「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

途方に暮れるみたいな時期って、生きてれば結構ある。物語全ての結末が必ずハッピーエンドと決まってはいないみたいに。

今の私はまさにそう。でも、悲劇のヒロインを演じれるほど、生憎私は儚くはない訳で・・・。

喧嘩を沢山してだんだん強くなれるというのなら、私は喜んでしよう。

でも、もしそうじゃなかったら?もしもこのまま壊れてしまったら?

・・まぁ、そんな事考えててもしょうがないんだけど。だから私は、やっぱり今日も途方に暮れる。



第四十話『ヘッドハンティング』


突然の申し出だった。一体何が起こったのか、私にはサッパリ分からなかった。

「どうして…どうしてそんな事言うんですか…」

私の質問に、聖さまは何も答えなかった。

ただ押し黙ったまま、まるで私なんて見えてないみたいに宙を見つめてポツリと一言漏らす。

「・・・ごめん・・・」

謝るのなら最初からそんな事言わないで。

どうして私に何の相談もしないで勝手に物事を決めちゃうの?それを聞いた私が、どんな想いをするかなんて、

聖さまはきっと何も考なかったんだ。私はソファの上に置いてあったクッションを思い切り聖さまに投げつけた。

それを避けた聖さまの髪が、フワリと揺れる。

私達は珍しく大喧嘩をした。とは言っても、怒ってるのは私だけなんだけど…しかも一方的に。

でもそんな私に対して聖さまは何も言わなかった。

弁解もしなければ、理由も言わない。そんなじゃ分からないよ!

「もういいですっ!!」

私はそう怒鳴って自室へと駆け込んだ。いや、もしかすると、これは逃げ込んだのかもしれない。

これ以上聖さまの顔を、見ている事が出来なかった。

そもそもどうして私達がこんな大喧嘩なんてしてるのか、まずはそれを説明しなきゃいけない。

あれは確か私が魚を煮付けていた時、突然背後から聖さまに抱きしめられた所から始まった。

いつもこんな風にご飯を作ってる時に私を抱きしめる聖さまは、大抵いやらしい事をしてくる。

耳を噛んだり、後ろから胸を触ってきたり。でも、今日はいつまで経っても一向に触る気配がない。

これは一大事だと思った私は、思い切って聖さまに聞いてみることにした。

「どうかしたんですか?」

と。

すると聖さまは、私をクルリと腕の中で回して今度は正面から私を抱きしめると、

少しだけ視線を伏せて申し訳なさそうな顔をして言った。

「祐巳ちゃん、私花寺に行くかも」

「はあ?な、何です、突然…」

ていうか、何の冗談?今日は…エイプリルフールじゃないよね?カレンダーを見てもやっぱり違う。

今はすでに12月だ。

そんな私の行動に小さく笑った聖さまは、それだけ言ってそっと私から離れて自室へと入ってしまった。

何が何だか分からない私にとって、追いかけるべきかどうか凄く悩んだんだけど、

魚の煮付けが吹き零れそうになったからそっとしておく事にした。

で、晩御飯の時詳しい話を聞いた私は、激怒した。

だって、あんまりにも突然で…あまりにも…ショックだったんだ。聖さまの話はこうだった。

何でも、今日聖さま宛に手紙が来たんだって。それも学校に。

で、その封筒ってのが花寺学院のもので聖さまは凄く不振に思ったんだけど、一応は中を開けてみたんだそうな。

そしたら、そこに書かれてあったんだって。『ウチの学校に来ないかい?』って。

ほんと、何てバカバカしい文章だって思うでしょ?

でも、そういう事を本気でやるのが、花寺の理事長さんらしくて…。

「で、それ…真に受けたんですか?」

鰤の煮付けを箸で切り分ける私の手元をじっと見ていた聖さまは、小さく笑う。

「ほんと、お箸の使い方下手くそなんだから。かしてみ?」

「え…?あ、ありがとうございます…」

「いいえ、どういたしまして」

丁寧に、あっという間に鰤が骨と離れてゆくのを、私はしばらく感心しながら見てたんだけど…違う違うっ!!

鰤なんて分けてもらってる場合じゃない!!

私は怒ったように聖さまを睨むと、もう一度大きな声で言った。

「で、それ真に受けたんですか?」

それって、いわゆるヘッドハンティングってやつじゃないの?私はそんな質問を飲み込んだ。

だって、ハッキリ聞くのが…怖かった。

「まぁね。あ、でもちゃんと確認はとったよ?」

なんてシレっと言う聖さまに、私の怒りはピークに達したのは言うまでも無い。

「確認って…それ、引き受ける気なんですか!?」

「うん。だって悪い話じゃないし、お給料もいいし。どうして?ダメだった?」

まるで何も気にするような事じゃない、みたいに聖さまは言う。でも、でも!

私にとっては大問題だ。だって、聖さまがリリアンを辞めちゃったら…私、どうすればいいの?

こんなの私のワガママだって分かってるんだけど、どうしても耐えられない。

聖さまの居ないリリアンなんて、福神漬けのないカレーと同じぐらい味気ないに決まってる。

なのに、聖さまは…聖さまは…そんな肝心な事、勝手に決めちゃうんだ…。

そう思うと、酷く裏切られたみたいな気分になって…。私は箸をカタンと置いて、食卓を離れた。

「祐巳ちゃん?食べないの?」

それどころじゃない。ご飯なんて食べてる場合じゃないもの。

心配そうに私の後を追いかけてきてくれる聖さまの優しさも、今は腹が立つだけで。だから私は言った。

「聖さまは…私の事どう思ってるんです?どうして勝手に決めるんです!?」

「別に祐巳ちゃんに断らなきゃならないような話でもないでしょ?

どうせいつかは行かなきゃならなかったんだから。

それならリリアンから少しでも近いところの方がいいと思ったんだよ」

強い口調でそんな事を言う聖さま。もうね、もう怒った。本気の本気で怒ったんだから!!

「ああ、そうですよね。聖さまは大人だから一人でそういう事決めちゃうんですよね!」

この言葉に、今度は聖さまが怒った。ギロリって私を睨んで言う。

「はあ?何言ってんの?私は別にそういうつもりで一人で決めたんじゃないよ!

祐巳ちゃんに言ったってどうにもならないから、相談しなかったの!」

「・・・・・・・・」

そんな風に言われたら、私はどうすればいい?大切な話だと思うのに。

それでも何も相談されなかった私は、どうやって聖さまをこれから信用すればいいの?

私はソファにペタンって座り込んだ。

「どうして…どうしてそんな事言うんですか…聖さまは福神漬けなのに・・・」

…で、最初に戻るという訳。もう…何が何だか分からないよ…。


第四十一話『たまには最後まで話を聞いて欲しいと思うのは、そんなにも罪なのかな?』


はっきり言って、私にはどうして祐巳ちゃんがこんなにも怒ってるのかが分からなかった。

しかも、最後に吐き捨ててった福神漬けって・・・何?つうか、いっつもそう。

いっつも最後まで人の話を聞こうとしないんだから!

前にも言ったけど、蓉子といい祐巳ちゃんといい、本当に最後まで話しを聞かない!

私は祐巳ちゃんの部屋のドアを二回ノックして返事を待った。でも、祐巳ちゃんからの返事は無い。

「もう・・・今日はそこで寝るの?」

もちろん、しばらく返事を待ってみても、中からは何も聞こえない。

「あっそ。勝手にすれば?」

ドアにそんな言葉を投げつけて、私もまた、自室へと帰った。冷たいかもしれない。

でもさ、私だってたまには腹立つよ、そりゃ。確かに何の相談もなしに決めた私も悪かったかもしれないけど、

何もあんなに怒らなくてもいいじゃない。どうして?何がいけないのよ?私はいつだってこうやって決めてきたんだもの。

「それを今更・・・ねぇ?」

誰に言うでもなく呟いた言葉は、壁に当たって落ちた。

翌日、朝一番に蓉子から電話がかかってきて、私は飛び起きた。いつもの癖でつい隣を確認するように視線を走らせた私は、

昨夜の事を思い出して大きなため息を落とした。冷えたシーツに、一人用の枕に毛布。たったこれだけ。

たったそれだけのことなのに、どうしてこんなにも苦しい想いをしなきゃならないのか。

ていうか、私・・・祐巳ちゃんが来るまではずっと一人だったのに。

誰かと夜を共にしても、帰ってきてから一人を寂しいだなんて思った事なかったのに。

おっかしーなー・・・弱くなったのかな?私。

私はそんな事を考えながら、さっきからずっと、しつこくしつこくなり続けている電話に出る。

『もっと早く出なさいよっっ!!!私はあんたと違って暇じゃないんだからねっっ!!!!!』

プツン!つー、つー、つー。

「あ・・・やば・・・」

電話に出た途端に蓉子の金切り声が聞こえてきて、思わず私は電話を切ってしまった。だって、怖かったんだもん!!

恐る恐る携帯を眺めていると、今度はインターホンがけたたましく鳴り響く。それも連続で何回も何回も・・・。

蓉子だ・・・絶対、蓉子だよ・・・やだなぁ・・・出たくないなぁ・・・。

そんな事を考えながら部屋を出ると、ちょうどそこで祐巳ちゃんとばったりと出くわした。

どうやら祐巳ちゃんも今のピンポン攻撃にビックリして飛び起きたらしい。

「おはよ」

「・・・・・・・・・・どーも・・・・・・・・・・・」

私の顔をチラリと見てそれだけ言っただけで祐巳ちゃんはフイって顔を背けて玄関の方に消えてしまった。

目、据わってるし。つうか、何?あの態度!!すんげームカツク!!!!!

私はそんな訳で玄関は祐巳ちゃんに任せて朝一番のコーヒーを淹れたところで、蓉子がズカズカとやってきた。

「あんたねぇぇ!!!!どうして切るのよっっ!?」

こっちは祐巳ちゃんと違ってストレートに怒りを顔に出してるからまだいい。でも、蓉子の後ろに立つ祐巳ちゃんは・・・。

やっぱり目つきが恐ろしく悪い。こんなんなら昨日みたいに起こってくれた方がいっそスッキりするのに。

私はコーヒーを片手に蓉子の分もつぐと、ソファに腰掛けるよう促した。

「あれだけ朝っぱらから怒鳴られりゃ誰でも切るよ。はい、これ。ミルクだけで良かったよね?」

「あら、ありがと。って、あんたそんな理由で切ったの?」

「まぁね。祐巳ちゃんは・・・ミルクティー?」

私が立ち上がろうとすると、祐巳ちゃんは小さく首を振り私と同じブラックコーヒーでいいと言う。

「・・・本気?」

「本気です。何です?何か文句あるんですか?」

「いや・・・文句はないけど・・・」

私たちのやりとりを見て不思議そうに首を捻った蓉子が、私の後についてきてポツリと私にだけ聞こえるような声で言った。

「何よ、あんた達喧嘩でもしてるの?」

「あー・・・まぁね。昨日ちょっと」

私の言葉に、何故か蓉子は満面の笑みだ。つか、何故笑う・・・蓉子・・・。

た〜いへんね〜、なんて言いながら嬉々としてソファに戻る蓉子が、死ぬほど憎らしい。

それにしても・・・祐巳ちゃんがブラックねぇ・・・飲めるのかね。

そんな事を考えながら私は淹れたてのコーヒーを祐巳ちゃんの前に置くと、席についた。

「さて、本題なんだけど、どうして私がここに来たか知ってるわよね?」

「まぁ、何となくは。ちょっと待ってて」

多分、蓉子が今日ここにやってきた理由はアレだ。花寺へ行くのに必要な書類。

A4サイズの透明なクリアファイルを持ってくると、それを蓉子に手渡した。

すると、蓉子の隣に座っていた祐巳ちゃんの顔色が変わる。

「蓉子さま・・・それ・・・」

「ん?ああ、これ?聞いてるでしょ?新学期から聖が行く花寺学院の書類なのよ。

コレが無いと聖は受け入れてもらえないって訳」

ほら、ここに細かく書いてあるでしょ?そう言って祐巳ちゃんに書類を見せる蓉子。

つうか、祐巳ちゃんの顔がどんどん引きつっていくのが蓉子には分からないのか!と。それとも・・・もしかしてわざと!?

もう見せなくていいってば!!それ以上見せたら間違いなく祐巳ちゃんが・・・。

私がそこまで考えていた時、突然祐巳ちゃんは目の前のコーヒーを一気に飲み干した。そして・・・。

両目から零れる大きな涙の粒・・・あーあ、やっぱり・・・だから嫌だったんだよ。

でも、祐巳ちゃんは私を見て、立ち上がり大きな声で叫んだ。

「べ、別にコレ見て泣いた訳じゃないですからっ!!コ、コーヒーが熱くて苦かっただけなんだからっ!!!」

「・・・・・そ、そーよね?このコーヒー、熱いし、ちょっと苦いわよね?

そ、そりゃ聖が悪いわよ!ほら、聖、祐巳ちゃんに何か甘いものを!!」

「・・・・・・・・・・・・・・」

必死になって取り繕う蓉子が新鮮だった。なるほど、蓉子はどうやら本当に祐巳ちゃんがお気に入りらしい。

そして、もう一つ分かった事。それは、祐巳ちゃんがこの為にコーヒーを注文したって事。

きっと、蓉子が来た時点でなんとなく分かってたんじゃないのかな。だからわざとコーヒーを・・・。

私は立ち上がるとそっと祐巳ちゃんに近寄った。でも、祐巳ちゃんはビクンと身体を強張らせる。

「あのね、こうなること最初から分かってたんでしょ?

ていうか、昨日の話蒸し返して悪いけど、どうして私あんなにも怒られなきゃならないわけ?」

すると、祐巳ちゃんはチラリと私を見上げ小さな声でポツリと言った。

「だって・・・聖さまってば何でも一人で決めちゃう・・・」

「ちょっと、聖!あんたまさか祐巳ちゃんに何も言ってなかったの?」

「だって、別に大した事じゃないじゃない。教師の研修なんてそう珍しい事でもなし」

「はあ?い、今何て・・・言いました?」

突然声色が変わる祐巳ちゃん。へ?わ、私今何か言ったっけ?今言った言葉・・・今言った言葉・・・えっと・・・。

「別に大した事ないじゃない?」

でも、どうやらそれではないらしい。祐巳ちゃんは大げさに首を振って見せた。

「それの後!」

「それの後?えーっと・・・珍しくもない?」

「違いますよっ!!どうして一番肝心な所だけ上手い具合に飛ばすんですか!!

もしかしてわざと!?わざとやってるんですかっ!!??」

勝手にどんどんヒートアップする祐巳ちゃんは、私の胸ぐらを掴んで前後に激しく揺さぶる。

ちょ、ちょっと待ってよ!そんな揺すられても思い出せないよっ!!

ぐらぐらしてる私を見て、哀れに思ったのか蓉子が助け舟を出してくれた。

「・・・もしかして研修の事なんじゃないの?」

「ああ!もしかしてそれ?」

大きく頷いた祐巳ちゃんの髪からフローラルの甘い香りがする。で・も。まだ離してくれないんだ・・・。

「そうですよっ!!な、何ですか研修って!!ヘッドハンティングじゃないんですかっ?!」

「はあ?何言ってんの?」

ヘッドハンティングって・・・あの噂の優秀な人材を引き抜くってアレの事?

「そ、それはこっちの台詞ですよ!!私・・・私てっきり・・・リリアンを辞めちゃうのかと・・・」

そこまで言ってようやく祐巳ちゃんは私から手を離してくれた。ガックリとうな垂れてまたもや大粒の涙が床に零れる。

私は、そんな祐巳ちゃんを見て呆れて物も言えなかった。

だってさ、そうでしょう?どこの学校が私なんかヘッドハンティングなんかするっていうのよ?

・・いや、決して自慢にはならないんだけどさ。多分、それは蓉子も同じことを考えていたに違いない。

また泣き出してしまった祐巳ちゃんを座らせてさっきからずっと、そんな訳ないじゃない、とか、ありえないわよ、とか言ってる。

それはそれで凄く私に失礼だと思うんだけどね!まぁ、図星だから何も言えない。

ソファに腰を下ろした私は、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干すと言った。

「あのねぇ、ちょっと考えれば分かるでしょう?私なんかをわざわざ好き好んで歓迎する学校は無いってば。

それに、男子校なんて誰が行くもんですか。何も楽しいことないじゃない」

そう言った私に、祐巳ちゃんはようやく顔を挙げ微かに微笑んだ。

「そう・・・ですよね。聖さまが男子校に行く訳・・・ないですもんね・・・私ってば・・・本当に情けない・・・。

顔しか取り柄のない聖さまがヘッドハンティングなんて・・・ありえませんもんね・・・」

「・・・それね、言い過ぎだから」

全く!私の事を一体なんだと思ってるのかな、この子は!!しっつれいなんだから、本当に!!

ちょっとぐらい否定してくれたっていいのにさ。フンだ。

拗ねてそっぽを向いた私を見て、祐巳ちゃんは今度はちゃんと笑った。・・・良かった、どうやら誤解はちゃんと解けたみたい。

「嘘ですよ、聖さま。聖さまの良い所・・・私いっぱい知ってますから」

スンって鼻をすすりながら恥ずかしそうに笑う祐巳ちゃんは、やっぱり可愛かった。

「さて、話が丸く収まった所で、いいのかしら?本当に」

「構わないよ。それで最後でしょ?」

私は実は、かれこれ三回ほど他の学校に研修ってやつに行った事があるんだけど・・・それがもうめんどくさくて!

その度にやっぱリリアンはいいなぁ〜とか思ってた。割と授業は私の好きにさせてくれるし、服装だって文句言われない。

それに女の子ばっかりだ!でも、今回あっさりそれを引き受けたのは・・・やっぱり祐巳ちゃんが原因だった。

嫌な事はさっさと済ませてしまった方がいいと、そう思ったんだ。

そしたらこれからは、ずっと祐巳ちゃんと一緒に居られると、そう・・・思った。

別にだから、祐巳ちゃんを悲しませようとして一人で決めた訳じゃないんだ。

もし祐巳ちゃんに言う事で、私の決心が揺らいでしまうのが怖かっただけなんだ。

「ところで聖さま?それは一体どれぐらいあるんですか?」

「ん?大体二週間ぐらいかな・・・あ、でもちゃんと送り迎えはするから!先に帰ったりしちゃ嫌だからね?」

私の言葉に、蓉子は白い目をしてる。でも祐巳ちゃんは・・・凄く嬉しそう。つうか、あったりまえじゃん!

実は前から花寺は狙ってたんだよね。だってリリアンから一番近いし、何より同じぐらいに始まって終わるから。

そしたらちゃんと今までどおり祐巳ちゃんと登校する事も帰る事も出来る。でも、そんな私の心とは裏腹に祐巳ちゃんは言う。

「なんだ、二週間か・・・それならすぐですね!」

「・・・そっちか」

ポツリとひとりごちた私を見て笑う祐巳ちゃん・・・一体何がおかしのよ?

「聖さまはだって、どんなに遠い学校でも、私が嫌だって言っても私を送るって言うでしょう?」

「ええ、間違いないわね、それ正解。一歩間違えればストーカー並の事でもやってのけるのが聖よ。残念ながら」

コックリコックリ頷きながら溜息を落とす蓉子。あのねぇ!あんたもしかして私に何か恨みでもある訳?

わざと怖い顔して睨んだ私を見て、蓉子はホホホと笑って冷たいコーヒーを飲み干すとそそくさと我が家から退散してゆく。

ちゃんとクリアファイルを持って。で、取り残された私たちはといえば。

「はぁ、全くもう。ちゃんと最後まで話は聞きなよね」

「・・・すみません・・・でも、聖さまだって悪いんですからね!わざわざあんな言い方しなくても良かったのに!」

「そりゃだって、本当は行くの嫌なんだもん」

「どうしてです?」

私は祐巳ちゃんの質問に答えずに席を立った。ミルクティーを、祐巳ちゃんに淹れるつもりだった。

すると、まるで祐巳ちゃんも同じこと考えてたみたいに私の隣でコーヒーを淹れ始めた。

その動作があまりにも自然で、どこもぎこちないとこなんてなくて、思わず笑ってしまう。

「な、何がおかしいんですか?」

「別に。さっきの答えはー・・・そうね、福神漬けの意味を聞いてから教えようかな。実は昨日からずっと気になってたんだよね」

そう言って私たちはお互いに淹れ終えたミルクティーとコーヒーを交換すると、またソファに腰掛ける。

ああ、やっぱりミルクティーだなぁ、なんて目を細める祐巳ちゃんの横顔で、

さっきどれほど我慢してブラックを飲み干したのかが窺えた。

あのね、本当はね、どこにも行きたくないんだよ。だって、ほんの少しの時間でも・・・祐巳ちゃんと離れたくないんだもの。

この気持ち・・・祐巳ちゃんに分かるかなぁ?


第四十二話『夢と引き換えに』


仲直りのしるしにって事で、聖さまは私に言った。

「ねぇ、どっか行こうよ」

「どっかって・・・どこです?」

「どこでも。祐巳ちゃんの行きたいとこでいいからさ。たまにはドライブしよ?」

時計をチラリと見るとまだお昼過ぎ・・・。

突然そんな事言われたもんだから、私はもう嬉しくてしょうがなくて色々考えた挙句海に行く事になった。

「海〜?このくそ寒いのに?」

「どこでもいいって言ったじゃないですか」

「そりゃ言ったけどさー・・・海ね・・・海か・・・まさか泳ぐなんて言わないよね?」

「ばっ!い、言うわけないでしょう?」

一体私はどこまでバカにされてるんだろう?って、ちょっとだけ思う。

でも、こんな会話ですら愛しく感じるんだからほんと、どうしようもない。

そんな訳で私たちは海を見にドライブする事になった。で、どうして私が海を選んだかと言うと、それは凄く簡単な理由。

ただ、ロマンチックだからって、そんだけの理由だったんだけど・・・。

聖さまの好きな洋楽と私の好きな邦楽を代わりばんこにかけながら私たちはただひたすら海を目指す。

途中コンビニでおにぎりとお茶を買って、休憩する間もなく運転する聖さま。

実はね、私運転する聖さまの横顔を見るのが凄く好きなんだ。歌を口ずさみながら真剣な顔して運転する横顔が。

「ねー、お腹減った。おにぎりちょうだい」

そう言ってあーんって口を開ける聖さま・・・こ、これはおにぎりを口に入れろって事なんだろうな・・・きっと。

私はいそいそとおにぎりを剥くと(ビニールからはがしてって事ね)、それを聖さまの口元に持ってゆく。

「ありがと」

それだけ言ってバク!っておにぎりを頬張る横顔もやっぱり真顔で・・・なんだかそれがおかしかった。

聖さまの口の中に全てのおにぎりを入れ終えると、今度は私の番。ちなみに私のおにぎりはおかか。やっぱこれでしょ!

「えー?おにぎりは梅でしょう。定番じゃん」

「おかかですよ!当たり外れないですし」

そう!おかかのいい所はどこで買っても同じ味ってとこだと思うの!でも、聖さまはそうじゃないって言う。

「それね、間違いだよ。おかかは確かに味はどこでも同じ味だけど、逆に考えたらそんなのつまらないじゃない。

その点梅は種類が豊富じゃん。絶対梅のがお得だね!」

「えー・・・そうですかー?で、でもほら!おかかは鰹節で身体にもいいし!」

つうか・・・私、何張り合ってんだろ・・・会った時からそう。何故か聖さまにはいつも張り合おうとしてしまう。

別に悪い意味じゃなくて、ライバルとかそういうのじゃないんだけど・・・・どうしてなのかな・・・。

私のおかか最高説に聖さまはフンって鼻で笑う。

「そんなの梅だって身体にいいじゃん」

「う・・・そりゃそうですけど・・・何よ、おかかは美味しいもん!」

「ハイハイ。それは認めます。おかかは美味しい。でも、一番は梅!」

「いいえ!おかかですっ!!」

ほらね、こうやってまた張り合っちゃう。でも、こうやって食ってかかる私に少しも嫌そうな顔しない聖さまが、私は凄く好き。

それどころか最後までちゃんと付き合ってくれる・・・いや、これはただ聖さまが負けず嫌いなのかもだけど。

「もう!祐巳ちゃんは頑固なんだから。いいよ、また一つ祐巳ちゃんの事が分かったしね」

そう言って聖さまは笑った。私はそれを聞いて、何かに納得した。ああ、そうか。

私は聖さまに知ってほしいんだ。もっと、私の事を。隅から隅まで、私の事を余すことなく知ってほしい。

そして、同じぐらいって訳にはいかなくても、私も聖さまの事を知りたい。

だからこんな風に私は聖さまの前では自分を曲げないんだ。

きっと今日のこの会話のおかげで、聖さまは私の好物を一つ覚えただろう。

そして、私も。聖さまの中のおにぎりのベストは、梅が一番って。こんな風に少しづつ知ってゆくんだ。お互いの事を。

それからしばらく他愛もない話をしながら快調に車は進んで行った。窓の外の景色を車がドンドン追い抜いてゆく。

私は流れる風景を見つめながら前方を見ていると、目の前に自転車が現れた。

結構な坂なのに男の子が必死に自転車をこいでいる。そして、荷台には女の子。彼女だろうか。

女の子は時折男の子に笑いかけながら楽しそうにお喋りしているんだけど、どうやら男の子はそれどころではないらしい。

それでもたまに何か話しているようだったけど。私はその光景が何だか目に焼きついて離れなかった。

やがて聖さまはゆっくりとその自転車を追い抜いてしまったんだけど、バックミラーに映る男の子はやっぱり必死の形相。

後ろから女の子がハンカチで汗を拭いてあげてるのが見えて、胸がキュンってした。

だからかもしれない。私は知らず知らずのうちにポツリと言ってしまったのだ。

「なんか・・・いいなぁ・・・」

って。

「何?突然」

私の独り言に聖さまは小さく笑って言う。だから私は正直に言った。

「いえね、何だか今の自転車のカップルがいいなぁ、と思いまして。私もあんな風にデートしてみたいなぁ」

なんていうのかな。ラブラブって感じで凄く良かった。可愛いなぁ、って素直に思う。でも、聖さまは・・・。

「そ〜う?私は嫌よ。絶対」

キッパリとそう言い切る聖さま・・・な、何もそんなにも強く否定しなくても・・・ちょっとした私のロマンなのに。

キッって睨む私を見て、聖さまは小さく笑う。

「そりゃ、祐巳ちゃんがこいでくれるなら私はどこへでもお供するけどね。どうせこぐの私でしょ?」

「う・・・」

確かに。私が乗りたいのはどっちかっていうと後ろの方だもんね。出来れば聖さまにはこいでほしい。自転車を必死に。

でもさ!それにしたって酷くない!?ちょっとぐらいいいじゃない!!夢見るぐらいさ!!

そんな私の心なんてまるで無視して聖さまは続ける。

「ほらねー。あれはねぇ、祐巳ちゃん、若いから出来るの。この歳になってやってみな?確実に次の日起きられないから。

ああいうのをね、世間では若気の至りっていうのよ。それに、ウチには自転車ないでしょ」

・・・もういいよっっ!!!もう知らない!!聖さまなんて知らないんだから!!

そっぽを向いた私を見て、聖さまが笑った。ど、どうして笑うのよ!?

「祐巳ちゃんは乙女チックだねー。それに凄くロマンチック。まぁ、面白いからいいけど」

「ひ、酷い・・・私の夢をブチ壊すだけじゃ飽き足らずさらに面白がるなんて・・・」

グスンって鼻をすするふりをした私を見て、聖さまさらに笑う。

「夢って!そんな大げさな」

「夢だったんです!!ちっさい頃からの!!そういういわゆるデート!みたいのが!!」

自分でも恥ずかしいけど、そういうのって私ずっと夢だったんだ。胸がキュンってするみたいな恋愛をずっとしたかった。

いや、そりゃ今でも十分キュンってするけどさ!でも、そうじゃないの。そうじゃなくて!

俯いてしまった私に、聖さまの声のトーンが少しだけ落ちた。ちょっとぐらいは申し訳なかったとか思ってくれてるのかな?

「そうかー・・・じゃあ今度どっかで自転車に乗せてあげる。それでいい?」

「は、はいっ!!」

やった!勝った!!いや、勝ち負けじゃないんだけど、今回は何かに勝った!!で・も。

喜ぶのは早かった。その後、元気になった私を見て聖さまはこう付け加えたんだ。

「その代わり、祐巳ちゃんも私を乗せてね?」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

一度返事をして喜んでしまった手前、嫌だとは言えなかった。

嬉しそうに笑う聖さまが、いや、どっちかっていうと嫌がらせに成功した時の猫みたいな顔した聖さまが・・・凄く憎らしい。

勝ったと思った勝負は、どうやらまだ終わってなかったよう。そして、相手の罠にまんまと引っかかった私は・・・。

「やっぱり・・・言うんじゃなかった・・・」

そんな私の言葉を聞いて聖さまはケラケラと笑う。嫌味っぽく唇の端を上げてまるで子供みたい。

「どうしてー?いいじゃない。二人で自転車デート!祐巳ちゃんの夢だったんでしょう?小さい頃からの。

それを私が叶えてあげるじゃない。でも他の誰かの後ろになんか乗っちゃダメだからね。これから一生」

「へ?」

「だから、祐巳ちゃんの夢は叶えてあげるけど、それは全部私がやるって言ってるの」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

恥ずかしげもなく、聖さまはこんな事を言う。それだけで私は嬉しくて、またニヤけてしまうんだ・・・。

これから一生をかけて聖さまは私の夢を一つづつ叶えてくれる気でいるんだ。

そう思うだけで・・・さっきの自転車のカップルを見たときよりもずっと胸がキュンってした。

「じゃあ、聖さまの夢は私が叶えますからね!覚悟しててください!」

嬉しさのあまり私はついついそんな事を口走ってしまった。そして、後から酷く・・・後悔する。

私の言葉を聞いて聖さまがニヤリって笑った。引っかかったな、みたいなそんな顔。

「何よ、覚悟って。覚悟するのは祐巳ちゃんでしょ?私の夢叶えてくれるんなら。私の夢はそりゃもう、凄いんだから」

そう言って意地悪に笑う聖さまの顔を見て、私はある種の覚悟を決めた。そして一言ポツリと呟く。

「やっぱり・・・言わなきゃ良かった・・・」

聖さまの事だもん。絶対ロクな事考えてない。これだけは断言できる自信がある。

どうやら私は、私の小さくて些細な夢と引き換えに大きな代償を支払わなくてはならなくなってしまったみたい。

でもまぁ、いいや。聖さまと一緒なら、きっとそう思える。・・・と、思う。


第四十三話『年末大忙し』


年末はどこの家だって忙しい。世の中はそう、決まってる。それは我が家も例外ではない。

私は今年お世話になった沢山の服たちとの決別を決めた。

「それ・・・全部捨てちゃうんですか?まだ着れるのにもったいない・・・」

祐巳ちゃんは大きな袋に詰まった大量の服を見下ろし大袈裟ではなく、本当に指をくわえている。

「だって、もう着ないし・・・なんなら祐巳ちゃんあげようか?好きなの持ってっていいよ」

私がそう言った途端に祐巳ちゃんの顔がパッて明るくなった。そうか、そんなに嬉しいか。

そりゃ私だって誰かが着てくれるのならその方がいいに決まってるし、もし私に服をリメイクする才能があったなら喜んでする。

でも、生憎そういう才能は私には無いし・・・言うまでもなく祐巳ちゃんにもない。

ふと、祐巳ちゃんが顔を挙げ私が持っていたジャケットに視線を落とすと言った。

「それがいいです、聖さま」

「だ、だめっ!これは今から仕舞うの!その袋の中のだけだよ!!」

「えー・・・それ今から袋に入れるやつじゃないんですかー?」

「ばかっ!違うわよ!!ほら、もう袋ごと持ってっていいから、続きは他所でやって」

袋と祐巳ちゃんを部屋から追い出すと、私は大きなため息を落とす。全く、これは私のお気に入りだっつうの。

決して広くないクローゼットに丁寧に皺を伸ばしたジャケットを仕舞いこみながらポツリと言った。

「ほんとにもう、しょうがないんだから」

クスリと漏れる笑い声。私は最近よく笑う。昔は怒ってばかりだったのに。祐巳ちゃんにはそういう効果がある。

人を幸せにするとかそういうのではない。そんなんじゃないんだ。

癒し系とか最近ではよく言われるけど、祐巳ちゃんを見ててあまり癒されるとは思えないし、むしろドキドキしっぱなし。

じゃあ何系?って言われたら・・・う〜ん・・・やっぱり分からない。とりあえず私は最近本当によく笑うようになった。

ところで、どうして私たちが今こんな事してるかっていうと、それは今の時期に大きな関係がある。

そう、今は年末。年末と言えば大掃除。

で、今日はすでに28日・・・これは流石にマズイって事で私たちは大慌てで家の掃除を始めたって訳。

服の袋が無くなったおかげで、もともと片付いていた私の部屋は随分さっぱりとした。

だから私は部屋を出て祐巳ちゃんの部屋を見て・・・閉口した。

「何、この有様・・・」

「あっ!聖さまちょうど良かった!はい、コレあの棚の上に置いていただけます?」

ポンと手渡されたのは小さなぬいぐるみの数々・・・ていうか、どこの雑貨屋よ、ココ・・・。

祐巳ちゃんの部屋は片付けるどころかむしろさっきよりもずっと散らかってるように見える。

多分、そうさせてるのはこの・・・ぬいぐるみたちだろう。私は手渡されたぬいぐるみを背伸びして棚の上に放り上げた。

「ちょっと!聖さまそのアンジェラは一番右端でないと!!で、トムがその隣で・・・」

「ちょ、待って待って、どれがアンジェラでどれがトムよ?ていうか、そもそもどうして外人名なの?」

困惑する私に祐巳ちゃんは一つ一つ丁寧に教えてくれた。アンジェラやセザンヌ、トムやバーディ・・・他にも色々。

「分かった・・・もういい、ありがとう・・・とりあえず形と色で教えてくれたらいいよ」

はっきり言って、覚えきれない。ていうか、たかがぬいぐるみなのに・・・とか言ったら怒るんだろうなぁ・・・。

丁寧に置いて!!って言う祐巳ちゃんの指示通り私は一つ一つに声を掛けながら置いた。

もちろん嫌味だ。それなのに、祐巳ちゃんってば喜んでる。はぁぁ・・・少女趣味っていうか、何ていうか。

まっ、それが彼女のいいところでもあるんだけどさ。

全てのぬいぐるみを棚の上に設置し終えて祐巳ちゃんの部屋の掃除は完了だった。

でも、私にはどう見ても片付いたようには思えない訳で・・・。

「ねぇ、祐巳ちゃん・・・これで片付いたの?それともこれから何かの儀式が始まるの?」

天井に張り巡らされたアジアンテイストなうっすい布とか、

壁に添えつけられた何だか分からないオブジェとかはまるで御伽噺に出て来る魔女の部屋そのものだ。

私の言葉に祐巳ちゃんは少し怒ったような口調で言う。

「し、失礼なっ!!これが私の趣味なんですっ!!もう、放っておいてくださいよ!!!」

そう言って祐巳ちゃんは私の背中を押す。案の定私は部屋を追い出されてしまった。

それにしても趣味ねぇ・・・私とは全く反対なんだな。まぁ、当たり前だけど、こんな時はやっぱり人間って色々なんだなと思う。

どんなに傍に居ても私たちはちっとも似ない。

いや、仕草とか口調とかそういうのとは別に、何か根本的な所は二人とも変わらない。

「ま、そんなもんか」

だから楽しいんだろうな、きっと。二人で居るのが。

そろそろ日も傾いてきた頃、ようやく祐巳ちゃんがリビングに姿を現した。

「おー、やっと終わった?」

「ええ、あれからやっぱりジュリアを下に降ろしまして、その代わりにフープを上に上げたんです。

その方がミリーが喜ぶかなって」

「そ、そう・・・とりあえずお疲れ様。紅茶でも飲む?」

「はい!すっごく喉かわいてたんですよ!」

「じゃ、淹れてくる。ちょっと待ってて」

私は祐巳ちゃんに紅茶を要れるために席を立った。ていうか、祐巳ちゃんの趣味が分からない。

何だか今、すんごい距離を感じたんだけど・・・まぁ、これも個性だ。そういう風にサックリとまとめておこう。

小さな溜息は熱々の紅茶に溶けた。私は淹れたての紅茶を祐巳ちゃんの前に置いた。

その紅茶を手にとった祐巳ちゃんは笑顔でお礼をしてくれた。熱い紅茶を飲んでいる祐巳ちゃんに私は言う。

「ところでさ、正月はどうするの?やっぱ実家帰る?」

「そうですねー・・・1日は聖さまと一緒に居たいですけど、

でも三が日のどっかは多分顔出さなきゃなぁとは思ってます。って、どうしてです?」

フム。そうだよね、やっぱ初詣とか初日の出は一緒に見たいもんね。

私は部屋から手帳を取ってくると買い置きしてあった来年のカレンダーをじっと見つめる。

「・・・聖さま?」

「あ、ああ、ごめん。それじゃあ二日か三日に帰る訳だ?」

「ええ、そのつもりですけど。聖さまはどうするんです?流石にお正月は帰りますよね?」

「そうね。まぁ、ウチは親戚とかも大して来ないから正月でも普通の日でも大して変わらないけど・・・。

まぁ、帰った方がいいだろうね」

年間通して本当に家に帰らないからなぁ・・・私。流石に正月ぐらいは顔出さないとマズイか。

でもなぁ・・・実家、面白くないんだよなぁ。どうせ母さんと二人きりだし、特に話すこともないし。

せめて他に誰か居ればなぁ・・・。と、ふと私の中である案が浮かんだ。そうだ!祐巳ちゃん連れて帰ればいいんじゃん!

私はチラリと祐巳ちゃんを見た。目を細め紅茶をフーフーしてる。よしっ!決めた!!

「ねぇ、祐巳ちゃん。三日さぁ、ウチ来ない?」

突然の私の言葉に、祐巳ちゃんは飲んでいた紅茶を勢いよく飲み込んでしまったらしく、

目を白黒させながらゴホゴホと咳してる。あーあ・・・熱かったろうに。だてほら、涙目だもん。

ププって笑う私を無視して祐巳ちゃんが大きく頭を上げて真っ直ぐに私を見つめてくる。

「マ・・・マジですか?」

「マジですよ。どう?都合悪い?」

「いや・・・都合は別に悪くありませんけど・・・で、でもそんな突然お邪魔して迷惑なんじゃ・・・」

「迷惑なんてとんでもない。むしろ大歓迎だよ、私は」

私は、ってとこにアクセントを置いた私を見て祐巳ちゃんは怪訝そうな顔してる。

そりゃそうか。こうやっていっつも騙されるんだもんね、祐巳ちゃんは。でも、今回は騙しは一切無い。

ただ単純に母さんと二人きりになりたくないってだけで、だから祐巳ちゃんが来てくれるとかなり有難い。

「まぁ、嫌なら別にいいんだけどさ」

「と、とんでもないっ!むしろ嬉しいですよ!!で、でも・・・それじゃあ聖さま二日はどうするんです?

泊りがけで行くんですか?」

「まさか!誰が泊まってくるもんですか!顔合わせたら文句言われるのに。二日はここに居るよ」

だから祐巳ちゃん呼んだんじゃない。まぁ、母さんの気持ちも分からないでもないんだけど。

私だって自分にこんな娘が居たら・・・そりゃヒステリー起こすわな。自分で言うのもなんだけど。

それを聞いた祐巳ちゃんが少しだけ悲しそうな顔をした。いや、どっちかっていうとションボリって感じかな。

で、私に同情したのかどうかは分からないけど、こんな風に言ってくれた。

「じゃあ・・・二日はウチに来ますか?」

って。

これは予想してなかった私にとって、凄く有難い反面ちょっと緊張した。だって、実家だよ?付き合ってる人の実家だよ!?

そりゃ緊張しない訳がない。でも・・・祐巳ちゃんの家族はちょっと会ってみたい気もする。

だから私はそれを喜んで引き受けることにした。

こんな機会滅多にないと思うし、何よりも祐巳ちゃんの家族に会えるのだから!

一緒に暮らそうって言った時に電話で声しか聞いてない祐巳ちゃんのお母さんとか、

水が止まった時に迎えに来た弟君だおか凄く興味あるもん!お父さんに至ってはまるで未知の存在だし・・・。

こりゃ今から緊張するなぁ!今夜眠れるかな!・・・いや、多分ぐっすりだとは思うけどね。ちょっと言ってみただけ。

「あー、楽しみだなぁ!祐巳ちゃんの実家。どんなミラクルが起こるんだろう!」

「お、起こりませんよ!ミラクルなんてっ!!それよりも・・・聖さまの図太い神経を少し分けて欲しいです、私・・・。

ど、どうしよう・・・もし聖さまのお宅で粗相とかしたら・・・な、何をお土産に持っていけばいいんだろう・・・」

「あはは!別に何も持ってこなくていいよ。どうせおせち料理も無いだろうしー。祐巳ちゃんちはある?」

「え、ええ。多分・・・母が毎年はりきって作りますから」

「じゃあさ、じゃあさ、食べてもいい?ねぇ、ねぇ!」

おせち料理・・・それは私にとって正月の必須アイテム。

なのに、最近母さんは作らないんだもんなぁ・・・めんどくさいとか言って。全く!日本の心だっていうのに!!

嬉しそうな私の顔を見て、祐巳ちゃんは声を出して笑った。そして目尻の涙を拭いながら言う。

「もちろんですよ!沢山食べてってくださいね」

「うんっ!」

よしっ!これで今年のお正月・・・いや、来年か。まぁ、どっちでもいいや。

何にしても久しぶりにワクワクするお正月になりそうだ!やっぱり祐巳ちゃんと付き合ってて良かった。

他の人じゃきっと・・・こうはいかない。


第四十四話『大晦日』


近所の神社で初詣を済ますか、それとも電車に乗って少し遠い所へ初詣に行くかで私たちの意見は別れた。

私は、たまにはちょっと遠出とかしたいの。でも、聖さまは違うみたい。

「えー、嫌だよ〜遠いし人多いしさー」

聖さまはそう言った。そりゃ確かに人は多い。近所に比べればね。でもさー、私あのお祭りの雰囲気が凄く好きなんだよね。

ていうか、初詣よりも実はそっちのが楽しみだったりする・・・なんて言ったら聖さまは怒るかな?

「でも、ほら!屋台とかきっと沢山でてますよ?楽しいですよ〜?」

「はっ、そんなので私が喜ぶと思う?喜ぶのは祐巳ちゃんでしょ?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「・・・って、確か家出る前は言ってましたよね?」

「そうだっけー?」

聖さまは今しがた買ったばかりの熱々のイカの姿焼きの頭にかじりついている。

つうか・・・そうだった。この人はこういう人だった。

電車に乗るまでずっとブスっとした顔してたくせに、隣の駅から乗ってきた可愛い着物のお姉さんを見た途端に、

聖さまの顔が輝いた。つうか・・・ほんっとうにこの人・・・女好きなんだな、ってこんな時改めて思う。

結局聖さまと電車の中で話したことと言えば、着物の何がそんなに色っぽさを醸し出してるか、

なんてあまりにも色気のない話ばかりだった。

・・・こんな事なら大人しく近所で済ませれば良かった・・・そしたらこんな想いしなくて済んだのに・・・。

でも、今更言ってももう遅い。すでに境内に入るまでの長蛇の列をクリアしてしまった今となっては。

駅を4つ行った所に、この神社はあった。

大晦日ということもあって子供もカップルもかなり高齢の夫婦で境内はごった返している。

「それにしても冬だってのに温いなぁ」

「そりゃ、この人手ですから・・・ていうか、聖さま?私の分は無いんですか?」

聖さまの手にはイカの姿焼き・・・そして、イカはもうほとんど無い訳で・・・。

「あ、欲しかった?惜しいなぁ〜もうちょっと早く言ってくれれば良かったのにー」

そう言って明らかに作ったような残念そうな顔で私の顔を覗き込む。

どうして・・・どうして私の分は買ってきてくれないのよー!!せめて・・・せめて一言聞いて欲しかった。

買いに行く前に、祐巳ちゃんもいる?と。

そんな私の思いが通じたのか、最後の一口だけを私の口元に持ってきてくれる聖さま。

・・いや、私はこんなんじゃ騙されませんよ!フンってそっぽ向いた私をからかうみたいに笑う。

「あれ?いあらないの?じゃあ私が食べちゃお」

「あっ!ちょ、た、食べますっ!!」

「よろしい。最初からそうやって素直にしてればいいの」

「うぅ・・・」

何か凄く悔しいんですけど・・・本当に後一口分しかなかったけど、それは想像してたよりもずっと美味しくて。

「美味しい?」

「はひっ!」

「そりゃ良かった。そんな祐巳ちゃんにはこれをあげよう」

そう言って私にイカのささってた串を持たせ、袋の中をゴソゴソしている。

だから私は、中から何が出て来るんだろう?ってドキドキしてた。

「はい。どうせお腹減ってるだろうと思ったからね。君はコレ」

ポンって手渡されたのは・・・たこ焼き・・・ちなみに八個入り。

・・・聖さま!!あなたって人はっっ!!!やっぱりいい所あるんじゃないっ!!!!

私は持っていた串を聖さまに返すと、たこ焼きを受け取り、多分相当嬉しそうな顔してたと、思う。

「はいはい、分かったから。お姉さんとあっちでゆっくり食べようねー」

まるで子供みたいに扱われてるのが癪だったけど、でも私の手を聖さまがキュって握った途端、

そんな考えはどこか遠くへ飛んで行ってしまった。

それにたこ焼きを持ったまま聖さまに引っ張られる私は、どう見たって聖さまの妹だったしね。

八個も入ってたたこ焼きをペロリと完食してしまった私を見て、聖さまは苦笑いを浮かべる。

「もう一つ大きいのにしとけば良かったかもね」

「いえいえ、この後まだ食べたいもの沢山ありますから!」

「あ・・・っそ。それじゃあそろそろお参り行く?」

聖さまは腕時計をチラリと見て私の顔を見る。私が頷くのを確認すると、また元来た道を手を繋いだまま戻っていった。

現在時刻は午前0時ジャスト。そこらかしこからおめでとうの挨拶が聞こえてくる。

だから私たちもそれに習って新年の挨拶をする。

「聖さま、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします」

ペコリとお辞儀をしてお決まりの台詞とも言える私の挨拶に、聖さまは何故か笑う。

「はいはい、おめでと。今年もよろしく。それにしても、かたっくるしいねー」

・・かたっくるしいって・・・聖さまがフランクすぎるんじゃ・・・まぁ、いいけど。

何か丁寧な挨拶した私がバカみたいじゃない。と、その時、突然聖さまの携帯が鳴った。

「お、メールだ・・・蓉子と・・・江利子と、お姉さまに志摩子か・・・また一斉に送ってきたわねー」

それを聞いて、私は慌てて自分の携帯を開いたけど・・・け、圏外・・・な、なんですとーーー!!!

ど、どうして聖さまだけ繋がるのよ!?魔法?魔法か何か使ってるの!?

驚いて辺りを見渡す私の目には、ちらほらと電話してる人が見える。

そんな私に何かを察したのか、聖さまがニヤリと笑った。

「何?もしかして祐巳ちゃん、メール来ないの?」

「そ、そうなんですっ!!どうしてでしょう?」

「ふっ・・・ショボ・・・可哀想に、今時圏外だって」

私の携帯を覗き込んでそんな事言う聖さまがすんごい憎らしいんですけどっ!!つうか、どうして圏外?

何も知らない私に聖さまは一から説明してくれた。どうやら会社によって繋がったり繋がらなかったりするみたい。

はー・・・なるほど。色々あるのね、携帯も・・・。じっと手の中の携帯を眺める私の隣で聖さまは一生懸命メールしている。

「で、皆さんなんて?」

「んー?ちょっと待って・・・ね、と。よし、一括そうし〜ん!」

「一人一人に返してあげないんですか?」

「えー、めんどくさいからこれでいいよ」

あっそ。本当にこの人は・・・メールの送りがいというものがない。

きっともし私たちが付き合ったりしてなくて、ただの友達だったら、

間違いなく私も一括送信の中の一人だったに違いないのだと思うと、何だか無性に悲しくなった。

そんな私の心の声なんて知りもしない聖さまはメールを一つ一つ読み上げ始めた。いや、別にそこまでしなくていいよ!

そう言って止めようと思ったんだけど、でも、好奇心が勝ってしまった・・・。

「えっとね、まずは蓉子ね。蓉子はー・・・あー、まぁ、いつも通りね。相変わらずっていうか何ていうか・・・」

ここでちょっと聖さまに来たメールの一部をご紹介・・・どうぞ。

『聖―今どこ〜?良かったら今からウチ来て飲まないー?あ、無理か。祐巳ちゃんと一緒だもんねー。

とりあえずおめでと、今年もよろしく〜   江利子』

『また年が明けてしまったわ。これで何回目の正月になるのかしらね、あんたと知り合ってから。

思えば長く辛い日々だった・・・今は聖には祐巳ちゃんっていう可愛らしい(あんたにはもったいない!!)彼女も居るから、

今年は少しは肩の荷が下りるけど・・・中略(ここはほとんどお説教だった)・・・まぁ、とりあえず今年もよろしくしてあげるわ。

感謝しなさい、それとね!・・・省略(ここも殆どお説教だった)   蓉子』

『明けましておめでとうございます、お姉さま。本年もよろしくお願いします。

差し出がましいようですが、お姉さま?

祐巳さんをあまり困らせたりなさいませんよう、何事もほどほどに・・・ほどほどに、ですよ?   志摩子』

『あけおめー、ことよろー!どうせ今頃祐巳ちゃんとイチャついてるだろうから新年の挨拶は短めにしておくわね。

今年も良いお年を!じゃ〜ね〜、また新学期に会いましょ。祐巳ちゃんによろしく。   聖の愛するお姉さまより』

「・・・以上、終わり」

「何だか・・・皆さん個性がメールに思いっきり出てますね・・・」

「うん、怖いくらいにね。たとえ名前がなくても誰から来てるのかすぐに分かりそうよ」

そんな事言いながら苦笑いを浮かべる聖さまの横顔が、とても優しかった。ちょっとだけ、羨ましい・・・なんて・・・贅沢かな。

まぁ、私の携帯は相変わらず圏外な訳ですけども!私にも聖さまみたいなメールが来てたら・・・いいなぁ・・・。

「でも、お正月メールは多分今日一日中来るんでしょうね?」

「そうねー・・まぁ、私にはあんまり来ないと思うけど・・・っと、今度は誰よ?」

また一通メールが来たのだろう。聖さまは携帯を開き今度は小さな笑みを浮かべる。

・・って、ちょっと、その反応は初めてですよ!?たかがメールごときに私、何を焦ってるんだろ・・・自分が情けない。

で、でも・・・気になるっ!!!ま、まさか栞さん・・・とか?いや、でも栞さんとは完全に別れたとか言ってたし、

聖さま大学でもあんまり友達居なかったって言ってたし!!私の好奇心・・・じゃないな、これは嫉妬だ。

私の嫉妬は今や爆発寸前で、気がついた時には口が勝手に喋っていた。

「だ、誰だったんです?」

私のそんな心境を察したんだろうな、きっと。聖さまの唇の端が微かに上がった・・・ような気がする。

「聞きたい〜?祐巳ちゃんの知らない人だよ?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

こんな風に言われて、明らかにからかわれてるの分かってて誰が聞きたいもんですか!!

フンって私は意地を張った。本当は聞きたいのに!でもね・・・我慢って身体に毒なんだね・・・今、相当辛いもん。

でもさ!ここでしつこく聞いたら絶対心の狭い奴って思われるよね?!

「ねぇ、聞きたいの?聞きたくないの?」

「き、聞きたくなんて・・・ありませんよっ!!聖さまのばかっ!!!」

「あ、コラ!祐巳ちゃんっ!!」

気がつくと私は走り出していた。かなり闇雲に。

ハッと我に返った時、傍に聖さまは居なくて・・・ヤバイ、どうしよう・・・かんっぺきに迷子だ・・・。

こりゃ迷子の呼び出しとかしてもらわなきゃかも・・・いやいや、そんな事考えてる場合じゃないや。

聖さま・・・探さなきゃ・・・。


第四十五話『大晦日の迷子』


全く!どうしてこうも次から次へと問題を起こせるんだ、あの子はっ!!

特に特徴のない祐巳ちゃんを、この人ごみの中から探し出すのは大変だった。

せめてもうちょっと特徴があればいいのに・・・そうだな、例えば髪が全部逆立っててトロール人形みたいだとか、

すんげードレス着てるとか・・・いや、そんな格好なら間違いなく私一緒に歩かないけど。

「あのバカはほんとに・・・」

こんな時頭に浮かぶのは決まって良くない事ばっかりだって事を私はよく知ってる。

もしこのまま一生会えなくなったらどうしよう?だとか、祐巳ちゃん普通に可愛いから変な人にさらわれたりしてたらどうしよう?

とか・・・まぁ、そんな事ばかりが脳裏をよぎるわけ。

だから私は走った。とは言ってもこの人ごみだからあんまり早くは走れないんだけど。

「ああ、もう!!」

私の突然の怒鳴り声に周りに居た人たちが一体何事かと振り返る。

それが恥ずかしくて私は逃げるようにその場を立ち去った。はぁぁぁ、ほんとにもう・・・どこ行ったのよ。

どれぐらい歩き回ってただろう。ふと顔を挙げると、目に飛び込んできた迷子センターの看板。しめた!これだ!!

私は白いテントの中に入るとお酒が入って機嫌良さそうなおじさんに迷子の呼び出しのお願いをした。

そして、後は待つだけ。私の周りには、私と同じように仲間とはぐれた人や、迷子になって保護された子供が居る。

あぁ、まさかこんな所でこの歳にもなってお世話になる日が来ようとは・・・。

それにしても、まさかあれぐらいの事で祐巳ちゃんが逃げてしまうとは思わなかった。

だってさ、聞きたきゃ聞けばいいだけの話じゃん。どうして祐巳ちゃんにはそれが出来ないんだろう?

一人で悩んで結果を出して・・・全く、堂々巡りもいいとこだ。

毎回毎回振り回される私の身にもなんてよね!で、私はふと思った。

一人で悩んで結果を出すのは・・・・私も同じなのだ、ということに。

「そっか・・・だから怒ってたんだ・・・」

まぁ、対象になるものは違えども、結局やってる事は同じ。聞けないから逃げたんだ、私は。今の祐巳ちゃんと同じように。

そりゃ怒るわ。こんな想いさせられたら。私は、はぁ、と大きなため息を落とした。

「ごめんね、祐巳ちゃん」

でも、祐巳ちゃんは居ない。今謝っても、祐巳ちゃんはここには居ない。つうか、遅くない?大分前だよ?呼び出しかけたの!

私は立ち上がると、おじさんに紙を一枚貰ってそれに短い手紙を書いた。

「おじさん、悪いけど、この手紙、もし祐巳って子が来たら渡してくれる?」

「あいよ!どこ行くんだい?」

「やっぱり探してくる!」

それだけ言って私は白いテントを飛び出した。だって、待ってたって埒があかないじゃない。

よくよく考えれば祐巳ちゃん相当方向音痴だし・・・あそこまで辿り着けるかどうかも怪しい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私はまだ走っていた。祐巳ちゃんとはぐれてからそろそろ40分ぐらいだろうか?

