だんだん霧が濃くなってゆく。
霧の中で探すのは、もう一人の私。
私は私に追い越され、もう随分と彷徨った。
私に追い越された私は、未だに私を追いかけて、
後どれぐらい、彷徨うのだろう。
薔薇の館はいつもと同じ顔をしてそこにあった。私が居なくても、何も変わらない。
ほんの少し寂しくなったと、そう思うだけだろう。
私は薔薇の館を見上げ、大きなため息を落とした。
ずっと仕事をサボっていたのは、お姉さまと顔を合わせる勇気がなかったからで、
決して仕事が嫌だった訳ではない。
だから私は、今日もいつも通り皆の仕事が終わった頃を見計らってここにやってきたのだ。
そして、ほんの少しの掃除と明日の仕事の準備をしておく。
こんな事していると、ふと思い出すのは一年前の事。
あの時セイに言われた言葉。
『祐巳ちゃんの自己満足に水を差すのも野暮だ』
あの時、私にはセイの言った言葉を本当に理解する事が出来たんだろうか?
いいや、多分出来なかったんだろう。
でなければ、今ここでまたこんな事を繰り返してなどいない。
私はこの一年ですっかり大人になったつもりでいた。
でも、そうじゃない。本当は何も・・・変わってなど居なかった。
それどころか心は以前よりもずっと臆病に、弱く、脆くなっている。
「聖さま・・・どうして・・・」
セイが倒れたと聞いて、心が破れそうになった。
セイが何をそんなに思いつめて胃炎になどなったのかは分からなかったけど、
ただ一つ言えるのは、セイもまた、今の私のように何かに縛られ続けていたのだろうと言う事。
私が・・・セイに縛られているように・・・。
ただの友情だと思っていたのに。ただ気が合うだけの存在だと思っていたのに。
どうして?いつから?私には・・・大好きなお姉さまが居るのに・・・。
「こんなの・・・今更だよ・・・」
薔薇の館の大きなテーブルの上にポツリポツリと大粒の涙が落ちる。
私はそれを無視して、テーブルを拭き続けた。だから私は気づかなかった。
薔薇の館に誰かが入ってきた事も、誰かがドアを開け、私の後ろに立っていた事も。
「祐巳・・・さん?」
その声にハッとした私は、驚きのあまり小さな叫び声を上げ振り返った。
すると、そこには何故か泣きそうな顔をしたシマコの姿。
「あ・・・あはは、びっくりしちゃった!」
どうにか笑おうと思うのに、目からは望んでも無い涙が溢れてくる。
それを見たシマコが慌てて私の肩を抱いてくれた。
「祐巳さん・・・どうか、どうか、泣かないで・・・」
「志摩子さん・・・私・・・私っ」
気がつけば私は声を出して泣いていた。
まるで小さな子供みたいに大きな声でしゃくりあげて泣いていたのだ。
シマコはまるで母親のように私の背中をさすってくれている。
ただ、じっと私が泣き止むのを、話し出すのを・・・待っていた。
何から話せばいいのか、どこから伝えればいいのか。
それすらも分からなくなってしまうほど、私はセイが好きで、
溢れる涙は全てセイの為にだけ流されていたのに、肝心の言葉が少しも見当たらない。
お姉さまと、セイ。天秤にかけられるようなモノじゃない。それは分かってる。
でも、じゃあそれをどうやって二人に伝えればいい?
