何を話せばいいんだろう?何を話したいのだろう?

どうすれば全てが丸く収まるのかなんて、きっと誰にも・・・分からない。


ノリコはセイがあまり好きではなかった。そもそも初めて会った人に耳の中に指を突っ込まれて、

『君は不感症か』

これは無い。ありえないと思う。たかだか十何年しか生きてきてないけど、それでも大体の予測はつく。

多分これから先、あんなにも失礼で唐突で不可思議な人にはもう会わないだろう、と。

そして今も思ってる。出来れば、もう二度と関わりたくない・・・と。

薔薇の館からの帰り道、偶然シマコを見つけたノリコは足早に走り寄った。

最近シマコは時々薔薇の館をサボって自分には何も話してくれない。それがノリコには辛くて仕方なかった。

自分はシマコの妹とはいえ、あまり頼りにされてはいないような気がしたから。

ノリコは声を掛けようとシマコの姿がよく見える場所まで来た時、ふと足を止めた。

シマコは一人ではなかった。隣の誰かに嬉しそうに笑いかけていて、少しもこちらに気付いてはくれない。

そしてその隣の人物こそが・・・。

「・・・聖さま・・・」

どうしてここにセイが居るのか、それは分からない。

多分ユミに会いにきたのだろうが、それならばどうしてシマコと一緒に居るのだろう?

不意に過ぎるのは切なすぎる寂しさ。幻のような二人の影に、ノリコは一抹の不安を覚えた。

何だかこのまま置いていかれてしまうのではないかという不安が胸を締め付ける。

実際にこうやってあの二人が並んでいるのを見るのは初めてだったノリコにとって、

あの二人は実に姉妹らしく近すぎず離れすぎない距離をずっと保っていて、

その微妙な距離すらノリコには果てしないもののように思え、息が詰まりそうになった。

フランス人形が二体優雅に歩いてゆく後ろを、日本人形がいくら追いかけても追いつくはずも無い。

自分とシマコの関係はそれぐらい、遠く果てしない距離のように思う。

やがてバス停まで来た時、シマコが今しがた到着したバスを横目にセイと2〜3会話をして、

そのまま吸い込まれるようにバスの中へと姿を消した。

結局・・・ノリコは二人に何も話しかける事が出来ないままバスは発進してしまい、

残されたノリコはバスの排気ガスに豪快に咽るしかなくて・・・。

その時だった。突然、咳き込んで屈んだノリコの目の前に真っ白のハンカチが差し出され、

それに驚いたノリコは勢いよく頭を上げて相手の顔を確認して思わず顔をしかめてしまった。

「なによ、その顔・・・失礼ね」

「す、すみません。つい」

ノリコの言葉に苦笑いするセイ。どうしても本音がポロリと出てしまうのは悪い癖で、

昔からそのせいでよく友人や兄弟に怒られたものだ。

セイが差し出してくれたハンカチを丁寧に断ると、ノリコは軽い会釈をしてバス停でバスを待っていた。

するとセイが当然かのように隣に立ち、チラリとこちらを見下ろし言った。

「二回目だね。えっと・・・乃梨子ちゃん・・・だっけ?」

「ええ、そうですけど。どうして隣に立つんです?ベンチもあるのに」

ノリコが立っている場所から少し離れた所にベンチはあった。

本当はセイに話しかけられるのが嫌で、わざとバス停よりも少し遠いここに立っているというのに、

それでもセイはわざわざノリコの隣までやってきてにっこりと微笑んだ。

「だって、一人で帰るの寂しいじゃない」

そんな理由で・・・ノリコはチラリとセイを見上げた。確かに綺麗な顔してる。

まるでテレビとかに出てきそうなぐらい綺麗では・・・ある。

でも、シマコには敵わない。どんなに綺麗でもシマコには・・・敵わない。

未だにノリコには分からなかった。どうしてシマコの姉がこの人なのかが。

もっと他にもいい人は居たはずだ。それなのに・・・どうしてこんな人?

