すれ違う毎日の中で、深く、深く、反省した。後どれだけ涙を零せば、あなたは戻ってきてくれるのだろう。




ユミは薔薇の館をずっと避けていた。

自分たちとは出会わないように、いつも隠れるように掃除をしてくれていた事も知っている。

けれど、どれだけそんな事をしても、もう報われない事を彼女は知っているはずなのに・・・どうして?

サチコは薔薇の館の窓から外を眺め、大きなため息を落とした。

「違うわね・・・報われないのは私の方・・・いくらここから眺めていても・・・」

彼女は帰っては来ない。自分の元にはもう二度と。あの時、ヨウコに相談した時からずっと後悔していた。

どうしてユミを突き放してしまったのか、と。どうしてあの時、姉妹を解消しなければならなかったのか、と。

後数ヶ月で卒業しなければならない。嫌でも、ユミと離れなければならないというのに。

最後の最後にこんな事になるなんて・・・。

「祐巳・・・今、どこで何を・・・しているの?」

「祥子?何か言った?」

さっきからずっと窓の外を眺めていたサチコに、レイが声をかけてきた。

相変わらずレイは優しそうな笑顔・・・でも、どこかその表情は曇っている。

「令こそ、どうかして?そう言えば・・・今日由乃ちゃんと志摩子は?」

サチコは薔薇の館を見渡してみたけれど、どこにもあの二人の姿が見えない。

ここの所ずっとこうやって窓から下を見下ろすだけで、仕事は全てレイに任せてあった。

だからかもしれない。あの二人が最近時々しかここに来ていないのだとレイに聞かされるまで知らなかったのは。

「職務怠慢ね」

溜息まじりに呟いた声に、レイが苦い笑みを漏らした。

「それを言うなら、祥子もだけどね・・・私に全部押し付けて!」

「そう・・・ね。その通りだわ・・・でも、祐巳が・・・」

「祐巳ちゃん?そう言えば最近祐巳ちゃんも見ないよね。祥子何か知らないの?妹でしょ?」

「・・・妹・・・?祐巳が?」

サチコは首を捻った。そうだ、まだレイは・・・いや、レイだけじゃない。

ユミと姉妹を解消したのを知っているのは、ヨウコしか居ないのだ。それと多分・・・セイも。

悔しいけれど、ユミはセイにはきっと言ってるだろう。ユミはあの日言った。

告白するの?と聞いたサチコに、強い口調で。『いいえ』と。マリア様みたいに綺麗な笑顔だった。

優しくて、慈悲深くて、でもどこか哀しげな・・・そんな顔。

ユミがセイの事をどれほど想っていたのか、あの顔を見て初めて理解できた気がした。

自分では到底敵わない。あんな顔をユミにさせる事など、きっと一生出来ない。

いくらセイに焼もちを妬いても、今まではまだどこか余裕があった。

自分は姉だから、この繋がりは決して切れる事などないのだから、と。

けれど・・・それは間違いだった。それが、間違いだったのだ。端から何の繋がりも無かった。

サチコとユミの間にあった繋がりなど、この細いロザリオだけだったのだから。

けれど、どこかで信じていた。それでもユミは、きっと戻ってきてくれる・・・と。

このロザリオをもう一度首にかけてくれると。でも・・・そんな日はきっと、もう来ない。

ヨウコに全てを打ち明けて、泣いて泣いて、散々泣いたのがもうあんなにも昔の事のよう。

でも、決めた。もう泣かない。泣いてもユミは戻ってきやしないのだから。

ヨウコの言葉が、今も頭の中を回る。

セイとユミの関係に焼もちを妬いたように、ヨウコもまた、

自分とユミの関係に焼もちを妬いたのだといったあの言葉が。

「ねぇ、令。祐巳は・・・私を許してくれるかしら?」

プリントをノリコと一緒に折り続けているレイに、視線も投げかけずそんな事を聞いた。

するとレイは、小さく笑ってまだプリントを折り続けている。レイもまた、視線をこっちに寄越さない。

何となく、それが心地よかった。仕事の合間にするような、そんな話なのだ。サチコの悩みなど。

そんな風に言ってもらえてるようで・・・何故か嬉しかった・・・。

「何?また喧嘩したの?まさかそのせいで祐巳ちゃん来ないんじゃないでしょうね?」

「・・・そう・・・かもしれないわ・・・」

「全く。だったらさっさと謝って仲直りして、早くここに連れてきてよ。

でなきゃいつまでたってもこの仕事終わらないじゃない。ねぇ?乃梨子ちゃん?」

「同感です」

「二人とも・・・もしかして私が悪いと思ってるの?」

窓の外から視線を部屋の中に移すと、二人ともこちらを見ていた。

じっと・・・まるで窺うような、バカにするようなそんな顔・・・そして、二人同時に大きく頷く。

「もちろん。どうせ祥子が祐巳ちゃんに無理言ったんでしょ?いいから、早く謝っておいで。

祐巳ちゃんは祥子と違って寛大だからすぐに許してくれるわ」

「令・・・あなたね・・・もしかして乃梨子ちゃんもそう思ってるの?」

「いえ・・・私はどちらが悪いと言うよりは、

やはりここは姉である紅薔薇様から折れる方が後々角が立たないかと・・・」

そう言ってノリコはお茶を濁したけれど、きっと内心ではレイと同じように思っているのだろう。

サチコは二人の意見に大きなため息をついて、ポツリと呟いた。

「そうね・・・私は・・・姉・・・なんですものね・・・」

姉・・・この言葉をまだ使えるのだろうか?まだユミは自分の事を姉だと、思ってくれているのだろうか?

