとしたんだ・・・でも・・・。
「やっ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
思いっきり拒否された・・・こんなの・・・初めてだった・・・。昨日と今日の間に、一体何が・・・あったっていうの?
私はギュって目を瞑った祐巳ちゃんをただ呆然と見詰めていた。私の事を嫌いに・・・なったの?
でも、その割には私に抱きついてくるし・・・。私はそんな祐巳ちゃんの身体をそっと離すと、立ち上がって、
入り口に置きっぱなしにしてたお土産の中からグラスの入った袋を祐巳ちゃんに手渡した。
「・・・これ・・・」
「約束のお土産。ちゃんとお揃いにしたよ」
少しでも気分を紛らわせたかったのかもしれない。嫌な現実からただ逃げたかったのかも。
渡した袋を握り締めたまま祐巳ちゃんは私を見上げてて、それが何だか凄く・・・哀しくて。
「開けないの?」
「開けても・・・いいんですか?」
「もちろん」
そう言って私は微笑んだ。でも・・・笑えた・・・かな?ちゃんといつもみたいに笑えたかな?何だか不安になった。
だって・・・私の顔を見ても、祐巳ちゃんはピクリとも笑わなかったから。ゆっくりと丁寧に包みを剥がす祐巳ちゃん。
私はそんな祐巳ちゃんの仕草を見ながら、さっきのキスの事を必死になって忘れようとしてた。
やがて包みを開けて中身を取り出した祐巳ちゃんの顔が、一瞬だけど輝いた。グラスも光ってるけど、それよりもずっと綺麗に。
「気に入った?」
「はいっ!はいっっ!!綺麗・・・凄く・・・きれ・・・」
最後の方は聞こえなかった。また・・・泣き出したんだ・・・。何だか堪らなくなった私は祐巳ちゃんをギュって抱きしめた。
「せ・・・さま?」
「何が・・・あったの?私の居ない間に・・・なにが・・・」
それだけ言うのがやっとだった。どうしてキスしてくれなかったの?って・・・聞けなかった。
答えを知るのが・・・きっと怖かったんだ。長い長い一週間。今日で終わりだと、もうずっと一緒だと、そう思ってた。
嬉しくて、今日の晩御飯は前から祐巳ちゃんが言ってた回らないお寿司屋さんに行こうとか思ってた。
帰ってきたらまずキスして、一週間分のキスをしてそれから・・・。
でも・・・全部壊れちゃった。祐巳ちゃんは何も教えてくれない。どうして私を拒んだのかも分からない。
昨日までは何とも無かったのに、どうして?どうして・・・突然・・・?私の事、もう嫌になった?
嫌われるのが、これほど怖いと思った事はない。初めは嫌われたかった。そして出て行ってほしかった。
でもそれはもう昔の事で、今は違う。他の誰に嫌われても・・・祐巳ちゃんにだけは嫌われたくないのに。
私は祐巳ちゃんを抱きしめたまま、泣けない自分を・・・恨んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
家に帰ると、リビングは凄く綺麗で、まるで私が居たみたいに片付いてて、でも祐巳ちゃんの部屋は物凄く散らかってて、
まるで暴れたみたいに物が散乱してて。ベッドは私の枕と祐巳ちゃんの枕が綺麗に並んでた。
でも、やっぱり寂しかったんだと思う。何故か私の枕の下から私の高校時代の写真が出てきたから。
それを見つけてしまった事は、祐巳ちゃんには内緒にしておこう。だって、多分これは祐巳ちゃんの秘密の品だろうし。
ところで、家に帰ってからも祐巳ちゃんはほんの僅かな時間さえ私から離れようとはしなかった。
「どこ行くんですか?」
「キッチンだけど・・・」
「聖さま?どこに・・・」
「お手洗いだってば!」
「聖さま・・・」
「お風呂だよ!一体どうしたの!?」
こんなやりとりをどれぐらいしただろう。結局寝るまでずっと祐巳ちゃんは私の後をついてきていた。ベッドに入るまでずっと。
ベッドに入ると、すぐさま私にしがみついて来て、少しでも身体がくっつくように努力してる祐巳ちゃんが可愛くて・・・。
「なぁに?そんなに寂しかったの?」
私の質問に祐巳ちゃんはコクンって頷くだけで、それ以上は何も話そうとはしない。
「ねぇ、そろそろ話してくれない?」
でも・・・この質問には・・・祐巳ちゃんは首を振るだけ。
仕方ないから私はそのまま祐巳ちゃんを抱きしめてそのまま押し倒した。もう逃げられないように。
「キス・・・してもいい?」
「・・・だ・・・め・・・です」
「どうして?私一週間ずっと我慢してきたんだけど?」
「そ・・・それは・・・私もですけど・・・でも・・・」
そう言う祐巳ちゃんの目は潤んでた。切なそうに、でも悲しそうに。
そっと押さえつけてた手を離すと、祐巳ちゃんはその手で口元を覆って声を出して泣き出した。
「どうしてキス・・・してくれないの?」
「だって・・・だって・・・理由なんて・・・言えないっ・・・言ったらせ・・・さま・・・怒・・・る・・・」
いや、言わなくても怒るよ、こんなの。でも泣いてる子相手にそんな事言えなかった。だから私はせめて聞いた。
一番不安だった事を。
「私の事・・・嫌いになった?」
私の馬鹿げた質問に、祐巳ちゃんは大きく目を見開いた。そして私の胸をドンドン叩く。声を殺して、涙を流しながら。
「嫌いになんて・・・なれる訳ないのにっ!ど・・・して・・・そんな事・・・」
「じゃあどうしてキス出来ないの?理由も教えてくれないのに、不安にならない訳・・・ないじゃない」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
祐巳ちゃんは黙り込んだ。何かを訴えるような目を私に向けて。そんな目で見られても・・・私にどうしろっていうのよ?
黙って何も言わずに、キスを拒まれたままずっとこのままで居ろって事?
そんなの・・・嫌だよ。キスも出来ない関係なんて・・・そんなの・・・。
「分かった。それなら私が自分で勝手に祐巳ちゃんがキス出来ない理由を探すわ。それなら文句ないんでしょ!?」
「だ、ダメ!!絶対に・・・ダメ・・・」
「じゃあどうしろっていうの!?このまま一生祐巳ちゃんとキスするなって事?!」
とうとう私は叫んでしまった。そんな私を見て祐巳ちゃんは怯えたみたいに震える。仲直りがしたいのに、どうしても出来なくて。
優しくしなきゃって思うんだけど、でもやっぱり優しくなんてなれなくて・・・どうすればいい?
ねぇ、こんな時・・・どうすればいいの?その日、私達は抱き合って眠った。少しでも傍に居られるように。
心は上手く繋がらない。でも・・・身体だけでもせめて、近くに居たかった。
サイドストーリー『痛みと言う秘密』
祐巳さまにキスをした事、私は全然悪いことをしただなんて思ってない。
ずっとずっと好きで、でも今まで少しも私の想いは伝わらなくて。
やっと伝えようって決心出来たのに、あの人にはもう既に大切な人が居たなんて、まるで使い古した恋愛映画みたいな展開。
でも映画ならまだいい。大抵はハッピーエンドに終わるのだから。でも私の場合は・・・。
あのキスから一週間。祐巳さまはただの一度も私と目を合わせてくれなかった。
話しかけようとしても、何か理由をつけてすぐどこかへ行ってしまう。そして何故か・・・聖さまとも最近一緒に居なかった。
行きも帰りも一緒だけど、毎日見てたあの幸せそうな雰囲気は無い。
これはチャンスなんだろうか?それとも、ここに付け入ろうとする私は・・・最低なのだろうか。
どちらにしても、私にチャンスなど無かった。ただの一度も。友達でもいい、なんてそんな風に思った事なんてない。
だって、誰かをこんな風に想う日が来るなんて私ですら想像してなかったんだから。
結局しばらく様子を見てたけど、あの二人は喧嘩をしてる訳でもなさそうで、かと言って今までどおりでもない。
でも・・・そこに私が付け入る隙なんて全く無くて、二人ともがただ、お互いの事ばかりを考えているようで・・・。
端っから私は祐巳さまにも聖さまにも相手にされてなかったんだと思い知った。いくら私があの二人の仲をかき回そうとしても、
いくら聖さまから祐巳さまを奪おうとしても、あの二人は他の誰も見てなど居ない。
「・・・こんなの・・・こんなのあんまりだ・・・」
校舎の裏で落ちていた石ころを蹴っても、少しも気が紛れない。それどころか蹴った石ころが今の自分と重なって見えて。
いつだって輪の中からはじき出されて、ようやく手を差し延べてくれた人にすら見放されて。
挙句の果てに・・・嫌われて。でも、後悔はしてない。祐巳さまとキスした事を、だから聖さまに謝るつもりもない。
「あら、誰かと思えば可南子ちゃんじゃありませんか」
出た・・・この人だけはどうにも苦手だ。いや、苦手というよりは、むしろ嫌いと言ってもいい。
私は瞳子さんを睨んでその場から去ろうと思ったけど、瞳子さんはそれをさせてはくれない。
「逃げるの?このまま、祐巳さまに嫌われたままであなた、逃げるの?」
瞳子さんはやけに滑舌よくそんな事を言う。私は、この人にこんな事を言われる筋合いはない。
「逃げるですって?私は何もしてないのに、どうして逃げると思うのか分からないんですが」
「あら、してたじゃない。祐巳さまとキス」
「っ!!」
見られてた・・・まさか瞳子さんに見られてたなんてっ・・・そんな・・・あれは、あのキスは私と祐巳さまの秘密になるはずだった。
きっと祐巳さまの中で二度と消えない、私の記憶になればいい。
祐巳さまはきっと誰かに言わないだろうし、ましてや聖さまになど言えるはずが無い。
だから、あれは私と祐巳さまの二人だけの・・・秘密の傷になるはずだったのに・・・。
ガックリと膝から力が抜けてゆく。砂利の上に手をついて、その地面の冷たさを呪った。
「どうして・・・あなたはそうやって・・・私の邪魔ばかり・・・」
「あら、失礼ですわね。私がいつ可南子さんの邪魔をしました?
私はただ、あいつまでも煮え切らないあなたの背中を押してあげただけですわ」
嫌味っぽく笑う瞳子さんの顔を見て、私は息を飲んだ。どうして・・・あなたがそんな顔・・・するのよ・・・。
瞳子さんは口調とは裏腹に泣きそうな、怒ってるような不思議な顔をしていた。その表情が一体何を意味するのか分からない。
でも、少なくとも今はそんな顔ですら疎ましくて。私は立ち上がって瞳子さんの正面に立った。
「な、なんですの?」
「人の事に首突っ込みすぎるのは、あまり趣味がいいとは言えませんよ。それに・・・私がどう動こうと私の勝手。
これ以上もしも何かするつもりで居るなら、私は・・・あなたを一生許さない」
「でも、私がしなくても結果はきっと同じでしたわ。あの二人・・・私たちが思ってるよりもずっと・・・」
この言葉に無性に腹が立った。だって、そんな事言われなくても分かってる。誰が見たって、本当は・・・初めから・・・。
気がつけば私は瞳子さんの顔を思い切り睨んでいた。
「それは・・・それは私が決めることよっ!!!あんたには関係ないでしょ!?もう放っておいてっっ!!!!」
涙が・・・零れそうになった。でも、泣いてはいけない。泣いたら・・・私はそれを認めた事になる。
もう少しだけ、夢見ていたかった。祐巳さまと聖さまじゃなくて、祐巳さまと私の夢を。
そしてこの後思い知る。あの二人の絆を。私なんて遥かに凌ぐ、聖さまの祐巳さまへの・・・愛を・・・。
サイドストーリー『悪者になるという事』
可南子さんをダシにして私は一体何をやってるんだろう。
初めは、可南子さんと祐巳さまが上手くいって、聖さまが祐巳さまと別れればいいなんて、そんな事思ってた。
でもそれは別に私が聖さまを好きだからじゃない。聖さまが傷つくのが・・・見てられなかったんだ。
それに、遅かれ早かれこんな事を繰り返していれば祐巳さまも傷ついてしまう。誰かが傷つくのは・・・嫌。
それならば私が悪者になって、引っ掻き回してそれとなく全て丸く治めるのが一番いい。そう・・・思っただけだった。
でも可南子さんと祐巳さまのキスを目の当たりにして、この二人はどんなにしても上手くいかない・・・そう、思った。
あれから一週間。聖さまと祐巳さまの間に何があったのかは分からない。けれど二人とも学校では一切口を利かないし、
けれど無視してるという風でもなく。聖さまはさりげなく祐巳さまに優しいし、祐巳さまだって・・・そう。
私はだから、ようやく自分が大きな勘違いをしていた事に気づいたのかもしれない。
最近のあの二人を見て、余計にその思いが強くなった。これじゃあダメだ。このままじゃ、今度は可南子さんがきっと・・・。
可南子さんと言う人は、思い込みが激しくてこうだと思ったらすぐに突っ走る人だ。
私は正直可南子さんがあまり好きではない。でも・・・祐巳さまへの想いだけは、見ていて苦しかった。切なかった。
そんな可南子さんを目で追ってるうちに、自然と目に付いた祐巳さまという人。あの人は誰にでも優しい。
それは生徒にも、教師にもそう。でも、よく見てると聖さまにだけは違う顔をする。笑ったり、拗ねたり、幸せそうで。
元気だけどそれが空回りして、保健室の中で何度か涙を拭いているのを見た事もあった。
上辺だけ見てた祐巳さまという人が、今は随分イメージがかけ離れてしまっているのを薄々感づいてはいた。
でも・・・それを今更どうやって可南子さんに伝えればいい?どうすれば可南子さんは楽になれるの?
私はずっと、悪役を演じる気でいた。でも・・・ふと思った。皆に、今私はどう映ってるんだろう?って。
別に良く見られたい訳じゃない。でも・・・きっと私の思惑なんて誰にも気付いてもらえないだろう。
リリアンに来たことを悔やんでなんていない。取り留めて嫌いな教師も居ない。ここはとても暖かい。
そう・・・お姉さまに聞いていた。だから私は早くここをそんなリリアンに戻したいだけだった・・・それなのに・・・。
「瞳子・・・頑張りなさい。あと・・・あと少しなんだから。もう少しで・・・全て上手くいくから・・・」
悪者の仮面なんて被りなれてる。可南子さんは、聖さまとちゃんと話しをすべきだ。
聖さまから逃げてちゃ、それは祐巳さまから逃げてるのも同じこと。こんな関係がいつまでも続いていいはずが無い。
私は大きく息を吸い込んだ。そして真っ直ぐに歩き出す。さっき可南子さんにおせっかいだと言われた。
それは自分でもそう思う。でも・・・誰かがやらなきゃ、事態は進まない。何も。誰かが悪者にならなきゃ、何も片付かない。
人は誰かを恨むことで生きていける事もあるのだから。もしも可南子さんが私を恨むことで少しでも祐巳さまを忘れられるなら、
私は喜んでその役を・・・引き受けよう。そして全てが終わった時は・・・皆にちゃんと謝ろう。
聖さま、祐巳さま、そして・・・可南子さんに。でも・・・今更祐巳さまが私を許してくれるだろうか?
いくら人が良くても、あれだけ言われて凹まない人は居ないだろうし。あの日祐巳さまに言った言葉は、私の本心だった。
あの人は周りの人を夢中にさせてしまう。それがあの人の魅力なのだろうけど、でも・・・それをちゃんと自覚した方がいい。
でないとまた、可南子さんや聖さまのように苦しい想いをする人が出て来るかもしれない。
それに何よりも、傷つくのは祐巳さまだ。私は視聴覚準備室の前まで来て、立ち止まった。そして静かに二度、ノックする。
「はい、どうぞ」
機嫌が悪そうな声。投げやりな態度を取るのは、きっと私が祐巳さまではないと分かっているからだろう。
私は返事をせずに、勢いよくドアを開けた。でも・・・私はこのときの事を、後から酷く後悔する事になる。
そして・・・この二人の絆と、祐巳さまの本心を知って、私は・・・言葉が出なかった・・・。
第百三十七話『街灯』
いつまでも理由を言わない私を、聖さまがもう責める事は無かった。
でも・・・それが余計に苦しくて、痛くて・・・罪悪感だけがどんどん膨らんで・・・。このまま終わっちゃうのかな・・・。
それは・・・嫌だな。そう思うのに、何故か真実を告げる事が出来ないまま、時間だけが過ぎて行った。
「祐巳ちゃん、買い物行くけど一緒に・・・行く?」
「・・・ええ・・・」
遠慮がちに私にそう聞いてくる聖さまの顔が、ほんの少し綻んだ。
まるで何事もなかったかのように全てが元に戻ればいいのに。でも、習慣ってのは恐ろしいもので、
玄関まで来た時に聖さまがクルリとこちらを向いてキスしようとしたのを見て・・・涙が零れた。
「ご、ごめん・・・つい癖で・・・」
「・・・いえ・・・私こそ・・・ごめ・・・なさ・・・」
泣き崩れる私をなだめようとする聖さまだって、絶対に辛い筈。だから必死になって笑わなきゃって思って。
キス出来ないのなら、せめて笑わなきゃって思って・・・少しでも聖さまが安心するように、
少しでも聖さまが私から離れて行ったりしないように・・・。
「もう泣かないでよ・・・私、何とも思ってないから」
そんな風に言う聖さま。でも、絶対に嘘だ。だって、こんなにも悲しそうな顔してるのに、そんなのありえない。
あれから私は聖さまと離れるのが怖くて、少しでも聖さまが視界から消えるのが怖くて。
夜だって少しでも聖さまにくっついて寝たり、どこへ行くにも手を繋いでもらったり。でないと不安で動けなくなってしまう。
可南子ちゃんの突然のキスが私に与えたのは、聖さまへの懺悔と想い。
誰か他の人とキスして初めて分かった聖さまへの・・・想い。離れたくない。居なくならないで。無性にそう・・・思った。
離れて居た事が、突然怖くなったのかも・・・しれない。そんな私の心を知ってか知らずカ、聖さまはいつも以上に優しい。
「大丈夫、大丈夫だから。もう泣かないでよ」
「う・・・ひっく・・・ごめ・・・なさい・・・」
「謝らないって約束したでしょ?そんなに怖がらなくても、もうずっと一緒に居るから」
「うん・・・うん・・・」
次から次へと溢れる涙。私・・・こんなにも弱かったっけ?こんなにも・・・怖がりだったっけ?
何かを乗り越えなきゃならないのは分かってる。でも・・・その準備なんて全然出来てなかった。まだ私達は幸せで居たかった。
何も考えず毎日が楽しくて、それでよかったのに・・・。誰かを好きになって、こんなにも好きになって、弱くなって脆くなる心。
ちゃんと聖さまはここに居るのに消えない不安と恐怖。何かが動き出した。
そして、私達は今、その流れに必死になって逆らおうとしてるのかも・・・しれない。
正直、恋愛でこんなにも自分を見失ってしまうなんて思ってもみなかった。
それは相手が聖さまだからなのか、それとも恋愛の全てがそうなのかは分からない。
でもただ一つ言えるのは、私には聖さま以外ありえないという事。
後にも先にもこの人としか何も出来ない。聖さまとでなきゃ未来すら見れない。
ふと見上げた聖さまの顔。私の瞼に焼き付いた。怒りを堪えるような、見た事もないような怖い顔だった。
「せ・・・さま・・・」
私が見上げている事に気付いた聖さまは、私を見下ろしてにっこりと笑った。そこにはもう、さっきの聖さまの顔は無い。
でもさっき一瞬見せたあの顔は、一体誰に向けたものだったんだろう。もしかして・・・何も話さない私への?
いつまでも黙ってる訳にはいかない。それに、聖さまと一生キス出来ないなんて耐えられない。
それは分かってるのに、どうして私は告げられないのだろう。多分・・・その答えは簡単だった。
聖さまに嫌われるのが・・・軽蔑されるのが・・・怖かったんだ。
可南子ちゃんにキスをされたという事実よりも、聖さまに嫌われるのが怖くて。認めてしまうのが嫌だったのもある。
つい昨日まで可愛い後輩だと思っていた子に、ある日突然好きだといわれても、正直ピンと来ない。
それを認めてしまうともう元には戻れないような気がして。聖さまとも、可南子ちゃんとも・・・。
何も考えずにただ楽しくやっていれれば良かったと思う。でもその反面、それじゃいけないっていう思いも・・・あるんだ。
私達に誓約はなくて、約束する事しか出来ないけど、ずっと一緒に居られればそれでいいって事でもない。
もっと深い何かが、私は欲しかったのかもしれない。聖さまと居る事で抱えてる不安なんてすぐに吹き飛ばせるような、
可南子ちゃんにキスされた事で揺らいだりしない強い心が。
「とりあえず・・・買い物いこっか」
聖さまはそう言って私の手を取った。外ではあれほどイチャつきたがらない。手なんて近所では絶対繋いでくれない。
それでも、イタリアから帰ってきてからは聖さまから手を繋いでくれる。
一体・・・どうして?そう聞いてしまうのは簡単なんだろうけど、どうしてもそれが聞けなくて。
でも聖さまは私の考えてる事がきっと分かったんだと思う。私の顔をチラリとも見ずに、真面目な顔して言う。
「私だって・・・不安なんだ。だから、怖いのは祐巳ちゃんだけじゃない」
「せ・・・さま・・・・」
このまま壊れてしまったらどうしようって、このまま離れ離れになってしまったらどうしようって、聖さまもそう・・・思ってるんだ。
誰が悪いわけでもない。ただ・・・皆の心がすれ違っただけ。それをずっと無視してたから、だから・・・。
私は聖さまの手をギュって握った。そして真っ直ぐに前を見る。陽は落ちて辺りはもう暗い。
でも、道路にはまるで道しるべみたいに街灯がついてて私達の行き先を照らしてくれてる。
「真っ暗になんて・・・ならないですよね?ちゃんと道・・・出来ますよね?」
聖さまは私の言葉に返事をしないで、ただ強く手を握り返してくれただけだった。いつもは半歩ぐらい先を歩く聖さま。
でも今日は、私の歩調に合わせて少しゆっくりめに歩いてくれた。私のすぐ隣に・・・立ってくれた。
それが何だか嬉しくて。ようやく聖さまに追いつけたような、そんな気がして。背伸びして聖さまの頬にキスをすると、
一瞬聖さまは私を軽く睨んだ。
「・・・外でそういう事するなって言ってるでしょ?」
「・・・だって・・・」
せっかく芽が出た私の誇りが、聖さまのそんな言葉で一種のうちに萎んでゆく。でも、聖さまの言葉はそこでは終わらなかった。
「どうせなら口にしてよね。もう・・・また煙草吸いそうよ」
まるで苦虫潰したみたいにそんな事言う聖さまの横顔が、ほんの少しだけ赤いのを私は見逃さなかった。
久しぶりにした聖さまへのキスは頬。聖さまはやっぱり不服そう。
「ダメですよ。聖さまの匂いしなくなっちゃう」
「あー・・・そうでした」
聖さま・・・ごめんね。あともう少し・・・もう少しだけ・・・待っててね?そしたら私、きっともっと強くなるから。
ちゃんと聖さまの目を見て、私の想いを・・・伝えるから。
第百三十八話『告白』
はっきり言って、最近イライラして眠れない。別に祐巳ちゃんにイラついてる訳じゃない。
多分、この現状にイラついてるんだと思う。キス出来ないってだけじゃない。煮え切らない自分の態度とか、
本当は問い詰めたいけどそれを出来ない自分とか、私の顔見ては申し訳なさそうな顔する祐巳ちゃんとか、
そういう全部の事にきっと腹が立ってるんだと思う。イタリアから帰ってきて一週間とちょっと。まだそれだけしか経ってない。
でもその間まだ一度も祐巳ちゃんのあの笑顔を・・・見てない。本人は笑ってるつもりなのかもしれないけど、全然笑えてない。
私の好きな・・・祐巳ちゃんの笑顔じゃないんだ!
祐巳ちゃんはこう、底抜けにっていうか、もっと心の底から笑うんだよ、いっつも。
それなのに、最近の笑顔は何だか・・・歳相応っていうか、愛想笑いばっかりで・・・。
不意をついて涙を流したり、私の顔色を窺ったり、そういうのはもう・・・沢山。
そういうイライラが募って、私は最近かなり機嫌が悪かった。特に学校では。だから最近はあんまり保健室に行ってない。
だって、こんな私を見たらまた祐巳ちゃんが勘違いしないとも言い切れないし・・・。
それにもう・・・祐巳ちゃんの涙を見るのは精神的にキツイ。
「何やってんだ、私は・・・」
私は視聴覚準備室で煙草をふかしていた。祐巳ちゃんは吸っちゃダメっていうけど、どっちみちキス出来ないんなら、
あの約束も今は意味が無い。もしも・・・もしもね、誰かのせいで祐巳ちゃんがあんな風になってるんだとしたら、
私はきっと許さない。本当は・・・心の底では分かってるのかもしれない。祐巳ちゃんが凹んでる理由。
そして、それに関わってる人も。でもそれを確かめる勇気が、私にはまだなくて。でもこのままじゃいけないことも分かってる。
何かに悩む祐巳ちゃんと同じように、私も私で何かに迷ってて。今まで散々修羅場とかくぐってきたけど、
今回ほどそれを暴きたくないって気持ちは初めてだった。知ってしまったらどうなるのかが怖かったってのもあるけど、
私自身、何するか分からないとそう・・・思うから。その時だった。誰かが視聴覚室準備室のドアを叩いた。
多分祐巳ちゃんじゃない。今頃祐巳ちゃんはまた保健室の窓から外を眺めてボンヤリしてるに違いないから。
だから私は適当に返事をした。出来るだけ普通に返事をしたつもりだったけど、私から零れた言葉はかなり不機嫌そう。
「はい、どうぞ」
やがてドアが開いて誰かが入ってくる。私は視線だけをドアに向けてはいってきた人物を確認して思わず溜息を落とした。
だって・・・それは・・・やっぱりと言うべきか、なんと言うか。
「何の御用かしら?」
「煙草・・・吸われるんですね」
ドリルちゃんは私の咥えている煙草を嫌そうに見つめる。
「まぁね。煙草嫌い?」
「ええ、大っ嫌いです」
ドリルちゃんは大と嫌いの間に小さな『っ』を入れて強調した。そんなドリルちゃんがほんの少し祐巳ちゃんに被って見えた。
顔は全然違うんだけど、むしろドリルちゃんのが可愛いと思うし。こんな事言ったら怒られるんだろうなぁ・・・。
そう言えば私、最近あんまり祐巳ちゃんに怒られてないや・・・何だか泣かせてばっかり。
そのうち、ウチ限定で洪水になるんじゃないのかなってぐらい泣かせてばっか。
私はドアの所でこっちを睨むドリルちゃんから視線を外して、鼻で笑った。
「ふーん。でも消さないよ」
もしもこれが祐巳ちゃんなら、私はきっと消してた。だって祐巳ちゃんが嫌がるし、何よりも祐巳ちゃんの健康第一だし!
でも・・・それ以外なら別にどうでもいい。私が大事にしたいのは祐巳ちゃんだけ。
こんな風に考え出したのは、一体いつからだろう。私は私が一番大事で、自分がいっつも一番だったのに・・・他人なんて、
恋人ですら守りたいだなんて思わなかったのに。ああ、いつの間に私はこんなにもあの子が大切になってたんだろう。
私の言葉にドリルちゃんは顔をしかめた。この子はいつもこんな顔をする。私の事が煙たいのなら、近寄らなければいい。
それなのにいっつもいっつも世話を焼こうとするんだよなぁ・・・ほんと、よく分かんない子。
「聖さまは・・・そんなにも祐巳さまが大事ですか」
「そうねー。今のところはね」
多分この先もだけど。でも、それは言わないでおいた。だってこんな台詞、本人以外に言うべき事じゃない。
いや・・・本人には恥ずかしくって絶対言えないんだけどさ!ドリルちゃんはそんな私を非難するような目で見つめてくる。
一体この子が何を考えて・・・いや、企んで最近私と祐巳ちゃんと可南子ちゃんの周りをチョロチョロしてるのかは知らないけど、
悪役をやりたいのならもっと徹底的にやればいいのに。多分、それは祐巳ちゃんも薄々感づいていると思うけど、
この子は口では言いたい放題いうくせに、意外に気が利く。というよりも、本当はきっといい子なんだろう。
でなきゃあの祥子の妹になんてなれる筈がない。いや、今はそんな話は置いといて。
「祐巳さまがどんな人でもですか!?」
私の言葉にドリルちゃんが何を思ったのかは分からない。
とりあえず何かが凄く不満そうで、握った拳を震わせて唇を噛んでいる。
「どんな人、とは?少なくとも私はドリルちゃんよりは祐巳ちゃんを知ってるはずなんだけど」
そう言って私は煙草を消した。イライラがどんどん募ってくる。もうドリルちゃんの顔を見ている事も出来なくなりそうなぐらい。
そんな私にドリルちゃんは言った。
「私は祐巳さまは皆が仰るような人柄には見えません!
それに・・・聖さまと可南子さんはいつまでそうやって祐巳さまを取り合うんですか!?
いい加減祐巳さまが可哀想です!!!」
私はこの言葉を聞いて立ち上がった。目の前にドリルちゃんの柔らかそうな髪が揺れる。
その髪を一房つまむと、ドリルちゃんがビクンと身体を強張らせた。
「そんな調子でいっつも祐巳ちゃんを責めるの?ていうか、ドリルちゃんは一体誰の味方なの?」
「せ、責めてなんて・・・それに、私は別に誰の味方でも・・・」
「私、あの子が泣くの見るのが一番嫌なのよね。それ、知ってた?」
別にドリルちゃんが誰の為にこんな風に動いてるのかなんて、正直私にはどうでもいい。
ただ一つだけ、一つだけ間違えないで欲しいのは、祐巳ちゃんはやっぱり皆の評判通りの人間だって事。
確かに彼女には優柔不断な所もあるし、どっちつかずな態度で誰かを誤解させる事もあるかもしれない。
でも、それが祐巳ちゃんの良さなんだって事は勘違いしないで欲しい。それに、祐巳ちゃんは私にしか・・・甘えない。
私はドリルちゃんの髪を指先に絡めてその言葉を遮った。
見下ろした先のドリルちゃんの目に恐怖が浮かぶ。ほらね、悪者になりきれてない。でも、ここまでしてきたんだ。
最後までその役を降りさせる訳にはいかない。ちゃんと皆、償うべきだと、そう・・・思った。もちろん、私も。
「どうしたの?今までの勢いはどこへ行ったのかしら?」
「せ、聖さまはわがままです!!いつまでも待ってたって、可南子さんは謝りになんて来てくれませんよっ!」
「可南子ちゃん?どうして私が可南子ちゃんに謝られるの?」
「そりゃ可南子さんは祐巳さまにキス・・・っ!!!」
そこまで言ってドリルちゃんは両手で口を押さえた。表情からしてどうやらこれは演技ではなさそう。
そう・・・素で漏れた言葉だった。そしてその言葉のおかげで全ての謎が解けた・・・なんて皮肉なんだろう・・・。
聞きたくなかった答えなのに、それをドリルちゃんの口から聞いてしまった。
まるでドキドキしながら読んでたミステリーの犯人を無理矢理聞かされたような、そんな何とも言えない気分。
私は怯えるドリルちゃんを鼻で笑った。この瞬間、私の中で何かが壊れたのかも・・・しれない。
ていうか元々は私、物凄く短気なんだ。一度頭に血が上ると、自分でも何してんのか分かんなくなっちゃう。
私は掴んでいたドリルちゃんの髪を離した。肩に落ちる前、微かにだけど祐巳ちゃんと同じフローラルブーケの匂いがする。
今ではこの世で一番愛しい香り。春が大好きな祐巳ちゃんの・・・匂い。
「やりすぎたわね、瞳子ちゃん。最期の方はなかなか当たってると思うけど、初めのは違う。
祐巳ちゃんは皆が言うとおりの人間で、だから皆が勝手に彼女を好きになるのよ。もちろん、私も含めて・・・ね。
それから・・・可南子ちゃんの代わりに言わせてもらうと、引っ込んでなさい、このおせっかい娘」
初めてドリルちゃんの名前を呼んだ。なんだ・・・私、ちゃんと覚えてたんじゃん・・・何だか冷静な私はそんな事を考えながら、
ドリルちゃんを押しのけて視聴覚準備室を飛び出した。そしてそのまま早足で可南子ちゃんを探す。
その後をドリルちゃんが追ってくるんだけど、自分で口を滑らせておいて今更無かった事になど出来ないのは、
多分ドリルちゃんが一番よく分かっているはず。それに、結果的には私と可南子ちゃんの直接対決になるのだから、
彼女にとっては好都合になる・・・はずだった。
・・・どれぐらい探し回っただろう。ようやく、職員室の前の階段を下りようとしている可南子ちゃんを見つけた。
この時の事を、私は正直あんまり覚えてはいない。ただ今までに無いぐらい怒ってたのだけはよく覚えてる。
今まで結構喧嘩をしてきたけど、こんな風に意識が無くなるぐらい怒った事は無かった。
そして気付いた・・・いや、再確認した。
私はありえないぐらい祐巳ちゃんが好きで、そしてそれは無意識の時でさえそうなんだって事が。
心だけが祐巳ちゃんを求めてたんじゃない。身体も脳も、佐藤聖と言う全てで、祐巳ちゃんが好きだったんだって事が。
こんな感情を味合わせてくれたのは今のところ祐巳ちゃんだけで、多分これからもそうそう無いと思う。
私は気付けば可南子ちゃんの胸倉を掴んで、思いっきり後ろの壁に可南子ちゃんを押し付けていた。
可南子ちゃんは突然の事に一瞬目を大きく開いたけど、相手が私だと分かるとそっと視線を逸らす。
「どういうこと?」
「何がです」
「祐巳ちゃんが笑わない理由、分かってんでしょ?」
もちろん、私も分かってる。でも可南子ちゃんの口から直接聞けるのならそりゃその方がいいに決まってる。
でも、私の言葉に可南子ちゃんが黙り込んだ。そして一呼吸置いて私をキッと睨み付けてくる。
「祐巳さまが笑わない理由?そんなものに心当たりなんてありませんが」
「だったらどうしてあんなにも毎日毎日泣くのよ?」
「祐巳さまが泣くのを、どうして私のせいだと思うんです?案外あなたが祐巳さまの嫌がるような事をさせたのでは?」
フフンってバカにしたように笑う可南子ちゃんの瞳の奥の方に見えたのは、とても鈍い光。
どこか哀しそうな、悔しそうな顔をする可南子ちゃんが凄く印象的だった・・・。
「あのね、正直に話してくれない?あんたはずっと祐巳ちゃんが好きだったのは知ってる。それは別にそれでいいのよ。
ただ、あんたは私に祐巳ちゃんを守るって言った。それならどうしてあんな風に泣いてる祐巳ちゃんを放っておけるの?
どうして守りにいかないの?それは今更祐巳ちゃんに会えないからでしょ?合わす顔が無いからでしょ?
てことは、あんたが何かしたって事でしょう?違うの?」
私は早口でまくしたてた。これ以上早くは喋れないというぐらい早口で。
だって、どうしても可南子ちゃんの口から聞きたかったんだ、本心が。
私の事が嫌いなら嫌いでいい。私だって正直言えば可南子ちゃんが苦手。でもそれとこれとはまた話が違う。
もしも可南子ちゃんが私の事が嫌いで、だからその復讐の為に祐巳ちゃんに手を出したんだとすれば、まだ怒れる。
でもさ・・・好きだからこそ泣かせてしまったのなら・・・それは後々大きな傷になるのを私は知ってる。
私は今、どんな顔して可南子ちゃんを見てるんだろ?多分・・・凄く冷たい顔してる。それが自分でも手に取るように分かった。
そんな私を見ても可南子ちゃんは一歩も引こうとしない。この子のこういう所は、結構気に入ってるんだ、私。
「わ・・・私は・・・あなたが祐巳さまに相応しいだなんて思いませんっ!!ただそれを早く祐巳さまに気づいてもらいたくて・・・」
「だから?それは別にあんたが決める事じゃないでしょ?祐巳ちゃんが決める事じゃない。
違うでしょ?あんたは私に嫉妬してるだけ。そうでしょ?」
「ち・・・違います・・・違います!!私は祐巳さまを守ろうと・・・あなたみたいな人から祐巳さまを守ろうと!!!」
可南子ちゃんは私と視線を合わせなかった。初めに私を睨んだっきり、ただの一度も私を見なかった。
多分、この子は気付いてる。今私が言った事全部、もうとっくに分かってる筈。それでも決して理由を言わないのは、
それを秘密にしたいからだ。祐巳ちゃんと自分だけの最後の・・・秘密に。でも、そんな事なせるもんか。
祐巳ちゃんが秘密を持つのは別に構わないけど、そんな理由の秘密は絶対に許さない。
ましてやそれが祐巳ちゃんの傷になるのなら、なおさら。だから私は言った。静かに冷たい声で。
「そう思って、だから祐巳ちゃんにキスしたの?」
「ど・・・どうして・・・」
この言葉に可南子ちゃんの顔つきが変わった。何とも言えない表情の裏にある感情の意味はよく分からなかったけど、
私を見下ろし睨み付ける顔には明らかに憎しみが浮かんでいる。でも私も引かなかった。いや、引けなかったのかもしれない。
祐巳ちゃんは毎日泣いてる。私にずっと謝り続ける。後ろめたい事だとずっと思ってる。
でも、私から言わせればそこに祐巳ちゃんの気持ちが無かったのなら、問題は無いと思ってる。
単なる事故なんだとドリルちゃんに理由を聞いた今も思ってる。ただ許せないのは、それを可南子ちゃんが秘密にしたがる事。
そりゃ二人の気持ちが通ってて浮気をしたんだというんなら、そりゃ隠して当然だとは思うけど、
祐巳ちゃんが苦しんでるのを知った上で隠そうとしてるのなら、それは・・・許せない。
私は可南子ちゃんの襟首を掴んだ手に力を込めた。その時に小さな呻き声が聞こえたけど、逃げるのは許さない。
「守るなんて偉そうな事言うんなら、泣かせるな。それが出来ないんなら守るなんて大それた事言うな。
大体大事な女ひとり笑わせられないような奴が偉そうに守るだと?笑わせるな!!
あんたに何が分かる!?私と祐巳ちゃんの何が分かる?何も分からないくせに!何も知らないくせに!!
ただ好きだから何したっていいなんて事あるはずないし、恋愛なんてそんなもんじゃないっ!
汚い事だって綺麗な事だって一杯あるんだよ!それは時間が作るんじゃなくて、想いが作るんだ!!
あんたのその軽々しい想いなんて、私にとっては痛くも痒くもない・・・ただ・・・祐巳ちゃんを傷つけるのだけは・・・許さない!!」
私はそこまで言って可南子ちゃんの襟首からそっと手を離した。私はさ、祐巳ちゃんが凄く大事。
そしてそんな大事な人の隣に居られる事ほど幸せな事は無いっていっつも思う。
どんな幸せよりもそれが一番難しくて、繋ぎとめる事が出来ないんだって事も分かってる。
でもだからって自分からそれを離してしまうような事はしたくない。もしも今もまだ祐巳ちゃんがフリーだったとしても、
きっとそれは変わらない。私なら友達で居ることを選ぶ。そしていつか・・・いつか振り向いてくれるまで、じっと待っていたと思う。
でも可南子ちゃんは・・・それが出来なかったんだ。だから傷つける事で自分の想いを伝えたんだと思う。
でもね、それじゃあ何も解決しない。祐巳ちゃんの中の傷も、可南子ちゃんの中の傷も一生消えないまま、
苦しい思い出しか・・・無くなっちゃう。少なくとも祐巳ちゃんは・・・それを望んでない。多分。
私は大きく息を吸って、今までよりもずっと冷たい声で言った。
「私は、私が一番大事にしてるモノを壊されるのが一番嫌いなの。
もしもそれをすると言うのなら例え相手が誰であっても許さない。
どこへ逃げても、一生かかっても、追いかけてってあんたの一番大事にしてるモノを壊しに行くわ。よく覚えときなさい」
クルリと踵を返した私は、その場から離れようと思った。何故なら、授業を終えるチャイムが鳴ったから。
さすがの私もこんなやりとりを生徒達に聞かれるのは恥ずかしい。でも、どうやら可南子ちゃんはそうではなかったみたい。
私の肩を掴んでその反動で振り向いた私。でも・・・ここから、私の記憶は途切れた。
ただ覚えてるのは、祐巳ちゃんの叫び声。それと・・・小さな手、フローラルの香り・・・それだけだった・・・。
第百三十九話『触れた指先』
私が尋常じゃないくらいに驚いた理由は、突然の訪問者にあった。世の中ってのは、どうしてこんなにも忙しなく動いて、
どうしてこんなにも優しくないんだろう。今は余計にそう・・・思った。
遡ること五分前、突然瞳子ちゃんが物凄い形相で保健室に入ってきたかと思うと、
私の手を掴んで涙をボロボロ流しながら叫んだ。
「祐巳さま!早く・・・早く、聖さまを・・・聖さまを止めてくださいっ!!」
「い・・・一体どうしたの?どうしてそんなに泣いてるの?」
あんまりにも瞳子ちゃんがボロボロ泣くものだから、私はビックリして瞳子ちゃんの頭をよしよしと撫でた。
でもそんな事しても瞳子ちゃんは理由を言おうとはしなくて。
とりあえず落ち着かせようと思った私は、瞳子ちゃんに座るよう勧めてみた。
「そんな・・・そんな悠長な事してる場合じゃないんですっ!!早く、聖さまを・・・でないと可南子さんが・・・可南子さんが・・・」
「ちょ、ちょっと待って!一体どういう事?聖さまと可南子ちゃんがどうしたの?」
「それが・・・わ、私・・・うっかり可南子さんと祐巳さまの事・・・聖さまに。
・・・そしたら、聖さま・・・すぐに可南子さんを探しに行って・・・どうしよう・・・私が余計な事したから・・・どうしよう・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
嘘・・・でしょ?ねぇ、嘘って言ってよ・・・でも私の手を握る瞳子ちゃんの手は震えている。もしもこれがお芝居だとしたら、
瞳子ちゃんはかなりの役者だ。でも・・・どうやらそうではなかった。この涙も震える手も、全部本当のようで・・・。
私の頭の中は真っ白だった。ただ聖さまに可南子ちゃんとのキスが知られてしまった。それだけが怖くて仕方なくて。
怒られるぐらいならまだいい。でも、もしも・・・振られてしまったら・・・そんな事考えたら指先の震えを止める事が出来なかった。
聖さまは可南子ちゃんに何するつもりだろう。多分、聖さまの事だからあんまり酷い事はしないと思う・・・いや、どうかな。
でもそれをしたらきっと、私がもっと悲しむ事が分かってるはず・・・だから何もしてない。そう願いたい。
ただ心配なのは・・・可南子ちゃんの方。可南子ちゃんが怒ったら何をしだすか、実を言うとよく分からないのだ。
私はどうにか立ち上がると、瞳子ちゃんの手をしっかりと握った。そんな私の手を瞳子ちゃんも握り返してくる。
「・・・急ごう・・・」
「・・・はい・・・」
私達が交わした会話はそれだけだった。後はひたすら走っていた。聖さまの行きそうな所なら、何となく分かる。
でも可南子ちゃんの場合は・・・やっぱりよく分からない。私はずっと心の中で思っていた。聖さま達を探しながら。
どうしてこんなにも必死になってるんだろう?って。私にとっては二人とも大事。
でも聖さまと可南子ちゃんに対する想いは全然違う。でもね・・・やっぱり大好きなんだ、可南子ちゃんも。
だからそんな二人に出来れば喧嘩なんてしてほしくない。
・・・でも・・・これは偽善だ。正直な所、私は聖さまが傷つくのを怖がってる。
聖さまを想う気持ちは仲間や家族を想う気持ちとは別格で、何よりも怖いのは聖さまを失う事なんだ。
だからって別に可南子ちゃんが傷ついていいって訳じゃないけど、でも・・・それよりも聖さまが壊れてしまうのは・・・嫌。
私達は走った。広い校舎の中を上から下までずっと、ずっと。その時だった。
突然、誰かの怒鳴り声が曲がり角の奥から聞こえてきたんだ。
「あなたに・・・あなたに私の気持ちが分かる訳が無いっ!!!私は・・・私は本気で祐巳さまを守りたかった!!
なのに・・・なのにあなたが・・・あなたが・・・」
私は瞳子ちゃんと顔を見合わせた。そしてコクリと頷く。その叫び声は・・・可南子ちゃんの声。
一体何の話をしていたのかは分からないけど、聖さまの声は少しも聞こえない・・・。
そして曲がり角を曲がった所に立った時、ようやく二人の姿が視界に飛び込んできた。
「きゃあっ!」
今正に可南子ちゃんの手が聖さまの頬に振り下ろされようとしていた瞬間。そしてそれを見て小さく叫んだのは・・・瞳子ちゃん。
私はどうしてこんなにも落ち着いてるんだろう・・・いや、違う。頭の中は・・・真っ白で・・・。
『聖さまが・・・叩かれる・・・』
そう思った瞬間、私の体は勝手に動いていた。後ろの方で瞳子ちゃんの、祐巳さまっ!!って声が聞こえてきたけど、
一度勢いのついた体は止まらなかった。瞳子ちゃんの声に気付いた聖さまがこっちを振り向く。
でもその顔は何故か困ったような、切なそうなそんな顔。
そして気がついたら私は、聖さまを叩こうとしていたその腕に必死になってしがみついていた・・・。
「ゆ、祐巳さまっ?!は、離してくださいっ!!」
「嫌よっ!」
「祐巳さまっっ!!!!」
私は絶対に離さないつもりでいた。でも・・・可南子ちゃんは必死になって私の腕を振り解こうとして・・・そして・・・。
「離してくださいっっっ!!!!!」
そう叫んだ可南子ちゃんが思いっきり私がしがみついた腕を後ろに振り払った。
その瞬間、バランスを崩した私の腕が可南子ちゃんの腕からスルリと解けた。
「きゃっ!!」
「祐巳っっっ!!!!!!」
一瞬何が起こったのか分からなかった。ていうか、どうして私・・・こんなにも必死になってるんだっけ?
弾かれた私はそのまま後ろに投げ飛ばされて・・・私は宙に浮いていた・・・と、思う。
そして頭の中では冷静に自分の後ろに床が無かった事とかを思い出してて・・・そうだった。
ここは階段の上・・・つまり、私の後ろはすぐ階段だったんだ・・・なんて、のん気にもそんな事を考えてた。
耳を突き刺すような聖さまの怒鳴り声が、今も耳に響いてる。
そしてそんな思いと一緒に、初めて聖さまが呼び捨てにしてくれたーなんてのん気に考えてて・・・。
聖さまは投げ出された私の手を掴もうと、手すりを掴んでない方の手を私に向って伸ばしてくれる。
可南子ちゃんはその場に立ち尽くしたまま落ちてゆく私をただボンヤリと見つめていて、その顔から全ての表情が消えていた。
私は手を伸ばした。聖さまの手を掴もうと思って。
そして・・・指先が微かに触れて、聖さまがその指先を掴もうとした時に・・・ふと思ったんだ。
ダメだ・・・って。私が聖さまの手を掴んだら、絶対に聖さまも一緒に落ちる。
聖さまはきっと、あのスキーの時崖から落ちた時のように私を庇うだろう。でも・・・そしたら聖さまは・・・絶対無事じゃすまない。
そんなの・・・耐えられないよ・・・。・・・だから私は、そっと触れた指先を引っ込めた。これでどうにかなるのは私だけですむ。
そう思ったら、何故か・・・笑えた。変な話だけど、ホッとしたんだ。もしもさっき、可南子ちゃんが聖さまの頬を叩いて、
少しでも聖さまがバランスを崩したら、こうなるのは聖さまだった。
でも聖さまは今、階段の上で泣きそうな、怒ったみたいな顔で私を見下ろしてる・・・これがどんなにホッとしたか、
多分誰にも・・・分からないと思う。
「祐巳ちゃんっ!!手を・・・手を伸ばしてっ!!!」
時間がやけにゆっくりと流れて、聖さまの手がやけに近くに感じる。でも私は心の中でずっとずっと祈ってた。
どうか聖さま・・・私を助けないで。私を助けたり・・・しないで・・・。
落ちるのは私だけでいい。聖さまは・・・無事でいて・・・でも、そんな願いは聖さまには届かなかった。
私がいくら言っても手を伸ばさないと思ったんだろう。
何を思ったのか、次の瞬間、聖さまが突然地面を思い切り蹴った。
・・・そして、無理矢理私を抱き寄せたかと思うと、頭を庇うみたいに私を抱きかかえたのだ。
「せ・・・さま・・・ダメ・・・ダメ・・・だよ・・・」
いくらそんな事言っても、聖さまは私を放そうとはしなくて。ただ私をギュって抱きかかえたままで・・・。
「・・・うるさいっ!」
ポツリと呟いた聖さまの言葉。私はそれ以上何も言えなくて、ただ聖さまの肩に腕を回してしがみついていた。
初めてこうして助けてくれたのはあの火事の時。スキーの時だって、私をこうして庇ってくれた。
聖さまは・・・いつもいつもこうやって私を・・・守ってくれてたんだ。でも、それだけじゃない。
行動だけじゃなくて、いつだって聖さまは私を助けてくれてた。私が不安にならないように、いつも私の傍に居てくれてた。
最初は確かに敵だったかもしれない。私を追い出そうとして私にちょっかいをかけていたのだとしても、
それでも私は一人ぼっちのこの学校で毎日笑っていられたんだ・・・。
そんな事に今更気づいた私は、知らないうちに涙が零れた。どうして助けたの?いっつも聖さま、自分で言ってるじゃない!
何があっても自己責任だって・・・そう・・・言ってるじゃない!!一人で落ちるよりも、二人の方がずっとずっと・・・危ないのに!
バカだ・・・聖さまはバカだ。でも・・・どうしてこんなにも嬉しいなんて思っちゃうんだろう。
聖さまがこうやって飛び出してきてくれたことを、どうしてこんなにも・・・嬉しく思っちゃうんだろう・・・。
・・・スローモーションみたいに回る映像・・・それは聖さまと過ごした日々で、聖さまの・・・笑顔ばっかり・・・。
泣いた日でも、落ち込んだ日でも、ちゃんと仲直りした。いっつも私を・・・待っててくれた。
今・・・聖さまにはどんな景色が見えてるんだろう・・・ねぇ、聖さま?私は今、あなたの笑顔ばかりを・・・思い出してるんだよ・・・。
やがてやってきた衝撃と叫び声。思わず目を瞑った私はだから、聖さまの小さな呻き声でパッと目を開けた。
「せ・・・さま?・・・聖・・・さま・・・・」
ゆっくりと体を起こすと、私は完全に聖さまの上に乗ってるような状態になっていて慌てて聖さまの上から降りると、
聖さまの頬を軽く叩いた。でも聖さまは完全に目を瞑ったままピクリとも動かない。
私は聖さまの口元に手の平を持っていって息を確かめると・・・良かった・・・かろうじて息はしてる。
でも、多分頭を酷く打ったに違いない。揺らさないようにそっと聖さまの頬を撫でると、ようやく聖さまがうっすらと目を開けた。
「聖さまっ!!」
「ゆ・・・みちゃん?・・・怪我・・・は?」
「ありま・・・せん・・・でも・・・でも聖さまが・・・」
私の答えを聞いた聖さまの口元に微かに笑みが浮かんだ。良かった・・・ちゃんと記憶も意識もあるみたい。
気がつけば周りには人だかりが出来ていて、そこにはSRGや由乃さんの姿もある。
「祐巳ちゃん!聖!!一体どうしたの!?」
駆け寄ってきたSRGが聖さまの隣にしゃがみこんで私と聖さまの顔を交互に見るんだけど、
私達にはそれすら目に入らなかった。手を伸ばして、そっと私の頬を撫でる聖さまの手はゾクリとするほど冷たい。
あまりにも愛しそうに撫でるもんだから、私の目からまた涙が溢れてきて・・・。
しばらくそうやって私の顔をじっと見つめていた聖さまは、突然思い出したように話し出した。
「ど・・・しても・・・いいたかった・・・の・・・祐巳・・・ちゃん・・・お願い・・・どこにも・・・行かない・・・で・・・。
私の傍に・・・ずっとずっと・・・居て・・・私を・・・も・・・う・・・一人に・・・しない・・・・・・・・・・で・・・・・・・・・。
好き・・・よ・・・誰・・・よ・・・りも・・・・・・ねぇ・・・キス・・・して・・・?・・・・」
私は聖さまの途切れ途切れの言葉にほんの少し微笑んだ。
目を閉じてゆっくりと聖さまの唇に口付けると、聖さまは笑ってくれる。
凄く儚い笑顔だけど、今にも消えそうな笑顔だけど、聖さまが・・・イタリアから帰ってきてやっと笑って・・・くれたんだ。
それと同時に聖さまの頬に一筋の涙が伝った。聖さまの涙を見るのは・・・これが二回目。
でも、私の事で泣いてくれたのは・・・これが初めてだった。そっと指で聖さまの涙を拭うけど、後から後から流れてくる。
泣きながら笑う聖さまは、とても綺麗。今までに見た事もないぐらいの聖さまの笑顔が、私の心を刺す。そして・・・。
「こ・・・れで・・・安心・・・した・・・わ・・・・あり・・・が・・・・・・・・・と・・・・・・・・・」
「せ・・・さま?何言って・・・聖さま?聖さま!聖さまってば!!返事して・・・聖・・・嫌よ・・・そんなの・・・嫌だからっ!!!!
