愛しい気持ちには種類があると、あの日私は初めて知った。

あれからもうどれぐらい経つのだろう。私はまた、愛しい人を一人・・・見つけた。


朝一番の薔薇の館には誰も居ない。でも、あの日から一人では・・・なくなった。

「おはよう」

「おはようございます、お姉さま」

トウコは大きな瞳でこちらを見上げ、気の強そうな眉をほんの少し歪めた。

「な、なに?」

「お姉さま・・・タイが曲がっていますわ・・・」

溜息交じりに呟いた声はどこか楽しそう。トウコはお茶を淹れていた手を止めると、ユミの元までやってきた。

鎖骨にほんの少しだけ触れた指先がとても冷たくて、思わず体を震わせたユミに、申し訳なさそうに苦笑いするトウコ。

ああそうだ・・・以前はいつもこうやって自分はお姉さまにタイを直されていたっけ。

そんな事を思い出したユミは小さく笑ってトウコにお礼を言うと、席に着いた。

目の前のカップに注がれた飴色の紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。トウコの淹れてくれるお茶は美味しい。

何だか気持ちがふんわりと優しくなれるような気がする。それをトウコに告げると、トウコははにかんだように微笑んだ。

寒いけど、何だか暖かい。心が暖かいからだろうか。トウコをこんなにも愛しく思うのは、つい最近の事。

どうしてもトウコを妹にしたくて、泣いてお姉さまに相談した事もあった。あの時、どうしてあんなにも必死になれたんだろう。

トウコでなけばいけないと、そう思った。心の底からトウコを求めたのだ。

「お姉さまは・・・聖さまが好き・・なんですよね?」

突然、トウコが口を開いた。ユミは飲んでいたお茶を噴出しそうになるのを必死に堪えながら、目を大きく開いてトウコを見つめる。

一体どうしてトウコがそれを知っているのか・・・それが不思議でしょうがなかったのだ。

お姉さまに聞いた?それともセイに?いや、それは無いだろう。じゃあ一体どうして・・・。

「あの雨の日・・・お姉さまが聖さまに抱きつかれたじゃないですか。あの時になんとなく・・・」

トウコはユミが質問するよりも先にそんな風に答えた。あまりにもシレっと言うものだから、ユミはまた目を白黒させるしかなくて。

あの雨の日、というのは、多分トウコが原因でお姉さまと喧嘩をしたあの日の事だろう。

そして・・・初めてセイへの気持ちに気付いた日でも・・・ある。

「そ、それじゃあ・・・ずっと知って・・・?」

「ええ、もちろんですわ」

「・・・そっか・・・」

凛としたトウコの声はユミをどこまでも見透かすように響く。でもその声は冷たくなんて無かった。

かと言って暖かかった訳でもなかったけれど。普通・・・というのが一番しっくりくるかもしれない。

朝一番のお茶に相応しい、今日の夕飯は何かしら?とか、それぐらい普通の響きだったからユミは余計に驚いた。

てっきり、トウコがユミの気持ちを知れば怒り出すと思っていたのに。

「お姉さまはもしかして、私にずっと黙っていようと思ってたんですか?」

「う・・・ま、まぁ・・・」

しどろもどろに答えるユミを見つめるトウコの視線は冷たい。やっぱり・・・怒ってるんだ。

そんな考えが脳裏を過ぎる。ユミは視線を伏せたままトウコの白くて綺麗な指先を見つめていた。

「お姉さま、私は何もお姉さまが聖さまが好きだという気持ちを責めてるんじゃありませんわ。

ただ、私にずっと黙っておこうと思ってたという事に・・・腹が立つだけで・・・」

そう呟いたトウコの指先は微かに震えていた。姉妹になってまだほんの少ししか経っていない。

まだトウコの心の内など見えない。トウコもきっと・・・そう思ってるだろう。

それでも、トウコはユミのロザリオを受け取ってくれた。それだけで良かった。

でも・・・本当はそうじゃない。ユミはあの時、どうしてお姉さまに怒ったのか、今それを思い出していた・・・。

「ごめん・・・私ってば・・・すっかり忘れてた。黙ってられるのは・・・嫌だよね。

それがどんな話でも・・・私たちは・・・姉妹だもんね・・・」

ポツリと呟いた声に、トウコの指先の震えが止まった。恐る恐る顔を挙げると、トウコはもうユミを睨んではいない。

その代わりに、少しだけ顔をしかめてどこかバツが悪そう。多分、ユミがいつの日の事を思い出したのかが分かったのだろう。

あの事件にはトウコも一枚噛んでいる。でも、あの事件のおかげでセイへの気持ちにも気づけたし、

おまけにトウコという少女の事を知るきっかけにもなったのだから、今ではあの事件にすら感謝したいぐらいなのだが、

どうやらトウコはそうは思っていないらしい。

「べ、別にあの日の事は私だけのせいではありませんよ!?

