あなた達の声を聞くだけで、幸せだった。
あなた達の名を呼ぶだけで、幸せだった。
あなた達ほど、私の中に深く関わった人達は・・・きっと居ない。
三年生を送る会と薔薇様を送り出す会が終わって、
私達がこの場所に顔を出すのももうそんなにない。
それでも毎日はまるで私達を無視するみたいに過ぎてゆく。
今時間が止まって欲しい。どんなに願ってもそれは叶わない。時間は私達を別れさせ、
無常に過ぎてゆくものだという事も知ってる。
去年ヨウコたちが卒業した時、私は残される者の気分を味わい、
切なくて苦しくて壇上で泣いてしまった。
でも、今年は違う。送り出される者の気分を味あわなければならないのだ。
何でもそうかもしれないけど、卒業とは、なんて苦しいものなのだろう。
ましてや、過ごしてきた時間が楽しければ楽しいほど苦しい。
「お姉さま、どうかされましたか?」
ユミが隣でポツリと私を見上げ呟いた。こんな風にあなたとこの銀杏並木を歩くのももう後少しなのね。
私はそんな台詞を飲み込んだ。こんな台詞を言ってユミを悲しませたくない。
でも、じゃあ私のこの寂しさはどうすればいいのだろう。
妹に心配をかけまいと気丈に振舞って、そして私の気持ちはどうすれば?
無理矢理微笑んだ私の手を、ユミがそっと取った。
「お姉さまが卒業しても、私はずっと祥子さまの妹です。だから・・・そんな顔・・・しないでください」
「・・・そうね、本当に・・・そうよね・・・」
ユミの言葉に涙が零れそうになった。でも私は知ってる。
ユミは私の卒業後、今ほど近くに居てくれる訳がないだなんて事。
ユミの隣には今やトウコが、そして一年後にはセイが・・・居るのだろう。
私は卒業なんてしたくない。本当は、ずっとずっとユミの隣に居たかったのだ。
同じ景色を見て、同じ道をこうしていつまでも手を繋いで歩いてたくて。
でも、やっぱりそれは叶わない。私は・・・もうすぐ卒業する。
「お姉さまー!紅薔薇さまー!!」
後ろから軽快なトウコの声が聞こえてきた。その声に嬉しそうに振り返るユミ。
その顔はまるでヨウコのよう。なるほど、姉とは皆こういう顔になるのか、と私は改めて知った。
私はどうだったんだろう?私もユミに呼ばれるたびにこんな風に嬉しそうな顔をしていたのだろうか?
トウコがユミの妹になった時、ホッとしたのと同時にとても寂しくなった。
まるで我が子が巣立ちして行ってしまうようで悲しかったのだ。
それはセイに抱いた時の感情ととてもよく似ていた。
結局私は、誰にもユミを取られたくなかっただけ。それがとてもよく分かって、酷く自分が醜いように思えて。
放課後、皆が帰った後の薔薇の館にレイと二人きりになった。
そう言えば・・・レイとももうお別れなのだ・・・。
「令とも・・・お別れなのね」
ポツリと呟いた私に、レイは小さく微笑んだ。
「そんな言い方しないでよ、私達はずっと親友でしょ?」
「そうだけど・・・でも、今までみたいに毎日会えないんですもの。やっぱり寂しいわ」
私の言葉に、レイは頷いてみせると私の持っていた空のティーカップを取り、紅茶を淹れてくれる。
レイの淹れてくれるお茶も、もうこれで終わりなのね・・・そんな事考えたら涙がポツリと紅茶の中に落ちた。
それを見ても、レイは少しも慌てなかった。わざと見ない振りをして私から視線をそっと外してくれる。
そんな優しさが紅茶よりも暖かくて、とうとう私は嗚咽を堪えることが出来なくなってしまった。
どれぐらい泣いていたのだろう。しばらくして泣き止んだ私にレイが静かに言う。
「祥子は何を卒業するの?」
「・・・何って・・・学校に・・・決まってるじゃない」
「そうよね。でも、今の祥子の雰囲気だと全ての事から卒業するように見えるよ」
「全ての・・・事?」
「そう。学校だけじゃなくて、私達の関係や祐巳ちゃんとの関係も含めて、全ての事から」
「・・・・・・・・・・・・」
私はそれ以上何も言えなかった。確かに私は卒業する。でも、それは学校を卒業するというだけ。
別にユミやレイから卒業する訳じゃない。
「でも・・・やっぱりそんな風に割り切れないわ」
「そうね。それは私も同じかも。由乃は家が隣だけど、そういう事じゃない。
もうこうやってここで皆が集まってお茶する事は無いんだな、なんて思うと・・・やっぱり私も寂しいもの」
そうなのだ。理屈では分かってる。ただ感情が追いついてくれないだけ。
こんな時に思う。私は一体どれだけの人に支えられていたのだろうか、という不安。
卒業するって事だけが寂しい訳じゃない。卒業して新しい生活が始まるのが怖いのも・・・ある。
だから今更こんな風に泣きそうになってしまうのかもしれない。
「祥子はまだいいじゃない。祐巳ちゃんに可愛い妹が出来たんだから。
由乃なんて来年作るなんて言って、結局私の居る間には妹作らないんだもの」