サチコは胸にかかったロザリオのチェーンをそっとなぞると、もう一度窓の外に目をやった。

後数ヶ月でこのリリアンを去らなければならない。けれど、最後の最後に一番大きな課題が残ってしまった。

あの日、ユミは一体どんな気持ちでサチコに胸の内を明かしたのだろう。

どんな気持ちで・・・ヨウコに連絡をしたのだろう・・・。

「祐巳はね・・・本当に出来た妹なのよ。でも・・・だから、私はそれに・・・甘えすぎてたのね・・・きっと」

サチコの言葉に、レイは笑った。

「今更気付いたの?祐巳ちゃんは祥子には出来すぎた妹だなんて、皆知ってたよ」

「酷いわね。その言い方はあんまりなんじゃない?」

「だって、祐巳ちゃん意外の誰が暴れた祥子の事を止められるのよ?誰も居ないでしょ?

それに・・・祐巳ちゃんにとっても、姉は祥子しか居ないんだから」

レイの向かいでノリコが無言で頷いた。本当に?本当にそう思っても・・・いい?

まだ・・・遅くは・・・ない?ユミの手を、まだ自分が繋ぎに行っても、まだ遅くは・・・。

そっと右手を見つめると、そこにはまだヨウコの温もりが残っている。

それは強い、強い絆。もしもこの手を今度ユミといだ時、やっぱりこうやって強い絆だと思えるのだろうか。

多分、それは誰にも分からない。けれど、もし次ぎまた繋ぐことが出来れば・・・以前よりもきっと、

強い絆だと思える筈。ロザリオなんて、こんなものはただの飾りなのだと、きっと、言えるはず。

祥子は立ち上がると、大きく息を吸い込んだ。

「私、用事が出来たから今日はこれで失礼するわ」

「はいはい、さっさと仲直りしてきなさい」

「・・・ええ。それじゃあ、ごきげんよう」

「「ごきげんよう」」

二人ともサチコを止めなかった。

むしろ、二人が少しホッとしたような顔をしていたのはきっと気のせいではないだろう。

外は風がすっかり冷たい。そのせいで心の奥まで冷えて、今にも凍えてしまいそう。

けれど、右手だけは温かかった。ヨウコの温もり、ここにユミの温もりが加われば・・・きっともう寒くない。

ユミは今どこに居るのだろう。サチコはユミが行きそうな場所を色々と回ってみた。

けれど、どこにも居ない。もしかすると、もう諦めて帰ってしまったのかもしれない。

その時だった。ふと視線の端に誰かが映ったような気がして、

立ち止まり図書室の窓から中を覗き込んで息を飲んだ。

「聖・・・さま・・・」

どうしてこんな所に?まさか、ユミに会いにでも来たのだろうか?それとも、ここで待ち合わせをしているとか?

でも、ユミはセイに打ち明けないと言っていた。それに久しぶりに見たセイの顔は、どこか悲しそう。

視線を伏せて、本を読むわけでもなくただ窓の枠をじっと見つめている。

ここにサチコが居る事にも気付かないほど、一体何を真剣に見つめているのか。

サチコは自分の心臓がドクドクと激しく打つのを感じた。いけない事だと分かっている。

こんな、覗き見するような事をするのはいけないと・・・けれど、そこから動くことは・・・出来なかった。

真実など知りたくない。それなのに、心のどこかではその真実を見極めたいとも思っていて。

サチコはその場に腰を下ろした。セイが動くまで、ここで何時間でも待つつもりで・・・いた。

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大きなため息は、真っ白な空気になってサチコの手の平を暖めた。

