「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

毎日の挨拶がやっと板についてきた感じが最近しないでもない。

相変わらず何も変わらない日々、加速するドキドキ・・・。もうどうにかしてほしい。

ほんのちょっとした仕草にドキドキしっぱなしで、近いうちどっか悪くして入院!とか、そんなハメにならなきゃいいんだけど。

まぁ、何はともあれ、私の恋は未だ現状維持って事で・・・。




第三十八話『過労?ストレス?ただの風邪??』




「ねぇ祐巳ちゃん、今朝聖に会った?」

突然朝一で蓉子さまにそんな風に聞かれた。もちろん今朝は誰にも会っていない。

天気があまりにも良かったから、いつもよりも少し早めに家を出たのだ。

「いいえ、会ってませんけど・・・どうかされたんですか?」

まだ朝の集会も始まっていない。なにしろ聖さまは遅刻の常習犯だし、別におかしなこともないと思うんだけど。

「それがね・・・電話に出ないのよ・・・」

「電話・・・ですか?」

「そう。聖から聞いてない?あのバカ朝起きれないからもうかれこれ半年ほど私が毎朝モーニングコールしてるのよ」

・ ・・は!?

モ、モーニングコール・・・ですと!?な、何て羨ましい!いや、違う!何てわがままなっ!!

いくら親友とはいえ、理事長さんにそんな事を頼むなんて!

ていうか、言ってくれれば家が隣なんだから起こしてあげるのに・・・。

いや、もしかすると私はそこまでは信用ないのかも・・・。やだやだ!そんな事考えさせないでよ、悲しくなるじゃない!!

「えと・・・で、今朝はそのモーニングコールに出ない・・・と、そういう事ですか?」

私は自分のそんな気持ちを否定するように話を続けた。

蓉子さまは困ったように頬に手を当て、首を傾げ小さく頷いた。ていうかさ、電話ぐらいで起きるのかな?あの人・・・。

「今まではどうしてたんです?その、蓉子さまがモーニングコールをする前は。

噂によれば毎日ちゃんと来てたそうじゃないですか」

そうなんだよね。聖さまが遅刻するようになったのって、この半年ほどの事らしいんだよね・・・。

まぁ、それよりもっと前の事は知らないんだけどさ。

「ああ、それはほら、栞さんと一緒に暮らしてたからね、彼女」

「そ、そうなんですか!?」

「ええ。聖から聞いてないの?ちょうど今の祐巳ちゃんの部屋でね、二人で住んでたのよ。

でも、それも三ヶ月ぐらいの話だけどね。だから聖はその三ヶ月間は一度も遅刻しなかったのよ。

はぁぁ・・・また誰かアイツと住んでくれないかしら・・・ごめんなさいね、祐巳ちゃん。朝から変な事聞いて」

蓉子さまはそう言って理事長室に戻って行った。私はというと・・・その場に立ち尽くしたまま、動くことが出来ないでいた。

そっか・・・だから聖さまはあんなにも私の部屋の事詳しかったんだ・・・。

そしてきっと聖さまは今も栞さんを愛してるに違いない。だって、でなきゃ寝ぼけてウチにくるわけないし・・・。

なんだ・・・そっか・・・なーんだ・・・。

私はトボトボと自分の席に戻った。朝の朝礼が始まっていたけれど、なーんにも聞こえてこなかった。

それにしてもこれって、すごく変な感情。告白した訳でもないのに、振られちゃったみたいな、そんな感じ。

ショックなんだけど、妙にスッキリもしてる。切ないんだけど、悲しくはない、みたいな。

どちらかといえば、聖さまが栞さんとよりを戻せればいいのに、とさえ思ってる自分がいる。

そうすれば聖さまはきっと幸せになれるに違いないのに・・・。こんな風に考える私って・・・何てバカなんだろう。

自分の幸せよりも聖さまの幸せを考えるなんて。なんていうか、積極性に欠けてるよなぁ。

そっと見てるだけでも幸せだったんだ。聖さまの事。笑っていてくれれば、それで良かったんだ。

結局今日一日はどうやって過ごしたのか、自分でも分からなかった。気がついたら学校は終わっていて、聖さまは来なくて。

そういえば今日は近所のスーパーで安売りのチラシが入ってたのを思い出して慌ててスーパーに行って・・・。

いつもと何にも変わらない一日。でも、いつもよりもほんの少しだけ寂しい一日が過ぎてゆこうとしてた。

「あ、これ・・・聖さまの好きなやつだ・・・」

お菓子コーナーで立ち止まった私は、無意識に聖さまのお気に入りのお菓子をカゴに入れていた。

レジでお会計を済ましている時にそんな事に気づいて、もう苦笑いするしかなかった。

習慣って怖いなぁ・・・と。買い物袋に買い貯めた食材とか調味料とかを入れてると、携帯が鳴った。

「もしもし?」

『あ、もしもし祐巳ちゃん?私よ、蓉子』

「はい、どうされましたか?」

『あのね、悪いんだけど、聖の様子見て来てもらえないかしら?』

えー・・・内心そう思ったけど、やっぱり少し心配だったから私はそれを了承した。

だって、やっぱり無断欠勤はよくないよ!それに体調崩してて電話に出ることすら出来ないのかもだし。

「わかりましたー。行ってみます」

『ええ、お願い。朝からほんとにごめんね?』

「いえ、大丈夫ですよ!それじゃあまた連絡しますね」

そう言って電話を切った。これで今日は聖さまに会える口実が出来たわけだ。

ここ二〜三日聖さまは職員室で会っても挨拶一つしてくれないし、保健室にも来ないし、晩御飯も集りにこなかった。

どうしたんだろう?とは思ってたんだけど、わざわざこっちから訪ねていく理由もないし、

三日振りにようやく会えるんだと思うと、すごく嬉しかった。

ホント、心って単純。落ち込んだり急に元気になったり。忙しいったらありゃしない。

「でも・・・どうしちゃったんだろう・・・急に・・・」

それに、大丈夫かな・・・。まさか本当に倒れてたりしないよね!?

ヤバイヤバイ!ありえるよっ!!だって、聖さまだもん!!絶対健康管理とかやってないよ!!!!

「早く帰ろ・・・」

気がつけば私は駆け出していた。マンションの前の心臓破りの坂も一気に駆け上がった。どうってことなかった。

そんな事よりも聖さまが心配でしょうがなかったのだ。

まず荷物を自分の部屋に放り込んで、聖さまのお気に入りのお菓子だけを持って、勢いよく聖さまの家のドアを叩いた。

だって、電話でも起きないんだからインターホンじゃ出る訳ないと思ったんだもの。

そしたら案の定、聖さまは出て来なかった。電話をしてもやっぱり出ない・・・どうしよう・・・まさか本当に倒れてたり・・・?

「ヤダ・・・止めてよ・・・そんな事でニュースとかに出たくないよ・・・」

私は何とも的外れな事を考えながら聖さまの家のドアをがむしゃらに叩いた。

近所から迷惑がられようが、もうそんなものどうだっていい。とりあえず聖さまが無事かどうかだけでも確認しなきゃ!!

三回目にドアを叩いたところで、ようやく中から微かな物音がした。

そして、ガチャリと鍵が開く音がする。

普段なら私はきちんとドアを開けてくれるまで待つんだけど、今日ばっかりはそうはいかなかった。

ガチャン!!

「せ、聖さま!!??生きてますかっっ!!!???」

私はドアを勢いよく開け、刑事ドラマさながら家の中に踏み込んだ・・・けれど誰も居ない・・・。

あ・・・あれ・・・?聖さま・・・??

「・・・祐巳・・・ちゃん・・・ちょっと・・・そこ、どいて・・・ゴホッ」

「へ!?」

私は声のする方を見て慌てて後ずさった。ヤ・・・ヤバイ・・・もしかして思い切り・・・踏んじゃった・・・?

ていうか・・・なんでそんなとこで倒れてんの???

「ご、ごめんなさいっっ!!だ、大丈夫ですか!?」

「大丈夫そうに見える・・・?」

聖さまはヨロヨロと起き上がり、はぁ、と大きなため息を落とした。髪をかきあげチラリと流し目でこちらを見る。

「あ・・・あの・・・ごめんなさい・・・」

「いや、それより・・・一体何の用?」

「えっと・・・蓉子さまがすごく心配されてて、至急様子を見てこいと・・・言われまして・・・」

・ ・・嘘だ・・・本当は心配だったのは私の方なのに・・・。あーーーーー!!!もう!!どうして素直にそれが言えないのよっっ!

私の答えに聖さまは納得がいかないような顔をしてフンと鼻で笑うと言った。

「あっそ。なら蓉子が直接くればいいのに・・・ごめんね、無駄足踏ませて。それじゃ」

そう言って、私を追い出そうとする聖さま。

どうしてよ?そりゃ私も悪かったけどさ、どうしてこんなになりながら助けを求めないのよ!?仮にも私は保健医だってのに!!

聖さまはカーテンを閉め切った真っ暗な部屋の中で、今日一日ずっと一人で苦しんでいたのだろう。

そりゃ一人になりたいのかもしれないけどさ!だからってあんまりじゃない。何のために私が居るのよ!?

「聖さま!とりあえず熱、測りましょう。体温計はありますか?」

私の質問に聖さまはめんどくさそうな顔をする。いや、めんどくさそうというよりは、どちらかといえば鬱陶しそう・・・。

「とりあえず上がらせてもらってもいいですか?」

「ダメ」

私は目を丸くした。聖さまって、いつもは絶対こんな風に言わない。

ちゃんと理由を言って否定するのに・・・やっぱり相当疲れてるんだろうか・・・。

「何言ってんですか!でないと看病出来ないでしょ?」

「だから、そっとしておいてよ。大丈夫だから」

「何が大丈夫なんですか!?そんな赤い顔して!!バカ言ってないで入りますよ!?」

「だから嫌だってば!家に人を上げるの嫌いなの!!」

はぁ!?何言って・・・栞さんと暮らしてたくせに・・・不意にそんな事が脳裏を過ぎった。

いやいや、栞さんは今何にも関係ないじゃない・・・。それとも・・・やっぱり私悔しいのかな?栞さんに嫉妬してるのかな?

「・・・そうですか。じゃあ誰なら入れるんですか!?私その人連れてきます!!栞さんですか!!??」

・ ・・しまった・・・これって・・・きっとタブー・・・だよね・・・。私・・・やっぱり栞さんに嫉妬してるんだ・・・。

私の言葉に聖さまの顔は凍りついた。

けれど、傷ついてるって感じではない。それどころか、唇の端に薄ら笑いすら浮かべて・・・。

「残念だけど・・・そんな人いないよ。栞ですら私の部屋に入った事ないんだから」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

そう・・・なんだ・・・でも、どうして・・・。きっと、私の顔に全て書いてあったんだろう。昔からよくそう言われるから。

「何ていうか、自分のテリトリーに入られるのが嫌いなの。別に変な趣味があるとかそういう訳じゃないからね。

そんな事より・・・もう、いいでしょ・・・?立ってるのも結構辛いんだけど・・・」

早く帰ってよ。そう言わんばかりの聖さまの態度に、私は多分ムカついたんだと思う。

だから意地でも聖さまの看病をしてやるって決めた。

「・・・わかりました。じゃあ聖さまの家には上がりません。でも看病はします。いいですね?」

「はぁ?」

「聖さまが今からウチに来ればいいんです。

そうすれば私はつきっきりで見ていられますから!いいですか?これは決定です!!」

何て名案!!私最高!!でも、聖さまはやっぱりお気に召さないようだ。苦虫をつぶしたみたいな顔をしている。

「何言って・・・気でも狂ったの?」

「いいえ、至って正気ですとも。私嫌なんです。そういうの無視するの。一度関わったからには最後まで関わりたいんです。

なんていうか・・・無関係だとは・・・思いたくないんです・・・少しでも・・・誰かの・・・聖さまの役に立ちたいんです・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「だから・・・お願いします。聖さまを・・・看病させてください・・・でないと、心配できっと私今夜眠れません・・・」

ヤダ・・・どうして涙が出るんだろ・・・拒絶されたのがそんなに悲しかったのかな・・・それとも、実は相当心配だったのかな・・・。

うぅ・・・目が潤んで前が見えないぃ〜。

そんな私に動揺したのは、私よりも聖さまの方だった。

「ど、どうして祐巳ちゃんが泣くのよ?分かった・・・分かったから・・・ちょっと待ってて・・・」

聖さまはそう言って私をそこに残しフラフラした足取りで部屋の奥に消えた。

しばらくして戻ってきた聖さまの手には、携帯とウォークマンが握られている。

「じゃあ・・・看病は任せるわ・・・。

あーもー・・・だから出たくなかったのに・・・何もあんなにもドア叩かなくてもいいのにさ・・・壊れたらどうするのよ・・・ったく」

「・・・何か言いました?」

「いいえ、何にも」

ブツクサ文句を言いながらも、聖さまは大人しく私の後についてきた。

やっぱり体調は結構悪いみたいで、さっきからしきりに咳をしている。多分ただの風邪だとは思うんだけど・・・。

でもやっぱり風邪は万病の元って言うし、早めに治すにこしたことはない。

それに・・・きっと朝から何も食べていないだろうしね・・・この人のことだから・・・。

「聖さまは卵粥と普通のお粥どっちが好きですか?」

私の言葉に、聖さまはしかめていた顔を崩し、ほんの少しだけ微笑んだ。

「卵粥」

「りょーかい」

心を込めて作りますから、どうか明日には良くなってくださいね、聖さま!




第三十九話『嵐の前に』



今私は祐巳ちゃんのベッドの中でお気に入りの音楽を聴いていた。

祐巳ちゃんはさっきからずっとキッチンに引っ込んで、今はどうやらネギを刻んでいるようだ。

トントントンと懐かしいような音が耳に心地よく聞こえてくる。

私はそんな祐巳ちゃんの料理する背中を眺めながら、なんかいいなぁ、とか思っていた。

風邪を引いて体は酷くダルイのに、心は何だかとても穏やかで・・・。

たまに心配そうにこちらを振り向く祐巳ちゃんの顔は、私を凄く安心させた。

「聖さまー?気分とか悪くないですかー?」

「うん、へーき。それよりさぁ、この部屋暑くない?」

私の言葉に祐巳ちゃんはこちらを振り返って苦い笑みを浮かべ言った。

「それは聖さまが熱あるからですよ。そうやって汗一杯かいてしっかり食べて、お薬のんで寝てたら直治ります」

「クスリねぇ・・・昔はそんなもの飲まなくてもすぐに治ったのにな」

私がそう言うと祐巳ちゃんは小さく笑う。そして。

「それは聖さまが年とったって事なんじゃないんですか?」

なんて、失礼な事をサラっと言ってくれる。まぁいいけどさ、別に。今はもうとりあえずダルくてダルくて怒る気にもならないから。

私はゆっくりと目を閉じ、小さな深呼吸をした。そうすると何故か栞の顔が蘇ってくる。

そうだ、あれは一昨年の夏休み・・・私は今みたいに夕立に突然降られてびしょ濡れで帰った事があった。

案の定その晩熱を出して、栞との約束をすっぽかしたんだっけ・・・。

『聖?どうしたの・・・?何かあったの?』

心配そうな電話口の声・・・ガヤガヤと煩い喧騒・・・受話器から聞こえる車のクラクション・・・。

まるで陳腐な映画のワンシーンのようだった。

『うん、ちょっと風邪をね・・・引いたみたいで・・・』

私がそう言うと、栞は言った。

『大丈夫なの!?今から行きましょうか?』

『いや、いいよ。弱ってるところはあまり他人には見せたくないから』

私はそう言って栞の好意を踏みにじった。弱ってる時は、誰にも触れてほしくない。干渉されたくない。

たとえそれが、愛しい恋人であったならなおさらだった。

『そう・・・分かったわ。それじゃあ出かけるのはまた今度にしましょ。もし何かあったら、すぐに電話してね』

『ん、ありがとう』

そして私は電話を切った。ツーツーツー、電話の音がやけに大きく感じられた・・・。

あの時、本当は栞に来てほしかったのかもしれない。祐巳ちゃんのように、強引に私の傍に。

栞は私の心を尊重してくれていた、いつも。私の言葉を、その裏側までは読み取ろうとはしなかった。

それで良かったのだ。あの時は・・・。

けれど、心のどこかでは、もしかすると言葉の裏側を読んで欲しかったのかもしれない。

他人の心の中など、そう簡単には見えない事などよく知っている。だから人は人を誤解するのだ。

私も、栞も、いつの間にかすれ違って、修復出来ない所まで行ってしまった。

お互い心が離れていることを知っていながら、私たちは怖くてそれに向き合う事が出来なかったのだ・・・。

「せーいーさーま!寝ちゃいました?」

パッと目を開けると、祐巳ちゃんが私の顔を覗き込んでいる。

「うわ、びっくりした」

「ごめんなさい、とりあえずお粥が出来たんですけど・・・今食べられます?」

祐巳ちゃんはそう言って私の体を起こし、膝の上に熱々のお粥を乗せたお盆を置いて言った。

「・・・うん、ありがとう・・・」

熱々のお粥が、凄く恥ずかしくて・・・笑いたくもないはずなのに、何故か頬が緩んでしまう。

「どうしたんです?顔が笑ってますよ?」

「え・・・そ、そう?」

「ええ。何か楽しい事でも思い出してたんですか?」

「いや・・・特には。それよりもこれ・・・凄く熱そう・・・」

「熱いですよ、そりゃ。作りたてですもん。何ならふーふーして食べさせてあげましょうか?」

祐巳ちゃんはそう言っていたずらっぽく笑うと、クスリを取りに行ってしまった・・・。

多分何でもない祐巳ちゃんの言葉が私の心を揺する。私は顔が赤くなるのを熱すぎるお粥のせいにした。

私って・・・こんなにも恥ずかしがりやだったっけ・・・?それとも風邪引いてるからかな・・・。

祐巳ちゃんの親切が身に染みるとかそういうのではなくて、もっとこう・・・何と説明すればいいのかよく分からない。

クスリを探す必死の形相の祐巳ちゃんを、私はお粥を食べながら見ていた。

ほんのり味噌味で、ニラとネギが入っている祐巳ちゃん特製お粥は、割と美味しい・・・。

「駄目だ・・・聖さま!私ちょっとそこの薬局まで行ってきます!」

「どうして?クスリないの?」

「・・・はい・・・こないだ確かに買ったはずなんですけど・・・そんな訳で大人しく待っててくださいね!」

「え!?ちょ、ちょっと!こんな時間に一人で危ないってば!!」

「大丈夫ですよ、すぐそこですし・・・それに・・・」

「それに?」

「それに・・・聖さまには早く良くなってもらいたいですし・・・」

そう言って祐巳ちゃんは視線を伏せた。私の為にそこまでしなくても・・・そう言いたかったけれど、それは言えなかった。

「・・・ありがとう・・・」

「・・・はい」

そして祐巳ちゃんは私を置いて出て行ってしまった。けれど、やっぱりこんな時間に一人で出歩くのは危ないって!

気がついたら私は、ハンガーに掛けてあった祐巳ちゃんの小さいコートを羽織ると表に飛び出していた。

「あーもう、絶対風邪悪化するな・・・」

案の定私はそれから丸々二日、折角の休みを返上して寝込んでしまった。

けれど、その間一秒たりとも祐巳ちゃんは私の傍を離れる事はなくて、それが何だか凄く嬉しくて・・・。

「聖さま、まだ少し熱いですね」

祐巳ちゃんは私のおでこに手を当て、うーん、と難しい顔をしている。祐巳ちゃんの手は、とても冷たくて気持ちがいい。

「そう?一昨日に比べれば大分マシだよ?」

私はどうしてあの時、こんな風に栞に素直に甘える事が出来なかったんだろう。

一人で苦しんで、熱が下がるのをひたすら待って・・・あの暗い何もない部屋の中で、必死に何かに耐えるように・・・。

もしあの時栞に甘えたとして、栞は今の祐巳ちゃんのように一時も離れずに看病してくれただろうか?

それとも、ある程度私が良くなると帰ってしまっただろうか・・・。

「ねぇ祐巳ちゃん・・・わがまま・・・言っていい?」

「はい、何です?」

「アイスクリーム・・・食べたいな・・・」

私は素直に自分の気持ちを打ち明けた。こんな事ですら、あの時は言えなかった。

けれど、祐巳ちゃんになら言える。昔のように・・・子供のように甘える事が、祐巳ちゃんになら出来る。

祐巳ちゃんは私の言葉に小さく笑って言った。

「いいですよ、何味がいいですか?」

「えっとね・・・ソーダのやつがいい」

「・・・わかりました。買ってきますね。その代わり・・・私と半分こですからね」

「ん、ありがと・・・」

「いいえ、どういたしまして」

祐巳ちゃんの笑顔に、私は泣きたくなった。苦しかった。切なくて、どうしようもなくて・・・。

私って、案外チョロイんだと自分でも思った。これはまだまだ、嵐の前の静けさに違いない。




第四十話『嵐の前に セカンド』



私は押し黙ったまま祐巳ちゃんが買ってきてくれたアイスクリームを食べていた。

「美味しいですか?」

「・・・ん」

それだけしか言葉は出てこなくて祐巳ちゃんに不安そうな顔をされてしまった。

こんなにもふざけた感情を何て言えばいいんだろう。守りたい?いいや、違う。守られたい?それも違う。

何かを伝えたいんだけど、それをうまく言葉にすることが出来なくて私はイラついた。

昔こんな風に風邪を引いて熱を出したとき、私はただ単に意地をはったのだ。

素直になれなくて、弱っているところを見られたくなくて。けど、栞はそれをそのまま受け入れてくれる存在だった。

蓉子やお姉さまではそうはいかない。きっと無理やりにでも家に上がりこんで私の看病をしようとしただろう。

あの時私が欲しかったのは・・・そう、無関心だったのだ。誰にも構われたくなくて、だから栞と一緒に居た。

猫のように微笑む彼女はただ黙ってそこに座って私を見下ろしていた。私が激しい感情を彼女にぶちまけたその時でさえ。

でも、私が本当に欲しかったのはそんなものだったのだろうか?黙って人形のようにそこに居てくれるだけの存在なら、

例えば今私の隣に添い寝してる太った大きなクマだっていいはずなんだ。

でも、それとはまた違う。私の欲しいぬくもりはこのクマにはないし、多分、認めたくないけど栞にも無かったのだろう。

だから私は・・・いや、私たちの関係は終わりを告げたんだ。きっと。

今私が求めるものは今食べてるこのアイスクリームだとか、一日中つきっきりで面倒を見てくれる存在で、

あの頃のような孤独が欲しい訳ではなかった。

「歳のせいかな・・・」

突然の私の言葉に祐巳ちゃんはパチクリと瞬きをして大きく笑った。

「なかなか治らないのがですか?」

「んー・・・まぁね。そんなとこ」

「そりゃ一概には否定できませんねぇ。間違いなくそれも関係してると思いますよ」

「それじゃあ、こんなに寂しいのも歳のせい?」

私は素直に聞いた。祐巳ちゃんがどんな答えを用意するのか知りたかった。

「多分、そうですよ。何です?寂しいんですか?」

「わかんない。でも、寂しいんだと思う。だって、最近ずっと一人で寝てたし・・・」

「・・・なるほど。以前なら毎日恋人が一緒に寝てくれてた訳ですね?」

祐巳ちゃんの言葉にはさっき食べたアイスクリームよりもずっと冷たいものが含まれている。

「いや、まぁ・・・ねぇ?」

「それは歳のせいではないですよ。ただの寂しい病です。さっさと次の恋人を見つければたちどころに治りますよ。

ちなみに、私にはその病気は治せませんからね?あしからず!」

とうとう祐巳ちゃんはそこまで一気にまくしたてて最後にはプイとそっぽを向いてしまった。

どうして祐巳ちゃんが怒るんだろう・・・それがとても不思議だった。

だって、これじゃあまるで祐巳ちゃんが焼きもちを妬いているみたいに見えるじゃないか!

そんな事されたら私はきっとまた距離をとってしまうだろう。こんなにも心地よい関係を、きっと崩してしまう。

嫌だ。そんなのは絶対に嫌だ。正直、私はもう愛だの恋だの言うのはうんざりだった。

ただの一度だって報われたためしはないし、きっとこれからもそうだろう。今の関係が一番いい。

冗談を言って笑いあって、そんな関係の方が長続きするんだ。

「そうだね。恋人か・・・もう当分はいいや」

ポツリとそう言った私の額を祐巳ちゃんの冷たい手が覆った。

「なに?」

「いえいえ。聖さまがそんな事言うなんて・・・また熱が上がったのかと」

「失敬な・・・君は私を一体何だと思ってるの?」

私の言葉に祐巳ちゃんはしばらく考え込んでいたけれど、やがて何かひらめいたみたいな顔をした。

「愛の伝道師!・・・とか?」

「・・・何、それ・・・寒いって・・・」

真顔で言った祐巳ちゃんが可笑しくて思わず私は笑ってしまった。

「・・・やっぱり・・・」

恥ずかしそうに俯く祐巳ちゃんの頭をよしよしと撫でると、そのまま眠りについた。

そうなんだ・・・こんな関係が、誰かとずっと、築きたかったんだ・・・。

愛とか、恋とか、そんなものすら超えられるような、そんな関係が。






第四十一話『発覚!』




翌日、学校に行くとまっさきに蓉子に思い切り叱られた。

「あのねぇ、言いたかないけどあなた無断欠勤した挙句皆にどれほど、

どれほど心配かけたかちゃんと分かってるんでしょうね!?」

蓉子は二回も、どれほど、といって祥子も顔負けしそうなほど大きな声で怒鳴り散らした。

いや、これはきっと心配の裏返しなのだ。蓉子なりの。

「全く・・・あなたのおかげでね、私までとばっちり受けるんだからね!?いろいろと!そう、いろいろと!!」

・・・あれ?心配・・・してくれてるんじゃ・・・ないんじゃない・・・?

私の呆れたような顔を見て蓉子には分かったのだろう。コホンと小さく咳払いをして私に向き直ると言った。

「とにかく!明日からは毎朝祐巳ちゃんに起こしてもらいなさい、いいわね!?」

「えー!それって祐巳ちゃんは嫌がるんじゃない?」

「私は別に構いませんよ」

突然背後から声が聞こえて私がビックリして振り返ると、そこには白衣を着て日誌を胸に抱えた祐巳ちゃんが立っていた。

「ありがとう、祐巳ちゃん。ついでにこいつに朝ごはんもしっかり摂る様に言ってやってちょうだい」

こいつと言って私を指差す蓉子の顔は、どうやら私を哀れんでるっぽい。

「それでしたら・・・毎朝うちに食べにくればいいじゃないですか。その方が早いし」

「あら!それは名案!聖、そうしなさいよ」

「ていうかさ、それって祐巳ちゃんに相当迷惑かかるんじゃ・・・」

私はそう言ってチラリと祐巳ちゃんを見たけれど、祐巳ちゃんは私をギロリと睨んで付け加えた。

「晩御飯を毎日食べに来るのも相当迷惑ですよ」

「う・・・」

それを言われるとキツイなー・・・。そうだった。私はすでに相当祐巳ちゃんの迷惑になっていたのだ。

今更朝ごはんぐらいで祐巳ちゃんがブーブー言うわけがなかったのだ。

ていうか・・・ほんの少し前に祐巳ちゃんとは出来るだけ距離を置こうと思っていた矢先にこれだもんな。

人生って、全く持って思い通りに事が運ばないんだな、と改めて私は思った。

午後になると私は屋上で一人で学食で買ったパンを食べていた。

「あら、珍しい。今日は保健室じゃないの?」

「・・・蓉子に江利子・・・どうしたの、二人そろって・・・」

私は蓉子と江利子の顔をマジマジと見つめるとかじっていたパンをコーヒーで飲み干した。

それにしても・・・私ってそんなに毎日毎日保健室に行ってるだろうか?・・・いや、否定は出来ないけどさ。

「何となく元気のない親友を元気づけてあげようと思って学校中探し回ったわよ」

「まさかこんな所にいるなんて・・・ね、蓉子」

「本当よ。ここ立ち入り禁止なの知ってるでしょ?」

二人はこちらを怖い顔で睨み付けると私の横に腰を下ろす。

「知ってるけど・・・校則なんてある程度破るもんでしょ?それにこんなにも天気がいいのに外で食べないなんてバカだよ」

空を見上げると雲一つない青空が広がっている。私は仰向けに倒れると目の前に広がる青色に目を細めた。

私のそんな様子に蓉子と江利子も空を見上げ小さく、それもそうね、と呟く。

「で?元気のない私がどうしたって?」

こんな風に心配されるのはあまり好きではないし、本当は一人にしておいてもらいたかったのだけれど、

無碍に返す事も出来なくて、私は仕方なく二人にそう聞いた。

すると二人はお互いの顔を見合わせ、まるで目と目で合図しているみたいだ。

「聖・・・単刀直入に聞くわね。あなた最近悩んでない?」

そう切り出したのは江利子だった。真顔でいきなりそんな事を聞かれても、私だって答えようがない。

「は?」

「だから、最近あなた元気がないじゃない?私たちで何か力になれる事はないかしら?」

今度は蓉子・・・一体何なんだ、この二人は。私に悩み事・・・?あ・・・そういえば一つだけ・・・。

「あのさ、最近胸が苦しいんだよね」

私は思いきって言ってみた。きっと二人には理解してもらえはしないだろうけど、一応。

案の定江利子も蓉子も不思議そうな顔をして、ヒソヒソと下着がどうたら話している。

「言っておくけど、下着がキツくて、とかそういう話じゃなくてさ。ただ・・・突然胸が締め付けられるんだよね・・・こう、ギュっと」

そう言って私は自分の胸を押さえるジェスチャーをして見せた。

突然襲ってくる胸の痛みは、まるで心臓を鷲掴みにされるようなそんな感覚だった。

よく心が奪われるとか喩えるけれど、その時の痛みはきっとこんなだろう、と思う。

何ともいえない痛み・・・そう、これはまるで・・・。

「「それって・・・」」

江利子と蓉子は口をそろえて何か言おうとした。ああ、そうなんだ・・・やっぱり私は・・・。

「やっぱり・・・そうなのかな・・・?」

「多分ね・・・聖・・・どうして早く言ってくれなかったの?」

蓉子は私の顔をじっと見つめ、慰めるように肩を叩いてくれたけれど、私は認めたくなかった・・・。

「だって・・・怖かったんだもの・・・蓉子なら言える?」

「・・・そうね・・・難しいかもね・・・」

蓉子はそう言って少し目を伏せた。心なしか涙ぐんでいるようにも見える。

その顔を見て私はどこか高い場所から叩き落されたみたいだった。やっぱり・・・そうなんだ・・・言わなければ良かった・・・。

「聖、分かってると思うけど、あなたの悩みがそれなら私たちには何も出来ないわ・・・悪いけれど・・・」

江利子はそう言って黙々と自分のお弁当を食べ始めた。

なんて、薄情なんだろう・・・ほんの少しだけそう思ったけれど、そうなのだ。これは自分自身の問題なのだ。

誰の手を借りる訳にもいかないのは、私が一番よく知っている。

だから今は江利子のこのそっけないほどの態度が私にはちょうどいいぐらいだった。

この胸の痛みが始まったのは、そう、あのスキー旅行の真っ最中だったような気がする・・・。

こんなにも苦しくて痛くて、無事な筈がない。自分でもそう思っていたけれど、やっぱり誰かに打ち明けるのは怖かった。

その時、私の脳裏にフッと祐巳ちゃんの顔が横切る。

と、その途端胸が苦しくなって、息が出来なくなりそうで・・・怖い・・・どうすればいい・・・?

「聖、そんなに気に病む事はないわよ、すぐに治るわ」

「そうよ、あなた次第よ、聖。気をしっかりもちなさい」

「二人とも・・・簡単に言ってくれるね」

多分励ましてくれているのだろうが、二人の態度は私には余計に堪えた。

「だって、しょうがないじゃない。私たちにはどうしようも出来ないんだもの」

「そんなっ!でも聞いたからには最後までちゃんと相談に乗ってよ!」

珍しく私のもらした弱音に、二人は目を丸くする。そりゃそうだ。私だってこんな風に人に甘えた事なんてないんだから。

けれど、甘え方というものを祐巳ちゃんが教えてくれた。この半年の間に、祐巳ちゃんは数少ない私の大事な・・・。

ズキン・・・。

「あぁ・・・また・・・」

「何よ、どうしたの?」

「いや、また痛くて・・・早くいった方がいいみたいだわ・・・」

私が弱弱しく言うと、江利子も蓉子も驚いたような顔をして私を見る。

「な、何よ」

「いえ、別に・・・ただ・・・すごい勇気だな・・と。ねぇ、蓉子?」

「ええ、本当よ。ちょっとだけ見直したわ、聖」

「見直したって・・・失礼ね。何事も早期発見、早期治療が大事っていうじゃない」

私の言葉に江利子がプっと噴出し言った。

「聖、それはどうかしら?この病気に関しては、早ければいいってものでもないと思うのだけど」

「で、でも・・・治療は早めに始めた方がいいじゃない」

「あなたね、気が熟するまで待たないつもりなの?もしかして既に怖がってるとかじゃないわよね?」

蓉子は、どうしようもない、とでも言わんばかりに首を振って呆れ返っている。でもなんで??

そりゃ誰だって怖がるでしょ?ていうか、気が熟すのなんて待ってたら私、きっとこの世に居ないと思うんだけど・・・。

「さっきからどうも噛み合わないわね、聖、一体何の話をしているの?」

「そっちこそ!一体何の話してるのよ!?」

いちいち私の一言に驚いたり呆れたり・・・こっちは真剣に話してるってのに!

もしもこれが何か大きな病気とかだったら早く病院に行って治してもらった方がいいに決まっている。

それなのにこの二人ときたらさっきから怖がってるとか勇気があるだとか・・・そりゃ私だって怖いわよ!

だって、こんなにも胸が痛むのなんて・・・初めてなんだからっ!!

「何の話って・・・聖の病気の事でしょ?違うの?」

「そうよ、病気よ!だから早く医者に行った方がいいのかな!?って言ってるのに二人とも・・・もしかしてふざけてるの?」

「医者ってあなたねぇ。そんな所に行ってどこを治してもらうつもりでいるのよ?」

「どこって・・・・そりゃ胸が痛いんだから・・・心臓に決まってるじゃない」

私の言葉に蓉子と江利子はお互い顔を見合わせ、突然ブっと噴出した。

そしてマジマジとこちらを見つめて明らかに呆れている。

「な、何よ?」

「まさか聖・・・その胸の痛みが心臓病か何かだと思ってるんじゃ・・・ないでしょうね?」

「え・・・ち、違うの・・・?」

「ちょっとちょっと、どうしちゃったのよ?あなた半年前まではあんなにも恋愛してたじゃない!それこそひっきりなしに」

江利子はおかしそうにお腹を抱えて蓉子の言葉に笑っている。それも涙まで流しながら。

「ど、どういう意味よ?」

「よく言ってたじゃない。胸が痛いんだ・・・恋かな?って」

そんな事・・・確かに言った。言ったけど・・・あれは喩えであって別に本当に痛かった訳じゃないんだけど・・・。

あれ?もしかして・・・これが本当の恋の痛みってやつなの?そうだとしたら・・・・一体誰に??