許さないんだからっ!!!聖ってば、ねぇ、返事してっっっ!!!!!!!聖・・・せーーーーーーーーいっ!!!!」
私の答えを待たず、聖さまがそっと目を閉じた。静かに、本当に・・・眠るみたいに。
私の頬を撫でていた聖さまの手がそっと離れてゆく・・・小さくカツンって響いたのは、左手にはめたペアリングの音。
私の頬から離れた手が、冷たい床に力なく落ちた・・・。私はその意味がよく分からなくて聖さまの手を握ったけど、
いくら強く握っても聖さまは少しも握り返しては・・・くれなくて・・・。いくら呼んでも、答えてくれなくて。
聖さまの途切れ途切れの言葉が、頬を伝う涙が、落ちた冷たい手が、私の胸を締め付ける。
堪え切れなくて、私は嗚咽を漏らした。嫌だ、聖さま、もう一回目・・・開けてよ!!私を見て、頬を撫でて・・・お願いだから!!
嫌だよ・・・こんなの・・・嫌だよ・・・どっこも血出てないじゃない!階段から落ちただけじゃない!!目、開けてよっ!!
「やだぁ・・・聖さま・・・やだよ・・・目・・・開けて、お願いだから・・・目、開けてよっっっ!!!!
・・・お願い・・・置いてかないで・・・一人に・・・しないで・・・」
いくら手を握っても少しも握り返してくれない痛み、どんな言葉よりも私を苦しめる。
がむしゃらになって聖さまの手を握って聖さまの名前を叫ぶ私の肩をSRGが強く掴む。
「祐巳ちゃん!しっかりして!聖は大丈夫だからっ!!誰か・・・誰か、早く救急車を呼んでっっ!!!!」
私は聖さまの手を強く、強く握っていた。
ほんの少しの動きも見逃さないように、もしも聖さまが目覚めたら、私はここに居るよ!って言えるように・・・。
そこへ騒ぎを聞きつけた志摩子さんが人ごみを掻き分けてやってきて、
倒れてる聖さまを見てその場にペタンと座り込んだ。それに続いて蓉子さまがやってきて小さな悲鳴を上げる。
「一体・・・なにがあったの・・・聖・・・?誰か、事情を知ってる人は居ないのっ?!」
蓉子さまの怒鳴り声が遠くから聞こえる・・・でも、私はずっと・・・ずうっと・・・俯いたまま聖さまの名前ばかりを・・・呟いていた。
固く閉ざされた瞳の奥で、今何を見てるんだろう?って、そんな事ばかり・・・考えていた。
そして私は、まるで夢遊病にでもかかったみたいにゆっくりと階段の上で固まっている可南子ちゃんを睨み付けて言った。
「許さない・・・私から・・・私の一番大事なモノを奪うなんて・・・絶対に・・・許さない・・・」
私は聖さまの手を握る手に力を込めた。それでもやっぱり聖さまは握り返してくれない。
「もしも・・・もしもこのまま聖さまが目を覚まさなかったら・・・私があんたの一番大事なモノを・・・奪ってやる・・・。
地の底まで追いかけて・・・絶対に、絶対に・・・逃がさないから・・・」
自分でも驚くほど冷たい声だった。私はこの時初めて知った。聖さまの為なら、私はきっと何でも出来るんだって事が。
良い事も、悪い事も、何でも。遠くの方で聞こえる救急車のサイレンの音・・・苦しくて息が出来ない。
もう・・・何にも・・聞きたくないよ・・・お願いだから・・・聖さまと・・・二人きりに・・・してよ。皆・・・どっか・・・行ってよ・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここ・・・どこだっけ?私は手の平を見て思い出した。ああ、そうだ。ここは病院だ。
私はさっき、聖さまの付き添いで救急車に乗ったんだ。薄暗い廊下を紅く染めるのは『手術中』の光る文字。
あの後、聖さまは救急隊の人たちが持ってきた担架に乗せられてそのまま救急車でこの病院に運ばれた。
救急車の中でもずっとずっと手を繋いでいたのに、手術室の前まで来ると、看護士さんに手を離せと言われた。
「いやよっ!!私は・・・私は約束したんだもんっ!!聖さまの傍に居るって・・・ずっとずっと一緒だって・・・」
泣くじゃくる私を後ろから羽交い絞めにしたのは、SRG。そっと私の手から聖さまの手を離して、静かに言った。
「祐巳ちゃん、大丈夫だから、大丈夫だから」
そんな風に呟くSRGの声もずっと震えていた。困らせちゃダメだ。そう思った私は、自分の指輪を外して、
聖さまの左手の薬指からも指輪を抜き取った。そして聖さまの指に私の指輪をはめて手を離したんだけど、
離した途端に聖さまの手はダラリと力なく担架から滑り落ちたのを見て、私はその場に蹲って声を殺してずっと泣いていた。
手の平に痕がつくぐらい聖さまの指輪を握り締めて、心の中で呟く。聖さま・・・ずっと、ずっと・・・一緒だよ・・・。
私の指輪は今、聖さまと一緒に居る。聖さまの指輪は私と一緒に居る。それだけでも随分違うような、そんな気がしたから。
それからしばらくしてようやく泣き止んだ私は、ただ放心状態だった。今自分がどこに居るのか、それすらも分からないほど。
「私・・・こんな所で何を・・・」
ポツリと呟いた言葉に、隣に座っていた蓉子さまが私を抱きしめて静かに言い聞かせてくれた。
「聖を・・・待ってるんでしょ?」
「そう・・・聖・・・を・・・聖・・・聖・・・さま・・・や・・・だ・・・聖さまは・・・聖さまはどこっ?!」
立ち上がった私の腕を掴むのはSRG。また私を元の場所に座らせて頭をよしよしって撫でてくれる。
「相当・・・混乱してるわね、祐巳ちゃん・・・」
「そりゃそうですよ・・・だって・・・目の前で一番大切な人が・・・」
「・・・そうよね・・・混乱・・・するわよね・・・」
どこか遠くから聞こえる蓉子さまの声。頭を撫でるのはSRG。それは分かってるのに、どうしてここに聖さまが居ないのか、
私にはいつまで経っても、それを理解する事が・・・出来なかった。
聖さま・・・ねぇ・・・私を一人ぼっちにしてどこに・・・行っちゃった・・・の・・・?どうして隣に・・・居てくれないの・・・?
私、こんなにも・・・寂しいのに・・・こんなにも・・・苦しいのに・・・約束・・・したのに・・・もう、離れないよって。
そう・・・言ったのに・・・私、ずっと待ってるんだよ?どうして・・・私をまた・・・一人に・・・するの?
第百四十話『いつもと変わらないように』
生まれて初めて、意識を失った人間というものを見た。
しかも倒れたのがもし親友だったりしたら・・・もう、言葉に表しようが無い。
私が生徒達の叫び声を聞いて廊下に飛び出した時、
職員室の前に可南子ちゃんが階段の下を青ざめた顔で見下ろしてただじっと立ちすくんでいた。
一体なにがあったのか・・・私は可南子ちゃんの隣をすり抜け階下を見下ろし、息を飲んだ。
ていうか、声も出なかった。どうして可南子ちゃんが青ざめているのか、そしてどうして生徒達が叫んだのか、
その理由をすぐに理解する事が出来たからだ。私は震える足をどうにか前に進ませて、出来るだけ落ち着こうと思った。
「一体・・・なにがあったの・・・聖・・・?誰か、事情を知ってる人は居ないのっ?!」
私はがむしゃらに叫んだ。
いつものように振舞わないと、私も隣で座り込んで動かない志摩子のようになってしまいそうで・・・怖かった。
本当は今は事情などどうでも良かった。ただ、聖を直視する事が・・・出来なかったのだ。
意識を失った人間というのは、どれほど美しいか、私はその時初めて知った。いや、これは聖だったからなのかもしれない。
学園一の美人教諭だったからこそなのかも。
薄い色素が更に抜けて、まるで本物の陶器のように静かにそこに横たわっていた。
堅く閉ざされた瞳に、薄く開いた唇。微かに滲む血の色が余計に際立って見える。
ピクリとも動かない聖の隣で、必死になって聖の名を呼ぶ祐巳ちゃんが沢山の涙を聖の胸に落とす。
でもそれは聖のシャツに染み込むだけで、生憎聖にかかった魔法は解けそうに無かった。
もしもこれがお話の中であれば、童話の世界であれば、聖は祐巳ちゃんの涙で目を覚ましたかもしれない。
でも・・・これは現実なのだ。これが現実。聖は今、意識を失っていて、それを必死になって祐巳ちゃんが起こそうとしていて、
私はただ立ち尽くすばかり。他の人たちもただ息を飲んでそんな絵みたいな二人を見守るだけ。
でも、そんな中で一人だけちゃんと現実の中に生きてる人が居た。SRGだ。
私はこの人が居なかったら、いつまでもこの場から動けなかっただろう。
結果的に救急車の手配をしたのも、そのほかの事も全て、SRGがしたのだから。
それまでずっと泣いていた祐巳ちゃんの顔つきが変わったのは、ひとしきり泣いた時だった。
聖の手を握り締めて、目を覚まさない恋人を前にその名前をずっとずっと呟いていた祐巳ちゃんが、
突然すんごい顔をして階段の上で震えていた可南子ちゃんに目をやったのだ。
このときの祐巳ちゃんの顔を、何て喩えればいいだろう。無表情・・・いや、違う。無表情よりもずっと冷たい、暗い・・・顔。
そしてそこから紡ぎ出された言葉は、まるで呪いのようにも聞こえた。
その声を聞いていた私は、何故かこの二人が羨ましいとさえ思ってしまった。
意識の無い聖は美しい。まるで真っ白な羽のように全ての色を吸収して放さない。
でもそれを守ろうとする祐巳ちゃんもまた美しかった。まるで真っ黒な羽のように、艶っぽく光っていたのだ。
やがてやってきた救急車に聖と、私と、祐巳ちゃんと、SRGが乗り込んだ。
学校の事はあの騒ぎの中でもとりわけ落ち着いていた乃梨子ちゃんと江利子に任せ、私達は学校を後にした。
救急車の中でも祐巳ちゃんは決して聖の手を離そうとはせず、SRGと私はただそれを見つめる事しか出来なくて。
病院について、手術室に運ばれてゆく親友の姿。そしてその傍らを決して離れようとしない恋人。
繋がれた手は永遠にも見えたけど、結局手術室には一緒には入れなくて・・・。
「いやよっ!!私は・・・私は約束したんだもんっ!!聖さまの傍に居るって・・・ずっとずっと一緒だって・・・」
「祐巳ちゃん、大丈夫だから、大丈夫だから」
取り乱す祐巳ちゃんの手から聖の手をそっと外すSRGの心境は、一体どんなだったのだろう。
本当は自分も聖の手をずっと握っていたかっただろうに。それでもSRGは何も言わずに聖を祐巳ちゃんに預けた。
この時初めて、SRGは何て強い人なんだろうって事に気がついた私は、それからずっとSRGの傍を離れなかった。
きっと一人になれば、怖くて震えてしまう。本当は私だって泣きたかったのだ。けど、理事長の私が泣けば皆が不安になる。
祐巳ちゃんが自分の指輪と聖の指輪を交換するのを見つめながら、私はそんな事を考えていた。
掲示板の手術中の文字が赤く染まる。最後に私は、聖と何の話をしたかしら?多分、いつものお小言だったに違いない。
もしくは学校の話。こんな事になると分かっていたら、もっと違う話をすべきだったかもしれない。
でも、それはすぐに思い直した。だって、私と聖の関係はいつもそうだったのだから。
いつもと変わらないのがいいよ。いつか聖はそんな風に死について語っていた事があった。
『だってさー、人間なんていつ死ぬかなんて分かんないじゃん。それなら、いつもと同じがいいよ。
なんにも変わらないのが、一番いい』
そう言って笑った聖の顔を、今でもすぐに思い出せる。でもあれは高校の時の話。今は・・・どう思っていたんだろう・・・。
どれぐらい私達は暗い廊下の長椅子に座っていただろう。時々取り乱したように聖を探す祐巳ちゃんをなだめながら、
私達は無言で俯いていた。そこに、どこかで聞いた事のあるような声が聞こえてきて・・・。
「祐巳ちゃん!!ああ、蓉子ちゃんも・・・一体何があったの?!」
「お、小母様っ?!」
ポカンとその場に立ち尽くす祐巳ちゃんを横目に、私は驚いて立ち上がった。その拍子にSRGが貸してくれた上着が、
膝からスルリと滑り落ちる。
「私がね、連絡したの。一応言っておいた方がいいと思って」
「あ・・・そ、そうでしたか・・・」
私はSRGの顔を見上げて小さく微笑んだ。そんな私の顔を見てSRGも安心したように微笑んだ。
その時だった。突然、それまでじっとしていた祐巳ちゃんが、何を思ったのか小母様の元に駆け寄って行って、
うわーん、と大声で泣き始めたのだ。学校でも、病院でも、救急車の中でも涙だけを流していたのに、
きっとずっと我慢していたのだろう・・・小母様にすがりつくみたいに祐巳ちゃんは泣き叫んだ。
そんな祐巳ちゃんをしっかりと抱きとめた小母様の腕は、聖がいつも祐巳ちゃんにするみたいに優しかった。
「あの・・・お知り合い・・・なんですか?」
何だかその光景が不思議だった私は、恐る恐る小母様に聞いた。
だって聖は大学一年の頃からずっと実家には帰っていなかった。ただの一度も。
それなのに、どうして祐巳ちゃんと小母様に接点があるというのか。
不思議そうな顔してたのは、私だけではなかった。
隣でSRGも小首を傾げ祐巳ちゃんの背中を優しくさする小母様の仕草を見ている。
そんな私達に、小母様は小さく微笑んだ。
まるで何かを懐かしむような口ぶりは、きっと今の聖の状況を酷く心配しているに違いない。
「今年のお正月にね、あの子一度帰ってきたのよ・・・この子を連れて・・・ね、祐巳ちゃん?」
そう言って祐巳ちゃんを見下ろす小母様の顔は、聖ととてもよく似てる。
祐巳ちゃんは小母様の胸に顔を埋め、さっきからずっと大声で泣き続けようやくそれが収まってきた頃、祐巳ちゃんが言った。
「おば・・・さま・・・ど、どうし・・・よ・・・う・・・聖・・・さま・・・死んじゃったら・・・ど、しよ・・・う・・・。
わ、私・・・・を・・・庇って・・・聖さま・・・ぅっ・・・ひっく・・・」
その言葉に、私達は全員固まった。それは、皆が思ってた事だ。でも、怖くてとても口には出せなかった事。
この言葉を口にするのに、祐巳ちゃんにはどれだけの勇気がいっただろう・・・私たちは何も言えず、
ただ黙っているしか・・・なかった。短い沈黙が過ぎて、小母様の口が一瞬開いた。私は、高校の時に何度か小母様に会ってる。
あの時の小母様はとても怖くて、聖が苦手だというのが何となく頷けた。多分小母様は聖の事をとても大切にしていて、
それが痛いほど伝わってきて・・・だからこそ聖を縛り付けていたのだと、今は分かるんだけど。
だからあの小母様が今のこの祐巳ちゃんの言葉を聞いて、どんな反応を示すのかが怖かった。
救急車の中でSRGに聞いた話では、聖はどうやら祐巳ちゃんを庇って階段から落ちたらしい。
もしもそれが小母様に知れたら・・・この後、小母様が叫び出す事は容易に想像する事が出来た。
でも・・・小母様は一度開きかけた口を、今度はしっかりと開けた。
「祐巳ちゃん・・・そう、あの子、祐巳ちゃんを庇ったの?」
「はい・・・はい・・・」
「だったら、何も心配はいらないわ。大体、あの子が祐巳ちゃんを置いて死んでしまったりすると、本気で思う?」
優しい小母様の声は、私達の心にも届いた。正月に何があったのかは・・・分からない。
でも、小母様は今は祐巳ちゃんと聖の関係を認めているよう。そして、聖の性癖も。
小母様の言葉に、祐巳ちゃんの涙が止まった。
小さく笑って、小母様の顔を覗き込んでゆっくりと首を振ったのを見て、小母様はもう一度祐巳ちゃんをギュっと抱きしめる。
ポツリと聞こえた祐巳ちゃんの小さなお礼は、小母様や私、それにSRGにもしっかりと聞こえた。
多分、誰かにこんな風に言って欲しかったのだ、祐巳ちゃんは。聖はあなたを置いていったりしないわよ、と。
その時だった。パチンって音がした。私達には聞こえないぐらいの小さな音だったけれど、
突然祐巳ちゃんがパッと振り返って初めて、手術が終わったのだという事に気づいた。
小母様からそっと体を放した祐巳ちゃんは、もつれる足で這いずるように手術室のドアの前で、
聖が出て来るのを待ちわびている。やがてゆっくりとドアが開き、中から出てきたのは・・・お医者様。
でも、祐巳ちゃんはお医者様には目もくれなかった。聖の安否よりも、聖自身に逢いたいよう。
「えっと・・・佐藤さんのご家族の方・・・ですか?」
お医者様の言葉に、小母様が頷いた。そして涙声で言う。
「聖ちゃんは・・・あの子は・・・どうなんです・・・?だ、大丈夫・・・なんでしょうか?」
震える声。震える手。それはここに居る皆、同じだった。聖は大丈夫なのか、ちゃんと生きてるのか。
それだけで良かった。大丈夫ですよ、の一言だけが・・・欲しかった・・・。
私達の顔をゆっくりと端から見渡したお医者様が、にっこりと笑った。そして、小母様の言葉に頷く。
「大丈夫ですよ。肋骨の骨が二本折れて胃に刺さってましたが、幸いそんなに深くは無かったので命に別状はありません。
それよりも腕の方が重症ですね。何か重いものでも持ってたんですか?」
その言葉に、祐巳ちゃんがピクンと肩を震わせた。そしてその目からまた涙が零れる。
多分、相当責任を感じているのだろう。でも・・・祐巳ちゃんはあれだけ聖を心配したのだ。多分他の誰よりもずっと・・・。
だからもう、責任なんて感じる事はない。それに、例えば反対の立場でも祐巳ちゃんはきっと聖と同じことをしただろうと、
皆も、聖自身も知っているはずだ。先生の言葉に皆安堵の溜息を落とす。ただ一名を除いては。
「聖さま・・・聖さまは!?まだ・・・まだ目、覚ましてないんですか?!」
「え、ええ・・・今はまだ麻酔で眠ってますが、心配はありませんよ。一時間もすれば目が覚めますほら、戻ってきましたよ」
先生はそう言って横に避けて道を開けた。その通路の奥から、まだ目を閉ざしたままの聖を乗せたベッドが、
こちらへゆっくりとやってくる。
「聖さまっ!!!」
祐巳ちゃんは聖のベッドに走り寄って、その顔を覗き込んでホッとしたように微笑むと、次の瞬間表情を曇らせた。
聖の右腕に繋がる点滴とギプスを見つけて、悲しそうに視線を伏せる。
「大丈夫よ、ただの骨折ですもの。ほら、祐巳ちゃんは蓉子ちゃんと一緒に先に聖ちゃんと病室に行ってあげてちょうだい。
でないと、あの子が目を覚まして一人ぼっちだったらきっと寂しがるから」
小母様の言葉に、祐巳ちゃんは無言で頷いた。その後、小母様は私に小さな声で呟く。
「祐巳ちゃんを見ていてあげて」
聖ちゃんよりも祐巳ちゃんの方が心配だわ。そう言った小母様の顔は、さっきと違ってもういつもの聖の母親の顔だった。
優しい、とても優しい・・・小母様の顔・・・。でもその顔にもう心配そうな表情は浮かんではいない。
本当は小母様も崩れ落ちそうなほど心配していたに違いないそれでも、何も言わなかったのはきっと、母親だから、だろう。
母は強い。どんな時でも。そして、それと同じような強さを見せたのが・・・SRG。
「SRG・・・では、先に行ってますね」
「ええ、私は小母様と一緒に聖の容態についてもうちょっと詳しく聞いてから行くわ。祐巳ちゃん、お願いね」
「はい。ありがとう・・・ございました」
「あら、お礼言われるような事何もしてないわよ」
それだけ言って、SRGは小母様と一緒に曲がり角の奥に消えてしまった。
いいえ、SRG。私、あなたが居たから今ここで立ってられるんです。そんな言葉を、飲み込んだ。
病室は個室だった。聖の左手の甲を優しく撫でながらしきりに聖の名を呼び、話しかける祐巳ちゃんの姿は何だか微笑ましい。
まるでさっきまでの祐巳ちゃんとは別人のような祐巳ちゃんの事を、聖に話したら聖は一体どんな顔するだろう?
きっといつものように、ふーん、と言ってそれでお終いだろうか。私はそっと聖の右手に触れてみた。
聖が倒れてから、ただの一度も聖に触れる事が出来なかったのだ。それは、恐怖だったと思う。
何の躊躇いもなく聖に触れられた祐巳ちゃんは、強い。私なら怖くて、きっと触れられない。
聖の手は冷たい。でも、大体聖の手はいつも冷たいからこんなもんだと自分に言い聞かせた。
「祐巳ちゃん。聖、早く目、覚ますといいわね」
「はいっ!」
「起きたらまず、何て言う?」
「そうですね・・・多分、いつも通りだと思います」
そう言って祐巳ちゃんは笑った。いつも通り。なるほど、聖が言ってたのはこういう事だったのか。
いつも通りがいいよ。何も変わらなくていい。それは、自分が居なくなっても何も変わるなって事じゃない。
喩え自分が居なくなっても、いつも通り自分を想って、そういう・・・意味だったのかも・・・しれない。
しばらくして、SRGが勢いよくドアを開けて病室に入ってきた。そして真っ直ぐに祐巳ちゃんの手を取る。
「祐巳ちゃんっ!!手、痛くない?!」
「「・・・は?」」
私と祐巳ちゃんは顔を見合わせ同時に聞き返した。だって、あまりにも唐突な質問だったから。
それでもSRGは祐巳ちゃんの手を握って、真剣な顔で祐巳ちゃんの手を見つめている。
「ねぇ、本っ当に手、痛くない?」
SRGの言葉に祐巳ちゃんは首を傾げながら目の前で両手をパーにした。そしてほんの少し不思議そうな顔をしてポツリと言う。
「・・・い、言われてみれば・・・手首が真っ直ぐだけど真っ直ぐじゃないような・・・それに何だか・・・あれ?い、痛い??」
「それよっ!!どうして早く言わないのっ!?」
「だ、だって・・・い、今気づいて・・・」
そんなSRGの後から小母様がやってきて、祐巳ちゃんを呼んだ。
「祐巳ちゃん、ちょっといらっしゃい。一応、レントゲン撮っておきましょうね」
「え?ちょ、や、あの・・・?」
うろたえる祐巳ちゃんの腕を小母様が引いて、早口で話し出した。
ていうか、私にも一体何があったのか訳が分からないんだけど・・・。
「祐巳ちゃん、聖ちゃんと落ちた時、聖ちゃんの肩に手、回してたでしょ?
もしかしたら折れてるかもしれないからってお医者様が言ってらっしゃるの。さ、行きましょ」
「え・・・えええ〜?で、でも・・・せ、聖さま・・・聖さまが・・・」
「聖ちゃんは大丈夫よ。後一時間は目覚まさないだろうってさっきも先生仰ってたでしょ?」
小母様は有無を言わせなかった。そのまま祐巳ちゃんを引きずってずるずると廊下に消えてしまう。
そんな光景をポカンとして見ていた私に隣に、SRGが座った。しばらく私達は無言で聖の顔を見つめていたんだけど・・・。
「で、蓉子ちゃんはもう、大丈夫?」
不意にSRGがそんな事を言った。視線は聖に向けたまま、私の頭をよしよしと撫でる。
この言葉に、今まで我慢してきたものが溢れ出した。涙と、嗚咽。それに・・・恐怖も。
「・・・ど・・・してそんな事・・・」
「何となく。貴方のことだからまた強がってるんじゃないかと思って」
SRGの言葉は雨のように私に降り注いだ。暖かくて、安心する。そう思った途端、滝のように涙が溢れてきた。
「う・・・こわ・・・かった・・・ひっく・・・怖かったんですっ!!!」
「そうね。私も怖かった。でも、もう大丈夫。だからもう、我慢しなくていいのよ」
「うぅぅ・・・どうしようかと・・・聖が居なくなったら、どうしようかって・・・ひっく・・・うっ・・・」
子供みたいに泣き出した私の肩を、SRGがそっと抱き寄せてくれた。いつもなら、絶対にこんな事許さない。
でも・・・今日だけは・・・特別。甘えたかった。泣きたかった。この恐怖を・・・分かって欲しかった・・・。
いつまでもいつまでも泣く私の肩を抱き寄せたまま、SRGは何も言わない。
「SRG・・・聖は・・・幸せですね・・・誰かを・・・守れて・・・」
私の言葉に、SRGは小さく微笑んだ。そしてポツリと言う。
「もしも蓉子ちゃんが階段から落ちたらその時は・・・私が助けてあげるわよ」
・・って。私を元気付けようとしてくれるSRGの優しさが痛かった。そして・・・甘い。
「期待・・・してます」
だから私も、やっぱりポツリと呟く。その言葉に、SRGは笑ってくれた。ほんの少しだけ、SRGを身近に・・・感じた。
聖が居なくならなくて、本当に良かった。もしも聖が目覚めたらその時は・・・私はやっぱり嫌味を言うと思うの。
目に涙を溜めて、たっぷりのお小言を言ってあげる。いつもと何も変わらないように。
だから聖、早く目を覚ましなさい。皆・・・待ってるんだから。
第百四十一話『青写真』
もしもこれが地獄だとしたら、何て不安定で危なっかしい場所なんだろう。
私は色んな意味で良い人間ではない。だからもしも死んだとしたら、確実に天国には行けないんだろう。
体がフワフワする。落ちそうなんだけど、浮きそう。何か・・・変な感じ。
気持ちいいのか気持ち悪いのかよく分からない浮遊感がやけにまとわりついて・・・ねぇ・・・もう何も・・・聞こえないよ・・・。
私が覚えてるのは、祐巳ちゃんが階段から落ちたという事。落ちたというよりは、まるで飛んでるみたいだった。
丸く弧を描いて投げ出された華奢な体は下についた途端にきっと、壊れてしまう。
私にはそれが何故かくっきりと鮮明に想像することが出来たんだ。早く捕まえなきゃ!それだけを考えてた。
「祐巳っっっ!!!」
咄嗟に飛び出した言葉は祐巳ちゃんの名前。それも呼び捨て。でも、今はそれどころじゃなかった。
青ざめて立ち尽くす可南子ちゃんを片手で押しのけて、私は必死になって手を伸ばした。どうか届いて!!!
それだけを願ってたんだ。他には何も考えなかった。いや、考えられなかった。この手さえ届けば、それでいいから。
他には何もいらないから、だから・・・届いて・・・。そして指先が触れた。私は心の中でそれを喜んだ。
これなら・・・いける!!ところが、何を思ったのか祐巳ちゃんは突然、その手を引っ込めた。そして・・・笑ったんだ。
イタリアから帰ってきて一週間とちょっと。ようやく祐巳ちゃんの笑顔を・・・見たんだ。
そして次の瞬間、今度はその笑顔を永遠に失うかもしれない・・・なんて思って・・・。
・・気がついたら、私は祐巳ちゃん目掛けて飛んでた。自分でもほんと、バカだと思う。でもさ、勝手に動いたんだ、体が。
考える瞬間も無いまま、決断力とかそんな事に頼ってる場合でもなくて。
祐巳ちゃんがごちゃごちゃ言うんだけど、私は意外に長い落ちる瞬間の殆どをどうすれば祐巳ちゃんが無事でいるか、
なんて事考えてて・・・。ほら、よく言うじゃない。人間、死ぬ前は今までの記憶が走馬灯のように蘇るとか何とか。
あの瞬間を、私は殆どそれに費やしてしまった訳。で、最後の最後、下につく瞬間に思ったのが、祐巳ちゃんとの・・・キス。
もしも、落ちてもまだ少しでも意識があれば、今度こそ祐巳ちゃんにキスしてもらおう。そんな事考えてたんだ、ずっと。
鈍い衝撃が初めに腕に走って、それから脇腹、足にうつってって、もう目も開けられなくて。
痛いというよりは、苦しいって方が大きかった。最低限の酸素を吸うのがやっとって感じ。
でもね・・・私さっき、走馬灯の時間をはっきり言って、どうでもいい事に費やしたような気がしたのよ。
だからって訳じゃないんだけど、何だか急に切なくなってきて、かろうじて目を開けたら祐巳ちゃん泣いてるし。
その涙を見て、私は苦しくて仕方なかった。だって・・・また泣かせちゃった・・・そう、思ったから。
そう思ったらもうダメだった。私はもしかすると、相当まいってたのかもしれない。祐巳ちゃんの涙をきっと、見すぎたせいだ。
気がついたら私は・・・泣いてた。これで最後になるかもしれない。頭のどっかではそんな事も考えてて、
どうせなら最後は祐巳ちゃんには笑って欲しかったのに、また泣かせるなんて。
そう思うと、怖いってのと同時に悲しくて仕方なくて。まぁ・・・怖いってのが多分大半だったんだけど。
祐巳ちゃんとさ、離れるのが凄く・・・嫌だった。怖かった。また一人になるんだってそう思ったら・・・涙は止まらなかった。
最後になるならちゃんと伝えなきゃ。そう思ったのは、それからすぐだった。
でもいくら伝えようとしても、私はやっぱり自分の事しか言えなくて。祐巳ちゃんに伝えたかった言葉とは違う、
私の願いしか・・・言えなくて。最語に、キスして、って言ったのがやっとだった。
もう一言も喋れない。私は、きっとこれを言ったらまた目を閉じる。そんな事が何となく漠然と頭の隅に過ぎる。
久しぶりのキスは、血の味がした。鉄臭くて、とても美味しいとは言えなかったけど、祐巳ちゃんの唇は何も変わらなくて。
ありがとう。この言葉だけは、どうしても伝えたかった言葉だった。出逢ってからずっと、心の底から言いたかった言葉。
最後に耳に届いたのは床に響いた指輪の音と、祐巳ちゃんの私の名前を叫ぶ声。
『聖!』たったそれだけ。でも、初めて『様』がつかなかった。
嬉しいんだけど・・・出来るならもっと早くそうやって呼んで欲しかったなぁ・・・なんてそんな事思いながら、
私は意識を失った・・・んだと、思う。多分。
だって、ここから先は何だか見た事もないような夢の中の世界に居たような気がしたから。
フワフワしたとこを私はずっと歩いてた。でも、花畑とかそういう類のはどこにも無い。
ちなみに、もう死んでしまった知人も居なかった。でも、私は一人きりじゃなかったんだ。
誰かが私の左手をずっと握ってて、でもそれが誰の手なのかいくら考えても思い出せなくって。
「何か・・・いい匂いがする・・・」
小さな声だったはずだったのに、やたらに響いた声。ここは一体・・・どこなんだろ・・・。足元を見ても何も無い。
真っ白って訳じゃないんだけど、ただ・・・そう、何も無い。上も下も、右も左もそんな感じ。
でも、左手だけに誰かの手がくっついてて、やたらに花の匂いがして、何故か少しも怖いとは思わなかった。
その時だった。突然体が跳ねた。何故かは分からないんだけど、ピョンって飛び上がった瞬間、私の体は高く高く飛んだ。
それでもまだ手はくっついてて、私の手を離そうとしない。でもその手を全然邪魔だとは思わなかった。
むしろなんか・・・ちょっと愛しいとか思ってる自分も居て。でもこの世界、本当に変なんだ。
私は私なんだけど、私が誰だかちっとも思い出せない。私の名前は何だっけ?どんなに考えても思い出せなくて、
それでも少しも不安にはならなくて。高く飛び上がった私の体は、ようやく飛び上がるのを止めた。
試しにもう一回飛んでみると、やっぱり体は面白いぐらい軽い。こ・・・これは・・・面白いかもしれない・・・。
「月ってこんな感じなのかな」
重力が少ないとこで飛び上がるとこんな風にふわふわするのかなぁ・・・それが面白くてしばらくそうやって遊んでたんだけど、
しばらくしたら・・・飽きた。だからとりあえず私はその場に座り込んで色んな事を考える事にした。
私はどこから来たんだっけ?私は誰かと何か約束してたよね?でも、誰と?ていうかそもそも、私・・・形・・・ある?
手を見ると、ちゃんとある。不思議なのは、握ってる訳でもないのにずっとくっついてる私のじゃない、誰かの手。
その手は私のよりもずっと実体があるように思えた。
その手をしばらくじっと見てたんだけど、何故か突然触ってみようって思った。ほんと、どうしてかは分かんないんだけど。
そして・・・その手に触った瞬間・・・いきなり色んな事を思い出したんだ。私の名前、住所、電話番号、好きな食べ物、
勤めてる場所、栞、友達、仲間、両親、それから・・・。
「祐巳・・・ちゃん・・・」
呟いた瞬間、涙が零れた。私は祐巳ちゃんに逢いたくて、そこでずっとずっと泣いてた。
そしたら今度はその涙が川になって、船が一つポツンって浮いてたんだ。私はその船のとこまで行って、ふと思った。
これ・・・渡ったら・・・ヤバイんじゃない?って。だってほら、よく言うじゃない。三途の川って。
しばらくその船に乗ろうかどうしようか考えてたんだけど、ふと思ったんだ。そうだ!渡らなきゃいいんじゃん!って。
私は船に乗って、流れに任せた。川の両端に浮かんでは消える光景。私が生まれた日の事。幼稚園に入った時の事。
小学校、高校、卒業して大学。家を飛び出した時の光景とか、色んな光景が映った。
川をどんどん下って大きな海みたいな場所に出たとき、目の前一面に本当に沢山の映像が浮かんでた。
「うわ・・・これが私の人生か・・・」
今まで見てきたのは、全部私の人生だった。多分潜在意識の奥の記憶って奴だと思う。
その広い場所に映された映像は、今まで見たどの映像よりも明るくてはっきりしてて・・・。
「・・・祐巳ちゃんばっかじゃん・・・私ってほんと・・・どこまで・・・」
祐巳ちゃんが好きなのよ。そんな言葉を飲み込んだ。これ以上話すと、きっとまた涙が零れると、そう・・・思ったから。
どこを見ても祐巳ちゃんばっか。上も下も、右も左も・・・全部。出逢った日からつい昨日のものまで。
そのどの祐巳ちゃんも私の視点から見つめられてて、全部・・・笑ってた。
「そうそう、祐巳ちゃんはこうやって笑うのよ」
何だか嬉しくなって私は食い入るみたいにその映像を見てたんだけど、しばらくしたらそれが全部消えてしまった。
そして今までのよりもずっと大きな映像が目の前にバン!って映って・・・それがついさっき見た、祐巳ちゃんの泣き顔で・・・。
「最後に・・・これなの?どうせならもっと違うの見せてよ・・・」
言ってから気付いた。違う、そうじゃない。泣かせたのは私。
そして・・・覚えてる最後の祐巳ちゃんの顔は・・・確かにこれだったんだ。私は船の上で膝を抱えてその間に顔を埋めた。
今もまだ手がくっついてる。もう一回触れば、祐巳ちゃんに逢えるかな?もう無理かな?
涙がまた零れる。どうして私、こんな所でずっと泣いてんだろ。私、ここに居てもいいのかな?本当に?
私、祐巳ちゃんと約束したんじゃなかったっけ?でも、何を?私の決意って、何だったっけ?
「ねぇ祐巳ちゃん・・・お願い、教えてよ・・・」
私はそっと左手にくっついてる手に、右手を重ねた。その時だった。突然私のはめてた指輪が・・・消えた。
「そんな・・・どうして!?」
あれは私と祐巳ちゃんを唯一繋ぐものだった。あんな安物の指輪だけど、大切な・・・ものなのに。
指輪と一緒に消えた手・・・あれはやっぱり祐巳ちゃんの手だったんだ・・・さっきまで手がくっついてた場所をいくら触っても、
もう手は出てこない。おまけに指輪も無い。そう思った途端に、足元が崩れた。私は船から投げ出されて、
真っ暗な中をどんどん下に落ちてゆく。
必死になって手を伸ばすんだけど、私は知ってた。ここには、私以外誰も居ないって事を。
「嫌よ!私にはまだしなきゃいけない事があるんだからっ!!」
いくら叫んでも誰も助けてなんてくれなくて、本当にここで終わっちゃうのかな・・・なんて思ったりもして・・・。
でもね・・・ただ祐巳ちゃんだけが、私の心を救ってくれてた。
祐巳ちゃんが居るから。そう思うだけで、まだ私は・・・一人じゃなかったんだ。
そうだ・・・思い出した・・・祐巳ちゃんとの約束・・・。
私はまだ、祐巳ちゃんに言ってない。一緒に幸せになろうね、って。結婚式を挙げようって、ずっとずっと思ってたのに。
志摩子にも静にも背中を押されて、私は決めたじゃない。もう逃げないって。私は覚悟を決めたじゃない。
きっと祐巳ちゃんはずっと私の言葉を待っててくれてる。ずるずる先延ばしにした約束。それに、それだけじゃない。
回らないお寿司屋さんも、海も、ステーキも、まだ約束どれも・・・果たしてない。
こんな所で思い出なんて思い出してる場合じゃ・・・ない。
そう思った瞬間。今度は目の前が明るくなった。さっきまであんなにも暗かったのに、今度は目がくらむぐらい明るい。
どれぐらい不安定に浮いてたんだろう。ようやく地面に足がついた時、隣に誰かが居た。
「聖さま」
「・・・祐巳ちゃん」
もう手だけじゃ・・・なかった。でも、それが本物ではないことも知ってる。これはきっと私の中に居た、あの幻の祐巳ちゃんだ。
でもあの時触ることが出来なかった幻の祐巳ちゃんと、今私はしっかりと手を繋いでいる。とすると・・・ここは私の幻の中?
「ここ・・・どこ?」
「それは聖さまが一番よく知ってると思いますよ?私はだって、ここで生まれたんですから」
ああ、やっぱり。私は私の中に入り込んでいたんだ。私は幻の祐巳ちゃんとしばらく手を繋いで歩いていた。
天国じゃなかった。地獄でもなかった。でもある意味、それよりももっと苦手な場所・・・。
「ねぇ、ここ寂しくない?」
ずっとここに一人で居るってのは、どれだけ寂しいんだろう。私はそんな事を考えて幻の祐巳ちゃんに聞いた。
そしたら祐巳ちゃんは笑った。少しだけ寂しそうに。
「だって、聖さまはいつまでも私を待たせるから。いい加減自分をもう少し見てあげてください。
そしたら私も、きっともう・・・寂しくなくなりますから」
「どういう・・・意味?」
「さあ、どういう意味だと思いますか?」
幻の祐巳ちゃんは今度はにっこりと笑った。この世界は私そのもの。でも、私はいつだって寂しくて、一人ぼっち。
そんな中にある日突然祐巳ちゃんという子が迷い込んできて、そしてここに住み着いた。
「でも・・・随分暗いところは無くなりました。最初はもっと・・・怖くて寂しかった・・・」
そう言って辺りを見渡した祐巳ちゃんは何も無いのに満足げに微笑む。
「そっか・・・ごめんね」
「いいえ。きっとこれからもっと、明るくなるって信じてますから!」
幻の祐巳ちゃんはほんと、可愛い事を言う。現実の祐巳ちゃんは・・・多分こんな事言わない。
でも、私はやっぱり現実の祐巳ちゃんに逢いたかった。幻じゃなくて、リアルな祐巳ちゃんに。
「私も、いつもそう・・・思ってました。いつ聖さまが逢いに来てくれるんだろう?って。
・・・だって、聖さまは自分の中なんて・・・覗かないでしょ?」
だから私はずっと待ってた・・・そう言って幻の祐巳ちゃんは静かに涙を零した。確かに、私はあまり自分の中を覗かない。
だから自分の事がよく分からなくて、いつまで経っても自信が持てなくて・・・。
私はそっと幻の祐巳ちゃんを抱き寄せた。幻の祐巳ちゃんは現実の祐巳ちゃんよりも軽い。
ふと幻の祐巳ちゃんの左手の薬指に光ったのは、私の指輪。でも、私の指にもちゃんと指輪がはまってる。
それに気付いたのか、幻の祐巳ちゃんが笑って言った。
「私ね、いつだって聖さまの傍に居たいんです。良かったですよね、指輪のサイズが同じで」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
幻の祐巳ちゃんの言葉は、最後まで謎かけみたいだった。どういう意味なのか分からない私の手をそっと離す幻の祐巳ちゃん。
それは・・・お別れの時間が近づいてきてたって事だったんだと思う。誰かの声が遠くから聞こえる。
それは・・・現実の祐巳ちゃんの声。愛しくて思わず目を細めた私は、そっと上を見上げた。
それまで何もなかった天井に、虹がかかってる。
幻の祐巳ちゃんがそれを見て嬉しそうに手を叩いて喜んだ。
「虹ですね!・・・ねぇ聖さま。知ってますか?皆、私のような存在が心の中に居るんですよ。もちろん・・・私にも」
「祐巳ちゃんにもって事?」
「はい。現実の私の中には、私のような存在の聖さまが居ます。きっと!」
「・・・そっか、ありがとう。・・・私・・・また来るから。必ず・・・逢いにくるから!
寂しくないように、怖くないように・・・幸せになるから!」
私の言葉に幻の祐巳ちゃんが笑った。でも、その頬に涙が伝う。
「はいっ!」
涙を拭く事もしないで元気に返事をした幻の祐巳ちゃんが、喜べるように私は私を認めなくてはならない。
もっともっと幸せになれるよう、祐巳ちゃんを愛さなきゃ・・・でなきゃ、あの子はいつまでたってもあそこで一人ぼっちのまま。
私の行動一つで変わる世界。それを思うと少し怖い。でも、それが生きるって事なのかも・・・しれない。
私はそっと目を閉じた。
全てがぼやけてやがて何も見えなくなって・・・大きく息を吸い込んだら、あの大好きなフローラルの香りが・・・した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・ん・・・・・」
「聖さまっ?!聖さま!!!!」
胸の辺に痛みが走った。思わず咳き込んだ私が目を開けると、そこには何故か右手首にギプスを巻いた祐巳ちゃん。
あれ?確かあの時・・・怪我してないって・・・そう、言ってなかったっけ?怪訝そうな私の顔で全てを理解したんだろう。
祐巳ちゃんは苦笑いして言った。
「あはは、私も手首骨折してたみたいで・・・」
「・・・なに、それ・・・」
こんなにも痛い思いして助けれたと思ったのに、結局祐巳ちゃんも怪我してたのかと思うと、何だか悲しくなった。
ていうか、死ぬか生きるかって体験してきて一番最初の言葉が・・・なに、それ・・・それこそ、なに、それ・・・だわ、ほんと。
何だかそれがおかしくて笑った私を見て、祐巳ちゃんがホッとしたように笑った。
その顔を見た途端、祐巳ちゃんの両目から大粒の涙が零れ落ちる。
「バカバカバカ!!!聖さまのバカッ!!どうして・・・どうして・・・じっとしてなかった・・・ですかっ!!
わ、わた、私が、どん、どんだけ心配したと・・・思って!!!」
「い、痛い、痛い!!」
私の胸の辺りに顔をドンと押し付けて泣く祐巳ちゃん・・・でもそこ・・・多分、怪我したとこ・・・。
痛さのあまりに思わず漏れた呻き声を聞いて、祐巳ちゃんはパッと体を離した。
「ご、ごめんなさいっ!!」
両手で口を覆うその左手に、キラリと指輪が光る。だから私は言った。
これは賭けだけど、でも・・・幻の祐巳ちゃんが言ったんだもん。
サイズが一緒で良かったですね、って。それってさ、やっぱり・・・。私はぐちゃぐちゃになった祐巳ちゃんの髪をそっと撫でた。
「ずっと・・・一緒に居てくれてたのね・・・ありがとう・・・サイズ、一緒で良かったよね」
そう言って私が指差したのは、祐巳ちゃんがしてる指輪。
それを見て祐巳ちゃんが驚いたように自分の薬指から指輪を抜き取って、私の動かない左手にはまった指輪と交換してくれた。
「ど、どうして分かったんですか!?」
「さて、どうしてでしょう?企業秘密だよ」
そう言ってウィンクしてみせると、祐巳ちゃんはお得意の百面相で返してくれた。感動のご対面!って訳には・・・いかなかった。
どうやら私達にはどこまでもシリアスは似合わないみたい。
でも、それでもいいや。格好つけなくても、祐巳ちゃんは傍に居てくれる。
私はそっと祐巳ちゃんの手を引いた。もちろん右手で。そしたら祐巳ちゃんも嬉しそうに近寄ってきて、
ベッドに腰を下ろしてまだ起き上がれない私が痛がらないように、そっと優しく抱きしめてくれた。
「・・・お帰りなさい・・・」
「はい、ただいま・・・」
待たせてごめんね。責めて・・・ごめんね。そんな言葉を心の中で呟いた私は、そっと目を閉じた。
いっつもはこれは祐巳ちゃんの役。でも、今日だけは・・・いいかもしれない。だって、私も随分待たされたんだから。
そんな私の心が分かったのか、空気が動いた。祐巳ちゃんの唇が私の唇と重なる。
甘くて、柔らかくて、心地よい。ここにちゃんと居るんだって、そんな風に思えた。
私は祐巳ちゃんを抱き寄せた。多少痛くたって、構わない。だって、また逢えたんだから!
「ねぇ、もっとしよ?」
私の言葉に祐巳ちゃんがイタズラに笑った。それはさっき見たどの映像よりも鮮やかで鮮明な・・・笑顔。
ああそうだ・・・本物の祐巳ちゃんは、こんな風に笑うんだ。私の中の青写真に、きっとまた一枚追加されたに違いない。
私はゆっくりと言った。今さっき決めた誓いと、覚悟を聞いてもらうために。祐巳ちゃんの中の私にもしっかりと届くように。
「あのね、聞いて欲しい話が・・・あるんだ」
春とは思えないほど涼やかな風が舞い込んできて、私たちを包む。柔らかくて、思わず泣いてしまそう。
私は・・・ここに居る。もう絶対に・・・離れない。そして、この先はどこまでも・・・二人で・・・。
第百四十二話『無意識の言葉』
私は聖さまの顔を覗き込んでゴクリと息を飲みこんだ。真剣な聖さまの顔。どこか照れたみたいに少しだけ視線を伏せて・・・。
聖さまは普段あんまり改まって話し出す事なんて殆ど無い。からかいついでに大事な事言う。
だから私は変に身構えてしまった。ていうか、正直怖いじゃん!!一体何言われるのかと思うと!!
「な・・・なんです・・・か・・・?」
ビクつく私を見て、聖さまが深く息を吸い込んだ。
「あのね、いつか言おうと思ってたまま随分先延ばしにしちゃったんだけど、今回こんな事になって改めて私、
真剣に考えて・・・だから、その・・・あのね!」
「はい?」
煮え切らない聖さまの態度。一体何を真剣に考えたのか。ていうか、早く言ってよ!!私、心臓が壊れそうじゃない!!
ギプスをはめて動かせない聖さまの左手を、私は強く握った。そしたら聖さまもかろうじて握り返してくれて・・・。
さっきまではさ、どんなに強く握っても聖さまは少しも握り返してくれなかった。意識が無かったんだから当然なんだけど、
それがどれほど・・・どれほど寂しかったか。どれだけ私がこんな風に・・・聖さまと手、繋ぎたかったか・・・。
そんな事考えたら知らないうちに涙が零れてきた。良かった・・・聖さまを失わなくて・・・本当に良かった!
ううん、違う。良かったなんてそんな簡単な言葉じゃ言い表せないよ!
多分、この世のどんな言葉も今の私の気持ちには当てはまらない。私は涙を流したまま笑った。
何故か、困ったような聖さまが凄く愛しくて仕方なくて。
「な、なによ。何がおかしいのよ?」
「べっつにー!それよりも、何なんです?話したい事って」
「あー・・・あのね!私、あの時本当にもうダメだって思って、だから次もし祐巳ちゃんに逢えたら絶対に言おうって・・・その・・・」
「聖さま?どうしたんですか、いつもの聖さまらしくない・・・はっきり言ってくれないと私には通じませんよ?」
「わ、分かってるわよ!で、でもその・・・こ、心の準備って奴が・・・あーもう!あのね!!」
「はいっ!!」
私達は多分ヤケになってたんだと思う。ていうか、ムキになってた?聖さまが突然声を荒げて、右手でしっかりと私の肩を掴む。
痛いぐらいの力で・・・でも、私はそれが嬉しくてどうしようもなくて。
「あの・・・祐巳ちゃん!私とけっこ・・・」
「やだー!もう目、覚ましてたのねー!!」
「あら、本当だわ。おはよう、聖」
「聖ちゃん!!この子はもう!!心配ばっかりかけてっっ!!!!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
私の肩を掴んだ聖さまの手から、次第に力が抜けてゆく。それと同時に聖さまの顔が引きつってそれで・・・。
「せ、聖さま?あ、あの・・・よく・・・聞こえなかったんですけど・・・」
「・・・だろうね・・・うん、もういいや・・・はぁぁぁ・・・」
大きなため息を漏らした聖さま・・・何だか本当に重要な事言おうとしてたみたいで、その気落ちのしようったらない。
ていうか・・・気になるんだけど・・・でも、この様子じゃ多分聖さまはもう教えてくれなさそう・・・ちぇー。
私の肩に添えられた聖さまの手を見たSRGがニヤリと笑って意地悪に言う。
「もしかして私達・・・お邪魔だったかしら?」
「ああ、まぁ・・・そうですね。思いっきり邪魔ですよ」
聖さまは私の肩から手を下ろしてフンって顔を背けてしまった。聖さまってば・・・なに拗ねてるんだろ・・・。
よく分かんないけど、とりあえずこれで元通りだ・・・そう思っただけで笑いが込み上げてきて。
「・・・また笑ってる・・・」
聖さまがポツリと呟いた言葉に蓉子さまとSRGもおかしそうに笑い出した。それを見て小母様も微笑む。
「なによ、皆して・・・なにがおかしいのよ?」
「あなたがね、無事だったからよ」
蓉子さまの言葉にいつもの嫌味は少しも込められてなかった。多分、心の底から出た言葉だったんだと思う。
そうだよ、聖さま・・・あなたがね、無事だったから、皆笑ってるんですよ!皆、聖さまの事・・・大好きなんだからっ!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・なるほどね。それであんな事になった訳ね・・・」
蓉子さまは足を組み替えながら小母様の持ってきたリンゴを剥きながら納得したように呟いた。
SRGは隣でお茶を入れてて、私はそれをどこか遠いとこで聞いてるみたいな気分で。
小母様がそんな私の肩をさっきからずっと撫でてくれてる。それを聖さまが悔しそうに睨んでたけど、蓉子さまが話し出すと、
視線を蓉子さまに移し言った。
「そ。だから別に誰が悪い訳でも無いのよ」
「そうは言ってもねぇ・・・二人も怪我人が出てる訳だし、報告しない訳にもいかないわ」
「何て説明すんのさ?保健医を二人の女教師が取り合った挙句に、階段から落ちたって?それこそ誰も信じないわよ」
確かに。あんまり無い状況だもんね。ていうか、そもそも飛び出してった私が余計に話をややこしくした訳で・・・。
「すみませんでした・・・私が何の考えもなしに飛び出したばっかりに・・・」
俯いた私を庇ってくれたのは、小母様とSRGと蓉子さま。でも、聖さまは・・・怖い顔して私を睨んだ。
「確かに。それは否定しない。だってそうでしょ?どうして私を庇ったりしたのよ?」
「そ、それを言うなら、どうして聖さまだって私を助けたりしたんですかっ!!」
「なっ!あ、あったりまえじゃない!!祐巳ちゃん運動神経ないんだから絶対にこんな怪我ですむわけないでしょ!?」
「ひ、ひどっ!!そ、そりゃ私は運動神経ないですけど、でもいざって時には物凄い力発揮するんですから!!」
いや、これは多分嘘だけど・・・でも、言っちゃった手前もう後には引けないし、聖さまの言う事になんかすんなり納得出来ない。
そんな私の言葉に聖さまは鼻で笑った。
「ふん、よく言うよ!誰よ、こないだ公園で逆上がりの一つも出来なかったの」
あんな小学生でも出来るってのに。聖さまはそう言って意地悪に笑った・・・くぅぅぅ・・・ム、ムカツク・・・!!
