どうして離れていても笑えるのだろう。どうしてそんな風に幸せそうに笑うのだろう。
トウコは胸に大量の薔薇の花束を抱えながら早足で校舎を横切った。
ユミの忠告通り、出来るだけ薔薇の花束を包む新聞紙が制服につかないように。
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「瞳子、いい?薔薇の花束を運ぶ時はこう、出来るだけ体から離した方がいいの。
でないと・・・大変な目に遭うんだから」
「・・・大変な目といいますと?」
「そ・・・それは・・・とにかく!大変なんだからっ!ね、由乃さん!!」
ユミは後ろでプリントをまとめたものをさっきからずっとホッチキスで止めてるヨシノに言った。
それを聞いたヨシノは一瞬手を止め、こちらを向いてイタズラに笑う。
「多分、あれは祐巳さんだけだと思うけど」
「あれ?」
「そう。去年は祐巳さんがその薔薇を運んだの。でもね、ほら祐巳さんドジじゃない。
水が新聞紙から染み出してるのに気付かなくて、スカートが濡れちゃったんだよね。
で、肝心の三年生を送る会にたった一人ジャージで出たって訳」
からかうように笑ったヨシノに向ってユミは握りこぶしを振り回して顔を真赤にしてる。
なるほど。それでユミはあんなにも忠告を・・・。トウコは隣でまだ顔を赤くしてるユミを見て、
大きなため息をこぼした。でも、それは呆れてる訳じゃない。
あまりにもユミらしくて笑いを堪える為の溜息だった。
気がつけばユミはトウコの心の中の琴線に触れ、そしてそれを優しく撫でてくれていた。
あまりにもそれが心地よくて、うっかり身を任せてしまいそうになった事も何度もあったけれど、
自分の事を考えると、安易にそれは出来なくて。
でも、結局どんなに壁を作ってもそれを壊してくれたのは・・・やっぱりユミだけだった。
そして壊れた壁越しに周りが明るく照らし出された時、初めて思ったのだ。この人なら大丈夫・・・と。
ユミがセイを好きなのは随分前から知ってたし、それについて悩まない訳もなかったけど、
ユミの存在は自分が思ってたよりもずっとずっと大きくて。
セイの事を足しても、自分の事を足してもまだおつりが来そうなほど大きくて・・・。
「大丈夫ですわ、お姉さま。私はそんなにドジではありませんから」
「う・・・」
クスリと思わず漏らした笑みを見てユミは微笑むと、
小さく頷いて、行ってらっしゃい、と小さく手を振ってトウコを送り出してくれた。
外に出ると予想以上に冷たい風が足元をピシャリと叩いてはすり抜けて行く。
トウコは肩を小さく震わせて出来るだけ早足で体育館に向うことにした。
「えっと・・・これが終わったら薔薇様を送る会の準備をしなきゃならないのよね・・・」
ボソリと一人ごちた呟き声は風にサッと溶けて消える。思えば、この時期は何て忙しいんだろう。
沢山の行事が次から次へと目白押しで、とてもじゃないけどついていけそうにない。
でも、そんな事も言ってられないと思い直したトウコは、薔薇を抱えなおして体育館へと急いだ。
体育館に行くと、そこではノリコが椅子の配置について一人頭を悩ませていた。
「ああ、瞳子!いい所に・・・ちょっと手伝ってくれない?」
「ええ、構いませんわよ」
トウコは薔薇を花瓶に活けると、ノリコの元へと駆け寄った。どれぐらい配列の事で悩んでいただろう。
気がつけば後ろにシマコとヨシノが立っていたのだ。
「まだここに居たのね。さぁ二人とも、ここは私達がやっておくから、
あなた達は薔薇様を送る会の準備に入ってちょうだい」
「え?で、でも・・・」
「いいから、いいから。はい、コレ」
そう言ってヨシノに渡されたのは小さなメモ。
薔薇様を送る会の準備に必要な小道具がびっしりと書き出されていた。
二人きりで持てるだろうか・・・思わずノリコの方を見ると、案の定ノリコも苦笑いしている。
体育館を出てトウコとノリコはお互い持ってくるものを半分づつに分けて、手分けする事にした。
その方がきっと効率もいいし、何よりも早く済ます事が出来そうだと、そう思ったのだ。
