僕が君に追いつくとき、君はきっとずっと向こう側に居るんだろうね。
僕達は似たもの同士だったけど、君にはいつだって迷いがなかったんだね。
何気なく街を歩いていただけだった。特に予定もなく、どこへ行く訳でもなく。
何となく雑踏に埋もれてしまいたくて誰にも干渉されたくなくて。公園に座って空を見上げているよりも、
沢山の人の中に居る方がより孤独になれる事をスグルは知っていた。
ところが、こんな風に一人きりになりたい時に限って邪魔は入るもので。
ボンヤリと誰を見るでもなく歩いていたスグルの正面に、突然誰かが立ちはだかった。
「悪いね、銀杏王子。私は先にこの迷路から抜けるわ」
その誰かはそんな事を言ってスグルを見上げ、あの生意気な笑みを浮かべる。
こんな顔するのは一人しか知らない。それに、未だにスグルの事を銀杏王子と呼ぶのは・・・。
佐藤聖しか居ない。あまりにも突然の出会いに何か言おうとしたけれど、何の言葉も浮かんではこなかった。
いつもなら絶対セイに会えば嫌味の一つも飛び出すのに、何故かそれが出来ない。
久しぶりに見るセイの顔はやけにすっきりした顔してた。
でも、どこか痛々しく感じたのはきっと気のせいではないだろう。
ユミとセイの間に何があったのか分からない。でも、何かがセイの中で変わったのだ。
あの日、こうやって街の中でばったり会った時は、あんな顔してたのは多分自分の方だったのに。
今はセイの方がずっと向こう岸に近いところに居る。
憧れて恋焦がれていつまでも辿り着けないあの場所に・・・。
セイはそれだけ言って片手をヒラヒラさせながらそのままスグルの前から姿を消した。
あまりにも咄嗟の事でもしかしたら白昼夢でも見たのかと錯覚した程一瞬だった。
気がつけばセイの姿は完全に見えなくなっていて、自分はまた一人になっている。
立ち尽くすスグルを誰も気にかけなどしない。他人など、所詮そんなもの。
一瞬出会ってまたすれ違う。次にもしどこかで出逢ってもきっともう、分からない。
駅前の広場で腰を下ろして目の前を行き過ぎる人たちをじっと見ていたら、
そのうちの一人がチラリとこちらを向いてそのままツカツカと歩み寄ってくる。
そしてスグルの目の前でピタリと立ち止まると、何かを含んだような笑みを浮かべ言った。
「ねぇ、あなた。今の人あなたの知り合い?」
「・・・は?」
今の人?パッと浮かんできたのはセイの顔。という事は、やはりあれは夢では無かったのか。
スグルは相手の顔色を窺いながらにっこりと笑顔で言った。
「ええ。彼女がどうかしましたか?」
これ以上ないぐらいの極上の笑みを浮かべておけば、大抵の人は好意を持って接してくれる。
波風を立てず上手く生きて行くには、なるべく敵は作らないこと。そんな自分を演じるのは別に苦ではない。
小さい時から染み付いた考えや教えはなかなか抜けないというけれど、実際の所それは当たってる。
小笠原を継ぐ為に、小笠原を継ぐのに相応しいようにずっと今まで生きてきた。
それが今は役に立ってると、自分ではそう・・・思う。だって周りには敵はいないし、特に悩みもない。
苦労もなければ苦しみだってない。ただ・・・友達は、親友は・・・居ないけど。
スグルの文句の付けようもない笑みを見た女の人は小さく声を漏らして笑うと、
何を思ったのかスグルの隣に腰を下ろし言った。
「あの?」
「ねぇ、さっきの人とどういう関係?」
「か、関係?」
セイとの関係・・・セイとの関係なんて、今まで考えた事もない。
ただ言えるのは、自分たちはとても似たもの同士だということぐらい。つい、最近までは、の話だけけど。
「何か関係があるほど親しい訳じゃありませんよ」
「・・・そう。じゃあ、あなたはさっきの子、どう思う?」
「どうって・・・」
別にどうも思わない。と言ったら、この人は呆れるだろうか?
いや、それよりもまずこの人は一体誰なんだろう?首を傾げて隣を見下ろすけれど、さっぱり分からない。
するとこの人は何かを思い出したように笑った。
「あら、失礼。私は姉よ、佐藤聖の姉。あ、もちろんリリアンのね」
「えっ!?」
スグルは少なからず驚いた。あまり驚くという事がない自分にとって、これほど驚いたのは実に久しぶりだ。
セイの姉と言えば、あのセイを顔で選んだという?