どれだけ考えても皆が納得するような答えが導けないというのに。
いつまでも押し黙ったままの私に業を煮やしたのか、シマコがそっと身体を離しポツリと言った。
「祐巳さん。祐巳さんは何も悪くないのよ?誰も・・・悪くはないの。
だからどうか、そんな風に自分を責めるのは止めて。
お姉さまや紅薔薇様の事で、祐巳さんが傷つく必要は・・・ないのよ」
「志摩子さん・・・でも、でも・・・私、私がいつまでも迷ってるから・・・」
そう、全ては私のこの曖昧な態度が原因なのだ。
大好きなお姉さまの手を離さずに、セイの手を取ろうとする愚かな私の心が。
お姉さまは私の事をいつだって思ってくれている。それは痛いほどよく知っている。
でも、私が欲しいのはセイの笑顔、心、優しさだった。
誰よりも近くに居たはずのお姉さまですら気付かない私の心の隙間を、
いつだってそっと埋めてくれていたのは・・・他の誰でもないセイだった。
包むようなお姉さまの愛情とは違う。遠くから見守るような愛情。
私が愛したセイの愛は、そんな形をしていた。
決して近づき過ぎず、いつも私の背中をそっと押してくれていた。
「祐巳さん、祐巳さんはもう心では分かってるはずよ?紅薔薇様とお姉さまへの想いの違いが。
それなのにどうして迷うの?どちらかを選ばなきゃならないだなんて、誰が言ったの?」
「それは・・・だって・・・」
そうだ。私は決めたじゃないか。あの日、あの写真を見た時に、眠っているセイに口付けた時に。
私はシマコの顔を真っ直ぐ捉えると、無言で頷いた。それを見たシマコもやはり無言で頷く。
「私、行くね」
「ええ、私はこれ以上は何も出来ないけど、きっとマリア様が守ってくださるわ」
「うん!ありがとう!」
控えめなシマコの優しさはセイの優しさと同じ。そんな事に今更気づいた私は、思わず微笑んだ。
薔薇の館を出て途中何度も振り返ったけど、シマコは一度も窓から顔を出さなかった。
そう、こんな所もセイととてもよく似ている。
私は銀杏並木を一目散に走り抜けていた。少しでも早く、お姉さまに会わなければならなかった。
もしかするともう帰ってしまっているかもしれない。
でも、お姉さまは時間がある日は必ず図書館に寄ってから帰る。
だから・・・もしかするとまだ・・・。
プリーツは乱れるし、タイは翻る。でも、そんな事もうどうでも良かった。
この想いを伝えるには、今日しかない。心がようやく一つに決まった、今日、この日でなければならない。
図書館には、誰も居なかった。委員会の人と、お姉さま以外は。
お姉さまは窓際の席で夕日を浴びながら難しそうな本に視線を落としたまま、私には気付かないでいる。
私はそっと息を吸い込み、お姉さまの向かいに腰を下ろしてもう一度、小さな深呼吸をした。
光を吸い込むお姉さまの髪が灰色に光り、頬に睫毛の影が落ちている。
その奥の瞳は鋭さと暖かさを含んで時折小さく揺れた。
しばらく私はそんなお姉さまに見惚れていたけれど、やがて意を決してお姉さまに声を掛けた。
「お姉・・・さま」
私の声にハッとしたように勢いよく顔を挙げたお姉さま。
でも、その瞳に輝きは無い。どこか哀しげに光っただけだ。
「祐・・・巳・・・」
どうして・・・、そう呟いた唇から声は聞こえてこなかった。ただ寂しげな瞳だけが私を刺す。
お姉さまの顔をこんなにも近くで見たのは、いつぶりだろう。
多分、頬をぶたれて以来見ていなかったような気がする。
たった数日のはずなのに、何故かもう何ヶ月も会っていなかったような気がする。
何だか、泣きたくなった。涙が今にも零れそうだった。けれど、お姉さまは何も言わなかった。
本を閉じる事さえ忘れたように、私の瞳をじっと覗き込んでいる。
「お姉さま・・・お久しぶりです」
私の言葉にお姉さまはほんの少し私から視線を逸らし、頷く。
その視線の先にあるのは、大学の校舎。
多分、お姉さまはセイの事が気にかかっているのだろう。その理由は・・・分からないけど。
「聖さまは・・・元気?」
お姉さまの質問に、私は思わず首を傾げた。
どうして私にセイの事を聞くんだろう?私がセイを好きだから?
