心なんて、どんなに醜くたっていい。
心なんて、どんなに泣いたっていい。
心なんて、どんなに痛くてもいい。
でもどうか、嘘だけはつかないで。
いくら願っても、心はいつだって、私を裏切る。
こんなにも好きだと思うのに、言葉にしてしまうと何て陳腐なんだろう。
たった一言、『好き』という言葉だけで片付けてしまえるほど、軽い気持ちじゃない。
けれど、想いを伝えるにはその言葉しか見当たらなくて。
そして、それを伝えた結果、ユミにこんな顔されたんじゃ、私の想いは報われない。
ユミの大きな瞳から零れ落ちる涙は、いつか私を押し流すだろう。
私のこんな些細な愛の言葉なんて、まるで初めから無かったかのように。
でも・・・私はこれ以外の言葉など知らない。それほど沢山の経験もつんでない。
私はだから、何も話そうとしないユミを置いて、薔薇の館を出ようと思った。
答えはいつでもいい。そう言ったのだから、無理にここで聞こうとは思わない。
むしろ、もう少し落ち着いてからの方が有難い。私だって、今のユミと同じような顔、してるに違いないから。
言葉にすると簡単だけど、そのたった一言の中には私の全てが詰まっている。
そう・・・ユミの涙などでは押し流されないほどの、想いが。
ゆっくりと立ち上がってカップを流しで洗おうとしたその時、
突然背中にフワリと暖かい感触。私は振り向くことも出来ず、優しく声を掛けることも出来なかった。
「聖さま・・・私・・・私・・・」
「・・・答えは・・・今じゃなくていいのよ?」
私の声がどんな風にユミに伝わったかは分からない。ただ、後ろから私を抱きしめている指先に力がこもる。
「聞いて・・・くださいますか?以前、約束したあの話を・・・」
私は黙ったまま頷いた。ユミの手が震えて、緊張が私にも伝わる。
例えば、ここでもし断られたとしても後悔しないと言えば、それは嘘になる。
後悔なんて、しない訳がない。でもきっと・・・やり直したいとは・・・思わない。
もし時間が遡ったとしても、きっと私はまた似たような道を歩むと思うから。
ある程度していた覚悟が足りなかったのかもしれない。だって今、こんなにも・・・答えが怖い。
流しの水は出しっぱなし。カップを持った私の手はその水にいつまでもいつまでも打たれている。
でも、そんな事少しも苦になんてならない。震えたユミの指先に比べれば、こんなもの・・・。
「私、ずっとずっと、勘違いしてました。
お姉さまが好きなんだ、と・・・でも・・・でも・・・お姉さまは私の憧れで、それは今でも変わらなくて・・・。
憧れと恋は違うって事にすら気づかなくて・・・。最初はそれでも良かったんです。
私は、それでも幸せだったんです。なのに・・・それなのに・・・」
ユミはそこで言葉を切った。
鼻をすする音でユミはまだ泣いているのだと気付いたけれど、私はやっぱり何も言えなかった。
ユミが今どんな想いで私にこんな話を聞かせてくれるのか。それは分からない。
ただ一つ言えるのは、また私は誰かを、大切な人を傷つけてしまっていたのだと言う事。
知らず知らずのうちにユミは私の心の中に住んでいて、一歩もそこから出て行こうとはしなくて。
これがどれほど苦しかったか、きっとユミには分からない。
傷つけないように笑っているのがどれほど辛かったかなんて事、きっとユミには・・・分からない。
私はずっと、そう思っていた。でも、そうじゃない。ユミだって何かに苦しんでいたのだ。
だからこんなにも・・・こんなにも小さな体で震えて・・・。
「祐巳ちゃん・・・」
ポツリと呟いた私の言葉に、ユミの体がビクンと震える。私はクルリと反対を向いて、ユミを抱きしめた。
私がよく喩えた、ぬいぐるみのような抱き心地は今も変わらない。
暖かくて、フワフワで・・・ずっと、ずっと、変わらない。
真正面から抱きしめているのに、お互いの顔を見ることは出来なかった。
見てはいけないような・・・そんな気がした。胸の中で微かに聞こえるのはユミの嗚咽。
でも次の瞬間、ユミは私の身体をグイっと押して私を睨み付け、大声で叫び出した。
「・・・どうしてです?・・・どうして聖さまは・・・、
どうして聖さまは私の前になんて現れたりしたんですかっ!!