「そうでしたか、それは失礼しました」
スグルは深々と頭を下げると、それをセイの姉は制した。
「止めてちょうだい。別にあなたの姉な訳じゃないんだから」
「し、しかし・・・」
セイの姉となれば話は別だ。もっとちゃんと受け答えをしていれば良かった。
心のどこかで所詮は他人だという頭があったせいで、何か知らぬ間に失礼な事をしていたかもしれないし。
そんな打算的な考えをセイの姉は一瞬で見破ってしまった。
「別に構わないわよ、今更」
そのたった一言で。スグルはもう一度深々とお辞儀をして、今度はちゃんと名乗った。
そしてもう一つの疑問をセイの姉に告げる。
「どうして佐藤さんを追わなかったんですか?どうして僕の所に?」
セイの姉ならば、まっすぐセイを追えば良かったのに。どうして真っ直ぐに自分の方へ来たのだろう?
どうして一人に・・・してくれなかったんだろう。
するとそんなスグルの質問にセイの姉はにっこり笑って答えた。
「今は聖は私を必要としてないから。どちらかと言えば貴方の方が心配だったから。
と言えば、納得するかしら?」
「そんな・・・僕は心配されるような事は何も・・・」
「そうかしら?随分落ち込んだ顔してたけど?」
「・・・・・・・・・・・・・・」
落ち込んでた?自分が?どうして。別にセイとは何の関係も無い。繋がりもない。
それどころか自分はセイに酷く嫌われている。
「僕は彼女には嫌われてますから。それでそう見えたのかもしれませんね」
「貴方・・・聖の事好きなの?とてもじゃないけどそんな風には見えないんだけど」
「そうですか?僕は彼女の事、結構気に入ってますよ」
「へぇ・・・でも聖には嫌われてるの?」
「はい」
適当な事を言って話を逸らして、さっさとこの場を離れたかった。
けれど、この人はそんな考えは微塵も無さそう。
それどころかスグルの答えに、ふーん、と返事をしただけでチラリとスグルを見て笑う。
「嘘が上手ね、柏木君は。全部が嘘って訳じゃなさそうだけど」
「!?」
今まで、どんな人とも上手くやっていく自信があった。どんな事を言われても動揺などしないと。
嘘だって上手くつける。核心は誰にも・・・つかせない。
「ほらね。貴方、聖の事嫌いでしょ?というよりも、悔しいのかしら?
ライバル・・・そうね、そう言うのが一番しっくりくるわね」
まるで占い師みたいな口調のセイの姉。スグルは愕然とした。誰かを嫌いだんなて思った事無い。
ライバルなんて居なかった。勉強でも運動でも、大概は勝てたのだから。
だから悔しいなんて気持ちを味わった事なんて、本当にあまり無い。
「はは、そんなまさか。別に僕は佐藤さんをライバルだなんて思った事は一度も・・・」
「そうかしらー?聖に何言われたのか知らないけど、だったらどうしてあんなにも傷ついた顔してたの?」
「そ・・・それは・・・」
彼女が一人で向こう側に行こうとするから・・・。
自分にはどう足掻いても手に入らない幸せを掴もうとするから・・・。
ここにまた・・・一人にしようとするから・・・。
スグルはそこまで考えてふと思いとどまった。
このままでは完全にセイの姉の言うとおり、悔しがってるようにしか聞こえない。
「ま、どうでもいいけど。柏木君の仮面も早く取れるといいわね。嘘ばっかりついてちゃ、体に毒よ」
黙り込んだスグルを見て、セイの姉はゆっくりと立ち上がった。
そしてまるで子供にするみたいにスグルの頭をヨシヨシと撫でる。
「じゃね」
「あ・・・ちょっ!!」
スグルが顔を挙げた時には、もうセイの姉の姿は無かった。まるでさっきのセイのよう。
我に返った時には既に居ない。まるで幻のような存在感。でも・・・その名残はしっかりと心に焼き付く。
一杯食わされたような何とも不思議な居心地の悪さだけが後に残った。
自分は・・・一体セイの事をどう思っているのだろう?
