私にとっての未来に、君がいつでもいられるように。
大学をズル休みした。行く気になれなかった訳じゃない。ただ、行かなかった。
ただそれだけの事。けれど何故か後ろめたい気分になって、結局授業が終わる頃合を見計らって、
セイは学校にやってきた。
大学の構内を少しだけウロウロして、ふと思い立って同じ敷地内にある高校の方に向う。
運が良ければ、ユミを見ることぐらい出来るかもしれない。でも、すぐに思い直した。
ユミの提案した一年という歳月。その期限が来るのはまだまだ先の事。
それなのに今またユミを見てしまえば、きっと今度は話しかけたくなる。
そして・・・いつものようにまた壊してしまうだろう。あの心地よかった関係を。
「・・・一年か・・・」
言葉では簡単。けれど、その歳月は計り知れないほど長い。
ユミが一体どういうつもりで一年という期限をつけたのか、その本当の心は分らないけど、
ただ一つ言えるのは、一年はあまりにもセイにとって長すぎるという事。
それは自分の心が変わるかもしれない、という不安ではなく、
どちらかと言えばユミの気持ちが変わりそうで怖かった。
セイにとっての一年と、ユミにとっての一年は重さが違う。
この一年の間にユミには沢山の思い出が出来るだろう。
サチコの卒業、ユミの妹、その他にもきっと、もっと・・・沢山。
その中に自分は居ない。そのどの季節を切り取っても、自分はユミの一年に居る事が出来ない。
それがどれほど不安で怖いかなんて事、きっとユミには分からないだろう。
これほど毎日逢いたいと思っているのに、どうしてユミと一年も離れていられるというのか。
逃げてた想いを受け入れた途端、セイの心は脆くなった。今にも危うく零れ落ちてしまいそうなほど。
セイは立ち止まって風に揺れる銀杏を見上げて大きなため息を落とした。
いくら空を見上げても、所詮自分などこの広い世界の中のちっぽけなネジでしかない。
そんな小さなネジ一本が更に小さな恋を一つ失くしたからって世界は何も変わらない。
明日のニュースにすらなら無いような事なのに、どうしてこんなにも何より大事な事に思えるのか。
ユミは本当は、自分の事をどう思っているのか。もしまたサチコと仲直りをしたとして、
一年後その報告を笑って聞けるのだろうか・・・。
「そんなの・・・無理に決まってる・・・」
セイは銀杏並木を抜け高校の校舎に足を運んだ。前に蔦子に貰った写真を眺めて泣いた、あの図書室に行く為に。
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図書室には既に誰も居なかった。
カウンターには『本日は貸し出し終了しました』と書かれた小さなカードが置いてある。
セイは迷うことなくあの窓際の席に座ると、ボンヤリと窓の外を見つめ長い息を吐き出した。
溜息とも深呼吸とも言えない長い息は、切なげに窓を曇らせる。
ここにこうして座っていると、まるで世界中の中に自分一人しか居ないような錯覚に陥りそうになる。
でも、それでも良かった。元々今までずっと一人でやってきたのだ。
それが元に戻っただけで、以前と何も変わらない。けれど、心のどこかではそんな自分が寂しいとも思う。
あんなにも賑やかで楽しかった高校三年。毎日ユミにちょっかいをかけては、サチコに怒られて。
でもそれもまた、楽しくて。そんな関係が、どこで狂ってしまったのだろう。
どこからおかしくなってしまったのだろう。
どうしてあのままユミと友達のような距離を保っていられなかったのか。
いつからユミの心を、体を求めてしまったのか。それはもう、今となっては分からない。
それに気付いてしまった時点で、セイの中に居た友達のユミは消えてしまった。
あの写真にしたってそう。ユミはまるで華みたいに笑ってセイを見上げていた。
どうしてあんな顔をしていたのか、あの時は分からなかったけど、今なら分かる。
確かに自分たちはいつの日からか両想いだったのだ。けれど、どちらもそれを言い出せなかった。
何かが二人の心を止めた。それが理性なのか、もっと他の何かなのかは分からない。
でも、もしあの時それに気付いていれば、もっと早く決着がついたのだろうか。
「いや・・・もっと抉れてたよな・・・きっと・・・」
多分、最悪の事態になっていたと、そう思う。それが分かっていたから自分は今まで我慢してきたのだ。
でも・・・今更だけど、そんな自分がバカだったとも思う。もっと必死になっても良かった。
