空を流れる雲が早い。時間もあれぐらい早く経てばいいのに・・・。
でもいくら願っても時間はゆっくりと、そして穏やかにしか流れない。
高校三年の時、自分が卒業して大学に通うことになるなんて思ってもみなかった。
学校という場所があれほど嫌いで、学生という身分があれほど嫌だったのに、
どうしてまた学生なんてやっているのか。別に何かが習いたい訳でもなくて、
誰かと仲良くなりたかった訳でもない。それなのに・・・どうして?
答えは卒業する前に出たはずだった。でも・・・ユミに餞別を貰って、
ユミが憧れだったのだと打ち明けた時、あの時どうして躊躇ってしまったんだろう。
進学する事を・・・先に進むことを・・・。
もしも同じ学年で、もしもまだ後一年一緒に居られたら、今とは違う状況になっていたのかどうかなんて、
それは誰にも分からない。同じ敷地内に居るはずなのに逢えなくて、偶然どこかで見つけても見ないふり。
喉まで出かかった声を押し殺すのに、どれだけ苦痛を感じるか、きっとユミは知らないだろう。
あの時、サヨナラと告げれば良かった。ユミレーダーなどに従わなければ良かった。
「あの時はこんな事考えてたのよね」
突然昔話をしだしたセイの顔を見て、ケイが苦笑いを浮かべた。
「どうしたの、突然」
「何となく聞いて欲しかっただけ。今日の晩御飯は何だろう?ってのと同じぐらいどうでもいい話だよ」
「それにしては顔が真剣だったけど」
「んー・・・浅はかだったなぁと思って。逃げれる訳ないのにさ」
そう・・・逃げられるはずがなかった。どう足掻いても結局今はここに落ち着いているのだから。
別に振られた訳じゃない。でも・・・付き合ってる訳でも・・・ない。
正直、ユミの提案を聞いた時、一瞬なんて勝手なんだろうって思った。
でも勝手だったのは自分も同じで、追い詰めたのはやっぱり・・・自分なんだ。
一年って歳月は長すぎると思うけど、すぐにこうやって相手を追い詰めるセイにとっては、
ちょうどいい期間なのかもしれない。一年後、もう少し落ち着いた気持ちできっと逢えると思うから。
「そういう意味では祐巳ちゃんは本当に私の事がよく分かってると思うんだよね」
「確かに。言えてるわね」
気持ちが最高潮の時にその時の勢いに流されてしまったらロクな事にならない。
それは身を持って体験したから嫌というほどよく知ってる。
だから壊れてしまった恋を、セイは知っていたから・・・。
「それにしてもほんと、よく降るわね」
窓の外を見つめながらケイが言った。セイはケイと同じように窓の外を見つめてコクリと頷いた。
「全くだわ。帰るまでに止めばいいけど」
「大丈夫でしょ、多分」
「・・・だといいけど」
昼からずっと降り続けた雨はまだ上がる気配すらない。
もしもこのまま止まなければ傘を持ってないセイは濡れて帰らなければならない。
この時期は流石にそれは遠慮したい。セイはまだ窓の外を見つめながらユミの事を考えていた。
今頃、ユミも自分と同じようにこのどんよりとした空を見上げながら同じ事を考えているだろうか?
