今日は晴れ。ねぇ、あなたの心も今、こんな風に澄んでいるのかな?
シオリは空を見上げ大きく息を吸い込んだ。冷たい風が灰に静かに入ってくる感覚が、
痛みすら覚えるようなこの感覚がシオリは好きだった。
空は抜けるように青くて、どこまでも見渡せそうなほど大きい。何故か晴れの日はそんな風に見える。
握り締めた傘を持って校舎に向う途中、何人かの生徒が懐かしいあの挨拶をしてくれた。
「ごきげんよう」
「・・・ごきげんよう・・・」
ポツリと呟いた声は果たして彼女たちに聞こえただろうか?
それは分からないけれど、シオリはその挨拶の懐かしさに少し戸惑ってしまった。
懐かしいというよりも、切ないと言った方が正しいのかもしれない。
甘かったような苦かったような学生時代。セイと出会って何かが変わりかけたあの頃。
必死になってセイへの想いを無視しようとしたけれど、結局それは出来なくて・・・。
結果的には最悪の形でセイと別れを告げたあの日の事を、
シオリは今までただの一度だって忘れた事はなかった。
いつか会えたら・・・でも、会いたくない。きっとセイは自分を許してくれない。
一生残る傷として受け入れていくつもりだった・・・けれど。
シオリは傘を持っている手に力を込めると、小さく微笑んだ。冷たい風がすぐ隣をすり抜けてゆくけれど、
全然気にならない。
「愛・・・か・・・」
セイはこの傘を貸してくれた少女を愛してるという。
シオリには愛の定義というものが何を指すのかはまだ分からないけれど、
あの時のセイの顔を見れば、その気持ちを否定しようという気にはならなかった。
自分と一緒に居た時とは違う、甘い・・・まるでチョコレートみたいな笑みを。
シオリにはシスターになるという夢があって、セイにはそれを伝える事が出来なくて。
少しづつズレ出した二人の気持ち。それに気付いた時にはもう遅かった。
何も出来ないうちに・・・何も伝えられないままに離れてしまった心。
あの時、もう少し自分たちが大人で、もう少し相手の事を考えられたら、
もしかすると違う結果が待っていたのかもしれない。
でも、きっとシオリは夢を諦められなかっただろうし、セイのように愛に生きる事は出来なかっただろう。
些細な歪から産まれた小さなヒビはどんどん大きくなって、
・・・きっと二人の行く先に待っていたのは・・・死。
本当はセイもその事を感じていたんじゃないだろうか。だから多分自分を追ってはこなかったのだ。
もしも自分たちの行く末に未来というものがあったのなら、
セイはきっとどんなに辛い思いをしても自分の居場所を突き止め、追ってきていたと・・・思うから。
「だから・・・これで良かったのよね・・・」
マリア様の前に立ちそっと手を合わせて呟くと、マリア様は微笑んだ。
当時はあれほど泣き出しそうな顔をしているように思えたのに、今は素直に微笑んでいるように見える。
そんな自分の心に、シオリは笑った。心の中は今とても穏やかで、もう何の迷いも後悔もない。
きっとあれほど気にかかっていたセイと久しぶりに会って、彼女の健康と現状を知ったからだろう。
それともう一つ。彼女から聞いた言葉が何よりもシオリに力を与えてくれたような気がしたから・・・。
たった一人きりでリリアンを離れて、不安だった日もあった。
怖くて眠れなくて、セイの最後のあの笑顔が忘れられなくて。
でも・・・もう何も怖くない。だって、セイはあの時よりもずっと誇らしげに笑ってくれたから。
あの笑顔がシオリには誇りになった。ガラス細工みたいにいつも泣きそうな顔してたのに、
あんなにも綺麗に笑うなんて・・・それがとても嬉しくて。そしてそんな風に思う自分の中でも、
きっと何かが変わったのだ。そんな事を考えながらマリア様を見つめていたシオリの肩を、
突然誰かが叩いた。驚いて振り返ると、そこに居たのはこの傘の持ち主で・・・セイの想い人だった。
「ごきげんよう!」
「あ・・・ご、ごきげんよう・・・」
「マリア様がどうかされましたか?」
「・・・へ?」
ユミの言葉にシオリは首を傾げた。するとユミは可愛らしく笑って言う。
「だって・・・凄く嬉しそうに見つめてらっしゃったから・・・」
なるほど。確かに笑ってたかもしれない。
そんな所を見られていたなんて・・・恥ずかしくて俯いたシオリに、ユミはにっこりと微笑む。
ああ、なるほど。セイが好きなのはこんな子なのか・・・そう思うと何だかとても不思議だった。
こんな気持ちを何て言うのだろう?ヤキモチだとか嫉妬だとかそういう負の感情ではなくて、
何だか今、とてもホッとしている。具体的な感情は分からないけど、でもとても・・・ホッとしてる。
シオリは顔を挙げて持っていた傘をユミに手渡すと、ゆっくりと頭を下げた。
「傘、本当にありがとう。とても助かったわ」
「いいえ!困った時はお互いさまですから!
