雛流しをしましょう。穢れを祓うだけでなく、あなたとの幸せを願う為に。
セイはパンフレットを勢い良く閉じた。
「よし、決めた!」
去年の雛祭りは・・・散々だった。いや、着物姿のユミは可愛かったけど、
酔っ払った彼女は翌日言ったのだ。
「え?そんな写真・・・撮りましたっけ?」
・・・と。あの一言がどれだけセイの心を傷つけたか。
もう二度とあんな事は言わせない。セイはまだ隣で眠ってるユミの顔を見下ろし、
小さく微笑む。
「今年は、絶対に酔っ払わせたりしないからね」
誰にも聞こえないほどの小さな声は、ユミの頬に落としたキスと一緒に消える。
大きく伸びをして欠伸を一つ。セイはユミの隣に潜り込み、
ユミの小さな背中を抱きしめて眠りについた。
翌朝、ユミよりも早起きしたセイは滅多に作らない朝食を作り、
まだユミが眠ってる部屋のカーテンを大袈裟に開け言った。
「ほら!祐巳ちゃん、朝だよ!!」
「んー・・・もう・・・れすか?」
ユミは眠い目を擦りながらまだ醒めきってない頭で窓の外を眺め、
そして視線をセイに移す。いつもなら、この役目は自分の役目。
それなのにセイは珍しくユミよりも早起きして、おまけに・・・パジャマじゃない。
天気もいいし、何故かニコニコしてるセイを見てピンときた。
「どこか出かけるんですか?」
「そう。今日は雛祭りだから、
ウチのお姫様の為にいいもの見せてあげようと思って」
「・・・お姫様?」
ユミが自分を指差して首を傾げると、セイはにっこりと笑ったまま頷く。
機嫌のいいセイは大好き。笑顔がいつもの何倍も優しいし、
一日中ワガママを聞いてくれるから。ここ最近、セイはずっと不機嫌だった。
それは別にユミに対して何か怒ってた訳じゃない。
そう、その怒りの矛先は大抵大学に向いていてユミもそれをよく分かっていたから、
あえて何も言わなかった。ただじっと耐えてきたのだ。
セイの機嫌が直るのを。最近セイと過ごしていて気付いた事は、
案外子供っぽい所があるという事と、操縦さえ間違えなければ大好きなセイで居てくれるという事。
ただ、自分が舵を取ってるつもりでも、
いつの間にかセイに操縦桿を握られている事もしばしばあったけど。
ユミはようやく全てを理解したように起き上がり、ノロノロとリビングに移動する。
テーブルの上には既に食事が用意されてある。
という事は、1時間以内にどこかへ出発するという事だ。
それからのユミの行動は早かった。顔を洗い服を着替えて、
食卓につくまでに10分もかからなかった。
「用意・・・やけに早かったね」
「そりゃ、聖さまを待たせられませんからね!」
得意げに微笑んだユミをセイが苦笑いで答える。こんな事は日常茶飯事。
「「いただきます」」
二人揃っての朝食なんて、どれぐらい振りだろう?