「はぁ、はぁ、もっ、信じらっ・・・ない・・・はぁ、はぁ」

肩で息しながら必死で祐巳ちゃんを探すんだけど、やっぱりどこにも居ない。

だから、私は一番初めにたこ焼きを食べた所に戻ってみる事にした。

さっきおじさんに渡した手紙がもし祐巳ちゃんの手に渡ってたなら、祐巳ちゃんはあそこに居るはず。

もう、願うしかなかった。神様、どうか祐巳ちゃんがあのおじさんに手紙を受け取ってますように。

神様どうか、あのおじさんが酔っ払いすぎて手紙を失くしてませんように。

神様・・・どうか・・・どうか・・・祐巳しゃんが・・・無事で居ますように・・・笑って・・・いますように。

ほんの少し薄暗くなっているその場所は、他のところからは目につきにくい。

だからさっきも誰も居なかった。そして・・・・今も。

「・・・居ない・・・」

ジャリって石を踏む音。これは私のだ。深い溜息を落とした私は、その場にうずくまった。

もうどうすればいいか分からなかった。神様は、やっぱり居ないって思った。だって、こんな些細な願いすら叶えてくれない。

思わず泣きそうになった私の耳に、小さく聞こえる砂利の音・・・これは、私じゃない。

ハッって顔を挙げた私に驚いたのは、私よりも・・・彼女の方だった。

「せ、聖さま・・・来てたんなら声かけてくださいよ・・・ああ、怖かった・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

声が出ない。驚いたというよりは、安心とか怒りとか何か色んな感情が一気に駆け抜けていく感じ。

「聖・・・さま?具合・・・悪いんですか?」

「・・・言う事、それだけ?」

ポツリと言った私の声に、祐巳ちゃんはビクンって身体を震わせた。そして、私の前にしゃがみこんで突然大声で泣き出す。

ちょ、ちょっと!!泣きたいのはこっちよ!!!でも、流石に二人でうずくまったまま泣くのはどうかと思った私は、

どうにか涙を飲み込んだ。私にしがみついて泣きじゃくる祐巳ちゃんを見て、私の中の冷静な部分はこんな事を考えている。

『喧嘩ってのは、先に泣いた方が勝ちなんだな』

・・と。

「怖かったー・・・こわかっ・・・もう!もう!!もう!!!どこ行ってたんれすかぁ〜〜〜」

ぶっさいくな顔して泣く祐巳ちゃん。もう鼻声でおまけにろれつも回ってない。

「それはこっちの台詞よ。どこ行ってたのよ?」

「わかっ・・・ないぃぃ・・・」

「そりゃそうだろうね」

しがみついてまだ離れようとしない祐巳ちゃんをしっかりと抱きしめたまま、私たちは立ち上がった。こっちの方が抱きやすい。

しばらく泣いていた祐巳ちゃんがようやく泣き止んだ頃、さっきのおじさんがたまたま通りかかった。

「お!姉ちゃん、会えたんか!」

関西弁交じりの言葉が、妙に温かくて何だか今は凄く恥ずかしかった。

それはどうやら祐巳ちゃんも同じだったらしく、俯いている。

「お世話になりました。本当にありがとうございました」

「いやいや、お祭りの時はよくある事だ。今度ははぐれんようにな、お姉ちゃんしっかり妹さんの手繋いどいてやんな」

そう言っておじさんはその場を立ち去ってしまった。おじさんの言葉に、思わず私たちは顔を見合わせて笑てしまう。

「お姉ちゃんだって」

「私・・・一体いくつに見えたんでしょうか・・・」

「さあね。でも、あのおじさんの言う事は一理ある。ほら、お参り行くよ!」

私は、そう言って手を祐巳ちゃんに差し延べた。すると、祐巳ちゃんは恥ずかしそうに・・・でも、嬉しそうに私の手を取る。

神様に、感謝をしなきゃいけない。一筋縄ではいかないけれど、やっぱり神様は居るのかもしれないな、なんて思ったから。

「聖さま?何笑ってるんです?」

「別に。ただ、感謝の金額っていくらぐらいだろうなーと思って」

「・・・はあ?」

訳が分からないって感じの祐巳ちゃんの顔がおかしくて、また私は笑ってしまった。

今年のお賽銭は、ほんの少しだけ奮発してみようかな。


第四十六話『おみくじが結ぶ絆』


どっちがいいか?って聞かれたら、そりゃ大吉に決まってる。でも、実を言うと私、今まで大吉を引いた事がなかったりする。

「マジで!?それはある意味貴重だよね」

「そ、そうですか?だって、大吉ですよ?やっぱりなかなか出ないもんなんじゃ・・・」

「いやいや、出ないったって、大凶よりは多いでしょ。そもそも本当に大凶なんて存在してるの?」

私たちはお参りする為の列に並びながらそんな話をしていた。でもさ、確実に大吉よりは凶の方が数は多いと思うの。

大凶は流石の私も出した事ないけど・・・。

「そういう聖さまはおみくじは何が多いですか?」

「私?さあ・・・考えた事もなかったな、そういえば。うーん・・・吉とかそこらへんなんじゃない?」

「・・・吉・・・いいな・・・」

なんかいいな・・・私なんていっつも末吉とか中吉だよ・・・。でも、それを聖さまに言ったら何故か笑われてしまった。

「何言ってんの!吉より中吉のがいいんだよ?」

「そ、そうなんですか!?わ、私てっきり大吉・吉・中吉・小吉・末吉・凶・大凶だと思ってました!!」

だってさ、なんか吉って響きが大吉の次っぽい。

「違う違う!どうして吉が一番多いか知ってる?それはね、普通だからだよ。

おみくじの順位は、大吉・中吉・吉・小吉・末吉・凶・大凶。覚えておいても特にいいこと無いと思うけどね」

「・・・なるほど・・・そうなんだ・・・じゃあ私割りといいの出てたんじゃないですか!」

「まぁ、そういう事になるね」

それを聞いて私は何だか嬉しくって、私が今までにどれほど多くの中吉を出したかって武勇伝をしてると、

聖さまは呆れたようにめんどくさそうに私を見てポツリと言った。

「知らぬが仏だったかも」

だって。いいじゃない、これぐらいの自慢させてくれても。他に自慢出来るような事何もないんだから。

まぁとりあえずそんな話をしてるうちに私たちの順番が回ってきた。お賽銭を投げて、柏手を打つ。

そっと目をつぶり願うのは・・・聖さまとの未来の事。それと、聖さまの健康やこれから起こるだろう困難に立ち向かう勇気。

どんな事にも負けないような力が欲しい。って、こんな事お参りするのは初めてかもしれない。

どうしてこんな事を願ってしまったのか、それは私にも分からなかった。

途中チラリと片目を開けて聖さまを見ると、聖さまはいやに真剣にお参りしていて私は慌てて目を瞑った。

誰かとお参りに来ていて自分が先に願い事を済ませてしまった時のあのバツの悪さは一体何なんだろう・・・。

そんな事を考えながら目を閉じていると、誰かに肩を叩かれてそれが聖さまの手だとすぐに分かった自分に驚いた。

パッって目を開けた私を見て、小さく笑う聖さまの顔は、今目の前に居る観音様よりも優しく見える。

「そろそろいくよ」

「あ、はい!」

その優しそうな笑顔が嬉しくてはしゃいで聖さまの手を取ろうとすると、突然聖さまは私に向き直り言った。

「ところで何を真剣にお願い事してたの?」

「え?そ、そりゃ色々と・・・そう、沢山ですよ!」

「ふーん・・・お賽銭5円でしょ?」

何か言いたげな聖さまの顔は、もういつもの聖さまの顔で・・・さ、さっきの優しい顔は一体何だったんだろう??

「そ、そうですけど・・・何か文句あるんですか?」

「べっつにー。5円だとどれぐらい叶えてくれるんだろうね?電話だと一分もかけられないよ」

「む、昔からお賽銭は5円って決まってるんです!!それによく言うじゃないですか。ご縁(5円)がありますように!って」

私の言葉に聖さまの目はまん丸になった。そして、次の瞬間ちょっとだけ顔をしかめてみせると、いつもの調子で軽口を言う。

「おかしいな〜祐巳ちゃんにはもういいご縁なんていらない筈なんだけど。

それともたった5円で私よりもいい奴が現れると思ってるの?」

「い、いや・・・別にそういう訳じゃ・・・せ、聖さまこそ何をお願いしたんですか!!」

私ばっかりからかってズルイ!!聖さまだって随分真剣にお願い事してたくせに!!!

でも、そんな私の心とは裏腹に、聖さまは小さくウィンクして唇に人差し指を当てただけで、

何も教えてはくれなかった・・・ず、ずるい・・・。

「まぁ、あれだ。気は心って昔から言うもんね。

それに、私たちは生きてるんだし、生きてりゃ色々お金かかるから神様にそうそう払ってられないしね〜。

だから私も500円が限界かな。まだしたい事あるしー・・・」

いや、その理屈はどうかと思うんだけど・・・まぁ、聖さまらしいと言えば聖さまらしいか。

聖さまはそれだけ言ってそっと視線を走らせる。その先にはさっきよりも幾分空いているおみくじ売り場・・・まさか・・・。

「い、嫌ですよ?私絶対引きませんから!!」

「どうして?さっきあれだけ私に自慢してたじゃない。それに、もしかしたらまぐれで大吉とか出るかもよ?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

そ、そうかな・・・あんまりそんな風には思えないんだけど・・・。

でも、聖さまは私の手を引っ張って強引に沢山並んでいる巫女さんの中から一番可愛い巫女さんの前まで来て立ち止まった。

全く!こんな時でもちゃっかり選ぶんだから!!信じらんないっ、私がいるのに!!!!

振り返って私のぶすったれた顔を見て聖さまは目をパチクリさせる。

「何?何怒ってんの?」

「別に。聖さまからどうぞ?」

そう言って巫女さんの方に手を差し延べると、聖さまは不思議そうな顔しながら首を傾げ、

巫女さんにとびっきりの笑顔で・・・きぃぃぃっ!!!

私がすぐ隣にいるのにっっっ!!!!!何なの?これは聖さまの病気なの!?うん、そうだ。そうに違いない。

ここまでくればもう一種の病気なんだ。だから仕方ないんだ・・・って、んな訳あるかぁぁぁぁ!!!!

私はいつまでもおみくじを選んでいる聖さまの横から巫女さんにお金を手渡し、

無理やり聖さまの手からおみくじを一枚奪い取った。

「あ!コラ、それ今私が・・・」

「なにか?」

「い、いえ・・・どうぞ・・・じゃあ私はこっちで・・・」

多分私、今目据わってる。だって、私を見る聖さまの顔がおかしい。まるで浮気がバレた亭主のよう。

もしくはトイレに失敗した犬や猫のような申し訳なさそうな顔している。そんな顔するんなら初めからしなきゃいいのに。

私は選んだ・・・もとい、聖さまの手から奪い取った札を巫女さんに渡すと、

巫女さんは苦笑いしながらおみくじを一枚取ってきてくれた。それにならって聖さまも札を渡す。

そして、私たちはそそくさと、まるで逃げるみたいにその場を立ち去った。ていうか、聖さまのせいで私まで恥かいたんだけど。

境内の端っこまで来た時、ようやく立ち止まり、いっせーの、でおみくじを開いた。

「ああ、まぁ、こんなもんか。祐巳ちゃんは何だった?・・・祐巳ちゃん?」

「だ、だって・・・大凶とか凶だったらと思うと・・・こ、怖くて・・・」

「あのね、それ元々は私が引いたんだからそんなに悪いわけないでしょ?」

だって私、別に運悪く無いもん!なんて言う聖さまだけど・・・でも、でも、もしそういう運命だったのだとしたら・・・。

聖さまの手を経由して私の手に凶が・・・なんて事・・・ありうるっ!十分すぎるほどありうるよっっ!!

ああ、やっぱり引くんじゃなかった。おみくじなんて好きなじゃないのに・・・良くない結果だと案外凹むのよね・・・。

いつまでもいつまでも見ようとしない私に嫌気がさしたのか、

聖さまが私の手からおみくじをむしり取ってそれをしげしげと見た。

そしてちょっとホッとしたように笑うとそれを私に返してくれた。

「ほらね、だから私は吉が多いんだってば」

そう付け加えて。

それを聞いて私がおみくじを開くと、そこには大きく一文字で『吉』と書かれている。

あぁ・・・良かった。あともう一歩でまた今夜寝不足になるとこだったよ・・・。でも、問題は中身だよね。

「えっと・・・健康は・・・あ、大丈夫みたい。縁談悪し・・・まぁ、別にいいけど。で、気になる恋愛は・・・うっ・・・」

私はそこでおみくじをそっと縦長に丸めた。そしてそっと木に括りつけようとしたところでそれを聖さまに阻止されてしまって。

「何よ、うっ、って。なになに?恋愛・・・想い人と意見の相違に注意、ね・・・なるほど。

意見の相違なんて私たちしょっちゅうだよねぇ?」

なんて言ってカラカラ笑う聖さま・・・ちっともショックじゃないんだ・・・この人には。私には相当ショックなのに。

「まぁまぁ、そんな顔しなさんなって。私の方のはほら、ちゃんといい事書いてるよ?」

そう言って自分のおみくじを見せてくれる聖さま。そこには・・・なるほど、確かにいい事書いてある。

『恋愛・想い人との距離が近づき今まで以上にその大切さに気づく』

「ね?だから大丈夫。絶対私の方が運強いし当たるから。だって祐巳ちゃんってそういうの当たらなさそうだし。

気にしない気にしない。たかがおみくじだよ」

「たかが・・・おみくじ・・・」

たかが、と、されど、どっちが重いんだろう・・・そんな考えが頭を過ぎる。

確かに聖さまのおみくじは良かったかもしれないけどさ。

私のは・・・うぅ・・・やっぱり引くんじゃなかった。やっぱり括って帰ろ・・・。

「あ、やっぱり結ぶんだ?」

「ええ、一応・・・だって、やっぱり嫌ですもん。こんな結果」

「うんうん。信心深いのはいいことだよ。じゃあ私も括っとこ。仕事運があんまり良くなかったんだ」

そう言って聖さまは私のおみくじと自分のおみくじでこよりを作って、それを手の届く一番高い所に括りつけてくれた。

聖さまに、どうしてこよりなんです?っ聞いたら、だって、その方が強いじゃない、って言って木の根元を指差し笑う。

・・なるほど。下を見ると、今までに括りつけられていた沢山のおみくじ達が無残に落ちて散らばっていた。

「やっぱりこれじゃあ叶わないような気がするしね。ミサンガならともかく」

「・・・確かに・・・」

しかしミサンガって・・・古いよ、聖さま・・・。でも、やっぱり私は聖さまのこういう所が好きで・・・。

聖さまはいつか私に、自分は全然ロマンチックじゃない、って言ってたけど、本当はロマンチストだと思う。

ただ言わないだけで、それを表に表さないだけで・・・実は相当なロマンチスト。

「おみくじなんて、当たるも八卦。当たらぬも八卦だよ、祐巳ちゃん」

そう言って笑う聖さまは、さっきの観音様のところで見た優しい笑みと一緒だった。だから私は思った。

私はこの笑顔を守りたい、と。いつまでもいつまでも・・・聖さまのこの笑顔が、聖さまの隣で見ていたい・・・と。

だから私はすっかり心の隅に追いやってしまっていたんだ。この日のおみくじの事を・・・。



第四十七話『初日の出に祈る想い』


一年の一番初めの太陽が出るまでには、まだ後3時間もある。その間どうしよう?って話になった時に、聖さまは言った。

「一旦家に帰ろうよ。うろちょろしてまたはぐれても嫌だし」

確かにそうよね。年の初めから何回も何回も喧嘩してたんじゃあまりにも芸がないもんね。

「でも聖さま。それならもう少し何か買って帰りましょうよ。家に帰っても食べるもの何もありませんよ?」

「あー、そうよね。それじゃあ・・・何買って帰る?」

きたきた!!えっとねー、お好み焼きでしょ、たこ焼きでしょ、箸巻きに、チヂミ・・・あ!後肝心なの忘れてた!

甘いもの!!これはかかせない。屋台の甘いものと言えば・・・そうね、綿菓子にリンゴ飴・・・ぐらい?

私は頭の中でとりあえず目に映るもの全てに想いを馳せていた。それに聖さまが気づいたかどうかは分からない。

でも、何となく苦笑いしてるところを見て、感づいてはいるんだろうな、なんて思うのは自意識過剰かな?

「聖さまは何がいいですか?」

「いや、多分祐巳ちゃんが考えてるやつの中に余裕で入ってると思う」

そんな訳で聖さまを連れまわして次々と屋台巡りをした私たち。でも、、途中ふと聖さまが立ち止まる。

「・・・どうしました?」

「いや、懐かしいな、と思って」

「へ?」

聖さまが立ち止まったのは何てことはない普通の金魚すくいの屋台の前。

少しだけ伏せた視線に、どことなく悲しみみたいなものが浮かんでて、思わず私は呟いてしまった。

「やりたいんですか?」

私の言葉に聖さまは一瞬不思議そうな顔をする。でも、私にはその顔の意味は生憎分からなかった。

だって、次の瞬間には満面の笑みだったから・・・。

「いいの?」

「ええ、構いませんよ。でも、ちゃんと聖さまがお世話するんですよ?」

「もちろん!やった、凄い久しぶりだ」

そう言っておもむろに腕まくりする聖さまが、何だか凄く小さな子供に見えた。

私はポイ(金魚すくう紙ね)を貰って水槽の前にしゃがみこむ聖さまの隣にしゃがむと、

金魚をじっと見つめている凛とした横顔を見ていた。

「祐巳ちゃんもやってみる?」

「は?」

「昔さ、よくやらなかった?金魚すくい」

多分ね、私があまりにも聖さまを見つめていたから聖さまは、てっきり私もやりたいんだと勘違いしたんじゃないのかな。

私が返事するよりも先に聖さまはおじさんにもう一つポイを受けとってそれを私に握らせる。

「わ、私こういうの凄く下手くそなんですけど!!」

「うん、知ってる」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

じゃあ何故やらせるのか、と。まぁいいけど。

私は昔の感覚を思い出しながらポイをそっと水に入れて小さな金魚をすくおうとしたんだけど・・・。

「にゃっ?!」

「あーあ。本当に下手くそなんだ」

「うぅ・・・」

そうだった。私は酷く金魚すくいが苦手だった。昔から。弟はすごく上手くて・・・だから私はいつも悔しい思いしてた。

すでに半分以上破れてしまったポイを見つめながらそんな事を思い出していると、隣で聖さまが笑う。

「あはは、まだ大丈夫。ちょっと斜め向けてね、そっと水の中に入れてみ?」

「こ、こうですか?」

「そうそう、それでゆっくり金魚を端っこに追い込むの。そしたら金魚の方から紙の上に乗ってくるから」

「・・・・・・・・・・・・あ、乗った!・・・・ゆっくり・・・ゆっくり・・・やった!!聖さま!すくえました・・・よ・・・」

ふと隣のカップを見ると、すでに聖さまのカップは金魚で一杯で・・・。つか、うまっ!!なに?いつの間に??

「聖さま・・・上手いですね・・・金魚すくい・・・」

「昔はねー、金魚すくいの聖ちゃんってよく近所のガキんちょどもに言われてたものよ」

「・・・嘘でしょ?」

「うん。嘘」

あ、あっさり認めやがった。大体何よ、金魚すくいの聖ちゃんって。気がつけば周りには微かだけど人だかりが出来ている。

だよね、こんなにカップ一杯にしてたらそりゃつい見入っちゃうよね。

だって、私もついつい自分も金魚すくいやってることなんてすっかり忘れて聖さまのポイさばきに見惚れていたから。

細く白い指がポイにそって添えられ、水につきそうでつかないその人差し指に凄くドキドキした。

まるで魔法使いみたいに金魚がカップの中に吸い込まれて、まるで逃げればいいのに逃げられない私のようで。

金魚に視線を落とす聖さまの横顔は、まるで獲物を狙う猫みたいに集中して少しも動かない。

楽しそう・・・というよりは、どちらかと言えば命を懸けた真剣な勝負でもしているように見える。

そして初めて知った。金魚すくいって、こんなにも長い時間遊ぶことが出来るんだ、って。

だって聖さまはたった一つのポイで、もうかれこれ5分はずっとすくい続けている。

流石にカップが一杯になってきたから、私のカップを差し出すと、その時だけこちらを向いて笑ってくれたんだけど、

でもやっぱり私よりも今は金魚の方が大事そう。

「あー・・・もう無理かー。はい、おじちゃん、ありがと」

聖さまはそう言ってもう5分の1も紙の残っていないポイを屋台のおじさんに返すと、

今まですくった金魚たちを惜しみなく水槽に帰してしまう。あんなにも一杯だったカップを見て、私は少しだけ切なくなった。

なんていうのかな、寂しいていうのかな。よく分からないけど、水槽に放す聖さまの横顔が少しだけ曇ったような気がして、

ギュって胸が痛んだ。

おじさんは聖さまと私に袋を一枚ずつくれると、聖さまには沢山すくったから二匹、私には一匹の金魚をくれた。

「好きなの選んでいいよ」

そう言われて私は水槽と睨めっこしてたんだけど、生憎私には金魚の良し悪しは分からない。

「私が選んであげようか?」

もう自分の金魚を選び終えた聖さまは私の袋の中に、私が一番初めにすくうのを失敗した小さな小さな金魚をいれてくれた。

いや、多分、だけど。聖さまの袋の中には大きいのと中くらいのが入っていて、何だか親子みたいにも見える。

お祭りの帰りの電車の中で聖さまはずーっと小さな袋の中で泳ぐ金魚を見つめていた。

どんなに着物姿の綺麗なお姉さんが乗ってきたとしても、だ。

そんな聖さまの様子が気になった私は、だから自宅付近で声をかけた。

「聖さま?どうかされました?そんなに見つめてても金魚は増えませんよ?」

そんな私の言葉に聖さまは笑って言った。

「分かってるよ、当たり前じゃない。いやね、ちょっとだけ昔の事思い出して・・・。

何ていうのかな、懐かしいっていうか、哀しいっていうか・・・うーん、よくわかんないや」

「?懐かしくて哀しい??」

「うん。祐巳ちゃんはさ、お祭りとか好き?」

突然の聖さまの質問に、私は迷う事なく笑顔で答えた。

「はいっ!大好きです!」

だって、本当に好きなんだよ、あの雰囲気が。

沢山の人でごった返して凄く歩きにくいんだけど、何だか皆楽しそうでこっちまでワクワクしてくる。

そんな私を見て聖さまは優しく笑う。相変わらず金魚の袋を眺めながら。

「だろうね。だって、今日ずっとイキイキしてたよ」

「そ、そうですか?そういう聖さまはお祭り好きですか?」

「うーん、正直あんまり好きじゃない。人多いし、お金かかるし、くじ引きは当たらないし」

なんてね。そんな風に笑う聖さまは、私に話しかけているのか、それとも金魚に話しかけているのか分からなかった。

それぐらいどこか遠い目をしていたんだ。一体何があったんだろう?

もしかして私、今日無理やり聖さまをお祭りに連れ出してしまって悪いこと・・・しちゃったかな・・・。

「あの・・・ごめんなさい。その、聖さまがお祭り嫌いだなんて知らなくて・・・私・・・」

さっきまであんなに楽しかったお祭りが、今はもう夢の中での出来事だったみたいに遠ざかってゆく。

「いや、違う違う。別に嫌いな訳じゃないんだけど・・・何て言えばいいのかな。

ほら、さっき言ったみたいに、哀しいっていいうか寂しいっていうか。・・・私ね、一人っ子なのね?」

唐突に、聖さまの昔話が始まった。あまりにも突然過ぎて私は一瞬理解出来なかった。

でもその目は私に、どうか聞いて欲しい、って言ってるようにも見えて・・・。だから私は頷いた。すると、聖さまも小さく頷く。

「祐巳ちゃんはさ、小さい頃お祭りとかよく行った?」

「ええ、うちには弟も居るのでそりゃ賑やかで・・・よくお母さんに怒られましたよ、無駄遣いしちゃダメ!って」

でも、お祭りはついつい使っちゃうよねぇ。案の定お年玉はほとんどお正月のうちに消えちゃうんだよね、いっつもいっつも。

で、後で後悔する・・・と。それを聞いて聖さまは声を出して笑った。

「祐巳ちゃんだねー。想像出来るわ、その光景。私の場合はね、兄弟が居ないから、いっつも一人だった。

近所の子達は皆家族でお祭りに行っちゃってさ、私のうちは誰もお祭りになんて興味なくて。

父さんは出張が多かったから家に居ないし、母さんはあんまり人ごみとかに行きたがらなかったから。

だからさ、いっつもお祭りの日は耳塞いでた。近所からお囃子とかが聞こえてくるのが嫌で嫌でしょうがなくて。

だってさ、皆次の日楽しそうに話すじゃん?リンゴ飴は美味しい、とか、綿菓子が綺麗だ、とか。

でも私だけ知らないの。そういうの。それが悲しくて、一度だけ・・・一度だけ駄々こねた事があったんだ。

そしたらさ母さんってば私にお札持たせて、一人で行ってらっしゃいって。気をつけてね、あまり遅くならないように、って。

母さんは母さんで私に悪いことしてるなってのはあったと思うんだ。だからこそ行かせてくれたんだと思うの。

でもね、そうじゃないの。私はね、家族で行きたかったのよ。

家族皆で出掛けて、今日みたいに外でたこ焼き食べたりとか、綿菓子食べたりとか、金魚すくいがしたかったのよ。

父さんも居て、母さんも居て、そして私が居る。他の家みたいに、そういう楽しみ方がしたかったの」

「・・・聖さま・・・」

聖さまの家族との思い出を聞いたのは、これが初めてだった。それは思ってたよりも、ずっとずっと哀しい思い出で。

いや、多分もっと楽しい事もあったと思うの。でも、聖さまにとってお祭りは哀しい、寂しい思い出でしかないんだ。

それなのに私ってば・・・本当にバカなんだから!!

「お祭りってさー、独特の雰囲気じゃない。皆が一致団結して楽しむみたいなそんな空気でしょ?

私一人その輪の中に入れなかったんだよねー。途中友達とかに会ったりしてもさ、私隠れてさ。

一人きりで来てるんだって思われるのが嫌だったんだろうねぇ、今思えば。

結局私は母さんに貰ったお金には殆ど手をつけなかった。

皆が美味しいって言うリンゴ飴と、綿菓子だけ買って・・・それと、金魚すくい」

聖さまはそこでまた、持っていた金魚の袋を目の前まで持ってくるとにっこりと笑う。

金魚は相変わらずパクパクしてるけど、それが何故か笑ってるように見えたんだ。

「それから?それからどうしたんです?」

「それから?そうね、帰る途中にリンゴ飴食べた。でも甘くて全部食べ切れなかった。

だから帰ってから冷蔵庫に入れてたんだけど、すっかり忘れちゃっていつの間にか冷蔵庫から無くなってたっけ。

綿菓子も同じ。一口食べて置いといたら次に日には固まってただの砂糖の塊になってたんだよね」

もったいないよね?そう言って笑う聖さまの横顔は、切ない。私にもそういう経験ある。

お祭りって、そこで食べるからいいんだ。皆で笑いながら食べるから美味しいんだ。

そうでなきゃただの恐ろしく甘いリンゴとせいただの砂糖でしかないんだもん。

「でもねー。金魚だけはいつまでも家に居たな〜。その日はこっぴどく怒られたけどね、でもちゃんと私世話したんだよ。

毎日毎日ご飯あげてさー・・・だから泣いたな〜、金魚が死んじゃった時は・・・。

で、それからお祭りには行かなくなったんだ。

リンゴ飴が無くなって、綿菓子が砂糖の塊になって、金魚が死んだ時点で私の中のお祭りへの思いも消えたんだと思う。

ほんと、お祭りは花火と一緒。まるで夢みたい」

あぁ、聖さま・・・聖さま・・・確かにお祭りは夢みたいだけど、でもそれだけじゃないんですよ。

ちゃんと、楽しいって気持ちは残るって、私は思うんですよ・・・。

だって、さっきあんなにも真剣に金魚すくいやってたじゃないですか。

イカ焼き食べてるときも凄く楽しそうだったじゃないですか。・・・でも、言えなかった。私には何も、言えなかった。

だから私は、聖さまに金魚の袋を渡すと、さっき買ったリンゴ飴を取り出しガサガサとビニールを破ると言った。

「食べながら帰りましょうよ、聖さま。はい、これが聖さまの分」

甘いものが苦手な聖さまには、小さな姫リンゴのリンゴ飴。甘いものが大好きな私は、スタンダードなリンゴ飴。

「私の分もあるの?しかも・・・ちっちゃ!」

姫リンゴ飴の棒をクルクル回す聖さま。どことなく、楽しそう。

「もちろんですよ。だって、二人で行ったんですから。何でも二人分に決まってるじゃないですか。あ、綿菓子は別ですけど」

「ふーん。二人で行ったから・・・か」

「そうですよ。二人で行ったら二人分。食べるときも一緒に、です」

「なるほど。それじゃあお言葉に甘えて・・・いただきます」

「はい、どうぞ」

真赤なリンゴ飴をかじると、酸っぱくて切ない味がした。これは聖さまの思い出話を聞いたからだ、きっと。

飴はこんなにも甘いのに、胸がギュッて苦しくなる。でもね、今聖さまはこれを食べるべきだったと思うんだ。

でないと、いつまでもお祭りが好きになれないと、そう思う。

「相変わらず甘いなー・・・でも、うん。皆の言うとおり・・・こんなにも美味しかったんだね」

「そうですか?」

「うん。ありがとね、祐巳ちゃん」

お祭りが少し好きになったよ。そう言って聖さまは笑った。

「今日は楽しかった。ちゃんと輪の中に入れたような気がしたよ。途中ヒヤヒヤしたけどね」

「す・・・すみません・・・」

「いえいえ、あれもお祭りの醍醐味なんでしょう、きっと」

聖さまはそう言って口を開けて笑った。聖さまはリンゴ飴を舐めながら私の手を取る。

普段は絶対外でなんて手繋いでくれないのに、ね。

「聖さま、舌真赤ですよ!」

「そういう祐巳ちゃんこそ、唇まで真赤じゃん」

指を絡めて、歩調を合わせて。リンゴ飴を舐めながら帰路につく。袋の中で、金魚がパシャンって跳ねた。

それに気づいた聖さまは私のと自分の金魚の袋をひとまとめにして持つ。

「大中小でまるで親子みたい。でも、一人じゃないと寂しくなくていいね」

そんな風に金魚に話しかける聖さまの横顔は、とても穏やかでどこまでも優しくて・・・だから私までつい優しく笑ってしまう。

私たちは、マンションのベランダから初日の出を見た。

そりゃ景色はあんまり良くなかったけど、どこから見ても一緒だよ、って言う聖さまの言葉に従う事にした。今回は。

それに、二人きりで見たかったし。遠くの山のてっぺんが白んできた頃、私たちはどちらからともなくキスをした。

さっき食べた綿菓子のせいで、キスは御伽噺のなかみたいにお砂糖の味がする。

「甘いね」

「ええ。でも、美味しいですよ」

「そりゃ、祐巳ちゃんは甘党だからさー・・・もっとする?」

「・・・はい」

そっと目を閉じると、柔らかな感触に身体が震えた。初キス・・・とか言うと、何だか恥ずかしい。

真赤な聖さまの舌と、真赤な私の舌が、まるで無くなってしまった綿菓子とリンゴ飴の味を味わうようで・・・。

「ん・・・っふ・・・」

舌が絡む度に水音が耳に届くけど、今日は少しもいやらしくなかった。

やがて辺りが紅く染まり始めた頃、ようやく私たちはお互いの唇を名残惜しそうに離して、

今年初めての太陽を見て感嘆の声を漏らした。

「お願いごとするといいんですよね?」

「そういうけどね。まぁ、一応しとく?」

「ええ!それじゃあ、えっとー・・・これからもずっと、聖さまとお祭りに行けますように」

パンって手を合わせて太陽に向って願い事をする私の隣で、聖さまは笑っている。

「それじゃあ私はー・・・そうね、祐巳ちゃんの胸がもう少し大きくなりますように」

「なっ!ふ、不謹慎ですよ!!そんな事はお願いしなくても聖さまの頑張り次第でどうにでもなるでしょ!」

「えー・・・じゃあ、うーん・・・いつか、いつか祐巳ちゃんと家庭が持てますように。

んで、その時は皆でお祭りに行けますように。これでいい?」

「・・・聖さま・・・」

目を閉じて太陽にそんな事をお願いした聖さまは、一体どんな気持ちなんだろう。切なくて、泣きそうなお願い事だった。

私は堪らなくなって聖さまの腰にしがみつくと、そっと目を閉じる。

そんな私の髪を撫でながら、聖さまはいつもみたいに軽い口調で言った。

「あ、もちろん、祐巳ちゃんが産んでね。私痛いの嫌だから」

「・・・もう!いいですよ、何人でも産んであげます」

本当に聖さまとの子供が産めればいいのに・・・苦しくて切なくて、甘くて哀しくて泣いてしまう。

だから私はもう一度心の中で願った。きっと、叶う。そう信じて・・・。

『どうか、どうかお願いです。いつか、私と聖さまの夢が叶いますように・・・出来るだけ優しい未来でありますように』


第四十八話『初夢』


日の出を二人で小さなベランダから見て、少し早い朝食を食べ、

シャワーを浴びてからエッチになだれ込むまでにそう時間はかからなかった。

元旦の、しかも朝っぱらから一体何やってるんだ!なんて怒らないで欲しい。

だって、二人とも何故かそうしたかったんだから。

祐巳ちゃんのスベスベした身体を上から下まで眺めるだけでイけるほど私は感度はよくないし、

そんなのはまるでショーウィンドウの中の裸のマネキンを眺めるのと、そう大して変わらない。

「どうしてそんな所に突っ立ってるの?こっちおいでよ」

べっどの上に転がって手招きする私に、祐巳ちゃんは小さく笑う。

「聖さまをね、誘ってるんです。聖さまがこっちに来てください」

「・・・・・・・・・・」

どこでそんな技覚えたの?って、私は聞けなかった。祐巳ちゃんのどこか挑戦的な目が、私と似てきたような気がするのは、

きっと気のせいではないだろう。それにしても・・・付き合い始めの頃の祐巳ちゃんは絶対にこんな事言わなかった。

むしろ恥ずかしそうに俯いて、私に言われるがまま、されるがままになっていたのに。

ほんとに、女ってのは恐ろしい程の速度で成長する。

私はその場からピクリとも動かない祐巳ちゃんの誘いに大人しく乗ることにした。

上げ膳は食べる主義なんだ、私は。まぁ、今は祐巳ちゃんに限ってだけど。

はっきり言って私の体力は限界に近い。多分それは祐巳ちゃんも同じ。

でも、それでもその誘いを断ることが出来なかったのは、

何を思ったか突然祐巳ちゃんがゆっくりと部屋を出て行ってしまったからだ。

「・・・そうきたか・・・」

ここで焦って追いかけるのは、子供のする事。私はもうすっかり大人で、嫌な話、こういう駆け引きには酷く慣れていた。

ゆっくりとベッドを降りてリビングに戻ると、ソファの上に祐巳ちゃんは居た。

にっこり笑って今度は私に向って手招きしている。

「そう言えばソファでした事はなかったね」

エッチと言えばベッド。こういう常識が必ずしもイコールになるとは限らない。

エッチというものはスポーツの一環としても扱われるものなのだから。実際、楽しんだもの勝ちだ。

子供を作れない私達にとって、SEXはスポーツであり、娯楽でもある。

そして、お互いの肌に触れ、相手の心を知った時そこに初めて愛が生まれる。

まぁ、生まれないでそのまま終わってしまう場合もあるけれど。

私は祐巳ちゃんの頬に触れ、ゆっくりとソファに押し倒すと祐巳ちゃんの顔が綻んだ。

「なぁに?どうして笑うの?」

「えへへ、何だかドキドキして」

私は祐巳ちゃんの小さな胸に耳を当て、なるほど、理解した。

確かに祐巳ちゃんの鼓動は離れても聞こえそうなほど打っている。

そんな祐巳ちゃんが可愛くて、思わず私はその唇に口付けた。でも、すぐに唇を離してしまう私に、祐巳ちゃんは不満顔だ。

「そんなに急がないの。これからでしょ?」

「うぅ・・・そうですけど。・・・もっとこう、必死になって欲しかったのに・・・」

「なにそれ?もっとがっついて欲しかったって事?」

「ええ、まぁ・・・」

頬を染めながらそんな事を告白する祐巳ちゃんは、完全には誘い受けが出来なかったと悔やんでいるようだった。

だから私は、今回ばかりはそれに乗る事にした。先に言っておくけど、決して祐巳ちゃんの誘い受けが失敗した訳ではない。

むしろ、大成功だったと言ってもいいほど、本当は私の胸の中を荒らした。

けれど、どこまで本気を見せてしまってもいいものか迷っていただけで・・・。

でも、こうやって祐巳ちゃんの本音を聞いた今、私にはどうやらもう、我慢する必要はなくなったらしい。

「後で後悔しないでね?誘ったのはそっちなんだから」

薄く笑う私を見る祐巳ちゃんの顔は、好奇心と不安の入り混じった不思議なものだった。

期待と不安を、きっといい具合に祐巳ちゃんは感じているに違いない。

「ええ、もちろ・・・んっ・・・っふ・・・」

祐巳ちゃんの返事を待たず、私は無理やり祐巳ちゃんの唇を奪った。ハミガキ粉のミントの香りが鼻腔をくすぐる。

目をキュっと瞑ったまま、私に口内を許す祐巳ちゃんは今どんな気分なのだろうか。

「はっ・・・ん・・・んぅ・・・」

「ん・・・ぅむ・・・」

舌が絡まるたびに淫らな喘ぎ声がどちらともなく漏れ始め、私が指を胸に滑らせた頃には、

すっかり祐巳ちゃんの胸の先端は硬くなっていた。

息継ぎも出来ないほどの激しいキスは、私を狂わせ、祐巳ちゃんを酔わす。

甘いような痺れるような感覚が頭の中に広がって、それは身体を一杯に埋め尽くす。

でも、皮膚を突き破り、身体を駆け抜けるようなあの旋律はまだ当分訪れない。

お互いを求め合って、結ばれた時に初めて見えるあの感じを、どうやって説明すればいいだろう?

とてもこの世の言葉では言い表せないあの景色・・・あれは、実際に体験した者にしか判らない苦痛と快楽。

そして・・・哀しみでもある。

ようやく祐巳ちゃんの唇を解放し、今度は首筋を攻め立てた。

頚動脈に沿って舌を這わせる私の動きに、堪らず祐巳ちゃんは身体を捩った。その瞬間、小さく漏れた喘ぎ声。

震える身体を壊さないようにそっと抱きしめると、次の瞬間には私は祐巳ちゃんに跨って両腕をしっかりと抑え込んでいた。

「あ・・・」

少しだけ驚いたように笑う祐巳ちゃんが新鮮で、私も薄く笑った。

開いた方の手で祐巳ちゃんの右胸を、唇では左胸を、そして膝で祐巳ちゃんの中心を押さえる。

「ぁん・・・や、ぁあ・・・んっ・・・」

どこに感じればいいのか分からないといった感じの祐巳ちゃんの顔が、おかしかった。

小さないけれど形のいい胸は、予想以上に感度がいい。ほんの少し歯を立てただけで、もう涙目になる祐巳ちゃん。

私の膝でしっかりと祐巳ちゃんの中心に蓋をしている筈なのに、それでもさらに足りずに溢れだそうとする。

「凄いね」

「やっ・・・恥ずかし・・・ぃっ・・・」

さっきよりもずっと強く噛んだ私に、チラリと非難の目が向けられて思わず私は首をすくめた。

でも、そんな祐巳ちゃんとは裏腹に、身体は正直に反応したのを知って私は胸への攻撃を止めることはしなかった。

右手の下にある胸を強く揉み、舌は執拗に左胸の突起を攻め立てる。

膝を少し動かせば、たったそれだけで祐巳ちゃんの熱が私にまで伝わってきて・・・。

胸からお臍・・・徐々にさらに下へ下へ向おうとする私の指先に、祐巳ちゃんは笑い声にも似た声を漏らす。

「あっん・・・っふ・・・ぅん・・・ァ・・・」

けれど指が次第に下腹部へと降りてゆくと、祐巳ちゃんの声に笑いは消えた。

その代わり、何かを我慢するような悲痛な声に変わり始めたのだ。

私は焦らすようにそっと足の付け根を人差し指でなぞりながら、耳元でそっと囁く。

「ここからどうして欲しい?」

すると、祐巳ちゃんは涙目で搾り出すように言った。

「・・・欲しい・・・聖さまが・・・欲しいの・・・」

珍しく・・・いや、エッチの時は祐巳ちゃんは本当に素直になる。

私は祐巳ちゃんを抑えていた手を解き、人差し指を祐巳ちゃんの目の前でわざと舐める私を恨めしそうに眺めるその目が、

私に喰らいついてくる。私の心を噛み砕く。

「激しくしてって、言ったよね?それから・・・後悔しない、とも」

「・・・はい。言い・・・ました・・・」

「そう、ならいいの」

私の中の獣が目を覚ました。今まで、祐巳ちゃんと出逢ってからずっと息を潜めていたというのに。

大きく息を吸い、そっと目を閉じた私を心配そうに祐巳ちゃんが眺めている。そんな気配が・・・する。

「せ・・・さまっ!?」

噛み付くようなキスを祐巳ちゃんとしたのは、これが初めてだった。いつもは舐めるような優しいキスしかしなかったのに。

今まで以上のキスは、祐巳ちゃんの力を吸い取ってゆく。

だんだん私の腕を握り締めていた祐巳ちゃんの腕の力が揺るんでゆく。

そして、祐巳ちゃんの腕が完全に床に落ちる寸前・・・つまり、気を失う直前、

私はそれまでずっと足の付け根を這わせていた指を二本、素早く祐巳ちゃんの中に滑り込ませた。

そして、その勢いで激しく祐巳ちゃんを突き上げる。

「あッ?!・・・ふぁ、アっ、んっ、っく・・・」

「誰が失神なんてさせるもんですか。ほら、どう?祐巳ちゃんが悪いのよ?私をあんな風に誘うから」

ハッキリ言って、私はサディストの部類に入る。と、自分では思う。

もちろんされるのも好きだけど、でもこうやって攻め立てるのは最高に気持ちがいい。

うっすらと笑う私に、祐巳ちゃんの身体が震える。全身に、鳥肌が立っているような、そんな肌触りに変わった。

「感じてるの?ねぇ、気持ちいいんでしょ?」

「んっ、あっ、はぁ、はぁ、っふ、うっ」

苦しそうに、けれど全身で私を受け止めようとする祐巳ちゃんが愛しくて、私はさらに指に力を込めた。

第二関節の辺りを曲げ、祐巳ちゃんの中の一部を激しく突くと、さっきよりも一段と祐巳ちゃんの声が大きくなる。

自ら腰を浮かせるような祐巳ちゃんの仕草が嬉しくて思わず私は笑ってしまった。

部屋に響くのは私の荒い息遣いと、祐巳ちゃんの喘ぎ声、そして、淫らな水音。

最初は控えめだった水音も、今ではさらに音を上げて私を喜ばせた。

私の指を伝って溢れてくる祐巳ちゃんの愛液は生暖かい。それが私の手のひらに小さな水溜まりを作る。

「はっ、ァん、アッ、っふ、うぅ、もっと・・・せ・・・さまぁ・・・っも・・・っと・・・」

甘い声でそんな風に言われたら、私はそうせざるを得ない。どれほど祐巳ちゃんが私を求めているのかを確かめる為にも。

私は今までずっと、遠慮して祐巳ちゃんに触れてきた。優しく、壊さないように、そっと。

けれど、本当はずっと・・・ずっと、こんな風に私の指にもがいて、喘いで欲しかった。

大きな甘い声をずっと、ずっと聞いていたかった。激しい私の愛をこんな風にぶつけてみたかったんだ。

そして、それを上回るような愛を求めて欲しかった。そう、正に今みたいに。

私は祐巳ちゃんの中をぐちゃぐちゃに掻き回した。水音はさらに遠慮なく響いて、水溜りはさらに大きくなる。

ソファにもたれるように悶える祐巳ちゃんの視線が、私から外れない。

「なに?」

「・・・舐めて・・・ください・・・早く・・・イカせて・・・」

言わせた。とうとう、私は言わせたんだ。そう思った時、私の感情は爆発した。

見境のない、分別のない子供みたいに私は祐巳ちゃんを求めた。

そう、さっき祐巳ちゃんが求めた、正にその通りになったのだ。

私は祐巳ちゃんの中から指が抜けてしまわないように気をつけながら、祐巳ちゃんの両足の間に顔を埋めると、

まずは一舐め全体を舐め上げた。

「ひゃんっ」

腰が浮くというのは、こういう時に使う言葉なのだろう。舌の感覚に祐巳ちゃんの腰が跳ね上がり、一瞬身体を強張らせる。

祐巳ちゃんの中は私を締め付ける。でも、相当濡れてる為にあまりキツさは感じない。

「ねぇ、三本に挑戦してみようか?」

「え?・・・あっ!・・・あぁぁ・・・」

深く、奥深くに沈めた指に沿って、私はもう一本指をつき足した。思わず漏れた快感の溜息が、今度は私の身体を震わせる。

そのあまりの甘い声に、すでに濡れていた私の中からも溢れるものを感じた。

ドロリとしたその感覚は、太ももを伝い落ちてゆく。

抑えていた気持ちを解放した途端、私の感度もどうやら恐ろしく上がったらしい。

三本の指を器用にバラバラに動かすと、様々な祐巳ちゃんの弱点が見つかった。

どの動きに弱い、だとか、どこを突けば叫び声を上げるのか、とか、色々。

「アッ・・・はぁ、っくぅ、んんっ」

もう一度祐巳ちゃんの足の間に顔を埋めた私を、祐巳ちゃんはじっと見つめている。

そして小さな呻き声と共に見せた笑みは、もう喩え様の無い程美しかった・・・。

祐巳ちゃんの一番敏感な部分に、初めはそっと口付けるようなキスを。

そして、徐々に舐めると、それだけでもう祐巳ちゃんはイッてしまう。

「あぁぁぁぁぁ!!!!」

足の先まで込めた力が、私を掴む力が、最高潮になるのはこの時だけだという事を私はよく知っている。

いつもなら、ここで止める。続けてすぐに始めるのは、かなり祐巳ちゃんに負担がかかるから。

けれど、今日は止めなかった。決して指を抜かなかった。

祐巳ちゃんの中は今もまだドクドクと脈打ち、おびただしい程の愛液が溢れてくる。

それでも、私は止めなかった。たったほんの少しの休息すら、与えなかった。

祐巳ちゃんの一番敏感な場所は、紅く光り、硬くなって私を待っている。まだ・・・私を・・・。

「あっ、はぁ・・・せ・・・さま・・・私・・・も・・・んん!!!」

「ダメだよ。終わらせない。だって、祐巳ちゃんが仕掛けたんだもの。ちゃんと最後まで私を受け止めてちょうだい」

そう言って私は祐巳ちゃんの中心の突起を優しく舐める。

そして、舌の上でしばらく転がしていたそれを、甘く噛むと、祐巳ちゃんの身体は今までに無いぐらいビクンと震えた。

「はぅっ・・・やぁ・・・おかしく・・・なっちゃう・・・」

その言葉は、甘く私の耳に届いた。もっとやって、と聞こえた。

だから私はさらに強く噛み、さらに中を激しく掻き回し始めると、それまで頑なだった祐巳ちゃんの身体が、

今まで以上に激しく震え始め、私にしがみつく爪先によりいっそうの力が込められた。

「つぅ」

「アッ、あっ、あぁ、あっ、っ、はっ、」

見たこと無かった。こんな祐巳ちゃん。淫らで、いやらしくて、それでも凄く綺麗で・・・可愛い。

半開きの唇から漏れる声も、指の動きに合わせて上下する胸も、髪の一本一本でさえ、私は見逃すことが出来なかった。

祐巳ちゃんの一番奥を突くと、祐巳ちゃんの腰はそれを喜ぶように動く。

強く吸い上げた敏感な部分は、今まで以上に大きく硬くなり、その時を待っている。

そして、私は祐巳ちゃんを抱いた。強く強く・・・抱いた。

祐巳ちゃんの胸の先端が私の胸に当たって、それを感じた私の胸も高鳴る。ドクンドクンと耳元で聞こえるこの音は何だろう。

これは本当に心臓の音なのだろうか?それとも、もっと違う何か?もうそんな事も分からない。

つまり、祐巳ちゃんだけでは無かった。今にもイキそうなのは、私も同じ。

ただ入れるだけで、声を聞くだけで、背中を引っ掻かれるだけで・・・私の中からとめどなく愛液が溢れてくる。

私の愛液で濡れた膝を祐巳ちゃんの足の間に滑り込ませ、その勢いで指をさらに奥へと押し込む。

「あぁ!!!せ・・・さま、聖・・・さまっ」

膝を押すたびに指は奥へ行き、そして一番敏感な場所を擦る。少しづつそのスピードを上げると・・・やがて・・・。

「あっ、あっんん、っく・・・アッ!あぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!」

「祐巳・・・ちゃん・・・はぁ、あっ、祐巳・・・祐巳・・・祐巳ちゃんっっ!!!!」

「ひゃいっ?!」

「はっ!?」

私は驚いて・・・と、言うよりは何が何だか分からないまま身体を起こした。

隣を見ると、祐巳ちゃんがしきりに目を擦っている・・・こ、これはまさか・・・まさか・・・。

「にゃんれすか・・・突然大きな声だして・・・びっくりするじゃないれすふぁぁぁぁ」

そう言って会話のついでに大欠伸する祐巳ちゃん・・・嘘。・・・じゃ、じゃあ今のもしかして全部・・・。

「・・・夢だったのか・・・」

「?何です?何か怖い夢でも見たんですか?」

眠そうに、不思議そうに私を見つめる祐巳ちゃん。あぁ、もう!なんて事!!まさか、まさかあれが全部夢だったなんて!!

「いや、むしろその反対。すんごい良い夢だった。むしろあっちが現実なら良かったのに・・・」

そう言ってチラリと祐巳ちゃんを見た。そして、ガックリと頭を垂れる。そりゃそうだよなぁ・・・祐巳ちゃんだもんなぁ・・・。

祐巳ちゃんがあんな事言う訳ないよなぁ・・・あぁ、本当に私ってば・・・。

それにしても、一年の初っ端からなんつー如何わしい夢を・・・。

「そんなに良い夢だったんですか?」

「うん、まぁね。何なら体験してみる?」

「は?聖さまの夢を・・・ですか?」

「そう、私の初夢を体験してみる?」

私はさっきの夢の中のように薄く笑って見せた。だって、あんまりだよ。

こんな夢見た後で祐巳ちゃんの隣で眠れる訳がないじゃない。このどうしようもない気持ちを、どうにかして処理しなきゃ。

私の笑みに、祐巳ちゃんは何か不安を感じ取ったのだろう。そっと私から離れると、慌てて部屋を飛び出した。

「バカね、私から逃げれると思ってるの?」

そう呟いて舌なめずりをした私は、まるでさっきの夢の中の私のようだった。

リビングで捕まえた祐巳ちゃんを、ソファに押し倒し、強引に口付ける。

「まずは、おはよう。さて、それじゃあ早速初夢を叶えてもらおうかな」

「や、やですよっ!!私はまだ眠いんです!!」

「大丈夫。気持ちよく寝かせてあげるから安心して?」

「そ、そういう問題じゃなくてーーーーっっ」

「逃がさないよ、最後まで・・・ね」

もう、逃がさない。やっと捕まえたんだもの。それに、初夢は叶うって言うし、今は無理でもいつかは・・・。

いつか必ず私の全てを祐巳ちゃんにぶつけてみせる。だからそれまでの間、もうほんの少しの間だけは、優しくしてあげる。

ね、私の可愛い祐巳ちゃん?


第四十九話『祐巳‘S HOME』


つまりは、祐巳ちゃんの実家。ていうか、やっぱりお洒落な家に住んでるなぁ・・・ってのが第一印象だった。

流石だなぁ・・・ヤバイ。明日うちを見てビックリするんじゃないかな。あんまりにも普通で。

「聖さま?どうかしました?」

隣で私を見上げる祐巳ちゃんの顔は何故か強張っている。どっちかっていうと、今はその顔は私にこそ相応しい。

でも、こういう時でも私はあんまり緊張というものをしない。まぁ、昔っからなんだけどね。緊張しないのは。

「いいや、ただお洒落な家だなぁ、と・・・」

祐巳ちゃんに案内されるがままに、地下みたいなとこのお客様駐車場らしきところに車を止めると、

もう一度家の前の道路まで出てきて言った。

「ほんっとにお洒落・・・いいなぁ・・・」

こんな家に住みたかったなぁ・・・。ポツリと一人ごちた私に、祐巳ちゃんはさらに笑顔を引きつらせる。

「そ、そんな事より聖さま?き、緊張とかしないんですか??」

「緊張?いや、あんまり。だって、友達んちに遊びに行くような気持ちで来てるから・・・ダメだった?」

「と、友達?そ、そうですよね!べ、別に友達同士で通用するんですよね!!そっか・・・」

はぁぁ、ってため息をつく祐巳ちゃんの顔が、何故か寂しそうに曇る。

「どうしてそんな顔するの?」

私の言葉に、祐巳ちゃんの身体がビクンと震えた。申し訳なさそうに、恥ずかしそうにこちらを向いて言う。

「や、その・・・ただですね、ほら、一応私たちはお付き合いしてる訳で・・・。

そしたらやっぱりちゃんと紹介とかした方がいいのかな?とか、そんな事を色々と考えてしまいまして・・・。

後は単純に家族を見られるのが恥ずかしいんです」

いや〜、緊張しますね。そう言ってお腹の辺りで組んだ指をモジモジと弄る祐巳ちゃんが、何だか可愛らしかった。

そっか。少なからず祐巳ちゃんは、私が祐巳ちゃんのお父さんやお母さんに、

娘さんを私に下さい、みたいなそういう挨拶を期待してた訳だ。

「大丈夫。そういうご挨拶はまたいずれちゃんとしに来るから。今日はお友達って事で通そうよ」

本当は、そりゃ私だって今すぐにでも挨拶しちゃいたいけどね。でも、そうはいかない。やっぱり順序は守らなくちゃ。

とりあえず挨拶の前にしなきゃならない事、それはやっぱりプロポーズだろう。ちゃんとした言葉を繋がなきゃダメだと思うから。

私の質問に、祐巳ちゃんはゆっくりと頷いた。どうやらそれで納得してくれたらしい。

その証拠にほら、さっきよりは顔色がずっとマシだもの。

「さて、それじゃあそろそろ案内してもらえますか?お姫様?」

「は、はい!そうですね!」

私はコホンと咳払いすると、頭の中で何度も何度も挨拶の言葉をリピートさせる。

まずは新年の挨拶からだよね、それから簡単な自己紹介。後はまぁ、臨機応変にって事で。

これでも一応はあのリリアンを出たんだ。礼儀だけは結構身についてる。自分で言うのも何だけど。

祐巳ちゃんは自分の家なのに、何故かインターホンを押すのをいつまでも躊躇っている。

だから私が横から手を伸ばして代わりに押してやった。

「なっ!せ、聖さま?!な、なんて事・・・あ、お母さん?ただいま」

『あら、おかえり祐巳ちゃん。ちょっと待っててね、すぐ開けるから』

インターホンはそこで切れて、祐巳ちゃんが怖い顔して私に掴みかかってきた。

「聖さま?あのですねぇ、私本当に緊張してるんですよっ!!それなのにどうしてそういう事するんで・・・」

祐巳ちゃんに襟首を持たれて前に後ろに激しく揺さぶれられていた私を助けてくれたのは、

他でもない祐巳ちゃんのお母さんだった。

「祐巳ちゃん!?あなた何やってるの!大切なお客様に!!」

その声を聞いて祐巳やんはヤバイ!って顔して慌てて私の襟首から手を離すとその手で乱れた襟首を直してくれる。

「新年明けましておめでとうございます。祐巳さんとルームシェアしている佐藤です。

本日は突然お邪魔してしまって本当に申し訳ありませんでした。ご迷惑ではありませんでしたか?」

しかし、誰も私の言葉に反応してくれない・・・どうして??私の挨拶・・・もしかしてどこかおかしかった??

チラリと横目で祐巳ちゃんを見ると、ただポカンと口を開けて私を見上げているだけだ。ちなみに何故かお母さんも同じ顔。

だから私はお母さんには見えないように肘でコツンと祐巳ちゃんの脇腹をつつき、

どうにか祐巳ちゃんを現実の世界に戻らせようとした。

「はっ!あ、そ、そう・・・お母さん、紹介するね。こちらが昨日言ってた佐藤聖さん。リリアンで英語を教えてらっしゃるの。

・・お母さん?・・・お母さんってば!!」

祐巳ちゃんは突然大きな声を出して今度はお母さんの目の前で手をヒラヒラさせて苦笑いしている。

祐巳ちゃんの呼びかけにようやく覚醒したお母さんは、ハッ、って顔を挙げてようやく言葉を発した。

ていうか・・・この親子、本当によく似てる!面白い!!!

「ご、ごめんなさい。ついついボーっとしちゃって・・・迷惑だなんてとんでもない!さ、どうぞ、外は寒いから中へどうぞ。

あ、お茶はとりあえず祐巳ちゃんのお部屋に運べばいいかしら?」

「あ、お構いなく」

「うん。そうしてくれる?」

私たちの声は同時に発せられた。私がチラリと祐巳ちゃんを見ると、祐巳ちゃんは恥ずかしそうに首をすくめた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

祐巳ちゃんちは中もやっぱりお洒落だった。いいなぁ・・・こんな作りの家に私も住みたい。

「聖さま、こっちですよ」

「うん、ありがと。ていうかさ、聖さまって呼ぶの止めない?何か私凄い偉そうじゃん」

「そ、そうですか?でも・・・突然呼ぶなと言われましても・・・じゃあ佐藤さん・・・とか?」

「それは他人行儀すぎない?聖でいいよ。その方が短くて言いやすいでしょ?」

「えぇぇぇ?!いきなり呼び捨てですか!?しかも人生の先輩を??そ、それは無理ですよー」

人生の、は余計だと思うんだけど・・・ていうか、そんなに呼び捨てしにくいものかな?

蓉子とか江利子とかみたいに呼んでくれればいいだけの話じゃない。それを祐巳ちゃんに言うと、激しく怒られてしまった。

「そりゃ江利子さまや蓉子さまは聖さまと同年代じゃないですか!!

でも私は二つも年下ですし、それに皆聖さまって呼んでるのに、そんな今更・・・」

「今日と明日だけでいいから。せめてお互いの家族の前では苗字でも名前でもいいから、

様だけは止めてよ、お願い。後敬語もなしね」

パンと手を合わした私を見て、祐巳ちゃんは渋々頷いてくれた。

「それじゃあ聖さ・・・いや。せ、せ、せ、聖・・・こ、こ、こ、こっち・・・よ・・・?」

「私に尋ねてどうする。しかもどうして照れるのよ?」

「だってーーーー!!やっぱり恥ずかしいですよ!呼び捨てなんてっ!!」

「・・・じゃあもう何だっていいよ」

全くもう。こんななら初めに自己紹介した時に呼び捨てさせておけば良かったかも。

まぁ、あの時はまさか私たちはがこんな風に付き合う事になるなんて思ってもみなかったからしょうがないと言えば、

しょうがないんだけど・・・それにしてもそんなに呼び捨てって難しいかな?もしかして私、一生『様』付け?

それはそれで何か嫌だなぁ・・・。はぁ、と溜息をつく私に、祐巳ちゃんは言った。

「あ、あの・・・それじゃあ、せめて聖・・・さん。でいいですか?それぐらいならまだ何とか・・・」

「聖さん?・・・まぁ、それならアリかな。じゃあ、聖さんで」

「はいっ!それじゃあ、聖さま・・・じゃなかった。聖さん、こっちですよ」

嬉々として階段を上る祐巳ちゃんの後姿を見詰めながら私は心の中で呟いた。これじゃあ先が思いやられるなぁ、と。

祐巳ちゃんの部屋は、マンションの祐巳ちゃんの部屋とは随分雰囲気が違って妙にドキドキした。

「へぇー・・・案外普通じゃん」

「・・・どんな部屋想像してたんですか?」

「いや、もっとこう、悪魔祓いとか始まりそうな部屋をかと・・・」

だって、あのマンションの部屋を見れば誰でもそう思うよ、普通。そんな私を咎めるように睨む祐巳ちゃんが可愛い。

「あ、好きなとこに座ってくださいね」

「うん、ありがと。ところで弟君は?私誰が一番楽しみって弟君だったんだけど」

「え?祐麒ですか?祐麒はまだ帰って来てないんじゃないのかなぁ・・・多分今日聖さまが来る事も知らないと思いますよ?」

「聖さん、ね。そうなの?な〜んだ。まぁ、いっか。そのうち帰ってくるよね?」

「そうそう、聖さん。って、やっぱりつい癖で聖さまって言っちゃうんですけど・・・。

ていうか、そんなに祐麒に会いたいんですか?」

祐巳ちゃんは床に腰を下ろした私の正面に座ると、大きなため息を落としながら頬を押さえている。

まぁ、癖ってのはそういうもんだから仕方ないと思うけどね。だから私は苦笑いするしかなかった。

「ほら、私兄弟居ないからそういうの羨ましいのよね。いいよね、弟。私も弟欲しかったなぁ」

「そんなにいいもんでも無いと思いますけど・・・待ってれば夜までには帰ってくると思いますよ」

「そう?なら待ってよっと。やっぱ味方は多い方がいいしね」

私の言葉に祐巳ちゃんは不思議そうな顔してる。そりゃそうかもね。

多分、祐巳ちゃんには私の言った意味が分からなかっただろうから。私、結構打算的なんだよね。

これから祐巳ちゃんと付き合っていく上で、私たちを認めてくれる仲間は出来るだけ多い方がいい。

少なくとも私はそう思ってる。それに、いざって時にはやっぱり家族の助けってのは必要になってくると・・・思う。

と、その時だった。突然階下から祐巳ちゃんを呼ぶお母さんの声が聞こえてきた。

「すみません。ちょっと待っててくださいね」

そう言って部屋を出て行く祐巳ちゃんを見送り、私は部屋の中をもう一度見渡した。

大きく開いた窓の前には多分ずっと祐巳ちゃんが愛用していたであっろう勉強机が置いてある。

その上には何枚かの写真が置いてあったんだけど・・・そのうちの一枚に、何故か私は妙な胸騒ぎを覚えた。

私は立ち上がりその写真をよく見ようと机に近づくと、その写真を手に取った。

写真の中の祐巳ちゃんは、カメラに向って満面の笑み。でも、うっすらと涙を浮かべているから卒業写真か何かだろうか。

祐巳ちゃんの隣には凄く背の高い女の子が一緒に写っている。

何でだろう・・・どうしてこの写真がこんなにも気になるんだろう?

