どこに居ても、誰と居ても、やっぱり思い出すのは・・・あなたなんです。



ユミは大きな伸びをした。温室の窓の外を飛び回るのは、小さな小さな雀。

セイに気持ちを打ち明けた途端、心は少し軽くなった。

けれど、それと同時に感じるこの虚しさに似た感情は一体何なのだろう。

もう二度とセイには逢えないかもしれない。もしかすると、また逢えるかもしれない。

それは分らないけれど、どちらにしてもこの心のモヤモヤが晴れるような気がしない。

それはきっと、自分にとってのセイの存在があまりにも大きかったからだ。

セイに想いを伝えたのがちょうど今から二ヶ月も前の事。

たった二ヶ月しか経っていない筈なのに、その時間は永遠にも似てる。

そして・・・その永遠の時間はこれからも・・・続く。

一年間。自分から提案した時間なのに、今酷く後悔してる。

逢わないと決めた途端、毎日逢いたくなる。逢えないと思った途端、逢いに行きたくなる。

「あんな事・・・言わなきゃ良かったのかな・・・」

ユミは大きなため息を落とし、いつもの癖で胸のロザリオに触れようとしてすんでの所で思いとどまった。

そうだった・・・ロザリオはサチコに返したのだ。

セイには一年逢わないと約束をして、サチコとは姉妹を解消した。

込み上げてきた涙が頬を伝う。誰も居なくなった温室の中、薔薇たちだけがユミを慰めてくれる。

救いの音が聞こえない。どこにも、自分の居場所など・・・無い。

そう思った瞬間、足元を冷たい風がすり抜けて行った。両手を見つめてみても、全てを離してしまった今、

この小さな手の平に残るものなど何も無い。

いや、もしかすると初めから何も持ってなど居なかったのかもしれない。

「私と・・・聖さま・・・私と・・・お姉さま・・・」

どちらが重かったのか、どちらが大事だったのか。その答えなどとうに出ている。

どちらも同じぐらい大事だったに決まっている。

この二ヶ月、ユミは出来るだけ誰にも会わないように過ごしてきた。

シマコやヨシノならきっと相談にのってくれるだろう。けれど、どうしてもその気にはなれなくて。

誰かに打ち明けてしまえば、自分はもっと脆くなってしまう。

本当はセイの手もサチコの手も離したくなかったのだと打ち明けてしまうだろう。

でも・・・それは許されない。セイのように、あんな風に・・・真っ直ぐに言葉を伝える事が・・・出来ない。

薔薇の館の電気が消えた。きっと今、会議が終わったのだろう。

皆が出て行ったのを確認して、ユミはまたいつものように薔薇の館の掃除に向うつもりでいた。

別にもうサチコの妹ではないのだから、そんな事する必要など無いのは分っているけれど、

でも・・・これは最後のユミの居場所だった。どこにも行けないユミの・・・。

「そろそろ・・・かな・・・」

ユミは立ち上がると、薔薇たちに別れを告げて薔薇の館へと歩き出した。

辺りはもう暗い。でも、自分にはまだ、あの場所がある。そう思う事でどうにか立っていられた。

そう・・・今迄は。ところが、薔薇の館の前まで来て扉のノブに手をかけ回そうとすると・・・ノブが回らない。

「どう・・・して?」

いつも警備員のおじさんが鍵をかけに来る。

だからもっと遅くまで開いているはずなのに、何故か今日は既に鍵が閉まっていて・・・。

「うっ・・・ひっく・・・ぅぅ」

皆から、仲間から、学校からでさえ完全に閉め出されたような気がした。

ドアノブに手をかけたまま、開くことのないドアを必死になって開けようとする。

けれど、いくら回しても鍵は開かない。中へは・・・入れてくれなくて・・・。

大粒の涙が靴先を濡らす。埃を被った靴がそこだけ茶色く地の色を見せた。

「開けて・・・よ・・・お願い・・・私を・・・追い出さないで・・・」

全ては自分が選んだ事。これが現実なのだ。それは分っているけれど、どうしても飲み込めない。

何かを失うたびに人は強くなるだなんて、あんなのは嘘だ。もしかすると、そういう人も居るかもしれない。

でも・・・今はとてもではないけれど強くなんてなれそうにない。

卑屈になって、怖がって、誰の胸にも飛び込めなかった・・・これが報いなのだ。

ユミはようやくドアノブから手を離した。そのままその場に座り込んで、みっともなく子供のように泣いた。

誰にも見つけてもらえず、誰にも探してもらえない。

それがこんなにも・・・こんなにも・・・寂しいなんて。

その時だった。突然、後ろからガサガサ、と大きな音がした。

驚いたユミは慌てて振り返ったけれどそこには誰も居ない。けれど、誰かが居た痕跡はある。

遠目からでよく分らないけれど、あの温室に灯りが灯っていたのだ。

「私・・・電気・・・点けてないのに・・・」

警備員さんが点けたのかもしれない。けれど、まだそんな時間じゃ・・・ない。