「そうだといいなぁ・・・」
ポツリと呟いた声にケイが首を傾げ、怪訝そうな顔をしているけど、
これこそどうでもいい、しょうもない話だと思ったから話さないでおいた。
流れる雲は結構早い。この分だと、案外帰る頃にはもう雨雲は過ぎ去っているかもしれない。
セイはそんな事を考えながら、残りの授業をずっと外を見て過ごした。
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授業が終わっても、まだ雨は止んでいなかった。
「でも小降りだし・・・何とか走れば・・・」
そう思って昇降口を飛び出したものの、ふとバス停を降りてからの事を考えて、
とりあえず大聖堂に逃げ込んだ。薄暗い大聖堂の中には雨の音がやけに大きく響き渡る。
こんな日に見るマリア様はどうしてこんなにも憂い顔に見えるのだろう。
雨だから?それともセイがここには不釣合いだから?その理由は分からないけど、
セイはマリア様の前でとりあえず手を合わせポツリと言った。
「雨宿り、させてくださいね」
こうやって言っておけば、流石にマリア様もセイの事を少しぐらいは可哀想だと思ってくれるだろう。
そしてセイの事をきっと追い出そうとはしないはず。いや、別に今までも追い出された事はないけど、
大分前にマリア様を撃つ真似なんてしたから何となく未だに後ろめたい。
「しっかし・・・暇だな・・・」
雨で、大聖堂で、しかも一人。何もする事がない。
かろうじて出来るのは昼寝ぐらいだという事に気付いたセイは、
一番後ろから二番目の列の長椅子に転がった。どれぐらいそこに転がっていただろう。
突然、大聖堂のドアがゆっくりと軋み始めた。セイは慌てて体を起こそうとしたけど、それは止めておいた。
どうせ誰に咎められる訳でもないと思ったから。大聖堂のドアが開ききって誰かが中に入ってくる。
そして真っ直ぐにマリア様の前まで行くのだろうと思っていたのに、
その人物はセイを見つけるなり両手で口を覆い息を飲んだ。
でも・・・それはセイも同じだった。何も言葉が浮かんでこない。
何て声を掛ければいいのかも・・・分からない。
「・・・聖・・・なの?」
先に口を開いたのは彼女の方だった。黒っぽいシスターの衣装は彼女の清楚さをより引き出している。
「栞・・・どうして・・・」
セイはどうにか起き上がると、ゆっくりと立ち上がった。混乱してるんだと思う。多分。
でも・・・何となく予感はしていたような気がする。ここに来れば、シオリに会うかもしれないという予感。
ああそうか・・・だから今日のマリア様はあんなにも泣き出しそうな顔なんだ・・・。
シオリは何とも言えない顔でセイを見上げ、ゆっくりとセイの頬に触れる。指先は微かに震えて、
セイに触れた途端、シオリの瞳から大粒の涙が零れた。
「ど・・・して・・・どうして・・・」
涙を零すシオリを見つめながらセイは自分の中の不思議な感情について考えていた。
これは何て言うのだろう。懐かしいとも、痛みとも言えない。不思議な安堵感。
「その格好・・・似合ってるね」
こうして普通に話せる自分が居る事にも驚くけど、何よりも驚くのは自分の中にある友情だった。
シオリの事があんなにも好きであんなにも傷ついて、もう一生立ち直る事も無いと、そう思っていたのに、
ユミやヨシノに言ったあの言葉『会わない方がいいから』あれは嘘じゃない。
あの時はそう思っていたんだ、確かに。それなのにどうして今、こんなにも・・・普通なのだろう。
もう好きじゃない訳じゃない。今でも愛しいと思う。でも・・・もう一度やり直したいとは・・・思わない。
「ありがとう・・・聖は・・・髪が無くなってるわ・・・」
涙交じりに呟いたシオリの声は、あの日と変わらない。控えめで綺麗で、まるで天使のよう。
「まぁね。似合うでしょ?」
「ええ・・・とても」
にっこりと笑ったセイを見て、シオリは目を丸くする。
多分、こんな反応を返すセイが意外で仕方なかったのだろう。そりゃそうだ。
自分でも意外なのに、シオリが驚かない訳がない。案の定、シオリが俯いてポツリと言った。
「・・・責めないの?私の事・・・」
「責める?どうして?」
「だって・・・だって!私はあなたに本当に酷い事をしてっ・・・。
だから・・・きっと聖は一生私を許してくれないだろうって・・・そう・・・思って・・・」
せっかく一度引っ込んだ涙が、またシオリの頬を飾った。そんなシオリを見て、セイは苦く笑う。
「当時はね、そりゃ悲しかったけど・・・私が栞を許さない訳ないじゃない。
それに・・・許されなきゃいけなかったのは私の方。栞をあんな風に苦しめたのは・・・私だから」
「・・・そんな事・・・ないわ」
こんな事言うシオリが何だか酷く懐かしかった。こういう場面で引いてしまうのは、彼女らしい。
決して本心をセイに打ち明けることなく、いつもいつもセイに合わせてくれて。
最後まで本心を言えず、セイに流され続けて・・・結局学校を去ってしまった・・・愛した人・・・。
