今、どうしてここに居るのかなんて分からない。

これから先、どんなに凍えそうになったとしても、私はもう、止まらない。



落ち葉が散り始めた頃、私達は出逢った。

それはいつもと同じ朝、何となく窓の外を覗いていた時の事。

元気そうに肩の上で跳ねる髪が羨ましくて、それ以上の何かにとても惹きつけられた。

じゃれて笑った日も、切なくて目を伏せた日も、その一つ一つを思い返しては懐かしんでばかりいた。

いつからか私はそれじゃあ物足りなくなってて、気がつけば目で追っていて・・・。

今思えば、本当に色んな事があった。私達、ただの一度も交わらなかったけど、

沢山の思い出は今も大事に胸に仕舞ってある。それは私だけの宝物で、誰にも邪魔されない私だけの場所。

一度の挫折を味わって愛する事に怯えたのは、そんなにも遠くない過去の事。

学校という箱の中で思い描いた夢はいつの日にか朽ち果てて、一度は空っぽになって。

それでも私が今、こうしてここに立ってるのは沢山の理由があるけど、間違いなく君のおかげでもあると思う。

私の望んだ未来を君が持ってなくても、私はやっぱりここから動かない。

君だけを置いてここから去る事なんて出来ない。そんな風に考えたのも近い昔の話。

でもそれは間違いだった。私が居なくても君は十分歩く事が出来たんだから。

寂しくて考えたくなかっただけで、私の居ない世界でも君は十分生きる事が出来てたんだ・・・。

ただそれを認めたくなかった私こそ、君の居ない世界で生きてく自信がなかっただけで。

口では偉そうな事言いながら、全て君のせいにしたのは私。

初めはそんな気なんて全然無かった。ただの可愛い後輩だった。

ましてやまた誰かに恋愛感情を抱くなんて考えてもみなかった。

私はずっと独りで、もう二度と恋などしないと誓ったのに私はまた恋に落ちた。

あまりにもあっけなく、あまりにもゆっくりと。

自分の想いを告げたのは結局、楽になりたかったから。もうこれ以上苦しみたくなかったから。

無視できない想いを抱えたまま友達でなんていられないなんて、私が勝手に思ったから。

でもそのせいで君を傷つけて、そして逢えなくなるだなんて予想もしてなかった。

君の出した一年という答えはあまりにも重過ぎる。けれど私たちにはそれが最善の距離で、

近づきすぎて壊してしまう関係になるなら、いっそその方がいいとさえ思った。

一年という歳月が私の中の何かを変えて、そしてきっと、君の事も変えてると思う。

もう可愛い後輩じゃないだろうし、私の事なんて頼らなくても平気。

そう思ったらあんなにも寂しかったのに、今はもうそんな風には思わない。

私には私の人生が、君には君の人生が・・・そんな風に考えられるようになったのかもしれない。

少なくとも、今はもう一年なんて言う見えない敵に嫉妬する事も無い。

心はいつでも重かったあの頃とは違う。だからと言って今だって晴れわたってる訳じゃないけど、雨は降ってない。

少なくとも曇りぐらいで収まってくれてるところを見ると、この一年の間に私はほんの少しぐらいは先に進んだと言える。

「私、ちょっとだけ強くなったんだよ、祐巳ちゃん」

心の中だけで呟いたはずの声が零れた。私は今、あの桜の木の下に居る。

別にここで逢おうって連絡した訳じゃないけど、いつも大切な出逢いはここでしてきたから、

何となく足が向いてしまった。今ではもう一種のげん担ぎなのかもしれない。

あれから一年・・・長いようで短かった。出来るだけ日々の生活の中から祐巳ちゃんを追い出して、

思い出さないように必死になっていたのが初めの三ヶ月。

祐巳ちゃんばかりを考えなくなったのは、それから半年ほど後の事。

別に世の中は祐巳ちゃんが居なくても回る。それは私の世界の中でも同じ事。

じゃあどうして祐巳ちゃんが必要なのかって考えたら、ただそこに居てくれるだけで、

笑ってくれるだけで世界に色がつくと思うからだった。

モノクロの世界はあまりにも寂しい。だから私は祐巳ちゃんの傍に居たかった。

ただ・・・それだけだった。逢えないと思えば思うほど逢いたくなる心とか、

ある日うっかりどこかで祐巳ちゃんに会ってしまうかも、なんて甘い期待。