待ち合わせ場所は体育館の前。つまり、ここ。
もしどちらかが遅れても体育館の中で待ってればいいとそう思ったから。
トウコは二つに千切った紙を見つめながらあちこち歩き回った。
端から端から集めて行く作業は単調だけど、宝探しゲームみたいで何だか楽しい。
やがて気付けば両手はすでに一杯になっていて、もう何も持てそうにないと判断したトウコはクルリと踵を返し、
体育館へ戻ろうと歩き出したその時だった。突然誰かがトウコの肩を叩いたのだ。
驚いて振り返ったトウコの目の前に居たのは、トウコが予想もしていなかった人物。
「久しぶり、重そうだね。手伝おうか?」
「・・・聖さま・・・」
よりによって一番会いたくない人に呼び止められたトウコは、思わずその場で固まってしまった。
両手から零れ落ちる小道具たち・・・それを拾い上げるセイをただじっと見ている事しか出来なくて。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます・・・それでは、私はこれで・・・」
さっさとその場を離れたくてトウコは歩き去ろうとしたけれど、そんなトウコにセイは言った。
「私も嫌われたものねー」
軽い口調でそんな風に言うセイの横顔は何故か少しだけ寂しそうに見える。
「あの?」
「あ、そうだ。祐巳ちゃんの妹になったんだって?おめでとう」
どうしてこの人がそんな事知ってるんだろう・・・そこまで考えて、ふと思い当たった。
そうだ、この人はシマコの姉だったのだ、と。きっと、シマコにでも聞いたのだろう。
おめでとう、という言葉は結構沢山の人に言われた。でも、セイから聞くのは・・・何か引っかかるものがある。
それが何なのかは分からないけれど、何かが釈然としないのだ。
「あれ?嬉しくないの?」
セイは意地悪に微笑んでトウコを見下ろし、最後の荷物をトウコの腕の中に押し込む。
「嬉しくない訳ではありませんが・・・」
「うん、だったらいいんだけど」
そう言ってセイは近くにあったベンチに腰掛け、手招きをしてトウコを呼んだ。
セイについて、トウコはあまりよく知らない。
一度だけこの間ユミに聞いたけれど、上手いことはぐらかされてしまって結局大した事は聞けなくて。
でもノリコに聞くと、とてもじゃないけどシマコの姉とは思えない、なんて言うし、
シマコに聞くと、優しくて素敵な人よ、と言う。
サチコに聞けば、下級生から絶大な人気があったけど本当はとても寂しい人、などと言うし。
・・・一体どれがセイなのかよく分からない。多分、どれも当たりでどれも外れなのだろう。
いや、シマコの意見が一番正しいと判断するのが、この場合はいいのかもしれないけど。
トウコは渋々セイの隣に腰掛けると、落ちそうな荷物を横に置いた。
「祐巳ちゃんの妹になるってのは、なかなか大変そうだよね」
突然、セイはそんな事を言い出した。何かを思い出すように、懐かしむように。
「そう・・・でしょうか。私は大変だなんて思った事はまだありませんわ」
「まだ・・・ね」
薄く笑ったセイは本当に綺麗な顔をしていた。
日本人離れした顔立ちは、今までトウコの傍に居た美人とは少し違う。
もしかしてユミは・・・セイの顔が好きなのでは?
一瞬だけど、そんな考えが頭に浮かんですぐにそれを振り払った。
そして、本当はずっとずっと聞きたかった事をセイに聞いてみようと思ったのは、
しばらく無言で空を見上げてからだった。
「聖さまは・・・お姉さまのどこが好きなんですか?まるで違うタイプなのに」
答えを知りたいようで知りたくない。胸が痛くなる。別にユミに恋愛感情を抱いた事は無いけれど、
それでもこんな時、どうしても何かに負けたような気分になってしまう。
けれど、セイから返ってきた言葉はあまりにも・・・意外だった。
「さぁ・・・分かんない」
「・・・分かんないって・・・本気ですか?」
「うん。本気も本気。だって、そうでしょ?そんな簡単に理由が言える好きなんて、ただの好きだよ。
犬や猫に感じる想いと大して変わんないじゃない」