ユミは走った。誰でもいい。誰かに話をしたかった。誰かに・・・見つけてもらいたかった。

「はぁ、はぁ、はぁ・・・」

温室の明かりはやっぱり点いていた。けれど・・・中には誰も居ない。

恐る恐るドアを開けて中に入ったユミは、真っ直ぐさっきまで座っていた紅薔薇の所まで行くと、

もう一度その場に腰を下ろした。灯りのついた温室は、オレンジ色に輝いている。

どこか暖かいような空気に、ユミは思わず瞳を閉じた。すると、沢山の思い出が蘇ってくる。

初めてサチコの涙を見た。サチコと喧嘩をして、セイに慰められた事もあった。

わざわざあの時、セイは自分だけを追ってきてくれたのだ。苦手なこの場所まで。

それがどれほど心強かったか、セイにはきっと分からないだろう。

あの時、どれほど寂しかったか。どれほど一人ぼっちなんだと思ったか・・・そう、まるで今みたいに。

そっと伏せた瞳から、涙が零れた。それはロサ・キネンシスの花びらに当たって、落ちた。

「聖さま・・・」

思わず口をついて出たのは、セイの名前。こんな時にいつだってセイは一緒に居てくれた。

決して、ユミを一人ぼっちになどしなかった。初めて逢ったその時から・・・。

心細かったダンスの練習。一番に声を掛けて皆の輪の中に連れ出してくれたセイ。

あの優しさが・・・あの暖かさが・・・今、こんなにも欲しい。

と、その時、またドアの所で音がした。ユミは驚いて立ち上がると、思わず叫んでいた。

「聖さまっ!!!待って!!!」

どうしてセイだと思ったのか、それは分らない。ただ、セイであればいいのに、そう思った。

甘い自分に嫌気がさす。いつだってセイを頼りにばかりしていた自分に腹も立つ。

けれど・・・これ以上もう、一人で立っていられない。

自分の覚悟など、こんなにも甘かったのだと思い知った。

ユミは勢いよく温室のドアを開けた。そして・・・そこに居たのは・・・。

「ごめんなさい・・・驚かすつもりはなかったのだけれど・・・」

「・・・志摩子・・・さん・・・」

温室の外に居たのは、シマコだった。ユミの泣き顔を見て困ったように笑うシマコ。

ユミはヨロヨロと温室に戻ると、ブロックの上にストンと腰を下ろすとシマコを見上げて笑った。

いや、笑おうと・・・した。けれど、上手に笑えなかった。だって、セイでは・・・無かったのだから。

「私こそ・・・ごめんね・・・驚いた・・・でしょ?」

突然セイの名を叫んだユミに、シマコが驚かなかった訳がない。

けれど、ユミの質問にシマコはゆっくりと首を横に振る。そして、ユミにそっと手を差し延べてくれた。

「ありがとう・・・志摩子さん」

ユミはその手を取って立ち上がると、シマコが手を引く方についてゆく。

「祐巳さん、この薔薇を見て」

シマコが指差した先にあったのは、綺麗な白薔薇だった。

けれど、その綺麗な白薔薇よりもその下の方に咲いている枯れ果てた白薔薇が、何故かドクンと胸を打つ。

下を向いて茶色くなった花弁が、今の自分の心にピタリとはまる。

「流石にね、ロサ・ギガンティアはここには無いの。でも・・・白い薔薇なら・・・ここにある・・・」

シマコはそう言って白薔薇を一つ、ユミの手の平に置いた。今にも崩れそうな危なっかしい花弁。

これは今にも崩れ落ちそうなセイとユミのような関係を表しているように思えてならなかった。

いつ壊れてもおかしくない、そんな関係。

一年間もセイがユミを思い続けていてくれる自信なんて、どこにも無い。

苦しくて苦しくて、思わず白い薔薇を持った手に力がこもる。

ほんの少しでも力を入れれば、きっとこの他愛も無い花など簡単に壊れてしまうだろう。

「志摩子さんはどうしてここに?」

「私ね、何となく落ち込んでる時はいつもここでこの薔薇を見に来るのよ。

そうね・・・今の祐巳さんみたいに」

「・・・志摩子さん・・・」

「祐巳さん、知ってる?白薔薇の花言葉にね、『私はあなたに相応しい』っていうのがあるの。

なんて自信過剰なんだろうって思うけど、でも・・・とても素敵よね。

それだけ誰かを好きになれれば。ねぇ、そう思わない?」

シマコはそう言ってまるでそこに咲いてる薔薇のように微笑んだ。

白薔薇の花言葉なんて、ユミだって調べた事がある。けれど、そこにはそんな花言葉なんて無かった。

どうしてシマコがあえてその花言葉を選んだのかは・・・分からない。

けれど、その花言葉の意味が何故かセイに重なって見えて・・・。

あの日のセイの告白と、まるで同じような響きに聞こえて。

「そう・・・だよね。それだけ自信満々に人を好きになれたら・・・素敵だよね」

自分はどうなのだろう?こんなにも誰かに甘えてばかりで、自信を持ってセイが好きだと言えるだろうか?

