想いが届かなくても私は、今日も笑えてますか?今日も輝けてますか?


ユミから電話があるのは本当に珍しい事で、

今思い返せば卒業する前の日に送別会でかかってきたのが最後だったように思う。

切羽詰った声で、サチコの傍に居てやってくれと泣きながら電話がかかってきた時は、

一体何事かと思った。正直に言えば、サチコの事はとても大事だけれど、今はそれどころではなかった。

はっきり言って自分の事に精一杯で誰かの事に構ってる暇がないようにも思えて・・・。

でも・・・そうじゃなかった。サチコに打ち明けて初めて、何かが吹っ切れたような気がしたのだ。

セイをただの親友だと思うには、まだあまりにも時間が足りない。

でも・・・そんな事・・・言ってられないのも事実で。

「祥子はちゃんと仲直り出来たのかしらね・・・」

強情っぱりでワガママな妹だから。いつまでもいつまでも可愛い、妹だから。

けれど毎日毎日サチコの心配をしている訳にもいかない。自分には自分の生活がある。

ヨウコは高い空を見上げて長い息を吐いた。雲が散り散りになって、やがて消えてゆく。

セイへの想いも、あの雲のようにいつか散り散りになって消える日が来るのだろうか?

いや、きっとそれは無いだろう。

この想いはきっといつまでもいつまでも心の中で息づいているに決まってる。

ヨウコは携帯電話を取り出して、アドレス帳からセイの名前を探した。

名前を見ただけ。それなのに、こんなにも胸が苦しい。いつもいつもそうだった。

電話をかけようと思っても、いつも最後の勇気が無くて・・・。そしていつもそっと鞄に仕舞うのだ。

まるで何も無かったかのように。そこに何の想いも込められてなかったかのように。

「意気地なしね・・・私は」

今更電話をしても何か話したい事がある訳でもない。セイだって、別に自分に用事などないだろう。

でも、声が聞きたい。会って、話をしたい。取り留めも無い話を一日中。

出来るなら、あの指で触れて欲しかった。あの唇で涙を拭って欲しかった。

名前を・・・もっと呼んで欲しかった・・・。

「蓉子さん・・・か」

初めてセイが名前を呼んでくれた時の事を今でもたまに思い出す。あの痛みは何だったんだろう。

甘いような、どこか冷えたような声。そっと瞳を閉じると、まるで昨日のように思い出す事が出来るのに。

ヨウコは落ちていた落ち葉をつま先で蹴った。

落ち葉は少しだけ舞い上がって、またヒラヒラとどこかへ飛んで行ってしまう。

その時だった。突然誰かに呼ばれたような気がして振り返ると、そこに居たのは・・・。

「由乃ちゃん!?」

「お久しぶりです、蓉子さま」

トレードマークの長いお下げがお辞儀と一緒に軽やかに跳ねる。

「どうしたの?こんな所で・・・」

「ええ、ちょっと野暮用で・・・蓉子さまこそ、こんな所でどうされたんです?」

「私?私はほら、学校がこの近くだから」

ヨウコはそう言って後ろを指差した。それを見てヨシノは納得したように頷いた。

でもその横顔に何故かいつもの元気が無い。まるで心臓の手術をする前の大人しいヨシノのようだ。

ヨウコはそんなヨシノの肩をポンと叩いて、大通りを渡った所にある小さな喫茶店を指差し言った。

「寒いからどこかへ入りましょうか」

ヨウコはヨシノの答えを待たなかった。

ヨシノの手を引いてゆっくりと歩き出すと、ヨシノは大人しく付き従ってくる。

こんな時、本当に自分が嫌になる。どうして自分はこんなにも誰かの面倒を見たがってしまうのだろう。

放っておけばいいのに、こんな顔をされたら・・・黙ってはいられない。

セイはよくヨウコのこういう所を嫌がっていた。何となくだけど、今はそれにも納得がいく。

どうしてこんなにも・・・どこまでも優等生なのだろう。たまには自分勝手に生きてみたいのに・・・。

いくらそんな事を考えていても、実際それが出来る訳ではない。誰かの為に生きる。まさにそんな感じ。

でも・・・少しくらい、自分の為に生きてみたい・・・そう、セイのように、エリコのように。