私は写真をじっと見つめていたばっかりに、祐巳ちゃんが部屋に戻ってきた事にすら気づかなかった。

「聖さ・・・ん!何してるんです?」

「うわっ!びっくりした。何だ、戻ってきたの・・・いや、写真一杯だなぁと思って」

そう言って私はその写真を机に戻すと、もう一度座りなおした。あの女の子の名前を、聞く勇気が無かった。


第五十話『祐巳‘S FAMILY』


聖さまってば、何をそんなに慌ててるんだろう?私が部屋に戻ってきた時から何故かしきりに写真を気にしている。

だから私はてっきり聖さまが私のアルバムか何かを見たいんだと勘違いした。

「ちょっと待っててくださいね。えっとー・・・確かここらへんに・・・あった!」

「なに、それ?」

「なにって、私のアルバムですよ」

「へぇ。それは楽しみ」

そう言って聖さまは持ってきた紅茶に口をつける。アルバムの一枚目・・・それは、私のオールヌード写真だった。

とは言っても、まだ赤ちゃんの頃のやつなんだけど、それでもやっぱり・・・恥ずかしい。

だから私は慌ててアルバムを閉じると、えへへ、と作り笑いをして見せる。

「どうして閉じるのよ?赤ちゃんの裸なんて見たって欲情しないってば」

いや、欲情とかそういう言葉をサラっと言うのもどうかと思うんだけど・・・。でも確かに。

聖さまはもっとオトナの女の人の裸がいいんだもんね。そう思いなおしてもう一度アルバムを開く。

しばらくめくっていたんだけど、何故か私の赤ちゃん時代は裸ばかり・・・ど、どうして??どうして一枚も服着てないのよっ!!

「凄いアルバムだね。一体いくつぐらいまでこの裸の写真は続くの?」

笑いを堪えながらそんな事言う聖さまの目の端には涙が溜まっている。も、もう!そんなに笑わなくてもいいじゃない!!

小学校、中学校、高校に差し掛かったあたりから、ようやく聖さまの顔が真剣になった。

「この子は一番の親友だったんです。でも、高校卒業と同時に引っ越しちゃったんですよね・・・今も元気かなぁ・・・」

「へぇ、私親友なんて特に居なかったなぁ・・・あ、蓉子と江利子は・・・いや、あれはただの腐れ縁か?」

「そんな事言ったらお二人に怒られますよ!」

「えー?腐れ縁みたいなもんじゃん。だって、これからもずーーーっときっと一緒だよ?それを考えると・・・あぁ、恐ろしい・・・」

そんな事言って顔を覆う聖さまがおかしかった。でも、それってかなり羨ましい。私にはだって、そんな人居ないんだもん。

いや、由乃さんや志摩子さんは親友だけど、でもあの二人だって知り合ったのは最近だ。

そして写真は大学に入った。ここで聖さまの反応が少し変わっのを、私は見逃さなかった。

「これが大学一年?今と大して変わらないね」

「し、失礼な!少しは大人っぽくなってますよ!」

「そ〜う?あんまり変わんないじゃん」

そう言って私の頬をつつく聖さまが・・・憎らしい。と、ここで聖さまが一枚の写真を指差し言った。

「この子。この子高校の時の写真にも一緒に写ってなかった?」

「え?どの子です?」

「これ。この異様に背の高い・・・」

私は聖さまが指差した写真を見て、ポンと手を打った。それは、高校の終わりごろから仲良くなった一つ下の後輩。

「ああ、可南子ちゃんですね」

「・・・可南子ちゃん?」

「ええ、私を追ってこの大学に入りました!とか何とか言ってましたけど、私この頃ちょっと色々とありまして、

その言葉が凄く心強かったんですよね。まぁ、冗談だったんでしょうけど、私にはそれでも嬉しかった・・・」

懐かしいなぁ・・・そう、あれは・・・っと!思わず回想に入っちゃうとこだった。イカンイカン。

ふふふ、って思い出し笑いする私を見て、聖さまはあからさまに顔をしかめる。

「へー。モテモテじゃん。ていうか、なに思い出し笑いしてんの?」

「いえ、ちょっとこの頃の事思い出して・・・気にしないでください」

「ふーん。まぁ、いいや。で?この子も保健医に?」

って、それだけかい!!もうちょっと突っ込もうよ!ていうか、少しくらいヤキモチとか妬こうよ!!寂しいじゃん!!!

まぁでも、それが聖さまなんだな。ほんっと、一度でいいから思いっきりヤキモチとか妬かせてみたいよ。

「いいえ?その子は違います。確か・・・国語とかだったような気がしますけど・・・」

「ふーん。どっちかって言うと体育とかの方が向いてそうなのにね」

「そうですよね。大きいですし、高校時代はバスケやってましたけど・・・でもそっちには進まなかったみたいで。もったいない」

ほんと、ああいうのを宝の持ち腐れっていうんだと思う。私なんてスポーツは全般的にダメだし、運動神経は切れてるし・・・。

「可南子ちゃん・・・か。どうする?リリアンにまで追いかけてきたら」

「まさか!」

私は聖さまの言葉に声を出して笑った。だって、ありえないよ。でも、そんな私をからかうみたいに聖さまは続ける。

「告白とかされちゃったりして?」

「だからありえませんってば!」

そうそう、ありえない。それに、私は聖さま一筋だし・・・第一可南子ちゃんをそういう対象として見た事もないのに。

それでも聖さまは何故か私の答えに一瞬唇を歪めた。まるで何かに不安を覚えているみたいな、そんな顔。

「どうか・・・されました?」

私の質問に、聖さまは呟く。

「いや・・・別に。それよりさ!下行こうよ!私祐巳ちゃんの家族にちゃんと挨拶しときたいんだけど」

「え?あ、挨拶ですか?いやぁ〜、そんなのは夜でいいかと・・・」

「ダメ。ちゃんとそういうとこはきっちりしとかないと。後々困るでしょ。祐巳ちゃんの家族に嫌われちゃったら!」

「はあ・・・それはないかと・・・」

私はそこまで言ってさっきの出来事を思い返していた。さっき、お母さんに呼ばれたとき、お母さんは私の顔を見るなり言った。

「祐巳ちゃん!!どうしてもっとちゃんと佐藤さんの事教えておいてくれなかったのよ!!

お母さんこんな格好で挨拶しちゃったじゃない!!」

「はあ?別にどんな格好でもいいじゃない」

でも、お母さんは私の台詞なんてまるで無視。

慌ててリビングに入るとお父さんの読んでる新聞を引ったくり無理やりお父さんを着替えさせた。

「おいおいどうしたんだ?一体。ところで祐巳、その佐藤さんって方はどんな人なんだ?変な人じゃないだろうな?」

「変な人って・・・大丈夫だよ、お父さん。凄くしっかりした人だから」

ていうか、かなりの女たらしだけどね。

これは聖さまの顔を立てる為にも私たちの幸せな未来の為にも口が裂けても言えないけど。

私がそんな事を考えていると、お母さんが横から口を挟んだ。

「お父さん!!もうね、すっごく綺麗な方なの。とにかく綺麗な方だから、だからお願い。

いつもみたいに転がって新聞読んだりしないでちょうだい!!」

いや・・・いやいや。聖さまそんな事気にする人じゃないって。ていうか、むしろ喜ぶと思うんだよね。

でも、お父さんはそれを聞いて今まで読んでいた新聞をたたみ、おもむろに床の掃除を始めた。・・・何故・・・?

「そ、そんなに綺麗な人・・・なのか?」

「ええ、近年稀に見る美人さんよ・・・。私ってば思わず固まってしまったもの・・・」

「そ、そうか・・・よし、祐巳。当分降りてくるな。いいな?頃合を見計らってこっちから呼ぶから」

「はあ!?あ、あのねぇ、聖さま・・・じゃないや。聖さんは別にそんなの気にしないってば。

だから普通にしててよ、お願いだから」

むしろ変に取り繕おうとすると絶対にボロ出すに決まってるんだから!そっちの方がよっぽど恥ずかしいよ!!

「なに言ってるんだ!!お前、家族が恥かいてもいいのか?」

「いや・・・だから・・・」

「そうよ、祐巳ちゃん!そりゃ祐巳ちゃんは見慣れてるかもしれないけど、お母さんたちは初めてなんですからねっ!!」

恥かくのは明らかに目に見えてる。ていうか、お母さんに至っては迎えに出てきた時点で既に赤っ恥かいてたよ。

それにお母さんの理屈も意味分かんないし・・・まぁ、言いたい事は分かるんだけど・・・。

そりゃ私も初めて聖さまを見たときは・・・どこの外国人モデルかと思ったほどだったもの。

よもやそんな人と私が付き合ってるとはね・・・ほんと、人生って何が起こるかわかんないなぁ・・・。

「とにかくっ!!いいか、まだダメだ。まだ降りてくるなよ!」

「・・・わ、分かった・・・でも、あんまり変な事しないでね・・・普通に、あくまでも普通に・・・ね?」

「大丈夫よ、祐巳ちゃん。お母さんちょっと着物に着替えるぐらいだから」

「?!」

驚いてる私を、父と母は部屋から追い出した。ま、まさか本気じゃないよね??

ていうか、お父さんまで紋付とか着だしたりしないよね!?あぁ・・・やりそう。そういう事するんだよ、あの両親は・・・。

何となくだけど、さっき聖さまが言ってた、仲間が欲しいってのが分かった気がした。

祐麒・・・お願い、早く帰ってきてこの二人の暴走を・・・止めて!!


閑話休題。『俺んち』


家に帰ると、何故か両親は着物だった。妙に着飾ってて、一瞬家を間違えたかと思ったほどだった。

確かに正月だし?別におかしくないのかもしれないけど、でもやっぱり何か不自然だ。

二人のこのぎこちない態度・・・一体俺の居ない間に何が起こったんだ?

「ただいま・・・あれ?祐巳は?」

「おう、祐麒か。お帰り。祐巳はまだ部屋だぞ」

「そう、なら一応新年の挨拶とかしとくかな」

階段を上ろうとした俺を、何故か母が止める。

「なに?」

「いえね、祐巳ちゃんのお友達が来てるのよ。だから粗相のないようにね。ちゃんと挨拶するのよ?」

「・・・分かったよ。だから手、離してくれる?」

ていうか、どうしていちいちそんな事注意されなきゃならないんだ。もう子供でもないのに。

やっぱりあれかな。親からしたら子供なんていつまでたっても子供なのかな。それはそれで癪だけど。

とりあえず久しぶりに祐巳に顔出してやんないとな。もうどれぐらい会ってないっけ?俺も家を出てから随分経ってるし・・・。

まぁ、多分祐巳はあのまんまなんだろうな、って容易に想像する事が出来た。多分、何も変わってない。

だから俺は安心してたんだ。祐巳が連れて来る友達も、きっと祐巳と同じようなタイプだろう、と。

多分前に聞いたルームシェアしてるって、何とかって同僚の人だろう、と。

コンンコン。軽くいつもの調子でノックすると、中から懐かしい軽快な声が聞こえてくる。

「祐巳―、俺。祐麒だけど」

すると中から、待ってました!って声が聞こえてきた。声からして祐巳じゃない。じゃあ友達の方か?

声だけ聞くとどこか中性的な響きのする声に、戸惑った。だって、もっと甘い声を想像してたんだ。

で、ドアが勢いよく開いた瞬間、俺は固まった。目の前に、フランス人形が立っていた。

「初めまして」

よく通る声が耳に届く。でも、一言も話せなかった。それどころか、多分俺は今耳まで真赤だ。

「あ、あの・・・明けましておめでとうございます」

「はい、おめでとう。私は佐藤聖。祐巳ちゃんとルームシェアしてます。これからもよろしく」

「は、はいっ、よ、よろしくお願いしますっ!!」

サトウセイ。ぴったりだと思った。このフランス人形にはこういうサラっとした名前がぴったりだ。

しかしながら、こうしてみると・・・祐巳が不憫だ。そして俺も・・・。どうしてこんなにも地味なんだ、俺たちは・・・。

「やっぱり姉弟だね。祐巳ちゃんとよく似てる」

「そ、それは多分、製造元が同じなので」

「そりゃそうだ!面白いこと言うね」

「ゆ、祐麒。とりあえず入ったら?」

固まる俺に多分祐巳は助け舟を出してくれたんだろうけど・・・入れる訳がない。流石の俺にも心の準備ってものがある。

いっそ俺も両親みたいに紋付袴でも着るべきだろうか。そんな事考えてる俺に佐藤さんは言った。

「ねぇ、祐麒って呼んでいい?ていうか、祐巳ちゃんがそう呼ぶからそっちの方がしっくりくるんだよね。それとも祐麒君?」

「あ、いえ、ど、どうぞ好きに呼んでくださいっ!!」

「そう?なら私の事も好きに呼んでくれていいからね」

カラカラと笑う佐藤さん・・・そうか。美人は大口開けて笑っても崩れないのか。俺はそんな事に感心していた。情けないけど。

階下に下りた俺を心配そうな目で待っていたのは母だった。

「ど、どうだった?」

「どうって・・・何が?」

「だって、凄く綺麗な方だったでしょう?」

「うん。何だか・・・祐巳が不憫だった・・・」

実の姉の事をこんな風に言うのは良くないと分かってはいても、思わない訳にはいかない。ありゃ相当な美人の部類に入る。

俺の言葉に母は何も言わず頷く・・・って、おい!!いいのか、それで!!

「でもほら、祐巳ちゃんは心が綺麗だから・・・ね?」

「いや、ね?って言われても・・・」

それ、フォローになってないし。むしろちょっと傷つく。そこに父が現れた。

「ど、どうだった?こんな格好しなきゃならないほどの美人か?」

「・・・まぁね。俺も着ようかなって思ったほどだった」

「・・・そうか・・・」

この親にしてこの子ありってのは、こういう事を言うんだろう、きっと。

どっちにしても、祐巳は幸せ者だ。あんなにも綺麗な人を毎日見られるのだから。美人が3日で飽きるなんて、そんなの嘘だ。

俺なら絶対に飽きない。それにしても・・・どうして祐巳はよりによって佐藤さんと一緒に暮らそうと思ったんだろう?

きっと、それは祐巳にしか分からないんだろう。でも・・・久しぶりに会った祐巳は、とても楽しそうだった。

いや、毎日が凄く楽しいって、そんな顔だった。それに・・・少しだけ綺麗になったような気もする。

それって、やっぱり弟としては凄く嬉しい。サトウセイ・・・か。案外、あの二人気が合うのかもな。


第五十一話『幸せの肖像』


一家団欒ってこういう事を言うのだと、悲しいけど私は初めて知った。だって、私はこんなにも楽しい正月を過ごした事ない。

お母さんは祐巳ちゃんに似てて、綺麗というよりは可愛らしい感じ。

さっき出迎えてくれた時は洋服だったのに、今は何故か着物。何でも、わざわざ私の為に着替えてくれたらしい。

「本当にもう、お母さんもお父さんもはしゃぎ過ぎなのよ。あーもう、恥ずかしいんだから・・・」

「どうして?いいじゃない。私は嬉しいよ?」

私の言葉にお母さんの顔がパッって綻んだ。

まるで花が咲いたみたいな笑顔を見ていると、後何年か後の祐巳ちゃんの姿を見ているみたいで何故か照れてしまう。

「それより祐巳、お前学校楽しい?案外生徒達にからかわれてたりしてんじゃないの?」

お!なかなか鋭いね、祐麒は。祐麒は重箱の中からから揚げを取りながら祐巳ちゃんの顔を覗き込む。

「そ、そんな事ないよっ!皆、先生、先生、って慕ってくれるもん!ね?聖さ・・・ん!!」

どうやら祐巳ちゃんはやっぱり私の事を『聖さん』と呼ぶ事に慣れていないよう.。そんな必死な祐巳ちゃんが凄く面白い!

「そうかなー・・・あれは慕われてるって言うの?」

「えっ!?ち、違うんですかっ!?」

「いや〜・・・私の口からは何とも。あ、でも勿論好かれてはいますよ?私を含め他の教師達にも生徒達にも」

ヤバイヤバイ。ついついいつもの口調で・・・ほら、お父さんもお母さんも心配そうな顔してる。危ない危ない。

私は慌ててフォローの言葉を付け足した。いや、祐巳ちゃんが教師、生徒に問わず好かれてるのは事実なんだけど。

祐巳ちゃんがリリアンに来るまでと、来てからでは随分職員室の中の雰囲気が変わった。

この少し異色の保健医が来てからというもの、学校という場所の空気が少し和らいだような気さえする。

「それにしても、祐巳ちゃんが一人暮らしを始めるって言い出した時は本当にお母さん心臓が止まるかと思ったんだから。

ねぇ?お父さん?お父さんも随分心配してたものね?」

「ああ、まぁなぁ・・・ついこの間まで幼稚園に行きたくないと泣いていた祐巳がなぁ・・・」

大きくなったもんだ。そう言ってお父さんはグラスに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干す。

私は、どうして祐巳ちゃんがこんなにも素直で真っ直ぐに育ったのかがほんの少しだけ理解出来たような気がした。

この家庭は暖かい。とても心地いい。

正月になれば皆が集まって重箱の中のおかずを取り合いするような、

そんな絵に描いたような幸せな家庭・・・こんな団欒・・・うちには無い。いや、だからって別に殺伐としてる訳ではないけども。

「聖さま?どうか・・・されましたか?」

そんな事を考えていた私を見て、心配そうに祐巳ちゃんが呟いた。ふと顔を挙げると皆が私を心配そうに見つめている。

や、やば!ついうっかり輪を乱してしまうとこだった!!

「い、いやっ!ただ、ほら、祐巳ちゃんでも幼稚園行きたくないとか言ってたのかーと思って・・・ね!なんか意外だなって」

私の言葉に祐麒もお母さんもお父さんまでもが笑った。一方祐巳ちゃんは一人しかめっ面をしている。

「いや〜、祐巳は幼稚園が嫌いでね。毎朝毎朝電信柱にしがみついて駄々こねて・・・あれは大変だった」

「そうそう!子供って案外力が強くて、引き離すのに毎朝苦労させられてね」

「俺なんか毎朝毎朝祐巳のせいで遅刻寸前。全く、巻き込むなよな、俺を」

「祐巳ちゃん・・・そんなに幼稚園嫌いだったの?」

そんな電信柱にしがみつくほど嫌いだなんて。しかも祐麒まで巻き込んで。

家族の一斉攻撃に祐巳ちゃんは耳まで真赤にして抗議する。

「だ、だって!クラスのいじめっ子がね、私にばっかり意地悪するんだもん!!」

「意地悪ってどんな?」

幼稚園児のイタズラなんてたかが知れてる。私はそう思って聞いた。すると、祐巳ちゃんの表情が少し曇る。

「ブランコこいでたら突然やって来てむちゃくちゃに私の背中押したり、

滑り台滑ろうとしたらわざと通せんぼしたり・・・まぁ、色々です」

それってさ・・・いわゆるアレじゃないの?ほら、よく言うじゃない。私も実はそういうタイプだったし。

「その子、祐巳ちゃんの事好きだったんじゃないの?」

私の言葉に、祐巳ちゃんを創め福沢家の皆の顔が一瞬強張った。・・・え?な、何?も、もしかしてタブーだった?

そう思った瞬間、お母さんがポンと手を打つ。

「そうよ、きっと祐巳ちゃんの事好きだったのね、その子」

「よく言うからな。男の子は好きな女の子を苛めるもんだ」

「俺はした事ないよ、そんな事」

「そ・・・そうだったのかな・・・え、ええ〜?」

皆それぞれ好きなこと言って誰も人の話聞いてないところが笑える。でも、こら。どうして祐巳ちゃんは頬を赤らめているの?

頬を両手で覆って顔を真赤にしてニヤニヤしている祐巳ちゃんに、少なからず私は腹が立った。

いや、相手は幼稚園児な訳だけども、しかもとっくに過去の話なんだけども。それでも何か悔しい。

コホンと咳払いした私に、祐巳ちゃんはハッって顔を挙げた。そして、誰にも聞こえないような声でポツリと言う。

「妬けます?」

えへへ、って嬉しそうに笑う祐巳ちゃんはほんっと、憎たらしい。分かってるわよ、私だって。でも、これはもう理屈じゃない。

私はフンって鼻を鳴らして祐巳ちゃんを見下ろし、やっぱり小声で言った。

「少し・・・ね」

それを聞いて祐巳ちゃんは予想以上に嬉しそうな顔するもんだから・・・まぁいっか、ってなる。私、甘いなぁ、もう。

それから話題は変わって、私たちの話になった。

「それじゃあ佐藤さんは、理事長さん直々に頼まれて英語の教師を?」

祐麒は感心したような眼差しを私に向けてくる。あー・・・そういう期待に満ちた目をしないで、お願いだから。

「いや、今の理事長がたまたま私の親友なのよ。で、教免持ってた私を誘ったってだけの話なんだけどね」

「それでも凄いわよ!ねぇ?お父さん?」

「うむ、そうだな。いくら親友でもやはり教師という仕事を任せるからには絶対の信頼がないとな」

う・・・うぅ・・・や、やめて・・・変なプレッシャーを与えないで・・・とは、流石に言えない。

だからとりあえずお礼を言って笑っておくことにした。案の定隣で白い目をして私を見上げる祐巳ちゃんの視線が痛い。

「で、私が引っ越したマンションの隣に聖さんが引っ越してきて・・・それで・・・」

祐巳ちゃんはそこで言葉を切った。どうやら、私たちがどうして一緒に暮らし始めたか、という理由は考えていなかったらしい。

予想外の展開に祐巳ちゃんは相当てんぱってる。だから私は助け舟を出すことにした。

もう、本当に嘘つけない性格なんだから。でも、その素直さが私は気に入ったんだけどね。

「私たちの住んでるマンションって、2LDKなんです。

それなら、二人で住んだ方が得じゃない?って私から祐巳ちゃんに言ったんですよ。家賃も半分になるし。ね?祐巳ちゃん?」

「そ、そう!!魅力的でしょ?家賃が半分になるのは!」

もう必死。そんな祐巳ちゃんが愛しい。そして笑える。それを聞いたお父さんとお母さんは、なるほど!と言って笑っている。

けれど祐麒は・・・やっぱり歳が近いと勘がいいのかもしれないな。私たちを不振そうに見つめながら、ビールをついでいた。

「ところで佐藤さん。どうして祐巳なんですか?他にも一緒に住めそうな教師は居たんでしょ?」

う・・・こ、こいつなかなか厄介かもしれない。それは、どうも祐巳ちゃんも同じことを考えていたらしい。

顔を引きつらせて苦笑いを浮かべている。

「他の教師はね、私の性格を許してくれないの。祐巳ちゃんだけだったのよ、こんな私でも受け入れてくれたのは。

だからかな。祐巳ちゃんを誘ったのは」

これは嘘じゃない。皆私の事を仲間だとは思っていても、それ以上の感情を抱いてはくれないし、私も望んでない。

そんな中で祐巳ちゃんだけが、私の中に入り込もうとしてくれた。怖がらずに、私を、見てくれた。

私の答えに皆口を閉ざしてしまった。もしかすると、これは言わない方が良かったのかもしれない。

でもね、好きな人の家族に好かれようとするのは簡単だけど、でも嘘ばかりつくのは嫌。

ましてや祐巳ちゃんとの事を聞かれている所で嘘をつくのは・・・やっぱり間違ってる。

「そ、それは一体どういう・・・?」

祐麒はポカンとした顔で私を見ている。そりゃそうだ。こんな答えが返ってくるなんてきっと思ってなかっただろう。

だから私は言った。どうして私が祐巳ちゃんと暮らしだしたのかを。もちろん・・・大事な所は省いたけど。

「私さ、どっちかっていうと人との交流が苦手なのね?でも、祐巳ちゃんが来てから変わった。

人との関わり合いって案外いいかもって思ったの。祐巳ちゃんの前では素直になれたし、泣く事も出来た。

ウマが合うっていうのかな。私にとって、凄く大切な存在だったんだよ、祐巳ちゃんは。だから一緒に暮らそうって思ったの。

ただそれだけの理由なんだけどね。初めは一種の賭けでもあったんだけど・・・案外上手くいってるでしょ?」

まぁ、これは私個人の意見だから祐巳ちゃんが本当はどう思ってるのかは知らないけどね。私はチラリと祐巳ちゃんを見た。

涙ぐんでる。お母さんも、そしてお父さんまでもが・・・な、何も皆で泣かなくても・・・ほんと、この家族は。

「そう・・・だったんですか。確かに、祐巳は人懐っこいというか、頼りないところがあって時々危なっかしいですけど、

根は凄くいい奴なんです。そんな所をもしかしたら佐藤さんは見つけたのかもしれませんね」

「それは・・・多分、私だけじゃないよ。

一緒に仕事してる仲間も、生徒も、皆祐巳ちゃんのそういう所、ちゃんと知ってると思うよ」

悔しいけどね。祐巳ちゃんは本当にいい子なんだ。嘘つけないし、私にだけ優しい訳じゃないし。

だからたまに腹立ったりするけど、でもそこが彼女の尊敬すべきとこだって事もちゃんと分かってる。

「聖・・・さま・・・」

「ははは、こんな話するの初めてだったかもね」

「初めてでしたよ!!そ、そんな事・・・どうして今まで教えてくれなかったんですか!!」

「だって、聞かれなかったから。それに・・・恥ずかしいじゃない。面と向って言うの」

感極まって私の事を既に『聖さま』って呼んじゃってるけど、まぁ今はいいか。きっと誰も気にしてない。

と、突然お母さんが身を乗り出し私の手をギュっと握った。

「佐藤さん!本当はね、私たち心配で心配でしょうがなかったの。

佐藤さんがどんな人なのかも分からないし、もしかしたら祐巳ちゃんってば、

騙されてるんじゃないか?なんて思ったりもして・・・。でも・・・でも・・・一瞬でもそんな風に思った私が恥ずかしいわ。

この子はさっきも祐麒が言った通り頼りない所が沢山あるけど、佐藤さんが一緒ならきっと大丈夫ね。

ありがとう、佐藤さん。祐巳ちゃんの事をそんな風に言ってくれて、本当にありがとう。これからもこの子をよろしくね」

涙ながらに私にそんな事言うお母さんに、私はただ頷くしか出来なかった。何だか、私まで嬉しかった。

別に私たちの関係を認めてもらえた訳でもなんでも無いんだけど、それでも凄く嬉しかったんだ。

「祐巳、今毎日が楽しいか?」

お父さんは少し寂しそうにポツリと言った。祐巳ちゃんは、そんなお父さんにとびっきりの笑顔で頷いた。

「はいっ!だって、聖さまと一緒ですから!!」

「そうか、ならいい」

重箱の中から栗きんとんをつまむお父さんの横顔が、何だかとても切なく見えた。あぁ、これが娘を持つ父親の顔なんだ。

私の父さんもこんな顔してくれる事、あるんだろうか?いやー・・・無いだろうなぁ。

その時だった。祐麒が突然私の隣までやってきて、祐巳ちゃんに聞こえないような声でポツリと言った。

「祐巳のやつ、どうも佐藤さんの事相当好きみたいです。襲われないように気をつけてくださいね」

ニヤリって笑う祐麒の顔は、まるでイタズラっ子みたいな顔だった。しかし言えないよな、いつもは私が襲ってるだなんて。

「分かった。気をつけるよ。まぁ、襲われちゃっても構わないけどね、祐巳ちゃんなら」

不敵に笑う私を見て、祐麒は一瞬戸惑ったような顔してたけどすぐに笑顔に変わった。

「なんだ、両想いか」

からかうような祐麒の顔は、驚くほど祐巳ちゃんとそっくりだった。多分、これで祐麒は何となく気づいただろう。

私たちの関係を。でも、それを咎める事は・・・しないんだな。何だかそれが不思議だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「もう帰っちゃうの?泊まっていけばいいのに」

「ううん。明日は聖さんちに行かなきゃだから、今日は帰るよ」

祐巳ちゃんの言葉にお母さんの顔色が変わった。

「ど、どうしてそういう事を早く言わないのっ!!ちょ、ちょっと待っててね!」

そう言ってお母さんはリビングへと消えてしまった。そんな私たちの元にやってきたのは、お父さんだ。

「祐巳、佐藤さんに迷惑かけるなよ?佐藤さん、どうかこれからも祐巳をよろしくお願いします」

「あ、いえ・・・こちらこそ。祐巳ちゃんにはお世話になりっぱなしで」

ていうか、お父さん。その挨拶はまるで祐巳ちゃんを嫁にでもやるような挨拶だよ。きっと、それは祐麒も思ったのだろう。

「父さん、祐巳を佐藤さんのとこにでも嫁がせるつもり?」

そんな事言う祐麒に、お父さんはにっこり笑うと(初めて笑った!)言った。

「そうだなこのまま貰い手がつかなかったらそうしようかな。わはは」

「あはは、私でよければ」

そんな団欒をヒヤヒヤした様子で祐巳ちゃんが見守っている。そこに、ようやくお母さんが手に何か持って戻ってきた。

「あら、なぁに?お母さんも混ぜてちょうだい」

「いや、父さんがさ、祐巳の貰い手が見つからなかったら佐藤さんとこに嫁がせようかって話してただけだよ」

その話にお母さんは手を叩いて喜んだ。

「あら、いいわね〜、そうしちゃいなさいな、祐巳ちゃん」

「は・・・ははは・・・」

祐巳ちゃんは固まったまま笑っている。その様子を祐麒が意地悪な笑みで見守っていたのは・・・あえて黙っておこう。

やっぱりこの家族はいいな。いつも楽しそう。

お母さんは祐巳ちゃんに風呂敷を持たせると、私にペコリと頭を下げた。

「一応、これはうちからという事で、お母様に渡してもらえるかしら?」

「はい、分かりました。わざわざありがとうございます。本日は突然お邪魔してしまって本申し訳ありませんでした。

おせち料理は美味しいし、祐巳ちゃんのご家族は皆楽しいし・・・本当に楽しい一日でした。

それじゃあ、今日はこれで失礼します。ありがとうございました」

私は挨拶をし終えると、深々と頭を下げた。そんな私にお母さんは慌てた様子で言う。

「やだ、顔上げてちょうだい。こちらこそ祐巳をよろしくね。それから・・・またいつでも遊びにいらっしゃいな」

「はいっ!ありがとうございます」

私が挨拶し終えるのを待っていた祐巳ちゃんがそっとドアを開けた。

「それじゃあ、帰るね。また来るから」

「ええ、気をつけてね」

「またな、祐巳」

「しっかりやるんだぞ、祐巳」

「分かってるって。それじゃあ、またね!」

私はドアを出る前、もう一度頭を下げた。そんな私に、皆にっこりと笑ってくれる。ああ・・・いいな、この家族。

こんな家族を、祐巳ちゃんともてたら・・・それはもう、幸せでしょうがないんだろうな。

・・・でも、祐巳ちゃんとなら、きっとこういう幸せが・・・待ってるんだろうな。


第五十二話『聖‘S HOME』


昨日マンションについてからずっと聖さまは溜息ばかりついてて、どうしたんです?って聞いても何も答えてくれないし、

シャワーだけ浴びて早々にベッドに潜り込んだきり、昼まで言葉を交わす事はなかった。

翌日、お昼ごろに起き出した聖さまは言った。

「さて、それじゃあそろそろ敵地に向うか」

と。

て・・・敵地。それって、聖さまの実家の事?ていうか、どうしてそんなに実家に帰るのが嫌なんだろう?

そりゃ聖さまは確かにちゃらんぽらんな所もあるけど、でもそれ以上に良い所も沢山ある。

聖さまの親だってそんな事きっと分かってるだろうし、それは聖さまにも伝わってるだろうに。

でも、聖さまは嫌がるんだよね。帰るの。一体どうしてなんだろう・・・。

私たちは支度を済ませて出掛けることにした。いつもは元気な人が、元気がないと何だか切ない。

途中有名なお菓子やさんでお土産のお茶菓子を買って、車はどんどん郊外へと走ってゆく。

意外に遠くから通ってたんだな、聖さまは。そんな事考えながら私は窓の外をずっと見ていた。

聖さまの家は閑静な住宅街の真ん中辺りに立っていて、今風の大きな白いおうちだった。

「ついたよ。ところで祐巳ちゃん、一つだけ注意点が」

「ちゅ、注意点?何です?」

こ、怖いよ。今更そんな変な脅しかけないでよね・・・。真面目な聖さまの顔を普段あまり見ないからちょっとドキドキしてしまう。

そんな私に聖さまは言った。

「うちさ、多分母親しか居ないと思うのね。で、私実は今日来ること言ってないんだ・・・」

「ど、どうしてです!?ていうかそれじゃあもしかして私の事も・・・?」

「うん。言ってない。まぁ、怒られる事はないと思うけど。それと、うちの母さん人使い荒いから・・・今のうちに覚悟しておいて」

「は・・・はあ・・・」

どうして私はノコノコついてきてしまったんだろう・・・今になって後悔してももう遅い。

聖さまは嫌がってた割にはスタスタと家に向って進んで行ってしまう。あぁ、ちょっと、待ってくださいよ!こ、心の準備が・・・。

そんな私の心の内も知らず、聖さまはドアノブに手をかけそれを回した・・・すると、ドアが開いたではないか。

「また・・・鍵かけてない」

ボソッっと呟いた聖さまは私を振り返って苦笑いする。その顔を見て私は理解した。あぁ、きっといつもの事なんだろう、と。

「ただいま〜」

「せ、聖さま!?」

ちょ、ちょっと待ってよ!!どうして一人で入っていっちゃうのよ?!

ていうか、あれだけ嫌がってたのに随分普通に家の中に入ってゆく聖さま。

・・・もしかすると、本当は帰ってきたかったんだろうか?なんて思ってしまう。

私はポツンと玄関に取り残されたまま、聖さまが消えたリビングであろうドアを見つめていたんだけど、

突然、中から女の人の叫び声が聞こえてきた。

「きゃぁぁ!!!び、びっくりするじゃないのっ!!い、いつ帰ってきたの、聖ちゃん」

「聖ちゃん・・・」

そうか、聖さまはお母さんに聖ちゃんって呼ばれてるのか。何だか可愛いな、聖ちゃん。ぷぷぷ。

お母さんの叫び声に続いて今度は聖ちゃんの、もとい、聖さまの声が聞こえてくる。

「失礼な。ちゃんとただいまって言ったわよ。全く、何も叫ばなくてもいいのに」

「そ、そんな事言ったって、もう二年近く家に寄り付かなかった娘が突然後ろに立ってたらびっくりするでしょう!?」

そりゃそうだ。お母さん、それ、正解だと思います。ていうか、聖さま実家に帰らなさすぎです。

つうかさ、私・・・一体いつまでここに居ればいいんだろう・・・そろそろ一人突っ込みも飽きてきたんですケド・・・。

「あ、そうそう、驚かしたついでにもう一つニュースが」

「何?もうこれ以上は驚かないと思うんだけど・・・」

「そう?なら言うけど、あのね、玄関にお客様が来てるの」

その言葉に続くお母さんの言葉は聞こえなかった。その代わりに、慌しく人が動き回る気配・・・聖さま・・・。

私が聖さまという人格に改めて憔悴していると、その聖さまがひょっこりと顔を出した。

「おいで、祐巳ちゃん」

「へ!?え、えっと・・・そ、それじゃあ、お、お邪魔します・・・」

「はい、どうぞ」

えっと、靴を脱いで、それからそろえて・・・あ、聖さまのもそろえといてあげよ。

で、お母さんに会ったらまずこれを渡して・・・新年の挨拶でしょ。

・・・それから・・・えっと・・・あぁぁぁぁ、どうしよう・・・すっごい緊張する!!

恐る恐るリビングのドアをくぐった私は、失礼だとは思いながらもリビングの中をグルリと見渡した。

部屋の中はすごくきちんと整理されていて、無駄な物が一切ない。

カントリー調に統一された家具たちは、まるで元々添えつけてあったみたいにこの家にしっくりときている。

なるほど・・・聖さまの綺麗好きはきっとここから来てるんだぁ。そんな事考えると、何だか凄く幸せな気分になった。

暖炉の(家の中に暖炉がある!)上に立てられた写真たてには家族の写真が置いてある・・・ていうか、ここは外国か!

聖さまの見た目通り、何だかアメリカンな家だ。ていうか、煙突があるって時点で私は驚きなんだけど。

「なにきょろきょろしてんの?何か面白いもんある?」

「へ!?あ、え、えと・・・素敵なおうちだなぁ・・・と。うちとは違って凄く片付いてて綺麗・・・」

そう、何だか整然としすぎて何だかモデルハウスのようだ。私の言葉に聖さまは苦い笑みをこぼす。

「生活感ないでしょ?あの人恐ろしいほど綺麗好きだから」

「はあ、そうなんですか?」

「うん。ちっちゃい頃よく怒られたもん。落書きするな!壁に穴開けるな!!って」

聖さまの言葉に私はもう一度部屋の中を見渡した。

そうか、どうしてさっきあんなにも幸せな気分になったのかが少し分かった。

ここは、聖さまが育った家だったからなんだ。だから私は、何だか嬉しくなってしまったんだ、きっと。

「なに?今度は思い出し笑い?」

気持ち悪いなぁ、って笑う聖さまの顔がとても優しい。だから私もついつい笑ってしまった。

「いえね、ただ、ここで聖さまが育ったんだなぁって・・・そんな事考えてただけですよ」

「ふーん。変な祐巳ちゃん。ところで・・・たかがお茶の用意するのにどれだけ時間かけるのよ、あの人は。

あ、そこらへん座っててね」

そう言って聖さまはリビングの真ん中にあるソファを顎でしゃくって見せた。だから私は大人しく腰を下ろすことにした。

もちろん、落ちそうなほど端っこに。・・・うぅ、庶民だなぁ、私・・・。

しばらくすると、ようやく聖さまがお茶とお茶菓子を持って現れた。

そして、その後ろから清楚そうな、綺麗な女の人がやってくる。ま、まさか・・・この人が聖さまの・・・お母さん!?

つか、すんごい綺麗なんですけど!!聖さまとはまた違ったタイプの美人なんだけど、やっぱっり親子だ。

雰囲気とかそういうのは凄く似てる。どこか人を寄せ付けないような、そんな感じが。

私は慌てて立ち上がって、必要以上に大きく頭を下げた瞬間・・・ゴン!!激しい痛みと、音。

「にゃっ!!」

あ、あわわわわわわ・・・ど、どうしよう・・・恥ずかしくて顔が挙げられない・・・おまけに頭も真っ白・・・。

一瞬、部屋の中がシンってなった。べ、別に笑いとろうと思った訳じゃないけど、こうもシンってされると、逆に切ない。

あぁ、もう!!私って本当に何やってもきまらない!!!いっそ消えてしまいたいっっ!!!

と、その時だった。俯いたままの私の目に、聖さまの足だけが映る。その足は慌ててこちらに寄ってきた。

「だ、大丈夫?凄い音したけど」

「は、はぁ・・・まぁ、なんとか・・・」

私はおでこをそっと抑えながら、恐る恐る顔を挙げた。聖さまのお母さんはまだポカンとした表情で私を見つめている。

「びっくりした・・・何が起こったのかと」

ポツリと言う聖さまの肩が震えている。ええ、ええ、私も思いましたよ。何が起こったのか、と。

チラリとお母さんを見ると、聖さまにつられたのかおかあさんの肩までもが微かに震えていて・・・うぅぅぅ。

今すぐここに穴掘って埋まってしまいたい。もうほんと、自分が嫌すぎるっ。

「あ、あの・・・あ、明けましておめでとうございます・・・ほ、本日は突然お邪魔して申し訳ありませんでした・・・。

あと・・・机に傷とかついてないといいんですけど・・・」

気を取り直してどうにか挨拶した私を見て、お母さんはさらに肩を震わせる。でもね、絶対声出して笑わないのね。

「母さん、いっそ笑ってやってよ。でないと可哀想じゃん」

そんな事言って聖さまはお腹を抱えて笑っている・・・いや、笑いすぎるのもどうかと思うよ?

チラリと聖さまを見ると、ようやく聖さまは笑うのを止めてコホンと咳払いするして私の隣に立って言った。

「母さん、紹介するわ。私の彼女、福沢祐巳ちゃん。可愛いでしょ?」

がはっ!!な、な、な、な・・・。多分、私は口をパカーンと情けなく開けて、聖さまを見上げていた・・・と、思う。

だ、だ、だって!い、今何て言いました?!思いっきり私の事彼女って・・・ねぇ、ねぇ、そう言った????しかもサラっと。

「せ・・・聖ちゃん?な、何を言ってるのか、お母さん分からないわ」

ええ、ええ。私にも分かりません。今、お母さんと私の心は一つだ。無意味に。

お母さんの顔から笑いは消え、睨むような瞳を聖さまに向けている。

「だから、私の彼女だって言ったの。福沢祐巳ちゃん、保健医よ。可愛いでしょう?」

そう言って聖さまは私の頭をよしよしと撫でてくれた。いや・・・いやいやいや、そうじゃないよ、聖さま。

昨日あれほどお友達で通しましょって・・・言ってたじゃないですかっ!!それなのに、速攻で裏切り発生!?

怖い顔のお母さんと、あっけらかんとした聖さまに挟まれた私は、まるでノミにでもなったような気がした。

いっそこのまま、犬とかの毛の間に隠れてどこかへ逃げてしまいたい。

でも、それは聖さまがさせてくれない。だって、私の手をギュって握ってるんだもん。

「聖ちゃん・・・あなた、ちょっとは大人しくなったのかと思ったら・・・また・・・どうしてあなたはそうなの!?」

「そんな事言われても仕方ないでしょ。私は女しか愛せないんだから」

ハッキリとそうやって言い切る聖さまの横顔は、私の瞼に焼きついた。何故かとても格好いいと思ってしまった。

恥じるべきではないと分かってはいても、なかなかそうはいかないのが現状な世の中で、

聖さまはこんなにもハッキリと言い切れるんだ。しかも、親に。それって、凄い勇気だ。

お母さんの握りこぶしが震えていた。きっと、今までもこうやってこの二人は何度も何度も衝突してきたに違いない。

「聖ちゃんっ!!・・・はぁぁ・・・もういいわ、好きになさい」

ソファに倒れるように座り込んだお母さんを、聖さまは冷ややかな目で見つめている。そしてゾクリとするような声で言った。

「当たり前よ。母さんに何言われたって私は別れないよ、今度は」

「ええ、そうでしょうね。でなきゃここには連れて来ないわよね」

そう言ってお母さんは聖さまの淹れた紅茶を飲み干した。

そして、飲み終えると同時に大きなため息を落とし、私をチラリと見る。

私はてっきり怒られるのだと思って、ビクンって身体を震わせた。だって・・・こ、怖いんだもん・・・。

でも、お母さんは次の瞬間私を見て、フッと目を細めた。あ、あれ・・・?

「祐巳ちゃん、ね。おでこは大丈夫?聖が何か迷惑かけてない?」

「は?い、いえ、だ、大丈夫です!め、迷惑なんてとんでもないですっ!!」

ああ、私は一体何を言ってるんだ。でも、聖さまのお母さん・・・怒ってないみたい。

聖さまを見る目は相変わらず怖いけど、私を見る目はとても優しい。何だかこの表情・・・聖さまと凄く似てる。

「母さんね、私を何だと思ってるの。私はいつも優しいわよねぇ?」

「え?え、えーと・・・そ、そう・・・ですね」

「・・・どうして詰まるのよ」

聖さまはそう言ってソファに腰を下ろして私を無理やり隣に座らせた。

何だか居心地がいいような悪いような微妙な気分に、私は酔いそう。

「ところで聖ちゃん、今日はどうしたの、突然」

「ん?いや、別に用事は無いよ。ただ祐巳ちゃんを紹介したかっただけ」

まるで何事も無かったかのような二人の会話に、私はついて行くことが出来ないでいた。ていうか、切り替え早すぎ!!

この親にしてこの子ありだ。間違いなく、この二人親子だっ!!当たり前だけど。

とりあえず聖さまの実家で私は借りてきた猫状態だった。大人しく、大人しく、ひたすら黙っておこう。

そうしたら、もう二度とあんな無様な醜態はさらすまい!


第五十三話『聖‘S FAMILY』


母さんとこうやってやり合うのは何年ぶりだろう。最後に好きな人の事で喧嘩したのは、栞の時だったような気がする。

私の中学、高校時代に何度か女の子絡みで呼び出された母さんは、絶対に私の事を許そうとはしなかった。

父さんは私を無理やり私を病院に連れて行き、母さんは泣き叫んだ。

何度も何度も意味の無いカウンセリングを受けて、すっかり人間不信になった頃、栞に出逢った。

栞は私の天使で、救いで、神様だった。もしかすると、私は栞を崇拝していたのかもしれない。

家族を信用出来なくなった私にとって栞が世界の全てになって・・・でも、当時はそれでも良かった。

だって、本気だと、私は信じていたから。だから栞に振られた時、私はもう生きてはいけないとさえ思った。

母さんは私をなだめ、父さんはようやく気づいたか、と喜んだ。でも違う。私は一つの恋を失っただけだった。

別に女の人が好きじゃなくなった訳ではなかったんだ。だからそれからは両親に黙って私は恋をした。

誰の事も両親には言いたくなかった。もう二度とあんな想いはしたくない。

誰も私の事なんて理解してくれないのなら、いっそ好きにしてやる。もう誰にも分かってもらえなくてもいい。

そんな風に思っていたのかもしれない。でも、祐巳ちゃんに逢った。

祐巳ちゃんは私を理解しようとして、それを消化しようとさえした。こんな人間は、久しぶりだった。

誰かの前で泣いたのも・・・久しぶりだった。もしもこの子が私を好きになってくれたなら、きっと私は一生この子と恋する。

何故かそんな風に思った。ほんと、不思議な話だけど。盲目的すぎると思われるかもしれない。

月並みな話、もっと他にもいい人が居るかもしれないだなんて言う人も居るかもしれない。

でも、先の事なんて誰も分からないし、この先もし誰も現れなかったら?そしたら一人で生きるの?それとも惰性で生きるの?

それは嫌。そんなのは嫌。私はいつまでも自分に正直で居たい。誰かを愛して、愛されていたい。

それなら、今を大事にするしかないんだと知った。今、この時を、この子を、大事にしなきゃならない。

初めて実家に連れて帰ろうと思ったほどの、この子を。こんな想いが母さんに伝わったかどうかは分からない。

伝わってなくても別にいい。また追い出されても構わない。殴られたっていい。

それでも私は祐巳ちゃんを離さない。それだけのことだ。この先たとえどんな未来が待っていたとしても。

母さんは私を呼んだ。だから私は祐巳ちゃんにそこで待ってるよう言うと、母さんについてゆく。

「聖ちゃん、どうして今日、あの子を連れてきたの?」

「どうしてって・・・さっきも言ったじゃない。紹介したかったのよ、ただそれだけ」

「紹介って・・・今まで聖ちゃんが自分からこんな風に誰かを連れてきた事なんて・・・」

確かに。今までの私にはそこまでの覚悟はなかったんだ、何だかんだ言っても。

だから言えなかった。母さんや父さんが怖かった。でも、今は怖くない。だって、一人じゃないもの。

もし私が世界中の人間を敵に回しても、絶対祐巳ちゃんだけは私の味方で居てくれると言い切れる。賭けてもいい。

それは、逆でも同じ事。結局、私には自信がついたんだ。胸を張って、祐巳ちゃんを好きだと言える自信が。

「母さん、私ね、自分でも分からなかった。ずっと悩んでた。でも、悩んだって男は愛せない。

いくら悩んでも、結果は同じ、キスしたいと思うのはいつも女の子だったの。それってそんなにもおかしいのかな?

確かに子供は作れないし、結婚も出来ない。保障だって無いし、問題も山積み。

でもね、それでも私は祐巳ちゃんと生きていきたい。母さんが父さんを選んだように、私は祐巳ちゃんしか愛せない。

だから今日、ここへ連れて来たのよ。私の選んだ子を、母さんに紹介する為に。父さんには・・・まぁ、後日言うわ」

私の真っ直ぐな目に、母さんが映る。その瞳が何を呟いているのか私には分からなかった。

ただ一つ言えるのは、こんな風に誰かを実家に連れてきたのはこれが初めてだという事。

それと、こんな風に臆することなく母さんに話が出来たのも・・・これが初めて。

「私、今回は絶対に譲らないからね」

不敵に笑う私を見て、母さんは少し面食らったようだった。こんな顔を見せた事なんてきっと無かっただろう。

でも、不思議と気持ちいい。言ってやった、そんな気分。

「一つだけ・・・一つだけ約束してちょうだい、聖ちゃん」

「なに?」

「祐巳ちゃんのご家族には、絶対に迷惑はかけない、と。いいわね?これはあなただけの問題じゃないの。

祐巳ちゃんにも家族が居て、きっと祐巳ちゃんは普通に結婚して家庭を持つと思ってらっしゃるわ。

それを、あなたが奪うのなら・・・ちゃんとケジメだけはつけなさい。

ちゃんとあちらのご家族にもお許しをもらいなさい。いいわね?

・・まぁ、これはあなたが男の子だったとしても、きっと私はこう言うでしょうけど」

母さんは、やっぱり母さんだった。私は、今初めて母さんが私の母親で良かったと本気で思ってる。

今日は何だか初めてづくしだ。やっぱり祐巳ちゃんの力は凄い。沢山の初めてを私に運んでくる。

私は言った。大きく頷いて。

「もちろん、そうするつもり。殴られる覚悟も出来てるよ」

私の言葉に母さんは笑った。

「聖ちゃんは一応女の子なんだからそういう覚悟はしなくてもいいのよ」

「そう?今は女も男もあんまり関係ないんじゃない?」

「まぁ、お父さんには殴られるかもね。でも・・・その時は私がお父さんを殴ってあげる。こんな子でも私の大事な娘ですもの。

もう・・・本当に長かったわ・・・一生かかるのかしらと思ってたけど・・・長かったわ・・・」

ポツリとまるで独り言みたいに呟いた母さんの瞳には涙の粒が光っていた。

「・・・うん、長かったね・・・ごめんね、こんな娘で」

「謝らないの!聖ちゃんが悪いわけじゃないでしょう?」

「そうだけどさ。母さん、ありがとう」

私は母さんをそっと抱き寄せた。フワリと懐かしい香りがする。そして初めて気づいた。

母さんって、こんなにも小さかったっけ?こんなにもか弱かったっけ?こんなにも・・・暖かかったっけ?

小さい頃の記憶が沢山波になって押し寄せてきた。あのお祭りの日の記憶も、家族で旅行に行った事も、沢山、沢山。

でも泣かない。私は、泣かない。だって、終わった訳じゃないもの。全て、これから始まるんだもの。

「晩御飯は何がいいかしら?」

「そうねー・・・久しぶりに煮込みハンバーグが食べたいな。まだ作れる?」

「当たり前じゃない。あれはお父さんと聖ちゃんが大好きな料理だもの。そうだ!祐巳ちゃんに手伝ってもらいましょう!」

「あれ?私は?」

私の言葉に、母さんはチラリと私を見て溜息を落とす。

「作れるの?料理」

「し、失礼なっ!何年一人暮らししてると思ってんの?」

「でも・・・聖ちゃんの味覚は変わってるから・・・」

実の母にまでこの言われよう・・・あんまりじゃない?こんな他愛もない話を母さんとするのは、いつぶりだろう。

とりあえずずっと昔だったって事は確かで、何だか照れる。多分、それは母さんも同じなのだろう。

さっきからずっと楽しそうに笑ってる。と、その時だった。突然リビングの方から短い叫び声が聞こえてきた。

「ちょっと行ってくる!」

「ええ、そうしてあげて」

リビングに戻ると、祐巳ちゃんが泣きそうな顔して私を見た。何か・・・凄く嫌な予感がするんだけど・・・。

「ど、どうしたの?」

「聖さまぁ・・・これ、そう言えば私すっかり忘れてました・・・」

そう言って私の方に大きな紙袋を差し出す。こ・・・これは・・・。

「さっき買った奴じゃない」

「そう・・・そうなんです・・・それ、中身なんだと思います?」

「え?羊羹とかそういうのじゃないの?」

私の質問に、祐巳ちゃんは小さく首を振った。申し訳なさそうに私を見上げる祐巳ちゃんの目は、明らかに助けを求めている。

「いいえ・・・違います。それ・・・アイス最中なんです・・・美味しいんです・・・」

「アイス!?ば、ばかじゃないの!?絶対溶けてるじゃん!!」

どうしてよりによってアイスなんて買うのか、と。まぁ、それが祐巳ちゃんらしいと言えば祐巳ちゃんらしい。

きっと、この店のこのアイス最中がとても美味しいからと言って、わざわざこれにしてくれたのだ。

私と、私の家族に食べてもらおうと。だからこんなにも泣きそうな顔して・・・。

「まぁ、アイスならまた固まるでしょ。帰る頃にはきっと食べられるよ」

「そ、そうでしょうか・・・だといいんですけど・・・品質とかに変わりは・・・無いと思い・・・ます」

「うん、分かった分かった。だからそんな顔しないの。ほら、鼻かんで」

ティッシュを差し出した私を見上げた祐巳ちゃんは、バツが悪そう。そりゃそうか。

せっかく持ってきたのに食べられないんじゃねぇ。私は祐巳ちゃんをその場に残し、それを母さんの居るキッチンに持ってゆく。

「何だったの?」

「うん?それがさ、祐巳ちゃんお土産持ってきてくれたんだけど、それがアイス最中だったんだって。

どうもさっきのショックですっかり忘れちゃってたみたい」

クスリと笑う私を見て、母さんは言った。

「あの子、祐巳ちゃんて可愛いわね。あなたもなかなか好みがうるさそうだけど、ちょっと変わった?」

母さんは私の恋愛遍歴を嫌というほど知っている。だからこそこんな事言うんだろう。

まぁ、社会で出てからの私の恋人は一切知らないんだけどね。

でも、やっぱり高校時代もそれ以降も大してタイプは変わらなかった。

だからある意味祐巳ちゃんはかなり異色なのかもしれない。まったく初めてのタイプと言ってもいい。

「まぁね。年取ると一緒に居て楽しい子の方がいいみたい。もう危ない綱渡りみたいな恋愛はいいわ」

私の言葉に、母さんは笑った。それは年ね!と言って。

いつか、いつかこんな風に母さんと恋愛の話が出来るようになるなんて、一体誰が予想出来ただろう?

何だか、心は軽くなったのに、重みは増したような気がする。ほら、いろんなモノに、色がつき始めた。


第五十四話『お母さんと一緒』


しかも聖さまの。これってかなり緊張する。だってほら・・・またお腹痛いもん。

「それじゃあ祐巳ちゃんはリリアンの卒業生じゃないのね」

「ええ、そうなんです。だからなかなかリリアンの伝統みたいなものが覚えられなくて」

ハンバーグの生地をこねながら言うと、小母様は笑った。どうやら聖さまの小母様もまた、リリアンの卒業生なんだそう。

だからリリアンの事は私よりも全然小母様の方が詳しい。

「じゃあ聖ちゃんとは全然面識なかったの?」

「はい」

「だったらビックリしたでしょう?あの子・・・ほら、あんなだから・・・」

小母様はそう言って頬に手を当て苦笑いする。まぁ、ぶっちゃけ、確かに初対面では驚いた。

だって、いきなり抱きつかれてほっぺにチューされたんだもん。そりゃ驚かない訳がない。

でも、これは言うべきかどうか私は迷った。だって、一応聖さまのお母さんなんだし・・・。

そんな私を見て小母様は声を出してさらに笑った。

「遠慮しなくてもいいのよ。我が子ながらほんとに・・・ねぇ?一体誰に似たのかしら」

溜息と笑いが混じったような笑みに、何だか切なくなった。

聖さまは一人っ子で、今頃はもしかするととっくに結婚とかしてたかもしれないんだから。

だって、聖さまの容姿は本当にいい。中身は・・・まぁ、かなり癖があるけども。でもきっと男の人はほっとかないと思う。

けど、本人には全くそんな気なくて、むしろ女好き。

これって小母様からしたらやっぱりショックなのかもしれないな、なんて思ってしまった。

いや、私の場合もそうかもしれないけど、うちはまだ祐麒が居る。でも・・・聖さまは・・一人なんだ。

たった一人の・・・娘なんだ。私は小母様の質問に何も答える事が出来なかった。

黙り込んだ私に、小母様は言う。

「祐巳ちゃんがそんな顔しなくていいのよ。確かに聖ちゃんはあんな子だけど、でもそれを恥ずかしいと思った事はないもの。

こんな風にいつかガールフレンドを連れて来るかもしれない、って心のどこかではもう覚悟出来てたし、

いえ・・・覚悟なんて言葉が悪いわね。でも・・・覚悟という言葉が一番・・・適切なのよ。

聖ちゃんが誰を好きになっても、今はもう構わないと思ってる。それがたとえ女の子でもね。

ただ・・・一応聖ちゃんも女の子もだし、母親としてはやっぱり普通に女の幸せっていうものを知って欲しかったわ。

結婚して、子供を産んで・・・でも・・・それは聖ちゃんの場合幸せには繋がらないのね、きっと。それは私の幸せなのよね。

もしもこんな事聖ちゃんに聞かれてたらきっと、舌を出して笑うんだわ。あの子、そういう子だもの」

確かに。聖さまならきっと、こんな話を聞いたら舌を出して逃げて行ってしまうに違いない。

もしくは、バカにしたみたいな顔して鼻で笑う。流石聖さまの母!娘の事はよく知ってる。当たり前だけど。

思わず笑ってしまった私を見て、小母様も小さく笑う。

「でもね、中学生の時からずっと悩まされてきたけど、今日祐巳ちゃんを連れてきたでしょう?