そんな事ばかり考えてるうちに、私にとっての祐巳ちゃんの存在がよく見えてきた。

お姉さまの言ったあの言葉、あれはきっと、こういう事だったのかな、って今ならよく分かる。

一歩下がってよく見れば、どれだけ大切かが見えてくる。そんな当たり前の事すら分からなくなるほど、

私はいつも誰かを追い詰めていた。あの言葉が私を縛る為の言葉ではなくて、

私を守るための言葉だったのだと知った時、私は思わず泣いてしまった。

いつも私の傍に居てくれた蓉子と江利子、私をずっと守ってくれていたお姉さま。

私が傷ついた事を、必死になって隠そうとしてくれた祥子に令。

そして、何も聞かずに居てくれた志摩子。

最後に、私の話を聞いても少しも変わらなかった由乃ちゃんに・・・祐巳ちゃん。

私は今まで沢山の人達に支えられて、今、ここに居る。

「そう・・・思うでしょ?」

桜の木の幹にそっと手を添えると、何だかほんのりと暖かい。

耳を澄ませば桜の鼓動が聞こえてきそうな程校舎は静かだった。今頃、体育館では卒業式の真っ只中。

この暖かい空気とは裏腹な厳かなあの卒業式の雰囲気は、私の一番の苦手でもある。

出来るなら泣かずに笑って別れたい。どうせなら最後まで楽しませて欲しい。

ずっとそう思ってたけど、たまには感傷に浸るのも悪くないかもしれない、なんて最近は思う。

もしもここで祐巳ちゃんと別れる事になったら、その時はきっと、感傷に浸ろう。

そして思いっきり泣く。そうすればきっと少しぐらいは吹っ切れるだろうから。

ネガティブな考えばかりが頭を過ぎって、さっきから少しもいい想像が出来ない。

それは多分、今でも自分に自信が無いからなんだろう、きっと。

祐巳ちゃんの卒業式の一週間前、志摩子から電話があった。

『後一週間だね』

私の言葉に志摩子は何も答えなかった。その代わりに聞こえてきたのは微かな嗚咽。

『どうして泣くの?』

『お姉さまは・・・どうやって卒業されたんですか?少しも寂しくは・・・無かったですか?』

この言葉に私は小さく笑った。寂しくなかったといえば嘘になる。

でも、逃げられない事も分かっていた。どうしたって離れ離れにならなければならない事もある。

『私ね、出来るだけ考えないようにしてた。置いていかなきゃならない志摩子達の事とか、

違う学校に行く蓉子や江利子の事を。だから寂しくなかった訳じゃ・・・ないよ』

『でも、それはただの現実逃避です』

『そうね。でも、大事な事よ。時には』

忘れたい事とか、今すぐに考えたくない事からほんの少し目を逸らして、

それでまた笑えるのなら、その方がいい。あまりにも現実ばかりを見つめていたら、きっと壊れてしまう。

『志摩子、志摩子は何から卒業するの?』

『・・・学校・・・です・・・』

『うん、正解。ただ学校という場所から卒業するの。別に皆から卒業する訳じゃない』

『ですが・・・不安で仕方ないんです!私・・・大事なものが沢山出来すぎて・・・だから・・・』

大事なものが沢山出来すぎて、全てを失ったような気になる卒業式。

その気持ちは痛いほどよく知ってる。新しい生活に怯えて動けない気持ちも。

でも、そんなに悪いものでもない。知ってしまえばどうってこと・・・ない。

それは恋愛と同じ。怖がっていつまでも恋しないなんて思ってたけどいざ飛び込んでみたら、

さほど辛くはなかった。切なかったし痛かったけど、辛くは・・・なかった。

『大丈夫。皆、志摩子の手を離したりしない。私も、乃梨子ちゃんも、他の皆も。

皆、志摩子の手をちゃんと握っててくれるから。だから・・・大丈夫だよ』

受話器越しに微かな笑い声が聞こえてきた。小さな声で、そうですね、って声が聞こえる。

皆、不安なんだ。見えない未来がまるで迷路みたいに複雑そうに見えて。

でも本当は案外単純。だって、私は一年も祐巳ちゃんを想い続けることが出来た。

祐巳ちゃんを想うことで私は自分の想いの深さに誇りを持つ事が出来たのだから・・・。

桜の花びらが風に乗って降りてきた。花びらは私の目の前を横切って、足元をピンクに飾る。

どうして私はここに居るのか、それは私にしか分からない。

もしも祐巳ちゃんがここに現われたら、私はまず何て言おう?

