綺麗に咲けない訳がない。綺麗になれない訳がない。
カシャ・カシャ・カシャ。カメラの音が静かな校舎に鳴り響く。
ツタコは今、もう少しで卒業してしまう三年生からの依頼で夕暮れ時の校舎の写真を撮っていた。
人物以外の被写体を撮るのは苦手だけど、
三年間通った校舎にはきっと沢山の思い出が詰まっているのだと聞いて、引き受けることにした。
このうちの何枚かはもしかすると卒業アルバムにも採用されるかもしれないと言っていたので、
綺麗に撮らない訳にはいかない。屋上から見た校庭や、真赤に染まったお御堂。
柔らかな日が差し込む温室。プールや階段。些細なものだけれど、沢山の生徒がここを通り、
この全ての教室に染み付いた思い出をいつか思い出す事が出来るなら、
今自分が撮っている写真達は全てとても大切なもので、黒板に残されたささやかな落書きでさえ、
誰かの心を打つというのならば、余計に力が入る。
無言で校舎を走り回って人の居なくなった校舎を撮っていると、たまに無性に寂しくなった。
はがれかけたポスターや、色あせた標語が余計にそんな気分にさせるのかもしれない。
ツタコはミルクホールまで来てウーロン茶を買って、一旦休憩をとることにした。
「あら、蔦子さん。こんな所でどうしたの?」
誰も居ないと思っていたミルクホールには先客が居た。その人物は相変わらず前髪をきっちりと分けて、
忙しそうにペンをクルクルと回している。
「真美さんこそ、今日は残業?」
「まぁね」
マミの向かいの席に腰を下ろしたツタコはマミの苦笑いを見て、手元の紙を覗きこんだ。
そこには細かく書かれた日程表とこれからの行事。
それに、卒業生の思い出の場所ランキングと書かれてある。
「今年はこんなの調べてるの?」
「そう。なかなかこれが面白くって。見てちょうだい、これなんてどこだと思う?」
そう言ってマミが見せてくれたのは一枚の紙。そこには『あなたの思い出の場所はどこですか?』
という質問の答えに、『お御堂の裏』と書かれてあった。
そしてその理由に『大好きだった先輩が、よくそこからステンドグラスのマリア様を見つめていたから。
私はその先輩の横顔を今も忘れる事が出来ません。だから今でも落ち込んだらそこへ行きます』
ツタコはその理由を読んで表情を緩めた。大好きな先輩との思い出の場所、大切な妹と契りを交わした場所、
中には親友と喧嘩をした場所なんてものもある。
「これは・・・私の写真に一役買ってくれるかもしれない」
ツタコは今自分が校舎の写真を撮って回っている事を伝えると、
マミは喜んでそれに付き合ってくれると言ってくれた。
「それに、ランキング形式だから写真があったほうが記事も映えるし!」
「では、参りましょうか」
利害が一致した新聞部と写真部は最強だと誰かが言っていた。良くも悪くも。
でも、自分でもたまにそう思う。今でもあのユミの会見を思い出すたびに、胸が痛むのだから。
「確かに・・・あれは祐巳さんに申し訳ない事しちゃったわ・・・私も反省してるもの」
マミは俯いて大きなため息を落とした。あの日自分たちが記事にしなければ写真など撮らなければ、
あんな事にならなかったのは明白で、あの時初めて怖いと思った。
報道には、たとえこんな小さな学園新聞であってもきちんと責任を取らなければならないと、
心の底から思った。もう少しで自分たちのした事のせいで一つの恋を終わらせてしまう所だったのだから。
いや・・・もしかすると終わってしまったのかもしれない。あれからユミはずっと元気が無かったし、
ヨシノ曰くずっと薔薇の館にも顔を出していないと言っていたから。
「祐巳さん・・・大丈夫かな・・・」
「心配・・・だよね・・・」
ツタコとマミは顔を見合わせて深い溜息を落とす。
自分たちが蒔いた種とはいえ、どうする事も出来ない歯がゆさや悔しさ。後悔の念は振り払えない。
ユミの事だから、きっと怒ったりはしないだろう。
けれど・・・ツタコはユミがセイの事を好きだと自覚した日の事を思い出して唇を噛んだ。
焚き付けたのは自分。ユミにサナギになれと言ったのは他の誰でもない、ツタコだった・・・。
セイにしてもそう。あの時あんな写真を渡して一体何がしたかったのだろう。
もしも未来がこんな風に拗れてしまうと知っていたら決してあんな事しなかった筈。
「真美さん、私ね、とんでもない事をしでかしてしまったんじゃないかって、たまに思うんだ」