セイはそんな事を考えながら目の前で必死になってパンを頬張るユミを見て、
そっとイチゴのジャムをユミの方に押しやると、
ユミはすぐにそれに気付いてセイににっこりと微笑んでくれた。
口の中はパンで一杯だろうから、笑顔でお礼を言ってくれたのがセイにとっては、
思いがけず嬉しくてそれを隠す為にわざと紅茶を淹れに席を立ったりして。
一人きりじゃない生活が、何気ない日常が延々と続いてゆく毎日が、
ただ特別な日を彩る為のモノではないのだと気付いたのは最近の事。
毎日が延々と続くからこそ、特別な日を祝えるのだ。最近はそんな風に思う。
そういう意味では、ユミのように毎日をレポートに追われ、
悪戦苦闘しながら毎日を過ごすのもそう悪いものではないように思える。
ただ、レポートが出来ないからと言って八つ当たりするのだけは・・・止めてほしいけど。
「ところで・・・どこ行くんです?」
ユミはようやく朝食を食べ終え、
既に車の鍵を手にドアノブに手をかけているセイの後を追いつつ聞いた。
慌てすぎて鞄の中がグチャグチャになっていても、気にはならない。
どうせ大した物は入っていないからだ。セイはそんなユミの方を振り返って、
今度は何かを企む猫みたいな目をして笑って言った。
「さて、どこでしょう?ついてからのお楽しみだよ」
「うー・・・教えてくれてもいいじゃないですか」
「教えてもいいけど、楽しみが減っちゃうじゃない。
だからまだ秘密。君は大人しく私の隣に座ってればいいから」
セイは小さなウインクをして家を出た。
ユミはそんなセイを見上げ渋々と言った感じでついてくる。
本当は、今日どこに行こうかなんて何も決まってなどいなかった。
ただ、去年のような失態にだけならないようにしたかった、とユミに言ったら、
きっとユミは怒るだろう。セイは苦い笑みを押し殺し、ゆっくり車を発進させた。
「聖さま〜〜まだですか〜〜?」
「ま〜だ」
「うー・・・どこ行くんですか〜〜?」
「・・・秘密だってば!」
「じゃ、ヒントください、ヒント!そこって、面白いとこですか?」
「んー・・・どうかな?でも、雛祭りにはもってこいだと思うけど?」
「えー・・・そんなヒントじゃ分かりませんよ!!」
「あのねぇ!別に私はクイズ出してる訳じゃないんだからね?それ、ちゃんと分かってる?」
家を出たときからユミはずっとこの調子。何が何でも行き先を突き止めたいらしく、
さっきからずっとこうやって、少しでも暇があったらセイに話しかけてくる。
「ところで聖さま、お昼ご飯何食べるんですか?」
「はあ?さっき朝ごはん食べたとこでしょ!?もうお腹減ったの?」
「いえ、そういう訳じゃないんですけど!私、昨日学食でうどん食べたんですよ、うどん。
だから、昼ご飯はうどん以外がいいって一応、伝えておこうかと思いまして!」
「あー・・・分かった、うどん以外ね。それ以外だったら何でもいいの?」
「はいっ!」
かと思ったら、こんな具合にどうでもいい話をしだして、そして延々と大学の話を聞かされる。
もしもこれが他人なら、きっともう我慢出来なくなって車を止め、降ろしていたかもしれない。
それでもそれがユミだというだけで何故かその話を笑ってきける自分に、
いつもいつも驚く。好きって感情は、どうやら単純なようで案外複雑なよう。
ユミの話はいつも突拍子もなくあっちこっちに飛んでいくけど、
お得意の百面相を駆使して喋るユミの話は、なんと言うか・・・臨場感がある。
きっとセイが全く同じ話をしたとしても、こんな風にはならないだろう。
「祐巳ちゃんはほんと、よく喋るね」
サラリと言った言葉に、ユミがピクリと顔を挙げた。
そしてしょんぼりと俯いてしまう。
「・・・うるさい・・・ですか?」
ユミはポツリと言ってそう言えば今まで話していたのは自分ばかりだった事に気付いた。
いつもそう。セイと居ると楽しくてついつい喋りすぎてしまう。
というよりも、元々お喋りなのだ、自分は。だからセイの事も考えずについ喋りすぎる自分は、
知らない間にセイに迷惑をかけていたのかもしれない。
そんなユミに、セイが慌てたように早口で言った。
「やっ!べ、別にそういうつもりで言ったんじゃなくて!
ただ、本当に純粋によく喋るなぁって思っただけで他意は全く無いって言うか!!