この一年間の話をしようか、それともこれからの話をしようか。

それとも、この溢れそうな桜の花びらを、しばらく二人で眺めていようか・・・。



大きな鐘の音が、卒業式の終わりを告げた。それまでシンとしていた校舎が次第に賑やかになってゆく。

私は桜の木にもたれてそっと目を閉じて、沢山の声を聞いていた。

笑い声や、泣き声。カメラの音に、おめでとうの声。そのどれもが懐かしく、そして愛しい。

体育館の裏手にひっそりと咲いたこの桜のように、私はここから静かに今日の卒業式を思い描いていた。

ある意味では、私の卒業式でもあったから。この一年の、そして長かった片思いの・・・。

両想いになったとしても、振られたとしても、今日という日が一番今の私には相応しい。

卒業生がちらほらと帰りだした頃、誰かが落ちた花びらを踏みしめてこちらにやってくるのが見えた。

多分、私には気付いてない。少女は俯いて涙を拭うような仕草をしながら真っ直ぐにこの場所へと向ってくる。

少女の正体が祐巳ちゃんだという事に気づいたのはそれからすぐの事で、

それが祐巳ちゃんだと分かっても、私の心は以外にも平静だった。

一年ぶりの再会だというのに、少しも跳ね上がらなかった。

それはきっと、私の中に毎日毎日彼女が居たからだろう・・・。

私は離れていても、毎日祐巳ちゃんに出逢っていたのだ。

「卒業、おめでとう」

その言葉に少女の体がビクンと震えた。濡れた瞳が真っ直ぐに私を射抜く。

驚いたような、笑ってるような、複雑なその表情はまさに祐巳ちゃんだった。

固まったまま動かない祐巳ちゃんの元へ近寄ろうとした私はすんでの所で足を止め、

腕を組んで桜にもたれ言った。



「で、私、いつまで待てばいいの?」




卒業を告げる鐘の音が、どこからか聞こえてくる。


私はそれに耳を傾け、今までの事を思い出す。


そしてきっと、いつまでも忘れない。


私がここに居て、君がそこに居たという事を。





終焉なんて、案外あっさりやってくる。

それは私が一番よく・・・知っていた。



朝、目が覚めて窓を開けたら、冷たい空気と暖かい空気が変わりばんこに入ってきた。

空は晴天とまではいかない晴れ。所々に浮かんだ真っ白な雲がこっちを見下ろしている。

私は大きく伸びをしていつものように鏡の前で制服に袖を通した。

タイを締めるのも今日で最後。そう思うと何故か無性に胸が苦しくなるのは、

私がまだもう少しの間高校生で居たかったからかもしれない。

「でも・・・そうは言ってられないよね」

私は引きつった笑顔で鏡を覗いて、その頬を両手でピシャリと打った。

学校の事、瞳子の事、仲間の事、そして・・・聖さまの事。

色んなものから、今日、卒業する。そしてまた、色んな事が始まる。

そう思えば多少はワクワクする気もするけど、やっぱりどこか不安で・・・。

階下からお母さんの声が聞こえてきた。これも毎朝の行事事のようなものだ。

いつもなら慌ててそのまま階段を下りるけど、今日はもう少しだけ鏡に自分の姿を映していたかった。

見納めになる、制服を着た自分の姿を。

聖さまと一年間逢わないと約束をしてから一年と少しが過ぎた。

どちらから言い出した訳でもないけど、約束はいつの間にか私が卒業するまでに伸びていた。

多分、私の心の中を聖さまが読んだのだろうと思う。あの人は本当の私の心をいつも知っていたから。

言葉には出さない私の気持ちを、いつも一番理解してくれていた人だから・・・。