「そりゃそうだけど・・・でもそれは私も同罪だわ」
「ううん、そうじゃなくて。それ以前にね・・・もっと酷いことをしたのかも・・・しれない」
写真なんて撮ったばっかりに、そしてそれを渡してしまったばっかりに生まれた小さな恋。
遅かれ早かれ始まっていたのかもしれないけれど、時期を早めたのは間違いなく自分。
そして・・・それを壊したのも・・・自分。ツタコはカメラを首から外して、それをマミに手渡した。
「な、なに?ちょ、蔦子さん!」
「今日はもう・・・撮れないかも・・・しれない」
「そ、そんなっ!!」
「・・・ごめん。頭冷やしてくるわ」
「つ、蔦子さんっ!!」
ツタコはマミにカメラを渡したまま、どこへ行くでもなくただブラブラと校舎を見渡した。
こんな風にカメラも持たずに歩くのはどれぐらい振りだろう。
いつでもどこでもシャッターチャンスを狙う癖がある自分にとっては、
これは相当・・・不安でしょうがない。もし今、目の前にUFOでも現われたらきっと、
死ぬまで後悔するに違いない。そんな事を考えながらツタコは校舎の裏にやってきていた。
「ここは・・・懐かしいなぁ・・・」
ツタコは思わず目を細めた。
ここは確か、ショウコとカツミがチョコレートを食べてた場所だった事を不意に思い出したのだ。
本物の姉妹が二人で肩を寄せ合ってチョコレートを食べていたシーンが、あまりにもありふれた光景で、
でも何だか凄く切なくて甘く見えて、思わずシャッターを切ってしまっていたのを今も覚えている。
写真が苦手だと言うショウコを、写真が大好きなツタコが妹にするなんて、何の因果だろう。
今では写真部のエースの妹って事で周りからは変に期待されて本人は少し戸惑っているようだけど、
ツタコにとってショウコは妹。そこにカメラや写真は全然関係なかった。
でも・・・ショウコにはカツミという本当の姉が居て、家に帰ればカツミをお姉ちゃんと呼んでいる事が、
何だか寂しいだなんて思ったのは、つい最近の事。
どうしてそんな風に思うのかは自分でも分からないけれど。その時だった。
突然誰かがツタコの肩を後ろから叩いたのだ。振り返ると、そこに立っていたのは・・・ショウコ。
「なんだ、まだ帰ってなかったの?」
「はい!だって、お姉さまの鞄がまだ部室にありましたから」
嬉しそうに笑顔でそんな事を言われると素直に嬉しい。でも・・・やっぱり同時に何だか寂しさも覚える。
こんな事をショウコに打ち明けても、きっと困惑するだけだろうから言わないけど、
今までカメラにしか興味がなくて、人間は皆そのカメラの被写体だとばかり思ってたのに、
何故突然、今こんなにもショウコが気になるのだろう。今ツタコはカメラを持っていないし、
別に撮りたい訳でもない。それなのにどうしてこんなにもショウコが綺麗に見えるのだろうか。
何だか胸を締め付けるモヤモヤは少しも収まりそうに無い。それどころかショウコの顔を見るたびに、
最近はいつもこんな気分になる。
「お姉さま・・・そう言えば・・・カメラはどうされたんです?」
「ん?ああ・・・カメラは今真美さんが・・・」
知らず知らずのうちに胸元を触っていたツタコは、
そこにカメラが無い事をショウコに言われるまで気付かなかった。それを素直にショウコに言うと、
ショウコはただ笑っただけで何も言わない。着かず離れず。この距離が自分にはちょうどいい。
けれど、ショウコは本当はどう思っているのだろう?それが分からなくてまたモヤモヤする。
一体どうしてしまったんだろう・・・こんな気持ち、初めてだ。
何だか元気のないツタコを心配したのか、ショウコは持っていた鞄の中からあの時と同じ、
チョコレートの箱を取り出すと、それをツタコに手渡すとあの場所に腰を下ろした。
「お姉さま、ここでコレ、食べましょう」
「・・・笙子・・・」
ショウコがくれたチョコレートは美味しかった。あまり甘くなくて、ちょうどいい。
でも、何かが足りない。そう思ったのは・・・多分自分だけではなかった。
「あの時は、ここで姉とチョコレートを食べてる所を写真に撮られたんですよね、お姉さまに」
「そうね。あれはいい写真だった」
「あの写真・・・今も私の宝物です」
・・そうか、宝物か。それはいい。そんな風に言ってもらえれば撮った甲斐がある。
でもあまり嬉しくない。だってあれは確かに自分が撮ったけど、でもそこに自分は居ない。