「せ、聖さまこそ!!そ、そりゃ運動神経はいいかもしれませんけど、
ブランコから飛び降りて着地失敗して転んでたじゃないですかっ!!詰が甘いんですよっ!!」
「な、なんですって?!じゃあ鉄棒で蝙蝠やってそのまま背中から落ちたのどこの誰よっ!?」
「あ、あれは手がたまたま滑って・・・」
「あー・・・二人とも、そんな話はもうどうでもいいから。ていうか、あんた達いい歳して何やってんのよ・・・バカなんじゃないの?」
よ、蓉子さま・・・聖さまはともかく私は本気なんですよ・・・。でも、蓉子さまの一言は確かに当たってた。
今はそんな話してる場合じゃないんだった!!私と聖さまは顔を見合わせて俯いた。つか、恥ずかしくて。
それにしても聖さまってば・・・なにもこんな所で私の運動神経のなさっぷりを暴露しなくてもいいのに・・・。
でも、どうやらそれは聖さまも同じこと考えてたみたいで・・・聖さまは私の方をチラリと見て軽く睨んで小さく舌を出すと、
また蓉子さまに視線を移した・・・うぅ・・・聖さまめ・・・そんな私を慰めてくれるのは・・・やっぱり小母様で・・・。
「祐巳ちゃん。大丈夫よ!逆上がりが出来なくたって、大人にはなれるんだから。
それで別に人間の価値が決まる訳じゃないんだから」
「・・・はあ・・・」
お・・・小母様・・・それ、あんまりフォローに・・・なってませんよ・・・とは、流石に言えなかった。
ていうかさ、話を戻して結局誰が悪いかって言ったら、それは聖さまも言ったように誰が悪いわけでもないと思うんだ。
皆の気持ちがすれ違っただけっていうか、皆が皆悪かったっていうか・・・複雑だけど、そういう事なんだと思う。
可南子ちゃんも瞳子ちゃんも別に悪気があった訳じゃないと思うし・・・そんな私の考えに、蓉子さまは大きなため息を落とした。
「そうよね・・・結局誰も悪くないのよ・・・でも、やっぱり瞳子ちゃんと可南子ちゃんにちゃんと話を聞いた方が良さそうね・・・」
「そう・・・ね。可南子ちゃん・・・辞めるとか言い出さなきゃいいけど・・・」
聖さまはそう言って視線を伏せた。でも・・・確かにそれはありえないとは言い切れないよね。
・・だって、結果としては私は可南子ちゃんを振った訳で、しかも・・・あんな事まで言っちゃって。
・・・さっき蓉子さまに聞かされた。私は無意識のうちに可南子ちゃんに随分酷いことを言ったんだって・・・でも、謝れない。
ていうか、謝ってももう遅い。無意識から出た言葉ほど心に近いものはないんだから・・・。
視線を伏せた私の肩を、聖さまが抱き寄せた。顔を挙げたら聖さまが哀しそうに、でも優しく微笑んでる。
「祐巳ちゃんがそんな顔しなくていいよ。大丈夫、絶対辞めさせたりしないから」
「せ・・・さま・・・」
「私に任せときなって」
自信満々にそう言って笑った聖さま。
なんだかその自信がほんのちょっとだけ不安になるけどでも・・・今は聖さまを信じるしか・・・ないんだろうな・・・きっと・・・。
第百四十三話『祐巳ちゃんの容態』
あの日から今日ですでに一週間。
全く、ついてないよね。結局全治三ヶ月だって。私は動かない腕を見つめて大きなため息を落とした。
まぁ・・・利き腕じゃなかっただけ良しとするか。窓の外を見つめてもう一回大きなため息を落とした私は、ゆっくりと目を閉じた。
今頃はきっと授業中だろう。私は最低でも一ヶ月は入院しなきゃならなくて、おまけに肋骨が折れてるから息すんのも痛くて、
左手は動かないし、また祐巳ちゃんと離れ離れだし・・・もうね、いい事何にも無い。
でも、今朝の検診で医者が言った。もしも一人で階段から落ちてたら、きっともっと深く肋骨が胃に刺さってた、と。
多分、祐巳ちゃんを強く抱きしめたまま落ちたから、祐巳ちゃんがクッションになったって事なんだろうと思う。
それに祐巳ちゃんは無意識に私の肩を守ってくれていたんだ。それを思うと・・・何だか嬉しいような恥ずかしいような気分。
だってさ、守ってるつもりが結局守られてたんだもん。これって結構切ない。
どれぐらいぼんやり窓の外を眺めてたのかな。ふと、見知った顔がゾロゾロとこちらに向ってくるのが見えて、
思わず私は体を起こそうとした・・・けど、お、起きれない・・・。
「やっほー!来たわよ〜」
病室のドアが勢いよく開いて、お姉さまが入ってきた。手には花とか果物とか沢山持ってる。
「なんです・・・その果物の山は・・・」
「それがね〜、ここに来る途中学校で色んな子から渡されちゃって。全部持ってきたらこんな事に・・・」
「ああ、なるほど・・・でも、私まだ食べられないんですけど・・・」
「ええ、もちろん知ってるわよ。だからこれは私達がちゃんと食べてあげるから心配しないで」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
いや、そうじゃないでしょ。つかさ、どうして先に私がまだ食べられないって断らないかな?
皆の好意は凄くありがたいけど、目の前で美味しそうに果物とかお菓子とか頬張られるとそれって、かなり腹立つんですけど。
お姉さまから遅れてゾロゾロとやってきた連中もまた、皆手に色んなものを持っていて・・・私はガックリと頭を垂れた。
江利子に蓉子、志摩子に由乃ちゃん。後は・・・来てない。そりゃそうよね。だって、まだ思いっきり授業中なんだから。
「お姉さま・・・ご無事で何よりです・・・本当に・・・一時はどうなることかと・・・」
志摩子が涙を浮かべながら私の腕(ギプスを)をそっと撫でてくれる。私はそんな志摩子を見て苦笑いを浮かべるしかなくて。
「ごめん。心配かけたよね。でももう大丈夫だから」
「ええ、でも・・・もう二度とあんな事しないでくださいね!?」
「分かってます。ていうか、それは祐巳ちゃんに言ってよ」
そうよ。そもそも祐巳ちゃんが落ちなきゃ私が落ちる事もなかったんだから。で、ふと気付いた。
私はグルリと部屋を見渡して、ポツリと呟く。
「ところで・・・祐巳ちゃんは?」
あれから毎日毎日そりゃもう鬱陶しいぐらいに必ずやってくる祐巳ちゃん。ところが、今日は祐巳ちゃんだけが居ない。
何だかそれが、それだけの事なのに酷く悲しくて・・・。鬱陶しいとか言いながら心のどっかで期待してたんだなぁなんて思って。
私の言葉に皆が顔を見合わせた。そして言いにくそうに蓉子が呟く。
「それが・・・祐巳ちゃん今日学校お休みしてるのよ・・・あんた一緒に住んでるんだから何か聞いてないの?」
「・・・学校・・休んでる?祐巳ちゃんが?」
だって、昨日までは嬉々としてお見舞い来てくれてたのに・・・なんで?
ていうか、どっか調子悪いだなんて一言も言ってなかったし・・・。
「そうよー。突然今朝電話があって、声に全然元気なくて・・・家行こうか?って聞いたんだけど、聖さまに悪いからいいって・・・。
風邪か何かかしら・・・そういえば最近またインフルエンザ流行ってるみたいだし・・・」
この時期に?そんな事を考えながら私は今家でグッタリしてる祐巳ちゃんを想像して無理矢理体を起こした。
ヨロヨロと立ち上がろうとする私を止めようとする蓉子とお姉さま。
でも、行かなきゃ・・・あの子、絶対無理して来てたんだ・・・昨日まで。
「聖!ちょっとあんた、まさか家帰る気じゃないでしょうね!?」
「そのまさかに決まってるでしょ!?」
絶対絶対一人で泣いてるに決まってる。祐巳ちゃんはしんどい時絶対に一人でいたがらない。
でも・・・お姉さまの好意を断ったところは・・・褒めてあげたい。そりゃお姉さまが祐巳ちゃんに何かするとかは思わないけど、
私の知らないところで祐巳ちゃんが誰かと二人きりになるなんて許せないし。
ドアに向ってヨタヨタ歩く私の腕を蓉子は放さない。
珍しく江利子まで真剣な顔して早口で由乃ちゃんに祐巳ちゃんと連絡とるよう指示してる。
「今由乃ちゃんに連絡してもらうから、とりあえず聖は大人しくしててちょうだい」
「・・・・・・・わかった・・・・・・・ごめん」
「全く。聖はほんと、祐巳ちゃんの事となると見境なくなるんだから」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
た、確かに。まぁあれだ。これが惚れた弱みって奴だ、きっと。だって、本当に大事にしたいんだよ。
ちょっとでも不安にさせたりとかしたくないっていうか、どこに行くにも何してても傍に感じてたいっていうか、
・・よく分かんないけど、そんな感じ。だってさ、私には今皆居る。でも祐巳ちゃんには・・・誰も居ないじゃない。
そんなの・・・寂しいに決まってる。そんな事考えてると、由乃ちゃんが病室に戻ってきてやっぱり早口でまくしたてた。
「わ、私、このまま祐巳さんとこ行ってきます!!」
「ど、どうしたの?祐巳ちゃん・・・そんなに酷かったの?」
由乃ちゃんの声に私は固まった。心配そうな蓉子の声。そえをよそにさっさと荷物をまとめ出す由乃ちゃん・・・。
「由乃ちゃん・・・祐巳ちゃん、どうしたって?」
俯いてポツリと呟いた声は自分でも驚くほど冷たかった。
別に誰かに怒ってる訳じゃないんだけど、気がついたら怒ってるような口調になってしまった。
私の声に皆が固まった。シンとした空気の中、由乃ちゃんが恐る恐る話し出す。
「そ・・・それが・・・祐巳さん、胃の調子が良くないらしくて・・・今日も実はお昼ごろにここまで来たらしいんですけど、
あまりにも気分悪くて聖さまに逢わずに帰っちゃったらしいんです。聖さまが心配するといけないからって・・・でも、
すぐに良くなるよって・・・言ってました・・・けど・・・」
けど・・・由乃ちゃんはそこで言葉を切った。その言い方からして、多分相当具合悪そうだったに違いない。
何となくね・・・わかるんだ。多分、胃炎とかじゃないのかな。春休みが終わってから、私達の周りは本当にガラリと変わった。
好きなものがどんどん壊れていくあの感じとよく似てる。全てに見放されたような、あの孤独感。
私はそういうの割と慣れてるけど、祐巳ちゃんの場合は・・・初めてだったのかもしれない。
それが全部まとまってきてしまったのかも・・・しれない。それなら胃を壊したって当然。
でも・・・祐巳ちゃんはそんな素振り少しも見せなかった。確かにこないだまで泣いてたけど、体の不調は・・・訴えなかった。
きっと私も焦ったり動揺したりしてたの分かってたんだろうな・・・だから言わなかったんだ・・・あのバカは。
私は由乃ちゃんと志摩子を見上げて言った。本当は今すぐにでも帰りたいけど、
そんな事したら祐巳ちゃんの胃痛がもっと酷くなるのは分かってる。
だから・・・ここは志摩子と由乃ちゃんに・・・頼もう。祐巳ちゃんが一番心を許してる、この二人に。
「ねぇ、二人とも私のお見舞いはもういいから、今日から祐巳ちゃんが良くなるまで祐巳ちゃんとこに行ってあげてくれない?
あの子、体調悪い時は酷く寂しがるのよ」
「・・・お姉さま・・・でも・・・」
「志摩子、お願いよ。私は多少何があっても、ここは病院だからいいけど、祐巳ちゃんは違う。だから・・・お願い」
私の言葉に由乃ちゃんは頷いた。そしてしばらく渋っていた志摩子は、私の顔をマジマジと覗き込んで、
何かを確認するように私を探る。私が無言で頷くと、ようやく志摩子も頷いた。これで大丈夫。
祐巳ちゃん、もう一人になんてさせないからね。私は今そこには行けないけど・・・大丈夫。ちゃんとここに・・・居る。
第百四十四話『水と油』
聖さま・・・大丈夫かな・・・今ごろ寂しがってないかな・・・ううん、今日は皆もお見舞いに行くって言ってたし、大丈夫だよね!
大丈夫じゃないのはむしろ・・・私だ・・・うぷ・・・ほら・・・また気分悪くなってきちゃった・・・。
私はお手洗いに駆け込むと、咳き込んだ。もう何も出ない。多分、胃液ぐらいしか・・・いや、胃液も出てないんじゃないのかな。
「ごほっ・・・うー・・・もう嫌ぁ・・・」
本当はずっと黙ってたけど、修学旅行の前辺りからずっと調子悪かったんだよね。ご飯ロクに食べらんないし、食べても戻すし。
でも聖さまが居なくて良かったとは思うけど。だって、居たら絶対変に心配かけちゃうもん。
だから今回も聖さまが入院中でほんとに良かったって心のどっかでは思ってたりして・・・。
でもね、その反面、寂しいって気持ちも・・・あるんだ。だって・・・やっぱ、一緒に居たいよ・・・聖さまと。
その時だった。突然家の電話が鳴った。私は這いずってどうにか電話まで辿り着くと、受話器を取った。
「・・・はい・・・福沢・・・もしくは、佐藤です・・・」
『もしもし・・・祐巳さま・・・ですか?』
私は思わず受話器を落としそうになった。この声・・・可南子・・・ちゃん?私は受話器を握り締めてゆっくりと耳に当てた。
何故か指先が震えて上手く耳元に持っていくことが出来ない。
それにしても・・・可南子ちゃんの声を聞くのはどれぐらいぶりだろう。
ううん。声は聞いてた。でも、それは全部私に当てた声では・・・なかった。
可南子ちゃんとちゃんと話をするのは、多分あのキスされた日以来。あれ以来全然話して・・・ない。
私は大きく息を吸い込んで出来るだけ普通に話すよう努力した。
「可南子ちゃん・・・久しぶり・・・だね・・・」
『ええ・・・そう・・・ですね』
元気のない可南子ちゃんの声。私は胸が痛かった。私たちはただの先輩後輩で、
それ以上でもそれ以下でもないと思ってたのに、あの日、私は可南子ちゃんを振った。
いや、厳密には・・・拒んだ。これが正しい。ちゃんと振った訳じゃなくて、ただ私は・・・拒んだんだ・・・。
挙句の果てに無意識に呟いた言葉は、どれほど可南子ちゃんを傷つけてしまっただろう。
ゆっくりと閉じた目は、後悔の表れだったのかもしれない。後悔・・・とは少し違うか。あれはだって、私の本心だったから。
「ところで・・・今日はどうしたの?」
出来るだけ普通に。私は呪文のように心の中で呟く。普通に、普通に・・・普通って・・・どんなだっけ?
難しいよ・・・聖さま・・・。ほら、また胃が・・・痛い・・・よ・・・。
私は胃を抑えながらどうにか声を振り絞ろうとした。でも、それが返って胃を刺激する。
『祐巳さま、私・・・リリアンを辞めようと思います。これで責任が取れるとは思いませんが、
聖さまも目の前で私がチョロチョロしてるの嫌でしょうし、何よりも私、祐巳さまと聖さまを見てる自身が・・・ないんです』
ああ・・・やっぱりだ。思ったとおり、可南子ちゃんはリリアンを辞めようとしてる。聖さまの言った通りだ・・・。
辞めるとか言い出さなきゃいいけど・・・あの時の聖さまの声が鮮明に蘇った。
聖さまは・・・可南子ちゃんの事が嫌いな訳じゃないんだと思う。
いや、むしろ私の事がなかったら、きっといいおもちゃにして遊んだはずだ。
聖さまは可南子ちゃんみたいに面と向って文句を言ってくるようなタイプが大好きだから。
「それで・・・それでどうするの?リリアン辞めて・・・それでどうなるの?」
辞めちゃダメだ。それは結局、聖さまからも私からも逃げる事になる。可南子ちゃんには逃げるような事、してほしくなかった。
勝手な願いだとは思うけど、でも・・・私だって、ちゃんと・・・仲直り・・・したいよ。
可南子ちゃんと付き合う事はきっとこれからも出来ない。でも、友達になら・・・なれる。
今までみたいに後輩先輩じゃなくて、友達になら・・・なれると思うんだ。
私達はもう学生じゃない。学校という枠から超えたら、もう先輩とか後輩とかあんまり関係ない。
ちゃんと一個人として、私は可南子ちゃんと友達になりたいんだ。可南子ちゃんは私の言葉に黙り込んだ。
「私の知ってる可南子ちゃんは・・・いっつもボールだけを追ってた。最後まで絶対諦めたり・・・しなかったよ?
負けても悔しそうに一人で泣いて・・・でも、絶対に逃げたりしなかった。最後まで正々堂々と戦ってた。
私・・・そんな可南子ちゃんがいっつも羨ましくて、私はすぐに現実から目を逸らしちゃうとこがあるから、
そういうの・・・凄く憧れてた。でも可南子ちゃんがここで辞めちゃったら・・・それで・・・お終いじゃない。それでも・・・いいの?」
私は・・・嫌だよ。そんなの。そんな言葉を私は飲み込んだ。言いたくても・・・言えなかった。
瞳子ちゃんに言われたんだ。期待させるような事は言うなって。あれって、確かに当たってる。
私はいっつも八方美人で、そのくせ鈍い。だから聖さまにもよく怒られるんだ。無意識ほど罪なものはないって。
無意識のうちにつけられた傷は治らないんだって。それは言葉でも態度でもそう。だからよく考えなきゃ・・・いけない。
『私・・・リリアンは大好きです・・・出来れば・・・辞めたくない。でも・・・聖さまに合わす顔なんて・・・無い。
それに・・・祐巳さまにも・・・私はずっと、本当は分かってたんです。祐巳さまが私の事なんて全然見てくれてない事も、
本気で聖さまの事を好きなのも・・・ずっと・・・知ってたんです・・・それなのに・・・私・・・私・・・』
可南子ちゃんの声が震えた。もしかして・・・泣いてる・・・の?
可南子ちゃんはずっと、私たちの関係を否定してた訳じゃ・・・なかったの?
ねぇ・・・可南子ちゃん、もしかして可南子ちゃんは・・・聖さまに・・・謝りたいの?
後悔をしているのなら、その後悔をいつまでも引きずるような事してちゃいけないと思う。
人は変われるんだから。後悔をバネにする事だって・・・出来るんだから。
『祐巳さまが・・・好きでした。本当に本当に、好きでした。あの日、祐巳さまが私に言った言葉とまるで同じ言葉を、
聖さまにも・・・言われました。あの時、私は完全に負けたんだと・・・そう、思ったんです。
それに・・・祐巳さまが階段から落ちるのを私は見ている事しか出来なくて・・・でも、聖さまは・・・違うんですね。
聖さまは・・・ちゃんと祐巳さまを・・・守れるんですね・・・私・・・聖さまが羨ましい・・・。
あんな風に・・・祐巳さまを・・・守りたかった・・・あなたを・・・あんな風に・・・愛したかった・・・』
「・・・可南子ちゃん・・・」
『でも・・・それももう・・・お終い・・・だって・・・私、きっと・・・聖さまに許してなんて・・・もらえないっっ!!』
可南子ちゃんの言葉は、私の心に響いた。やっぱり・・・この子は辞めるべきじゃ・・・ない。
聖さまが許してくれないと、ねぇ・・・本気でそう、思ってるの?聖さまはね、可南子ちゃん。自分勝手でワガママだけど、
本当は・・・凄く優しくて、あったかい・・・人なんだよ?私はゴクリと息を飲んだ。こうしちゃいられない。
胃が痛いなんて・・・言ってられない。私に今出来ること、それは、可南子ちゃんを聖さまに会わせること。
そして・・・可南子ちゃんの中のモヤモヤを振り払う事。
「可南子ちゃん、今どこ?」
『?私ですか?今・・・自宅ですが・・・どうしてです?』
「あのね、突然で悪いんだけど、今から学校に行ってくれない?私もすぐに向うから」
『い、今からですか?で、でも祐巳さま・・・体調悪いんじゃ・・・』
「うん、へーき。だって、どうしても・・・会わせたい人がいるんだもん」
気付けば私は笑っていた。たまには、瞳子ちゃんのようにおせっかいを焼いてみよう。可南子ちゃんと聖さま。
まるで水と油のような二人だけど、きっと・・・うまくいく。弾いて弾いて、そのうち半回転するかもしれないし。
私はそっと受話器を下ろした。するとその後すぐにやってきた吐き気に、私はまたお手洗いに駆け込んだ。
「うぅ・・・も・・・嫌!!」
こりゃ病院行ったついでに私も診てもらったほうがいいかもしれない。そんな考えが頭を過ぎる。
その時、また電話がかかってきた。今度は由乃さんから。どうやら今皆で聖さまのお見舞いの最中らしいんだけど、
私のよれよれの声を聞いて由乃さんは慌てた様子で『今すぐ行くから!!』って言って電話が切れちゃった・・・。
でも・・・これはちょうどいいかもしれない。由乃さんの運転はかなり不安だけど、学校で可南子ちゃんを拾って、
そのまま聖さまの病院まで折り返してもらおう。なんて・・・ナイスアイデア!!・・・うぷ・・・きもちわる・・・。
第百四十五話『虚像に憧れを持つのなら』
由乃ちゃんと志摩子が病室を後にしてからしばらくは病室はシンとしてた。それは・・・多分私の機嫌がすこぶる悪かったから。
「そういえば聖、あなたが階段から落ちた理由って、結局祐巳ちゃんを庇ったからなのよね?」
江利子が不思議そうな顔しながら私の顔を覗き込んだ。その言葉に蓉子とお姉さまが息を飲む。
「そうよ。それがどうかした?」
「ええ、だって・・・いくら祐巳ちゃんがドン臭いって言っても、流石に階段からは落ちないでしょ?一体何があったのよ?」
「それは・・・」
私は言葉を飲み込んだ。正直、あんまり言いたくないんだけど。だってさ、そうでしょ?
祐巳ちゃん取り合って可南子ちゃんと喧嘩して、その喧嘩に祐巳ちゃんが巻き込まれて階段から落ちただなんて。
だから私は何も言わないでおくことにした。江利子の事だ。絶対後からまた尾ひれつけて吹聴してまわるに違いない。
いや・・・さすがにそれは・・・ないかな。でも、あんまり言うべき事でもないし、今となってはもう理由なんてどうでもいい。
とりあえず重要なのは、祐巳ちゃんが今相当参ってるって事で、私は何が何でも祐巳ちゃんの傍にいるべきだって事だけ。
私の顔を見て何かを察したのか、蓉子が口を開いた。
「多分、見てた生徒達とかは居たんだから黙っててもいつかは分かるんじゃない?」
「それはそうだけど・・・でも、誰が悪いわけでもないもの」
「だけど・・・」
「いいじゃない、もう。生徒達の噂聞いて何となく想像してよ。得意でしょ?想像するの」
私は意地悪に笑った。そんな私を見て江利子は苦虫を潰したみたいな顔をして笑う。
それからは皆でとりとめもない話をずっとしてた。でも、祐巳ちゃんや可南子ちゃんの話は・・・しなかった。
私とお姉さまに蓉子、それに江利子。この四人で話すのは・・・何年ぶりかな。何だか酷く懐かしくて、思い出話に華が咲いた。
だからかもしれないけど、久しぶりに高校時代に戻ったようなそんな不思議な気分。
でも・・・やっぱり戻りたいとは・・・思わない。だって、そこには祐巳ちゃんが居ない。だから思い出は話しだけで十分。
「さて、そろそろ帰ろうかしら。どうする?この後どっか寄ってく?」
蓉子の言葉に、お姉さまと江利子は大きく頷いてチラリとこちらを見た。
「聖には可哀想だけど、焼肉でも食べにいっちゃう?聖も無事だったんだし」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
お・・・お姉さま・・・あなたは鬼ですか?と。私だって焼肉食べたいっ!!
ていうか、私が無事だからってどうしてあんたたちが焼肉行くのよ!?訳分かんないんだけどっ!!!
「いいですね!喜んで付き合います」
「私も。聖には悪いけど、それとなく蓉子に飲ませて真相聞き出しちゃおうっと」
「あら!私の口は貝のように堅いわよ?」
「・・・よく言うわよ。蓉子はお酒が入ったら何でも喋るじゃない」
楽しそうな蓉子と江利子・・・くそぅ・・・健康っていいな・・・ほんとに・・・。
それを微笑ましく見守っていたお姉さまが、私の耳元でポツリと言った。
「聖も早く退院しなさい。そしたら奢ってあげるから」
「・・・・・どーも・・・・・」
お姉さまはやっぱり優しい。何だかんだ言ってても、やっぱりお姉さまはお姉さまだ。本当に・・・皆に心配かけたんだな、私。
良かった・・・まだ、私の居場所はちゃんとあるんだ・・・。そんな事考えると、何だか泣きたくなった。
悲しいんじゃなくて、私の中で見た青写真は全部祐巳ちゃんばっかだったけど、やっぱそれは違う。
皆が居るから、私はここに・・・居られるんだもんな・・・。
「それじゃ、また来るわね」
「別に来なくていーよ」
ぶっきらぼうな私の言葉に、蓉子は怖い顔する。
つかさ、そんな毎日毎日入れ替わり立ち代り来られてもね、むしろ迷惑なだけっていうか。
結局私は祐巳ちゃんに大事な話しそびれちゃったし・・・そりゃさ、皆は大事。でも皆の為に私は居る訳じゃない。
そりゃ・・・心配してくれるのが嬉しくない訳じゃ・・・ないけど。皆が帰った部屋はシンとしていた。
ましてや一人部屋だから余計に静か。窓の外を見ると、お姉さまがこっちに向って手を振ってくれる。
でも、私はどうしても振り返すことが出来なくて。なんだかなぁ・・・寂しいとはまた違う。置いてけぼりにされた感じ。
私は私の為にここに居て、隣には祐巳ちゃんに居てほしくて。周りには皆が居る。これが理想。
でも、今はそのどれも叶わない。それがさ、なんかさ・・・つまんない。あーあ。怪我なんてするもんじゃないな、ほんと。
お腹へっても何も食べらんないし、祐巳ちゃんは来ないし。腕は動かないし、ほんと、暇。
その時だった。誰かが病室のドアを叩いた。
「はーい」
めんどくさい。つまんないくせに誰かが来たらきたで面倒だ。ほんっと、私はわがままだ。
そんな私の声を聞いて、ドアがゆっくりと開いた。そしてお世辞にもお見舞いって感じじゃない雰囲気で入ってきたのは・・・。
「・・・なんだ、ドリルちゃんか。なによ、一人で来たの?」
俯いて、拳を震わせるドリルちゃん。泣いてるのか怒ってるのかは分かんないけど、とりあえず私は椅子を勧めた。
チョコンって感じで椅子に座ったドリルちゃんは黙ったまま、何も話そうとはしない。
それどころか雰囲気は話しかけないでくれって言ってるみたいで・・・私は声すらかけられなかった。
どれぐらい黙ってんだろう。ドリルちゃんの拳に水滴が一粒ポツリと落ちた。
それが涙だって事に気づいたのは、それからもうしばらく後の事。長い冷たい空気がひとしきり流れ落ちる。
「・・・あのさ、用無いんなら帰れば?」
いや、こんな言い方もどうかと思うけど、でもさ・・・何しに来たのよ、さっきから一っ言も話さないでさ・・・。
私の言葉にようやくドリルちゃんが顔を挙げ、私を猫みたいな大きな吊り目で睨み付ける。
「どうして・・・どうして庇ったんですか・・・祐巳さまを、どうして庇ったり・・・したんですか・・・」
「・・・はあ?」
つか、何それ。付き合ってんだからあったりまえじゃん。いや、それは違うか。だって、体が勝手に動いたんだから仕方ない。
気付いたら私は祐巳ちゃんを捕まえ損ねて、それを追って飛び降りてて。
でもドリルちゃんは私を睨んだまま目を離そうとはしない。
そういや誰かに聞いた事があったなぁ・・・猫ってさ、先に視線外すと機嫌悪くなるって。
でも猫科の動物とは目を合わせるなってのも聞いた事があるけど・・・一体どっちがほんとなんだろ。
・・つまり、ドリルちゃんはどっちの部類なんだろうか。ちなみに由乃ちゃんは前者・・・だと、思う。
「祐巳さまがどんな方なのか、私には分かりません。でも、祐巳さまは・・・SRGとも・・・キスしたって聞きました!
それでも、それでも聖さまは祐巳さまを庇うんですかっ?!」
「・・・えっとー・・・」
返す言葉がね、無かった。ていうか、どうしてドリルちゃんがあんなにも祐巳ちゃんを敵対視してたのかやっと理由が分かった。
どうやらドリルちゃん。祐巳ちゃんがお姉さまとキスしたと、そう思い込んでいたみたい。いや、間違えてないよ?
全然間違えてない。だって、祐巳ちゃんのファーストキスは確かにお姉さまだから。悔しいけど。
だから私は大きなため息を落としてドリルちゃんの顔を覗き込んだ。
「あのさ、それいつの話か知ってる?」
「・・・いつとか・・・そんなの関係ありませんっ!!重要なのは、したかどうか、です!!」
「いや、私なんてもっと沢山他の人としてるじゃない。それはいい訳?」
だってさ、私なんてもっと凄い事一杯してるよ?色んな人と。
「で、でもそれは・・・まだ付き合う前の話でしょう?」
「そう。祐巳ちゃんとお姉さまのキスも、付き合う前の話だよ。それもお姉さまの私への嫌がらせの為のね。
つまり、祐巳ちゃんは被害者って訳。これで誤解は解けた?」
私の言葉にドリルちゃんの顔が引きつった。ていうか、ちょっと青ざめて・・・る?そりゃそうだよね。散々祐巳ちゃんを責めて、
挙句の果てにそれが勘違いだったなんて笑い話にもならないよ。つか・・・その件に対しては私はまだちょっと怒ってる訳よ。
だってさ、祐巳ちゃんの体調の原因は絶対それも含まれてると思うから。
ただ分からないのは・・・多分ドリルちゃんが祐巳ちゃんを責めてた理由の原因は、そのキスだけじゃないって事。
これは・・・多分の話だけど、きっと他にも何か理由があるはず。
「それだけじゃないでしょ?ドリルちゃんが祐巳ちゃんをどうしてそんなにも敵対視するのか、
私はそれがずっと知りたかったんだ。一体どうして?」
キスとか、そんなのは本当はどうでもいい。多分ドリルちゃんはそう思ってる。
だから青ざめてはいるけど、あんまりショックそうな顔もしてないし、まだ私を睨み付ける厳しい顔つきは全然崩れてない。
私の言葉に、ドリルちゃんの肩がピクンって震えた。
そして・・・ようやくさっき拳に落ちた水滴が見間違いじゃなかったんだって、知った。
「だって・・・悔しかったんです・・・聖さまは・・・聖さまは・・・伝説の薔薇様で、
私にとって・・・ずっと、ずっと憧れの存在だったから・・・それなのに・・・それなのに、あの人はっ!!」
「・・・それで?」
腹が立つ訳じゃない。でも、釈然としない。私はずっとずっと薔薇様という名前が嫌で嫌で仕方なくて。
高校を卒業してもその名前から逃れることが出来なくて・・・。
いくら遊んでも、チャラチャラしても全て許されるなんて、そんなの・・・耐えられなかった。
もっと叱ってほしくて、怒って欲しくて。責めて、拒んで逃げて欲しかった。
引っ叩いてくれてもいい。薔薇様という称号だけで私を判断しないで・・・欲しかった。
それを唯一してくれたのが祐巳ちゃんで、だから私はもう薔薇様で居なくてもよくて。
それがどれほど心地よかったか。ただの佐藤聖で居たかったんだ・・・ずっと。
私という人間を、見て欲しかったんだ・・・ずっと。私はドリルちゃんの言葉を待った。
ドリルちゃんがどうして祐巳ちゃんをあんなにも責めたのか、その理由が聞きたかった。ちゃんと。
「私は・・・祐巳さまが嫌いな訳では・・・ないんです。あの方の優しさとか、他の皆さんが言うようにあったかい人だって事も、
本当はちゃんと分かってるんです・・・でも、聖さまをあんな風に扱うのだけは・・・どうしても・・・どうしても許せなかった。
それに怒らない聖さまも・・・腹が立ったんです。頭では分かってるんです。聖さまはそれでも祐巳さまが好きなんだって事は。
でも・・・やっぱり聖さまは・・・私の中では・・・憧れの薔薇様なんです・・・今でも・・・」
心がそれに追いついてくれない・・・ドリルちゃんはそう言って私から視線を外した。
私は大きな息を吐き出して、そっと窓の外に視線を移す。私は、私だ。薔薇様なんて、ただの肩書きでしかない。
でも、それを今もずっと引きずってる人は居て、ドリルちゃんだけでは無いのも・・・確か。悲しいけど。
でもね、そうじゃないんだ。私はドリルちゃんの方に視線を移して静かに言った。
「何か、勘違いしてるみたいだから言っとく。
私が祐巳ちゃんを好きになったのは、あの子が私を薔薇様として扱わなかったからよ。
もしもあの子も私を薔薇様として扱ったなら、こんなにも好きにはならなかった。こんなにも長続きしなかった。
私ね、好きで薔薇様になった訳じゃないよ。好きで伝説とか言われてる訳じゃ・・・ないよ。
それが重荷になってたんだよ、ずっと。誰も私を見てくれない。名前ばっかりが先行して、私はいっつも置いてかれてた。
ねぇ、まるで自分に置いてかれるってのはどんなに心細いか分かる?追いつこうとしても追いつけない。
その悔しさ・・・分かる?私は祐巳ちゃんに初めて本心を打ち明ける事が出来た。ようやくそれで薔薇様から解放されたの。
ドリルちゃんがどんな風に私に憧れてたのかは知らないけど、私はそんな人間じゃない。
別に憧れるなとは言わないけど、それが結果的に私や私の大事にしてる人を傷つけるんなら・・・はっきり言って迷惑よ。
私の虚像に憧れて本当の私や本当の私を知ってる人をそんな風に責めるのなら、私の傍には来ないでちょうだい。
ずっとそうやって虚像に憧れたままで居ればいいわ。私はそれを止めないし、別に責めないから」
ちょっとキツかったかな?って思う。でも、ちゃんとはっきり言わなきゃいけない事も・・・ある。
だって、迷惑だもの。私は私だもの。それを受け入れてくれないのなら、一緒に居る理由もない。
私は祐巳ちゃんのように誰にでも優しくはなれない。誰かに合わせて自分を創るなんて事、バカバカしくてもうやってらんない。
それは・・・祐巳ちゃんが教えてくれたんだ。本当の私を好きだと言ってくれたあの日に。
私の言葉にドリルちゃんは声を出して泣いた。号泣ってやつだ。私は泣いてるドリルちゃんをそのままにしといた。
声も掛けず、慰めもしなかった。それが一番だと・・・そう、思ったから。
やがてドリルちゃんが泣き止んだ頃、私はドリルちゃんの頭をコツンとげんこつで叩いた。
「あんまり祐巳ちゃんをいじめないでよね。あの子打たれ強いけどすぐ泣くんだから」
「・・・はい・・・」
ドリルちゃんの顔は凄くスッキりしてた。初めから、誰が悪いわけでも無かった。皆が皆心の内を言えなくて、
だからすれ違ってしまっただけで、ちゃんと話せば上手くいく話だったんだ。
「ほんっと、もう、二度とごめんよ、こんなの」
「もう・・・大丈夫ですわ。言いたい事・・・全て言いましたから・・・」
「そうね。私もスッキりしたわ。私は見た目通り、軽くて自己中、ワガママなだけ。これからは変に期待しないよーに」
「・・・はい。そう・・・します」
ようやくここでドリルちゃんが笑った。久しぶりに見る笑顔だった。あの花寺の時以来・・・かな?
この子もそう、笑うととても可愛い。まぁ・・・祐巳ちゃんには敵わないケド。
私は動く方の腕を、うーん、って天井に突き出して大きく伸びをした。
さて!後は可南子ちゃんだけか。一つづつでいい。ゆっくり解決していけばいいや。
そんで、全部終わったら・・・その時こそ、ちゃんと言おう。言えなかったプロポーズを。
第百四十六話『瞳子ちゃんの笑顔』
き・・・きぼちわるい・・・うぷっ。
「ぎゃぁぁぁぁ!!!祐巳さん!!が、我慢してっっ!!も、もうちょっとだからーーー!!!」
「よ、由乃さんっ!!ま、前を見て!でないと祐巳さんが余計に・・・危ないッ!!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
耳元で志摩子さんと由乃さんの掛け合い漫才が聞こえる・・・でも、私はそれどころじゃない。
もうさっきからずっと吐きそうなのを我慢してる。つか、由乃さんの運転に乗った私がやっぱりバカだった。
スピードが出すぎてる訳じゃない。別に要領が悪い訳でも・・・ない。そうね・・・あえて言うなら、
ハンドル捌きが・・・下手。つか、さっきからずっと蛇行運転してる。こりゃ体調の悪い私じゃなくても酔うと思うの。
手に持ったエチケット袋を握り締めて、私はスカートの膝の辺りをギュって握り締めた。
「・・・祐巳さま・・・場所、変わりましょうか」
窓際に座っていた可南子ちゃんがさっきからずっと私の背中をさすりながら、困ったように言う。
学校の前まで迎えに行った時、車に乗るのを物凄く嫌がってた可南子ちゃん。
でっも、私の必死のお願いで(脅迫めいた)よやく車に乗ってくれたのはいいんだけど・・・、
多分これからどこ行くか分かったら可南子ちゃん・・・怒るんだろうなぁ・・・。
でもさ!仲直りするなら、やっぱ早い方がいいと思うの!でなきゃどんどん言いづらくなるし、それに聖さま言ったもん!
可南子ちゃんの事は任せておけ!って!だから私は大船に乗ったつもりでいる。・・・つか、大船とか・・・うっ・・・きもちわる・・・。
思わずエチケット袋を取り出した私に気付いて、また由乃さんが発狂して、それを志摩子さんが必死になだめる。
さっきからずっと、この繰り返し。いい加減可南子ちゃんも嫌気がさしてきたかな?とも思ったけど、
意外にも可南子ちゃんは・・・笑ってた。高校の時みたいに、はにかんだような・・・そんな笑い方。
可南子ちゃんは辞めたくないって、本当は思ってるんだ。でも、聖さまの怪我は自分のせいだとも思ってる。
だから辞めなきゃいけないって、責任とらなきゃって・・・そう・・・思ってるんだよね・・・多分。
でもね、責任取る方法は他にもいくらでもある。それに・・・それを決めるのは可南子ちゃんじゃない。聖さまだ。
だから私は全てを聖さまに任せようと、そう思ってる。
ズルイかもしれないけど、でも可南子ちゃんは聖さまに任せた方が・・・きっといい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「やっと・・・ついた・・・のね・・・うぷ・・・」
「そうよ!祐巳さん、無事についたわ!だからもう大丈夫よ!」
志摩子さんはそう言って私の手を引いてくれた。それを聞いて由乃さんが物凄い勢いでこちらにやってくる。
「ちょっと志摩子さん!それどういう意味!?まるでここまで辿り着いたのが奇跡みたいにっ!!」
「そ・・・そういう意味ではないのだけれど・・・でも、ほら・・・ねぇ・・・?」
困ったように苦笑いする志摩子さんを置いて、私は一人歩き出した。聖さまの着替えもついでに持ってきたし、
これで大丈夫!もしも倒れても、ここは病院だ!!そんな思いが私の足を動かす。あぁ・・・一歩一歩が胃に響くわ・・・。
ヨタヨタと歩く私の腕を、可南子ちゃんが掴んだ。その表情は凄く硬い。
「祐巳さまっ・・・もしかして・・・ここ・・・」
「そう・・・聖さまが入院してるとこ・・・だよ・・・」
どうにか搾り出した私の答えに可南子ちゃんは息を飲んでそのまま回れ右しようとするのを、私は必死になって止めた。
だって、こうでもしなきゃ絶対可南子ちゃん来てくれないじゃない!そんなの・・・嫌だよ・・・。
こんなんじゃ瞳子ちゃんにまた怒られるかもしれない。八方美人だって、言われちゃうかも。
でもね・・・私は出来れば、皆が仲いいのが一番だと思ってる。あんなにも楽しかったリリアンに戻ってほしいと。
でもその反面、可南子ちゃんをここに連れてきて本当に良かったのかな?とも思ってる。
やっぱり・・・迷惑だったかな?って。そんな私の考えが分かったのか、それともあまりにも気分悪そうな私が哀れになったのか、
可南子ちゃんは大きなため息を落としてポツリと呟いた。
「聖さまの病室まで・・・送ります。でも、それ以上の事は・・・望まないでください」
「・・・うん、ありがとう・・・ごめんね?」
「どうして・・・祐巳さまが謝るんですか。謝らなければならないのは私です」
はっきりとそう言い切った可南子ちゃんの横顔は、何故か微笑んで見えた。
私は可南子ちゃんの腕にしがみついたまま(別に逃げるかも?とか思ってた訳ではなくて、ただ一人で歩けなかった)、
聖さまの病室に向った。後から志摩子さんと由乃さんがくっついてくるけど、二人はどこか遠慮がち。
やがて聖さまの病室に辿り着いた頃には、私はもうほんと、グロッキー状態で・・・。
病室に入る前に可南子ちゃんにお願いしてお手洗いに連れてってもらって、それから聖さまの病室のドアをノックした。
「はい?」
あぁ・・・聖さまの声だ・・・昨日も来たのに、こんなにも嬉しい。声だけでも全然違う。相変わらず気分は悪いけど、
全然我慢出来そうな気さえ・・・する。いや、気だけだけど。私に代わって可南子ちゃんがドアを開けてくれた。
でも、一番に目に飛び込んできたのは聖さまではなくて・・・。
「と、瞳子ちゃん!?・・・うぷ・・・」
私は慌てて口元を押さえてその場に蹲った。そんな私の背中を可南子ちゃんがさすってくれる。
「祐巳さま!?それに可南子さんも!!」
「祐巳ちゃん?!ちょ、ちょっと大丈夫なの!?こんなとこで吐かないでよ!?それに可南子ちゃんまで・・・一体何事?」
せ・・・聖さま・・・もうちょっと優しく心配・・・してくださいよ・・・。
いや、それよりも重要なのはどうしてここに瞳子ちゃんが居るのか?って話で。どうやらそれは瞳子ちゃんも同じだったらしい。
私・・・というよりは、どっちかっていうと可南子ちゃんを不思議そうに見つめてる。
そんな瞳子ちゃんを無視するみたいに、可南子ちゃんは私をどうにか立たせると椅子の所まで連れてってくれた。
「瞳子さん、祐巳さまを座らせてあげてくれませんか?」
「え?え、ええ。もちろんですわ。さ、祐巳さまどうぞ」
「あ、ありがと・・・うっぷ・・・」
口元を押さえる私を見て思わず仰け反る三人・・・あ、あんまりだと思うのよ、その反応・・・ていうか、聖さままで?
何かを訴えるような私の顔を見て、聖さまが苦笑いして言った。
「や、ごめんごめん。つい!ていうか、可南子ちゃん。久しぶり」
「・・・おひさし・・・ぶりです・・・」
「うん。で?何か私に言う事ない?」
せ、聖さま、その言い方はどうかと・・・。でも、可南子ちゃんは思ったよりもずっと素直だった。
深々と聖さまに頭を下げて、一向に頭を挙げようとしない。
「申し訳・・・ありませんでした。本当に・・・本当に・・・取り返しのつかないことをしたと思ってます」
小さな小さな声だった。でも、皆にはちゃんと・・・聞こえてた。その言葉を聞いた聖さまはどこか満足げ。
驚いたのは私と瞳子ちゃんで、お互い顔を見合わせて思わず首をかしげてしまった。
「さて、祐巳ちゃん。ところで・・・大丈夫?何だか全然大丈夫そうには見えないんだけど」
「え?ええ、まぁ・・・大丈夫と言えば大丈夫なような、そうでないような・・・」
「何それ。ていうか、今すぐ内科に行ってきなさい!ドリルちゃん、悪いけど連れてってやってくんない?」
「えっ!?だ、大丈夫ですよ!一人で行け・・・うぷ・・・」
「・・・全然大丈夫じゃないじゃない。頼むわね、ドリルちゃん」
「はい。さ、祐巳さま、行きましょ」
聖さまの言葉に瞳子ちゃんが私の手をそっと取った。初めてかもしれない。この子が私に触れてくれるのは。
何だか変な言い方だけどそれが酷く嬉しくて、私は目頭が熱くなったのが恥ずかしくて無視することにした。
遠慮がちに病室に入ってきてた志摩子さんが聖さまとアイコンタクトをとって、由乃さんの手を引いて私達と一緒に病室を出る。
「それじゃあ祐巳さん、私達はこれで失礼するわ。さ、由乃さん。たまには二人でどこかへ食事に行かない?」
「え?で、でも・・・祐巳さんと瞳子ちゃんは・・・」
「いいからいいから。それじゃあ、祐巳さん、瞳子ちゃん、またね」
「う、うん・・・」
「ごきげんよう、志摩子さま、由乃さま」
何が何だか分からない私と由乃さん。でも、この二人がそう言うのなら、きっとこれが一番正しい選択なのだろう。
私はとりあえず瞳子ちゃんに手を引かれたまま、内科へと向った。本当はかなり可南子ちゃんと聖さまの事が不安なんだけど。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
内科にやってくるなり、てきぱきと仕事をこなす瞳子ちゃん。
その様を見てて思った事、それは、この子は本当に立派な薔薇様だったに違いないって事。
「祐巳さま、まだもうちょっとかかるそうですが、大丈夫ですか?」
「う・・・うん。多分・・・大丈夫・・・かと・・・」
「そうですかそれならここでしばらく待ってましょう」
「う、うん」
ていうかね、二人きりになるの未だにちょっと怖いんだ、私。だって、本当に図星でショックだったから。
俯いた私の背中を、瞳子ちゃんがぎこちなく撫でてくれる。何か・・・やっぱ悪い子じゃないんだよね、この子。
どれぐらい私達は黙ってただろう。突然、何の脈略もなく瞳子ちゃんが口を開いた。
「私、祐巳さまの事、嫌いじゃないですよ」
「へっ!?」
「ただ、聖さまとは似合わないってそう思ってただけで、別に祐巳さま自身は嫌いなんかじゃ・・・ないんです」
「そ、そう・・・あ、ありがと?」
なんでお礼言ってんの?私!案の定私の言葉に瞳子ちゃんは苦い笑みを浮かべてるんだけど、
だって突然こんな事言われても動揺しない訳ないじゃない!!
「さっき聖さまに怒られました。祐巳さまを傷つけるのなら、私の傍に来るなって。
聖さまって、本当はあんな方だったんですね」
「・・・」
「・・・」
「あのね、聞いて。聖さまは・・・伝説の薔薇様だったんだよね。でも、私はそれを全然知らなくて。
それが瞳子ちゃんや他の皆を傷つけちゃった事もあるかもしれない。でも私が会った聖さまはほんと、
どうしようもない人で、毎晩毎晩私の迷惑なんてお構いなしに晩御飯集りに来るような人だったのね?
だから皆が言うような伝説の人って概念が全然無くて。でも、気がついたら私はそんな聖さまを好きになってたんだ。
変だよね!あんなにも苦手だーって思ってたのに、気がついたらずっと目で追ってるんだもん!
私ね、瞳子ちゃんやSRGとか、昔の聖さまを知ってる人がずっと羨ましかったんだ。だって、私だけ知らないんだもん。
それってやっぱり寂しくて。でも聖さまは言うの。昔の私を知ってたら、祐巳ちゃんはきっと私なんて好きにならないよ、って。
ずっとその意味が分かんなくてさ、悩んだりしたけど、でも最近やっと分かったんだ。
聖さまはさ、聖さまなんだよね。佐藤聖、なんだよね。ワガママで自意識過剰。でも、それが聖さま。
で、私はやっぱりそういう聖さまだからこそ、好きなんだろうなーって。
・・・でもさーこうやって考えたら、私の趣味って・・・もしかして・・・悪い?」
私の言葉に瞳子ちゃんは笑った。
「そうでうね・・・結構悪いかもしれません。
だって、私もついさっきまでは聖さまがあんな事言う人だなんて思ってもみませんでしたから。
でも、やっぱり私の中のイメージの聖さまは格好良くてクールなイメージしかありません。
伝説とまではいかなくても、今の聖さまを見ても、やっぱりそれは変わりません。
ただ・・・私は死んでも付き合いたくはありませんが」
「えー・・・で、でも顔はいいよ?」
「それは認めますが、でも・・・ねぇ?」
そう言って笑った瞳子ちゃんの顔は、とても楽しそう。
聖さまと瞳子ちゃんの間に何があったのかは分からない。でも、確かに瞳子ちゃんの顔は随分スッキりしてるし、
私は初めて瞳子ちゃんの笑顔を見た気がする。この子笑うと本当に美少女だ。キツイ顔してるんだけどかなりの美人さん。
それが嬉しくて微笑んだ私を見て、瞳子ちゃんは顔を真赤にしてそっぽ向いてしまった。
「瞳子ちゃん、ありがとね」
「べ、別にあなたの為に話した訳ではありませんから。ただ、聖さまにいつまでも迷惑はかけられないと思ったからで、その」
「うん、知ってる。これからは・・・私、もうちょっと気をつけるから。
ちゃんと瞳子ちゃんに言われた通り、誰にでも甘い顔するの止める!」
あの時の瞳子ちゃんの言葉は今も胸に大事に仕舞ってある。きっと二度と忘れないと思う。
あんな風に言ってくれたのは瞳子ちゃんが初めてで、最初はそりゃコイツ!とか思ったけど、
でもよくよく考えてみれば瞳子ちゃんは私に注意してくれてたんだよね。
でなきゃもっと必死になって聖さまと私の間をぶち壊しても良かったんだもん。
それに結果的には瞳子ちゃんが動き回ったおかげで可南子ちゃんの気持ちを知ることが出来たのも事実で。
それを知らなかったら、私達はまだ泥沼の中に居たかもしれないんだ。
最終的には聖さまが大怪我したんだけど、あれは別に瞳子ちゃんのせいでも可南子ちゃんのせいでもない。
紛れも無く・・・私のせい。だってさ、考えてもみてよ。私が手出さなきゃ聖さまの事だ。
階段からは落ちなかったかもしれないんだもん。でも、あの事故も決着を早めた要因の一つかもしれないなんて、
今はほんの少しだけ思ってもいる訳で。聖さまには悪いけど。
そんな事をここ最近考えてた私は、だから瞳子ちゃんの次の言葉にちょっとだけ驚いた。
「祐巳さまは・・・今のままでいいですよ。皆が言うとおりの祐巳さまでいいです。
お姉さまがどうして祐巳さまをあんなにも可愛がってるのか、何となく聖さまと話してて分かりましたから。
だから・・・あなたはそのままで・・・いいんです。責めて・・・ごめんなさい」
「・・っ・・・瞳子ちゃんっ!!」
私は堪らなくなって瞳子ちゃんを抱きしめようとしたけど、生憎看護士さんがそれを許してはくれなかった。
「福沢さーん、福沢祐巳さーん。どうぞ、中に入ってください」
「うっ・・・こ、この続きはまた後で・・・ね・・・」
行き場をなくした手を引っ込めた私に、瞳子ちゃんはほんの少し頬を染めて呟いた。
「遠慮しときます」
・・・だって。ほんと、この子、聖さまと同じぐらい可愛くないんだから。こういうの、確かツンデレって言うんだっけ?
ん?ちょっと違う?まぁどっちでもいいや。どっちにしても、瞳子ちゃんとは・・・上手くいきそう。
残るは・・・可南子ちゃん・・・。
私は出来るだけ明るい未来を想像しようとしたんだけど、どう考えても流血の場面が脳裏を過ぎって・・・。
「・・・うぷ・・・」
「大丈夫ですか?ほんとにもう、これが保健医だって言うんだから呆れますよね」
うぅ・・・うるさいやいっ!!瞳子ちゃんの嫌味を背中に背負って、私は笑顔の看護士さんの元へ歩き出した。
出来れば、聖さまと可南子ちゃんが大変な事になってませんように。祈るのは、ただそれだけだった。
第百四十七話『線路は続くよどこまでも』
「さて、二人きりね」
「・・・・・・・・」
俯く可南子ちゃんを見下ろしながら私は大きく息を吸い込んだ。別に取って食べようとかそんな事考えてない。
でも可南子ちゃんは何も言わない。私の顔をチラリとも見ようとはしなかった。
私は何て言えばいいのか、正直迷ってた。だってそうでしょ?何て言えばいい?つか、そもそも何を話せばいい?