聖さまさえ居なければ・・・聖さまさえ居なければ私は・・・」
「・・・私は・・・?」
「私は・・・こんなにも・・・こんなにも・・・苦しくなかった・・・。
お姉さまにも・・・嫌われずにすんだ・・・いつまでも幸せだと、思っていられたのにっ!!」
「・・・・・・・・・・・・・」
私は言葉を失った。ユミの瞳は傷ついてなど居ない。でも、とても哀しそう。
そんなユミの瞳に映る私は・・・一体どんな顔をしているのだろう。
私さえ居なければ。私は何度も何度もそう思いながら生きてきた。
私さえ居なければ、もしかすると皆幸せなのかもしれない、なんて。
役立たずで、ワガママで、どうしようもない私なんて、居なくなればいい。
何度そんな風に感じていただろう。
でもまさか誰かに直接言われる日が来るなんて事、少しも思ってなかった。
私は所詮、自分で考えていただけでちっとも消える覚悟なんて出来てなかった訳だ。
頭が真っ白になる。ユミの言いたい事が分からない。ねぇ、私を責めているの?
私なんて居なくなればいいって、消えてしまえって、そう思ってるの?
私は立ち尽くしたまま、何の言葉も浮かんでこない。
一方ユミは、さっきまでの張り詰めた空気はすっかりどこかへ行ってしまっている。
ユミは突き放した私の傍にそっと寄ってきて、水で冷えた手を両手で暖めるようにくるむと言った。
「・・・冷たい・・・手・・・」
クスリと小さく笑う声とは裏腹に、ユミの指先はまだ震えている。どれほどの緊張を感じているのだろう。
それは私には計り知れない。でも、きっと私の痛みも・・・ユミには伝わらない。
「祐巳ちゃんは・・・あったかいね」
それだけ言うのがやっとだった。鈍器で殴られたような鈍い痛みはまだ私を叩き潰そうとしていて、
もしかするとこの痛みは一生続くかもしれないと思えるほどで。
でも、そんな私を無視してユミはまた話し出した。
「私、聖さまが居なかったら、きっとお姉さまと姉妹になんてなれませんでした。
聖さまが居なかったら、お姉さまとの姉妹関係はこんなにも続いてませんでした。
でもね・・・でも・・・私はそれを、自分から壊したんですよ、聖さま・・・どうしてだと、思いますか?」
「・・・・いいや」
知るわけがない。もうどうでもいい。サチコが居れば、ユミは幸せだったとさっき自分で言ったではないか。
私はフイとユミから視線を外した。そんな私の顔を覗き込むように、ユミの大きな瞳が揺れる。
「私・・・聖さまが・・・好き。ずっと、ずっと、アナタの事、好きでした。
いつからだったか分かりませんけど、聖さまがね、ずーっと居るんです、私の中に・・・。
だから・・・私・・・どうしたらいいか分からなくて・・・お姉さまが居るのに、って、
これは浮気なんだってずっと思ってて・・・でも、お姉さまへの思いと聖さまへの想いは全然別物で・・・、
ずっと、ずっと考えてたけど・・・やっぱり選択肢はこれしか無くて・・・だから・・・」
「だから、姉妹を解消したの?」
私の言葉にユミは頷いた。俯いたまま、大粒の涙がボロボロと零れ落ちるのを、私は冷静に見つめていた。
どうしてだろうな。両想いだって分かったのに、どうしてこんなにも冷静でいられるんだろう。
高揚感とか、そういうものが全く無い。それは多分、私はユミの心の中の葛藤を知っているからだ。
「せ・・・さま・・・私ね、聖さまを好きになった事、後悔してないんですよ。
だから、さっき言ったのは全て私の心への怒りで、
実際は聖さまのおかげで色々な事に気づく事が出来たんですよね・・・。
私・・・聖さまが病院に居た時、心臓が止まるかと思ったんです、本気で。
そして、思いました。私が好きなのは、ずっと、ずっと傍に居たいのは、お姉さまの傍じゃないって事に。
私がね、これからずっと一緒に居たいのは・・・それは・・・聖さまの・・・隣なんです」
「・・・祐巳ちゃん・・・」
ユミの中の葛藤。それは私が思ってたよりもずっと、深くて暗かったようで。
こんなにも細い体で、震えながら心の中の私とサチコの像と戦っていたというの?
