途切れないモノなど、何も無い。
終わりの無いモノなんて、何も無い。
例えばそれが、どんなに望んでいなくても。
痛みと引き換えに手に入れたモノに、さほど価値があるとも思えない。
いっそ、初めから何も無かったのなら、まだ良かった。
ユミと私を繋いでいた細い鎖は切れてしまった。
もう二度とあの鎖は私達を繋がない。ずっと捜してた言葉も何の役にもたたなかった。
ユミにかけようと思ってた言葉のどれも、私達には意味がなくて・・・。
これからどうすればいいというの?これから私はどうやって先に進めばいい?
「うっ・・・ひっく・・・」
暗い温室にただ一人きり。私は足元に置いてあった鉢植えのロサ・キネンシスの枝を手折ろうとした。
「っ!」
人差し指からうっすらと滲み出る血。まるで枝を折ろうとした私への小さな抵抗のよう。
「祐巳・・・」
この薔薇はユミだ。無理矢理ユミの恋心を摘み取ろうとした私への、ユミの一度きりの抵抗。
薔薇は折られまいと、棘を刺す。綺麗に咲きたいばっかりに。
ユミだって同じ。セイが愛しくて、やがて棘を・・・持った。
私はその棘に刺されたのかもしれない。でなければこんなにも心は痛まない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どれぐらい温室の中で震えていたのだろう。もう外は真っ暗で、どこからも誰の声も聞こえない。
皆帰ってしまったのだろうか・・・私だけをここに置いて。そう・・・私だけを・・・。
その時だった。突然、温室の扉が軋む音がした。私は驚いてゴクリと息を飲む。
誰なの?そう聞くよりも先に、温室に入ってきた人物が口を開いた。
「・・・祥子?」
「?!」
お姉・・・さま?どうしてここに・・・。その理由を考えるよりも先に、私は駆け出していた。
大好きな、お姉さまの胸めがけて。
「お姉・・・さまっ!!」
「・・・祥子・・・どうしたの?どうして泣いてるの?」
泣きじゃくる私の髪を優しく撫でるのはお姉さまの暖かな手の平。私は情け無いけど声を出して泣いた。
私の中でユミの存在は、私をこんなにも情けなくする程大きかったのだと今思い知った気がする。
「お姉さま、私、私っ」
「ゆっくりでいいわよ、祥子。ほら、ちゃんと顔を挙げて。
久しぶりなんだからちゃんとあなたの笑った顔が見たいわ」
そっと顔を挙げると、お姉さまは優しく微笑んでいる。
「あらあら、一体誰が私の可愛い妹を泣かせたのかしら?」
イタズラな笑みを浮かべてそんな事言うお姉さまの顔は、高校時代と何も変わらなかった。
やっぱり、私のお姉さまはこの人しか居ない。きっと、この関係はこれから一生続くのだろう。
よくよく考えてみれば、何て不思議な関係なのだろう、この姉妹制度というものは。
生まれた場所も違うし、育ち方も全く違う二人がある日姉妹の契りを交わす。
元々は全くの赤の他人なのに、どうしてまるで本当の、幼い頃からずっと居たような存在になるのか。
どんな事でも話せて、いつだって守ってくれて・・・不可解で、愛しい関係。
「あら?それは?」
その時だった。何かに気づいたようにお姉さまが私の手の中で光るロザリオを指して言った。
「・・・これは・・・」
ユミに返されたんです。あっけらかんと言えるほど私は強くないし、ユミの存在はそんなにも軽くない。
俯いた私を見て、お姉さまは苦い笑みを浮かべただけで、それ以上は何も聞いてはこなかった。
「お姉さま、私、どうして妹なんて作ってしまったんでしょうか?
お姉さまはどうして私を妹に?」
ずっと、ずっと聞きたかった。どうしてお姉さまは私なんかを妹にしたんだろう?
こんなにもワガママな私なんかを。
案の定お姉さまは少し困ったように笑うと、さっきまでユミが座っていた場所に腰掛け手招きすると話し出した。
「そうね、一言で言えば、祥子がとても窮屈そうだったから・・・かしら」
「窮屈そう?私が、ですか?」
「ええ、だから私は自由を祥子に与えたかったのかもしれないわ。おこがましいけどね。
籠の中の鳥を、大空に逃がしたかったのよ。そこでもっと世界を見て欲しかった。
色んなモノを見て、色んな事をして、もっともっと輝いて欲しかったのよ。
本当のあなたの輝きをね、私が、見てみたかったの」
お姉さまはそこまで言ってにっこりと笑った。でも、ほんの少しだけ恥ずかしそう。
私はお姉さまのそんな言葉を聞いてまた涙が零れてる事に気づくのにさほどの時間は要らなかった。
そんな私にお姉さまが言った。
「祥子はどうして祐巳ちゃんを妹にしたの?」
「私・・・ですか?私は・・・」
そう言えば、私はどうしてユミを妹に選んだのだろう?ただの偶然?それとも断られたのが悔しかったから?