「ね、ねぇ・・・もしかしてこれって・・・恋だとか言う?」

真剣な私の表情に、更には蓉子までもが声を出して笑い出した。お腹を抱えながらヒーヒー言っている。

「そんな事私達に聞かないでよー!!もう、聖ってば!どこまで自分の事には疎いのよー?」

「だ、だって!本当に痛いんだもの!比喩じゃなくて本当に痛いの!!ありえないわよ、こんなの初めてだもの!!」

「じゃあ今までのは何だったのよ?」

・ ・・蓉子の意見は最もだった。じゃあ今までのは何だったのだろう・・・。恋では・・・無かったのだろうか?

この胸を締め付ける(まさに締め付けられてる感じなのだ)感じとか、

チクリと刺すような痛みとかは今までに味わった事などただの一度もない。

「・・・じゃあ栞は・・・」

私がポツリと言った一言に、二人は笑うのをピタリと止めた。そして蓉子が大きなため息をつき私の顔を真剣に見つめる。

「ねぇ聖。私はあなたとは他人だし、あなたでも無い。でもね、第三者だからこそ分かる事も・・・あるのよ。

怒らないで聞いてくれる?」

「うん」

何を言われるのか本当は怖いけれど、今なら何でもすんなり入ってきそうな気がしていた。

単純かもしれないけれど、この胸の痛みが恋かもしれないと思ったら、少し気が楽になったのだ。

だって、本気で私はこの胸の痛みが心筋梗塞か何かだと思っていたのだから・・・。

「私から見た聖は栞さんを崇拝していたように見えた。

そこには決して同等の立場は無くて・・・聖は栞さんに・・・憧れていたんじゃないの?」

憧れ・・・それはとても恋と似ている・・・と、思う。確かに私は、果たして栞を人間として見ていただろうか?

いや、別に変な意味じゃなくて、天使とかそういう類のものとして見ていたんじゃないだろうか?

聖職者を目指すだけあって栞は純真で無垢で・・・真っ白だった。そんな栞を私は天使のようだと言い・・・。

「蓉子・・・そうだよ・・・私は、私は、栞を・・・」

そこから先は言葉にはならなかった。込み上げてきた想いを口にすることは出来なかったのだ。

この初めて味わう胸の痛みと同じぐらい、真実を知った時の痛みも苦しいのだと知った。

だからといって栞を愛していなかった訳ではないけれど、けれど・・・触れる事は出来なかった・・・。

それは穢すのが怖かったからだ。壊すのが怖かった訳では・・・なかったんだ・・・。

「聖、栞さんに対する想いは形は違うかもしれないけれど、栞さんは確かに聖の大切な人だったに違いないと思うの。

だから・・・栞さんとの出会いは・・・やっぱり聖にはなくてはならないものだったのよ・・・」

蓉子はそう言って私の肩をポンポンと叩いてくれる。江利子も・・・いや、コイツは何を考えてるのか分からないな・・・。

もしかすると心の中では大笑いしているのかも。まぁ、それでもいい。

心の中の霧がほんの少し晴れたような・・・そんな気がするから。

「栞は・・・もしかしてその事に気づいてたのかな・・・?」

だとしたら・・・私は随分栞を傷つけたに違いない・・・あれほど毎日愛の言葉を囁いて、それでも少しも距離は縮まらなくて・・・。

だから私の前から姿を消したのだろうか?ほんの少しでも栞は私を好きで居てくれただろうか?

不意に涙が流れそうになった。けれど、涙はすんでのところで引っ込んだ。何故かというと・・・。

「ねぇ、聖!じゃあ一体誰が好きなの!?ねぇ、ねぇ、ねぇ!!」

コイツのせいだった・・・江利子め・・・私のシリアスな気分に見事に水を差してくれる。

そうだよ・・・栞の事はもう終わった事だ。今更どうしようもないんだし、私はとりあえず動きたい。

もうずっと、ここに立ち止まったままでいつまでも動かないのは嫌なのだ。

動いて、そして未来を生きたい。誰かと。幸せになりたいんだ。

でも・・・江利子の言うとおり・・・じゃあ私は今始めての恋をしてるとして、その相手は一体誰なのだろう?

「ねぇ聖ってば!その胸の痛みは誰を想ってなの?」

「・・・誰だろう・・・」

「「はぁ?」」

「いや・・・痛いのはずっと心筋梗塞か何かだと思ってたもんだから・・・そう言われると・・・一体誰なんだろう・・・相手・・・」

私は首を傾げた。というよりもそうすることしか出来なかったのだ。

だって、今これが恋だと気づいたのに、突然相手は誰かと言われても・・・。

その時だった。突然校内放送が流れた。あの、キンコンカンコンって奴。

ちなみに私は半年前までは一日に何度も何度も呼び出しをくらっていたんだけど、今はもう随分とご無沙汰だ。

『ガチャン・・・え、これどうやって使うの?あ、ちょ、待って・・・まだ心の準備が・・・えっ!?もう流れてるの!?

早く言ってよ!!えっと・・・理事長、お客さまがいらっしゃってますので至急職員室までお戻りください・・・。

・・・以上です、失礼しました!!』

「祐巳ちゃんってば・・・ふふふ・・・それじゃあ私は行かなきゃ。久しぶりによく笑ったわ、ありがとう聖・・・聖?

どうかしたの?顔が真っ青よ?」

「本当だわ・・・聖ってば、どうしたの?ちょっと、大丈夫?」

「・・・まさか・・・そんな・・・」

「な、何?どうしたの?」

「・・・痛かった・・・」

「「は?」」

「今痛かったの!!胸が!!ねぇ、これって声とか聞いただけで痛むもの!?」

私の体は今や針金が入ったみたいに背筋がピンと伸びて、雷に打たれたみたいに全身が痺れていた。

興奮して自分でも何言ってるのかよく分からないし、とりあえず水を一気飲みしたい気分。

あまりにも必死な私に、江利子と蓉子は戸惑ったようだが、とりあえず二人は頷いてくれた。

「多分・・・そうなんじゃない?顔見ても声聞いてもドキドキするもんでしょ?」

「そう・・・でもまさか・・・そんな・・・昨日までただの友達だと思ってたのに・・・こんな事ってあるんだ・・・」

「ちょ、何の話してるのよ?私行かなきゃならないんだけど・・・」

その時、江利子の口の端がキュっと上がった。どうやら私の想いに気づいたらしい。

「分かった。聖の好きな子。祐巳ちゃんなんでしょ?ねぇ、そうなんでしょ?」

「えっ!?やっぱり!!」

蓉子は江利子の答えに手を叩いて喜んだ。ていうか、ちょっと待て!どうしてやっぱり!!なの?

「ちょっと待ってよ・・・蓉子知ってたの!?」

私の抗議に蓉子は江利子の顔をちらりと見た。すると江利子もニヤニヤしながら頷くだけで・・・感じが悪いっ!!

「知ってたっていうか・・・聖を見てたら分かるわよ。あなたね、自覚無いのかもしれないけど、分かりやすすぎ」

「えっ!?」

「えっ!?じゃないわよ・・・多分殆どの先生方が知ってると思うわよ?」

「ええ!?」

嘘でしょ?そ、そんなに私・・・分かりやすいの?ねぇ、もしかして私って相当鈍いの??

「まぁ、とりあえず自分の気持ちに気づけて良かったわね、聖。多分、気づいてからの方が大変だと思うけど」

プププって・・・漫画とかに出てきそうな笑いだけ残して蓉子と江利子は職員室に帰っていった。

大変って・・・そうだよ、大変だよ・・・どうしよう?もしかしたらこれからは安易に祐巳ちゃんの顔見られないかもしれない。

それぐらいですめばいいけど・・・ああ!どうすればいいの!!??世の中の人たちは一体どうやって恋愛してるのよ?

ていうか、恋って、恋って・・・こんなにも・・・ドキドキするものなんだ・・・。

今更だけどさっきからずっと動悸が治まらない・・・そう、祐巳ちゃんの声を聞いただけなのに、それだけなのに。

これってやっぱり・・・何か悪い病気なんじゃないの?いやいや、違うって・・・これが・・・恋なんだって・・・。

そういえば最近寝ても冷めても祐巳ちゃんの事ばかり考えてたし、毎日顔が見たいとか思ってたし・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どうして今まで気づかない、私!!

とりあえず・・・これからどうしよう?そんな事で私の頭は一杯で、

すっかり午後の授業の事を忘れてた私は、久しぶりに校内放送で呼び出され、こっぴどく蓉子に叱られた・・・。




第四十二話『ラブ・ミー・ストーカー?』



私の一日は清々しい朝日と共に始まる・・・訳はない。そんな優雅な朝はここ数ヶ月味わった事ない。

朝起きたらまずは顔を洗って歯磨き。これは大抵寝ぼけている間に終わる。

それから髪を整えて、多少のお化粧・・・とはいっても淡いピンクの口紅をつけるぐらいなんだけど。

それから・・・ここからが大変なのだ。朝ごはんの支度をマッハで済ませたら、まずは電話をする。

相手は・・・もちろんあの人しかいない。聖さまだ。

プルルルル・・・プルルルルルル・・・プルルルルルルル・・・出るわけがない。

ええ、ええ、分かってましたとも!これは毎朝の事ですからね!

てな訳で私はサンダルを履いてTシャツとジーパンでお隣に行く。

「聖さま〜!朝ですよ〜〜〜!!起きてくださ〜〜〜い」

はい、起きませんね。知ってます。これぐらいじゃこの人は起きません。私はドンドンと乱暴にドアを叩き始めた。

ちょうど下の階にも上の階にも誰も住んでなくて、隣は私、

そして聖さまの部屋は角部屋だったからまだ一度も苦情を言われた事はない。

どれぐらいドアを乱暴に叩いたのか、ようやくインターホンがガチャリと音を立てた。

「・・・おはよ・・・今日も朝から元気だね・・・」

「おはようございます!ええ、元気ですとも!聖さまのおかげで!!」

ていうか、正直聖さまのせいで血圧が上がるんだろうな、きっと。だから決して元気なわけではない・・・と、思う。

「そ・・・じゃあ支度したら行くから・・・今日のおかず・・・何?」

「今日はほうれん草のおひたしと、焼き魚です!それとご飯・・・後、今日のお弁当はどうします?」

「うーん・・・いる」

「分かりましたじゃあ聖さまの分も詰めますね!」

さて、これで一仕事終わりっと。後は聖さまが来るのを待つ間にお弁当を二人分詰めて、今朝のニュース見て・・・、

後は学校に行く準備をする。それが終わったぐらいに聖さまはいつも顔を出す。

ここ一ヶ月はもうずっとそんな調子だった。でも私はこの生活が結構気に入っている。

だって、好きな人と朝ごはんとか、一緒に登校とか・・・私達の場合は職場なんだけど、それって昔からすごく憧れてたから。

でもね、一つだけ・・・一つだけ違うの。それはね、聖さまが私の事を何とも思ってないって事。

多分、ただの同僚・・・もしくは友達ぐらいの感覚だと思う。でも、それでもいいんだ!今はまだ・・・だって、しょうがないじゃない。

私の好きな人が私だけを見てくれる確率なんて相当低いんだもん。

世界中に人間は居て、そんな中から私だけを見てくれるなんて・・・やっぱり難しいよね・・・。

聖さまには聖さまの付き合いがあって、私には私の付き合いがあって・・・。

もちろん聖さまの友達の中に私の知らない人も居る訳で・・・それを悲しいと思うのは・・・ちょっと違う気もする。

でもね!!その反面やっぱりそれを悲しいとも思う訳!!だってしょうがないじゃない。

私ってばかなり聖さまの事好きみたいなんだもん。そう思うのは・・・だって、別に悪い事じゃ・・・ないでしょ?

決して口には出せなくても。ハッ!しまった!!!考え事してたら時間が!!

私は慌てて準備を始めた。多分聖さまがもうすぐやってくる。それまでには全部終わらせておきたいのだ。

「おはよう。あ、いい匂い・・・」

まだ少しだけ眠そうな顔で聖さまがやってきた。最近聖さまはノックとかインターホンとかを鳴らさずにやってくる。

気がつけば居るから・・・結構ビックリするんだよね、これが。

「おはようございます」

「おはよ・・・」

それにしても・・・最近聖さまは少し変だ。だって・・・。

「聖さま?どうかしました?」

私が聖さまの顔を覗き込もうとすると、聖さまはプイと顔を背けてしまった。

ほらね、こんな具合で最近目を合わせてくれないのだ。

ついこの間までは全然普通で・・・ふざけて抱きついてきたりとかしてたのに・・・。

一体どうしたというのだろう?私は何か聖さまを怒らせるような事しただろうか?

「どうもしないよ・・・それよりご飯食べよ?」

「え、ええ・・・そうですね」

聖さまと向かい合わせに座って黙々とご飯を食べる・・・ていうか、お通夜みたいじゃない!!

何か・・・何か話題を探さなければ・・・あ・・・綺麗なお箸の持ち方・・・睫毛長いなぁ・・・って、違う!違うっ!!

「聖さまそういえば最近保健室に来ませんね〜?」

軽いノリで聞いたつもりだったのに、聖さまはピクリと肩を震わせて私を見る。ヤダ・・・そんな目で見つめないでよ・・・。

「・・・だって、迷惑でしょ?」

「へ?」

「用事も無いのに毎日顔を出されたら・・・迷惑でしょ?」

「いいえ?私そんな事言いましたっけ?」

はて?どうして聖さまはそんな事を突然考えたのだろう?私の答えに聖さまは少しだけ微笑んだ。

でもすぐにその笑顔は消えた。

「そう、ならまた行く・・・」

「え、ええ・・・そうしてください」

・ ・・何か・・・変な会話・・・。そう思いつつ私達はやっぱり無言で家を出た。

いつもなら徒歩で学校まで行くんだけど、最近は聖さまは車で一緒に連れて行ってくれる。

以前は怖かった聖さまの運転も、最近は随分慣れた。何よりも最近は安全運転を心がけてくれているらしい。

「今日はどこか買い物に行くの?」

突然聖さまが口を開いた。

私は一瞬何の事か分からなくてポカンとしていたんだけど、聖さまはちょっとイライラした様子で言う。

「だから、今日は夕飯の買い物に行くの?」

「あ、ああ・・・ええ、行きますよ。聖さま何か食べたいものあります?」

「え?・・・えと・・・じゃあ鶏がいい・・・じゃなくて!一人で行くの?」

「そりゃ・・・ええ、一人で行きますよ、いつも通り・・・どうしてです?」

それを聞いて聖さまの顔は一瞬曇った・・・気がした。でもどうして突然そんな事を聞くのだろう?

今までそんな事聞かれた事無かったのに・・・。

「いつも通り・・・ね・・・。じゃあ今日は私が付き合ってあげる。買い物に」

「え?で、でも・・・いいんですか?」

「うん。だって毎日ご馳走になってるし・・・」

「そんな事・・・でも、嬉しいです!」

あまりにも嬉しくて私は満面の笑みで聖さまにそう言った。すると聖さまはやっぱり私から視線をそっと外してしまう。

一体どうしたというのだろう?私・・・やっぱり何かしたんだろうか?

それにしても!聖さまが買い物に付き合ってくれるだなんて・・・こんなに嬉しい事はない。

ていうか・・・デートみたいじゃない!・・・でも・・・浮かれてるのはきっと、私だけなんだろうなぁ・・・。

「いつもどこまで買い物行ってるの?」

「どこまでって・・・近所ですよ?商店街とか、ほら、そこのスーパーとか」

窓の外を流れる景色を私が指差すと、聖さまもチラリと視線を外に移した。

スーパーを見て聖さまが一瞬苦い顔をしたのはきっと気のせいでは無いと思う。

これは私の勘だけど、きっとこの辺には栞さんとの思い出が一杯詰まっていて苦しいのだろう。

「あの、聖さま?無理して買い物に付き合ってくれなくていいんですからね?」

「いや、行く。行きたいの、私が。それとも・・・本当は一人で買い物行きたいの?」

「いえ・・・そういう訳じゃ・・・」

完全に沈黙・・・すんごい気まずい。シンとした空気に耐えられなくなった私はダッシュボードを開け中を覗き見た。

「何か面白いものある?」

お世辞にも楽しそうとはいえない聖さまの声に私はかろうじて微笑む。ていうか、なんだか息ぐるしいよ・・。

「いえ・・・何も入ってませんね・・・」

「あんまりCDとか持ってないからね。明日からは祐巳ちゃんの好きなCD持ってくればいいよ」

「え!?い、いいんですか?」

「別に構わないよ。どうせそこ何も入ってないし・・・」

「じゃあ何枚か持ってきます!」

別に恋人って訳じゃないけど、何だかすごく特別な感じがして嬉しかった。車の助手席・・・それだけでも十分なのに。

ギアチェンジをする聖さまの手とか、ハンドルを回してる所とかさ、何だってこんなにもドキドキするんだろう?

些細な事なのに・・・ね。まぁ、その話は今はいいや。とりあえず聖さまは相変わらず優しい。

それはもう、すんごく優しいんだ・け・ど!この日を機に聖さまは少しおかしいのだ。

「祐巳ちゃん、ダメだよ!そんなに重いもの一人で持てないでしょ?」

「えっ?いや・・・大丈夫ですけど・・・」

ケース1。私が機材とかを運ぶお手伝いとかをしてたら聖さまはどこからともなくやって来てそれを持ってくれる。

まぁ、実際重いから有難いといえば有難いんだけど。

「こんな時間にどこ・・・行くの?」

「えと・・・買い置きしてあった筈のシャンプーがきれたものでそれを買いにドラッグストアへ行こうかと・・・」

「ダメ!!私の貸してあげるから明日にしなさい!・・・全く・・・こんな時間なのに・・・」

ケース2。とりあえず夜八時以降は出歩いちゃいけない・・・らしい。これって・・・まだ友情の範疇なのかな?

でも八時だよ!?小学生だってまだ起きてる時間だよ?

極めつけは・・・学校で。保健室で談笑してる由乃さんや志摩子さんを追い返してしまうのだ。

「聖さまぁ・・・せっかく旅行の計画をたててたのに・・・」

「旅行?三人で?」

「はい、次のゴールデンウィークに三人で行こうか、って話なんです!」

「・・・ふーん・・・楽しそうね・・・それって本当に三人だけ?」

「・・・他に誰が居るっていうんですか・・・」

「それもそうか」

・ ・・とまぁ、こんな具合に毎日毎日何だか聖さまは突然私の保護者になってしまったようで・・・。

一体今度は何のスイッチが入ってしまったのか、と思うほどなのだ。

全く。突然不機嫌になったかと思うと、次の瞬間にはけろっとしてて。

・ ・・私は何となくこの人の事、一生理解出来ないようなそんな気がする。とりあえず今は家に帰って買い物にでも行こう!

家に帰ってしばらくは何もする気にならなかった。でも気がついたらもう夕方だ。

「さてと、そろそろ買い物いこっかな」

私が玄関にかけてある鞄を掛けて玄関を開けた瞬間、突然隣のドアも開いた。ビックリした私に聖さまは・・・無表情だ。

「出かけるの?」

「え、ええ・・・ちょっと買い物にでも・・・ていうか、どうして最近私が出ると必ず出て来るんです?」

私の質問に聖さまは一瞬バツの悪そうな顔をして・・・そのまま家に帰っていった。

ていうか・・・どうして私が出てきた事分かったんだろ?

それにしても最近の聖さまは凄く変だし。一体どうしちゃったんだろう?

そしてそんな聖さまでもこんなにも好きだと思ってしまう私も・・・相当変だ。

これはもう、あの人に相談するしかないのかもしれない。そう・・・聖さまが唯一恐れるあの人に!!

翌日私はSRGをこっそりと保健室に呼び出した。

「どうしたの〜?何だか深刻そうねぇ」

「それがですね、その・・・」

私が話し始めようとしたその時、運悪く聖さまはやってきた。

「げっ、お姉さま・・・何やってんです?」

あーあー・・・そんなにもあからさまに不機嫌な態度を見せなくても・・・。そんな顔したらこの人余計に喜ぶと思うんだよねぇ。

案の定SRGはにっこにっこして聖さまを見てる。

「ご挨拶ね。私は祐巳ちゃんに呼ばれてきたの。あなたは?別に呼ばれてないんでしょ?ならさっさと帰りなさい」

「なっ?祐巳ちゃん!!あんな事されたのにまだ懲りずにお姉さまと二人きりになるなんて!!」

「だ、だって・・・他に聖さまの怖がる人なんて・・・はっ!」

しまったーーーーー!!!正直に言っちゃった・・・どうしよーーーーー!!!!

「へー・・・いい度胸じゃない。私を怖がらせて何するつもりだったのか、よーく聞かせてもらおうじゃない」

「い、いえっ!今のは言葉のアヤって奴でして、はい」

「祐巳ちゃんってば、喋り方が面白いわよ」

いや、突っ込むところそこじゃありませんから、SRG!!ていうか、どうしてこんなにもバカなの、私・・・。

ああ・・・聖さまの顔が怖い・・・。垂れ目でもこんなにも迫力って出るものなのね・・・。

いや、違うな。多分顔がいいとどんな顔でも似合うんだ、きっと。

「さぁ、祐巳ちゃん?私がどうしたって?そこまで言ったんだから正直にいいなさい?」

「いや、だから最近聖さまの様子がちょっと変だなぁってSRGに相談をですねぇ」

嘘じゃない。嘘じゃないのにどうしてこんなにもやましい気持ちになるんだろう?

「聖、あなた最近どっかおかしいの?」

SRGの言葉に聖さまはピクンと震えた。・・・あれ?もしかして自分でも心当たりあるんだ・・・。

「・・・いえ・・・別に・・・祐巳ちゃん、覚えてらっしゃい」

「はあ・・・」

何が何だか分からない私。でもSRGは何故か微笑んでいる。

「まぁ、あれよ、祐巳ちゃん。聖の事・・・好き?」

「へ?」

と、突然何を仰るんですか!?そ、そ、そ、そ、それってかなりプライバシーな事で、そんな事言って何になるっていうか、

あれ?私何考えてるんだっけ?いや、それはひとまず置いといて・・・あーーーーもう!!何が言いたいのか分かんない!!

・ ・・多分、私はまた百面相してたんだと思う。だって、SRGは笑ってるもの。目に涙まで溜めて息を殺して。

「よーく分かったわ。ありがとう、祐巳ちゃん。あの子がおかしいのはね、祐巳ちゃんと同じ理由よ、きっと。

だからもう少しだけ我慢してあげて。もしどうしようもなくなったらあの子を焚きつけた、

蓉子ちゃんか江利子ちゃんにでも話してみなさい。そうすれば全て解決すると思うわ。・・・多分ね」

SRGはそう言って私の肩をポンと叩いて小さなウインクをして出てった。

・ ・・どういう意味??結局私の中の疑問符はちっとも小さくはならなかった。むしろ、大きくなったのかもしれない。

さて、それからというもの、聖さまは前にも増して私をかまい始めた。それはもう、少々鬱陶しいくらいに。

学校から先に帰ると、とりあえず怒る。朝聖さまがどうしても起きないときに先に行っても・・・怒る。

SRGと何かの拍子に二人きりになっても怒る。それどころか、最近毎日買い物にもついて来る・・・あ、これは嬉しいんだけど!

耐え切れなくなった私は、とうとう理事長室に乗り込んでいた。

「あら、祐巳ちゃん、どうしたの?珍しいわね。あ、コーヒーでも飲む?それとも紅茶の方がいいかしら?」

「あ・・・じゃあ紅茶で・・・」

蓉子さまがいれてくれた紅茶は甘かった。でも、ミルクの配分が私の好みではない。まぁ、でもそれはしょうがない。

人の好みはそれぞれだし、ね。でも・・・あれ?そういえば聖さまのいれてくれるお茶は・・・?

いつも私の好みピッタリで、私はそれを何とも思ってなかったけど、

・・・それって実は凄く私の事を気にかけてくれてるって、そういう事?

私は紅茶をすする蓉子さまに見惚れながら聖さまの事を考えていた。

「それで?お話ってなぁに?」

「それがですね・・・実は聖さまの事なんですけど」

「ええ、聖がどうかしたの?あいつもしかしてまた何かした?」

蓉子さまは聖さまが今回はそんな事をしていないと思っているのだろう。優雅に紅茶を飲み続けている。

「そのー・・・最近聖さまが多少その・・・鬱陶しいんですが、どうにかなりませんかね?」

ブッ!!勢いよく蓉子さまの口から吹き出た紅茶は、やっぱり勢いよく私にかかった。

「ご、ごめんなさい、祐巳ちゃん!大丈夫!?」

「え、ええ・・・驚きましたが大丈夫です」

まさか蓉子さまがお茶を吹くなんて思いもしなかった・・・よほど驚いたんだろうな、きっと。

蓉子さまは慌てた様子で私にかかった紅茶を拭いてくれたけど、私はそれどころではない。

「えっと・・・で、何の話だったかしら?聖がなんとかって・・・そう言った?」

「ええ、言いました。聖さまが、最近鬱陶しいんです!まるで私の保護者みたいといいますか・・・。

お母さんとでも言いましょうか・・・兎に角私を子供みたいに扱って・・・私は聖さまと同等になりたいのに・・・。

聖さまが私の事をどう思ってるのかは分かりませんが、私は聖さまの事大好きなんです。

だからせめて同じ教師・・・欲を言えばせめて友達として見てほしいんです!!」

もっと欲を言えば私の事・・・好きになってほしいんだけど、きっとそうはいかないだろう。

蓉子さまは目を白黒させながら具体的にどう鬱陶しいのかを私に聞いてきた。

そして一部始終を聞き終えた蓉子さまの顔は・・・顔面蒼白・・・ではなくて真赤だった。

噂によれば聖さまは私がここに来る前に随分と沢山の人を辞めさせたらしい。

もしかすると蓉子さまは私もまた聖さまのせいで辞めてしまうと思ったのかもしれない。

「え、えーと・・・とりあえず聖にはよく言っておくわ。それでも止めなかったら・・・今度は私がアイツの首を切るから安心して」

「いえっ!私ここを止めるつもりはありませんし、聖さまに辞めて欲しいとも思ってません!

ただ・・・ただ、私を大人として見て欲しいってだけで・・・」

「・・・分かったわ。じゃあそう伝えておくわ。ごめんなさいね、祐巳ちゃん・・・アイツ本当に馬鹿なのよ。

何か気に入ったものがあると周りが全く見えなくなってしまうのよね、昔から・・・でもね、以前ほどでは無くなったの。

きっとこれからもまた変わると思うから・・・せめて嫌わないであげてね・・・お願いよ」

蓉子さまはそう言ってにっこりと・・・でも哀しそうに笑った。私がこれから先、聖さまを嫌う事なんてきっと無いだろう。

どうしてかは分からないけれど、そう言いきれる。

「当たり前です。聖さまの事、私大好きですよ」

「・・・祐巳ちゃん・・・いい子!!もったいない!!!」

「へ?何がです?」

「いえいえ、こっちの話よ。それじゃあ、苦情はしっかり聞きました。ちゃんと伝えるわ」

「ええ、お願いします。蓉子さま。すみません、こんな個人的な事まで相談してしまって・・・」

「いいのよ。これは聖の親友として、後、祐巳ちゃんが仲間だからこそ聞いたのだから」

蓉子さま・・・言葉にならなかった。感動だった。

まだ半年とちょっとしかこの学校にいないけれど、この学校はなんて素敵な所なのだろう。

先輩は素敵だし、素晴らしい友人も出来た。それに・・・好きな人も。ちょっと変わってるけど。

やっぱりSRGの言うように蓉子さまに話して良かった。これで聖さまのおかしな行動もちょっとは落ち着くだろう。

そして今度こそ、きっと素敵な関係になるに違いない。どちらかが上ではない、同等の立場に。



第四十三話『普通の関係』



今まで私って、どうやって祐巳ちゃんと話していたんだっけ?どうして今まで普通でいられたんだっけ?

そんな事すら忘れてしまった。この胸の痛みが心筋梗塞ではなくて恋だと分かってから私は祐巳ちゃんをまともに見れない。

それどころかうまく話せないでいた。気がついたら私は祐巳ちゃんを縛りつけようとしてて・・・。

束縛は一番嫌いなはずなのに・・・自分勝手なのが一番いいと思っていたはずなのに。

だから例えば以前なら恋人がどこに行こうが、何をしてようが関係なかった。唯一栞だけは違っていたけれど。

栞の場合、向こうもあまり他の人と馴染めないでいたみたいだからさほど気にはならなかったのに、祐巳ちゃんは違う。

周りにはいつも誰かが居て、いつでも楽しそうだ。そんな祐巳ちゃんがちょっと羨ましくて、ちょっと憎らしい。

そんな矢先に祐巳ちゃんはお姉さまとまた二人きりで警戒心の欠片もない感じで談笑してたし、

もう私にはどうすればいいのか分からない。

しかも祐巳ちゃんは何て言った?私を怖がらせるですって?ありえないわよ、ほんと!!

どうしてそんな話になってたのかは知らないけれど、そんな事言われたら私もっともっと・・・。

「こんなの・・・ただの独占欲じゃない・・・」

車の中で私はひとりごちた。BGMは何とかって女の人の歌。ちなみに祐巳ちゃんが置いてったやつ。

あれから毎日私はこの人の歌を聞き、愛とか恋とかについて考えてる。

しかも今日もまた祐巳ちゃんは私を置いて帰っちゃうし・・・。

私はやっぱり祐巳ちゃんにとって、先輩以外の何者でもないのだろう。

分かってるよ、そんな事。でもさ、もう少しくらいこっちを見てくれてもいいじゃない!!

「おっと・・・考え方まで歌の歌詞になってるわ・・・」

ちょうどそんなような歌詞が流れてたからついついつられてしまったけれど、結局の所祐巳ちゃんにとって私は何なの?

どうすれば私の方を向いてくれるの?どうすれば私はこんなにもイライラしないですむの?

「どうして先に帰るのよ?」

「だ、だって・・・早くお買い物すませないと今日はトイレットペーパーの特売日だったので・・・」

「特売日って・・・」

そうか、私は特売日に負けたか。トイレットペーパーに負けたか。

何だか怒る気が失せた・・・。ガッカリする私に祐巳ちゃんが言う。

「聖さまもひとついります?」

・ ・・と。ああ・・・お一人様二つまでだったのね?そうなのね?そして私の分まで買ってきてくれた訳だ。

「・・・ありがとう。今度は私も誘ってね・・・」

「は、はいっ!もちろん!」

素直に喜ぶ祐巳ちゃんは可愛い。だから余計に憎らしいのかもしれない。きっと大学とかでも本当はモテたんだろう。

まぁ、本人は多分全く気づいてなかったんだろうけど。

あぁ・・・当時祐巳ちゃんに想いを馳せて儚く散っていった猛者どもの心境が今痛いほどよく分かるよ・・・。

大抵狙った子は落としてきた私が本当に好きになった途端落とせなくなるなんて・・・ほんっとうに世の中ってやりきれない。

いや、むしろ私がやりきれない。

「聖さま今夜はご飯食べにきます?」

ほらね、純真無垢な顔してこんな事平気で言うんだもん。この子は。そりゃ私だっておかしくなるよ。

でも分かってても私は言うんだ・・・。

「うん・・・いく・・・」

ほらね、やっぱりね。恋には駆け引きが重要だなんて事知ってるはずなのに、どうしてもそれが出来ない。

最早これはゲームじゃない。今までの恋愛とは違う。一生をかけた本気の戦いなんだと思う。

臆病になるとか、足が震えるとか、そんな気持ちはない。でも、どうすればそれが伝わるのかが分からないんだ。

言葉は軽い。でも、態度じゃ弱い。・・・じゃあなんだったらいいって言うの!?

何ならきくのよ!!この絵に描いたような人畜無害そうな奴に!!

ああ、そうだ。私は今ラスボスと戦ってる。私の経験値はかなり高い。でもラスボスの経験値はほぼ0。

一見余裕で勝ちそうなのに、ガードが異様に硬いんだ。だからどんなに鋭い剣でも魔法でも効きやしない。

私の持ってるものといえば・・・擬似恋愛の仕方ぐらい。これじゃあ勝ち目がない。

しょうがなく私はせめてこの子を逃がさないようにするぐらいの事しか出来ないのだろう。

それがどんなに自分の意思に反するとしても、だ。

一週間、二週間、時は無常に過ぎる。最近の私は最早狂ったとしか思えない。

そんな時、蓉子に呼び出された。もちろん、江利子もいる。てことは、多分学校の話ではないわけだ。

喫茶店で待ち合わせた私達。三人だけでどこかに出かけるのは実に久しぶりだ。

時間より少し遅れてきた私を見て、江利子は苦い笑みを浮かべる。そして蓉子は、私が席につくなりこんな事を言った。

「聖、あなたね・・・やりすぎ」

「は?」

「だから、そのまんま。やりすぎ。祐巳ちゃん引いてたわよ?」

「えっ!?」

マジで?まぁ確かに引かない方がどうかしてる。でも・・・そうかー・・・やっぱりなぁ。

蓉子に相談するあたりが祐巳ちゃんの賢い所だなぁ。

「聖、そういうの何ていうか知ってる?」

私はコーヒーを飲みながら首を横に振ると、江利子はおかしそうに言った。

「ストーカーっていうのよ。しかも顔見知りなんだからなお性質が悪いわね」

ぶーーーーーっっ!!ス、ストーカー・・・わ、私が・・・?

「ごほっ・・・ご、ごめん、蓉子」

「いえ、いいのよ。私もこの間同じ事を祐巳ちゃんにしたもの」

蓉子はハンドバックからハンカチを取り出し顔や髪を拭きながら苦笑いしていたけれど、そうか・・・ストーカーか・・・。

あながち間違いではない。流石に後をつけたりはしてないけど、確かにそれには近いかもしれない。

「聖・・・祐巳ちゃんが好きなのは分かるけど祐巳ちゃん悩んでたわよ?