どの写真にも、今まで自分は撮る側で一枚も自分の写真は無くて・・・。
ましてやショウコと二人きりの写真など・・・ただの一枚も・・・。
確かにそれはしょうがないのかもしれない。
写真部の二人が居る所をわざわざ写真に収めてくれるような人は居ないだろうし。
でも・・・それは少し哀しい気もして。写真に撮られるのは好きじゃない。撮る方が好き。
でもショウコとは、一枚ぐらい撮っておきたい。そんな考えまで浮かんできて・・・。
「宝物・・・か」
「はい!だって、あれはお姉さまが撮ってくれたものですから」
嬉しそうにそんな事を言うショウコ。ふと脳裏を掠めるのは・・・ユミの顔。
セイとの写真を見せた時、ユミもこんな顔していた。
嬉しそうに・・・でも、次の瞬間その顔はそっと息を潜めた。
まるでそれに気付いちゃいけないように、その想いに蓋をするように。
それではいけないと思って、あの時ツタコはあんな事を言ったのだ。
でも・・・結果としてはそれが最悪の事態に転がっていったといっても過言ではない。
あのままユミは自分の想いに気付かないままの方が幸せだったのだろうか。
「ねぇ、笙子。写真が必ずしも人を幸せにするとは限らないと、そう思わない?」
ツタコの言葉を聞いて、ショウコは持っていたチョコレートを一粒落とした。
チョコレートは何度か跳ねてコロコロと転がって行ってしまう。そしてようやく落ち着いた所で、
ポツンと寂しそうに影を背負っていた。
「どうか・・・されたんですか?お姉さまがそんな事言うなんて・・・」
「なんとなく、ふと思ったのよ。写真に撮っちゃいけないものもあるのかなって」
誰かの想いは誰かのモノ。それを左右するのは決して写真や自分じゃない。
手助けのつもりが逆に相手を傷つけてしまうのだとしたら、写真なんてもう、撮らない方がいい。
「場合によってはそうかもしれませんが・・・でも、撮って欲しい瞬間というのは必ずあります!」
「じゃあ、誰かの恋をその写真が踏みにじったとしても?それでも撮るべきだと・・・そう、思う?」
「そ・・・それは・・・」
ショウコは言葉を詰まらせた。
そしておもむろに転がったチョコレートの隣に何故かもう一つチョコレートを置く。するとどうだろう。
あんなにも寂しそうだったチョコレートが、二つになっただけで何だか寂しくなさそうに思えて・・・。
「写真に撮るのは、美しいと思うから。お姉さまにとってその恋がとても美しいと思ったんでしょう?
たとえその写真が結果としてその恋を台無しにしてしまったのだとしても、それは仕方ないんだと思います。
それに・・・その写真だけがその恋を覚えていてくれるんですよ?
何年か経って、いつかその写真を見返した時にはきっと、いい思い出になると思うし・・・」
写真だけが覚えている恋。切ないけど、忘れたく・・・無いモノ。決して・・・消えないモノ。
ユミとセイの恋がどんな結果が出たのか、誰も知らない。
でも・・・確かに二人の想いが重なる瞬間があったというのは事実で、それを写真は覚えている。
だからと言って焚き付けたのはやっぱり間違いだったと思うけど、
あの写真の全てを否定しなくても・・・いいのかもしれない。
ツタコは指でフレームの形を作ると、ショウコが並べたチョコレートに焦点を当てた。
「カシャ!」
そんなツタコを隣で笑うショウコ。その時、突然どこからか本物のシャッターの音が聞こえてきて、
びっくりして音をした方を見ると、そこに立っていたのは慌てた様子でカメラと格闘してるマミの姿。
「ちょ、何だか変な音してるんだけど!」
「あー・・・フィルムが終わったんだ。ちょっと貸して」
ツタコは笑ってマミからカメラを受け取ると、ポケットに入っていた新しいフィルムと手早く交換した。
そんなツタコの手元をショウコが隣から食い入るように見つめていて・・・。
「どうかした?」
「いえっ!やっぱり早いなぁ・・・って・・・私なんていくら早くしようとしても、
焦って全然ダメで。そんな事してる間にシャッターチャンスは逃しちゃうし・・・」
ションボリと俯いたショウコの頭をツタコはそっと撫でた。
「まだまだこれからでしょ。それに・・・シャッターチャンスは結構どこにでも転がってるものだから」
そう言ってツタコは今度はちゃんとカメラで寄り添うチョコレートを撮った。
タイトルは・・・チョコレートだけに、『甘い恋』でどうだろう?