それに・・・あなたのおかげで私もお姉さまと相合傘が出来ましたから。だから、いいんですよ」
そう言って微笑んだユミの顔はどこか寂しげで・・・だからかもしれない。
ほんの少しだけ、ユミと話をしてみたくなった。
「今、少し時間いいかしら?」
「え!?は・・・はい。大丈夫ですけど・・・」
「無理は・・・しなくてもいいのよ?」
無理してまでシオリに付き合う義務はこの子には無い。
だって、シオリとユミはセイという共通点しかないのだから。でも・・・ユミはシオリの言葉に首を振った。
「少し驚きましたが・・・無理な訳じゃないんです!」
「そう?なら・・・大聖堂に行きましょうか。あそこなら静だし・・・それに、あそこが一番落ち着くの」
「はいっ!」
さっきからユミの顔を見ていて分かったのは、とても表情豊かだという事。
あまり感情を表に出すのが得意ではないシオリにとって、とても羨ましかった。
そしてそれはきっとセイも・・・同じ。ヒョコヒョコとシオリの後についてくる足音が、
何故か妙に安心する。ああ、一人じゃない。そんな気分にさせてくれる。
大聖堂に入った二人は、一番後ろの席に腰掛けるとしばらくステンドグラスのマリア様を見つめていた。
「綺麗ですね・・・」
「ええ・・・」
夕陽の差し込む大聖堂を飾るマリア様のなんと美しい事か。
オレンジ色と紅色の中間の色がマリア様や天使に降り注ぎ、その姿を余計に神聖なものに見せる。
どれぐらいそうやって二人でマリア様を見つめていたのだろう。突然隣に座っていたユミが口を開いた。
「そう言えば・・・私、あなたのお名前をまだ聞いてませんでした!
綺麗な人だなぁ、なんて思ってる間についつい聞きそびれちゃって、
・・だからあの・・・ご迷惑でなければその・・・お名前・・・聞いてもいいですか?」
控えめにそんな事言うユミが可愛い。でも・・・正直シオリは迷っていた。名乗るべきかどうかを。
あのセイが自分の事を話しているとは思わないけれど、万が一話していたとしたら・・・。
そう考えるとどうしても名乗れない。だからシオリは下の名前だけを告げる事にした。
「私は・・・栞。栞というの」
シオリの言葉に、ユミはハッとした顔をする。
そして大きく開けた口の端を震わせながら驚いたような顔をして固まってしまった。
「どうかしたの?」
「あ・・・あのっ!し、栞さん・・・その、つかぬ事をお聞きしますが、
その・・・佐藤・・・聖という方を・・・その、ご存知・・・ですか?」
ああ、やっぱり。シオリは心の中で呟いた。セイはシオリの事を話したのだ。ユミに。
別にここで頷いても少しもおかしくないと思う。いや、頷くべきなのかもしれない。
でも・・・それは出来なかった。心の中で主へのお祈りをしながら、シオリは首を横に振る。
「いいえ、知らないわ。どうして?」
人を欺くことは神への冒涜を意味する。けれど・・・言いたくない事も・・・ある。
触れられたくない過去、あれはシオリとセイだけの・・・想い出で、誰にも渡したくない。
こんな事を考えてしまう自分はシスターとしてはきっとまだまだ未熟なのだろう。
そんなシオリの言葉に、ユミは小さく笑った。
「そう・・・ですよね・・・私ってば、もう・・・」
哀しそうに笑うユミの顔は、あの時見ていたマリア様の顔にとてもよく似てる。
綺麗だけど、どこか哀しい・・・そんな笑顔。
「その人が・・・どうかしたの?」
思い切って聞いたシオリに、ユミは視線を伏せポツリポツリと話し出した。
「それが・・・聖さまの・・・佐藤聖さまの大事な人なんです。
きっと、今でもとてもとても大事な人なのに・・・でももう逢わないって言うんです。
その人も栞さんと言って・・だから勘違いしちゃって。
ほんと、早とちりしていつもお姉さまに怒られるんですよ、私」
そう言ってはにかむユミの顔やっぱりはとても切なげ。もしかしてこの子もセイの事・・・。
そんな考えが脳裏を過ぎる。だから思い切ってシオリは聞いてみた。
「あなた、もしかしてその人の事・・・」
すると間髪いれずにユミは微笑んで・・・。
「ええ・・・好きです。でも・・・一年会わないって・・・約束しちゃいました。
あはは、バカでしょう?」
「・・・いいえ、そうは思わないけど・・・一体どうして・・・」
「私・・・こんな気持ち初めてで・・・だから・・・この想いがホンモノかどうか確かめたかったんです。
もしも一年経ってもこの気持ちが少しも変わらなかったら、
・・・その時はきっと迷わず聖さまの隣に立つことが出来るだろうって思って・・・」
ユミはそこで口を噤んだ。もしかするとそんな約束をセイと取り付けた事を後悔しているのだろうか?