喫茶店の中は薄暗く、微かに聞こえるクラシックが心地よかった。

注文を取りにきたウェイターにとりあえず自分の分とヨシノの分のケーキセットを二つ頼むと、

それを聞いてヨシノはにっこりと笑った。今日会って初めて見せた、ヨシノの笑顔。

ほんの少し・・・大人っぽくなった。ヨウコはそんなヨシノの笑顔に目を細めると、言った。

「どうしたの?由乃ちゃんらしくないじゃない?」

ヨウコの言葉にヨシノは苦い笑みを浮かべると、置いてあった水を一気に飲み干した。

「最近・・・私、ずっと薔薇の館に行ってないんです」

「あら、サボリ?」

何か悩み事があるのだろう。ヨシノはヨウコの言葉に俯いて唇を噛んでいる。

それが悔しいからなのか、それとも悲しいからなのかは分からない。

ただ言えるのは、きっとレイにも相談出来ないような、そんな話なのだろうという事。

本当はエリコが居れば良かったのかもしれない。でも、ヨシノはきっとエリコにも何も言わないだろう。

しばらく、ヨシノは黙ったままだった。ケーキセットがやってきて、紅茶がすっかり冷めてしまった頃、

ようやくヨシノは口を開いた。

「祐巳さんが・・・祐巳さんが何も話してくれないんです・・・」

随分待たされたにしては、何とも力が抜けるような言葉だった。ユミが話しをしてくれない。

それは、薔薇の館をサボる原因になるのだろうか?いや、ならないだろう、きっと。

「喧嘩でも・・したの?」

どうにか紡いだ言葉に、ヨシノはゆっくりと首を振った。喧嘩もしていないのにどうして・・・。

そんな質問を投げかけようとしたけれど、すんでの所で思いとどまった。

何故なら、ヨシノの大きな瞳から大粒の涙が零れたから・・・。

「由乃ちゃん?大丈夫?」

「聖さまが・・・祐巳さんは・・・聖さまが好きなんです・・・きっと・・・。

でも、それを・・・私は否定しちゃって・・・だから、怒ってるのかも・・・。

私なんて、もう要らないって・・・そう、思ってるのかも・・・」

「・・・祐巳ちゃんが・・・聖を・・・?」

胸の奥が軋む。埋めたはずの心に、小さな歪が出来る。ユミがセイを・・・好き?

次の言葉が見当たらない。セイは・・・どう思っているのだろう?

まさかとは思うけれど・・・セイの好きな人というのは・・・。

いや、まさか。ヨウコはそんな考えを一蹴した。セイがユミを好きなど、ありえない。

確かによくちょっかいはかけていたけれど、セイの好みではない・・・はず。

でも、何故かそれをハッキリと否定する事が出来なかった。どうしてこんな事を考えてしまうのかは、

自分でも分からない。ただ・・・何かが、誰かが、そう囁く。セイはユミを愛しているのだ、と。

こんがらがった頭の中を整理するよりも先に、更にヨシノが話し出した。

「祐巳さんは、聖さまの事、とても大事にしてて・・・それは見てても痛いほど分かってたのに・・・。

それなのに・・・祥子さまが居るから・・だから、それは恋なんかじゃないって・・・私、言っちゃって・・・」

「祐巳ちゃんは・・・どう言ってるの?それは、祐巳ちゃんに直接聞いたの?」

「・・・いえ・・・でも、分かります。だって、ずっと一緒に・・・居たから。

大切な・・・親友だから・・・」

ヨシノの口から出た親友という言葉に、また胸は痛んだ。ヨシノはユミが親友だという。

だから分かったのだ、と。それなら、自分はどうなのだろう?あんなにも近くに居たのに、

セイの事など何一つ知らなかった。音も立てずに誰かを愛していたなんて事・・・全く知らなくて。

それは多分、自分に目隠しをしていたからだ。セイの事など知りたくなかった。

ただ・・・セイがいつか自分の方を振り向いてくれるだろうと、信じていただけで。

「親友・・・だから・・・か・・・」

そう。親友だから、見える事もある。親友だから、その人の幸せを心から・・・願える。

世話焼きだと、自分ではそう思っていたけれど、実際の所はどうだったんだろう?