久しぶりだって言うのにそんな事お構いなしに入ってきて、あの紹介の仕方。本当に、呆れちゃう。

でも・・・あれが聖ちゃんで、彼女もまた、覚悟が決まったんだと思った。

聖ちゃんの覚悟が決まったのなら、私はもう何も言わない。それが母親として出来る唯一の選択だものね。

何だか娘自慢みたいになっちゃったけど、聖ちゃんは今とても幸せそうだから、もうそれでいいわ。

これからもよろしくね、祐巳ちゃん。それに・・・考え方によっては、娘が一人増えるんですもの。

喜ばなきゃバチがあたっちゃう。ただ一つだけ、祐巳ちゃんにお願いがあるの」

「・・・はい、なんでしょう?」

私の顔を見て、小母様は聖さまみたいに笑った。ちょっとだけ意地悪な、あの聖さま独特の笑い方。

「もう少しうちに帰ってくるよう、あの子に言い聞かせてちょうだい。いい加減寂しかったのよ、私も」

「・・・・・・はいっ!もちろんです!!」

そして、その時は祐巳ちゃんも一緒に帰ってらっしゃい。小母様はそんな風に言ってくれた。

聖さま・・・あなたは幸せ者です。本当に。こんな素敵なお母さん、きっとどれだけ探しても居ませんよ。

小母様が反対してたのは、聖さまが女の子ばかりを好きになるからでは無い。

ただ、本気かどうかが知りたかったんだと、私は思った。ただ闇雲に聖さまを否定してた訳じゃない。

それが・・・いつか聖さまに伝わればいいのに。いや・・・もうちゃんと伝わってるのかな。だって、親子だもん。

「随分楽しそうじゃな〜い」

私と小母様の密談に水をさしに来たのは、やっぱり聖さまだった。

「聖さま・・・探し物はありました?」

ご飯を作り始める前、聖さまは突然何を思い立ったのか探し物を始めたのだ。私の言葉に小さく首を振って言う。

「いいや」

聖さまは一体どこで何をしてきたのかと思うほど頭や肩に埃を被っている。それを見て小母様は明らかに顔をしかめた。

「聖ちゃん、お願いだからシャワー浴びてきてちょうだい。お夕飯に埃が入っちゃうわ」

「へいへい。あ、祐巳ちゃんレシピしっかり聞いといてね。んで、今度家で作って」

「はあ!?」

語尾にハートマークとかつきそうな甘い口調の聖さまに、思わず私は目を丸くした。ていうかさ、聖さまが覚えりゃいいじゃん!

でも・・・私が文句を言う前に、聖さまはすでにその場から姿を消していた・・・。

本当に素早いんだから!いや、私がトロいのか。そんな聖さまを、私よりも驚いて見ていたのは、やっぱり小母様で。

「あの子・・・いつもあんな調子?」

「えと・・・ま、まぁ、大体は・・・」

言葉を濁した私を見て、小母様は今度は真顔で言った。

「あれは間違いなくお父さん似ね」

・・と。

そうか、聖さまのお父さんはあんな事を言う人なんだ。やだわ・・・顔が似てれば中身も似るのかしら・・・。

ポツリと呟いた小母様の声は、ハンバーグと一緒に鍋で煮込んでしまおう。そして、聞かなかった事にしておく。

やがてシチューにトロみがついて美味しそうな匂いが部屋に充満し始めた頃、ようやく聖さまがキッチンに現れた。

「いい匂いがする〜・・・あぁ、懐かしいなぁ」

「そうでしょう?聖ちゃんは随分帰って来なかったものね」

お!小母様言うあぁ。小母様のこの言葉に流石の聖さまも苦い顔をしている。そりゃそうよ。帰らなさすぎなのよ、聖さまは。

「嫌味だなぁ、相変わらず。まぁ、これからはボチボチ帰ってくるよ」

それを聞いて小母様の顔は綻んだ。本当に嬉しそうに笑うんだ、この人。そして、そんな時の小母様の顔はとても綺麗。

きっと、聖さまでも敵わないに違いない。

机の上に並べられたサラダのミニトマトをつまみ食いする聖さまを見て、小母様の笑顔は苦笑いに変わった。

「こら、聖ちゃん。お行儀が悪いわよ」

「はいはい、ゴメンナサイ」

明らかに悪びれない聖さま・・・なるほど、聖さまの謝り癖はここからきてたのか。

きっと小さい頃からこうやってしょっちゅう叱られてたに違いない。でも聖さまの事だ。絶対、悪いと思ってなかったに違いない。

ホント、小母様もさぞかし大変だっただろうに。でも・・・だからこそ可愛いんだろうな。

小母様からしたらいつまでも聖さまは可愛い娘なんだ。私には見えない絆みたいなものがきっとある。

でも、それを寂しいとは思わない。だって、私にもお母さんとそういうのがあると思うもん。

いくら聖さまがそれを嫌がってたとしても、やっぱりお母さんの存在は大きい。現に聖さまは、私をここに連れてきてくれた。

私を、ちゃんと紹介してくれた・・・実はかなり嬉しかったんだ。本当は。

いつまでも隠しておかなきゃならないんだと、そう思っていたから余計に。

ふと視線を聖さまに移すと、今度はレタスを食べようとしている聖さまが目に入った。だから私はコホンって咳払いして言った。

「聖さま・・・それ以上食べたらレシピ覚えませんからね」

「え?」

持ってたレタスがポトリと落ちる。引きつった表情が何とも言えない。ほんと、しょうがない人なんだから。

「ほら、ちゃんとレタス戻してくださいよ、せっかく綺麗にしたのにー」

「ご、ごめんごめん。すぐ直すからっ」

そう言って聖さまはサラダの下の方から引き抜いたレタスを、元の場所に丁寧に戻し始める。

それを見ていた小母様はクスクス笑っている。

「嫌な子ね。祐巳ちゃんの言う事ならちゃんと聞くんだから!」

「そりゃそうでしょ。母さんとは縁は切れないけどね、祐巳ちゃんとは切れちゃうでしょ。

でも切れちゃ困るからね。私がしっかり捕まえとかないと」

ちょっと焦った感じでそんな事言った聖さまの台詞は、私と小母様の両方の顔を立てた。

こんな状況でもちゃんとフェミニストな聖さまが笑えるうえに、流石だなと思う。どうやらそれは小母様も同じ事を思ったよう。

「ほんと、お父さんそっくりになっていくわね、聖ちゃんは」

「そうなんですか?」

「ええ、そうなの。顔もだけどね、性格がね・・・悲しいくらにお父さんに似てるわ。あ、でも綺麗好きな所は私かしら?」

「へぇぇ・・・」

「もう、変な事祐巳ちゃんに吹き込まないでよ」

「聖さまはお父さん似なんだ・・・じゃあお父さんはさぞかし格好良いんでしょうね?聖さま?」

私の言葉に、聖さまの顔は紅くなった。どして?私、今何か変な事言った??小母様は何故か笑ってるし・・・。

「ま、まぁ、でも、私程バタ臭くはないけどね」

「そうねぇ・・・どうして聖ちゃんだけそんななのかしら・・・不思議だわ。覚醒遺伝ってやつかしら?」

小母様は聖さまの顔をマジマジと見つめて言う。そうか、この顔は佐藤家では聖さまだけなのか。

これがいわゆる遺伝子の神秘というやつか!何かに納得したような顔をしている私の顔を聖さまが覗き込む。

「なに?何か分かったの?」

「いえ・・・遺伝子って凄いなぁ、と。うちの場合は何だか皆そっくりなので・・・」

そう、これもある意味遺伝子の神秘だ。まるでコピーしたみたいに私と祐麒は似てる。

「言えてる!そっくりだよね、祐巳ちゃんちは皆。でも・・・覚醒遺伝か・・・ありえないとは言い切れないかも」

「そうなんですか?じゃあご先祖さまの誰かが外国の方だったんですか?」

「んー、よくは知らないけど。そんな話聞いた事あるってだけ。ねぇ、母さん?」

聖さまのその言葉に今度は小母様も頷いた。まるで記憶を辿るみたいにおたまでシチューをかき回している。

「そうねぇ・・・お父さんの方にそんな人が居たって聞いたような、ないような・・・放浪癖のある外人さん・・・とか何とか・・・」

「・・・ナニ、ソレ・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・」

なるほど。それはとても聖さまらしい。何だか妙に納得してしまった。

固まったまま動かない聖さまの困惑したような顔がおかしい。こんな聖さまの表情は、きっとここでしか見られないと思う。

だからかな?何だかこんな話を聞くのが楽しい。今まで知らなかった聖さまが少しづつ姿を現す。

この家の中にはずっと、聖さまの気配がする。ここで生まれて、ここで育った、聖さまの面影が・・・ずっと・・・。


第五十五話『ジェンガ』


一人で出来るけど、一人では遊べないもの。それは、トランプとジェンガ。どっちかって言うと、ジェンガの方が難しい。

そして、あれはとても恋愛に似てる。二人でどんどん積み上げて、やがてどちらかがバランスを崩す。

「そんで、こう・・・崩れるわけだ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

デザートのアイス(祐巳ちゃんの持ってきた最中アイス)が固まるまでの間、私の部屋で待つことにした。

母さんはお風呂に入ってるし、どっちみちリビングには誰も居ない。それなら、聖さまの部屋が見たいです!

っていう祐巳ちゃんの意見を尊重する事にした。部屋に入るなり祐巳ちゃんは口をあんぐり開けて部屋を見渡し言った。

「綺麗ですねぇ・・・チリ一つ落ちてない・・・」

「それは多分・・・母さんが掃除してたんでしょ。いつ私が帰ってきてもいいように」

そんな風に私を待ってくれていたのだと今日初めて気づいた。それまではあまり考えた事なんてなかった。

私のために母さんが掃除してくれているなんて事。両親の有り難味なんて、離れてみないと分からない。

正にその通りだ。ほんと、自分が情けない。何も見えないでいたのに、何でも見えた気になっていた自分が。

まぁ、そんな話は置いといて。私はベッドに腰掛けると、手招きして祐巳ちゃんを隣に座らせた。

「何だか・・・ドキドキしますね」

そんな事言って私を見上げる祐巳ちゃんを、ついつい襲いたくなってしまう。でも・・・ここは実家。流石にそれは・・・無理!

でも・・・ちょとぐらいなら大丈夫・・・かな?私は耳を澄ませながらそっと祐巳ちゃんを抱き寄せた。

そんな私に祐巳ちゃんは驚いたような顔をしてるけど、まんざらでもなさそう。

「ねぇ、どう?私の実家?ここになら嫁いでもいいと思える?」

「へ!?と、嫁ぐんですか?今すぐ?」

「いや、いつかの話」

祐巳ちゃんの慌てっぷりがおかしくて、私は笑った。そして、そっと祐巳ちゃんの頬に手を添える。

こんなにもドキドキするキスはどれぐらい振りだろう・・・。

そう言えば、初めてマンションの私の部屋に入ったのもやっぱり祐巳ちゃんだったっけ。そして、この部屋も。

そっと祐巳ちゃんが目を閉じて、私の唇を待つ。キスを催促するような顔があまりにも綺麗で、いつまでも眺めていたかった。

でも、そんな事したらきっと祐巳ちゃんは途中で目を開いてしまう。

だから私は、そんな祐巳ちゃんの顔がいつまでもそこにあるようにようとしたんだけど、

唇が触れるか触れないかって時に限って・・・。

「聖ちゃ〜ん、お風呂上がったわよ〜」

そう言ってドアは勢いよく開かれた。慌てて体を離し立ちがる私と、真赤になって俯く祐巳ちゃん。

でも、勘のいい母さんの事だ。きっと気づいてるだろう。

「あら、お邪魔だったかしら?」

「い、いえっ!と、とんでもない!!ね?聖さま??」

「う、うん。へーき・・・」

って、全然平気じゃないよ・・・どうしてくれんのよ、この行き場のない気持ち。まぁ、人生なんてこんなもんよ。

あーあ、こんな事ならさっさとキスしちゃえば良かった。さっきついつい祐巳ちゃんに見惚れてしまった自分が憎らしい。

ちぇ・・・チラリと祐巳ちゃんを見て舌なめずりすると、祐巳ちゃんはまた真赤になって俯く。

「そろそろアイス固まってるんじゃない?」

「そ、そうですよね!」

「じゃあ、もうちょっとしたら降りるよ」

私の顔をチラリと見た母さんは、咎めるように眉をしかめて部屋を出て行ってしまった。ほらね、バレてる。

「はぁ〜あ、恋愛はジェンガだよね」

私は頭の中でジェンガを思い浮かべながら呟いた。案の定祐巳ちゃんは不思議そうな顔してる。

「何です、急に」

「いやさ、例えば私と祐巳ちゃんと二人でジェンガをやってたとして、どっちかがいずれバランスを崩すとするでしょ?

そしたらさ、全部崩れる訳じゃん?この場合ジェンガの駒は母さんな訳で、これがなかなかやっかいなんだよなぁ」

私たちがやってるゲームは、駒が沢山いる。私の家族だとか、友達だとか、祐巳ちゃんの家族だとか、友達だとか。

仲間とか、そういう私たちの関係に関わってくるもの全てをジェンガの駒に例えるとしたら、

私たちはその駒をどうやって積み上げていくかが重要な訳で・・・。

「どうして崩れること前提なんです?もしかすると全ての駒がちゃんと積みあがるかもしれないじゃないですか」

「そりゃそうだけどね。私たち二人が気をつけてれば問題は無いのかもしれない。

でもね、やっぱり一度ぐらいはバランス崩す事もあると思うのよ。そこでどれだけ踏ん張れるかって話だよね」

大きなため息を落とす私を見て、祐巳ちゃんは苦笑いしている。

きっとまた、思考の迷路にはまりこんじゃったとでも思われてるんだろうな。でも実際、そういう事はよく考える。

どこにどの駒を持ってくるかによって、ジェンガの形はどんどん変わるし、

上手く置いていけばかなりしっかりしたものになるのも分かってる。でもさ・・・。

「たまにはさ、冒険してみたくなるよね。無謀だって分かってても」

私の言葉に祐巳ちゃんは青ざめる。きっと、私がまた何か突拍子もない事するに違いないとか、思ってるに違いない。

全てぶち壊して、初めからやり直したいって思うときもある。一人になってしまいたい、と。

でも、それは別に祐巳ちゃんが嫌いになったからとかではなくて、ただ、単純にそう思うときがあるってだけの事。

実際には祐巳ちゃんと離れるなんてもう想像も出来ないし、

もし居なくなってしまったらそれこそ私はもう生きていけそうにない。

それほど祐巳ちゃんを必要としてるし、愛してる。

でもね・・・たまに、本当にたまにこの積み上げたジェンガをぶち壊したくなるんだ。

それを祐巳ちゃんに言うと、少しだけ寂しそうな顔をして笑った。

「その時は・・・ぶち壊してしまう前に休戦をしましょうよ。それならいつでも戻れますから・・・」

「そんな身勝手でいいの?」

「構いませんよ、私は。だって、聖さまと離れるよりはずっと・・・いい・・・」

ポツリと呟いた祐巳ちゃんの顔が、泣きだしそうに崩れる。こんな顔・・・見たい訳じゃないのにな。

どうして私はいっつもこうなんだろう。困らせて泣かせてしまう。好きなのに、好きで好きでどうしようもないのに。

私は祐巳ちゃんを抱き寄せて言った。

「そうね、私も祐巳ちゃんと別れたいとは思わないもの。もう一人になりたいなんて・・・思わないよ」

二人で居る幸せを知ってしまった今、ムラのあった私の気持ちは大分落ち着いた。

それもこれも全部祐巳ちゃんのおかげなんだ。

それまでずっと私は相手を飛ばしてジェンガをしてたようなもので、だからずっと一方通行だった。

初めて誰かとやるジェンガの楽しみを知ってしまったら、もう一人でしたいとは思わない。

祐巳ちゃんだから、とか、祐巳ちゃんとでないと、って訳ではないのかもしれない。

運命の出会いだとか、赤い糸とかってのは全部迷信だと思う。正直。ただ、祐巳ちゃんとなら上手く行きそうとは思う。

ぶち壊したくなる私と、休戦しようと言う祐巳ちゃんだからこそ。

「はぁ〜、やっぱり祐巳ちゃんって不思議。私の感情をほんと、上手くコントロールするよね」

「そ、そうですか?でも、それなら聖さまだって」

ピットリと私にくっついてくる祐巳ちゃん。それが可愛くて思わずそのまま押し倒してしまった所に・・・。

「聖ちゃん!一体いつになったら降りてくる・・・の・・・」

ドアの前で固まる母さん・・・こ、これは言い訳に仕様がない。でも、母さんの表情は不思議だった。

怒るでもなく、笑うでもない、本当に不思議な表情。でも、握った拳は震えていて・・・。

「ノックはしてよ」

「せ、聖さま!!」

サラっとそんな事言う私を咎めるのは、母さんではなく祐巳ちゃん。その言葉に母さんはまた不思議な表情を浮かべた。

「い、家では・・・止めなさい結婚・・・するまでは。・・・いいわね?」

母さんの言葉に、私も祐巳ちゃんも目を丸くした。

「母さん・・・自分で何言ってるか分かってる?」

「ええ、私は正気よ。祐巳ちゃんはまだよそ様のお嬢さんなんだから、うかつにそういう事しちゃダメ」

いや、そうではなくて・・・まぁ、いっか・・・。

「わ、分かった・・・」

そう言うしかなかった。もっと、別の意味で怒られるのかと思ってたから。

どうやら母さんという駒は上手く積み上げる事が出来たみたい。母さんの中で、もう祐巳ちゃんは私の彼女なんだ。

それが分かった途端、何故か私は笑ってしまった。そんな私に母さんも祐巳ちゃんもキョトンとしてる。

「良かったね、祐巳ちゃん。少なくとも母さんは私たちの結婚に反対はしなさそうよ」

「は、はあ・・・」

何とも言えない祐巳ちゃんの顔も、思わずしまった!って顔をした母さんの顔も、きっと私は一生忘れない。

ジェンガはやっぱり崩すものじゃない。積み上げるものなんだ。沢山の駒を一つづつ、丁寧に。

ドアで固まる母さんの手を引いて、もう片方で祐巳ちゃんと手を繋ぐ。なんて、幸せ。

リビングに下りてまだ放心してる母さんと祐巳ちゃんを座らせると、

私は祐巳ちゃんの買ってきたお土産のアイスを二人に手渡した。

「あ、ありがとうございます」

「ありがとう、それじゃあ・・・いただきましょうか」

「うん、祐巳ちゃんありがとね」

アイス最中は確かに美味しかった。あんまり甘くなくて、あずきの味もしっかりして。

母さんはそれが気に入ったみたいで、お店の場所まで祐巳ちゃんに聞いてた。

私はそんな光景を見ながら、ただ目を細めていた。

もしかして昨日、祐巳ちゃんもこんな風に私と祐巳ちゃんの家族が話すのを眺めてたのかな。

ねぇ、祐巳ちゃん。祐巳ちゃんも私とのジェンガを楽しいと、思ってくれてる?


閑話休題『娘』


だとずっと思ってた子が、ある日突然やっぱり自分と同じ女の子が好きだと言い出したら、

世の中の親は皆やっぱり一度は顔をしかめると思う。現に私もそうだった。でも、あの子は・・・聖ちゃんは・・・。

「どうして私の事そんな目で見るのよ!!どうせ母さんも私の事気持ち悪いって思ってるんでしょ!?」

これは聖ちゃんの高校生の時の台詞。この言葉に、私の頭は真っ白になった。

それまで何度も何度も不純同性交遊で呼び出されてた私は、

多分聖ちゃんの言うようにそんな目で我が子を見ていたのかもしれない。

まるで火が点いたみたいに泣き叫ぶ私を見る目が、私にはどうしても理解出来なかった。

どうして?どうして女の子を好きになるの?女の子と何をしたいの?

普通の男女の関係を同性でしたいという気持ちが、私には分からなかった。

それ故に聖ちゃんを、可愛い一人娘をそんな目で見ていたのだとしたら、私は母親失格だ。

聖ちゃんはきっと、それでも私たちを頼りたかったに違いないのに、私もお父さんも聖ちゃんを突き放してしまった。

決して気持ち悪いとか、そんな風に思った事はなかった。でも、心のどこかでは、そういう風に思っていたに違いない。

「・・・もういいわ。母さんも父さんも私の事なんて分からないでしょ?私の事何も知らないでしょ?

仲のいい友達なんて一人も居ない事も、私があなた達に抱いてる気持ちも何もかも」

この頃、私たちはよく聖ちゃんに友達の話をさせたがった。それと、周りの人に抱いてる感情も。

それが、病院で言われたたった一つのアドバイスだった。病院で、聖ちゃんは決して言葉を発しなかった。

ただ睨むように先生の目を見ていただけ。とうとう最後には、先生までもがお手上げ状態になってしまって。

先生は言った。

「多分一過性のものだとは思いますが、もし治らなければ少し荒療治が必要かもしれませんね」

荒療治?それってどういう事?この子は病気なの?同性を愛する事が?本当に・・・?

先生のこの言葉を聞いて、ようやく私は私たちの犯した間違いに気づいた。

でも、頭では理解できていたつもりでも、心が納得するには時間が足りなかった。

「ごめんなさい、聖ちゃんも辛かったのよね?今はたまたま女の子が好きなだけなんでしょ?」

「・・・何?今更。散々私の事バカにしといてよくそんな事言えるわね。

別にあんた達が私の事どう思ってようがもう関係ないけど、私は私でやっていくから。もう二度と干渉しないで」

先生の言った、恐ろしく冷えた目というものを、私はこの時初めて知った。

自分の娘なのに、私は聖ちゃんがそんな目をするなんて事、その時まで知らなかった。知りたくも無かった。

大学一年になった時、聖ちゃんは何も言わずに家を出た。

私が買い物に行ってる間に。書置きも何も無いし、部屋もそのまま。ただ、お気に入りだった鞄だけが・・・無くなっていた。

洋服ダンスには服が何着か入っていた。けれど、それは全て私たちが聖ちゃんに買い与えたもの。

無くなってたのは、全て聖ちゃんが自分で買ったものばかりだった。私たちが決していい顔をしなかったものばかり・・・。

あの時代、携帯電話なんてものはなくて、お父さんと一日中探し回って気づいた。

私たちはやっぱり聖ちゃんの事を何も知らなかったのだ、と。仲のいい友達も、聖ちゃんがよく通ってた雑貨屋さんも、何も。

「僕たちは・・・一体何をしていたんだろう・・・全て・・・全て聖の為にしてきたんじゃなかったのか!?」

お父さんは怒鳴った。誰にでもなく、自分に。私も全く同じ事を考えていた。

私たちは一体、何のために今までやってきたんだろう?私たちの生き甲斐って、何だったんだろう?

それから大分経ったある日の事。聖ちゃんが一度だけ家に戻ってきた。

随分とやつれて、見る影もないほど痩せて・・・警察に迎えに行ったあの日の事を、私は一生忘れない。

どうやら、学校の前で倒れていた所を誰かが見つけて警察に通報してくれたらしい。

でも、聖ちゃんは決して住所を言わなかったそう。それほど・・・ココには帰ってきたくなかったのだと、私は思った。

「一体どうしたの!?」

「別に。振られただけ」

痛々しいまでの顔つきに、私は嫌悪感を抱いた。相手の・・・聖ちゃんを振った子が、許せなかった。

でも、それよりも、私は喜んだ。

「聖ちゃん、言ったでしょ?女の子同士ではうまくいきっこないの」

「そうだぞ、聖。お前ももう痛い目みただろう?」

「・・・そうね」

私たちの必死の呼びかけに、聖ちゃんが何を思ったのかは分からない。

ただ聖ちゃんは、その日から今日まで・・・ただの一度も帰っては来なかった。

そして今、聖ちゃんは笑っている。私の目の前で。恋人の頬についたアイスクリームを指の腹で擦りながら。

聖ちゃんが出て行ってから、この家はまるで火が消えたように寂しくなった。

まるで凍えるような冷ややかさに耐えるのは、私たちへの報いだったのかもしれない。

聖ちゃんがリリアンの教師になったと風の噂で聞いたとき、私は居てもたってもいられなくて、一度だけ見に行った事があった。

そこで見たのは、保健室で談笑しながらお茶をすする愛しい娘の姿だった。

長かった髪をバッサリと切り落とし、清々しい程の笑顔に、私は目がくらんだ。

あんな笑顔を最後に見たのはいつだったかしら?多分・・・もうずっと昔の話なんだと思う。

「今思えば・・・あれが祐巳ちゃんだったのかしらね・・・」

「は?何か言った?」

「いいえ、なんでもないの。こうやってその席に座って聖ちゃんが笑うのは随分久しぶりだと思って・・・ね」

私の言葉に、聖ちゃんは困ったように笑った。

「もう歳なんじゃない?そうやって思い出話をしたがるようじゃ、ね」

こんな事言う子じゃなかった。でも、それは私が知らなかっただけ。

大人しくて聞き分けのいい聖ちゃんは、私たちが無理やり作り上げた偶像にすぎなかった。

私たちは、私たちの為に聖ちゃんを縛りつけ、そして・・・壊してしまったのだ。

でも、それを救ったのは・・・この頼りなさげな一人の少女だったのだろう。私でもお父さんでもない。この少女のおかげ。

もしも、もしもいつか聖ちゃんが自分からこの家に誰かを連れて帰ってきた時、

その時は相手が男の子でも、女の子でも私は今度こそ応援しようと思っていた。

案の定、聖ちゃんが連れてきたのは女の子だったけど、娘のこんな顔はもう二度と見られないと思っていた私にとって、

許しこそすれ、むしろ感謝したい気持ちだった。聖ちゃんの事を、受け入れてくれてありがとう。

私たちにはそれがなかなか出来なかったけれど・・・今なら分かる。聖ちゃんの言いたかった事が。

私がお父さんを愛したように、聖ちゃんも誰かを愛しただけ。

相手が女の子だっとしても、私がお父さんを想う気持ちと何も変わらないって事が。今になって・・・ようやく。

「よく笑うわね」

まるで笑い方を思い出したみたいによく笑う娘を、私はどんな目で見ていたのだろう。

まだ、あの時の言葉は私を刺し続けているというのに。私の言葉に、聖ちゃんはやっぱり笑った。

「だって、楽しいから。楽しけりゃ笑うでしょ?」

「ええ・・・そうね。楽しかったら・・・笑うわよね」

ポツリと言った言葉に、聖ちゃんは微笑む。楽しかったら笑うでしょ?その言葉は、聖ちゃんはとうの昔に忘れたと思ってた。

でも・・・ちゃんと覚えてたのね。ちゃんと・・・笑えてたのね、ずっと。

「また・・・帰ってくるんでしょ?」

帰り間際、私は聖ちゃんの袖を掴んでポツリと言った。すると、そんな私の肩を抱いて聖ちゃんは言う。

「近いうちにね。ほら、もう風邪引くから家入りなよ」

「優しいわね」

「そりゃ、あなたの娘ですから」

心の中が解けてゆく。キッパリと言い切られた言葉は、私を刺し続けたあの言葉をそっと包み込む。

決して忘れてはいけない言葉。けれど、ほんの少し痛みは和らいだような気がする。

「祐巳ちゃん、聖ちゃんの事・・・お願いね。こんな家だけど・・・また・・・遊びに来てね」

可愛い娘の恋人は、やっぱり女の子。世間的にはきっとあの時の私のような非難の目を浴びるだろう。

でも、この子はそんなものには決して負けない。昔からとても負けず嫌いだったから。

それだけは・・・きっと今も変わらないに違いない。ましてや、相手がこの子なら・・・きっと、大丈夫。

私は祐巳ちゃんを見てにっこりと笑った。すると、祐巳ちゃんも微笑み返してくれる。本当に可愛らしい。

「はいっ!」

「あ、そうだ。母さん、今度来るまでにアルバム探しといてよ。

さっき見つからなくてさぁ・・・私の部屋にあった筈なんだけどなぁ・・・」

そう言って頭をかく聖ちゃん。アルバム・・・確かにずっと聖ちゃんの部屋にあった。

聖ちゃんが出て行った日、そっと本棚から私が抜いたのだ。

そして、毎晩毎晩それを見ながら寝ていたなんて知ったら、この子はまたきっと笑うだろう。

「ええ、次来るまでに探しておくわ。それじゃあ、そろそろ中に入るわね。あなた達も気をつけて帰りなさい」

「母さんも、身体には気をつけて。あと、父さんにもよろしく言っておいて。

痛い目なんて今までに何度も見てるよ、って。でも、その度に私は強くなってるから、って、そう伝えておいて」

「覚えてたのね・・・分かった。ちゃんと伝えておく」

「忘れる訳ないじゃない。それじゃあね、また近いうちに。いこ、祐巳ちゃん」

「はいっ!今日は突然お邪魔してしまって本当に申し訳ありませんでした。それでは、失礼します」

「いいのよ、また遊びに来てね」

そう言う私に祐巳ちゃんも聖ちゃんも微笑んで頷いた。

恋人の手を引いて車に乗り込む横顔が、私の知らない娘のような気がして胸が痛んだ。

でも、これが成長というものなのだろう。気がつけば、聖ちゃんはこんなにも大きくなってしまっていた。

もう、お父さんもお母さんも必要ないくらいに。いえ・・・・もしかすると、ずっとそうだったのかもしれない。

聖ちゃんにとって、私たちはただの親であり、私たちの方がずっと・・・聖ちゃんを必要としてたのかも。

車が走り去ってやがて見えなくなっても、私はずっと視線を固定させていた。こうしていないと、涙が零れてしまいそうだった。

親離れの出来ない子もいる。でも、子離れ出来ない親の方が・・・きっとずっと多い。

私の娘はいつの間にか自分の道を歩いてゆき、私たちはやっぱりここに取り残されたまま。

でも、それでいい。聖ちゃんが笑っていられるのなら、また近いうちに帰ってきてくれるというのなら、それで・・・いい。


第五十六話『それぞれの冬休み』


「いいえ、乃梨子。やっぱりここはマリア様で締めるのがいいと思うの」

「何言ってるんですか、志摩子さん。最後はやっぱり仏像ですよ。原点に帰らなきゃ」

やっぱり人間、辿り着く場所は仏像だ。

あの慈悲深いお顔に、慈愛に満ちた微笑み・・・私は一人頷きながらバスの外を流れる景色を見つめて言った。

けれど、そんな私を志摩子さんは少し悲しそうに眺めている。

「でもね、乃梨子・・・私・・・どうしてもあそこのマリア様が見たいのよ・・・」

この会話は昨日もした。昨夜、私は志摩子さんのお宅にお泊りに行ったんだけど、そこでこんな話になった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「もう少しで新学期が始まりますねぇ」

「そうね。あっという間の冬休みだったわ。とても楽しく過ごせたもの。きっと乃梨子のおかげね」

「いや・・・そんな事・・・私だって志摩子さんと過ごした冬休みだったからこそ楽しかったんだと・・・」

「うふふ」

「えへへ」

私たちの間に倦怠期という文字はない。

いつだってお互いがお互いを必要としてる、言わば理想とも言える関係を築けているという自負もある。

いつだったか、聖さまにそれを言うと、苦い顔して言われた。

『そんなねぇ、一度も喧嘩した事ないカップルなんて居ないよ。乃梨子ちゃんとこもこれからだって。

ああ見えて志摩子、絶対に譲らない頑固なとこもあるからね』

なんて。いくら志摩子さんのお姉さまだからって、志摩子さんの全てを知ってる訳でもないのに。

それに、あれは上手く行ってる私たちへの当てつけだったんじゃなかって思うんだ。

だって、あの時ちょうど祐巳さまと聖さまモメてたし。聖さまのとこと私たちのとこを一緒にしないで欲しいよね、全く。

「ところで志摩子さん。明日からの旅行の締めはやっぱり仏像ですよね?」

私の言葉に志摩子さんは驚いたような顔して言った。

「え?マリア様でしょ?だって、あのツアーにものってたじゃない」

「ええ、そうですけど、実はね、あそことは正反対の場所に世界に一つしか無いと言われてる仏像がありまして」

「へえ、そうなの・・・でも、やっぱりここはツアーに従いましょうよ。

あまりよく知らないところで勝手な事して迷子になっても困るし」

「で、でも、道はちゃんと分かってるし、迷子にはなりませんよ。大丈夫ですって」

「でも・・・マリア様が・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんな感じで話はつかないまま夜が明けてしまった。

私たちは行きのバスの中でもその話でもちきりで、結局それはいつまでたってもまとまらなくて・・・。

「乃梨子、とりあえず休戦にしましょうか・・・」

「え、ええ・・・そうですね・・・」

たった一泊しかない旅行だ。こんな話で時間を潰すのはもったいない。

旅館について、私が荷物を解いていると、志摩子さんが嬉々として部屋に帰ってきた。

「どうしたんです?そんなにはしゃいで」

「見て!乃梨子、このパンフレット!」

嬉しそうに私の隣に座り込んだ志摩子さんから、フワリといい香りがする。それと、微かにだけどお香の匂いも。

私は志摩子さんからパンフレットを受け取ると、一面の花束の中に立つマリア様の像の写真を見た。

「へぇ、凄いですね」

「そうでしょう!?ね、やっぱりここにしない?私、是非見てみたいわ!」

写真の中のマリア様は広い草原のような所に沢山の花たちに囲まれてひっそりと立っていた。

それを志摩子さんが喜ぶのは無理も無い。確かに綺麗だ。でも・・・私の求める厳かさとか、威圧感みたいなものがない。

「でも志摩子さん・・・これって、相当遠いんじゃ・・・」

写真に載っている場所はここからではちょっと遠すぎる。それを言うと、志摩子さんの顔が曇った。

「そうね・・・ちょっと遠いわね・・・でも、バスなら何とかならないかしら?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

バスで二時間って書いてあるのに?そんな事したら私の仏像が・・・見れないっ!!

でも、それは言えなかった。だって、志摩子さんは本当に嬉しそうなんだもん。

「乃梨子?もしかして・・・行きたくない?」

「い、いえ・・・そういう訳じゃ・・・ないんですけど・・・」

でも、それ見に行ったら確実に仏像は諦めなきゃならない。そんなの・・・そんなの・・・。

だから私は試しに言ってみた。それとな〜く。

「これ見に行ったら・・・仏像は確実に・・・無理・・・ですよね?」

私の言葉に志摩子さんはハッとした。そして、申し訳なさそうに頷く。

「そうね・・・そうよね・・・乃梨子は仏像が見たいんだものね・・・困ったわね」

哀しそうに俯く志摩子さんの表情に、私の心は揺れた。もういいや、仏像より志摩子さんのが大事だし。

そう、思いかけたんだけど・・・。ありえない事を志摩子さんが言い出した。

「どうすればいいのかしら・・・そうだわ!こんな時は恋の先輩のお姉さまに相談してみましょう」

そう言って携帯で聖さまの電話番号を探し始めたのだ。

ていうか、ちょっと待て!どうして私たちの事をいちいち聖さまに相談しなきゃならないのよ!?

それっておかしくない?今まで志摩子さんがこんな事で聖さまに相談した事なんて無かったのに・・・どうして?

胸がしめつけられるっていうのは、こういう事を言うんだ・・・きっと。

私がそんな事を考えてる間に、志摩子さんはすでに電話を始めている。

「あ、もしもし、お姉さま?あの・・・少しお聞きしたいんですが、今お時間よろしいでしょうか?」

『んー・・・なぁにー?』

眠そうな聖さまの声が電話から漏れて聞こえてくる。どうやらまだ眠っていたらしい。もう既にお昼なのに。

そもそも、聖さまが志摩子さんのお姉さまだって事、私は未だに信じられないんだよね。

だってえ、どう見ても全然違うタイプなのに、どうして志摩子さんは聖さまの妹になったんだろう?

どっこも共通点ないじゃない。

でも・・・志摩子さんは今でも聖さまの事を凄く大事にしてて、たまにそれが不安になることもあるほどで・・・。

私はモヤモヤした気分を振りほどくように頭を振って、二人の会話に聞き耳を立てているしかなくて。

「と、いう訳なんです。こういう場合お姉さまならどうします?」

何か考え込むような聖さまの沈黙・・・。

『・・・そこに乃梨子ちゃん居るんでしょ?ちょっと代わってくれる?』

「え?え、ええ・・・構いませんけど・・・乃梨子、お姉さまが少し代わって欲しいって仰ってるんだけど・・・」

なんですと?電話を私に代われ、と?一体なんなんだろう?私は渋々志摩子さんの手から電話を受け取る。

「もしもし・・・お電話代わりましたけど・・・」

『あ、もしもし?明けましておめでとう〜、今年もよろしく〜』

「はあ、おめでとうございます・・・」

何なんだ、一体。まさか新年の挨拶する為に電話代わった訳じゃないよね?私がそんな事考えていると、聖さまは言った。

『あのさー、どっちかが譲るか、いっそ別々に見るしかないと思うんだよねー。

で、どうしても一緒に見たいならもう一泊するとかね』

確かに、その通りだ。それは私も考えた。でも、一緒に旅行来てるのに別々に見るとかって・・・どうなの?

あと一泊しようにも、宿は一泊しかとってないし・・・それに私たちにも都合がある。

「それは考えました・・・けど」

『あ、そう?ならわざわざ私に電話してこなくてもいいじゃん。ちなみに、私たちなら別々に見に行くね。ね〜?祐巳ちゃん』

そう言って聖さまは多分、隣に居るであろう祐巳さまに話を振った。

すると、電話の向こうから微かに、はい、って返事が聞こえる。

そうなんだ・・・聖さまと祐巳さまは一緒に旅行に行っても別々に行動出来るんだ・・・。

それって、逆に考えると凄い。だって、それだけお互いの事理解してるからこそ出来るんだよね。

どっちも譲りたくない。どっちも譲れない。それがちゃんと分かってるからこそ、もうこんな事でモメないんだ。

「どうして・・・どうしてそんな事出来るんですか?」

私の言葉に答えたのは、祐巳さまだった。

『だって・・・聖さま絶対にそういうの譲らないから。それに恥ずかしいけど私も。だからじゃないかな』

『そうそう。祐巳ちゃんこう見えて頑固でね〜。

一緒に見に行ってわざわざ喧嘩するよりは、お互い時間決めて自由行動取った方がいいじゃない。

それに、後からお土産話も聞けるから私も行った気になれるしね』

「そんな・・・もんでしょうか・・・」

『そんなもんですよ。まぁ、旅行の仕方なんて人それぞれだしね。志摩子と乃梨子ちゃんはどうしたいの?』

「私たちは・・・」

どうしたいんだろう?聖さまたちみたいに別々に見に行く勇気はまだない。でも、私も志摩子さんも譲れない。

とりあえず、簡単にお礼を言って電話を切った。そんな私を志摩子さんはじっと見つめている。

私は・・・私は一人で仏像を見たい?それとも・・・志摩子さんと一緒にマリア様が見たい?

「どうだった?お姉さまは何て?」

「別々に見てきたらどうだって・・・それか、どちらかが譲るしかない・・・って」

「・・・そう・・・」

志摩子さんはそう言って俯いてしまう。

ここは私がしっかりしなきゃダメだ!自分にそう言い聞かせた私は、一度聖さまの案を実行してみる事にした。

「志摩子さん・・・明日、別行動にしてみる?」

私の言葉に志摩子さんは驚いたように目を丸くした。

「で、でも・・・一緒に来てるのに?」

「うん。志摩子さんはどうしてもそのマリア様が見たいんでしょう?

その花に囲まれてるのはこの時期しか見れないみたいだし、私の見たい仏像はこの一週間しか見られないんだ。

だったら、お互いがそれを見てきて、後から感想を言い合おうよ。

写真も撮ってきてさ・・・って、仏像は撮れないかもしれないけど・・・」

志摩子さんは私の提案に手放しには喜んではくれなかった。私だって本当は志摩子さんと離れるのは嫌だ。

志摩子さんは本当に可愛いから、どこかでナンパされないとも限らない。でも・・・これは私たちへの試練なのだ、きっと・・・。

志摩子さんは随分考え込んでいたけれど、やがて不安そうに頷いた。こうして、話はまとまった訳だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「・・・ここ、志摩子さん好きそう・・・ね?志摩子さ・・・」

振り返った私の目に映ったのは全然知らないおばさん。そうだった・・志摩子さんは今頃マリア様の所に居るんだっけ・・・。

今朝志摩子さんと別れてから、私はずっとこんな調子。いつでも、どこに居ても志摩子さんを探してしまう。

念願だった仏像を前にしても、その素晴らしい表情を見ても、少しも心は動かなかった。

お土産物屋さんが所狭しと並べられた境内の外は、まるでお祭り騒ぎになっている。

そんな中、私はたった一つの白いかんざしを見つけた。

「これ・・・志摩子さんに似合いそう・・・」

気がつけば私はそれを買って、さっさと帰りのバスに乗り込んでしまっていた。

境内の中に居たのは、ほんの5分かそこらへん。

感想を言う!とか偉そうに言って出てきたくせに、大して見てまわる前にバスに乗り込んでしまっていた。

「こんなんじゃ感想も言えないよ・・・」

手の平に白いかんざしが刺さる。志摩子さんに逢いたい。ついさっき別れたとこなのに、もう志摩子さんに逢いたいなんて・・・。

前は一人でどこへでも行けた。でも、今はそれが出来ない。

志摩子さんと一緒じゃなきゃどこへ行っても何をしてても楽しくない。

こんな簡単な方程式なのに、どうして今まで気づかなかったんだろう?どうして聖さまの真似なんてしてしまったんだろう?

聖さまの言ったように、私たちには、いや、私には・・・聖さまと祐巳さまのような関係は向いてない。

私はいつだって志摩子さんが手の届く所に居てくれなきゃ嫌で、ほんの少しでも離れるのが辛い。

と、その時、一通のメールが来た。それは、聖さまからだった。

『結局別々に見に行ったんだって?どう?寂しいでしょ?こうやって皆自分達の形を見つけるものなんだよ、恋愛なんて。

いつか言ったかもしれないけど、志摩子はああ見えて頑固で子供っぽい所もあるから、

乃梨子ちゃん、君がしっかり守ってあげて。私はただの相談役だけど、乃梨子ちゃんは志摩子のパートナーなんだから、ね?』

「・・・聖さま・・・」

なんてタイムリーな人。流石志摩子さんのお姉さまだ。そして、まんまと私は聖さまにハメられた訳だ。

最初から私達には向いてないって分かっててわざと私たちにこんな事させて・・・。

でも、そのおかげで本当に大切なものが見えた。誰かを好きになってしまうと、全てのモノから色を奪ってしまう。

失われた色は、好きな人の隣に居ないと輝かないんだ。結局、私はどんな仏像よりも、今は志摩子さんがいい。

多分・・・これからも。バスが旅館のすぐそばに止まった。

私は大きなため息を落としながら旅館の門をくぐると、そこには何故か志摩子さんが立っていて・・・。

「志摩子さんっ?!ど、どうしてっ・・・」

だって、バスで二時間もかかるはずなのに!こんなに早く帰ってくるはずないのに!!いや、それは私もなんだけど。

「乃梨子っ!!」

志摩子さんは泣き出しそうな笑顔でこちらに走りよってきて、私に抱きついてきた。

「うわっ!し、志摩子さん・・・?」

外でこんな事するような人じゃない。それに、この寒い中ずっとここで待ってたのだろうか、酷く身体は冷え切っている。

志摩子さんは私の胸に顔を埋めて、グスっと鼻をすする。

「乃梨子、乃梨子・・・」

そんな志摩子さんに、何故か私も泣きそうになった。どうしてほんの一瞬でも離れていられたんだろう。こんなにも愛しいのに。

私は志摩子さんを強く抱きしめると、そっと目を閉じた。

旅館の近所には海があった。志摩子さんは目の腫れが引くまで少し外を歩きたいと言った。

「ちょっと寒いわね」

グスって鼻をすする志摩子さん。

これは泣いたからなのか、それとも寒いからなのか・・・私は着ていたコートを志摩子さんにそっとかけると、

繋いだ手を志摩子さんに貸したコートのポケットに入れた。

「乃梨子は寒くないの?」

「寒いですよ。でも、志摩子さんが風邪引いちゃうよりはいい」

「・・・乃梨子・・・」

コートのポケットの中で、志摩子さんはギュっと強く私の手を握ってくれた。白くてまるで絹みたいな手。

「私ね、仏像見てきたよ」

「ええ・・・私も・・・マリア様を見てきたわ」

「でもね、感想は何も無い。ていうか、感想言うほど見てないんだ」

さっき見たはずの念願の仏像の顔は、もう、うろ覚え。殆ど覚えてない。私の言葉に、志摩子さんは笑った。

「実はね・・・私もなの。バスの中からチラっとしか見てないのよ。その足で帰りのバスに乗り換えちゃったから」

「そうなの?」

「ええ」

フッと見せた志摩子さんの情けないような笑顔が、瞼に焼き付く。そう言えば、仏像様はこんな顔してた。

優しく、どこか哀しく笑う・・・こんなお顔を。

「志摩子さん、目瞑って手、出して」

「あら、なぁに?」

立ち止まってそっと手を出す。目は瞑ってるけど、口元は楽しげに微笑んでる。

潮風が志摩子さんの髪を浚って、志摩子さんの肩がピクンと震えた。

「仏像の感想は無いんだけど、お土産は買ってきたんだ。きっと志摩子さんに似合うと思って」

そう言って志摩子さんの白い手の上に、さっき買ったかんざしを落とした。

それは、まるで志摩子さんの為にあるみたいにしっくりくる。

これが志摩子さんの髪を飾れば、きっともっと美しく輝くに違いない。

「もう目を開けてもいいかしら?」

「うん」

「まぁ・・・素敵・・・」

ゆっくりと目を開いた志摩子さんは、手のひらを見て感嘆の声を上げた。良かった・・・買ってきて良かった。

こんな顔が見れたのなら、別々に行動した意味も少しはあったのかもしれない。

志摩子さんは私の目をじっと覗き込んで、微かに首を傾げて言った。

「乃梨子がつけてくれる?」

差し出されたかんざしは、光に反射してキラキラ光る。まるで、早く志摩子さんの髪を飾りたいとでも言うように。

私は頷くと、志摩子さんの手の平からかんざしを取り、そっと志摩子さんの髪に挿した。

「どう?似合うかしら?」

「うん、すごく」

「そう?ありがとう、乃梨子・・・本当に嬉しいわ」

恥ずかしそうに微笑んで、かんざしをしきりに気にする志摩子さんが、酷く綺麗に見える。

「志摩子さん、今回の旅行は失敗だったね」

私の言葉に、志摩子さんは驚いたように目を見開いた。そして、またうっすらと涙を浮かべる。

「違うの。旅行そのものがじゃなくて、離れ離れになるべきじゃなかったね、って言いたかったの。

私、バスの中で考えてたんだけど、私達は離れる事は出来ないんだね」

「・・・そうね。私、バスの中でずっと乃梨子の事考えてたの。そしたら何だか急に心細くなっちゃって・・・。

もうマリア様とかどうでもいいように思えてきて・・・どんな綺麗なマリア様でも、乃梨子と一緒じゃなきゃ意味が無いんだ、って」

「うん・・・私も同じ。どんなに素敵な仏像でも、志摩子さんが隣に居なきゃダメなんだ。

つい癖で何回も知らない人に志摩子さんって呼びかけちゃった」

それを聞いて志摩子さんは笑った。私も笑った。仏像が無くたって、マリア様が無くたって、私達は幸せだった。

寒くても、暑くても、お互いが居ない一瞬よりはずっといい。私は志摩子さんを抱きしめると、そっと頬を撫でた。

「志摩子さん、来年もまた来よう?今度はどっちも見て回ろうよ。一緒に」

「ええ、そうね。それがいいわ。だって、私、やっぱり乃梨子が一緒じゃなきゃ・・・」

志摩子さんの言葉はそこで途切れた。何故なら、私がその唇を塞いだから。

ほんの少し塩の味のするキスは、反省と再発見・・・そして、もう一度志摩子さんの大切さを実感したキスだった。

優しい、優しい・・・キスだった。


第五十七話『同窓会』


例えば、朝起きたら隣に誰が居るかでその日の一日の気分が左右されるように、私の気分は簡単。

例えば、誰かの言葉に傷ついたり、ささいな言い合いが大きな喧嘩になることもある。

今もそう。聖さまが行っちゃう。それだけで、私の気持ちはこんなにも・・・苦しい。

「それじゃあ、行ってくるね。いい子にして待ってなさい」

そう言って聖さまは玄関の所まで送りに来た私に、軽いキスをして出て行ってしまった。

寂しいよ・・・何度もそうやって引きとめようとした。でも、やっぱり言えなかった。

だって、これはもう、ずっと前から決まってた事だったんだもん。

聖さま宛てに手紙が届いている事を知ったのは、この間聖さまのお家に行った時だった。

『そう言えば聖ちゃん、あなた宛てにこんな葉書が来てたわよ?』

そう言って差し出された葉書は、同窓会の案内書だった。

どうたらその葉書は、もう随分前に届いていたみたいで、小母様も随分困っていたらしい。

だって、聖さまは随分長い間実家には帰らなかったから。

おまけに携帯の番号もマンションの住所さえ教えていなかったっていうんだから、

それはもう徹底して両親を避けていたみたい。聖さまはその葉書を受け取るや否や、誰かにメールしていたんだけど・・・。

後から聞いた話によると、それが正月にメールを送ってきた人らしかった。私の知らない人・・・加東さん。

大学時代、唯一と言っても良かった聖さまの友達らしく、聖さまはその加東さんの話を凄く嬉しそうに私に話してくれた。

その話を聞いて、私が多少なり不機嫌になったのは言うまでもない。とても勝手な話だってのは分かってるんだけどさ。

「はぁ〜あ。そんな訳で今日聖さま居ないんだー」

電話越しに、それはお気の毒ね、って笑いを堪える由乃さんの声。

そう、私は消化出来ない気持ちを由乃さんに愚痴っていた。

自分でも醜いなぁ、とは思うんだけど、だってしょうがないじゃない!聖さまの事が好きで好きでしょうがないんだもん!!

愚痴ったって何の解決もしないのは分かってるんだけど、こうでもしなきゃやってられない。

だって、あの聖さまだもん。お酒とか入ったら絶対そこらへんの女の子を口説いて回らないって保障はどこにもない。

『あー・・・まぁ、確かに大学生の頃の聖さまはモテたもんなぁ・・・ううん、聖さまの場合は高校時代からモテてたか』

「う・・・」

そうよね。恋愛にはとんと疎い私が好きになったぐらいだもん。絶対モテてたに決まってる。

それこそ男女問わず人気だったに違いない。ちょっと買い物にでも行ったりしたら絶対色んな人が聖さま見てるもん。

その度に私は自慢したくなる反面、ちょっと切なくなる。

もしも聖さまが十人並みの顔だったなら、こんな心配はしなかったのに。でも、それを言ってもしょうがない。

私だってまずはあの顔に惚れたようなものだ。人の事は言えない。

まぁ・・・聖さまの中身を知ってからもっと好きになったんだけど。あと・・・ねぇ?夜・・・とか?

まぁ、そんな話は置いといて。今はとにかく聖さまの同窓会の話な訳で。

「ドラえもんが居たらなぁ・・・何か道具出してもらって聖さまの様子見に行けるのになぁ」

『祐巳さん・・・脳みそ溶けてる?』

由乃さんは苦笑いしながらそんな事を言う。そう、私の脳みそは確かに溶けてる。だって、聖さまが居ないんだもんっ!!

今からこんなんで私大丈夫なのかな?新学期が始まったら二週間も離れ離れになるのに。

まぁ、家帰ってくれば一緒に居られるけどさ。聖さまを信用してない訳じゃない。ただ、手放しには信用出来ないってだけで!

『でも・・・確かに聖さまは心配だよね。本人にその気が無くてもさ、迫られる可能性はある訳じゃない?

最近の女の子は強いからなぁ・・・聖さま大丈夫かな?もしかして一服もられたりとかして?』

「や、やめてよっ!!そういう事言うの!!」

酷いよ由乃さんってば・・・ど、どうしよう・・・本当に不安になってきちゃった。

と、その時だった。由乃さんが言った。それじゃあ私達も飲みに行こうか、と。

『そしたらちょっとは気が晴れると思わない?』

「え・・・?でも、二人で?」

『う〜ん・・・そうだ!志摩子さんも誘おうよ!たまには三人飲みましょ!』

由乃さんの提案は、なんて短絡的。でも、私に断る理由はなかった。

聖さまの居ない家にいても、寂しくなるだけだって事はとっくに分かってたから。

『それじゃあ、私志摩子さんに連絡するね!えっとー・・・そうだな、7時に駅前でどう?

あそこに最近新しく居酒屋さんが出来たって令ちゃんに聞いたんだ!』

「うん、分かった。それじゃあ、また後でね」

私たちはそう言って電話を切った。急に気持ちがワクワクしてきた。志摩子さんと由乃さんだけで飲み会なんて、初めて!

ほんの少しの間ぐらいなら、聖さまの事を忘れる事が出来そう。私は聖さまにメールを打つ。

『聖さまへ、今から由乃さんと志摩子さんと女三人で飲み会する事になりました。

そんなに遅くならないと思いますけど、もし聖さまの方が早かったら、連絡下さい。すぐ帰ります。  祐巳』

お化粧をして、着替えてる間に聖さまからメールの返事が返ってきた。

『今から!?どこまで行くの?帰り迎えに行こうか?』

『大丈夫ですよ。駅前に出来た新しい居酒屋さんまでですから!』

『駅前の居酒屋?そう、分かった。じゃあ、また連絡して。くれぐれも気をつけてね!それと、あんまり飲みすぎないように!』

「・・・分かってますよ。もう、心配性なんだから」

メールを返しながら知らない間に微笑んでる自分が気持ち悪いなぁ、とか思いながらも、ニヤけるのを止められなかった。

聖さまは本当に心配性。でも、それぐらいが私にはちょうどいい。しかも、迎えに行こうか?って・・・聖さまも飲んでるのに。

きっと、それぐらい私の事大事にしてくれてるんだ!なんて、ほんのちょっとぐらい自惚れてみても・・・いいよね?

7時ちょっと前に駅前に着いた私は、既に来ていた志摩子さんと由乃さんと合流して、新しく出来た居酒屋さんに向った。

ところで・・・最近の居酒屋さんはお洒落だよね。雰囲気とかさ、レストランみたい。

ウェイターさんに人数を告げて、私達はお座敷に案内された。

隣の部屋とは襖一枚で仕切られてて、賑やかな声がこっちにまで聞こえてくる。

「さて、それじゃあ飲みましょ!皆、何にする?」

由乃さんは既に自分の分は決まっているのだろう。私と志摩子さんにメニューを見せてくれた。

「私は・・・これにしようかしら」

「それじゃあ、私はこれで」

「えっ!?祐巳さんも飲むの?」

って、ちょっと待て!飲まなきゃ何のために居酒屋さんに来たのか分からないじゃない。確かに?私はお酒弱いですけども!

でも、今日は飲むわよ。でなきゃ聖さまの事忘れらんないじゃない。やがて、食べ物と飲み物が全て揃った。

「それじゃあ、初の親友三人の飲み会にかんぱ〜い!」

「「かんぱ〜い!!」」

親友って・・・いいな。こんな時、心の底からそう思う。寂しくても、一人じゃないって思える。

取りとめもない話をしながら、私達は始終笑いながら飲んでいた。凄く楽しいお酒だ。

と、その時、隣の部屋からこんな話し声が聞こえてきた。

『そ、それじゃあ、今フリーじゃないんですか!?』

『ははは、まぁね』

・・ん?この声・・・もしかして・・・?いや、まさかね。そんな事ある訳ないか。

あぁ、私ってば誰の声聞いても聖さまの声に聞こえる。由乃さんの言った通り、本当に脳みそ溶けてるのかも。

「祐巳さん?どうかしたの?」

「えっ!?う、ううん、なんでもないよ。それより、このおつまみ美味しいね」

そう言って目の前にあった煮物をお箸でつまみ、口に放り込む。

それを聞いた由乃さんも、私の前にあった煮物に手を伸ばした。

「ところでさ、ずっと聞きたかったんだけど、祐巳さんって聖さまのどこが好きなの?ていうか、一緒に居て疲れない?

私は絶対無理だわ。あの高校、大学時代の聖さまの印象が強すぎて」

由乃さんの言葉に、志摩子さんは苦笑いしている。

「由乃さん?お姉さまはとても優しいのよ?」

「それは知ってるよー。だって、本当にお世話になったもん。でもさ、やっぱりほら、伝説の三薔薇様じゃない?

その印象がねー・・・どうしても拭えないっていうか、何だか雲の上の人みたいなんだよね〜。

だって、私には聖さまが寝てるとこも想像出来ないもん。何だか普通の生活してなさそうっていうか・・・」

「そんな事無いわよ。お姉さまだって流石に眠るわ。

でも・・・そう言えばお姉さまの実生活の話なんて聞いた事ないかもしれないわ」

二人の話を聞いて思った。聖さまって・・・一体どんな人だったんだろう?って。

だって、由乃さんのイメージじゃまるで仙人じゃない。

「ね、ねぇ・・・聖さまってどんな人だったの?私リリアンに来てからしか知らないんだよね」

私の言葉に、由乃さんと志摩子さんは顔を見合わせた。

「そうよね。祐巳さんはリリアンじゃないんだもんね。聖さまってね、伝説とまで言われた薔薇様の一人だったのよ。

ちなみに、後の二人は蓉子さまと江利子さまね」

「ええ、だから本当にお姉さま達の支持者は多くて・・・多分、あの当時薔薇様の存在はそれはもう凄かったわよね?」

志摩子さんが過去を思い出すようにそっと懐かしげに目を細めると、由乃さんも頷く。

「中でも聖さまの人気は凄くてね。

下級生から絶大な人気を誇ってたっけ。・・・聖さまが歩けば皆振り返るし、ファンクアラブまであったし・・・」

そうそう!聖さまってほら、来る者拒まずみたいな所あったじゃない?」

由乃さんはそんな事言いながら枝豆をさっきからずっと剥いている。食べもしないのに。

いや、もしかするとああやって貯めてから後で一気に食べるのかな?

どっちでもいいけど、私は二人の話を聞いていてだんだん不安になってきた。まさか聖さまがそんな人だったなんて・・・。

そりゃ今もキャーキャー言われる筈だ。

「でも、栞さまにだけは手を出さなかったんでしょ?大本命には絶対手を出さなかったんだよね?」

「ええ・・・それがお姉さまの弱い所なのよね。だから私、栞さまに振られたお姉さまを見ているのが辛くて・・・」

栞さん・・・出たよ。聖さまの話をすると必ずと言ってもいいほど出て来るのが栞さん。で、私が未だに引きずってる人。

そんな私の心を知ってか知らずか、二人は続ける。

「聖さまってね、誰にでも手出したけど、絶対長続きしなかったの。まるで誰か探してるみたいに」

「そうなの?」

「ええ。お姉さまはずっと誰かを探してた。だから栞さまとも、結局三ヶ月しか続かなかったでしょう?