けれど、少しも暖かくはならない。心は寒くないけれど、体は酷く冷え切っていて・・・。

どれぐらいここに座り込んでいただろう。

ようやくセイが動いたのは、それから半時間ほど経ってからだった。

待ってる間、セイはほんの少しも体勢を変えず、ずっと視線を伏せたままだった。

ところが、突然何か見つけたのかセイは立ち上がり、弾かれるように図書室を後にした。

サチコはセイの後を追おうと立ち上がったけれど、結局そのままセイを見失ってしまって・・・。

「・・・一体何を見つけたのかしら・・・」

サチコはポツリと呟いてすっかり暗くなった空を見上げ、小さく微笑んだ。

「もうすぐ冬がやって来るのね・・・」

銀杏は散り、日が落ちるのももっと早くなる。どんどん寒くなって・・・やがて春がやってくる。

ヨウコを送り出した時、サチコは考えもしなかった。自分もいつか卒業しなければならないのだという事を。

後に残してゆく者の事など。自分がもう、あの薔薇の館に通う事が無くなるなんて・・・。

サチコはふと思い立って、あの薔薇の温室に足を運んだ。

あそこなら、きっとこの微かな胸の痛みを癒してくれる。そう、思ったから・・・けれど。

「また・・・聖さま。それに・・・志摩子?」

温室の扉の前で蹲る二人を見て、サチコはその場から動けなくなった。

サチコは銀杏並木に姿を隠すと、音を立てないように二人の声を聞き取ろうとした。

けれど、二人の声はあまりにか細く、何を言っているのかは全く聞こえない。

しばらくして二人はそのままどこかに消えてしまったけれど、

サチコは何故かその場からまだ動くことが出来なかった。

何となく・・・何となくだけれど、あの温室の中にユミが居るような、そんな気がしたから。

「これが聖さまの言う、祐巳レーダーなのかしら・・・」

あれほど羨ましいと思ったセイのレーダー。今初めて、自分も手に入れた。

これが、心からユミを想うという事。手を貸したいけれど、自分ではダメなのだと。

初めて・・・こんな気持ちを味わった。自分以外の誰かを心の底から想うのは、こんなにも・・・辛い。

アドバイスぐらいしか出来ない、切なさや惨めさ。それを・・・ずっとセイは感じていたのだろうか?

幸せだった時は少しも働かなかったユミレーダー。

ほんの少し離れてみることで、初めてそれを手にする事が出来るなんて。

レイに言った通りだった。やっぱり自分は、今までずっとユミに甘えていたのだ。

だから今まではこのレーダーの存在にも気付かず・・・そっと見守る事しか出来ずに・・・。

しばらくして、セイとシマコがまた温室の戻ってきた。

サチコはそれを、木陰からずっと見つめているしかなくて。

薔薇の館の明かりが消え、その途端ユミが温室の中から飛び出してくるのが見えた。

大声で泣きながら薔薇の館の扉を叩くユミを見て、どうして自分まで泣かずにいられるというのだろう。

「祐巳・・・止めてちょうだい・・・そんな風に・・・泣かないで・・・」

その時、後ろで温室の明かりが点いた。そして、セイが温室から走って行く・・・真っ直ぐユミの元に。

サチコはそれを見て、ホッと胸を撫で下ろした。これで大丈夫だと。

セイが行けば、きっとユミも泣き止むだろう、と。悲しいけれど、ここはセイに任せた方がいい。

ユミを助けるのは、いつもセイの役割だったから・・・けれど、セイはユミに声を掛けることなく、

そのまま自分と同じように銀杏並木に隠れてしまった。

「聖・・・さま?どうして・・・」

と、その時。突然セイが木を揺らし、ユミはそれを聞いて温室に駆け出していく。

温室の灯りを見つけてホッとしたような、嬉しそうで泣き出しそうなユミの顔が、瞼に焼きついた。

後に残されたのは、静寂・・・そして、セイの哀しそうな声だけ。

『・・・これでいい・・・これでいいんだ・・・』

それを聞いて、サチコは息を飲んだ。これが・・・守るという事。セイの、優しさなのだ、と。

サチコの知らない間に、セイとユミの間に何があったのかは分からない。

けれど、セイはユミを助けなかった。でも・・・本当は違う。セイはユミを守ったのだ。

今までも、助けてた訳じゃない。ユミをずっと・・・守ってたんだ、この人は。

「あぁ・・・ごめんなさい・・・祐巳・・・聖さま・・・ごめんなさい・・・」

今まで自分は、一体何を見てきたのだろう。一体どれほど多くの言葉を無視してきたのだろう。

どうしてそれで・・・平気でいられたんだろう・・・。

レイやノリコが言った様に、やっぱり自分が悪かった。謝らなければならないのは・・・自分の方。

何も知らず、何も理解せずユミやセイを責めて。全てを踏みにじって・・・。

離してしまった右手。この手は自分の為にあるんじゃない。ユミの為に・・・あるのだ。

温室からシマコが出て来る。それに気付いたセイは、小さく笑った。そして、二人一緒に帰ってゆく。

セイは途中何度も何度も・・・振り返った。心配そうに、また目を伏せて。

シマコとセイが完全に見えなくなったのを確認したサチコは、サチコは右手を強く握ると立ち上がった。

そしてゆっくりと温室に向って歩いてゆく。ユミはきっと、セイがここに居たのを知っている。

だからこそ、さっき叫んだのだ。セイの名を。けれど、知っておいて欲しい。

自分も・・・ここに居たのだと、いう事を。ずっと、ずっと・・・ここから見ていたのだと・・・いう事を。



もう、同じ間違いは繰り返さない。


もう、心は離れ離れになどならない。


もう・・・この手は、離さない・・・。





離した右手