選ばなきゃならないと、そう感じて?でも・・・それは違う。人は大事なものを沢山持ってる。
それは、私だってユミだって、サチコだって同じはず。このことに気付かせてくれたのは、ユミだったのに。
私は、涙でぐしゃぐしゃになったユミの頬をそっと撫で、強く、強く、抱きしめる。
「ありがとう・・・ごめんね・・・好きになってしまって・・・本当にごめん・・・。
想いを伝えてしまって、祐巳ちゃんを困らせて・・・本当に・・・ごめんね・・・」
謝ることしか出来ない私は、なんて滑稽なんだろう。嬉しいのか、哀しいのか、それすらももう分からない。
きっと、私には予感があった。そう・・・それこそずっと初めから。
この恋は、報われない。どんな形にしても、想いを伝えた時点で終わってしまう儚い恋なのだという事を。
実際、告白して想いを受け入れられてそれが通じた筈なのに、心はこんなにも物悲しく、
まるで全ての時間が消え去ってしまったかのように、何も残っていないのだから。
目を伏せる私に、ユミは言った。
「謝らないで下さい、聖さま・・・そんな顔されたら・・・私まで・・・」
目の端に溜まった涙はいつまでも零れない。怯えるように、何かを探すようにもがいてた筈だった。
でも・・・想いはずっと、通じてた。決して交わらない所で、ずっと・・・ずっと、通じてたんだ。
「私達、これからどうなるのかな?」
涙を堪えて苦い笑みを漏らした私を見て、ユミの瞳から最後の涙が一粒零れた。
「私、聖さまが好きです。でも・・・私にはまだ・・・したい事が沢山・・・あるんです」
「うん?」
「それは、学校に行ったり、普通に高校生活を最後まで送りたいってだけの話なんですけど。
・・・でも、それは私にとってはとても重要で・・・卒業するまで私は私の道を進みたくて・・・だから・・・」
「・・・だから?」
私は次の言葉を待った。
何も無かった所に、涙が落ちた場所に、小さな灯りを見つけられそうな気がしたから。
「私が卒業するまで・・・答えは保留にしておいてもらえませんか・・・?
とても、とても自分勝手でワガママな答えだって事は、凄くよく分かってるんです。
でも・・・でも・・・どっちも・・・大事・・・だから・・・聖さまも・・・学校も・・・皆も・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「で、でも・・・もしも私が卒業するまでに聖さまに他に好きな人が出来たら・・・、
それは・・・そちらの方を優先・・・してください。
私の事は、忘れてしまってください・・・お願いします」
「それは・・・私の記憶にも残りたくないって事?」
「そういう訳じゃありませんけど・・・何だか悲しいじゃないですか。
ずっと好きなのに想いが届かないまま覚えていられるのは」
そう言ってユミは寂しげに笑った。
きっと、自分の出した答えはあまりにもワガママだと、そう思ってるに違いない。
確かにユミの出した答えはワガママで自分勝手。
でも・・・曖昧な気持ちのまま付き合うよりは・・・ずっといい。
高校生活と私の事を両立する自信がないからこそ、ユミはこの道を選んだのだろう。
サチコの事も、ユミの中ではまだ大事なお姉さまなのだ。高校時代は、せめてサチコと居たい。
たとえ姉妹を解消したとしても、ユミとサチコは羨ましいほど仲の良い姉妹だったのだから。
そう思うユミの複雑な気持ちを、100%理解してやれる事は出来ないかもしれない。
私はきっと、サチコにヤキモチを妬くだろう。
そんな些細な事で私と、サチコ、そしてユミ自身を苦しめる事になるのなら、