セイとサチコ。どちらも大切だと言っておきながら、結局どちらの手も離して、

結果こんなにも寂しがるなんて。これじゃあ・・・誰にも愛してもらえる筈などない。

この薔薇達のように、自分で咲かなくては・・・いけないのだ。

もう十分に自分は手入れされてきた。きっと、蕾だってついている。

それなのに、咲くことを怖がって、枯れる事を怖がって・・・いつまでもこのままで。

「・・・ありがとう・・・志摩子さん。私、ちゃんとしなきゃね。ちゃんと自分で・・・立たなきゃね」

「祐巳さん。皆、薔薇の館で祐巳さんが来るの、待ってるわ」

「・・・・・ありがとう・・・・・」

シマコの言葉に、ユミは溢れそうな涙を堪えた。優しい言葉、暖かい想い。

誰も探してくれなかった訳じゃない。

気付かなかっただけ。寂しさのあまり、ただ頑なに目を閉じていた・・・だけ。

「それじゃあ、私はこれで・・・ごきげんよう」

「あっ、うん。ごきげんよう・・・ありがとう」

シマコはそう言って温室のドアに手をかけた。そして、最後に一度だけ振り返って、ポツリと呟く。

「あのね、枯れた白薔薇の花言葉・・・知ってる?」

「へ?う、ううん。枯れた花にも花言葉があるの?」

「ええ、白薔薇にだけ。・・・あのね」

「・・・うん」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

パタン。

シマコが去った後、ユミはまた一人になった。けれど、さっきほど寂しくは無い。

ユミはもう一度白薔薇の前にしゃがみこむと、たった一つだけ先に枯れてしまった白薔薇にそっと触れた。

すると枯れた薔薇は脆く崩れ落ちる。でも、それでも良かった。さっきほど悲しくはなかった。

悲しくないのに、涙が零れる。一人なのに一人じゃない。そんな気がする。

枯れて落ちた薔薇は、跡形もなく崩れてしまったけど、そこには確かに何かが残ったのだ。

「・・・あれ?」

さっきまで枯れた薔薇があった所を撫でていると、指の先に何かがコツンと当たった。

ユミは腕を伸ばして枝と枝の間に手を入れ、その何かを引っ張り出して小さな感嘆の声を漏らす。

「どうしてこんな所に・・・」

枝と枝の間に挟まっていたのは、何故か板チョコで・・・。

一体誰がこんな所にチョコレートなど隠したのだろう。

そんな事を考えながら、何気なくユミはチョコレートを裏返した。するとそこには・・・。

『祐巳ちゃんは一人ぼっちなんかじゃないよ。いつだって、私が傍に居るから』

白い修正ペンで書かれた文字は、とてもよく知ってる字だった。知らず知らずのうちにまた涙が零れてくる。

それと同時に、笑みも零れた。思わず抱きしめたチョコレートが溶けそうなほど、胸が熱い。

「聖さま・・・」

ほんの少し癖のある字。けれど、とてもよく知っている。それは紛れも無いセイの字だった。

確かに、セイはここに居たのだ。ユミとは入れ違いに出て行ってしまったけれど、

確かにセイは、ユミを見ていてくれたのだ。いつものように・・・なにも変わらない優しさで。

ユミはチョコレートを開けると欠片を口に含んだ。

チョコはあっという間に溶けて無くなってしまう。けれど、甘さはいつまでもいつまでも残って・・・。

まだまだ甘えてると思う。いつまで経っても、それは変わらないかもしれない。

けれど、一年後、きっと笑顔でセイに逢おう。だって、さっきシマコが教えてくれたから。

『あのね、枯れた白薔薇の花言葉は・・・生涯を誓う・・・素敵よね。とても・・・とても』

「そうだね・・・志摩子さん。枯れても、終わりじゃ・・・ないんだね」

枯れたからって、終わりじゃない。そこから生涯を誓えるのなら、枯れるのも悪くない。

チョコレートを鞄に仕舞って、ユミは温室を後にした。その顔にもう涙は無かった。

泣いて過ごした二ヶ月。けれど、もう泣かない。自分はもう、一人ではない事を知ったから。

だから、もう少し・・・もう少しだけ、強くなってみようか。

この薔薇のように、堂々と、生きてみようか。

「聖さま・・・待っててくださいね。私、私きっと・・・今度こそ・・・」

温室を出ると、そこにはもう誰も居ない。音もしない。でも・・・一人じゃない。



近づいて、離れて、遠ざかって、消える。


咲いて、枯れて、散って、舞う。


跡に残るのは、あなたの言葉。


跡に残るのは、私の心。




枯れゆく花に