完全なモノが存在するのなら、私など要らない。


絶対的なモノが存在するなら、君など要らない。


何も無いから、欲しがる心。


何も無いから・・・欲しがる想い・・・。



私は長い夢を見ていた。自分に都合の良いバカみたいな夢。

私は大学生になっていて、大学のテラスでお姉さまと談笑していた。

そして、そこに少し遅れてきた誰かが私の隣に腰を下ろす。

いつもみたいに軽いノリで謝りながら、悪びれもせずに私のオレンジジュースを飲むのを、

お姉さまが呆れたように見ていて・・・でも、その瞳はとても優しくて。

私はふと気になった。私の隣に腰を下ろしたこの人は一体誰なんだろう?と。

だからそっと視線を上げて顔を確認して息を飲んだ。

「聖さまっ!?」

「はい?」

私はここで目が覚めた。よく知った声が夢の外から聞こえたのだ。

勢いよく顔を挙げた私を不思議そうに見つめるのは・・・セイ・・・?

「あ・・・あれ?わ、私まだ夢・・・見て・・・?」

ちょうど私の正面に座って頬杖をついて私を見つめてるのは、やっぱり他の誰でもないセイだ。

でも、ここは確かに薔薇の館の筈。それなのにどうして?

訳が分からないって顔してる私を見て、セイは声もなく笑った。

「もしかして寝ぼけてるの?」

「ね、ねぼ?」

そう・・・そうかもしれない。私はまだ寝ぼけているのだ。

だからこんなにもリアルな妄想が目の前で起こっているのだと、そう思った。

でなきゃセイが今、私の目の前になどいるはずがない。

けれど妄想にしてはやけにリアルで、思わず抱きついてしまいそうになる。

「おーい、祐巳ちゃ〜ん!」

「ほ・・・ホンモノ・・・ど、どうしてここにっ!?」

セイは私の目の前で手をヒラヒラと動かすとまだ肩を震わせている。

ようやく覚醒した私を見て、セイはやっと笑うのを止めた。

セイの手元にはコーヒーの入ったカップが置いてある。

そう言えばセイはいつもコーヒーを飲んでいた。

でも、仮にも胃炎で倒れた人間がコーヒーなど飲んでもいいものなのだろうか?