どうしてセイの姉はあんな風に最後に言ったのだろう。別に嘘ばかりついちゃいない。
ただ、真実を言わないだけ。セイとスグルの関係。それは、何も無いはず。
それなのに今はそれすら嘘のように思えてくる。
「何だっていうんだ、一体・・・」
この気持ちは何なのだろう。この間からずっとそう。何かが上手くいかないんだ。
だからこうやって街に出てきてブラブラしようと思った。そうすれば少しは気が晴れるかと思ったから。
でも、こういう時に誘う人も居ない自分をほんの少し寂しいと思ってしまった。さっきセイに会った時に。
あんな風に自分から声を掛けるような人ではなかった。それなのにわざわざあんな事を言いに来るなんて。
今まではセイもこちら側の人間だったから、だから安心してたのに・・・それなのに・・・。
「僕は・・・悔しい・・・のか?」
そう、セイがたった独りではなくなってしまった。誰かを愛してしまった。
それが・・・悔しいんだ。もちろん応援したい気持ちもあるけれど、それよりも今は悔しい。
セイと自分の間にある関係。それはセイの姉の言うように・・・好敵手・・・だったのかもしれない。
こんな事言うと、またセイに嫌がられるかもしれないけれど。
「はは・・・なんだ、やっぱり僕は佐藤君の事が嫌いな訳じゃないじゃないか」
嫌いな訳じゃない。ただ悔しいだけ。一人で先に行ってしまおうとするセイが、羨ましいだけ。
喫茶店でセイと話した日、セイは言った。『早く追いついておいで』と。
でなきゃ喧嘩も出来やしない・・・と。
少なくともセイは、スグルとの喧嘩を楽しいと少しぐらいは思ってくれていた訳だ。
何だかそれを不意に思い出して笑みが零れる。
ふと前に視線を移すと、重そうに顔をしかめながら荷物を両手に抱えているセイを見つけた。
スグルの中にもう迷いは無かった。さっきまでのあの鬱陶しいような考えももう無い。
作っていたと思っていた自分。でも、セイの前では案外素だったのかもしれない。
少なくともセイには言いたい放題言えたのだから・・・。
セイの事は友達だと・・・思っていたのだろう、きっと。
だって、実を言えばスグル自身もセイとやり合うのは結構好きだったから。
スグルは相変わらず重そうに荷物を持つセイの肩をトントンと叩き言った。
「荷物、持ってあげようか?」
「はぁ?」
振り向いたセイは今自分の肩を叩いたのがスグルだと分かると、更に嫌そうに顔を歪めた。
「なんだ、お前か」
「お前って・・・君は相変わらず口が悪いね」
「しょうがない、これは生まれつきだから。それにしても・・・あんたまだこの辺に居たの?
いい加減すること無いんなら帰れば?」
こんなにもはっきりと分かるぐらい邪険に扱われてるのに、少しも悪い気はしない。
「時に佐藤君。君のお姉さまは怖いね」
スグルの言葉にセイは返事をせずに首を傾げる。
「いやね、ついさっきそこでナンパされてね。それが君のお姉さまだったんだよ」
「ナンパ?お姉さまが?あんたを?それ、本当に私のお姉さまだった?