むしろ、それぐらい一人で喋ってくれてた方が私は楽だからその方が有難いし、
何よりもほら!道中が楽しいよね!祐巳ちゃんといると!!」
「・・・聖さま・・・よく噛まずに一気にそんなにも喋れますね・・・」
「うん、自分でもビックリしてる」
呆れたようなユミの顔を見てセイは苦笑いを浮かべ、大きく息を吸った。
「つまり!祐巳ちゃんはそのままずっと一人で喋り続けてよ。
私はそれを聞いてるのが・・・楽しいんだから」
「・・・はいっ!・・・で、さっきどこまで話ましたっけ?」
「・・・・・・・・・・・・」
それからというもの、ユミは目的地に着くまでずっと・・・そう、ずっと話し続けていた。
どうでもいい話から、意外に奥深い話までほんと、沢山。
セイはただそれに頷き、時々相槌を打ってはただただ喋り続けるユミに感心していたけど、
目的地に着いた途端、ユミの口はピッタリと閉じた。
「せ、聖さま・・・こ、ここは・・・」
「そ、神社」
「いえ・・・それは分かってますけど・・・どうしてここが・・・雛祭り・・・なんです?」
ユミは目の前の大きな鳥居を見上げ、さらにそのままセイに視線を移す。
するとセイはただユミの手を引いて鳥居とくぐり、何も言わずスタスタと歩き出したではないか。
境内はシンと張り詰めた冷たい空気が流れていて、いかにもご利益がありそうな雰囲気。
でも、明らかにデートスポット・・・ではない。
そんなに大きくも有名でもないこの神社に、何故今日セイが来たがったのか、
その真意が全く掴めないまま、ユミはとりあえずセイに手を引かれるがままで・・・。
やがて境内の奥の方に少し開けた場所があり、そこに小さな橋がかかっている場所を見つけた。
セイはその橋の上でふと立ち止まり、その川をじっと眺めている。
「聖・・・さま?」
いくらユミが声をかけてもセイはただ川を見つめるだけで何も言わない。
こんな時、ほんの少しセイの存在を遠くに感じることがある。
セイにはセイの時間があり、ユミにはユミの時間があるように、
常に感じる見えない距離のようなものがハッキリと二人の間に流れているような、
そんな気がした。結局、自分たちは別個の人間なのだという事実を無言で知らされているような、
何とも言えない孤独感に襲われてしまうのだ。
ユミはセイがどこにも行ってしまわないよう、セイの袖をキュっと掴んだ。
それに気付いたセイは小さく微笑んで、袖を掴んだユミの手を代わりに握ってくれた。
「ごめん、ちょっと考え事してた」
「ええ・・・知ってます」
「ごめんね?」
昔よく自分の世界に入り込んでは、色んな想像をして楽しんでた時期があった。
大きくなってからは大分それは治まってたと思ってたのに、
こんな風に何かの拍子にふとあちらの世界に行ってしまう事がある。
そんな時、残されたユミが哀しげな表情を浮かべている事も知ってるのに、
どうにもそれは治らない。申し訳ないと思いつつ、やっぱり止められないのだ。
だって、この時間は・・・セイにとってはとても大切な・・・時間だったから。
それをユミに伝えると、ユミはやっぱり哀しそうに、でも・・・笑ってくれた。
「聖さまのその大切な時間は、聖さまの時間ですから好きに使えばいいんですよ。
私が聖さまの事考えずに喋るのと同じで、それは・・・聖さまの為だけの時間なんですから」
本当は考えてる事も思ってる事も知りたい。でも、それは・・・ワガママだ。
時間は誰のものでもない。セイの時間がユミのモノになることなんて、ありえない。
ユミは小さく笑って、セイの手をギュっと握った。
「でも聖さま・・・ほんの少しだけでいいから、私の為にも・・・聖さまの時間、くださいね?」
セイはその言葉を聞いて一瞬顔をしかめた。けれど、すぐに思い返したように微笑む。
「そうだね・・・私には、きっとそれがずっと出来なかったんだろうね。
だから今まで色んな人を追い詰めちゃったんだな、きっと・・・」
ユミの思いもよらない答えは、長年セイを悩ませてたものの答えだった。
誰かの為に使う時間。それが・・・自分には足りなかったのだ。
いつも自分を最優先にした結果、周りを巻き込んで誰かを傷つけて。
だからユミの何気ない一言はセイの胸に突き刺さった。
そして、どうして今、自分がユミと出逢ったのかも・・・理解できた。
「私には・・・やっぱり祐巳ちゃんが必要だったんだ・・・。
きっと、これからも・・・ずっと。・・・行こう!やっと決心がついた」
「え?ちょ、せ、聖さま!?」
ユミはセイに引っ張られるがまま小走りで境内を駆け抜けた。
セイがようやく立ち止まったのは、さっきの川の上流。神社の一番上だった。
そこでセイは鞄の中から何かを取り出し、優しくそれを撫でる。
綺麗な布に包まれたそれは、セイの洋服ダンスの中の隅っこの方にずっとあったものだ。
いつかセイにそれの正体を聞いても決して教えてくれなかったけど、
何故、それが今ここにあるのだろう?