そう言って困ったように笑ったレイの横顔は、やっぱり凄く・・・切なく見える。
「それもそうね。でも・・・妹が出来てしまえばそれはそれで・・・寂しいものよ」
「どうして?構ってくれなくなっちゃったから?」
イタズラに笑うレイ。私はそんなレイの言葉に小さく頷いて見せた。
ユミが構ってくれなくなったのか、私が先に距離を取り始めたのか。
それは分からないけれど、私とユミの関係よりもトウコとユミの関係の方が何だか強いように思えて・・・。
何か新しく守るべきモノが出来たら、人の興味はそちらに行ってしまう。簡単に。
でもそれは仕方の無いこと。別に私への愛情が薄れた訳ではないって事も私は分かってる。
それでも、怖いのだ。悲しいのだ。寂しいのだ。理屈じゃない。
比べるものなんて無いはず。でも人は無意識のうちに比べている。少なくとも私はそう。
でなきゃこんなにも卑屈にはならないだろう。トウコやセイにヤキモチを妬くことなどなかった筈。
「祐巳ちゃんはそんな子じゃないって祥子が一番よく知ってるでしょ?」
「そうね、そうよ。でも、祐巳には沢山の大切な人が出来ていって、
私もその中のやがて一人になってしまうのかと思ったら・・・何だかやるせないじゃない」
「祥子、それで十分じゃない。大切な人の中の一人で十分じゃない。
何が不満なの?祐巳ちゃんの中でお姉さまはこれからもずっと祥子しか居ない。
祐巳ちゃんの中の大事なお姉さまという座はあなたのものなんだから、それで十分じゃない」
「そうだけど・・・分かってるのよ、頭では。でも卒業が近づくとどうしても・・・ね」
「確かに。センチメンタルになるよね。私達、結局何か残せたのかなぁ?」
窓の外を見つめながらレイが冗談交じりに呟いた。私たちの残せたモノ。
それはきっと、目には見えない大切なモノ。繋がりとか、想いとか、そういうモノ。
ヨウコ達が卒業する時、孫に遺言めいた事を残した。それは一種の伝統のようなものだけど、
私はトウコに何て言おう?だって、トウコはきっと私が言わなくてもユミを支えてくれる。
何も言わなくてもあの子なら大丈夫。心配なのは、むしろ私の方。
いくら強がって見せても私は本当はとても怖がりで臆病だから。
残したかった想いも、私は何も伝えられなかったかもしれない。
でも、どこかではきっとユミに伝わっていたはずだと信じたい。
大きなため息を落とす私を見て、レイが声を出して笑った。
「何か他にも祥子には心配事があるみたいね?」
「そう・・・見える?」
レイは私の言葉に頷いた。とてもはっきりと。心配事。それはやっぱりセイの事。
ユミは一年逢わないと約束したらしいけれど、私は春からセイと同じ大学に通う。
どこかでばったり会ってしまって、辛い態度を取らないともいいきれない。
きっとセイの事だからある程度は覚悟してるかもしれない。
でも、本当はセイにも伝えたい事は沢山あるはずなのだ。
ただ、今はまだそれが言葉にならないだけで、整理がつかないだけで・・・。
ユミはセイが好きで、セイもユミが好きで、トウコはそれを知ってる上でユミの妹になった。
トウコの気持ちを考えればきっとユミには打ち明ける勇気は無かっただろう。
それでもあの二人は毎日毎日姉妹らしくなってゆく。
もしかしたら、私の知らない所でユミはセイの話をしたのかもしれない。
だとしたら、私はやっぱり卒業する人間なのだな、なんて考えが過ぎってしまって。
別にどうでもいいだなんて思われてるはずが無い。
ユミの事だ。きっと私に余計な心配をかけさせたくないだろう。
でもそれはあまりにも寂しいじゃない。一言くらい私に相談してくれてもいいじゃない。
そこまで考えて、私はふと考えた。でももしその事をユミに相談されたとしたら、
私はどうしただろう?と。そして思い至った答え。それは・・・。
「・・・きっと反対したんでしょうね・・・」
「ん?何か言った?」
「いいえ、なんでもないわ」
きっと私は反対した。そして二人の問題なのに私はそれをぶち壊してたに違いない。
去年ユミが薔薇の館にやってきた時、何の取り得も無いただの一年生だと思った。
それでもヨウコの売り言葉に買い言葉で私はユミを妹にすると決めた。
あの時から考えれば、よく知ってたはずなのに。あの子は決して答えを人に任せたりしない。
ちゃんと自分で考え、どんな激流でも自分を見失わない芯の強い子だという事を。
ああ、そうだ。私はどうしてそれをずっと忘れてしまっていたのだろう。
あの子はもう初めて出会ったときからずっと私の巣の中には居なかった。
私が守らなくても、あの子はいつも一人でちゃんと立っていたじゃない。
そんな事を思い出して、私は小さく笑った。
「どうしたの?何か面白いことでも思い出した?」
「いいえ、祐巳と初めて会った日の事を少し」
「ああ!あの時は大変だったね。祥子が祐巳ちゃんを押し潰してさ!