ノリコはセイを軽く睨むと、ほんの少し距離を取った。

「私は別に寂しくなんてないですから」

「ふーん。強いんだね、乃梨子ちゃんは。私はダメ。一人は寂しくて耐えらんない」

少しだけ切なそうな笑みを浮かべたセイは、せっかく取った距離を一歩詰めてくる。

さっきシマコと居た時はもっと離れていたのに、どうして自分にはこんなにも近寄ってくるのか。

それをセイに問うと、セイはきっぱりと言った。

「だって、君は志摩子じゃないもん。志摩子と私の距離はあれが最善なの」

「・・・よく分からないんですけど」

「そう?分かりやすく言ったつもりだったんだけど」

そう言って小さく笑ったセイを見て、少なからず腹が立った。

何だかこの人と話しているとバカにされているような気がしてくる。

というよりも、何だかシマコとセイの関係を思い切り見せ付けられているような気すらする。

それがこんなにも悔しい。自分が絶対に敵わない相手。歳はたった三つしか離れていないのに、

それなのに・・・この悔しさは何だろう・・・あの時もそうだった。

シマコに兄が居た事を自分は知らなくて、でもセイは知っていて・・・。

それがまるで、自分はシマコの事など何も知らないのだと思い知らされたような気がして、

酷く悔しかったのだ。ましてやこんな掴み所のないような人に負けたのだと思うと、尚更腹が立った。

「ところで乃梨子ちゃん。どうしてさっき声かけてこなかったの?もしかして私が居たから?」

「知ってたんですか?」

「もちろん。でも一向に声かけてこないから志摩子と喧嘩でもしてるのかと思って。

それか、志摩子が今日も薔薇の館をサボったから?」

「喧嘩なんて・・・」

喧嘩なんてしてない。ただ一方的にシマコが薔薇の館に来ないだけの事。

そして、その理由を教えてはくれないだけの事。

シマコの事だから、きっとユミやヨシノ、それにセイの事を心配してるのかもしれない。

でもそれならそれで、ちゃんと教えて欲しい。少しでも自分の存在価値をシマコの中に見出したい。

そんな風に願うのはいけない事なのだろうか?欲張りすぎるだろうか?

イライラした気持ちは最高潮だった。それをセイにぶつけるのは間違ってる。

それは分かっているのに、どうしても気持ちを抑える事は出来そうに・・・無かった。

「志摩子さんは・・・あなたには何でも話すんですね」

今日薔薇の館をサボった事を知っているという事は、

どうして薔薇の館に来ないのかもシマコに聞いているだろう。

自分には決して教えてくれない、でも一番聞きたいものを。

「そりゃ、私は卒業してるからね」

「?どういう意味です?」

「どういうって・・・そのまんまの意味だってば。

私は卒業してリリアンには、薔薇の館にはもう関わりが無いから話しやすいってだけの話。

乃梨子ちゃんに話したいけど、乃梨子ちゃんに話すと仕事とかに支障が出ると困ると思ったんでしょ。

だからたまたま会った私に話したんじゃない?一応は、私、志摩子の姉だし、ね。

それに・・・志摩子の性格上もしも私に会わなきゃ誰にも話さなかったと思うよ?

私達の距離は、だからあれが最善なの」

確かに、シマコはいつも悩み事をそっと胸の内に秘めてしまう。だから後でどんどん辛くなるのに、

どうしても・・・誰かに甘えられないんだ、あの人は。

セイの理屈は何となく分かった。当事者じゃないからこそ話せる事もある。

でもそれは当事者からしてみれば酷く悲しい事。

せっかく近づいたと思った距離が、前よりも更に遠くなったようにさえ思う。

結局、自分はシマコの何なのだろう。

妹だなんて名ばかりで、何も相談してもらえないんじゃ一緒に居ても意味が無いように思う。

妹になる前なら、もっと相談してくれていたのだろうか?薔薇の館に関わりが無ければ?

それとも、もっともっと距離は遠い・・・まま?どんなに考えても答えなど出るはずもない。

もしもの場合など、起こらないのだから。現に自分はシマコの妹でそれが変わる事などこの先無い。

姉妹を解消すれば元に戻るのかもしれないけれど、以前と同じには・・・ならない。

「聖さまは祐巳さんとの距離についてどう思いますか?」

シマコとの距離があれぐらいだと言うのなら、ユミとの距離はどうなのだろう?