こんなにも大事だと思う日が来ると分かっていたのなら、もっともっと大切にしても良かった。
ほんの少し離れた距離で、そっと見守るだけの恋なんてしなければ・・・。
でもセイはそういう愛し方しか知らないのも・・・自分で分かっていた。
あの時から、シオリを追い詰めた時からずっと、そういう守り方しか出来なくて。
むやみに近づく事ほど怖いものは無い。やたらに愛する事なんて、もう出来ない。
「・・・情け無いよなぁ・・・」
頭を抱えたセイの脳裏に、以前読んだ本の一説が過ぎる。
それは花の図鑑で、たまたま白薔薇について調べていた時に見つけたもの。
当時はあれぐらい自信があったはずなのに、どうして今はこんなにも自信がないのだろう。
相手がユミだから?いいや、違う。そうじゃない。これは自分自身の問題なのだ。
一年という長い歳月の先、どうしたって幸せな未来が待っていてくれるなんて思えない自分自身の問題。
「あーあ。長いなぁ・・・」
一年なんて、長すぎる。でも、待つしかない。だって、そう約束したのだから。
セイは大きな伸びをして図書館を出た。どこへ行こうか、何も考えずに歩いてゆく。
気付けば、温室の前まで来ていて思わず苦笑いを漏らしたセイの目の端に、
ほんの一瞬あのツインテールが見えた気がした。
思い過ごしかとも思ったけど、一応中を覗いてみると、ちょうど紅薔薇の傍に一人の少女が座っている。
「・・・祐巳ちゃん・・・」
紅薔薇を愛しそうに撫でながら何かを呟くユミの顔は、どこか悲しそう。
こんなユミの顔を見るだけで、自分の犯した過ちを振り返ってしまいそうになる。
セイが想いを伝えたりしなければ、いつまでも友達のように振舞っていれば、きっとユミはこんな顔しなかった。
たった一言。『好き』という一言さえ飲み込めれば、大切なものを壊さなくてすんだのに。
けれど、ユミはふと視線を白薔薇に向け、今度は愛しそうに微笑んだ。
微かに見えた唇が、『聖さま』と動いたような気がして、セイはその場にしゃがみこむ。
「どうして・・・だったらどうして・・・そんな顔してくれるのに・・・なのに、どうしてっ!」
一年なんて期限をつけたの?セイの中の不安は掻き消され、その代わりに溢れるのはユミを愛しいと思う気持ち。
いつまでも待つだなんて、どうして言えたのか。本当は、一秒だって待てなかった。
あのキスが最後だなんて、思いたくなかった。抱きしめて口付けて、ずっとずっと一緒に・・・。
その時だった。誰かがセイの肩にそっと手を置いた。
「お姉さま、どうかされたのですか?どうしてこんな所にいらっしゃるんです?」
「・・・志摩子・・・あんたこそ、どうしてここに・・・」
そこまで言って、セイは口を噤んだ。どう考えたって自分がここに居る方がおかしいに決まっている。
苦笑いを浮かべたセイを見て、シマコは穏やかに笑う。
そして、ふと温室の中に視線を走らせ、困ったように笑った。
「先客が・・・いたんですね・・・」
シマコは何かあるとここに逃げ込む。いつも、いつも。
だから温室の中にユミを見つけ、ほんの少しだけ残念そう。
「入らないの?」
「お姉さまは?」
「私は・・・うん、いいや。またにしとく」
「そうですか・・・なら、私もそうします」
セイとシマコは温室を離れ、ミルクホールに向った。
こうしてシマコと二人きりでお茶をするのなんて、何故か随分久しぶりなように感じてしまう。
あれからたったの二ヶ月しか経っていないというのに・・・。
「お姉さまは今日はどうしてこちらに?」
「うん?いや、大学をね、サボったのよ。でも・・・何となく、誰かに呼ばれてるような気がして・・・」
セイはそう言って熱いコーヒーを一口すする。
セイの仕草をじっと見ていたシマコは、セイの言葉ににっこりと微笑む。
「またお得意の祐巳さんレーダーですか?」
「さあ・・・あれはもう、壊れちゃったかもね」
「・・・どうしてです?」
「んー・・・何となく、そう思うだけ」
ユミレーダーが壊れたというよりも、自分で壊したのだろうと思う。
呼ばれてばかりじゃ、助けてばかりじゃ・・・嫌だったから。セイはユミのスーパーマンなどではない。
助けるだけの存在には・・・なりたくない。
頼られるのが嫌な訳じゃないけど、そればっかりでは・・・寂しすぎる。
それに、ユミはきっともう、セイが居なくてもしっかりやっていけると信じている。