聖さまが私を一人前の女として見てくれないんです・・・って」

「はあ!?本気で祐巳ちゃんがそう言ったの?自分を女として見ろって?」

まさか!あの祐巳ちゃんがそんな大胆な事を言うだろうか?いや、言わない。絶対に言わないね。

蓉子を睨むと案の定蓉子はちょっと慌てた感じで言い直した。

「まぁ、流石にそこまでは言ってないけど・・・でも、似たようなものよ。聖に自分を大人として見て欲しいんですって。

要は子供扱い、もしくは妹扱いするなって事。あなた過保護すぎなのよ。相手が祐巳ちゃんじゃなきゃ今頃気が狂ってるわ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

気が狂う・・・か。それは正に今の私だ。私は今正気じゃない。

ありえないぐらい独占欲にまみれてしまっていて、普通に愛するって事をすっかり忘れてしまったみたいだ。

「聖はねー、昔っからそうなのよ。大事な物を手に入れたら一日中それで遊んでるのよねー。

飽きないのかしら?って私はずっと思ってたんだけど・・・どうやらそれは今でも変わってないみたいね」

「あら、そうなの?」

「そうなのよ。蓉子は知らないでしょうけど、それこそ聖はいっつもすれた顔してたくせに、

大事な物だけは絶対人に貸さないのよ。それでいつも先生に怒られてたわよね?聖」

「・・・そ、そうだったっけ?」

そういえばそうだった気がする・・・あの頃お気に入りのおもちゃ・・・あれは今でも部屋の引き出しの中にしまってあるもの。

そうか・・・私は何も変わってないのか・・・幼稚園の頃から何一つ・・・変わってないのか。

「ちっちゃい頃の聖かー・・・見てみたかったわ。写真とかないの?」

「無いよ、そんなもの。それよりも!どうすれば祐巳ちゃんと普通に・・・今までどおりになれるかな?」

「そうねー・・・とりあえずあんたは祐巳ちゃんに謝んなさい。

束縛は相手にとっては重荷になるわよ・・・時と場合によっては、だけどね。そこんところは得意でしょ?」

蓉子は何か思い当たる節があるのか、ちょっとだけ顔を赤らめた。

「祐巳ちゃんとは真剣に付き合いたいと思うんだよ。でも、今までの私のやり方じゃ・・・」

ダメな気がする・・・だって、私はきっと誠実じゃなかった。誰に対しても。そんなんじゃ祐巳ちゃんを幸せには出来ないだろう。

彼女はだって、今まで恋を知らなかったんだから・・・。

「どうして今までのがダメなの?あなた今まで何のために沢山の可哀想な女の子達をふってきたのよ?」

「それは・・・」

本当に愛せる人を探すためだ。でも、皆どこかピンと来なかった・・・栞ですら、ダメだった。

いつでも自分を創って、それを壊そうとする度に皆離れていってしまった・・・。

辛かった。自分を偽るのは辛くて、苦しくて・・・でも、誰も本当の私には気づかない。

そりゃそうだ。だって、そういう自分を見せてないんだから。

矛盾してるかもしれないけれど、それでも本当の私に気づいてくれる人に出逢いたかったんだ。

何も信じられなくて、期待もくそもなくて、それでも私を愛して欲しくて・・・。

「私って・・・寂しいな・・・」

「全くだわ」

「本当よ」

私の言葉に江利子と蓉子が頷いた。そんな私でもこの二人がいる。この二人は本当の私を知っている。

こんなにも身近にいたのにその事にすら気づかないほど私は愚かだったんだ。

「二人のどちらか私と付き合ってくれない?」

冗談で言った言葉に蓉子も江利子も満面の笑みで答えた。

「「絶対に嫌よ」」

だって。あはは、やっぱりね。でも、だからちょうどいい。だから私はこの二人が大好きなんだ。

「ひっどいな〜、私傷心なのに」

「別にふられた訳じゃないでしょ?」

「そうだけどさー・・・望み薄だなぁ」

「あら、珍しく弱気じゃない」

「まぁねー。だって、自分でも思うもの。誰かに私みたいな奴と付き合えって言われたら絶対に嫌だもん」

私はコーヒーを飲み干した。空っぽになったカップの底を見つめていたけれど、やがて蓉子が言った。

「だからね、とりあえず、祐巳ちゃんが好きだと気づく前のあなたに戻ればいいだけの話よ。

でないと・・・祐巳ちゃんもきっとあなたの前から消えるわよ」

この脅しはなかなか効いた。辞められちゃ困る。今回ばかりは絶対に逃げられたくない。

祐巳ちゃんを好きだと気づく前、私は必死になって祐巳ちゃんを遠ざけようとしてた。でも、それは間違いだった。

いくら遠ざけようとしても、私は祐巳ちゃんを求めてたんだもの。それにいくら追い払っても祐巳ちゃんは私に近寄ってきて、

それならばいっそ甘えてやろうと思った。作るのを・・・止めたんだ。そしてその関係が心地よいと思っていたじゃない。

これからもこんな関係で居たいと!そうだよ・・・私は祐巳ちゃんを独占したい訳じゃない。

ただ祐巳ちゃんの傍に・・・居たいんだ・・・。だから置いていかれると哀しくて・・・ああ、どうしてそれが言えなかったんだろう。

たったそれだけの事なのに!

「蓉子・・・江利子・・・分かった・・・気がする・・・。私・・・やっぱり祐巳ちゃんの事が・・・好きみたい。それも凄く・・・」

「・・・それはそれは・・・ごちそうさま」

「ノロケじゃなくて!凄く好きなんだよ、私。こんなの初めてだ・・・うわっ、どうすればいいんだろう?何から伝えればいい?」

「いやね、だから、聖、とりあえず落ち着いて?今のままじゃ確実にふられるから」

「分かってるよ、そんな事。そうじゃなくて、告白とは違う伝えたいモノが沢山あるんだ。でもどれから伝えよう・・・」

買い物も、学校も、毎日出来れば一緒に行きたい。今までみたいに普通に笑いあいたい。

あー、普通って、こんなにも難しいんだ。だから恋って、皆苦しむんだ。どう考えても普通で居られない。

嫌われたくない。でも本当の自分を知って・・・矛盾した心がパックリと別れる事を、きっと恋と呼ぶんだ。

そしてそこから生まれた葛藤を、今私は持て余してる。物凄く。とりあえず祐巳ちゃんに謝ろう。

もう、トイレットペーパーに焼もちなんて妬かないようにするよ、って。



第四十四話『仮面舞踏会』




恋って、仮面舞踏会みたいなものだと思う。

自分の心を素直に言えなくて、だからそれを隠してとりあえず都合のいい事言って素顔を隠す。

「えー!聖さま一緒に行ってくれないんですかー?」

「悪いけど・・・明日の授業の準備が終わってないんだ」

「でも・・・聖さまこないだは当分授業の準備はこれで済みそうだー・・・とか言ってませんでした?」

うっ・・・よく覚えてるな、そんな事・・・。でもどうしても今回だけは一緒に行きたくないんだ・・・。

「確かに言ったけど、でもあれじゃあ準備不足って事に今更気がついたのよ」

「・・・聖さまが?そんなにも授業の事大事にしてました?」

「・・・失礼ね」

その言い方はあんまりじゃない、祐巳ちゃん・・・そりゃ私だってたまにはちゃんとするわよ。まぁ、そんな事稀だけど。

私は祐巳ちゃんが抱えているお風呂セットにチラリと目をやった。私はもう子供じゃないし、学生でもない。

だからこんな事ぐらいでは欲情したりしない・・・と、思う。

でも、万が一、万が一祐巳ちゃんの裸体とかに興奮しない、とは言い切れないし、

もしそうなった場合今の私には相手をしてくれるような人も居ないわけで・・・。

「だから、今回は一人で行って?送り迎えはちゃんとしてあげるから、ね?」

「べ、別に送り迎えはしていただかなくても大丈夫ですよ!でも・・・一人じゃ寂しいですから誰か他の人を誘ってみますね」

「ほ、他の人!?誰誘うつもり?」

「・・・まだ分かりませんが・・・とりあえず誰かです。

もしかすると日替わりとかになるのかも・・・それにしても、本当に災難ですよ・・・」

祐巳ちゃんはそう言って目を伏せた。

事の次第はついさっきの事。ぼんやりと洋画を見てたら突然祐巳ちゃんがやってきて私に言ったのだ。

「聖さま、一緒に銭湯にいきませんか?」

・・・と。

「ど、どうして?」

そう聞いた私に祐巳ちゃんは困ったように笑って言った。どうやらお風呂が壊れてお湯、および水が出ないらしいのだ。

ていうよりも、お風呂だけじゃない。祐巳ちゃんち限定で断水になっているらしい。

それを確認する為に私は祐巳ちゃんちに行ってありとあらゆる蛇口を捻ってみたけれど・・・。

実際祐巳ちゃんの言ってる事は本当だった。水という水がどこからも出ないのだ。

「どうしてでしょ〜?」

泣きそうな顔の祐巳ちゃんをなだめてとりあえず水道会社に電話して、修理の約束を取り付けたけど、

生憎それには一週間もかかるんだって。その間祐巳ちゃんちは水も出なけりゃお湯も出ないわけだ。

とりあえず今日の所はお風呂は銭湯に行くつもりらしいんだけど・・・一人じゃ寂しいから私を誘った、とそういう事だ。

はい、回想終わり。そんな訳で今に至る。

祐巳ちゃんちのリビングでお茶も無しにこうやって押し問答を始めてそろそろ30分になる。

「まぁお風呂はいいとして、明日から一週間どうするの?水がなけりゃ人は死ぬよ?」

「そうですねー・・・とりあえず明日は土曜日なので必要最低限の荷物だけ持って実家に帰ります」

実家だと!?そ、そんな・・・祐巳ちゃんちの実家がどこだか知らないけど、そんなの困るよ!!

だって、だって、せっかくこれから毎朝一緒に行こうって言おうとしてた矢先に離れ離れだなんて・・・そんなのありえない!

それにもし・・・もしもだよ?祐巳ちゃんがやっぱり実家の方が楽でいいや!とか思っちゃったら・・・。

「じ・・・実家って・・・その、遠いの?」

「?いいえ、そんなに遠くはありませんよ。バスで30分ぐらいでしょうか」

バ、バス!?だ、だめだめだめ!!!最近痴漢とか多いのにそんなの絶対にダメ!!!

バスなんかに乗るぐらいなら私の隣に住んでる方が絶対安全に決まってる。自分で言うのもなんだけど。

本当は一番いいのは私の家に来る?って言えたら・・・きっと一番いいんだろうと思う。

でも、どうしてもそれだけは言えなかった・・・今まで誰も家に上げた事ないし、これからもきっとそうだろう。

でも祐巳ちゃんに実家には帰ってほしくない・・・一体どうすればいいの!?どうすれば・・・・そ、そうだ!

こんな時蓉子ならどうするだろう?お姉さまなら??江利子は・・・まぁいいや。聞かないでおこう。

「と、とりあえず銭湯へは送って行ってあげる。一人じゃ危ないし・・・」

「それじゃあ聖さま一緒に行きましょうよ・・・その方が危なくないですよ・・・」

「だ、だめ!それだけは無理・・・ごめんね?祐巳ちゃんが出て来るまで待ってるから」

ごめんね・・・こんな言い方しか出来なくて・・・。本当は祐巳ちゃんと一緒にお風呂・・・入りたいんだけどね。

でも、それをすると自分を止める自信がなくて・・・本当にごめんね?

すまなそうな顔をする私に、ようやく祐巳ちゃんは首を縦に振った。これで今日のお風呂は片付いた。

問題は・・・明日からだ。

翌日、私が止める間もなく祐巳ちゃんは荷作りを始めていた。

「・・・どうしても行っちゃうの?」

「ええ、すみません、聖さま。朝食とか夕食の準備出来なくなっちゃいますけど・・・ちゃんと食事はしてくださいね?」

「・・・うん。でもっ・・・本当に・・・行っちゃうの?」

「ええ、本当に行っちゃいます。でもたったの一週間だけですよ?」

たったの一週間か・・・それがどれほど長いのか、祐巳ちゃんは知らないんだ。きっと。

毎日毎日会っても足りないぐらい人を好きになった事なんて無いんだ。だからそんなに簡単に言えるんだよ。

心ではこんなにも行ってほしくないのに、それをどうしても言葉で言えない・・・。まるで言葉を忘れてしまったよう・・・。

「それじゃあ、聖さま・・・行ってきます」

「・・・行ってらっしゃい・・・気をつけてね。何なら私が送ろうか?」

「い、いいですよ!弟が迎えに来てくれますから」

弟・・・ね。そうか、祐巳ちゃん弟いたんだっけ・・・いいな、弟・・・小さい頃からずっと祐巳ちゃんと一緒に居るんだもんな・・・。

しかもこれからも絶対に縁が切れる事もないし・・・。

「それじゃあ、下まで荷物運ぶの手伝うよ」

「あ、ありがとうございます」

「いいえ、どういたしまして」

私・・・今ちゃんと笑えてる?いつもみたいに笑えてる?ていうか、引きつってない?ねぇ、大丈夫??

それぐらい今の私は多分動揺してる。たった一週間・・・されど一週間・・・。

しかも明日は日曜日で、その後すぐにゴールデンウィーク・・・。

そういえば祐巳ちゃんはゴールデンウィークは志摩子と由乃ちゃんと旅行だって言ってたっけ。

ちょっと待ってよ・・・じゃあ次に祐巳ちゃんに私が会えるのって・・・一体いつよ!?

そもそも祐巳ちゃんが好きな人って・・・一体誰なのよ?!

私がそんな事を考えてる間に一台の車がやってきた。

祐巳ちゃんは嬉しそうに手を挙げてその車を止めると、私の手から荷物を取って車の中に押し込み始める。

「それじゃあ聖さま・・・また、ゴールデンウィーク明けに会いましょう・・・」

「うん・・・そうだね。旅行、楽しんで来てね」

「はい!・・・えっと・・・それじゃあ・・・行ってきます。くれぐれも・・・」

「食事はちゃんと食べろ、でしょ?分かってるってば。それじゃあ、祐巳ちゃんも気をつけて」

「あ・・・は、はい・・・それでは・・・失礼します・・・」

その時、私はようやく気づいた。祐巳ちゃんの目の端にうっすらだけど涙が浮かんでる事に。

ねぇ、どうして泣くの?祐巳ちゃんも少しぐらいは私と離れたくないって・・・そう思ってくれてるの?

・ ・・もしかして・・・祐巳ちゃんも恋って・・・仮面舞踏会みたいだって、そう・・・思ってる?

「あはは、ダメですね!何だか寂しくて・・・う・・・ひっく・・・」

「泣かないでよ。たったの一週間なんでしょ?」

「で、でもぉ・・・聖さまぁぁ!!」

ヤダ・・・どうして泣くのよ・・・止めてよ。まるで一生のお別れみたいじゃない・・・。ていうか、私まで泣きそうになるじゃない・・・。

祐巳ちゃんは私の胸に顔を埋めて子供みたいに泣きじゃくってて、それを白い目で車の中から弟が見てて・・・。

私は困ったように祐巳ちゃんの背中をさすって、心の中で祐巳ちゃんは柔らかいなぁ・・・なんて不謹慎な事を考えてて。

「祐巳ちゃん。お土産よろしくね。

でも・・・どこにでもあるようなキーホルダーとか提灯とかは止めてね。ハイセンスすぎて笑えないから」

私がそう言うと、祐巳ちゃんはようやく顔を挙げて笑ってくれた。良かった、どうやら慰めるの成功したみたい。

「ふふ・・・じゃあ、面白くも何ともないご当地ものを買ってきますね」

「うん、そうして」

「それじゃあ、本当に行ってきます」

「行ってらっしゃい。気をつけて」

いつまでも車の中からこっちを見る祐巳ちゃんはまるで里親に貰われていく犬みたいだった。

だから私もいつまでも車の方を向いていなければならなくて、それどころかちょっと涙まで出てきちゃったりして。

ピ、ポ、ピ・・・プルルルル・・・プルルルル・・・。

『もしもし?どうしたの、聖が電話くれるなんて珍しい』

「蓉子ぉ〜・・・祐巳ちゃん出てっちゃったよ〜・・・」

鼻声の私に蓉子は一瞬息を飲んだ。そして一呼吸置いて蓉子は静かに言った。

『・・・で、あんた今度は一体何したのよ?』

「な、何もしてないっ!ただ・・・水が・・・」

『・・・水?何よ、水って・・・まさか水使って如何わしい事祐巳ちゃんに強要したんじゃないでしょうねっ!!』

この時、蓉子の頭の中で、私という人間がどれほど極悪人になっているのかをようやく理解する事が出来た。

長年付き合ってるのに、この時始めて私はそれを悟ったんだ・・・。

「・・・違うってば!何もしてないよ、私は!!

ただ帰ったの!!だから実家に!!水が出なくてっっ!!」

『ちょっと、ちょっと、ちゃんと日本語で喋ってよ。下手な和訳聞いてるみたいだわ』

あーーーーもう!!自分でも何喋ってるのか分からなくなってきちゃったじゃない!

それにしても英語の教師捕まえて下手な和訳って・・・それはあんまりでしょ。

でもまぁ、実際下手な和訳みたいだったかもしれないけど!!それでも私は必死なのだ。泣きそうになるのを堪えたいの!

別れ際の祐巳ちゃんのあの寂しそうな顔ときたら・・・童謡『ドナドナ』の子牛みたいでもう見てらんなくて。

それについついつられて私まで泣きそうに・・・あ、ダメだ・・・本当に泣きそう・・・どうして?

こんな事ぐらいでこんなにも悲しいなんて・・・。表には絶対出せない感情は沢山ある。・・・と、思う。

残酷な私、酷い私、冷たい私、卑怯な私・・・そして、優しい私と、寂しい私・・・。

どれも私なんだけど、本当の私はもっと単純。ただ寂しがりやでわがままで、たまにだけど優しくて、ベッドの中では残酷で・・・。

でもそれは誰にでも見せられる訳じゃない。相手が好きな人ならなおさらだ。よく見られたいし、嫌われたくない。

いつかはそりゃ本音でぶつかれる事もあると思うけど、それまではどの私もあまり表には顔は出さないだろう。

それを創るというのなら、それでも構わない。本当の自分を愛して欲しいとか思ってたけど、それだけじゃ人には好かれない。

好きな人によく見せようとするのは動物の自然な行動なのだ。だから化粧もするし、おしゃれもする。

だから私はとりあえず祐巳ちゃんに好きになってもらいたい。

それから私という人間をじっくり解ってもらっても・・・決して遅くはないんだ。

伝える術はいくらでもあるじゃないか。手紙でも、電話でも、なんなら電報だっていい。

手旗信号だってあるじゃないか!って、・・・いや、流石にそれはちょっとな。

とにかく!とりあえず私に好意を持ってもらわなければ、話は始まらない。全てはそれからなんだ。

だから私は今、こんなにも悲しい。

伝えようとした矢先に祐巳ちゃんは居なくなって(たったの一週間だけど)、親友からの私の評価はどうやら最悪だ。

でも、諦めない。ここで諦めたら、仮面舞踏会はいつまでも終わらず、仮面は一生つけ続けなければならなくなる。

そんなのは嫌だ。私だっていい加減自由になりたい。

「蓉子、とりあえず一週間私は我慢するよ」

『・・・一週間って・・・あなたにそんなにも根性があったなんて知らなかったわ』

「失礼ね、私だって一週間ぐらい我慢できるわよ」

『そう・・・でも事件になるような事はしないでね』

「・・・ははは、まさか・・・」

祐巳ちゃんを実家から浚うってのは、なかなかいい案かもしれないけれど、流石にそれは出来ない。

蓉子の言う通り事件になっても困るしね。

『いいえ、分からないわ。だって聖の事だもの。

我慢出来なくなって生徒にでも手を出されたら・・・あぁ、考えただけでも恐ろしい・・・』

「・・・・・・・・・・」

ん?蓉子・・・一体何の話してるんだろう・・・?

「ちょっと・・・何の話してるの?」

『えっ?だから聖が一週間禁欲生活するんでしょ?』

「・・・よ、蓉子さん・・・?あなた、私の事一体何だと思ってらっしゃるの?」

いくらなんでも、あんまりだ。それにもしそっちの方も我慢出来ないからって生徒にまで手を出すほどバカじゃないよ、私は。

『何って・・・変態教師じゃないの?教科は英語・・・顔はいいけど、性格に難あり・・・でしょ?』

「うっ・・・も、もういい!!蓉子に相談しようとした私がバカだった!!」

ガチャン!電話を切って、肩で息をする私を通行人が不安げに振り返る。あぁ、これじゃあ蓉子の言うとおり変な人じゃない。

前言撤回!ある程度の仮面は絶対に必要!!特に親友の前でだけでもっ!!



第四十五話『初めての恋バナ』



一週間は思ったよりもとても長い。ましてやロクな別れも出来ずに離れたとなると、それは余計に長く感じられる。

とは言っても、ここはもう実家。本当は明日までは聖さまの傍に居られたのに、何故か突然水が出なくなって、

おまけに修理が一週間もかかるって・・・もし聖さまが隣に居てくれなかったら、危うく旅行はキャンセルになるところだった。

『いいよ、修理は私が立ち会ってあげるから旅行楽しんでおいで』

あっさりとそう言ってくれた聖さまだけど、本当は私は心のどこかで聖さまが、自分の家に来てもいいよ、

って言ってくれるのを期待してたんだと思う。でなきゃ、私はあんなにもみっともなく聖さまの胸で泣いたりなんかしなかった。

きっと聖さまは呆れてたに違いない・・・。

とりあえず明日からは旅行だ・・・精一杯楽しんで、こんなにも暗い気持ちを忘れ去ってしまおう。

翌日、駅で待ち合わせをした私達は挨拶もそこそこに早速電車に乗り込んだ。

よくよく考えれば志摩子さんと由乃さんと三人だけでこうやって出かけるのはこれが初めてだった。

だって、いつもは大抵志摩子さんの傍には乃梨子ちゃんが居るし、由乃さんの傍には令さまがいる。

それに・・・私の傍には聖さまが・・・。

聖さま・・・今頃何してるんだろう?まだ朝も早いからきっと寝てるんだろうな・・・。

どうせ朝ごはんも昼ごはんも食べずに、一人で古い映画とか見ながらダラダラしてるに違いない。

はっ!!まさかとは思うけど、晩御飯もやっぱり食べないつもりなんじゃ・・・。

「ちょっとゴメン・・・私、電話してくる・・・」

「うん。あっちで電話出来るみたいだよ」

由乃さんはそう言って席を立ち、通路の奥を指差す。新幹線に乗るのは高校の修学旅行以来、全く乗ってない。

「うん、ありがとう。ついでに何か飲み物買ってくるね!二人とも何がいい?」

「私、日本茶!!あっついので!」

「私は・・・オレンジジュースをお願い出来るかしら?」

「分かった。それじゃあちょっと待ってて」

「「行ってらっしゃい」」

二人に見送られながら、デッキに出た私は即効で携帯電話を鞄から出してアドレス帳を開いた。

この携帯だって、聖さまがあんまりにもしつこく買え買えって言うもんだから買ったものだ。

実際、今はこれのおかげで相当助かってる訳だけど、

やっぱりこの携帯に聖さまからメールが来たり電話がかかってくる事は少ない。

そりゃそうか、お隣さんだもんね・・・用事があるなら、直接行って話した方が早いに決まってる。

プルルルル・・・ガチャン。

「はやっ!!」

思わず私は本音を言ってしまった・・・しかもタメ口だし・・・。聖さまは呆れてるのか、笑いをこらえてるのか、何故か無言だ。

「えっと・・・せ、聖さま?おはようございます・・・」

『・・・今日のおかずは何?』

「は?」

・ ・・まさか・・・寝ぼけてるの?私は思わず目を白黒させた・・・と、思う。すると突然電話口で笑い声が聞こえてきた。

『なんてね、冗談だってば。どうしたの?こんなにも朝早くに』

「か、からかったんですか!?」

『まぁね。だって、まさかこんなにも早くに電話がかかってくるとは・・・どうしたの?もう寂しくなったとか?』

う・・・ど、どうしてバレてるんだろう・・・。そう、本当は寂しかった。

だって、それまで毎日顔合わせてたのに、突然顔を合わせないなんて、寂しくない訳がない。

それどころか、昨日はあまりの寂しさに一晩中泣いて過ごしたほどなのだから。

でも・・・それを知られるのはあまりにも癪じゃない。

「ち、違いますよ!!聖さまこそ、私が居なくて寂しいんじゃないんですか?」

『・・・そりゃ、寂しくない訳ないじゃない。

だって、昨日までずっと隣に居たのに今日突然居ないなんて・・・祐巳ちゃんは違うの?』

「そ、それは・・・そう・・・ですね」

ああ、やっぱり私は何故か聖さまにいっつも先を読まれてるんだ。驚かそうと思っても、焼もちを妬かせようと思っても、

聖さまがそれに引っかかってくれた事なんてない。多分、聖さまの中ではそれぐらいの存在なんだ。

だからこんなにも恥ずかしい事をサラっと言ってのけるんだ・・・。

『ところで・・・用事はなぁに?』

「あ・・・えと・・・ご飯・・・ちゃんと私が居なくても食べてくださいね」

『うん、分かってる。今日は蓉子と江利子と外食するつもりだから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ』

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

そっか・・・蓉子さまと江利子さまと・・・それなら安心・・・ですね・・・。どうしてもそんな風には言えなかった。

だって、なんだか私一人で・・・まるでバカみたいじゃない。聖さまは私なんか居なくても平気・・・そう、言われてるみたいだった。

『祐巳ちゃん?どうかした?』

「あ、いえ・・・それじゃあ、お気をつけて行ってきてくださいね・・・」

『うん、またメールするから、ね?』

「はい・・・それでは、また・・・」

『はい、ごきげんよう』

ガチャン・・・ツー、ツー、ツー、。

電話はそれで切れた。結局何のために電話をしたのか。

ただ声が聞きたかったのか、それとも本当に食事の心配をしてたのか。

きっと聖さまからメールなんて来ない。私からも送らない。試したいのかも、しれない。聖さまの気持ちを・・・。

ああ、恋って本当に・・・どうしてこんなにも苦しいの・・・。こんなにも惨めで、こんなにも浅ましい。

全然美しくない。打算と、駆け引き、それに小さな嘘の積み重ね。こんなことなら聖さまに会わなければ良かった。

私は一生、一人で居れば良かった・・・なんて割り切れたら、楽だったんだろうなぁ・・・。

「あ!祐巳さんここに居た!!なかなか帰ってこないから心配しちゃった」

「・・・由乃さん・・・ごめんなさい、まだジュース買ってないの」

「いいって、それよりどうかしたの?なんだか元気ない」

「うん・・・ちょっとね・・・」

こういう時の由乃さんは鋭い。一瞬猫みたいな目がキラリと光ったようなそんな気がするけれど、多分私の気のせいだろう。

由乃さんとジュースを買って席に戻ると、志摩子さんはボンヤリと景色を見つめていた。

「遅くなってごめんね、志摩子さん」

「あら、いいのよ。祐巳さん・・・どうかして?」

「え?」

「何だか元気が無いみたい」

ああ、鋭い人がここにも居た。ていうか、私が分かりやすすぎるのだろうか・・・。

どっちでもいいけど、私はこの二人の友人に相談すべきかどうか、凄く迷っていた。

でもいつまでも一人で迷ってても埒があかない。こうなったら、ちゃんと言おう。そうすれば少しはスッキりするかもしれないし。

「あ、あのね。二人とも聞いて・・・そのね・・・私今、凄く好きな人が居て・・・それで、その相手っていうのが・・・その・・・」

私の顔は多分真赤だと思う。だって、私がこれからしようとしてるのは、あれほど自分でも嫌がってた恋バナなのだ。

由乃さんも志摩子さんも真剣な目でこっち見てるし、もう引っ込みもつかない。やっぱり・・・止めておけばよかった・・・。

「あのね・・・相手はその・・・聖・・・さま・・・なの・・・」

言った!!私は言った!!!神様、マリア様!!私、やりました!!

今から清水の舞台を見に行くけれど、私はもう見なくてもいいかも・・・。

だって、今まさにその舞台から飛び降りたような気分だもの!!

私は顔を挙げ二人の顔を直視する事が長い事出来ないでいた。だって、二人はまるで無言で、一っ言も話さないんだもの。

「あ、あのー・・・」

「祐巳さんっ!よく言ったわ!!いつ言ってくれるんだろう、って私ずっと待ってたんだから!!」

「へ?」

「そうよ、祐巳さん・・・水臭いわ・・・」

ちょ、ちょっと待って・・・それって、どういう意味?もしかして・・・私が聖さまの事好きなのって・・・。

「知って・・・たの?」

「もちろんよ。祐巳さん、分かりやすいから。ね?志摩子さん」

「ええ・・・ごめんなさい」

「う、嘘でしょ!?ま、ま、まさか本人にもバレてるなんて事は・・・」

ヤバイヤバイ・・・それはヤバイよー!!

もしも聖さまにまでバレてるとしたら、完全に私の気持ちを知った上で私をからかってたのだとしたら・・・。

・ ・・それって、完全に脈ナシって事じゃない・・・。

「それは大丈夫よ、祐巳さん。お姉さまはご自分の事となると超がつくほど鈍いから」

「そ、そうなの?」

「ええ、恐ろしいぐらいに」

志摩子さんはそう言って頷いた。ていうか・・・そっか、聖さまって案外鈍感なんだ・・・ちょっと安心したな。

「でも聖さまかー・・・さては顔ね?祐巳さん」

よ、由乃さん・・・それを言ったら身も蓋もないんじゃ・・・。まぁ、確かに顔は物凄く好きだけどね。

「い、いやぁ・・・どうかな」

「由乃さん、お姉さまのお顔は確かにいいけれど、それだけで付き合っていけるほどあの方は甘くはなくてよ」

「あ、そ、そうなんだ?」

「ええ。これは言い切れるわ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

いや、言い切らないで、そこは・・・。でないと何だか不安になってきちゃうじゃない。

「あ、あのー・・・私、聖さまの事何も知らないんだよね。高校生の時とかどんな人だったの?」

私は必死になって話題を変えようとした。今頃きっと聖さまはくしゃみが止まらなくなってるだろう。

私の問いに志摩子さんと由乃さんは二人揃って首を傾げ、同時に呟く。

「「しいて言うなら・・・計り知れない・・・人・・・」」

や、やだなぁ・・・その答え。しかも二人が言うって事はもしかして皆そう思ってんじゃないの?

何よ、どう計り知れないのよ・・・。しかも二人ともそんなに渋い顔しなくてもいいじゃない。

「えっと、とりあえず下級生には恐ろしいぐらい人気があったわ。

バレンタインとか、誕生日とかは凄かったわよね?志摩子さん?」

「そうねぇ・・・噂によればファンクラブまであったって話だし、それによからぬ噂も多々・・・」

よからぬ噂って・・・どんな高校生なのよ、聖さまってば。ていうか、一体どんな学生時代送ってたのよ!!

「でも、確かに格好良かったもんね〜、聖さま。あの顔もだけどさー、仕草っていうの?何か妙な色気があるじゃない?

あれに惹かれるんだろうなぁ・・・皆。あのサラサラで長い髪とかさー、日に透けて光るのよ」

由乃さんは昔を思い出すみたいにうっとりと目を細める・・・。

今でも確かに肩よりも長いけど・・・そういえば腰まであったとか言ってたもんなー・・・見たかったなぁ・・・。

「お姉さまはね、とりあえず無愛想なのよ。だから皆変に誤解するのね、きっと。

でも中身はとても純粋で一途な人なのよ・・・多分ね?」

「・・・へ、へぇ・・・」

そこは断言しないんだ・・・ていうか、一番重要な所・・・よね?純粋で一途・・・ねぇ。

でも確かに聖さまって一途なのは一途みたいなんだよね。

「聖さまって・・・好きになったら死ぬまで大事にしてくれそう・・・だよね」

私がそうポツリと呟くと、志摩子さんは笑った。

「そう思う?」

「うん、浮気とかしなさそう・・・何だかその人しか見えなくなりそうじゃない」

だって、栞さんの事を今でもずっと引きずってるくらいだもん。相当根深そうだよ?あの人の愛情って。

でも、それぐらい愛されたら幸せなんだろうなぁ。

ずっとずっと一人だけを愛するって、難しいかもしれないけど、でもそれってやっぱり憧れだもんね。

「そうねぇ、お姉さまに好かれると大変そうよね、いろいろと。でも、祐巳さんが言ったような意味では幸せかもしれないわね」

聖さま・・・か。本当は一体どんな人なんだろう?本当の聖さまって、どんななんだろう?ちょっとだけ聖さまを知りたくなった。

窓の外を見つめる私に、由乃さんが言う。

「祐巳さん、安心して!私達協力は惜しまないからっ!!」

きょ、協力って・・・由乃さんに任せるのってちょっと怖い・・・とか言ったら由乃さん怒るかな?

「あ、ありがとう・・・」

「いいのよっ!親友でしょっっ!!」

暴走由乃さんを止める術はない。志摩子さんもきっとそう思ってると思う。

だって、お互いの顔を見合わせてついつい苦笑いしちゃったもん。

生まれて初めての恋バナは凄く恥ずかしくて、ドキドキして、甘酸っぱかった。でも、それを楽しいと思えた自分も居て。

何だかずっと昔に憧れてたような話を、今ここでしているような、そんな気になった・・・。




第四十六話『こんなにも豪華なホテルにはきっともう一生来ないだろう』




「記念、記念!」

そう言って由乃さんはさっきからずっとシャッターを切っている。最近の携帯は便利ね〜、とか言いながら。

本当に、最近の携帯電話はとっても便利だと思う。私の学生時代はポケットベルなんてものが流行ったけど、

あれは大変だった!10円でどれだけ長い文章を打つかが勝負だったもの!

ところが私ドンくさいからいっつも途中で切れるのよ・・・で、皆に怒られて・・・。

それに比べて携帯電話の便利な事!メールだって時間勝負じゃないし、絵文字とかも送れるし。

そんな事を考えつつ、私はさっきからずっと携帯電話ばかりを気にしていた。

ホテルについてからもう一時間も経つけど、相変わらず聖さまからは一通のメールも来ない。

ていうかさ、そもそも聖さまがメールしよ?っていうから半ば無理やり買ったのに、

その聖さまがただの一度も送ってこないってどういう事!?

「もう!・・・聖さまのバカ・・・」

そりゃ付き合ってる訳でもないし?しょうがないけどさ・・・そんなの私の我ままだって事もよーく分かってるよ?

でも、一通ぐらい送ってくれてもいいじゃない。せめてこうやって離れた時ぐらいさ・・・。

「祐巳さん、お姉さまは私にもメールくれた事ないの。だからそんな心配しなくても・・・」

「・・・うん、ありがと、志摩子さん」

本当にありがとうね?でもね、それってあんまり慰めになってないかも・・・。

まぁ、志摩子さんでも送ってもらえないんだから、私なんてそりゃ眼中に無いんでしょうよ。

そうそう、ところで由乃さんがどこからともなく見つけてきたこのホテルは凄く豪華だった。

ロビーとかもピッカピカだし、大浴場だって相当広い・・・らしい。おまけに何と!プールまであるんだって!!

でもね・・・でもね・・・それって、来るまで知らなかったのね。だから私はもちろん誰も水着の用意なんてしてないのよ。

「あ!ほら、見て!!水着レンタル出来るんだって!!良かったね祐巳さん!」

「え、わ、私!?」

「そうだよ!だって、祐巳さん凄く入りたそうな顔してるもの!!あ、もちろん私も入りたいよ?」

そう言って由乃さんは部屋に添えつけてあった冊子を見ながらニコニコしてる。

プールかぁ・・・何年ぶりだろうなぁ・・・プール・・・えへへ、楽しそう!

「もちろん志摩子さんも入るよね?」

「えっ?ど、どうしようかしら・・・」

私の言葉に志摩子さんは困った顔をして言った。そりゃそうか、突然プールとか言われても困るよね、普通。

それに志摩子さんは京都に観光しに来たんだし?本来なら乃梨子ちゃんと来たかっただろうに・・・。

でも、志摩子さんは私の思ってるような事で悩んでる訳ではないようだった。両手で頬を押さえ恥ずかしそうにポツリと言う。

「だって私・・・最近ちょっと太ってしまって・・・」

あ・・・なるほどね。プール自体は割と乗り気なんだ・・・。

そんな訳で私達はとりあえず今日は観光ではなくてプールで遊ぶ事にした。もちろん、ダイエットも兼ねて!