ユミが首をかしげセイの手の平の上に置かれた小さな布を見つめていると、
セイはその布を丁寧に取ると、中から可愛らしいお雛様が顔を出した。
そして、セイはそのお雛様を撫でながらポツリポツリと話し出す。
「これね、おばあちゃんが私が生まれた日に作ってくれたんだって。
私は生まれるまで男の子か女の子か分からなくて、もしも男の子だったら、
これは多分五月人形になってたらしいんだけど、私は女の子だった。
だからおばあちゃんは慌てて自分の一番お気に入りだった着物の端っこをね、
切ってこの子の着物を作ってくれたんだって。
私さ、小さい頃からお人形遊びとかってあんまりしなかったのよ。
でもこの子だけは特別だった。だってさ、おばあちゃんの匂いがするんだもん。
だからこの子だけはずっと・・・私の・・・友達だった。
どんなに新しい友達が出来てまた居なくなっても、
この子だけは・・・変わらず私の友達で居てくれた。
でもね、今日でそれもお終い。もう・・・お別れだよ」
「・・・え?聖・・・さま?」
「ここね、流し雛やってるんだ。
最近はこんな風にお雛様自体を流す所は少ないんだよ、知ってた?」
「・・・いいえ・・・でも!いいんですか!?だ、だって・・・思い出・・・なんでしょう?!」
セイはユミの質問にゆっくりと首を振った。その顔は何故かとても穏やかで、
何だか見ているこっちが泣き出してしまいそうなほど・・・寂しそうで。
セイはお雛様を話している間中ずっと撫でていた。優しく・・・愛しそうに。
「いいの。それに、本来お雛様はこうやって流すものなんだし」
「でも・・・でも・・・」
「おばあちゃんね、きっと私の幸せを願って作ってくれたんだと思うの。
でも私・・・今凄く幸せなんだ。健康だし、親友も居る。それに・・・祐巳ちゃんだって。
もうこの子に頼らなくても、私は大丈夫。だから、この子もそろそろ還してあげようと思うんだ。
元居た・・・場所に。そしてまたいつか、きっと巡り逢えるってそう、思うから」
涙が溢れそうだった。でも、これは泣く事ではないんだと、必死になって自分に言い聞かせ、
どうにか立っていたけど、隣に居るユミの目がどんどん潤み始める。
セイは出来るだけそれを見ないように、そっと歩きだした。
境内に入ると、そこには沢山とは言えないけど人が居た。
その人達の胸にはどれも綺麗なお雛様が大切そうに抱かれてる。
あちこちから今から流す雛人形の事を考えてか、鼻をすする音が聞こえてきたけど、
そのどれも悲痛なものでは・・・なかった。
ユミがセイの服の裾を掴んでゆっくりと後をついてくる。
回されてきたペンで、皆着物の裏に思い思いの願い事を書いたけど、
セイは書かなかった。この子は、還るだけなのだから。
ついさっきユミに言った言葉を思い出したのだ。
けれど、突然、それまで黙ってただ後をついてきたユミがセイの手から人形を取り、
ペンで何か書き始めたではないか。
「ちょ、祐巳ちゃん!?」
「聖さまはバカです!!・・・聖さまの言うとおり、
この子にとっての幸せが還る事だって言うんなら、
私は何も言いません。でも・・・でも!