妹になってって言う祥子を皆の前で振ったっけ!あの時の祥子の顔!私今でも忘れないわ。
それから・・・聖さまの賭けに乗ったんだっけ?」
「そうよ。それで私、嫌々シンデレラをやる羽目になったんですもの」
「そうそう!でもさ、結構ちゃんとやってたよね?」
「ええ、色々と・・・そう、本当に色々とあったから・・・」
あの時追いかけてきてくれたユミ。
痛む胸をそっと包み込んでくれたのは、あの小さな何の取り得も無いと思った少女の手だった。
「でも次の日にはちゃっかり祐巳ちゃんは祥子の妹になってるし、これで安泰だーって思ったっけ。
そっか・・・あれからもう・・・一年半も経つのね」
「そうよ・・・あれからもう、一年半よ」
「長かった?」
「・・・いいえ。短かったわ」
「うん、私も。どうしてかな・・・楽しかったのにね。あんなにも毎日が楽しかったのにね・・・」
レイがポツリと呟いた。その瞳は微かに潤んでいる。
「ええ、楽しかった・・・毎日が本当に・・・」
私は笑うつもりだった。それなのに、何故か零れたのは・・・涙。
私達は無言で泣いた。いつもの席について、一言も話さずに。
この部屋の温もり、ビスケットの扉、軋む階段、そして・・・皆の笑い声。
目を閉じれば聞こえてきそうなのに、目を開ければ私達しか居ない。
そして、あと少ししたら・・・私たちすら、ここに居なくなる。
「ねぇ令。私、あなたに会えて、皆に会えて、本当に幸せだったわ」
私の声にレイがゆっくりと顔を挙げた。その瞳はまだ涙で滲んでいたけど、口元は微笑んでいる。
「私も。私もよ、祥子。祥子と過ごした三年間は、絶対に忘れない。
出会った日も、修学旅行も、ここで過ごした日々も、今日ここで泣いた事も、
きっとずっと忘れないから。だからお願い。祥子は・・・そのままで居てね。
ずっといつまでも、祥子自身を卒業・・・してしまわないでね?」
「令も・・・ね・・・」
レイが重ねた手の平は、生温い。でも今はそれが心地よかった。
レイの最後のお願い。私達の高校生活最期の約束。決して自分は見失わないように。
これから先何があっても、流れに飲まれてしまわないように。
私達は卒業する。この学校に通うのも、もう後少し。
それが寂しくない訳が無い。置いていかれるよりも、ずっとずっと寂しい。
「そろそろ・・・帰りましょうか、令」
「そうね。それじゃあ祥子、カップ持ってきて」
「ええ」
私は二年ぶりにレイと並んでカップを洗った。
その水の冷たさがちょうどこの薔薇の館に通いたての頃を思い出させる。
それをレイに言うと、レイも頷き笑った。
「私も、今ちょうどそれ思い出してたとこ」
「来年はこんな風に祐巳たちも感傷に浸るのかしら」
「そうなんじゃない?きっと、お姉さま達もこうやってここで最後にカップ洗ってたと思うよ?」
「そうかしら?」
「そうだよ。で、今年は私達が、そして来年は由乃達が同じことをするのよ、きっと」
洗いあがったカップを二つ並べて、レイは満足そうに微笑んだ。
「そう・・・よね」
「そうよ。代々続いていくの、この儀式は」
「儀式・・・ね」
何だかそれを思うとおかしかった。ただカップを洗っただけなのに。
カップのお茶を涙と一緒に飲み干して、そしてそれを綺麗に洗って冷たい水に流して終わり。
だからこれは、カップを洗っただけじゃない。私達の心そのものを洗ったのだ。
思い出を胸に封じ込める為に・・・。
私達は薔薇の館のビスケットの扉をゆっくりと閉めた。階段をギシギシ言わせながら下りてゆく。
そして薔薇の館のドアを閉める前に、どちらともなく呟いた声はピタリと重なった。
「「ごきげんよう」」
まるで心が重なったみたいな瞬間に顔を見合わせた私達は、それに触れることなく歩き出した。
この三年間の間に私には沢山の思い出が出来て、大切な人もモノも、沢山出来た。
だから私はそれを持っていこう。落とさないように、失くしてしまわないように。
私の好きだった時間や思い出を、全て持って私は卒業する。
この暖かい部屋も、ビスケットの扉も、軋む階段も置いて行くけど、皆の笑い声だけはこの胸に・・・。
新しく始まる生活の前に、ほんの少し休憩をしよう。
息を吐いて、目を閉じて、心にそっと聞いてみる。
大切な思い出、出来ましたか?大切な人、出来ましたか?
何も落としてませんか?何も失くしてませんか?
それがきっと、歩き出す時の勇気になるから。