ロビーに下りると由乃さんはさっそく従業員を捕まえて何やら手続きを始めた。

こういう時、由乃さんって物凄く頼りになるんだよね。

従業員さんに言われるがまま更衣室に向った私達を待っていたのは・・・。

「ちょ、ま、まさか・・・」

「よ、由乃さん・・・これって・・・」

「うん!我慢しようよ!しょうがないよ!」

由乃さんはそう言って一番手前にあったオレンジ色の鮮やかな水着を手に取りサイズを確かめて頷く。

「ね、ねぇ・・・これって・・・ビキニ・・・だよね?」

「うん。これしか無いんだってさ!」

「よ、由乃さん・・・ビキニは私ちょっと・・・」

志摩子さんはそう言って口元を手で覆う。だよね・・・ビキニは私もちょっと・・・。

でも、そんな私達を見て由乃さんは怖い顔で言った。

「まさか二人とも・・・手続きさせておいて今更着ないなんて・・・言わないわよね?」

こ、こわっ!!由乃さんのドスの効いた声に私と志摩子さんは思わず首を横に振った。だって、どうしようもないじゃない!

すっごく怖かったんだもん!!!!志摩子さんは数あるビキニの中から真っ白な水着を選ぶと、

入念にサイズチェックをして恥ずかしそうに言った。

「私はこれにするわ」

・ ・・と。えー・・・じゃあ私はどれにしよう?ていうか、私本当に胸無いんだけど・・・。

とりあえず私はズラリと置いてある水着の中から自分の好みのものを選んだ。けれど、なかなか好みのものはサイズが無い。

その時、隣でそんな私の様子をじっとりと見ていた由乃さんが一枚の水着を私の方に突き出した。

「祐巳さん、これとか似合いそう!」

「あら、本当・・・可愛らしいわ」

由乃さんがそう言って差し出したのは、薄いピンク色の胸の所にフリルのついた可愛らしい水着だった。

そうか!フリルが胸元についてれば、ちょっとは胸・・・大きく見えるんじゃない?

そんな浅はかな打算と、欲望に包まれた私は、迷わずそれに決めた。サイズもちょうど良かったし、全てばっちり!

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「キャー!祐巳さん可愛い!!髪は?そのまんまなの?」

「あ、そうだよね・・・どうしよっか?」

「上げようよ!無造作にあげようよ!絶対可愛いって!!」

「そ、そうかな・・・」

私は由乃さんに言われた通り、無造作に髪を上げたけれど、それではダメだと由乃さんにダメ出しを喰らってしまった。

結局由乃さんは私を鏡の前で座らせて、せっせと私の髪をくくってくれる。

一方志摩子さんはといえば・・・凄く綺麗・・・。

「はぁ・・・志摩子さんはやっぱり大人っぽいなぁ・・・それに凄くスタイルいいし・・・」

「いやだ、祐巳さんったら、祐巳さんだってスタイルいいし、可愛いじゃない。その髪型、とても素敵よ」

「そう・・・かなぁ・・・」

そう言って鏡を覗き込んだ私は、自分を見て驚いた。由乃さんってば・・・実は物凄く器用なのかもしれない。

左にズラして無造作に一つでくくっただけなのに、いつもとは随分雰囲気が違う・・・。

それどころか・・・自分で言うのもなんだが・・・。

意外に似合ってるじゃない。由乃さんは満足げに頷くと、お下げを解き一つにまとめ、それを頭のてっぺんで高く結わう。

「さて!それじゃあ、いきましょ!プールが私達を呼んでるわっ!!」

「「お、おう?」」

志摩子さんと私は顔を見合わせ由乃さんに従った。そうしておかないときっと後が怖い。

借りた浮き輪とビーチボールを持って表に出た私達は、あまりにもプールに居る人たちが少ない事に驚いた。

きっと皆今日は観光に行ってるのね・・・そりゃそうか。ついてそうそうプールって・・・ねぇ?

でも空いてる分、私達はそれはもう、誰にも気兼ねなく遊ぶ事が出来た。

最初は渋っていた志摩子さんも、最後の方には私と一緒になって由乃さんに水をかけて遊んでいたし、

それに怒った由乃さんに追いかけられて、物凄い綺麗なフォームでバタフライをしている志摩子さんを見て、

私はちょっとだけ見直してしまった。そのスピードったらもう・・・競泳のような速さで・・・。

「し、志摩子さ・・・はや・・・ごほ!」

由乃さんはそう言ってヨロヨロとこっちにやってくると、ビーチサイドに置いてあるビニールチェアーに転がる。

「由乃さ〜ん!もう終わりなの〜〜?」

向こうでは楽しそうな志摩子さんがこちらに向って手を振っている。

「由乃さん、ほら、呼んでるよ?」

私は髪から滴る水を払いながらそう言うと、由乃さんは突然持っていた携帯電話でそんな私をパシャリと撮った。

「ちょ、由乃さん!?いつの間にそんなもの持ってきてたのよ!?」

「えへへ、さっき水から上がるときに持ってきたの。記念、記念!!」

「記念って・・・私こんな格好なのに!!」

「いいじゃない、別に。もうこれから一生を通してもこんなにも豪華なホテルに泊まる事なんてないかもしれないよ?」

う・・・そ、それはそうかもだけどさ・・・。いつまでたってもやってこない私達に業を煮やしたように、

志摩子さんがこちらに向ってやってくるのを見て、またもや由乃さんの目がキラリと光った。

「記念、記念!」

パシャリ。それに気づいた志摩子さんは怒ったような笑っているような不思議な顔だ。

「もう、由乃さんったら・・・充電なくなっちゃうわよ?」

「いいも〜ん。ちゃんと充電器もってきたも〜ん!」

「・・・さすが・・・準備いいね・・・」

「あったりまえでしょ!ほら、並んで並んで!!」

由乃さんに言われるがままに並んだ私達を、由乃さんが携帯で撮る・・・。

「記念、記念!!いいよー二人とも!すんごくセクシー!!

あ、志摩子さんもうちょっと首傾げて・・・ほら、祐巳さんよそみしない!」

そんなこんなで、プールでの撮影会・・・もとい、一日目の予定はこうして終わった・・・。何だかなぁ・・・。

夕食とお風呂が終わった後、部屋に戻ってきた私達は何やら由乃さんの不穏な空気に気がついた。

「そ〜れ!一括そうし〜ん!!」

ちょ、ちょっと!!一体何を送信したの!!??しかも一括って・・・誰に何を送ったのよ!?

多分、同じことを志摩子さんは思ったんだと思う。顔は青ざめるのを通り越して真っ白だ。

そしてその直後、志摩子さんの携帯が鳴った。

「・・・乃梨子だわ・・・」

「えっ!?乃梨子ちゃん??」

「よし!ちゃんと行ったか!」

「由乃さんっっ!!??」

ま、まさか・・・電話に出た志摩子さんの顔と、電話の向こうから聞こえる乃梨子ちゃんの叫び声で、

大体由乃さんが何の写真を送ったのかがわかった。

そしてしばらくして、それまでずっと黙ってた私の携帯が鳴った・・・この着信音は多分・・・聖さまだ。

私は由乃さんをキッと睨んでから恐る恐る電話を開くと、大きく深呼吸をした。そして思う。

こんなにも豪華なホテルにはきっともう一生来ないだろう・・・いいや、来るものか、と。





第四十七話『ラブ・アクチュアリー』





私は祐巳ちゃんからの電話を切った後、しばらく何も出来ないでいた。本当はもっとメールとかしたいのに、出来ない。

恥ずかしくて・・・ていうか、何送ればいいのかもわかんないし。

正直祐巳ちゃんが私をどう思ってるのか分からない以上、下手に動きたくはない。

それに、今メール送ったら私が寂しがってるのバレバレじゃない!そんなのは・・・悔しいよ。

まぁ、いいよ。とりあえず今夜蓉子と江利子と・・・何故かお姉さまと外食するつもりだし、

とりあえず今日は寂しいなんて事ないだろう。でも・・・こんなにも朝早くに起きちゃって、今から何しよう?

日曜日の朝っぱらからこんな時間に起きるのは、本当に久しぶりだった。しょうがない、また映画でも見て時間を潰そう。

「何見よっかなぁ〜・・・そうだ、これにしよう」

私は一枚のDVDを取り出してタイトルを見て、はぁ、と大きなため息を落とした。

『ラブ・アクチュアリー』・・・昔はこの映画が苦手だった。

でも・・・今見ればどうなんだろう?昔よりは、あるいは好きになれるかもしれない。

私はデッキの電源を入れ、いつものようにヘッドフォンをする。字幕は消して、もちろん英語で・・・。

冒頭の台詞に、私はちょっとだけ面食らった。だって、今はこんなにも素直にそれを認める事が出来たから。

Love actually is all around us.

愛は実際、私達の周りに溢れている。

・・・確かにそうなんだ。どこに行っても愛に溢れてるんだ、この世ってやつは。

猫も犬も、もちろん人間だって、愛に溢れている。親子愛、家族愛、それに・・・恋人同士。

どうして私はそんな事すら忘れてしまっていたのか。いつからこんなにも寂しい大人になってしまっていたのか。

私は祐巳ちゃんが好きだ。多分、これはもう事実なのだろう、疑いようもない。そしてそこにあるのは間違いなく愛なんだ。

映画の中で小さな男の子が言う。

「恋よりも辛い事って、この世にあるの?」

そしてその子の義理の父親はそれを聞いて悩む。でも、父親は言う。頭を抱えながらぼそっと。

「・・・そうだな・・・ないな・・・」

・ ・・と。こんなにも小さい男の子でさえ、恋では苦しむんだ。いや、これはあくまでも映画なんだけど。

そんなの、じゃあ大人の私達が苦しまない訳がない。いつの間にか捩れてしまった心とか、

汚れて純粋じゃなくなってしまった気持ちとか、そんなものが邪魔になって見えないものを信じようとしない。

だから愛なんて、恋なんて信じられなくて。栞と居てもいつも不安で仕方なかった。でも、恋はそれだけじゃない。

苦しみもあれば、もちろん楽しい事だってある。あっけないほど簡単な事だったのに、それにすら気づかないなんて。

映画を見終わった時、私はこの映画が大好きになっていた。胸が熱くなるような、そんな感じがする。

愛はどこにでもあって、誰の元にもある。もちろん、私にも、祐巳ちゃんにも。

そしてその愛がようやく繋がった時、きっと私達は初めて信じる事が出来るんだろうな。で、初めて安心するんだろう。

今まではそれが一方通行だったんだ。どちらかが同じぐらい返さないばっかりに、それはやがて壊れた。

いくら愛があっても、重荷になってしまえば壊れるのは一瞬だ。いくら積み上げた歳月が長くても、散る時は儚い。

後には何も残らず、まるでそこには元から何も無かったかのよう。でもね、最近はそうでもないかもしれない、とも思う。

だって、そこには失敗という事実は残って、間違いなくそれが私の財産になるのだから。

もう同じ過ちは繰り返さないよう、積み上げられた失敗は、決して無駄ではない。・・・と、思う。

まぁ、口で言うのは簡単だけどね。行動に移すのがなかなかね・・・。

そんな事を考えていると、危うく一日の用事をすっかり忘れるところだった。

蓉子から電話がかかってきて初めて、私は今日の夕食は皆で外食するって事を思い出したんだ。

行った先はお姉さまの行き着けのお好み焼きやさんだった。

相変わらず私がついた頃には皆集合してて、どうにもいたたまれない気分になった私はどうにか苦笑いで難を逃れた。

「聖はもう少し早めに家を出なさいよ、いっつも遅れてくるんだから」

「ごめんってば。考え事してたらついうっかり・・・」

「誰の為の夕食よ?あんたでしょ!?」

江利子とは違い、蓉子は怖い。相変わらず言いたい事をポンポン言ってくれる。

でも・・・今日はお姉さまも居るからあまり強くは言えないみたいだった。

「まぁまぁ、蓉子ちゃん。そのくらいにしてやってちょうだい。聖も別に悪気があって遅れてくる訳じゃないわよねぇ?」

「え、ええまぁ・・・」

お姉さま、ごめんなさい。本当は私、多分皆に甘えてるんです・・・もしかするとこうやって叱って欲しいのかも・・・。

だってほら、蓉子は何だか女王様っぽいし・・・とすると私は・・・もしかしてM?いやいや、まさか・・・ね。

「ところで聞いてもいい?どうして聖の為の夕食会なの?」

お姉さまはまるで何も知らないでついてきたようで、目をぱちくりさせている。

ていうかさ、どうして何も知らないのにノコノコついて来れるんだろう?

昔っからお姉さまのそういう所が私にはよく理解出来ない。言葉に困ってる私の代わりに、江利子が答えてくれた。

「それはですね、聖の夕食が今は京都に居るからなんです」

「あら、江利子ったらその言い方は生々しいわよ」

「でも間違いじゃないでしょ?いずれ遅かれ早かれ聖は手を出すわよ」

「そうだけど・・・まだなんでしょ?」

「ていうかさ、どうしてそういう風にしか見れない訳?二人とも・・・」

あんまりじゃない?こないだからさぁ!私=そっちな訳?そりゃ多少は私に非があるのかもしれないけど!

お姉さまはそれを聞いて笑いをかみ殺している。

「ああ、なるほどね。それは残念だわね、聖。夕食に逃げられちゃったんじゃさぞかし貴女も寂しいでしょうに」

「お姉さままで!!違いますよ!祐巳ちゃんは私の夕食を作ってくれてただけなんです!!別にそういう仲じゃないですよ!」

「まぁまぁ、いずれそうなるかもしれないんでしょ?今度こそ逃がさないようにしなさいよ?」

「・・・そっすね・・・」

あー・・・ダメだ。こりゃ何言ってもきっと勘違いされたままに違いない。

ちなみに私の中では祐巳ちゃんはデザートなんだけどね!

・ ・・とは、流石に言えなかった。そんな事言おうもんなら、きっともっと現状はおかしくなるだろうから。

お好み焼きを食べながらビールを飲んで皆で話してるのが楽しくて、すっかり祐巳ちゃんの事を忘れていたのに、

そんな私を罰するみたいに絶妙なタイミングでメールが来た。それも由乃ちゃんから・・・。これってすごく珍しい。

でもね、今は楽しいお酒の席じゃない。そんな中でメールとかって、非常に失礼だと思うわけ。

ブルルル、ブルルルルル。

「誰か携帯鳴ってない?」

あーあー、気づかなくてもいいのに。江利子はそう言って自分の携帯を見て首を傾げる。

それに続いて蓉子もお姉さまも自分のを確認して首を振った。こんな風に振られたら私も見るしかないじゃない。

「・・・私みたい。しかも由乃ちゃんから」

「由乃ちゃん!?珍しいわね、聖に由乃ちゃんがメールするなんて!」

江利子はどうやら興味津々らしく、向かいの席から身を乗り出して携帯を覗こうとする。

「何だったの?」

お姉さまが私を急かして、私は仕方なく携帯を開けた。メールが二通、しかも写真のみのメールだった。

「写真みたいです・・・ホテルの写真・・・みたいですね」

「な〜んだ。もっとすんごい画像かと思ったのに〜。つまらないわ」

そう言ってお姉さまはプイとそっぽを向いてまたビールを飲んでいる。

一通目はホテルとか、お風呂とか、景色とかの写真ばかりだった。だから私は油断してたんだと思う。

まさか、こんな写真が送られてくるとは思わなくて・・・。

二通目のメールを開けて画像を呼び込んでいた時、一番に目に飛び込んできたのは志摩子と祐巳ちゃんのビキニ姿だった。

「ビっ!!」

「な、何?どうかしたの?聖」

「い、いえっ?な、なんでも・・・ただビックリした!って言おうとしただけで・・・」

「・・・ビックリしたのはこっちよ・・・全くもう」

いや、本当はビキニ!?って言いたかったんだけど・・・さすがにそれはちょっと言えない。

とりあえず耐えた。私は耐えた。志摩子とのツーショットだし、それに胸にビーチボール抱えてるし!!

ていうか、どうして水着な訳?しかも祐巳ちゃんいつもと髪型違うしっっ!!!

そんで二枚目の画像を見た私は・・・思わず立ち上がっていた。ていうか、携帯を閉じて、口を覆うしか出来なかった・・・。

そんな私に他の皆が驚かなかった訳がない。江利子に至っては白い眼で、

「ちょっと、吐くんならお手洗い行ってよ?」

なんて事言う・・・でも、吐くどころの騒ぎじゃない・・・これは・・・これは反則だろう?

ていうか、由乃ちゃん・・・ありがとうを通り越して最早憎いよ。君が憎い!!

「ちょっと・・・お手洗い行ってきます」

「ええ、大丈夫?ついていこうか?」

「いえ、平気・・・です・・・」

ていうか、多分何か出るとしたら口からではなく、鼻からだと思う。いや、マジで。

まぁ、あんまり直視してないから正直どんな画像だったかはよく分からなかったんだけど、もう一度見ると・・・きっと出そう。

お手洗いの個室に入った私は握り締めた携帯をゆっくりと開いた。するとそこにはやっぱり志摩子と祐巳ちゃんの画像。

で、それをゆっくりスクロールさせたら・・・キタ!!コレ!!!祐巳ちゃんのビキニ!!!

ていうか、何この色気・・・ビニールチェアに座って、ちょっとだけ首を傾げて耳に髪をかきあげる仕草・・・。

それを少し上から写してあるから、胸がしっかり映ってる。でも、フリルで小さいのはカバーって感じ。

「これは・・・ダメでしょう・・・」

奥の足を立ててるもんだから、ちょうどビキニラインまで見えて・・・あ・・・ダメ、何だかクラクラしてきた。

髪型が違うからなのか、それとも水に濡れてるからなのか分からないけれど、祐巳ちゃんはすごく何と言うか・・・、

艶かしい。ていうか、可愛いんだけど、すっごい色気・・・。

由乃ちゃんが何を思ってこの画像を私に送りつけてきたのかは分からないけれど、

これを見た以上、私のする事なんて一つに決まってる。ただでさえ置いていれた挙句、メールの一つも寄越さないで、

まさかこんな所でこんなにも無防備な姿になってるなんて・・・その上、あと四日も会えないというのに!!

電話を握り締めた私は迷う事なく祐巳ちゃんに電話をしていた。

プルルルルル、プルルルル、ガチャ。

『も、もしもし・・・』

「もしもし?随分と楽しそうねぇ」

『え、ええ・・・まぁ・・・由乃さんからのメールの件でしょうか?』

おう、よく分かってるじゃない。という事はちゃんと自覚してるんじゃない、どれほど自分が無防備かって事!

「当たり。何、あれ?」

『やっぱり・・・似合いませんでしたよね?あんな・・・フリフリなんて・・・』

は!?いや、そうではなくて・・・ていうか、あれは似合ってたよ!物凄く!!そう、むしろ怖いくらいに!!

「いや・・・あの・・・」

『分かってるんです・・・自分でも似合わないなって・・・志摩子さんみたいにスタイル良くないし、

由乃さんみたいにスレンダーでもないし・・・なんていうんですか?中途半端っていうか、幼児体型っていうか・・・』

いやいやいや、だからそうではなくてっ!!そこじゃなくてっ!!

「に、似合ってたよ、水着は。そうじゃなくて、私がいいたいのは・・・」

『えっ!?ほ、本当ですか?本当に?!』

「う、うん。本当。いや、だからそうじゃなくて、あんな所であんな格好・・・」

『じゃ、じゃあ聖さまは少しでも私の事可愛いって思ってくれました!?』

ん?そ、そりゃ・・・思ったわよ。悔しいけど・・・ちょっとだけ抱きたい、とか思っちゃったわよ・・・。

いや、絶対口には出さないけど。

「まぁ・・・ね。可愛かったよ。だからそうじゃなくてっ!!」

あーもう!!どうして私の周りには話を最後まで聞かない奴ばかりなの!?

私は祐巳ちゃんに怒ってるのよ!私の目の前以外でそんなにも可愛い顔をしないで!って怒ってるの!!

どうやったらそれを伝えられるの!?ていうか、そもそも私、何言ってんの??

『聖さま・・・私ね、本当は聖さまと・・・来たかった・・・』

「え・・・それって・・・」

それって・・・今、ねぇ、どんな顔してるの?由乃ちゃん!!今撮りなさいよ!!!今!!!!そして私に送れ!!すぐに!!

何て、そんな祈りが届くはずも無いよね。ていうか、胸が痛い。秋の夕暮れを一人で見てるみたいな、そんな気分。

「ねぇ、祐巳ちゃん・・・」

『はい?』

「水着・・・可愛かったよ・・・凄く、似合ってた。でもね、だから今度は、私も一緒に連れてってよ・・・」

『聖・・・さま・・・もちろんですよ。皆でまた来ましょう?』

そうではなくて・・・とは、流石に言えなかった。祐巳ちゃんのその答えでもう十分だった。

私と一緒に行きたかった、とそれだけで、私は十分幸せだったんだ。でも・・・でも・・・。

「いい?祐巳ちゃん。可愛かったけど、でも、明日からは水着禁止!!もちろん志摩子にも由乃ちゃんにも言っておいてね?

学校の先生なのにナンパとか恥ずかしいでしょ?それに・・・三人とも言うほど若くないんだからっ!!」

最後の一言は・・・照れ隠しだった。完全に。だって、こうでも言わなきゃ完全に私の独占欲のために言ってるみたいじゃない!

いや、実際にはそうなんだけどさ!!でも、でも、やっぱり恥ずかしいよ、それは。

案の定、祐巳ちゃんは黙り込んでしまった・・・ヤバイ絶対に怒られる・・・。

『聖さまの・・・聖さまのバカーーーーっっ!!!どうせ若くないですよっ!!

聖さまなんて・・・聖さまなんて・・・大ッ嫌い!!!!』

ガチャン!!

「あ・・・」

ヤバ・・・やっぱりね・・・。でもさー・・・実際そんなに若くないじゃない?いや、十分可愛かったけどね。

でも、やっぱり私の目の届かない所でそんな格好しないでよ・・・私の事なんとも思ってなくても、これぐらいは・・・言わせて?

「はぁ・・・私って、ほんと・・・」

情けない・・・そう思った矢先、今度は祐巳ちゃんからメールが来た。

『ごめんなさい。言い過ぎました。でも・・・聖さまが悪いんですからねっ!お土産、覚悟しといてください。

ハイセンスな物買って帰りますから!

なんてね、嘘ですよ。ちゃんと京都らしい物、買っていきますね。

その代わり、帰ったら何か美味しいもの奢ってください。それで許してあげますから!それでは、そろそろ寝ます。

明日は清水の方に行くんです!凄く楽しみですよ。またメールしますね!ちゃんと返してくださいよ?

それと・・・聖さまもほどほどにしとかないと明日辛いですよ?聖さまだって・・・私よりもずっと若くないんですから(笑』

「言ってくれるじゃない、そうね、確かに私は祐巳ちゃんよりも二つも歳とってるもんね・・・」

でも、私の方が多分体力はあるけどね!

まぁ、でも。それぐらいの罰なら受けてもいい。だって、ほら。これが初めての祐巳ちゃんからのメールだったから。

だから私もちゃんと返信しておいた。いつもの私らしく、ね。

ほらね、ここにだって、ちゃんと愛は溢れてる。私が祐巳ちゃんを想う愛。祐巳ちゃんが私を思う愛。

それがたとえ、恋人に想うようなそれではなくても、どこにだって、愛はあるんだ、きっと。

「Love actually is all around us.・・・か。やるせないな・・・ほんと」

祐巳ちゃんのメールと画像をしっかり保護した私。本当に、やるせない。

でも、いつかきっと、私は祐巳ちゃんを手に入れて見せる。そしてあの映画を二人で見るんだ。



第四十八話『思い描く未来』




もしも、君が今もどこかで泣いているなら、少し前の私はきっとどこに居ても助けに行ったと思うけど、

今はとてもじゃないけど、そうはいかない。私は大人で、君がどこに居るのかも知らないんだから。

でも、もしも今君ともう一度どこかで会ったら私は何を思うのかな?前のような感情を君にまた抱くのかな?

いいや、残念だけどそうは思わない。だって、私には今好きな人が居る。君を愛したあの日は偽りではないけれど、

今の私には君よりもずっと、好きな人がいる。

「・・・なんてね・・・バカみたい」

私は何も無い部屋の中をグルリと見渡して、またコルクボードから写真を一枚一枚丁寧に剥がし始めた。

栞との写真、彼女との思い出・・・今でも時々胸を刺す。多分、こんな写真がまだあるからいけない。

だって、ほら。栞はただの一枚も私の写真を持っていかなかったじゃない。

何も無くなった部屋の中に私と撮った写真の束だけがポツンと取り残されていたじゃない。

「あれは結構酷いよねぇ」

写真の私はどれも笑っていない。もちろん栞も笑っていない。今思えばどうして栞が好きだったのかもよく思い出せない。

「・・・酷いのは、私か」

何気なく栞を傷つけて、私はずっと平気な顔してた。私は最低だった。ほんとうに、今心からそう思う。

それでも今までこの写真を処分出来なかったのは、きっと心のどこかにずっと引っかかってたんだろうな。

懺悔なのか、愛情なのかは分からないけど、今ようやく全ての写真を処分する勇気が湧いてきた。

一枚、また一枚と剥がしているうちに心は軽くなっていくような気がして、でもポッカリと穴が開いたような感じではなくて。

人を好きになるとこうも簡単に前の人の事を消化出来るものなんだと気づく。

確かにいつまでも引きずってても仕方ないしね。でも、確かに残るものもあるんだけど。

大きなコルクボードから最後の写真を剥がした時、何も無かった部屋がさらに広くなったような気がした。

「思い出はこうやって色褪せていくものなのかな」

今夜の私はやけに詩人だ。さっきから恥ずかしい台詞ばかりが頭を過ぎる。

どうかしているとしか思えないけど、たまにはいい。本当にたまになら、ね。携帯を開いて祐巳ちゃんの写真を探す。

とはいっても、あの妖しい写真しかないわけだけど。まぁ、今はこれで十分。

このコルクボードにはきっと今度は祐巳ちゃんの写真が増えるんだろう。私って、単純。でも、意外に繊細なんだよなぁ。

だから誰も部屋には入れられない。いつまでも一人ぼっち。

もしかすると誰かと真剣に付き合える事って・・・この先ないのかもしれない。でもそれじゃあ嫌だなって思う事もたまにはある。

「ほんと、わがままなんだよ、私は」

分かってるけどね、そんな事。退廃的で節操がなくて、だから誰からも本気で愛してもらえない。

いや違うな。愛されるんだけど、私が愛せないのか?まぁ、どっちでもいい。とりあえずいつも長続きしない。

まっさらになったコルクボードの縁に缶ビールをコツンと当てた。

「・・・乾杯・・・」

その時、珍しく詩人でシリアスな私の部屋の呼び鈴を誰かが押した。

ったく、人がせっかくシリアスにどっぷりはまろうとしてるのに!今何時だと思ってる?もう11時だよ!?

覗き穴から呼び鈴を鳴らした犯人を見てやろうと覗き込んだ私の目に飛び込んできたもの・・・。

それは、舞妓さんの写真・・・いや、ポストカードか。

「まさか・・・」

ガチャリと鍵を開けると、そこに立っていたのは紛れも無く、彼女だった。

「・・・祐巳ちゃん?どうしたの?ずぶ濡れじゃない!!」

「はいっ!夜分遅くにすみません。突然雨に降られまして・・・すぐに帰りますから。

明日から学校だからこれを今日中に渡しておこうと思ったんです」

つうかさ、そんなに濡れて・・・電話してくれれば駅まで迎えに行くのに・・・。

しかも風邪でも引いたらどうするのよ!?・・・とは言えない。だって、私はただの先輩でしかないのだから。

だから仕方なく!文句言いたいのをグッと堪えて私は祐巳ちゃんのお土産とやらを受け取った。

「これって・・・」

私は祐巳ちゃんから手渡されたものを見て愕然とした。ていうか、こんなもの貰っても・・・。

「聖さまなら絶対にこれがいいよ!って話になったんですけど・・・ダメでした?笑えません?」

祐巳ちゃんは凄い笑顔でそう聞いてくる。でもね、これ貰ってもなぁ・・・。私の趣味・・・疑われない?

京都のお土産は舞妓さんのポストカードのセットと、清水の舞台のちゃちい模型だった。しかも自分で組み立てるやつ。

「いやぁ・・・舞妓さんは嬉しいけど、これは・・・どうかなぁ・・・」

「えー・・・せっかく買ってきたのに・・・聖さま暇だ暇だっていうからちょっとでも暇つぶしになればなと思って・・・」

ああ、なるほど。暇つぶしになればなと思ってプラモデル買ってきたわけだ。・・・つうか、私は子供かっ!!

「・・・もしかして私の事バカにしてる?」

「ま、まさか!聖さまのお土産選ぶのに一番時間かかったんですよ?」

ほう・・・これを選ぶのに一番時間がかかったのか。さぞかし他の人にはしょうもないもの買ってきたのね?一応聞いとこ。

「で?他の人たちには何買ってきたの?」

「他の方ですか?蓉子さまとSRGは京都の地酒、祥子さまと令さまには染物のハンカチ、

蔦子さんと静さまにはお菓子、それから江利子さまには・・・」

「・・・もういい。で、それを選ぶよりもこれが時間かかった訳?」

「だって、聖さましょうもない物は嫌とか言うじゃないですか!だからかなり悩んだんですよ?」

悩んでコレ・・・悩んで・・・どうせなら私も地酒の方が・・・とは、言えなかった。

だって祐巳ちゃんなんだか泣きそうな顔してるんだもん。

「ま、まぁ、舞妓さんのコレはいいね。飾っとくよ」

「そうですか!良かった。志摩子さんと由乃さんが聖さまは絶対に舞妓さんだ!って言ってくれたんです」

「へ、へぇ・・・どうしてだろうね?」

「理由・・・・・・・・・聞きたいですか?」

そう言って突然祐巳ちゃんは真剣な顔をする。それが何だか怖い。後、微妙にタメるの止めてもらえないかな。

「いや・・・遠慮しとく。とりあえずありがと」

「いいえ、どういたしまして。それじゃあ私はこれで」

「うん、ありがとう、わざわざ・・・ていうか、ちゃんと帰ったらお風呂入ってあったかくしときなね!」

「はい!ありがとうございます」

そう言って祐巳ちゃんは帰って行った。

私は部屋に戻る祐巳ちゃんの姿を確認してから玄関を閉めるとお土産を抱えてリビングに戻る。

お土産のポストカードをしげしげと見つめながら、私はそのカードの袋に一本の松の枝が入っている事に気づいた。

あと、一緒に小さなメモも。

「なんだ、これ・・・」

メモを取り出し開くと、それは祐巳ちゃんからの短い手紙だった。

『京都にしかない三つ又の松の枝です。これを身につけてると願い事が叶うらしいです。

本当は・・・これに一番時間がかかったんですよ!だから、大事にしてくださいね。聖さまの願い事がいつか叶いますように』

「・・・祐巳ちゃんらしいなぁ・・・」

本当に・・・可愛らしい事してくれる。こんな事されると私はどうしようもなくなってしまうじゃない。

多分このプラモデルもポストカードも本当はこの枝の為のダミーなのだろう。そんな事考えると余計に可愛いじゃない。

初めは、祐巳ちゃんなんて全然タイプじゃないからって安心してたけど、全然そうじゃなかった。

変り種って点では気になってたけど、いつか自分が好きになってしまうかも、なんて事考えた事もなかった。

初めは敵で、次は友達、そして想い人・・・こんな風に恋愛に変わる事もあるんだ。

俗に言う、相談してたら好きになってたって奴。多分、きっかけはあのスキーに行く途中の車の中。

突然祐巳ちゃんの顔が見れなくなった時・・・あの時が始まりだったんだろう。あれから四ヶ月・・・私は今や祐巳ちゃんの虜だ。

たとえ彼女が私以外の誰を好きでも、構うもんか。恋愛なんて戦争だ。

少しでも隙があれば、私はすぐにでもつけこむ気でいる。卑怯だと思われようが、私はそういう人間なんだ。

正直、栞を抱きたいと思った事はなかった。

今まで付き合った子たちとも沢山寝たけど、それでも心から抱きたいと思った事はなかったんだ。多分。

覚えてないって事はきっとそういう事なんだろう。でも・・・どうしてだろう?

最近祐巳ちゃんを見るとこう、何ていうか、ドキドキする。白衣とか頭の中で脱がせたりとかしちゃって・・・。

って、私は変態かっ!!いや、まぁでも、そういう事なんだと思う。それと同時に少し怖いとも思ってしまう。この私が。

あまりにも細くてフワフワしてるし、触ったら壊れそうで怖い。あの祐巳ちゃんがどうなってしまうのかを見るのも怖い。

そして・・・私が、どうなってしまうのかも。何かが変わる前はいつも怖い。

私は祐巳ちゃんに会う事で何かが変わりそうで怖かった。でも好きになった今はその先の段階が怖いだなんて・・・。

まだ付き合ってもいないし、告白してもいないのに。自信があるわけでもないし、むしろ全く無いというのに。

「・・・どうかしてるよ、ほんと・・・これじゃあ蓉子の言った通りじゃない」

変態英語教師・・・言い得て妙ってこの事だ。いや、どちらかというとズバリその通りなのかも。

どっちにしても、私は変態かもしれないって事だ。何だか釈然としないけど、親友が言うのなら間違いない、きっと。

はぁ・・・どうかお願い。私に祐巳ちゃんに告白する勇気を下さい、神様。

そして出来れば幸せな未来を・・・いつも私が思い描いていたような未来を・・・ください。





第四十九話『もう、私ってそんなに若くはないのね』





京都から帰ってきて次の日は一日中家で寝てた。だって、何だか体がずっとギシギシしてて、ダルかったから。

それにしても・・・京都って本当に素敵!舞妓さんは綺麗だったし、食べ物は美味しかった。

それに、景色も綺麗だし、お寺巡りも楽しかった・・・でも、それも昨日で終わったんだなぁ、とか思うとちょっと寂しい。

聖さまにメールする!とか言っておきながら結局一度も出来なかったし、聖さまからももちろんメールは来ないし・・・。

本当は別にお土産は昨日ゆっくり渡しても良かったんだ。でも・・・でも・・・会いたかった・・・。

聖さまに・・・どうしても会いたかったんだ・・・私。

最後のホテルで私は聖さまの夢を見て、夢の中では私聖さまと手を繋いで京都を観光してて・・・。

結局最終日はずっとその夢の続きとかを想像してて、何だか余計に切なかった。でも、凄く幸せだった。

たとえ夢の中でも聖さまに会えたのが嬉しくて、でもそうしたら今度はどうしても本人に会いたくなった。

だから私は雨の中傘もささずに駅から走ったんだ。タクシーを待つ時間さえ惜しくて。

でも、聖さまはあまりお土産喜んでくれなかったな・・・。それがちょっとだけ寂しい。

私は保健室の椅子をギシギシ言わせながら大きく伸びをして小さく笑う。

一昨日、志摩子さんと由乃さんが言った台詞を思い出したのだ。

『聖さまのお土産なら・・・これで決まりでしょ!』

『あら、本当だわ。お姉さまにピッタリね。きっと喜ばれるわ』

『そ、そうかな・・・?』

『うん!絶対喜ぶね!だって聖さま女の人好きだし・・・』

『あまり言いたくはないけれど・・・確かに由乃さんの言う通りよね・・・』

『・・・・・・・・・・・・・・・そ、そう・・・・・・・』

あの時の志摩子さんの顔がなんとも言えなかった。まるで呆れてるみたいな、困ったような。

しかし妹にそこまで言われる姉ってどうなのよ?聖さまちょっとは自粛しないとー。

「ほんと・・・どうしようもない人・・・」

持っていたボールペンをクルクル回しながら私は呟いた。脳裏を聖さまの顔が不意に過ぎって、クラクラする。

そう・・・何だか酷く・・・クラクラして・・・。

私には、その時何が起こったのか分からなかった。ガタン!!と物凄い音がして、私は椅子から倒れるように落ちた。

薄れゆく意識の中で、ポツリと呟く。目の前が端のほうからジワジワ黒くなって、私は恐怖で一杯だった。

もしかするともう聖さまには会えないかも・・・そんな考えが頭を過ぎる。

「せ・・・い・・・さま・・・」

虚しく伸ばした指先は持っていたペンに少しだけ触れて、力なく床に落ちて。

やがて・・・私の意識は完全に途絶えた・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

気がついたら私は保健室のベッドに寝かされていて、誰かが心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。

誰だろう?・・・あれー?これってもしかしてまた夢なのかな・・・?だって、じっと私を覗き込んでるのは・・・聖さま。

どうしてここに居るんだろう?ていうか、どうして私ここで寝てるんだろう?