あれが最長よね?蓉子さまが言ってたもの」

「うん・・・多分・・・でも・・・そこに祐巳さんがやってきた訳だ」

由乃さんはそこまで言って私を持っていたお箸で指した。いや・・・そんな振り方しないでよ。何だか変な汗でるじゃない。

助けてもらおうと志摩子さんを見ると、志摩子さんまで由乃さんみたいな目をしてる。

「はっきり言ってね、聖さまにあんな口きけるの、多分祐巳さんだけだと思うの」

「ど、どういう意味?」

「ん?そのまんまの意味よ。対等に、って言えばいいのかな。祐巳さんって、聖さまに対しても絶対特別扱いしないじゃない?」

特別扱い・・・そうね。確かにしないかも。だって、聖さまは今でこそ特別だけど、初めの頃は何とも思ってなかったもん。

「それがお姉さまは嬉しかったのかもしれないわね。

学校でもずっと聖さま聖さまって言われ続けて、そういう風に慕ってくれる子達が苦手だったのかもしれないわ。

だから栞さまの事は気に入ってたのかもしれない。でも・・・栞さんではダメだった。

お姉さまの孤独は栞さんには深すぎた。でも・・・祐巳さんは違う。

お姉さまはきっと、祐巳さんのそういう所に惹かれたんだわ」

「聖さまってね、あんな外見じゃない。それに伝説の薔薇様。だからかな、凄く特別視されてた所があったのよ。

それを知ってる人達や、簡単に誰かに恋する事が出来る人たちはすぐに堕ちる訳よ。

それが聖さまはつまらなかったのかもね。

外見じゃない、肩書きじゃない、本当の佐藤聖という人間を誰かに愛して欲しかったのかな?って思うんだ。

実際、祐巳さんと居る聖さまは凄く楽しそうだし、何よりも楽そうだよ」

「そう・・・なんだ・・・」

私は恋した事が無くて、だから聖さまに抱く感情も恋かどうかも分からなくて・・・気がついた時には、聖さまに惹かれてた。

それはもちろん、外見も含めてだったけど、それだけじゃない。匂いや、声、そんなものだけじゃない。

あの捻くれたところとか、身勝手なとことか、わがままでどうしようもなかったりする所が見えたときに、好きだと思った。

この人は何て愛しいんだろうって・・・そう、思ったんだ。

嘘みたいな綺麗な顔立ちのくせに、誰よりも人間らしい聖さま。綺麗なとこばっかりじゃない、凄く・・・豊かな人。

そして、それをちゃんと自分でも知ってる。何だかこんな風に言ってもらえると、素直に嬉しい。

あぁ、聖さまに逢いたいなぁ。今頃どこで何してるんだろう?


第五十八話『同窓会2』


あー・・・早く帰りたい。つか、どうして同窓会なのに後輩がこんなにも来てる訳?それが私には分かんないんだけど。

私は端っこの席で肩肘をつきながらビールを飲んでいた。となりに座ってる加東さんがそんな私を見て苦笑いだ。

「ほら、佐藤さんってばそんな顔しないの」

「そうは言ってもね、こうも知らない顔が多いんじゃね・・・私そろそろ帰ってもいい?」

「何言ってるの。幹事が泣くわよ?」

「泣かせりゃいいじゃん」

周りを見渡せば知った顔が殆ど無い。まぁ、もともとクラスの子の顔なんてあんまり覚えてなかったんだけどさ。

ただ、正月に加東さんのメールを見たから、こうやって私は来たんだ。正月早々、加東さんは私にこんなメールを送ってきた。

『明けましておめでとう。ところで知ってる?

今度同窓会をやるらしいんだけど、それにどうしてもあなたに来て欲しいって幹事に泣きつかれたんだけど・・・どうする?

何だか私は既に数に入ってるらしいのよ。私を助けると思って顔だしてくれない?』

付き合いのあまり良くなかった私達。それなのに、どうして誘われるのか、と。

そもそも、この部屋に入ってきた時点で私はもう帰りたくてしょうがなかったんだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

はぁ・・・。大きな溜息を落とした私は、目の前に立つ居酒屋を見上げて呟いた。

「・・・気が重いなぁ・・・」

そうは言っても加東景の頼み。聞かない訳にはいかない。なんせ、大学時代は本当にお世話になったから。

はぁぁぁぁぁ。もう一度大きな溜息を落とした私は、覚悟を決めて居酒屋に乗り込んだ。

店に入って幹事の名前を言うと、一番奥にある座敷の部屋に通された。

襖一枚向こうに大学生の頃の思い出が詰まってるんだと思うと、気が重くてしょうがなかった。

正直、今が一番楽しいんだ、私は。そんな事を考えると胃が痛む。でも、いつまでもここでこうやって立ってる訳にもいかない。

私は襖に手をかけ、大きく息を吸い込んだ。ほら、聖・・・大学生の頃の事を思い出して。あの時の仮面をもう一度被るんだ。

「ごきげんよう」

呟いた私に、一斉に視線が集まり静まり返る個室。私は視線を伏せたまま加東さんを探した。

すると、やっぱりというか、案の定というか一番端っこの席でちびちびと飲んでいる加東さんの姿。

あまりにも想像していた通りでちょっと笑える。と、その時だった。見覚えのある子が私を見るなり叫んだ。

「佐藤さん!!良かった、来てくれたのねっ!!!」

その声に続くみたいに歓迎の声は、うるさくてしょうがない。こういう雰囲気は、はっきり言って好きじゃない。

ふと顔を挙げると、そこには明らかに同級生ではない子達が幾人か混じっている。

「佐藤さん、髪切ったの?もったいない」

「聖さま!おひさしぶりですぅ。会いたかったんですよ〜・・・あぁ、もうどうしよう!!」

いや、そんな涙ぐまれても・・・つうか誰よ、あんた。

「聖さまこっちに座ってください!空いてますからっ!」

「ちょっと、聖さまはこっちだってば!ね?聖さま?」

ああ、私の最大のモテ期はこの頃だったのか。そんな事を考えていると、突然誰かが私の腕を掴んだ。

「っ!?」

ふいに触られるのは嫌い。少なくとも、祐巳ちゃん以外の人には。私は身体をビクンと強張らせた。

女の子は好きだけれど、こういう強引さは・・・やっぱり苦手だ。何だか怒涛のように思い出が蘇ってくる。

あぁ、祐巳ちゃん・・・今ここに居てくれればどれだけ・・・どれだけ・・・。

私の腕を掴んだ子が言った。ばっちり化粧した大きな瞳を私に向ける。

「聖さま・・・髪、素敵です。そのピアスも・・・凄く似合ってて・・・」

「あ、ありがとう・・・」

ていうか、腕、離してくれないかな・・・とは、言えなかった。こんな目を向けられて、言えるはずが無い。

ちょっと前の私なら、きっとこのままこの子をお持ち帰りとかしてたんだろうな〜なんて考えながら、

祐巳ちゃんの顔を思い浮かべた。怒った顔の祐巳ちゃんを。怒っても可愛いんだよね、あの子は。

迫力が無いっていうか、勢いが無いっていうか。

「ところで私、加東さんの隣がいいんだけど、一つ詰めてくれる?」

そう言えば、皆言う事を聞いてくれる。ほんと、単純な連中。バカみたい。私は全然そんな人間じゃないのに。

・・なんて、考えてる私が一番バカみたいだ。大学生の時、私はいっつもこんな調子だった。

どちらかと言えば今と正反対。冷たくて、世の中をバカにしてて、楽しいと思える事なんて何もなくて。

それでも生きていけた。寄ってくる子を片っ端から味見してたのは、変わらなかったケド。

「久しぶり。元気だった?」

「まぁね。そういう加東さんは?」

「この通り、ピンピンしてるわ。でも良かった・・・佐藤さんが来てくれて。トンズラされたらどうしようかと思ってたのよ」

久しぶりに会った加東さんは綺麗なお姉さんになっていた。そりゃそうか、もう何年前になるんだろう?

加東さんは私を見て小さく笑った。

「まだ女の子物色してるの?」

「ううん。もうそれは終わった。今はもうずっと一人だけだよ」

私の台詞に、加東さんは驚いたような顔をする。そして、私の左手の薬指を見て何かに納得したように頷く。

「なるほどね。良かったじゃない。ずっと心配してたのよ、なかなか難しい条件だったじゃない?あなたの理想は」

「そうだっけ?」

私は思わず笑った。そうだ。当時私が求めていた理想は、とても高かった。

綺麗で、賢くて、誠実で、穏やかで、いつでも私を見守ってくれているような、そんな人。まさに栞そのものだった。

でも、実際は・・・。

「理想通りなの?お相手は」

「いいや、全然。まず顔は可愛い系だし、賢いけどどっか抜けてるし、誠実だけどたまに強情だし、全然穏やかじゃないし、

私を見守るどころか、むしろ私を突き放すようなとこあるし・・・正反対かもね。理想とは」

祐巳ちゃんだもんなぁ・・・私が選んだのは。現実と理想は違うっていい例だよ、ほんとに。

それを聞いて加東さんは笑った。あの寡黙だった加東さんが、声を出して笑った。

「人間変われば変わるものなのねぇ。そう・・・で、その子のどこが良かったのよ?」

どこ?と聞かれると困るんだよなぁ・・・こんなの口で説明しようもないと思うんだけど。

「そうねぇ・・・あえて言うなら、ここには絶対に居ないタイプだから、かな。

私の事を無条件に慕わないし、あっさり言う事なんて聞いてくれない。

平気で私にバカとか言うし、対等に喧嘩しようとする。私を・・・人間扱いしてくれる」

「・・・そう。それは素敵だわね。あれかしら?すっごい人気の芸能人なのに、その子だけ知らない、みたいな感じなのかしらね」

うん、そういう喩えがしっくりくる。この顔のせいで外を歩けば絶対に声かけられた。

でも、それは私を外見だけを見て判断してるだけで、私の中身なんて誰も知らない。

でも祐巳ちゃんだけは初めから私を警戒してかかって、私も私で追い出す気満々だったから初めっから素で居た。

「祐巳ちゃんはさー、あ、祐巳ちゃんって言うんだけどね?祐巳ちゃんはさ、私の事何とも思ってなかったのよね、最初。

これは私の勘だけど。それが私にも分かったのよ。だから私も相手にしなかった。

わざわざ自分をよく見せる必要も無かったの。何よりも私の好みじゃなかったし。でも、それが良かったのかも」

「本当の佐藤さんを見てくれたって事?」

加東さんの言葉に私は頷いた。いつだって私は人に見られてた。

小さい頃は近所の人に。大きくなってからは同級生や下級生や上級生に。

いや、こんな風に言ったら相当自信過剰みたいに聞こえるけど、顔がいいとかそういう理由ではなくて、

このバタ臭い顔がただ物珍しかったんだろう。だから私は気が抜けなかった。

負けず嫌いな性格も手伝って、私は人の期待を裏切らないようにと、必死だった。

気がつけばリリアンという閉鎖された空間の中で、私の立ち位置は本来の私よりもずっと上にあった。

「まぁ、そういう事。ほら、私さー顔いいじゃん?」

冗談めかしてそんな事言うと、加東さんは呆れたような顔してる。

まぁ、私が加東さんの立場ならきっと同じ顔してると思うけど。

「・・・まぁ、否定はしないわ。それで?だから?」

「だからさー、狙った獲物は絶対逃さないって自信があったわけよ。でもさ、引っかからなかったんだよねー」

多分、今思えば祐巳ちゃんのあまりの鈍さゆえだったとは思うんだけど。

さりげなく誘ってみても、ちっとも私になびかなかった祐巳ちゃん。あれは凄く新鮮だった。

ただの一度も私の前で頬を染めた事が無かった・・・だから、余計に焦ったのかもしれない。

フイに見せたあの強張った祐巳ちゃんの横顔を見たときに、恋に落ちてしまった。この私が。

どんなに誘っても、迫っても流されなかった祐巳ちゃんだからこそ、私は余計に惹かれたんだろうと、思う。

薬指にはめた指輪を撫でながら、あの時の祐巳ちゃんの横顔を思い出していた私に、突然正面に座ってた子が言った。

「佐藤さん、結婚したの!?」

「「「「「ええぇぇぇぇぇぇぇっっっ?????!!!!」」」」」

その一声に部屋の中のテンションが一気に上がった。

つか、結婚て・・・果たして本当に私が結婚するように見えるんだろうか?

「せ、聖さま・・・そ、そうなんですか・・・?」

恐る恐るって感じでさっき私の腕を掴んだ子が聞いてくる。だから私は言った。真顔で。

「まさか。私が結婚する訳ないでしょ?いや、違うな。出来る訳ないでしょ?が、正しいか。少なくとも今の日本の法律じゃ無理」

だって、私女の子が好きだし。そりゃ祐巳ちゃんと結婚出来るなら今すぐにでもしたいけどね。

そんな私の心の声なんて知らない人達は皆口々に好き勝手な事を言う。

「そ、そうですよね。そ、それじゃあその指輪は一体・・・」

と、そこに一人の女の子が入ってきた。・・・つうか、一番思い出したくない過去・・・。

「やっだ、本当に聖が来てるー!」

「ああ、誰よ、呼んだの・・・」

私は机に突っ伏した。よりによって今来るなよ、今!!まぁ、同級生だから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないけど。

大きなため息を落とす私の背中を、加東さんが慰めるようにポンポンって叩いてくれる。

その子はズカズカと私と加東さんの間に割り込んできて、言う。

「久しぶり、元気?ていうか、ちっとも連絡とれないんだもん。あれからあたし何回も電話したのよー?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

いや、もういいから。本当にもういいから。お願い・・・空気読んで帰って・・・つか、私もう帰りたい・・・。

「なによー、ちょっと見ない間にまた綺麗になっちゃって!ていうか、凄い格好いいんだけど」

「ありがと」

それだけ言うのがやっとだった。

出来れば私は、一度別れた相手とは二度と会いたくないタイプで、

ましてやそれがたった数ヶ月しか付き合ってなかったとしたら尚更で。いや、実際の所数ヶ月も付き合ってたかどうかも怪しい。

「やだ、何、その指輪!男避け?聖でもそんなのするんだー」

「違うよ。これはペアリング。そもそも私が男避けなんてする訳ないでしょ?」

そんな私の言葉に、部屋の中はシンとなった。まるで皆が皆私の次の言葉を待ってるみたいに静か。

でも、そんな沈黙を破ったのはやっぱりこの子で・・・。

「嘘でしょ!?だって、聖ペアリングだけは絶対に嫌だって言ってたじゃない!!」

「そうだったっけ?もう忘れちゃった」

我ながら酷いなぁ。本当はこの子の事は一度だけ思い出してる。確か、祐巳ちゃんへのプレゼントを買いに行った時に。

でも、そんな事すら今の今まで忘れてたんだからしょうがない。案の定、彼女は怒ってる。

「酷い・・・あんなにも優しかったのに・・・性格まで変わっちゃったの?」

「本当は私は全然優しくなんてないよ。知らなかった?」

「そんなの・・・知らない・・・」

そうでしょうねぇ。だって、私今までずっと猫被ってたんだもん。誰にでも合わせられるように訓練してたんだもん。

どんなにそれが苦痛でも、付き合ってる間だけは相手に合わせるようにしてたし。

彼女は立ち上がり私を見下ろす。睨むような目で。でも、そこから先は何もしてこないし言ってこない。

皆そう。私を特別扱いする。もしこれが祐巳ちゃんなら、間違いなく私に暴言を吐くか、私をぶつだろう。

あの子はそういう子だ。いつだって対等でいようとしてくれる。この子もあの時はそうだった筈なのに。

と、その時だった。私の携帯が沈黙を破った。携帯を開くと、それは祐巳ちゃんからのメールで。

「あ・・・祐巳ちゃんだ・・・」

「あら、佐藤さんのお姫さまね?何だったの?」

加東さんは楽しそうに言う。あえてお姫さまとか言ったのは、絶対にわざとだ。誰よりもこの状況を楽しんでるに違いない。

「んー?・・・えっ!ちょ、もう・・・しょうがないんだから。今から友達と飲みに行くんだって。帰ってこれるのかなぁ・・・」

そんな事を呟きながら私はメールを返信する。すると、物凄い速さで返事が返ってきた。

「うわ・・・どうしよう・・・同じ店だ・・・」

「え?そうなの?紹介してよ」

嬉しそうな加東さんと、全然楽しくなさそうな少女。まだ私を見下ろし、唇を噛み締めている。

「えー・・・嫌よ」

「どうして?」

「だって、絶対加東さん気に入るもん」

私の言葉に、加東さんは苦笑いして言った。誰も他人の恋人とらないわよ、と。

いいや、分からない。だって、祐巳ちゃん誰にでも人懐っこいし。

おまけに性格もいいし・・・出来るだけ私の友達には合わせたくない。こんなの身勝手だとは思うけど、しょうがない。

メールを返信し終えた私を見て、少女は言った。

「私・・・聖とやり直したい」

「はあ?」

何を言い出すんだ、突然。驚いた・・・っていうか、呆れる私に、その子は言った。昔のように猫なで声で。

「私・・・あれから色んな人と付き合ったけど、やっぱり聖が一番だったの・・・ね?私たち上手くいってたじゃない」

「あのねぇ、悪いけど私、一度別れたらヨリ戻さない主義なの」

「そんなっ!だって、私今でもずっと聖の事が・・・」

あぁ、だから嫌なんだ。一度別れたのに、こうやって言われるのが。だから会いたくないんだ。

しつこくしつこく言い寄られるのは、私の最も苦手とするタイプで、それは他人でもそう。

例えば祐巳ちゃんに誰かがしつこく言い寄ってたとしたら、きっと許せない。

私は立ち上がった。彼女の身長はちょうど祐巳ちゃんぐらい。だからかな、余計に今、祐巳ちゃんに逢いたい。

「あのね、私、もうあなたの事何とも思ってないの。それどころか今の今まで忘れてたわよ。

それなのに突然やってきたかと思えば、何?ヨリを戻したい?

誰だったっけ?あの時好きな人が出来たからって言って私と別れたいって言ったの。

誰だったっけ?やっぱり付き合うのは男の方がいいって言ったの」

そう、あの時の事は忘れたくても忘れられない。あの言葉がどれだけショックだったか。

長い期間を付き合っていた訳ではない。大して好きだった訳でもない。多分、何かの弾みで出た言葉だってのも知ってる。

でもね、付き合ってる人にそんな事を言われた私の痛みがどれほどのものだったか分かる?

どんなに尽くしても、結局男には敵わないんだと思い知らされるあの気持ちが。

私は、すっかり高校生の私に戻っていた。冷たい言葉に、冷たい瞳。多分、この子は私のこんな顔を知らない。

「あ・・・あれは・・・」

「もういいって。別に言い訳して欲しい訳じゃないから。

別にもういいのよ、むしろ別れ話を持ち出してくれて良かったとさえ思ってる。

遅かれ早かれああなる運命だったんでしょ、きっと。だから私も今こうして幸せでいる訳だし」

私はそこで言葉を切った。少女は俯き、唇を噛んで震えている。

怖いのか、それとも悔しいのかは分からないけど、少なくとも私にはもう関係ない。

と、その時だった。沈黙を破ったのは、その場を取り繕おうとした幹事だった。本当に申し訳ない。

「そ、それじゃあ、今フリーじゃないんですか!?」

「ははは、まぁね」

そう言って、チラリと加東さんを見ると、加東さんは何だか得意げな顔してる。そして、私にこっそり耳打した。

「スッキりしたわ。それと・・・佐藤さんの新たな一面を見た気がするわ」

「あー・・・私、基本的には短気なのよね」

「そのようね」

怒るとどうしようもなく止められないのは、昔から変わってない。これでも随分温厚になったものだ。

はぁーあ。早く帰りたいなぁ〜・・・でも、祐巳ちゃんもここに来るみたいだから、帰りは一緒に帰ろう。

ついでに、加東さんにもしょうがないから祐巳ちゃんを紹介してやるか。


第五十九話『聖さまの日常』


「さて、それじゃあ次は祐巳さんの番ね。聖さまって、普段何して過ごしてんの?」

ずっと気になってたんだ〜、とか言いながらさっき散々剥いた枝豆を食べる由乃さん。

お皿を両手に持ってすするみたいに食べてる。でも・・・その食べ方はどうだろう?

由乃さんの質問に、何故か志摩子さんまで頷いている。ていうか・・・別に普通だと思うんだけど・・・。

「聖さまの普段ねぇ・・・どうだろ?別に特に変わったとこないと思うけど・・・」

「でもさ、祐巳さんが目を覚ましたら家に聖さまが居る訳でしょ?てことは、聖さまの寝顔とかも見てるんでしょ!?」

「そ、そりゃそうよね。一緒に寝てるんだから。寝顔は・・・そうね、可愛らしい・・・かな」

すんごく静かに眠るんだよね、あの人。たまに息してないんじゃない?って思うほど。

だから夜中にふと目が覚めたら必ず一度は確認してしまう。ちゃんと息してるかな?って。

由乃さんは興奮したようにズイっと前に乗り出し言う。

「じゃあさ、じゃあさ、聖さまって普段何して時間潰してんの?やっぱり英語の原書とか読んじゃったり?」

格好いいよね〜!なんて想像の聖さまで楽しむ由乃さん。

英語の原書?う〜ん・・・たまにはそりゃそういうの読んでるけど、でも大抵・・・。

「ゴロゴロしてる・・・かな。後は・・・ゲームとか、掃除とか・・・」

「ゲーム!?聖さまが?掃除??聖さまが???」

「う、うん」

聖さま・・・あなた一体どんなイメージを皆に植え付けてたんですか。何だか酷く勘違いされてますよ?

こないだも、何か難しいそうな英語の本読んでるから、何読んでんですか?って聞いたら、聖さまってば・・・。

『何って・・・英語のエロ小説。祐巳ちゃんも読む?』

だって。もう信じらんない。つか、それ以前に読めないし!!その後聖さまはこう付け加えた。

『英語やってて良かったよ、ほんと。だって、これ和訳されてないんだもん。読みたかったんだよね〜』

嬉々としてエロ本を語る聖さま・・・これってどうよ?

かと思ったら難しい顔してケロロ読んでたり、ドラえもん観て本気で泣いてたり・・・本当によく分からない人だ。

それを由乃さんに言うと、案の定爆笑された。志摩子さんは恥ずかしそうに頬を押さえて、お姉さまってば・・・、って呟いてる。

「聖さま面白い!!他には?他には何かないの?」

「ほかー?う〜ん・・・お風呂上りは大抵下着だけで出て来る。ボクサーパンツにキャミソール一枚で。

だから目のやり場に困るのよね・・・首からタオル提げてさ・・・親父みたい」

スラリと長い足と腕は、いつも私をドキドキさせる。屈んだらチラリと見える胸も、くっきりと浮かんだ鎖骨や肩甲骨にも。

流石にそこまでは言わなかったけど、それでも由乃さんの興味は十分に惹いたらしい。

「そ・・・それは是非拝んでみたいわね。今度泊まりに行ってもいい?」

「構わないけど・・・お客さんが来てるのにそんな格好で出て来ると思う?」

それ以前に聖さまが家に上げるかどうかって話なんだけど。まぁ、それはもう大丈夫かな。こないだ蓉子さまも入ってきてたし。

それまでずっと恥ずかしそうな顔していた志摩子さんが、ようやくここで口を開いた。

「お姉さまは結構祐巳さんに甘えたりする?

私たちの前では絶対そんな顔見せたりしないけど、祐巳さんには本当に心を許してるみたいだし・・・」

「そうだよねー。聖さまはだって、絶対私たちの前では甘えて見せたりしないもんね。

どっちかっていうと、いっつもクールなイメージなんだけど」

それを聞いて私は思わず噴出してしまった。クール?聖さまが!?

「まさか!クールだなんて!!あはは、それ笑える!!」

「違うの?」

「全っ然!そりゃ格好いいけどね、でも・・・クールって感じではないなぁ。そもそも最初から聖さまは・・・ねぇ?」

いきなり抱きついてきてキスして、挙句に散々ワガママ言い倒して、毎晩毎晩、晩御飯たかりに来て・・・でも、たまに優しくて。

普通なら気障ったらしい仕草も似合ってしまう、そんな不思議な人だった。

「やっぱり聖さまは祐巳さんの前ではきっと素に戻れるんだよ。だって、私たちの前じゃ笑いもしなかったんだよ?

祐巳さんが来てからだよねぇ?あんなにも笑うようになったの」

由乃さんは志摩子さんに話を振った。志摩子さんはコクリと頷く。ていうか、それは栞さんに振られたからなんじゃ・・・。

だから私のおかげではなさそう。

「でもさ、目の保養だよね。毎日あの顔見れるんだもんなぁ・・・」

「何言ってるのよ。学校で見てるじゃない」

「えー、そうじゃなくてさー。家帰ってもずっと一緒でしょ?キスだって・・・それ以上の事だってする訳じゃない?

それってさー、何か・・・凄いなぁって思って。今の祐巳さんのポジションを羨ましがる女の子がリリアンにはどれだけ居るか!

ううん、リリアンのOBと言った方が正しいかもしれないわ」

「私はとにかくお姉さまが幸せそうだから本当に嬉しいわ」

「そ、そう?確かに私は幸せものかもな〜・・・だって、聖さまと一緒に居ると面白いもん。苛められるけど」

チクチク嫌味言われたりするんだけど、でも絶対に後引かないし、本気で嫌がるような事はしない。

由乃さんはニヤニヤしながら私の顔を見つめ、やがて口を開いた。

「で、最後の質問なんだけど・・・聖さまって夜は優しい?それとも激しい?実を言うとこれを誰かに聞きたかったんだ!」

ああ、きたよ。絶対こんな話になると思ったんだよね。案の定志摩子さんも複雑そうな顔してる。

「そういう由乃さんはどうなの?」

どうだ!困るでしょう!?ところが、由乃さんは困らないんだよね。

頬を染めて嬉しそうに語ってくれるんだもん。ついていけない。絶対酔ってるよ、この人。

「令ちゃんはそりゃ見た目通り優しいわよ。ああ見えてあの人少女趣味だからさ、絶対乱暴はしないんだよね〜。

で、聖さまは?ねぇ、ねぇ、ねぇ!!」

由乃さんがズイって近寄ってくる。こ、怖いよ・・・目、目が据わってる。ところが、突然志摩子さんが頬を染めてポツリと呟いた。

「・・・乃梨子はね・・・とても誠実だし、・・・優しいわ。たまに激情に任せて・・・みたいな時もあるけど、でもそれはそれで・・・」

し、志摩子さん・・・まさかあなたの口からこんな話が聞けるとは。何ていうか凄く以外。

いや、それ以前に誰も志摩子さんに聞いてないよっ!何もバカ正直に答えなくても!!!!

志摩子さん・・・もしかして酔ってるのかなぁ?ほら、見てよ、由乃さんの楽しそうな顔・・・。

で・・・二人の視線は自然と私に集まる訳で・・・。

「わ、私っ!?」

「そりゃそうよ。私たちはちゃんと言ったもの。志摩子さんなんか聞いてもないのに答えてくれたんだよ!?

ね?志摩子さん?」

「きゃっ!もう、恥ずかしいわ!」

いや、自分から言ったよね?志摩子さん自分から話し出したよね!?でも、由乃さんはそんな事気にしてない。

「で、聖さまはどうなの?やっぱり上手??」

「そ・・・そう言われてもなぁ・・・」

そもそもだよ?そんなの誰かと比べた事もないから分かんないんだけど・・・。

私は大きなため息を落とすと、目の前にあったビールを一気に飲み干した。飲まなきゃ話せないよ、こんな話!

するとどうだろう。何だかあっという間に頭がフワフワして・・・気持ちいい。

そして、気がついた時には口が私の意志とは反して勝手に話し出して・・・。

「聖さまは・・・どっちかって言うと、激しいかも・・・でも、それがいいの!

あの白くて細い指がさ、触れるだけでゾクゾクして・・・それに聖さまの肌って凄くスベスベしてて気持ち良くて・・・。

もう、それだけでいいっていうか・・・はっ?!」

って、私何言ってんだろ?ヤバイ、こんなにも早く酔い回っちゃった?どうしよう・・・一気なんてするんじゃなかったよ・・・。

そこまで言った私を、流石に見かねた二人が止めてくれた。良かった・・・止めてくれて。

もしもこんな話をしたってどっかから聖さまにバレたら、私きっとただじゃすまない。

「まぁ、何にしても聖さまは基本的には何やらしても上手そうだよね。

手馴れてるっていうか、ちゃんと勉強とかしてそうって言うか・・・あ!別に変な意味じゃなくてね?」

「う・・・うん・・・」

由乃さんの一言に私は黙り込んだ。そりゃさ、知ってるよ。聖さまが今までにも色んな人とそういうことしてきたって事はさ。

でも・・・やっぱり知りたくないよね・・・そういうの。それなのに、心のどっかでは知りたいとも思ってる自分。

凄くこんがらがってて何だかとても複雑。

「や、やだ!祐巳さん、そんな泣きそうな顔しないでよ!ごめんね?そういうつもりで言ったんじゃなかったの!!」

必死になって私を慰めてくれようとする由乃さん。でもね、由乃さん。私ね、別に由乃さんの言葉に傷ついた訳じゃないんだよ。

ただね、思い出しちゃっただけなんだ。聖さまは私が初めてだった訳じゃないって事を。

だからね、由乃さんが気にしなくてもいいよ。そう、言いたかった。心の中ではそう言ってた。

でも、それが言葉になることは・・・無かった。気がついたら私は部屋を飛び出してお手洗いに駆け込んでいたんだ。

「うっ・・・ひっく・・・もう・・・聖さまぁ・・・逢いたいよぉ・・・」

電話とかしたいけど、そうはいかない。だって、聖さまは昔の友達に会ってるんだもん。邪魔なんて・・・出来ないよ。

五分ぐらいかな、私がお手洗いの個室に篭って泣いてたのは。

流石に由乃さんと志摩子さんに心配かけちゃ悪いと思って個室を出て、鏡の中に映る涙で腫れた目を見つめていると、

誰かがお手洗いに入ってきた。そして、バッチリと視線が合ってしまう。ヤバ!!

「あ・・・えっと・・・大丈夫?気分でも悪いの?」

凛とした、強そうな声。心配そうな口調なんだけど、少しも表情は変わらない。何だか変わった人だなぁって思った。

眼鏡の奥からこちらを見る視線は、一見とても冷たそうに見えるけど、どこか暖かい。何だか・・・好感の持てる人だぁ。

そっと差し出してくれたハンカチはとても清潔そう。私は出来るだけニッコリ笑って言った。

「いえ、大丈夫です・・・すみません、ありがとうございます。あ・・・邪魔ですよね?すぐに出ていきますから」

「いや・・・別に・・・」

ペコリとお辞儀をして、最後までその人の話も聞かず私は俯いたまま個室を後にした。

反省、反省。せっかく今日は由乃さんが私が寂しくないようにって誘ってくれたんだもんね。ちゃんと楽しい飲み会にしなきゃ!

大きく息を吸い込んで、私はしっかりとした足取りで部屋に帰る途中、チラリと隣の部屋の中が見えた。

「!?」

誰かが襖を開けたその瞬間しか見えなかったけど、確かに聖さまがそこに、

その部屋に居たような気がしたんだけど・・・まさか、ね。

「そんな訳ないか」

ありえない、ありえない。そんな偶然。もしここに聖さまが居たら、私はちょっとは自信とか持てるのかな?

ほんの少しぐらいは、聖さまと繋がってるって、そう・・・思えるのかな・・・なんてね。とりあえず部屋帰らなきゃ。

きっと、二人とも心配してる。


第六十話『傷つく心』


「っくしゅん!!」

「ちょっと、大丈夫?」

「うん、へーき。誰か私の噂してるのかな」

さっきからもうくしゃみするの三回目。こりゃ風邪かもしれないって線が強くなってきた。

多分加東さんもそう思ってるに違いない。何も言わずそっとティッシュを差し出してくれる。

私はティッシュを受け取ると、それでそっと鼻をかんだ。あー・・・ちょっとスッキりしたかも。

それにしても、もうすぐ新学期だってのに今頃風邪引くなんて。ほんと、ついてない。

こんなんじゃ祐巳ちゃんにうつしちゃいそうでまともにキスも出来ないじゃない。いや、するけどね。

うつろうが何しようがキスはするけども。もちろん、それ以上のことも。

「いっそ、二人で寝込むのもいいな」

私は想像した。祐巳ちゃんと仲良く風邪引いて寝込む姿を。割といいんじゃない?

一日中ベッドの中でさ、しんどいねー、とか言いながら寝てるのも。思わずニヤけてポツリと呟いた一言に、部屋はシンとなる。

「や、別に気にしないで皆続けて?ただの独り言だから」

そう言って私はうっすらと笑う。そんな私を見て加東さんを始め、皆ポカーンって顔してて・・・何だか笑える。

「佐藤さんって・・・そんな顔出来たんだぁ・・・初めて見ちゃった。佐藤さんの思い出し笑い」

幹事が言った。それに続いて何人かが頷く。って、ちょっと待て。

そりゃ私だって笑いますよ、ねえ、加東さん?あ、あれ?加東さん!?い・・・いない。いつの間に・・・。

隣の隣を見ると、さっきまでそこに居たはずの加東さんが居ない。つか、この子は一体いつまでここに居る気だろう?

私の隣にはまだ元カノが怖い顔して座っていた。

「聖―、私のど渇いたー。何か飲むもの頼んで?」

可愛らしく首を傾げて笑顔で私を見上げる。あの時はこんな仕草も可愛いと素直に思えたのになぁ・・・。

今はどうにも祐巳ちゃんと被っていけない。ていうか、こうやって祐巳ちゃんと比べてみると、

祐巳ちゃんって本当に天然なんだ。この子みたいに計算された可愛さじゃない、天然の愛らしさ。

だから、あんなにもどこにも嫌味が無いんだ・・・泣きたい時は泣いて、怒りたいときは怒る。

笑う時は凄く自然に。ほんとに可愛い。多分・・・今まで会った人の中で一番可愛いかもしれない。

それぐらい、祐巳ちゃんが可愛く思えた。今、この瞬間に。

「こうやって考えると・・・私って可愛い系が好きだったのかな・・・」

その言葉に、少女の顔がパッと華やいだ。いや、誤解しないで。君の事じゃないから。残念だけど。

いい加減鬱陶しくなってた私は、その事をハッキリと少女に告げた。そう、ハッキリと。包み隠さずに。

「あ、違うから。君じゃなくて、今の彼女がね、可愛いなって言ったの」

「な、なんですって!?・・・こんなに・・・・こんなにバカにされたの、生まれて初めてよっ!!」

ガタンって物凄い音を立てて少女は立ち上がった。そうそう、この子はいつもこうやって怒ったんだ。

そして、言いたい放題言う。私じゃなくて、私の浮気相手の事を。そういうのが耐えられなくて、私はまた浮気をする。

ずっと、その繰り返しだった。ほんの少しでも友達と話をしていたら、必ずこうやって怒っていたっけ。

だってさ、私にだって付き合いってものがある。どうしても話さなきゃならない場合もある。

そりゃ自分の気に入らない人と話なんてしないで!って気持ちも分かるんだけどね。

エスカレートしすぎると・・・やっぱり困るよ。かと言ってずっとほっとかれるのも辛いけど。

ちょうどいいぐらいってボーダーラインがあるじゃない。でも、この子はそれを軽く超えていた。いつも。

で、最後の日の台詞。もう二度と会いたくないって思った。

あぁ、祐巳ちゃん・・・逢いたいよ私もいっそ、そっちへ行って飲みたい。

そしたら、こんな思いしなくてもすむのに。ところが、この子の怒りは収まらなかった。

うんざりだって顔してる私を見ても、絶対に引かない強さ・・・ここだけは尊敬する。

「大体、その彼女もほんと、調子いいわよね。

どうやって聖に取り入ったか知らないけど、まだどうせ付き合い始めて何日とかなんでしょ?

どんな女だか知らないけど、ロクな女じゃないことだけは断言してあげる。

何よ、祐巳ちゃん、祐巳ちゃんって。バカなんじゃないの?騙されてるとも知らずにさ!

どうせどこにでも居るようなしょうもない女なんでしょ!?何とか言ってみなさいよ!!」

それを聞いて、私は立ち上がった。自分でも、今から何をしようとしてるのか分からなかった。

ただ、祐巳ちゃんの事だけは・・・祐巳ちゃんだけは、悪く言われたくなかったのかもしれない。

「それ以上言ったら、本当に怒るわよ?」

自分でも驚くほどの冷たい声に、辺りはシンとなる。皆の緊張の糸が私にも伝わってくる。

でもね、一度でも肌を重ねた相手を心の底から嫌いになることなんてなかなか出来ない。

たとえそれが、どんなにしょうもない奴でも。それに、この場の雰囲気を壊すも嫌だった。

さっさと今、ここで私の前から消えてくれればそれでいい。そして、もう二度と私の前に現れなければ。

けれど、彼女はやっぱり引き下がろうとしなかった。怯えきった瞳で私を見上げている。

もしも、今ここに加東さんが来て私を止めてくれなかったら、きっと私は感情に任せて殴るなり蹴るなりしていたかもしれない。

「佐藤さん、落ち着いて。分かってるでしょ?この子の言う事にいつだって真実なんてなかったでしょ?」

私の袖を掴み、必死に止めようとする加東さん。もちろん、加東さんの言葉に他の皆も頷いてる。

かなり恐々と。私はそんな皆を見渡して、ようやく我に返った。

大きく息を吸い込んで席についた私を見て、部屋の中に安堵の溜息が漏れる。

「あなたも、何のつもりでそんな事言うのか知らないけど、いい加減にしないとここに居る全員に袋叩きにされるわよ?」

いや・・・加東さん・・・?さ、流石にそれはないでしょう。多分、加東さんもあまり顔には出さないけれど、本気で怒ってる。

それが、私にも痛いほど伝わってきた。良かった、止めてくれて、本当に良かった。

「今度祐巳ちゃんの事口にしたら・・・どうなるか分かってるわよねぇ?」

私はこちらを見下ろす少女に、冷たく微笑んで言った。その声に、その言葉の温度に少女は身体をピクンと震わせる。

多分、二度目はない。今までは彼女のこういう所を暗黙してきたけど、今回は許さない。何故か、はっきりと自分でも分かった。

他の誰の事を言われても腹が立たなかったのに、心って本当に不思議。

と、ふと思った。もしも、もしもここにリリアンの教師達が居たら、皆どうしただろう?

きっと・・・加東さんの言ったように、袋叩きになってたに違いない。だって、皆酷く祐巳ちゃんの事が好きだから。

それから、少女は随分大人しくなった。部屋の隅っこで、大学時代の旧友と静かに喋っている程度に収まった。

「ところで加東さん、さっきはどうもありがと」

「いいえ、どういたしまして。誰かが止めなきゃマズかったでしょ?」

加東さんは緑色のカクテルの入ったグラスを少し傾けて、私のグラスにカチンと当てた。

ほんの少し微笑んだ顔が、何だかとても綺麗に見える。

光にかざすように持ち上げたグラスの向こうに、緑色の少女が歪んで見えた。

「そうそう、そう言えばさっき可愛らしい子を見たわ」

あまりにも突然話が切り替わったものだから、思わず私は噴出しそうになった。飲んでいた日本酒を。

「な、何?突然・・・」

「いえね、お手洗いに行ったら、鏡をじーっと覗き込んでる子が居て、その子どうやら泣いてたらしくって。

大丈夫?って聞いたら、無理に笑顔作ってね・・・何だかそれが凄く可愛かったのよ。

こう・・・目は潤んでるんだけど、無理やり口角上げて笑う顔がね・・・とても印象的だった。

可愛いって言っても、切ない可愛らしさで・・・」

加東さんは何かを思い出すようにグラスを左右に振った。あぁ、何か嫌なことあったのかなぁって思っちゃった。

そんな風に呟く加東さんの顔はさっきと違って凄く優しい。そして、こう付け加えた。

「あの子が佐藤さんの彼女ならいいのに、って思っちゃったわ」

「はは、案外そうかもしれないわよ?

祐巳ちゃんも一応はこの居酒屋に居るんだから・・・でも、泣いてる事は無いと思うけど」

だって、今祐巳ちゃんは志摩子と由乃ちゃんと飲んでるんだもん。きっと、楽しいに違いない。

そして、私の事すら思い出してないかもしれない。でも・・・それは寂しいなぁ・・・。

離れてても、ほんの少しでいいから思い出してほしい。いつだって、どんな時だって、私を感じていてほしい。

まぁ、これはただの私のワガママなんだけど。

私は飲み干した日本酒をテーブルの上に置くと、まだ何か考えている加東さんに言った。

「それよりも私は、祐巳ちゃんがどこかで脱いでないかが心配だよ・・・」

酔っ払うとすぐに服、脱ぎたがるからなぁ、祐巳ちゃんは。私はそれが心配で心配でしょうがない。

そして蘇る苦い思い出。初めて、誰かにひっぱたかれたあの日の事。きっと、これからもこうやってたまに思い出すんだろう。

この飲み会の終点が見えない。それに気づいた時にはもうすでに遅かった。幹事を始め、他の子達に私は囲まれていた。

「私ね、今だから言うけど、佐藤さんの事本気だったのよ」

「はあ・・・そうでしたか・・・」

「わ、私だって!今日は聖さまが来るって言うから、お洒落してきたのに・・・それなのに・・・もう彼女が居るなんて・・・」

「ご、ごめんね?」

「どうしても私、諦められません!!一晩だけ、一晩だけでいいですからっ!!」

ガシッって手を掴まれて、涙目でそんな事言われても・・・・。

「悪いけど、私、もう浮気はしないの」

「そ・・・そんな・・・あの、聖さまが・・・あの聖さまが・・・完全に誰かの人になっちゃうなんてっ」

私に抱きついてきて号泣する女の子を見たら、今までの私なら間違いなく手を出してた。

でも、今はそんな気すら起こらないところを見ると、私は本当に祐巳ちゃんが好きなんだな、きっと。

これって凄い!私が完全に女遊びを辞めるなんてっ!!あながちこの子の言う事は間違いではないのかもしれない。

私は、もう既に祐巳ちゃんのモノなのかもしれない。このリングがいい証拠だ。そう思うと、何だか自分が誇らしかった。

なんていうのかな、くすぐったいような、笑いたいようなそんな気分。

その時だった。突然、それまでずっと静かだった隣の座敷から大きな笑い声が聞こえてきた。

『あはははは!!!祐巳さん素敵――――!!!』

「・・・ねぇ、加東さん・・・今、隣・・・祐巳さんって・・・そう言ってた?」

恐る恐る聞く私に、加東さんは無言で頷く。まさか・・・隣の座敷に祐巳ちゃん達は居るの?

私は、襖に近寄って、そっと隙間から隣を覗いて凍りついた。・・・祐巳ちゃんだ・・・間違いなく。でも・・・でも・・・あれは・・・。

次の瞬間、私は襖を勢いよく開けて声を張り上げていた。

「祐巳ちゃんっ!!!そこでストーーーーーップ!!!!!」

私の声は、一体どれぐらいの威力があっただろう?とりあえず、この二部屋には大きな効果があったに違いない。

祐巳ちゃんは驚いたような顔して私を見てるし、こちらの部屋では皆完全に呆けてる。

私は祐巳ちゃんに駆け寄ると、慌てて下に落ちていたジャケットを祐巳ちゃんに着せた。

「は・・・はれ?せ・・・さま?」

完全に酔っ払ってる祐巳ちゃんと由乃ちゃんと志摩子は、私がまさかここに居るとは思ってもみなかったようで、

皆一様にポカンと口を開けている。まぁ、そりゃ当然だよね。私もまさか隣の部屋で飲んでるとは思ってもみなかったもの。

でも、良かった。気づいて本当に良かった。このまま放ったらかしにしてたら、間違いなく祐巳ちゃんは完全に素っ裸だった。

私が踏み込んだ時には既に祐巳ちゃんはブラジャーに、スカートって、物凄い格好だったから・・・しかも、

スカートのホックに手をかけてたからね、この子は。

大きなため息を落とした私を見て、祐巳ちゃんが笑った。満面の笑みってやつだ。

「あのねぇ、恥ずかしいからそういう事するのは私の前だけにしときなさい。いい?分かった?」

私の問いに、祐巳ちゃんは大きく頷き、はーい!って手を上げて言う。ほんと・・・子供みたいな変事・・・。

それにしても・・・私は真赤な顔してる志摩子と由乃ちゃんを見て、携帯を取り出すと素早く電話をかけた。

「あ、もしもし、令?今すぐ駅前に出来た新しい居酒屋さんに来てちょうだい。由乃ちゃんが大変な事になってるから」

多分、私の言った意味を即理解したのだろう。挨拶もそこそこに令は電話を切った。かなり慌てた様子で。

そして次は・・・。

「乃梨子ちゃん?こんな時間にごめんね。え?寝てた?それは申し訳ない。

ところでね、物は相談なんだけど、志摩子を引き取りに来てくれない?

うん、うん、駅前の新しく出来た居酒屋なんだけどね、完全に潰れちゃってるのよ。

そう、多分こんなんで家帰ったら相当怒られるだろうから、今晩はそっちに泊めてあげて。

ええ、それまでは私がここに居るから・・・は?大丈夫だって、何もしないってば。はいはい、分かった分かった。それじゃあね」

全く、乃梨子ちゃんは相変わらず私と志摩子の仲を誤解してる。未だに私が志摩子に手を出すと思ってるんだもんなぁ。

「さ・て・・・残るは君なんだけどね。一体どうやったらそんなになるまで飲める訳?

私言ったでしょ?メールで。あんまり飲みすぎないようにって」

叱る私をじっと見上げる祐巳ちゃんの顔に、あまり悪びれた様子はない。そしてシレっと言うんだ、この子は。

「だって・・・聖さま迎えに来てくれるもん・・・」

ですって。どう思う?この態度。私も飲んでるのに、どうしてそう思うのか。

ええ、ええ、確かに?私は祐巳ちゃんがどこで飲んでようときっと迎えに行ったでしょうよ。

でもね、限度ってものがあるでしょう!?どこの誰が下着になるまで飲む?

睨む私を見て、ようやく祐巳ちゃんは素直に謝った。

「・・・ごめんなさい・・・もうしません・・・」

「よろしい。ほら、帰る支度して、三人とも」

「「「はーい」」」

不満顔ではあるけれども、三人とも凄く素直だ。いそいそと帰り支度をしだした三人を見て、思わず私は笑みを漏らした。

襖をそっと閉め、部屋に戻った私に一斉に視線が集まる。い、痛い・・・視線が痛いよ・・・。

「い、今のが彼女さんなんですかっ!?」

「そう・・・なんだけど・・・何か凄い格好してたね・・・」

私はポツリとそう言うと、周りを見渡し言った。

「凄い格好してたけど、誰も見てないわよね?」

見えてない訳がない。絶対見えてた。ベビーピンクの下着姿の祐巳ちゃんを。私の笑顔に、皆首を振る。縦に。

「「「「「み、見てませんっ、決してっ」」」」」

「そう、ならいいの。加東さんも見てないわよね?」

「え・・・ええ、何も・・・」

引きつった笑顔が、本当はハッキリ見た事を物語っている。

でも何か嫌じゃない。付き合ってる子の無防備な姿を誰かに見られるのは。ただでさえイライラしてた。

そこにまるで留めを刺すような一言が私の耳に届いたその瞬間、私の中の何かが切れた。

「何よ、人前で脱ぐような軽い女じゃない。やっぱりしょうもない女。聖が可哀想」

哀れそうに呟くその声は、私にあてたものでは無かった。この台詞は完全に祐巳ちゃんにあてたものだ。

静かに近づく私に、彼女は気づかなかった。私が少女の胸倉を思い切り掴むまでは。

「きゃあっ?!」

「佐藤さん!!!」

加東さんが止める間もなかった。私は元彼女を無理やり立たせ、その頬を思い切り打った。

パシーンって物凄い音が部屋に響く。

「グーじゃなかっただけ良かったと思いなさい。これが最後よ、二度と私の前に現れないで。

もし次私の前に姿を現したら、今度はこんなものでは済まさないわ」

はっきりと怒りを露にしたのは、これが初めてだった。

掴んでた服を放すと、少女はまるで高い所から落ちたみたいにその場に崩れ落ちる。

ボー然として私を見上げるその顔には恐怖しか浮かんでいない。ただ、左頬にはくっきりと私の手形が残っていた。

初めからこうしてやれば良かった。もっと早くに。そうしたらきっと、祐巳ちゃんは悪く言われる事なんて無かった。

確かに、祐巳ちゃんが悪い。お酒が入るとあの子はすぐに脱いでしまうから。

そこだけを見て、軽い子だと思われるのもしょうがないのかもしれない。でも、私を哀れむのは違う。

例えあんな事をしでかしても私は祐巳ちゃんを愛している。私に、哀れまれるような所なんて一つもない。

これだけは自信を持って言える。

「言っておくけど、私はあの子ともう半年も付き合ってる。でも、全然飽きないし、むしろ毎日好きになる。

それがあんたと祐巳ちゃんの大きな違いよ。はっきり言うけど、私はあんたを愛しいと思った事なんてただの一度も無かった。

誰かを羨んで憎んでばかり居るような奴なんて、愛する価値もない。

私の事を可哀想と嘆く資格なんて、あんたには無いの。だって、あんたと私はもう、赤の他人なんだから」

そこまで言って、私は少女の目の前にしゃがみこんだ。俯いて震える少女の顔を無理やりあげさせ、言う。

「わかった?」

けれど、彼女は何も言わない。私の目に映る自分の姿を見ているのだろう、きっと。

だから、私はもう一度大きな声で聞いた。

「ねぇ、わかったの?返事は?」

ビクンと少女の身体が震えた。ピンク色のルージュがほんの少しはみだしている。その口元が微かに震えた。

「何?聞こえないわ。わかったのかって聞いてるのよ、返事をしなさい!」

「はいっ」

怯えきった瞳には私しか映っていなかった。見下し、冷たい目をした私しか。

手を離すと、少女は慌てて立ち上がり鞄を持って逃げるように部屋から飛び出してゆく。

その後姿に、何の感情も湧かなかった。クルリと振り向いた私を、まるでオバケでも見たかのような顔で見つめる同級生。

「悪いけど、私帰るわね。彼女、連れて帰らないと。加東さん、今度改めて祐巳ちゃんを紹介するわ。

それじゃあ、今日は誘ってくれてありがとう、おかげで色々とスッキりしたわ」

誰の返事も待たなかった。鞄を持ち、そのまま真っ直ぐ部屋を出てゆく。

祐巳ちゃんに逢いたかった。思い切り抱きしめたかった。スッキりした筈なのに、何故か胸が痛い。

別にあの少女に同情してるとかそういうのではない。ただ、間の悪い祐巳ちゃんと、そして、哀れまれた私への痛みだった。

私は可哀想なんかじゃない。だって、本当の祐巳ちゃんを知ってるもの。多少脱ぎ癖があったって、構うもんですか。

祐巳ちゃんは・・・祐巳ちゃんは、私の愛したたった一人の人なんだもの・・・。


第六十一話『恥はかき捨て』



はっきり言って、私は実を言うと、飲み会の後半の方は全く覚えていない。

ただ、聖さまの同窓会をブチ壊したことだけはやたらにはっきり覚えてて・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

服を着終えて帰り支度が終わった頃、しばらくすると隣の部屋から聖さまがやってきた。

「あ〜、聖さまら〜」

嬉しくて手を伸ばした私を聖さまは乱暴に立たせると、突然苦しいくらいに抱きしめられた。

「く、苦しいれふよ・・・」

「いいから・・・じっとしてて」

懇願にも似た聖さまの声・・・志摩子さんと由乃さんの視線が恥ずかしくて俯いてしまう。

どれぐらいそうして抱きしめられていたんだろう・・・ふと、我に帰った。私・・・もしかしてまた何かしたんじゃ・・・と。

恐る恐る顔を挙げて聖さまの顔をじっと見つめたんだけど、どこか機嫌の悪そうな顔つきに思わず私は身体を強張らせる。

ごめんなさい、ごめんなさい。聖さまの顔が凄く怖くて、気がついたら私は聖さま謝ることしか出来なかった。

「もう怒ってないよ?」

そういう声さえ冷たく感じるのに、聖さまは怒ってはいないと言う。じゃあ一体どうしてそんな顔してるんです?

そう聞きたいのに、何故か口をついて出る言葉は、やっぱりごめんなさいだった。

まるで壊れたおもちゃみたいに謝る私を抱きしめて、聖さまが言う。

「本当に、もう怒ってないから。だからもう謝らないで。お願いよ」

聖さまの匂い・・・私の一番好きな匂い。香水とかそういうんじゃない、聖さまの匂いが鼻腔をくすぐる。

「あの・・・私・・・皆さんにまた迷惑とかかけてたり・・・?」

ポツリと呟いた私の台詞に、ようやく聖さまは笑ってくれた。いや、決して優しい顔ではなかったけども。

意地悪に口の端だけを上げて、さも嫌味っぽく笑う。

「まぁねぇ。大変だったねぇ・・・良かったよ、皆温厚な人たちばっかりで」

えっと・・・こ、これはまさかとは思うんだけど、もしかして私ってば・・・相当酷かったんじゃ?

酔うと記憶がプッツリと途絶えるのは私の悪い癖で、多分聖さまもそれをよく知ってる。

だからこそ、メールであれほど注意されたのに・・・私はまた・・・。

「せ、聖さまっ!わ、私、皆さんに謝りにいきますっ!!」

「は?何言ってんの?」

「だって!私ったら聖さまのお友達にまで迷惑かけて・・・ほんと、なんて謝ればいいのか・・・」

もういっそ、泣いてしまいたい。ていうか、いっそ禁酒しようと思う。今日、この日を境に!でないとダメだ。

いつか絶対お酒で身を滅ぼしそうな気がする。それを聖さまに言うと、聖さまは声を出して笑った。

「バカだねー、大丈夫だってば。ちょっと下着姿見られただけだって。

でも色気がさぁ、祐巳ちゃんには足りないんだよなぁ・・・」

私がもっと頑張らなきゃ!そんな事を言って聖さまは私の頭を撫でる。ていうか、何気に失礼な事言われてない?私。

いや、いやいやいや、そんな事にカチンってしてる場合じゃない。下着姿って・・・それって、もしかして上も下も?

ヤバイ・・・ヤバイよ。多分皆さんは私の下着姿なんてきっと見たくもなかっただろう。それなのに・・・それなのに私ってば!!

「や、やっぱり謝りに行きますっ!!いいえ、いかせてくださいっ!!!」

でなきゃ聖さまの彼女は飲むと脱ぐ変態だって言われちゃう!!それは流石に嫌だ。

それに何よりも、聖さまの品位まで疑われちゃうじゃない!!それを聖さまに言うと、聖さまは何故か苦笑いしただけだった。

「まぁ、好きにすれば?もう皆覚えてないと思うけど」

「そ、そういう問題ではなくて、ですねぇ・・・」

とりあえず謝りに行こう。私は聖さまの手を引いてお隣の襖を軽くノックする。すると中から、はーい、って明るい声がする。

あぁ、どうしよう・・・何だか凄くドキドキする!!

ていうか、変な汗かくよ・・・でも、私のそんな緊張を他所に聖さまは勢いよく襖を開けた。

「あれ?佐藤さん・・・どうしたの?帰ったんじゃなかったの?」

「いやー、それがさ、祐巳ちゃんがどうしても皆に謝りたいって言うもんだからさー」

お酒の席なんだから無礼講なのに。聖さまはそんな事言って私の手を引いた。ちょ、ちょっと待って・・・やっぱ無し!!

・・とは、流石に言えないよね・・・えーい!!祐巳、女は度胸よ!!

大きく息を吸い込んで聖さまの後ろからチラリと顔を出す。

なんて言うんだろう・・・聖さまの旧友・・・私の知らない聖さまを知ってる人達・・・そう考えると、何故か凄く切なくなった。

でも、今はそんな事考えてる場合じゃない。何か、何か言わなきゃ!!!

「ほら、謝るんでしょ?」

ニヤニヤしながら私を見下ろす聖さまの顔は、いつも以上に意地悪だ。うー・・・何か悔しい。

「あ、あの!さ、先ほどは本当に、その、お見苦しい所を、いえ、お見苦しいモノをお見せしてしまいまして・・・。

ほ、本当に申し訳ありませんでしたっ!!!」

言った・・・やってやった・・・ちゃんと謝れた・・・ていうか、本気で今すぐ穴があったら入りたい。

皆私を見てる・・・よね?怖くて顔も上げらんない。手が・・・汗ばむよ・・・。

「ちょっと大丈夫?何もそんなに緊張しなくても」

聖さまは私と繋いだ手を軽く持ち上げてそんな事言う。ああもう、乙女心の分からない人なんだから!!

と、その時だった。誰かがこちらに向って歩いてくる。や・・・やだ、何!?

「あ、やっぱりね。さっきの子だわ」

「へ!?」

どこかで聞いたような声に思わず顔を挙げた私の目に飛び込んできたのは、さっきお手洗いで会った人だった。

「あ・・・さっきはありがとうございました」

「いいえ、どういたしまして。ところで・・・どうしてわざわざ謝りにきたの?」

鋭い眼光が光る。その目の奥はとてもじゃないけど深すぎて覗き込めそうにない。

「ちょっと加東さん、止めてよね祐巳ちゃん苛めるの」

「別に苛めちゃいないわよ。言いたくなかったら言わなくていいのよ?」

そう言って私の顔を窺うようなそんな仕草は、ほんの少し蓉子さまを思わせる。

「その・・・皆さんの楽しい同窓会の雰囲気を壊してしまいましたから・・・。

それに、私があんな事しでかしたばっかりに学校の先輩である佐藤聖さまの評判が落ちてしまっては困ると思いまして・・・」

これでいいのかな?聖さま・・・私が彼女だとかはきっと皆には言って・・・ないよね?

ところが、だ。そんな私の顔を皆不思議そうに見つめている。え?な・・・なんで??

ここで、加東さんが言った。ちょっとおかしそうに。

「佐藤さんはあなたのただの先輩なの?」

「え?え、ええ・・・まぁ・・・え!?」

私の手を軽く引っ張る聖さま・・・ん?どうして聖さままでそんなバツ悪そうに笑ってるの??

多分、私の顔が全てを物語っていたに違いない。聖さまは突然私の前で両手を合わせた。

「悪い!祐巳ちゃんの事、皆知ってるんだよね」

・・・・・・・・・・・・・は?そ、それって・・・私と聖さまが付き合ってるって、皆知ってるって事?もしかしてまた裏切り発生?

