誰を責めることも出来ない。誰が悪い訳でもない。仕方ない。

そんな風に簡単に割り切れるような関係ならば、良かったのだけれど。


日が落ちるのが早くなったと空を見上げながら、エリコはリリアンの敷地内のベンチで一人、

物思いに耽っていた。ヨウコがセイに振られたと連絡をしてきてから、誰とも連絡を取らなかったのは、

別に忙しかった訳ではない。ただ、誰に会って、何て言えばいいのかが、分からなかったのだ。

安易にセイに会ってヨウコとの事を責める訳にもいかないし、

かといってヨウコを慰めるにはいい言葉が思い当たらない。いや、そもそもヨウコの事だ。

慰めて欲しいなどとは、きっとこれっぽっちも思ってないだろう。

だったらどうしてエリコはこうしてリリアンの中で、こうしているのか・・・。

その答えは自分にも分からなかった。誰を待っているのか、何がしたいのか、何が出来るのか。

あるいは、何も出来ないのか・・・最早それすらも分からない。

「・・・困ったわね・・・」

エリコの声が聞こえたのか、突然足元から軽快な鳴き声がした。

その鳴き声の主は、昔と何も変わらずエリコの足元にじゃれ付いてくる。

「ゴロンタじゃない。元気だった?」

「にゃぁ〜」

「そう、それは良かったわ。ところでゴロンタ、あなた最近聖に会った?」

ゴロンタはエリコに頭を撫でられながら、セイという単語に耳をピクンと震わせた。

ゴロンタは今も、セイの事を特別に思っているのだろうか?それとも、ただの気まぐれ?

それは分からないけれど、おとぎ話のようにゴロンタについていけばセイに会えるなんて事は無さそうだ。

ゴロゴロゴロと喉を鳴らしながらエリコに頭を預けていたゴロンタが、

突然身を翻して草むらの中に姿を隠してしまった。その代わりに現われたのは・・・。

「・・・あら・・・」

「・・・どうも」

パッと名前が出てこない。そりゃそうだ。ただの一度しか会った事ないのだから。

おまけに大した会話をした事も無いなんて、それはもう初対面に等しい。

エリコはそっと立ち上がろうとした。けれど、その人は小さく首を振って何故かエリコの隣に腰を下ろす。

「あの?」

「ああ、加東です。以前一度会ったわよね?」

カトウ・・・カトウ・・・カトウ・・・。エリコは必死になって曖昧な記憶を手繰り寄せた。

確かにどこかで会ったのに、どこで会ったのかが思い出せない。普段あまり人の顔なんて覚えないエリコだから、

顔を覚えてるという事はそれなりに印象的だったはずなのに。

そんなエリコを見て、カトウさんは表情も変えずに淡々と言った。

「覚えてない?まぁ、ほんの一瞬だったし・・・佐藤さんにね、旅行のパンフレットを渡しに行った時、

会ったと思うんだけど」

人違いだったらごめんなさい。カトウさんはそう言って薄く笑った。セイに旅行のパンフレット。

こんがらがった記憶がようやく形を取り始めた。

「ああ!あの時の!」

「ええ、お久しぶり」

エリコがポンと手を打ったのを見て、ようやくカトウさんが笑った。

とは言っても、あまり表情は変わらなかったけれど。あの時、あのセイが誰かと二人きりで旅行に行くなんて!