それとも・・・もっと他の理由が・・・?
「どうしたの?」
「私・・・私は・・・」
そっと目を閉じると今まで過ごしてきたユミとの思い出がまるで波のように私に押し寄せてくる。
辛いこと、悲しい事、沢山あったけど、その数は圧倒的に愉しかった事の方が多い。
洪水みたいに溢れかえる思い出のどれも忘れてなどいない。忘れるなんて、出来る訳がない。
そうだ・・・思い出した。私がユミを妹に選んだのは・・・。
「私、ユミに幸せになって欲しいと・・・そう、思ったんです。
初めて会ったあの日、あまりにも私とは違うユミに、
私には叶えられそうにない幸せを掴んで欲しいと・・・そう、思ったから・・・だから・・・」
膝の上の丸められた拳に知らず知らずの内に力が入る。
爪は白くなって、自分が今どれだけの力を指に込めているのかが分かった。
そんな私の手にそっとお姉さまの手が重なって、まるでさっきのユミと同じ行動に思わず肩の力が抜けてゆく。
「それで?それで今、祥子はその目標を果たせそう?」
「それは・・・いいえ。果たせそうに・・・ありません」
「どうして?ロザリオを返されてしまったから?」
私は手の中で温まったロザリオをじっと見下ろすと、コクリと頷いた。
「なるほど。祥子と祐巳ちゃんの姉妹の絆はこんなたかがネックレスぐらいの重さしか無かった訳ね?」
そう言ってお姉さまは私の手からロザリオを取ると、それをクルクルと回し始める。
「そ、そんな事ありませんっ!私達の絆はもっと重くて、深くて・・・」
「ならいいじゃない。何を迷ってるの?祐巳ちゃんの幸せを見守るのがあなたの目標なんでしょ?
なら、あなたのすべきことは、もう分かってるはずよ?
それに・・・祐巳ちゃんは本当にコレを返したいと・・・思っていたのかしらね?」
遊んでいたロザリオをお姉さまはわたしの首にそっとかけた。鎖の冷たい感覚が首筋をそっと撫でる。
「お姉さまは、目標を果たせましたか?私を妹にしたことで、お姉さまの目標は・・・」
「そうねー。あなたが祐巳ちゃんを妹にした時に私の目標は果たせたんでしょうね、きっと。
だから私には、今そうやって苦しんでる祥子もとても輝いて見えるわ。
ねえ、祥子、私には祥子と祐巳ちゃんの間で何があったのかは分からないわ。
でもね、覚えておいて。私の妹は、祥子しか居ないの。
何があっても、どこに居ても、私はいつだって祥子の味方なんだから。
だからね、祐巳ちゃんの味方は・・・あなたがしてあげなきゃ、そうでしょう?」
「・・・お姉・・・さま・・・」
そうだ。私の妹は・・・ユミしか居ないんだ・・・。
どうしてこんな簡単な事さえ分からなくなってしまっていたんだろう?