そんな事を考えていたら、時間はいつの間にか進んでいた。

階下から聞こえるお母さんの叫び声にも似た声。

私は慌てて生徒手帳を胸ポケットにしまおうとして、ついうっかり落としてしまった。

落ちた拍子に中が開いて、そこから聖さまが笑いかけてくれる。

いつだったか蔦子さんに貰った一枚の聖さまの写真。その隣には私が映っている。

聖さまの髪はまだ長く、私はまだツインテールをしてる。

そんなに昔の話ではないのに、何だかもう随分昔のような気がした。

二人並んで制服姿の写真はあまり無い。聖さまが卒業した時に何枚か撮ったけど、

二人きりで撮った写真は一枚もなかったから。

私は手帳を拾い上げてゆっくりと閉じると、それを胸ポケットに仕舞った。

「さぁ、今日は卒業式だ。遅刻なんて・・・出来ないよ」

階段を下りるとそこには既に玄関で祐麒がスタンバイしていた。

「あれ?随分早いね」

「祐巳が遅いんだよ」

呆れたように笑った祐麒はそれだけ言って家を出て行ってしまう。

時計を見ると、なるほど、確かに私が遅かった。

最後の制服姿を見ていたら気付けば既に家を出る時間ではないか。

仕方なく私は朝食も食べないまま家を出た。忘れ物はないと思う。

しいて言えば、まだ勇気の準備だけが出来てなかった。

今日、聖さまに逢って、ちゃんと答えを言う。

そんな風にずっと前から考えてたのに、いざ今日になってみたら突然足が竦む。

一歩一歩あるく度にその時に近づくのだと思えば、余計に歩けなくなってしまう。

結局、そのせいで私はバスを一本乗り過ごし、学校に着いたのは遅刻ギリギリになってしまった。

席についたら親友の由乃さんがからかうように私の元へやってくる。

「祐巳さん、卒業式に遅刻は洒落になんないよ?」

「でも間に合ったもんね」

小さく舌を出した私に由乃さんが笑う。薔薇様の示しがつかないよ、って。

でも薔薇様の示しなど、私には多分誰も期待なんてしてなかったはずだ。

お姉さまは卒業する前に言った。私は、私のままでいい、と。

それ以上のものになろうとしなくてもいい、と・・・。

それがどんなに嬉しかったか、きっと誰にも分からないだろう。

あの時の言葉が薔薇様だった私を支えていたと言ってもいい。

それぐらいに心強い言葉だった。私は私でいい。それ以上でも、それ以下でもない。

そう言ってもらえた事で、私は背伸びをする事なく毎日を笑って過ごせたのだ。

例え聖さまに逢えなくても、強がったりせずにいられたのだ。

あの時、私は聖さまに言った。まだ高校でするべきことがある、と。

だからこそ聖さまの想いを受け入れる事が出来なかった。

それと同時に、私の想いを預ける事も出来なかった。

あれから時は過ぎて、私は今日卒業する。私は、ちゃんと高校でするべき事が出来ただろうか。

もう・・・後悔はないだろうか。妹の瞳子は私よりもずっとしっかりしてる。

だから何も心配してない。心配なのはむしろ私だった。

高校を卒業して、それから後どうなるのかなんて全く分からない。

大学に行くという事は、人生の進路の半分を選択したようなもの。

大体大学に行って、そこから就職先を探すのだから。

そう考えると不安で仕方ないのは当然かもしれない。

いや、それよりももっと怖いのが聖さまの事。もしも聖さまの想いが変わってしまっていれば、

私の手帳の中の写真のようにもう私には微笑んでくれないだろう。

実を言うとあの時、一年逢わないと提案したことを言ってから酷く後悔した。