はっきり言って、そのせいで薔薇の館は今ややこしい事になっているのだ。

まぁ・・・誰が悪い訳では・・・ないのだけれど。でも恋愛についてはよく分からない。

一体どんな感情で相手を傷つけたり、追い詰めたりしてしまうのか。

セイのようにユミのように、苦しんで悲しんで、一体何がしたいんだろう?一体何を望んでるんだろう?

ノリコの言葉に、セイは意外だけど笑った。そして軽い口調で言う。

「あー・・・祐巳ちゃんとの距離?あれは・・・間違えたねぇ」

「まち・・・がえた?」

「うん。間違えた。本当はあんなにも近づくつもりは無かったんだけど」

そう言うセイはもう笑ってなどいなかった。ただ切なそうな、泣きそうな顔を・・・してた。

でも、間違えただなんてあまりにも酷すぎる。少なくとも今の台詞をユミが聞いたら怒るに違いない。

そりゃノリコはセイの気持ちなど少しも分からないし、どれほどセイが苦しんだかも知らない。

けれど、ユミは・・・痛々しかった。特に最近は本当に、見てるのも辛いほどだったのだ。

それを間違えただなんて・・・あんまりではないか。

「それはあんまりな答えじゃないですか」

「でも、それが一番当たってる。私は祐巳ちゃんを傷つけるつもりなんて無かったし、

ましてや泣かせたい訳でもなかった。ただ・・・笑ってて欲しかったんだ。

でも気付いたらもう・・・遅かった。戻れない所まで来てたのよ」

後戻り出来ない道なんて無い。少なくともノリコは今までそう思っていた。

ほんの少し遠回りしたって、戻れない道など・・・無い。

「戻れないんじゃなくて、戻らなかったんじゃないんですか?」

「違うよ、戻れなかったの。戻れるなら戻りたい。友達でもいいから、ずっと傍で見ていられるなら。

普通に話せる事が出来るなら、その方が良かったに決まってる。

私と祐巳ちゃんの最善の距離は、だから友達が一番だったんだ。

どんなに離れても、いつか祐巳ちゃんが誰かと恋しても私は見守ってるだけの存在。

それが・・・一番だった筈なんだ。でも、それじゃあ我慢出来ないって思っちゃった。

私から一歩、踏み外しちゃったのよ」

だから祐巳ちゃんには可哀想な事しちゃったかもしれない。セイはそう言って小さく笑った。

「あなたは・・・後悔してるんですか?」

「後悔はしてない。起こってしまったからね。もう後悔はしない。

伝えた事で楽になる部分は確かにあるんだから。ただ・・・申し訳ないとは・・・思う。

私のせいで皆を巻き込んでしまった事、祐巳ちゃんを泣かせてしまった事だけは・・・、

本当に・・・嫌だったから・・・」

不思議だった。この人はずっと申し訳無いと思いながらユミを想ってきたのだと思うと、

聞かずにはいられなくて。どうしてそんなになるまで、自分をそこまで追い詰めてしまうほどの想いって、

一体どんなものなのだろう?誰かを想う気持ちは、時として相手を傷つける事があるのは分かるけど、

でもそれがどうして止められなかったのだろう?そうなる前に気付かなかったのだろうか?

それとも・・・気づいた時にはもう始まっていた・・・とか?