でも、私はセイとは何の繋がりもない。ただ、勝手に私がセイを慕っているだけなのだ。
「どうしてです?」
「何となく、聞いてみただけよ」
「聖さまは・・・入院されてますよ・・・今」
私は膝の上で作った拳にギュっと力を込めた。目を閉じると清潔そうなあの部屋が浮かんでくる。
堅く閉ざされた瞳、白い肌、風に揺れる髪・・・そして、それらの全てはセイの生気を感じさせなかった。
いつ退院出来るのかは分からないけれど、少なくともあの日、
私にはセイがもう二度と目を覚まさないような気さえした。
それほど・・・怖かった。私の震える瞳を見て、お姉さまはゴクリと息を飲む。
「嘘・・・でしょう?」
「いいえ・・・嘘では・・・ありません。胃炎だそう・・・ですよ」
「胃炎・・・?まさか・・・あの事で・・・?」
「あの事?」
お姉さまの言葉に私は思わず聞き返した。
でも、お姉さまは窓の外を睨んでいるだけで、それ以上は何も話してくれようとはしない。
ここでようやくお姉さまが本を閉じた。
場所を変えましょうか、そう言ってお姉さまは本を元の場所に戻しに行く。
私は久しぶりにお姉さまの隣を歩いた。
セイの事があってから、ずっと私はお姉さまの半歩後ろばかりを歩いていたから、
そんな些細な事なのに、何かが変わったような気さえする。
「ようやく隣を歩いてくれるのね」
お姉さまは寂しそうとも嬉しそうともつかない口調で言った。
それを聞いて、私は何も言えず俯いてしまう。
「温室に・・・行きましょうか」
「・・・はい」
温室。最後の思い出はお姉さまに頬を叩かれた事。それはあまりにも哀しくて、辛い思い出。
でも、私は泣かないと決めた。もうこれ以上、誰も、誰にも自分を偽らない。
あの日、皆の前で私が宣言した言葉のどこにも嘘はなくて、でもあれは私の伝えたい言葉ではなくて。
どうしてあんな事をしてしまったのか、どうして私は自分の気持ちに目隠しをしていたのか、
そんな事を今更後悔してももう遅い。
時間は戻らないし、戻ったとしても、きっとまた私は同じ事を繰り返すのだろう。
それならば、どうすれば少しでも幸せな未来に繋がるのかを考えなければならない事は明白で、
そうする為にはきちんとお姉さまに、そしてセイに話さなければならない。
私の気持ちを。これからの事を。
私はもう十分ワガママを言ってきた。散々皆を振り回した。でも、これで最後。これで・・・終わる。
温室は冬なのに暖かかった。
以前はあんなにも冷たく思えたのに、心一つでこんなにも変わるのかと感心した。
お姉さまは最初、私たちが二人きりで初めて温室に入った日に座ったあの場所に腰を下ろした。
あの日は二人ともドレスを着ていたけど、今は制服を着てる。
でも、お姉さまはもうじきこの制服に袖を通さなくなってしまう。
寂しいと思うと同時に、何故か安心感もある。
この気持ちが何なのかは分からないけど、確かに私は今、安心してるんだ。
今もこうしてお姉さまの隣に居る事に。
私はお姉さまの隣に腰を下ろすと、ポツリと言った。
「懐かしいですね、この場所」
「ええ・・・そうね」
この場所はセイとの思い出も沢山ある。
お姉さまと喧嘩した後、ここに逃げ込んで来た私を追いかけてセイは来てくれた。
苦手だというこの場所に。
それがどれほど嬉しかったか、きっとセイにもお姉さまにも想像出来ないだろう。
私は無条件に愛されていた。セイにも、お姉さまにも。
セイはどんな気持ちで私を追いかけてきてくれたのかは・・・分からないけど、お姉さまの愛情はよく分かる。
私は大きく息を吸い込んだ。もう、迷わない。
もう、嘆かない。だから、最後まで聞いてください、お姉さま。
大丈夫だと言って。心を伝えても平気だと言って。
いつまでたっても決まらない心を、嘆いたりしないで。
迷い続ける想いを、どうか憎まないで。
心を、想いを、止めたり・・・しないで。