「祐巳ちゃん?目が覚めた!?令、蓉子呼んできて!」

「は、はい!!」

パタパタパタ、と誰かが走り去る音、聖さまの声はありえないほど切羽詰ってる感じだし、一体私に何が起こったんだろう?

ていうか、どうして私・・・動けないのかな。何だか凄く息苦しいし・・・。

「祐巳ちゃん、大丈夫?ちゃんと意識ある?」

まるで聖さまの声は水の中から聞こえるみたいで、体の動かない私は頷く事しか出来なかった。

それを見て聖さまはホッとしたような顔をして心配そうに笑ってくれる。ああ・・・良かった・・・笑ってくれたぁー・・・。

ボンヤリした頭で、私は呑気にもそんな事を考えていた。でもね・・・ダメみたい・・・凄く気分が悪いし、何だか寒い。

それに意識だって、そろそろブレーカーが落ちそうな、そんな感じがして・・・。

あぁ、意識を失うってこんな感じなんだなって、思う。

そして案の定、私は聖さまの声を遠くに感じながら意識を失った・・・らしい。

次に目が覚めた時、私は聖さまの車の中に居た。どれだけ考えてもどういうことなのかさっぱり分からない。

「せ・・・さま・・・?」

「ああ、目が覚めた?ていうか、もう意識失わないでよね。心配するから」

「すみま・・・せん・・・」

「いや、いいけどさ。せめて家に帰るまで頑張って」

「・・・は・・・い・・・」

そうか、私はまた意識を失ったのか。しかも早退・・・保健医が学校で倒れるなんて聞いて呆れる。

きっと蓉子さまも皆も怒ってるんだろうな・・・でも、不思議と聖さまは全然怒っているようには見えない。

「聖さまは・・・怒らないんで・・・すか?」

「・・・怒る?どうして?」

「だって・・・保健医が倒れるなんて・・・」

「保健医だって人間でしょ?ていうか、無理して話さなくていいよ。見てるこっちが辛い」

「はあ」

いや、何か話してないとまた意識が無くなりそうなんです、とは言えなかった。そんなに長い文章はきっと話せない。

ていうか、自分でも何が言いたいのか分からない。かろうじて体を起こして窓の外を見ると、もうすぐ家につきそうだった。

私は多分聖さまが運んでくれたであろう、自分の荷物をまとめるとゆっくりと体を起こす。

「何してんの?まさか歩く気?」

「は?え、ええそりゃ・・・」

「・・・バカじゃない?歩けると思う?ていうか、無理でしょ?」

うーん・・・言われてみればそうかも・・・でも、じゃあ聖さまが運んでくれるの?私を?おんぶでもしてくれるんだろうか?

私は聖さまにおんぶされる自分を想像して笑みかろうじてかみ殺した。だって、それってかなり幸せじゃない。

車はやがてゆっくりと止まって、聖さまは駐車場に車を入れるために後ろを振り返った。その時、モロに視線がぶつかる。

「・・・何笑ってんの、気持ち悪い」

「う・・・」

酷い・・・そりゃニヤニヤしてたからしょうがないけど!だからってそんなにもはっきり言わなくてもいいじゃない。

クックッと笑う聖さまはそんな私を無視して車を止めると、まず私の鞄と自分の鞄を持って先に行ってしまった・・・。

置いていかれたと思った私は何だか凄く寂しくて、泣きたくもないのに涙が出て来る。

「うわ、今度は泣いてる・・・一体どうしたの?」

戻ってきた聖さまはボー然としながら泣いてる私を見てそんな事を言う。だって、寂しかったんだもん、しょうがないじゃない。

「だって・・・置いて・・・いく・・・から」

「鞄置いてきただけでしょ?ほら、もう泣かない。ついでにちょっとこっちまで出てきて」

私は聖さまの言うとおり鼻をすするとやけに重い体をドアの付近まで滑らせた。すると聖さまは手を伸ばして体を支えてくれる。

そして私をそこに立たせてドアを閉め・・・次の瞬間、私は聖さまに簡単に持ち上げられていた。

「ひゃぁぁ!!」

「今度は何よ?」

「お、お姫さまだっこ・・・」

「・・・まぁ、そうね。お姫さま抱っこだね。何、文句あるの?」

「い、いえ・・・別に・・・」

ていうか、恥ずかしい。いや、それ以前に聖さまはお姫さまだっこするのに手馴れてる・・・。それが何だか凄くショック。

いやいやいや、今はそんな事考えてる場合じゃないし、それどころじゃないし!何だか・・・更に気分が悪くなってきた・・・。

きっとこんな事されるの初めてだからだ・・・だからこんなにも息苦し・・・い・・・。

「ちょ、ちょっと!!祐巳ちゃん!?」

「あ・・・あつ・・・い・・・」

「ちょっと、大丈夫?もうちょっとだから、もうちょっとだけ我慢して!」

「ん・・・」

それだけ言うのがやっとだった。何だか喉がからから・・・しかも寒さの次は熱さ・・・これは間違いなく・・・風邪だろう。

ああ、もう、私ってそんなに若くはないのね・・・あれぐらいの雨で風邪引くなんて・・・。でもまぁ、寝てれば治るよね、きっと。

お薬飲んで大人しく寝てよう。そうすればきっと・・・明日には良くな・・・る・・・。

「・・・ダメだ、こりゃ・・・」

呆れたような聖さまの声が、ずっと遠く・・・はるか彼方の方から聞こえたような気がした。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・ ・・ん・・・なんだろ、この匂い・・・ミント?・・・何かのフルーツ・・・?あれ?でも、私の家にこんな匂いのするものあったっけ?

「・・・あ・・・んぅ・・・」

体は相変わらずいう事をきかない。けれど、うっすらと目を開けた私の目に飛び込んできたのは、裸のままの白熱灯。

あれ?ここどこだろう?間取りはウチなのに、内装が違う・・・。それに、聖さまは・・・?もしかして夢オチ?

首だけ動かしてみてもやっぱり見覚えのあるものはない。

私が寝ているベッドの上には大きなコルクボードがかかっているけど、そこには何も貼られていないし、

黒い絨毯の上にはエメラルドグリーンの二人掛けのソファ、その前にはテレビとDVDラック・・・そして他には・・・何も無い。

キッチンにはグラスとかがいくつか見えるけど、そのどれもヒピカピカに磨き上げられている。

壁には映画のポスター、それに何だかおしゃれな時計・・・。床にはどこかで見た事のあるipodが転がっている。

この生活感の無い部屋は、一体誰の部屋だというのか。

「あ、ようやく気がついたんだ」

「へ!?」

あ、あれ?せ、聖さま?じゃ、じゃあここってもしかして・・・。

「全く。祐巳ちゃんが初めてだよ、私の部屋に入ったの」

苦笑いする聖さまの手には二つのグラスが握られていた。一つはオレンジ色、もう一つは透明。

「はい、こっちが祐巳ちゃんのね。オレンジジュースで良かった?まぁ、嫌だって言っても生憎それしか無いけどね」

なら聞くなよ。とかは流石に思わないけど、そうか・・・聖さまの部屋・・・こんななんだぁ・・・なんだかイメージぴったりだ。

こう、無機質な感じとか、生活感のないとことかが。

私はオレンジジュースを受け取ると一口づつ飲み込んだ。ムカムカしていた胃にはちょうどいい。

ジュースを飲みながらキョロキョロする私に、聖さまは苦い顔をして言う。

「そんなに見なくても何も無いよ、ウチは」

「・・・ほんと・・・何にも無い・・・ですね・・・」

どうやって生活してるんだろう?とか不思議に思ってしまうけれど、きっと聖さまにはこれで十分なんだろう。

でも・・・勿体無いなぁ・・・もう少しだけ私が元気だったらいろいろ聞きたい事が沢山あるのに・・・。

でも、もう無理だよ、きっと。だって、ほら・・・こんなにもクラクラする・・・。

「祐巳ちゃん、寝る前に熱測ろう?ちょっと待ってて」

聖さまはそう言ってキッチンに消えた。・・・ていうか、どうしてキッチンに体温計があるの?それが不思議。

「はい、これ咥えて」

有無を言わさず私の口に体温計を突っ込むと、ベッドの端に腰を下ろし腕を組んでじっとこちらを見ている。

じっと見つめられているのが分かった私は、思わず俯いてしまった。

ああ、どうしよう。これじゃあきっと、私の気持ちなんてバレちゃうよ・・・。

ねぇ、聖さま・・・本当は私の気持ち知ってるんじゃないですか?ねぇ、聖さま?私の気持ちに本当に気づいてないんですか?

私はチラリと聖さまを見た。すると、今度は何故か聖さまが視線を反らせる。

フイとそっぽを向いてしまった聖さまの顔は、どこか険しい。ねぇ、どうしてそんな顔するんです?

ねぇ、どうして・・・私の気持ちに気づいてくれないんです?どうして私を・・・ここに運んだんです・・・?

私は体温計を聖さまに返し、またベッドに転がった。裸の白熱灯がこちらをじっと見ている。

何だか恥ずかしくて私は目を瞑った。

だって、これ以上聖さまを見つめていたら、きっと私の気持ちなんて簡単にバレてしまうと思ったから。





第五十話『どこに運ぶべきか』





私にとって、家は神聖な場所と言ってもいい。だから誰も入れたくないし、穢されたくない。

私の秘密は大抵部屋の中のあちこちに散らばっていて、どんな音楽が好きなのか、とか、どんな映画が好きなのか、とか、

そういった事までも私にとっては表にさらけ出すのが苦手なのだ。だから私は音楽や映画は全て相手に任せるし、

それを好きになる事だって出来る。彼女の前でならの話だけど。でも、本当に私の好きなものは誰にも知られたくない。

だから私は部屋に人を入れたくない。私のベッドの上で私以外の誰かが眠るのは、耐えられない。

洗いあがりの真っ白なシーツも、シックな黒いベッドカバーも私の為だけのもの。今までも・・・これからも。

そう思っていた矢先に事件は起きた。とうとうやってきたのだ。決断の時が、もう一人の意固地な私と決別する時が。

「・・・大げさか」

私は車の中で眠りこけている少女をバックミラーで確認すると溜息をつく。よく溜息をつくと幸せが逃げるって言うけれど、

今まで相当沢山溜息をついてきた私の幸せは後どれぐらい残ってるんだろう?

多分、もうそんなにないんじゃないかなぁ・・・。事の起こりは少し前の事。いつものように保健室に行った時の事だった。

「ゆ〜みちゃん、お腹減ったんだけど何か無い〜?」

いつものように保健室の前でそう言った私だったけど、いつもならすぐさま返事が返ってくる。

けど今日はいつまで経っても返事が無くて・・・だから私は保健室に乗り込んだ。

またお姉さまが何かよからぬ事でもしてるんじゃないか、と思って。

「っ!?」

でも、私の目に飛び込んできたのはそれよりもずっと非常事態で・・・。気がついたら私は応援を呼んでいた。

心臓が・・・止まったかと思った。これほどの強い衝撃を、私は感じた事がなかった。

けれど、次の瞬間、私の心臓は一瞬の遅れを取り戻すかのように打ち始め、息をするのも困難なほどだった・・・。

「もしもし、令?すぐに保健室まで来て!!」

『え!?せ、聖さま?どうかされたんですか?』

「いいから早くっ!!」

それから私は仰向けに倒れている祐巳ちゃんの傍に駆け寄って脈をとって生きている事を確認すると、

とりあえずベッドに寝かせて令が来るのを待った。

「せ、聖さま・・・一体何事ですか!?って、祐巳ちゃん!?ど、どうかしたんですか?」

青ざめた祐巳ちゃんの顔を見て令はゴクリと息を飲んだ。

どうやら令も私と同じ事を考えたらしく祐巳ちゃんの手首に指を当てホッと胸を撫で下ろしている。

「私が来た時はそこに倒れてたんだ・・・」

私の視線の先には倒れたままの椅子が転がっている。それが余計に現場を生々しくしていた。

・ ・・ていうか、現場とか言うとまるで刑事ドラマのワンシーンみたいだけど、

本当に殺人事件でも起きたみたいに祐巳ちゃんの顔色は悪い。真っ青を通り越して最早白い。真っ白だ。

微かに聞こえる祐巳ちゃんの息遣いはいつもよりずっと早くて、何だか妙にドキドキしてしまう。

やがて祐巳ちゃんが目覚めたけれど、またすぐに意識を失ってしまった。どうやら相当具合が悪いようだ。

駆けつけた蓉子に事情を説明したけれど、初め蓉子は私の言う事を信じなかった。

「聖・・・あんたまさか学校で・・・?」

蓉子は保健室に入ってくるなり慌てる私と真っ白な祐巳ちゃんの顔を見てそんな事を言った。ていうかさ、凄く失礼じゃない?

「だから違うってば!!私が来た時には既に倒れてたの!!」

「どうだか・・・祐巳ちゃんが失神するような事何かしたんじゃないの?」

そんな事言って全く私の言う事を信用しない蓉子。でもさ、私そんなにも何かしそうかな・・・。

ましてや気絶するまで学校で何するっていうのよ?

「してないって!どうしてそうなるのよ!?」

「・・・だって、犯人は第一発見者が多いって言うし・・・ねぇ?」

「ねぇ?って言われてもね・・・そもそも私が犯人なら既にここには居ないわよ」

もし私が例えば何かしたとしたら、確実にここには居ない。

ていうか、あまりにも断言する蓉子の言葉に一瞬本当に私が何かしたみたいに思えてくるから情けない・・・。

「いやいや、分からないわ。犯人は現場に戻るものだもの・・・」

最早蓉子は完全に私を犯人だと思っているし、むしろそうでないとおかしいとでも言い出しそうな勢いだ。

もういいよ、そう思ってるんならそれでもいいけど・・・とりあえず祐巳ちゃんをこの後どうするのか、

それが聞きたくて蓉子を呼び出した事を私は思い出した。

「・・・もういいよ。とりあえずどうすればいい?ここでこのまま寝かせておくの?」

「どうしようかしら・・・どちらにしてもここに一人で置いておけないわ」

「だよね・・・じゃあ誰かが連れて帰るしか・・・」

「でもね、聖。この後授業が無いのって・・・」

チラリと疑いの眼差しが私に注がれた。最早完全に蓉子の中で私は犯人扱いだ。

「・・・わ、私!?」

「・・・そう・・・あなたしか居ないの。・・・はっ!?ま、まさかあんた・・・これを見越して私を呼んだんじゃないでしょうね?!」

「なっ!?ち、違うわよっ!!何言ってんの?」

「・・・どうだか・・・病気の祐巳ちゃんを連れ帰って一体何しようとしてるの?今度こそ何かしたら私聖の首切るわよ?」

く・・・首ですか・・・それは、一体どっちの首を切るんでしょう?

学校を辞めさせるって事?それとも本当に私の首を掻っ切るって事?あぁ、蓉子なら後者も躊躇い無くやりそうだ・・・。

「だから!どうして私が病人に何かするとか思うのよ!?」

そもそも病人なんかに手を出すほど私は困ってなんか居ないし、

今までの私だってそれほどそればかりが重要だった訳ではない。

ちゃんと体以外のお付き合いもしていたというのに、この言われ様。ああ、早く祐巳ちゃん目覚めてくれないだろうか。

そんな私に更に追い討ちをかけるように蓉子は言う。

「だって、あなた見境ないから・・・野獣だし・・・」

・ ・・・・・最早返す言葉も無かった。そうか・・・蓉子には私が変態を通り越して野獣に見えていたのか。

そう考える何だか悲しい。親友にそこまで言われる私の存在って・・・。

けれど、一応言っておく。ちゃんと訂正しておかなければ。そこだけはキチっと。

「・・・私そんなに飢えてないわよ・・・」

ポツリと言った私の言葉は保健室の中に思いのほか大きく響いた。けれど蓉子はやはり私を完全に信用していないようだ。

けれど祐巳ちゃんをこのままにしてはおけないと流石の蓉子も諦めたようで、今に至る。

バックミラーに映る祐巳ちゃんはまだ眠っている。

「どうしよう・・・どこに運べばいいんだろう・・・」

こんな事なら祐巳ちゃんの実家の住所を調べておけば良かった。そうすればきっと誰かしら祐巳ちゃんの看病をしただろう。

けれど、家に運べば祐巳ちゃんは一人になってしまう。かと言って私の部屋に運ぶのも・・・。

「・・・そろそろ潮時なのかな・・・」

自分の殻を破らなければならないのかもしれない。これはいつまでもグズグズしている神様からのお告げなのかも・・・。

勇気を下さいとは願ったけれど、まさかこんな形で勇気を強要されようとは、思ってもみなかった。

どちらにしても、祐巳ちゃんをとりあえず家まで運ぼう。そうすれば体が勝手に動くだろう。

やがて祐巳ちゃんが目を覚ました。顔つきはボンヤリしているし、言葉も曖昧で喋る事すら辛そうだ。

それどころか、ようやく駐車場にたどり着いた時一人ニヤニヤしている祐巳ちゃんとバッチリ目が合ってしまって・・・。

・ ・・何だか気味が悪い。まぁ、分からないでもないけれど。何故か熱が高いとハイになるからね、人間は。

でも・・・やっぱりちょっと気味が悪いよ・・・。

鞄を持って階段を上る私の中でまだ答えは出ていなかった。どちらに運ぶべきか、私の部屋か、祐巳ちゃんの部屋か。

その時、祐巳ちゃんの鞄から祐巳ちゃんの部屋の鍵がポロリと落ちた。とても都合良く。

私はそれを拾い上げ、しばしじっと鍵を見つめていた・・・だって、あまりにもタイミング良く落ちたもんだから。

「・・・どうしたらいいの・・・」

誰かを部屋に上げるのなら、一番は祐巳ちゃんがいい。あの子になら、きっと部屋を見せられる。

私の趣味も教えられる・・・私の心の深い所に入ってこられても・・・きっと痛くない。

それは分かってる。でも、それは今じゃないといけないのかな?もう少し自信がついてからじゃ・・・ダメなのかな?

ねぇ、祐巳ちゃん。祐巳ちゃんはいつの間にこんなにも私の心の中で大切になってしまっていたんだろうね?

手に入れてしまうと失う事の辛さは身を切るほどの痛みを伴う事はよく知っているはずなのに、

どうしてこんなにも・・・こんなにも大切になってしまっていたんだろう。

もっと早くにその事に気づいていたならまだ良かったのかもしれない。そうすればもっと近づかないでいられたかもしれない。

けれどもう無理だろう。距離をとるには遅すぎる。けれど、受け入れてしまうには早すぎる・・・。

どうすればいい?私はとりあえず鍵を祐巳ちゃんの鞄にしまい、私の部屋の中に放り込んだ。

そして車に戻った私を見て、祐巳ちゃんはホッとしたような顔をしながら・・・泣いていた。

「うわ、今度は泣いてる・・・一体どうしたの?」

驚いた私がそう言うと、祐巳ちゃんは涙を拭おうともせず言った。

「だって・・・置いて・・・いく・・・から」

・ ・・ああ・・・ダメだ。私は祐巳ちゃんのこういう所に酷く弱いんだ。

今まで甘える専門だった私はこんな風に誰かに甘えられるのは苦手だったんだ・・・。まぁ、それが時々なら良かったんだけど。

それなのに何故か祐巳ちゃんには甘えられたいと思ってしまう。守りたいと願ってしまう。

これが恋なの?これが・・・愛なの?守られてばかりではない、守りたいとも同時に思う。それがこんなにも苦しい事だなんて。

お姫さま抱っこをした私に、祐巳ちゃんは少し恥ずかしそうに笑ったあと、悲しそうに目を伏せた。

そして私の胸に辛そうにおでこを当て、服をギュっと握る。

そうだ、私はきっと自分の部屋に祐巳ちゃんを連れて帰るだろう。そして祐巳ちゃんがしてくれたように、

今度は私が祐巳ちゃんを看病しよう・・・きっと、そうしよう・・・。

心の中でそんな事を呟いていた時点でようやく私の中で答えが出たのだ。

あれほど嫌だった誰かを部屋に上げる事を、私から望んだのだ。

「ほんと・・・どうかしてるよ、私・・・」

それほど祐巳ちゃんが好きなのか、それとも、もうそんな言葉では言い切れないほど祐巳ちゃんを愛しいと思っているのか。

どっちでもいい。とりあえず私が大きな殻を一枚破るきっかけが出来た事には違いない。

私は軽い。軽薄で性格だって悪い。でも、好きになると以外に一途で、たまには繊細で。

そして、何よりも、愛に飢えている・・・。だからこそ、祐巳ちゃんなのかもしれない。

この博愛な少女は私にすらその愛を分けてくれそうな、そんな気がするから。

「あーあ・・・やっかいだよ、今度の恋愛は」

部屋の鍵を開けた私は真っ直ぐにベッドに向った。祐巳ちゃんをまっさらなシーツの上にゆっくりと降ろし、

その寝顔を見つめる。う〜ん、と小さく呻くその声はどこか甘い。多分、しんどいんだろうけど。

それでも私はドキドキする。不謹慎だと分かってはいても。

果たしてこんな心理状態で本当に祐巳ちゃんを看病する事なんて出来るのだろうか。

今はそれが酷く心配だった・・・。




第五十一話『この何も無い部屋の中で』




祐巳ちゃんの熱を測ったら、思いの他高くてビックリした。これでよく学校に行ったな、と正直祐巳ちゃんの根性に敬服しそうだ。

私だったら絶対行かない。ここぞとばかりに学校を休むだろう。いや、そんな事はどうでもいいんだ。今は。そうじゃなくて・・・。

「・・・聖・・・さま・・・?」

そう言って上目遣いにこちらを見る祐巳ちゃんの目は熱のせいで潤んでいて、声も微かに震えている。

あぁ、どうしてこんなにも色っぽく見えるのか。いつもはほんと、お子ちゃまルックなのに、今はダメだ。

髪を下ろし、私のぶかぶかのパジャマに着替えた祐巳ちゃんは袖から指先だけを出して、

オレンジジュースの入ったコップを握り締めている。萌え!いわゆる萌えという奴だ。もう可愛くて仕方が無い。

そっと視線をふせる仕草も、上目遣いで私を見る目も、涙で潤んだ瞳も、ピンク色の愛らしい唇も、袖から出た指先ですら、

私の心を掻き乱そうとする。けれど、それに負ける訳にはいかない。

私は祐巳ちゃんの風邪を、そして私の邪心を退治しなければならないのだから。

「少しは楽になった?」

「ええ・・・朝よりは随分と良くなりました・・・」

そう、それは良かった・・・このままガンガン回復して、そしてどうかお願いだからその目で私を見るのは止めて。

でないと私、きっと近いうち祐巳ちゃんを襲ってしまいそうよ・・・。いやいや、これじゃあ蓉子の言うように野獣だ。

何も無いこの部屋の中で、私は祐巳ちゃんと二人きり・・・けれど何も出来ないし、してはいけない。

そんな禁欲的な状況が余計に私の心を掻き立てるのだろう。

「そっか・・・良かった・・・。ところで、何か食べられる?」

「え・・・でも・・・」

「この間雑炊を作ってもらったからね、そのお礼に何か作ってあげる。何がいい?」

私の問いに祐巳ちゃんは驚いたような顔をしている。どうして?

「せ、聖さま・・・お料理出来るんですか・・・」

「は?」

失敬な!こう見えても私だってそこそこ一人暮らし長いんだから料理の一つや二つぐらい出来るっつうの!

「だって・・・聖さまってば人に貰うばっかりで作らないじゃないですか・・・」

「あのねぇ、私だって毎回誰かが傍に居る訳じゃないんだからね?通算すれば一人で居た事の方が多いわよ」

そうなんだ・・・私はいつだって一人で居る方が多い。それなのに、どうやら祐巳ちゃんは勘違いしてる。

本気で恋人をとっかえひっかえにしていたみたいに・・・。それって、自業自得だけど、何か悲しい。

「そ、そうなんですか!?」

「ソウナンデスヨ。全くもう、どこまで素直なのよ」

簡単に他人を信用して、コロリと騙される。落ち着きが無くて情に脆い。けれど、あったかい。

祐巳ちゃんって、そういう子なんだ。だから皆祐巳ちゃんをからかうけれど、誰も本気で騙そうとはしない。

きっと、こんなにも純粋だと何だか悪くって騙せないんだ。そうに違いない。

「そっか・・・そうですよね・・・いくら聖さまでも流石にそれは無いですよね・・・由乃さんめ・・・」

出所はあの猫娘か。由乃ちゃん・・・今度会ったら覚えときなさいよ。

「当たり前じゃない。いくら私でもそんなにモテないわよ。ただでさえ女だっていう大きなハンデがあるのに・・・」

自分は女で、それでも女が好きで・・・これは大きなハンデだと思う。世間ではやっぱり広くは受け入れてもらえないし、

同性愛ってやっぱり難しい。でもどうしようもないし、好きになるのは皆女ばかりなのだ。

どうしてかなんて自分でも分からないし、分かろうとももう思わない。私にとっては、もうそれが普通なのだから。

「それは・・・聖さまの場合ハンデにはなってないと思いますが・・・」

「そう?十分ハンデじゃない」

「そうでしょうか・・だって、聖さまは今まで見てきたどんな男の人よりも格好良いですけど・・・」

あら、嬉しい事言ってくれるじゃない。やっぱり祐巳ちゃんはいい子だ。

「だからだよ、だから男にハンデをくれてやってるの。

こんなにも格好良い私がもし男だったら、そんじょそこらの男じゃ敵わないでしょ?」

ていうか、そうでも思わないとやってられないんだけどね、正直言うと。男でも私より格好良い奴は世の中に五万と居るし、

女にだって居る。だから振られる事だって沢山あるし、叶わない恋だっていくつもあった。

そんな私の言葉に祐巳ちゃんは首を捻っている。さぁ、君ならこの後何て言う?

「でも・・・聖さまは女の人だからモテるんだと思います・・・けど」

「どういう意味?」

「だから、女の人の理想の王子様を聖さまは演じる事が出来るって事ですよ」

「私も女だから?」

「ええ、だから女性にモテるんだと、私は思いますけど。ある意味では聖さまが一番女の武器ってやつを使ってるのかも」

「・・・なるほど・・・そうかもね。祐巳ちゃんの言うとおりかもね」

確かに、私は一般的な女の武器は持ち合わせてはいない。涙とか色気とか、そういうものは。

でも、女の子が好きな王子様は大体知ってる。

そういう意味では祐巳ちゃんの言うとおり、私は女の子の理想に近づけるのかもしれない。

そうか!それを演じれば良かったのか!!今更気づくなんて・・・もう遅いけど。

「でも私は、怒ったり甘えたりして、意外に頼もしい聖さまが好きですけどね。そのまんまの聖さまが私には一番ですよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

思わず言葉に詰まった。私は祐巳ちゃんの前ではいつだって素だった。わがままで自己中で、やりたい放題。

でもそれは、祐巳ちゃんが眼中になかったからだ。

もしも初めから祐巳ちゃんに惹かれてたなら、きっと私は自分を創っていたに違いない。

「・・・本気?実は物凄く私が情けなくても?」

「ええ、実は凄く情けなくても、いい加減でも、です。甘えたでもワガママでも、だって、それが聖さまなんでしょ?」

「う・・・ま、まぁ・・・そうね。一番素に近いわね」

「私は、そんな聖さまが大好きなんですよ。だからそのままで居て下さいね。せめて私の前では」

ああ、ほら、祐巳ちゃんはこうやっていとも容易く私の心を奪ってゆく。一人じゃないよ、と言ってくれる。咳き込みながら。

酷い咳をしたせいで祐巳ちゃんの瞳はまた潤む。そして私は唐突に思い出した。スキー場のロッジでのキスの事を。

誰にも知られないよう、そっとしたキスはまるで呪文みたいに私の心と唇に刻み込まれている。今もまだ・・・。

私はそっと自分の唇をなぞると、真っ直ぐに祐巳ちゃんを見詰めた。

「な、何です?」

「キス・・・したいんだけど・・・ダメ?」

「はぁ!?」

そりゃ驚くよ。誰だって驚くよ。でも何故か口が勝手にそう言っていたんだ。だから勘違いしないで!!私のせいじゃないの!!

つっても、誰も信じる訳もなく・・・案の定祐巳ちゃんは怒ったような困ったような、それでいて照れたような複雑な顔をしている。

「ごめん、忘れて。今の無し」

無しもくそも端から言う気無かったんだ、私は・・・。まぁ、寝てる間にこっそり唇を奪う事はあったかもしれないけど・・・。

「・・・いいですよ・・・」

「は!?」

今度は私が驚く番だった。い、今何て言いました??いい、って・・・いいよ、ってそう言った?それとも幻聴?私の聞き違い?

驚いたような顔してたんだろう、私は。その顔を見て祐巳ちゃんは笑っているから。

「でも、その代わりほっぺたですよ?唇は・・・ダメです。風邪がうつっちゃいますからね。

それに・・・それは聖さまが本当に好きな人とするべきです」

いやいやいや・・・本当に好きな人って・・・それはアナタなんですけど・・・。だから思わず言っちゃったんですけど・・・。

どうしてここまで言われて気づかないのかな?この鈍チンは。

「・・・それじゃあ遠慮なく」

私が祐巳ちゃんの顔に顔を近づけると、祐巳ちゃんはピクンと体を震わせた。そしてギュと目をつぶる。

それにしても・・・ほっぺたか・・・まぁいいや、祐巳ちゃんに少しでも触れるのなら、この際どこだっていいや。

私は言われたとおり唇に限りなく近い、一応頬と呼ばれる所に口付けた。

一度目のキスでは引っぱたかれ、二度目のキスは祐巳ちゃんの意識は無かった。三度目は頬・・・。

何の進歩もしてないじゃない!私!!それどころかどんどん悪くなってる!!!いや、引っぱたかれるよりは・・・マシか?

どっちにしても物足りないのは言うまでもない。

本当なら祐巳ちゃんが失神するほどのキスをお見舞いしてやりたいぐらいなのに。

そっと私は体を離し、硬直したまま固まって動かない祐巳ちゃんを見て思わず笑ってしまった。

「も、もう!唇はダメだって言ったじゃないですかっ!!」

「えー?唇じゃなかったでしょ?ちゃんと頬だったでしょう?」

「いいえ、唇の端にも当たりましたっ!!」

「そう?なら役得だったかな」

私には唇の感触なんて残ってないけどね。大袈裟なんだよ、祐巳ちゃんはー。

「もう知りません!!もう聖さまはキス禁止っ!!」

「私以外にキス許した人なんて居るの〜?」

「う・・・せ、聖さま以外なら別に構いませんよ?ほっぺなら」

「あはは!何、それ?そんな子供じゃないんだからさぁ。もう大人でしょ?分かってる?大人ってもっと凄い事もするんだよ?」

そう・・・あんな事やこんな事・・・口なんかには決して出せないけど、そりゃもう、すんごいんだから!

私の言葉に祐巳ちゃんの顔は引きつっている。ジリジリと詰め寄る私から逃げるように後ずさる。

「し、知ってますよ!!で、でも聖さまとするとは決まってませんもん!!」

「そうだねぇ〜・・・でも、案外近いうち私とする事になるかもよ〜?」

「な、なりませんよっっ!!!」

な、何もそんなにも力の限り否定しなくても・・・そんな風に逃げるから余計に追いたくなるんじゃない。

「そうかな〜?私には見えるけどなぁ・・・祐巳ちゃんと私の未来が」

「ど、どんな未来なんですか・・・」

「そりゃあ、一緒に住んでー、毎朝毎晩祐巳ちゃんは私のためにご飯作ってー、お風呂も一緒に入ってー、

夜は一つのベッドで一緒に寝ようね?」

ああ、何て理想的な未来なんだろう・・・。そうなればどれほど幸せか。他の誰とも叶わなかった未来。

幸せな、理想の生活・・・。

「それって・・・今も大して変わらないじゃないですか・・・」

「え?」

「だって、私毎朝聖さまのご飯作ってますし、それどころかお弁当まで作ってますよ?

晩御飯もしょっちゅう作ってるし、お風呂だって銭湯とか行けば一緒に入るじゃないですか。

・ ・・ベッドは・・・さすがにありませんけど」

・ ・・なるほど。言われてみれば・・・でも、そうじゃないの!そうじゃなくてっ!!

何て言うのかな〜?こう、思わずニヤけてしまうような、思い出してはにかんでしまうような、そんな生活を送りたいの!

さながら新婚夫婦のようなラブラブっぷりっつうの?お金はなくとも、愛さえあれば、みたいな。

思わず新婚さんいらっしゃ〜いとかに出れるぐらいの甘い生活が祐巳ちゃんと送りたいの!!

・ ・・でも、そんな事恥ずかしくてとてもじゃないけど、口に出せない。それどころか、そんな事考えてた自分が恥ずかしい。

でもさ、それって、夢だと思うのね?だって、理想でしょ?そういう何気ない幸せってさ。

ずっと一緒に居たらそのうち慣れちゃう事もあるかもしれないけどさ、たまには喧嘩とかして、でもすぐに仲直りしてさ。

知らなかった所がどんどん出てきても、それでも好きだって思えるようなそんな関係って理想じゃない。

「祐巳ちゃんが言ってるのとは、ちょっとだけ意味が違ってくるんだけどね」

苦い笑みをこぼす私を、祐巳ちゃんは不思議そうに見ている。ていうかさ、普通ここまで言ったら気づくよね?