慰める訳でもない。責めたい訳でもない。何ていうのかな。
階段から落ちた時に思ったのは、何だかもうどうでもいいやってそう、思ったんだ。
可南子ちゃんの事とか、瞳子ちゃんの事とか、全部どうでも良くて。ただ祐巳ちゃんだけを守れたらそれで良かった。
自分さえどうでも良くなって初めて、私は思った。そもそもどうしてこんな事になったのかな?って。
私はずっと祐巳ちゃんが好きで、別に付け入る隙なんて与えなかった筈。
祐巳ちゃんだってそう。確かに優柔不断だったり誰にでも優しかったりするけど、でもあの子には私が一番だって知ってる。
自信過剰だとは思うけど、私も祐巳ちゃんもそれを知ってる。それでもこんな風になったのは、私たちには何の約束も無かったから。
いや、別にそれに甘んじる訳じゃないけど、でもやっぱり・・・重要だと思うの。
まぁ確かに?祐巳ちゃんはありえないぐらい鈍いし、私は私で素直になれなくていっつも祐巳ちゃんを困らせるけど、
私達はそれでも別に構わないって思ってるからずっと一緒に居る訳よ。
私達の心はどんな状況にあっても離れなかった。だから結局、祐巳ちゃんが可南子ちゃんにキスされて私を拒んだのは、
別に可南子ちゃんに気持ちが動いた訳じゃないって信じてる。いや、信じたい。
「私・・・リリアンを辞めようと思います」
突然、可南子ちゃんが口を開いた。可南子ちゃんの声は少しだけど震えてて、何だか泣き出しそう。
でも私はその言葉に対して驚くことも無かった。だって、十分予想ついてたし。
ていうか、可南子ちゃんにはそれなりの覚悟もあったんだと思う。
祐巳ちゃんにキスしたあの日から・・・いや、もしかするともっとずっと前から。
「どうして?もう祐巳ちゃんの傍にいられないから?」
「・・・いいえ、違います。祐巳さまの事は、ここに来た日、
あなたとの事を知った日からずっと諦めてましたから・・・そうではなくて、ただ純粋にここには居られないと思ったからです」
「ふーん。で、辞めてどうすんの?行くあてあんの?」
出来るだけ興味の無いような口調を装うってのはなかなか辛い。でも私は祐巳ちゃんのようにはなれないし、
泣き叫んで引き止めるほど仲良かった訳でも・・・ない。ただ、祐巳ちゃんの事なしに考えれば、私はこの子の事結構気に入ってた。
もちろん、おもちゃにするにはって意味でだけど。私の言葉に可南子ちゃんは小さく首を振る。
「リリアン辞めて他の学校の教師にまたなるつもり?」
「それは・・・分かりません」
「だろうね。ていうか、無理だと思うけど」
淡々とした私の言葉に、可南子ちゃんはようやく顔を挙げた。
まるで思っていた事をズバズバ言われて怒るような目つきで私を睨む。
それでも私は止めなかった。どんなに睨まれても、嫌われても、この子はここを辞めるべきじゃない。
なんとなくだけど、そう思うんだ。祐巳ちゃんの顔を見るのが辛いからって理由なら私は止めないし、
推薦状だって何だって書いてあげるけど、もしも、もしも私に悪いとか思ってどっか違うとこ探す気なら、
絶対に辞めさせてなんてやんない。
「そんな事・・・分かってますよっ!でも、だったらどうしろっていうんですか!
あなたを怪我させて、祐巳さままで怪我させて、それでもリリアンに残れと、そう仰るんですか!?」
椅子から勢いよく立ち上がった可南子ちゃんは私を泣きそうな顔で見下ろして叫んだ。
多分、ここが病院だって事も忘れてると思う。それぐらい、大きな声だった。
だから私はにっこりと笑って可南子ちゃんを見上げて言った。
「そうよ。私に悪いと思うのなら、祐巳ちゃんに悪いと思うのなら、リリアンを辞めるなと言ってるの。
あんたが今ここで辞めたいのは、責任を取りたいから?それともただ、逃げたいから?どっち?」
「そ・・・それは・・・責任を・・・取りたいからです。当たり前じゃないですか。
私は、勝負事でも何でも、逃げるのは大嫌いですから」
「そうよね。多分そう言うと思ってた。負けず嫌いそうだもんね、可南子ちゃんは」
ほんと、負けず嫌いってのは損な性分だと思う。でも決して悪い意味じゃない。
何でもかんでも負けず嫌いすぎるのも困ったもんだとは思うけど、でもたまには負けず嫌いにならなきゃならない時もある。
私は意地悪に笑って可南子ちゃんを見上げたまま、次になんて言おうか考えていた。
ところが、そんな私の心を読んだのか可南子ちゃんは言った。震える声で。
「私は・・・本当は逃げたいのかもしれません。だってそうでしょう?守るとか偉そうな事言っときながら、
結局祐巳さまが階段から落ちた時動く事すら出来なかった・・・。
でもそんな私を押しのけて聖さまは祐巳さまに飛びついたんです・・・目の前で・・・。
私はあの時、高校の時のことを思い出しました。ゴール手前、シュートを打とうとした瞬間、
突然現われた敵にボールを持ってかれて、すぐには立ち直れなくて。そこから一歩も動けなくなって・・・そして・・・負ける。
あの試合の終わりを告げるブザーの音が聞こえたんです。頭の中で、耳の奥で。
いっつもいっつもその度に思うんです。もう止めたいって。でも、そうは・・・させてくれなかった。
仲間じゃなくて、祐巳さまが・・・私をいつも止めたんです。あなたは言葉は違えども、あの時の祐巳さまのよう・・・。
でも、あなたは祐巳さまじゃない。だから私には何の威力もない。逆らえない・・・訳じゃ・・・ない・・・でも・・・」
可南子ちゃんの瞳から涙が零れた。ドリルちゃんといい、可南子ちゃんといい、今日はやたらに誰かの涙を見る日だ。
ていうかね、皆泣きすぎ。私の周りは祐巳ちゃんを筆頭に泣き虫ばっかり!
「あんた、リリアンを本気で辞めたいの?私に対する責任とか、そんなのはこの際どうでもいいわよ。
だって、そもそも私は可南子ちゃんに責任取られるような事何もしてないもの。
私はただ祐巳ちゃんを助けただけ。だから私の責任はあんたじゃなくて、祐巳ちゃんが取るべき。
でも私は誰にも責任を取って欲しいだなんて思ってない。
だからここで重要なのは、可南子ちゃん、あなた自身がどうしたいかって事なのよ。
あなたがどうしても辞めたいんなら、それでいい。私が推薦状を書いてあげる。
でも、もしも本当は辞めたくないのなら・・・答えは分かってるでしょ?」
私の言葉に、可南子ちゃんが少しだけ微笑んだ。スンって鼻をすすってゆっくりと椅子に腰を下ろす。
「やっぱり、言ってる事はキツイですけど、祐巳さまと同じような事・・・言うんですね。
私・・・私は・・・リリアンが好きです。
祐巳さまが居なくても・・・大好きなんです・・・でも、でも・・・何か理由が無いと・・・居られない・・・。
昔から・・・そう・・・理由がないと・・・怖いんですっ!!」
目の淵に溜まった涙がボロリと零れ頬を伝ってゆく。なるほど。可南子ちゃんがどうして祐巳ちゃんに懐いたのかがよく分かった。
祐巳ちゃんは皆に目標を与えてくれるんだ、本人でも気付かないうちに。
だから可南子ちゃんは祐巳ちゃんを目標にする事で今までやってこれたんだ。
確かに、こういう人も居る。ある意味では教師にとても向いてると思う。
責任感が強くて、道しるべに従って真っ直ぐに進む姿勢は見ていて気持ちがいいぐらい。
ただ・・・一度道しるべが無くなってしまうと・・・とても脆くなってしまう。
それが、可南子ちゃん。彼女は今、リリアンに居る意味を探してるんだ。
ここに居る理由が無ければここに居てはいけないと思っているのかもしれない。
でもね、そうじゃないと思うの。例えば可南子ちゃんが望んでなくても可南子ちゃんはもう、リリアンの仲間なんだよ。
けれど彼女はそんな理由じゃ納得しないんだろうな・・・。私は大きなため息をついて可南子ちゃんを見上げた。
「・・・そうね、だったら私と祐巳ちゃんが幸せになるのを傍で見てなさい。
それが私と祐巳ちゃんに対する償いよ。で、あんたも幸せになる事。それが新しい目標よ、いい?」
私の言葉に可南子ちゃんの目が大きく開いた。口をあんぐり開けてまるで呆けてるみたいに私を見つめてる。
「ったく、子供かっつうの。目標なんてねぇ、自分で探しなさいよね。今回だけだからね!返事は!?」
「は・・・はい・・・ありがとう・・・ございま・・・す」
「そうそう、初めっからそうやって素直にしてりゃ良かったのよ」
そうすればこんな事にはならなかったんだから。
まぁ、いくら可南子ちゃんが素直でもやっぱりそう簡単にはいかなかっただろうけど。
呆れたような視線を送る私をしばらく見つめていた可南子ちゃんの瞳からまた涙が零れ落ちる。
ほんと、デカイ体してよく泣くんだから!
「ほら、もう泣くな!鬱陶しい」
「は・・・い・・・」
「それと、もう辞めるなんて言わない事。ここ辞めたら後が無いと思いなさい」
「はい・・・」
「ほんとにもう、めんどくさい子ね」
「・・・・・・・」
お、これには反応が無い。流石に言い過ぎた?とも思った次の瞬間、可南子ちゃんは顔を挙げてキッって私を睨んだ。
言葉には出さなくても、顔は放っておいてくれって顔してる。うんうん、それでこそ可南子ちゃんだわ。
でもほんと、めんどくさい子。まぁ・・・嫌いじゃないけど。
目標が自分で作れなくて、それで怖かったってのもあったのかな。もしかすると。
祐巳ちゃんが居なくなれば、自分の目標が無くなってしまうと、そんな事思ってたのかも。
でも誰かを目標にすんんじゃなくて、出来るなら自分の未来を目標にした方がずっといい。
その方が叶えやすいし、失うこともないのだから。誰かに決められた線路の上を歩くのは嫌だと言う人がいる。
でも、それとは逆に誰かに決められた線路の上でないと歩けない人もいる。
後者の場合は誰かが線路を作ってやらないと歩けなくなってしまう。祐巳ちゃんはきっと、それを知ってたんだと思う。
可南子ちゃんのそういうとこを知ってたからこそ、今までずっと可南子ちゃんの前を歩いてきていたんじゃないのかな。
本人さえ知らないうちに祐巳ちゃんの後ろに線路が出来てて、可南子ちゃんはそこを辿ってきてた。
でも、祐巳ちゃんっていう線路が突然私のと交わって、それで混乱してたのかも・・・しれない。
可南子ちゃんが祐巳ちゃんを好きだった気持ちに偽りは無いと思うし、これからも恋愛ではなくてもずっと好きに居るだろう。
でも、可南子ちゃんが祐巳ちゃんの線路を歩くことは、きっとうもう無い。
「可南子ちゃんは、今から初めて自分の線路を歩く。私達とは違う道を。でもそれはあんただけの道。
誰にも邪魔されずに済むし、好きに歩いていける。
いくら道草食ったって誰にも怒られないし、好きなときに路線変更も出来る。そう考えたらちょっとは得した気分になるでしょ?」
「はは・・・そう、ですね。そう思うようにします。聖さまは・・・案外楽天家なんですね」
「私は元々好き勝手にやってきた人だから。だから私は今、可南子ちゃんとは全く反対の意味で悩んでるとこ。
人と同じ線路を歩くのもなかなか大変だわ」
私と可南子ちゃん。とっても似てるけど、根本的なところが違う。そしてそんな私達が好きになった人、祐巳ちゃん。
祐巳ちゃんの線路が、これから先ずっと私の線路と繋がっていてくれたら・・・いいのにな。
第百四十八話『祐巳さまの悲劇』
祐巳さまが青い顔して診察室から出てきた時は、どこのゾンビかと思った。
それぐらい表情に生気が無くて、目はうつろ。はっきり言って怖い。
「どうでした?」
私の言葉に祐巳さまは固まった。ゾンビの次は石か。
私はそんな事考えながら祐巳さまの蒼白い顔を覗き込んだ。
「瞳子ちゃん・・・明日から少しの間学校お休みしますって蓉子さまに伝えてくれる?」
「はぁ、それは構いませんけど・・・一体どうしたんです?」
「うん・・・それがね。私今から・・・」
その時だった。看護士さんが祐巳さまを呼んだ。笑顔で手招きしてなにやら紙切れを受け取っている。
何度も何度も頭を下げてヨタヨタとこちらに向って歩いてくるさまはどう見ても保健医には見えない。
これは聖さまでなくてもちょっとだけ・・・守りたいとか思ってしまうかも・・・しれない。
「で、どうしたんです?そんなにも重症だったんですか?」
「う、うん・・・まぁ・・・その・・・」
煮え切らない祐巳さまの態度に私はイライラしてきて、
祐巳さまの手に握られてた紙切れを奪い取ってそれに目を通して・・・唖然とした。
ていうか、呆気に取られるしかなかったとも言う。
「きゅ、急性胃炎・・・に、入院の必要・・・あり・・・って、これ・・・」
「う、うん、私、今すぐ入院する事になっちゃった!えへ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
え、えへ!って・・・いや、可愛い子ぶってる場合じゃないでしょう・・・ちょ、ちょっと待ってくださいよ!!
紙切れを持ってた手が震える。ある意味では聖さまよりも重症ではないか!
そんな私の手元を見て、私が怒ってるって勘違いしたのか、祐巳さまが慌てて付け加えた。
「やっ!あ、あのね!そんな大層なもんじゃないのよ?べ、別に手術が必要とかそういうんじゃないの!!
お薬と点滴でどうにかなりそうなんだけど、でも・・・その・・・入院は必要だって・・・」
「そりゃそうでしょうねぇ・・・で、どうするんです?」
「うぅ・・・瞳子ちゃ〜ん!!どうしよ〜〜〜!!??」
いや、私に聞かれても・・・私は言葉を失った。
ていうか、そもそもどうしてこうなる前にさっさと病院に来なかったのか、と!
全く!皆どうしてこんな人を可愛がるんだろ!?いや、可愛くなくはないけどっ!!
とりあえず・・・聖さまには言わなければならないだろう。それと、祐巳さまの入院手続きもしなきゃ。
ご家族に連絡して、学校にも連絡。それから、えっとー・・・そうね、家の事とかも考えなきゃ。
家の主が二人とも入院って事は、それだけ長い間家空けるって事ですもの。
今のうちに大事な物とか集めて誰かに預けるなり何なりしないと。
で、洗濯とかはいいとして・・・着替えとかは・・・どうしよう?
それを全て早口で祐巳さまに告げると、祐巳さあは驚いたように口をポカンと開けて私を見つめ言った。
「瞳子ちゃん・・・秘書とかになったらすっごく優秀なんだろうなぁ・・・。
や!あの、別に教師に向いてないって言ってるんじゃないのよ!?」
「・・・分かってますよ。褒めてらっしゃっるんでしょ?でも、今はそれどころではありませんわ」
「う・・・そ、そうよね。ごもっともです・・・はい・・・」
祐巳さまはそう言ってションボリと俯いてしまった。で、ここでふと思った。
もしかして・・・私も祐巳さまの胃炎に一役買ったんじゃ!?いや、そりゃそうだよね。
私と可南子さん、そして聖さまに原因があるとしか思えないんですもの。
なんだか申し訳ないって気持ちが頭の中をチラつくけど、そんな事言ってても仕方ない。
私は看護士さんに借りた車椅子に祐巳さまを座らせて、聖さまの病室まで運ぶことにした。
祐巳さまは左手で点滴を持ち、恥ずかしそうに俯いてたんだけど、聖さまの病室が近づいてくるにつれて焦り始めた。
「と、瞳子ちゃん!お、怒られるかな?ていうか、やっぱり言わなきゃ・・・だめ?」
「祐巳さま、聖さまに今言わなくてもいつかはバレてしまいますわ。
後で怒られるのと、今怒られるの、どちらがよろしいんです?」
「え・・・えっと・・・い、今・・・かなぁ・・・」
「そうでしょう?だったら、さ、参りましょ」
本当に、何て世話の焼ける保健医なのかしら。ほんっとに信じられない。
私は車椅子に祐巳さまを乗せたまま、グリップを強く握り締めた。聖さまに怒られたら、大丈夫です。
ちゃんと私が加勢してさしあげますわ、祐巳さま。だって、原因は私にもあるんですから。
聖さまの病室の前まで来た時、祐巳さまは半分意識を失いかけてた。
いや、ちょっと違う。これは俗に言う、グッタリとしてる感じ。
点滴と痛み止めでどうにか吐き気とかは収まってるんだろうけど、でもやっぱり体調は相当良くなさそう。
「祐巳さま、大丈夫ですか?」
「う、ううん。へーき。ありがと」
笑った祐巳さまはどこか痛々しくて。これは聖さまに会うよりも先に早くベッドに横になった方がいいかもしれない。
「やっぱり、叱られるのは明日にしましょう」
「ど、どうして?」
「祐巳さま、早く横になられた方がよろしいと思うので。聖さまには私からちゃんと伝えておきます」
私はクルリと踵を返して診断書に書かれた病室に向った。
私の言葉に弱弱しく微笑んだ祐巳さまは、小さな声でポツリと言う。
「ありがとう・・・瞳子ちゃん」
私はその声を聞こえない振りしておいた。だって、あまりにもその声が恥ずかしそうで、寂しそうだったから。
病室は聖さまの居る個室の斜め向かい側の部屋だった。四人部屋で大体同じ歳ぐらいの人たちばかりが集まっている。
しかも皆女性・・・祐巳さまはそれに安心したのか、小さな溜息を落とすとにっこりと私に笑いかけてくれた。
「ここでもう大丈夫だよ。だから・・・聖さまに伝えて・・・くれるかな?私の事」
「はい、もちろんです。それでは、行ってまいりますわ」
「うん、ありがとう」
今度はさっきよりもずっとはっきりとしたお礼だった。私はそのお礼はしっかりと受け止め小さく微笑むと、
祐巳さまは安心したように手を振ってくれる。さて、どうしたものかしら・・・。
私は聖さまの病室の前でなんて説明しようか悩んでいた。その時だった。突然聖さまの病室のドアがガラリと開いた。
中から可南子さんが出てきて、私を見つめ青ざめた。手に持ったポーチが落ちて、チャリンと小銭の音がする。
私はそれを拾い上げて可南子さんに返すと、唖然としてる可南子さんを避けて中に押し入った。
「ただいま戻りました」
聖さまは窓の外を見つめていた。そして私の声に振り返り、私を見て案の定言葉を失っている。
「ゆ、祐巳ちゃん・・・ど、どうしたの?」
「それが・・・これ、祐巳さまの診断書です」
私はさっき祐巳さまの手からもぎ取った診断書を聖さまに手渡して椅子に腰掛けて聖さまの言葉を待った。
「・・・そう、急性胃炎・・・ね。で、どこの病室?」
「斜め向かいの病室ですわ。二人部屋でもう一人も女性でした」
「ふーん・・・ありがと。分かった。後で行ってみるわ」
聖さまは一見あんまり心配してるようには見えなかった。でも、本心は・・・どうなんだろう?
本当は今すぐにでも祐巳さまの所に行きたいと思ってたりするのかしら?
「聖さま、祐巳さま心配されてましたよ。怒られるんじゃないかって」
「怒る?私が?どうして?」
「そりゃ・・・心配かけたって思ったから・・・ではありません?」
「あー・・・そりゃまぁ、普段なら怒ってたかもしれないけど・・・私も原因の一つだから怒れないわね。
それよりも心配の方が大きいわね、どっちかって言うと」
「そう・・・ですよね」
「具合、悪そうだった?」
聖さまは私の顔を覗き込むみたいにポツリと呟いた。ああ、この人、本当は相当祐巳さまの事心配してるんだ。
なんだかそれが手に取るように分かって、胸が苦しくなった。
想いが通じるって、人を好きになるって、大変なんだ。自分の事も相手の事も心配しなきゃならないんだから。
「ええ、本当は先にここへ来ようとも思ったんですが、あまりにも蒼白いので先に病室に送りました。
今頃は・・・もしかするとすでに眠っているかもしれません。薬で・・・」
「・・・そう。ありがとう。さて、じゃあとりあえずこれ、書かなきゃね。ペン取ってくれる?」
聖さまはそう言って机の引き出しを指差した。
「私が書きましょうか?聖さままだ起き上がれないんでしょう?」
私の問いに聖さまは小さく首を横に振ると、苦笑いして言う。
「いいの。書きたいのよ、私が」
「そうですか?それでは」
それ以上私は何も言わないでおいた。何となくだけど、聖さまの気持ちも分かったから。
大切な人の事はやっぱり誰にも任せたくないものなんだろうって。
私だって、お姉さまの事を誰かに任せたいだなんて思わないから。
ペンを受け取った聖さまは書きにくそうに一つ一つ丁寧に空欄を埋めてゆく。
とてもじゃないけど祐巳さましか知らないような事までスラスラと埋めていくから、ほんの少し私は驚いてしまった。
「何でも・・・知ってらっしゃるんですね・・・」
「そう?一緒に住んでりゃ大体わね。だって、私の入院手続きしたのだって祐巳ちゃんだったし。
多分祐巳ちゃんもこれと同じの書かされたんじゃないのかな?」
私はどうしてこの二人がお似合いじゃないだなんて思ってたんだろう?
だって、こんな個人しか知らないような情報をスラスラと書けるんですもの。
こんな絆をどうして私は否定しようとしたのかしら・・・。私は改めて自分がどれほど浅はかだったか思い知った。
そこへさっき出て行った可南子さんが戻ってきた。
「あら、可南子さん。どちらへ行ってらしたんんです?」
「飲み物を買いに・・・はい、これでいいですか?好みが分からなかったので」
そう言って可南子さんが私の膝の上に桃のジュースを落とし、
もう一つの椅子に腰掛け、何事も無かったかのようにジュースを飲み始める。
「あ、あの・・・?」
「なんです?ああ、嫌いでしたか、桃は」
「いえ、そうではなくて・・・ど、どうして私の分まで・・・」
だって、私は可南子さんにあれほど酷いことをしたのに。こんな風に優しくされる立場ではないというのに。
でも可南子さんは怪訝そうに私を見つめ、そんな私を無視してまたジュースを飲み始めた。
「ところで、祐巳さまはどうされたんです?」
「ああ、それがさ、祐巳ちゃんも入院だって。
今頃斜め向かいの部屋で寝てるんじゃないかってのがドリルちゃんの予想」
シレっと答えた聖さまの言葉に可南子さんは固まった。そりゃそうよね。ビックリするわ、そりゃ。
「ど、どうしてそんなにも落ち着いてられるんですか!?」
「別に好きで落ち着いてる訳じゃないわよ。ただ、焦ってもしょうがないじゃない。
とりあえず私が出来るのはこれを書くことぐらい。で、君たちにはその他の事してもらおうかな。
まずドリルちゃんは学校に連絡をして。で、可南子ちゃんは祐巳ちゃんの実家に連絡。
私は動けないからここで現場監督。いいわね?分かったらほら、さっさと飲んで動く!
ドリルちゃんはちゃんと可南子ちゃんにお礼言ってから飲むように」
聖さまの声は優しかったけど、顔は険しかった。それが可南子さんには分かったんだろう。
勢いよくジュースを飲み干すと、立ち上がって病室を出て行こうとする。
私はそんな可南子さんの袖を掴んで、小声でポツリと言った。
「あ、ありがとう・・・美味しくいただくわ。で、でも!借りを作った訳ではありませんから!!」
「どう・・・いたしまして。それぐらいで借りだなんて思いませんよ、私は」
そう言って可南子さんは病室を飛びだした。可南子さんの後姿を見つめていた聖さまが苦笑いしている。
「ほんと、君たちは素直じゃないね。私よりもずっと素直じゃないんじゃない?」
「ほ、放っておいてくださいっ!では、私も行って参りますわ!!」
「はいはい、行ってらっしゃい」
私が病室を出るときに一度だけ振り返ると、聖さまはもうすでにこちらを見てはいなかった。
また紙にペンを走らせ、時々何か考え込んでいる。伏目がちに伏せた瞳は真剣で、その心の中は覗けそうには・・・なくて。
ただ分かるのは、聖さまは今祐巳さまの事しか考えてないって事。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
学校に電話をし終えた私は、待合室の所で座り込んでる可南子さんの隣に腰を下ろした。
「どうでした?」
「すぐにこっちに来るそうです。そっちは?」
「こっちも同じですわ」
「そう・・・祐巳さまの周りには、いつも人が集まってました。高校の時から・・・」
「聖さまの周りにも・・・ですわ」
可南子さんはポツリポツリと話し出した。私も聖さまの話をした。でも・・・自分たちの事は、何も話さなかった・・・。
「こうやって聞くと・・・聖さまって、やっぱり皆が話してた通りの人なんですね」
「祐巳さまこそ」
なんだか可笑しかった。どうしてこうやってちゃんと話さなかったんだろう?
こんな風にもっと早くに可南子さんと話していれば、私達は二人とも変な誤解はしなくてすんだのに。
どうやら可南子さんもそう思ってるみたいで、さっきからずっと苦笑いを浮かべている。
「でも、祐巳さまが今幸せそうに笑うので、何よりでしたけど」
可南子さんはそう言って締めくくった。どうやら、何かを乗り越えたみたいにスッキりしてる。
聖さまが何か言ったのか、それとも祐巳さまが何か言ったのか、
私は初めて可南子さんの事があんまり苦手じゃないような気がした。
「聖さまも・・・幸せそうですわ」
私達が必死になって壊そうとしたものは、私達が考えるよりもずっと堅かった。
だからビクともしなかったし、壊れるはずもなかった。
でも、あの二人には悪いけど、あんな事があったから私は今可南子さんとこうして話せるんだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まず一番に駆けつけてきたのは、SRGと蓉子さまと江利子さまだった。
病院に駆け込んできた三人は息を切らして真っ直ぐに私達の方へと走り寄ってくる。
「ど、どういう事!?祐巳ちゃんが入院って!!」
「どこの病室なの!?」
「私は先に聖の病室に行ってるわねー」
三人は思い思いに私達をまくし立てて、江利子さまの後を追って行ってしまう。
なんだかそれが酷く寂しかったのは・・・言うまでもない。
続いてやってきたのは由乃さまと志摩子さま、そして乃梨子さんに令さま・・・それから、お姉さまだった。
「瞳子!一体祐巳に何があったの!?」
「お姉さま・・・それが・・・」
私が言い終えないうちに、お姉さまは力なくその場に崩れ落ちたかと思うと、私の手を取って泣き出す。
私はそんなお姉さまをなだめながら、横目で可南子さんが他の皆に事情を説明しているのを聞いていた。
一番最後にやってきたのは祐巳さまのご家族。私達を見るなり深々と頭を下げて静かに話し出す。
「祐巳がいつもお世話になっております」
「いえ、こちらこそ・・・どうぞ、こちらです」
そして祐巳さまの病室の前まで来た時、私達は立ち止まった。だって、皆団子になって中を覗いてクスクス笑っていたから。
「どうかされたんですか?」
「ああ、瞳子ちゃん。いえね、それが・・・ほら」
そう言って蓉子さまは病室の中を指差した。中を覗きこむと、そこには眠る祐巳さまの手を取り、やっぱり眠る聖さまの姿。
でも・・・確か聖さまって動けないんじゃ・・・そんな事を考えていた私の心を読んだみたいにSRGが小さなウインクをする。
「きっと、這ってでも祐巳ちゃんとこに行きたかったのよ。病室に居ないと思ったらこれだもの。本当に、世話の焼ける子よね」
「「・・・・・・・・・・・・」」
私は可南子さんと顔を見合わせた。なるほど。
聖さまが私たちに皆に連絡するように言ったのは、多分祐巳さまの傍に行くためだったのか。
なんだ、聖さまこそ全然素直じゃない。誰かの手を借りるのが癪できっと私達を追い出したんだわ。
私達の後ろから祐巳さまのお母さまが中を覗きこんで小さく笑った。
「良かった・・・どうやら大丈夫そうね・・・」
ポツリと漏れた声は、私の心とピタリと重なった。もちろん、私の場合はもっと他の色んな意味で、だけど。
第百四十九話『楽しい入院生活』
目が覚めたら何故か私の手を握り締めて眠る聖さまの姿・・・ビックリして飛び起きると、その反動で聖さまも目を覚ました。
「おはよ・・・大丈夫?」
「お、おはようございます・・・ていうか、聖さまどうしてここに居るんです・・?」
聖さまの部屋、ここじゃないよね?そんな私の顔を見て聖さまは少しだけ頬を膨らませた。
「なによー、心配して一緒に寝てあげたのに」
「そ、それはどうも・・・でも、自分の部屋に戻らないとマズイんじゃないですか?今頃看護士さん探し回ってるんじゃ・・・、
いえ、それ以前に聖さま・・・動けるんですか?」
だってだって、聖さま昨日までは体すら起こせなかったじゃない!!どうしてそんな人がここまで来れたのよ!?
私の質問に聖さまはにっこりと言う。
「人間気合でどうにかなるものよ。でも帰りは無理そう。だから祐巳ちゃん、この車椅子貸してね」
「それは構いませんけど・・・ダメですよ、聖さま!あんまりウロウロしちゃ!」
「はいはい」
そう言って聖さまは車椅子にどうにか乗り込んで、器用に片手で運転して部屋を出て行ってしまった。
廊下からは看護士さんの慌てた声が聞こえてくる。ほらね・・・やっぱり探されてるじゃない・・・。
でも、ちょっとだけ嬉しかった。だって、私入院なんて初めてだったんだもん!
でも聖さまも一緒に入院してるんなら、全然怖くない。
私がうーんって大きく伸びをしてベッドにもう一度転がったところで、朝ごはんがやってきた。
とは言っても?私は胃炎で入院してる訳で・・・まるで赤ちゃんの離乳食みたいなご飯だったんだけど・・・ね。
「うぅ・・・美味しくない・・・」
半べそかきながら食べてた私の声が聞こえたのか、隣のカーテンの奥から小さな笑い声が聞こえてきた。
「あのー?」
「いやだ!ごめんなさい!!何だか可愛らしくてつい」
私はそっと閉まってたカーテンを開けると、そこには・・・ミイラが居た。いや、違う一応人間。
でも、井出達は・・・まさしくミイラ。それぐらい全身ギプスでカチカチに固まった女の人だった。
だから私は思わず声をかけてしまった。
「あ、あの・・・だ、大丈夫ですか?」
私の質問にその人はかろうじて動く首をこちらに向け、苦笑いしてる。
「大丈夫そうに見える?」
「いえ・・・正直、あまり・・・」
「でしょうね。坂道をね、自転車で下ってたのよ。そしたらたまたま美味しそうなネタがね、あ!私雑誌の記者なんだけど。
で、スクープだー!と思って思わずハンドルから手を離しちゃって・・・気がついたら生垣に頭から突っ込んでたの。
おまけに上から石がゴロゴロ落ちてきてね・・・生き埋めになったのよ・・・多分、地盤が緩んでたのね、きっと」
「よ、よく生きてらっしゃいましたね・・・」
「それ!私の妹にも言われたわ。・・・でも、ほんと。奇跡だと思ったわ。助けられた時は」
一体どんなネタだったのか・・・というよりも、地盤が緩んでたとかそういう問題でもないような・・・。
「えっと・・・私、福沢です。福沢祐巳。あなたは?」
「私?私は築山美奈子。よろしくね、祐巳ちゃん」
「はい!よろしくお願いします、美奈子さん」
その時だった。美奈子さんの顔がパッって輝いた。その視線はドアに向けられている。
振り返ると、そこに立っていたのはいかにも真面目そうな女の人。前髪をきっちりと分けてピンでしっかり留めてある。
「紹介するわね。今言ってた妹の真美よ。真美、こちら福沢祐巳さん」
「初めまして。山口真美です。よろしくお願いいたします」
「あ、こちらこそ・・・よろしくお願いします」
で、ここでふと気付いた。この二人姉妹なんだよね?でも苗字が違う・・・?結婚されてるのかな?
そんな事考えてた私は何となく二人の薬指を見たんだけど、どちらも指輪らしいものはしてない。
でもさ、不思議だよね。リリアンの教師だからなんだろうけど、姉妹って聞くと何故か姉妹制度の事が脳裏を過ぎる訳。
これって・・・一種の職業病って奴かなぁ?
「あの、ご結婚されてるんですか?」
私は思い切って聞いてみた。だって、何だかモヤモヤするんだもんっ!!
そしたら真美さんと美奈子さんがお互いの顔を見合わせて大爆笑する。つか、な、なによ?何で笑うのよ!?
「ご、ごめんなさい!そうよね、普通はそう思うわよね!私達、リリアンの卒業生なのよ。
あそこには姉妹制度っていうのがあってね・・・」
「ああ!なるほど、そうだったんですか!!」
私の勘は当たってた訳だ!私は嬉しくなって思わず美奈子さんの言葉を遮ってしまった。
で、今度は真美さんと美奈子さんが不思議そうな顔をする番で・・・。
「あ!私、今そのリリアンで保健医として勤めてるんですよ!奇遇ですね!」
「そうなの!?本当に、凄い偶然!!」
美奈子さんと真美さんは手を叩いて喜んだ。いや、美奈子さんは・・・叩けてなかったけど。
何せ両手両足、完全に固められちゃってるからね。大の字で転がったまま全く動けてないもん。
こりゃ聖さまの怪我なんてまだまだ軽い方だ。そんな事考えると何だか可笑しかった。
私達はそれから色んな話をした。昔のリリアンの話や、今のリリアンの話。
そんな話をして盛り上がっていた私たちの病室をノックする音。
「はーい」
私が軽快に返事すると、ドアがゆっくりと開いて現われたのは・・・聖さま。
聖さまは中に入ってくるなり車椅子をゴロゴロと転がして私のベッドに這い上がってくる。
「あれよね、片手でも操縦しやすい作りにしといて欲しいわよね」
「あのですねぇ、さっきも言いましたけど、そんなウロチョロしてていいんですか?」
「だって、私の回診もう終わったもん。もう夜まで来ないよ」
「そういう問題ではなくて・・・まぁいいや。えっと、真美さん美奈子さん、こちら・・・ん?真美さん?美奈子さん?」
私は口を開けたまま固まってる美奈子さんと真美さんの顔を見て、思わず二人の目の前で手の平を振った。
でも二人とも固まったまま動こうとしない。そんな二人を聖さまはじっと見てたんだけど、
やがて何かを思い出したかのようにポンと手の平を叩いた。
「新聞部の!」
「えっ!?お知り合いなんですか?!」
「うん。よく追っかけまわされたから、ね?」
追っかけ・・・回された??よく意味分かんないんだけど・・・その時だった。
美奈子さんが突然大声で叫んだ。
「真美ーーー!!スクーーーープよっっっ!!!元伝説の白薔薇様、入院!!!」
「お、お姉さまっっ!?」
私は突然の美奈子さんの大声に思わず驚いてベッドから転げ落ちそうになった。
そんな私の腕を聖さまがどうにか捕まえてくれなきゃ、きっと今頃落ちてたと思う。
「ほらね、こんな具合によく追い回されてたの。相変わらずねぇ、ほんと」
「聖さま、お久しぶりです。お元気そうで・・・って事はなさそう・・・ですよね。
何があったのかは知りませんが、とりあえず生きていらして何よりです」
「その挨拶もどうかとは思うけど・・・まぁ、あなたはどう見てもその挨拶がピッタリよね。一体何があったの?
入ってきたときどこのエジプトのピラミッドに迷い込んだかと思ったわ」
「それが・・・」
バツっが悪そうにさっき私に説明してくれた通りに、今度は真美さんが聖さまに説明した。
それがどんなに悲惨な事故だったのかを。でも、それを聞いた聖さまは・・・大爆笑。いや、気持ちは分かるんだけどね。
「バ、バカじゃない!?あはは!!!どうして生きてるのよ!その事故でっ!!」
「いえ、もう、ほんと、仰るとおりです。私も初めは何の冗談かとも思ったんですが、
お姉さまのこの格好を見て全て納得したと言いますか・・・その、ほんと!こんな姉ですみません!!」
「いや、まぁ相変わらずよね、あなたは。い、いたた・・・まぁ無事で何よりだったわ」
「・・・ありがとうございます・・・」
散々聖さまに笑われた美奈子さんは不貞腐れたみたいにポツリと呟くと聖さまの腕を見て心配そうに言った。
「ところで、聖さまはどうしてこんな所に?」
「私?私はこのバカを庇って階段から落ちたの。ほんっとに、ねぇ?」
「す、すみません・・・」
私は聖さまの意地悪な笑みを出来るだけ見ないようそっと視線を外した。だって、あんまりにもバツが悪くて。
そんな私に美奈子さんは次の質問をぶつけてくる。流石雑誌記者だ。
「でも・・・じゃあどうして祐巳さんまで入院を?」
「いえ・・・それがその、私はその・・・胃炎でして、はい・・・」
「胃炎?それは大変ね・・・ストレス?」
「多分、そんなものかと・・・でも!もう大丈夫ですけど。ね、聖さま?」
私の言葉に聖さまは宙を見ながらどこか上の空で答えた。
「あー・・・まぁねぇ。とりあえずは大丈夫・・・なのかなぁ・・・」
「何ですか、その煮え切らない態度は」
「だって、先の事なんて分かんないし」
う・・・そりゃそうですけど・・・ここは大丈夫!って言って欲しかったのに。
そんな私達のやりとりを不思議そうに見ていた美奈子さんと真美さん。
「あの・・・ズバリ聞きますけど・・・お二人の関係は・・・その・・・」
美奈子さんの言葉に、聖さまがギロリと睨んだ。でも、次の瞬間聖さまの表情が緩む。
「付き合ってんの。だから手、出さないでね。あ、出せないか」
その格好じゃあねぇ。聖さまは嫌味っぽくそう言ってカラカラと笑う。
その言葉に美奈子さんと真美さんの顔は・・・真赤。ていうか、聖さま・・・本当に嫌味なんだから。
「で、でも、その・・・栞さんは・・・?」
栞さん・・・今度は私が固まる番だった。でも、そんな私の手にそっと聖さまの手が重なる。
そしてチラリと私を見てまた意地悪に微笑んだ。
「栞とはとっくの昔に分かれたわよ。でもまぁ、そのおかげでこの子に逢えた訳だし?
色々と、そりゃもうほんっとうに色々と迷惑かけられるけど、ね」
「うっ・・・」
そ、それを言っちゃぁ・・・私は涙目で聖さまを睨んだ。そんな私を見て聖さまはまた意地悪に笑う。
「で、でも私も聖さまに迷惑かけられますもん!!お互い様ですよっ!!」
「はいはい、勝手に言ってなさい」
「もう!!聖さまなんて嫌い!!」
「嫌いで結構」
「うー・・・」
やっぱり聖さまに口喧嘩で勝てない。だって、いっつもこうやって私を軽くあしらうんだもん
それにしても聖さま・・・栞さんの事、もうそんな風に言えちゃうんだ・・・。
それが無性に嬉しくて、何だか胸が熱くて。
たったそれだけの事なのに、聖さまの中で栞さんがほんのちょっと消化出来たんだって、それだけなのに。
こんな事考える私って、やっぱり性格悪い。でも、これって結構重要な事だとも思う。
聖さまの言葉を聞いた真美さんと美奈子さんは、ポカンと口を開けたまま一向に閉じようとしない。
そんな二人を見て私達は思わず苦笑いするしかなくて。
でも、良かった!何だかこの入院生活、案外楽しくなりそう!!
真美さんと美奈子さんとはリリアンの話で盛り上がれそうだし、何よりも・・・聖さまが居るから!
第百五十話『入院ってのは、やっぱ個室よりも大勢の部屋の方が楽しいと思うの』
今は少なくとも、そう思う。だって、いつ行っても祐巳ちゃんたち・・・楽しそう。
ていうか、どうして私は個室なの?それをこないだ看護士さんに聞いたら、たまたま病室が空いてなかったんだって。
で、祐巳ちゃんが入院した日に限って、やっぱりたまたまあの病室が空いたとか言うんだから、凄い。
祐巳ちゃんの微妙すぎる強運とか、私のあまりにもしょうもない運の悪さなんて今更呪っても仕方ないし。
「それにしたって・・・あんまりだわ・・・」
思わず愚痴を言った私に祐巳ちゃんが笑った。
「まぁまぁ、そんな事言わずに。聖さまだって何だかんだ言いながらここにずっと居るじゃないですか。
また看護士さんに叱られますよ?」
「別にいいよ、叱られても。最近じゃここで採血とかしてくれるもん。
それよりも気に入らないのは・・・どうしてあんた達が祐巳ちゃんのお見舞いにだけ来るのかって事よ」
そう言って私はグルリと病室を見渡した。蓉子に祥子、ドリルちゃんに志摩子に乃梨子ちゃん・・・が居る。
居るけど、誰一人として私の部屋には・・・来ない。どーなってんのよ!?って話でしょ?!
そんな私の台詞に蓉子はにっこりと笑った。
「だって、あんたいつ覗いても居ないじゃない。それに行ってもどうせ迷惑そうな顔するでしょ?
それなら祐巳ちゃんのお見舞いに来た方が楽しいしー」
「そうですよ、お姉さま。お姉さまはいつ行ってもいらっしゃらないじゃありませんか。
昨日も看護士さんが涙目で探してましたよ?」
「私は祐巳に会えればそれでいいので。あ、もちろん聖さまの事も心配してますわよ?
でも・・・祐巳が胃炎だなんて可哀想に・・・」
「私は別に誰のお見舞いに来てる訳ではありませんわ。ただ、お姉さまについてきているだけですから」
「・・・・・・・・・・・・・」
どいつもこいつも、本当に同僚思いのいい人ばっかりだわ、ほんと。
フンって鼻を鳴らした私を見て祐巳ちゃんが微笑む。凄く楽しそうに。まぁ・・・祐巳ちゃんが笑うんなら別にいいけど。
そんな事を考えながら私はそっぽを向いた。そうだ、私にはお姉さまが居るじゃない。
お姉さまならあるいは・・・そう思っていた矢先にお姉さまが祐巳ちゃんの病室に姿を現した。
「祐巳ちゃ〜ん!約束の物持ってきたわよ〜!・・・あら、聖・・・居たの?」
「・・・お姉さま・・・」
居たの?って聞くって事は、私の病室を覗いた訳では・・・ないんですね?そうなんですね!?
ああ、やっぱり私は一人ぼっちだ。いいよ、もう。皆して祐巳ちゃんの心配してればさ。フンだ!!
本格的にそっぽを向いた私に救いの手を差し延べてきたのは意外にも・・・。
「ああ、聖さまこちらにいらしたんですか。はい、コレ。
聖さま一人部屋で退屈してるだろうと思って持ってきたんですが・・・そうでもないみたいで安心しましたよ」
「か・・・可南子ちゃんっ!!」
君だけだよ!私の心配してくれたのはっ!!!何だか嬉しくて可南子ちゃんの手を取ると、
それを見て今度は祐巳ちゃんがそっぽを向いた。つか、この子こんなにもヤキモチ妬く子だったっけ?
「な、なんですか?せ、聖さま一体どうされたんです?」
「知らないっ!!」
祐巳ちゃんに助けを求めた可南子ちゃんに八つ当たりする祐巳ちゃんが凄く新鮮で、嬉しくて。
思わず笑った私に、さらに怒る祐巳ちゃん。そしてそれをしきりにメモしてる・・・元新聞部。
「あのさ、私たちもう卒業したんだけど」
「何をおっしゃいますか!見てくださいよ、この豪華な顔ブレ!!
昨日はここに江利子さまがいらっしゃったし・・・あぁ・・・入院してて良かった・・・」
「本当です!!お姉さまが怪我してくれて私は今、初めて心の底からお姉さまの怪我に感謝してるとこです!!」
・・・いや、それはどうかと・・・案の定、美奈子さんは眉をヒクヒクさせてる。
何にしても、この病室はいつも賑やか。そしてこんな時ふと思う。私は今確かに、ここに居る。
皆と。今まではどこか浮いたみたいな存在だったけど、今は・・・違う。
それもこれも・・・祐巳ちゃんのおかげなんだなぁ・・・。
「な、なんです?」
「いいや、別に。さてと、そろそろ戻ろっかな」
「えー!聖さまもう帰っちゃうんですか?」
「うん、どうして?」
「だ、だって!せっかく皆いらしてるのに!!」
なによ、帰れとか帰るなとか・・・病室を見渡すと皆が私を見ててちょっと怖い。
そんな中、志摩子が言った。
「お姉さま。別に私達祐巳さんだけのお見舞いに来てる訳では・・・ないんですよ?
ただ、お姉さまがいつ来てもここに居らっしゃるのを皆知ってるからここに集まるだけで・・・」
「分かってるって。別に拗ねてる訳じゃないよ。ただ眠いだけで」
「それなら・・・いいんですが・・・」
志摩子は俯いた。何だか皆もガッカリした顔しててちょっとだけ意外。
でも正直、本当に眠いんだよね。流石にここで寝ちゃう訳にも・・・いかないじゃない。
私はどうにか車椅子に乗り込むと、泣きそうな顔してる祐巳ちゃんに小さくウインクした。
「それじゃ、おやすみ」
多分さ、薬の中に眠くなる薬とか入ってるんだろうなぁ。だからこんなにも眠いんだ。
病室についた私はそんな事を考えながらベッドに潜り込んだ。あぁ・・・白い布団が心地いい・・・。
気がついたら私は・・・眠ってた。窓から差し込む光のせいであったかくて気持ちよくて。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ん・・・おも・・・い・・・」
うっすら目を開けると、ベッドの上に居たのは・・・祐巳ちゃん。
「あ!はようございます、聖さま!」
「あら、もう起きたの?これから面白い話聞くとこだったのに」
そう言ったのは蓉子。お姉さまも蓉子の隣で頷いてる。
「ちょ、なんであんた達ここに・・・」
見渡せばさっきのメンバーが皆居る。どこから持ってきたのか、椅子まで用意して・・・。
私の質問には誰も答えなかった。まるで私の声なんて聞こえないみたいにそれぞれ好きな話をしてる。
そんな私の隣で一生懸命可南子ちゃんが持ってきたルービックキューブしてる祐巳ちゃん。
あーあー・・・よくもまぁ、こんなにもバラバラにして。
しばらく私はそれを見てたんだけど、流石にイライラしてきて・・・。
「ちょ、貸して」
「あん!もうちょっとなのに!!」
どこが!?どのへんが??私は祐巳ちゃんの手からルービックキューブを奪い取るとそれをガチャガチャ回し始めた。
一面、また一面と色を揃えるのを皆が見てた。
個室も・・・そんなに悪くないかも。そう思い始めた時に、ようやく三面まで揃ったのを見て、
祐巳ちゃんが私の手からまたルービックキューブを取る。
「ここまでくればもう大丈夫ですよ!見ててください」
「・・・手柄を独り占めする気ね?」
つか、そっからが難しいんだと思うんだけど。でも祐巳ちゃんにそんな事言ったって無駄だって事は私もよく知ってる。
それにしても・・・どうして皆こっちに来たんだろう。
そんな考えはもう、どこかに行ってしまっていた。もうどうでもいいや、って思った。
だってさ、あまりにもいっつも通りだったから。笑って拗ねて、たまに怒って、ほんと、いっつも通り。
やがて皆が帰っても、祐巳ちゃんだけは自分の病室には戻らなかった。
つか、まだ必死になってルービックキューブで遊んでる。いや、格闘してるって言った方が正しいかもしれない。
最早私の揃えた三面はもうとっくにどこかへ消えてしまってる。それどころかさっきよりもずっとグチャグチャ。
「うー・・・どうしてー?」
「そりゃ、あんだけあっちこっち考えなしに回したら・・・」
「か、考えてますよっ!!これでも!」
「ふーん。それにしちゃ・・・見事にバラバラだけど」
私の言葉に祐巳ちゃんは険しい顔をこっちに向けた。睨むみたいな目で私を見上げ、とうとうおもちゃを投げ出してしまう。
癇癪起こした子供かっつの!いや、そんな所も可愛いと思ってしまうんだけどさ。
「もう嫌っ!!もう無理っっ!!!」
「もう止めちゃうの?せっかく面白かったのに」
混乱してる祐巳ちゃんが。とは、言わないでおいた。だって、絶対怒るじゃん?
祐巳ちゃんが投げ出したおもちゃを私が片付ける。これはいつもの事。
私が地味にルービックキューブをカチャカチャ回してるのを、祐巳ちゃんは隣でずっと見てた。
私は何も話さない。祐巳ちゃんも何も話さない。でも、それでいい。それが・・・いい。
どれぐらい経ったんだろう。祐巳ちゃんを呼びに看護士さんが病室のドアを叩いた。
「福沢さーん。そろそろ夕飯だから帰りましょうね〜」
まるで子供でも扱うみたいな看護士さんの口調に祐巳ちゃんはほんの少しだけ頬を膨らませて、
渋々部屋を出てゆく。祐巳ちゃんが入院した日、ベッドで眠る祐巳ちゃんの顔は青白く、苦痛に顔を歪ませて眠ってた。
そんな祐巳ちゃんを見て私は何故か愛しくて泣きそうになったんだ。
どうしてこんなになるまで放っておいたんだろう?って。
あんなにも痩せて元気が無かったのに、私は自分の事に精一杯で何も気づかなかった。
失うかもって思った瞬間、自分が居なくなる事よりも怖いと思ってしまったんだ。
でもね、失ってからじゃ遅いんだ。失いそうになる前にちゃんと気付かなきゃ・・・ダメなんだ。
それなのに私は・・・また大事なものを失う所だった。本当に、本当に大切なものを・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
夕飯が終わって、祐巳ちゃんがまたやってきた。ベッドの上に座って動けない私の隣で楽しそうに笑ってる。
「それで?その時祐巳ちゃんはどうしたの?」
「私ですか?私はですねー・・・」
取りとめも無い昔話。祐巳ちゃんの小さい時の話。
家族の事、学校の事、何だかこんな風に祐巳ちゃんの話を真剣に聞くのは、
もしかしたら初めてかもしれないなんて事に、今更気づく。
嬉しそうに昔話をする祐巳ちゃんの話を聞いてるうちに、何だか昔から祐巳ちゃんを知ってるような気分になって、
ほんの少しの間だったけど、祐巳ちゃんという人の人生を私も一緒に旅したような、そんな不思議な体験だった。
「聖さまのお話も聞かせてくださいよ!」
「私の話?何が聞きたいのよ?」
「んー・・・何でもいいですから!」
「何でもねぇ・・・」
私はだから、祐巳ちゃんのリクエスト通り子供の頃の話をした。
それを嬉々として聞いてくれる祐巳ちゃんを見るのが嬉しくて、多少デフォルメしてね。
でもさ、こんな話してると、何だか本当に小さい頃の祐巳ちゃんに逢いたくなる。
なんて・・・無理な話だけど。
「それは私も思いますよ。でも変な話、何だか聖さまって昔どっかで逢ったような気がするんですよねぇ・・・」
突然、祐巳ちゃんがそんな事を言い出した。だから私は首をかしげてそれを聞いてたんだけど。
「いや、もっと髪が長かったんですけどね。私、小さい頃に迷子になりまして。
その時に聖さまにとてもよく似た人に助けてもらったようあ、そうでないような・・・」
「なに、その曖昧な記憶。でも奇遇だね。私も昔迷子になった事あるよ。
ていうか、自分では迷子になったと思ってたんだけど、実際はそんなに時間が経ってなかったのよねぇ・・・」
あれは一体なんだったのか。今思い出してもあまりにも不思議で、今の今まで忘れてたんだけど。
私はあの日、確かに家に居た。母さんは買い物に行ってて、私は一人で遊んでたんだ。
まぁ、子供の頃の記憶だからよく思い出せないんだけど、とりあえず覚えてるのは、
知らないお姉さん二人に何故か凄く良くしてもらったって事。帰り際、何か言われたんだけど、それはもうよく覚えてない。
思えば、あの時の一人が私の初恋だったんだ。凄くいい匂いがしたのを、今も覚えてる。
優しくて可愛くて、笑ったら凄く・・・綺麗だった。それを祐巳ちゃんに言うと、祐巳ちゃんはほんの少し頬を膨らませた。
「聖さまの初恋なんてどうでもいいですよっ!」
「そう?私から恋愛を取り除いたら何が残るって言うのよ?」
「えー・・・それもそうですね」
「・・・・・・・・・・・・・」
祐巳ちゃんの中で、私という人間は一体どう映ってるんだろうな、全く。
そんな話をしてるうちに消灯時間が来て、祐巳ちゃんはやっぱり涙目で部屋へ戻ってゆく。
何だかさ、寂しい。あんな顔して出てくもんだから余計に。でも祐巳ちゃんはまだいい。
だって、部屋には他にも人が居るんだもん。私なんて一人よ?一人!!
寂しいうえにちょっと怖いんだから!
「もう、さっさと寝よ」
布団を頭から被って出来るだけ楽しい想像とかしてたら、私はいつの間にか眠りに落ちていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ん・・・な・・・に?」
何だかね、布団がゴソゴソって動いて、私はビックリして目を覚ました。
そしたら布団の中から私のじゃない寝息が聞こえてきて・・・こわっ!!な、なに!?
ベッドの脇に置いてある電気スタンドをつけて、恐る恐る布団をめくってみたら・・・。
「・・・祐巳ちゃん・・・」
いつの間にか私の布団にもぐりこんでたのは、他の誰でもない。祐巳ちゃんだった。
「ちょっと、祐巳ちゃん!」
「んー・・・もうちょっとだけー・・・」
いや、そうではなくて!とりあえず何でもいいから起きろって!!
祐巳ちゃんの肩を揺さぶると、祐巳ちゃんは布団にくるまってまた寝息をたてはじめる。
「こら!いい加減に起きなさい!!」
「ふぁい!?」
私の怒鳴り声に驚いた祐巳ちゃんがベッドから落ちそうになるのを抱き抱えて止めると、
まだ眠そうに目を擦ってる祐巳ちゃんの顔を覗き込んだ。
「どうしてここに居るのかしら?」
確か祐巳ちゃんは部屋に帰ったわよね?私の勘違いじゃないわよねぇ?
そんな事言った私の目からそっと視線を外して、祐巳ちゃんがしどろもどろに話し出した。
「だ、だって・・・こ、怖い夢みたから・・・」
「はあ!?それで潜り込んできたの?」
「だ、だってー・・・本当に怖かったんですよ!!」
「分かるけど、せめて一声かけてよ!怖いでしょ!!私もっ」
「えー・・・聖さまオバケ別に怖くないでしょう?」
そういう問題ではなくて!そりゃオバケ屋敷とかのオバケは別に怖くかないわよ!でも本物となったら・・・話は別。
怖いに決まってる。ましてやオバケと添い寝するなんて、絶対に嫌っ!!