せめて、最後のお役目は果たさせてあげてくださいっ!!
でないと、この子が何の為に今まで聖さまの傍に居たのか・・・分からない・・・」
ユミはこの人形の事は何も知らない。けれど、これだけはハッキリと分かる。
お雛様は、女の子を守る為に生まれてきたのだ。この小さな人形もそれは同じ。
だったら、この子だって最後までセイを守りたいはずだと、そう思ったのだ。
ユミはだから、何も書かないセイの代わりに願い事を人形の着物の裏に書いた。
セイの幸せを、セイの健康を、そして、何よりこれからもずっとセイの友達で居て欲しい、と。
セイは人形の着物の裏を見なかった。お焚き上げが終わって、
もう一度セイの元に戻ってきてからもずっと。
やがてニ隻の小さな船がやってきて、そこに次々にお雛様が乗せられてゆく。
二隻の船は綺麗な紐で繋がれ、今か今かと海に流れ着くのを待っている。
セイの番が来た時、セイはそっとユミの手を取り、船の所までずっとユミの手を握っていた。
「ありがとう・・・さよう・・・なら・・・」
「・・・・・・・・・」
ポツリと呟いた声が、お雛様から離れる手が、微かにだけど震えていた・・・。
全てのお雛様を乗せ終えた船は、緩やかな流れに乗って滑り始める。
桃の花の香りがフワリと香り、もうすぐ来る春の訪れを告げていた。
一枚の花弁がふんわりと船に落ち、お雛様たちのこれからやってくるだろう長い旅の餞になる。
セイはお雛様たちが見えなくなるまで、ずっとユミの手を握っていたし、
ユミも決して離したりはしなかった。あちらこちらから泣き声や呟き声が聞こえてくる。
そのどれもがお雛様を大事に大事に想ってきた人達の最後の挨拶だった。
どの人形にも歴史があり、沢山の子供達を今まで見守ってきたのだろう。
それを思うと、ユミの目から大粒の涙が静かに流れ落ちたのも不思議ではない。
ただ、セイは泣かなかった。お雛様が見えなくなってしばらくは、
ただぼんやりと海を眺めていたけれど、しばらくするとようやく歩きだし、
無言でユミの方にハンカチを差し出してくれた。
「ダメですね、こういうの・・・ほんと、もう私ってば・・・」
「いいんじゃない?泣かなかった私の代わりに泣いてくれたんだって、
きっとあの子も分かってると思うよ?」
「ふふ・・・そうでしょうか?」
「多分、だけど」
「多分・・・ですか」
そう言って笑ったセイの顔は、どこかスッキりとした顔をしていて、
その顔を見てユミもようやく笑う事が出来た。
境内を歩いていると、どこからかホラ貝や鈴の音が聞こえてきた。
セイと顔を見合わせたユミは、まるで導かれるようにその音のする方へ行くと、
ちょうど結婚式をしていた花嫁さんが境内に出て来る所で・・・。
「神前結婚かー・・・綺麗だね、こういうのも」
「ほんとですね・・・あれ、十二単ですよね?」
「みたいだね。でも、ちょっと重そうだよ」
花嫁は十二単を身に纏い、ゆっくりとこちらに向って歩いてくる。
そしてその手には何故か・・・お神酒。どうやら出逢った人達皆に振舞っているらしく、
迷う事なく真っ直ぐにこちらに向ってやってくる。
ヤバイ・・・セイはとっさにそう思った。まだ気付いてないユミの手を取り、
その場から足早に離れようとしたのに、ユミはまだ見惚れてて一向に動こうとしない。
「ゆ、祐巳ちゃん?ほら、そろそろ行くよ?」
「えー・・・もうちょっとだけ!もうちょっとだけでいいですから!!」
「いや、あのね・・・そうじゃなくて・・・」
セイが強引にユミの手を引こうとしたちょうどその時、花嫁のお付きだった人が小走りにやってきた。
そしてユミとセイに小さな杯を手渡そうとした・・・けれど、セイは運転手。
お酒は例え目出度くても厳禁だ。でもユミは・・・未成年だけど、こういう場合は断る理由にはならない。
セイは大きなため息を落として、がっくりとうな垂れて言った。