新手の詐欺かなんかなんじゃないの?」
どうやらセイは自分のお姉さまがスグルをナンパなどするはずないと思っているらしく、
一向に話を聞いてはくれない。仕方なく一部始終を話すと、ようやくセイは納得してくれた。
「なるほど、そりゃ確かに私のお姉さまだわ。あんたも災難だったね」
「いや、まぁでも・・・興味深い話だったよ。僕の中にある君への思いを発見する事が出来たからね」
「なに、それ」
気持ち悪いな、彼女はそう言って笑った。嫌そうに。自分がセイに抱く感情は決して愛情ではないにしても、
他の人間よりは・・・近いと思える。そう、友情ぐらいは、多分あると思う。
「僕の中にね、君への友情を発見したんだよ。素晴らしいと思わないかい?」
スグルの言葉に、セイは一瞬ポカンと口を開けた。そしてその拍子に手から荷物が音を立てて滑り落ちる。
無言の時間・・・何を言えばいいかも分からずに黙り込んでいると、ようやくセイが口を開いた。
「あのさ、お姉さまに何吹き込まれたのか知らないけど、私とあんたの間に友情なんてものは無いよ。
あんたはせいぜい私の悪友止まり。残念だけど。まぁ・・・それを友情と呼ぶのなら、あんたの勝手だけど」
口の端を上げて笑うセイの意地悪な笑みは、確かに悪友と呼ぶのに相応しかった。
多分、自分も今そんな顔をしているのだろう。でも・・・悪友とは言え、友達には変わりない。
何だかそれが嬉しかった。いや、嬉しいとはまた違う。
大分昔に忘れていた懐かしいような感情が胸を締め付けた。
子供の頃、友達が沢山居た時の事を、不意に・・・思い出したのかもしれない。
スタスタと歩き始めるセイの後を、スグルはついてゆく。セイも別にそれを止めはしなかった。
そしてクルリと振り返り言う。
「お前、私の事女だと思ってないだろ?」
「どうして?」
「もしもこれが蓉子や江利子なら、あんたどうする?」
そう言って重そうな荷物をちょっと持ち上げてみせるセイ。もしもこれがヨウコやエリコなら・・・。
「間違いなく荷物を持つだろうね」
そりゃ女の子にこんな重い荷物を持たせていては、柏木優の名前に傷がついてしまう。
スグルの答えにセイは小さく笑った。何故かとても・・・満足そうに。
「ほらね、やっぱり私の事女だなんて思ってないじゃない」
「・・・言われてみれば。でも、君ならそれぐらい平気だろ?」
その質問にセイは何も答えなかった。その代わり、またクルリと踵を返しスタスタと歩き出す。
怒らせてしまったのだろうか?スグルはふと不安になった。けれど、セイを何故かヨウコやエリコのように、
女性としては見られない。それは別にセイに色気がない訳じゃない。
ただ・・・性別なんてどうでもいいんだ。自分たちの間には性別など、無い。
どうしてかな、そう・・・思ったんだ。セイなら荷物を持って欲しければきっと、遠慮なくそう言う。
でもそれを言わないのなら、持たない。セイの前でだけは・・・フェミニストなんて仮面など、いらない。
ただ普通に・・・友達でいればいい。そんな関係で・・・いたいんだ。
ゆっくりとセイの後をついてゆく。けれどセイはやっぱり一度も振り返らない。
お互い何も話さない。交差点で信号待ちをしていると、車のクラクションだけが目の前を通り過ぎてゆく。
信号が青に変わって、やがてまた二人で歩き出す。セイの隣に立った時、ポツリと言ったセイの言葉。
「でも、あんたのそういうとこ、私は結構気に入ってる」
「・・・・・・・・」
笑ったスグルを見て、セイも笑った。こんな風に二人で笑ったのは多分初めてだろう。
お互い顔を合わせれば喧嘩ばかり。セイの言うようにやっぱり自分たちは悪友なのだ。
根本的に気が合わない。趣味も思想も全く違う。合うはずがない。でも、それがいい。
それが・・・っきっと、心地いいんだ。
「僕もそっち側に行ったら、ダブルデートって奴をしてみようか」
「は?」
「君は祐巳ちゃんを連れて、僕は・・・」
そこまで言った時、スグルの話を最後まで聞かずにセイはきっぱりと言い切った。
「嫌だ。死んでもするか」
いつまでもその声が、耳に残った。雑踏やクラクション。沢山音は溢れてる。
でもその声だけは、やけにはっきりと聞き取れた。
「相変わらず口が悪いね」
「それはしょうがない・・・」
「生まれつきだから?」
「そう」
小さく頷いたセイ。セイのお姉さまの言った事は、やっぱり正しかったのかもしれない。
悔しいけれど、それは認める。セイの隣を歩きながら、そんな事を・・・考えていた。
いつか二人が幸せになる日が来れば、その時は必ず四人でどこかへ出かけよう。
きっと・・・楽しいに違いないから。例えセイがどんなに嫌がっても、その時はユミを使えばいい。
セイはユミのいう事なら聞くだろうし、必ず・・・ユミを手に入れるだろうから・・・。
手に届きそうで届かない。もどかしくて泣いた夜、僕はそれを手放した。
記憶の箱の中に大事に仕舞ってあったモノを、もう取り出そうとは思わない。
綺麗な思い出は綺麗なまま、そっと仕舞って。汚い自分は出来るだけ見ないように。
何も無くなった日を、僕は知ってる。何かを手に入れた日を・・・僕は知ってる。