「あのねぇ、そもそも分かってる?このベッドシングルなのよ」
「そんなの知ってますよ。私も同じので寝てるんですから」
「だったら分かるでしょ?狭いのよっ!!」
「だってだってー!!怖かったんですも〜ん!!」
「あー・・・もう!」
ほんと、この子だけは・・・こんな子、初めてよ。ほんとに。
どこまでも可愛くて面白くて、いざとなったら強くて。でも本当は怖がりで寂しがり。
根性無くて、でも勝負事が大好き。こんな子・・・ほんとに・・・初めて。
私はグスって鼻をすする祐巳ちゃんをギュって抱きしめて、もう一度ベッドに横になった。
「えへへ〜」
「・・・えへへじゃないわよ、全くもう」
嬉しそうに笑う祐巳ちゃんの息が鎖骨に当たる。くすぐったいんだけど、何だか懐かしい。
私ほんとに甘いなぁ、もう。なに、この激あまっぷり!!自分でも引くわ。
でも悪くない。なんか・・・うん、ちょっとだけこんな自分も好きだなんて思っちゃう。
狭いのに一緒に寝たり、絶対布団とか取られるの分かってんだけど、それでもいいや。
ちょっとだけ肋骨とか痛いけど、別にいいや。これでほんの少しでも祐巳ちゃんの胃炎が良くなるのなら。
「あーあ。祐巳ちゃんと居たらホッと出来るって瞬間がないんだから」
「それ!どういう意味です?」
「そのまんまの意味よ。ほら、もう早く寝なさい」
「うー・・・おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
祐巳ちゃんといたら、ホッとなんて出来ない。出逢ったときから、ずっとそう。
いつもドキドキハラハラさせられて、私は私じゃなくなってく。
思わず漏れた含み笑いに祐巳ちゃんが不思議そうに首を傾げた。
そんな祐巳ちゃんに軽いキスをして、今日はもう、おやすみ。
第百五十一話『浮気モノ』
「福沢さん!!こんな所に居たのねっ?!」
突然耳を誰かに思いっきり引っ張られて、私は目を覚ました。つか、び、びっくりした・・・。
本気で心臓が口から心臓が飛び出すかと思った。
「ご、ごめんなさい・・・」
「早く退院したかったら、自分のベッドでじっとしてなきゃダメでしょう!?」
「は、はい・・・」
「あはは!祐巳ちゃん怒られてや〜んの!」
私の事からかたった聖さま・・・なんて憎らしいんだろう。
ていうか、どうして聖さまにはいっつもあんなに優しいのに・・・私だけ・・・。
そんな私の心を知ってか知らずか、看護士さんは聖さまのおでこに手を当ててウンウン頷いてる。
「佐藤さん、今日も熱は無いわね。さ、福沢さん戻ってください!」
「はい〜」
ノロノロとベッドから這い降りた私の頭をヨシヨシしてくれる聖さまの手は暖かい。
病室を出るときにもう一回振り返ると、聖さまは小さくウインクしてくれたんだけど、
・・・それが嬉しくて喜びを噛み締めようとしたのも束の間、目の前でピシャリと聖さまの病室の扉が閉められてしまった。
な、なによ、感じ悪いんだから!!聖さまの担当の看護士さんは、若くて凄く美人だった。
ていうか、私よりもまだ一つ下だって言うんだから驚き!そして、聖さまが初めての担当患者なんだって。
だから余計に力入ってるのかもしれないけど、何だか・・・ねぇ?
自室に戻った私を見て、美奈子さんが指先だけで手を振ってくれた。
「おかえりなさい。朝帰りってやつ〜?」
「ち、違いますよっ!怖い夢見て眠れなくなったんで聖さまのベッドに潜り込んだだけですっ!!」
「あら、そうなの?つまらないわねー。そうだ!それよりも祐巳さん、いいものあるんだけど、どう?
そこの引き出しに入ってるから勝手に取ってちょうだい」
そう言って美奈子さんが指差した引き出しを開けると、そこには猫の表紙のアルバム。
どこにでもあるほら、現像とかしたらくれる奴。私はニヤニヤする美奈子さんを横目にアルバムを開いて・・・閉じた。
「こ、これはっ!!」
「ふふ。昨日ね、真美が持ってきてくれたんだけど渡しそびれちゃって」
「ふぉぁぁぁ・・・す、素敵ですっ!美奈子さん!!!」
勢い余った私は美奈子さんの腕にすがり付いてギプスに頬擦りをすると、美奈子さんは顔を歪める。
「い、痛いわ、祐巳ちゃん。それ、焼き増しした奴だから祐巳ちゃんにあげるわ。
蔦子さんって知ってるかしら?昨日真美が連絡したみたいだから、今日多分来ると思うんだけど、
蔦子さんにも聖さまの写真をお願いしといたからきっと沢山集まるわよ」
「ほ、本当ですかっ!?あ、ありがとうございます!!!」
飛び上がって叫びたい気分だった。だってさ、聖さまの写真だよ!?しかも高校、大学の時の!
これって・・・これって・・・絶対宝物になる!いや、するっ!!
私はベッドに座ってアルバムの表紙をまじまじと見つめていた。だって、中見るのすっごくドキドキすんだもん!
ただの写真なのに、どうしてかは・・・分かんないけど。
そしてようやく開いた1ページ目。聖さまと蓉子さま、そして江利子さまの卒業式の写真だった。
蓉子さまの理事長室に飾ってあるあの写真だ!嬉しくなった私が小声で、ふふふ、と笑ってたら、
それに気付いた美奈子さんが苦笑いして言った。
「そんなに喜んでもらえて私も嬉しいわ・・・でも、ちょっとだけ・・・怖い・・・」
「す、すみません・・・でも、本当に嬉しくて!」
とてもじゃないけど聖さまには見せられないけど。絶対こんなアルバム貰ったって知ったら、
聖さまは腕ずくで私から奪い取るに違いないんだから。
一枚一枚ページをめくってはニヤニヤしてる私の元に、もう一つ嬉しい贈り物がやってきた。
それは・・・。
「おまたせ〜!祐巳さん、調子はどう?」
「蔦子さんっ!うん、もう大分楽だよ!ありがとう」
「そんな元気になってきた祐巳さんには、はい、これ!ごめんね、何だか大量になちゃった」
そう言って蔦子さんが持ってきたのは・・・ミ、ミカン・・・箱?
ま、まさか・・・恐る恐る箱を開けた私の目に飛び込んできたのは、写真、写真、写真の山。
しかも、私と聖さまの分までちゃんとある。
「・・・ありがとう・・・蔦子さん・・・」
目頭がふいに熱くなった。だって、今私が持ってるのは、私が聖さまと出逢った日の写真だったから。
火事の時、スキーの時、何気ない日常の写真まで。私達の姿を蔦子さんはちゃんと留めておいてくれたんだ・・・。
泣きそうな私を見て、蔦子さんは嬉しそうに笑った。
「良かった、こんなにも大量に持ってきちゃったから嫌がられるかと思ったけど、大丈夫だったみたいね」
「そんなっ!嫌がるなんてとんでもない・・・嬉しい、すごく・・・嬉しいよ・・・」
私はしばらくそのミカン箱を見つめてたんだけど、
ふと思い立ってそのミカン箱をひきずって斜め向かいの部屋に行くことにした。
この感動を聖さまと分かち合いたかったのだ。私はドアをノックするのも忘れて聖さまの部屋を開けて・・・。
「せ・・・さま?」
「ゆ、祐巳ちゃんっ?!」
聖さまは慌てて体を起こした。その拍子に看護士さんが聖さまのベッドから滑り落ちそうになる。
何・・・してたの?私は入り口で固まったまま動けないでいた。
皆の今までの聖さまの評価が頭の中を駆け巡る。聖さまは浮気モノ。そんな単語がずっと、ずっと。
私はクルリと踵を返すとミカン箱の事などすっかり忘れて病室を飛び出していた。
どこに行こうか、どうしたらいいのか、考えてたら胃が痛い。ああ、やっぱり私・・・胃炎なのね。
こんな時にそんな事再確認なんてしなくてもいいのに、そんな事考えたら更に胃が痛くなってきた。
エレベーターに乗り込んで屋上まで来た時、私は置いてあったベンチに腰掛けて睨むみたいに空を見上げた。
チクンと痛む胃と胸。ねぇ聖さま、一体何してたの?私が斜め向かいの部屋に居る事分かってて、
看護士さんと一体何してたの?私が部屋に入った時、聖さまは看護士さんの頬に手を当ててじっと瞳を見つめていた。
まるで・・・キスするほんの一瞬前みたいに、首を少し傾けて。看護士さんの顔は・・・見えなかったけど。
「聖さまは・・・私のだもん・・・」
ポツリと呟いた声が空に吸い込まれてゆく。痛い・・・胸が、苦しい。
いつだって願うのは聖さまの傍にずっと居ること。聖さまが余所見なんてしないように、私だけを見ていてくれるように。
でもね・・・それすら・・・叶わないんだ。私は膝の上で作った握り拳を強く握り締めた。
そこにポツン、ポツンと涙が落ちる。その涙っは今の私の心と同じ、とても冷たい。
私の世界は、今や聖さま中心に回ってるって言ってもおかしくない。それぐらい聖さまはもう、居なくてはならない人。
でも聖さまは・・・違うのかなぁ?私なんて居なくても、やっぱり平気・・・なのかなぁ?
「いっ・・・つっ・・・」
痛い。どうしよう・・・も・・・ダメ・・かも・・・。薄れ行く意識の中で、聖さまが笑った。
いっつもみたいに、ほんの少し意地悪に。でも、凄く優しく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何かが私の髪を撫でてる・・・とてもよく知ってるんだけど、思い出したくない。
思い出すと、きっとまた泣いちゃうから。でもあまりにもそれが心地よくて、私は思わず微笑んでしまった。
「起きたの?」
そう呟くのは聖さま。私は無言で頷いたけど、起き上がろうとは・・・しなかった。
ここはまだ屋上。だって、目の前に柵が見えるもん。聖さまも私を起こそうとはしない。
ただ優しく髪を撫でながら、そう、と言っただけだった。
「この写真、いいね。私達が初めて逢った日のやつ」
そう言って目の前にピラリと一枚の写真が吊り下げられる。それはさっき、私が感動して思わず泣いてしまった奴。
聖さまはふざけて私の頬にキスして、私は驚いて目がまん丸。思い出すなぁ、あの時の事。
今私がこんな風に病院の屋上で聖さまの膝枕で写真を見てるなんて、あの時の私が知ったら、一体どんな顔するだろう。
きっと・・・やっぱりこんな顔するに違いない。思わず微笑んだ私に、聖さまも笑った。
「私さー、祐巳ちゃん意外ともう何かしたいだなんて思わないよ?」
突然の聖さまの言葉は、あまりにも不確かだった。だって、ついさっきあんな現場みたんだもん。
どうやって信じろっていうの?聖さまはああいう時、大概何も言ってくれない。
否定もしなければ、肯定もしない。だからどんどん不安になる。そういうのが聖さまのスタンスなのかもしれない。
でもね、言い訳して欲しい時だって・・・あるんだ。違うんだよ!誤解だよ!って。
でなきゃ、安心出来ない時も・・・あるんだよ?
「私は・・・そんな事が聞きたいんじゃ・・・ないです」
「じゃあ何を聞きたいの?」
「言い訳を・・・聞きたいんです。聖さまの言い訳を。私は・・・それを信じますから・・・」
私の声に聖さまは何故かクスリと笑った。ど、どうして笑うの?だって、ここ笑うとこじゃないじゃない。
思わず聖さまを見上げた私の顔を覗き込んだ聖さまは、突然私に顔を近づけてきた。
それはさっき私が見た光景とまるっきり同じで・・・でも、驚くのはその後の聖さまの台詞で・・・。
「んー・・・別に何にも入ってないけど・・・」
「は?ちょ、何言ってんですか?」
「だから、これがさっきの会話。言い訳も何も、本当に何もしてないのに言い訳なんて出来ないわよ」
「え・・・?」
それってどういう・・・私が言うよりも先に、聖さまは私をギュウって抱きしめた。
「目の中がゴロゴロするっていうから、見てただけ。そこへたまたま運悪く祐巳ちゃんがやってきたって訳。
言い訳じゃなくて、これが真実。分かった?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
言い訳じゃなくて、これが真実。この言葉にどれほどの効果があったのか。
気がついたら私の胃痛はすっかり治っていて・・・自分でも驚くほどあっけない、
なんてちょっとだけ情けなくなったりして。
私は聖さまの腕の中でまるで猫みたいに目を細めた。
その拍子に涙がまた零れる。でも、それを聖さまには見られたくなかった。
ほんとはね、ほんとのほんとはね、言い訳も聞きたくないの。本当に私が聞きたいのは・・・。
「やっぱ、私の隣に居るのは祐巳ちゃんじゃなきゃね。これから先、ずっと」
「はいっ」
私はようやく顔を挙げた。そう・・・いつだってそんな風に思ってて欲しい。
いつだって私だけを見てて欲しいの。いつになく素直な聖さまに、私は目を細めた。
たまには・・・こんな風に甘く終わらないと・・・ね?
そっと目を閉じた私の唇に感じるのは聖さまの柔らかくて暖かい唇。
ゆっくり差し入れられた舌を感じて、微かな電流みたいなのが身体を駆け抜けてく。
長くて深いキスは、もう聖さまとしかしない。心の通ったキスをしたのをファーストキスと呼ぶのなら、
私のファーストキスはやっぱり聖さまだ。
絡まる舌が、抱きしめられた身体が、繋がった心が、私達もきっともっと、強くする。
第百五十二話『明日の事』
祐巳ちゃんが病室から出て行ったのを追おうとしたら、看護士さんに止められた。
「ダメですよ、佐藤さん!」
そう言って看護士さんは私の怪我してない方の腕を掴んだ。その力は結構凄い。
「どうして?」
「どうしてって・・・あなたはまだ絶対安静だからです!」
うん、それは知ってる。でもね、看護士さん。あの子は本当に私の大切な人なのよ。
私が今追わなきゃ、誰にもあの子を連れ戻せないと思うの。
「ねぇ、悪いんだけど手、離してくれる?痛いんだけど」
「あっ!ご、ごめんなさい」
「謝ったついでにもう一つお願いがあるの。私ね、祐巳ちゃんと同じ部屋がいい。
ワガママだってのは分かってるんだけど、部屋、変えてもらえない?ついでに担当も」
私の言葉に看護士さんは眉をしかめた。黙ってたけど、私・・・年下苦手なのよ。
それに、こういう全力でお世話します!ってタイプは物凄く苦手。それに・・・。
この看護士さん、祐巳ちゃんが入院する前からこうだった。祐巳ちゃんが着替えを持ってきてくれても、
私は絶対安静だからってすぐに追い返しちゃうし、それどころか他の皆も追い返す。
そういうのが私には耐えられなかった。今だってそう。目が痛かったんなら鏡見りゃいいじゃん、自分で。
「そんなワガママ・・・聞けません」
「そう?じゃあいいわ。他の人に言うから」
「で、でも!ちゃんとした理由が無い限りは・・・」
「私ね、あなたの子守をするために入院してる訳じゃないのね?
そりゃ私が初めての担当って言うぐらいだから頑張りたいと思うのは分かるんだけど、
そういう献身的なのが鬱陶しいタイプも居るのよ。だから、理由は私とは合わなさそうだから。
ねぇ、これって十分な理由だと思わない?」
担当の看護士さんと仲が悪いからってのは結構重要な理由だと、私はそう思う。
私の言葉に看護士は黙り込んだ。ここで泣かれても鬱陶しいから私はさっさと車椅子に乗り込んで、
病室を後にしようとしてふと目に入った写真・・・それは、私と祐巳ちゃんが出会った日の写真だった。
他にも箱の中には大量の写真が無造作に詰められている。
なるほどね、祐巳ちゃんはこれを私と一緒に見たかったのか。
それが分かった時、胸が締め付けられたみたいに苦しい。
嬉々としてこのダンボールを引きずってきたのかな、とか、そんな事考えたら・・・もうどうしようもなくて。
とりあえず私は祐巳ちゃんの病室のドアを開けた。で、新聞部と写真部に祐巳ちゃんが来たかどうか聞いたんだけど、
二人とも首を横に振る。まぁ、そりゃそうだよね。こんな時大概は一人になりたくなるもんだし。
で、私は考えた。一人になれて、その後は・・・どうしたいかな?って。私ならどうするかな?って。
私ならきっと、外に出る。で、空を見上げる。何も邪魔するものが無い所で、ただボンヤリと。
形を変えてく雲とか見てるうちに、何だか全てがどうでもよくなるのを私は知ってるから。
私は車椅子を動かしてエレベーターに乗り込んだ。屋上に向う為に。
あそこなら、運が良ければ一人きりになれる。それに空も見える。
チン。エレベーターが止まって、私はゆっくりと前に進んだ。
でも、いくらあたりを見渡してもそこに祐巳ちゃんの姿は無い。
それどころか、誰も居ない。いや、居ないと思ったんだ、一瞬。
だって、まさか祐巳ちゃんがベンチの上で倒れてるだなんて思わないじゃない!
私が、それが祐巳ちゃんだと気付いたのはベンチの正面に回りこんでからだった。
「・・・祐巳・・・ちゃん?」
そっと髪を撫でると、祐巳ちゃんの身体がピクンと震えた。良かった、生きてる。
私はしばらくそんな祐巳ちゃんを見詰めていた。
祐巳ちゃんの髪が風に遊ぶのを。頬に落ちた睫毛の影が時々震えるのを。
そっと手を伸ばしてその頬に触れると、小さく微笑んでくれるのを・・・。
私はベンチにどうにか座って祐巳ちゃんの頭を膝の上に乗せ、その髪を撫でる。
些細な幸せってのは、こういう事を言うんだろう、きっと。
本当は、医者を呼んだ方がいいのかもしれない。きっと祐巳ちゃんは気分が悪くなってここで倒れてたんだ。
ただ寝てた訳じゃない。それは分かってるのに、どうしても誰にも邪魔されたくなかった。
今、この瞬間を、誰にも・・・。私はずっと髪を撫でていた。もしももう後5分目を覚まさなかったら、
きっと私は医者を呼びに行っていたかもしれない。でも、祐巳ちゃんは目を覚ました。
私の顔を見てはくれなかったけど、それでも私の心は何だかとても穏やかで。
言い訳を聞きたいと祐巳ちゃんは言った。でも、私に言い訳する事もない。
私はだって、祐巳ちゃんを裏切ろうとは思わないのだから。これっぽっちも。
何かを待つような祐巳ちゃんの顔は可愛い。そしてそれが当たった時、凄く嬉しい。
私は考えた。こんな時、私ならどんな風に言われたら安心する?
きっと、ずっと離れないでって言われたらじゃないかな。いや、それじゃあ弱い。
私には、あなたしか居ないと言われたい。だからずっと一緒に居てねって・・・そんな風に・・・言われたい。
私の心も身体ももう全部祐巳ちゃんのモノ。でもそれを言葉では言い表せない。ていうか、恥ずかしくて言えない。
だから私は言葉じゃなくて態度で示すことにした。
久しぶりにした深いキスは、何故か無性に泣きたくなった。そんな切ない味だったんだ。
私はもう、一人でなんて飛べない。祐巳ちゃんが私を求めてくれる限り、私はもう一人でなんて飛べない。
だって、いつも祐巳ちゃんと一緒に飛んでいたいもの。これから先、ずっと。
キスが終わってやっと祐巳ちゃんの瞳に映った私を確認した私は、ポツリと呟く祐巳ちゃんの声を聞いた。
「愛してます・・・痛いぐらいに、あなたを愛してるんです・・・」
「・・・うん」
私も。とは言えなかった。それはそんな風に思ってないからって訳じゃない。
むしろその反対。私も痛いほどそう感じているから。言葉には・・・出来なかったんだ。
私は祐巳ちゃんを強く抱きしめた。これで伝わればいいのに。私の全部が伝わればいいのに。
怪我をして分かったのは、誰よりも祐巳ちゃんが私を心配してくれたって事。
蓉子に後から聞いた話だけど、あの時、怖いぐらいに綺麗だった祐巳ちゃんが私の傍にずっと居た、と。
それを聞いた時、私がどれほど嬉しかったか。いや、嬉しいなんてものじゃない。
感動に・・・近いのかもしれない。ずっとずっと他人だった筈。
それがいつからか恋になって、そして愛に変わったんだ。約束が無いと怯えてた祐巳ちゃんは、
もう何も怖がってなどいないのかもしれない。少なくとも、私はそれを聞いた時そう感じた。
確かに強くなっていく絆を怖いと感じる時もあるけど、もう後戻り出来ないなんて考えるときもあるけど、
でもそれよりも祐巳ちゃんが隣から居なくなってしまう方が、きっともっと怖い。
何かを怖がるのなんて、これが初めて。でもそれは悪いことじゃない。
この世で一番怖いモノを、私は見つけただけ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
帰りは祐巳ちゃんが車椅子を押してくれた。正直、ちょっとホッとしてる。
だって、片手で車椅子って本当に疲れるんだもん。で、私の病室に戻ったら・・・そこには何故か新聞部が居た。
「み、美奈子さん!?あ、あれ?ここ・・・聖さまの部屋・・・ですよね?」
「ええ、そうなんだけどね。ついさっき聖さまの担当の看護士さんが来て、
聖さまと部屋を替わってほしいって言われて。
私も個室の方がいいかな〜と思って。ほら、色々仕事もあるし」
そう言って新聞部は動かない指先に持ったペンを器用にベッドにおいてあるノートに走らせた。
もはやこれは執念とでも言うべきだろうか・・・。
「そ、そうだったんですか・・・で、でもどうして突然・・・」
祐巳ちゃんが不思議そうに首を傾げチラリと私を見る。でも、私は何も言わないでおいた。
さっき、祐巳ちゃんが出てった後看護士さんに言ったのよ、なんて恥ずかしくて絶対言えない!
そんな事言ったら私が相当寂しかったみたいに聞こえるじゃない!いや、本当はその通りなんだけどね。
「きっと、看護士さんが気を利かせてくれたんじゃない?
ほら、これで皆がお見舞いに来た時あっちこっち行かなくてすむじゃない。
それに、私も祐巳ちゃんもウロウロして怒られなくてすむし」
「それもそうですね!でも、たまには遊びにきますね!美奈子さん!」
祐巳ちゃんは私の言葉に顔をパッと輝かせた。うんうん、単純って本当に素敵。
新聞部は祐巳ちゃんの言葉に笑顔で頷いて、私達が出て行くまでずっとペンを振ってくれていた。
多分、一度離すと自分で持てないんだろうな・・・きっと。
病室に二人きり。今までもあったけど、何だか・・・ちょっと違う。
祐巳ちゃんのベッドの下にはさっきのあのミカン箱が置いてあった。
だから私達は二人でその写真の山を一枚一枚見ながら、沢山の出来事を思い返しては笑って、
たまに感傷に浸って涙ぐむ祐巳ちゃんを慰めたりしながら思い出話を一日中してた。
祐巳ちゃんはさ、私をいつまで求めてくれるんだろう。
最後の写真は、あの告白の時の写真だった。体育館でキスする私達の写真。
「ねぇ聖さま、今も私、こんな風に笑えてます?」
祐巳ちゃんが私の腕に顎を置いて上目遣いでそんな事を言い出した。
私はもう一度写真を見て、今の祐巳ちゃんと見比べる。
「んー・・・そうね。大体は」
「大体はってなんですかー!」
「だって、ちょっと違う気もするんだけど何が違うのか分かんないんだもん。じゃあ私は?私はどう?」
私の問いに祐巳ちゃんはにっこりと笑った。上目遣いで笑うのって、いっつも思うんだけど、絶対反則。
ありえないぐらい可愛いもん、ほんと。そんな事考えて思わず笑った私を見て、祐巳ちゃんが言った。
「聖さまは今の方が幸せそうに笑ってますよ!」
「そう?」
何だか嬉しくて祐巳ちゃんを見下ろすと、祐巳ちゃんは何故か申し訳なさそうに視線を伏せる。
「なんて・・・ほんとは、そうだといいなっていう私の希望的観測です」
「・・・なるほど、希望的観測ね・・・まぁ、私も似たような答えだから仕方ないか」
ていうか、微妙すぎる回答。
でも、ずっとお互いそんな風に思えてたら、きっと50年先もこうやって笑ってられる。
昔よりも幸せそうに笑ってくれるといいな。そんな風に、私たちはいつも思っていられたら。
「でも私、気分的には今の方が昨日よりも昔よりもずっと幸せですから。
で、明日はもっともっと幸せになるんです!」
「へぇ。明日の事ももう分かるんだ?」
からかうように笑った私の顔を見て、祐巳ちゃんが意地悪く笑った。
「聖さまだって、本当は明日を知ってるくせに!」
・・・そうだね。私も本当は明日の事、もう知ってる。明日もまた、こうやって笑ってるんだって事を。
第百五十三話『消灯の時間』
家ならね、おやすみってキスして、それからやっぱり眠れなくて何となくそういう雰囲気になったりとかしちゃって、
そのまま・・・って事もたまにある。ていうか、結構・・・ある。
でも、ここは病院な訳で・・・。私は聖さまのベッドに腰掛けておやすみのキスをした。
「それじゃあ聖さま、おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
そう言って軽いキスしかしてくれないのを、こんなにも切なく思うのはやっぱり勝手なんだろうな。
聖さまは私よりも重症。昨日の検査では私はもう大分いいってお医者さまは言ってたから。
でも聖さまは・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
入院してそろそろ一ヶ月が経った頃、検診が終わった聖さまはうな垂れて戻ってきた。
「どうかしたんですか?」
「んー・・・それがさ、やっぱり私・・・動きすぎ?」
「そりゃもう。絶対安静なんて言ってますけど、結構あっちこっちウロウロしてますもん」
私は昨日一日の聖さまの行動を思い返して苦笑いした。まず朝一番にコーヒーなんて飲みに行くし、
その後も病院を探検とか言って、昼まで私に車椅子押させてあっちこっちウロウロして、
昼になったらなったでお腹減ったって言って私のお昼ご飯取って・・・とてもじゃないけど、
安静にしてたとは言いがたくて。夜は夜で購買まで歩いて行って雑誌買ってきてたし・・・ていうかさ、
聖さま本当に忘れてるんじゃないのかな。自分がどうして入院してるのかって事をさ。
一応ね、聖さま肋骨二本折って胃に刺さったりとかしてたのね。
それなのに、痛い痛い、言いながら歩き回るのもどうかと思うの。
あ!先に言っておくけど、私はちゃんと止めてるんだからね!?ただ、聖さまが聞かないだけで・・・。
私は大人しくベッドに転がった聖さまを呆れたように見ながら言った。
「どうしたんです?元気ないですよ?」
「んー・・・それがさ、私入院長引きそうなの」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
やっぱり。そう思ったけど、声には出さないでおいた。だって、聖さま凄く落ち込んでるし。
でもさー、ちょっと考えれば分かるよね、普通。
「で、どれぐらい長引きそうなんですか?」
「どうかな。とりあえず一週間ぐらいかなとは言ってたけど・・・どうなるか分かんないね、この調子じゃ」
まるで他人事みたいな聖さまの口調に、私はちょっとだけカチンってした。
だってさ、私・・・そしたらまた家に一人じゃない。聖さま・・・その事に気づいてないのかな・・・。
私は自分のベッドに座って由乃さんが持ってきてくれた雑誌を読み始めた。
「あれ?心配してくれないの?」
「そんなの・・・聖さまの自業自得じゃないですか。そりゃ私にも少しは責任ありますけど、大方自分のせいでしょ?」
「ひっどーい!ふーん。祐巳ちゃんそんな事言うんだ?」
この一言に私はさらに腹が立った。何よ!私はそりゃ、死ぬほど心配したわよ!!
でも、そりゃあんだけ動いてれば治るものも治る訳ないじゃない!!聖さまのバカっ!!!
「言いますよ!そうやって聖さまの入院がどんどん伸びて、私はまた家で一人ぼっちになるんですから!!」
私の言葉に聖さまは困ったように笑った。ど、どうして笑うのよ?
「そうだよね。分かった。私もう大人しくしとく」
そう言って、聖さまはそのまま目を瞑った。どうやらそのまま寝てしまう気らしい。
ていうか、どうして笑ったのか・・・それが凄く気になるんですけど・・・。
それから、聖さまは正しい入院患者になった。看護士さんの事凄くよく聞くし、
ベッドから降りない。出来るだけ体も動かさないように頑張ってた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
で、今に至る。聖さまはベッドから動かないで、私のキスを待つ。
おやすみ。消灯の時間になったらそれだけ言ってすぐに寝ちゃう。仕方ないけど・・・ちょっとだけ寂しい。
ていうか、極端すぎると思うの。私は自分のベッドに戻って布団を頭から被った。
それからどれぐらい経ったかな・・・ふと気がついたら聖さまの枕元の電気がついてたんだ。
「せ・・・さまぁ?」
「ああ、起こしちゃった?ごめんごめん」
「何してるんれふか?」
「んー?ちょっとね。眠れないからコレを読んでたんだけど・・・ヤバイよ、祐巳ちゃん。
こんな本、病院なんかで読むもんじゃないよ・・・」
そう言って聖さまが見せてくれたのは『本当にあった怖い話〜病院の消灯時間〜』
・・・もうね、かける言葉すら見つからなかった。ていうか・・・バカなんじゃない?この人。
「聖さま・・・なにやってんですか・・・」
「いや、こないだ可南子ちゃんが持ってきてくれた本の中にあったんだけど・・・嫌がらせか、もしかして」
「さぁ、それは分かりませんけど・・・とりあえず読んだ聖さまが悪いです。それじゃ、おやすみなさい」
夢の中に戻ろうとした私を見て聖さまが、待って待って!と声をかけてくる。
「なんですか」
「ね、ね、一緒に寝ようよ。ね?」
「嫌ですよ。こないだ狭い狭いって言って散々文句言ってたじゃないですか」
「そんな事言わないで。ほら、祐巳ちゃんの場所空けたげるから」
そう言って聖さまはほんの少しベッドの端によって布団をめくり上げて手招きする。
「・・・嫌ですよ・・・絶対に一緒に寝ません!」
「いいよ、じゃあもう。一人で寝るから。朝になったら私、オバケに浚われて居ないかもね」
聖さまはそんな事言いながら布団を元に戻すと、ふぅぅ、と大きなため息を落とす。
「オバケにでも何でも浚われちゃってください。もう!起きて損しましたよ!大体どうしてそんなの読んじゃうんですか」
「だって気になるじゃない、こういうの。一番怖かったのがね、何と言っても看護士の呪いって奴でさ」
「や、別に話さなくていいですよ!!」
私は慌てて耳を塞いだ。それを見た聖さまは嬉しそうに続きを話し出す。
「どこの病院かは分からないんだけど、そこにはね・・・」
「聞こえない聞こえない聞こえない」
「それでねその病室の前を通りかかると・・・」
「あーあーあーあーあー」
「で、その時急にドアが開いて・・・」
その時だった。ドアが本当に開いた。
「ぎゃゃぁぁぁ!!!!」
私は本当に怖かった。ていうか、もしかしたらちょっとだけ心臓が口から出ちゃったかもしれない。
それぐらい心臓がバクバクしてる。そんな私を懐中電灯が照らし出す。
浚われる!!咄嗟にそんな事考えて思わず目を瞑った私の耳に聞こえてきたのは婦長さんの声。
「なんです、こんな夜中に。早く寝てくださいね!」
「っ?!」
やがてドアは閉まって、また部屋は静かになった。私は毛布を握り締めたまま恐々聖さまの方に向き直ってベッドから降りて、
そのまま聖さまのベッドの上に這い上がった。
「せ、聖さま。やっぱり一緒に寝てあげます」
「どうしてー?さっき嫌だって言ってたじゃない」
「ど、どうしてもですっ!!」
私は有無を言わさず聖さまの布団の中に無理矢理潜り込んだ。
くすぐったがる聖さまに抱きついてブルブル震える私。
あ、ありえない。怖すぎるってば!!そんな私を抱きしめる聖さま。
「大丈夫?ブルブルしてるけど」
「だ、大丈夫ですよ!ふ、震えてなんていませんもん!!」
「そう?声上ずってるけど?」
「さ、寒いんですよっ!!」
「ふーん」
聖さまはそれ以上何も言わなかった。震える私を抱きかかえて声を殺して笑ってる。
ひとしきり笑った頃、聖さまは言った。
「ごめんね。でも、こうでもしなきゃ祐巳ちゃんこっちに来てくれなかったでしょ?」
「じゃ、じゃあ・・・ワザと!?」
「うん。ほら、本当はこれ読んでたの」
聖さまはそう言って本のカバーを外して中身を見せてくれた。なんとそれは・・・『私の足長おじさん』。
・・・ちょ、待って。じゃ、じゃあさっきのは・・・。
私が涙目で聖さまを見上げたら、聖さまは小さく笑って申し訳なさそうに舌を出した。
や・・・やられた・・・。ベッドから出ようとした私を、聖さまは離そうとはしない。
それどころか、さっきよりもずっとずっと強く抱きしめてくる。
「だって、昼間祐巳ちゃんがあんな事言うから」
「・・・あんな事?」
「そう。私また一人なんです!って・・・言ったじゃない」
聖さまはそう言って私の目に浮かんだ涙を指で払った。
「言いました・・・けど・・・でも」
「私、早く退院したい。家に帰りたい。祐巳ちゃんのご飯が食べたい。一緒にお風呂入りたい。
テレビ見て笑って、映画見て泣いて、一緒にあのベッドで・・・寝たい・・・」
「・・・だったらどうして・・・」
聖さまの顔を覗き込もうとしたら、聖さまはそれを許してくれなかった。
「だって、じっとしてたらそんな事ばっかり考えちゃう。早く帰りたくなっちゃうから・・・だから・・・」
そう言って聖さまはまた私をぎゅって抱きしめる。私の首筋に顔を埋めて、小さく鼻をすする。
「でも祐巳ちゃんには落ち込んでるとことか見せられないし、
これ以上心配もかけられないと思ったら余計に・・・だから・・・ごめん」
「せ・・・さま・・・」
なんだ。聖さまも帰りたいって思ってたんだ。私の首筋はほんの少しだけ濡れてた。
私はそれに驚いて聖さまの目尻を指でなぞると、まだ睫毛が少し濡れてる。
「泣かないで・・・聖さま・・・」
「・・・泣いてないよ。ただ欠伸しただけ」
フイってそっぽ向いた聖さまの横顔はなんだか恥ずかしそう。そうだよね。聖さまだって不安だよね。
寂しいよね。私だけじゃ・・・ないよね。私はだから、聖さまの頭を抱きかかえて撫でてた。
聖さまがこれ以上不安にならないように、聖さまがもう・・・泣いたりしないように。
大丈夫だよ、聖さま。私、ちゃんとまた毎日顔・・・出すからね。
第百五十四話『退院祝い』
まぁ、あれだ。自業自得なんだけどね。私の。でもさ、だからってさ…。
「祐巳ちゃん、本当に行っちゃうの?」
私は祐巳ちゃんの手を握った。祐巳ちゃんは困ったように笑って私の手を握り返す。
「聖さまも大人しくしてたらすぐに出てこられますって」
「祐巳ちゃん、その言い方はちょっと…出所するみたいよ…」
蓉子が苦笑いしながら祐巳ちゃんの荷物を車に放り込んでゆく。
そんな蓉子の言葉に祐巳ちゃんも苦笑い。
つかさ、蓉子は何故かレンタカーまで借りて祐巳ちゃんを迎えに来た。
で、そんな車でどこ行くの?って聞いたら、蓉子ってば悪びれもせずに…。
『退院祝いするに決まってるでしょ!何が食べたい?祐巳ちゃん』
だって。つうか、私も連れてけっつうの!!で、祐巳ちゃんも祐巳ちゃんでそりゃもう嬉しそうに…。
『回らないお寿司が食べたいです!』
…って。そりゃないよね。どう考えても。だってさ、それは私が連れて行くって約束してた訳じゃん?
その約束も忘れてこの娘は…くっそー!!覚えてろよ、蓉子!!
私は蓉子を睨んで祐巳ちゃんの手を引っ張った。そして耳元でっこっそりと耳打ちする。
「いい、祐巳ちゃん。何があっても夜の9時には家に帰ること!わかった?」
「夜の9時…ですか?」
「そう。夜の9時。それ以降どっか行くの禁止だからね!!あ、あと、家に誰か入れるのも禁止っ!!」
「えーーー?」
嫌そうな祐巳ちゃんの顔は面白い。面白いが…そこは譲れない。私は無理矢理祐巳ちゃんの小指を持って指きりさせて、
そして…車を泣く泣く送り出した。いや、本気でちょっとだけ泣いちゃったかもしれない。
はぁぁぁ…私…あとどんぐらい入院してればいいんだろう…。
病室に戻って何となく向かいの部屋を覗いたら、美奈子さんがパソコンと喋ってる。
こっそり近づいた私に全く気付かない美奈子さんは、案の定私が後ろからパソコンを覗き込んでる事にも気づかなくて…。
「へぇぇ。最近ってこんな事も出来るんだ」
「ぎゃあっ!!せ、聖さま!?」
「ごきげんよう。ふーん。便利だね」
画面には真美さんが映っている。つか、動いてる。コレはいわゆる…テレビ電話というやつか!!
ていうか、パソコンって今そんな事も出来るの?それとも…もしかしてこれって常識?
私は美奈子さんのベッドの椅子に腰掛けて画面を覗き込む。
試しに手を振ってみると、真美さんも恥ずかしそうに画面の中からこちらに向って、
手を振り返してくれた。おおーーすげぇ…へぇ…世の中便利になったものねぇ。
その時は、私の認識なんてそんなもんだった。でも、それを次の日祐巳ちゃんに言ったら…。
「聖さま!!私達も買いましょうよ!テレビ電話!!」
「いや、テレビ電話じゃなくてパソコンなんだけどね」
「どっちでもいいですよ、この際!!私達もやりましょうよーー!!」
祐巳ちゃんは首に抱きつくみたいにして私に言うんだけど、祐巳ちゃんはほんと、新しいもの好き。
携帯だって最初はいらないとか言ってた癖に、今では私よりも使いこなしてるし、
パソコンだって、本当はただ自分が欲しいだけに違いない。いや、そうに決まってる。
「そんな事言って、本当はただ欲しいだけでしょ?」
案の定祐巳ちゃんは、うっ、て言葉を詰まらせてそっと私から離れた。ほらね、やっぱり。
「で、でも、それがあったら夜とか寂しくなったら聖さまに会えるんでしょ?」
「そん時に私がパソコンつけてたらね」
「一日中つけてて下さいよ」
「あのね。そういう訳にはいかないでしょ」
「うー」
祐巳ちゃんって、素直なんだ、本当に。だからうっかり騙されそうになるけど、結構ちゃっかりしてる。
何だかんだ言って結構ワガママだったりも…する。まぁ、そこが可愛いんだけど。
祐巳ちゃんはまだ諦めきれない感じで手足を子供みたいにバタバタさせて、パソコンパソコンって言ってるけど、
どこまで本気なのかは…分からない。
「ねぇ、もしパソコンがあったとして、祐巳ちゃんは何したい訳?」
「私ですか?私は…」
突然俯いてモジモジとしはじめた祐巳ちゃん。一体何がしたいんだ、何が!!
「なによ、言えないような事なの?」
「いえ、そういう訳じゃないんですけど…ただ、その。聖さまとその…チャットとかしたいなって…」
「…大概一緒に居るのに?」
「だ、だって!由乃さんが言ってたんですよ!同じ部屋でするチャットも中々乙だよ!って…だから…」
由乃ちゃん…また余計な事を…。私は俯いてる祐巳ちゃんの顔を無理矢理上げさせて、
おでこをピンと指先で弾く。
「あのね、言いたいことは私に直接言えばいいでしょ?
それに、そしたら少なくとももう1台買わなきゃなんない訳よ。
それこそ無駄遣いじゃない。ダメ。却下」
「…はい…分かりました…」
ションボリとうな垂れた祐巳ちゃん。俯いて指先を弄る姿が何だか妙に…。
「分かったわよ。買ってきなさいよ、パソコン。それでいいんでしょ?
その代わり、一番安いやつだからね!!あと、私、接続の仕方とか知らないから、全部祐巳ちゃんがやんのよ?」
私…甘いなぁ…ほんと、激甘だ…情けない。自分が情けない!でもね、ほら…こんな祐巳ちゃん見るとさ。
「本当に!?本当の本当にっ??」
「ああ、もう。今回だけだからね!その代わり、当分色んなもの切り詰めるわよ?」
「はいっ!」
目キラキラさせて喜ぶ祐巳ちゃんを見て、私がどうやって抵抗出来るって言うのよ。
出来るわけないわよ、そんなの。
ああ、どうして私はまだ入院してるのに祐巳ちゃんに退院祝いやらなきゃなんないのか、と。
しかもかなり高額な。でも、カメラちゃんの話だと最近のパソコンは安いって言うしな。
「ところで、いつ買いに行く予定?」
「もちろん、明日ですよ!ちょうど明日はお休みだし、蔦子さんとか誘って買ってきます!」
「カメラちゃん?ああ、それはいいわね。そうしなさい」
カメラちゃんなら安心だわ。あの子ならきっとパソコン方面も強そうだし。
何よりも危険じゃない。いや、別にお姉さまや可南子ちゃんが危険だって訳じゃないんだけど、
やっぱりどこか信用出来ない。お姉さまや可南子ちゃんには悪いけど。
「で、聖さまには明後日持ってきますね!」
「はぁ…昔はパソコンなんて一家に一台だったのに。今は一人に一台の時代なのね…」
「そうですよ!今はモバイルの時代ですよ、聖さま!」
何がモバイル…何がパソコン…チャットなんてしなくても、私は十分なのにな。
そんな事考えてた私に祐巳ちゃんが言った。
「あのね、聖さま。私、聖さまに伝えたい事一杯あるんです。
でも…やっぱりその中には言葉にするのは恥ずかしいのもあって。
だから、そういうのをちゃんと、聖さまに伝えたいんですよ!」
祐巳ちゃんは、ワガママだけどそのワガママはいつだって私にだけ。
それに、大概そのワガママは私の為に使うんだよね…。
私はそれを聞いてにっこり笑った。まぁ、そういう言葉の形も悪くないかもね。
特に…素直じゃない私達にとっては。
「とりあえず、家にあるのは祐巳ちゃんが使えばいいよ。私はその新しい方貰うから」
私の言葉に、祐巳ちゃんの顔が引きつった。
「え…えっ!?」
「なによ。あたりまえでしょ?だって、私が買うんだもん。私のに決まってるじゃない。
だから、祐巳ちゃんには私のお古をあげる」
「えええええ!!!!」
嘘でしょ!?って祐巳ちゃんの顔が、大口開けてあんぐりしてる祐巳ちゃんの顔が、
可愛くて仕方なかった。でも、新しいパソコンは私のだけどね。そこは譲れない。
「じゃ、可愛いの選んできてね?」
「・・・・・・・・・・・」
結局、祐巳ちゃんはその後パソコンの事には触れなかった。
帰り際、ポツリと祐巳ちゃんが言ったのは。
「いっちばん安い奴にしてくるんで、安心しててください」
だった。ほんと、素直でいい。全く。自分のだったら一体どんなの買うつもりだったのか。
本当は一緒に選びに行きたいけど、仕方ない。祐巳ちゃんはもう自由の身。それに比べて私は…。
「佐藤さ〜ん。回診のお時間ですよ〜」
「…未だ囚われの身…か…」
ポツリと呟いた声に看護士さんは首を傾げる。ほんと、ついてない。
あーあ。早く明後日になんないかなぁ…そしたら祐巳ちゃんがまた来てくれるのに。
第百五十五話『一人きりの夜に』
週末、決まって聖さまと借りてきたDVD見てた。
夕飯を食べる時につけて、食べ終わってもまだ食器とかそのままにして。
そういうのを聖さまは許してくれた。いつもは食器は食べたらすぐに片付けなきゃ怒るのに、
週末だけは違ったんだ。私はそういう聖さまが凄く好きで、
そんな時間が無くなる訳がないってずっと思ってた。
私が選んだDVD。どんなに面白くなくても、文句言いながらでも聖さまはいっつも一緒に見てくれた。
悲しい話で私が泣いた時は慰めてくれる。
『どうせお話だよ』
って。楽しい話の時は一緒に笑って、たまにそのままDVD買いに走ったりとかして。
恋愛の話ならいつも言うんだ。
『こんな恋がしたいね』
って…。だから私はいっつも頷いてた。『そうですね』それだけで十分だった。
私はずっと一人になった事なんてなくて、いっつも周りに人が居て。
それがこんなにも幸せだったんだって気付かせてくれたのは聖さまで。
でもね、聖さま。私ね、今は思うんだ。どんなに周りに人が居たって、
そこに聖さまが居なきゃ意味ないんだって。聖さまが居ないのは、一人ぼっちと変わらないんだって。
私があんなにもパソコンを欲しがったのには理由がある。
私は、いつでも手の届く所に聖さまに居て欲しい。いつでも声の聞こえる所に聖さまに居てほしかったんだ。
あとどれだけ聖さまが入院するのか分からない。だから余計にそんな風に思うのかもしれない。
でも…パソコンがあれば、少しでも繋がっていられれば…私は買って来たばかりのパソコンの電源を入れた。
本当は聖さまに渡す予定だったんだけど、聖さまってばやっぱり使い慣れた奴のがいいって言って、
結局新しい方を私に譲ってくれた。聖さまはほんと、さりげなく優しいんだよ!いっつも!!
真っ白でほんの少しピンクパールの入ったパソコンは私の一目ぼれだった。
あまりの可愛さにその前をうろついてたら、店員さんがほんの少しだけ値段を下げてくれた。
蔦子さんは苦笑いしてたけど、これはもう買うしかない!ってそう…思ったんだよね!
最近のパソコンは立ち上がりが早い。
「えっとー…チャットは…これだっけ?」
たどたどしい手つきでこんな事してる私を見たら、聖さま笑うんだろうなぁ。
どうにかチャット画面が開き、聖さまがオンラインになってるのを確認した私は、
早速よびかけてみた。ちなみに、チャットとか実はこれが初めてだったり…する。
『聖さまみっけ!』
そんな呼びかけに聖さまがすぐに返してくれる。
『あー…何か変な感じ』
文字だけのやりとりって、ていうか聖さまに手紙すら貰った事の無い私は、
普段聖さまがどんな風に文章にするかを知らない。
チャットって普段通りに打ってるようで結構違うんだよ!っていう由乃さんの言葉がフイに脳裏を過ぎる。
『ほんとですね。でも、面白いです!』
『そ…そう?地味じゃない?』
「う…確かに…負けるもんか!!」
私は必死になって文章を打ち込んだ。でも聖さまは私がどんだけ長い文章を打っても、
一言、二言で返してくる。業を煮やした私が怒ると。
『聖さま!?もうちょっと長い文章で返してくださいよ!!』
『だって、私文章作るの苦手なのよ。だから授業にも教科書しか使わないでしょ?』
…だって。ほんと、いい加減なんだから。でもおかげで一つ分かった。
聖さまは長文が苦手。なるほど、由乃さんの言ってたのはもしかするとこういう事なのかもしれない。
毎日顔を合わせていても見えない事もある。毎日話してても気付かない事もある。
それはほんの少し距離をおかないと見えないものなんだ。間接的でないと分からないものなんだ。
チャットって面白い!今初めて新しく見えた聖さまの一面。これからもっともっと増えていくのかな?
そしてその度にこんな風に嬉しくなったりするのかな?そうだと…いいなぁ。
思わず私は笑ってた。今カメラがついてなくて本当に良かったと思うほど。
『聖さま、今日はいつからつけてたんですか?』
この質問の答えに、聖さまは結構時間がかかった。どうしてかな?って思ってたら。
『…一日中…』
だって。
「聖さま…律儀な人ですねぇ!」
今きっと、病院のベッドの上で顔を真赤にしてるに違いない。もしかしたら頭とか抱えてるかも。
そんな聖さまがすぐに想像できちゃって、本当におかしくて。気がついたら涙が出てた。
「う…ひっく…」
ほんの少し涙って出たらダメだよね。もうね、止まんない。私は次に何を打とうか考えてた。
何回も書いては消して、書いては消してを繰り返してた。
でも聖さまはそれをずっと待ってくれていた。私の次の言葉をずっと…。
私は震える指でキーボードを押した。何度も書いて消した言葉をもう一度書く。
『逢いたい』
この一言。聖さまが困るのも分かってるし、こんな事送って返ってきた返事でまた泣いてしまう事も知ってる。
でも書かずにはいられなかった。ゆっくりとエンターを押すと、今度は聖さまが止まる。
しばらくして返ってきた言葉は、私の心を締め付けた。
『泣かないでよ』
「うっ…だって…だって…」
文字は冷たい。でも聖さまの文字はこんなにも暖かい。聖さまは何を考えてこの言葉を送ったんだろう。
私が泣いてるってどうして分かったんだろう。ねぇ聖さま…泣き止めないよ。
だって、聖さまがここに居ないんだもん。一人の夜はこんなにも…寂しいんだもん。
第百五十六話『一人の夜に 2nd』
『泣かないでよ』
私の言葉はどんな風に祐巳ちゃんに届いただろう。本当は私は私自身にこの言葉を送ったのかもしれない
泣いては流石にいないけど、寂しくて逢いたいのは私も同じ。
一人ぼっちの夜に考えるのは今祐巳ちゃんが何してるのか、とか、もしも今家に居たら、とかそんな事ばっかりで。
あとどれぐらいで家に帰れるのか、そればかり考えてしまう。祐巳ちゃんの居なくなった病室はやっぱりとても静か。
毎日毎日お見舞いに来てくれても夕方になれば帰っちゃうし、本を読むのにもそろそろ飽きてきたし。
画面を見ると祐巳ちゃんが何か書いている。一生懸命なんて書こうか考えてるのかもしれない。
やがてピコンって音と一緒に新しいメッセージが画面に現われた。
『泣いてませんよ!聖さまのバカっっ!!』
「あはは、何よ、それ」
バレバレだっつうの。今頃部屋の隅で蹲って鼻とかかんでるに違いないのに。
メッセでもリアルでも祐巳ちゃんはやっぱり面白い。でも、ちょっとだけ寂しい。
何もメッセでまで意地張らなくてもいいのに。私さ、今まで一人で過ごすこととかも結構あった訳。
こういうのって何て言うんだろうな。寂しいとか切ないとかそういうんじゃない。
自分にピッタリ合う人ってなかなか探すのって難しいと思うし、そういう人がいたとしても想いが通じるのって多分稀。
祐巳ちゃんって、ハッキリ言って私のタイプとは大きくズレてるし絶対合わないタイプだと思ってたのに、
今じゃ逢いたくて逢いたくてしょうがなくてさ。もしも私がある日突然居なくなって、
もちろん悲しむ人って一杯居ると思う。親とか友達とか。でもその中でもきっと一番悲しむのは祐巳ちゃんなんだろうな。
それがハッキリ分かるんだよね、不思議な事に。私を追ってくるとは思わないけど、
それをしかねないとは・・・思う。私を想って胃炎になったりとか、私を想って自分から手を引っ込めたりとか、
そういうのってなかなか出来ないと思うんだ。
口で言うのは簡単だけど、実際それをしようと思うとやっぱ体って動かないものだと思うし。
あの時多分私が一番驚いたんじゃないのかな。正直言って誰かを庇ったりとかそういうのって無縁だと思ってたから。
でも祐巳ちゃんならそれでもいいって思えた自分。そしてそれと同時にもう祐巳ちゃんだけかなって思った。
この先きっと何があっても私は祐巳ちゃんしか愛さない。ていうか、愛せない。
もしも祐巳ちゃんが私の前からある日居なくなったら、私こそ後を追いそう。
それぐらい私の世界の中の祐巳ちゃんは特別って事なんだろう。
私はキーボードに向った。私がこんな事考えてる間も時間は過ぎてく。
チャットってのはあれだ。顔が見えないから何考えてんのか分かんない。だから怖い。
『祐巳ちゃんはさ、一人の夜は嫌い?』
私のメッセージに祐巳ちゃんはすぐに返してくれた。
『当たり前ですっ!』
『でもさ、たまには一人も悪くないんじゃない?自由じゃない』
『こんなの・・・自由じゃないですよ』
そうだよね。こんなの自由じゃない。逢いたい時に逢えないなんて、全然自由じゃない。
『そうだね。私ももう二度とごめんだわ』
付き合う前、どうして離れていられたんだろうな。よく平気だったな、私。
こうやって考えると今まで好きだと思ってた人達って私にとって何だったんだろう。
一人の夜を苦痛に感じた事なんてなかったのに。それどころかそれを自由と呼んでたなんて。
いや、確かに自由だったのかもっしれないけど。でもそれは寂しいのと一緒。
だから私は毎晩のように祐巳ちゃんにちに集りに行ってたのかもしれない。
『聖さま・・・早く、退院してくださいね』
『分かってる。私今はかなり優秀な入院患者だからね』
『それ・・・自慢になりませんよ』
「言えてる」
肋骨折って腕折って、ほんと、ついてない。これじゃ先が思いやられる。
でも多分不便なのは祐巳ちゃんの方なんだろうなー・・・なんせ利き手骨折だもん。
『祐巳ちゃん、私が居なくてもちゃんとご飯とか食べなきゃダメよ?』
『分かってますってば!ちゃんと食べてますよ!入院しててご飯の有り難味がよーく分かりましたから』
ああ、マズイマズイ言ってたもんね。そりゃ胃炎だからしょうがないと思うけど。
病院食だから薄味だし。私もいい加減なんかこってりしたもんが食べたい。
豆腐のハンバーグじゃなくて、ちゃんと牛のハンバーグとか。卵スープじゃなくて、ボルシチとか。
五穀米じゃなくて、白米が食べたい訳よ!海草もひじきも、もうほんと一生分食べた。
私思ったもん。もう二度と入院なんてしないって。健康って大事って。
『あー・・・焼肉食べたい・・・お寿司食べたい・・・祐巳ちゃんのご飯が食べたい』
『・・・聖さま・・・退院したら聖さまの好きなもの沢山作りますね』
『うん、ありがとう』
出来れば二人っきりでお祝いしたいなぁ・・・どっかのファミレスとかでもいいからさ。
皆で飲んでどんちゃん騒ぎよりは、そっちの方がずっと落ち着く。それに楽しい。
それを祐巳ちゃんに伝えたら、私もって答えが返ってきた。
こういう時、どっちかがお祭り騒ぎ好きじゃなくて良かった・・・本当に。
なんにしても、私達は自分たちで思う以上に繋がってて、
自分たちで思ってる以上に・・・大きな存在なのかな、ってそんな風に思った。
だからきっと、こんなにも・・・一人の夜が辛いんだ。
第百五十七話『病院って、退院すると思うと寂しいもんだよね』
色んな意味で。だって、看護士さん・・・そんな泣きそうな顔しないでよ。
私は何だか大げさな看護士さんを横目に迎えの車を待っていた。つか、祐巳ちゃんなんだけど。
つか、あの子・・・運転できるのかな・・・何だかそれが不安なんだけど・・・。
嫌よ、退院早々今度は交通事故とかで入院なんて。そんな事考えながら私は待ってた。ひたすら。
「佐藤さん・・・本当に退院しちゃうんですね・・・」
グスって鼻をすすりながら今までお世話してくれてた看護士さんが私の袖を掴む。
いや、だから泣くなって!喜べよっっ!!結局、私は病室は変われたけど看護士さんには変わってもらわなかった。
だから最初から最後までこの若い看護士さんにお世話になってたんだけど・・・。
「ざどうざん・・・わだ・・・わだじ・・・色々べんぎょうになっで・・・」
「分かった。分かったからもう泣かないで!ね?」
「で・・・でぼ・・・わだじ・・・うれじいやらがなじいやらで・・・もうどうじようっでかんじで・・・」
いや、むしろ私の方がどうしようって感じなんだけどね。まぁ分からないでもないけどね。その気持ち。
私も初めて担任持った生徒達が卒業した時思ったもん。皆揃って留年しないかな・・・って。本気で。
嬉しいのよ?嬉しいんだけど・・・寂しいのよね。だからこの子の気持ちも分かるんだ。でもさ、いい加減鼻かもうよ。
つか、泣き止もうよ。どうせ私まだ当分通院するんだからさ。
そこへ、緊急用入り口から一台の車が物凄いスピードでこちらに向ってやってくるのが見えた。
何となく見た事ある車・・・それにあのハンドルさばき・・・あ、あれは・・・私はまだ泣いてる看護士さんの腕を引っ張って、
二歩後ろに下がる。すると車はさながらアクション映画並みのスピンを見せて私達の前で急ブレーキ。
車の中を覗きこむとそこには・・・胸を押さえて肩で息して顔面蒼白の祐巳ちゃん。
私はドアを開けてとりあえずエンジンを切った。まだ運転席でゼーハーしてる祐巳ちゃんを無視して。
車の後ろには多分お世話になった看護士さんや先生用だと思われるお菓子が散乱してた。
「それじゃあね、今までありがとう。はい、これ。皆で食べて」
「あ・・・あじがどうございまず・・・いづても・・・まだいづでも入院してぐだざいね・・・」
「・・・縁起でもない事言わないでよ・・・」
お菓子を渡した私は車に乗り込んで、ふと隣を見てもう一度車を降りた。看護士さんは首を傾げて私を見てる。
「どうがじだんでずが?」
「あー・・・悪いけど酸素送るやつ貸してくれる?」
「は?」
私を押しのけて車の中を覗きこむ看護士さん。酸素不足に陥って青ざめてる祐巳ちゃんを見て、看護士さんの顔も青ざめる。
「す、すぐどっでぎまず!!!」
お菓子を私に押し付けて病院の中へ消える看護士さん・・・私は無言でその背中を見ていた。
「っとに・・・そんなんになるならバスで来なさいよね」
私の言葉に祐巳ちゃんは無反応・・・どんだけ危険運転してきたのよって話よ!全く!!