でも、それでも・・・そんなユミの想いは痛いほどシオリに伝わってきた。
「後悔・・・してる?」
「いいえ、後悔はしてません。私にとっても聖さまにとっても、それが一番いい方法だと今でも思ってます。
ただ・・・逢えないのは・・・寂しいです・・・」
あの時、何が一番辛かったといえば、もうセイに逢えない事だった。きっと、もう一生逢えないと、
そう・・・思っていた。好きで好きでしょうがなくて、それでも夢を諦められなくて、
結局夢をとった自分にはそれは当たり前だったのかもしれないけれど、
ただ逢えなくなるのが・・・とても辛かった。
「そうね・・・逢えないのは・・・辛いわね・・・」
「はい・・・でも、でも、私はこれで良かったんだと、そう思ってます。
だって・・・きっと一年後も想いは変わってなんて・・・いませんから・・・」
「そう」
「はい!」
微笑んだユミを見て、思わずシオリも微笑んでしまった。だって、ユミがあまりにも幸せそうに笑うから。
セイはどうしてこの子を選んだんだろう?その答えが、今ようやく解けそうな気がする。
「ねぇ、あなたはその栞さんと聖さまはやっぱり聖さまの言うとおり会わないべきだと・・・思う?」
どうしてこんな事をユミに聞いてしまったのだろう。ユミからしてみれば自分など、
決して気分のいい存在ではないはず。けれど・・・どうしても聞いてみたかった。ユミの心を。
そんなシオリの質問にユミは少し考えるようにしばらくマリア様を見つめていたけれど、
やがて意を決したように話し出した。
「正直に言えば・・・会って欲しくは・・・ありません。でも・・・聖さまの事を考えたら・・・、
逢った方がいいと・・・思います」
「・・・どうして?どうしてそう思うの?」
「だって・・・栞さんは聖さまの・・・大切な人だから。
辛い別れ方をしたのなら、尚更もう一度会ってちゃんと話をすべきだと・・・そう、思うんです。
だって!栞さんだって絶対辛い思いしてると思うんですよ!だからお互いの為に、ちゃんと逢うべきです」
「・・・・・・・・・・」
シオリの中で何かの答えが出た。どうしてセイがユミを好きになったのか・・・それは、
ユミのこの素直さ・・・なのだろう。素直で正直でお人よし。
雨の中傘を誰かに貸してしまえるような、そんな子だから・・・。
裏表のなさそうなこんな少女を愛さない人など居ない。セイにはっきっとそれが分かったのだ。
だから・・・愛してるだなんて言葉を・・・。
「あなたは・・・愛しい人ね」
突然のシオリの言葉にユミはキョトンとしてる。その顔がおかしくて、シオリはついつい笑ってしまった。
何にでも一生懸命そうな少女、誰にでもなついてしまいそうな少女、
周りをパッと明るくしてしまうような雰囲気。
確かにこの子は愛しい。セイじゃないけれど、素直にそう・・・思えた。
ここでようやく我に返ったユミは顔を真赤にして手をブンブン振って、
シオリの言葉に顔を真赤にする所なんかがきっとセイには堪らなく可愛いんだろう。
「いっ、愛しいだなんて!!そ、そんな事ありませんよっ!!わ、私なんか聖さまに比べればもう!!」
「聖さまは・・・愛しい人なの?」
「はいっ!そりゃもう!」
自分は果たしてこんな風にはっきりとセイの事を愛しいと言えただろうか?