全て投げ捨ててでも聖さまの胸に飛び込めば良かったかもしれない、と何度も思った。

逢えない事がこんなにも辛いとは思ってもみなかったのだ。

聖さまと離れる覚悟なんて出来てない。聖さまに恋人が出来てしまうなんて未来なんて望んでない。

でも、それは全て私が招くかもしれない未来の一つなのだ。

私は体育館の中でボンヤリと前だけを見つめていた。

不思議な事に卒業式に出てるという実感は少しもない。

これから卒業するのは私達だという実感も。でも、瞳子の送辞を聞いて私の目は潤みだした。

ああ、そうだ。卒業するのは私なんだ。他の誰でもない、私が卒業しなければならないのだ。

瞳子は涙一つ流さなかった。ただ、ずっと私だけを見つめていてくれた・・・。

答辞の役目は志摩子さんが引き受けてくれた。志摩子さんは声も無く涙を流しながら、

答辞を読みきって席に戻ってくる。私はそれを拍手で迎えた。

最後に皆で仰げば尊しを歌う時、いつか聖さまが言ったように『いと疾し』を『いと愛し』と歌う。

そうしたら、不思議と溜まっていた涙が溢れだした。

私の生活や日常の中に聖さまが居て、いつかのチョコレートのように私を影からそっと支えてくれていた。

聖さまが勝手に勘違いした歌詞は、今の私の心境にピッタリだった。

全てが愛しく、離れたくない。沢山の愛しかった日々は、少しも色褪せない。

それは多分、卒業してもいつまでもそう・・・思うだろう。

やがて、卒業式は終わった。一応は今月一杯はまだ高校に籍があるとは言え、

やはり卒業したからにはケジメはつけなければならない。

私は皆の拍手を聞きながら体育館を出る時、最後に振り返って一礼をして外に出た。

それが、私の言葉にならない感謝の気持ちだったのだ・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

卒業式が終わって皆で写真撮影をして、ようやく一人になれた時には卒業生は殆ど残ってはないかった。

隣を歩いていた由乃さんが令さまと約束があると言って帰っていき、

志摩子さんは乃梨子ちゃんを待つと言って薔薇の館へ向う。

私はそんな二人の後姿を見つめながら一人きりになって少しホッとしていた。

一人きりになって、もう少し色んなところを見て回りたかったのだ。

校庭、教室、お御堂、あちこち歩き回っているうちに色んな事を思い出して、

自然と涙が込み上げてくる。マリア様、温室、薔薇の館・・・。

「ふぇ・・・ひっく・・・」

もう止められない・・・そう思った時にはもう遅かった。

私は歩きながら嗚咽を上げて泣き出していた・・・。

気がつけば足が勝手に出逢い桜の方へと向っている事に気づいた私は、

一人で泣きたくて、桜に聞いて欲しくてその場所を目指した。

俯いて歩いていると、足元に桜の花びらが落ちてくるのが見える。

その花びらのおかげで出逢い桜がもう少しだと分かった私は、だから全く気付かなかったのだ。

その場所に他の誰かが居るなんて事。

「卒業、おめでとう」

突然の声に、私は体を強張らせた。一瞬、何が起こったのか分からなくて思わず顔を挙げて、

声の主を見つめて・・・それが聖さまだと分かってもまだ、視線を外す事が出来なくて・・・。

私は口だけで呟いた。聖さまの名前を。けれど、そのどれも言葉にはならなかった。

聖さまはそんな私を見て微笑み、桜にもたれて腕組をして言う。

「で、私、いつまで待てばいいの?」

「・・・・・・・・・・・・・・」

私は何も答えられなかった。だって、これはどういう意味だろう?