私が祐巳ちゃんに友情じゃない好意を持ってる事ぐらいさ・・・でも、この子には伝わらないんだなぁ・・・。

絶対祐巳ちゃんって、今までにも相当な数の人の恋心をこうやって闇に葬ってきたに違いない。

きっとこの子には遠まわしな言い方は効かないんだ。ズバっと本音を言ってもうまい具合にはぐらかせるんだもの。

「あーあ・・・ほんっとうに祐巳ちゃんは・・・」

「?何です?」

「いいや、何にも」

私はベッドに突っ伏すように倒れこんだ。何を勘違いしたのか、祐巳ちゃんは私の背中をさすってくれる。

いや・・・違うんだ、そうじゃなくて・・・早く私の気持ちに気づいてよ・・・。

何も無い部屋の中で、祐巳ちゃんにどうすればこの気持ちが伝わるのかと真剣に悩む昼の二時。




第五十二話『マイ・フェア・レディ』





これまた古い映画・・・私は熱でボンヤリする頭をどうにか動かしテレビの画面に見入っていた。

「可愛いですよね・・・オードリー・・・」

私の質問に聖さまはクルリと振り返った。そして私の顔を見て少し笑う。

「起きたの?もしかしてうるさかった?」

「いえ・・・熱くて眠れなくて・・・」

聖さまに借りたパジャマも今は既に汗でびしょびしょだ。

これだけ汗をかいても少しも楽にならないのは、もしかすると私の不謹慎な心のせいかもしれない。

風邪は確かにダルくて辛いんだけど、それよりももっとずっと聖さまと一緒に居たかった。

だから心のどこかでは風邪を治してしまいたくないという気持ちがあって・・・。

さっき、聖さまとキスをした。どうして聖さまが突然あんな事を言い出したのかは分からないけれど、

それよりも分からないのは、どうして自分があんなにも素直にそれを承諾したか、だった。

私・・・実は結構キスとか好きなのかもしれない・・・。そんな事を考えていると、眠りたくても眠れない。

熱いのだって、きっと熱のせいだけではないに違いない。けれど聖さまは心配そうな顔をして私のおでこに触れた。

「まだ相当熱いね・・・やっぱり氷枕とか買ってこようか?」

「い、いえ・・・大丈夫ですよ」

「そう?」

30分おきぐらいに聖さまはさっきからずっとおでこのタオルを替えてくれる。

それが凄く嬉しいのに、氷枕なんぞ出してこられたらそれはしてもらえなくなるではないか!!

・ ・・とは、流石に言えない。

「ところで・・・それ何て映画です?」

「ん?ああ、マイ・フェア・レディ・・・って知らないかな?」

「聞いたことはありますけど・・・実際見たことはないです・・・」

ていうか、相当古いよね?オードリーの映画といえば、私の中では『ローマの休日』が代表作なんだけど、

それだって実を言うと真剣に見たことは一度も無い。

「ふーん。まぁ、随分古いしね。でもほんと・・・この人の英語はねぇ」

凄く綺麗なんだ!そう言って微笑む聖さまの顔はとても輝いていた。

流石は腐っても英語教師。字幕も何もなくてもちゃんと理解出来てるんだ・・・。

「そうなんですか?」

「うん。彼女はさ、本当に綺麗なキングスイングリッシュを話すんだ」

「キ・・・キングスイングリッシュ・・・?」

ていうか、私にはさっぱり聞き取れない訳だけど。

英語なんて皆同じに聞こえるのだが・・・やっぱりプロは違うもんなんだろうか?

「そう。日本語で言えば上流英語。だからほら、聞き取りやすいでしょう?」

「・・・う、う〜ん・・・」

そ、そうだろうか?まぁ、普段英語なんてあまり聞かないからよく分からないんだけど。

・ ・・でも、確かに聞き取りやすいような気がしないでもない。多分、錯覚だろうけど。

「あはは、分かんないか」

「はい、分かんないです・・・すみません」

いやいや、別に謝る事じゃないよ?私!専門分野じゃないんだから分からなくてもおかしくないし!

多分聖さまもそう思ったんだろうと思う。だって、ちょっと苦笑いしてるもん。

「そういえば・・・聖さまはどうして英語の教師になろうと思ったんです?」

やっぱり顔か?とか、そんな風に言ったら怒られるだろうか?だって、聖さまの顔って日本人離れしてるもんね。

「んー・・・あえて言うなら・・・顔、かなぁ・・・」

あ、やっぱりね。でもどうしてそれで英語教師なんだろう?多分私の顔が全てを物語ってたんだろう。

聖さまは今度は笑いを噛み殺している。

「いやさ、小学校の時にね、帰国子女の子がクラスに一人居てさ。その子が英語ペラペラだったのね?

でもさ、ほら、私こんな顔じゃない?なのに英語話せないと、何か拍子抜けっていうかさ。

そう、思われてるんじゃないかな?と勝手に思っちゃってさ。だから英語勉強しようって思ったの。

そしたら気がつけばこの道に進んでいたというか・・・まぁ、そんな感じなんだけど。

そういえば祐巳ちゃんはどうして保健医?」

なるほど・・・聖さまが英語教師になったのはプライドと意地か。何だか凄く聖さまらしい。

それに比べて私は・・・。

「私・・・ですか?私は・・・最初は獣医さんになりたかったんですよ」

そう・・・昔はね・・・獣医さんになるのが夢だったのよ、私は・・・ところがどこでどう間違ったのか、今は保健医・・・。

まぁ、今はこの道を選んで良かったと心から思ってるからいいようなものの。

「へぇ、獣医?どうしてならなかったの?」

「いや、家族にとめられまして・・・」

あの時、父は言った。たった一言、止めておけ、と・・・。ああ、思い出すなぁ・・・あの青ざめたお父さんの顔。

「どうして?立派な夢じゃない」

「医者とかって、やっぱり命を預かるじゃないですか。だからお前は止めておけ・・・と。

それで次は看護士さんを目指そうと思った訳ですよ」

「おお!看護士!!いいね、白衣の天使じゃん!どうして止めたの?」

「それが、今度は友達に止められまして・・・もし自分が患者なら絶対に私に面倒見られたくない・・・と」

そうそう、そうだった。今思えば、彼女の言う事って案外正しかったのかもしれない。だって、実習の時とか私ってば本当に・・・。

いやいや、でも案外遅咲きなのかも!・・・なんて、ある訳ないよ・・・。

「・・・あー・・・まぁ、そうねぇ・・・」

煮え切らない聖さまの態度・・・多分、心の隅で聖さまも思ったに違いない。自分も嫌だな、と。

ええ、ええ、どうせ私はドン臭いですよ!!でもね、私だってやる時はやるんです!!

「で、最後にいきついたのがこのお仕事だったんです・・・。

まぁ、保健医も相当止められましたけど、このお仕事が無くなったらもう後が無いと思いまして・・・」

「後が無いって!あはは!!祐巳ちゃんらしい」

「でも、今はこのお仕事を選んで良かったと心から思ってますよ」

「どうして?」

「だって・・・聖さまに出会えましたし・・・ね」

そう・・・何よりも聖さまに逢えた。これって、今までの事が全て運命だったのかな?って思うぐらいの出会いだと思う。

まるであらかじめ引かれてたレールに沿って進むと、

いずれ聖さまとの出会いが用意されていたみたいな、そんな不思議な気持ち。

「・・・え・・・それって・・・」

一瞬、聖さまの顔が曇った。ような、気がした。だから私は慌てて台詞を付け加えた。

だって、私みたいなどこにでも居るような子に想われても聖さまにとっては迷惑なだけかもしれないし。

「蓉子さまや江利子さま・・・他の皆さんとも出会えたし、生徒達もいい子達ばっかりですし!私、本当に幸せです!」

「あ、そう」

呆れたような聖さまの顔・・・あぁ、良かった。怒ってはいなさそう。それに迷惑そうな顔でもない。

「はいっ!」

力強く頷いた私は、自分が熱を出している事もすっかり忘れて張り切って喋った結果・・・。

力なく枕に頭を静め、深い溜息をついた。ちょっと・・・喋りすぎたかもしれない。またほら、クラクラするもの。

「ところで聖さま・・・どうして・・・この映画なんです?」

そう聞いた私の耳に、聖さまの声は届かなかった。

何故なら、私はその後すぐに深い深い眠りの中へと落ちてしまっていたから・・・。

夢の中で聖さまが言った。

『それはね、今まさにこれが私の心境だからだよ』

・・・と。



第五十三話『もしも映画にたとえるなら』




まさにこの映画だといえる。『マイ・フェア・レディ』言わずとしれた名作な訳だけども、生憎祐巳ちゃんは知らないらしい。

でも、その方が良かった。だって、これが私の今の心境だと知ったら祐巳ちゃんはきっと怒るだろう。

もちろん祐巳ちゃんは下町の下品な花売り娘ではないし、私は言語学者じゃない。

でも、モルモットとして扱っていた点においては・・・少々当たっている。

初めは祐巳ちゃんをただのおもちゃとして扱っていたのに、いつの間にか彼女にのめり込んでいた私は、

やっぱりこの言語学者と同じなのだ。マイ・フェア・レディ・・・それは、祐巳ちゃん。

いくら反発しても私は祐巳ちゃんをいつからか一人の女性として見ていたんだ。

そしてそれが恋に変わった事に気づかないまま私は祐巳ちゃんを避けようとしたけれど、

それはやっぱり出来なかった・・・いや、出来るはずがなかったんだ。

そりゃ戸惑うよ。だって、昨日まではただの友達だと思ってたんだもの。それなのに、今日突然好きって気持ちに気づくなんて。

じわじわと足元に水が押し寄せてくるみたいな恋は、だって、これが初めてだったから。

正直今も戸惑ってる。本当は祐巳ちゃんとどうしたいのか、どんな風に祐巳ちゃんを愛せばいいのか。

今までは違う自分を創っては、それで女の子達を相手してきた。でも、今度はそうはいかない。

だって、祐巳ちゃんには既に私の本性がバレてるんだもの。今更隠せないよ。

私の愛しいお嬢さん・・・今は眠ってるけど、またすぐ目を覚ますだろう。熱いとか何とか言って。

それにしても、私はいつからこんなにも世話好きになったんだろう?

30分おきにタオルを替えて、汗を拭いて(流石に全部は拭けないが)、少しでも祐巳ちゃんが苦しそうなら手を握ってやって、

たまに頭も撫でてやって・・・あぁ、何やってんだ、私!!昔の私はこんなじゃなかった。

もっとこう、クールだったじゃない。それが今はどうだ。牙を抜かれた闘犬みたいになっちゃって・・・。

しかもそんな自分が最近ちょっと好きだなんて思うから事態は余計によろしくないわけで。

「別にあの頃に帰りたい訳じゃないけどさ」

だって、あの頃には祐巳ちゃんは居ない。でも、あの頃の私なら確実にこの子に惹かれてはいない。

今の私だから、栞が居なくなった私だから、祐巳ちゃんに惹かれたんだ。

あったかくて、可愛らしいこの少女に。でもさ・・・たまに思うんだよね。

もしもここにある日突然栞が帰って来たら、私はどうするだろう?って。やっぱり祐巳ちゃんを放って栞の方へ戻るのかな?

それとも、栞よりも私は祐巳ちゃんが好きだと言えるのかな?

比べるような事じゃないのかもしれないけれど、本当の所どうなのだろう?私は心のどこで二人を愛してるんだろう?

まぁ、そんな事いくら考えても私の前に栞がもう現われる事が無いのは分かってるんだし、今はこの子を守りたいとも思う訳で。

「ん・・・せ・・・さま・・・」

「なぁに?熱いの?」

「・・・うん・・・」

うんって・・・敬語じゃないし!何か妙に嬉しいし!!いやいや、そんな事言ってる場合じゃないよね。

とりあえず汗拭こう、汗。

「ほらちょっとだけ起き上がって」

「んー・・・」

私は祐巳ちゃんの体を支えながら背中の所をめくってタオルを突っ込んだ。そんでガシガシ拭く。

いや言葉は悪いけど、無心になろうとすればするほど乱暴になるんだからしょうがないじゃない!!

「っん・・・ふ・・・くすぐったい・・・」

甘い声が祐巳ちゃんから漏れるけど、無視、無視。でないと私の理性が崩壊する。ガンジー・・・私は今ガンジーなんだ。

ああ、それにしても祐巳ちゃん細いなぁ。ていうか、発展途上?これが成長していく様を見るのは楽しいんだろうなぁ・・・。

いやっ!いやいやいや、私はガンジーだからそんな事は考えないっ。一瞬たりとも考えないんだからっっ!!

頭がおかしくなりそう。曖昧に好きかもって思ってた時とは随分違う。むしろ辛い。痛い。

もうどうなってんの?つうかどうしちゃったの?私。もともと自分勝手に好きにやってたじゃない。

それなのにどうして私は今自分にガンジーだ、なんて言い聞かせてるの?

何コレ?病気?いや、違う。これが恋愛ってやつなんだ。そして、これが俗に言う片思いの辛さ。

だからこんなにも私は自分を偽ってまで祐巳ちゃんの背中を拭いてる。でも、長続きしそうにない。

ていうか、長引くと困る。

「ほら、もう大丈夫?」

本当は着替えさせた方がいいんだろうなぁ・・・でも、私のパジャマなんてそう何枚も無い訳で・・・。

そっかTシャツとか着せればいいんだ!!

私はクローゼットを開けて中から長袖のTシャツを2〜3枚取り出した。

「祐巳ちゃん、ちょっと着替えよう?」

「ん・・・でも・・・はずかし・・・い」

「恥ずかしいって・・・女同士でしょ?」

「でも・・・聖さま・・・いやらしいもん・・・」

「む・・・確かに」

納得しちゃうあたりが情けない。でも、本当だからしょうがない。それに今はそんな事言ってる場合でもない。

「分かった。じゃあ後ろ向いてるからその間に着替えちゃって?」

「・・・はい」

私は祐巳ちゃんにTシャツを手渡すとベッドに背を向けた。あぁ、どうして私こんな事してるんだろう?

本当なら私が着替えさせてもおかしくないのに。だって、女同士だもの、どこにも不自然はないじゃない。

なのに祐巳ちゃんはそれを拒んで、私は納得する。ああ、何て情けない話なんだろう。

すぐ後ろでパジャマ脱ぐ音が聞こえるのに・・・下着を外す音も聞こえるのに・・・。

そう、下着を外す音・・・下着を外して・・・下着・・・いゃーーーーっっ!!!お願い、止めてーーーーっっ!!!!

ガ、ガンジー・・・私は今ガンジーでしょ?ガンジーはそんな事しないでしょ!?

ていうか、そもそもガンジーって誰よ?確か無血主義の人だったよね??そんなものすっかり忘れてるっつうの。

こんなにも不毛で、なおかつ理不尽な着替えを私は未だかつて体験した事がない。

そして私の隣に何かがパサリと落ちて、私はそれに視線を移して・・・更に心の悲鳴は大きくなった。

きぃぃぃーーーやぁーーーー!!!

ど、どうしてよりによってこんな物をこっちに寄越すかな!?どうせならパジャマを!パジャマを寄越してよっ!!

「ゆ、祐巳ちゃん・・・もしかして誘ってるの?」

こんな高度なテクをよもや祐巳ちゃんが持っていようとは。少し油断してたかもしれない。

でも、私の質問に祐巳ちゃんの答えは返ってこない。振り返ると、既に祐巳ちゃんは眠っていた。

「・・・嘘でしょ・・・ありえない・・・」

こんな技使っておいておあずけ?ていうか、私ってほんと、そればっかり・・・。

全く自分が情けない。でも、どうしても祐巳ちゃんに触れたい。彼女の声が聞きたい。

それと同時に、凄く愛しい。胸キュンってまさにこれだと思う。

本当に胸がキュンってする(かなり恥ずかしい台詞だと自分でも思うが)。

私は隣に無造作に投げ捨てられた祐巳ちゃんの小さな下着をつまみあげた。

「・・・小さいなぁ・・・」

Aカップ?いや、かろうじてBか?少なくとも私より無い。でも、多分抱きついた感じでは形はいい。

それに、柔らかい・・・ここ重要。でも、こんなもの無くても十分祐巳ちゃんには破壊力がある、と私は思う。

それは祐巳ちゃんを体だけの人間として見てはいないって事。少なくとも、今は祐巳ちゃんだから抱きたい。

祐巳ちゃんじゃなきゃ嫌なんだ。これって、どこもおかしい事じゃないよね?

もちろん体の相性とかも重要だとは思うけど、もし相性が合わなかったとしても、私は祐巳ちゃんが好きだろうし、

浮気したいとも思わない。多分、これが最後のチャンスなんだろうな、って勝手に思ってる。

祐巳ちゃん以上の人が、この先現われるとは到底思えないし、もし現われても私は祐巳ちゃんを裏切らないと誓う。

だからどうか、どこにもいかないで、私の大切な・・・祐巳ちゃん。




第五十四話『たとえ偶然が必然だとしても』




偶然なんてものは、世の中にそうは起こらない。それが私の持論だ。全ての偶然はあらかじめ用意されていた必然なのだ。

でも、今回ばかりはそうは思いたくない。だって、必然にしては、あまりにも残酷だと思うから。

「ほら、人魚姫が歌ってるわ!」

「ほんと!今日はいい事ありそう」

誰も居ない川原で夕日をバックに私は歌っていた。そうでもしなければやってられないと思った。

高校の時から愛したあの人は、今はもう違う人を追いかけている。でも、それはいつもの事。

結局いつだって私はあの人に選ばれないのだ。

もしも私に歌の才能があるというのなら、どうして神様は私にあの人に愛される才能をくれなかったんだろう。

その方がよっぽど幸せだった・・・その方がよっぽど・・・。

「あれー、静じゃない。偶然だね、こんな所で」

「せ、聖さま・・・」

私は歌うのを止め振り返って息を飲んだ。手には買い物袋を提げている。

「何してんの?こんなとこで」

「聖さまこそ何してらっしゃるんです?」

「私は買い物の帰り。家がこの近所なのよ」

「ああ・・・それで・・・」

なんて、本当はそんな事ずっと前から知ってる。聖さまがあの子の隣に越した日からずっと・・・。

でもね、どうしてあの子なんです?どうしていつも私だけは見てくれないんです?

「歌ってたの?」

「ええ、まぁ・・・」

「いいね、聞かせてよ。ほら、ジュースあげるから」

そう言って聖さまは飲みかけのジュースを振ってみせる。多分残りはあまり無いんじゃないかな。

音があまりしないから・・・でも、私にはそれでも価値がある。切ないけど、とても価値がある。

「い、今ですか?」

「うん、今」

「・・・それじゃあ・・・」

聖さまが私の隣に腰を下ろしたのを確認して私は歌いだした。何を歌おうか迷ったけれど、やっぱりここはグノー。

私の一番得意な歌・・・せっかく聖さま一人が聞いてくれるのなら、一番いい私を見て、聞いて欲しい。

じっと目を瞑り私の歌を聴いてくれた聖さまは、歌い終わった私に約束通り飲みかけの缶コーヒーをくれた。

「ごめんね、飲みかけしかなくて。他にあげられそうなモノ何も無いんだ」

「いえ、何を買われたんです?」

「ん?ああ、風邪薬と晩御飯のおかずだよ」

そう言って袋を私の前で広げて中を見せてくれた。中には卵やらキャベツやら、野菜が中心に入っている。

そして、袋の底の方に赤い箱が見えた。多分、それが風邪薬なのだろう。

「風邪・・・ひかれてるんですか?」

「いや、私じゃなくて祐巳ちゃんがね。高熱で辛そうだから」

「ああ」

聞くんじゃなかった。聞きたくなかった。祐巳ちゃん、祐巳ちゃん、最近聖さまの言葉には必ず祐巳さんが出て来る。

コレと言って可愛い訳でも、美人という訳でもない。とりえなんて何も無さそうなあの少女の、どこが聖さまはいいというのか。

「聖さまは・・・保健医さんが好きですね。前の方も保健医でしたし」

ああ、また。これは私の悪い癖だ。すぐにこうやって意地悪を言ってしまう。

こんなだから聖さまは私の方を振り向いてくれないのかもしれない。

でも、一言言いたくもなるわよ。ずっと思い続けてきた私の時間は、一体何だったのよ?

でも、あまり心配はしていない。だって、聖さまはいつもあまり一人の人と長続きした事は無かったから。

きっと今回もそうだ。すぐに祐巳さんは学校を出て行って、そしてまた新しい代わりがくる。きっと・・・そう。

「そうねぇ、保健医だからって訳じゃないと思うけどね」

聖さまはそう言って優しく微笑んだ。胸がギュっと痛む。切ないとか、悲しいとかそんなのでは言い表せない。

どうしてそんな風に笑うの?以前の聖さまなら間違いなく怒ってたような事を私は聞いたのに。

「・・・そう、ですよね」

「まぁ、確かに白衣はそそられるけどさー」

まぁ、それも確かに聖さまなら頷ける理由ではある。でも、決め手がそれではないことも私は知ってる。

今までの子達は多分、本当に聖さまにとってお遊びの相手だったのだろう。でも、栞さんは違った。

けれど、決して聖さまは栞さんのために自分を変えようとはしなかった。それが私の救いだったのに・・・。

「祐巳さんは、そんなにも可愛らしいですか」

ポツリと言った言葉に、聖さまは一瞬驚いたような顔をした。

頬は赤く染まるけれど、それが夕日のせいなのか、それとも照れているのかまでは分からない。

「そうね・・・可愛いね。祐巳ちゃんは。どうしてそんな風に思うんだろうね?」

・ ・・そんな事、私に聞かないでください。どうか、私にだけは聞かないで。

私の気持ちを知っているあなたが、私にそんな事を言うのは・・・あまりにも残酷です・・・。

「わ、私には分かりません。祐巳さんの良さなんて・・・」

「うん、分かってるよ。誰にもきっと分からない。だから答えは誰も知らない。でも、きっと答えはいつか出ると思う。

その時にもう一度同じ質問をされたら、私はちゃんと答えるよ」

「聖さまは・・・残酷です。本当に・・・酷い人です・・・」

ダメだ、きっと泣いてしまう。どうしてよりによって、たまたま今日ここで私を見つけたんですか?

今まで何度この川原で歌っていても気づかなかったあなたが、

どうして祐巳さんのお見舞いに行く日に限って私を見つけるんです?あんまりではありませんか。

私の心にも無い言葉が、聖さまの胸にどんな風に刺さったのかは知らない。

けれど、聖さまはゆっくりと立ち上がって私の頬に小さなキスをした。

「それも分かってる。私は残酷で、酷い人。だから静がこれ以上私の事で傷つく事もない。

静の声はとても綺麗だ。でも、私には届かない。それは静と私じゃ求めるものが違うから。

静、今日ここで会ったのは、偶然じゃないよ。本当は私はずっと知ってた。たまに静がここまで来て歌ってるのを。

でもね、声はかけなかった・・・だって、そうでしょう?何て声をかければいい?

私をまだ好きだと思ってくれている静に、私は何も言えないよ。だからずっと黙ってたんだ。

でも・・・流石にもう無視は出来なかった。放っておかれるのは、辛いって事を私は十分身に染みたから」

聖さまは私を抱き寄せると、優しく背中を叩いてくれた。これが偶然じゃない。だったら何だったの?

どうして聖さまはいつまでも私を放っておいたの?辛いと分かったのなら、どうして今まで放っておいたのよ?

そんな風に言われたら、私はもうこの後何も言えないじゃない!

「・・・それは・・・栞さんに教わったんですね?」

「ええ、そうよ。栞が教えてくれた。自由ってのは、酷く寂しいって事を。

人はね、どこかに、何かに、誰かに属さないと生きてはいけないんだと思う。

それを教えてくれたのは、そうね・・・栞だったな」

「じゃあ祐巳さんは?祐巳さんは何を教えてくれるっていうんです!?」

あの子には取り留めて何か光るものは無いと思うのに、どうして皆にあれほど愛されるのだろう?

私は、どうしてこんなにも祐巳さんを羨ましく思ってしまうのだろう?

「祐巳ちゃんは・・・暖かさを教えてくれる。一人じゃないと思わせてくれる」

「・・・それだけ?」

「そう、それだけ。でも、私はこんな感情初めて味わった。皆もそうなんじゃない?

彼女を見てると、何故かとてもホッとして暖かくなれる。だから皆祐巳ちゃんが好きなんだと思うよ」

暖かさ・・・私にはないモノ・・・。いくら歌が上手くても、人間の肝心な部分が見えなかったのは聖さまではなくて、私だったのだ。

本当は知ってるのに・・・聖さまは軽薄な振りをしているだけだって事ぐらい。

繊細だから、そう見せる。繊細じゃない人はわざわざ軽薄な振りなんてしないし、ましてや繊細ぶる事もない。

本当の本当に孤独な人は、そう。いつだって本心を隠すんだ。だから誰にも気づかれず、余計に孤独になる。

聖さまは・・・軽薄で本心を隠すような人。だから残酷に見えたりするけれど・・・その実本当はとても・・・優しい人。

だから私は好きだった・・・そんな聖さまが、どこか陰のある聖さまが・・・。

たとえ暗い過去があっても無くても、そういう陰を持つ人は居る。でも、私は聖さまが好きだった。

「聖さまは・・・祐巳さんの事、好きですか?」

「そうね・・・」

ポツリと言った聖さまの顔は恥ずかしそうだった。でも、とても幸せそう。まるであのスキーの帰りの車の中の写真みたい。

こんな聖さまの顔、初めて。多分自分でも気づいてないんだろうな・・・こんなにも、こんなにも幸せそうな顔してるなんて事。

「聖さま、大好きです。でも、昔ほどの痛みはありません。聖さまもそうですか?」

「もちろん」

「そうですか、それなら私は完全に聖さまに振られてしまいましたね」

「・・・静・・・」

「いえ、いいんです。謝らないでください。私後悔してませんから」

「・・・ありがとう」

聖さまはそれだけ言うと少しだけ俯いて土手を登って、行ってしまった。

取り残された私は、何故か笑っていた。だって、あまりにも自分が滑稽だと思ったんだもの。

誰かを好きになるって事は、本人以外から見れば何て滑稽なんだろう。一人でヤキモキして、相手にいいように振り回されて。

でもね・・・それがすごく愛しいと思う。どんなに滑稽でも、惨めでも、情けなくても、私はやっぱり後悔はしない。

聖さまが好きでした。本当に好きでした。

たとえただの一度も振り返ってくれなかったとしても、私にとって、あなたは最愛の人でした。

だから、今日の事はたまたま聖さまがここを通りかかって、私を見つけたって事にさせてください。

今日のお別れが、必然の中で起こったのではなくて、あくまでも偶然の中で起こった出来事なのだ、と。

そう・・・思わせてください・・・。



第五十五話『妹だなんて言わないで』



聖さまが帰ってきた事に私は全く気づかなかった。つい一時間前に聖さまが家を出たのはかろうじて知っていたけれど。

部屋の中は暗く、代わりにキッチンの中だけが煌々と明るい。

「せ・・・さまぁ・・・」

呼んでみるけど、どうやら聞こえないらしい。つうか、私が行けばいいのか・・・。

どうにか立ち上がってふら付く足を支えながらキッチンへと向う私。あぁ・・・なんて滑稽な姿・・・。

むしろ這いずった方が早そうな気がする。

「聖さま・・・」

「祐巳ちゃん?!」

驚いたような顔をして振り返った聖さまの目はいつもの二倍はある。いいな・・・そんなに見開いても綺麗なんだもん。

それに比べて今の私は・・・ズタボロ・・・。頭もボサボサだし、きっと熱のせいで顔だって酷い。

「ちょっと、ちゃんと寝てなきゃ・・・うわっ!」

フラ・・・って急に眩暈がして、私は倒れそうになった。でも、そこは流石聖さま。ちゃんと私の身体を抱きとめてくれる。

はぁ・・・やっぱり・・・格好いい・・・。

「全く、言わんこっちゃない・・・ほら、ベッドに戻ろう?」

「・・・いや・・・」

いや、いやいや!何言ってんの?私・・・何甘えてんの??ほら、聖さまも困ってるじゃない・・・。

でも、頭とは裏腹に心は離れたくないという。あぁ、どうすればいいというの・・・。

「いや、そんな事言われてもほら、晩御飯の用意出来ないでしょ?」

「でも・・・離れたくない・・・」

ぎゃぁぁぁ!!!ちょ、な、何言っちゃってんの!?私!!!

「・・・祐巳ちゃん・・・分かった。ちょっとここで待ってて」

困ったように笑った聖さまが持ってきたのは厚手のセーターに、コート。それから毛布。

「ほら、これとこれ着て、これを被ってそこに座ってなさい」

「はい・・・」

聖さまに言われた通り私はセーターの上からコートを羽織り、

さらにその上から毛布を被るとキッチンのすぐ前にペタンと座り込んだ。

それにしても・・・う〜ん・・・これではまるで何かの抗議運動のようだわ・・・。

聖さまも毛布にくるまれて丸々としている私を見て苦々しく笑う。ていうか、多分笑いを堪えてる。

「今日のメニューはクリームシチューだよ。祐巳ちゃんは好き?」

クリームシチュー・・・大好きだっ!ていうか聖さまってばそんなもの作れたんだ・・・ちょっと見直したわ。

「はい、大好きです」

「そ?なら良かった。嫌いって言われたらどうしようかと思っちゃった」

にっこり笑う聖さまはまるで子供みたいだ。そして何よりも凄く可愛い!そう、ベリーベリーキュート!!

・ ・・あぁ、多分私はまだ熱が相当高いのだろう・・・でなきゃこんなテンションになるはずがない。

こんなにも甘えたいのも、こんなにも寂しくなるのも、きっと熱のせいだ。いや、むしろ熱のせいだって事にしといて欲しい。

だからこんな事言うのもきっと・・・今日限りだと思う。

「聖さま・・・頭・・・なでなでして・・・」

「は?!」

「・・・なでなで・・・」

昔、熱を出すと必ず母が頭を撫でてくれた。すぐに良くなるおまじないだと言って。今でもその事をよく覚えている。

大人になった今はそんな事もう誰もしてくれやしないけど、熱を出すとやっぱり誰かにこんな風に甘えたくなる。

でもだからって、誰でもいいって訳ではないんだけど。

俯いてなでなでをせがむ私。多分聖さまは躊躇ってるに違いない。

「・・・どうしたの?やけに甘えるじゃない」

「だって・・・寂しい・・・から」

もう敬語も話せないほど弱っていたのか、私は。これじゃあまるで子供みたいだ。ほんの小さな子供・・・。

でも、聖さまだから、この人だから甘えたいのだ。他の人にはこんな事絶対に言わない。

ていうか、言えない。泣きそうな私。

多分これは恥ずかしさのせいなんだけど、どうやら聖さまは上手い具合に勘違いしてくれたらしい。

「わ、分かったから!撫でる、撫でるよ!だから泣かないで」

「・・・はぃ〜・・・」

聖さまの手のひらが優しく髪を撫でる。うっとりと目を瞑る私に、聖さまの小さな笑い声が聞こえた。

「こんな事誰かにするの初めてだよ」

そうなんだ・・・意外だなぁ・・・もっと色んな人にしてそうなのに。でも、そっちの方が私にとっては嬉しいけど。

あぁ、この時間がずっと続けばいいのにな。でも、そうはいかないよね・・・明日も明後日も学校はある。

早く治さなきゃ、私には生徒達もいる。もちろんいつまでも聖さまには甘えていられないわけで・・・。

「ふふ、祐巳ちゃんは子犬みたいだね」

「聖さまは・・・猫みたです・・・」

気まぐれな所とか、なかなか本性を見せない所とかが。あと、気に入らないことがあると引っ掻かれそう・・・。

「そうかな?そうでもないよ」

「いいえ、猫ですよ。わがままで気まぐれで、それに・・・とても神秘的・・・」

きぃぃやぁぁぁ!!!ま、また!!口が勝手に喋るのよ!!この口がっ!!!

けれど、私は聖さまから目を逸らすことが出来なかった。

何故だろう・・・真っ直ぐ私を見詰める聖さまの目は、本当にあの猫の透き通ったビー玉みたいで・・・。

けれど、そう思ったのも束の間、聖さまは次の瞬間にはいつもの意地悪な笑みを浮かべていた。

「そ〜う?そっかー、祐巳ちゃんには私がそんなにも神秘的に映ってるのかぁ」

ふ〜ん、へ〜、なんて言ってニヤニヤする聖さま。正直感じ悪い!!つうか、せっかく人が褒めてるのに!!

「で・も!大半はそのわがままさから来てると思いますけどね!」

フンだ。もう褒めてやんない。

「ちぇー。まぁ、確かにわがままだけどね、私は。だって、一人っ子だもんね」

そう言って聖さまは鼻を鳴らす。

いや、ていうかさ、それは聖さまだけの話であって、別に一人っ子だからとか関係ないように思うのですが・・・。

実際二人兄弟でもわがままな人はわがままだし、それは一概に言えないでしょうよ。

「そんな事言ったら世の中の一人っ子の方に叱られますよ」

「ふふ。なんにしても、だから私は嬉しいのかもね。

こうやって祐巳ちゃんの世話をするのが、まるで姉妹が出来たみたいで楽しいのかも。

・・・まぁ、本当は姉妹なんかで収まりたくないんだけどさ・・・」

「・・・姉妹・・・ですか」

「やっ!だから、その後の台詞が重要な訳で・・・って、ちょっと聞いてる!?」

「そっか・・・聖さまにとって私は姉妹・・・」

なんだ・・・私は妹としか見られてないんだ。

やっぱり聖さまが好きなのは由乃さんが言ってたみたいなボン、キュ、ボンな人なのだろうか?

でも、どうしたってそれは無理だよ・・・聖さま・・・吸引とかもやってみたけど、無理だったもん・・・。

妹・・・イモウト。この響きがこんなにもショックな言葉になるなんて考えた事もなかった。

聖さまは何だかさっきから慌ててるし、必死になってフォローしてくれなくても、分かってた事だもん。

はぁ・・・何だかさっきよりもしんどいんだけど、また熱上がったのかな・・・。

「ほら、祐巳ちゃんベッド戻ろう?」

「ふぁい」

妹か・・・ちぇ!何だよ、こっちの気持ちなんて何にも伝わってないじゃん。

どうやったらこの想いが聖さまに伝わるのよ?つうか、どこまで鈍いのよ!!聖さまはっ!!

「さ、ほら。もうちょっとでクリームシチュー出来るから、ね?それまでは大人しくしてて」

「・・・はーい」

「あれ、何その返事?何だか不服そうじゃない」

「べっつに・・・あークリームシチュー楽しみー」

どうだ、思いっきり棒読みで言ってやった!ふんだ、人間は風邪引いてるといつもよりずっと子供っぽくなるんだぞう!

・ ・・って、それは私だけかもだけど。案の定聖さまは驚いたみたいに私の顔を見ていたけれど、突然声を出して笑い出した。

「たまにはいいね、拗ねてる祐巳ちゃんも。何で拗ねてるのかは知らないけど、ね」

そう言って聖さまはキッチンに戻ってしまった。私に掛け布団をしっかりかけて。だから私は言ってやった。

本心を。珍しく。

「だって、聖さまが妹とか言うから・・・」

「えっ?なに、何か言った?」

人が勇気を出して言ったのに、聞こえてないなんて・・・もういいよっっ!!

「何でもないですよっっ!!」

「あ、そ」

「・・・そーですよ・・・」

フンだ!!聖さまなんてもう知らないんだからっっ!!!

溝にでもはまっちゃえっっ!!!そんで向こう脛思い切り打てばいいのよっ!!

保健室に来たら私が手当てして、そしたら少しぐらいは私の事頼りになるって、きっと思うんだからねっ!

もう妹みたいだなんて、絶対思わせてやらないんだからっ!!!!!!!




第五十六話『糸はまだ上げない』



皆どうして人の話を最後まで聞かないんだろう?どうして勝手に勘違いするんだろう?

つうか、どうしてそうやって思い込むのかな?どうして勝手に決めちゃうのかな?

私の話を最後までちゃんと聞けっつうの!さっきの台詞はさ、聞き所は最後の所でしょ?