「犬や猫って・・・」
そりゃ、確かにそうかもしれないけど!でも、何かしら理由はあるでしょう?普通。
トウコは煮え切らない何かを必死になって押さえ込もうとした。セイはよく分からない。
もしかしたら、ちゃんと理由はあるけれどそれをトウコには言いたくないだけなのかもしれない。
でも、それにしても他に何か言い様があるだろう。
「じゃあ聞くけど、瞳子ちゃん・・・だっけ?瞳子ちゃんはどうして祐巳ちゃんの妹になったの?」
「私ですか?私は・・・」
ユミしか居ない、と、そう思ったからだ。高い高い壁を壊してトウコを救ってくれたのはユミだったから。
だから、そんな人が求めてくれて断る理由も無いと思った。
本当は、どんなに否定しても逃げられなかった。ユミを拒むことなど出来るはずも無かったのだ。
トウコはセイを真っ直ぐに見上げ、その瞳の奥を覗き込む。
「私は、祐巳さましか居ないと思ったからですわ」
自信満々に答えたトウコの言葉に、セイはにっこりと微笑んだ。それから小さく頷く。
「私もそう。どこが好き?って聞かれたら、だから返答に困る。
祐巳ちゃんの全てって言えるほどまだ私達はお互いを知らないし・・・ね。
だから瞳子ちゃんは聞き方を間違えてる。どこが好きかとか、そんなのはどうでもいいのよ。
重要なのは、どれぐらい好きかって事だと、私は思う」
「では、どれぐらい好きなんですか?聖さまは」
「そうねー・・・嘘っぽく言うと宇宙と同じぐらい。でも、真面目に答えると・・・」
「真面目に答えると?」
セイはそこまで言って黙り込んだ。まるで何か見えない物を目で追ってるみたいに視線が宙を泳ぐ。
答えを探してるのか、それとも言おうかどうしようか迷っているのか、
生憎それはトウコには分からなかった。
「そうね、一年逢わないでもずっと想ってられるぐらい・・・かな。
例えば祐巳ちゃんが生きてさえ居てくれたら、振られても私は別にいいって思えるぐらい愛しいと思える。
逢えなくてもあそこに居るんだって思うだけで幸せになれる。それぐらい好きかなー」
はぐらかすように軽く呟いた語尾が照れ隠しだって事は、トウコにも分かった。
セイは嘘をついていない。多分、トウコがユミの妹だからだろうか?
「正直なんですね、聖さまは」
「そうでしょ?祐巳ちゃんの妹には株上げとかないとね」
「・・・・・でも、素直ではないんですね」
トウコの言葉にセイは、ふふふ、と小さく笑った。
何となく、ユミがセイの事が好きだというのが分かった気がする。
この人、ユミの事を本当に大事にしてる。多分、他の誰よりも。
「そう言えば・・・それ、まだいいの?」
セイはそう言ってトウコの横に置いてある小道具たちを指差し、その後に自分の腕時計を見せた。
その時間を見て思わず小さな悲鳴を上げて立ち上がったトウコを、セイはからかうように笑う。
両手に荷物をかき集めセイにペコリとお辞儀をすると、そんなトウコにセイが言った。
「そうだ!あのさー、30分したらもう一回ここに来てくれない?渡したい物があるから。
あ、でも最低二人で来るように!以上、解散!」
「え?ど、どうして・・・」
「30分後のお楽しみ」
「はぁ・・・」
何だかよく分からないけれど、とりあえずセイの言うとおりにする事にしたトウコは、
多分痺れを切らして待ちぼうけてるだろうノリコの元へと急いだ。
案の定、ノリコは腕を組んで怖い顔をしてこちらを睨み付けている。
「瞳子!遅いっ!!どこで迷子になってたの?」
「迷子だなんて・・・事情は後から話しますわ。とりあえずコレを届けに行きましょう」
「うん、それはいいけど・・・本当に寒かったんだから!」
「中で待っているとばかり思ってたんですもの」
「そうだけど・・・来ても私が居ないと寂しいかと思って・・・」
ノリコはそう言ってそっと俯いた。いつだって気遣ってくれる親友。それがどれほど有難いかは、
ユミの妹になるときに嫌というほど思い知った。
「ありがとう、乃梨子さん」
「いいえぇ、どういたしまして」
多少棘はあるけど、顔は笑ってる。セイの言うとおり、どこが好き?