あの時、自分たちがもう少し強ければきっとシオリはこの学校から出て行く事も無かっただろう。
けれど・・・やっぱり恋は・・・終わってしまっていただろう。
自分ばかりが好きで均整のとれないシーソーはじきに終わってしまう。
シオリが自分の事をどれだけ愛してくれていたのかは分からないけれど、
少なくともまだシオリの方が周りを見る余裕があったのだ。
だからセイを置いてたった一人で夢を・・・追ってしまった。
当時セイの世界はシオリだけで、それ以外は何もいらなかった。
けれどシオリには叶えたい夢があって、セイはそれを応援してやる事が出来なくて・・・。
でも今ならシオリのあの時の気持ちが分かる。だって、セイはようやく夢を一つ見つけたのだから。
セイは長椅子に腰掛けると、マリア様をチラリと見た。やっぱり・・・シオリはマリア様によく似てる。
あの時どうしても言いたかった言葉はもう思い出せないけど、
あれからずっと言いたかった言葉は今も覚えている。セイは大きく深呼吸すると、そっとと目を閉じた。
今度は間違えないように、今度は苦しめないようにゆっくりと頭の中で言葉を探る。
「栞・・・ごめんね。それと・・・夢、叶えてね、絶対に」
セイの言葉にシオリはまた口を両手で覆い、その場に泣き崩れた。
シオリの両手から零れる嗚咽が大聖堂に響き渡る。
雨の音を遮るほどの涙なのに、大聖堂は何故かシンとしてる。
「どうして泣くの」
「だ・・・だって・・・聖がそんな風に・・・言ってくれるな・・・って・・・」
「私は・・・ずっと伝えたいと・・・そう、思ってた」
「あり・・・がとう・・・ありが・・・と・・・せ・・・」
最期の言葉はよく聞き取れなかった。でもそれでも良かった。もう・・・十分だった・・・。
全てを伝え終えた訳じゃないかもしれない。不十分でも足りなくても、それでいい。
確かに成長した自分をシオリには知っておいて欲しかった。
もうあの時のように辛い想いはしないと誓ったあの日から、ずっと。
どれぐらいシオリは泣き続けていたのだろう。
ようやく泣き終えてセイの隣に腰掛けると、穏やかに微笑んだ。
「私ね、今日はここへおつかいできたの。本当はここへ来るのは迷ってたんだけど、
でも・・・来て良かった。もう一度聖に会えて・・・本当に良かった」
「私も。たまたま雨宿りでここに逃げ込んだけど、またここで栞に会えて良かった。
ちゃんと伝える事が出来て、本当に良かった」
時間が一瞬戻ったのかと思うほど穏やかな空気。シオリと居た一番幸せな時の空気。
ずっとこれが続けばいいと思ったけど、でも今はそうは思わない。
セイはユミに逢い、そして今度はユミを愛した。それを間違いだとは思わないし、
そうでなくてはならなかったと・・・今は思う。
「聖は今、恋してる?」
「どうして?」
「だって・・・とても幸せそう」
シオリにこんな事聞かれるのは少し複雑な気もするけど、でも別に嫌じゃない。
むしろシオリから聞いてくれて有難いとさえ思ってしまう。セイはシオリの言葉に小さく微笑んだ。
「そう・・・恋というよりも、もう・・・愛に近いかも」
「・・・愛?」
「そう。私の夢はね、その子と一緒に歳をとること。一生一緒に・・・居たいと思うのよ。
ねぇ、これって愛って言わない?」
恋じゃ足りない。全然足りない。好きとか、もうそんな気持ちじゃない。
ただ傍に居たいだけじゃなくて、一緒に暮らしたい。一緒にずっと・・・ずっと一緒に・・・。
冗談混じりに言ったセイの言葉にシオリは笑った。その笑顔はあの時セイが愛した笑顔だったけど、
でももうその笑顔をいつでも隣で見ていたいとは思わなくて。
シオリの笑顔はシオリのモノ。今はそれがよく分かる。
「素敵な夢ね。きっと叶うわ・・・いえ、聖の事だから叶えてみせるんでしょう?」
「そう。叶えてみせるよ。絶対に」
そう言ってセイは立ち上がった。その足にコツンとシオリの傘が当たった。でもよく見るとその傘・・・。
「栞・・・これ・・・栞のじゃ・・・ないよね?」
「え?ああ・・・この傘ね、さっき借りたのよ。多分・・・二年生かしら?
傘を持ってこなかった私に貸してくれて・・・私明後日もここに来なきゃならないの。
だからその時に返すって約束したんだけど・・・どうして?」
傘一つに驚いたセイを見てシオリは不思議そうな顔をする。でも、セイからすれば驚くのは当たり前だった。
だって、その傘には見覚えがあったから・・・。
「これ貸してくれた子って・・・こう、背丈はこのぐらいでツインテールだったりした?」
「ええ!よく分かったわね。赤と白のストライプのリボンの子だったけど、聖の知り合いなの?」
「知ってるも何も・・・」
その傘は間違いなくユミの傘だった。亡くなったおじいちゃんに買って貰ったというアジサイの傘。
これをユミが無くして・・・あれから始まったのだ。全てが。
セイはそれを見て苦く笑う。外は雨。
それなのにシオリに傘を貸してしまってユミはどうしたのだろう?