「私は・・・これから運転しなきゃいけないんで」
その言葉にお付きの人はにっこりと笑ってユミにだけ杯を手渡し、そのまま花嫁の後ろに戻ってゆく。
こんな事ならいっそユミに運転させようか、一瞬そんな事を考えたけど、それはそれで怖い。
「あぁ・・・まさかこんな所に来てまでお酒飲む羽目になるとは・・・」
「え?何か言いました?」
「いいや、何にも・・・」
ユミの杯にドクドクとお神酒が注がれてゆく。心の中でセイは必死になってそれを止めたけど、
生憎花嫁にはそれは伝わらなかった。並々注がれたお神酒を一礼して一気に飲み干すユミ。
杯をそっと返し、クルリとこちらを振り返ったのはいいけど・・・。
「なんか・・・熱いれすよ〜〜」
「・・・やっぱり・・・」
ユミは既に酔っていた。もう、疑いようもないほど。
「ちょっと、そんなんで大丈夫?」
「らいじょーぶらいじょーぶ!」
「・・・・・・・・・・・・・」
そう言った途端、ユミは小さな石に躓いてこけそうになる。
「・・・全っ然大丈夫じゃないじゃない・・・」
もうユミの頭の中からきっとお雛様の事はすっかり抜け落ちてるだろう。
そう思ってたのに、車に乗る瞬間、ユミはふと海に視線を移し、ポツリと言った。
「もう・・・着きましたかれ〜・・・神様の・・・国に・・・」
「・・・どうかな」
セイはユミの視線の先を辿り、はるか地平線の向こうを眺めた。
もう船は見えない。もしかすると、沈んでしまったかもしれない。
でもきっとユミの言う神様の国に無事辿り着くだろう。いつか・・・きっと。
セイはフラフラのユミを車に乗せ、ゆっくりと発進させた。
来た時と同じ道を辿る途中、隣の席から聞こえてきた微かな寝息。
「ほんっと、しょうがないんだから」
信号待ちをしてる間、セイはそっとユミに上着をかけてやった。
すると、ユミは少し笑ってブツブツと寝言を言う。
「ん〜〜・・・もう着きましたか〜?」
「・・・まだだよ、多分ね」
そのユミの言葉が自分たちにあてたものなのか、それともお雛様にあてたものかは分からなかったけど、
どちらにしてもまだ着いてない。どこにも。
だって、自分たちの未来も雛人形の旅も・・・まだ始まったばかりなのだから。
おまけ。
家について、お昼ごはんを食べ損ねた事に気付いたセイは、
仕方ないからキッチンにあったカップ麺で済ます事にした。
ユミの分のお湯も沸かし、後は3分待つだけなのに、何故かユミは浮かない顔をしてる。
「うどんは・・・嫌らって言ったろに〜〜」
目の前に置かれたカップ麺はうどん。うどんは確か昨日の昼食にも食べた。
だからあれほどうどんは嫌だと言ったのに。
「仕方ないでしょ。コレしかなかったんだから」
「うー・・・」
「ほら、もう3分経ったよ。早く食べよ」
セイはカップ麺の蓋をユミの分も剥がしたけど、ユミの頬はまだ膨れたまま。
いくらなだめても一向にユミの機嫌は直らない。セイは大きなため息を落とし、
ポツリと言った。
「なによ、この酔っ払い・・・」
本当は、私も飲みたかったのに。セイはそんな言葉を飲み込んで、
いつまで経っても機嫌を直さないユミを睨んだ。
そんなセイの言葉にユミがまるでイタズラっ子のように微笑む。
「そんら事言って、本当は羨ましかったんれしょ〜?」
「そうよ!悪い!?もう!」
「ふふ、仕方ないれすね〜〜聖さまにも少しらけ分けてあげますから〜」
「・・・へ?んんっ!?」
何を思ったのか、突然、ユミに唇を塞がれた。ぎこちないユミのキスは、
とてもじゃないけど上手とは言えない。でも、想いは・・・伝わってくる。
セイはゆっくりと目を閉じ、それに大人しく従ってたけど・・・やっぱり、下手。
「んっ・・・ふぁ・・・んっむ」
「ん・・・ふ・・・」
セイは舌でユミの口内を探り、ユミの甘い声を聞いていた。
「んぁ・・・んっ・・・」
お神酒よりもずっとクラクラする。これは・・・なんだっけ?