そんで、目に涙溜めて、聖さま・・・、ってなる所じゃね?『私も・・・聖さまとはもっと違う関係でいたい・・・』とかさ、

言っちゃう所なんじゃないんですか、って話だよ、全く。

「やりきれないよな、もう・・・」

もし私が魔女だったらなぁ・・・このクリームシチューに惚れ薬とか混ぜ込むのにな。

たとえそれで祐巳ちゃんがお腹を壊そうが、そんな事は知ったこっちゃないね。

・ ・・まぁ、拗ねた祐巳ちゃんも中々可愛かったケド。・・・ダメだこりゃ・・・いつの間にか惚れ薬飲まされたのはきっと私。

ああ、だからここの所イマイチ体調が良くないのか・・・くそっ!祐巳ちゃんめ!!

何にしても、祐巳ちゃんも蓉子も人の話を聞かなさ過ぎる!!ほんっとうに嫌になる。

とか言いながら、どっかで私は楽しんでるんだよなぁ。この関係を、このあまりにも平凡すぎるような日常を。

だからって訳でもないけど、最近はほんと、覇気がない。何というか、刺激が無いっていうのかな?

もちろん祐巳ちゃん見てたらドキドキするんだけど、また違ったドキドキを私は今求めてるのかもしれない。

「祐巳ちゃん、ご飯出来たよ。ほら、熱いうちに食べよ?」

「わぁ・・・いい匂い・・・聖さま本当に作れるんですね・・・」

「どういう意味よ?ちゃんとクリームソースから作ったんだからね!」

「知ってますよ・・・だから凄いな、と思って・・・これからはもっとちょくちょく作ってくださいね」

そんな事言って、私にこれから夕食当番を任せようとしてるに違いない、この子狸は。

生憎だけどそんな手には乗りませんよ。だって、私は祐巳ちゃんの作るご飯が好きなんだもの。

「今日は特別だからね。それに、他所の台所は使いにくいから嫌」

「えー・・・すでに自分の家みたいに勝手に冷蔵庫漁ったりしてるじゃないですか!」

「嫌ったら嫌。私は誰かの作ったご飯がいいの。祐巳ちゃんが作ってくれないなら私餓死しちゃうかも。

そしたら遺書に書いてやる。祐巳ちゃんがご飯くれませんでした、って」

「・・・野良猫ですか、あなたは」

「似たようなもんかもね。それよりもほら、食べるよ!」

熱々のクリームシチューを目の前に祐巳ちゃんはフンフン鼻を鳴らしながらご機嫌だ。

ああ、良かった。どうやら既に機嫌は直ったらしい。

全く、手間掛けさせて。私が誰かにご飯作るなんて滅多にないんだからね!

「どう?美味しい?」

「・・・まだ食べてません・・・」

ていうか、誰かに作るのなんて本当に無かったもんだからドキドキする。そうか!これが私の求めていたスリルか!!

いや、違うけど。でもほんと、妙にドキドキするよ、祐巳ちゃん。

「ね、ね、どう?」

「・・・まだ食べてませんってば・・・」

うー・・・早く食べろっつうの!!今日はちゃんと1から作ったんだから!!

「ね、どうかな?」

「ダーーーーーッッッ!!!まだですってばっっ!!!」

「えー・・・早く食べてよ、もう。トロくさいんだから」

おっと、思わず本音が・・・私は思わず口を覆った。

私のしつこさと台詞に祐巳ちゃんは今にもテーブルを引っくり返しそうな勢いだ。

「あっついんですよ!!私猫舌なんですっ!!」

「猫舌って・・・子狸のくせに・・・」

「・・・何です?」

「いいえ、何でも。そんなに熱い?ちょっと貸してみ?」

私は祐巳ちゃんの目の前の皿からシチューをすくってフーフーする。そして、それをおもむろに祐巳ちゃんの鼻先に持っていく。

「ほら、アーンして」

「え、え?」

「もう冷めてるって、むしろ冷たいよ」

本当は熱々をハフハフ言って犬コロみたいに食べてほしいのに。顔とか輝かせながらさー。

「で、でも・・・その・・・」

「とりあえず早く食べてみろっつってんでしょ?」

「は、はひ!」

パク。むぐむぐ・・・ゴクン。ぱぁぁぁ。

よしっ!どうやら上手くいったらしい。私は祐巳ちゃんのお皿を返すと、自分のシチューを食べ始めた。

冷めても美味しいのなら熱くて不味いはずがない。

「お、美味しいですよ、聖さま・・・凄い、天才!!」

「そうでしょうとも。私が作ったんだから不味いはずがないじゃない」

良かった・・・どうやら成功したみたい。本当はさー、ちょっと心配だったんだよねぇ〜。

作り出してから気づいたんだけど、足りない材料とかが結構あったのよね。

だから適当にぶち込んだんだけど・・・案外上手くいったようだ。

「良かった良かった。先に祐巳ちゃんに食べてもらって正解だったわ」

私の言葉に祐巳ちゃんはガチャンとスプーンを置いた。そして大きく息を吸い込む。

「な、なんですとーーーっ?!ど、毒見・・・もしかして毒見のために私に先に食べさせたんですか?!」

「いや、そういう訳じゃないけど・・・自信がなかったもんだからつい」

なんですと、だって・・・やっぱり祐巳ちゃんて面白い。んな訳ないじゃない。ちゃんと味見しながら作ってるってば。

最後の方は味見しなかったけど・・・まぁ、結果上手くいったんだからそれでいい。

それにほら。なんだかんだ言いながら祐巳ちゃんは私が期待した通り犬コロみたいに食べてくれてるし。

多分・・・お腹減ってたんだろうな・・・だって、凄い勢いだもん・・・。

「おかわり・・・あるからね?」

祐巳ちゃんは返事の代わりにコクコクと首だけを縦に動かした。口の中はじゃがいもやらニンジンで一杯なのだ。

あぁ・・・作って良かった。可愛いなぁ・・・祐巳ちゃん見てると思わず笑みがこぼれてしまう。

なんだろうなぁ・・・こう、ほっこりするって言うのかな?

春先にタンポポ見て思わず微笑んでしまうような、そんな感情に凄く似てる。

店に売ってるような花とかじゃ全然ないんだけど、つい足が止まってしまうんだよな。

今までの痛いだけの好きじゃない。スリリングな恋じゃない。平凡だけど、暖かで、まったりとした恋。

でも、長い目で見れば、ずっと一緒に居るのなら私はまったりしてる方がいい。その方がきっとずっとあったかい。

「聖さま、おかわりっ!」

「はいはい、よく食べるね」

「はいっ!美味しいですから!」

素直に喜んで、駆け引きもなーんも通用しない。裏も表も大して無くて、結構ズバズバ言ってくれる。

でも、だからこそ心地良い。一緒に居ても飽きないし、何よりも自分を創らなくていい。

「・・・それじゃあ、これからもたまには作ってあげないでもないよ・・・」

素直じゃない私は、裏も表も激しいし、性格だって結構歪んでる。でも、それでも祐巳ちゃんは笑ってくれる。

「ええ、約束ですよ!」

「・・・うん」

こうやって満面の笑みで、真赤な顔でそんな風に言われたら、私は頷くしかない。そしてそんな自分も結構気に入ってる。

何が決めてって訳じゃないんだけれど、私は祐巳ちゃんが好きなんだ。多分、凄く凄く好きなんだと思う。

だからこそ今度は慎重に・・・焦らずじっくりと責める予定。でないと、不安定な糸はきっと切れてしまうから。

大物を釣り上げるには、もうしばらく時間がかかりそう。




第五十七話『怒りは生きる為に最も必要な感情と言っても過言ではない、と、思う』




授業中、ふと余所見をしてたら不意に生徒に言われてしまった。

「先生、最近ずっとボーっとしてますね」

と。

なるほど、確かに私は最近ちょっとボーっとしてたかもしれない。だって、祐巳がいないんだもの。

教卓の上には笑顔で私を見つめる祐巳写真。でも、本物の祐巳は今日も学校には来ていない。

風邪だとお姉さまは仰っていたけれど、何が気に入らないって、あの聖さまもここ二、三日学校に姿を現していないという事。

ていうよりも、学校には来てらっしゃるのに、昼休みには帰宅し甲斐甲斐しく祐巳の面倒を見ているのだとか。

・ ・・何それっ?!どうして私じゃないの?風邪を引いてぐったりしている祐巳の面倒を見るのはこの私が一番相応しいはずよ。

それなのにどうやら祐巳は、看病してくれるのなら聖さまがいい、と言ったとか何とか・・・。

それってどういうこと??つまり私でも他の人でもなく、聖さまでなければならないと、そういう事なの?

生徒達は皆好きにおしゃべりをしている。いつもの私なら間違いなくハンカチを破いてヒステリーを起こしそうなものなのに、

何故か今日はそんな気力すら起こらない。というよりも、ここ最近はずっとこう。おかげでハンカチも節約出来る。

でも、何なのかしら、この心の中のモヤモヤは・・・一体私はどうしてしまったというの?

「それは恋ね」

祐巳の居ない保健室でお茶を飲んでいると、お姉さまが言った。

一瞬私は目の前が真っ暗になって、思わず倒れてしまいそうになる。

「こ、恋・・・ですか?」

「ええ、そうよ。あなたきっと聖に焼もち妬いているんだわ」

焼もち・・・というのはあれだろうか。いわゆる好きな人が誰かと話しているとイライラするという例の・・・アレ。

「ま、まさか・・・お姉さまってばご冗談を・・・私は女なんですよ?それに祐巳も・・・」

同じ同性同士で恋などと、私には考えられない。

けれど、目の前のお姉さまは全くの無表情で私をじっと見つめ、優雅にお茶などすすっている。

「だったら他に何だというのかしら?」

「そ・・・それは・・・」

生憎私は言い返す事が出来なかった。だって、自分でもそうかも、なんてちょっと思ってしまったんですもの。

でも・・・認めないわ、私は。断固として認めない。

「わ、私はただ、祐巳があまりにも聖さまと接近しすぎていると思っているだけで、他意などは・・・」

そうよ、だって、聖さまは今までにも何人も何人もこの学校から追い出したんですもの。

そんな毒牙に祐巳がかかりにでもしたら・・・そう、言わばこれは親心のようなものなのよ!

けれど、お姉さまは白い目で私を見ている・・・あぁ、やめてください、お姉さま・・・そんな目で見られると自信がなくなります。

「まぁ、祥子がそう思うのならあなたの勝手だけれどね。でも、恋じゃないのなら祥子にそんな事言う権利は無いわよ」

「ど、どうしてですっ?!職場の仲間を心配するのがいけないと仰るのですか?」

「そうじゃないけれど・・・でも、二人の問題でしょう?あなた祐巳ちゃんの母親にでもなったつもりなの?」

う・・・そ、それは・・・。

だって、祐巳ったらあんなにも可愛らしいのにどこかボンヤリしていて・・・聖さまになんか簡単に食べられてしまいそうだし・・・。

誰かが守ってやらなきゃあまりにも無防備で・・・。

「それは・・・だって、誰かが守ってやらないと・・・」

私の言葉にお姉さまは何故か笑い出す。わ、私・・・そんなに変な事言いました?

「守るって、あなたが?祐巳ちゃんを?どうして!彼女はああ見えてもちゃんと大人なのよ?

祥子が守らなくても自分で守れるわよ。それに、人の恋路を邪魔するのは野暮ってものだわ」

「で、ですがっ!!」

「しつこいわよ、祥子。いい加減にしなさい。聖と祐巳ちゃんの事は、あの二人がちゃんとするわ。

祥子は自分自身の事をもっとちゃんとよく見てみなさい。生徒から苦情がきてるわよ」

「・・・そんな・・・」

どうして?とは聞けなかった。だって、実際祐巳が居なければ私はまるで子供だった。

授業にも身が入らず、ちゃんと生徒達に指導も出来ない。苦情が出ない訳がない。

でもね・・・でも、どうしても祐巳の事が気になって・・・授業どころじゃないんです、お姉さま・・・。

やっぱりお姉さまの言うとおりこれは恋なのかしら・・・いいえ、違うわ。だって、私には婚約者もいるんですもの。

だからこれが恋だなんて・・・ありえない。

「祥子、何でもいいけど授業だけはちゃんとやってちょうだい。あなたは教師なんだから・・・ね?

それに、祐巳ちゃんの看病は聖がしっかりやってくれているし、少しは聖を信用しなさいな」

「・・・お姉さまは聖さまを信用出来る、とそう仰るんですか?マリア様に誓って少しも疑っていないと?」

「ええ?マリア様に誓って?うーん・・・それはちょっと無理ね・・・」

「・・・・・・・・・・・」

ほら、やっぱり・・・だって、あの聖さまですもの。信用なんて出来ませんよ・・・。

聖さまと言えば、浮気性で軽くて・・・そんなイメージしかない。昔はもっととっつきにくそうで重厚だったのに・・・。

一体いつからあんなにもホニャラカな人になってしまったのか。

美しい見た目に騙されて毒牙にかかった少女は数知れず、狙った獲物は決して外さない。

そんな噂まで流れるほど聖さまは恋愛に関してはエキスパートで・・・。

一方祐巳といえばどう?見た目はまるで子供の狸のように愛くるしくって、ぬいぐるみのような癒し効果。

恋愛にはめっぽう疎そうだし、どう考えても捕食動物でしかない。

でも・・・聖さまの好みではないはずなんだけど・・・一体どうなっているのかしら?

趣旨変え・・・というやつかしら?よくは分からないけれど・・・祐巳が聖さまのモノになったとしたら私は・・・。

「堪えられません!!!」

「な、何がっ?!」

突然そう叫んで立ち上がった私を、お姉さまは目を丸くして見ているけれど、

私はそんなお姉さまを無視して、気がつくとハンカチを破り床に捨てていた。

「あら・・・調子戻ってきたじゃない・・・」

「怒りは私の原動力ですから!」

「な、なるほどね・・どちらにしても良いこと・・・なのかしら・・・」

ブツブツ言うお姉さま。けれど、私にはお姉さまの言葉など最早耳には入らない。

ヒステリックな私は、誰にも止められないのだ。怒りは時にも物凄いパワーを発揮する。

人は怒る事で生きていると言ってもいい。・・・いえ、それは言いすぎだけれど。

お姉さまの言うとおり、祐巳には祐巳の人生がある。もしも祐巳が聖さまとの人生を望むのだとすれば、私は邪魔しない。

でも・・・でももし、聖さまが今迄と同じように祐巳を扱うのなら・・・その時は聖さまはきっとこのハンカチみたいになるだろう。

私は床に千切り捨てたハンカチを拾い上げ、ポケットにしまった。

「・・・見てらっしゃい・・・聖さま・・・ふ・・・ふふふふ・・・」

「こ、怖いわ・・・祥子・・・」

お姉さまの声が遠くで聞こえた気がした。けれど、私はすでに保健室を後にしていて最後までは聞き取れなかった。

次の授業は、きっといつもの私。だからね、祐巳。いつものように私を見ていてちょうだいね・・・。



第五十八話『そうして事件は起こった』




風邪が完治したのは、あれから一週間後の事だった。そして、あれから一ヶ月。私と聖さまの間には何も起こらず、

ただいつものように同じ毎日を繰り返していただけだった。

「聖さまー、居ますか〜?」

今日は土曜日。もうお昼だというのに聖さまは一向に姿を現さない。

業を煮やした私は聖さまの家に奇襲をかけに行く事にした。いや、少し言い方が悪いか。

ただ、会いたいからこちらから訪ねていくことにした。うん、こっちのが綺麗でいいな。

ところが・・・中から出て来たのは聖さまではなくて・・・知らない女の人だった。

「・・・どちら様かしら?」

いや、つうか、それはこっちの台詞なんですけど・・・。ていうか、どうして?聖さまが誰かを家に上げるだなんて・・・。

奇跡?いや、違う。そんな事言ってる場合じゃないよ・・・。玄関で立ち尽くすむ私を見て、女の人はまた怪訝な顔をする。

まるで聖さまに休日に会いに来る人間なんて誰も居ないとでも思っていたような顔だ。

「あのー・・・聖の知り合い?」

「あ・・・えっと・・・隣の者ですけど・・・その、聖さまは・・・」

ど、ど、ど、どうして私こんなにも低姿勢なのよ?!つうか、どうして私こんなに慌ててるの??

まるで夫の浮気現場を目撃した妻のような・・・そんな不思議な心境だ。

そんな私を見て、女の人はクスリと笑った。けれど、慈悲深い笑顔は少しも嫌味な感じがしない。

いや、むしろその慈悲深さが嫌味なのかもしれない。

「聖に用事?あの人、今誰にも会いたくないそうだから伝言しておくわ」

女の人はそう言って窺うように私を見下ろす。どうして?どうして・・・まるで聖さまの恋人のように振舞うの?

あなた・・・誰なの?聞きたいけれど、聞くのが怖くて私はペコリとお辞儀だけをしてその場から立ち去った。

そして何も聞けないままその日は終わり、三日が過ぎて・・・聖さまは休みが終わっても学校に来なかった。

私もあれから一度も聖さまに会っていない。

こじれるのが嫌で避けていた・・・というよりは、どちらかといえば聖さまが私を避けているようだった。

電話にも出てくれないし、朝起こしに行っても誰も出てこない。夕飯も食べにこないし、メールも返ってこない。

私は蓉子さまやSRGに何を聞かれても、あの女の人の事は言えなくて・・・。

だって、もしもあの人が聖さまの新しい恋人だったとしたら?怖くてそんな事言える訳がない。

むしろそんな事知りたくない。

でも、蓉子さまやSRGに言えば、きっとあっという間に調べ上げて嫌でも私の耳に入ってきそうで・・・。

もう三日も経ってるのに聖さまにすら聞けない私は、こんなにも弱虫だっただろうか?

振られる覚悟なんてとうに出来てると思ってたのに、本当は何の心の準備も出来てなどいなかった事に気づく。

「・・・だって・・・まさかこんなにもショックだなんて思わなかったんだもの・・・」

恋をした事が無かった私は、もちろん失恋だってしたことない。

でも、失恋のショックっていうのは、考えてたよりもずっと生易しいものではなくて・・・。

あの女の人は誰だったのか・・・今も聖さまの部屋にあの人は居るのだろうか?その時だった。

たまたま部活で怪我をした生徒とその付き添いの子が保健室にやってきて言ったのだ。

「そういえばさー、私ついさっき栞先生見たよ」

「うっそ!どこで?」

「それがさ、礼拝堂の中で佐藤先生と一緒にいてさー」

「えー・・・じゃあ、あの二人ヨリ戻すのかなー?」

「さあ?でも、佐藤先生なんだか怖くてさー・・・いっつもの佐藤先生じゃないって言うか・・・」

「それっ!今もそこに居るの?!」

思わず私はその子の肩に掴みかかりそう聞いていた。もしかしてあの人・・・栞さん?そんな考えが頭を過ぎったのだ。

私は驚く少女に謝りながら手早く捻挫したという足に湿布を貼って、気がつけば保健室を飛び出していた。

どうしようというのか、全く分からない。でも、自分の目で確かめれば少しは諦めもつくかもしれない。

けれど・・・本当は心の中でずっと祈っていた。どうか・・・どうか、聖さまと栞さんがヨリを戻したりしませんように・・・と。

いけないことだとは思いながらも、そんな事をずっと考えていたのだ。

前は栞さんが戻ってきて聖さまとヨリを戻しても、それが聖さまの幸せになるのなら構わないと思っていた。

けれど、私は聖さまを好きになって初めて、こんな自分が居たことを知った。嫉妬という感情を抱く自分。

醜くて汚い感情・・・でも、それが人間なのだ。そして、それも私・・・。

私は息が切れるほど走った。礼拝堂はもうすぐ目の前・・・けれど、私はそこから動くことが出来なかった。

身体がまるで石のように固まってしまって動けない。

目の前の光景が私の脳に辿り着くまでに、一体どれほどの時間が経ったのだろう・・・。

いや、多分それほど経ってないんじゃないかな。だって、ほら、聖さま私に気づかないもの。

目の前の光景はそれほどに私を打ちのめし、叩き潰す。それほどの威力がそこにあった。

礼拝堂の入り口で、聖さまは凍りついたように立ち尽くしていて、その身体をしっかりと栞さんが抱きしめている。

瞳はそっと閉じられ、頬に涙が伝っているのがここからでも見えた。

ほんの少し背伸びをして聖さまの唇に口付けるその口元にはうっすらと笑みが浮かんでいて・・・。

そう・・・礼拝堂のすぐ前の所で、聖さまと栞さんはキスをしていた。

私はそれをただまるで映画のワンシーンのように見つめるだけで、やっぱり動けなくて・・・。

「・・・あ・・・」

ポツリと漏れた声はどうやら聖さまに聞こえたらしく、聖さまの視線と私の視線がバチリと合う。

聖さまは驚いたように目を見開きこちらを見ているけれど、栞さんの腕がしっかりと聖さまを抱いているのを見て、

私はその場から駆け出した。聖さまと目が合ったところでようやくキスの魔法は切れたらしい。

私は走った。どこに行くわけでもなく、ただ走った。けれど、しばらく走っても誰も追ってこない。

「・・・こんな・・・もんよね・・・初恋は・・・叶わないんだもんね・・・」

ボロボロと涙が零れ落ちて、嗚咽を堪えることも出来なくて。聖さまは言った。初恋は叶わないよ、と。

もしかして既に聖さまは私の気持ちを知っていたのだろうか?だからあんな風に私に言ったの?

でも・・・それならあんまりじゃない。だって、あんなにも私に優しくして、私に甘えて・・・もっと突き放してくれれば良かったのに。

そうすればもっと早くに忘れられたのに・・・あんな所を見ても・・・こんなにも悲しくなんてなかったのに・・・。

スキー場で私にずっと付きっきりでスノボを教えてくれた。何度も何度も怒鳴られたけど、凄く楽しかった。

二人して遭難した時も、聖さまは嫌味とか一杯言いながらそれでも優しかった・・・。

家庭科室が火事になった時だって・・・聖さまだけが助けに来てくれて・・・あの時どれほど心強かったか、聖さまには解る?

風邪を引いた時だって子供みたいに私に甘えてくれて・・・本当に嬉しかった。

私が風邪を引いた時は初めて聖さまの家に私を上げてくれて・・・それがどんなに誇らしかったか・・・聖さまには解る?

それに学校と家を往復してまで看病してくれたり、毎晩毎晩晩御飯食べに来たり、毎日私にお弁当作らせたり、

それがどんなに・・・どんなに迷惑で、どんなに幸せだったか・・・聖さまには解らないでしょう?

「私は・・・聖さまにとって・・・一体なんだったっていうのっ?!」

初めて恋を知った日、私はドキドキして眠る事が出来なかった。

月夜の中、街灯と月を味方につけた聖さまは本当に綺麗で・・・。

一瞬で私の世界の中に聖さまという人物が滑り込んできて・・・そんな幸せがこの世にあるんだって事を教えてくれたのは・・・。

「聖さま・・・だったじゃない・・・」

どうして私に優しくしたの?どうして私を家に一番に上げてくれたりしたの?

そんな事されたら誰だって・・・期待しちゃうじゃない!・・・いいや・・・違うな。勝手に私が期待したんだもの。

聖さまは何も悪くなんてない・・・ただ、私が勝手に期待して、それが見当違いだっただけの事。

誰も悪くなんてない。しいて言えば、私が悪いのだ。聖さまを、いつの間にか自分のモノみたいに思っていたのかもしれない。

だからこんなにも・・・こんなにも苦しいに違いないんだ・・・。聖さまの世界の中で、私はただの同僚だったってだけの事。

それ以上でもそれ以下でもない・・・たったそれだけの絆だったって事なんだ・・・。

・ ・・ねぇ、聖さま?私にとって、あなたが初恋でした。でもね、後悔はしてません。私は何も失ってませんから。

幸せな気持ちを、どうもありがとうございました。そして、こんなにも悲しい気持ちを・・・・どうもありがとうございます。

保健室の鍵をかけ、私は学校を後にした。一度だけ礼拝堂の方に視線をやったけれど、そこには既に誰も居なかった。

私は少しだけ強くなっただろうか?思いもよらない悲しみを知った事で、私は何かを得ただろうか?

大切なモノはいつだって目には見えない。だからこそ、私は聖さまへの想いを大事にしたかった。

だから、悲しみを知ったことで少しでも私の大切なものが増えたのだとしたら・・・決して無駄ではなかったって事だ。

聖さま・・・本当に・・・本当にありがとうございました・・・そして・・・さようなら・・・。




第五十九話『痛みと引き換えに』




土曜日、いつものように新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。今日は学校は休み。

ということは、祐巳ちゃんには会えないって事だ。まぁ、でも?用事も無いのに私は行くんだけどね。

いつもいつも突然行くと怒られるから、珍しく私はメールをしてから祐巳ちゃんちに向うことにした。

「えっとー・・・何て打てばいいかな・・・」

ポチポチとメールを打つ私は、だから悪い予感とかそんなものは一切無かった。むしろ幸せ一杯だったのだ。

だって、頭の中では今日の朝ごはんは何だろう?とか、お昼ご飯はどこかに食べに行こうと誘おうか、とか、

ついでに帰りに晩御飯の買い物して行くとちょうどいいな、とかそんな事考えていたのだから。

でもさ、嵐ってやつは本当に突然やってくるもんなんだ、いつもいつも。

私がメールを打っていると、玄関のチャイムが鳴った。こんなにも朝早くから来るのなんて祐巳ちゃんしか居ない。

そう思った私は、いつものだらしない格好で玄関に向った。

Tシャツとジーパン・・・こんな格好で誰かに会うなんて、今までの私なら考えられない。

でも、どうせ祐巳ちゃんだから、なんてタカ括ってたんだと思う。でなきゃ絶対にこんな格好してなかった。

だから私は今凄く後悔している。だって、確認もせず玄関を開けた私を待っていたのは祐巳ちゃんなんかじゃなくて・・・。

「・・・あ・・・」

「久しぶりね、聖」

嘘でしょ?どうしてここに居るの?そう思った瞬間、私の浮ついた幸せな気分はサッと身を潜めた。

代わりに昔の暗くて冷たい私が顔を出す。目の前にたっているのは相変わらず真っ白で無垢な少女。

今一番、会いたくて会いたくなかった・・・栞・・・。

以前よりも少しだけ伸びた髪が、離れていた時間の長さを思わせる。

「どうしてここが・・・」

「蓉子さまに聞いたの。どうしてもあなたに会いたくて・・・いけなかったかしら?」

栞は昔と少しも変わらない。こうやって何かを問うときも決して毅然とした態度は崩さないんだ・・・。

「・・・いいや、そう、蓉子に聞いたの。それで・・・今更何の用?」

冷たい言い方しか出来ない。

どうしてだろう?もうとっくに許したと思っていたのに・・・。どうして今更私の目の前に現われる事なんて出来るのか。

どうして何事も無かったような顔をしていられるのか・・・一度だって栞が泣いた所を見たことが無い私にとって、

栞はあまりにも変わらなさすぎた。イライラとした感情が首をもたげ、私を締め付ける。

けれど・・・許されなければならなかったのは・・・本当は私の方・・・。

私は栞に何もしてやることが出来なかった。いや、しなかったのだ。だから栞は私を見放したんだ。

こんなにも愚かで情けない朝は、生まれて初めてだった。鉛のように重い記憶と身体を救えたと思っていたのに、

実際に栞を前にして私は、そんな事少しも出来ていなかった事に気づいて。

だからこの後の栞の言葉は私の心を砕いた。そして、深い闇の中へと突き落とす。

「用事は無いわ・・・ただ、会いたかったの、聖に。私、もう一度あなたとやりなおしたくて・・・」

困ったように微笑む表情や、私の顔を窺うような栞の顔は昔何度か見たことがあった。

以前、私は風邪を引いた祐巳ちゃんの看病をしていて思った事があった。もし今、目の前に栞が現われたとしたら、

私はどうするだろう・・・と。まさかそんな日が訪れることがあるなんて思ってなかった私を、きっと神様が罰したのだろう。

目の前の幸せに怯えた私を・・・。

不意に祐巳ちゃんの困ったような顔が脳裏を過ぎった。けれど、そのどこも栞とは似ても似つかない。

いつだって正直で元気な彼女に、裏や表は無かった。だから私は安心して自分をぶつけることが出来ていたんだ。

近づかない距離と関係。だからといって離れることもない。不思議な関係。私は何を望んだ?

祐巳ちゃんに、栞に、一体何を望んだ?

今思ってもみなかった栞の質問は、私が望んだ事?私の思う幸せに・・・少しでも近づけるの?

「とりあえず・・・上がってよ」

私は混乱する頭でようやくその一言が言えた。

以前はあれほど嫌がっていた誰かを家に招くという行為も、

祐巳ちゃんが何度か来てくれたおかげでそんなに悪い事でもないと思えるようになっていた。

「・・・いいの?前はあんなにも嫌がっていたのに・・・」

きっと栞も同じことを思ったんだろうな・・・だって、自分でも驚いてるんだもの、当然か。

部屋に上がった栞は何もない部屋をグルリと見渡し、ふとベッドの上に飾ってあるコルクボードに目をとめた。

「写真・・・何も無いのね・・・」

「まぁね、飾るような写真ないから」

少し前までは栞のが貼ってあったんだけどね・・・とは、言わないでおいた。

些細なことかもしれないけれど、何かに負けるような気がして癪だったのだ。

「どうして?写真なら沢山あったでしょう?」

「それは・・・栞との写真って事?それとも栞が置いてった写真の事?」

嫌味を・・・言うつもりでは無い。なのに、口をついて出る言葉はさっきから嫌味ばっかり。

案の定私の言葉に栞は俯いてしまった。

別にこんな顔をさせたかった訳ではないのに・・・だって、栞が今更あんな事言うから・・・。

どうしてだろう・・・以前はあれほど心地よく感じた栞の隣が、今はこんなにも居心地が悪い。

もしもまた栞と出会う事があれば必ず謝ろうと思っていたというのに・・・どうしてこんなにもイライラして・・・苦しいの?

胸の中の完全に溶けたと思っていた氷がまた音を立てて凍ってゆく。それほどまでに、まだ私の心は栞に囚われていたの?

「・・・他にも写真はあるでしょう?別に私じゃなくても・・・」

「私は!余計な物は持っていたくないの・・・知ってるでしょ?」

ついつい声を荒げた私を見て、栞は微かに微笑んだ。

「聖は変わってしまったのかと思ったけれど・・・やっぱり何も変わってないのね。少し安心したわ」

そう言って微笑む栞は、とても綺麗だった。以前の・・・栞だった・・・。

だから余計に私は苦しくて泣きたくて・・・でも、泣けなくて・・・私が何も変わっていない?

本当にそうなのかな?自分では少しは変われたと思っていたんだけどな・・・。

やっぱり私は・・・いつまでたっても昔のままなのかな?幸せになんて・・・なれないのかな。

栞のその一言は、私を闇の底に叩き落した。生きる術を見失って羽ばたくのを止めた鳥のように。

その時だった。突然ドアをノックする音が聞こえた。続いて聞きなれたあの少し間の抜けたような声。

「聖さまー、居ますか〜?」

あぁ・・・祐巳ちゃんだ。声を聞いただけ。それだけなのに、何故か途端に胸を押し付けていた痛みが和らいだような気がした。

けれど・・・今は会えない。誰とも、会いたくない。出来れば、栞にも出て行ってもらいたいぐらいなのだ。

そんな私を察したのか、栞が代わりに出てくれた。けれど、それは間違いだった。

どんなに辛くても、本当は祐巳ちゃんから目をそむけるべきではなかったんだ・・・。

それに気づいたのは、それから三日後の事だった。けれど、この時の私はやっぱり何も見えてなどいなくて。

栞の事も、祐巳ちゃんの事も・・・何も。だから結局栞の言った通り、私は何も変わってなどいなかったのかもしれない。

「ねぇ、聖。あの時私はどうしてあなたを拒んだか・・・分かる?」

「・・・それは・・・」

正直分からない。栞の気持ちなんて、今も昔も少しも分からない。そんな私に栞は静かに言った。

「聖はただの一度も私を見てくれた事なんて無かったじゃない。あなたの告白・・・私今でも覚えてるわ。

そしてあの時、私がどれほど嬉しかったか・・・聖に分かる?」

「・・・いいや・・・」

そう、言うしかなかった。だって、実際私は栞の気持ちなんて何も考えずに告白したのだから。

だから、目に涙を溜めて黙って頷いてくれただけで、私は嬉しくて。

「私ね、聖はきっと変わると思ってた。いつかは私を見てくれるって・・・そう、ずっと思ってた」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

何も言い返せなかった。私には何を言い返す権利も無かった。

ただ私は黙って聞いていなければならなくて、それは以前とは全く逆の・・・立場だった。

・ ・・そうか・・・栞はいつもこんな気分で黙って私の話を聞いていたのか。

「でも・・・やっぱり聖は私を見てなどくれなかった。

いつまでも私は聖の天使で、ただの一度だって人間になれる事はなくて・・・。

だからサヨナラをしたの。その方が、きっとお互いにとってもいい事だと思ったから。

それでね・・・私気づいたのよ。聖と別れてからシスターになる勉強をしたの。

でもね、ただの一瞬だってあなたは私の前から消えてはくれなかったっ!