少し哀しいけど、そうでなければ困る。ちゃんと自分の足で立って、いつまでも隣を歩いてもらいたいから。
「志摩子は元気そうで安心したわ。どう?妹とうまくやってる?」
「え・・・ええ、まぁ・・・そう、ですね。乃梨子はいい子だし・・・でも・・・。
やっぱり未だに紅薔薇様や黄薔薇様とは・・・」
シマコはそっと視線を伏せた。涙までは零さないけれど、瞳は潤んでいる。
けれど、決して最後まで言おうとはしなかった。
さっき温室へ行こうとしたのも、きっとそれが原因なのだろう。
そんなシマコを見て、それ以上聞こうとも思わない。
「まあいいや。ところでさ、白薔薇の花言葉って、知ってる?」
セイの言葉に、シマコは首を傾げた。
「ええ、一応・・・知ってます・・・けど・・・純潔とか、そういうのですよね?確か・・・」
「うん。もちろんそれもあるけどね、違うの。私はあなたに相応しいっていうのがね、あるの。
それってさ、凄い自信過剰じゃない。でも、私にはピッタリだと、そう思わない?」
純潔よりははるかに自分に似合ってる。昔はそう、思ってた。
シマコを妹にした時、シマコには自分でなければ、とそう・・・思った。
だから強引にシマコを妹に選んだのかもしれない。
セイの言葉にシマコはおかしそうに笑うと、何も言わず頷く。
「でしょ?私もそう思う。志摩子はさ、白薔薇様じゃない。もっと自信持っていいよ。
だって、私の妹なんですもの。白薔薇様なら白薔薇らしく、シャンとしてればいい。
志摩子はね、薔薇の館の一員に相応しいよ。私よりもずっとね。
だから、しっかり前見て。そんな風に俯いてしまわないで」
「お姉・・・さま・・・」
シマコの瞳から涙が零れた。きっと、ずっと不安だったのだろう。
セイが卒業してサチコとレイと並んで立っているのが。
誰かに背中を押して欲しいけど、いつの間にか自分は押す立場になってしまっていたのだから。
その上今はユミも居ない。きっと、シマコはずっと怖かったに違いない。
だからこんなにも張り詰めたように立っていたんだ、ずっと・・・。
「お姉さまは・・・そんな風にいつも祐巳さんを思ってらっしゃったんですね・・・」
シマコはようやく泣き止んでそんな事を言う。セイはそんなシマコの言葉に苦笑いを浮かべるしかなかった。
「どうかな。私が祐巳ちゃんに相応しいなんて、そんな事思ったことないよ。
私が祐巳ちゃんに思うのは、どちらかっていうと枯れた白薔薇の花言葉かな」
「・・・枯れた・・・白薔薇の花言葉・・・?」
「うん。白薔薇限定でね、あるんだよ。知ってた?」
「いいえ・・・」
「でしょ?じゃあ教えてあげる。あのね、枯れた白薔薇の花言葉は・・・生涯を誓う」
思い出すのは、ユミに告白した日の事。あの時もこんな風に思ってた。誰かに全てを差し出すのなら、
生涯を誓える人がいい。そんな人、一人しか居ない。後にも先にも、きっとユミしか・・・居ない。
自分がユミに相応しいとかは思わないけど、そうでありたいとは思う。
でも、生涯なら誓える。その覚悟など、とうに出来ている。
シオリと別れたあの日から、セイはそんな人をずっと探してきた。生涯を誓えるような、そんな人を。
想いを伝えれば少しは楽になるかと思ったのに、今度は一年も待たなければならないなんて、と、
悲観ばかりしてずっとそんな事を忘れていた。自分はどうしてユミを好きになったのか。
そんな事も忘れてしまうようでは、まだまだユミに相応しいとは言えない。
もしもユミが今もまた、シマコのように何かに悩んで苦しんでいるのだとしても、
もうセイに出来ることなんて殆ど何も無い。けれど、今まで通でいいじゃないか。
何も必死にならなくても、今まで通り穏やかに遠くからユミを守ってやればいい。
いつもいつもそうしてきたように・・・遠くから、そっと・・・。
「お姉さまの愛情は生涯続くんですか?」
「んー・・・それぐらいの覚悟はあるって事」
「お姉さまらしいですね。祐巳さんにはもう、伝えたんですか?」
シマコはそう言って笑った。ほんの少しぐらいは元気になっただろうか。
そんなシマコを見て、思った。愛し方なんて、人それぞれ違う。
それと同じで、一年を長いと思うか、それとも短いと思うのかは、自分次第なんだという事を。
ユミが今、どんな気持ちで居るのかは分からない。けれど、きっとセイと同じ気持ちでいるだろう。
一年なんて長い、と、そう・・・思ってくれているだろう。そうでなきゃ、あまりにも切ない。