私は、思わず両手で顔を覆った。ちょ、ちょっと待ってよ、どうしてそういう事を先に言っておいてくれないのよ!?

私は聖さまを見上げ、思い切り睨み付けた。多分、涙目に違いない。

「ど、ど、どうしてそういう事を黙っておくんですかっ!!」

「だって、言うタイミングが・・・」

「そういう問題じゃなくてっ!!もう、もう、もう!!聖さまのバカぁぁぁ!!!!」

「いや、別に大した問題じゃないと思うんだけど・・・」

申し訳なさそう、というよりは、何故か楽しそうな聖さま。どうして笑ってるのよ?私、思いっきり恥かいたじゃない!!

「・・・あぁ、やっぱりドラえもんが居てくれたら・・・」

私はまたそんな突拍子もない事を口走っていた。そんな私の言葉に聖さまは不思議そうな顔をする。

「ドラえもんが居たらどうするの?私が浮気とかしないように見張ってた?」

冗談めかしてそんな事言う聖さまが憎らしい。そりゃ、確かに初めはそう思ってたけどね!でも、今は違う。

「いいえ・・・タイムマシンで戻って下着になる前の私を殴って気絶させます・・・」

「あっはは!なるほどね。そしたらこんな所で赤っ恥かかなくてすむもんね。祐巳ちゃん、あったまいい」

でもバカだね〜、なんて・・・ヒドいよ、聖さま・・・あんまりだよ・・・。私がこんなにも恥ずかしい思いしてるってのに。

「佐藤さんが・・・笑ってる・・・」

ポツリと聞こえてきた誰かの声は、私の耳にも届いた。でも、それは聖さまも同じだったよう。

「失礼ね、私だって笑うわよ。楽しけりゃね。改めて紹介するわ。私の彼女、福沢祐巳ちゃん。可愛いでしょう?」

「ふ、福沢祐巳ですっ!リリアンで保健医をさせていただいてます!どうぞ、よろしくお願いします」

何によろしく?って言われたら、自分でも分かんない。とりあえず、私は聖さまの旧友にこれで紹介された訳だ。

これって、何だか恥ずかしいんだけど、妙な安心感もある。なんか・・・浅ましいな、私。

挨拶もそこそこに部屋に戻った私たちを待っていたのは、令さまと乃梨子ちゃんだった。・・・何で?

「あっ!聖さま、お電話いただいてマッハできました!」

令さまは由乃さんを小脇に、まるで物みたいに抱えてビシっと敬礼する。いや、でも・・・その持ち方はどうかと・・・。

案の定由乃さんは薄れゆく意識の中で必死になって抵抗してる。

「こんな持ち方嫌だぁぁ。ちゃんと志摩子さんとこみたいにして〜」

「由乃が悪いんでしょ?そんな由乃にはこれで十分!ほら、もう帰るよ」

「い〜〜〜や〜〜〜〜もっとのむ〜〜〜〜!!!」

足と手をバタつかせて子供みたいに令さまの小脇で駄々こねる由乃さんは、何だか見ていて微笑ましい。

一方志摩子さんは・・・乃梨子ちゃんに抱きかかえられてまどろんでる。

「お電話ありがとうございました、聖さま。それじゃあ、私たちはこれで失礼いたします」

深々とお辞儀をして、乃梨子ちゃんは部屋を出てゆく。帰り際、志摩子さんが乃梨子ちゃんの肩越しに笑顔で言った。

「今日はとても楽しかったわ。またやりましょうね。それじゃあ、おやすみなさい」

本当に楽しそうに笑う志摩子さんを見て、乃梨子ちゃんは苦笑いしている。

そりゃそうだ。またその時はきっと、乃梨子ちゃんがこうやって借り出されるに決まってるんだから。

でも、何だかとても幸せそう・・・いいなぁ・・・私はチラリと横目で聖さまを見上げたけれど、聖さまは鼻で笑っただけ。

まぁね。聖さまだもんね。分かってたよ、はじめっから。と、ここで令さまが有難い提案をしてくれる。

「あの聖さま?よろしければお送りしましょうか?」

令さまの言葉に、聖さまはチラリと私を見た。私が頷くと、聖さまはにっこりと笑う。

「うん、ありがと。助かるわ」

「いいえ、どういたしまして!それじゃあ、帰りましょう」

車の中で、私は聖さまの肩にもたれて窓の外を見つめていた。聖さまの顔は、ネオンの光でいつもよりもずっと綺麗に見える。

何か物思いに耽ったようなその横顔が、この世に存在するどんなものよりも神秘的。

「聖さま?」

「なぁに?」

「今日・・・楽しかったですか?」

私の質問に、聖さまは少し頭を捻った。やがて、困ったように笑う。

「正直、あんまり」

何となく、聖さまの答えはずっと前から知っていたような気がした。

こんな事言ったら怒られるかもしれないけど、今日の同窓会できっと何か嫌な事があったのは明白で。

私は何も聞かなかった。聖さまも、それを望んでいないと分かったから。

「そうですか。それは・・・残念でしたね」

「うん。でも・・・祐巳ちゃんが皆に謝りに行くって言った辺から楽しかったけどね」

そう言って何かを思い出すように笑う聖さま。ほんとにもう、私はかかなくていい恥をかいたっていうのに!

でも・・・たとえほんの少しの時間でも聖さまが楽しかったと思えたのなら・・・それでいっか。


第六十二話『冷静と情熱の間』


そんな映画・・・あったよなぁ。私は何となくそんな事を思い出していた。

映画自体は見てないんだけど、何となくあのタイトルは私のお気に入り。

冷静と情熱の間にあるのは、間違いなく平静で、穏やかな火がずっと続く。そして、そこに紛れ込んでくるのが情動。

今の私はまさにそう。情熱まではいかない、激しい情動を止められそうになかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

令に送ってもらって、さっさとお風呂に入った私たちは、二人っきりでもう一度飲みなおした。

私はビール、祐巳ちゃんはチューハイ。

「チューハイなんてジュースと一緒じゃん」

「だって、これが一番好きなんですもん!甘いし」

なるほど、たとえお酒でも祐巳ちゃんは甘いのがいいのか。

私は頬を染めながら完全にリラックスしきってチューハイを飲んでいる祐巳ちゃんに目を細めた。

祐巳ちゃんが家の中で見せる表情は、外で見せる表情とはまた違う。それは私も同じ事で、私しか知らない祐巳ちゃん。

祐巳ちゃんしか知らない私ってのが、かなり気に入ってる。こんな事で独占欲が多少満たされるのだから。

「聖さまはやっぱり綺麗ですね」

「なに?突然」

「何してても絵になるって言いたいんですよ」

そんな風に言って笑う祐巳ちゃんこそ、私からしてみれば相当可愛いんだけど・・・。

でも、私の心の内なんて全然知らない祐巳ちゃんは会話を続ける。

「私ね、今日ほんの少し誇らしかったんですよ」

「どうして?」

「だって、聖さまが私の事ちゃんと紹介してくれたから」

聖さまの実家に行った時もですけど。祐巳ちゃんはチューハイをチビチビ飲みながら照れ笑いする。

「私だって誇らしかったよ?」

「へ?」

「だって、他の誰よりも祐巳ちゃんは可愛いかったからね」

シレっとそんな事を言う私を、祐巳ちゃんは軽く睨む。この顔は、私が思わず好きになってしまった時の顔。

照れが最上級になると、祐巳ちゃんは必ずこんな顔して私を喜ばせるんだ。

「私、聖さまが一番だっていっつも思うんです。毎日毎日一緒に居るのに・・・ほんと、不思議ですよね。

少しぐらい落ち着きそうなものなのに、全然気持ちは落ち着かないし、ちょっとした事で不安になったり嬉しくなったり・・・。

どうしてこんなにも好きになっちゃったんだろう?って、今、凄く思います」

滅多にこんな事言わないのに、今日の祐巳ちゃんは饒舌だった。

でも、たまに思い出したようにこんな事言い出す祐巳ちゃんは、その言葉だけで日常の中にそっと色を添える。

天才的な感情の持ち主に、私はだから、いつも脱帽してしまう。私には無い、そんな祐巳ちゃんの才能に。

「そんな事言っておだてても何も出ないからね」

捻くれた私はこんな風にしか言葉を選べない。でも、それでも祐巳ちゃんは笑ってくれる。

思いもかけなかった祐巳ちゃんの言葉に、私の感情も引きずられてしまいそうになる。いつも、いつも。

いつだって冷静で居たいけど、祐巳ちゃんとはそれが出来ない。新しい感情に自分でも驚くことがあって・・・。

「ねぇ、祐巳ちゃん・・・祐巳ちゃんは素敵。私よりも、ずっと。だからもっと自信持っていいよ。

私の隣を歩くとき、もっと堂々としてていいんだよ」

いつもどこか遠慮がちに私の隣を歩く祐巳ちゃん。もしかすると私と釣り合わないとか考えてるのかもしれない。

でも、それは違う。釣り合わないのは・・・本当は私。私の言葉に祐巳ちゃんの大きな瞳が濡れた。

零れてはないけど伏目がちの目尻に涙がうっすらと光ったのを、私は見逃さなかった。

「そんな顔しないでよ」

そっと人差し指で涙を払うと、祐巳ちゃんは小さく笑う。困ったような、嬉しそうな複雑な顔。

そんな顔を見てしまえば、冷静ではなくなりそう。かと言って情熱とまではいかない。

私たちはもう大人で、青臭い事なんて言ってられない。だからと言って完全に大人になりきれてる訳でもない。

このまま一歩踏み出せば、子供みたいに青臭いこと言って祐巳ちゃんを求める事が出来そう・・・でも、

一歩引いてしまう冷静さも持ち合わせている私は、ただがむしゃらに祐巳ちゃんを求める事は出来なかった。

その間をユラユラと漂う情動が私をどうにか動かそうとする・・・。

そっと手を伸ばし祐巳ちゃんに触れると、祐巳ちゃんは微笑んだ。甘く、優しく。

心のままに動けたら、どれだけ楽だろう?でも・・・出来ないんだよなぁ、そんな事。

「ねぇ聖さま?私・・・聖さまの事、本気ですからね?これだけは・・・覚えておいてくださいね」

「そんな事・・・」

忘れる訳がない。私は祐巳ちゃんの細い腕を掴み乱暴に抱き寄せた。息が詰まるほど、抱きしめた。

「んっ・・・んっく・・・ふぁ・・・」

「・・・ん・・・ふ・・・」

押し付けた唇が温かい。舌は祐巳ちゃんの唇を割り、奥へ奥へと私を急かす。

さっきまで飲んでいたチューハイとビールの味が混じって面白い味がしても、

泣き出しそうな、切なそうな祐巳ちゃんの顔を見ればそんな事もどうでもいいような気がしてくる。

実際、どうでもいいんだ。そんな事。

ゆっくりと祐巳ちゃんを押し倒した時、私の中の冷静はそっと息を潜める。情熱とまでは、いかなくても。

青臭いエッチは嫌いだけど、今日はそれでもいいかって思える。純粋に祐巳ちゃんを見詰めていられるのなら。

暖房の効いた部屋は生暖かく、まるで人の体温のように私に纏わりついた。それでも祐巳ちゃんいは敵わない。

この肌を知れば、きっと誰でもそう思う。

キャミソールをたくし上げ露になった胸は、規則的に震えて私が触れるのをっじっと待つ。

「せ・・・さま・・・」

すがるような声が、懇願するような瞳が・・・。

「ベッドの方がいい?」

「ううん・・・ここで・・・いい」

「素直ね」

両手を押さえて唇を押し当てる私を、祐巳ちゃんはすんなり受け入れてくれる。

どれだけ舌と舌が絡まっても満たされないこの想いは、いつになったら満たされるんだろう。

祐巳ちゃんが言ったみたいに、いつになれば落ち着くんだろう。

「んぁ・・・んく・・・んっ」

「ふぁ・・・ん・・・」

コクンと祐巳ちゃんの喉が鳴る。ようやく唇を離した私は押さえていた祐巳ちゃんの手を解き、

まだ震えている胸にそっと触れた。規則正しい鼓動が、途端に早くなるのを感じる。まぁ、それは私も同じなんだけど。

私は祐巳ちゃんの服を全て脱がし、上から下までじっと観察した。

触り心地良さそうな丸みを帯びた曲線とか、まだ幼さの残る胸とか、以外に色気のある肢体・・・。

私はそっと自分も服を脱いだ。こんな時、女で良かったと心の底から思う。

だって、そうじゃない?女と女の身体は絶対こうして抱き合う為に、ピッタリとはまるようにあると。

そっと確かめるように祐巳ちゃんと肌を重ねた私は、強く祐巳ちゃんを抱きしめた。

「ん・・・くるし・・・」

「このまま息、止めてあげようか?」

苦しそうな祐巳ちゃんに、私は冗談で言った。それなのに、祐巳ちゃんは小さく笑っただけで抵抗しない。

それが切ないのか嬉しいのか分からなくて、私は身体をゆっくりと離した。でも・・・。

「私、聖さまになら殺されても構わない。・・・とか、そんな可愛い事いう女じゃありませんからね?」

身体を離した私を真正面から見つめ、笑いながらそんな事を言う祐巳ちゃん。どうやら一本取られたみたい。

「ふっ・・・だよね。祐巳ちゃんはそんな女じゃないね」

今度ははっきりと分かる。私は嬉しいんだ。祐巳ちゃんがこんな風に言ってくれるのが。

思わず漏れた笑い声に、祐巳ちゃんはホッとしたような顔をする。その顔がおかしくて、また笑ってしまった。

「抱きしめてもいい?」

「絞め殺さないでいてくれるなら」

「了解」

今度は優しく抱きしめる。胸の谷間で息をされて、ほんの少しくすぐったい。

膝がちょうど祐巳ちゃんの足の間にはまり込んで、すでに濡れているのが分かる。

「なによ、もう感じてるの?」

「だ、だって・・・聖さま・・・綺麗なんですもん・・・」

恥ずかしそうに、申し訳なさそうに呟く祐巳ちゃんを見て、私が冷静で居られる訳がない。情熱とまでは、いかなくても・・・。


第六十三話『いつか来る日』


聖さまの手が私の胸に触れ、聖さまの舌が私の唇を割る。

絡まった舌が一筋の煌く糸を引いても、耳元でそっと囁かれても、何をされても私はどうにかなりそうになってしまう。

それまでずっと撫でるようにしていた手の平が、突然思い出したかのように激しく動き出した。

「ぅあっ・・・ん!!」

痛いぐらいの激しさなのに、どうしてこんなにもこの痛みに身を委ねたいなんて思ってしまうんだろう・・・。

一向に痛みは引かない。それどころか、どんどん痛みは増す。噛み付かんばかりの聖さまの愛撫も、私を激しく揺さぶる。

「ああ・・・っふ・・・んん」

痛みがやがて消え、それが快楽に変わる事を私は知ってしまった。

こんな風に激しい時の聖さまは、必ず一度や二度では私を放してはくれない。

まるで何かに怯えるみたいに私と身体を重ねようとする。だから、そんな時は私もいつも聖さまを求めた。

そうしないと、聖さまが消えてなくなってしまいそうだった。

「せ・・・さまっ・・・触って・・・も・・・んん!」

まだ最後まで言ってないのに、聖さまはふと手を止め笑った。いつものあの意地悪な笑みだ。

「どうぞ?お好きなように」

自信満々な聖さま。この顔こそ聖さまに相応しい。そっと目の前の聖さまの胸に触れ、唇を寄せる。

ピクンって身体を震わせる聖さまが、凄く愛しい。でも、それは長い間続かなかった。

だって、聖さまの唇が私の胸の先端を捉えたから。嫌がおうでも私の唇は聖さまの胸から離れてしまう。

「や・・・ん・・・はっ・・・ァア・・・っん」

「可愛い声。私はワガママだね、その声をもっと聞きたいと思ってしまうんだから」

胸の上でそんな事言う聖さまの顔は、とても楽しそう。と、突然、聖さまは私の首筋に噛み付いた(本当に噛み付いたの!)。

「つっ!!・・・あ・・・ふぁ・・・」

「ふふ・・・痛い?それとも感じる?」

噛んだ場所を丁寧に舐める舌がやたらに官能的で、私はただ頷くしか出来なかった。

しばらくは首筋を這っていた舌が、やがて胸の先端に辿り着く。

甘く噛んだり、優しく舐めたり、そんな事をされてる間に頭の芯はボーっとしてきて・・・。

膝が・・・聖さまの膝が私の一番敏感な場所に触れるたびに、胸がキュンってする。

これって、苦しいのかな?泣きたいのかな?それとも・・・これが幸せ・・・なのかな?

「あーあー、こんなに濡らしちゃって・・・どうしてくれるの?」

私を座らせ、立て膝をしてわざと濡れた膝を私に見せる。

こんな事されたら私が恥ずかしくて俯いてしまう事をちゃんと知ってて。

「ど・・・どうしてくれるのって言われましても・・・」

ごめんなさい、とか?そう呟こうとした私の目の前で聖さまは光る私の愛液を、自分の膝を舐めだした。

「や・・・せ・・・さま・・・?」

「なに?」

「そんな・・・そんなの・・・」

言いかけた私に、聖さまは薄く笑う。ほんの少しだけ首を傾げて。

「祐巳ちゃんが自分で舐めてくれても構わないのよ?」

ほんの少し私を見下ろし、唇の端だけをキュっとあげて笑う聖さまは、凄く魅力的だった。

そんな聖さまの言葉に、私は何故か頷いていて・・・こんなの・・・自分のなんて、舐めた事ない。

聖さまの膝・・・白くてとても綺麗。私はペタンって座り込んだまま手をつき、聖さまの膝に舌を這わせた。

ちょっとだけ吐き気がする。はっきり言って美味しいとは言えない。どうしてだろう?聖さまのなら、平気なのに。

「美味しいでしょ?」

そう私に尋ねる聖さまは、まるで初めから答えを知ってるかのよう。首を振る私に、何を思ったのかキスをしてくる。

「ん!?んっふ・・・ぁ・・・む・・・っく」

流れ込んでくる聖さまの舌が口内を余すことなく舐め取ってゆく。するとどうだろう。

さっきまで口の中に残ってた何とも言えない違和感が、綺麗になくなってしまった。たったキス一つで。

聖さまが私から唇を離したその瞬間、何かが溢れてくるような感覚が私を襲った。

「やっ!」

思わず私は両足をピッタリと閉じ、それを防ごうとしたんだけど・・・そんな私の様子を見て聖さまは意地悪く笑う。

「そろそろ限界?」

聖さまはそう言って、あっさりと閉じた足を開く。私の顔をじっと見つめながら、手を足の間に滑り込ませてゆく。

足の間を伝う液体を指ですくいそれを口に運ぶその顔はまるで、ハチミツでも舐めてるみたいに美味しそうに見える。

「ん・・・っふ」

もう泣きそう。だってこんなの・・・やっぱり何回しても恥ずかしいよ!でも・・・癖になる。

こんな風に触れてもらえないと不安になる。私ってば・・・どうしよう・・・こんなにも聖さまの事が好きで好きでしょうがなくて・・・、

これからもっともっと聖さまの事好きになるんだとしたら・・・何だか不安が胸を締め付ける。

「せ、さま・・・私・・・怖いよ・・・」

突然の私の訴えに、聖さまの手が止まった。

「なにが?」

何が?って聞かれるとよく分からない。私は何に怯えてるのか。何がそんなに怖いのか。

「ちゃんと教えてくれなきゃ分からないよ」

聖さまは少し怒ってる。多分、エッチの最中にこんな事言い出したから何か勘違いしてるみたい。

だから私は聖さまに抱きついた。これでもかってぐらい身体を押し付けて、溢れそうな涙を隠す。

「わか・・・ない。聖さまが・・・どっかいっちゃうと思ったら・・・怖くて仕方なくて・・・」

「・・・私はどこにも行かないよ?」

「そ・・・じゃなくてっ・・・いつか・・・いつか絶対に・・・離れちゃう・・・それが・・・怖くて・・・」

いつか、どうしても離れなきゃならない時がやってくる。時間は絶対に止まってくれない。歳を重ねる毎にそれは近づいてくる。

こうやって、いつかは抱き合えなくなる日が・・・必ずやってくる。いくらそれを望んでいなくても。

震える私を、聖さまは強く抱きしめてくれた。聖さまももしかすると抱えてるかもしれない。こんな想いを。

きっと・・・分かってくれる。きっと・・・きっと・・・。

「そんなの・・・私だって怖いよ。毎日毎日、怯えてる。祐巳ちゃんがある日突然居なくなったら・・・って。

でもさ、だからって祐巳ちゃんをこれ以上愛さないなんて出来ないし、こうやって求めない筈もない。

いつまでも私は祐巳ちゃんの隣に居たい。でも、それはきっと叶わない。

それでも・・・限られた時間しか無くても、それまでの間は・・・私と一緒に居てよ。そんな風に未来に怯えないでよ」

聖さまは私の肩におでこを当てて、静かに話す。お願いだから・・・、そんな風に呟いた声が私の耳を撫でる。

「・・・はい・・・そう・・・ですよね・・・怯えてても・・・しょうがないですもんね・・・」

「そうよ、全く。突然何言い出すのかと思ったら・・・ほんとにもう。私が今どれだけ我慢して中断したか分かってるの?」

今までの寂しそうな声はすっかりと姿を隠し、途端にいつもの聖さまに戻ってしまう。

私の頬を伝う涙を舌先で拭い、そのまま深い口付けをする。あぁ・・・そうだった。未来に怯えるなんて、どうかしてる。

今が大切なんだと、誰かが言ってたじゃない。今を大切にしなきゃ、未来なんて上手くいきっこない。

私は今、聖さまのキスが欲しくて、その手に触れて欲しくて、あの、苦痛にも似てる快楽が欲しいんだ・・・。

聖さまと一緒に見るあの景色は、とても切なくていつも泣きそうになってしまうけど、

どこか懐かしいあの夕焼けを見た時のような感情を。私は聖さまの舌に自分の舌を絡めた。

うっすらと目を開けると聖さまは伏目がちに私を見つめ、ほんの少し眉をひそめる。だから私は慌てて目を閉じた・・・。

「あっ、んん・・・やぁ・・・っん」

いつもより激しい聖さまの指の動きに、我を忘れた私は自分からもっと激しい聖さまを求めていたなんて考えもしなくて。

後から聖さまにそんな風に言われて、随分恥ずかしい思いをしてしまった。

いつか来る日までは、こうしていつまでも抱き合っていましょうね、聖さま・・・約束・・・ですよ?


第六十四話『まどろみと気だるさと』


祐巳ちゃんが私に触れるとき、必ずと言ってもいいほど微かに震えている。

怖いのか、それとも緊張からくるのかは分からない。

そんな祐巳ちゃんが可愛いと思う反面、いい加減慣れてくれてもいいのに、とも思う。

「くすぐったいよ」

「だ、だって・・・せ・・・さまが触るか・・・あっん・・・ふぁ」

私は祐巳ちゃんの中を激しく突いた。苦痛とも快楽とも言えない不思議な表情を浮かべる祐巳ちゃん。

一方祐巳ちゃんは、私の胸を優しく触ってくれる。私だって、たまには激しくされたいのになぁ・・・もう。

「くすぐったいってば・・・もっと、こう・・・」

空いた方の手を祐巳ちゃんの手に重ねると、それを激しく動かしてみせる。すると祐巳ちゃんは真赤になって俯いてしまった。

「なに今更照れてんのよ?」

「だ・・・だってぇ・・・」

恥ずかしそうに涙を浮かべる祐巳ちゃんの顔は、いつだって私の中の残酷な部分に火をつける。

もっともっと、苛めてやりたくなる・・・歪んでるなぁ、私・・・。

「ほら、ちゃんとして?私をイカせてくれるんでしょ?」

言葉で攻めるのもたまにはいい。祐巳ちゃんは言葉攻めにはめっぽう弱いんだよね。ふふ、可愛い。

案の定真赤になって私を睨む祐巳ちゃん・・・ああもう、この表情とか堪んない・・・。

祐巳ちゃんの中の指をちょっと動かしただけでもピクンって体を強張らせる祐巳ちゃんが、私をイカせようとする。

これって、最高だと思わない?これ以上の幸せってない。自分の事でも必死なのに、私の事まで考えなきゃならないんだから。

イカないように頑張ってる祐巳ちゃんを見るのは楽しい。私はどこまで祐巳ちゃんが頑張れるかをいつも試す。

「ふっ・・・んぁ・・・あっ・・・っく・・・」

「ほらほら、頑張ってよ」

「やぁ・・・ダ、ダメ・・・も・・・あっ、あっ、あぁぁ・・・ん・・・」

祐巳ちゃんは身体を強張らせ、私の胸を触る指にも力がこもる。

仰け反って、苦しそうな悲鳴にも似た喘ぎ声をあげた所で・・・止める。さっきからずっと、これの繰り返し。

祐巳ちゃんの中はもう凄い事になってる。いや、外もだけど。

何度も何度もこうやって我慢させておけば、そのうち何もしてないのにイッてしまう事がある。

キスしただけで、ほんの少し胸に触れただけで・・・舌先で舐めただけで。

「せ・・・さまの・・・バカ・・・」

「そんな事言っていいの?私だってさっきからずっと我慢してるんだからね?」

私の言葉に、祐巳ちゃんは目を大きく見開いた。そして、何を思ったのか突然私に覆いかぶさってくる。

ていうか、押し倒された。この私が、祐巳ちゃんに。ちょっとビックリで・・・ちょっと新鮮。

「わ、私だってやれば出来るんですからっ!」

目を潤ませて私を睨む祐巳ちゃん。これは・・・挑戦状ととってもいいのだろうか?

「へぇ〜。じゃあ、やってもらおうじゃない」

「か、覚悟してくださいっ!!」

そう言って祐巳ちゃんは私の首筋に舌を這わせる。

「ん・・・っふ」

くすぐったいような痺れるような感覚に思わず漏れる声。

でも、そんな私の声なんて聞いてないんじゃないのかな、祐巳ちゃんは。だって、顔が凄く真剣だもん。

いつも私がしてるみたいに膝を私の足の間に滑り込ませ、胸の先端を弄る。ちょ、く、くすぐったいよ。

でも・・・何か、気持ちいいかも・・・。

「ぁ・・・ん・・・んぅ」

「どうです?気持ちいいですか?」

「ん・・・まぁ・・・ね」

掠れた私の声に祐巳ちゃんの顔が綻んだ。ああ、本当に嬉しそう・・・。

「聖さまだって凄いじゃないですか」

そう言って私の中心をそっと撫で、わざと音を出す祐巳ちゃん。その顔はどこか誇らしげ。

「だから言ったでしょ?私も我慢してたんだってば」

うっすらと笑う私を見て祐巳ちゃんは少し悔しそう。

そりゃね、祐巳ちゃんはもうここ触っただけでまともに話も出来なくなっちゃうもんね。でもさ、それはしょうがないよ。

だって場数が全く違うんだもん。いつも私がそうするみたいに、祐巳ちゃんは私の中に指を差し入れる。

ぎこちないけど、気持ちいい。思わず私が腰を捩ると、それだけで満面の笑みになる祐巳ちゃんが愛しいとも思う。

でも・・・されるばっかりってのは、やっぱりつまらない。私はもう、そろそろ限界だった。

一生懸命私のを舐めてくれてる祐巳ちゃんを胸の所まで引っ張り上げると、

熱くなったその場所を祐巳ちゃんの・・・やっぱり溶けそうなその場所に擦りつけた。

「ひゃんっ?!や・・・ダ、ダメ・・・せ、さま・・・あつ・・・い・・・」

「祐巳ちゃんのも、熱いよ・・・ん・・・気持ち・・・いい・・・」

混ざった愛液は大きな水溜りになる。いやらしく響く水音がさらに私たちを熱くさせる。

初めは触れるだけだったお互いの秘密の場所は、やがて別の生き物みたいに動きたがって・・・。

擦れれば擦れるほど、濡れてくる。

「ひっ・・・んん・・・やぁ・・・んっふ・・・ふぁ」

「ふ・・・祐巳ちゃん・・・可愛いい・・・んん」

私は強く祐巳ちゃんの濡れた場所に私を押し当てた。熱くてトロリとした感覚が私を包み込む。熱い・・・でも、気持ちいい・・・。

今私たちは繋がってるんだと、そんな風に思える。やがて私はさらに腰を動かした。もう・・・無理・・・我慢出来ない。

でも、どうやらそれは祐巳ちゃんも一緒だった。溶けて溢れた感情を解放したがってた。

うっすらと涙を浮かべてこちらを見る祐巳ちゃんの口が、微かに動く。・・・お願い・・・と。

私はだから、無言で頷いた。お互いの感情がぶつかるように、私の情動が祐巳ちゃんに伝わるように。

やがて、その時はやってきた。今までよりもずっと熱く、ずっと激しくなった時だった。

祐巳ちゃんの身体の振動が、私の身体の振動がお互いに伝わった時、それは訪れた。

祐巳ちゃんが突然、私の手をギュッと握る。

普段どこに隠してるんだろう?って思う程の手の強さに何故か私は安心してしまう。

そして一瞬、頭が真っ白になった。

何も無いただ白いだけの世界に放り込まれた私は、その後にやってくる快楽の波をただじっと待っているしかなくて。

先に喘ぎ声をあげたのは祐巳ちゃんだった。身体を仰け反らせ、さっきよりも大量の愛液が私に流れ込んでくる。

その声に、その熱に、私にもようやくその波がやってきて・・・。

「あっ、あっ、んん・・・やっ・・・あぁ、ぁふ・・・ぁあああっ!!!!・・・はっ・・・ぁ・・・ん」

「ふぁ・・・んっ・・・あっ・・・ん・・・んっんん!!・・・ふぁ・・・」

イッた後のどうしょうもなく気だるい気分は、エッチの醍醐味かもしれない。何もしたくなくて、動きたくなくて。

ただ伸ばした手に祐巳ちゃんを捕まえて、無理やりこっちに引きずってきてあちこち濡れたままでも、

お互いドロドロでもそんな事お構いなしにただ抱き合って・・・。

「ねぇ・・・気持ちよかった?」

気だるげに呟いた声に、祐巳ちゃんは小さく笑う。やっぱりダルそうに。

腕の中に抱えるようにした祐巳ちゃんのおでこに、軽くキスしただけで身体を震わせて真赤になる祐巳ちゃんが愛しい。

「・・・聖さまは?」

「私?そうねぇ・・・もうどうでも良くなりそうだった」

何もかもどうでも良く思えて、全ての事はこれには敵わないとすら思えた。抱き合って一つになれたような、そんな気がした。

私はかろうじて身体を動かすと、祐巳ちゃんに腕枕する形で仰向けになって笑った。

「私も・・・どうでも良くなりました。何があんなに怖かったんだろう?って・・・今は思ってます」

「そっか」

「はい」

しばらく沈黙は続いた。お互い何も話す事は無かった。

どんな言葉よりも大切な言葉を私たちは伝え合っていたのかもしれない。

どれぐらいの間そのままで居たんだろう?ふと、祐巳ちゃんが思い出したように呟いた。

「新学期が始まらなければいいのに・・・」

この言葉の重さは私に重くのしかかって来る。どんな思いで祐巳ちゃんが居るのか、どんな思いで私が居るのか。

それはお互いにしか分からない。たとえ言った所で100%は伝わらない。ちゃんと二人ともそれを知ってる。

「離れたくない?」

「・・・はい・・・聖さまの居ないリリアンなんて・・・つまらない」

思わず私は笑った。

祐巳ちゃんがリリアンにやってきた頃は、まさか祐巳ちゃんからこんな台詞が聞けるようになるなんて思ってもみなかった。

「私も同じ。祐巳ちゃんの居ない保健室なんて・・・ねぇ?」

「でも、花寺にも可愛い先生は居るかもしれませんよ?」

「それはそうかもしれないけど・・・でも、それとこれとは別」

私の言葉に祐巳ちゃんは満足そうに微笑んだ。私の鎖骨に頭を置いて、私を見上げて微笑んだ。

「でも・・・二週間か・・・長いですよね」

「そうね。私の居ない間に浮気しちゃ嫌よ?特にお姉さまには気をつけてよね?」

「分かってます!それよりも、私は聖さまの方が心配ですよ・・・」

「はいはい。私って本当に信用ないのねー」

「あったりまえですよ!」

どこで何しだすか分かったもんじゃない!そう言って祐巳ちゃんは頬を膨らませる。バカね、もう浮気なんかしないって。

こんな事考えるの、祐巳ちゃんが初めてなんだからね?他の女なんて要らないって・・・そんな風に思うのは。

知らないんだろうな、祐巳ちゃんは。私が実は相当祐巳ちゃんに惚れてるなんて事。

いつか・・・いつかそれを教えてやろうと思う。その時、祐巳ちゃんはどんな顔するんだろう?

私はそんな事考えながら祐巳ちゃんを抱きしめていた。この気持ちのいいまどろみと気だるさの中で。


第六十五話『新学期万歳?』


つまんねーなー・・・花寺の理事長に校内を案内されてる間、私はずっとそんな事を考えていた。

はぁ〜あ、リリアンに居たら今頃保健室で祐巳ちゃんとお茶してたのに。

「・・・で、ここが職員室だよ。ここまでで何か質問は?」

花寺の理事長、柏木優に案内されてる間、私はずっと上の空だった。つうか、学生の頃から私はこいつが苦手。

「天気いいね」

チラリと視線を上げ、ポツリと呟いた私の言葉に柏木は笑う。君は本当に相変わらずだね、と。

ああ、そうだよ。どうせ私は相変わらずですとも。でもあんただって相変わらずじゃない。

そう言ってやるたいのはやまやまなんだけど、今の私にはそんな気力もない。

「ほんっと・・・いい天気」

冬だってのに。窓の外には朝露がキラキラ光っていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「聖さま・・・大丈夫ですか?ダメですよ?余計な事したり変な事しちゃ!花寺はリリアンじゃないんですからね!?」

「分かってるってば。大丈夫、二週間適当にやるから」

「適当じゃダメですよっ!!ちゃんとリリアンの生徒と同じように教えてあげなきゃ。あぁ・・・何だかお腹痛くなってきちゃった」

苦笑いしながら祐巳ちゃんは私を叱る。これじゃあ、まるで私が花寺に入学するみたいだ。ほら、よくあるじゃない。

うちの子、よその学校で苛められやしないかしら?ってやつ。

祐巳ちゃんは昨日からずっとソワソワしていつまでも私の鞄の中の持ち物点検をしてた。

そのおかげで今日は絶対に忘れ物はなさそう。ほんと、祐巳ちゃんってば心配性なんだから。

リリアンの前で、私は車を止めた。既に登校してくる子達が私たちに親しげに挨拶してくれる。

「佐藤センセー、祐巳ちゃん、ごきげんよう〜!」

「はい、ごきげんよう」

「ごきげんよう、今日も天気いいね!」

そう言って祐巳ちゃんは窓から身を乗り出して挨拶をする。毎朝毎朝祐巳ちゃんはそうやって皆に挨拶してた。

で、私はそのまま駐車場に車を進めるんだ・・・いつもなら。

「それじゃあ聖さま・・・行ってきます・・・気をつけてくださいね?」

「うん。それじゃあね、また連絡する」

名残惜しそうに車から降りる祐巳ちゃん・・・そんな顔しないでよ。私だって結構辛いんだから。

完全に祐巳ちゃんが降りたのを確認した私は、校舎に入ってゆく後姿をずっと見つめていた。

今日から二週間。二週間だけはこうやって祐巳ちゃんの後姿を見なきゃならないのか・・・。

「思ってたよりも辛いかも・・・」

エンジンをかけなおして、祐巳ちゃんを置いて行く寂しさ・・・これが二週間。

「かなり辛いかも・・・」

花寺につくと、駐車場に花寺の理事長が立っていた。しかも仁王立ち。

そうだった。花寺に来るって事は、毎日こいつと顔合わせなきゃならないって事だった。

憎たらしいほどの爽やかな笑顔で毎朝毎朝出迎えられるのと思うと、ほんと、ゾッとする。

「やぁ、久しぶりだね!元気だったかい?」

「ああ、まぁね」

「ところで、二分遅刻だよ?」

知ってたかい?笑顔でそんな事を言う柏木・・・ああもう、ムカツク。私はだからそれを無視した。

「まぁいいさ。それじゃあ新学期の挨拶が始まるまでちょっと学校の案内でもしようか」

そう言って柏木は歩き出した。これはきっと、ついて来いって意味だろう。本当は嫌だけど・・・まぁ、仕方ないか。

そんな訳で、私の二週間の研修が始まった訳だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

職員室には誰も居なかった。そりゃそうだ。今は新学期の集会の真っ最中なのだから。

「ここが君の席だよ。足りないものがあったら何でも言ってくれ。

それじゃあそろそろ新任の先生方の挨拶が始まるから、体育館に行こうか」

「へいへい」

あーあ、挨拶とかめんどくさいなぁ〜。どうせ二週間しか居ないのに、それでも挨拶なんて必要かなぁ?

そんな事を考えていた私の脳裏に、フッと祐巳ちゃんの怒る顔が浮かぶ。

『ダメですよ!聖さま!!』

きっと祐巳が居たらこう言うだろう。祐巳ちゃん・・・今頃何してるんだろうなぁ・・・祐巳ちゃんも挨拶とかやってんのかなぁ。

相変わらずお腹痛いとか言ってんだろうな、きっと。ほんと、緊張に弱いんだから。

クスリと笑みを漏らした私に、柏木は眉を潜める。多分、ちょっと不気味だったんだろう。

体育館に案内された私は、裏の入り口から舞台裏に通された。

そこには多分今年から入る新任の教師達が三人ほどすでに揃っている。

花寺は、リリアンとは違って色んな所から優秀な人材を引き抜いてくるって噂だったけど・・・。

こうやって見る限りでは三人とも完全に新米教師だ。

だって、皆足がブルブルしてるもん・・・いや、違う。一人だけやたらに堂々としてる子がいる。

三人とも壇上をじっと見つめていて後ろに居る私の事なんて気づいてもいない。

『それでは、今年から教えてくれる新しい先生を紹介します。皆さん、どうぞ』

柏木は壇上の上からこちらに向って手招きする。それに応えるように私たちはゾロゾロと動き出した。

壇上に上がると、その景色は壮観だった。どこを見ても、男、男、男ばかり。そりゃそうだ。ここは男子校だもん。

でも、やっぱちょっと・・・。私は今になってようやく後悔しはじめていた。だって、女の子が一人も居ないなんてっ!!

男子校ってのは、皆活きがいい。新しく入る教師の内、三人は女。しかも皆若い。

それだけでコイツらのテンションは上がる訳だ。まぁ・・・女子高も似たようなもんかもしれないけど。

一番初めに挨拶したのは、あのやたらに堂々とした子だった。マイクの前に立ち生徒を見下ろしてはっきりとした口調で言う。

『ごきげんよう。教育実習でやってきました。松平瞳子です。担当は音楽。皆さん、よろしくお願いします』

マツダイラトウコ・・・どっかで聞いた名前・・・でも、どこで聞いたのか思い出せない。

私はずっとその事を考えていたせいで、いつの間にか自分に順番が回ってきていた事に気づかなかった。

すると、隣に立っていたマツダイラトウコが私の袖を引っ張って小声で言う。

「聖さま、次、聖さまの番ですよ」

「え?あ・・・ああ、ありがとう」

って・・・ん?どうして私の名前知ってるの?・・・まぁ、いいか。とりあえずさっさと挨拶済ませちゃお。

私は大きく息を吸った。これから二週間の事を思うと何だか頭が痛い。でも・・・それもこれも祐巳ちゃんと一緒に居る為だ。

自分にそう言い聞かせて、私はマイクの前に立った。一斉に生徒と教師陣の視線が私に集まる。

『おはようございます。これから二週間、ここでお世話になります、佐藤聖です。担当は英語。どうぞよろしく』

淡々と話す私に、少なからず数名の教師が眉を潜めた。でもね、そんなもの知ったこっちゃない。

だって、本来の私はこんなもんだもの。祐巳ちゃんと居る時だけ、楽しくなれるんだもん。しょうがない。

生徒達を見渡し、ピクリとも笑わない私に皆がどんな感情を抱いたのかは分からない。

ただ・・・柏木だけは、私のそんな挨拶に微笑んでいた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

職員室に帰ると、既に他の先生方は集まってザワザワと談笑していた。

そこに自分から混じっていく勇気はないし、わざわざ友達を作ろうとも思わない私は、

さっさと自分の席に座って携帯をいじっていた。

「聖さま、お久しぶりです!」

「・・・は?」

メールを打つ手を止めたのは、マツダイラトウコが話しかけてきたから。ていうか、一体誰よ?さっきから・・・。

私の怪訝そうな顔を見て、彼女っはクスリと笑った。

「覚えてらっしゃいませんか?・・・当時とは髪型が違うから仕方ないかもしれませんが・・・。

いつも祥子お姉さまがお世話になってます」

そう言ってペコリと頭を下げる少女・・・ん?祥子・・・お姉さま・・・?まさか・・・。

「電動ドリルちゃんか!」

「もう!いい加減その呼び方止めてくださいよ〜。瞳子はもうドリルじゃないんですから」

電動ドリル・・・そうだそうだ。どうりでどっかで聞いた事ある名前だと。

あれはそう・・・高校の時、いつまでも妹を作らなかった祥子がようやく作った妹。

二つ年下の縦ロールの女の子。ちなみに従兄弟。祥子の二つ下だから、私とはあまり面識はない。

でも、忘年会だとかそういうのには何故か来てたから、顔は知ってる。

この甘ったるい喋り方に猫みたいな吊り目・・・思い出した。何やかんやと私に文句言ってたっけ・・・。

「へぇ、大きくなったね。ていうか、教師になったんだ?」

「そんな子供扱いしないで下さいよ・・・。ええ、そうなんです。本当は役者になりたかったんですけど、諦めてこっちの道に」

「へえ。もうドリルは止めたの?個性的で良かったのに」

「流石に教師という職業にあの髪型はちょっと・・・」

「ふーん。まぁでも、呼び方は変えないよ?知ってると思うけど、私一度定着しちゃうと変えられないのよ」

と、その時メールがきた。祐巳ちゃんだ。やっぱりどうしても私の事が心配らしい。もう、大丈夫だって言ってるのに!

私がメールを返していると、ドリルちゃんが横から私の携帯を覗き込む。

「なに?」

「いえ・・・携帯は禁止ですよ」

「・・・それ守ってんの?ていうか、相変わらず真面目ねぇ」

「聖さまこそ・・・相変わらずですね・・・顔はいいのに・・・」

って、いや、顔は関係ないと思うけどね。この際。こうやって高校時代も色々とうるさかったっけ、この子。

私に好意がある訳でもなく、ただ喧嘩を売ってくる。それが正直鬱陶しかったんだけど、今はそんな風には思わない。

多分、祐巳ちゃんのおかげなんだろうな。

あの祐巳ちゃん見てるとなぁ〜・・・何だかいちいち腹立てるのがめんどくさくなってくるんだよね。

人間、温厚なのが一番だよね。ていうか、丸い人間の傍にずっと居ると、不思議な事にこっちまで丸くなって。

つられる・・・というよりは、うつると言った方がいいかもしれない。そうか!祐巳ちゃんの穏やかさは伝染病の一種なのか。

だから最近リリアンの職員室の雰囲気が良かったんだな、きっと。だって、あの祥子までとんとヒステリー起こさなくなったもん。

これって、凄い。こうやって他の学校に来るとほんとよく分かる。何て言うのかな、職員室独特のギスギスした感じっていうの?

こういうのが私は苦手。だから、今までは視聴覚室か保健室に逃げてたんだけど・・・今は別に職員室に居ても平気だもんね。

「・・・ここは苦手だ・・・」

ボソリと呟いた私に、ドリルちゃんが小さく笑った。瞳子もです、と言って。

何にしても、これから二週間はここで耐えなきゃならない訳だ。かろうじて知り合いは居たけど・・・ドリルちゃんだもんなぁ。

はぁ〜あ。早く時間、過ぎないかなぁ〜。


第六十六話『聖さまが居ないという事』


思ってたよりも辛い。ていうか、調子が狂う。いっつも居るはずの人が居ないってのは、結構精神的に辛いんだと知った。

ましてやそれが、好きな人なら尚更で・・・。

「・・・巳ちゃん・・・祐巳ちゃんっ!!」

「ひゃい!?」

「大丈夫?朝からずっとそんな調子だけど・・・」

江利子さまがそう言って私の顔を覗き込んだ。壇上の上で今は令さまが挨拶してる。

その光景を見つめながら、いつの間にか私は自分の世界にトリップしてしまったらしい。

「す、すみません・・・ちょっとボンヤリしてて・・・」

私が小声でそう言うと、江利子さまは面白そうに笑った。

「私は別にいいんだけどね・・・ほら、蓉子が・・・」

そう言って江利子さまが指差した先には、蓉子さまの般若のようなお顔・・・こ、怖すぎる。

私はピシっと姿勢を正すと、令さまの話を一言たりとも聞き逃さないよう聞いていた。

式が終わってから蓉子さまは私に言った。

「聖の事考えてたんでしょ?」

・・と。

相変わらず鋭い。私は観念して頷くと、途端に蓉子さまの険しい表情が破綻した。

「やっぱりね。でも、仕事中はダメよ?プライベートを持ち込んじゃ。一人きりの時なら別に構わないけどね」

そう言って私の頭をポンポンと叩き、颯爽と歩き去ってしまった。でも、体育館を出るときに振り返り言った。

「こまめにメールしてあげて、聖に。あいつ絶対退屈してるだろうから」

と。

蓉子さま・・・優しい!!ごめんなさい、般若みたいなお顔なんて思って。

全然そんな事ないですっ!むしろあなたはマリア様です!

保健室に帰ってきた私は、早速聖さまにメールを送った。

『そちらはどうですか?こっちは今式が終わりました。

でも、途中聖さまの事考えててボケっとしてたら、蓉子さまに見つかって怒られちゃいました。

でも、蓉子さまってば優しいんですよ!聖さまにこまめにメール送ってあげなさい、って言ってくれたんです!

私の仕事はもう後はほとんど残ってませんが、聖さまはきっと何かと忙しいでしょうから、

返事は別にしなくていいですからね!では、また。』

「はぁ〜・・・寂しいよ、聖さま・・・」

聖さまは担当のクラスを持ってないから、式が終わるといつも真っ先に保健室にやってきてくれた。

そして、職員会議の時間までここでお茶して話して過ごすのが私たちの日常だったのに・・・そんな当たり前が今は無い。

それがこんなにも寂しいだなんて・・・思えば、私がこのリリアンにやってきた日から、聖さまはよくここに顔を出していた。

それが栞さんの代わりだとしても、それでも良かった。

初めての学校勤めが不安だったのに、聖さまと話していると、そんな事も忘れられた。

特に用事もないのに、とりとめもない話をして、帰ってゆく・・・それがきっと私は癖になってしまっていたのだろう。

しばらく私は一人ぼっちだった。鳥の声すら聞こえなくて、私は寒いのに暖房を切って窓を開け放った。

日誌を書いてても、お茶を飲んでても、一人じゃつまらない。私は、どうやって一人の時間を今まで潰してきたんだろう?

その時だった。突然ドアの外が賑やかになった。そして、ドアが開く。でも・・・そこに聖さまは居ない。

そんな事分かってるのに、ほんの少しでも期待してしまう愚かな心・・・。

「祐巳、美味しいって噂のお菓子を持ってきたのよ。お茶にしましょう・・・どうかしたの?祐巳?」

声の主は、祥子さまだった。俯いて涙を堪える私に駆け寄ってきて、祥子さまは心配そうに私の顔を覗き込む。

「祐巳?どうかして?どこか痛いの?それとも、何か辛いことでもあったの!?」

「いえ、違うんです・・・何でもないんです。すみません・・・何だか急に悲しくなってしまって・・・本当にごめんなさい」

ボロボロと零れる大粒の涙に、祥子さまは余計にオロオロする。そして、そっと私を抱きしめてくれた。

でも・・・聖さまじゃない。聖さまの香りじゃ・・・ない。

あのミントのシャンプーの香り、洗い上がりの洗濯物の香り、聖さま愛用の甘い香水の香り、大好きな・・・聖さまの香り・・・。

意地悪な笑みとか、嫌味とか、そういうのが聞きたい。意味もなく泣く私を、バカだねー、って叱ってほしい。

でも・・・こんなの、我がまま・・・だよね。

分かってるよ、そんな事!聖さまが今どれだけ頑張ってるかなんて、そんなの知ってるもん!!

「祐巳・・・聖さまが・・・恋しいの?」

祥子さまの落ち着いた声に、私は黙って頷いた。ごめんなさい、祥子さま。

私、やっぱり聖さまが好きなんです。凄く、凄く、好きなんです。

とうとう声を出して泣いた私を見て、祥子さまは何も言わずただ黙って私の肩を抱いていてくれた。

ダメだよね・・・こんな事でいちいち泣いてちゃ。聖さまは頑張ってるのに・・・私、泣いてばっかりじゃ・・・ダメだよね?

「こんなんじゃ・・・聖さまに嫌われちゃう・・・」

「そんな事ないわよ。聖さまだって、きっと祐巳と同じ気持ちでいるに違いないわ」

優しい祥子さまの声に、私の涙はほんの少しだけ乾いた。そうだよね・・・辛いのは私だけじゃない。

聖さまだって、きっと・・・辛いに違いない。だから、私も頑張ろう。聖さまが帰ってくるまで、私もちゃんと、頑張ろう。

一度そんな風に踏ん切りがつくと、案外元気になれる。私は涙を拭って、祥子さまに笑いかけた。

「祥子さま、お茶、入れますね。お菓子・・・食べましょ!」

「ええ、そうね。そうしましょう」

私を見て祥子さまが微笑んでくれた。優しくて、また泣きそうになる。ああ私、やっぱりリリアンの保健医で良かった。

ねぇ、聖さま?私・・・頑張りますからねっ!


第六十七話『一人っきりのお昼ご飯』


式が終わって、生徒が帰っても教師達の一日は終わらない。その後は、必ず職員会議ってやつがあって、

私たちももちろんそれに付き合わなくちゃならない。

「あー・・・やっとお昼か・・・長かったなぁ」

大きく伸びをしてそんな事を言う私に、柏木は笑う。ああ、嫌だ嫌だ。

いちいち構ってくれなくていいってのに、さっきから何かといちいち世話を焼いてくれるんだよ、コイツは。

「疲れたかい?リリアンとはやっぱり違うかい?」

「そうね、全く違うわ。私にとっては・・・ね」

だって、ここには祐巳ちゃんが居ないんだもの。それだけで随分違う。まるで水をもらえない花にでもなった気分だ。

栄養が無いと、お日様が無いと、潤いが無いと花は枯れてしまう。

今では、祐巳ちゃんは私にとって栄養であり、お日様であり、潤いでもあった。

それが全部いっぺんに無くなってしまったら、私は枯れるしかない。

「とりあえずお昼ごはんだ。どうする?学食に行くかい?」

「んーん。私はお弁当があるから・・・って、まさか一緒に食べる気?」

ロッカーの鍵を柏木の前で振ってみせると、柏木は少し驚いたような顔をする。何よ、私がお弁当じゃおかしいっての?

まぁ、何となく驚いてる理由は分かる気もするんだけど。

「君がお弁当!?自分で作ったの?」

「まさか。私がそんな勤勉に見える?」

「じゃあ、一体誰が・・・」

「あんまりしつこいと嫌われるわよ。まぁ、元々私はあんたが好きじゃないけど。それじゃあね。お昼ぐらい一人にさせて」

冷たく言い放つ私に、柏木は黙り込んだ。そうそう、放っておいてくれる方が私は有難いのよ。

あんまり構われるのは、嫌い。だって、鬱陶しいじゃない。でも、祐巳ちゃんだけは別。

24時間ずっと一緒に居ても全然疲れない。こんな気持ち、初めてだった。

どれだけ長い時間一緒に居ても全く疲れない相手なんて居るんだ、って初めて知った。

職員室を出てロッカーからお弁当を取り出し、立ち入り禁止の札を乗り越え屋上の階段を上る途中、ドリルちゃんが私を叱る。

「聖さま!屋上は立ち入り禁止ですわよっ!」

「あー、もう、うっさい!」

小さく舌を出して屋上のドアに手をかけた私の背中に、ドリルちゃんのキーキー声が届く。

屋上に出ると、空は快晴だった。天気、いいなぁ。

最近はずっと曇りがちだったのに、何だって今日に限ってこんなにも晴れるんだ。

私は柵にもたれお弁当の包みをゆっくりと開いた。中から銀色の味気ないお弁当が出て来る。これが私のお弁当箱。

祐巳ちゃんが私にお弁当を作ってくれると約束した日、学校の帰りに二人でお弁当箱を選びに行った。

その時に祐巳ちゃんが選んでくれたお弁当箱。何の飾りも無い銀色は、正に私のイメージだと言った。

それが何だか嬉しかったのを今でも覚えている。大抵皆、私のイメージカラーは黒だとか、深い青とか言うから、

こんなピカピカした色がイメージだと言われたのが嬉しかったのかもしれない。私って・・・案外子供っぽいな。

これじゃあ戦隊物のレッドに憧れる少年と変わらないじゃないか。

お弁当の包みには他に、お箸の箱と手紙が入っていた。

「なになに?聖さま、寂しくないですか?・・・」

『お昼の時間だけは、離れていても時間を共有出来ますね!

これから二週間、私、いつも以上にはりきってお弁当、作りますね!

好き嫌いせず、残さず食べてください。聖さまが苛められませんように。   祐巳』

「・・・苛められないっつうの。全く」

そんな事言いながら、ニヤけるのを止められなかった。時間の共有だなんて、祐巳ちゃんらしい。

取り留めの無い日常の会話の中で、どれほど祐巳ちゃんが豊かな人かってよく思い知らされるけど、今改めて思う。

祐巳ちゃんって、本当に自然なんだ。思った事、感じた事を素直に言葉にすることが出来る貴重な人。

「愛しいなぁ、もう」

小さく笑って、お弁当の蓋を取った。きっと中身は祐巳ちゃんと同じものが入ってる。そして、リリアンでも今はお昼だろう。

「時間の共有・・・ね」

玉子焼きをつまみ、口に放り込む。甘いけど、ダシが効いてる。

「うまっ!やっぱ美味しいわ、祐巳ちゃんの玉子焼き」

一人だと思って屋上に上がってきたけど、本当は二人だった。離れてるけど、私は今、祐巳ちゃんと一緒にご飯を食べてる。


第六十八話『欠ける星』


聖は星だと思う。自分の事を月だと思い込んでいる哀れな星。

自分の可愛い妹を捕まえてこんな事言うのもどうかと思うんだけど、でも自分の妹だからこそ言えるのかもしれない。

聖はいつだって誰かの傍でないと輝けないと思っているみたいだけど、本当は違う。

ちゃんと自分で光る事が出来る恒星。だから皆聖に惹かれ、彼女を愛したんだと思う。それなのに当の本人は・・・。

「あれだもんねぇ・・・」

「え?何か言いましたか?SRG」

「いいえ、何でもないわ。あ、お茶ありがと」

「いいえ、どういたしまして」

恒星が愛したのは太陽・・・なんて皮肉なのかしら。自分でも十分光れるのに、さらに光ろうとするなんて。

私は今しがた祐巳ちゃんが入れてくれたお茶を飲みながら眩しすぎる窓の外の太陽に目を細めた。

「いただきま〜す」

「いただきます」

パンって手を合わせる祐巳ちゃんは、確かに可愛い。まぁ、分からないでもない。聖が祐巳ちゃんを選んだ理由。

可愛いとか、性格がいいとか、暖かいとか、多分そんな理由じゃない。そんな単純な理由じゃなくて。

きっとあの子は昼に憧れてたんだ。

自分は夜しか輝けない事を知っていて、どこか寂しい光しか出せない自分に嫌気がさして真昼に燦々と輝く彼女に惹かれた。

「お弁当・・・今でも聖に作ってるの?」

祐巳ちゃんのお弁当箱の中には、タコさんウインナーだとか、玉子焼きとか、

可愛らしい、いかにも子供が好きそうなおかずで一杯だった。

「はいっ!一人分も二人分も変わりませんからっ!」

「そっか。幸せ者ね、聖は」

「そんな〜・・・えへへ」

頬を赤らめてタコさんウインナーを振り回す祐巳ちゃんはやはり可愛い。でも・・・そっか、このお弁当を聖も食べてるのか。

何だか・・・想像できないわ。どんな顔して食べてるのかしらね。

ニコニコしながら食べてんのかしら・・・それはちょっと怖いわね。まぁ、でも、ようやく幸せになれた訳だ、聖は。

いつだって一人で輝き続けてきたのに、今は誰かと輝こうとしてる小さな恒星。でも・・・今は居ない。

確かに今まで何度も聖は研修に行ってたけど、今回ほど聖が居ない事を痛感した事はなかった。

それが分からなくてついフラリとここに来てしまったけど・・・のん気な顔してお弁当を食べている祐巳ちゃんを見ても、

その答えは出なかった。どこに居ても何故か今回は聖を探してしまう。さっきもついつい視聴覚室とか覗いちゃったし、

今もこうやって保健室に来てるところを見ると、どっかで何かが引っかかるんだろうな。

今まで聖はどこか皆に馴染めないでいたけれど、最近は少し違う。皆に溶け込んで、聖という人格を皆が認めた感じ。

もちろん今までも聖は確かに私たちの中に居たんだけど、どこか浮いた存在だった。

それなのに、祐巳ちゃんが来てからあの子・・・。

「やっぱり祐巳ちゃんのおかげなのかしら?」

「は?」

「いえね、聖がようやくリリアンに馴染んだのは、祐巳ちゃんのおかげなのかしら?と思って」

だって、そうとしか考えられない。栞ちゃんと別れてから死んだ魚みたいな目してたのに、

祐巳ちゃんを苛める事で少しづつ聖に、佐藤聖に戻って行ったような気がする。

正直に言えば、聖の性格の悪さなんて、実は聖があんなにもワガママだったなんて、私も知らなかった。

確かに決して聞き分けはよくなかったけど、でもああいうワガママは言わなかった。いつだって。

どこか拗ねたような感じはあるのに、でもそれは表には出さないであくまで傍観者として自分を見ていた聖。

それなのに、祐巳ちゃんと居る時だけは何故か聖は佐藤聖に戻っていた。

「それは・・・聖さまに聞かないと分かりませんけど・・・、

でも、皆の聖さまへのイメージと私の聖さまへのイメージがかけ離れていたのは確かです。

だって、私にはどう見たって聖さまがクールで冷たいってイメージはありませんから」

「じゃあどんなイメージなの?」

「そうですね・・・何て言うか、寂しそうっていうのはありますよね。後は・・・意地悪。でも、本当は凄く暖かい、そんな人。

だからクールとか冷たいってイメージは・・・わたしには無いんですよね・・・」

「なるほどね」

確かに、聖は初め必死になって祐巳ちゃんを追い出そうとしていたっけ。でも、ある日を境にピタっとそれを止めた。

祐巳ちゃんとの間に何があったのかは分からないけれど、でも、あの日から聖は変わり始めたんだろう。

祐巳ちゃんを一人の友人として扱いだした。そして、今は皆の事も友人だと思ってる。あの聖が。

「そうだ!以外と言えば、もう一つ。聖さまって、意外に面倒見いいんですよね〜」

「へ?そ、そうなの?」

私は面食らった。あの聖が?ってちょっと思う。だって、そんな話誰かに聞いた事ない。

むしろ聖の面倒見の悪さは高校のときに証明済みだ。驚いてる私を見て、祐巳ちゃんは小さく笑った。

「お正月に金魚すくいしたんですけどね、そこで金魚を三匹貰ってきたんですよ。

絶対私が世話する事になるんだろうな〜とか思ってたら、聖さまってば次の日にかなり立派な水槽買ってきちゃいまして、

そこに金魚入れて名前までつけて毎朝毎朝どんなに時間無くてもちゃんとご飯あげて声かけてから出掛けるんですよ。

あ、玄関に居るんですけどね、金魚たちは。聖さま曰くそこが一番いいんだって、風水では金運がUPするらしいです。

玄関に金魚を置くと。あ、そんな話は置いといて。最近じゃ聖さまが玄関に立ったら三匹とも寄ってくるんですよ。

私が立ってもこないくせに・・・酷いと思いません?」

私は祐巳ちゃんの話を聞きながら笑いを堪えていた。

聖が、あの聖が金魚。しかも風水って!名前までつけて金魚に話しかける聖・・・想像出来なくて笑える。

そして、私の中である一つの答えが出た。聖は何かを育てたかったんだわ。だから祐巳ちゃんなんだ。

太陽の光が無ければ何も育たない事を知ってるから、自分の光じゃ決して何も育たないから・・・だから、祐巳ちゃん。

なるほどね。聖は人間の面倒は見たくなかった訳だ。でも、初めて面倒を見てもいいと思えるような人に会った。

そしてその人とならきっと未来を育てられると思ったんだわ。

そっか・・・聖はやっぱり何か大切なものに気づいたのかもしれないわね。それに比べて私は・・・。

まだそんな人に出逢えてない。蓉子ちゃんが好きだと思うけど、まだそこまでの覚悟はないし・・・どうしたものかしら。

「ところで祐巳ちゃん、その金魚のお名前は?」

「え・・・?な、名前・・・ですか?それは・・・その・・・」

「何?そんなに恥ずかしい名前なの?まさか自分たちの名前つけてるとか?」

それは恥ずかしいわよ、聖!!でも、どうやらそうではないらしい。祐巳ちゃんは小さな声でヒソヒソと呟く。

「そ、それが・・・ミッチ・マミ・クーコ・・・って言うんです・・・」

「・・・どっかで聞いた事ある名前ね・・・どこだったかしら?」

「聖さま曰く、アイドルの名前なんだそうですが・・・生憎私全然知らなくて・・・SRG知ってます?」

アイドル?ミッチ・マミ・クーコ・・・ミッチ・・・マミ・・・クー・・・コ・・・ま、まさか!!