しばらくして看護士さんと何故か医者まで一緒に大層な機械を持って現われた時には、
流石の私も祐巳ちゃんでさえ驚いてたけど。
まるで重症患者みたいに酸素のやつ取り付けられた祐巳ちゃんは目を白黒させてる。
ま、事自業自得よね。でもそのおかげで祐巳ちゃんはようやく呼吸困難から脱出した。
「はぁ・・・はぁ・・・死ぬかと・・・」
「私が思ったわよ」
車から降りてきた祐巳ちゃんは涙目で私に言った。医者はそれを聞いて高笑いしてる。
「全く、驚いたよ!また入院しにきたのかと思ったじゃないか!」
「す、すみません・・・」
恥ずかしそうに頭を下げる祐巳ちゃんは耳まで真赤。つか、私も・・・恥ずかしい。
「それじゃあ・・・お世話になりました。本当に・・・二人して」
「いやいや。もう階段から飛び降りないようにね」
「はあ・・・」
別に好きで飛び降りた訳じゃないんだけどね・・・私だって。そんな私の隣で苦笑いする祐巳ちゃん。
「それじゃあ、これで失礼します」
お辞儀した私達を笑顔で見送ってくれる二人。そして何食わぬ顔で運転席に向う祐巳ちゃん・・・いい加減懲りようよ・・・。
「私が運転するから」
「で、でも聖さままだ病み上がりだし・・・」
「あのね、もう一回入院したい?」
「・・・・・・・・・・・・・・」
私の質問に祐巳ちゃんは小さく頭を振った。そうでしょうとも。もう入院なんて私もごめんだもの。
まぁ・・・私も運転するの久しぶりだけど・・・大丈夫でしょ!・・・多分。
車に乗り込んでゆっくりと発進する私達をいつまでも見送ってくれる医者と看護士・・・ありがとね・・・ほんとに。
「さて、どこ行こうか?」
久しぶりのこの感じ。入院してたのは結局二ヶ月。その間ただの一度もお見舞いを欠かさなかった祐巳ちゃん。
それに・・・ほかの皆も。だから私は一回も寂しい思いはしなくてすんだ。これって本当に有難いことだと思う。
突然、隣でムズムズしてた祐巳ちゃんが本当にいきなり笑い出した・・・つか、怖すぎるんだけど・・・。
「なに、どうしたの?どっか壊れた?」
「ちがいますよっ!何か・・・こうやって助手席に乗るの久しぶりだなって思ったら感動しちゃって」
「・・・感動したら笑うの?」
それはそれで怖いよ、祐巳ちゃん。でも私のそんな言葉なんて無視して祐巳ちゃんはまだニヤニヤしてる。
「やっぱりこうでなきゃダメですよねっ!聖さまっ!!」
「なに、運転が?やっぱり祐巳ちゃんは助手席でなきゃって事?」
「違いますよっっ!!もういいですっっ!!」
プイってそっぽ向いた祐巳ちゃん。ごめん、本当は言いたいこと分かってるんだけどね。
私も・・・そう思うよ、祐巳ちゃん。まだあちこち痛いけどね。でも、うん。これが私達の楽しい姿だよね。
「ほら、拗ねない拗ねない。回らないお寿司食べに行く?」
私の言葉に祐巳ちゃんの目が輝いた。キランって。勢い良くこっち向いて私の首に抱きついてくる。
「こら、危ないってば」
「えへへ!」
全く悪びれない祐巳ちゃんが何だかおかしかった。ていうか、可愛かった。車は・・・かなり蛇行運転してるけどね・・・。
何だか・・・色々と長かったなぁ。ほんと、こんなのもう二度とごめんだわ。
第百五十八話『回らないお寿司』
素敵!!だって、聖さまに取られる心配しなくてもいいんだから!!
「でもさー退院したの私なのに、どうして私の奢りなのかなぁ・・・」
聖さまはさっきから同じことブツブツ言ってるけど、そんなの無視無視!聞こえてないふりっ!
「ねぇ祐巳ちゃん、不思議じゃない?」
不思議?なにそれ?私には全然分かんないな〜言ってる意味が。だからこれも無視無視!聞こえてないふりっ!
私はおしぼりで手を拭いて、回らないお寿司を前に感動していた。そんな私を睨む聖さま。
でも私がさっきから聞こえないふりを決め込むもんだから、聖さまはいい加減諦めたんだと思う。
「もういい。好きなだけ食べなよ」
「はいっ!」
これはしっかり聞こえた!つうか、言われなくても食べますとも、しっかり!
「・・・聞こえてんじゃん・・・」
お店の大将がそんな私達を見て笑ってる。今日は平日。だからお店も私達の貸しきり状態だった。
「お姉ちゃん、何にする?」
「えっとー・・・じゃあまずは・・・マグロで!祐巳ちゃんはどうする?」
「私・・・私は・・・トロ!」
「いきなり!?・・・ま、いいけどね・・・。それで祐巳ちゃんのトロ終わりね」
「えええ!?」
嘘、そんなの先に言ってよね!!つか、言うの遅いよっ!!シレっとそんな事言う聖さま。
それを聞いて大将は今度は声を出して笑った。何だかそれがおかしくて思わず私達も顔を見合わせて笑ってしまった。
「あはは!はいよ!」
しばらくして目の前におかれたお寿司・・・す、凄い・・・本当に回らなかった・・・いや、当たり前なんだけど。レーン無いし。
でもね、ほんと感動だったの!だってさ、今!今目の前で握ってくれたのよ!?
しばらくじっとトロを見ていた私を見て、聖さまが横から二つとも私のトロを持っていく・・・。
「や、やだ!!私のトロっっ!!!!」
「いつまで経っても食べないのが悪い」
「い、今食べようとしてたのにーーーーっ!!!」
私のトロ・・・返してよっっ!!!いっそ大声で叫んでしまいたかった。でも聖さまは知らん振り。
多分、さっき聞こえない振りした私への仕返しに違いない。うー・・・トロー・・・。
「さて、次は何にしましょ?」
「そうねー・・・じゃあウニちょうだい。祐巳ちゃんは?」
「私はじゃあ、鯛で」
「あいよっ!」
ウニか・・・なかなかいいとこつくよね、聖さまは。ちらりと聖さまのお皿を見たら、
聖さまはそれに気づいたのか私をチラリと見下ろして言った。
「あげないよ」
「ま、まだ何も言ってないでしょ!?」
「いいや、そんな顔してたもん。私、誰かさんみたいにドン臭くないから取られる心配はしてないけど」
「うっ・・・」
確かに、私はドン臭い。それは認めよう。でもあんまりじゃない?酷くない?私のトロ取っといてさー。
「はいよ!鯛とウニね!」
おお〜・・・光ってる。ネタが光ってるよ・・・聖さまのウニもなんかピカピカしてるようにも見える・・・多分光ってないけど。
ていうか、やっぱ違う。全然違う。回ってるのとは。私は恐る恐る光る鯛に箸を伸ばした(何だか緊張して手が震えたの)。
そしてお醤油をほんのちょっとだけつけて一口でパクリ・・・はぁうっ!!!口を押さえて震える私。
それを見て心配そうな聖さまと大将・・・気がついたら頬を涙が伝う。
「な、なに泣いてんの!?」
「お・・・美味しい・・・」
私の一言に大将と聖さまが口をポカンって開けた。だ、だって・・・美味しいもの食べたら涙って出ない??
そんな私に聖さまは呆れたように言う。
「美味しくて泣いてんの?」
コクリと頷く私。それを見て嬉しそうに豪快に笑う大将とまだ呆れてる聖さま。
「大将、ごめん。この子にもう一回トロ握ってやって」
「あいよっ!」
「聖さま!?トロは最後ってさっき・・・」
「泣かれたら食べさせない訳にいかないでしょ?」
聖さまっ!!大好きっっっ!!!私は行儀良く待ってた。トロが出来るのを!そんな私を見て聖さまはなぜか笑う。
「な、なんですか?」
「いや、そんなに喜んでもらえたら奢り甲斐があるな・・・と」
微笑むっていうよりはからかい交じりの聖さまに大将も頷く。
「はいよ、おまち!」
「わぁぁ・・・あ、あれ?一個・・・多い・・・」
「おまけだよ!」
大将〜〜〜・・・大将も大好きぃ〜〜〜〜!!!!トロを一口食べてまた涙する私。
そんな私を見て笑う聖さまと大将。なんて幸せなんだろう。回らないお寿司やさんで、隣には聖さま。
目の前には美味しすぎるお寿司。何て・・・幸せなんだろう!
「美味しい?」
「はい・・・幸せです・・・」
「そう、それは良かった。さて、じゃあ私も鯛食べよっかな」
「あ!私ハマチお願いします!」
「はいよ!」
いつもよりも贅沢な食事に、久しぶりの暖かさ。私、なにに不安になったりしてたんだろう。
聖さまはいつもこうやって隣に居てくれてたはずなのに。何にあんなにも怯えてたんだろう。
「聖さまぁ・・・美味しいですよ〜・・・」
「はいはい、分かった分かった。よかったね、祐巳ちゃん」
「はいぃ〜・・・」
お寿司も美味しい、でも、それだけじゃ無い。聖さまの隣で食べるからこんなにも美味しいんだ。
私にでも分かる方程式。聖さま=幸せって事。こんな事言ったらまた聖さまに笑われるんだろうけど。
例えが古いよ、って。でもね、そういう事だと思うんだ、私。
帰り際、店の大将が私達の事情を聞いていくらか値引いてくれた。聖さまの退院祝いだって!
車に乗り込んでもまだ私の心もお腹もお寿司で一杯。それなのに聖さまってば。
「さて、次はどこ行く?ラーメンでも食べに行く?」
だって。入らないに決まってるじゃない!苦笑いを浮かべる私に聖さまは言う。
「じゃあアイスもいらない?」
それはいるっ!乗り出した私を見てきっと答えが分かったんだと思う。今度は聖さまが苦笑い。
「デザートは別腹ってやつですか」
「そういうやつです!」
「りょーかい」
滑るみたいに走る車。本当は今日、皆が退院祝いしてくれるって言ってた。でも、私はそれを皆キャンセルした。
だって、どうしても二人きりでいたかったから。誰にも邪魔されないで、まるで世界に二人しか居ないみたいに過ごしたかった。
まぁ・・・それは無理なんだけどさ。私達の事を知らない人達の中に紛れて、いつもよりもくっついてたかったのかもしれない。
離れて過ごしてた間、私は色んな事を考えてた。世界がモノクロみたいに味気ないものになって、
それでも必死になって色をつけようとしたけど、やっぱり無理で・・・。
でも聖さまが帰ってくるって知った途端、顔を見た途端考えてた事が全部どうでもいいような事みたいに揺らいで見えた。
本当は今日、迎えに行った時あんな事にならなければ一番に車から駆け下りて聖さまの胸に飛び込んでたと思う。
生憎それは出来なかったけど、今こうしてたらそんな事ももういいやって思えるから不思議。
コンビニでお菓子とアイスを買って、家に帰る途中聖さまがポツリと言った。
「やっと・・・二人だね」
・・って。私は何の言葉も浮かんでこなくて、それこそバカみたいに頷く事しか出来なくて。
それでも聖さまは許してくれた。私の頭をポンポンって優しく撫でてくれただけで。
ああ・・・どうして離れる事なんて出来たんだろう。逢えばいつもそんな風に思う。でも今日は違う。
離れる事で私達の絆はきっと強くなった。そんな気が・・・したから。
第百五十九話『キスマーク』
普段はあんまり求めないし、求められない。でもさ、事情によってはいつもの自分じゃなくなる時ってある。
ちなみに、今日がまさにそれだった。本当は修学旅行から帰ってくる前からずっと、それこそ新人が入ってきたあたりから、
私達はお互いの心の内を隠したまま過ごしてた。そういうのって夜に一番作用する。
どこかぎこちなく私に触れる祐巳ちゃんとか、愛の無いような私のキスとか、
そんなんばっかでいい加減嫌気がさしてたところに今回の騒動。
ある意味、私が今年一番に引いたおみくじは当たりだった。ついでに言えば、祐巳ちゃんのも。
「と、思うんだけどどう思う?」
「そ、そんな事こんな状態で言われましても・・・」
祐巳ちゃんは靴も脱げきってない。その上着てたカーディガンとシャツが胸までまくれ上がったまま困ったように視線を伏せる。
そういう態度が余計に私を刺激すると思うんだよ、いつも。本気になって逃げる訳でもないのに困った顔とかさ、
そんな顔されて私にどうしろって言うのよ?どうしようもないじゃない。
私は祐巳ちゃんの手を玄関のドアに押さえつけたまま笑った。初夢みたいなキスをしてみようか、
それとももう少し優しくしてあげようか、そんな事を考えていた私を恐る恐る見上げる祐巳ちゃんの顔を見て、
心を決めた。だって、なんか誘ってるみたいに見えたんだもん。ギブスがやっと取れたのがついこの間。
両腕の有り難味を思い知った。両腕が使えなきゃこんな風に祐巳ちゃんを抱きしめる事さえ出来ない。
両腕が使えなきゃ、こんな風に乱暴に抑え付ける事も・・・出来ない。
「まぁ、付き合った相手が悪かったと思って諦めて」
「そんなの・・・思った事ありませんよ・・・」
「そう?こんなとこでされても?」
意地悪に笑った私はそのまま祐巳ちゃんの唇を強引に奪った。泣き出しそうな祐巳ちゃんの顔を見るの、何だか久しぶり。
「んっ・・・っふ・・・ふぁ・・・」
唇が離れた時に漏れる息継ぎの声とか、私の舌に必死になってついてこようとするとことか、そういうのが凄く好きで、
だから私はもっともっとってなっちゃうんだ、いつも。私は抑えてた手を離して下着のホックを外しはじめた。
もう我慢出来ない。まるで小さな子供みたいに祐巳ちゃんを求める私は一体どんな風に映ってるんだろう。
いつまで経っても大きくならない祐巳ちゃんの胸。これもなかなかいい。だって、スタイルはいいんだもん。
いつもは可愛いのにこんな時はやたらとセクシーになるとこもいい。危うく私はその全てを失うとこだった。
今おもえば、あの時自分のことなんて考えずに祐巳ちゃんを捕まえて本当に良かったと思う。
だって、自分が居なくなる事よりも、失う事の方がきっと辛いに決まってる。
いつだって残された側は泣く事しか出来ないんだから。祐巳ちゃんの腕が、私の首に回される。
無意識なのかどうなのかは分からないけど、これが合図。私は久しぶりに見る祐巳ちゃんの胸に顔を埋めた。
「ぁん」
片手はすでにスカートの中。下着の上からそっと触ったらもうすでに濡れてる。
「やけに敏感じゃない?」
「そんな事・・・っ・・・はぁ・・・あ・・・ん・・・聖さまこそ・・・腕・・・だいじょ・・・んん」
祐巳ちゃんが体を仰け反らせた。私が胸の先端を甘く噛んだから。震える祐巳ちゃんの膝。
私は胸を強く吸った。その痕がくっきりと残る。それを見た祐巳ちゃんはいつもみたいに嬉しそうに笑う。
最初はそれがどうしてかは分からなかった。でもいつか聞いたんだ。どうして笑うの?って。そしたら祐巳ちゃんは言った。
だって、聖さまだけですから、私にこんな痣つけられるのは・・・って。それがどんなに嬉しかったか。
それからたまに祐巳ちゃんは例えエッチしなくてもキスマークだけは付けて欲しがった。
お風呂に入って消えかけたら、付けて、って。私はだから、どんなに疲れててもそれだけは付けてた。
今まではキスマークなんて大した意味もないと思ってたけど、祐巳ちゃんがそんな風に考えてくれてるのを知って、
それから初めてキスマークの意味を知った。まぁ・・・首とか見えるとこに付けたら怒られるけど。
祐巳ちゃんが心配そうに私の腕をさする。私はその手の甲にキスして、そのまま祐巳ちゃんの髪に口付け笑う。
「へーき。リハビリだと思うから」
「リ・・・リハビリって・・・」
呆れたような顔を私に向けて私の指先に自分の指先を絡ませる祐巳ちゃん。
ああ、こうやって手を繋ぐだけでもキュンってするのはどうして?私、そんなにも祐巳ちゃんが好きなの?
大きな目が涙で潤む。私はそんな祐巳ちゃんから視線を逸らせなかった。
繋がれた手とは違う方の手で祐巳ちゃんの下着を滑らせると、体はビクンと跳ね上がる。
「あ・・・せ・・・さま・・・私・・・」
「しー・・・黙ってて・・・静かに・・・」
そう言って唇を無理矢理塞いでおでこをくっつける。祐巳ちゃんはコクンって頷く。
私はもう我慢できなかったんだ、ほんとに。これ以上もう待てなかった。
私の全てを知って欲しくて、私の全てを受け入れてほしくて。
玄関のドアに祐巳ちゃんを押し付けて体をほんの少し持ち上げて。祐巳ちゃんがつま先立ちになったのを確認した私は、
そのまま指を二本祐巳ちゃんの中に滑り込ませた。
「ひゃんっ」
「冷たい?」
冷え性な私の指は年中通して割と冷たい。祐巳ちゃんは首だけで返事して必死になって声を殺してる。
そうそう、この必死な顔が見たかったのよ、私はずっと。何かを堪えるようなそんな顔が。
さて、どうしようか。私は軽く指を動かしてみた。それと同時に祐巳ちゃんの中から愛液が溢れてくる。
今にも泣きそうな祐巳ちゃんの顔。何かを求めるように私を見上げて呟く。
「せ・・・さま・・・舐め・・・て?」
「へぇ・・・初めてだね」
胸の中がどうにかなるかと思った。このまま祐巳ちゃんに全部奪われてしまいそうだった。
でも・・・もういいや。それでもいいや。私はしゃがみこんで祐巳ちゃんのスカートを脱がして下着も全て脱がせた。
太ももを伝って落ちる透明の液体を丁寧に舐め取ってゆく。
「んっ・・・っぁ・・・っふ・・・はぁ・・・はぁ・・・」
体の中心に舌が徐々に近づいてゆく。それと比例するみたいに祐巳ちゃんの声が大きくなってゆく。
指を締め付ける祐巳ちゃんの中はもう溶けそうなほど熱い。ドロリとした感覚が指から流れ落ちてくる。
私は祐巳ちゃんの一番敏感な場所に口付けた。指を奥まで突き上げる度に私にしがみつく祐巳ちゃんの指先に力がこもる。
それでも少しも痛いとは感じなかった。だって、私は知ってたから。それが私の求める痛みだって事を。
いつもよりもずっと激しい指に祐巳ちゃんは最初はちょっと戸惑ってた。でも今はもう痛みよりも快楽のが勝ってるに違いない。
ふと見上げた祐巳ちゃんの頬に涙が伝ってる。でも、祐巳ちゃんは微笑んでた。
溜息交じりの喘ぎ声の合間合間に微かにだけど・・・微笑んでたんだ。
第百六十話『ヒーロー?それとも悪もの?』
聖さまが私の一番敏感な場所を舐めるたびに私達の関係が深くなってゆくような気がする。
なんて言ったら、聖さまは笑うかな?それともバカにする?でもね、私は今、そんな風に思ってるんだ。
そしたらどうしてかな・・・何だか嬉しくて切なくて仕方なくなって・・・こんなにも誰かを求めるのなんて初めてで。
舐めてって言った時、聖さまは口は笑ってた。でも目は・・・ちょっとだけ潤んでた。
ちょっとだけ驚いたみたいに私を見下ろして本当に嬉しそうに笑ったの。だから私は確信した。
間違えてないんだって。素直に求めるのは全然悪い事じゃないんだって。
私達は後どれだけこんな風に求めたり求められたりするんだろう。私達はあとどれぐらい一緒に居られるんだろう。
それにいつも聖さまは私に触れる時本当に優しく触れてくれる。ほんのちょっと激しくしたってそんなの知れてる。
でも・・・今日は違った。そもそも玄関に入ってすぐに抑え付けられるとは・・・思ってなかった。
何されてるのか分からないまま、気がつけば私は服をまくりあげられてて。
さっきのキスでもそう。あんな・・・乱暴で激しいキスしたことない。でも、凄く・・・深いキス。あんなの・・・初めて。
酸素を全部奪われてしまいそうなほどの激しいキスは、私をいつもよりもずっと大胆にさせた。
胸だっていつもみたいに優しく触ってくれない。痛いぐらいの激しさと甘さが交互にやってきて何だかおかしくなりそうで。
私の足の間にある聖さまの頭を抱きかかえるみたいに聖さまの柔らかい髪の中に指を埋める。
「んっ・・・ぁっ・・・あ・・・っく・・・んん!!」
突き上げられるたびにやってくるこれを何て言えばいいのかな。痛みは無い。不思議と。
鈍いんだけど敏感で熱くて・・・もう頭の中は真っ白で聖さまの事さえも考えられなくなりそうで・・・。
私の中の一番のとこに指先が触れるたびに小さな呻き声にも似た喘ぎ声が漏れる。その声はいつもよりもずっと大きな声。
でも痛い訳じゃない。ただ・・・なんていうか、苦しい。お腹の奥のほうに来る振動が私の全てを突き上げるみたいで。
「あっ、あっ、あぁ・・・せ・・・さま・・・聖・・・さま・・・」
その時だった。聖さまはふと舐めるのを止めて私を見上げて言った。
「もう呼び捨てしてくれないの?」
「・・・え?」
「ほら、あの時名前呼んでくれたじゃない。私を呼び捨てにしたでしょ?あの時みたいにもう名前で呼んでくれないの?」
「で、でも・・・あの時は・・・必死だったから・・・だから・・・」
「今も必死じゃない。遠慮しないで呼び捨てにしてよ」
聖さまはそれだけ言ってまた私の一番敏感な場所を舐め始めた。でもね・・・それがどう考えてもさっきよりも激しくて・・・、
私は体を強張らせてそれに耐えた。力を抜いたら本当にどうにかなりそうだった。
聖さまの指に力がこもる。今までだって十分激しかったのに、さっきよりもずっとずっと激しい。
頭が・・・クラクラする・・・痛い?ううん、違う。切ない?ううん、違う。苦しい?ううん、違う。でも、どれも当たってる。
私は聖さまの頭を抱き寄せた。それと同時に聖さまの指が私の奥深くを掻き回す。
「やっ・・・あ・・・聖さま・・・聖・・・さま・・・あっ・・・ん・・・聖・・・っくぅ・・・っふ」
叫び声にも似た私の喘ぎ声に微笑んだ聖さまの口元が一瞬チラリと見えた気がした。
それから私が上り詰めるまで、そんなに時間はかからなかった。掴む物が何も無くて、必死になって握り拳を握った私の指に、
聖さまの指が絡まる。私はだからそれに安心してきつく聖さまの指を、手を、握り締めた。
「あっ・・・も・・・ダメ・・・やっ・・・あっ・・・はぁ、はぁ、あっ、あん、あっ・・・あ・・・あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
聖さまの舌が一瞬止まった。でも指先はまだ私の中を掻き回してる。私はそれを必死に止めようとするのに、
聖さまは私のそんな手を振り払った。ゆっくりと立ち上がって私を抱き寄せて耳たぶにキスして言う・・・囁くように。
「中でイかせてあげる」
「やっ・・・も・・・ムリ・・・はっ・・・あぁ・・・っん」
「大丈夫。案外、外より気持ちいいかもよ?」
そう言って意地悪に笑った聖さまは私のまだ見た事ない聖さまだった。初めてみる聖さまの顔に私はドキンとした。
私は昔から特撮でもアニメでも、主人公や正義の味方よりも、どこか影のある悪者ばかり好きになるタイプで、
その中でもいつもいつも線の細い繊細そうな人を選んでた。
そんな事を思い出して今始めてどうして聖さまに惹かれたのかが分かった気がした。
聖さまは一見主役っぽい。見た目が。いや、主役を支えてる準主役と言った方がいいかも。でもいつも脇役でいたがるんだ。
それにはきっと、色んな理由があるんだと思う。私は聖さまを抱きしめた。聖さまがどんなに悪者や脇役でいようとしても、
私にとって聖さまは主人公。もちろん私も。聖さまは私の中のある一点を激しく突いた。
それに耐えられなくて体から力が抜けてゆく私を聖さまが支える。
「あっ、はっ、あん、やぁ、ダ、ダメ・・・おかしくな・・・ちゃう・・・あっ・・・んむっ!?んっ・・・っふ・・・」
頭が真っ白になった。もうダメ。そう思った瞬間に聖さまに口を塞がれたの。伏目がちに私を見下ろす聖さまの顔は、
まっすぐに驚いてる私を見下ろしてる。
「んっ・・・っふ・・・ぅむ・・・」
「ふぁ・・・ん・・・」
キスされてる間も聖さまは手を止めない。それどころかどんどん私を狂わせようとして・・・。
私は聖さまの胸元をギュウって握った。唇をふさがれてるから声どころか呼吸すら出来なくて、頭が真っ白になってく。
「んん・・・っふ・・・ふぁ・・・ん、んんんんんんっ!!!・・・んむ・・・ふぁ・・・」
キスされたまま私ってば・・・そんな自分が恥ずかしい上に、
膝から力が抜けてガクンって倒れそうになった所をすんでのところで聖さまが受け止めてくれた。
「っと。あんまり大きな声出したら近所迷惑だからね」
「はぁ、はぁ・・・あ・・・」
「・・・聞こえてないか」
いや、聞こえてはいるんです。ただ、酸素が・・・酸素が足りてないだけで・・・。
私は腕を伸ばして聖さまを抱きしめようとした。でも、それは出来なかった。
だって、聖さまの言うとおり私はそのあとすぐに意識を失ったのだから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目が覚めると、私はベッドの上に居た。隣では聖さまがすでに寝息を立てている。
「せ・・・さま・・・」
時計を見たらすでに夜中の三時。嘘でしょ!?わ、私・・・一体何時間気、失ってたのよ!?
起き上がった私の振動で聖さまがゆっくりと体を起こして眠そうに目を擦った。
「なに、起きたの?」
「う・・・はい・・・」
「そう、なら良かった。じゃ、おやすみ」
そう言ってもう一度寝なおそうとする聖さま。いやいやいや、ちょっと待ってよ!!もっと何かお話しようよ!!
「ちょ、聖さま!私まだ話したい事が沢山あるんですけど・・・」
「ん、明日聞く」
「え、えー?だって、私目覚めちゃったんですよー」
必死になって聖さまの体を揺り起こす私に、聖さまはもう一度体を起こして私に抱きついた。
私はそれが聖さまの返事なんだと思って抱きつき返すと、
何を思ったのか聖さまはそのままベッドに倒れこんで私の腰に足をかけて・・・。
「せ、聖さま・・・?」
「おやすみ」
「え、ちょ!?・・・っく・・・う、動けない・・・」
聖さまの腕と足が私に絡まって、私は身動きとる事が出来ない。つか、ちょ・・・く、苦しいんだけど・・・。
どうにかして聖さまの腕から逃げようとするんだけど、必死でもがく私に聖さまがめんどくさそうに呟く。
「昔から言うでしょ?もがけばもがくほど締まるんだって、こういうのは」
「な、なるほど」
私は全身から力を抜いて聖さまの腕の力が抜けるのを待った。ひたすら待った。
ところが・・・一向に腕の力が抜ける気配がしない。
「ちょ、聖さま!?いい加減緩めてくださいよ!!」
「んー・・・もう・・・5分じっとしててみなよ・・・また眠くなるから・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
あれだけ、あれだけさっきは私を求めてくれた聖さま。なのに今はどう・・・このめんどくさそうな態度。
しかも全然離してくんないし・・・何なの、一体!でも私、どうして嬉しいとか思っちゃってんの!?
もう・・・仕方ない。聖さまの言うとおり5分大人しくしてよう。私はそっと目を閉じた。
目の前には聖さまの胸・・・眺めはかなりいい。
「えへへ・・・いい眺め」
オヤジみたいだけど、本当にそう思った。ところが聖さまにはやっぱりうるさかったんだろう。
私の頭にげんこつを一発落として片目だけで私を睨む。
「にゃっ!?」
「いいからさっさと寝る!」
「・・・はい・・・」
聖さまはアレだ。ヒーローでも悪役でもない。ヒーローを統括する一番偉いおじさんタイプだ。そうに違いない。
あの人が本当は一番ワガママで掴み所ないんだもん。絶対そうだ!!
「おやすみなさい、聖さま」
ポツリと呟いた私の声に聖さまはもう一度目を開けた。別に笑うでもない、怒るでもない素の顔の聖さま。
私の唇に軽いキスをして今度は私の頭を抱きかかえる。
「はい、おやすみ」
・・・やさしいんだか何なんだかよく分かんない人。でも、私の好きな人!
第百六十一話『恐怖の階段』
あー・・・ダルイ。ぶっちゃけ学校とかかなりめんどくさい。だってさ、二ヶ月も入院してたのよ?
そんでそれから一週間は大事を取って家でゴロゴロしてたもんだから、もう本当に泣きそうなくらい面倒なわけよ。
ダラダラ歩く私の背中を後ろから祐巳ちゃんが一生懸命押してくれる。
「ほらっ!せ、さまっ!!急がないと遅刻しちゃいますよっっ!!」
「いいんじゃない?別に。一応私病人だったんだしー」
私達の横を何人かの生徒が挨拶しながら小走りに走り抜けてゆく。そう、もう既に遅刻ギリギリなのだ。
だから祐巳ちゃんは余計に怒ってるって訳なんだけど。
「何言ってるんですかっ!もう退院もして元気でしょ!!」
元気ねぇ・・・ったく、どうせならもうちょっと休みにしておいてもらえば良かった。
だって、あと一ヶ月もしないうちに今度は夏休みなんだから。
あー・・・でも、どうせ今年の夏休み保健医は毎日学校なんだろうなぁ・・・つまんないの・・・。
チラリと祐巳ちゃんに視線を移して溜息をついた私を見て、祐巳ちゃんは顔をしかめる。
そして今度は無言で私の手を引っ張ってスタスタと歩き出す。どうやら押すよりもこっちの方がいいって事に気づいたみたい。
校舎に入って靴を履き替えて、階段を上れば・・・私が落ちた踊り場。そしてその上が職員室なんだけど・・・。
何故か祐巳ちゃんはその階段を使わなかった。わざわざ遠回りをして職員室に向う祐巳ちゃんに大人しくついてゆく私。
で、職員室の前まで来た時、私は祐巳ちゃんが避けた階段を下りて踊り場までやってきてそこらへんを調べ始めた。
「何やってんですか、聖さま!!」
階段の上から祐巳ちゃんが踊り場で立ち止まった私に怒鳴り声を上げる。
だから私は既に階段の上に居る祐巳ちゃんを見上げて冗談交じりに言ったんだ。
「血痕とか残ってないないのかなぁ〜と思って」
ほんの冗談のつもりだった。それなのに、それを聞いた祐巳ちゃんの顔が・・・怖い。
すんごい顔で私を睨んで、階段を駆け下りてきたかと思うと私の正面で立ち止まって、
無言で私の足を思い切り踏んづけてそのまま、また階段を上って職員室に消えてしまったのだ。
「いったいなぁ・・・もう・・・なんのよ・・・」
思いっきり足を踏まれた私はといえば、踏まれた足をさすって階段をゆっくり上るしかなくて・・・。
職員室のドアを開けると、まず蓉子が職員室のドアのすぐ前で仁王立ちして待っていた。
「な、なによ?」
「何よ、じゃないでしょ。あんた、今何時だと思ってんの?」
「まだチャイムなってないじゃない。ギリギリセーフでしょ?」
「あのね、どこの学校の教師に生徒と一緒になって遅刻ギリギリに門くぐってくる奴が居るっていうのよ!?」
「別に私の遅刻癖は今に始まった事じゃないじゃない」
平然と答える私の頭に蓉子のゲンコツが降ってきたのは言うまでもない。
いや、分かってる。悪いのは私なのだ。でもね、でもさ。何か・・・認めたくないんだよね。
「聖!!聞いてるの!?あんたは大体、いっつもいっつもそうやって私を#$ё★!!!!」
「はいはい、きーてるきーてる」
とりあえず席についた私を今度は祐巳ちゃんが睨んでくる。ったく、一体なんなのよ!?
蓉子はといえば、席についた私を指差してまだギャースカギャースカ叫んでるけど、
それをお姉さまが取り押さえて必死になってなだめている。
「聖さま・・・ダメですよ、あんまり蓉子さまを困らせちゃ・・・」
静かな声でポツリとつぶやいた祐巳ちゃんの声には何故か諦めてるみたいな響きがこもってる。
つかさ、そんな溜息交じりに喋んなくてもさ。あーあ・・・ほんと、めんどくさい。
大きなため息を落とした私を置いて朝礼が始まった。内容は大体いつも通り。
ようやく朝礼が終わって本鈴が鳴るのと同時に私達は各教室に向う。ところが・・・。
「あれ?祐巳ちゃん、保健室そっちじゃないでしょ?どっか行くの?」
「え?え、ええ・・・ちょっとお手洗いに行ってから向おうかと・・・」
それだけ言って祐巳ちゃんはっさっさと角を曲がって行ってしまった。私は首を傾げてその後姿を見送っていたんだけど、
突然、後ろから聞こえた声に驚いて思わず私はほんの少し飛び上がってしまった。
恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは・・・可南子ちゃん。つか、驚かすなっての!!心臓に悪い!!
「祐巳さまは・・・あの日から一回もあの階段を使わないんです・・・」
そう言って可南子ちゃんが指差した先には・・・私が落ちた階段。ああ、なるほど。だからさっきあんなにも怒ったのか。
「教えてくれてありがと・・・そう・・・まだ怖いんだ」
「みたいです。皆もそれが分かってるから何も言わないんですが・・・」
可南子ちゃんは小さな溜息を落として私の横をすり抜けてまた職員室に戻ってゆく。
どうやら可南子ちゃんは毎日祐巳ちゃんの事を気にかけてくれてたみたい。
あんなにもこっぴどく振られても、まだ祐巳ちゃんの事を一番に気にかけてると知って、何だか酷く情けなかった。
私は何やってんだ。あんな冗談言うんじゃなかった。
出席簿を抱えなおして歩きだした私は、大きなため息を落とすと自分の教室へと向かう事にした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それから昼まで、ただの一度も祐巳ちゃんには会わなかった。ていうか、会いに行けなかったってのが本音。
でも流石にそれもどうかと思った私は、昼休みにようやく保健室に行くことを決めた。
ちゃんと祐巳ちゃんが作ってくれたお弁当を持って。ノックを二回すると、中から祐巳ちゃんの声が聞こえる。
こうやって毎日毎日祐巳ちゃんに会いに来てたのに、二ヶ月という歳月のせいで保健室に来る事が酷く懐かしく感じた。
「私。入るよ」
『・・・どうぞ』
何だか元気の無い祐巳ちゃんの声。もしかしてまだ怒ってんのかな?
私は内心ビクビクしながら保健室のドアを開けて中に入った。
「お昼一緒に食べようよ」
「ええ・・・それは構いませんけど・・・」
何だか煮え切らない感じだけど、まぁいい。私が悪かったんだから、ここは大人しくしとくに限る。
祐巳ちゃんがお茶を入れてくれてる間、私はじっとこの何とも言えない空気に耐えていた。
怒られる訳でもない、責められる訳でもないこの空気に。私の一番苦手な空気に。
やがてお茶を入れ終えた祐巳ちゃんが私の向かいに腰を下ろし、溜息を一つ落とした。
「私、あの階段・・・上れないんです」
「うん、可南子ちゃんに聞いた」
祐巳ちゃんは私の言葉に顔を挙げて少しだけ笑った。
「そうですか」
「うん」
か、会話が・・・続かない・・・私は微妙な緊張感のせいでお茶を飲み干してしまう。
そんな私の湯のみにおかわりを入れてくれる祐巳ちゃんの左手にはあの指輪がしっかりとはまっている。
「あのさ・・・私、もう大丈夫だよ?」
「分かってます。でも・・・怖いんです」
「理屈じゃないって事?」
コクリと頷く祐巳ちゃんの負った傷はどうやら随分と深かったみたいで、私はそれから何も言えなかった。
つか、言える訳ないじゃん!!だって、どう考えても私のせいだもん。はぁぁ・・・どうすればいいんだろ・・・。
「聖さま・・・ご飯・・・食べましょうよ。今日は頑張ったんですよ」
取り繕ったような祐巳ちゃんの笑顔に、私は情けなくて仕方なかった。だってそうでしょ?私、何も言ってやれない。
慰める事も、何も。いくら私が大丈夫だと言っても、祐巳ちゃんの中の傷はきっと癒えない。
でもね、これじゃダメだと思う。いつまでも怖がってたらそこから先に進めなくなっちゃうのを私はよく知ってる。
だから私はお弁当箱を開けて顔を輝かせてる祐巳ちゃんの手を引いて立ち上がった。
「せ、聖さま!?お昼ごはんは?」
「すぐ済むから」
そう言って祐巳ちゃんの腕を引いてあの階段の前までやってくると、途端に祐巳ちゃんの顔が強張った。
「わ、私・・・用事が・・・」
「そんな事言っていつまでも逃げるの?思い出さないようにするの?」
「だ・・・だって・・・だって・・・」
多分、祐巳ちゃんの手首に赤い痣が残ると思う。それでも私は離さなかった。
「私は、別に祐巳ちゃんがこの階段をこれから一生使わなくても全然構わない。
それは祐巳ちゃんの勝手だと思うし、私には関係ない。でもさ、じゃあ祐巳ちゃんはどうなの?
一生逃げ続けて、あの時のことを思い出さないようにして、それで良い訳?」
私はそんなの嫌だ。あの日の事を忘れたいだなんて思わない。あの日ほど、祐巳ちゃんの愛を感じた日はなかったんだから。
それを祐巳ちゃんが思い出してくれないのも、嫌。ワガママかもしれないけど、そんなのは・・・嫌。
私にとってあの日の事はただの事故だけではなかったんだから。
祐巳ちゃんは俯いてギュって目を瞑って考えてる。
時々眉をしかめたりしてるから、きっとあの時のことを思い出そうとしてるんだと思う。
私はそんな祐巳ちゃんの手を引っ張って一段づつ階段を上り始めた。目を瞑ったまま、祐巳ちゃんはついてくる。
ていうかさ、目は開けた方がいいんじゃないのかな・・・特に階段は・・・そう思った矢先、
案の定祐巳ちゃんが一段階段を踏み外して、私は慌ててそれを支えた。
驚いたようにパッチリと目を開けた祐巳ちゃんは私を見上げ、苦笑いしてる。
「こ、怖かった・・・」
「そりゃそうでしょ。つか、せめて目は開けなさいよ」
そしてようやく踊り場までやってきた時、祐巳ちゃんがピタリと足を止めた。
「私・・・本当に怖くて・・・もう聖さまと逢えないかもしれないと思ったら必死で・・・だから・・・」
小刻みに震える祐巳ちゃんの肩を、私はそっと抱いた。涙こそ零れてこないものの、祐巳ちゃんの目は潤んでる。
「私も必死だった。祐巳ちゃんの声聞こうと思って必死だったのよ。
もうダメかもって本気で思ったけど・・・でも、結局私は今もここに居る。だからもう昔話にしちゃおうよ」
「・・・昔話?」
「そう。過去の話にしちゃお。いつまでも縛られてなきゃならないような、
そんな大げさな出来事でも無かったって事にしちゃおうよ」
割と、何にでも楽観的な私は昔から喉元過ぎればの精神で生きてきた。そのせいで色んな事があったけど、
次の日までそれを引きずらないようにしてた。だって、そうしなきゃ生きてなんていけないよ。
辛い事でも、その中から少しでも良い事だけを覚えておくようにする。これはだって、祐巳ちゃんが教えてくれたんじゃない。
私の言葉を聞いてそれまでずっと震えてた祐巳ちゃんの肩が、ピタリと止まった。
そして私の手をそっと解いて、恐る恐る階段を上り始める。
やがて階段を上りきった祐巳ちゃんは、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
そして突然、クルリと振り返って満面の笑みで飛び跳ね出すと、私に向って叫ぶ。
「聖さま!!やりました!!私、私・・・上れましたっっ!!!」
嬉しそうに飛び跳ねる祐巳ちゃん。で、でもね・・・階段の上で飛び上がるのは止めておいた方が・・・。
「祐巳ちゃん、嬉しいのは分かったけどそんなとこで跳ねない方がいいと思うよ」
「へ?あ・・・そ、そうですよね!待っててくださいね!今、今そこまで降りますから!!」
飛ぶのを止めて今度は階段を下りてくる祐巳ちゃんの顔は、どこか誇らしげ。
いや、大袈裟だとは思うんだけどね、たかが階段上れたぐらいでさ。でも、きっと祐巳ちゃんにはそれぐらい恐怖だったんだ。
自分が階段から落ちたという事も、それを私が庇ったという事も。
「聖さま!降りれましたよ!!」
「そうね。良かった、良かった。さ、お昼ご飯食べよ」
「え・・・?も、もうちょっと褒めてくれるとかないんですか?」
「なによ。どうして欲しい訳?」
意地悪に笑った私を見て頬を膨らませる祐巳ちゃん。私はそんな祐巳ちゃんを置いて先に階段を降り切って、
そのまま保健室の中で祐巳ちゃんを待った。するとすぐに不満げな祐巳ちゃんが保健室に戻ってくる。
既にお弁当を開けて食べる準備してる私の正面に腰を下ろして自分の分のお弁当を渋々開けながら、
玉子焼きを一つ口に放り込んでいる。
「もっと楽しそうに食べようよ」
「楽しくなんて出来る訳ないじゃないですか。・・・あんなに頑張ったのに・・・奇跡にも近いのに・・・」
ふくれっ面で今度はからあげを頬張りながらフンってそっぽ向いた祐巳ちゃんの隣に移動した私は、
祐巳ちゃんの頭を撫でて、その頬に軽いキスをした。ほんと、しょうがないんだから、もう。
「偉かった。それでこそ私の自慢の祐巳ちゃんよね」
「・・・今さらそんな・・・」
チッ・・・これぐらいじゃやっぱ機嫌は直んないか・・・。私は思いつく限りの言葉で祐巳ちゃんを褒める事にした。
きっと、いつかは機嫌が直るだろうと信じて。
「やっぱり祐巳ちゃんは出来る子だと思ってたんだよね!」
「や、そ、そんなに褒められても・・・」
お!顔が赤くなった・・・これは・・・もう少し押せばいける。
「凄かったよ、さっきのあの階段の上りっぷりは。皆にも見せたかったなぁ!」
「・・・そこまで言われるとちょっと胡散臭い気もするんですが・・・」
あー・・・ちょっと言いすぎたか。じゃあ、これはどうだ!祐巳ちゃんの場合、あんまり褒めすぎると逆効果なんだよね。
でもその加減がなかなか難しいんだ、この子は。
「いや、本当に。とてもじゃないけどあそこから落ちたとは思えなかったね!」
「そ、そうですか〜?いえね、実は自分でも凄いなとは思うんですけど・・・」
・・ほらね。もう満面の笑み。どんだけ単純なのよって話ですよ。こうもあからさまに喜ばれると何だか返ってムカツクのが、
人間の不思議な心理だと思う。私はこれから自慢話に突入しようかって祐巳ちゃんの話を中断して続けた。
「・・・って、これぐらい言えば機嫌なおる?」
「なっ?!・・・ひ、ひど・・・」
「まぁまぁ。無事階段上れるようになったんだからもういいじゃん」
「うー・・・そう・・・ですけどー」
「ほら、こっち向いて」
素直にこっち向いた祐巳ちゃんに軽いキスをすると、祐巳ちゃんはやっと笑ってくれた。
恥ずかしそうに・・・でも、やっぱり誇らしげに。
「さて。それじゃあお昼食べよ。今日のは自信作なんでしょ?」
「はいっ!」
蓋を開けると、一口サイズのおにぎりで出来た梅の花がお弁当の中に咲いていた。
なるほど。自信作・・・ね。ちょっと季節外れだけど・・・まぁいっか。だって、私のおにぎりの一番は・・・梅だからね。
第百六十二話『夏休みの始まりに』
聖さまが退院して、実際学校に行ったのは一ヶ月も無かった。その間、聖さまは生徒達に質問攻めにされて、
毎日毎日保健室で愚痴って。全く以前と何も変わらない毎日に、私は本当に嬉しかったんだ!
でも・・・夏休みか・・・私、また毎日学校来なきゃなんないんだろうなぁ・・・。
大きなため息を落とした私を見て、由乃さんがウキウキした様子で私の顔を覗き込む。
「なによー。祐巳さん、夏休み楽しみじゃないの?」
「んー・・・そういう訳じゃないんだけどね。だって、私保健医だから部活のある日は毎日ここに居なきゃいけないんだよね」
「あ、なるほど。じゃあどこにも行かないの?お盆とかは休みでしょ?」
お盆ね。お盆か。そりゃお盆はお休みだけどさ、混むじゃない、どこ行っても。
絶対聖さま嫌がると思うんだよね、そういうの。で、きっと言うんだ。めんどくさいから家でゴロゴロしてよーよー、とか何とか。
ああ、私に夏休みはないの!?素敵なバカンスはっ?!
ガックリとうな垂れた私を見て、由乃さんが慰めるみたいに私の肩を叩いてくれた。
由乃さん・・・いい奴・・・。思わずホロリと涙を流しそうになったのも束の間、由乃さんが笑顔で言う。
「じゃあさ!水着選ぶの手伝ってよ!」
・・なんだそりゃ!!!私を慰めてくれてたんじゃないの!?ねぇ、ねぇ、ねぇ!!!
どうやら由乃さん。新しい水着が欲しくて私の肩を叩いてたみたい。それって・・・あんまりだよね。
でもあんまりにも由乃さんが楽しそうで思わず私は頷いてしまった。だって、断れなかったんだもん。
で、結局夏休みが始まる前の週末に私達は新しい水着を選びに出かけた。
しかも私まで結局買っちゃうし・・・着る予定もないのに。
また無駄遣いだって聖さまに怒られても嫌だから、
私は家に帰ってからもその水着をそっと洋服ダンスの奥の方に隠してたんだけど、
意外にもその水着が活躍する日は案外あっさりやってきた。それは蓉子さまの一言から始まったんだ。
終業式の二日前、私は蓉子さまの居る理事長室にお茶を運んで行った。
でも、いくらノックしても中から蓉子さまの返事は無い。だから私は勝手に入る事にした。
「蓉子さま、お茶ですよ〜」
蓉子さまは私が理事長室に入ってる事にも全く気付かないまま、真剣に何か読み耽っている。
「蓉子さま?蓉子さまってば!」
「ふぉあっ?!び、びっくりした!祐巳ちゃんじゃない、どうしたの?」
「お茶をお持ちしたんです」
そう言って私は蓉子さまの前に持ってきたお茶を置いて、蓉子さまが見ていたパンフレットらしきものを横から覗き込んだ。
「そうなの、ありがと」
「それ・・・なんです?」
指差した先にあるのはどこかの高原の写真の載った旅行会社のパンフレット。
私の問いに蓉子さまは困ったように笑って言った。
「今ね、ちょっと迷ってる事があって。ねぇ祐巳ちゃん、祐巳ちゃんは行くとしたら海がいい?それとも山がいい?」
海か山か。私はどっちも割りと好きだけど、私はふとこないだ買った水着の事を思い出して笑顔で答えたんだ。
「どちらかと言えば海がいいです!」
でも私の答えにどうやら蓉子さまは納得出来ないとでも言うように首をかしげ大きなため息を落とした。
つか、そんな顔すんならわざわざ私に聞かなくてもいいんじゃ・・・そんな事考えながら蓉子さまの答えを待っていると。
「海か・・・海ね。海もいいけど・・・そうなると旅費がねー。山なら知り合いが居るのよ。
しかも、テニスコートもプールもあるんですって!そこにタダで泊めてくれるって言うのよね。
それに・・・SRGも山が好きって言うし・・・」
タダ!?私はその一言に目を丸くした。蓉子さまがそれに気付いて視線で訴えてくる。ね、お得でしょ?って。
私はそんな蓉子さまの心を代弁するかのように机に両手を置いて身を乗り出す。
「蓉子さま、私、山も好きですよ!何と言っても山は静かで空気も美味しいし」
その言葉に、ようやく蓉子さまはにっこりと笑ってくれた。そうよね!そう言って嬉しそうに笑う蓉子さまを見て、
私は何だか嬉しくなった。だって、蓉子さまはきっとSRGと行く気なんだと思ったから。
SRGは私よりもずっとずっと長い間蓉子さまに片思いしてて、それが今報われそうなんだ!