と随分驚いたものだ。あまり人に懐かないセイ。だから余計にカトウさんの事は気になってたのに、

それすらすっかり忘れてしまっていたなんて。

エリコがそんな事を考えているとも知らずに、カトウさんは相変わらず淡々と話し続ける。

「改めて、私は加東景。よろしく」

「鳥居江利子よ、こちらこそよろしく」

差し延べた手を、ケイは軽く握り返してくれた。その手は表情や雰囲気とは裏腹に暖かい。

「ところで今日はどうしてこんな所に?」

「ええ、それが・・・自分でもよく分からないのよ・・・私、どうしてここに居るのかしら?」

エリコの言葉に、ケイは目を丸くして首を傾げる。そりゃそうだ。ケイの反応が正しいと自分でも思う。

けれど、そんな意味不明なエリコの言葉を聞いても、ケイは笑ったりはしない。

ただ不思議そうに頷くだけ。こんな所がセイはきっと気に入ったんだろうな、と思った。

決して自分の中に立ち入ろうとしないケイだから。そんな人だから。セイもそういう所があるから、

タイプは違うけれど似たもの同士なのだ、きっと。

「佐藤さんに会いに来た訳じゃないの?どっちみち、生憎佐藤さんは今日は大学、来なかったけど」

「そうなの?」

「ええ。最近はしょっちゅうよ。来たり来なかったり。まぁ・・・気持ちは分かるんだけど・・・」

ケイはそう言って鞄の中から缶ジュースを二本取り出して、そのうちの一本をエリコの膝の上に置く。

「え?い、いいわよ」

「いいのよ。貰ってやってちょうだい。私二本も飲めないし」

「でも・・・」

誰かのだったんじゃないの?そう聞く前に、まるで先回りするみたいにケイが言った。

「あなたのよ」

「・・・あ、ありがとう」

こんな感覚初めてだった。今まではよく分かりにくい子だと言われ続けてきたけど、この人も大概だ。

表情は読めないし、恐ろしく勘が良さそう。それに・・口数が少ない割りに、優しい。

何だか不思議な人だった。いや、ケイに興味が湧いてきた、と言うべきだろうか。

でも、今気になるのはやはり・・・セイだ。

「聖は・・・元気にしてるかしら?」

別にそんな事聞きたい訳でもないのに、いざ口を開けば取り留めも無い話しか出てこない。

それにこれじゃあ親友というよりは、まるでお母さんのようだ。

「・・・不思議な事聴くのね。私よりもあなた達の方が佐藤さんとは仲いいでしょう?」

「それはどうかしら?私達あまり連絡取らないから」

電話もメールもしない。たまに運が良ければどこかで会うだろう。それぐらいの感覚。

「ふーん。ま、そんな距離もいいわよね」

「そうでしょ?」

ケイはこんな自分たちの不安定な距離を否定しなかった。くっつきすぎず、離れすぎず。

たまに会うぐらいがちょうどいい。でも・・・今はその関係すら・・・危うい。

「でもねぇ・・・それが最近ちょっとやっかいな事になってて・・・」

ポツリと、まるで世間話でもするように漏れた声に、ケイは苦笑いを浮かべた。

多分、ある程度の事情はセイから聞いているのかもしれない。

「佐藤さんはね・・・どうしてあんなにも・・・」

ケイはそこまで言って口を噤んだ。その先が酷く気になるけど、きっとケイは教えてくれなさそう。

だからこちらから振る事にした。

「聖には今好きな人が居るんでしょ?あ、これはもう一人の親友に聞いたんだけど」

そうヨウコは言っていた。セイには自分では敵わない人が既に居るのだ、と。

ヨウコはそれが誰だか見当もつかなかったらしい。だから余計に悔しかったのかもしれない。

だって、セイが好きになる相手なんて、何となくリリアンの外には居ないような気がするから。

とすれば、自分たちも知っている誰かの可能性が高い訳で・・・。

エリコの質問に、ケイは小さく頷いた。何か考え込むような仕草をしてからほんの少しだけ声のトーンを落とす。

「ええ、そうらしいわね。あ、でも、誰かは私には聞かないでちょうだいね。知らないから」

そう言って視線を上げたケイの目は読めない。これが嘘なのか、本当なのかどうかさえ。

でも、どちらにしてもそれ以上聞く気はエリコには無かった。だって、聞いたところでどうしようもないし。

それよりも聞きたいのは、セイがどれだけ真剣なのかって事だった。三年以上も想い続けたヨウコを振ったのだ。

それなりに真剣でなければ、きっと許せない。そう・・・思った。

エリコにとっては、セイの方が付き合いは長い。けれど、ヨウコだって大事な親友なのだ。

本当は、どちらにも傷ついて欲しくない。出来るなら、皆幸せになってほしい。

今まではあくまでも傍観者を決め込んでいたけれど、今回は話が違う。

これは自分たちの事なのだ。願わくばどちらともこの先ずっと親友で居たい。

また三人で集まって、公園で何時間も話し合ったりするのもいい。そんな関係でずっと居たかったのに。

いつの頃からかヨウコの想いに気付いてしまったエリコは、

それを無視し続けるヨウコを見るのが辛くて仕方なかった。

そして、それに全く気付かないセイの鈍感さも・・・でも、それは仕方の無い事だと思う。

結局ヨウコは親友という立場を選んだのだと、自分に言い聞かせる事で自分を、皆を、納得させていたのだから。

けれど・・・その均整が壊れたのは・・・多分ヨウコがセイの恋心に気付いたから。

きっと今まで我慢してたものが、突然我慢出来なくなってしまったのだろう。

想いなんて結局、完全に闇に葬るか、いつか爆発するかのどちらかなのだ。

そのままいつの間にか風化してゆく事もあるのかもしれないけれど、

その為にはまた新しい想いを上から塗らなければならない訳で・・・。

そうしていくうちにどんどん元の色が分からなくなってしまって。

ぐちゃぐちゃになったキャンパスだけが残る羽目になる。

「私ね・・・美大に行ってるんだけど、最近少しも絵が描けないの。何も浮んで来ないのよ・・・。

こんな事初めてで、どうしてなのかしら。どうして突然何も描けなくなってしまったのかしら」

キャンパスに向って目を閉じると必ず描きたいものがいつも浮かんできた。

空や、海、川や風。それなのに、今はどれだけ目を瞑っても、浮かんでくるのはヨウコとセイの顔ばかり。

しかもあの高校三年の時の、一番楽しかった時の顔ばかりが浮かんでくるのだ。

「私・・・あの頃に戻りたいのかしら?」

「さあ・・・でも、何かをやり直すのに、遅いなんて事はないんじゃない?」

「そう思う?」

「ええ」

そうかな?本当にそうなのかな?どんな事にも期限って・・・あるんじゃないのかな?