思ってはいたけれど・・・きっと言えはしなかったに違いない。あの頃の自分とユミを重ねてみても、
どこも似てなどいないし、共通点も何もない。
けれど一つだけ言えるのは・・・あの頃、もう少し素直になれば良かった。
もう少しだけ・・・セイに歩み寄ってみれば・・・良かった。こんな風に笑ってセイを愛しいと言えば・・・。
いくらそんな事を考えても時間はもう戻らないし、後悔をしてる訳でもないけれど、
それだけは・・・悔やまれる。ユミの眩しいほどの笑顔を見詰めながらシオリは目を細めた。
「ねぇ、その聖さまと彼女はもう一度どこかで会えると思う?」
シオリの言葉に、ユミは頷いた。
「心の中でお互いが会いたいと願っていれば、いつか必ず・・・会えると思います」
「そう・・・会ったら・・・仲直りするかしら?」
「はいっ!もちろんですよっ!」
「ふふ・・・そうよね。仲直り・・・するわよね」
「だって・・・どちらも嫌いになった訳じゃ・・・ないんですから・・・」
そう呟いたユミの言葉には、凄く説得力があった。どちらも嫌いになった訳じゃない。
だから仲直り出来る。この言葉は確かに当たっていた。
実際セイに会って・・・友達として話す事が出来たのだから。もう胸は・・・痛まなかったのだから。
シオリはゆっくりと立ち上がって大聖堂のマリア様の前に跪き、手を組んで願った。
『どうか・・・どうかこの二人の恋が上手くいきますように・・・。
どうか・・・この二人の未来が明るく、素晴らしいものでありますように・・・』
祈り終えたシオリをユミはポカンとした顔して見ている。
「あなた達の未来がね、素晴らしいものでありますようにって、願ったのよ。
私には・・・願うぐらいしか出来ないから」
そんなシオリの言葉にユミはパッって顔を輝かせて喜んでくれた。
「何だかシスターにそんな風にお祈りされると必ず叶うような気がしますね!
それじゃあ私も!」
そう言ってユミはシオリを真似て跪き両手を組んで何やらブツブツ唱えていたけれど、
やがてこちらを振り返ってにっこりと微笑んだ。
「聖さまと栞さんが早く会えますようにってお願いしました!叶うと思いますか?」
裏の無い笑顔に、シオリはゆっくりと頷いた。
案外、誰よりも自分たちの事を願っていたのはユミだったのかもしれない。
ユミに傘を借りなければ、あの日きっと大聖堂になど入ろうと思わなかっただろう。
走ってそのままバスに飛び乗っていただろう。そしてセイとも会う事なく・・・。
誰かの願いによって誰かの運命が左右される事があるのかもしれないなんて、そんな事すら考えてしまう。
大聖堂を出てバス停まで来たところで、シオリはユミに傘を返した。
「ありがとう、本当に助かったわ」
「いえ!お役に立てて良かったです!」
やがてやってきたバスに乗り込む前に、シオリはポツリと言った。
「本当にありがとう・・・私たちの事を祈っててくれて。元気でね、祐巳さん」
そんな事言ったシオリの顔をしばらくマジマジと見つめていたユミはバスの扉が閉じた途端、
「や、やっぱり栞さんっ?!」
と叫んでいたけれど、でもシオリの顔を見て何かを察したのだろう。
次の瞬間にはさっきよりもずっと嬉しそうに微笑んでいた。バスの最後尾に座って後ろを振り返ると、
ユミはいつまでもいつまでもシオリに向って手を振ってくれていて・・・。
それが嬉しくてシオリは気付けば笑っていた。それも声を出して。
周りからはきっとさぞおかしな風に映っただろう。
なんせシスターの格好をした子が笑いを必死になって噛み殺しているのだから。
こんな風に声を出して笑ったのは何年ぶりだろう。
感情を表に出せなかった自分が、今こんな風に笑えるなんて・・・。
「きっと・・・幸せになれるわ・・・だって、私には・・・見えるもの」
あの二人が来年、あのバス停で仲良く笑いながら手をつないでいる光景が・・・。
夕日はとうに沈んで辺りは真っ暗。けれど、心の中に灯った暖かい光はきっと消えない。
あの日あの場所に置いてきてしまった心の欠片を、ようやく拾い集めてくる事が出来た。
ずっとずっと・・・失くしたと思っていたあの日のような想いを・・・。
胸が熱くなるようなあの情熱はなくても、まるで穏やかな暖炉の火のような暖かさがする。
ずっと罰せられるとばかり思っていたのに、セイが笑ってくれた。ユミが願ってくれた。
マリア様・・・この出逢いを与えてくれて、ありがとう・・・ございました・・・。
そして願いが叶うなら、あの二人が幸せで・・・ありますように・・・セイの夢が・・・叶いますように。
心の欠片をどこに落としたのだろう。
あの日の情熱はどこへ行ったのだろう。
こんなにも夢に見るのに。こんなにも逢いたいのに。
誰かの想いが私を運ぶのなら、それをもしも運命と呼ぶなら、
こんな運命が用意されていた私は、なんて幸せなんだろう。