そう思ったら、もう山以外にありえない。だってさ、やっぱ幸せになって欲しいよ。蓉子さまとSRGにも。
そんな私の心を知ってか知らずか、蓉子さまはにっこり笑ってパンフレットを閉じた。
「よし、決めた!山にしましょ!さぁ、明後日で二学期も終わりね。あと二日、頑張りましょ!」
「はいっ!」
私は理事長室を出て、嬉しくなって聖さまの元へと急いだ。途中瞳子ちゃんに、廊下は走らない!!とか怒られたけど、
そんな事言ってられない。聖さまは案の定いつもみたいに準備室の長椅子に寝転がっていた。
「聖さま!事件ですよ、事件!!」
勢いよく準備室に駆け込んだ私は、入り口のちょっとした段差に引っかかってその反動で、
思い切り聖さまの上にダイブしてしまう。その時に聖さまの短い呻き声が聞こえたけど、今はそんな事言ってらんない。
聖さまに乗っかったまま話し出そうとする私の顔を睨み付けて体勢を整えた聖さま。
「ったく、あんな段差に躓くなんて。そんな年寄りじゃないんだから、しっかりしてよね、もう」
「す、すみません。それよりも!凄いんですよ!!とうとう、とうとう蓉子さまがSRGとですねぇ!!
なんと!山に行くんだそうです!!!」
すっかり興奮しきった私とは裏腹に聖さまの視線は冷たい。
あ、あれ?おかしいな、こんな反応が返ってくるなんて思ってなかったんだけど・・・。
「で?それのどこが事件なのよ?」
「え?だ、だって!あの蓉子さまがですよ、SRGを誘うんですよ?それって凄いじゃないですか」
「いいんじゃない?二人とももういい大人なんだし、それぐらい普通でしょ。つかさ、そもそも山に何しに行く訳?
健康の為にハイキング?本気でデートするつもりなら、山じゃなくて普通海選ばない?夏なんだし」
「う・・・」
そ、それは私もチラっと思いましたけど。でも、凄い進歩じゃない!!鉄壁の女蓉子さまが自分から誘うなんて!!
でも私の思考なんて全くお構いなしの聖さまは鼻で笑って、私を立たせた。
「そんな事よりも、私は祐巳ちゃんの夏休みの勤務表の方が心配だわ」
「そ、そっすね・・・」
ダメだ。聖さまじゃダメ。この喜びは分かち合ってくれない。でも他の人には話せないし・・・うー・・・どうすればいいの?
このモヤモヤを!!胸の中のモヤモヤは行き場が無いまま私の中に留まって、せっかくの事件が台無しになってしまった。
しかも、だ。結局この話にはまだ続きがある。私には考えもつかなかった意外な結末が・・・。
第百六十三話『夏キラリ』
「なのに…どうして私はこんな所でこんな事やってんだろ…」
私は異様に重い荷物を抱えなおし、はぁ、と大きなため息を落とした。
前方の方から祐巳ちゃんが大きくこちらに向って手を振っている。満面の笑みで。
手を挙げた拍子にキャミソールから下着の肩紐がチラリと覗いて、思わず私はドキドキしてしまった。
あぁ、太陽はこんなにも眩しくて、空気はこんなにも美味しい。おまけに祐巳ちゃんはあんなにも可愛いのに…。
「どうして…どうして毎回毎回夏休みに限って二人っきりにさせてくれないのよっ!!!」
大声で叫んだ私の声が虚しく山に木霊する。そうね、そうよね。私達はきっと、そういう運命なんだ。
決して長い休みには二人きりにはなれない。いつだって・・・そう!いつだって!!
・・まぁ、それもこれも全部・・・アイツが・・・アイツが・・・くっそー、覚えてろよ、蓉子!
いつか、いつか仕返ししやるんだからね!!でも、先頭を歩く蓉子には私の思いなど届くはずもなくて、
今だって江利子と楽しそうにおしゃべりなんてしながら山道をスイスイ登ってゆく。
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事の起こりはこうだった。もうすぐ夏休み。珍しく今年の夏休みは全ての部活の活動を突然休止させると蓉子が言い出した。
だから私は凄く喜んだんだ。だって、そうでしょう?
部活が全て休みって事は、今年こそは祐巳ちゃんと色んな所に遊びに行く事が出来る。
私にとって、これ以上嬉しい事なんてあると思う?いいや、無いね。
そんな訳で私は一人、旅行会社とか巡って色んな所のパンフレットとか貰って来てた訳。
でもさ、私はここで気づくべきだったんだよね。どうして突然、蓉子が部活を休止にしたのかを…。
終業式が終わって二学期最後の職員会議で、蓉子は言った。
「さて、明日から夏休みですが…皆さんにここで一つお知らせしなければならない事があります」
正直、私は嫌な予感がすんごいしてた。だって、蓉子がこういう切り出し方をするときは、いっつもロクな事がないから。
皆は蓉子の言葉に、ゴクリと息を飲んだ。
そして一斉に、すでに帰り支度をしてたお姉さままでもが蓉子の顔を見て怪訝そうな顔をしてる。
「今年、毎年学園祭でお世話になってる花寺学院の先生方との親睦会も兼ねて、
祥子の別荘で教師達だけの合宿を開くことになりました。
そんな訳なんで、八月の三週間は皆で軽井沢に避暑兼旅行兼合宿会を開きたいと思います」
「「「えーーーーーっっ!?」」」
ちょ、ちょっと待ってよ!そんな突然言われてもね、こっちにも都合ってものがあるじゃない!!
ていうか、それじゃあ私の部屋に散らばってるあの秘密の旅行の計画書はどうなるのよ!?
いや、それ以前に私はその計画・・・あんまり賛成したくないなぁ・・・。
だって、花寺の教師って言ったらさ、アイツが居るじゃん、アイツが。多分、私は凄く嫌そうな顔してたんじゃないかな。
蓉子がチラリと私の顔見て釘を刺すように言った。
「あ、そうそう。これ、強制参加だから。当日絶対逃げたりしないように!いいわね?」
「・・・嘘でしょ・・・」
ポツリと呟く私に、蓉子が満面の笑みで言う。
「いいえ、本当よ。もちろん貴方も参加するの。いいわね?聖」
・・全く冗談じゃない。誰が行くもんか。絶対絶対行くもんかっっ!!
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それなのに、あれほど心に誓ったというのに私は何故かここに居る。
本当は今頃祐巳ちゃんと熱海の温泉に行ってる予定だったのに。
早朝、まるで夜逃げみたいに旅行の用意して家を出ようとした所を、家の前で蓉子に捕まったのだ。
一体いつからウチの前を張ってたのか、結局私達はあっさり捕獲されて半ば無理やり車に詰め込まれた。
ていうか、犯罪スレスレだよ、やってることが。そして、まだ寝ぼけ眼だった祐巳ちゃんが言った。
「聖さま、腹括りましょうよ、いい加減」
・・・と。
でも、祐巳ちゃんは知らないんだ。アイツがどんなに嫌な奴なのかを。だからそんな事が言えるんだ。
私はそれから軽井沢に(祥子の別荘に)つくまでひたすら不貞寝する事にした。・・・で、今に至る訳だ。
祐巳ちゃんの荷物と自分の荷物を担いで私は長い・・・バカみたいに長い石段をようやく上り詰めた先に、それは見えた。
それを見た祐巳ちゃんが嬉しそうに私の腕にしがみつき、
(つうか、そんなに元気なら荷物一個持って欲しいんだけど)喜んでいる。
「聖さま!城!お城ですよっ!!」
「あぁ、ホント。凄い豪邸。私達これからん三週間もこんな所泊まれるんだー、ステキー」
明らかに棒読みの私の声に、蓉子が物凄い形相でつかつか歩み寄って来た。
「聖ね、文句があるんならハッキリおっしゃい」
「じゃあ言わせてもらうけど、犯罪者みたいに強制連行されて、
挙句の果てにこんな山奥で三週間も篭って一体何するつもりよ?尼さんにでもなるつもり?」
「あらー、いいじゃない。尼さん。煩悩だらけのあんたにはもってこいよね!
裏の川の上流に滝があるそうだから、そこで滝に打たれてきたらいかが?」
「う・・・」
くっそ・・・口で蓉子に勝てる気がしない・・・。
「もういいわよ!三週間ここに居ればいいんでしょ!?」
そう言って私はスタスタと豪邸に向って歩き出した。
つうか、本当にデカイな、このお屋敷・・・全く・・・これが別荘っていうんだもんな・・・。
はぁ〜あ、せっかくの夏休みなのにな。まさかこんな事になるなんて思ってもみなかった。
私はもう一度、目の前にそびえる大きなお屋敷を見上げ大きなため息を落とした。
第百六十四話『類友』
だと、私は思った。この柏木さんって人。誰かに似てるなーって思ってたら、そうだ!聖さまに似てるんだ!!
そもそも初対面なのに私の事を祐巳ちゃん呼ばわりする時点で厚かましいなぁ、とか思ってたんだけど、
それ以前にこの憎たらしい程の爽やかな笑顔が私はちょっと苦手。
祥子さまの案内でお屋敷に入った私達を出迎えてくれたのが、この柏木優って人だった。
「やぁ、よく来たね」
・・・って、ここはあんたの家か!!そう心の中で突っ込んでいると、聖さまがコッソリと耳打ちしてくれた。
どうやらこの人、祥子様の従兄弟なんだそう。それから一人一人に挨拶して回る柏木さん。
最後に、私と聖さまを見てクスリと笑った。ていうか、聖さまを見て、なんだけど。
「何?」
聖さまは柏木さんのそんな態度にフンって鼻を鳴らして偉そうに言う。
でも、柏木さんはそんな聖さまを無視して私の顔を見るなり言った。
「こちらのお嬢さんは?」
「あ、えっと…福沢祐巳と申します。去年からリリアンで保健医として働かせていただいてます」
「保健医?あれ?確かリリアンの保健医さんはもっとこう・・・髪の長い人じゃなかったかな?」
柏木さんの言葉に、聖さまの肩がピクンって震える。
ヤバイ・・・私がそう思うのと同時に、慌てて蓉子さまがやって来て柏木さんに何かヒソヒソと耳打ちし始めた。
それを聞いた柏木さんは少し眉をひそめ聖さまをチラリと見たけれど、やがて私に手を差し出し握手を求めてくる。
「よろしく、祐巳ちゃん。僕の事は好きに呼んでくれて構わないよ」
「…はあ…」
なんだ、この人。初対面で祐巳ちゃんって!!
馴れ馴れしい。まぁ、別にいいけど。でも、私よりもそれを許さなかったのが聖さまだった。
差し出された柏木さんの手を私の前から払いのけ冷たい声で言ったのだ。
「悪いけど、祐巳ちゃんには触らないでもらえる?コレ、私のなの」
「・・・・・・・・・」
コ、コレって…私はおもちゃか何かですか??でも、なんでかな…そんな風に言ってもらえたのが、凄く嬉しい。
君は特別だよって言ってもらえたみたいで…。私は熱くなる頬を押さえながら、聖さまの後ろにそっと隠れた。
聖さまのシャツから微かにだけど洗濯あがりのフローラルミントの香りがする。
それを聞いた柏木さんがフッと笑った。
「へぇ?君には一体何人お気に入りがいるんだい?」
「今は祐巳ちゃんだけ。これからもそう。
他は誰にちょっかいかけても構わないけど、祐巳ちゃんに手出したらもれなく私の制裁がついてくるからね。あしからず」
「なるほど。そいつは怖いね」
「怖いよ?自分でも何するか分からないもの。もしかしたら、もう二度と私の顔が見れなくなるかもね」
「それは寂しいな。OK、心のどこかに留めておくよ」
「そうね、そうしておいた方がいいだろうね」
「・・・・・」
犬猿の仲って・・・こういうのを言うんだろうか?ていうか、本当にこの二人仲が悪いの?
私には何だかとてもウマが合うように思うんだけど・・・。
何にせよ、私は今幸せ一杯だった!!だって、聖さまが私の事をそんな風に思ってくれてたなんて!!
「さて、それじゃあ君たちを部屋に案内しようか。それとも・・・同じ部屋の方が良かったかい?」
私の顔を覗き込んでそんな事を言う柏木さん。なんだ、意外にいいとこあるんじゃない。
そんな事を思ってた私の心を代弁するかのように聖さまが言う。
「あんたにしては気がきくじゃない」
でも、柏木さんは聖さまの答えに少し驚いたように目を丸くしてポツリと言った。
「冗談のつもりだったんだけどね・・・」
と。それから私達は結局一つの部屋に泊まることになったんだけど・・・。
部屋に入ると、そこはまるでホテルの一室かのように綺麗に整頓された部屋だった。
それはいい、それは。でも、肝心なのはこっから。部屋に入ってキャアキャア言う私達を見て、柏木さんは言った。
「そうそう、言っておくけど、この屋敷の壁は薄いからね」
それを聞いた聖さまは怖い顔で柏木さんを睨む。
「・・・どういう意味よ?」
「どうって・・・そのまんまだよ。鋭い君なら僕の言ってる意味ぐらい分かるだろ?」
「・・・・」
黙り込む聖さま。会話についてゆけない私。え?え??ど、どういう意味?だ、誰か説明を!!私に説明をして!
多分、私はまた例によって顔で喋ってたんじゃないのかな。聖さまがおかしそうに笑った。
「つまり、声を抑えろって事だよ」
「こ、声?」
「そう、祐巳ちゃんの可愛い声が隣の蓉子と祥子の部屋に筒抜けになるって事」
ああ、なるほど。だから静かに話せって事か。でも、それなら別にわざわざ注意しなくてもいいんじゃない?
「佐藤君、いや、ここでは昔みたいにロサ・ギガンティアと呼んだ方がいいかな。
ところで、祐巳ちゃんは理解してないんじゃないかい?」
なんて、柏木さんまで笑い出した。な、何よ。私また何か変な顔してる?ていうか、小さな声で話せって事でしょ!?
どうして二人して笑うのよ?
「多分ね。まぁ、祐巳ちゃんらしいけど。つかさ、ロサ・ギガンティアは止めてよ。そんな今更」
聖さまがうんざりだとでも言うようにポリポリと頭をかいた。
そう言えば聖さまってリリアンの生徒会の一人だったんだっけ・・・えっと、何だっけ、そのロサ何とかってヤツ。
もう、噛みそうでややこしい名前なんだから!
「だって、君と会った時君がロサ・ギガンティアだったからね。もうそれ以外では呼べないな。
学校では流石に佐藤君と呼んだけど、ここは学校じゃないからね。いつも通りに呼ばせてもらうよ。
それに君だって僕の事を未だに銀杏王子と呼ぶじゃないか。お互い様だと思うけど」
「お前には銀杏王子で十分。さて、それじゃあそろそろ祐巳ちゃんと二人っきりにしてくれる?さっきの説明もしなきゃだし」
「そうだね。僕もこれからさっちゃん達と明日からの予定を組まなきゃならないんだ。祐巳ちゃんは何かしたい事はあるかい?」
そう言って柏木さんが私の顔を覗き込んだ。私はと言えば、目の前で早口でまくしたてる二人の会話を聞くのにもう、必死。
「え、えと・・・と、特にはありませんが・・・」
「そう?まぁ、もう少しここに慣れたら聞くとするよ。それじゃあ、夕ご飯まではまだ時間があるからゆっくりしているといいよ」
そう言って、柏木さんはパチンって気障ったらしくウィンクして部屋を出て行った。
それを見た聖さまが、うわぁ・・・って嫌そうな声で呟く。
そして、完全にドアが閉まるのを確認して、はぁぁ、と大きな溜息を落とす聖さま。
「ね?嫌なやつでしょう?」
だって。そうかなー。私には、凄く楽しそうに見えたけど。まぁ、昔っから類は友を呼ぶって言うからね!
ていうか、私からしたらどちらも初対面では最悪って事!もちろん、これは聖さまには・・・内緒だけど。
第百六十五話『湖のほとり』
祥子さまの別荘の近くには、小川の他に湖もあった。凄く澄んでて綺麗だから二人で行ってきたら?
なーんて夕ご飯を食べ終わってまったりしてる時に蓉子さまに言われた。
聖さまは絶対に蓉子の罠だ!って言ったんだけど、私は素直にそれを蓉子さまの好意だと受け取った。
だって、何でもかんでも疑っちゃ体に毒だよ。
「祐巳ちゃんはさー、バカがつくほど素直で正直だよね、ほんと」
お屋敷を出てしばらくした所で聖さまが突然ポツリと言った。
「そ、そんな事ありませんよ!わ、わ、私だってたまにはひ、人を疑いますよ・・・って、今何か変な音しませんでした??」
っていうか、く、暗いんですけど!!尋常じゃないぐらい暗いんですけどっっ!!
でも、恐怖におののく私を横目に聖さまは相変わらずシレっと言う。
「狸かなんかでしょ。案外仲間だと思ったんじゃないの?祐巳ちゃんの事。つうか、怖いんならどうして行くって言ったのよ?」
「ど、どういう意味ですかっ!?
い、いや、だってせっかく蓉子さまがああ言ってくれたんですし・・・い、今変な声が聞こえましたよねっ!?」
もう、どうして・・・どうして街灯とかつけないのよっ!何にも見えないじゃないっ!!
「フクロウでしょ。あのねー、蓉子が言ったからとかそんなの関係なく、怖かったら断ればいいってだけの話でしょうが」
「そ、そんな今更言われても・・・じゃ、じゃあやっぱり帰ります?」
「いーよ、もう。ここまで来たし。ほら!サクサク歩く!」
え、えー?も、もういいよ。帰ろうよ〜。湖とかさ、よく考えりゃ昼間見ればいいじゃん。そしたらもっとよく見えるしさー・・・。
でも、聖さまはさっさと歩いて行ってしまう。
だから私は急いで聖さまの腕にしがみつくと、これ以上離れないよう、ピッタリと体をくっつけた。
そんな私に聖さまは小さく笑う。しょうがないなぁ、って。 別荘を出て裏の川に沿って歩く。懐中電灯を持って。
それから何故かバケツも・・・でもさ、どうして私・・・こんなもん持たされたんだろ?
まぁ、どうでもいいけど。何にしてもどうせ蓉子さまの事だ。きっと何か考えがあってのことだろう。
どれぐらい歩いただろう?突然、川が途切れて森が拓けた場所に、湖はあった。
水面に丸い月がポッカリと浮かんでいて、あまりにも幻想的な景色に、思わず私も聖さまでさえも言葉を失った。
「「・・・綺麗・・・」」
聖さまと私の声がピタリと一つに重なる。
ほんのりとした月明かりは懐中電灯なんかとは比べ物にはならないほど柔らかい光を放っている。
そんな中で二人きりのこの状況を、少なくとも私は幸せに思っていて・・・。
「ねぇ、聖さま?もし私があの月が欲しいって言ったら・・・聖さまどうします?」
私だけのお月さま・・・どうしてかな?聖さまなら本当に取れそうな気がする。
私の問いに聖さまは一瞬首を傾げ、それから視線を私からバケツに移すと静かに言った。
「・・・そうねー・・・まずこのバケツに水を汲んで、そこに月を映すでしょ?そしたら、それは祐巳ちゃんのモノだよ・・・」
だって!!聖さまってば・・・そうなんだ、聖さまって、やっぱり本当は相当なロマンチストで・・・ヤダ想像したら涙出そう。
私が感動しかけたその時、突然聖さまの優しい笑顔が意地悪な笑みに変わった。
あ、あれ?そして次の瞬間、聖さまは言った。はっきりと!
「なんて、私が言うと思う?」
「へっ!?」
「あのねー、私がそんなロマンチックな事言うように見える?銀杏王子じゃあるまいし。
月はね、皆のものなの。だから祐巳ちゃん、綺麗なモノが見たいんなら私で我慢してなさい」
「・・・は、はあ・・・」
・・・って!どうよ?それってどうなのよっ!?明らかにバカにされてるのに私!
ど、どうしてこんなにもドキドキしてるのよっ!?意地悪で妖艶な聖さまの笑顔は、月よりもずっと綺麗でずっと・・・妖しい。
そんな聖さまに私は見惚れるしかなかった。悔しいけど、でもいいや。私には月は手に入らない。
でも、それ以上にもっと、もっと価値あるものがあるから・・・。
「全く、聖さまってばホント・・・」
「何よー?お月さまよりずっといいでしょ?」
「・・・そうですね、ずっと・・・いいですね」
そう言って私は聖さまの袖を掴んで、そっと目を瞑った。
ポツリと何かを呟く聖さまの声は生憎聞こえなかったけど、でもきっと、私達は今、世界中の誰よりも幸せな筈。
第百六十六話『羨ましい恋』
聖ってば・・・祐巳ちゃんの前じゃあんな顔するのね。
私は木の陰からこっそり湖のほとりでイチャついてる二人の姿を見つめていた。
「江利子、趣味悪いわよ!」
そう言って私の袖を引っ張る蓉子。でも、私は知ってる。ホントは蓉子だってしっかり見てたんだって事を。
誰よりも聖の幸せを願ってた蓉子が、あんな顔する聖の事を喜んでない訳がない。
「聖のあんな顔一生見れないかもしれないわよ?今のうちに見とかなきゃいつ見るのよ」
私がそう言うと、蓉子は一瞬何か考えているような顔をしていたけど、
やがて私の影に隠れるようにして湖の二人を凝視している。
そして、ポツリと一言・・・。
「いいわねー幸せそうで・・・むしろ憎たらしいわ」
「・・・蓉子ってば・・・だったら早く恋人の一人や二人作りなさいよ・・・」
「そうは言ってもね・・・相手がね・・・」
確かに、学校に勤めている以上なかなか出会いがないのは分かるけどね。
でも、そんな事言ってたらいつまでたっても恋人なんて出来やしない。
聖じゃないけど、待ってたって幸せはやってこないんだから。
ほんっとに、このしっかり者の親友は他人の事には一生懸命になるのに、
自分の事になると途端に臆病になってしまうんだから。
「それにしても・・・いい顔してるわねー。聖ってば凄く楽しそう・・・」
「ほんと、私達の前であんな顔した事ないわよ」
私は蓉子の言葉にコクリと頷いて思った。ほんと、聖はあんな顔ただの一度も私達に見せた事無い。
これがいわゆる恋の力というヤツなのかどうかは分からない。
だって、他の誰かと付き合っていた時でさえ、こんな顔した事なかったから。
「こんな所で何してるの?花火するんでしょ?」
突然の背後からの声に、後ろに居た蓉子が小さな悲鳴を上げた。SRGだ。
そしてその悲鳴に、湖の傍でイチャついてた聖が気づく。
「ヤバ・・・バレたわ」
「えっ!?」
逃げようとした私の腕を、聖がむんずと掴む。
そして、怖い顔して私達を睨む。あー・・・すんごい怒ってるじゃない・・・でも、私のよく知ってる顔。
「いつから居たの?」
低くて冷たい声が闇の中に溶ける。もう!蓉子がドジ踏むから!
「確か・・・あなたが月をバケツに映してとか言ってた辺かしら」
淡々とそういう私に、聖の顔つきが変わる。あれ?怒って・・・ない?
聖の顔を覗き込もうとした私の視線から逃れるように聖はサッと顔を伏せた。もしかして・・・照れてるのかしら。
「で、あのバケツ何?」
顔を背けたままつっけんどんに言う聖。
それを聞いた蓉子が慌ててSRGが持っていた花火をひったくると、聖の胸にドン!と押し付けた。
「花火をね、しようと思って!!べ、別に覗き見してた訳じゃないのよっ!?」
「・・・ふーん。まぁ、別にいいけどね」
明らかに信じてない聖に、蓉子は苦く笑う。
ていうか・・・皆祐巳ちゃんの事すっかり忘れてるんじゃ・・・何だか泣きそうな顔してこっち見てるわよ?
私の視線に気づいた聖が、慌てて振り返ると早足で祐巳ちゃんの元へと帰ってゆく。
「ほんとに大事なのね、祐巳ちゃんが」
ポツリとそう呟いた私に、聖が振り返って言った。
「あたりまえ!」
だって。・・・あーあ、何か・・・いいなぁ、ああいうの。
多分、聖の中で何かが変わったんだろう。あの日、火の中に祐巳ちゃんを助けに飛び込んで行ったあの日から。
いいえ、きっと初めて出逢った日から、少しづつ、ゆっくりと祐巳ちゃんが聖の中の何かを・・・変えたんだ。
だからこうして今、聖は笑ってる。とっても幸せそうに・・・。そして二人を見てて思った。
私も、あんな恋がしたい。と。
第百六十七話『花火に喩えるなら』
私達の人生なんてこの打ち上げ花火みたいなもんだ。火が点いてヒュルルーって音を立てて燃える。
そして、一瞬の花を咲かせてそして消えてしまう。でも、だからこそ綺麗だと思える。私は、そう思うんだ。
「花火はやっぱり打ち上げですよね」
今しがた大きな音を立てて儚く散ってしまった花火の残像を見上げながら、ポツリと言った。
すると、それを聞いていた聖さまが私に手持ち花火を一つくれて言う。
「私は手持ち花火の方が好きかな」
「そうですか?でも派手さに欠けるじゃないですか」
「まぁねぇ。でもすぐに終わらないじゃない」
「・・・なるほど」
確かに手持ち花火って案外地味に長持ちするもんね。特に線香花火なんていつまでも燃えてたりする。
でも、突然ポトリって落ちちゃう。
「それはそれで寂しいですよね、終わった時」
「まぁ、そうかな。でもだからこそ綺麗なんじゃない。ずっと続くと飽きちゃうでしょ?」
「そりゃそうだ」
何でもそうなのかもしれない。いつまでも続くと飽きてしまう。じゃあ恋は・・・どうなのかな?
やっぱりいつまでも続くと飽きるもんなのかな?ふと考え出した思考の渦に、私はまんまとはまり込んでしまった。
だから聖さまが何度も私を呼んだ事にすら気づかなくて。
「・・・ちゃん!・・・祐巳ちゃんってば!!もう花火終わってるよっ!」
「へ?あ・・・ほんとだ・・・見るの忘れてた・・・」
「もったいない。最後の一つだったのに」
「ごめんなさい。ちょっと考え事してたもので」
聖さまの言う通り私の手の中にあった花火はすでに消えてしまっていた。
「ねぇ、聖さま・・・恋もいつか飽きちゃうと思いますか?ずっと一緒だと・・・飽きちゃいますか?」
私の言葉に聖さまは、はぁ?って顔する。
「何言ってんの?またしょうもない事考えてたんでしょ?あのねぇ、恋と花火は全くの別物。
第一花火と比べようってのが間違ってる。花火は綺麗なだけで終わるけど、恋はそうじゃないでしょう?
毎日が同じだなんてありえないし、それが楽しいんじゃない。だから飽きるなんて事ないよ。
慣れる事はあってもね。ていうかさ、今はそんな事考えてないで、しっかり楽しみなさい」
そう言って聖さまは私の頭をよしよしって撫でてくれた。それが何だか凄く・・・嬉しかった。
周りを見渡すと、皆笑ってる。凄く・・・楽しそうだ。
「そう、ですよね。恋は・・・飽きませんよね」
「もちろん。ましてや私が祐巳ちゃんに飽きるなんてありえないし」
そう言って私の顔を覗き込んでそんな事をサラっと言う聖さま。
そんな事真顔で言われたら私は・・・カーッって顔に血が上ってゆくのが分かる。
でも、そんな私を見て聖さまは笑った。
「ほらね!やっぱり祐巳ちゃんは飽きないよ」
って・・・ああ、やっぱり私はいつまでたっても聖さまのおもちゃだ。でも、まぁ、いっか。
今が楽しければそれで!
第百六十八話『豪華絢爛』
金持ちとは、庶民には理解し難い生き物である。そして庶民もまた、金持ちには理解し難い生き物である。
私はそんな事を考えながら腕を掻いた。蚊だ。また刺された。ここは特に蚊が多い気がする。
「そりゃ祐巳ちゃん、ここはほら、思いっきり山ん中だし。そりゃ蚊も多いよ」
聖さまはそう言って私に虫除けスプレーをふってくれた。でもね、聖さま。私・・・すでに蚊にさされまくりなんです。
もうあちこち痒くて痒くてしょうがないんです。
そんな私の涙目が利いたのか、聖さまは苦笑いして今度は痒み止めを貸してくれた。
「聖さまは刺されないんですか?」
「私?うん、私はへーき。ていうか、痒みには割りと強いのかも。祐巳ちゃんは・・・刺されまくりだねぇ・・・」
うぅ・・・どうして私だけ・・・。何だかそれが悔しくて、私は聖さまを睨んで言った。
「私の血はきっと美味しいんですよ!聖さまのと違って」
「ふーん。じゃあ、味見させて?」
聖さまはそう言って私の首筋に顔を近づけてきた。
「なっ!?ちょ、せっ・・・ん・・・っふ・・・」
甘ったるい痛みが一瞬首筋を襲う。聖さまが私の喉を軽く噛んだせいだ。
それにしても、首筋を噛むなんて聖さまってば吸血鬼にでもなるつもりなのかな。
頭の中では冷静になろうとしてるのに、身体は言う事を聞いてくれない。私は身を捩って聖さまから逃れようとした。
でも、聖さまは私の首から唇を離さない。
「やっ・・・せ、さま・・・まだお風呂も入ってないのに・・・ん」
「関係ないよ、そんなの。たまにはいいじゃない」
聖さまがそう言って私をそのままベッドに押し倒そうとしたその時だった。突然、ドアをノックする音。
私は慌てて聖さまを突き飛ばして、急いで身なりを整えた。
ちなみに聖さまは・・・私に押された反動でベッドから転がり落ちて頭を床に思い切り打ち付たからって、
恨みがましい目で私を睨んでいる。
でも、元を辿れば聖さまが悪い。まだお風呂にも入ってないのに!私はそんな聖さまを無視してドアを開けた。
「お風呂、沸いたから皆で入りましょ」
蓉子さまがにっこりと微笑んで私の頭を撫でてくれた。
ていうか・・・皆が入れるほどお風呂・・・広いの?
まぁ、祥子さまの別荘だ。ある程度の予想はついてたけど、それにしたって豪華すぎる。
最早私の頭では理解出来ないほどの大金持ち。とりあえず、それだけは分かった。そして、もうきっと、何があっても驚かない。
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「祐巳ちゃんは確かにさっきそう言ったよね?なのにどうしてこんな所で固まってるの?」
裸になった私の背中をポンって叩いたのは聖さま。どうして固まってるかって?
そりゃ・・・そりゃ・・・このお風呂の大きさに決まってる。まるでどっかの旅館みたいな広さ。
いや、そりゃね、皆で入ろうってぐらいだからある程度の大きさを予想してたよ?でもさ・・・だからってさ。
たかが別荘でこの大きさのお風呂・・・普段住んでる祥子さまの自宅のお風呂って・・・一体どんな広さなのよ!?
しかも彫刻のライオンが口からお湯吐き出してるのよ?!お風呂の真ん中には何故か人魚の彫刻・・・何故・・・。
しかもどことなくその人魚が祥子さまに似てるし。金持ちの心理が理解出来ない・・・。
どうしよう、私、もしかするととんでもない所に遊びに来てしまったのかもしれない。
今更ながらそんな不安が脳裏を過ぎる。口を開けたままお風呂の入り口で固まった私に聖さまは憐れそうに言った。
「祐巳ちゃん。気持ちは分かるけど、こんな家庭は稀だから。そんなに落ち込まないで、ね?とりあえずここは楽しもうよ。
でなきゃせっかくここまで来たのにもったいないじゃない」
「そ・・・そうです・・・よね」
私は聖さまの言葉に頷くしかなかった。そして、聖さまは私に言った通りこの広いお風呂を思う存分満喫していた。
そう、それはもう、こっちが見てて恥ずかしくなるぐらいに。
「聖っ!!ちょっと、止めてよっ!顔にかかるでしょ!江利子も真似しなくていいっっ!!
ていうか、背泳ぎは止めなさいっ!!!江利子っ!」
「せ・・・聖さま・・・」
ポツリと呟いた私。そして、顔を真赤にして怒る蓉子さま。さらに、顔を真赤にする一同(これは多分違う意味で)。
聖さまと江利子さまは楽しそうにお風呂で泳いでて、私はそれを止める事ももう出来なくて。
ただ恥ずかしくて俯いている事しか出来なかった。
「いや〜面白かった!一度でいいからお風呂で泳いでみたかったんだよね!」
そんな事言って笑う聖さまは憎らしい程輝いてる。
まるで小さい時の思い出を今作っているようなそんな気さえする。
しばらくすると、聖さまは露天風呂に浸かっていた(露天風呂まであった!)私の所にやってきて、
温度を確かめながら静かに湯船に浸かる。
「聖さまってば・・・恥ずかしくて私、顔上げられませんでしたよ」
「そう?案外見惚れてたんじゃないの?私の華麗なクロールに」
「バっ、バカ言わないでくださいっ!本当に恥ずかしかったんですからねっ!」
「はいはい、ごめんごめん。もうしません。ていうか祐巳ちゃん、こうやって見たら・・・本当に沢山蚊に刺されてるね」
私の体を上から下まで確認しながら聖さまは言った。そう、そうなの!もうね、痒くって痒くって!
お風呂に入って血行が良くなったら余計に痒くなるんじゃないかって今ちょっと不安なの。
ていうか、既に今ちょっと痒いし。腕とか足とか、すでに色んな所を蚊に刺された私を憐れそうに見つめる聖さま。
「でもさ、蚊に刺された跡って・・・なんかキスマークに似てるよね」
いやらしい!聖さまはそんな事言って笑った。でもね、間違いなく首のどっかの赤い跡はキスマークですよ、絶対。
さっき聖さまがつけた奴ですよっ!!どれだけ私はそう言い返したかったか。でも、言わないでおいた。
だって、聖さまの事だ。絶対また倍にして返してくるに決まってる。
露天風呂から出た私達はそれぞれリビングでまったりとくつろいでた。
「あー・・・気持ちよかったですねぇ」
「ほんと。いいね、祥子の別荘。これが別荘か・・・別荘・・・別荘ね・・・」
聖さまは何かに思いを馳せるように遠い目で視線を泳がせてさっきからなにやらブツブツ呟いている。
ちょっと怖いよ、聖さま。そんな私達の元に瞳子ちゃんがやってきた。手には三人分のジュースの入ったコップを持って。
「飲みます?」
「うん!ありがとう!!」
私は笑顔で受け取って一気にそれを飲み干すと、瞳子ちゃんは呆れたような顔でこっちを見てる。
聖さまにもジュースを渡した瞳子ちゃんは、私の隣に腰を下ろして長い髪を指ですいた。
「明日はプールで遊ぶそうですよ」
「そうなんだ?じゃあ・・・あれが役に立つのね!」
私はこっそり持ってきた水着を思い浮かべて思わずニヤけた。それを見て聖さまと瞳子ちゃんは同じような顔して私を見てる。
「なに?気持ち悪いんだけど」
「いいえ?別に何でもありませんよ!さてと!それじゃあそろそろ寝よっかな!明日はプールだし!!」
「そうですわね。もうこんな時間ですから」
時計を見ると、既に0時を回ってる。聖さまは小さく頷くと、瞳子ちゃんのくれたジュースを全部飲んで、
皆におやすみの挨拶をして、私達はリビングを後にした。部屋に戻ると聖さまは大きな伸びをして歯を磨き出す。
私もそれに習って歯を磨くと、一つしかない大きなベッドに転がった。
初めはまさか私達まで誘ってもらえるとは思ってもみなかったから、何だか未だに実感がない。
ここが軽井沢だっていう実感が。でも、これは現実なんだよね?私は寝返りを打って聖さまに抱きつくと、
聖さまを見上げてにっこりと笑った。
「楽しいですね!」
すると、聖さまは不貞腐れたみたいに言う。
「二人きりならね」
そんな事言う聖さまだけど、ほんとは知ってる。実際は結構楽しんでるって事を。
だってさ、ほら、もう凄く・・・眠そうだったから。おやすみなさい、聖さま。また明日も・・・遊びましょうね!
私の新しい水着、見せてあげますから!!
第百六十九話『年甲斐もなくって、こういう事を言うんだろうな』
パジャマパーティーの時も思ったんだけど、私達、もういい歳した大人なんだよね。
ましてや学校の先生で、普段は皆割りときちりしてる訳。
でも、こういう所に来ると人間ってやっぱり子供に戻ってしまうものなんだ、って今心の底から思ってる私は、
突然後ろから誰かに押されて、頭からプールに突っ込んでかなり不機嫌。
「あはは!聖ってばドン臭いわね〜」
プールサイドで私を指差して笑ってるのは江利子。その隣で蓉子も呆れたように腕組してこちらを見下ろしてる。
別荘のプールは温水だった。ぬるま湯ぐらいの温度のプールだから、気持ちい。
気持ちいけど!!私を押したのは誰よ!?辺りをキョロキョロすると、物陰に隠れたお姉さまが居た。
間違いなく犯人はあの人。私はプールから上がってお姉さまを捕まえて、無理矢理お姉さまをプールに放り込んだ。
「ちょっ!せ、あんたお姉さまに向って!!」
「お姉さまもクソもありませんよ。っとにもう!」
フイとそっぽを向いた私の背中をお姉さまが睨みつけてくるのが分かるでも、私は振り返らなかった。
だって、目の前の光景に釘付けだったから・・・。
そもそも、祐巳ちゃんの様子が朝からおかしかった。何だかソワソワしてて、決して私の目を見ようとはしなくて。
私が祐巳ちゃんの水着姿を見たのは、まだ付き合う前の一度だけ。
だから祐巳ちゃんがちゃんと水着を持ってたことさえ知らなかったんだ。私はその場に立ち尽くして、
ただ向こうから歩いてくる祐巳ちゃんに年甲斐もなく見惚れていた。
小走りで走り寄ってくる祐巳ちゃんはもう、すっごい可愛い。
ましてや薄いピンク色のフリフリビキニなんて着られた日にはもう・・・。
「せ〜いさま!どうですか?似合いますか?」
笑顔でそんな事言って私を見上げる祐巳ちゃんの目が輝いていた。なんていうのかな・・・キラキラしてんだよね、目が。
いかにも私を襲って?みたいな、そんな顔してんの。いや、多分私にだけだと思うんだけどね、そんな風に見えたのは。
いつまでも返事しない私に業を煮やした祐巳ちゃんは、俯く私の顔を覗き込んでにっこりと笑った。
「あ・・・うん、可愛い可愛い・・・前から持ってたやつ?」
「いいえ。こないだ由乃さんと志摩子さんと買いに行ったんですよ!」
「・・・ふーん・・・」
つか、私・・・そんなの聞いてないんだけど・・・。私の顔を見て何かを察したのか、祐巳ちゃんの顔つきが変わった。
何だか照れたみたいに俯いて小さな声で呟く。
「聖さまには内緒にしてたかったんですよ。だって聖さまと選びに行ったら・・・」
「私と選びに行ったら?」
私はさ、てっきりすっごい可愛いこと言ってくれるんじゃないか、って心のどこかで期待してた訳。
それなのに・・・パッって顔を挙げた祐巳ちゃんが言った台詞は・・・。
「もういい歳なんだからとか言って絶対こういうの止められると思ったんですよね!どうです?正解でしょ?」
「・・・・・・・・・・」
期待した私がバカだったのか、それとも空気の読めない祐巳ちゃんがいけないのか。
まぁどっちでもいいよ、もう。とりあえず祐巳ちゃんの水着が予想以上に可愛かったから。
「でも・・・まさか聖さまがそんな水着持ってるなんて知りませんでしたよ。てっきりああいう感じの奴の方が好きかと・・・」
祐巳ちゃんは私を上から下まで眺めて、ポツリと言った。祐巳ちゃんが指差した先には令。
ちなみに令の水着はキャミソールにショートパンツみたいな、スタイリッシュな水着。
「なによ、似合わない?」
軽く祐巳ちゃんを睨むと、祐巳ちゃんの頬がポって紅く染まった。それから視線を泳がせてポツリと呟く。
「いえ・・・き、綺麗です・・・ちょっと意外でしたけど・・・。やっぱり色白いと黒って映えるんですね」
あはは、って乾いた笑いを零した祐巳ちゃんは、それからしばらく私と視線を合わせようとはしなかった。
何かにショックを受けたのか、それとも私の水着姿が気に入らなかったのか、それは分からない。
でも、祐巳ちゃんはあれからずっと由乃ちゃんやお姉さまとばかり遊んでいて、ちっとも私に構ってはくれなくて。
「・・・寂しい・・・」
「あら、あんたも一緒に遊んでくればいいのに」
「そうは言ってもね・・・祐巳ちゃんが目、合わせてくれないんだもん」
「ふられちゃったわね」
蓉子がトロピカルジュースを飲みながら私の顔を見て笑った。フン。いいよ、どうせ私は一人ぼっちよ。
本当はさ、私も皆に混じりたいよ。でも祐巳ちゃんが私を見てくれないんじゃ意味ないじゃん。
私は水着のスカートの裾をつまんで大きなため息を落とした。
「これがいけなかったのかな・・・」
そんな私を見て蓉子は笑った。
「そんな事ないでしょ!よく似合ってるじゃない。まぁ・・・普段の聖からは想像出来ないけど」
「そう?私、結構こういうの好きよ?」
「そうよね。あんた高校時代から割りとそういう水着よね」
「うん」
私の水着はセパレートのついた黒い水着。シンプルだけど、可愛い。
とてもじゃないけどフリルとかがあんまり似合わない私は、大体水着はいっつもこんな感じ。
でも、令が着てるみたいなスタイリッシュで格好いいのはあまり着ないんだよなぁ。
だから祐巳ちゃんがそのギャップに驚いたってのは分からないでもない。
普段あんまりスカートとかははかないしね。でもさー・・・あんなにあからさまに避ける事ないじゃん。
私はもう一度フンって鼻を鳴らして立ち上がった。
これはもう、何が何でも祐巳ちゃんに慣れてもらわなければ!そう思ったんだ。
「祐巳ちゃん、ちょっと」
私は楽しそうに遊んでる祐巳ちゃんを手招きして呼んだ。祐巳ちゃんは怪訝な顔してこっちに寄って来る。
「はい?何です?」
「私の格好、そんなに嫌?」
単刀直入に聞いた私を驚いたような顔で見上げる祐巳ちゃん。私はそんな祐巳ちゃんの手を引いて、更衣室に向った。
「ちょ、聖さま!?」
「そんなに私の格好が嫌なら脱ぐ。もっと令みたいな格好いいやつのが良かった?
ちゃんとハッキリ言ってくんなきゃ分かんないよ。そんな風に黙って避けられるのは一番嫌いなの」
更衣室の壁に祐巳ちゃんを押し付けると、祐巳ちゃんはまた私から視線を逸らそうとする。
「だから、どうして目、逸らすのよ?そんなに嫌なの!?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・もういい・・・・・・・・」
大きなため息を落として更衣室を出ようとした私の腕を、祐巳ちゃんが掴んだ。真っ直ぐに私を見上げてくる目は何故か涙目。
おまけに頬が真赤。視線は・・・私の胸にある。
「なによ?」
「だ、だって・・・聖さま・・・私の知らない人みたいで・・・。
知ってたけどその・・・胸とか・・・おっきいしスタイルいいし・・・だからその・・・そういうの着るとその・・・余計に・・・だから・・・」
煮え切らない祐巳ちゃん。私はそれにいい加減イライラしてきたのは言うまでもない。
言いたい事があるならハッキリ言えばいいのに。
そんな私の心を理解したのか、祐巳ちゃんはキッって顔を挙げた。
「だって!まさか聖さまがそんな水着着るなんて思ってもなかったんです!!
聖さまはもっと、令さまみたいのが好きかな?とか勝手に思ってて、だからちょっとビックリしたんですよ!!
別にそういう水着が似合わないとか、そういう事言ってるんじゃなくて、似合いすぎてて戸惑ったんです!!!!!
聖さまは色素も薄いし、スタイルもいい。だから・・・隣を歩くのが・・・ちょっとだけ恥ずかしかったんですよ・・・。
私、聖さまが喜んでくれるかなと思ってこの水着買ったけど、
でも・・・聖さまがあまりにも・・・綺麗だから・・・だから・・・その・・・」
「・・・その、なに?」
「皆に・・・見せたくないとか・・・思っちゃって・・・こんなの私の勝手な独占欲だし、
ドキドキして聖さま見れないし・・・もうどうしたらいいか分かんなくなっちゃって・・・ごめんなさい。
似合わない訳ない訳じゃないし、そういうのが嫌いな訳でもないんです。だから・・・怒らないで・・・」
最後はもう、涙がボロボロ流れてた。祐巳ちゃんが泣いてた。でも私には分かんなかった。
だって、そんなの当たり前だと思ったから。好きだから誰にも見せたくないなんて、そんなの当たり前だと思うから。
でも祐巳ちゃんにとっては、そんなの初めてだったんだろう、きっと。そんな風にヤキモチ妬くのが。
何だかそれが凄く愛しくて、気付いたら私は祐巳ちゃんを抱きしめていた。
「バカ。だからって無視することないでしょ?」
「はい・・・ごめんなさい・・・」
「私だって同じ。出来れば祐巳ちゃんにそういうの着て欲しくないわよ。
でもさー・・・祐巳ちゃんには似合う物着て欲しいって気持ちもあるのよね。
だから矛盾してるけど、私は祐巳ちゃんにはそのままで居てほしい。そしたら私は祐巳ちゃんを自慢できるし。
祐巳ちゃんもだから、私を自慢すればいいよ。私の彼女、綺麗でしょー?って」
私の言葉に祐巳ちゃんはほんの少し笑ってくれた。
「・・・そうですね。もったいない・・・ですもんね」
「そうよ。もったいないじゃない。せっかくこんなとこ来てんのに、楽しまなきゃ損でしょ」
「・・・はい」
「それに・・・祐巳ちゃんは私に触ることだって出来る唯一の人なんだからさ。もっと自信持ってよ」
「はい!」
「私だってねー、毎日そんな事思ってるわよ。っとにもう!」
フンってそっぽ向いた私の顔を見上げて、祐巳ちゃんが呟いた。
「ごめんなさいってば。何でも言う事聞きますから」
「そうねー・・・じゃあ・・・キスして。それで許してあげる」
そう言って私は目を閉じた。しばらくしてどこかぎこちない祐巳ちゃんの唇を感じる。
私はそのまま祐巳ちゃんを抱き寄せて、倍ぐらいのキスを返してやった。
「んっ・・・っふ・・・せ・・・さま・・・」
目を開けると、切なそうな祐巳ちゃんの顔。何だかんだ言っても、やっぱり祐巳ちゃんは嬉しい事言ってくれる。
そっとそのまま祐巳ちゃんの胸に触れると、祐巳ちゃんの身体がピクンと震えた。
「んっ!・・・やぁん・・・ダメですよ」
「いいじゃん。どうせ誰も来ないって」
そのまま手を滑らせて太ももを撫でると、祐巳ちゃんは首を小さく振る。でも、そんなには嫌がってない。
それにここまでして今更止めるとか・・・そんなの私、耐えられないし。
首筋から胸元にゆっくり唇を下ろしてくと、太ももを撫でていた手をちょっとづつ上にズラしてゆく。
「ふぁ・・・んぅ・・・」
「何でも言う事聞いてくれるんでしょ?」
「で・・・でもぉ・・・」
水着がすでに濡れてるから、祐巳ちゃん自信が感じてるかどうかは分からない。
中指をそっと立てると、微かな水音が更衣室に響く。
その音が何だか妙にいやらしくて、私は祐巳ちゃんの首筋に何度もキスして・・・その時だった。
「せ、聖さまっ!?祐巳っっ?!こ、こんな所で一体何を・・・」
「さ、祥子さまっ?!」
突然の声の主は、祥子だった。更衣室の入り口のところで口を開けてこちらを見たまま動かない。
そんな祥子に気付いて私の手から逃げようとする祐巳ちゃんを、私は離さなかった。
「邪魔だよ」
ポツリと呟いた私の一言に、祥子はようやく我に返ったように祐巳ちゃんを見て手を伸ばす。
「祐巳っっ!こちらにいらっしゃいっっっ!!!」
「え!?え、ええと・・・」
祥子の言葉に祐巳ちゃんはビクンと肩を震わせた。私と祥子を交互に見て、最後にチラリと私を見る。
「ダ、ダメです。私・・・聖さまと一緒にすぐ戻りますから・・・だから・・・」
そう言って祐巳ちゃんが私の人差し指をギュって握った。
「いいよ。一緒に戻ろ」
何だか間に挟まれた祐巳ちゃんが可哀想で、仕方なく私は祐巳ちゃんの手を引いて歩き出した。
それにホッとした表情を浮かべた祐巳ちゃんは、嬉しそうについてくる。まぁ、全然嬉しそうじゃない祥子はこの際置いといて。
祥子は悔しそうに私達の先をスタスタと歩いてゆく。だから私は、祐巳ちゃんにだけ聞こえるような小声で呟いた。
「ほんっと、お邪魔虫よね」
「聖さまっ!そんな事言っちゃダメですってば!」
祐巳ちゃんが困ったように小声で私を窘めた。
そんな祐巳ちゃんの台詞に俯いて小さく笑った私を、怪訝な顔して祐巳ちゃんが見てる。
誰に邪魔されても別にいいけどね。どうせ続きは夜するから。
さらに笑った私を今度は祥子まで振り返って睨みつけてくる。何だかそれがおかしくて、思わず声を出して笑ってしまった。
第百七十話『幸せボケ』
聖さまは美人。頭もいい。正直、どうして私となんて付き合ってるんだろう?って時々思う。
私は今日、それを再確認してた。だって聖さまが街中とか歩いたら色んな人が振り返って聖さまを見る。
ましてやこんな・・・こんな格好された日にはもうっっ!!!
私は両手で目を覆いつつ、指の隙間から見える聖さまに見惚れてた。
「祐巳ちゃ〜〜〜ん!!こっちこっち〜〜〜!!」
蓉子さまとSRGと大きなビーチボールで遊んでた聖さまがこっちに向って手を振ってる。
私は笑顔で手を振り返して出来るだけ微笑んでみせた。
さっき聖さまは、私の事自慢すればいいよ、とか何とか言ってたけどはっきり言ってね、そんなの無理だよ!
聖さまは気付いてないんだ。自分がどれだけ魅力的かって事が。
「はぁぁ・・・もう自分が嫌・・・」
何やってんだろなー私。まさかこんなにも水着一つに戸惑うなんて思ってもみなかった。
いつもいっつも聖さまが言う言葉の意味がちょっとだけ分かった気がする。
『祐巳ちゃんは無防備すぎるのよ!』
あの言葉が今、ありえないぐらい私の頭の中でリピートされてるもん。聖さま・・・いっつも私の事こんな風に思ってたんだ。
そりゃね、皆聖さまには興味ないでしょう。だって、きっとただの同僚だとしか思われてないだろうし。
でもさ・・・なんかさ・・・ヤキモキするよね。深い溜息をついた私の隣に誰かが座った。
「やぁ、君は遊ばないのかい?」
「柏木・・・さん・・・あ、ありがとうございます・・・」
ああ、やだやだ。苦手なのよ、この人・・・。柏木さんは私の目の前に美味しそうなピンク色のジュースを置いて、
自分は鮮やかな水色のジュースを持っている。いつからだろう。男の人のこういう格好を見てもドキドキしなくなったのは。
昔は段々大人っぽくなる祐麒を見てもドギマギしてたのに、今はもう何も感じない。
「どうしたんだい?溜息なんてついて」
「いえ・・・別に・・・」
ていうか、早くどっか行ってくんないかな・・・内心そんな事考えてることなんか気付きもしないんだろうな、この人。
別に嫌いなわけではないんだけどなー。何かが苦手なのよ。もしかすると聖さまに散々悪口聞かされてたからかなぁ。
そう考えると何だか柏木さんが可哀想な気もしないでもない。私達は何も話さなかった。
ていうか、話すきっかけも話題も何も見つからなくて。その時だった。聖さまが向こうから物凄い勢いで歩いてきて、
私の前まで来ると、ガシって私の腕を掴んだ。
「柏木っ!!お前、何いっちょまえに祐巳ちゃんの隣なんかに座ってんの?そこは私の席!!」
「いっちょまえにって・・・君ね、僕が祐巳ちゃんと話しちゃそんなにいけないのかい?」
「ああ、そうだよ。祐巳ちゃんは私の。あんたと話したら祐巳ちゃんの口が減る」
「せ、聖さま・・・」
口が減るって・・・なに?よく分かんないけど、とりあえず聖さまは私の隣に柏木さんが居る事が相当腹経ってるみたいで、
最早言ってる事の意味もよく分かんない。
聖さまが物凄い剣幕で柏木さんを怒るから、柏木さんは仕方なく祥子さまの所に行ってしまった。
そして私はと言えば・・・聖さまに腕をつかまれたまま、プールに拉致されて・・・。
「もう!祐巳ちゃんもダメじゃない!私の傍に居なきゃ!!」
「はあ・・・ていうか、どうしてそんなに怒ってるんです?」
「秘密っ!」
「はあ?」
一体なんだっていうんだろう。普段あんまりこんな風にあからさまに嫉妬したりしないのに。
でも内心ちょっとだけそれを心地よく感じてる自分も、確かに居るんだけど。
私はとりあえず聖さまに連れられて皆の所まで来ると、意外にこのプールが深いことを知った。
つか・・・あ、足・・・届かないんだけど・・・。プールの深さは聖さまの頭が出るぐらい。てことは、私は完全にもぐっちゃう訳で・・・。
「せ・・・さま・・・あ、足・・・つかな・・・ぶくぶくぶく・・・」
「ああ、そっか・・・祐巳ちゃんちっちゃいからー」
そう言って私の腰を掴んだ聖さまは、おぼれそうな私を助け出してくれた。でもさ、これじゃ遊ぶどころか・・・私・・・おぼれちゃう。
「まぁいいじゃない。私に捕まってれば?」
「え!?で、でも・・・」
てことは何!?もしかしてずっとこうやって聖さまにしがみついてろって・・・そういう事??