軌道修正するのなら、早いうちがいいはず。でも、ケイはそうではないと言う。

別にエリコだって何かをやり直したい訳ではなかった。というよりも、特に悔いというものも無いはず。

高校時代は確かに楽しかったけど、今だって十分楽しいし、それなりにやってる。

一体、何が心に引っかかってるのだろう。何故突然、何の風景も思い描けなくなってしまったのだろう。

セイとヨウコとエリコ。いつも三人一緒に居た。

薔薇の館の住人になったその日から、途中セイが抜けかけたけど、

でも結局三人に戻って・・・それからは離れた事なんて無かった。

いつも三人一緒に居たけど、いつだって皆それぞれの道を歩んでて・・・心が重なる事は・・・無かった。

いや、違う。お互いがお互いを信頼していたんだ。だから、あんなにも好き勝手出来た。いつも。

セイが誰を好きでも別にいい。ヨウコがセイに振られたのだって、仕方ない。

けれど、また元に戻って欲しい。あの頃のように、三人一緒に・・・。

心が重ならなくても、皆バラバラの道に進んでも、いつもどこかで頼りにしていたいのだ。

エリコは大きなため息を一つついて、ポツリと言った。

「絵がね・・・描けないの・・・」

「・・・さっきも聞いたわよ?」

「ええ、でも聞いて。いつもはね、目を閉じると風景が浮かんでくるのよ。

だから私はそれを、何も考えずにただキャンパスに写していくだけで良かったの。

それなのに・・・最近突然それが出来なくなってしまったのよ。本当に突然。

目をいくら瞑っても浮かんでくるのは聖と蓉子ばっかり・・・これじゃあ、永遠に絵なんて描けそうにないわ。

これは軌道修正をしろって事なのかしら・・・」

高い空を見上げて呟いた台詞が、千切れる雲の所まで舞い上がりそうなほど、途方もなかった。

これがスランプという奴なのか、いくら考えても答えが出ない。

さっきも言ったけど、軌道修正をするのなら、早い方がいい。

これ以上親友二人に振り回されていては、自分まで潰れてしまいそう。

それならばいっそ、忘れられればいいのかもしれないけれど、それは・・・出来ない。

何だかんだ言っても、二人は大事なのだ。だから毎日毎日目を瞑るたびに現われるんだ。あの変わらない笑顔で。

エリコは千切れてはくっつく雲をボンヤリと眺めていた。

あんな風に自分達も、千切れてはくっついてを繰り返せればいいのに。何も考えず、自然に・・・。

その時だった。突然ケイが言った。

「それって・・・ただ単に描きたいものが変わっただけなんじゃないの?」

・・と。一体どういう意味だろう?エリコは首を捻ってケイの方を向くと、ケイはやっぱり冷静だ。

「だから、佐藤さんと・・・えっと、蓉子さん・・・だっけ?その人たちを描きたいんじゃないの?」

ケイの言葉は、エリコの心を静かに揺らした。そっと目を瞑ると、やっぱり浮かんでくるのはあの二人の笑顔。

「・・・ああ・・・なるほど・・・」

そうか・・・そうだったのか。描けなかったんじゃない。ただ、どうしても描きたかったんだ・・・あの二人を。

別にあの二人に振り回されてた訳じゃなくて、大好きだから・・・いつも一緒に居たいから・・・。

思い出すのはヨウコとセイの楽しそうな顔。あの薔薇の館で放課後、内緒の話を沢山した。

小さくてささやかな楽しみだった。あの時間がとても儚くて短いものだと知っていながら。

でも、あの時間は永遠。いつ思い出しても・・・決して色褪せたりなんてしない。

聞こえてくるのは笑い声と、ヒソヒソ話。いつまでもいつまでも続く、甘い夢・・・。

どんなにすれ違っても、確かに自分たちは親友だった。それは、今も変わらない。

「ありがとう。ようやく描けそうだわ。あなたのおかげで」

「私は何もしてないけど・・・どういたしまして」

エリコは立ち上がって、ケイにお礼を言った。ケイは小さく笑ってそれだけ言うと、もう一度握手をして別れた。

次に会う約束もしてない。その必要も無かった。

縁があればまたどこかで会えるだろうし、セイの親友で居る限りその可能性も高い。

エリコはもう一度空を見上げ、千切れてはくっつく雲を見て笑う。

帰ったら、仕舞ってあったキャンパスと絵の具を引っ張り出して、そっと目を閉じよう。

そして、もしも絵が仕上がったら、二人にもあげようと思う。大して上手くなんてないけど、

それでもきっと・・・思いは伝わる。

「今度・・・二人にモデルでも頼んでみようかしら。薔薇の館で、あの頃みたいに・・・」



どこまでも一緒だと、あの頃誓い合った。


何があっても、必ずまたここに来ようと。


切なくて泣いた事も、笑い転げた事だって、まだ覚えてる。


いつまでだって話していられた。


あの頃の約束、私まだ・・・忘れてないよ。











失くしたキャンパス