唯、自分の為に動いていただけだったのではないだろうか。

「私、あの二人は・・・両想いだと思うんです。だって、聖さまはいつも祐巳さんを可愛がっていたし、

それに祐巳さんだって、いつも聖さまを・・・見てた・・・」

親友を通してセイを見ていたヨシノの言葉は重かった。鉄臭い味が口の中に広がる感覚。

この感じ、誰かに伝わるだろうか?ドクドクと脈打つ鼓動も、最早自分のものではないみたい。

何も聞きたくない。一度振られたのに、未練がましくセイを思う浅はかな自分に気付かせないで。

そんな言葉を心の中で飲み込んだ。

「聖は・・・そうね、祐巳ちゃんを大事にしてた。

でも・・・それだけで聖が祐巳ちゃんを好きって事にはならないでしょう?」

ヨウコの言葉にヨシノはキョトンとした顔をする。それから小さく頷いた後、でも、と言葉を繋いだ。

「だったら、志摩子さんはどうして祐巳さんと聖さまを守るんです?

誰にも壊されないようにって、いつも・・・いつも・・・」

「・・・志摩子が?」

シマコとセイは本当によく似ていた。きっと、シマコはセイの想いに気付いている。

そのシマコがセイとユミを守っているというの?どうして?簡単な引き算だった。

誰にでもすぐに出来るような本当に単純な・・・計算。それなのに、解きたくなかった。

「志摩子さんはきっと知ってる。

あの二人の関係も、現状も全部・・・でも、私だけが・・・教えてもらえない。何も・・・知らないんだ・・・」

そこまで言ってヨシノはまた泣き出した。ヨシノはきっと、疎外感を感じてるのだろう。酷く。

けれど・・・違う。それは、違う。ユミもシマコも、ヨシノを守りたいのだ。

だから何も話さない。余計な心配は・・・かけたくないから。

それに気付いたヨウコは、ポツリと呟いた。

「あなた達の友情は・・・とても素敵ね、由乃ちゃん。羨ましいわ・・・」

その言葉に、ヨシノはハッと顔を挙げる。そんなヨシノの頭を軽く撫でると、ヨウコは言った。

「皆、由乃ちゃんが大切なのよ。だから何も話さないんだわ、きっと。

由乃ちゃんに言えば、きっと由乃ちゃんも苦しむでしょ?悩むでしょう?

そんな由乃ちゃんを見るのがね、きっと嫌なのよ。だから、何も話さないんじゃない?」

「そんな・・・そんなのって・・・無い・・・私は仲間なのに。一緒に・・・悩みたいのにっ!!」

「そうね・・・寂しいわよね。何も言ってもらえないのは・・・」

聞きたいけど聞かないのと、何も話してくれないのとでは、全然違う。

どっちみち聞かない事には変わりないけれど、全く・・・違う。

それすらも見ないようにしてた自分は、何て愚かだったのだろう。自分の想いを押し付けてばかりで、

少しもセイの身になろうとはしなかった。そんな自分は・・・なんて愚かだったのだろう。

「でもね、蓉子さま。祐巳さんは・・・皆の前で言ったんです。

泣きながら・・・迷惑かけたくないって・・・皆の誤解なんだって・・・でも、それが嘘だって事くらい、

私にも分かってたっ!でも、でも・・・どうして・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

それが、愛するという事。好きな人に迷惑がかかるぐらいなら、自分から身を引くという事。

自分には、それが出来なかった。確かに途中までずっと出来ていたのに、突然怖くなったんだ。

この想いを伝える事なく、薄れさせてしまうのが。だから・・・伝えた。

それだけの事なのに、ずっと感じてたこの想い。これはそう・・・罪悪感だ・・・。

セイを悩ませると分かっていて伝えた想いに対して感じる罪悪感。

「ねぇ、由乃ちゃん。由乃ちゃんは・・どうしたいの?