でも、その一年はお互いの心を確かめ合う一年でも・・・あるんだ。
「志摩子、私ね。祐巳ちゃんと約束したんだ。一年・・・祐巳ちゃんが卒業するまで、もう逢わないって。
でもね、私は一人で一年を過ごす訳じゃない。祐巳ちゃんと一緒に、これからの一年を過ごすんだ。
だから今まで通り、遠くから守ることにするよ。駆け付ける事は出来ないけど、願うぐらいは出来るし。
それに・・・」
そう言ってセイは鞄の中から学校に来る前に買ったチョコレートを取り出して、シマコに修正ペンを借りた。
その修正ペンでチョコレートの裏にユミへのメッセージを書く。
白い文字は、誓いの表れ。
一年の歳月を乗り切る為に書いた、ユミへの短いメッセージは自分に宛てたものでもある。
セイはシマコに修正ペンを返すと、立ち上がりミルクホールを後にした。
シマコは不思議そうにセイの後をついてくる。そして、やってきたのはあの温室。
中を覗くと、もう誰も居ない。
「お姉さま?」
シマコはまだセイの行動の意味が分からないのだろう。怪訝そうな顔しながらセイの行動を目で追っている。
セイは温室に入ると明かりを点け、そして、白薔薇の傍にしゃがみこんだ。
「何をされてるんです?」
「私は何も出来ない。でもね、こうやってメッセージを残す事は・・・出来るんだよ」
沢山咲いた薔薇の中の一つ。萎れて枯れた白い薔薇。不思議と胸は痛まない。
きっと、これが生涯の誓いになると知っているからだろう。
枯れた薔薇の花を落とさないよう、そっとその花の根元の枝の部分にチョコレートを置くと、
セイは立ち上がった。そして、灯りは点けたまま、温室を後にする。
「お姉さま?それから?この後どうするんです?祐巳さんが気づかなかったら・・・」
「んーそうね・・・祐巳ちゃんが気付かなかったら・・・まぁ、仕方ないね」
そう言ってセイは微笑んだ。気付かないなんて、そんな事とっくに分かってる。
むしろ気付いたら凄い。でも・・・気づいて欲しいとも思う。
「私・・・私がヒントをさしあげてもいいでしょうか?」
「へ?ヒント?」
「ええ、だって・・・このままじゃ絶対祐巳さんは・・・。
だから、せめてヒントぐらいさしあげてもいいでしょうか?」
シマコの言葉にセイは声を出して笑った。そして、シマコの頭を撫でると小さく頷く。
「構わないよ。あれはもう、私の手を離れたから、志摩子の思うようにしてよ」
「は・・・はい!」
嬉しそうに笑うシマコ。きっと、シマコは本気で自分とユミの関係を心配してくれているのだろう。
いつもいつも・・・セイの事をまるで自分の事のように心配してくれているのを、
痛いほどセイは知っていた。だから、シマコの好きにさせてやればいい。
それでシマコが笑えるのなら、それがいい。その時だった。
突然誰かの泣き叫ぶ声が微かにだけど聞こえた気がして・・・気付いたらセイは走り出していた。
「お姉さまっ!?」
「ごめんっ!ちょっと行ってくる!!」
「えっ?あ、あの・・・」
シマコの声がもう聞こえない。その代わりに聞こえてくるのは、やっぱり泣き声。
子供みたいに激しく泣くのは間違いなく・・・。
「・・・祐巳ちゃん・・・」
セイは薔薇の館の脇にある植え込みに身を潜めて、壊れそうなユミを見て胸を押さえた。
今出て行ければ、どれほど・・・どれほど・・・。
何があったのかは分からないけど、何がそんなに悲しいのかは分からないけど、
とりあえず自分に今出来る事。それは・・・。
セイはその場で隠れたまま木を揺らした。わざとガサガサと大きな音を立てる。
すると、ユミは案の定驚いたようにこちらを振り返り、
そして灯りの点いた温室を見つけ一目散に走り出した。
「・・・これでいい・・・これでいいんだ・・・」
セイはそっと目を閉じた。口元には楽しくなんてないのに、何故か笑みが零れる。
遠くからユミの『聖さま!待って!』って声が聞こえた。その声を聞いて、今度は涙が溢れる。
ユミはきっと見つける。セイの残したメッセージを。その意図を。
「祐巳ちゃんは一人じゃないよ・・・私は、いつだって・・・いつだって傍に居るから・・・」
枯れ果てた白い薔薇に込めた想い。いつも、どんな時も、傍に居る。
生涯の中の一度も、ユミの事を想わない日はない。生涯の中の一度も、ユミの傍を離れる事は・・・ない。
枯れてもまだ、輝ける。
枯れてもまだ、誓うことが出来る。
そんな風に、私も生きたい。
そんな風に、君を想いたい。