「恋愛ってのは思ってる以上にやっかいだよ、ほんと。

周りが全く見えなくなって、自分も、相手すらも見えなくなっちゃうんだから。

距離が取れなくなって、それでも進むしかなくて、どこまで行けばいいのかも分からないでさ。

結局行き着いた先が・・・一年っていう大きな壁だった訳だけど」

「・・・一年?」

「そう。一年会わないって約束したの。

だからそれまでに祐巳ちゃんの気が変わってしまえば、それでお終い。友達にもきっともう、戻れないよ」

「そんな・・・一年って・・・」

長すぎる。そう思った。一年あれば、歳を一つとる。それだけじゃない。新入生も入ってくる。

妹だって出来るだろう。セイの事ばかりは考えていられないだろうし、

それどころか忘れてしまう可能性の方が・・・高い。高校の時にした恋が一生ものの恋になることなんて、

殆ど無さそうだし、一年あれば誰か他の人を好きになることだって・・・きっと出来る。

「聖さまはそれを承諾したんですか?」

ノリコは何かが釈然としなかった。好きで好きで仕方ないのに、どうして一年も会わずにいれるというのか。

例えば自分ならシマコと会うなと言われても、きっと一ヶ月ももたないだろう。

でも、ノリコの問いにセイは笑った。

「まあね。だって、それしか方法無かったし。

それに・・・一年で消えてしまうような恋を私はしてないから。

何年だって待てるよ、きっと。もしも祐巳ちゃんがそのうち私を忘れてしまったとしても、ね」

「・・・あなたは・・・バカですね」

「うん。自分でもそう思う。でも、やっぱりそれが最善だと思うから」

「そうですね。それが祐巳さまと聖さまの・・・距離・・・なんでしょうね」

「一応言っておくけど、私、負けるような勝負はしない性質だからね?

それに、その距離だって後一年経てば変わる訳だし。良くも悪くも」

「良くも悪くも・・・ですか」

「そう、良くも悪くも」

笑ったセイはさっきよりもずっと綺麗に見えた。そして思った。

距離の取り方なんて、ひとそれぞれだって事を。少なくとも自分にはこんな距離は取れない。

シマコとはもっともっと近づきたい。一年も離れるなんて考えられないし、考えただけでもゾッとする。

恋愛はセイのいうようにやっかいなものだ。

まるでいつ切れてもおかしくないような糸の上を歩くようなもの。それも物凄い崖の上で。

でも・・・それをしてもいいと思えるほどの人が現われたのなら、

セイの気持ちが少しは分かるかもしれない。後戻りが出来ないような、そんな危なっかしい距離だとしても。

今はまだセイの事がよく分からない。シマコは大事だけど、そこまででは無いようにも思う。

でも、さっき感じたあの感情は・・・間違いなくヤキモチだった。

セイと二人で並んで歩く姿を見て、追いつきたいと心の底から思った。

もしもこれが恋だというのであれば、なんて苦しいんだろう。なんて・・・切ないんだろう。

そしてその感情に気付いてしまった時・・・きっともう、セイの言うように後戻り・・・出来ないんだろう。

「私はそんなの嫌です。後戻り出来ない恋なんて・・・」

「でも、後戻り出来るようじゃあ、まだまだだね」

セイはそう言って意地悪く笑う。やっぱりバカにされてるような気がする。

たった三つしか変わらないのに、何でも知ってるようなセイに腹が立つ。

でも・・・さっきほどの嫌悪感は無かった。ほんの少しだけどシマコが姉に選んだ理由も・・・頷けた。

やがて遠くから黄色い点が闇の中にぽっかりと浮かぶのが見えた。やっとバスがやってきたのだ。

セイはノリコがバスに乗ったのを確認すると、小さく手を振った。

「乗らないんですか?」

「まぁね。だって、一人でも寂しくないんでしょ?だから乗らない。

それに・・・私、一人は嫌いだけど、独りは好きなんだ。じゃあね、ばいばい」

「・・・・・・・・・・・・」

相変わらずよく分からない人、佐藤聖。バスのドアが音を立てて閉まる。

最後にもう一度セイに目をやったけど、既にセイはもうどこか違う所を見ていた。

そして、何かを見つけたのか小さく微笑んでそのまま歩き出す。

一体何を見つけたのかと思って振り返ってみたけれど、バスの中の方が明るくて生憎何も見えなかった。

「あの人・・・やっぱり苦手だ」

ポツリと呟いた声が誰も居ないバスの中に響く。出来ればもう関わりたくない。

でも・・・もしまたいつかどこかで会ったら・・・その時は、幸せでいてほしい。

笑って・・・いてほしい。その方がシマコもきっと喜ぶ。

今のところノリコの楽しみは、シマコが笑った顔を見る事だから。

もしもこれがセイのいう、後戻りの出来ないレールへの入り口だったとしても・・・。




もしもこの道がどこへも繋がってなくて、


その先に何も無かったとしても、それはそれでいい。


もしもこの道が誰とも繋がってなくて、


その先に誰も居なかったとしても、それでも私は、この道を選ぶ。


例え未来など無くても。例え一人ぼっちになったとしても。

後戻り出来ないレール