祐巳ちゃんや、志摩子と・・・これからどうなりたいの?」

ヨウコの言葉に、ヨシノはキッと顔を挙げた。もう、いつものヨシノの顔だった・・・。

「私・・・私は、前みたいに・・・いえ、前よりもずっと、仲良くなりたい。

あの二人と、ちゃんとした親友に・・・なりたいです。

一緒に泣いたり笑ったり出来るような、そんな親友に」

ヨシノの言葉にヨウコは小さく息を吸い込んだ。何かを覚悟しなきゃならないと、自分でも分かっていた。

誰かに何かを伝える時に生じる責任は、自分で取らなければならない。

この罪悪感は・・・きっと当分は消えない。セイの事を本当に親友だと思えるその日まで。

「そうね。それが・・・理想よね」

「いえ、理想ではなくて、私は・・・私たちは、そうなります」

キッパリと言い切ったヨシノの顔が、とても印象的だった。

そう、自分に足りなかったのは、セイを、想いを断ち切る勇気。

いつまでもいつまでも想いは自分の中に息づいてるだなんて考えてたその甘さこそが、いけなかったのだ。

想いなんて、いつかは形を変えるものなのだから。

今は愛情でも、いつかは友情に変わる事が・・・あるのだから。

「私は・・自分勝手だわ、凄く。だから由乃ちゃんが羨ましい。由乃ちゃん達の友情に、私は憧れるわ」

決して手の届かない友情とういうものが、そこにあった。けれど、ヨシノはヨウコの言葉に小さく笑う。

「私は、蓉子さまや聖さまや江利子さまの友情の方が羨ましいですけど」

「そう?そうでもないわよ。私達の友情なんて、あってないようなものだもの」

「・・・そうでしょうか?皆、自分で立ってるって感じで、凄く羨ましいですけど・・・」

「・・・自分で・・・立ってる?」

「はい。だって、誰にも寄りかからないで、皆シャンとしてるじゃないですか。

それでも心のどこかでは繋がってるようで・・・それが、凄く羨ましいです」

ヨシノは笑った。にっこりと。そうか。ヨシノには自分たちの関係がそんな風に見えていたのか。

それを思うと、何だか恥ずかしくなった。そんな風に・・・思われていたのか。

ヨウコは優しく笑って、小さな声でヨシノにお礼を言った。その言葉でほんの少し報われた気がする。

「少しはスッキリした?」

「はいっ!今日、ここで蓉子さまに会えて、本当に良かったです!」

ヨシノはいつもの元気な笑顔で言った。その顔を見て、思う。案外、悩みなんてこんなもの。

誰かに話して、勝手にスッキリする。ヨシノは目の前のケーキを美味しそうに食べながら、

時折こちらを見て笑った。そんな時、何故かつられて笑ってしまう自分。

ヨシノと話していて、ほんの少し友情というものが見えた。親友の在り方のようなものが。

友情なんて、決まった形はどこにも無い。でも、それがいい。

だからこそ、皆それぞれの形で友情を繋ぐのだ。

それならば、愛情のままの友情もあってもいいのかもしれない。

今すぐにセイを忘れる事など、きっと出来ないだろう。それこそ、もっともっと時間が経たなければ。

けれど、それでもいい。今すぐ忘れる必要などどこにも無い。

愛情の延長線上に友情が成り立つのなら、それでも・・・構わない。

慌ててケーキを食べるヨシノに、ヨウコは呟いた。

「私も・・・今日、ここで由乃ちゃんと話せて良かったわ」

・・と。

ヨシノでなければ、いけなかった。ヨシノのように、真っ直ぐで真摯な言葉だったからこそ、

何かが分かったのだ。セイへの想いを忘れようとは、思わない。

でも・・・これ以上はもう、セイを・・・想わない。

そうすればこのずっと先を辿った所に、きっとそれは・・・在る。

ずっとずっと探していた何かが。ずっとずっと焦がれていた・・・関係が。

両想いじゃなくても壊れない。そんな・・・理想の、関係が。



もう、振り返らない。


もう、追いかけない。


だから、ねぇ。お願い、もう一度・・・私を傍に置いて。


特別な場所じゃなくても、いいから。

その延長線上にあるものは