入院までするほど悪い胃炎だったというのに・・・ここで私はふと我に返った。

思わず立ち上がってテーブルにドン!と勢いよく手をつきセイに詰め寄る。

「せ、聖さまっ!!そう言えばいつ退院されたんです!?ま、まさか生霊だなんて事は・・・」

もしそうだとしたら怖すぎる。でも、私の予感は全く外れた。

「生霊だなんて物騒な。ちゃんと足もついてるよ、ほら」

そう言って足を見せてくれるセイ。確かに足はついている。

私はホッと胸を撫で下ろすともう一度席に座りなおした。

そんな私を確認してから、セイはまた話し出す。

「ついこないだね、退院したの。お見舞い、ありがとね」

「知って・・・たんですか?」

「まぁね。何となく、祐巳ちゃんは来てくれたような気がしたの」

そう言ってコーヒーを一口飲むセイの顔は、今まで見たことがないくらいに優しかった。

私は何だかそれが切なくて、込み上げてくる想いを必死に飲み込んだ。

どうしてこんなにも切なくなるのか。セイに会っただけで、どうしてこんなにも・・・。

あれほどセイに会わないように避けていたのに、本当はこんなにも会いたかったんだと思い知る。

セイに触れて、いつもみたいに軽口を叩いて抱きついてきてほしいだなんて、

私はいつからこんなにもセイを愛していたのだろう。

音もないぐらい静かに私を沈めたこの感情が恋というものなら、私はもうこの一度きりでいい。

もう二度とこんな感情を誰かに抱きたくないとさえ思う。けれど・・・私は・・・。

「聖さまはどうしてここに?」

「う〜ん。誰かに会えるような気がしたから・・・っていうのは冗談で、

祐巳ちゃんがね、居るような気がしたから。何て言ったら信じてくれる?」

冗談交じりにそんな事言うセイの顔は、いつもとは少しだけ雰囲気が違った。

どこが違うのかは分からない。けれど、何かが・・・違う。

「聖・・・さま?」

「なぁに?」

「私、聖さまに話したい事があって・・・だから・・・」

「うん」

何から話せばいいのだろう。お姉さまの事、セイの事、これからの事。

話さなければならない事は沢山ある。けれど、そのどれも今更な気もする。

それどころか、用意していた全ての言葉の意味さえ分からなくなってしまったような気さえする。

セイはいつまでも待ってくれていた。私が無言でいても、少しも怒らなかった。

ただゆっくりとコーヒーを飲んで、まるでこれから私の話す言葉の意味など、

とうに理解しているような、そんな顔をしていた。コーヒーをかき混ぜてその渦をじっと見つめながら。

「私・・・お姉さまと姉妹を・・・解消したんです」

ポツリと言った私の言葉に、セイはゆっくりと顔を挙げた。セイの唇が、どうして、と動く。

けれど、それは声にはならなかった。

「私には、今好きな人が居て・・・それをお姉さまに打ち明けて・・・それで・・・」

込み上げてくるのはお姉さまとの思い出だった。この薔薇の館には沢山の思い出が詰まりすぎている。

楽しかった思い出も、苦い思い出も、沢山・・・嫌というほどに。

けれど、私はここから逃げる訳にはいかなくて。ここでしかこの話を切り出しちゃいけないような気がして。

全てが始まったこの場所こそ、全てを終わらせるのに相応しい場所だと思うから。

セイはまだ何も言わなかった。いつだってお姉さまの事を相談するのはセイだったけれど、

ただの一度だってセイは嫌な顔一つしなくて。だからセイが卒業した時の私の不安は更に大きくなった。

いつまでも頼れない・・・でも、本当は違った。私はセイに、ただ頼りたかった訳じゃない。

純粋に・・・会いたかったのだ。ただ、ただ・・・会いたかった。

親父みたいにじゃれ付いてきて欲しかった。私を見つけて駆け寄ってきて欲しかった。

あの時、お姉さまがトウコに取られたんだと勘違いした時に初めて、私はそれに気付いた。

けれど・・・あの時はまだ誰にも打ち明けることなんて出来なくて、

だから必死になって目隠しをしていたのだ、自分の気持ちに。

けれど・・・それももう、今日でお終い。私は私の感情にケリをつけなければならない。

そして、薔薇の館の仲間達にも、セイにも、お姉さまにも・・・もう迷惑はかけられない。

私は顔を挙げた。真っ直ぐにセイの灰色がかった瞳を見つめる。

大きく息を吸い込んで、話し出そうとしたその時、セイが先に口を開いた。

「聞いて、祐巳ちゃん。私、ずっとずっと考えてた。海の帰り、祐巳ちゃんが私に言った言葉の意味を」

「・・・私の言った・・・言葉の意味?」

「そう・・・『・・・聖さまは・・・私なんて見てないでしょ?』って・・・言ったの覚えてる?

あれの意味をね、ずっと考えてた。でも・・・答えは出なかった。

どうしてかな、こんなにも好きなのに・・・でも、祐巳ちゃんの言った通りだったんだ。

私は、祐巳ちゃんを好きだと思う事で、私を保ててたんだ。私のお姉さまがね、昔言ったの、私に。

大事なモノが出来たら自分から一歩引きなさいって。でもね、その言葉の意味なんて深く考えた事なかった。

でも今回・・・こんな事があって・・・ようやくその言葉の意味を考えたんだ。

・・まぁ、それに気付かせてくれたのは柏木だったんだけど。私ね、今なら分かる。

どうして祐巳ちゃんがあんな風に私に言ったのかが。そして、私が伝えたかった本当の気持ちも」

「聖・・・さま・・・?」

私は凍りついた。何となくだけど、その先の言葉を知っているような気がしたから。

確かに私はあの日の告白を深く受け止めなかった。それは、セイのいつもの軽口だと分かっていたから。

けれど、もしもそれが嘘じゃなかったら?そんな事、考えもしなかった。

私が勝手にセイを好きで、セイはまた違う人・・・そう、スグルが好きなのだ、と・・・そう思っていたんだ。

いや違う。そう思う事で私は私の心を納得させようとしていただけ。

そこから逃げただけだったんだ。自分の気持ちから、ただ逃げただけ。

その先の幸せな未来の形など描けない私にとって、誰かを好きになる事は酷く怖い事。

だから振られてしまえば、それで全てが終わるのだと・・・勝手に思っていた。

それに・・・私にはまだやるべき事がある。私は、私の気持ちに踏ん切りをつけなければならない。

好きだから、それで終わる訳じゃない。好きだからこそ、離れなければならない事がある。

それを教えてくれたのは・・・他の誰でもない、セイだったのだから。

私は大きく息を吸い込んだ。そして・・・セイの言葉を待った。

そんな私を見て、セイは小さく笑った。セイのこんなにも自信のなさそうな顔を見たのも、これが初めて。

最後のコーヒーを飲み干したセイは、静かに言った。

一言一言、それが正しい言葉かどうかを確かめるように。

「私、祐巳ちゃんが好き。心さえあげてしまえると思った程の人は、祐巳ちゃんしか居ない。

答えは・・・今すぐにじゃなくていいよ。待つのは・・・慣れてるから」

セイは静かに俯いた。微かにだけれど涙ぐんで見えたのは、きっと気のせいではないだろう。

私はまだ、夢の続きを見ているのだろうか?これは本当に現実なのだろうか?

両想いだと知った途端、こんなにも足がすくむのはどうしてなのだろう。

幸せを掴む為に私はここに居るんじゃなかった?

それなのに、セイに告白する事が果たして幸せなのかどうかが・・・分からないなんて。

何が引っかかるのか、何が私を止めるのか。決めた心が揺らぐ。

こんな結末があったなんて。こんなにも嬉しくて哀しい結末が・・・あったなんて・・・。

「どうして泣くの?」

セイの台詞で初めて、私は自分が大粒の涙をこぼしている事に気付いた。

悲しい訳じゃない。ただ・・・切ない。今までの時間は全て、今この瞬間の為にあったのだとしたら、

それはとても残酷で・・・重かった。空回りして、すれ違って、どれだけ回り道をしたのか。

私には、覚悟が足りない。セイのように、はっきりとは・・・きっと言い切れない。

好きなモノが多すぎて、どれを選べばいいのかさえ・・・分からない。

涙ごしに見たセイの顔は、とても穏やかだった。何かを全て捨て去ったようにスッキりしてる。

でも私は・・・きっと今、酷い顔をしているに・・・違いない。




心なんて、どんなに醜くたっていい。


心なんて、どんなに泣いたっていい。


心なんて、どんなに痛くてもいい。


でもどうか、嘘だけはつかないで。


いくら願っても、心はいつだって、私を裏切る。











それぞれの告白  第三十話