ちゃんと話をしなかったお姉さまと祥子お姉さまも悪いんですからね!」

「分かってるってば。あの日のことで瞳子を責めたりしないってば。

そうじゃなくて、あの日にね・・・好きだと思ったの。聖さまが。

だから・・・色んな意味で私は瞳子に感謝してるのよ、これでも」

「そう・・・なんですか。もう告白はされたんですか?」

「んー・・・一応は。でも・・・一年会わないって条件付きだよ」

「い、一年!?ど、どうしてです?!」

トウコは身を乗り出してユミの顔を覗き込んだ。普通の仕草に、普通の口調。でも、どこか・・・ホッとしてるトウコ。

ユミには何故かそれが手に取るように分かってしまった。

「だって、私にはまだここでしたい事が沢山あるから。

それは、聖さまとお付き合いするよりも、もっとずっと大切な事だと思ってるの」

「そんな・・・お姉さまは・・・バカです。だって、好きなんでしょう?

少し前のお姉さまを見てたらそれが痛いほど伝わってきましたもの!それなのに・・・お姉さまは・・・バカですわ」

トウコはもう一度ポツリとユミにバカと言った。でも、二度目のバカはとても優しい。

切なそうな、哀しそうな、でもどこか優しい声。そんなトウコは愛しくて、ユミはそっと席を立ってトウコの頭を抱きしめた。

「ありがとう、瞳子。でもね、今の私は、聖さまよりも、瞳子と過ごす時間の方が大事。

それに、聖さまとの関係をより深めたいからこそ、一年会わないと約束したのよ」

セイと一年も会わないのは、正直辛い。でも、ユミにはユミのするべき事が、セイにはセイのするべきことがある。

今はトウコという妹が出来た時点で、ユミの大事な人が一人増えた。その大切な人と過ごす時間も大事にしたい。

そして、きっとセイもそれを理解してくれるだろうと、そう思う。

誰よりもユミのピンチには駆けつけてくれたような、そんな人だから。

トウコが妹になったと知れば、セイはどう思うだろうか?きっと、いい顔はしないだろう。

きっと苦笑いしながら冷やかすに違いない。でも、きっとその後は優しく笑ってくれる。

「私・・・聖さまという人の事はあまりよく知りません。でも・・・お姉さまが好きなら・・・反対したくはないです。

だからと言って、手放しには・・・喜べませんけど」

「うん、そうだよね。だから言いたくなかったっていうのも・・・あるの」

トウコの気持ちを考えれば、そりゃ素直には喜べないだろうというのも分かってた。

妹になったと思ったら、その人んはすでに好きな人がいるのだから。

でも・・・トウコとセイを比べる事が出来ないのは、お姉さまとの時の事を考えればよく知ってる。

セイに感じる心と、トウコに感じる心は・・・やっぱり違うのだから。

そんなユミに、トウコは言った。

「でも何よりも悲しいのは、黙ってられる事です。だって、私はそれも分かった上でお姉さまの妹になったのですから。

だからこれは本当にしょうもないヤキモチなんです。分かってくださいますか?」

トウコは眉を八の字にして微笑んだ。まるでそんな自分が恥ずかしいとでも言うように。

でも、ユミにはそんなトウコの気持ちをしょうもないだなんて思えなくて・・・。

トウコが抱く感情は当たり前の気持ちだと思うし、ユミがもしも同じ立場だったら、

きっとこんな風に自分の事を言えなかっただろう。それどころか、またあの日のように泣き叫んでいたかもしれない。

トウコは・・・大人だ。そして、素直。何だか自分が恥ずかしくなった。

どうして大切な人に、大切な人の事を黙っていようだなんて考えたのだろう。

トウコとは、きっとこれからも長い付き合いになるというのに、どうして・・・。

「分かるよ、凄く・・・分かる。そうだよね。私達・・・これから長い付き合いになるんだもん。

カクシゴトなんて・・・してらんないよね・・・」

「ええ・・・聞きたくないような事でも、ちゃんと話し合うのが姉妹だと、私は思ってます。

だからお姉さまが聖さまと一年会わないという理由が、

私との事を大事にしてくれるからだと聞けたのは・・・凄く・・・嬉しいです。

私は聖さまではありません。でも、聖さまとは築けない関係を、私は祐巳さまと築きたい。

そう思って・・・妹になったんですから・・・」

「・・・瞳子・・・」