よりもどれだけ好き?の方が重要なのかもしれない。
だって、今トウコはノリコがどれだけ好きか、なんて事を考えていたのだから。
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「おー!居た居た。はい、コレ。クリスマスプレゼント。皆で仲良く飲んでね」
そう言ってセイに渡されたのは・・・大量の栄養ドリンク・・・。
どんな顔して女子大生がこんな物を大量に買い付けてきたのか・・・それがとても気になる。
けれど、それよりも気になるのがどうしてこれがクリスマスプレゼントになるのかって事。
「何です、コレ・・・」
トウコよりも先にノリコが怪訝な顔してセイに尋ねた。
「何って、見ての通り、栄養ドリンクじゃない」
「それは見れば分かりますよ!そうではなくて、どうしてこんな物を私達にくれるのかって事です」
責めるようなノリコの勢いに、セイは苦笑いしながらそっとトウコの後ろに隠れる振りをしてボソリと、
おー怖い怖い、と呟いたセイが何だか可愛らしい。
「いやね、去年私達を送り出すときにどこかの誰かさんがぶっ倒れてね。
だから、今年はそんな事にならないようにあらかじめ渡しておこうと思って」
そう言ってセイはトウコに向って小さなウインクをした。それを見てトウコは一瞬で理解した。
倒れたのは・・・紛れもなくユミだという事を。そして、多分その時もセイがユミにこれを渡したのだろう。
だから言わばこれは、ユミへのプレゼントなのだ、きっと。
本当にこの人は素直じゃない。ユミに渡すためにわざわざ人数分を買ってくるのだから。
「とりあえず・・・ありがとうございます。それでは、ごきげんよう」
そんな事を全く知らないノリコはセイにペコリとお辞儀をしてクルリと踵を返した。
そんなノリコに置いていかれないようトウコが追いかけようとすると、後ろからセイの声が聞こえてくる。
「あ!そう言えば・・・今年の隠し芸は二人とも何するの?」
・・・って。トウコとノリコはピタリと立ち止まってお互いの顔を見合わせ、
首を傾げた所にまた聞こえてくるセイの声。
「毎年一年生の恒例なのよ。まだ聞いてなかったの?薔薇様を送る会の時に披露しなきゃならないから、
今のうちに考えておいた方がいいわよ?
ちなみに去年、祐巳ちゃんは安来節、志摩子はマリア様のこころで日舞見せてくれたっけ」
その声にトウコとノリコはもう一度顔を見合わせた。
「「まさか・・・ね」」
ポツリと呟いた声に、セイは大爆笑。
「まぁ、嘘だと思うのならそれでいいけど、君たち二人が恥じかくと可哀想だからね。
それにしても祐巳ちゃんの安来節は良かったな〜、いつかもう一回やってくんないかな〜」
なんてセイの声が遠くから聞こえる。振り向けば、セイはもうその場には居ない。
結局、セイは謎のドリンクと謎の言葉だけを残して去ってしまった。
トウコとノリコはもう一度お互い顔を見合わせ、苦く笑うと呟く。
「「聖さまって・・・ほんと、計り知れない人・・・」」
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大量の栄養ドリンクを持って帰ってきたトウコとノリコに、皆は不思議そうな顔をした。
でもユミの反応だけは皆とは違った。
「瞳子、コレ・・・」
「サンタさんからのプレゼントだそうです」
そう言ってその中から一本ユミに手渡すと、ユミはその瓶をしげしげと見つめ、フッと微笑んだ。
多分誰からの差し入れかピンと来たのだろう。愛しそうに瓶を撫でている。
「で、これ一体誰からの差し入れなの?」
ヨシノはまだ不思議そうに怪しいドリンクを見つめながら怪訝そうな顔してトウコの顔を覗き込んで言った。
「だから、サンタさんですよ、ね?乃梨子さん」
「ええ、そうです」
「ふーん・・・サンタさんねぇ・・・変なものくれるサンタさんね」
「でも、これにはちゃんと理由があるらしいですよ。そうですよね、お姉さま?」
トウコはユミに言った。するとユミはにっこりと笑って小さく頷く。
それを見たヨシノとシマコが眉をしかめたのをトウコは見逃さなかった。
そんな二人にユミが言った。トウコの冷えた手をそっと両手で包んで、小さな声で。
「それは、私と瞳子とサンタさんの秘密・・・でしょ?」
「ええ、お姉さま」
ユミの手は暖かかった。ユミの言葉に思わず微笑んでしまったのは、
きっとさっきのセイの顔とユミの顔がとてもよく似てるからだ。
一年も逢えない。でも、お互い必要としてる。いつだって。
そんな事考えると、何だか急に胸がドキドキしてきた。
逢えなくてもこんな風に笑えるこの二人は、何て素敵なんだろう。
セイの優しさに、ユミの思いやり。それに直に触れたような・・・そんな気がして。
私はとても幸せ。あなたがそこに居てくれる、それだけでいい。
私はとても幸運。あなたという人に出逢えたのだから。
私はとても嬉しい。そんな風にあなたが笑ってくれるのが。
そんな風にいつか、誰かに言いたい。
私もあなたのように、笑いたい。