聖さまの気持ちは少しも変わってないと、そういう事?それすらも分からなくなるほど、

私の胸は一杯だった。何もかもがつっかえたまま出てこようとしない。

聖さまへの想いを告げたいのに、何故かそれは出てこない。

代わりに出て来るのはこの一年の事や卒業の事ばかり。

そんな私の心を察したのか、聖さまが小さく笑って肩をすくめた。



「いいよ、聞いてあげる」




儚くて尊くて、それがあなた。

愛しくて、切なくて、それが君。



「いいよ、聞いてあげる」

私はそう言って桜の木の根元に座り込んだ。きっと長くなる、そう思ったからだ。

座り込んだ私を見ても、祐巳ちゃんは私の傍まではやってこなかった。

その代わり、涙をボロボロ零しながら話し出す。

「私・・・私・・・この一年の間に色んな事があったんです。

多分、色んな意味で涙も沢山流しました・・・でも、今が・・・今が一番苦しくて・・・」

聖さまは私の話をずっと黙って聞いてくれていた。慰めもせず、なだめる事もしない。

ただ、私が全てを喋り終えるのを待っているように。

でも、興味が無いって感じではなかった。それどころか、微笑んで聞いてくれていたのだ。

「私・・・卒業する事がこんなにも辛いだなんて考えてなくて・・・私、何から卒業するんだろう?とか、

そんな事考えたら急に怖くなって・・・」

「それは誰でもだよ」

「そうでしょうか。皆は納得して卒業してるんじゃ?」

「まさか。皆やり残した事とか、言えなかった事を胸の中に残したまま卒業するんだよ。

いつかそれを消化していい思い出に出来るように、でなきゃ思い出せないでしょう?」

覚えているのは、大抵後悔している事。もちろん良い思い出もある。

でも後悔してる事を思い出せばそれは今度教訓になる。

もう二度と同じ過ちを犯さないための、いい教訓に。

私の言葉に祐巳ちゃんは静かに頷いて、ホッとしたように微笑んだ。そしてまた話し出す。

ゆっくりと・・・慎重に。

「私、聖さまに言いました。まだしたい事があるから、だから付き合えないって・・・、

でも、ずっとずっと後悔してたんです・・・だって、聖さまと付き合ってなくても、

私は何一つ満足に出来なかった・・・それならいっそ、あの時に聖さまと付き合ってれば良かっただなんて、

そんな事まで考えてしまって・・・私、本当に最低なんです・・・」

「うん、それで?」

祐巳ちゃんの瞳から零れ落ちた涙がピンクの絨毯を濡らす。

そうか、祐巳ちゃんはそんな事を考えながら暮らしていたのか。

そんな事を考えると何だか切なかった。正直、私はそうしてくれても全然構わなかったのだ、本当は。

私に逃げてくれても、それでも良かった。でも、祐巳ちゃんの決心は固かった。

だから私はあの条件を飲んだのだ。それでも、今それが間違いだったと言う。

そんな風に言われたら、私はどうすれば良かったというのか。

私は顔を挙げて真っ直ぐに祐巳ちゃんを見つめた。

すると、祐巳ちゃんもまた真っ直ぐに私を見つめてくる。祐巳ちゃんの肩が小さく震えた。

呼吸を整えるように息を吸い込んだからだ。一呼吸置いて、祐巳ちゃんはまた話し出す。

「でもね、聖さま・・・それじゃあダメだって・・・思ったんです・・・。

だって、それじゃあ結局・・・何も変わらない・・・私、守られてばっかりに・・・なっちゃう・・・」

「それじゃあダメだったの?私に守られるのは嫌だった?」

私の言葉に祐巳ちゃんは小さく首を振って見せた。そして・・・俯いて小さな声でポツリと呟く。