こんな話を、トウコと初めてした。どうして今だったのか、どうして今日だったのか、それは分からない。

一年前まではトウコはユミにとってはただの後輩で、お姉さまを取られそうな危険な存在だったはずなのに、

この一年で一体何が変わったのだろう。トウコの中のユミという存在。ユミの中のトウコという存在。

それはいつの間にか、かけがえのない存在になっていて今はこんなにも愛しく思える。

大切な人が増えてゆく中で、運命的な出会いをこのニ年の間に三度もした。

セイは卒業前にユミに言った高校時代の三年間が一番濃厚だった、と。

その言葉に、ユミは今素直に頷く事が出来るだろう。後残り一年。その間に何があるかは分からない。

とりあえず控えてるのは、お姉さまの卒業。とてもじゃないけど耐えられそうにない、そんな風に思ってたけど、

今は・・・そんな風には思わない。だって、今はトウコが居る。

きっとトウコはユミの傍に立っていてくれるだろうから。

「お姉さま、私から一つお願いがあります」

「うん、なぁに?」

「お姉さまがもしも辛くなったら、その時はちゃんと・・・言ってください。

どうしても聖さまに会いたくなったら・・・私には、遠慮・・・しないでください・・・」

「遠慮だなんて・・・」

「いいえ、お姉さまはそういう人です。私には分かるんです。

そのせいで学校の事がおざなりになってしまっては、迷惑がかかりますから!

だから・・・どうか、私に悪いだなんて思わないで・・・くださいね」

トウコの心の中にはきっと、色んな葛藤があったんだと思う。

ユミが色んな事に悩んだように、トウコにもきっと色々あったに違いない。

それでも、トウコは自分を選んだ。大切な人に・・・なってくれたのだ。

何だか無性に泣きたくなった。別に悲しい訳じゃない。嬉しい訳でもないのに。

ただ、泣きたくなった。意味もなく。ユミとセイの関係とは違う関係を築きたかったというトウコ。

多分、それはもう・・・築けてる。だって、こんな繋がり・・・知らなかったから。

妹という存在がこんなにも力強く感じるだなんて事、今の今まで全く知らなかったのだから・・・。

気の強い眼差しは真っ直ぐにユミを見てた。ユミの心の奥底を、じっと見てた。

「分かった」

その言葉だけで十分だった。満面の、とは言えないトウコの笑みに、ユミは困ったように微笑むと、

トウコの淹れた紅茶を一口一口、ゆっくりと飲む。

トウコの淹れてくれたお茶は心を暖かくする。

ジンと心に広がって、ゆっくりと染み込んでゆく。飲み干して空になったカップを机に置くと、

二人は立ち上がった。トウコがカップを洗っているのを背中に感じながら窓の外に視線を移すと、

ちょうど一年前と同じような冷たい空気が流れ込んできた。

あの時、こんな風にカップを洗っていたのは自分だった。セイが居て、お姉さまが居て、皆が居た。

毎日毎日笑って過ごしてた。でも、それももう少しで終わってしまう。

そしてまた、新しい笑い声が響くのだ、この部屋に。そうやってずっと・・・続くんだ。

例えお姉さまが卒業しても、皆が居て、隣にはトウコが。

チラリと振り返ると、ちょうどトウコがカップを洗い終わった所だった。

そんなトウコにユミはそっと手を差し延べる。

恥ずかしそうにその手を取るトウコの手はやっぱり酷く冷たくて、

ユミはそんな冷たい手をギュっと握ると、にっこりと笑った。

「そろそろ、いこっか」

「はい、お姉さま」

もうすぐ授業開始のチャイムが鳴る。二人は手を繋いで少ししかない距離をゆっくり歩いた。

どんなに風が冷たくても、心はまだ暖かいまま。心のつかえていた何かがようやく全て解け切って、

改めてセイへの想いを確かめる事が出来た。そして・・・トウコへの想いも。

想い人と、妹、そしてお姉さま。三つの大切な人を前に、随分悩んだのがまるで嘘のよう。

でも、きっと必要だった事。そして、あんなにも苦しかった時期が今のユミを作っている。

そしてそんな自分は・・・凄く好き。

校舎の前まで来た時、どちらからともなくそっと手を離した。

そして言う。満面の笑顔で。

「それじゃあ、また放課後ね」

「はい。それでは、また放課後に」

薔薇の館で。二人はそんな言葉を、飲み込んだ。

あそこが全ての原点。決して、きっと一生忘れられない、そんな・・・場所だったから。


繋がり