「それ、もしかしてキャンディーズって言ってなかった?」

私の言葉に祐巳ちゃんの顔がパッって綻ばせて手を叩いて喜ぶ。

「そう!それです!!美味しそうな名前だなぁ、とかは思ってたんですけど」

「ええ、キャンディーズよ!しかもJrの方の!」

「・・・は?」

私は笑いを堪える事が出来なかった。だって、だって・・・キャンディーズJrって・・・どこまでマイナーなのよ、聖!!

しかも、脱退する前のメンバーだし!!も、もうダメ・・・そりゃ祐巳ちゃん知らないわよね。

ていうか、どうして聖が知ってるのよ?あの子、どっかで歳ごまかしてんじゃないの?

「あの・・・SRG?」

「ふ・・・ふふふ・・・金魚に名前つけてるってだけでもアレなのに、ま、まさかトライアングルとはね・・・しかも初期メンバー・・・。

祐巳ちゃん、人間って面白いわね。変わろうと思えばいくらでも変われるのね。

いえ・・・それとも私たちが知らなかっただけなのかしら?」

聖はもしかすると、自分が変わったなんて思ってないかもしれない。元々聖の中にはそういう場所があったのだろう。

でも、それを曝け出すような相手は居なかった・・・だから今までずっと見えなかったんだわ。

それが祐巳ちゃんと付き合う事によって引っ張りだされて、皆にもそれが見えてきだした。

そっか・・・どうして私がこんなにも寂しかったのか、今ようやく分かった。私は聖のあの光が、本当に好きなんだわ。

太陽を見つけた事でさらに輝きが増して、その光はだんだん大きくなって。

それが突然無くなると、何か心にポッカリ穴が開いたみたいに寂しくて・・・。

「ありがとね、祐巳ちゃん。聖の新しい一面を見せてくれて」

「へ?い、いえ・・・ど、どうも?」

私の台詞に祐巳ちゃんはキョトンとしてる。祐巳ちゃん自身はどうして私にお礼を言われたのか全く分からないみたい。

ねぇ、聖・・・早く帰ってらっしゃい。あなたの居場所は、やっぱりここが一番だわ。


第六十九話『駆け引き』


二週間なんてあっという間だと思ってたのに、案外長いんだって事に気づいた。

だって、よくよく考えてみれば、一月の半分だもんね。そりゃ長いに決まってる。

聖さまから相変わらずメールは来ない。後で蓉子さまに聞いた話だと、どうやら花寺では携帯は禁止されてるんだって。

「それじゃあ、今日はここまでにしときましょうか。・・・あ、そうだったわ!忘れるとこだった。

今年の春休み明けに新しい先生が来ます。

今年から理科が物理と科学に別れるという話はさっきもしましたが、新しい先生の担当は物理になりますので、

皆さん、よろしくお願いします」

「蓉子さま、その方もリリアンのOBなんですか?」

由乃さんが興味津々って感じで蓉子さまに聞いている。でも、正直私はそんな事どうでも良かった。

今はとりあえずこの二週間が無事乗り切れるかどうか、それが心配で心配でしょうがない。

「いいえ、それが違うのよ。だから皆さん、仲良くしてあげてくださいね。

・・後、音楽なんだけど・・・今交渉中です。

だからもうしばらく音楽の先生は臨時講師でいきますので、そちらもよろしく。それじゃあ、そろそろ解散しましょうか」

そう言って蓉子さまは立ち上がって皆を見渡し、軽く一礼する。

それに習って皆もお辞儀を返すと、それぞれに帰り支度を始めだした。

私はといえば、聖さまが迎えに来る!!ってはりきってたから、ここから動く訳にもいかず・・・。

電話しようかな?とも思うんだけど、やっぱり初日ぐらいは一緒に帰りたい。

「祐巳さ〜ん!今から令ちゃんと喫茶店行くんだけど、祐巳さんも行く〜?」

すっかり帰り支度を終えた由乃さんが、私の机に手を置いてそんな風に誘ってくれた。

でも、その誘いに乗る訳にはいかない。だって・・・聖さま待たなきゃ・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あーあ・・・皆帰っちゃった・・・聖さま何してるんだろ・・・やっぱり大変なのかな?」

一人っきりの職員室も寂しすぎるから、場所を保健室に移動した私は誰も居ない校庭をボンヤリと眺めていた。

見慣れた車が通るのをじっと待っていたのに、一向に通る気配がない。

はぁ〜あ・・・私、こんなとこで何やってんだろ・・・聖さまを待って一人ぼっちで・・・。

頬杖をついて窓の外を眺めていると、銀杏並木の裸になった木が寒そうに震えている。

私にはその並木がまるで今の自分のように思えて胸が苦しくなった。

「まだかなぁ・・・聖さま・・・」

もしかして私の事、忘れて帰っちゃったのかな。・・・んな訳ないか。でも、もし花寺にすんごい可愛い人が居たとしたら?

うう〜ん・・・ありえるかもな。な〜んて、こんな事考えてたなんて知ったら聖さま怒るんだろうなぁ。

「でも・・・遅いよ・・・聖さまのバカ・・・」

会議は5時に終わったのに、今はもう既に6時半・・・一度ぐらい連絡入れてくれてもいいのに・・・。

まぁ、そうはいかないか。だって、携帯禁止されてるらしいし。

「あーあ・・・もう帰っちゃおっかな・・・」

小さな欠伸をすると、私は机に突っ伏した。聖さま・・・早く、迎えに来てよ・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「・・・・・・・・・・ん・・・・・・ぅん・・・・・・・」

うっすらと目を開けると、窓の外はもう真っ暗だった。

いや、随分前から暗かったような気がするけれど、さっきよりもずっと暗い。

アレ・・・?私・・・ここで何してたんだっけ・・・?ふと周りを見渡すと、何故か羽織った覚えのない毛布を被っている。

私・・・もしかして寝てた!?慌てて飛び起きた拍子に、椅子がガタンと転がる。咄嗟に時計を見ると既に8時・・・。

その時だった。後ろから聞き覚えのある笑い声がした。

「やっと起きた?」

「せっ、聖さま?!い、いつの間に!!」

後ろを振り返るとベッドに足組んで座って、片手に本持ってる聖さまの姿。ど、どうして?いつの間に??

ていうか、来たんなら起こしてよっっ!!!

「6時45分についたんだけどね、電話鳴らしても出ないし、メール打っても返ってこないから、

まだ会議中なのかと思って蓉子に聞いたらもうとっくに終わったっていうからさ。

一応保健室覗いとこうって思ったら、祐巳ちゃん寝てんだもん。私が声かけたの知らないでしょ?」

「ぜ・・・全然知りませんでした・・・」

私はヨロヨロと倒れた椅子を起こして座り込むと、そんな私を見て聖さまは笑う。

「だろうね。すっごい気持ち良さそうだったもん。

だから起こしちゃ可哀想かなって思って、図書室で本借りてきて読んでたの」

ほらね、って言って私に見えるよう本を持ち上げる聖さま。

普段かけない眼鏡までかけていたから、いかに真剣に読んでいたのかが分かる。

「ご・・・ごめんなさい・・・」

「いいよ、別に。連絡しなかった私が悪いんだし。さて、それじゃあ帰りますか」

カタンって立ち上がって保健室を出ようとする聖さまの後姿に、何を思ったのか私は抱きついた。

「わわっ!な、なに?どうしたの?」

自分でもどうして突然こんな事したのかよく分かんない。でも、聖さまだ・・・と思うと、抱きつかずにはいられなくて。

今日一日だけ会わなかっただけで、こんなにも寂しいなんて・・・こんなにも苦しいなんて・・・。

「聖さま・・・遅いですよ・・・」

意地をはってそんな事言う私の手に、聖さまの手がそっと重なる。

「うん、ごめんね?どうしても抜けられなくて。でも明日からはもっと早く迎えに来るから」

「約束・・・ですよ?」

「うん。約束」

聖さまを後ろから抱きしめたまま小指をそっと差し出すと、やりにくそうに聖さまの小指が絡まる。

約束ね・・・そう呟いた聖さまの声はとても優しかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「・・・で、どうして私のおごりな訳?」

「だってー、私何も食べないで待ってたんですよ?聖さまと晩御飯食べるのを楽しみにしてたんです!」

あ!ウニだ!私がスッと手を伸ばすと、目をつけていたウニが目の前から消えた。ちょ、そ、それ今私が取ろうと・・・。

「どーだか。もし起きてたらお菓子とか食べてたでしょ?」

「そ、そんな事ありませんよっ!ちゃんと今晩のメニューまで考えてですねぇ・・・」

あ、マグロ!・・・はぅぁ!!!狙ってたマグロがまた私の目の前から忽然と姿を消す。

私は聖さまを睨むみたいに見上げると、聖さまってば何食わぬ顔して美味しそうにマグロを頬張っていて・・・。

優雅に、あくまでも優雅にお茶を飲みながら、聖さまはチラリと私を見た。

「まぁ、いいけどね、別に。回転寿司ぐらいならいくらでも奢ってあげるわよ」

奢ってあげるわよ、とか言いながらさっきから私の好物ばかり横取りする聖さま・・・酷いよっ!!

私が好きなの知ってて!!!でも・・・生憎聖さまの好物でもあるんだよね・・・何だかね、薄々感じてたんだけど、

私と聖さまの食の好み、意外に似てるんだよね。最初は聖さまが合わしてくれてるのかな?とも思ってたのよ。

でもね、お弁当とかそんなもの作り出してるうちに、一緒に暮らし始めて晩御飯とか作るうちに気づいた。

コイツ・・・わたしと好き嫌いが似てやがるって!一緒に住んでて好みが似てるってのは、良さそうでそうでもない。

例えば好き嫌いがあったとして、二人とも食べられない事も多々ある訳だ。

どっか食べに行ったりすると、そういうのが結構ある。でも、私たち二人とも苦手だけど食べられないって程ではないから、

いっつも譲り合いとかになって最後には・・・まぁ、軽い言い合いがはじまる訳。

最近ではそういうのも何だか楽しいような気がしてきたからいいんだけど、それが続くと・・・。

「でも、久しぶりですね〜回転寿司」

「そうだねー、そろそろ食べたかったよね、お寿司」

この位置関係・・・これが決めてなんだよね。私はお寿司の進行方向とは逆を向いてる。

聖さまはお寿司の進行方向と同じ方・・・向こうから流れてくるお寿司は私には見えるけど、聖さまには見えない訳だ。

ちなみに、私たちは今ボックス席に座ってる。一見これは私の方が有利に見えるだろう。

でも、実際は逆。だって、リーチは聖さまの方が長いし、それに何と言っても聖さまは振り返ればお寿司も見えるんだよね。

くっ・・・こ、これでは私はいつまでたってもウニやマグロが食べられない!それとも何?

所詮私はカッパ巻きや納豆巻きで我慢してなさいって事なの(いや、カッパも納豆も美味しいけどさ)!?

ふと前方を見ると、次に来るのはサーモン・・・こ、これは取らない訳にはいかない。

何としても・・・私は、俯くとマッハでメールを打った。相手は・・・もちろん聖さまだ。

「なに?食事中にメールとかマナー違反だよ?」

私のそんな態度が気に食わなかったんだろう。聖さまは口を尖らせてそんな事を言う。だから私は言ってやった。

「だって・・・どうしても今言いたかったから・・・」

「は?どういう・・・ん?なによ、私に送ったの?」

聖さまは鞄の中で震える携帯を取り出し小さく笑って私を見る。そして、携帯を開きメールのチェックなんてしてる。

よしっ・・・よしよしよし・・・その調子・・・早く、早く来い!サーモン!!!もうちょっと・・・もうちょっと・・・き、きたーーーっっ!!

私が聖さまには見つからないよう身体を乗り出しサーモンのお皿に手をかけた途端、聖さまが気づいた。

「あ・・・」

「えへへ!」

やっと・・・やっとお寿司が・・・握りが食べれる・・・う、嬉しい・・・。聖さまは唖然として私を見てて、一瞬悔しそうな顔をする。

でも、流石聖さま。そんな表情見せたのは、ほんの一瞬だけだった。次の瞬間には私を見てにっこりと笑う。

「私もだよ、祐巳ちゃん。お寿司、美味しいね」

「はいっ!」

そっかー、美味しいかー、そんな事言いながら私がサーモン食べる所を、じっと見つめる聖さま。

や・・・やだ、そんなに見つめないでよ・・・。あ・・・今度はイカだ・・・。私はフッと視線を聖さまから外した。

多分、もうメールは通用しない。どうすればいい?考えるのよ、祐巳!!

チラリと聖さまを見ると、聖さまはまだ私をじっと見つめている。も、もしかしてバレちゃったのかな?

さっきメールで聖さまの気をサーモンからわざと逸らせたの・・・。

いや、そんな訳ないよね。いくら聖さまでも流石にそれはナイナイ。

とりあえず・・・今はどうやってあのイカを手中に収めるか、それが問題だ。


第七十話『流れる歳月』


気づいたかな?私がさっきからずっと祐巳ちゃんの表情を見て次に何がくるかを予想してたのを。

まぁ、サーモンは取られたけど、しょうがない。あのメールでチャラにしよう。

しかし・・・どうして突然あんなメール送ってきたんだろ?ほんと、訳わかんない。突然『好き』だなんて・・・しかも、それだけ。

まさかとは思うけど、サーモン欲しさにって事・・・ないよね?そうだとしたら、完全に一杯食わされたって事じゃん。

祐巳ちゃんは目の前で嬉しそうにサーモンを頬張っている。くっそー・・・サーモン・・・。

私はそれでもじっと祐巳ちゃんの顔を見ていた。すると、一瞬サーモンから視線が外れ、お寿司のレーンに移る。

多分、何かいいものを見つけたんだろう。一瞬パッて顔が輝いた。でも、ウニの時ほど輝かない。

次は・・・イカか、タコ。どっちかに違いない。

今まで何度も何度も一緒にこうやってお寿司食べに来て、散々見てたら嫌でも表情の区別がつくようになってしまった。

これを利用しない手はない。そんな訳で、私はお寿司屋さんに入った時からずっと、祐巳ちゃんの表情の監視をしていた。

そこまでしなくても、って思うかもしれない。普通に頼めばいいじゃんなんて突っ込みもあるだろう。

でも、そうじゃない!そうじゃないんだっ!!こうやって駆け引きして手に入れるお寿司の美味しさといったら、もう!!

「祐巳ちゃんと私って、好み似てるよね」

私の質問に、祐巳ちゃんは一瞬苦い表情を浮かべた。何よ、その反応。

「ええ、そうですね。こういう所に来るとそれを実感しますよ」

「うん、私も。ところでさ、ちょっとガリ取ってくれない?」

「い、今ですか?」

「そう、今。何よ、取ってくれるぐらいいいじゃん」

「え・・・ええ、まぁ、そうですけど」

ガリは祐巳ちゃんの席の近くにある。でも、それを取る為には机の端まで手を伸ばさなきゃならない。

そんな事してるうちに大好きなイカ、もしくはタコがいっちゃう。そして、それを私が頂く。

祐巳ちゃんは渋々レーンを見詰めながら、恐ろしい速さでガリを取って私に渡してくれた。チッ、ダメか。

ガリを入れながらチラリと振り返ると、イカはすぐそこまで来ていた。

パァァって祐巳ちゃんの顔が綻ぶ。ほらね、分かりやすい。思わず笑ってしまいそうになる。

「あ、イカだ」

私は言った。そして、イカに手を伸ばす。

「あっ!!」

「なによ?もしかして食べたかったの?」

「・・・べ、別に?」

そんな事ないですよ。そう言ってそっぽを向いてしまう祐巳ちゃんがおかしかった。素直じゃないなぁ、もう。

まぁ、私の性格の悪さも大概だけど、祐巳ちゃんの素直じゃないとこも相当だ。

でも・・・あんまりにも可哀想かなって流石に思う。だって、さっきからずっと私は祐巳ちゃんの好きな物取っちゃったもんね。

「イカ、一個食べる?」

私の質問に、祐巳ちゃんの顔がまた輝いた。もう目がどこにあるのか分からないほど嬉しそう。

なのに、祐巳ちゃんは言うんだな。

「そ、それは聖さまが取ったんだし・・・でも・・・どうしてもって言うんなら・・・」

ほんっとに素直じゃないな、コイツ。思わず私は声を出して笑ってしまった。だって、可愛かったんだもん!

お寿司一つでそんなにも顔色変えなくてもいいじゃん!!本当は食べたいって言えばいいじゃん!

それなのに絶対言おうとしない祐巳ちゃんが、それなのにそれを隠しきれない祐巳ちゃんがもう、死ぬほど可愛い。

「どうぞ?私、結構食べたからね。もうお腹一杯なの」

「そ、そうですか?それなら遠慮なく・・・いただきます」

「はい、どうぞ」

私のお皿からイカを一つ取って、それをじっと眺めてから口に運ぶ祐巳ちゃんの顔ったら、もう。

今何考えてんだろうなぁ・・・頭ん中イカで一杯なんだろうなぁ。無言で、放心したみたいにイカ食べて。

どんだけイカ食べたかったのよ?って思う。それと同時に、やっぱりこの子面白い。

そりゃずっと一緒に居ても飽きないわ。毎日笑えるもん。なんでも必死にやろうとするのに、それでもどっかズレてて、

だからそれが空回りすることも一杯あって。そんな所が凄く愛しい。

今日花寺に行って、どれだけリリアンが居心地良かったのかを知った。

今回で三回目の研修で、今回ほどリリアンに帰りたいと思った事はない。

祐巳ちゃんと初めて出逢ったのが、春。二月の初めに栞が出て行って、その代わりとして急遽やってきた新米の保健医。

初めて祐巳ちゃんを意識しだしたのは、冬だった。一年の歳月は私の中で何かを大きく成長させて・・・。

付き合いだしたのが夏。忘れもしない夏休みの始まりにしたあの告白。秋が過ぎてまた冬が来て、やがて春になる。

祐巳ちゃんと出会ってもう二年・・・長かったようで、あっという間だった。

たった二年の間にどれほどの感情に振り回されただろう。

失った物の重さは計り知れないけど、でもそれを超えるぐらいに得た物も大きい。

目の前でお寿司を頬張る祐巳ちゃんには、私の気持ちがどれだけ伝わってるんだろう?

全部は無理でも、三分の一ぐらいは伝わっていればいいのに。

まだ研修期間は始まったばかりで、これからもっと辛くなると思う。でも、私たちはそれを乗り越えなきゃならない。

いや、乗り越えてみせるよ、私は。

「聖さまはもうごちそうさまですか?」

難しい顔して考え込んでいた私に、祐巳ちゃんが言った。可愛い顔して。

ふと見ると祐巳ちゃんの目の前にはいつの間にかマグロのお皿が置いてある。ああ、食べたかったんだなぁ、きっと。

「ウニ頼んであげる。他にも何かいる?」

私の質問に祐巳ちゃんは嬉しそうに笑って大きく頷いた。

結局、祐巳ちゃんが頼んだのはウニを始め、私が祐巳ちゃんからかっぱらったものばかりだった。

「やっぱり鮮度が違いますよね!」

そんな事言いながらモグモグと目の前のお皿を一枚づつ片付けてゆく祐巳ちゃんは、そんな感想を漏らす。

「分かるの?鮮度なんて」

「わ、分かりますよ!!だって、ネタが乾いてないじゃないですか!!」

「そんだけでしょ?・・・今度ちゃんとしたお寿司屋さんに連れてってあげるわ・・・」

乾いてるかそうでないかなんて、子供にも分かるっつうの。そう言えば前に祐巳ちゃんが言ってたのを思い出したのだ。

カウンターしかないようなお寿司屋さんには生まれてこの方行った事がないって。

いつもお寿司と言えば出前だったらしい。しかも、結構いいとこの。でもさ、やっぱお寿司は目の前で握ってもらわないと!

私の言葉に祐巳ちゃんの目がお皿のように大きくなる。

「ほ、ほんとですかっ!?」

「うん。行った事ないんでしょ?」

「は、はいっ!!い、いつですか?いつ連れてってくれるんです!?」

身を乗り出してそんなキラキラした目で言われても・・・ヤバイ心の中でそう思った。

こりゃ絶対近いうち連れていけって言われる。だから私は苦笑いして言った。

「そのうちよ、そのうち」

「そのうちって・・・だって聖さまそのうちそのうちって伸び伸びにしてよく約束破りません?」

「ええ?そうだっけ?」

「そうですよ!こないだもステーキハウスに行くって言ってたのに・・・その前は遊園地・・・他にもプールとか海とか・・・」

お、覚えてたんだ。そこまで全部挙げられると私は苦笑いするしかなかった。確かに、私結構約束破ってるよなぁ・・・。

「分かった、分かったから。今年中に全部行く!それでいい?」

腹を括るしかないだろうな、ここは。ステーキハウスに遊園地、プールに海・・・ねぇ。

そう言えば去年は海に行かなかったもんなぁ・・・学校が忙しくて。全く、これは蓉子のせいだ。

私の答えに祐巳ちゃんは満足げに頷いた。お茶をすすりながらニコニコしてる。だって、こんな顔するんだもんなぁ。

まだ実行された訳でもない約束の為にこんな顔、普通出来ないよ。いつされるかも分かんないのにさ。

「祐巳ちゃんは素直でいい子だね」

「そ、そうですか?私結構意地っ張りですよ?」

「うん、それは知ってる。さっきのイカとかね」

意地悪に微笑む私に、祐巳ちゃんは顔を真赤にして俯いた。

「き、気づいてたんですか?」

「気づかないと思ってた?あと、メールもね」

「そ、それも気づいてっ?!」

慌てて顔を挙げる祐巳ちゃん。やっぱりね・・・鎌かけただけなんだけど。

あのメール・・・やっぱりダミーだったんだ。サーモンの為の。

「今のは勘だけど・・・じゃあ、あのメールは嘘?」

私の問いに、祐巳ちゃんは首を大きく振った。

「嘘であんなメール送れませんよ。半分半分ってとこです。サーモンも欲しかったし、どうしても言いたかった・・・」

・・ならいいや。やっぱりあのサーモンはあのメールでチャラにしてあげる。

「仕方ない、今回は許してあげる。私も悪かったしね。祐巳ちゃんの好きなものばっかり横取りしてた訳だし」

「え・・・そ、そうなんですか・・・?じゃあ、もしかして・・・全部分かってて・・・?」

「まぁ、結果的には。だって、祐巳ちゃんの好きなやつって大概私と被るじゃん」

「ひ・・・ひどーーーーい!!そ、そんな・・・私お腹空かしてじっとバカみたいに待ってたのにーーー」

ガタンって祐巳ちゃんは立ち上がった。顔を真赤にして私を睨む。手をグーにして、涙目だ。

「まぁまぁ、だからちゃんと頼んだでしょ?」

「そ、そういう問題ではなくてですねっ!」

「さて、そろそろごちそうさましよっかな。祐巳ちゃんは?もういいの?」

「え!?え、ええ・・・ていうか、聖さま!?聞いてます?」

「きーてる、きーてる」

お姉さんが来てお皿を数えてくれてる間、祐巳ちゃんはずっと頬を膨らませていた。

でも、店を出て近くのコンビニでアイスクリームを買ったら機嫌は直った。ほんと、呆れるぐらい単純。

「美味しい?」

「はひ〜・・・幸せ・・・」

この寒いのによくアイスなんて食べるよなぁ・・・そんな事考えながら、

私はアイスクリームを頬張る祐巳ちゃんを見詰めていると、突然祐巳ちゃんとバッチリ視線が合った。

恥ずかしそうに俯く祐巳ちゃんが、何だか凄く綺麗に見えて・・・。

気がついたら運転席から身を乗り出して祐巳ちゃんの唇を奪っていた。甘い、バニラの味がする。

「ひゃぁ!」

「ごちそうさま」

明日もまた、別々に仕事に行かなきゃならないなんて、ほんと嫌になる。

明日もまた、あんな思いするなんて、ほんと嫌になる。でも・・・でも、それさえ終われば・・・もうずっと・・・一緒だから。

5年、10年って月日が流れても、もう絶対、離れないから・・・。


第七十一話『優秀な人材』


私、あの方苦手ですわ。そんな事言ったのはまだ高校生の時だったと思う。

世の中を斜めに見てるみたいな目して、女の子とイチャイチャイチャイチャ・・・かと思えばふいに傷ついたみたいな顔をする。

聖さまが卒業して私たちの学年は直接知らないというのに、それでも聖さまや蓉子さま江利子さまは人気があった。

聖さまに至ってはリリアン大学に進んだものだから、たまにバス停とかですれ違う事もあったりして・・・。

それだけでクラスの子達はキャーキャー言ってたっけ。

でも、私にはお姉さまが居たからそんな浮ついた話なんてどうでも良かった。だって、お姉さまが一番ですもの。

あの切れ長の眼差しとか、いかにも気品のある雰囲気とか、聖さまじゃ絶対に敵わない。

ある日、お姉さまに連れられて行った忘年会で、私は初めて伝説の三薔薇様と会って話した。

そこで、初めて聖さまと話す機会があったのだ。その時、聖さまは私をチラリと見るなり言った。

「ふーん・・・祥子の妹ね。よろしく、ドリルちゃん」

名前を言ったのに覚えてもらえなかったショックって意外に大きかった。だからあんな風にお姉さまに言ったのだ。

私、あの方苦手ですわ。と。そして・・・今でもその呼び名は変わらない。

「聖さま!佐藤聖さまっ!!何度言ったら分かるんです?

そんな所で昼寝してないでちゃんと時間外は職員室に居てくださらないと!!」

花寺にやってきてすでに一週間が経過した。

私は中庭の大きな桜の木の下で寝ている聖さまを見下ろすと、腰に手をあて怒鳴った。

聖さまは顔の上に洋書を置いたまま眠っている。そっと手を伸ばし本を取ると、綺麗な寝顔が露になった。

ちょっとだけその寝顔にドキっとしてしまいそうになったけど・・・そんな訳ない。だって、私はこの人が苦手なんだから。

眼鏡をかけて頭とか服に沢山枯葉がくっついてるのに、それでもお構い無しに寝ている聖さまを見てイライラする。

「全く・・・どうしてこんな所で眠れるのかしら?」

それが理解出来ない。こんな外で昼寝なんて・・・その時だった。授業の終わりのチャイムが鳴り響いた。

その音にようやく目を覚ました聖さまは、ゆっくりと起き上がって大きな伸びをする。・・・まるで猫みたい。

と、ここでようやく聖さまがこちらを見た。私の顔を見るなり、ただ一言。

「ああ、居たの」

なんなの?一体。せっかく起こしに来てあげたのに、たったそんな一言で片付けようとするなんて!!

睨む私を見ても、聖さまの表情は変わらない。相変わらずピクリとも笑わないんだ、この人は。やっぱり苦手。

「次は授業あるんですよね?こんな所で寝てていいんですか?授業の準備とか色々あるでしょう?」

「私の勝手でしょ?授業のやり方なんて」

そう言ってさっさと立ち上がると歩き去ってしまう聖さま。落とした本はまだここにある。

私は落ちた本を拾い上げ、大きな桜を見上げる。冷たい風が足元を吹き抜け、溜息が零れた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あれだけ自信満々に寝てたんだ。さぞ素晴らしい授業をするんだろうと思って教室を覗きに行くと、何てことない。

ただ窓際の方に椅子を持っていって座ってるだけではないか。

時々生徒が聖さまの所に行ってニ、三話して戻っていくのが見えるけど、何を話してるのかまでは分からない。

ただ言えるのは、何故か皆凄く緊張してるって事。真剣に教科書を眺め、必死になってノートを取っている。

と、突然ここで聖さまが立ち上がり言った。

「あと5分」

その声に教室はザワめく。でも、どこか楽しそう・・・どうして?何がそんなに楽しいの?

よく見ると皆の手元には教科書とは別に本が置いてある。

皆一心不乱にそれをノートに訳しているのだと気づいた。やがて、5分が過ぎた。聖さまは立ち上がり教卓に上がる。

「お疲れ様。全部訳せたやつは・・・居ないか。じゃあ、後は適当に読んどいて。

受験は長文が要になってくるから、出来るだけ早く解けるようになること。それと、次の授業は自習。皆苦手な教科をやる事。

それじゃあ、今日の授業はここまで」

聖さまがそう言った瞬間、チャイムが鳴った。何て勝手な教師なんだろう・・・そう思った。

生徒に何も教えないで、それでもいいと思ってるの?教室からゾロゾロと生徒達が出て来る。

その手には皆何故か童話を持っていて、その光景が何だか異様だ。

「またドリルちゃんか。今度は偵察?」

突然の声に私が驚いて振り返ると、名簿とチョークを持った聖さまがこちらを見下ろして立っていた。

「違いますわっ!たまたま通りかかっただけですもの。あと、これ、忘れてましたわよ」

そう言ってさっき聖さまが桜の木の下に忘れた本を差し出すと、聖さまはそれを受け取る。

「わざわざありがと。・・・あ、ちょっと・・・根室・・・だっけ?これから図書館行く?」

聖さまは一人の生徒を捕まえると、言う。

根室君が頷くと、聖さまは何を思ったか今私が返した本を根室君に差し出したではないか。

「悪い。ついでにこれも返しといてくれない?」

「何です?この本・・・」

「読んでみな、面白いから」

「はあ・・・分かりました」

「サンキュ」

そう言って根室君の頭を軽く撫でると、聖さまはその場から歩き出した。信じられない・・・生徒に本返させるなんて・・・。

一体何考えてるの?この人・・・自分が教師だって意識あるの!?

「ちょっと聖さま!!あなた教師としての自覚あるんですか!?

大体授業のやり方だって、何してるのか知りませんけど、あんな強引なやり方で授業が勤まると・・・」

「やぁ、佐藤君・・・おや、瞳子も一緒か」

「優お兄様・・・」

お兄様は笑顔でこちらにやってくると、聖さまに向って軽く手を挙げた。

それなのに、聖さまはそれを無視して歩き出そうとする。ちょっと!仮にも理事長なのよ?

「いや〜思ってたよりも順調にいってるみたいだね、君の授業は」

「それはどーも」

お兄様の言葉に不機嫌そうに聖さまは返す。あまり嬉しくはなさそうだ。まぁ、分からないでもないけど。

それにしても、その態度はあんまりというものだ。いくら嫌々研修に来たからって。

そもそも、聖さまは絶対にこの学校に馴染もうとしない。たった二週間だから別にいいと思ってるのかもしれないけど、

そういうもんじゃないと思う。学校って、たった一週間でも他の教師達と仲良くしたりしなきゃならないんじゃないの?

いや、仲良くなれなくても、それでもその努力は必要だと思う。それなのにこの人ときたら、ほんの少しも職員室には居ない。

朝と帰りだけだ。職員室に居るのは。だから他の先生方からの評判はすこぶる悪い。

それでも顔色一つ変えない聖さまの気持ちが、私には分からない。いや・・・そういうのちょっとだけ分かるかも。

だって、高校時代、私もこんな感じだったもの。社会に出てそれでは通用しないと知って努力した。

それなのにこの人は・・・そうか、だからイライラするんだ。まるで昔の私を見ているようで、腹が立つんだ。

「でも、先生方からの評判はよくないね」

お兄様は言った。それでもやっぱり聖さまは顔色を変えない。ふーん、ってさも当然かのように頷くだけ。

「私はここに授業の研修をしに来たんだ。ここでどれだけ私のやり方が通用するかを試しに来ただけ。

別に先生方と仲良くする為に来た訳じゃないよ」

「それはそうかもしれないが、それじゃあ困るんだよ。僕はね、実を言うと君をかなりかってる。

この研修が終わったら言おうと思ってたんだけど、どうだい?研修が終わっても花寺に残らないかい?」

「す、優お兄様?!な、なにを・・・」

嘘でしょう?だって、この学校は本当にレベルが高い。それは生徒も教師も同じ事。それなのに、この人を引き抜くの?

リリアンと花寺では、花寺の方がお給料はいい。自由度はリリアンの方が高いけど、設備とかそういうのはかなり揃ってる。

生徒も皆優秀だし、教師になるならリリアンか花寺かと言われる程。それが、お兄様が理事長をやりだしてから少し変わった。

教師のレベルをお兄様は上げたのだ。色んな学校から優秀な人材を引き抜いてきて、

今では花寺が優秀なのは生徒だけではなくなった。こ、こんないい話・・・多分無い。私はチラリと聖さまを見た。

すると、聖さまはお兄様の顔を見上げ微かに微笑んでいる。

「どうだい?いい話だろ?」

お兄様がそう言った瞬間、聖さまは鼻で笑い言った。

「冗談でしょ?私が残ると思う?残念だけど、研修が終わったら私はリリアンに帰るわよ」

「もちろん今すぐ決めなくてもいいんだ。答えはいつだっていいんだよ」

「考える余地も無いよ。今すぐにでも私は帰りたいんだ。誰がそんな話受けるもんですか」

私は我慢出来なかった。だからついつい話に割り込んでしまった。

「ど、どうしてです?凄くいい話だと思うのですが!」

すると、聖さまはチラリと私を見て言った。

「そうね、まずここには女の子が居ない。職員室の雰囲気も好きじゃない。どこで昼寝しててもうるさいのがついてくる。

規則は多いし、それに・・・」

「「それに・・・?」」

私とお兄様の声が一つに重なる。聖さまの顔は、今までに見たことないぐらい穏やかだ。

「それに・・・まぁ、いいや。後一つは内緒。でも、一番重要な事だよ。

ところで・・・話はそれだけ?いい加減私、お昼食べに行きたいんだけど」

聖さまは催促するように私たちを交互に眺める。お兄様が黙って頷くと、聖さまはさっさと角を曲がり行ってしまった。

それにしても・・・もしかして、うるさいのがついてくる、ってそれ、私の事?

「振られてしまったな。あれでも教師としての腕はかなりいいんだけど・・・惜しいなぁ」

「そう・・・なんですの?」

「ああ。密かに彼女、優秀なんだよ。知らなかったかい?」

「ええ・・・全然・・・」

全然そんな風に見えないけど・・・だって、生徒に本返しにいかせるような教師ですもの。

すると、お兄様は笑って私の頭を撫でてくれる。

「リリアンの理事長がね、彼女をかくまってるんだよ。だから外にはあまり漏れないんだ、彼女の事は。

まぁ・・・他にも出したくない理由があるのかもしれないけどね」

お兄様は困ったように笑い、その場を後にした。

何となく、リリアンの理事長・・・蓉子さまが聖さまを出したくない理由分かるかもしれませんわ。

だって、いくら生徒に評判良くても、教師と問題起こされちゃたまりませんもの。実際、聖さまは何回も前科がある。

そんな人を自信持って外には出せない・・・か。でも、全然優秀そうには見えませんわ・・・聖さまには悪いですけど。


第七十二話『重い雲』


やっと一週間。本当にやっと。ようやく折り返し地点・・・もう、長すぎるよ!二週間!!

最近、祐巳ちゃんの顔見るたび泣きたくなる。早くあの保健室に帰りたくて。

毎晩毎晩異様に甘える私に祐巳ちゃんは何も言わない。寝る時は必ず祐巳ちゃんを抱きしめて眠るし、お風呂も一緒に入る。

自分でも鬱陶しいだろうなぁとか思いながら、止められない。多分、祐巳ちゃん不足なんだ、私。

いつものように柵を乗り越え屋上に出ると、曇って重い雲が私の頭上を漂っていた。

「天気悪いなぁ・・・雪降りそ・・・」

ここ一週間ずっとここでお昼食べてるけど、いい加減寒くておかしくなりそう。

今頃祐巳ちゃんはあったかい保健室でお弁当食べてるんだろうなぁ・・・そんな事考えると切なくなる。

と、その時だった。突然屋上の扉が開いて誰かがやってきた。ああ、また・・・ドリルだ。

ドリルちゃんは私を見つけると、眉を吊り上げて近寄ってくる。

ていうかさぁ、毎日毎日どうしてこの子は私の後ついてくるのよ?はぁ、せめてお昼ぐらいは一人にさせてよ・・・お願いだから。

「聖さまっ!またこんな所で!風邪でも引いたらどうするんですか!はい、これ!」

そう言ってドリルちゃんは私の手に無理やりどこかの鍵を押し込んだ。

「なに、これ」

「音楽室の鍵です!外で食べるよりはマシでしょう?」

ああ、なるほど。わざわざこれを渡しに来てくれたのか。

「なんだ、いいとこあるじゃん」

「・・・わ、私だって別に毎日怒ってる訳じゃ・・・」

「ふーん。とにかく、ありがと。鍵はお昼が終わったら返せばいい?」

「ええ。そ、そうですね。そうしてください」

「りょーかい」

そう言って私はお弁当と鍵を持って屋上を後にした。お箸の入った箱がカチャカチャ鳴る。今日のおかずは何だろう?

昨日はハンバーグだったからなぁ・・・今日は・・・そうだなぁ、魚の照り焼きとかかな?

祐巳ちゃんは甘辛い味付けのやつが得意なんだよね!ちなみに私は辛いのが得意。なかなかいいバランスだと思わない?

こうやって離れて過ごしてるとさ、私にとって祐巳ちゃんがどんな存在なのかってのがよく見える。

もう祐巳ちゃんは私の半身のようなもので、多分それはこれからも変わらない。

「あら、佐藤先生じゃありませんか。今からお昼なんですか?」

国語担当の嫌味なおばさんが私を見るなり嫌味気に笑う。まぁ、別にいいけど。

「ええ、それが何か?」

「いいえぇ、特に何もありませんけど・・・一体どうやったら研修なのに引き抜かれるのかと思いまして。羨ましいわぁ。

私なんてようやく花寺に来られたものですから。あ、まさか・・・理事長さんに直接取り入ったのかしら?」

はぁぁぁ・・・これで何人目だろう・・・私、相当嫌われてるな。柏木の奴、優秀な教師ばっか集めてって言うけど、

本当に点数しか見てないんだな、アイツ・・・。

「あら?もしかして図星だったんですの?やっぱり若さかしらねぇ」

ああ、お弁当が食べたいのに。だから私は言った。はっきりと。散々蓉子には止められてたけど、もう構うもんか。

「残念ですがそれはありえませんね。私、女にしか興味ありませんから。

理事長があるいはとてつもなく美人な女だったならその線はありえたかもしれませんけど」

私の言葉に、国語担当の先生はニ、三歩後ず去る。まぁ、正常な反応よね。

意地悪に笑う私を見て先生の顔から血の気が引いてゆくのが分かる。

「ああ、ご安心ください。私、美人にしか目がありませんから」

それに歳も違いすぎる。私の許容範囲は上にも下にも二つ以内。それ以上差が開くとギャップがね・・・出るからね。

だから祐巳ちゃんはギリギリだった訳だ、今思えば。

いや・・・・祐巳ちゃんの場合はたとえ20ぐらい離れてても大丈夫だったかもしれない。

「それじゃあ、失礼」

横を通り過ぎる時にチラリと先生を見下ろすと、先生は短く叫んだ。やだなぁ・・・そんなに嫌がらなくても。

「随分怖い顔してたよ、今の君は」

「柏木・・・何よ、見てたの?」

「まぁね。でも・・・まさか言っちゃうとはねぇ」

「ああいう輩はああやって追っ払うのが一番手っ取り早いからね」

なるほど、そう言ってノコノコと私の後をついてくる柏木・・・ほんと、鬱陶しい。

「いつまでついくるの?」

「いや、君に電話なんだ。水野君からだよ」

「蓉子から?なんだろ・・・」

ああ、お弁当が・・・また遠ざかる。そんな事を考えながら職員室に入ると、皆一斉にこちらを振り返った。

どうやらあのおばさん早速皆に言いふらしたらしい。まぁ、別にいいけど。どうせ後一週間だ。

柏木に案内されて電話を取ると、何だか懐かしい親友の声。

「もしもし?」

『聖?どう、うまくやってる?』

「う〜ん・・・まぁ、相変わらずかな。どうして?」

『まぁ、そうよね。あんたの事ですもの。

さっきね、柏木さんから聞いたんだけど、あんた正式に花寺に来ないか?って言われたんですって?』

蓉子の声は、どこか不安そう。何だ、もう聞いたのか・・・相変わらず手回しの早いことで。

と、突然電話の向こうからガチャガチャって音が聞こえる。そして、物凄い怒鳴り声が聞こえてきた。

『せ、聖さまっ!!ほ、ほんとなんですかっ?!ま、まさかOK出してませんよねっ!?』

「・・・祐巳ちゃん・・・」

何だか、こんな風に電話してると、本当に私だけ違う場所に居るんだなぁって思える。

俯くとお弁当がまだ手付かずで残っている。それが何だか酷く悲しくて・・・逢いたいよ・・・そんな言葉を飲み込んだ。

『ど、どうなんですかっ?!』

「あのねぇ、私がリリアン以外のとこでやってけると思う?それに皆私の性癖の事をとやかく言わないしね」

これは花寺の教師達に対する嫌味だ。全く、どいつもこいつも。

私がそう言って顔を挙げ職員室内を見渡すと、皆一斉に真赤になって俯いた。でも、柏木だけは笑っている。

『そ・・・そうですか・・・ならいいんですけど・・・』

「そうそう。だからそんな慌てなくていいよ。ちゃんと断ったから」

『分かりました。それじゃあ、蓉子さまに代わりますね』

安心したような祐巳ちゃんの声。それが嬉しかった。

わざわざ電話してくる蓉子も蓉子だけど、その電話を取り上げてしまう祐巳ちゃんも流石だ。

『ま、まぁ・・・それならいいのよ。それだけ聞きたかっただけなの』

「なによ、私が居なくなると寂しいの?」

冗談めかして言う私に、蓉子の怒鳴り声が聞こえてくる。

『馬鹿おっしゃい!!清々するわっっ!!!とにかく、あと一週間どうにか乗り切りなさい!それじゃあねっ!』

ガチャン!!乱暴に切られた電話は、私に言い返す余地を与えず笑いだけを残した。

「君にはいい仲間がいるね」

柏木は私が電話を置いたのを確認すると、そんな事言った。

「まぁね。羨ましいでしょ」

鼻で笑う私に、柏木は苦笑いしただけだった。そりゃそうだ。

まさかここでは頷けまい。たとえ心の中ではそう思っていたとしても。

さて、お弁当食べよっかな。私はチラリと時計を見て愕然とした。ちょっと・・・お昼休みあと五分じゃない・・・。

まぁでも、私この後授業ないから別にいっか。鍵だけドリルちゃんに返しとこ。

ドリルちゃんに近づくと、ドリルちゃんは苦い笑みを浮かべた。

「お役に立てませんでしたわね」

「いいや、ありがとう」

そして、やっぱり屋上に出た私は大きく伸びをした。もう頭上にはあの重い雲はない。

「雪は降らないかぁ〜」

何だか残念。雪が降ったらきっと祐巳ちゃんは喜んだだろうに。同じように見た雪の話が出来たのに。

離れていても私はずっと祐巳ちゃんと居るよ、ってそう、言えたのにな。

「なんてね」

・・・実際は思うだけで口に出しては言わないけど。そんな恥ずかしい台詞、言えますかっての!


第七十三話『lonely girl』


聖さまが口ずさんでた歌が頭を回る。確か、『lonely girl』って歌だったと思う。

聖さまは何となくその歌を歌ってたのかもしれないけど、でも私にはそれが必要以上に堪えた。

世界はそれだけじゃないでしょ?聖さまに教えてもらった歌詞の意味は何だかそんな感じだった気がする。

それもまさに今の私にピッタリで・・・。

私の世界は今、聖さまが中心で回ってるみたいに見えて、よそ見する暇さえ与えてくれなくて。

どこまで行けばこの恋が終わるのか、終わった後どこに辿り着くのか、それは誰にも分からないけど、

私の中の佐藤聖は、私という枠から飛び出してまるで自由になってしまう時があって・・・。

それを必死になって捕まえようとするんだけど、なかなか捕らえる事が出来ない。

だからかなぁ・・・こんなにも哀しいなんて思ってしまうのは。

研修で行ってるだけなんだって、どんなに言い聞かせても心は言う事を聞かない。。

そこへ来てこのニュースだもんな・・・もうほんと、嫌になっちゃう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「祐巳さんっ!!せ、聖さまが・・・」

由乃さんが保健室のドアを乱暴に開けて弾丸みたいに飛び込んできたのは、お昼ご飯が始まる少し前だった。

あまりの由乃さんの慌てように、私の頭の中に二つの選択肢が出来上がる。良いのと悪いのとの二つが。

一つは聖さまの研修が何らかの事情で早めに切り上げられる事になった。こっちはもちろんいい方。

もう一つは、聖さまに何かあった。事故とか、花寺から追い出されたとか、そういう類。こっちは悪い方。

でも聖さまの事だから、後者の方がありうるとかすぐに思ってしまう。だって、聖さまだもん。

不安げな私の顔を見ても由乃さんは全然笑ってくれない。ということは、間違いなく悪い方だ。

「ど、どうしたの?聖さまに・・・何かあったの?」

あまり聞きたくない。でも、聞かないわけにはいかない。

私はゴクリと息を飲んだ。すると、由乃さんは机の上に置いてあったお茶を一気に飲み干す。つか、それ私のっっ!!!

「そ、それがねっ!ビ、ビックリしないでね!?あのね、えっとね・・・」

「前置きはいいから!何なの?聖さまがどうしたの!?」

もし聖さまに何かあったら・・・そんな事考えると怖くなる。

身体中の血が逆流してるみたいに耳元でゴーゴーと音を立て始めた。

そんな私の態度に驚いたのか、それとも落ち着きを取り戻したのかは分からないけれど、

由乃さんは大きく深呼吸をして静かに言った。

「あのね・・・聖さま、本格的に花寺に誘われたらしいよ」

「・・・うそ・・・」

いや、これはどうなんだろう。こういう場合、いい結果に入るのか、悪い結果に入るのか分からない。

生活をもっと向上させたいなら、ここは喜ぶべきだろう。

でも・・・私はそれを望んでない。あくまでも私だけの意見を言わせてもらえば・・・これは悪い報告とも言える。

私はフラフラと由乃さんを置いて保健室を後にした。どうしよう・・・もしまた聖さまが一人で決めてたら・・・。

ていうか、どうして聖さま?もっと他にも沢山いい先生居るじゃない。それなのに・・・どうしてよりによって聖さまなの?

「・・・聖さまが・・・聖さまが行っちゃう・・・」

もう自分でもどこを歩いてるのか分からなかった。でも、気がつけば、顔を挙げれば目の前には理事長室。

人間って、どんなに混乱しててもちゃんと自分が行くべき場所ってのは分かってんだなぁ、なんて思う。

理事長室のドアをノックすると、中から蓉子さまの返事が聞こえてくる。私には、名乗る元気はなかった。

「・・・祐巳ちゃんじゃない・・・もしかしてもう聞いたの?」

黙って理事長室のドアを開けてトボトボと入っていく私を見ても、蓉子さまは怒らなかった。

それどころか、放心してる私をソファに座らせ紅茶まで出してくれる。その湯気の中に、聖さまを見たような気がする。

まぁ、気のせいなんだけど。じっと紅いお茶を眺めて何も話さない私を蓉子さまがどう思ったのか分からない。

ただ私の正面に座って、大きなため息を落としながら机の上に飾られた写真を見つめる蓉子さま・・・横顔が何だか寂しそう。

「それ・・・高校生の時の・・・?」

「ええ、そうなの。三人とも若いでしょ?」

そう言って蓉子さまは腕を伸ばし写真を取って私に見せてくれる。多分、卒業式の写真なのだろう。

蓉子さま、江利子さま、聖さまが花束を抱えて写っている。蓉子さまは真ん中で、右側に江利子さま、そして左側には聖さま。

「私・・・高校生の聖さまの写真って初めて見ます」

リリアンの制服に身を包んだ聖さまを見て、思わず目を細めてしまった。だって、出逢った頃の聖さまと雰囲気がよく似てる。

私の言葉に蓉子さまは驚いたように口を手で覆った。

「そうなの?まぁ、聖は写真とかわざわざ飾るようなタイプではないものね」

「そう・・・ですね。ましてや一人で写ってたりするものは絶対に飾りませんね、聖さまは」

私たち二人で映ってる写真とかはベッドの上のコルクボードとかに飾ってあるけど、聖さま一人だけのはあまり見た事ない。

「じゃあ、祐巳ちゃんにとっておきのを見せてあげる」

そう言って蓉子さまは立ち上がると、大きな本棚の中から一冊のアルバムを取り出した。

年代を見ると、ちょうど聖さまたちが卒業した時のものだ。

埃のつもった本の角をサッと手で払うと、蓉子さまはアルバムを開く。本独特のインクの匂いと、埃の匂いが鼻についた。

「これこれ。聖が応援団の団長をやった年があってね・・・とは言ってもSRG命令で無理やりだったんだけどさ。

それでも渋々従うところが聖よね。今なら絶対にしないんだろうけど・・・」

「へえぇ・・・格好いい・・・聖さま・・・」

写真は聖さまがピンで写っていた。アルバム用だから小さいんだけど、でもはっきりとその凛々しさは伝わってくる。

学ランに白いハチマキ、白い手袋をして、腰まであったという長い髪が風になびいて今にも動き出しそうな写真。

正面を睨むような目で見つめていて・・・もし私がこの時代、リリアンの生徒だったなら、間違いなく恋してたに違いない。

「この年のバレンタインはそりゃもう、凄かったんだから」

苦笑いしながら蓉子さまは何かを思い出すように目を細めた。そうだろうなぁ・・・だって、格好いいもん。

「あれ?これは・・・よ、蓉子・・・さま?」

「あっ!!こ、これは見なくていいのっ!!見ちゃダメっっ!!!」

慌てて一枚の写真を手で隠す蓉子さまの顔は例えようもないほど真赤・・・確かに、ちょっと恥ずかしいかもね・・・あれは。

チラっとしか見てないけど、どうやら蓉子さまも応援団だったらしくフラメンコを踊る時にしか着なさそうな真赤なドレスを着て、

口にやっぱり真赤な薔薇を咥えていた・・・ような・・・。でも・・・うん、似合ってた。凄く、似合ってたと思う。

「き、綺麗ですよ・・・カルメンみたいで」

「そうよ、まさにカルメンだったの・・・私は嫌だったのよ、聖のとこみたいに学ランとかが良かったのに無理やり・・・」

ああ、蓉子さまも無理やりだったんだ。それってリリアンの伝統なのかな。

何だかこうやって由乃さんの言う伝説の三薔薇さまの高校時代の写真を見てると、少し親近感が湧く。

皆昔は子供だった、みたいなそんな感じ。それにしても・・・聖さま格好いいなぁ・・・この写真、もっと大きいので見たかった。

そして髪の長い聖さまは・・・やっぱり綺麗。いいなぁ・・・伸ばしてもサラサラなんだろうなぁ・・・。

アルバムの中の聖さまを見つけるたびに胸が苦しくなる。だから私はうっかり口に出していた。思った事をそのまま。

「いいなぁ・・・私も聖さまとリリアン・・・通いたかったなぁ・・・」

「何言ってるのよ。祐巳ちゃんはリリアンじゃなかったからこそ、聖の心の中に入ることが出来たんじゃない。

祐巳ちゃんが最初っから親近感を持って聖と接したからこそ、彼女は今笑ってられるのよ?」

「・・・・・そう・・・でしょうか・・・・・・」

「そうよ。だから聖は祐巳ちゃんの傍から離れる事はないと思うの。彼女本当はずっと今みたいに笑っていたかったのよ。

見てよ、このアルバム。聖は一杯写ってるけど、どれも笑ってないでしょう?」

「・・・言われてみれば・・・」

どの聖さまも皆怒ったような、何かを見下したような顔してる。はっきり言って、ちょっと怖い。

でも、うん、やっぱりこれは逢った時の聖さまだ。笑っててもこんな顔してたもん。まぁ・・・たまに今もこんな顔してるけど。

でもそれは大抵何か気に入らない時で、普段はもうこんな顔はしていない。

こうやって考えると、私の人生と聖さまの人生は随分違ったんだなって思う。だって、私にはこんな顔出来ない。

運命って不思議。全然別の所で生まれて、全く違う家庭で育って、名前も存在すら知らなかった二人が、

ある日突然出逢って恋するなんて・・・こういうのをやっぱり奇跡って言うのかな。

そんな事を考えていると、蓉子さまがふいに口を開いた。

「で、祐巳ちゃんが今日ここに来たのは、聖の引き抜きの話を聞いたから?」

やっぱり蓉子さまは何でもお見通しだ。聖さまの卒業アルバムにかまけてうっかり忘れる所だった。

私が黙って頷くと、蓉子さまは小さく笑って言った。それじゃあ電話して真相を聞いてみましょうか、と。

電話に出たのは、花寺の理事長さんだった。蓉子さまは親しげに話して聖さまに電話を取り次いでもらっている。

聖さまが出るまでの間、私は気が気じゃなかった。だって、こうやって聖さまと電話で話すことなんて普段でもあまり無い。

電話をかけると言う事は、お互いが離れ離れになっていて傍に居ない時だから。

しばらくして、ようやく聖さまが電話に出た。蓉子さまは気を利かせて私にも聞こえるように電話をハンズフリーにしてくれる。

『もしもし?』

ああ・・・聖さまの声だ・・・でも、ちょっと元気ない?もしかして何か嫌な事あったのかな・・・。

「聖?どう、うまくやってる?」

『う〜ん・・・まぁ、相変わらずかな。どうして?』

「まぁ、そうよね。あんたの事ですもの。

さっきね、柏木さんから聞いたんだけど、あんた正式に花寺に来ないか?って言われたんですって?」

蓉子さまはそこまで言ってチラリと私を見た。私がもう我慢出来ない事分かったんだと思う。

もちろん、蓉子さまの勘は当たっていた。私はもう、我慢出来なかった。

「せ、聖さまっ!!ほ、ほんとなんですかっ?!ま、まさかOK出してませんよねっ!?」

噛み付かんばかりの私の声に返ってきたのは沈黙・・・そして、私の名前・・・。

『・・・祐巳ちゃん・・・』

何だか寂しそうに響くその声が、私の不安を余計に掻き立てた。でも・・・。

「ど、どうなんですかっ?!」

『あのねぇ、私がリリアン以外のとこでやってけると思う?それに皆私の性癖の事をとやかく言わないしね』

いつもの聖さまだった。全くいつも通り。しかもそんな事そんな大きな声で言っちゃっていいの?って事まで言って・・・。

「そ・・・そうですか・・・ならいいんですけど・・・」

『そうそう。だからそんな慌てなくていいよ。ちゃんと断ったから』

「分かりました。それじゃあ、蓉子さまに代わりますね」

そう言って私は電話を離れた。蓉子さまは受話器を取りハンズフリーを止める。

「ま、まぁ・・・それならいいのよ。それだけ聞きたかっただけなの」

多分蓉子さまも本当は心配だったんだ。だからわざわざ電話してくれたんだと思う。

ホッとしたような蓉子さまの顔は、さっき見たあのアルバムの中の蓉子さまと同じ。

ああ、こうやっていつも聖さまと江利子さまを心配してきたんだ、この人はずっと・・・それなのに。

「馬鹿おっしゃい!!清々するわっっ!!!とにかく、あと一週間どうにか乗り切りなさい!それじゃあねっ!」

聖さまが何を言ったのかは分からないけど、蓉子さまは顔を真赤にして電話に怒鳴ると乱暴に受話器を置いた。

そして驚く私を見てホホホ、と笑う。一体何言ったのよ、聖さまってばもう。

「いやだ、私ったら・・・まぁ、あれよ、良かったわね、祐巳ちゃん。聖はどこにも行かないって」

「はいっ!」

私の返事に蓉子さまはにっこりと笑った。あの卒業写真の笑顔と同じように。

「それじゃあ、失礼します。本当にありがとうございました!」

「あっ!ちょっと待って、祐巳ちゃん!!」

安心して理事長室を出て行こうとした私を、蓉子さまが引きとめた。そして重々しい机の引き出しの中を何やらゴソゴソしてる。

ドアに手をかけたままの私からは蓉子さまが何をしているのか見えなかったけど、

何か探し物をしてるんだろうって事だけは分かった。一体何を探してるんだろう・・・。

「あったあった。はい、これ、祐巳ちゃんにあげるわ。聖には内緒よ?」

そう言って手渡された黄ばんだ封筒・・・中には一枚の写真が入っている。

それを取り出した私は、あっ!と小さな歓喜の悲鳴を上げた。

「よ、蓉子さま・・・こ、これ・・・」

「一枚しかないの。ネガも無いし、焼き増しもしてない。完全にアルバム用だったのね、きっと」

「あ・・・ありがとうございますっ!!」

飛び跳ねて喜ぶ私を見て、蓉子さまは本当に嬉しそうな顔をしてくれた。

「私が持っててもしょうがないし、写真が一枚くらいなくなったってどうって事ないわ。

それに、それは祐巳ちゃんが持ってるべきだと思うし。くれぐれも、聖には内緒にしておいてね」

そう言ってウインクする蓉子さまの顔がイタズラっ子みたいで可愛かった。

理事長室を出て保健室に戻る途中、私はもう一度写真を見て思わずニヤけてしまう。ダメだ・・・かっこよすぎる・・・。

「ふ・・・ふふふ」

こんなとこ聖さまに見られたらまた気持ち悪いとか言われるんだろうな、多分。

でもこんな写真絶対聖さっまも持ってない。だから世界にたった一枚だけの写真。私の為だけの、聖さまの写真。

さっき卒業アルバムで見せてもらった、学ラン姿の・・・私の大切な人。

聖さま、今のところ私の世界は聖さまを中心に回ってるような気がします。でもね、私思いました。

lonely girlだなんて、やっぱりありえませんよね。世界はそれだけでは、ないみたいです。

皆が居るから、皆がこうやって応援してくれるから、私はこの世界に居る事が出来るんですね。

聖さまの事、考えてることが出来るんですね、きっと。


第七十四話『ゴールの始まり』


まぁ、ゴールっつっても人生の、とかそんな大げさなもんじゃない。ただの研修のゴールなんだけどさ。

とりあえず折り返し地点が過ぎてようやく私の長かった試練が終わりかけてる訳だ。

「あと三日ですね!」

布団に潜り込んだ私に、先に既に布団の中に入っていた祐巳ちゃんが言った。

「ほんと・・・長かったわ・・・」

もう疲れて何もする気力がない。花寺の教師どもにカミングアウトしてから私への風当たりはいっそう厳しくなって・・・。

それだけなら別にいいよ、それだけなら。今日なんてそれまで話した事も無かった若い男の教師にこんな事言われた。

『君はきっと病気なんだよ。大丈夫!安心して!僕はいい精神科の先生を知ってるんだ』

『はあ?』

『必ず治ると約束するよ!ね?君は僕が守ってあげるから』

あまりにも突飛な・・・というか、迷惑な申し出を私がお断りしたのは言うまでも無い。未だに居るんだよね、こういう奴。

ていうかさ、どうして治った所であんたに守られなきゃならないのよ!って話でさ。

そもそも治るって何よ。まるで人を病人みたいに。私はどこも悪いと思ってないし、むしろこれが私なんだって。

「そ、それは・・・その方、ただ単に聖さまの事好き・・・なんじゃ・・・」

私の話に祐巳ちゃんは枕元のランプの明かりを調節しながら苦笑いして言った。

「かもね〜。でも、男に好かれたって全然嬉しくないんだよね」

女の子ならともかく!そんな言葉を私は飲み込んだ。だって、こんな事言うと冗談でも祐巳ちゃんがまた拗ねちゃう。

それが見たくてわざとそんな事言う事もあるけど、でも今日は見たくない。

「どちらにしても、聖さまは男女問わずモテるって事が改めて証明された訳ですね」

クスクスと楽しそうに笑う祐巳ちゃん・・・相手が男だと絶対怒らないんだな、この子・・・。何だか笑える。

普通は逆なのに、私たちの間じゃそれが普通なんだ。まぁ普通とか普通じゃないって定義もいまいちよく分からないけど。

「そうは言うけどね、いい加減迷惑だよ。毎日毎日・・・それでなくてもうるさいのがくっついてくるのに・・・」

そこまで言って私は慌てて口をつぐんだ。そうだった、ドリルちゃんの事は祐巳ちゃんには言ってないんだった!