「私・・・聖さまと並びたい・・・聖さまの隣を・・・歩きたい・・・」

「・・・祐巳ちゃん・・・」

この気持ちを何て表現すればいいんだろう。

守りたいと思ってた子は、ずっと私と同じように考えていたんだ。

それを知った今、私は胸が熱くなるのを感じた。胸の奥が震える・・・心が、泣いてる。

「私ね、だから今は後悔してません。

もしも聖さまに他に好きな人が出来てたとしたら・・・するかもしれませんけど・・・」

「・・・・・・・・・」

小さく首を振った私を見て、祐巳ちゃんがにっこりと笑った。

不安そだった顔が一瞬でころりと変わったのを見て、その懐かしさに思わず笑ってしまう。

私は立ち上がって一歩、祐巳ちゃんに近づいた。

「で、結局、私はいつまで返事待てばいいの?」

笑って両手を広げた私の元に、祐巳ちゃんが笑いながら涙を流して駆け寄ってくる。

さほど遠くないはずなのに、駆け寄ってくる祐巳ちゃんはやけにゆっくりに感じた。

春の風が随分伸びた祐巳ちゃんの髪を揺らす。桜は祐巳ちゃんの動きに合わせて舞い上がり、

ゆっくりと落ちるのを、私は目を細めて見ていた。

やがて腕の中に飛び込んできた祐巳ちゃんが私の耳元でポツリと囁く・・・。



「私・・・聖さまの事が───」





手と、心と、声を繋いで、


あなたと共に私は行く。


これからは、あなたと二人で書きましょう。


私達だけのお話を・・・。









エピローグ。


「私・・・聖さまの事が───」

「・・・ありがとう・・・」

聞こえなさそうで聞こえた声は、しっかりと私の心に焼き付いた。

体を離して触れた祐巳ちゃんの唇・・・一年前と何も変わらない。

「卒業、おめでとう」

「はい、ありがとうございます」

何が嬉しいかなんて、もうとっくに答えは出ている。

全てが愛しく、全てが嬉しい。私はそっと私の唇に触れていた聖さまの手を取った。

それに驚いたように、でも嬉しそうに笑った聖さまの顔が凄く印象的。

「かえろっか」

「はい!」

しばらく歩いたところで、聖さまがふと足を止めた。

そして私を見下ろして言う。

「言うの忘れてた。私もその・・・祐巳ちゃんの事・・・好きだから。えっと・・・それだけ!」

「・・・」

恥ずかしそうに俯いた聖さまの顔を覗き込むと、顔をギュって押されてしまう。

どうやら本気で照れてるみたい。私はそれがおかしくて思わず笑ってしまった。

睨むような聖さまの視線が私を刺すけど、私にはそれすらも愛しくて・・・。

「聖さま、いと愛し日々・・・ですね」

私の言葉に聖さまは、まだ覚えてたの?と目を丸くした。

そして小さく頷いて笑う。

「うん。愛しいよ、凄く・・・ね」



繋いだ指先から伝わる愛しさ。

誰にもバレないように、私だけの秘密にしよう。

心の中でそう誓うと、私たちは校舎から出た。

正門をくぐり、もう一度振り返って今度は笑って一礼する。

それを見てた聖さまは不思議そうに首を傾げてそんな私を見つめていた。

ピンク色の桜が舞う下で私は最愛の人を得て、永遠を願った。

足元を撫でる風は花びらを舞い上げて私と聖さまを祝福してくれてるみたいにも見える。


終焉は案外あっけなくやってくる。でも、そこで終わりじゃない。

ここから先、まだまだ続く長い道を・・・あなたと歩こう。

どこまでも続く、この長い道のりを。




















マリみて聖×祐巳SS  完

長らくのご愛読、本当にありがとうございました。



銭麻呂。