それをマミとショウコに言うと、ショウコは笑ってくれた。でもマミは。
「フィルムの無駄よ!ほら、蔦子さん、仕事仕事」
「はいはい。あ、そうだ。良かったら笙子も・・・行く?」
ツタコの誘いに、ショウコの顔がパッと綻んだ。でも、その顔は撮らないでおいた。
もしかすると・・・独り占めにしたかったのかもしれない。
マミの指示通り校舎の写真を撮っていると、ちょうど銀杏並木を通り過ぎる二つの人影が見えた。
「祐巳さんとロサ・キネンシスだわ!」
マミの声を聞いてツタコも身を乗り出すと、多分ユミとサチコにもその声が聞こえたのだろう。
クルリとこちらを向いて、笑顔で手を振ってくれた。とても綺麗な・・・笑顔で。
ついこの間まであんなにも泣きそうな顔ばかりしていたのに、一体何があったんだろうか・・・。
ツタコがカメラを構えると、それをショウコが制した。
「お姉さま、私に・・・撮らせてください」
真剣なショウコの横顔に、ツタコは頷いた。
そして持っていたカメラを渡すと、慎重にカメラを二人に向けるショウコ。
そんな様をツタコはヒヤヒヤしながら見ていた。そして・・・静かに鳴ったシャッター音。
その音はいつまでもいつまでも心の中で鳴り響く。
「祐巳さん・・・一体何があったの・・・ス、スクープの匂いがするわ・・・」
「真美さん、さっき反省したばかりでしょ?」
「そ、そうなんだけど・・・私には流れてるのよ、あのお姉さまの血が・・・」
そう言って苦笑いを浮かべるマミを、ツタコとショウコは笑った。
けれど、それ以上追おうとはしなかった所を見ると、マミはやはり相当深く反省しているようだ。
二人の後ろ姿がどんどん遠ざかる。けれど、それを寂しいとは思わなかった。
二人の影が、あの並んだチョコレートのように寄り添っていたから。
「いつか私達もあんな風になれるといいのにね」
ツタコがそう言うと、ショウコがほんの少し頬を染めた。でもそれを聞いていたマミがフンと鼻を鳴らす。
「何言ってるのよ。さっきのあなた達だってあんな顔してたじゃない」
・・と。その言葉を聞いて何だか胸がまた苦しくなった。そうだろうか?
自分とショウコは果たして本物の姉妹のようになれているのだろうか?
そんな疑問が胸を締め付けたけど、マミの次の言葉に思わず笑ってしまった。
「だって、だから苦手な写真撮ったんですもの。
あーあ、私も久しぶりにお姉さま捕まえて一緒に帰ろうかな。
ねぇ、蔦子さん、笙子ちゃん、その時は私達もさっきみたいに写真撮って・・・くれる?」
恥ずかしそうにそんな事を言うマミの顔は、やっぱり妹の顔だった。
ずっと心配していた事。それは、実の姉には敵わないという事。でも、そうじゃないのかもしれない。
そうじゃなくて、本当は・・・。ツタコはショウコの顔をチラリと見ると、小さく頷く。
「「もちろん。いくらでも」」
声はピッタリと重なった。多分、サチコとユミにも負けない程の姉妹の絆がここにあると、初めて思えた。
それを聞いて安心したようなマミの顔。そんな顔を見て誇らしげなショウコの顔。
どちらも素敵。でも、これはやっぱり撮らないでおこうと思う。
写真にはきっと、納まらないと分かっていたから。
校舎が最後の夕陽に飲み込まれてゆく。真赤に染まった空はどこまでも澄んで遠い。
ツタコはカメラの焦点を校舎に向けると、ゆっくりとシャッターを切った。
カシャン。小さな小さな音。こんな音一つで何かが残せるとは思わない。
でも、その一枚もきっと誰かの・・・大切な思い出。写真が記憶する、大切な・・・思い出。
思い出をいくら切り取っても、現実には敵わない。
でもいつか、いつか思い出して。
ここに居たという事を。
ここで笑ったという事を。