「・・・うるさいの・・・?」

案の定祐巳ちゃんの表情が曇る。別に後ろめたい事なんて何もないのに、うろたえる私もいけないんだけどさ。

で、でもよくあるじゃない。悪いことしてないのに警察みたらやたらと背筋伸ばしちゃうみたいな、さ。あんな気分に凄く似てる。

「うるさいのって何です?初めて聞きましたよ?」

「そうだっけ?言わなかった?花寺にさ、後輩が一人居るんだよね。しかも祥子の妹」

出来るだけ波風立てないように話したつもりだった。だってどこにも後ろめたい事ないし。

「そんなの・・・どうして今まで教えてくれなかったんです?」

「いや、別に話すほどの事もないかと・・・」

ここに一週間とちょっと、毎晩私たちはこんな風に寝る前にお互いの一日の出来事を話し合っていた。

どちらともなく始まったこの話し合いは、今では日課だった。でもね、私と祐巳ちゃんじゃ端折る場所が違う。

例えば、祐巳ちゃんは毎日毎日まるで童話でも読むみたいに一日に起こった事を朝から全部聞かせてくれる訳。

そこには登場人物は沢山出てきて、教師達も出てくればもちろん生徒だって出て来る。たまには動物ですら登場するんだ。

それに比べて私の場合、自分で言うのも何だけどあまり話上手ではない。

まるで淡白な船長の航海日誌みたいな話し方しか出来ないんだよね。出て来るのはもっぱら私。話は一人称ですすんでいく。

大抵授業以外は中庭とか屋上に居る私にとって、教師達は出てこない訳だ。殆ど。

一日の中で交わす会話と言えば本当にしょうもない事ばっかりで、私にとってはどうでもいい事が多い。

だから私は祐巳ちゃんに話すとき大抵授業の話や休憩時間の話だったりする。

だから今までドリルちゃんの話が全く出なかったとしても、別におかしいことでもない。

「もう!そうやって聖さまはいっつも後から重要な事言うんだから!」

「ご、ごめん・・・でも、何もないからね?私とその・・・ドリルの間には」

名前・・・なんだっけ・・・忘れちゃったよ。

何か戦国武将みたいな名前だったような気がするけど、この際名前なんてどうでもいい。

私の言葉に祐巳ちゃんは笑った。寝返りを打って私の鎖骨に頭を乗せると言う。ちょうど私が腕枕してる状態だ。

「学校にドリルが居るんですか?」

「そう。高校のときはね、ドリルだった。今は流石に普通だったけど。その時の印象が強すぎて名前がね、覚えらんない」

「聖さまってば・・・仮にも祥子さまの妹なんでしょう?」

「だってさー、私よりも三つも年下だもん。私は既に卒業してるってば。

そのドリルの時に会ったのだって一回か二回だよ?覚えられると思う?」

覚えられる訳ないじゃん、そんなの。ましてや興味がなかったら絶対に無理。

祐巳ちゃんは一方目を丸くして私を見ている。

「そうなんですか?じゃあ私よりも一つ下か・・・乃梨子ちゃんと一緒なんですね」

「ああ、そうなるね。高校時代は仲良かったみたいだよ、乃梨子ちゃんはその・・・ドリルちゃんと」

へえ、明日聞いてみよっと。そう言って祐巳ちゃんはにっこりと微笑んだ。

最初はどうなるかと思ったこの研修も、今おもえば割といい思い出になるだろうか?

いや、それはまだ分からないかな。何せまだ三日もあるし。

後三日・・・後三日も祐巳ちゃんのあの背中を見送らなきゃならないのか・・・。

リリアンの門をくぐるあの寂しそうな背中を・・・あのしょんぼりとしたツインテールを。

あの姿を見るたびに私は駆け寄って抱きしめたくなる衝動に駆られる。

こんな事言ったらまたノロケて!とか言われるかもしれないけど、でも・・・当の本人にとっちゃ真剣な恋愛をやってんだもん。

今までに無いくらい真剣に恋をしてる。どこにでも居るようなありふれた子かもしれないけど、私にとっては特別なんだもん。

「ねぇ祐巳ちゃん・・・早くリリアンに戻りたいよ・・・」

珍しく弱気なこと言う私を見て、祐巳ちゃんはポカンって口を開けた。そして、私の頭をよしよしと撫でてくれる。

まるで保健室で生徒にいつも祐巳ちゃんがするみたいに。

「そうですね。私も聖さまが居ないと寂しくって・・・早く前みたいにお茶したりお話したりしたいですよね」

そう言って祐巳ちゃんは、何故か突然奇跡の話をしてくれた。どうもあの電話の日に何かあったらしい。

全部聞き終えた私は、そんな祐巳ちゃんに言った。

「祐巳ちゃん、それは奇跡じゃないよ。それは軌跡じゃない?私たちの周りに奇跡なんてそうそう無いよ」

「へ?」

そう・・・奇跡なんて滅多にない。起こらない。読み方は同じだけど、意味が全然違う。

「私たちは出逢うべくして出逢ったんだと、私は思ってるよ?」

「出逢う・・・べくして?」

「そう。だって、私の環境や祐巳ちゃんの環境は確かに全然違ったけど、私たちはだからこそ、

そんな経過があったからこそ今こうしてここに居るんだと、私はそう思うんだ。だから、奇跡じゃなくて、軌跡だと私は思う」

育った環境も通った学校も違うけど、昔の私を知らなかった祐巳ちゃんだったからこそ私は祐巳ちゃんを好きになった。

素のままの私を見ても、何の違和感も抱かなかった祐巳ちゃんだからこそ。

それを通ってきた軌跡というんだろうと思う。祐巳ちゃんには祐巳ちゃんの過去があって、私には私の過去が。

「そう・・・かもしれません。でも・・・私は奇跡だと・・・思っていたいです。聖さまと出逢えた事そのものが。

佐藤聖という人がこの世に居るって事自体が・・・」

確かに、そう思うのも悪くない。出逢えた事そのものは奇跡かもしれない。

福沢祐巳という人がここに生きて息をしてる事も、確かに祐巳ちゃんの言うとおり奇跡なのかもしれないのだから。

「うん・・・それもいいね。じゃあ軌跡の上に奇跡は成り立つ訳だ?」

「そう!そうですよ、きっと!今聖さま凄くいい事言いました!!」

今度どっかで使おっと!そう言ってメモを取る振りする祐巳ちゃんがおかしくて可愛かった。

出逢いなんて生まれては消える泡みたいなもので、それをどれだけ自分の中に取り込むことが出来るかが重要なんだろうな。

生かすも殺すも自分次第って奴か・・・そう考えると私は今まで相当な数の出会いを闇に葬ってきたな・・・。

「まぁ、どっちにしても、だ。私たちはまだまだこれからって事かな」

「そうですね。これからどんどん後ろに軌跡が出来て行く訳ですから」

祐巳ちゃんの言った軌跡を想像してみるとちょっと身震いする。だって、もう人間50年って時代でもないしね。

「なっがいなぁ〜・・・まだまだだね・・・ほんと」

「何ですか、もしかして早く終わらせたいんですか?」

「いや、そういう意味じゃないけど・・・出来るなら後はもう穏やかに生きたいよ・・・」

ヒヤヒヤしたりイライラするのはもう十分だ。私の台詞に祐巳ちゃんは笑った。

「またそんなおばあさんみたいな事言って!どうしたんですか?聖さまはそんな人じゃないでしょ?」

「・・・じゃあ、私ってどんな人?」

祐巳ちゃんの私像をちょっと聞いてみたくなった。でも、祐巳ちゃんがそれを教えてくれる事はなかった。

その代わり、軽いキスをしてくれる。それだけで・・・十分だった。

「聖さまはまだまだ若いんですから!もっとこう、根性出さなきゃ!あと、元気も!」

「元気ねぇ・・・私はいつだって元気だよ?それこそ、祐巳ちゃんよりも・・・ね」

「へ?」

呆気にとられたような顔してる祐巳ちゃんの唇を、私は強引に奪った。

歯を割って舌を入れただけで祐巳ちゃんの唇から甘い声が漏れる。

ようやく研修のゴールは見えた。でも人生のゴールは、まだまだ見えそうには・・・ないなぁ。


第七十五話『繋がり』


腰が痛い。ったく、確かに聖さまは元気だよ、ほんと。何なんだろう、あの元気。ていうか、ああいう時だけ元気になるよね。

全く・・・まぁ、いいんだけどね、別に。私はこの痛みが結構好きだから。とかそんな事言っちゃまた変な誤解を招くか。

違うの、これは幸せな痛みだと思ったの!!それだけなのっ!!・・・って、私、一体誰に弁解してるんだろ・・・危ない危ない。

最近妄想癖がすっかり板についちゃって・・・。

はぁぁ、って溜息を落とした私を見て、乃梨子ちゃんが心配そうに私を覗き込んだ。

「どうかしましたか?さっきからずっと腰抑えて・・・」

「へ?う、ううん!何でもないのっ!ちょっとね、腰痛持ちなのっ!!」

慌ててそんな風に言うと、乃梨子ちゃんは少しも顔色を変えず言った。

「へぇ・・・若いのに大変ですね」

だって。ほんと、乃梨子ちゃんらしい。

そうだそうだ、乃梨子ちゃんといえば・・・昨日聖さまに聞いたドリルちゃんの話を聞こうと思ってたんだった。

「ねえ、乃梨子ちゃん、あのね、祥子さまの妹ってどんな子?」

かなり直球だけど、昨日からずっと気になってたんだ。まぁ、聖さまの反応はイマイチだったけど、やっぱり気になるよ!

私の質問に珍しく乃梨子ちゃんが笑った。とは言っても微かに唇の端が上がったぐらいだったけど。

「ああ、瞳子ですか?」

「トーコ?」

「ええ、瞳の子と書いてトウコって言うんですけど・・・」

へぇぇ・・・瞳子ちゃんか。

聖さまの言い方だと何だかもっとこう、厳つい名前をイメージしてた私にとって、その名前はあまりにも・・・。

「可愛い名前・・・」

「可愛いのは名前だけですけどね」

乃梨子ちゃんが笑った・・・いや、そりゃ乃梨子ちゃんだって笑うよね、人間だもん。

でも、こんな風に乃梨子ちゃんが友達の話をしていて笑っているところを今まで見た事がなくて。

それにしても聖さまめ・・・ドリルだなんて・・・あんまりじゃない。

こんな可愛らしい名前があるのに、それすら覚えてやらないなんてさ。まぁでも、聖さまらしいと言えば聖さまらしい。

そもそも私だって初めのうちは絶対名前覚えてくれてなかったよね、多分。

「で、その瞳子ちゃんってどんな子なの?」

「どうしてです?」

「うん、それがね、聖さまが昨日言ってたのよ。花寺に・・・その・・・ドリルが居てとかなんとか」

私はゴニョゴニョと言葉を濁した。だって、やっぱり気、悪いよね。友達のことそんな風に言われたら。

でも、乃梨子ちゃんはそれを聞いて声を上げて笑った。

「ドリル!確かに。聖さまはそう言えば瞳子の事をいつもそう呼んでましたよ。

高校時代彼女は見事なまでの縦ロールでしたからね、髪型が」

「た・・・縦ロール・・・」

そいつはすげぇ・・・なんて個性的なんだ。縦ロールなんて漫画の中でしか見た事ないよ。

ほら、エースをねらえ!のお蝶夫人とかさ。ある意味アフロヘアと同じぐらい個性的。

ところで・・・全然関係ないんだけど、お蝶夫人ってどうして夫人なの?未だに分からないんだよね。

まぁ、そんなどうでもいい話は置いといて。そうなんだ・・・瞳子ちゃんてなかなか面白いかも!

でも、私の予想は全然当たらなかった。

だって、この瞳子ちゃん・・・この子が後々厄介なことに巻き込んでくれる事になるなんて、

このときの私は思いも寄らなくて・・・だから呑気に構えてたのかもしれない。

聖さまがあと三日・・・いや、もう明後日リリアンに戻ってくるんだって、そればっかり考えてた。

恋愛は、一時だって気が抜けない。一瞬でも気を抜いたら最後、もう簡単には戻れない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

場所が変わって保健室での出来事。

「祐巳さんは浮気ってどこからが浮気だと思う?」

保健室にいつものように遊びに来ていた由乃さんが言った。私は飲んでいたお茶をほんの少し吹いてしまった。

「な、と、突然どうしたの?」

「うん・・・それがね、私と令ちゃんって幼馴染なのね。で、ずーっと今まで一緒に居たの。何の疑いもなくね。

でもさ、最近ふと思うのよ。私たち、このままでいいのかな・・・って」

「・・・で、浮気したいの?由乃さんは・・・」

「・・・うん・・・だって、令ちゃんと居てもドキドキしないんだもん・・・」

まさかね。ちょっと言ってみただけ。言ってみただけなんだけど・・・私の言葉に由乃さんは申し訳なさそうに頷いた。

だから私はまたお茶っを噴いてしまって・・・ちなみに今度は豪快に。

「な、よ、由乃さん!?自分が何言ってるか分かってる??」

「分かってるよ!もちろんちゃんと分かってる。でもね・・・本当にたまになんだけど、そんな事考える事あるんだ・・・。

イケナイって分かってるよ?令ちゃんの事好きなのも本当。でもトキメキが無いの。祐巳さんにはそういうの分からない?」

「え・・・えっと・・・」

分からない?って聞かれたら、私は多分何も考えずに、うん、って言ってしまいそうになる。

だって、私はまだ聖さまの事よく知らない。確かに付き合ってて一緒に住んでるけど、未だにあの人掴めないとこあるし。

まだ付き合いが浅いのも手伝って毎日毎日ドキドキするし・・・由乃さんの気持ちはハッキリ言って分からない。

黙り込んだ私を見て、由乃さんが苦笑いする。

分からないかー、そう言って伸びをする由乃さんの横顔に退屈な笑みが浮かんだ。何だか・・・切ないな。

一人の人をずーっと好きで居るっていうのは、やっぱり理想論なのかな。聖さまが付き合う前はよくそんな事言ってたし。

『はあ?たった一人の人とずっと一緒に?う〜ん・・・やっぱり難しいんじゃない?

そりゃ相当惹かれたんなら別かもしれないけど』

あの時の聖さまの本当の気持ちはそりゃ分からないけど、私は今でもあの言葉を忘れてない。

相当惹かれるってどれぐらい?私の事はどれぐらい惹かれたの?心の中のいつもの疑問。

でもまだ一度も本人に直接聞いた事は・・・ない。いつかは聞いてみたいと思うけどね。

「いいなぁ〜祐巳さんは。相手が聖さまで」

「どうして?令さまは優しいでしょう?」

「優しいよ・・・すっごく優しい・・・でも、それだけじゃダメだよ。それだけじゃ・・・足りないよ・・・」

そっと目を伏せた由乃さんの顔にいつもの悪がきみたいなイメージはない。

こうやってみると・・・由乃さんってやっぱり美少女だったんだなぁ・・・いいなぁ。

「じゃあ何が欲しいの?」

私の問いに、由乃さんは少し考え込んだ。きっとうまくまとまらないんだろう。そういう気持ちはよく分かるんだけどな。

苦笑いしながら由乃さんの答えを待つ私に、由乃さんは咎めるような視線を送ってくる。

「そうね、私だけっていう何かが欲しい。令ちゃんは優しいけど、私にだけって訳じゃないもん。

その点聖さまはハッキリしてるじゃない。祐巳さんの前でしか笑わなかったり、楽しそうな顔しないじゃない」

そういうのが羨ましい。由乃さんはそう言い切った。私には何も言えなかった。

由乃さんと二人きりの令さまを見たことないってのもあったんだけど、それは悲しいなって思ったから。

特別だと思える何かが欲しいのは当然だもん。私だけ見てよ!とかそういうんじゃなくて、もっと日常的な何かが欲しい。

他の人との区別をつけて欲しいっていうか・・多分由乃さんはそういうことが言いたいんだと思う。

確かに由乃さんの言うとおり聖さまはそういう所をキッチリ踏まえてるっていうか、そういう人なんだろう。

それを言われると私の方が・・・もしかするとあまり区別をしていないような気がしないでも無い。

もしかして・・・聖さま私の事そんな風に思ってたり・・・しないよね?もし思ってたら・・・どうしよう・・・。

「・・・由乃さん・・・もしかして私もそんな風に聖さまに思われてたりしないよね?」

こんな事由乃さんに聞くのは変だよね。でも聞かずにはいられなかった。私の言葉に由乃さんは苦い笑みを漏らす。

「さあ?私は聖さまじゃないから・・・聖さまの事は私よりも祐巳さんの方がよく知ってるんじゃない?

ううん、多分・・・他の誰よりも、祐巳さんの方が知ってると思うよ?」

「そう・・・かな・・・私、聖さまの事何にも知らないよ」

「それは祐巳さんが見える所だけの事でしょ?そうじゃなくてさ、見えない部分の聖さまは・・・祐巳さんしか知らないと思うな」

由乃さんはそう言って私の頭を撫でてくれた。まるで小さい子にそうするみたいに。

そうかな・・・私、聖さまの事ちゃんと分かってるのかな?分かってるつもりなだけなんじゃないのかな・・・。

誰かの本心なんて見えない。もしかすると本人も知らないのかも。私には何が見えてるんだろう?

聖さまは今、何を考えながら私と付き合ってるんだろう・・・?

「ねぇ、由乃さん・・・私ね、由乃さんと令さまが離れちゃうの・・・嫌だな。

だって、由乃さん達の関係って、私、理想だと思えるから」

由乃さんと令さまの関係は、私の理想。既にくたびれた夫婦のような関係だけど、私たちにはまだ無い絆がある。

ドキドキが無くても、新鮮さが無くても、お互いがお互いを認めてる、そんな関係が聖さまと築けたら・・・そう思う。

私の言葉に由乃さんは頬を染めた。おばちゃんみたいに私の肩をバシバシ叩き、いやぁねぇ〜、とおどけてみせる。

「だからさ、そんな事言わないでよ。縁側で猫抱きながら二人で世間話するような仲でいてよ」

「なっ!ちょ、そこまで年寄りくさくはないわよっ!!」

あ・・・違ったんだ。それは失敬。でも、そういうのに愛そうだよね、この二人は。

どこまでも突っ走る由乃さんをいつもニコニコしながら令さまが見守ってて、ちゃんと止めるべき所は止めてくれて。

「いいじゃない。令さまは由乃さんの事凄く大事にしてると思うよ?それを由乃さんがそんな事言っちゃ可哀想だよ」

「そっかなぁ〜・・・令ちゃんは未だに私の事妹分だと思ってんじゃないのかなぁ・・・」

そんな事言ってお茶をすする由乃さんの横顔から、ようやく退屈が消えた。

いつものいたずらっ子な由乃さんが戻ってきたんだ。何かに目を輝かせ、筋の通らないことが嫌いな由乃さん。

ああ、なんだ。由乃さんはやっぱり美少女なんじゃない。こんな顔してても、今そう思えた。

まぁ・・・小悪魔的な笑顔も魅力的なんだろうけど。

こりゃ令さまも大変だ。由乃さんを満足させようと思ったら、相当努力しなきゃ。

「そうだ!今度聖さま貸してよ!その代わり令ちゃんを貸したげる!」

イタズラな笑みでそんな事言う由乃さんが可愛らしかった。冗談がキツイんだから、ほんとにもう。だから私は言ってやった。

「聖さまは由乃さんの手には負えないよ」

と。すると由乃さんは笑う。そりゃそうだ、って。だって聖さまは由乃さんをさらに三倍ぐらいややこしくしたような人だもん。

もし由乃さんと付き合ったりすれば、きっと毎日喧嘩が耐えないだろう。そう、言い切れる。

「由乃さんの面倒も、令さまでないとね」

「ひっどーい。私が面倒見られてるんじゃなくて、令ちゃんの面倒を私が見てるの!」

「はいはい。そういうことにしときましょ。お代わり、いる?」

「うん、ありがとう」

他愛も無い会話。えも重要だった会話。由乃さんのお茶をいれてると、志摩子さんがやってきた。

「あら、楽しそう。私もまぜて?」

「「もちろんっ!」」

私の親友。由乃さんと志摩子さん。この歳になって初めて出来た、大事な繋がり。


第七十六話『佐藤 聖』


佐藤聖という人間を一言で言うなら、とても自由な人。

何にも縛られない、何にも心を砕かない、誰も寄せ付けない、誰にも懐かない。そんな人。

まるでそこらへんにいる野良猫のようだ。外見だけは極上の野良猫。その容姿で多分泣かされた奴も多いはず。

高校時代僕は彼女に何度か会った。まだ彼女の髪が腰まであった頃だ。

当時の彼女の印象はショーケースに入った綺麗なガラス細工のようだった。ところが今はどうだ・・・。

「やあ、また屋上に行くのかい?それとも中庭かな?」

佐藤君は僕を軽く睨んで返事もせずにスタスタ歩いてゆく。だから僕は構わずついてゆく事にした。

相変わらず僕は彼女に随分と嫌われているよう。あれから随分経つというのに。

「ところで君のお弁当は毎日毎日誰が作ってくれてるの?」

「一度その中身を見せてくれないか?とても興味深いんだ」

僕の台詞はことごとく無視された。そして結局彼女は今日もまた寒い屋上へと消えてしまう。

流石の僕もここから先へは行けない。そこまでするともっともっと嫌われてしまうだろう。

実を言うと、彼女を研修で花寺に誘ったのは今回が初めてではなかった。

今まで何度も何度も申し込んだのに、水野君の話だと今まではその書類を読む事もなくゴミ箱に放り込んでいたらしい。

それなのに、どうして突然花寺へ来る気になったのか。僕にはそれが不思議でしょうがなかった。

お昼が終わり僕はいつものように全ての教室を見回りに行く。これが僕の日課だ。

時には教室に入ってその授業を生徒と一緒に受けてみる事もある。

でも、それをすると大抵の教師は手元が震え声が上ずってしまって結局授業を邪魔してしまう。

僕は校舎の中をウロウロしながらポンと手を打った。そうだ、今日は佐藤君の授業を見に行ってみよう。

絶対後から怒られそうだけど。そんな訳で僕は初めて彼女の授業を受けてみることにした。

佐藤君には今、三年生の授業を受け持ってもらっている。

彼女が来てから毎週ある小テストの英語の成績がやたらと上がった。

「噂通り・・・という訳か」

どこへ行っても通用しそうな彼女の教師としての実力。でも、何故かリリアンから絶対に動こうとしない。

どんなに待遇が良くても、彼女はあそこから絶対に出ない。

僕は佐藤君のクラスのドアを開けた。生徒達が驚いたように皆一斉にこちらを振り返る。

大抵の教師はこうやってクラスに入ってきた僕を見ると、生徒と一緒に驚くんだけど・・・。

「何しにきたの?邪魔よ、出てって」

ほらね、佐藤君は違う。僕が来たって全く変わらない。冷たい声に冷たい視線。何だか癖になりそうだよ、佐藤君。

いや、冗談だけどね。

「ただの授業参観だよ。僕に構わず授業を続けてくれ」

僕の言葉に彼女は何の反応も示さなかった。ただ教科書を持ち淡々と授業を進めてゆく・・・流石だ。

「ここ、絶対出るから。賭けてもいいよ」

その言葉に生徒達は一心不乱に教科書にマーカーで記しをつけはじめた。

僕はそれが何だかおかしくて一番後ろの席の子にこっそりと耳打ちする。

「佐藤先生の授業は楽しいかい?僕は怖いんだけど」

すると大人しそうな少年はビックリしたように身体を強張らせ僕を見上げた。そしておどおどとか細い声で言う。

「い・・・いい先生・・・だ、だと思います。じ、実際よく分かるし・・・」

「そうか、なら良かった。それなら教えてくれ。どこがどういい?」

「あ・・・あの・・・・・・た、例えば童話を英語に訳したりとか・・・教科書にのってない話とか・・・それから・・・えっと・・・」

何もそんなに怖がらなくても・・・僕はそう思った。少年は涙目で異様とも思えるほど何かに怯えている。

その時、少年のノートに陰が落ちる。ふと顔を挙げると佐藤君が目の前に立っていた。

見下すような視線は明らかに僕に向けられている。

「邪魔するな。とっとと出てけ」

「君の評判を聞いていただけじゃないか」

「そんなものは後で聞け。今は私の授業中なんだ。誰にも邪魔する権利はない。もちろん、お前も」

「せ・・・先生・・・」

「お前も、こんないい加減な大人の言う事なんて無視していいから。大丈夫だから。お前はいつもよくやってる」

「は・・・はい・・・」

ホッと胸を撫で下ろす少年。彼女の声はとても優しかった。顔は相変わらず冷たいけれど、声は優しい。

佐藤君に怒られると思ったのだろうか?確かに彼女は怖いが。僕は仕方なく教室を後にした。

しばらく小さな小窓から授業風景を見ていたんだけど、そのうち佐藤君に手で追い払われてしまった。

鐘が一つ鳴り響いた。授業の終わりを告げる鐘が。

「おい、柏木。ちょっと」

予想外の出来事だった。まさか佐藤君が自ら僕を呼ぶなんて。

佐藤君の後をついていく僕達を見つけて、途中から瞳子も混じった。

それが気に食わないのだろう。佐藤君の表情は少し曇る。

辿り着いたのは中庭の桜の木の下だった。この木は樹齢がこの学校と同じで随分大きい。

最近では少しづつ花がつかなくなってしまった。多分、もう歳なのだろう。

僕が木を見上げていると冷たい声が響いた。

「お前さ、どういうつもりで、よりによってあの子に話しかけた?」

「・・・・・・は?」

「あの子は極度の上がり症なんだよ。ちょっとした事ですぐに不安になってしまう。それを知っててあの子に話しかけたの?」

僕はみっともなくポカンと口を開けた。別に選んだ訳ではない。ただ、彼のことは僕もよく知っていた。

普段はとてもよく出来るのに、何故かそれがテストの点に結びつかないんだ。彼は。

「テストの前も、だから必要以上に声を掛けてやら無いと不安でテストに実力が発揮出来ないタイプなんだよ。

ましてやもう少しで大学受験が待ってる。それに耐えられる程彼は強く無い。

ただでさえ緊張がピークなのに、そこへ来てお前・・・」

はぁぁ、と溜息を落とす佐藤君。だから僕はついつい聞いてしまった。

「君は・・・今教えている生徒全員の事をそんな風に覚えているのかい?」

僕の質問に彼女は毅然として答えた。

「当たり前。私の生徒だからね、当然でしょ?彼もそうだけど、他にも色んな奴がいる。

褒められなければ出来なかったり、叱る事で闘争心を燃やす奴も。

かなりキツイ事言わなきゃ分からない奴もいるし、慰めなきゃ動けない奴だっている。

そういうのをちゃんと一人一人見るのが教師だろ?

一つのクラスだからって皆まとめて授業進めて、はい終わり!って・・・それじゃあ教師なんて要らないよ。

高校生でも小学生でも、学校にいる間は教師がそうやって見てやらなきゃ誰が見てやんのさ?」

なるほど。彼女の噂は本当だった。本当なら教育委員会とかに行ってもおかしくないほどの人材だ。

僕も瞳子もただ目を丸くして彼女を見つめる事しか出来なかった。ただの自由人では・・・どうやら無かった。

「まあ、私も最近気づいたんだけどね。ある保健医がそれを教えてくれた。一人一人を見なきゃならないって。

なるほどって思ったよ。確かに私も今まで気をつけてはいたけど、でもそれはやっぱり上辺だけだったからね。

ほんと、めんどくさい職業だよ」

彼女はそう言ってルーズリーフを一枚僕にくれた。

そこには走り書きのような字で佐藤君がこの二週間で教えた生徒の名前がびっしりと書かれている。

「これは・・・?」

「生徒の情報。出来るだけ書き出してみた。こうでもしないとあんたはまた今日みたいな事しでかすだろうからね。

私はたったの二週間でこれだけ書けたんだ。あんたならもっと上手くやれるだろ?」

そう言って彼女は足早にその場を立ち去った。後に残された僕と瞳子は思わず顔を見合わせる。

「ちょっとだけ見直しましたわ、聖さまの事」

「そうかい?僕は少しも不思議ではないよ」

瞳子は言った。でも、僕は大して驚かなかった。だって、高校時代の彼女もこうやっていつも人を観察していたから。

猫みたいに神経を尖らせてじっと窺っていた・・・周りを。長年培ったそのアンテナは、今かなり役立ってる。

実際彼女のような教師は最近本当に少ない。彼女はどんな出会いをしたんだろう?出来れば僕も是非会ってみたい。

リリアンに行けば会えるのだろうか?彼女に素直にあんな事を言わせるような人間に。それはとても貴重だ。

そしてスカウトしたい。是非花寺に!・・・と。まあ、また断られるんだろうけど。

何にしても彼女はやっぱりここに残るつもりは無いらしい。分かってはいたけれど、少しだけ口惜しい。

明後日で、佐藤聖の研修期間だった二週間が終わる。正直言ってほんの少しだけ、寂しい。

あんな風に僕に命令出来る教師なんて、後にも先にも彼女ぐらいだろうから。それが少しだけ、心地よかったんだ。

「寂しくなるなぁ・・・」

思わず漏れた声に、瞳子が微笑んだ。

「嫌ですわ、お兄様ったら」

「ところで、お前はもう決めたのか?あの話・・・」

「ええ、たった今決めました。だからお兄様?あまり寂しがらないでくださいね?」

瞳子の顔を見て僕は理解した。そうか・・・ポツリと呟いた声が木枯らしにさらわれる。

見上げた桜の木は、まだ咲かない蕾を今年も沢山つけていた。


第七十七話『終わりの日〜英語教師の場合〜』


何も言わずに出て行くつもりだった。

とかこんな事言ったら何か凄い展開とか期待しそうになるけど、実際は全然違う。

長かった・・・すっごく長かった二週間の研修が終わったってだけの話だ。朝、学校についた私をドリルちゃんが呼び止めた。

「聖さま、お待ちになってください。

今日終わってから親睦会も兼ねて聖さまのお別れ会をしようって話なんで、絶対に帰らないでくださいね!」

「は?そんな話私聞いてないけど」

「ええ、だから今言ったんですわ。これは研修期間に入ってるそうなので、強制参加ですわよ」

ちょっと待ってよ・・・私の都合はどうなるのよ?ていうか、私は今晩祐巳ちゃんとささやかだけどパーティーを・・・。

そこへ柏木がやってきた。ああ・・・今日で終わるんだ。

やっとコイツの顔見なくてすむんだ。そんな事考えると思わず笑顔すら漏れそうになる。

「やあ、おはよう。相変わらず二分遅刻だよ」

ハッ、毎朝毎朝よくもうまぁ、そんな同じことばっかり言えるわよね。ほんと、感心するわ。

私は二人の間をすり抜け歩き出すと、振り返り言った。

「その話、聞かなかった事にするわ。だから行かない」

私の言葉にドリルちゃんが駆け寄って来て私の袖を掴んだ。思わず私はビクンと身体を強張らせてしまう。

気づかれないようにさりげなくその手をすり抜けた私を咎めるような目で見つめてくるドリルちゃん。

「ダメです!ちゃんと出てください。最後ぐらい教師達と交流を図ってもバチはあたりませんわ」

「悪いけど、先約があるの。そもそもそんな話突然言われてもね、もっと早くから教えておいてくれればよかったのに」

そしたら無理やり用事詰め込んで絶対行かないから。私はそんな言葉を飲み込んだ。

足早に通り過ぎる私の足元を枯葉が通り抜ける。風は少しづつ温かくなってくる。春はもう、すぐそこまで来てるんだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

授業の終わりに、一人の少年が立ち上がり一礼をしてくれた。その途端に大きな拍手。

「佐藤先生、二週間お疲れ様でした。それと、ありがとうございました。先生の話、凄く面白かったです!」

「はは、他の先生には秘密だからね」

私の言葉に皆笑って頷いてくれた。実を言うと、私は授業中の会話はほとんど英語で話すようにしてた。

特に他の先生に漏れたらマズイ話や、祐巳ちゃんを始め今まで付き合ってた人の話をする時は。

だから皆必死で英語を勉強してたのかもしれない、なんて今は思う。

だから、実を言うと生徒は皆知ってた訳だ。私が同性愛者だって事を。

そもそも私、一番初めの授業の前にカミングアウトしてたから。つまり、知らなかったのは教師達だけだったって訳。

「あんた達はもうちょっとで大学生になるけど、くれぐれも言っとく。

私や柏木みたいな大人にだけはならないようにね。まぁ、幸せだけど」

「ノロケですかー?」

「まあね。それじゃあ、二週間ありがとう。お疲れ様」

「ありがとうごいましたっ!」

「こちらこそありがとね。それじゃあ、皆元気で」

そう言って教室を出るときの空気が私はあまり好きじゃない。また明日、なんてもう言えないのだから。

花寺の生徒と別れるのが辛いわけじゃない。今までどこの学校に行ってもこの瞬間が一番辛かった。

たったほんの少しの時間しか居なかったとしても、彼らは私の生徒だったのだから。

『聖さまはほんと、生徒思いですよね!私、聖さまのそういう所凄く素敵だと思いますよ!』

付き合う前、祐巳ちゃんは私が生徒の話をしているとそんな風に言ってくれた。それがどんなに嬉しかったか。

恥ずかしい反面、ちゃんと見てくれていたんだって思うと、嬉しくて泣きそうだった。

普段はあんまりそういうの見せないし、もし気づいててもあまりそういう事誰も言ってくれない。

「・・・私も褒められなきゃ出来ないタイプなんだよな・・・」

ポツリと呟いた声が冷たい校舎の壁に吸い込まれてゆく。こことも、もうこれでお別れか。

そんな事考えると何だか妙にセンチメンタルになってしまうから、私は出来るだけ何も考えないように歩いた。

あの柏木に渡したリスト。あれは毎晩私が祐巳ちゃんと一緒に考えて書き出したもの。

大切にしてくれるといいけど・・・あいつだからなぁ・・・案外すでにゴミ箱とかの中に入ってるかもしれない。

それは切ないな・・・何時間もかけたのに。まぁでも、少しは役に立つだろ、きっと。

サヨナラ、私の二週間だけの生徒達。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

職員会議が終わると、柏木がにこやかに私に近寄ってきた。

「なによ、気持ち悪い」

「失礼だな、君は。二週間お疲れ様。君は本当にいい教師だよ。

そこで相談なんだが、やっぱり今日君のお別れ会をしたいんだけど君も・・・」

私は最後まで柏木の言葉を聞かなかった。だって、聞く必要ないでしょ。

実りある教育実習だったと、祐巳ちゃんに一番に報告しなきゃならないんだもの。

祐巳ちゃんは毎晩毎晩私の話を楽しそうに聞いてくれていたんだもの。

「悪いけど、今朝の話なんて私は聞いてないよ。だから私はいつも通りこれで帰る。それじゃあね、ごきげんよう」

「そんなっ!少しくらい他の教師達に歩み寄ってみようとは思わないのかい?」

「これっぽっちも思わないね」

誰が思うもんですか。私の手はね、もう一杯なの。これ以上何かに繋がりたいとは思わないのよ。

リリアンの仲間たち、祐巳ちゃん、少しの友人、それだけで十分。それ以外には何も要らない。

そんな私の言葉に、柏木は苦く笑った。

「相変わらず君は・・・全く、本当に・・・」

「私の事よく知ってるあんたはこれ以上強引に私を引き止めたりはしないよね?」

「・・・ああ、そうだね。さっさと逃がす事にするよ」

そう言って柏木は一歩後ろへ下がった。私はその横をすり抜けるように職員室を後にした。

サヨナラ、花寺の職員室。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

校舎を見渡しながらのんびり歩いていると、目の前にドリルちゃんが現れた。

咎めるような目つきは少しだけ祐巳ちゃんを思わせる。

「なに?」

「別に。ただ、今日の飲み会はやっぱりサボるんですか?」

「まあね」

だって、別に行く必要もないし。誰かと仲良くなりたい訳でもない。

適当に返事して通り過ぎようとした私の目の前を、ドリルちゃんは通せんぼするみたいに両手を広げて遮った。

「今度はなに?」

「リリアンは、楽しいですか?」

「はあ?それ聞いてどうすんの?」

私の問いにドリルちゃんは唇を噛んだ。言おうかどうしようか迷ってるみたい。

「今後の参考に一応聞いておこうと思っただけです」

「ふーん。まあ別にいいけど。そうねぇ、ここよりは楽しいわ。皆顔見知りだしね」

私の事もよく知ってる。こんな私でも仲間だと思ってくれるもの、少なくともここよりは。

どんなにつっけんどんな態度で居てもそれを許してくれる素晴らしいとこだ。

ドリルちゃんはさっきから全く顔色を変えず、じっと私を見上げている。はっきり言って・・・何考えてんのか全然分かんない。

人間が皆祐巳ちゃんぐらい分かりやすかったらいいのに、とさえ思う。

まぁでも・・・それは私も同じか。私はこの学校で多分ただの一度も笑わなかった。だからお互い様なのかもしれない。

苦笑いは何度もしたけどね。ていうか・・・いい加減道開けてよ・・・私、帰りたいんだけど・・・。

「最後にもう一つだけ、いいでしょうか?」

「・・・どうぞ?」

「あの時・・・花寺に誘われた時、断った理由教えてくださいましたよね?」

「そうだっけ?」

覚えてないよ、そんな前の事・・・理由なんて教えたっけ?ヤバイ・・・全然記憶にない。

これはアレだ。よく言う10年前の事は覚えてるのに昨日の事は覚えてないって奴だ、きっと。ああ、私も歳なんだなぁ・・・。

そんなトンチンカンな事考えてた私にドリルちゃんは言う。

「教えてくださいましたよ。一つ目は女の子が居ないから、二つ目が職員室の雰囲気が好きじゃないから。

三つ目がどこで昼寝しててもうるさいのがついてくるから。それから四つ目は規則が多い。そう仰いましたよね?」

ああ!そう言えば言ったな、そんな事。思い出した思い出した。でも、なに?突然そんな話蒸し返して。

多分、私は怪訝そうな顔してたんじゃないかな。ドリルちゃんはさらに目つきを鋭くして言った。

「ずっと気になってたんです。後一つ、最後の一番重要なことって何だったんですか?それとも、やっぱり内緒ですか?」

最後の、一番重要な理由・・・それは、ここには祐巳ちゃんが居ないから、だった。それは今も変わらない。

ここには祐巳ちゃんが居ない。私はもう、あの寂しそうな後姿を見るのは嫌だったんだ。

それに何よりも毎晩毎晩祐巳ちゃんの楽しそうな・・・でも、どこか哀しそうな顔しながら話すリリアンの童話はもう聞きたくない。

だって、そこには私が・・・登場しない。それは私もそうだった。私の航海日誌はずっと船長一人きりで、

乗組員も居なければ愛する人も居なくて・・・たった一人で出た船旅なんて、楽しい訳もない。

だから私は言った。ドリルちゃんになら教えても別に構わないだろう。この子は祥子の妹なんだし、別に黙っておく必要もない。

「最後の一つはね、ここには彼女が居ないから。納得した?」

「何ですか・・・それ・・・」

「だって、ここには祐巳ちゃん居ないじゃない。あんな素敵な保健医の居ないとこでなんて、働けないよ」

本当に、素敵で可愛い私の保健医。私だけの・・・って訳にはいかないけど、ね。

私の言葉にドリルちゃんは首を傾げた。その仕草が凄く祐巳ちゃんに似てて、思わず笑ってしまった。

思わず笑った私の顔を見て、ドリルちゃんは驚いたようだった。そりゃそうだよね。

多分この子の印象の中で私が笑った事なんてなかっただろうから。私は呆けてるドリルちゃんの横をゆっくりと通り過ぎた。

「じゃあね、元気で。ドリルちゃん」

そのついでにドリルちゃんの頭をポンと叩くと、ドリルちゃんの怒鳴り声が後ろから聞こえてくる。

「松平瞳子ですっ!!一体いついなったら覚えてくださるんですかっ!!それと・・・聖さまもお元気でっ!」

「バイバイ」

そう言って片手だけ挙げた私はもう二度と振り返らなかった。そして心の中で呟く。君は一生私の中でドリルちゃんだよ、と。

もちろん親しみを込めて、ね。唯一この学校で彼女だけが私の世話を焼いてくれたから。

サヨナラ、花寺学院。ありがとう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

車に乗り込んだ私はその足でリリアンに向う。いつもよりほんの少しだけ早くついてしまうかもしれない。

でも、きっと祐巳ちゃんならすぐに気づいてくれるはず。

やっとだよ・・・祐巳ちゃん。長かったよ、祐巳ちゃん。でも、もう少しでまた一緒に通えるよ。

そしたらさ、今まで以上に保健室に入り浸っちゃうかもしれない。そんな私でも・・・許してね?


第七十八話『終わりの日〜保健医の場合〜』


朝、聖さまと別れてまだ一時間しか経ってない。この二週間ずっとこんな調子。

全然時間が進まなくて、もしかしてこのまま時間が止まっちゃうんじゃないの?って思うほど。

「はぁぁぁ・・・一日が長いよぉ〜・・・」

保健室の机の上に顎を乗せそんな事呟く私を笑ったのは、たまたま一時間目から保健室に来てた一人の生徒だった。

「佐藤先生が居ないから?」

生意気にもそんな事言ってくれる。まぁ、図星だから私は頷いた。これじゃあどっちが生徒か分からない。

「元気だしなよ〜。それも今日で終わりなんでしょ?」

「まぁねぇ〜・・・そうなんだけどさ〜・・・何か、今日が一番長そうよね・・・」

生徒が教師の恋愛相談に乗ってくれるのってどうなんだろう?こんな学校きっとあんまり無いよね。

そんな事考えるとおかしかった。いつもならそのベッドには聖さまが寝てる。

もしくはこのソファに座って本読んでるか、お茶してるのに・・・この二週間はそれが無い。

他の皆が来てくれたりするけど、でも聖さまじゃない・・・やだ・・・何だか泣きそう。

「でもさ、確かに佐藤先生って存在感あるよね。いい加減私も佐藤先生に会いたいよ」

あの顔が見たい〜!そんな事言って溜息を落とす少女。聖さまってば、人気者じゃない。いや、知ってたけどさ。

そうだよね。まだ私なんて家で聖さまに会えるんだもん。それだけでも良しとしなきゃだよね。

もし私たちが一緒に住んでなかったら・・・そんな事考えると凄く切ない。良かった・・・本当に良かった・・・一緒に住んでて。

「そうだよね。私よりも皆の方がきっと聖さまに会いたいよね?」

私の言葉に少女は笑った。屈託の無い笑みに、私は自分が恥ずかしかった。たった二週間なのに、何弱気になってるのよ!

しかも生徒にまで愚痴って!!私、最低じゃない!!ダメだ、ちゃんとしないと。しっかりしないと!

「お?祐巳ちゃんセンセーの顔色が変わった。何か思いついた?」

「違うのっ!私も頑張らなきゃだよねっ!今まで以上に頑張るわっ!」

こぶしを胸の前で握る私に少女は笑った。

「いや、いいよ、祐巳ちゃんセンセーそれ以上頑張らなくても」

「どうして?先生が元気な方が皆も嬉しいでしょ?」

「んー・・・何ていうか、祐巳ちゃんセンセーが張り切るとどうも空回りするんだよね。だから普通で・・・フツーで居てください」

「ひどーい!もう、聖さまみたいな事言うんだから」

ほんと、憎たらしいなぁ、もう!私そんなに空回りばっかりしてる?ていうか、そんなにドン臭い?

生徒にまで言われるなんて・・・ちょっと落ち込んじゃうわ・・・。ガックリとうな垂れる私に少女は言った。

「うん、佐藤先生なんら何て言うかなって考えてみた。どう?当たってるでしょ?」

「う・・・」

私の威厳って一体・・・いや、そんなもの初めから無いのかもね。いいよ、もう。お友達みたいな可愛い保健医さん目指すから。

皆が憧れるような先生にはなれなくても、お友達のような先生にはなれるだろう・・・きっと。ね?聖さま?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お昼時、聖さまの代わりに志摩子さんと由乃さんがやってきてくれた。珍しく乃梨子ちゃんは居ない。

何でも、乃梨子ちゃんはここに来る途中運悪く(?)江利子さまにとっ捕まってしまったらしい。

というわけで、今何故か乃梨子ちゃんは蓉子さまと江利子さまという伝説の三薔薇のうちの二人に囲まれて、

気まずい思いをしながらお昼を食べてる訳だ。・・・可哀想に。きっとご飯の味もしないんでしょうね・・・。

「あら、乃梨子はそんな事ぐらいではひるまなくてよ?」

「お!志摩子さん言い切るねぇ〜」

由乃さんは学食でテイクアウトしてきたきつねうどんのアゲを細かく切りながらまるで江戸っ子みたいな口調で言った。

志摩子さんはそれを聞いてちょっとだけ恥ずかしそうに笑う。

「だって、乃梨子は強いもの」

ふむ、なるほど。確かに乃梨子ちゃんはそういうのに対しては強そうだよね。

どんなにあの二人に弄られてもクールに受け流すんだろうな。そう考えると乃梨子ちゃんってかなりの度胸の持ち主だ。

そもそも江利子さまにお昼に誘われて一人でついていくあたりからして、既にその片鱗は見えるけど。

「ていうかさ、聖さま今日で終わりだっけ?研修」

「うん、そうなの。休み明けからまたリリアンに戻ってくるよ」

「そうなの・・・やっとリリアンらしくなるのね・・・」

志摩子さんはそう言って寂しげに微笑んだ。由乃さんもどこか寂しそう。こんな時改めて思う。

聖さまって、本当に皆に慕われてるんだって。いや、多分聖さまだけじゃない。

他の誰が行ってもきっと、皆こんな風に言うんだ。

何だか・・・いいなぁ・・・私がもし聖さまみたいにどこかに一ヶ月ぐらい研修とか行ったら、皆こんな風に言ってくれるのかな?

いや〜どうだろうなぁ〜・・・微妙だなぁ・・・だって、私ドジばっかり踏んでるから。

もしかすると私が居ない方がリリアンは平和かもしれない。何だかそんな気がします・・・聖さま・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

職員会議はいつもよりも長引いた。こんな日に限って会議ってのは長引くんだよね・・・なんでだろ?

ああ、聖さま・・・早く会いたいよ・・・。昨日までも毎日ちゃんと迎えに来てくれてた。でも、今日は気持ちが少し違う。

また明日も別々なんだ・・・そんな事考えながら車に乗るのは、もう今日で終わりなんだ。

来週からはもう私一人で門をくぐらなくていいんだっ!そんな風に考えると、今日という日はあっという間に特別になる。

二週間の間不在だった女好きの英語教師の存在は意外に大きくて、皆どこか元気がなかった。

「さて、今日で聖の研修が終わります。また来週からうるさいのが戻ってきます。一応、報告までに」

蓉子さまがそんな事言って私に小さくウインクする。私は自分の頬が赤くなるのを感じた。

そんな私に気づかない由乃さんが、はい!と手を挙げて言う。

「聖さまと言えば、花寺の引き抜きの件はどうなったんですか?」

由乃さんの質問に私と蓉子さまは思わず顔を見合わせた。どうやら、お互いが話しているものだと思い込んでいたらしい。

皆は皆で私たちが何も言わないものだから、てっきり聖さまが引き受けたと思っていたようで・・・。

苦笑いしながら蓉子さまは言う。

「あー、あれはね、聖が勝手に断ったみたいよ。だからあの話は無しって事ね」

蓉子さまがそう言った途端、歓声があがった。どうやら皆本気で心配してたみたい。何だか皆に悪いことしちゃった。

「とにかく!来週からまた賑やかになると思うけど、気だけは引き締めてね。もうすぐ受験もありますから」

そう言って蓉子さまは会議を締めくくった。と・・・ふと、窓の外によく知ってる車を見た気がした。

私はガタンと勢いよく立ち上がり、椅子がその場に転がったのにも気づかず走り出していて・・・。

「ゆ、祐巳ちゃん!?どうしたのっ!!」

「「祐巳さんっ?!」」

蓉子さまと志摩子さんと由乃さんの声が後から追いかけてくるけど、そんな事にかまっていられなかった。

気のせいかもしれない。もしかしたらいつものただの妄想かもしれない。だって、聖さまは終わったら必ず電話をくれるもの。

でも、今日は電話が無い。最終日だから遅くなったのかもしれない。その可能性の方がずっと高い。

それなのに、私は走り出していた。銀杏並木を真っ直ぐに・・・門に向って・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

辺りは薄暗くて、もうすぐ闇にのまれてしまいそう。それでも、どうしてかな・・・聖さまの周りだけはいつだって光って見えた。

こんな事聖さまに言ったら、っきっと笑われるんだろうな。んな訳ないでしょ?って。でもね、本当なんだ。

いつだって聖さまの周りだけは光って見えるんですよ。自分でも不思議だけど。

だから今もすぐに分かった。やっぱり、さっきの一瞬見えたあの車は、見間違いなんかじゃなかった。

門をくぐってゆっくりとこちらに向って歩いてくるのは、間違いなく聖さまだ・・・やっと・・・終わるんだ。

私は恥ずかしげもなく叫んだ。聖さまに聞こえるように、大きな声で。

「せ・・・さま・・・聖さまぁ!!」

「祐巳ちゃんっ?!どうして?驚かせようと思ったのに」

聖さまが珍しく驚いた。あと数メートル・・・私が手を伸ばすと、聖さまにもう少しで触れそう・・・そんな距離。

「だって、光ってましたからっ!」

「はあ?」

勢いよく抱きついた私を、聖さまはしっかりと抱きとめてくれた。それから私の答えに不思議そうな顔をする。

だから私は聖さまを見上げてもう一度言った。

「だってね、聖さまが光って見えたんですよ!」

そんな私の言葉に聖さまは苦く笑ってポツリと呟く。

「・・・私は蛍か。それよりも、今日は随分遅くまで会議してたんだね?」

「ええ、ちょうど終わったところだったんです。それに、聖さまの話してたとこだったんですよ」

「ふーん。誰も私の悪口言ってなかった?特に蓉子とか、蓉子とか、蓉子とか」

聖さまは、蓉子とか、って三回繰り返した。相当普段の事根に持ってるんだ、聖さま・・・。何だかそれがおかしい。

「いいえ?むしろ皆さん喜んでましたよ!聖さまが戻ってくるって」

「・・・そりゃ嘘でしょ、特に蓉子は・・・言ったとしても絶対本心じゃないね。賭けてもいいよ?」

「いいですよ?なに賭けます?」

私の答えに、聖さまは少し不安げな顔をして言った。

「えっ?そ、そうね・・・じゃあ10円ぐらいにしとこうかな・・・」

全く。意外に根性ないんだから。でも、それでもいいよ。全然いいよ。私はそっと聖さまの手に自分の手を重ねた。

すると、それに気づいた聖さまが重ねた手の平からそのまま指を絡ませてくる。

闇はすぐそこまで追ってきてるのに、少しも怖くない。

隣を見上げて微笑むと、聖さまもまた同じこと考えてたみたいに笑い返してくれる。

「聖さま!二週間お疲れ様でした!」

「ほんとだよ。もう二度とごめんだわ」

そんな事言いながら歩く聖さまの後姿を半歩遅れで眺めていた。今朝までは私がこうやって後姿を見せていたんだ。

私は聖さまの隣に並ぶと、手を引いて無理やり歩みを止めた。

振り返った聖さまの頬にキスすると、聖さまは一瞬驚いたように目をまるくする。でも、すぐに意地悪に笑って・・・。

キスされた。しかも口に。

「どうせならこれぐらいしてほしかったなぁ〜」

「ば・・・ばか・・・」

外じゃ絶対イチャつきたがらない聖さまの見せた、意外な一面だった。

それだけ聖さまも私を想ってくれてた?ねぇ、そう思っても・・・いい?

あはは、って声出して笑う聖さま。やがて昇降口に辿り着いた私たちは繋いだ手を解き靴を履き替える。

いつもの動作、いつもの下駄箱。ようやく、福神漬けが戻ってきたんだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

外はもう真っ暗だった。聖さまがまるで二週間も留守してたことなんて忘れたみたいに職員室のドアを開ける。

「ただいま〜」

戻ってきた聖さまの顔を見て、皆物凄い笑顔で口々に聖さまにお帰りなさいを言った。

「いや〜疲れたよ〜・・・あ、コーヒーいれて?祐巳ちゃん」

「・・・はいっ!」

私の斜め向かいの席、そこが聖さまの席。聖さまのマグカップはインスタントコーヒーのおまけについてた真っ黒の奴。

リリアンに来た時、一番初めに覚えたマグカップ(聖さまに一番こき使われたの)。今となっては懐かしい思い出。

コーヒーを入れて戻ってくると、誰も帰らず自分の席に座って談笑していた。その光景は、まるでお昼の職員室のよう。

外は真っ暗なのに、その事にすら気づかないようなそんな感じ。ここだけが時間が止まったようなそんな錯覚。

「はい、どうぞ」

「さ〜んきゅ」

私はマグカップを聖さまに手渡し自分の席についた瞬間、聖さまと目が合った。でも、何も言葉は交わさなかった。

視線だけが絡まって・・・どちらともなく笑顔が零れる。

生徒の居ない学校は教師の為にある。親御さんから苦情の電話がかかってきた時意外は。

その短いほんの少しの時間を、皆は楽しみにしてる。

とりとめの無い話も、思い出話も、皆この時だけは学生に戻るのかもしれない。学校という、この大きな箱の中で・・・。

「とりあえず・・・」

聖さまが言った。どうやら締めの言葉を考えているよう。皆もそれを待っている。私が顔を挙げると、聖さまは微笑んだ。

そして、皆にもにっこり笑って言う。

「来週からまたよろしく」

聖さまのホッとしたような笑顔。ねぇ、聖さま?あなたがここに居ないなんて、そんなの・・・ありえません。

私は、そう思います。そして、多分皆も。だから、もうどこへも・・・行かないでくださいね!

私は大きく伸びをして窓を開けた。冷たい風が職員室に流れ込んでくる。でも、その風は微かに暖かい。


もうすぐ春がやって来る。今はまだ寒いけど、すぐそこまで・・・春はやってきてる・・・。







学園!マリみて教師物語  中編2