ずぶ濡れになって帰ったのだろうか?何となくそんな光景が容易に想像出来て笑ってしまった。
「また風邪引くよ・・・祐巳ちゃん」
ポツリと呟いた言葉がシオリに聞こえたかどうかは分からない。でもきっと聞こえていたのだろう。
「その子ね、お姉さまに入れてもらいますから!って貸してくれたのよ、この傘」
「・・・お姉・・・さまに・・・?」
それを聞いてセイは今度はちゃんと微笑んだ。そうか・・・サチコと仲直りしたのか。
そんな思いが頭を過ぎる。セイが壊した二人の関係が、ずっと気にかかっていたのだ。
でも・・・そうか・・・良かった・・・。
以前の自分ならきっと、すぐにでもヤキモチ妬いてたんだろうけど、今はそうは思わない。
ただ本当に、心の底から良かったと・・・思ってる。
後一年。ユミとの約束の日までまだまだあるけど、でもこれでユミはもう悲しい想いはしなくてすむ。
そして・・・自分も。セイはシオリの手を取り立ち上がらせると、笑って言った。
「そろそろ帰ろ?ついでにその傘に入れてもらえると嬉しいんだけど」
ユミの傘に、自分とシオリが入る。何て不思議な光景なんだろう。
なんだか複雑だけど、でも・・・痛くない。
ユミの大切な傘の中に、ユミの事を好きな自分とかつて愛した人が入るなんて状況、多分そんなに無い。
それは確かに相合傘になるのに、でも・・・まるでそこにユミが居るみたいな気さえして・・・。
シオリから傘を受け取ったセイは、大聖堂から出てポンと傘を開くと、
頭上にパッとアジサイが咲く。それを見てシオリとセイは目を細めた。
「何だか・・・変な感じ」
「・・・何が?私と一緒に帰るのが?」
「ううん。それもあるけど、そうじゃなくて・・・」
もう一度傘を見上げたセイは、心の中で呟いた。ありがとう・・・と。
ユミの傘で良かった。もっと違う誰かの傘なら、こんな風にはきっと感じなかっただろうから。
「ただね、私達の関係がね、本当に友情になれたんだなって思って」
セイの言葉にシオリは笑った。そしてシオリもまた大きなアジサイを見上げ言う。
「そうね。私もよ」
「不思議だね、運命って」
だってあれほど愛した恋人よりも、今はこの傘をこんなにも愛しく想うのだから・・・。
現実には逢えないユミと、現実に会えたシオリ。それでもセイにとってはこの傘の方が愛しい。
セイは傘から滴り落ちる雫を指先で払い、柄を強く握り締めた。
さっきまでユミが持っていたと思うだけで、ただそれだけでまるでユミと手を繋いでいるような、
そんな錯覚にすら陥る。恥ずかしそうに笑ったセイに、シオリが言った。
「もしかして、この傘を貸してくれた子の事が好きなの?」
「あー・・・まぁね。でも・・・片思いだよ、まだ、ね」
「そう。でも・・・頑張るんでしょう?」
「そうね。今度はきっと・・・大丈夫なような気がするから」
あの時みたいにもう追い詰めない。たとえ一年だって二年だって・・・待ってみせる。
今日シオリに会って改めて気付いたから。今、誰が好きなのか。今、どれだけユミを想っているのかが。
だからもう・・・決して逃げない。傘越しに見上げた空は所々晴れていた。
「もうじき雨、上がりそう」
「本当だわ」
雨が上がったら、バス停まで来たら、また別々の道に歩き出す自分たち。
その先またどこかで繋がるかもしれない。繋がらないかもしれない。
でも、もしまたどこかで会ったらきっと、今度はもっと笑う事が出来るだろう。
シオリも、自分も。それぐらいまだ、自分たちの夢は・・・始まったばかりなのだから・・・。
時間が経てば消える想い。
時間が経てば増す思い。
どこまでも果てなく繋がる時間の中で、
私達はどんな想いを残せるのだろう。
私達はどんな風に変わってゆくのだろう。