ユミは少しづつ覚醒するボンヤリとした意識を必死になって手繰り寄せた。
けれど、いくら手繰り寄せてもこれ以上は思い出せない。
それぐらい夢中だった。セイの・・・甘いキスに。
やっと唇が離れて、驚いてセイを見上げると、意地悪にこちらを見下ろしてセイが言う。
「私にキスで勝てると思ってんの?」
「あ・・・えっと・・・」
「目、覚めた?」
「うぁ・・・はい・・・」
恥ずかしくて顔から火が出そうだった。お酒を飲むと意識が無くなる。
これはいつもの悪い癖。でも、今日ははっきりと覚えている。
お雛様の事も、自分からセイにキスを迫った事も。ユミは俯いてお箸を手に取り、小さく呟いた。
「う、うどんは・・・消化にいいですもんね」
「そうだよ。二日酔いにはもってこい」
「ですよね〜・・・私日本人だからうどん好きですし」
「だったら、もう文句言わないよね?」
「は・・・はい」
「じゃ、いただきますしようか」
「はい、いただき・・・ます」
セイは笑ってた。でも、どこか意地悪に責めるような雰囲気は和らいでない。
ユミはうどんを一本つまんで口に入れるとズルズルとすする。
本当は、帰りにでもどこかへ寄ってランチしてそのまま、
またどこかへショッピングにでも行こうと思ってたのに、
結局それは全てお神酒で酔っ払ったユミの為に流れてしまった。
多分・・・セイはそれを根に持ってるんだろう・・・と、思う。
「怒って・・・ます?」
「べっつに」
「嘘・・・でしょ?」
セイがユミを見ないときは、大抵ご機嫌斜めの時だ。
だからよく分かる。今が正に、そう。間違いなく怒ってる。
ユミはセイの隣にズルズル這いずるように移動すると、ポツリと言った。
「どうしたら・・・許してくれます?」
「そうね・・・」
セイは考えた。本当は大して怒ってもないけど、
こういう時のユミは必要以上に可愛いから・・・まぁ、今回は怒ってるって事にしておこうと。
「キスして。そしたら・・・許してあげる」
「キスですか?でも、さっき・・・」
「私は、酔ってない祐巳ちゃんにキスして欲しいんだってば。ほら、早く」
そう言ってセイは瞳を閉じた。しばらくして、唇にユミの唇が重なる。
暖かくて、甘いキス。ぎこちないけど、下手だけど・・・何よりも大切な時間。
ユミを抱き寄せて、うどんが伸びてしまう事も忘れてキスした。
何度も・・・何度も。
やがて唇を離した時にはうどんは・・・。
「で、これ・・・どうするんですか?」
ユミは伸びきった麺を一本つまんでセイの目の前にぶら下げた。
セイは苦笑いして自分の分のうどんをすすりだす。
「聖さま!!」
「なによ、もう文句言わないって言ったでしょ!?」
「これは文句じゃありませんっ!!抗議ですっ!!」
「・・・物は言い様よね・・・」
セイとユミはそれから必死になって冷めてドロドロになったうどんを食べた。
ありふれた日常。でも、それは何も特別な日の為にある訳じゃない。
こんな日常でも、毎日が特別だと・・・そう、感じるから・・・。
雛人形に願いを託し、私達はどこへ行く?
波間に見えた優しい顔が、今もずっと胸の中。
永遠にも似た旅の果て、辿り着いた場所。
どうかそこから、最後の務めを・・・。