あぁ・・・私は何て事を・・・。これじゃあユミにロザリオをつき返されても仕方なかった。
いつ・・・返されても、仕方無かった・・・。私は姉という立場を勘違いしていたのかもしれない。
妹は、姉のモノなんかでは無い。そこまで考えた時、ようやく笑うことが出来た。
そんな私の顔を見て、お姉さまは優しく微笑む。
「何か、解決したのかしら?」
「・・・いいえ、これから・・・なんだと、思います。そう・・・これから・・・」
まだ終わってない。私はユミを守ると決めたんだもの。あんな風に突き放したままで・・・終われない。
あの子にこれからどんな事があっても、私にはお姉さまが居るように、
ユミには私が居るのだという事を・・・伝えなければ。
眉を上げて唇を結ぶ。情け無い私は、もう終わり。
全ての気持ちの整理がついた訳ではないけれど、少しづつそれをユミに教えてもらおう。
そうすれば私はもっと、いいえ、私達の絆はもっと強くなる。
「・・・祥子は頑張ってるのね、ちゃんと。私も・・・頑張らなくちゃね」
「?」
「私ね、この間振られちゃったのよ、聖に。でも、親友という立場までは・・・振られなかったの。
それが辛くない訳じゃないけど、でも、しょうがないわね、こればっかりは。
だから早く聖の事、親友として見れるようにならなきゃ・・・ね?」
お姉さまは笑っていた。切なそうに、哀しそうに。でも、痛みは無い。
お姉さまがセイの事をどれほど想っていたのかを知っていた私は、
そんなお姉さまにかける言葉が見つからなくて・・・だから、ただそっとお姉さまを抱きしめた。
そんな私を、お姉さまは優しく抱きしめ返してくれる。
ポツリと呟いたお姉さまの、ありがとう、と言う声が、心に直接届いたような気がしていた・・・。
私は、やっぱり勘違いをしていた。お姉さまと私の関係は、姉妹の形として理想だと思う。
そして、私も誰かをこんな風に守りたいと・・・そう、思っていたんだ、ずっと。
「私の目標は・・・お姉さまです。
私は、お姉さまのように・・・いいえ。お姉さまと私のように・・・祐巳となりたい・・・。
祐巳がたとえ誰を愛していても、私はそれを止めるべきでは・・・無かったんですね。
お姉さまが以前私に言ったように・・・」
私の言葉に、お姉さまは小さく笑った。そして、私の頭を優しく撫でてくれる。
私は、ユミを愛している。でも、それはユミに触れたい、だとか、キスをしたいとか、そういう愛では無い。
ユミが辛い時や、悲しい時にこうやって傍に立って一緒に答えを探せるような存在に・・・なりたいんだ。
たまには叱って、たまには慰めて、姉というのはそういう存在なのだ。
何かが、私の中で弾けた。きっと、すぐには変われないだろう。まだセイを見ると胸は痛むだろう。
でも・・・ユミを見ても、もう心は痛まない。私はきっと、今度こそユミをこんな風に抱きしめてやれる。
「お姉さま・・・ありがとう・・・ございました・・・」
お姉さまを抱きしめたまま、私は言った。
「いいえ、どういたしまして。あまり祐巳ちゃんに心配かけちゃダメよ?」
「?どうして・・・」
どうしてそんな事言うんだろう。だって、私とユミはもう姉妹ではないと言うのに。
ついさっきロザリオを返されたばかりなのに。
私はもしかすると、ユミのように百面相をしていたのかもしれない。お姉さまは苦く笑って言った。
「それはね、祥子の事を教えてくれたのは、他の誰でもない祐巳ちゃんだからよ。
突然電話してきて、お姉さまをお願いします、って。
私の大事なお姉さまを守れるのは、蓉子さましか居ないんです、って・・・そう、言ってたわよ?」
「・・・祐巳・・・」
私は泣きながら笑った。ここを出てゆく時、ユミは私をサチコサマと呼んだ。
でも・・・そう・・・ユミの中では、私はまだ・・・。
「本当に・・・バカな子なんだから・・・」
「あら、その割には嬉しそうじゃない。ちょっと妬けるわ」
不意に呟いたお姉さまの言葉に、私はハッとした。もしかして・・・・お姉さまも・・・?
「妬け・・・ますか?」
「そりゃね、だって、ずっと私だけの可愛い妹だと思ってたのにある日妹作って、
それまでは私にべったりだった祥子が、今は祐巳ちゃん、祐巳ちゃん。
妬かない訳がないでしょう?」
クスリと笑うお姉さまの顔はどこか意地悪。でも、私は・・・何だか凄く安心していた。
なんだ・・・私だけじゃ・・・無いんだ・・・。私、一体何に今まで悩んでいたんだろう?
本当に・・・本当に簡単な事だったのに。
私は優しくさっき棘が刺さった薔薇の枝に触れた。けれど、今度は棘に刺される事はなかった。
優しく触れれば、棘は刺さらない。そんな・・・簡単な事を、どうして私は忘れてしまっていたんだろう。
「さて、それじゃあそろそろ帰りましょうか」
「はい、お姉さま」
私は久しぶりにお姉さまと手を繋いで帰った。
こうやってお姉さまの隣を歩くのなんて、一体どれぐらいぶりだろう。
暖かくて、この心地よい場所を、どうして今の今まで忘れていたのだろう・・・。
ふと振り返ると、薔薇の館にはまだ灯りが点いていた。でも不思議とそんな事は気にならない。
きっと誰かが消し忘れたんだろう。今はただ、この手の温もりがあればそれでいい。
そして明日か明後日か、それは分からないけれど、次はこの手をユミと繋ごう。
きっと、きっと・・・そうしよう。そして色んな話をしながら・・・一緒に帰るのだ。
まるで、本物の姉妹みたいに。
口を開いた。そこから言葉が刃になった。
耳を澄ませた。そこから音が痛みになった。
目を開いた。そこから涙が川に流れた。
手を繋いだ。そこから想いが・・・伝わった。