それはそれで・・・想像した私はうっかりニヤけてしまって、皆に気持ち悪がられたのは言うまでもない。
しばらく聖さまにしがみついてた私は、なにやら真剣に遊び出した聖さまに置いてきぼりにされて、
気がつけば由乃さんの浮き輪に捕まっていて・・・。なるほど、聖さまってば由乃さんと私が一緒に居る分には怒らないんだ。
まぁ・・・分からないでもないけど。由乃さんは足を水面に出してプカプカしてたけど、ふと私の方を振り返った。
「時に祐巳さん。祐巳さんはほんと、愛されてるよね」
「・・・は?」
由乃さんの突然の言葉は、私の耳には最初届かなかった。目が点の私を見て笑う由乃さんと私の元に、
スイマー志摩子さんがやってくる。ちなみに、潜水で。・・・何故・・・?
ザバァって水から顔を出した志摩子さんは、見事な立ち泳ぎで私達の輪の中にすんなりと溶け込んでくる。
「泳がないの?二人とも」
「「泳げないの」」
「ああ・・・そう言えば・・・」
志摩子さんが小さく笑った。多分、前に三人で行ったプールを思い出したんじゃないのかな。
「何の話をしてたの?」
「ん?祐巳さんがね、聖さまに愛されてるよねって話してたんだ」
由乃さんの言葉に、志摩子さんはまた笑った。今度は何を思い出したのか、声まで出して笑ってる。
その拍子に完璧だったはずの志摩子さんの立ち泳ぎが崩れ、みるみるうちに沈んでゆく。
私と由乃さんは慌てて手を伸ばして志摩子さんの手を掴むと、どうにか引っ張り上げた。
「ごほっ・・・だ、大丈夫よ、ありがとう・・・」
「び、びっくりした・・・ところで・・・どうしてそんなに笑うの?」
私の質問に由乃さんと志摩子さんが顔を見合わせ、向こうで滝に打たれて遊ぶ聖さまを見てまた笑い出す。
「ねぇってば!一体何なの!?」
ちょっとだけイライラした私の声に、二人は小さな咳払いをした。どちらが話し出すか迷ってるのか、
さっきからずっとこうやって目配せしてる。やがて口を開いたのは、やっぱりというべきか、由乃さんだった。
「あのね、さっき祐巳さん柏木さんと一緒に居たでしょ?」
「う・・・うん」
「それを見た蓉子さまがね、言ったの。冗談で、聖よりもお似合いなんじゃない?って」
由乃さんは蓉子さまの口調を真似て話してくれた。でも、ぶっちゃけあんまり似てない。
それを引き継ぐかのように今度は志摩子さんが話しだす。
「それを聞いたお姉さまはそこでようやく気付いたの。祐巳さんの隣に柏木さんが居る事。
で、それに追い討ちをかけたのが・・・」
志摩子さんの視線がチラリと由乃さんの方を向いた。由乃さんは笑いを必死になって堪えながらどうにか頷いて話し出す。
「それに追い討ちをかけたのが令ちゃんなんだけどね。
令ちゃんってば、ああやって見ると普通にお似合いのカップルですよね、ってーーー!!!
わざわざ聖さまの前で言っちゃってさーーー!!!
そしたら聖さま、突然令ちゃんの頭一発殴って、そのまま無言で泳いで行っちゃって!!残された皆は唖然よ。
もうね、私おかしくておかしくて!だって、あんなにも必死な聖さま初めて見たからさー!!」
すんごい早かったんだから!!そう言って由乃さんは浮き輪をバシバシ叩きながら笑った。
「お姉さまね、祐巳さんに似合うのは自分しか居ないってきっと思ってると思うの。
だから余計に腹が立ったんでしょうね。祐巳さんの隣にはいつも自分が居たいんだわ、きっと」
どうしようもない方よね、そう言って志摩子さんも笑った。
「そうだったんだ・・・でも何も殴らなくても・・・」
令さま可哀想に・・・とんだとばっちりじゃない。それに八つ当たりされた柏木さんも。二人とも可哀想だけど・・・でも、嬉しい。
「・・・そうだったんだ・・・」
私はもう一度ポツリと呟くと、由乃さんの浮き輪からそっと手を離した。
「ちょっ!祐巳さん!?」
「わ、わたっ、ガボっ!!い、行って・・・ブクブク・・・く・・・ガハ!!るっ!!!」
「ちょ、待って!!泳げないんでしょ!?」
由乃さんの声が聞こえたけど、私はそれを無視した。どうにか手を前に出して足をバチャバチャさせると、かろうじて進む。
ああ、こんな事ならもう少し練習しておけば良かった・・・バタ足。
それでも私は必死に泳いだ。泳いで泳いで泳ぎまくった。でもね・・・やっぱり泳げない人間って、そもそも浮かないのよね。
どんなに足を動かしても沈んじゃう。それもどんどん・・・ヤバイ。このままじゃ確実に私・・・。
『も・・・ダメ・・・』
水中で目を開けると聖さまのセパレートが見えた。手を伸ばしてそれに触れた瞬間・・・。
「わわわっ!!!な、何??ゆ、祐巳ちゃんっっ?!」
私は聖さまのセパレートを毟り取って、そしてそのまま沈んでいて・・・。
「がはぁ!!」
誰かに助け出されて次に目を開けると、私は何故か蓉子さまの腕の中に居た。辺りをキョロキョロすると聖さまが居ない。
「せ・・・聖・・・さまは・・・?」
「し・た」
蓉子さまはプールの中を指差して笑いを堪えるのに必死。私が蓉子さまの指先を辿ってプールの中を覗こうとすると、
ちょうど聖さまが頭をプールから出して、私をキッと睨む。
「あのさ!スキーの時も言ったんだけどさ!!
どうして・・・どうして祐巳ちゃんは自分が危なくなったら、とりあえず私を掴む訳!?」
「え・・・えっと・・・こ、怖いから・・・」
「私はそのおかげでいっつも恥ずかしい思いすんの!!もう!!」
そう言って聖さまは私が引っ剥がしたセパレートを腰に巻くと、蓉子さまの腕の中から私の腰を当然のように引き寄せた。
「ったく!泳げないなら呼びなさいよね。あ、ありがとね、蓉子」
「いいえ、どういたしまして。それにしても祐巳ちゃん・・・柔らかいわねー・・・太ってる訳でもないのに・・・羨ましい・・・」
蓉子さまは私を上から下まで眺めて本当に羨ましそうに呟いた。そんな蓉子さまに聖さまは淡々と言う。
「ま、それが祐巳ちゃんのいいとこの一つよね。でも・・・あんたはその感触を早く忘れなさい。いいわね?」
「はいはい。ワガママなんだから」
ヤレヤレって感じの蓉子さま。そんな私達のところにやってきたSRG。
「なになに〜?何の話〜?」
「いえ、祐巳ちゃんがね、柔らかくて羨ましいって話をしてたんですけど・・・」
「あら、蓉子ちゃんだって柔らかいでしょー?」
蓉子さまの言葉にSRGがにっこりと微笑んで言った。そうだ!SRG!!ここはチャンスですよ!!
私の思考が分かったのか、聖さまは無言で私の頭に軽いゲンコツを落として私を窘める。
でも、SRGの気持ちなんて全く知らない蓉子さまはSRGの言葉にフフっと哀しげに笑う。
「そうでもないですよ。私、結構筋肉質なんで」
そう言って蓉子さまは力こぶを作ってSRGに見せた。それを見たSRGは多分何かを期待したんだろう。
そっと蓉子さまの力こぶに笑顔で触れて・・・見る見る間に表情が変わって・・・。
「ほらーそんな事な・・・あ・・・あら?・・・ほ、本当ね・・・硬い・・・わね・・・」
「でしょう?だから祐巳ちゃんが羨ましくって」
「で、でも!腰とかは流石に・・・ねぇ?」
SRGは何かを求めるような顔で私達の顔を見た。もちろん私は頷いたよ。でも聖さまは・・・。
「どうですかね。案外全身カッチコチなんじゃないですか?本人がそう言うんだし」
あっ!聖さまのバカ!!!その言葉に蓉子さまは聖さまをキッって睨んだ。もちろんSRGも。
「失礼ね!私は鍛えてるの!幸せボケしてるあんたとは違ってね!!」
「そうよそうよ!たとえ蓉子ちゃんが隠れマッチョでも私全然気にしないわよ!!」
あ・・・SRG・・・それはちょっと・・・私はチラリと蓉子さまを見た。
すると、案の定蓉子さまの怒りの視線はSRGに注がれてて・・・。それに気付いたSRG。
「ち、違うってば!今のは例えばの話!例えば、よ!?」
「ええ、そうですね!」
蓉子さまは、それだけ言ってそのまま泳ぎさってしまった。それはそれは綺麗なクロールで。
「SRG(お姉さま)の・・・バカ・・・」
私と聖さまの言葉にSRGはガックリとうな垂れた。もう、ほんと!ダメじゃない!!絶対気にしてたんだよ、蓉子さま。
実は腹筋とか割れてんのかもしんないけど、それは言っちゃダメだよー!!
そもそも、腕触った時点であの顔はないよー!!あれじゃあ蓉子さまがあんまりにも可哀想じゃない。
「ああ、どうしよう・・・祐巳ちゃん!!」
「そう言われましても・・・」
「どうしたらいいと思うー?せーいー!!」
「・・・どうもこうも・・・謝るしかないと思いますけど」
呆れたような顔した聖さまを見て、SRGは頷いた。そして蓉子さまにも引けをとらない見事なクロールで蓉子さまの元へと向う。
残された私は聖さまと顔を見合わせると、小さな溜息を落とす。
「恋愛って・・・大変ですね」
「全くだわ。特にあの二人は・・・っそれにしても・・・蓉子の奴、言いたい放題言ってくれて」
そう言って呟いた聖さまは私を見て小さく笑った。私もそれにつられてつい笑ってしまう。
「幸せボケか。でも・・・一番大事な事よねぇ?」
「そうですよ。一番幸せな事です」
「たとえ・・・スカート剥ぎ取られてもね・・・」
「うっ・・・」
チラリと私を見た聖さまの笑顔が怖い。でも、私達はいつもこうやって笑ってられるから・・・別にいっか。
第百七十一話『青い空』
祐巳さまは、私など見てない。そんなの分かりきってたし、完全に振られた。だから今はもういいお友達のはず。
それでも、私はまだ心のどこかに未練があるんだろう。だって、いつもいつも祐巳さまの心配ばかりしてしまうから。
私は祥子さまに貸してもらったテニスコートに着替え、そのスカートのあまりの短さに言葉を失ったまま、
鏡の前で突っ立っていた。ヤバイ・・・かなり短い・・・これは私の身長のせいか、それとも皆・・・こんななのか。
「可南子さん、着替え終わりまし・・た・・・あら・・・」
瞳子さんだった。私の姿を見て口元を押さえ、やっぱり言葉を失ってる。そうか・・・やっぱり皆はこんなにも短くないのか・・・。
大きなため息を落とした私を置いて、瞳子さんはそのままどこかへ行ってしまう。
瞳子さんといえば、あの日以来お互い顔を合わせてもあまり話さなかった。何を話せばいいのかも分からないし、
話題も無い。何となく私が避けていたのかもしれない。瞳子さんはとても勘のいい人。
そんな私の心を見透かしていたのかもしれないけど、私にはそれがちょうど良かった。
それにしても・・・ああ、どうしよう・・・。こんな格好で人前に出られない。
パンツの方は皆に取られたし、今更変えてとも言えないし・・・。
私はその場にしゃがみこんでもう一度大きなため息を落とした。と、そこへまた瞳子さんがやってくる。手に何か持って。
「可南子さん、良かったらこれ・・・下に穿いてみたらどうかしら?」
そう言って手渡されたのはスパッツ。なるほど、瞳子さんはこれを取りに行ってくれてたのか。
私はそれを受け取ってスカートの下に穿くと、鏡の前に立って振り返った。
「ありがとう、これで外に出られる」
「別に・・・そんな格好でウロウロされると目の毒だと思ったから貸しただけですわ!
ほ、ほら!行きますわよ!皆待ってるんですから!!」
「・・・・・・」
お礼を言っただけなのに、どうしてそこまで言われなきゃならないんだろう・・・。何となく腹立つけど・・・まぁいいか。この際。
テニスコートに出ると、そこには既に皆集まっていた。こんな時、やっぱり一番に目が行くのは・・・祐巳さまだ。
祐巳さまは聖さまとお喋りしてて私には少しも気付いてくれない。それでも別に良かった。
こうやって遠くから眺めてるだけでも・・・。
「また祐巳さま・・・ですか」
「・・・・・・・・・・」
私の隣を歩いていた瞳子さんが私の視界に無理矢理入り込んできた。私を見上げ、勝気な眉を吊り上げる。
「別にかまわないでしょ?見てるだけなんだから」
「別に構いませんわよ。見てるだけなら」
あんなにも聖さまと祐巳さまの仲を反対した人とは思えないほどの瞳子さんの言葉に私は少しカチンとした。
「瞳子さんに心配していただかなくても、私はもう完全に諦めましたから」
「そう、それは良かったですわ。だったら、もう少しお友達のように振舞ったらどうです?
あからさまに祐巳さまを避けたりしないで」
「それはっ・・・」
図星だった。私は祐巳さまを避けていた。ずっと。
祐巳さまが何かを言いかけるたびに、私は無理矢理用事を思いついて逃げていたのだから。
私が何か言いかけるよりも先に、瞳子さんの口が開いた。
「そりゃ・・・今すぐに忘れろとは言いませんけど」
「・・・はあ・・・」
これはもしかして・・・私を心配してくれてるんだろうか?
いつまでも祐巳さまを追ってたって、一生手に入らない事なんて無いって心の中では分かってるのに、
いつまでもそれに縋りついてる私を・・・。
「心配・・・してくれてるんですか?」
ただ純粋に思ったことを口にしただけなのに、何故か瞳子さんの顔は真赤。
「ど、どうして私があなたの心配なんかっ!!も、もう!私先に行きますから!!」
そう言って小走りに駆けてく瞳子さんの後姿を、私は首を傾げて眺めていた。本当に不思議な人だ、瞳子さんって。
お礼を言ったら怒られるし、心配してくれたのかと思っても怒る。一体何だっていうんだろう・・・。
それにしても・・・祐巳さま・・・可愛い・・・。
図体の大きい私とは違って華奢だから、あんなにも短いテニスコートもよく似合ってる。
ミニスカートが風でめくれ上がる度に顔を真赤にしてスカートを押さえる祐巳さま。それを心配そうに見守る聖さま。
あの二人はやっぱりお似合いだと、今は純粋にそう思える。
だって祐巳さまを見る聖さまの顔は、私達には絶対にしない顔だから。
「さて!では皆さん、リリアン教師陣によるテニス大会を開始します!」
蓉子さまが嬉しそうに大きな声で叫んだ。それにノリノリなのはSRGと由乃さまだけ。
他の皆は何となく嫌そうな顔。でも、その気持ち・・・痛いほどよく分かる。
だって、昨日プールで散々泳いで皆絶対疲れてると思うから。
出来るなら今日はゆっくり休みたかった。普通に山の中で鳥の声とか聞きながら昼寝でもしてたかったのに。
何を思ったか、蓉子さまは朝一番に嬉しそうに言った。
『そうだ!今日は皆でテニスしましょ!!』
皆の無言の反対を押し切って、蓉子さまはてきぱきと祥子さまに指示。祥子さまは苦笑いでそれに答えていた。
そして何となく私はこのリリアンという学校の特殊さが教師達からきているのだと知って、
今日初めてそれが一部の教師によるものだという事も知った。あんまり知りたくはなかったけど。
そんな訳で私は恥ずかしいぐらい短いスカートを穿いてる訳だ。
「さて、と。じゃあテニスを始める前に、今日のテニス大会の説明でもしときましょうか。SRG、お願いします」
「はいな。えっと、まず、テニス大会はタッグ戦で行います。皆、それぞれ好きな人とパートナー組んでちょうだいね。
ちなみにトーナメント戦で、優勝した人には素敵な賞品が!で・も。ビリの人にはそれなりの罰ゲームがありますからね!
皆、心してかかってちょうだい。こんなものかしらね、蓉子ちゃん」
「ええ、ありがとうございます。それじゃあ始める前に準備運動とかちゃんとしときましょうね」
蓉子さまが嬉々として皆を横一列に並べ始めた。それに仕方なく付き合う私達。
私の隣には何故か瞳子さんが居て、私を見上げてボソリと言う。
「蓉子さまも一応、伝説の薔薇様だったの。昔は・・・あんなじゃなかったはずなんだけど・・・」
「そうなんですか?私はてっきり昔からあんななのかと・・・」
「いいえ、違いますわ。もっとこう・・・ああ、何て言ったらいいのかしら。とにかく凄い人でしたわ・・・」
瞳子さんは夢でも見るみたいにボンヤリと空を見上げて笑みを零した。
「聖さまにしてもそうだったけど・・・案外そんなものなのかもしれませんわね」
「?」
「私が見てたのは、ただの偶像でしか無かったって事ですわ。だって、あの頃の蓉子さまや聖さまや江利子さまよりも、
今のほうがずっと・・・楽しそうですもの」
そう言って瞳子さんはキビキビ動く蓉子さまを見て笑った。本当に楽しそうに。
私は・・・それを聞いて何も答える事が出来なかった。それは、私が最近ずっと思ってた事だったから・・・。
「偶像でも・・・それでも、私は・・・好きだった」
誰にも聞こえないように呟いたつもりなのに、瞳子さんはクルリと私を見上げてにっこりと笑う。
「それでもいいじゃありませんか。今はもう、本当の祐巳さまを知ってるんですから。
偶像を好きだった時よりもずっと、今のほうが幸せだとは思いません?」
本当の祐巳さまを知って?私は首を傾げた。そんな私に瞳子さんは今度は口の端だけ上げて笑う。
「その人を知った時、また違う感情が湧くという事も私はあると思いますよ」
祐巳さまを知って最初私はそんなのは祐巳さまじゃないと言った。でも、今はどうだろう。
少なくとも、恋愛対象ではないけど前よりももっと祐巳さまを好きになった。
心から欲しがったあの頃とは違う感情。近くも遠くも無い距離を心地よく思って、そして笑ってられる。
ここから離れたくなかった一番の理由は、祐巳さまじゃなくて、ここがリリアンが好きだったから。
私の世界に、いつの間にか祐巳さま以外のモノが入り込んできてたって事。
聖さまに酷い事をした私を、皆はまた受け入れてくれた。祐巳さまでさえも。そんな私が祐巳さまに抱いたのは、
好きという気持ちを遥かに超えた尊敬だった。憧れ・・・だったんだ。あんな人になりたい。私はいつか、ああなりたい。
夏の空はどこまでも澄んでた。青く抜けたような空が、どこまでも続いてる。あの日、聖さまに言われた、
自分の道を歩きなさいって言葉。私は今、ようやくその言葉の意味が理解できたような気がした。
「そう・・・かもしれません。ずっと悩んでた謎がようやく解けた気分ですよ。ありがとう、瞳子さん」
瞳子さんを見下ろして、久しぶりに笑った。そんな私を見て瞳子さんはまた顔を真赤にする。
でも、今度は逃げずに俯いただけだった。
「わ、私だって可南子さんと同じような間違いをおかしてただけですから。
だ、だからよく分かっただけで・・・べ、別にお礼を言われるような事は何も・・・ありませんわ」
「いいの。私が勝手にお礼が言いたかっただけなんだから。これの時も」
そう言ってスパッツを指差した私を見て、瞳子さんははにかんだように笑う。
あれ?瞳子さんって・・・こんな顔・・・してたっけ?初めて見たような瞳子さんの顔に、思わず私は息を飲んでしまった。
さっき瞳子さんの言ったとおりだ。私が今まで見てきた瞳子さんもまた、ただの偶像でしか無かった。
だって、瞳子さんはほら・・・こんなにも可愛らしい人だったのだから。
「ペア・・・組みませんか?」
私はそう言って手を差し出した。そんな私の手を驚いたように見つめた瞳子さんは、フイとそっぽを向く。
でも、手はしっかりと私の手の平の上に乗せられていて・・・。
「ほんとはお姉さまと組むつもりでしたけど、生憎お姉さまは審判だそうなので、仕方ないからあなたと組んで差し上げますわ」
「・・・あ、ありが・・・とう・・・」
あともう一つ。この人・・・素直じゃない。でも、本当は多分・・・。私は添えられた手を見て、ほんの少し笑ってしまった。
「どういたしまして」
ちょっとだけ怒ったような言い方をする瞳子さんが何だか可愛らしい。きっと、私が笑ったから怒ったんだろうけど・・・。
私は誰かを守りたいナイトタイプ。瞳子さんはお姫様タイプ・・・実は、案外相性はいいのかもしれない。
あ!別に好きとかそういうんじゃなくて、ただ相性だけで言ったらの話だけど。
なんて一瞬でも思ったと知ったら、また怒るんだろうな。私はそんな事を考えながら、もう一度空を見上げた。
雲ひとつない青空は、まるで今の私の心の中みたいに澄んで、青く光ってた。
第百七十二話『目差せ!ウィンブルドン!!』
なんてね・・・言ってみただけ。
「テニスか・・・久しぶりすぎて思い出せないよ」
隣で聖さまがポツリと呟いた。私はそれを聞いてハッって息を飲んだ。
「聖さまはテニス・・・したことあるんですか!?」
「学校の授業でね。祐巳ちゃんも一回ぐらいはしたことあるでしょ?」
「いいえ。全く」
私は自信満々に答えた。だってさ、テニスだよ?テニスなんて、昼下がりに奥様たちがやるもんじゃないの?
そんな私の中の間違えたイメージを伝えると、聖さまに爆笑されてしまった。
「どんなイメージよ、それ。卓球とか野球とかと一緒にテニスしたことあるでしょ?」
「無いですってば!何なら可南子ちゃんに聞いてくれてもいいですよ?」
可南子ちゃんと私は同じ高校出身。だから私がテニスした事が無ければ、可南子ちゃんだってしたことないハズ!
な・の・に。
「テニスですか?ありましたよ、体育の授業で」
「ほら、みなさい。あるじゃない」
「う・・・うそ・・・」
私・・・全然覚えないんですけど・・・私はその場で固まった。
正面でSRGと蓉子さまがさっきから一生懸命ラジカセで何かやってる。多分、ラジオ体操かなんか始める気じゃないのかな。
でもきっと、ラジカセが壊れてて音が出ないんだ。そうに決まってる。そこへ江利子さまが業を煮やしてその輪に加わった。
私達はそれを見ながらまた話し出す。
「それにしても・・・そうか、祐巳ちゃんはテニスした事ないのか・・・」
聖さまは何か考えるみたいにポツリと言った。そしてチラリと私を見て次に瞳子ちゃんと可南子ちゃんに視線を走らせる。
私ね、チラっと嫌な予感がしたんだよね。なんとなくこの後の聖さまの台詞が聞こえたような気がして・・・。
「ねぇ、モノは相談なんだけど。可南子ちゃんか瞳子ちゃん。どっちか私と組まない?」
「「「はあ!?」」」
私達三人の声がピタリと重なった。ていうか・・・い、今、何て言いました??せ、聖さま????
そんな私の心の声なんて絶対聖さまに聞こえてなんてない。
「ちょ、待ってください聖さま。そうしたら誰が祐巳さまと組むんです?」
「そうですよ!それに、私はもう可南子さんと組むと約束を・・・」
「ていうか、どうして聖さま私と組んでくれないんですか!!」
私達三人の言い分は少しづつズレてたけど、この際そんな事はどうでもいい。
どうして聖さまは私と組んでくれないのよっっ!!!私は手をグーにして聖さまを睨み付けた。
でも、そんな私を見て聖さまはにっこり笑顔。
「祐巳ちゃんと組んだら、確実に負ける。ビリは絶対にい・や」
「なっ・・・」
そ、そんな理由で・・・つか、どうして私と組んだらビリ確実みたいな言い方?それってかなり失礼なんじゃ・・・。
「聖さま!!そんな言い方したら祐巳さまが可哀想です!」
「だったら可南子ちゃんが組んであげてよ」
聖さまの言葉に可南子ちゃんが、うっ、って呟いた。それを私はしっかりと聞いてしまったんだ。
「もういい!!二人とも嫌いっ!!!瞳子ちゃん、一緒に組もっ!!」
そう言って私は瞳子ちゃんの腕をガシっと掴んで、そのままズルズルと聖さまたちとは反対側に瞳子ちゃんを引きずって行く。
「ちょ、ま、待ってくださいよ!どうして私が祐巳さまと・・・」
「私じゃ嫌なの?そっか・・・瞳子ちゃんも私と組むのは嫌なんだ・・・」
ションボリとうな垂れた私を見て、瞳子ちゃんが慌てたように言う。
「べ、別に嫌な訳ではありませんが・・・祐巳さま・・・その、大丈夫・・・なんですか?」
「なにが?」
「だって・・・テニスしたことないんでしょう?」
「うん。でも見た事ならあるよ!だから大丈夫!!」
「・・・はあ・・・見た事・・・ですか・・・」
瞳子ちゃんはそう言って視線を伏せて大きな溜息を落とす。つかさ、本当に皆失礼だよね。
よく言うじゃない。ビギナーズラックってさ。もしかしたら私にだって凄い才能とかあるかもしれないじゃん!!
ま・・・無いと思うけど。とえあえず何が腹立つって、聖さまの態度!!もうね、すっごい腹立つ!!
こうなったら、絶対聖さまにギャフンって言わせてみせるから!!
第百七十三話『続・目差せウィンブルドン』
そもそも、テニスは奥様が昼下がりにするもんだと思ってた人間に、テニスが出来る訳がない。
本当なら祐巳ちゃんはテニスコートの端っこで見てればいいとさえ思う。
でも流石にそこまで言うと怒るだろうから、私は可南子ちゃんと組む事にした。罰ゲームがあるって分かってて、
誰が一番負けそうな奴と組むもんですか!それにしても・・・長いなぁ、もう。
「ねぇ!もういいじゃん、ラジカセ壊れてんでしょ?」
私の言葉に蓉子がこちらを物凄い形相で振り返って叫ぶ。
「うるさいわねっ!外野は黙っててちょうだい!!」
「そうは言ってもね。これ、勝ち抜き戦なんでしょ?私、真っ暗な中でテニスなんて絶対に嫌だからね」
時計を見ると既にお昼。ちょうどお昼時。それでもまだ始まらないなんて、どうかしてる。
その言葉に蓉子も時計を確認してちょっとだけ驚いた。そうそう、まさかこんなにも時間が経ってるとは思ってなかったのよね?
だからいつまでも壊れたラジカセいじってたんでしょ?・・・ったく、バカなんじゃないの?いい加減直らないって気付けよ!!
蓉子はラジカセを柏木に手渡してチラリとお姉さまを見た。
その視線に気付いたお姉さまは嬉しそうに(犬だったら、多分尻尾振ってたと思う)気持ち悪いぐらいの笑顔を浮かべる。
「仕方ないわね・・・そういう訳なので、SRG。ラジオ体操お願いします。私が歌いますから」
「え・・・?そ、そsれはいいけど・・・蓉子ちゃんが歌うの?アカペラで?」
「だって、仕方ないじゃないですか。はい!皆さん、それじゃあ隣の人と腕が当たらないようにもうちょっと離れてください」
捨て身な蓉子と戸惑うお姉さま。なるほど、蓉子は歌うのか。私はラジオ体操を歌いながら踊る蓉子を想像して笑いを堪えた。
だってさ!どう考えてもおかしいじゃん!!そんな私を無視して蓉子が歌い出す。
「ラジオ体操第二!はい!」
「「「第二!?」」」
私達は全員目が点だった。つか・・・どうして第二?普通第一から始めない?ポカンとしてるのは私達だけじゃない。
お姉さまだって唖然とした顔で蓉子を見てる。つか・・・ぶっちゃけ覚えてないんじゃない?
それでも蓉子は止まらなかった。私達がついてきてない事にも気付かないぐらい夢中で第二踊ってる。しかも歌いながら。
「腕を振って体を捻るぅ!いっちに、さんっし!!正面で身体を捻るぅ!戻して今度は踵を捻るぅ!!」
ちょ・・・蓉子・・・も・・・やめて・・・身体を捻るどころか、お腹が捻れそうよ・・・。つか、違う。間違ってる!!
捻ってどうする!!しかも踵を!!絶対その方が難しいし、やりたくない。
私の無言の抵抗に蓉子はビクともしない。そんでまた、必死に蓉子に習ってやってる祐巳ちゃんのおかしい事!!
あわあわしながらもう必死。私はそんな祐巳ちゃんを見て笑いを堪えるのに必死。
「も・・・ダメ・・・」
耐えかねた私は、とうとうその場にしゃがみこんでしまった。だって、あまりにも面白かった。蓉子と祐巳ちゃんが。
だって、絶対出来ないよそんな運動!!なんて突っ込みたくなるようなとこが一杯あったから。
でも蓉子のラジオ体操第二はまだまだ続いた。結局、私は途中で棄権。皆結局好きなように踊ってた。
祐巳ちゃん以外は。もうほんと、どこまで素直なんだろう。可愛すぎて涙出そう。
ようやくラジオ体操を終えて息を切らせる蓉子。それに祐巳ちゃん。でも、他の皆は結構余裕。
そんな私達に蓉子は怖い顔で怒鳴った。
「あんた達ね!そんな中途半端な運動しかしてなくて優勝できると思ったら、大間違いよ!!」
「よ、蓉子ちゃん。もういいじゃない。それなりに皆やってたし・・・所々蓉子ちゃんも間違えてたし・・・」
自信満々な蓉子をお姉さまが止める。やんわりと注意するけど、蓉子は聞いてない。
そしてそのまま無言でテニスコートに入ってゆくと、何かを持って戻ってきた。
「さ、じゃあ誰と当たるかはくじ引きよ!皆ペアになったわね?じゃ、それぞれペアの名前書いてこの箱に入れてちょうだい」
私達は蓉子の言うとおりに動いた。そして皆が箱の中に紙を入れ終わったのを確認して、蓉子が一枚づつ引いてゆく。
「あら・・・蔦子ちゃんは参加しないの?」
「はい!私は写真係ですから!」
「・・・それもそうね。じゃ、優さんは祥子と江利子と一緒に審判ね」
「ああ、構わないよ」
「じゃ・・・まずは由乃ちゃん令チーム。あっちのコートで志摩子・乃梨子ちゃんチームと対戦ね。
で、こっちのコートで・・・あら。聖と祐巳ちゃんは敵同士なのね!
聖・可南子ちゃんチームと祐巳ちゃん・瞳子ちゃんチームが対戦よ」
「ちょっと待ってよ!あんた達は?」
「だって、私達の紙が出てこなかったんだもん。しょうがないじゃない」
シレっとそんな事言う蓉子。私は仕方なく祐巳ちゃんと瞳子ちゃんに目をやった。
明らかに瞳子ちゃんは不満顔。そりゃそうだよねぇ・・・無理矢理組まされた挙句、対戦相手が私達だもん。
「聖さま・・・全力でかかってきてくれて構いませんよ!」
「全力ねぇ・・・」
不満顔な瞳子ちゃんとは裏腹に、祐巳ちゃんはやる気満々。だから、その自信がちょっと怖いんだってば。
私達はコートを移動してネットを挟んでお互いに握手する。その時、祐巳ちゃんの手を握ったら思いっきり握り返された。
それはもう、痛いぐらいの力で・・・。これはもう、絶対に根に持ってるに違いない。
やがて、試合開始の笛が鳴った。サーブは祐巳ちゃんから。
「えいっ!」
スカ・・・虚しく空を切るラケット。ま、当然よね。サーブ権は早くも移動。次は可南子ちゃんのサーブ。
無言でサーブを打つ可南子ちゃん。ボールは真っ直ぐに祐巳ちゃんに向って飛んでゆく。
でも、流石は瞳子ちゃん。祐巳ちゃんに任せてたら埒があかないと考えたのか、
コートの端まで走ってってそのボールを打ち返してきた。そしてそれを可南子ちゃんが打ち返す。
何度かそんなラリーが続いた。ぶっちゃけ、この戦いは瞳子ちゃんVS可南子ちゃんになってる。
私と祐巳ちゃんは二人のラリーの応酬をただ見守るだけ・・・。だからちょっとだけ暇。
その時だった。可南子ちゃんが打ったボールに瞳子ちゃんが追いつけなかった。
「祐巳さま!!打ってください!!!」
「は、はいっ!!えいやっ!!!!」
「おお・・・」
祐巳ちゃんの豪快なラケットさばき。
ラケットは祐巳ちゃんの手をすり抜けてまるで青空に吸い込まれるみたいに上に上ってゆく。
ちなみに、ボールは祐巳ちゃんの足元で転がってる。瞳子ちゃんは肩を落として祐巳ちゃんを睨んで、何も言えないでいた。
「ご、ごめんなさい・・・」
「いえ・・・祐巳さまに回した私が悪いんです・・・」
瞳子ちゃんの言葉は悲痛だった。そして私はホッと胸を撫で下ろす。良かった・・・祐巳ちゃんがパートナーじゃなくて・・・。
そんな感じであっさりと私達の勝ちは決まった。最後の瞳子ちゃんの台詞には思わず皆が頷いてしまった。
「祐巳さまっ!一度でいいからボールに当ててくださいよっっっ!!!!」
確かに。瞳子ちゃんの言うとおりだと思うの。
だって、祐巳ちゃんってば結局その後も何回も空振りして、最後には可南子ちゃんめがけてラケット飛ばして・・・。
「こ、怖かった・・・」
可南子ちゃんがポツリとつぶやいた言葉は、多分心の底から出た言葉だろう、きっと。
第百七十四話『優勝争いとビリ争い』
やっぱり最後にはこうなった。私は深い溜息を落とした。
目の前には令さまと由乃さん。これはそう、ビリ争いだ。どうして令さまがいるのに?って思うでしょ?
それはね・・・由乃さんが足を引っ張ったから!多分、そういうことだと思うの。
私はもう一度空を見上げて怒る瞳子ちゃんの声を聞きながら、もう一度大きなため息を落とした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
数分前の話。令さまと由乃さんに勝った乃梨子ちゃん志摩子さんチームは、あっさり蓉子さま、SRGチームに負けた。
そりゃそうだよね。だって、SRGは体育の先生なんだもん。勝てるはずないよ。
で、結局聖さま・可南子ちゃんチーム対蓉子さまSRGチームになったんだけど・・・。
「初めてね、聖とこんな風にテニスするの」
SRGはそう言って聖さまを見て微笑んだ。聖さまもにっこり笑って頷くと、そのまま視線を蓉子さまに向ける。
「蓉子とは久しぶり・・・だけどね」
「ええ、ほんと。高校以来だわ。絶対に負けないからね」
「それはこっちの台詞」
私には、二人の間に激しい火花が散ったのが見えた・・・気がした。そんな二人にSRGは笑う。
「まぁまぁ、二人とも楽しくやりましょ!」
「「お姉さま(SRG)は黙っててください!!」」
「・・・はい・・・」
結局、そんな感じで試合は始まったんだけど、聖さまを見て思った。私とやってる時にどれだけ手を抜いてくれていたのかを。
聖さまのサーブは凄く早かった。それをひろう蓉子さまの足をも駿足。でも凄いのは聖さまと蓉子さまだけじゃなかった。
SRGも可南子ちゃんも上手い!テニスを全然知らない私でも、思わず手に汗握りながら試合にゾッコンで・・・。
「なかなか・・・やるじゃない!」
「そっちもね!」
聖さまと蓉子さまはお互いが一番打ちにくそうな所ばっかりを狙って打つ。そこを可南子ちゃんとSRGがカバーする。
そっか・・・これが正しいテニスなのね・・・私はそんな事考えながら試合を見ていた。
点数はお互い一歩も譲らない感じ。だから余計にデッドヒートして・・・聖さまの打ったボールが、高く上がってしまった。
それを見た蓉子さまの嬉しそうな顔tきたらもう・・・何だか子供みたいにキラキラしてて。
「かかったわね!受けるがいいわ!!蓉子ブリザードォォォ!!!」
よ、蓉子ブリザード・・・ヤバイよ、蓉子さま。何だかよく分かんないワザの名前まで出ちゃったよ・・・。
でも、それを聞いた聖さまも負けてない。
「甘い!!こんなもの・・・聖ハリケーン!!!」
「こしゃくな!!」
いや・・・何だかこの試合面白い。なんていうか・・・もう全体的に。しかもお互いワザに自分の名前入れてるし・・・。
「蓉子ちゃん!!私に任せて!!SRGアターック!!」
SRGアタックをひろったのは可南子ちゃん。可南子ちゃんはやっぱり無言でそれを打ち返した。
すると、それを見たSRG、何を思ったのか可南子ちゃんに怒鳴る。
「可南子ちゃん!!ワザの名前をちゃんと叫んで!!」
「ワ、ワザの名前と言われましても・・・そんなのありませんよ」
「適当でいいから!でないと負けちゃう!!」
「はあ?」
可南子ちゃんは聖さまの言葉に首を傾げた。つか・・・ワザの名前ってそんなにも重要なの?
「ねぇ瞳子ちゃん・・・テニスって技の名前叫ばなきゃ負けなの?」
「・・・そんな訳ないでしょう?あの人達が勝手に言ってるだけですよ」
「ふーん・・・私なら祐巳リフレッシュかな!」
「・・・一体何をリフレッシュするんですか・・・」
呆れたような瞳子ちゃんの声に、それ以上私は何も言えなかった。いいじゃん・・・言ってみたかったんだもん。
でも、こうやって見てたら、今日初めて聖さまのこんなとこ見た。普段は何するにも面倒臭そうだけど、
こういう時はほんと、子供みたいに楽しそう。だってさっきからずっと必死だもん。
それに・・・楽しそう。ちょっとだけ羨ましかった。だって、私じゃ聖さまんあんな顔させられないもん。
「聖さまー頑張ってくださーーい!!可南子ちゃんもーーーー!!」
何だか聖さまの楽しそうな姿見てたら、私まで楽しくなってきた。私の声に聖さまは手だけ振って返事してくれる。
でも、SRGはそれに不満そう。私達に声援はないの!?って顔してる。
点数はさっきからずっと追い越したり追い越されたりを繰り返してて、なかなか決着がつかない。
でも、やっぱり現役体育教師は強かった。聖さまの攻撃も可南子ちゃんの攻撃も確実に打ち返して、そして・・・。
「試合終了!優勝はお姉さま、SRGチーム」
「やったわ!ついに・・・ついに聖に勝ったわ!!!」
「やったわね、蓉子ちゃん!」
蓉子さまが飛び上がって喜ぶのを見て嬉しそうなSRG。それに比べて聖さまの悔しそうな顔・・・。
「聖さま、すみませんでした・・・私がミスしたばっかりに」
「いや、違うよ、そうじゃない。向こうにプロが居る事を忘れてた私の判断ミスよ」
「・・・確かに」
可南子ちゃんはそう言ってチラリとSRGを見た。確かにSRGはプロだよね、ある意味。
とぼとぼと帰ってくる聖さまは、チョコンと私の隣に座ってもたれかかってきた。
「負けちゃった」
「聖さまはがんばりましたよ!もちろん、可南子ちゃんも」
「でも、負けは負け。悔しいなぁ・・・」
私の肩にコツンと頭を乗せた聖さまは本当に悔しそうな顔してた。何だか・・・可愛い人だなぁ・・・。
そんな事考えてた私は、だから予想もしてなかった。この後私に起こる悲劇の事なんて。
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「じゃ、ビリ争い試合スタート!」
皆が見守る中、私はラケットを構えた。斜め前で瞳子ちゃんがラケット構えてユラユラ揺れてる。
私はその後姿を見つめながら、もう手は出すまいと心に誓っていた。私はどう考えてもテニスには向いてない。
それが嫌というほど分かったのだ。さっきの試合で。でもね、不思議だよね。
そんな事考えてたらボールは私のとこにばっかり飛んでくるの。
「祐巳さま!!」
「は、はいっ!!」
スカ・・・ラケットが空を切る。やっぱりね・・・大差って訳じゃないけど、私達は案の定負けてた。
瞳子ちゃんが物凄い顔で私を睨んでくる。チラリと外野を見たら、聖さまは苦笑い。
「祐巳ちゃーん、頑張れ〜」
聖さまの声が聞こえるんだけど、私には聖さまみたいに手を振る余裕なんてないし、
むしろそんな事してたら今度こそ瞳子ちゃんにラケットでぶたれそう。
どれぐらい試合は続いてたのかな。令さまと瞳子ちゃんはいい勝負してた。でも由乃さんと私は・・・同じぐらいのレベル。
でもね、そんな由乃さんにもチャンスが回ったの。それを見た由乃さん、嬉しそうにボールに飛びついて・・・。
真っ直ぐに私のとこにやってきた。・・・ラケットが・・・。
「祐巳ちゃんっ!!あぶないっっっ!!!!」
聖さまの怒鳴り声が聞こえて、私はハッと我に返った。頑張って避けようとして・・・足を挫いたんだけど・・・。
「祐巳さんっ!!」
由乃さんが申し訳なさそうに叫ぶ。それと同時に・・・。
「祐巳さま!大丈夫ですか!?」
瞳子ちゃんが駆け寄ってきて私を立たせてくれようとした。私は瞳子ちゃんの手に引っ張られてどうにか立ち上がると、
もう一度ラケットを構える。でもね・・・足・・・痛い・・・。そんな私の異変に気づいたのはやっぱり・・・。
「ちょっと待った」
聖さまはそう言って試合を止めて私の元へ駆け寄ってくると、私の足首をギュって押さえた。
「にゃっ!!」
「やっぱり・・・どうして早く言わないかな」
「だ・・・だって・・・」
ラケットを胸に抱きしめて聖さまを見下ろすと、聖さまは目で私を注意する。そして立ち上がって言う。
「祐巳ちゃんが捻挫したから、悪いけどこの試合は中止ね」
「えっ!?だ、大丈夫なの?」
蓉子さまが駆け寄ってきて私の足首をじっと見つめる。でもまだ腫れてもないから、正直見ても分かんないと思う。
それが分かった聖さまは・・・やっぱり凄い。ていうか・・・これが愛?そう考えると何だか嬉しかった。捻挫してるのに。
「祐巳さん・・・ごめんね・・・大丈夫?」
「うん、平気!こんなのちょっと休めばすぐ治るよ!」
心配そうな由乃さんにそう言って私は笑った。でも、足は痛い。
「そんな訳なんで、私はコレ連れて先に戻るわ」
「ええ、分かったわ」
聖さまはそう言って私の手を引いて歩こうとした。でも・・・。
「聖さま・・・歩けない・・・抱っこ・・・」
「はあ!?」
私はその場にへたり込んだまま聖さまの手を引っ張った。すると聖さまは大きなため息を落として私をヒョイって抱き上げる。
「ったく・・・世話の焼ける・・・」
「・・・すみません・・・」
聖さまにお姫様抱っこされたまま、私はポツリとつぶやいた。でも、気分は・・・すこぶる良かったんだ。
だって、何だかんだ言っても、聖さまはちゃんと私を見ててくれてる。それに・・・凄く優しいから・・・。
第百七十四話『罰ゲーム』
なんて蓉子さまは言ってた。でもその内容は結構簡単だった。
ところが、今私は思い切り走ってる。それはもう、ありえないくらいに。何故なら・・・。
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私は隣で息切れしてる祐巳さまをチラリと見る。
「これぐらいの坂道で息切れなんて・・・体鈍ってるんじゃないですか?」
「そ、それは言わないで・・・うすうす感づいてはいたんだけどまさかここまでとは・・・」
祐巳さまはそう言って荷物を持ち替えて大きな深呼吸をする。私達は結局、祐巳さまが足を捻ったせいで不戦敗。
ビリになってしまったのだ。それもこれも全部祐巳さまのせいなんだけど。
いや、別に祐巳さまに文句言ってる訳じゃない。ただ、言いたい。ドン臭すぎると。
どこまでドン臭いのか、と。でも一応先輩の祐巳さまに流石にそれは言えない。だから私は黙ってその言葉を飲み込んできた。
だって、そこが祐巳さまを憎めないとこでもあったんだから。
私達ビリチームに蓉子さまが出した罰ゲームは、買出しだった。本当はもっと過酷なものが用意されてたらしいけど、
そこは聖さまが祐巳さまの事を考えて、もうちょっと簡単なのにしてやってよ、って言葉を考慮してこれになったはずなのに、
それが今、とんでもない事になってる。私達は街まで徒歩で降りて(本当は車の予定だったけど、それは聖さまが止めた)、
また徒歩で山道を歩いていた。祐巳さまの怪我は結局大した事なくて、割とピンピンしてたから歩くのも結構平気そう。
でも調子が良かったのは最初のうちだけだった。帰りの登り道で祐巳さまは息切れしはじめて・・・。
「と、瞳子ちゃん・・・ちょっとだけ。ちょっとだけでいいから休憩しよ?」
そう言って祐巳さまが私の袖を引っ張った。ちなみに、休憩するのはこれで三度目。
「またですか?」
「ちょっとだけだからーー!!」
そう言って祐巳さまは明らかに不機嫌な私に申し訳なさそうにペコリと頭を下げる。
私は仕方なく頷いてその場にあった大きな石に腰掛けると、荷物を下に置いた。祐巳さまはそんな私を見てにっこり笑うと、
自分もその場に腰掛け、大きく伸びをしたその拍子に・・・そのままバランスを崩して・・・。
「にゃぁぁぁぁぁ!!!とうこちゃ〜〜〜〜〜ん!!!!」
余所見をしてた私が悪かったのか、それともあまりにもドジな祐巳さまが悪いのか、
祐巳さまの叫び声を聞いて視線を戻した時には、すでにそこに祐巳さまの姿は無かった。
私は驚いて立ち上がると、今まで祐巳さまの居た場所に駆け寄って祐巳さまが消えた藪に視線を走らせる。
そこはなだらかな坂道になっていて、崖というほど深刻なものではない。
「祐巳さまぁ!?」
私は姿の見えない祐巳さまに声をかけた。すると涙声で祐巳さまの声が聞こえてくる。
「瞳子ちゃ〜〜ん!!」
その声に胸を撫で下ろした私は、慌てて祐巳さまが落ちていった崖を降りようとしたんだけど、
足場が悪くてそれは出来なかった。おまけに何故か祐巳さまはすすり泣いてる。どっか痛くしたのか、それとも怖かったのか。
私はそんな祐巳さまを助けようとして、ぬかるんだ崖に挑戦してようやく。
ようやく祐巳さまの元に辿り着いたのはいいんだけど・・・。
「・・・な、なんですか・・・その格好・・・」
下に下りた私の目に飛び込んできた祐巳さまの格好は、もう奇跡としかいいようがなかった。
ふと上を見ると、そこには祐巳さまのものであろう服の切れ端があちらこちらに引っかかってる。
「ど、どうしよう・・・帰れないよ・・・グス」
いや、泣きたいのはむしろこっちだ。
どうやってこのラムちゃんみたいな格好したこの人をここから連れて帰ればいいというのか。
というよりも、どんな落ち方したらこんな格好になれるというのか。私は頭を抱えた。
そう、祐巳さまの格好はそれはもう悲惨。ドロまみれなのは、まぁいい。洗えば落ちるし。ただ、それどころじゃないのは服!
夏ということもあって元々薄着だった服が、木の枝とかに引っかかってボロボロだったのだ。
さっきも言ったけど、まるでラムちゃんみたいな格好。かろるじて下着のおかげで見えてないけど、下着は丸見え。
言葉を失った私を見上げて祐巳さまは涙目で訴えてくる。何かを。
「な、なんですか・・・」
「瞳子ちゃん・・・ど、どうすればいい?」
「どうすればいいと言われましても・・・どうしましょう・・・」
ていうか、正直私はこんな格好してる人と一緒に歩きたくない。聖さまじゃあるまいし。
それに、私だって人に貸すほど厚着してないし・・・。それよりももっと深刻な事があった。
「あとね、瞳子ちゃん・・・足・・・痛い・・・これって、やっぱ捻挫だと思う?気合でどうにか歩けると思う?」
祐巳さまはその場で足を左右に捻っては顔をしかめてポツリと呟く。どうやら祐巳さま、本格的に足を捻ったらしい。
ていうか、私は祐巳さまが足を捻った原因は絶対あの蓉子さまのデタラメなラジオ体操のせいだと踏んでるんだけど、
どうだろう。まぁ、今はそんな話はどうでもいい。とりあえず、どうやって祐巳さまを別荘まで運ぶかが問題で・・・。
私は大きなため息を落として困り果ててる祐巳さまをチラリと見た。
「どうやったら次から次へとそんな風に問題起こせるんでしょうね・・・」
「わ、私だって別にわざとやってる訳じゃ・・・」
「当たり前です!!今まで黙ってましたがもう限界です!祐巳さまはどこまでドン臭いんですかっっ!!!」
「うっ・・・そ、それは・・・いつか聖さまにも同じような事を言われたような気が・・・」
「そりゃ言いたくもなりますよ!どうしてもっと注意しないんですか!!」
「ご、ごめんなさい・・・」
ほんと、聖さまはどうしてこの人と付き合ってられるんだろう。私はそれが不思議でしょうがない。
私なら絶対無理!絶対の絶対に無理!!そんな話は置いといて。とりあえず今、どうするかが問題だ。
私は崖を四つん這いになって上ると、崖の上から不安そうな祐巳さまを見下ろした。
「とりあえず、助けを呼んできますから。そこでじっとしててください!」
「で、でも・・・一人で大丈夫?」
「・・・それは私の台詞ですよ・・・」
「そ・・・そうよね・・・気をつけてね・・・ありがとう」
「・・・どういたしまして」
そして私は走り出した。泣きそうな顔の祐巳さまに見送ってもらって。
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別荘の前の坂は今までの坂の中でダントツに急。私はそこを一気に駆け上がった。
こんな事ならテニスの時に祐巳さまとなんて組むんじゃなかった。あの時の聖さまの判断は、だから正しかったのだ。
祐巳さま以外と組んでればこんな事にはならなかったかもしれない。いや・・・由乃さまも・・・分からないな。
あの人の場合ははしゃぎすぎて落ちるというパターンだろう、きっと。そのほうが絶対危ない!!
私は出来るだけ違う事を考えながら坂道を登った。でないと苦しいって事に気づくとそこからドッと疲れてくるから。
「はぁ・・・はぁ・・・つ、ついた・・・」
駆け足で別荘の中に転がり込んだ私は、そのままの勢いでリビングに向った。
リビングには皆居た。皆私を見てにっこりと微笑む。そんな私を見て聖さまも微笑んだ。
「お帰り。結構大変だったでしょ?」
「はぁ・・・まぁ・・・」
こんな所で立ち話なんてしてる場合じゃないのは分かってる。でも、どこから話せばいいかも分からなくて・・・。
そんな私に聖さまはイタズラに笑って言った。
「で、祐巳ちゃんはどこに落としてきたの?」
これは聖さまのいつもの軽いジョークだった。でも、今そのジョークは洒落にならない。
「えっと・・・崖の下に・・・」
「は?」
聖さまは持っていた雑誌を床に落とした。
そして次の瞬間皆から笑い声。皆初めは私もジョークを言ってるんだろうと思ったんだろう。
でも、そうじゃない!そうじゃないの!!ジョークじゃなくて!!!私の顔をしばらく見てた聖さま。
どうやらやっと私の言ってる事がジョークじゃないって分かったんだと思う。
「今度は何やらかしたの?あの子」
落ちた雑誌を拾いながら聖さまが呆れたように呟いた。だから私は全部話した。とりあえず祐巳さまは無事だって事も。
「・・・と、いうわけなんです・・・すみません、私がついていながら・・・」
「いや、瞳子ちゃんのせいじゃないと思うけど・・・そう、ほんとに落ちたの。ていうか・・・とりあえず着替えがいるのね?
それと・・・なにか紐とかもあった方がいい?」
「どうでしょう・・・道はぬかるんでましたから、足を捻った祐巳さまにはちょっとキツイかもしれません」
「分かった。じゃ、一応ロープ持ってくか。そんな訳で祥子、頑丈そうなロープ貸して」
聖さまはテキパキと動いた。やっぱりこういう時にこの人は一番頼りになる。あと、SRGも。
だって、私の話を聞いて由乃さまは大爆笑だし、蓉子さまもちょっと笑ってる。
心配してるのは令さまとお姉さまと志摩子さまと優さん。蔦子さんはシャッターチャンスだと息巻いてるし、
乃梨子さんと可南子さんは完全に呆れてるし、多分聖さまも。SRGは・・・困ったみたいに笑ってロープを持ってきてくれた。
「私も行きましょうか?」
「いえ、多分私と瞳子ちゃんで大丈夫だと思います」
「そう?」
「ええ。じゃ、行こうか瞳子ちゃん」
「はい」
聖さまはそう言って私の方を振り返った。手には祐巳さまの着替えとロープが握られている。
私達は歩き出した。祐巳さまを救出するために。
どことなく聖さまの歩調が早いのはきっと、本当は祐巳さまを心配しているんだと・・・思いたい。