区切りのいいユミの卒業まで待つのは・・・ユミなりの配慮なのかもしれない。
何も考えず私の胸に飛び込んでくるような、そんな子では決してない。
私と付き合う事で、どこかに歪が生じるのなら、それならいっそ付き合わない方がいい。
それならいっそ、全てが真っ白に戻るその時からまた・・・始めればいい。
「ほんと、ワガママだね。いいよ、分かった。祐巳ちゃんが卒業するまで、私は待つよ。
でも・・・もしも私の気持ちや、祐巳ちゃんの気持ちが変わった時は・・・その時は・・・、
私達、この気持ちを忘れて、先に進むこと。いい?」
「・・・はい。そうですね」
ユミはそう言って小さく微笑んだ。もう、ユミの瞳は涙に震えていない。
微笑んだユミを見て、私も微笑んだ。胸が痛い。想いを伝える前よりもずっと、苦しい。
哀しいけれど、でも、それが最善。ユミが卒業するまで、後1年と少し。
その間にどんな出会いをするかは、誰にも分からない。
それが喩え、お互いを離してしまうような出会いであっても、それは仕方ない。
想い出がいつか、全て色褪せてしまっても、私は幸せな出逢いをユミとしたのだと、今なら言えるのだから。
私は最後にもう一度、ユミを強く抱きしめた。ユミも、まるでそれを望んでいたように私の胸に顔を埋める。
まるで最初から想いが通じていたような、不思議な感覚。でも、離れなければならないという微かな痛み。
「私、祐巳ちゃんが卒業するまでもう君の前に現れないからね」
「はい・・・私も、どこかで聖さまを見かけても、声はかけません」
「・・・うん、それでいい」
最も哀しくて最も最良の別れ方。逢わない方がいい関係なんて、何て切ないんだろう。
私達はどちらからともなく目を瞑った。最初で、最後になるかもしれない、切ない別れのキス。
口付けたユミの唇は冷たくて甘かった。
不思議と悲しいという感情はなくて、まるで初めからこうなる事が分かっていたような振る舞いに、
思わず微笑んでしまった。そんな私を見て、ユミも笑う。
でもその笑顔は、痛々しいものではなくて、どこか穏やかで・・・。
私はユミの体をそっと離すと、ドアの所で一度だけ立ち止まった。
振り返らずに、背中でユミを感じながら呟く。
「それじゃあ、元気でね、祐巳ちゃん」
「聖さまも・・・お元気で。ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さようなら。愛しい人。
心の中で呟いた声は、もしかするとユミの心と重なっただろうか?そうならいいのに。
そうして私は薔薇の館を後にした。音も無く涙が頬を伝ってゆくけれど、寒くはない。痛くも無い。
この数ヶ月、色々な事があった。リリアン瓦版から始まって、誤解が生まれて、想いが砕けて。
でも・・・どの告白も必要だった。私には。そして、もちろん、この別れも。
これから一年、何があるかは分からない。でも、それでもいい。
また逢える日を信じて、今度こそ、幸せになれる事を祈って・・・。
「またね・・・祐巳ちゃん」
真っ暗な道を、月明かりだけが私を照らし出す。
何も無くなったと思っていた胸に、光が差す様に。
淡くて儚い光だけど、とても優しくて涙が止まらない。
それぞれの人達の告白に背中を押されて、ようやくここまでやってきた。
もう、始まっているのだと知りながら。
もう、後戻りは出来ないと知りながら。
離れる事でしか愛せないなんて事、あるのでしょうか。
離れるしか道がないなんて事、あるのでしょうか。
いつかまた想いが通じるなんて事、あるのでしょうか。
いつかまた出逢えると、言い切れるのでしょうか。
全ては誰かの心の中の、告白でしかないのでしょうか。