いつまでもいつまでも聖の顔が私から離れなくて・・・私・・・やっぱり聖を愛していたんだわ・・・だから・・・こんなにも苦しくて・・・」

栞はそこまで言ってその場に崩れ落ち、私はその光景を昔よく私が喩えた猫のような目で見下ろしていた。

全てを見透かすような、冷めた瞳で栞をただじっと見下ろして・・・あの瞳の意味。

それは、哀れみだったんだ、と気づいた。栞も私も、お互いを見てなど居なかった。

私は・・・周りの皆や祐巳ちゃんに散々迷惑をかけて、ようやくそれに気づくことが出来た。

「・・・栞も・・・昔と少しも変わらないね。私を見る栞の目は・・・やっぱり昔のまま・・・。

さっきの答えは・・・今日じゃなくちゃダメかな?」

あの日が愛しくて、今も胸から離れる事はない。でも、帰りたいとは・・・思わない。

苦痛の中に身を置くことは、美徳なんかじゃないんだ。私は、今ようやく長年の答えが出掛かっている事に気づいた。

どうして私は栞に出会ったのか、そしてどうして栞と別れ、祐巳ちゃんに出逢ったのか。

私に一番必要だったもの・・・それは、ほんの少しの勇気と、全てを包み込むほどの大きな愛情。

自分の周りしか見えないような光ではなくて、全てが見渡せるほどの強い・・・光。

私の質問に、栞はまた小さく微笑んだ。私からの告白を受けた時の、泣き出す一歩手前の笑顔・・・。

いつだって私の思い出の中の栞は猫のような瞳をしていたけれど、すっかり忘れていた。

本当は、本当の栞はこんな風に笑うんだって事を。そこに、本当に私の愛した栞が居たんだって事を。

「・・・こんな事も忘れてたなんて・・・バカだね、私は」

そう言って笑う私を見て、栞は驚いたように目を見開いた。そして柔らかく微笑む。

「知らなかったわ・・・聖もそんな風に笑えるのね」

「失礼ね、私だって笑うわよ」

「そうね。ごめんなさい・・・でも、何だか今初めて聖に会ったような・・・そんな気がするわ」

「・・・私もよ」

こんな風に栞と話せるなんて思ってもみなくて、多分、それは栞も同じで。思わず声を出して二人で笑ってしまった。

それこそ、何事もなかったかのように。離れていた時間は、確実に二人を変えた。

けれど、そこにはちゃんと二人の辿ってきた道が出来ていて、だからこそこんな風に笑う事が出来たんだろうと思う。



第六十話『懺悔と後悔と、愛情を』



祐巳ちゃんか、栞か。今まではずっと選ばれる立場だった私が、初めて選ぶ立場にたった。

栞の場合、あちらから告白してきてくれたおかげで確実に落とせる。

祐巳ちゃんの場合は、勝ち目があまり無い。だから私はきっと、栞を選ぶ。

・ ・・以前の私・・・ならね・・・。

長年想い続けてきた気持ちがようやく報われる。それが分かった瞬間、私は凍り付いて動けなくなってしまった。

ほんの少ししか同じ時間を過ごしていないのに、祐巳ちゃんが私を邪魔したのだ。

栞を想ってきた心と、祐巳ちゃんを想い始めた心。どちらが重いのか、どちらが私にとって・・・。

「大切なのか」

三日後、あの大聖堂で会いましょ。そう言って栞は出て行った。今更、そう思う反面、どこかで迷う私は本当に最低で。

それから三日間、私は一睡もすることが出来なかった。一日中頭の中を祐巳ちゃんと栞の顔がちらつくのだ。

そう、まるで生霊のように私に憑いて離れない。

一度別れてしまったものをもう一度取り戻すのか、それともさっさとそんなものは記憶の奥の方、

思い出として綺麗なままで飾っておくのか。

新しい想いに勝ち目はあまり無いし、付け込もうにもあまり隙が無いから諦めるのか、

それとも・・・形振り構わず手に入れようともっと必死に足掻くのか・・・。

「どちらにしても・・・それで私に何が残る?」

何も・・・残らないじゃないか。栞を手に入れても、やっぱり幸せとはきっと程遠いに違いない。

だって、私の気持ちはもうすでに彼女からは随分離れてしまっているのだから。

だからといって祐巳ちゃんに飛び込めるほど、私は強くなんてない。勝てない試合など、したくない。

だったらどちらをとっても、私には何も残らない。栞を選べば惰性が、祐巳ちゃんを選べば・・・。

「幸せになれるかどうか分からない未来が・・・」

こっちの方がまだポジティブかもな。とりあえずは未来がある訳だし。でも、じゃあ栞はどうなるの?

栞はそのままシスターになってそれで幸せになれるの?結局、この二択はあれだ。

私の心をとるか、それとも栞の心をとるかって事なんだ。

「そりゃ・・・栞には幸せになって欲しいよ・・・でも、そうしたら私はどうなるのっ?!私の心は?気持ちはっ?」

いくら叫んでも誰も居ない。やっぱりこれは罰なのかもしれないな。

今まで散々愛を語ったくせに、ただの一度も愛さなかった私への・・・罰なのかも。

だから本当に望むものだけが・・・手に入らないのかもしれない。そう・・・祐巳ちゃんの愛だけが・・・。

たとえ祐巳ちゃんが実は私を想ってくれていると仮定して、それでもやっぱり私は栞を振る事が出来るだろうか?

あんなにも酷い仕打ちをした挙句、もう一度そんな目に栞を遭わす事など・・・。

でも、それは栞を選んでもきっと一緒だ。だって、私の気持ちはやっぱり栞を見ないのだから。

「あぁ・・・なんだ・・・答えなんてとっくに・・・」

出てるじゃないか。私の中に栞はもういない。こんなにも近くに・・・転がってるじゃないか。

私はジャケットを掴んで、約束の時間に遅れないよう走り出した。

あの日、栞と最後に会った場所へと・・・今度は私が、彼女と決別するために・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大聖堂の扉を押し開くと、出会った日と同じ場所に、彼女はいた。

あの日と同じように太陽の光を背負った栞は、やっぱり天使に喩えるのが正しい。

「・・・聖、来てくれたのね・・・」

小さな声なのに、私の耳にはハッキリと聞こえてきた。栞の後ろにはマリア様が私達を見下ろしていて、

あの日の情景とピッタリと重なる。

「当たり前じゃない・・・珍しく遅刻しなかったよ」

「本当ね。聖はいつも・・・遅刻ばかりして、随分私を心配させてくれたもの」

「あはは、そうだったね。ごめんね?」

「いいのよ、もう昔の事だし・・・それに」

そこまで言って栞は私を真っ直ぐに見つめ、優しく微笑む。

「それに・・・大事な時は、絶対に遅れたりしなかったから・・・」

「うん、そうだったね・・・」

大事な時、それは・・・最期の日。あの日、ここで別れた私達。あれからもうすぐ一年・・・また同じ時間に私達はここに居る。

なんて数奇な運命なのだろう。いや、違う。これは運命なんかじゃない。

出会いこそが運命だったとしたら、これらは全て私達が作り出した必然にすぎない。

「・・・答えを・・・聞かせてくれる?」

「・・・その前に、一つだけ言っておきたい事があるんだ。ずっと言えなくて、今までずっと後悔してたから・・・」

私は小さく息を吸い込んで目を閉じると、今までの沢山の栞との思い出が、溢れてくる。

出逢った日、ずぶ濡れになって雨宿りしたあの温室、溶けてしまって一つになりたいと願った気持ち、

初めてで最後のキス、そして・・・別れの日・・・。

愛しくて切なくて、ずっと心の奥に仕舞い込んできたけれど、今ようやく思い出す事が出来た。

「私ね・・・ずっと世界には栞しか居ないと思ってた。栞が欲しくて、ようやく手に入れて、それでも満足できなくて。

ここでキスしようとした日の事を覚えてる?」

「・・・ええ・・・はっきりと覚えてるわ」

「あの日、栞は私に言ったよね?マリア様が見てるからって・・・あの時、どうして私は栞を諦めなかったんだろう。

そうすれば、栞をもう二度と追わなくてすんでいたのにね。でも、あの時私はそれでも諦めなかった。

何年も経って、ようやく栞に想いを伝えた日、栞は頷いてくれた。

でも・・・私の心はやっぱりずっと・・・マリア様には敵わなかった。それでも私は幸せだったんだよ?

・・・多分・・・それに目隠しをすることで幸せだと、思うようにしてただけだと思うんだけど。

だからね、私はその事をずっと後悔してた。どうして私は追い詰めてしまったんだろうって。

どうしてあの時で終わりにしなかったんだろう?って。それが・・・私の弱さ・・・だったんだろうね・・・。

だからきっと、いつかもう一度栞に出逢うことがあれば、必ず言おうって思ってたんだ。

ありがとう。こんな私の傍に少しでも居てくれて。それと・・・もう大丈夫だよ・・・私はもう、大丈夫」

私は思い出の中の栞の詰まった箱を、叩き壊した。

そうするとどうだろう、沢山の・・・自分でも思っていた以上の思い出が、そこから流れ出して・・・。

私は微笑むことが出来た。栞という少女の為に抱いてきた懺悔と、後悔。それが今、ようやく解放されて。

何故かそれを聞いていた目の前の栞の瞳から涙が零れ落ちる。

「それが・・・聖の答え・・・なのね?今度は私が・・・振られてしまった・・・のね?」

「・・・うん・・・栞も、早く自分の夢を掴んで。私に囚われるのは・・・もう止めて」

「・・・・・聖・・・・・私の言葉にただの一度も嘘は無かった。だから、最後にもう一度だけ、言わせて。

・・・・・・・・好き・・・・・・・・だったわ。聖を、心から」

「・・・私もよ・・・栞。訪ねてきてくれて、本当にありがとう・・・」

静かに呟いた私達の言葉は、この世のものとは思えないほどキラキラと輝いていた。

正直に、もう嘘はつかない。もう、栞に蝕まれる事はない。それは栞も同じ。もう、私の亡霊に立ち止まる事はないだろう。

あぁ・・・これで、良かったんだ・・・今、心の底からそう思うことが出来た。

安堵の溜息が大聖堂に思ったよりも大きく響く。その溜息を聞いて、栞は笑った。だから、私も笑うことが出来た。

私達は大聖堂を無言のまま後にした。何も言わず、ほんの少しの視線も絡ませず。

押し黙ってはいるけれど、その空気は痛々しいもではなくて。そこがあの頃とは違う。

今日ここに別れに来たのは、あの頃の思い出とケリをつける為だと本当はお互い理解してたんだと思う。

だから心はこんなにも軽く、思い出もほら、清々しい。

「・・・それじゃあね、聖」

「うん、それじゃあね」

そう言って、私達はお互い別々の道に向って歩き出そうとした。

サヨナラとは言わない。でも、またね、とも言えない。不思議だけれど、それが最善。

「聖」

「何?」

振り返った私を突然抱きしめたのは栞の細い腕で、その細さからは想像も出来ないほどの力が込められていて・・・。

だから私は動くことが出来なかった。ただ驚いて栞の行為を見つめ、そして思わず疑った。

息を飲む私の唇に何かが触れて・・・そしてなかなか離れようとしない栞の唇を。

だから目の端にチラリと映った少女の事に気づいたのは、しばらく経ってからのことで・・・。

「・・・あ・・・」

ポツリと呟く声が、私にも聞こえてきた。

キスする私達を呆然と見つめていたのは、よれよれになった白衣を肩までずり落としている祐巳ちゃん。

きっと走ってここまで来たのだろう。息は随分上がっているし、その頬は紅潮している。

いや、もしかすると祐巳ちゃんのことだからキスを見て頬を赤らめてるのかもしれないな。

でも・・・まさかこんな所を見られるなんて・・・。

そして祐巳ちゃんは走り出した。私と、栞から逃げるように。そこでようやく私も我に返ることが出来た。

栞を無理やり引き離し、祐巳ちゃんを追いかけようとしたのだ。けれど・・・。

「待って、聖。あなたの心がもしまだちゃんと固まっていないのなら、今度はあの子を傷つける事になるだけよ!」

そう言われた私は・・・祐巳ちゃんを追いかける事が出来なかった。だって、最もだと思ったんだもの。

そうやって自分の心も見えないのに好きだと勘違いして、今までどれほどの人間を傷つけてきたか分からない私にとって、

栞の言葉は、まるで大きな碇のように私の心をその場に留めた。

流れに任せっぱなしの私を、食い止めてくれたのだ。

「・・・そうだよね・・・ありがとう・・・」

「いいのよ。でも、これが最後。だから聖、後は自分の力で・・・幸せになって・・・」

「分かってる。栞も・・・ちゃんと自分の未来を・・・歩んでね。私が羨むぐらいの最高の人生を」

「ええ、それじゃあ行くわ。元気でね」

「栞も、元気で」

私はもう、栞をきっと求めない。思い出の蓋は、もう閉じない。乗り越えて強くなるって事を知ったから。

だからもう、私は恐れない。幸せが目の前に突然現われた時には、今度こそそれを掴んでみせるから。

どうか・・・栞、幸せに。後悔と懺悔を聞いてくれてありがとう。私を許してくれて・・・こんな私を愛してくれて・・・ありがとう。

だから私からも、栞へ送るよ。あの頃とはまた違う、ささやかだけれど愛情を・・・。



第六十一話『サヨナラと、ありがとうを。』



サヨウナラ、私はここが大好きでした。そして、ありがとう。私はあなたが大好きでした。

例えば、こんな風に一日の始まりがいつもと変わらないのは、やっぱり聖さまのおかげだと思うんです。

私は聖さまという人を好きになって初めて、深い負の感情というものを自分の中に見つけました。

でも、私にとってはそれも私です。だから、今は感謝こそすれ、決して恨んだり怒ったりはしていません。

ていうか、そもそも私に怒る権利はないのですから。

でもね、でも一つだけ。私は、本当にあなたを愛していましたよ。

短い時間しか一緒に過ごす事は出来ませんでしたが、それでもあなたは私の初恋だったんです。

こんなにも深い愛情を・・・あんなにも幸せだった時間を、どうもありがとう。

もし聖さまがこれから起こりうる幸せを、怯えて逃すつもりでいるのなら・・・その時は私は、

あなたに幻滅してしまうかもしれません。

だって、私の中の聖さまはいつだってワガママで、悲しそうで、そして強くて優しかったですから。

だから・・・どうか、私のために乗り越えてください。同じ過ちを二度と犯さないよう、必ず幸せになってください。

それが・・・私からの最初で最後のお願いです。

思い出という美しい記憶の中に、聖さまを閉じ込めておけるのなら、そこでだけなら私に微笑みかけてくれるのなら、

私はそれを望みます。それが、今のところ私の最大の幸せだと、そう思うから。

何だかんだ書きましたが、つまりは、聖さま。とっとと幸せになれ!って事です。

いつまでもウジウジ悩んでたって、な〜んにもいい事ありませんよ?

だから、とっとと目の前の幸せにドップリ浸かって、そして、もう私の事なんて記憶から抹消しちゃってください!

そしたら、どこかでまた出会った時、きっといい友人になれると思いますから。

それでは、聖さまのこれからの幸せを心より願って・・・サヨナラとありがとうを・・・あなたに。

「ぅぇっ・・・ひっく・・・・ぅぅぅ・・・」

そこで私はペンを止めた。綺麗な便箋には涙の後が所々ついている。

部屋の中に積み上げられたダンボールの山。

聖さまが風邪を引いた日に抱いて眠っていたあのクマのぬいぐるみが、頭だけを箱から出して私を見下ろしてる。

光のない真っ黒な瞳で、私を・・・。

「なによ・・っ・・・そんな目でみないでよ・・・」

そろそろ泣き止みたいのに涙はどんどん出て来るし、いい加減息も出来なくなりそうで。

でもね、これでいいと思うんだ。聖さまにとっても、私にとっても。いつまでも聖さまの御隣さんでは・・・居られないもんね。

昨日の聖さまと栞さんのキスは、本当に綺麗だった。悔しいけど、お似合いだって思ってしまったもの。

だから私には到底敵わないって思った。

だって無理だよー、あんな光景見せ付けられちゃったら太刀打ち出来そうにないよ・・・。

聖さまから相変わらず連絡はなくて、私からももちろんしてなくて。

明日の終業式の挨拶で、私はリリアンから去る事を決意した。

蓉子さまにはまだ言ってはいないけれど、きっと止めはしないだろう。

だって、私が抜けてもきっとそこには栞さんが入るだろうし。

それでいいんじゃないかな。正直言えば、私だっていい加減聖さまのお守りも疲れてきてたとこだし。

それで・・・・いいんじゃないのかな・・・。

「・・・ふぇ・・・ぅっく・・・なのに・・・お弁当とか作って・・・あたしの・・・バカ・・・」

手紙の横に置いたお弁当は、聖さまの分。毎日毎日作っきてた、聖さまの分のお弁当。

中身は聖さまの好きなものばっかりで・・・これが最後のお弁当。

今日でお弁当は終わりだから、明後日からは長い夏休みだから、

そう思って前からずっと決めてた今日の分のお弁当のメニュー。

・・・でも・・・どうやら直接渡すことが出来ないみたい。

ピンポーン。誰かが玄関のチャイムを押した。多分、引越しの業者さんだろう。

私は静かに立ち上がって、玄関を開け、次から次へと運び出されてゆく荷物を見つめていた。

そして、全ての荷物が部屋から運び出された時ようやく私の涙が止まって、笑顔で言えた。

最後の・・・言葉を・・・。

「ありがとう・・・サヨウナラ・・・」

忘れないよ、この部屋の事。今まで生きてきた人生の中で、一番の出会いと別れを運んでくれたこの部屋の事、

きっと・・・忘れないからね・・・。

部屋の真ん中にポツンと置かれた手紙と、お弁当は傾いてゆく太陽の光にキラキラと輝いていた。

だから、私はそれが凄く切なくて愛しくて・・・でも、後悔はしてない。

手紙の中からだけど、ちゃんと想いを伝える事が出来たのだから。だからいい。

明日、きっと私は笑って別れを告げる事が出来る。生徒達に、先生達に、そして・・・聖さまに・・・。




第六十二話『目が覚めたら突然に』



目が覚めたら突然問題がスッキリ解けてたって事はよくある話で、それは主に夜寝ながら考えてた事が多い。

でもあまりにも難しすぎる問題とか、それが人生に関わるような場合は・・・あまり無いのかもしれない。

けれど私は初めて今日、それを体験した。長いようで短かった祐巳ちゃんへの想いが、ようやくピリオドを打とうとしてた。

「私・・・行かなきゃ・・・伝えなきゃ・・・」

愛してるって、だから私を見てって・・・祐巳ちゃんが他の誰かを好きだとしても、そんな事構うもんか。

たとえ昨日の栞とのキスを見られたからって、どうってことない。だって、私はほら、こんなにも祐巳ちゃんが・・・。

私は昨日、栞と別れてから一人で朝まで呑んだ。何を考えるでもなく、何を想うでもなく。

だから帰ってきたのはもう早朝だった。それからようやく眠りについた時にはすでにお昼で。

眠りの中で私は長い夢を見た。

はっきりとは思い出せないけれど、私は随分歳をとっていて、でもその隣には・・・祐巳ちゃんが居た。

場面が変わって、どこかの教会にたどりついた私は、そこで結婚式を見つめていた。

背伸びをするんだけど、生憎誰の結婚式なのか分からない。

その時、突然目の前に居た参列者の一人がしゃがみこんだ。そしてその時にチラリとだけれど花嫁が見えたのだ。

花嫁はとても綺麗で、思わず私は涙を零してしまった。だって、その花嫁は祐巳ちゃんだったのだから。

でも、相変わらず新郎は見えない。見えるのは、色素の薄い茶色い髪が時々見え隠れする程度・・・。

私は悔しくて、前の人を押しのけようと必死になった。

必死になって祐巳ちゃんに呼びかけて、でもいくら手を伸ばしても誰も私には気づいてくれなくて・・・。

だから私は泣き叫んだ。

幸せそうに微笑む祐巳ちゃんの笑顔を、そしてその隣に立っているであろう相手が憎らしくて羨ましくて。

私は勢いよくベッドから立ち上がって気がつけば部屋を飛び出していた。

そして勢いよく隣の家のドアを叩く。そう・・・っまるで、栞の時と同じ・・・この部屋から出て行ってしまった日のように・・・。

けれど、いくらドアを叩いても、チャイムを押しても誰からも返事が無い。

「どうしてっ?!祐巳ちゃん!!居ないのっ?!お願いだからここを開けて!!!」

近所中に響き渡りそうな声で私は怒鳴ったけれど、やっぱり中からの返事は無い。

私は真っ直ぐ自分の部屋へ戻ると、栞がまだあの部屋で暮らしていた時に作った合鍵を、

鍵のついた引き出しから引っ張り出してきた。鍵を握り締め、祈るような声で呟く。

「お願い・・・栞。もう一度だけ、私を助けて・・・」

もしも祐巳ちゃんがこの部屋の鍵を付け替えてたら、きっとそれでもう終わり。

そんな気が、した。震える手で鍵穴に鍵を差込んでゆく・・・そして、最後まで入ったのを確認してゆっくりと鍵を回す。

鼓動はだんだん早まって、やがて小さなカチャリという音がする・・・やった・・・開いた・・・。

「・・・ありがとう・・・栞・・・」

鍵をポケットにしまうと、今度は祐巳ちゃんに祈る。どうか・・・置いていかないで・・・と。

また私を一人にしないで・・・と。けれど・・・。

「・・・嘘・・・そんな・・・」

部屋を空けた私を待っていたのは、残酷な現実。誰も居ない部屋、取り残された私。

こんな光景を、私は前にも体験した。そう、栞と別れた次の日だ。あの時もこの鍵を使ってこの部屋に入って・・・そして。

「うあぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「どうしてっ・・・どうして皆私を置いていくのっっっ!!!もう嫌だっ!!!こんなのは・・・もう・・・沢山だ・・・」

玄関で崩れ落ちる私を、誰も慰めてはくれない。何も無くなってしまった部屋の中には、もう誰も居ない。

栞も・・・祐巳ちゃんも。これが私の望んだ結果・・・私の描いた・・・未来。

・ ・・本当に?

「違う・・・違う、違う、違うっっ!!!こんなのは望んでないっ、私が望んだのはこんなのじゃないっっ!!!」

耳を塞いで、叫ぶ私の目にチラリと何かが映った。何も無いはずの部屋の中に、何かが光ったのだ。

私はそれに近寄ろうと、這いずって部屋の中央へと向った。そして、そこで見つけた。

キラリと光ったのは、祐巳ちゃんがいつもつけていた小さな蝶々の髪留め。そしてその隣には・・・。

「・・・あ・・・」

手紙と、お弁当箱。

私は丁寧に二つ折りになった手紙を逸る気持ちで開いた。

私は・・・今まで何度か栞と祐巳ちゃんを比べることがあった。

でも、そのどれも少しも似てなくて・・・だから私は安心していたれたのかもしれない。

それなのに、今はどうだろう?どうしてあんなにも違うと思っていたはずの祐巳ちゃんと栞がこんなにも被るの?

栞は最期の日、この部屋に短い手紙と写真の束を置いて出て行ってしまった。

そして祐巳ちゃんもまた、手紙と・・・何故かお弁当箱・・・。

その時、ふと私は栞の最後の手紙を思い出した。小さな紙に、たった一言、サヨナラとだけ書かれた手紙の事を。

「・・・止めて・・・開けないで・・・」

けれど、心とは裏腹に身体はそれを開けたがっている。震える手は、私の葛藤。

泣きそうなほど震える指先に、叫び続ける血を流す心・・・。

けれど確実に終焉は近づいていて、私にはそれが嫌というほど分かっていた。

終わりはいつも呆気なく、そして全てを奪い去る。

そして私は、手紙を恐る恐る開いた。

『サヨウナラ、私はここが大好きでした。そして、ありがとう。私はあなたが大好きでした。

例えば、こんな風に一日の始まりがいつもと変わらないのは、やっぱり聖さまのおかげだと思うんです。

私は聖さまという人を好きになって初めて、深い負の感情というものを自分の中に見つけました。

でも、私にとってはそれも私です。だから、今は感謝こそすれ、決して恨んだり怒ったりはしていません。

ていうか、そもそも私に怒る権利はないのですから。

でもね、でも一つだけ。私は、本当にあなたを愛していましたよ。

短い時間しか一緒に過ごす事は出来ませんでしたが、それでもあなたは私の初恋だったんです。

こんなにも深い愛情を・・・あんなにも幸せだった時間を、どうもありがとう。

もし聖さまがこれから起こりうる幸せを、怯えて逃すつもりでいるのなら・・・その時は私は、

あなたに幻滅してしまうかもしれません。

だって、私の中の聖さまはいつだってワガママで、悲しそうで、そして強くて優しかったですから。

だから・・・どうか、私のために乗り越えてください。同じ過ちを二度と犯さないよう、必ず幸せになってください。

それが・・・私からの最初で最後のお願いです。

思い出という美しい記憶の中に、聖さまを閉じ込めておけるのなら、そこでだけなら私に微笑みかけてくれるのなら、

私はそれを望みます。それが、今のところ私の最大の幸せだと、そう思うから。

何だかんだ書きましたが、つまりは、聖さま。とっとと幸せになれ!って事です。

いつまでもウジウジ悩んでたって、な〜んにもいい事ありませんよ?

だから、とっとと目の前の幸せにドップリ浸かって、そして、もう私の事なんて記憶から抹消しちゃってください!

そしたら、どこかでまた出会った時、きっといい友人になれると思いますから。

それでは、聖さまのこれからの幸せを心より願って・・・サヨナラとありがとうを・・・あなたに。


追伸:これが・・・最後のお弁当・・・ですよ。好き嫌いしないで、残さず全部食べてくださいね。   祐巳』

「・・・う・・・うぅ・・・」

手紙の所々に涙の痕がついている。そっか・・・いつの頃からか私と祐巳ちゃんの気持ちは・・・同じだったんだね・・・。

それでも、私達は気づかずすれ違って、そしてこのまま・・・。

「・・・終わって・・・しまうの?ねぇ、祐巳ちゃんっ!!このまま終わってしまうのっ?!」

ダン!と、私が机に両手をついたせいで、物凄い音がしてお弁当箱が床に落ちた。

涙が溢れてくる。次から次へと・・・向うあてのない怒りと、虚しさが私の心を食い漁る。

「・・・そんなの・・・嫌だよ・・・そんなの・・・絶対に許さないっっ!!私はまだ何も伝えてないんだから!!

勝手に終わらせるなんて・・・そんなの絶対にさせないっっ!!!だからお願い・・・帰ってきてよ・・・。

私・・・もっと強くなるから・・・ちゃんと祐巳ちゃんを守るからさ・・・」

こんな終わりは望んでない。私は、祐巳ちゃんと幸せな未来を望んだんだ。

落ちたお弁当箱を拾った私は、それをそっと開けた。

「あはは・・・何コレ・・・私の好きなものばっかりじゃない・・・」

祐巳ちゃんの愛情は、私が想っていたよりもずっと深くて暖かかった。

私の好きなものばかりを詰めたお弁当箱には、祐巳ちゃんのそんな気持ちが詰まっていた・・・。

から揚げに玉子焼き、豚のアスパラ巻き、ポテトサラダにきんぴらごぼう・・・おにぎりは特別にクマの形。デザートはイチゴ。

つうか、幼稚園児じゃないんだからさ・・・もうちょっと恥ずかしくないお弁当に・・・してよね・・・。

でも・・・どうしてだろう、何でこんなに・・・。

「・・・嬉しいのかな・・・?」

私は涙を流しながら可愛らしいお弁当に微笑んだ。だって、凄く美味しそうで、凄く・・・嬉しくて・・・。

そこまで私の事を気にかけてくれていたのに、私は少しも気づかずに・・・いつまでもいつまでも大人になりきれなくて。

知らず知らずのうちにまた大切な人を傷つけて・・・それでも私はまた祐巳ちゃんを責めようとしてた。

でも違ったんだね。いつだって祐巳ちゃんは私を想ってくれていたんだ。

こんなにも・・・こんなにも暖かくて、大きな・・・心で、私を待っていてくれたんだ・・・。

私はクマのおにぎりの耳をつまんで口に放り込んだ。塩味がききすぎていて、少ししょっぱい。

でも・・・もしかするとこれは、祐巳ちゃんの涙なのかもしれない。いや、私の涙か?

どんな想いでこのお弁当を作ったのか、私には分からない。でも・・・これだけは分かる。

私達はまだ何も終わっちゃいない。だって、始まりも無かったのに、終わるはずが無い。

ねぇ祐巳ちゃん・・・私、まだ君に伝えてない言葉が沢山あるんだ・・・だから、それも聞かずに終わっただなんて思わないでよ。

でないとあまりにも可哀想じゃない。伝えられなかった私の用意した言葉達が・・・だから聞いて?

最後まで・・・ちゃんと・・・聞いて・・・。

私の涙はお弁当を食べてる間ずっと、止まることは無くて。

だから正直あまり味も分からなかったけれど、それでもそれは、祐巳ちゃんの味だった。

毎日毎日作ってくれていたお弁当やご飯と・・・同じ味だった。




第六十三話『サヨナラの代わりに』



実家のベッドの上で眠っていた私は、目覚ましよりも随分早く目が覚めてしまった。

最後の朝、今日でリリアンの先生としての生活が・・・終わる・・・。

もう一度一晩じっくりと考えたけど、私はやっぱりリリアンを辞める事にした。

突然辞めてしまって蓉子さまや他の皆にも悪いとは思うけれど、これ以上気持ちを隠していられないと思った。

ましてや栞さんと幸せそうな聖さまを見てる事なんてきっと・・・出来ない。

そこまで私は心が広くないし、それに大人でもない。

そんな生半可な気持ちで聖さまを愛した訳じゃないし、

簡単に区切りがつけられるほど、私の中の聖さまの存在は小さくもない。

聖さま・・・もうお弁当には気づいてくれたかな?そんな事を考えると、泣きたくなるのと同時に頬が緩む。

だから泣いてるのか笑ってるのかよく分からない表情になってしまって、自分でも気味悪いと思ってしまった。

「ダメだよ!こんなんじゃ・・・今日笑って皆にお別れ言うんでしょ?」

鏡の前で何度も何度も挨拶の練習をしていた私の脳裏を、リリアンで起こった出来事が走馬灯のように駆け巡った。

そして思うのは、結局最後まで生徒達は私の事を先生として扱ってくれなかったなぁーって事。

でもそのおかげで寂しい思いはしなくてすんだ。それともう一つ・・・いつでも私の思い出の中心には聖さまが居たって事。

どこを切り取って思い出しても、そこには必ず聖さまが居て。散々迷惑もかけられたけど、それでも毎日楽しくて。

私は大きく息を吸い込んだ。

「さて、それじゃあそろそろ用意しようかな」

ベッドから降りて、着替えて、顔を洗って・・・キッチンへ・・・いいや、違う。ここは実家だ。

別に私が朝の支度をしなくても、ほら・・・とてもいい匂いがする。

不意に私は泣いてしまった。昨日までは、私が朝ごはんを作っていたんだ・・・そして、聖さまを起こしていた。

眠そうにやってくる聖さまを急かしながら一緒に朝ごはんを食べながら、ニュースを見て一緒に学校に行って。

でも、今日からは違う。そんな生活とも・・・これで・・・終わり。

最後の朝は妙に清々しくて、ちょっぴり胸が苦しくて、でも天気は快晴で・・・。

明日から長い夏休み・・・でも、私にとっては・・・永遠に続く、虚しい日々・・・。

それぐらい聖さまの存在は大きくて、絶対的だった。私の中でそれぐらい、聖さまの存在は大きくなっていた。

「行ってきます」

家族にそう声をかけて、私は少し早めに家を出ることにした。だって、最後に少しでも沢山リリアンを見ておきたかったから。

バスに乗って学校に向う途中、何人かのリリアン生徒と出会った。

皆笑顔で挨拶してくれて、それだけで私は救われるような、そんな気がしていた。

ほんの少しの間だけだけど、もう少しだけここに居てもいいよ、ってそんな風に言ってくれてるみたいで。

まだ誰も居ない職員室、階段の踊り場、昇降口、体育館に・・・視聴覚準備室・・・。

中を覗くと誰も居ない。居ないはずなのに、私の視線の先には確かに聖さまがそこに居た。

準備室の長椅子に寝転がって足を組んで眠っている聖さまが・・・。

立ち入り禁止の屋上にも、沢山の薔薇が咲いているあの温室にも・・・そして、最後に・・・保健室にも・・・聖さまが居る。

「・・・本当に・・・よく寝ますね」

「だってー居心地いいんだもん」

そう言って幻の聖さまは微笑む。子供っぽい笑顔で私に微笑みかける。

「どうしようもないですね・・・お茶でも飲みますか?」

「うんっ!ついでにお菓子も出してね」

「・・・はいはい」

私は二人分の紅茶とお菓子の準備を始めた。それをじっと椅子に座って見つめる聖さま。

私はそんな居もしない聖さまのためにお茶を淹れ、お菓子を差し出す。

手渡そうとした所でお菓子は聖さまの手の平をすり抜け、床に落ちて・・・。

「っう・・・ぅぅぅぅ・・・」

小さな嗚咽が保健室に響いて、私は一人だと言う事を思い出した。

どこにも聖さまなんて居やしない。それなのに、私はこうしてお茶を淹れてお菓子を差し出して・・・そしてそれが幻と気づいて。

どうして消えてくれないの?どうしてそんな目で私を・・・見るの?

「幻なんていらないのっっ!!さっさと消えちゃってよっっ!!」

そう怒鳴った途端、聖さまは悲しそうな笑みを私に向けてポツリと言った。

「・・・そうだね・・・ごめんね」

だって・・・。

何よ、バカみたい。そんなにあっさり言う事聞いてくれるなら、初めから出てこないでよ。

でもね・・・誰も居なくなった保健室の中で一人ぼっちになるのって・・・案外寂しいんだよ・・・。

溢れる涙の意味なんて、とうに知ってる。全て聖さまのための涙なのだから。

だから私の中の聖さまがこうやって最期の挨拶に付き合ってくれたんだ。そんな事分かってる。痛いほどよく知ってるよっ!!

やがて朝一番のチャイムが鳴って、私の最後のあいさつ回りの時間は終わりを告げた。

保健室を出るとき最後にもう一度振り返ると、そこにはやっぱり聖さまが居て・・・。

「ありがとう・・・さようなら」

『うん。バイバイ、元気でね』

「聖さまも・・・元気で」

パタン・・・静かに扉は閉まった。もうきっと中には誰も居ない。

私はちゃんと笑えただろうか?思い出の中の聖さまに、ちゃんと笑いかけることが出来ただろうか?

ねぇ、聖さま?私・・・ちゃんと思い出に出来たでしょうか・・・。

サヨナラの代わりに、私はあなたとの思い出にそっと蓋をします。もう一度、いつか開ける時が来るその時まで・・・。





第六十四話『始まりの鐘』



朝、誰にも起こされる事なく私は目を覚ました。けれど、学校に行く気にはなれない。

でも別にいいんじゃないかな。私にはどうせ受け持つクラスもないし、私一人居なくたって終業式は始まって終わる。

そうだ!今日は天気もいいし、髪を切りに行こう。きっと今よりずっとサッパリするに違いない。

それに・・・祐巳ちゃんとの事もちゃんとケリをつけたいし。

・・・もしかするとこの時、本当は心のどこかで分かっていたのかもしれない。

夏休みが明けて学校に行っても、もう祐巳ちゃんには会えないって事・・・。

このままじゃ終わらせないなんて言ってみたけど、本当はどこかで知ってたんじゃないかな、私は。

もう二度と・・・祐巳ちゃんに会うことはないだろう・・・って。

だからほら、こんなにも鮮明に祐巳ちゃんの幻影が私に付きまとってるんだ。

「そうでしょう?祐巳ちゃん」

ベッドに腰掛けた祐巳ちゃんは、そんな私の問いに微かに微笑んだ。寂しそうに、悲しそうに。

いつだってそう、辛いときや悲しい時にはいつも傍に居てくれた。

栞のことがふっきれなくて祐巳ちゃんちに押しかけたときも、祐巳ちゃんは何も言わず朝まで付き合ってくれた。

本当の私を慕ってくれて、本当の私を愛してくれて・・・それなのに私は・・・。

「ねぇ、祐巳ちゃん。私・・・どうすればいいのかな?私の言葉は・・・君に繋がるのかな・・・」

けれど幻の祐巳ちゃんは何も答えてはくれなかった。やっぱり黙ったまま悲しい笑顔を浮かべている。

私は鞄も持たず、財布と携帯だけを手に家を出た。祐巳ちゃんの幻を連れて・・・。

学校には連絡の一つぐらい入れなくちゃならないのは分かってるんだけど、それをすることすら億劫で。

「また蓉子さまに怒られますよ」

「いいよ、別に。昔から蓉子に怒られるのは慣れてるから」

幻の祐巳ちゃんは困ったように微笑んで私の後をついてくる。幻にまですがって、一体私は何をやってるんだろう?

こんな風に私にしか見えない祐巳ちゃんに話しかけて、私は一体どうしてしまったんだろう。

虚しくて切ないのに、どうして私はこの祐巳ちゃんを追い払えないのだろう・・・。

「・・・幻でも・・・いいよ。傍に居て」

そう言って私は祐巳ちゃんに手を伸ばした。・・・けれど、その手はあっさりと祐巳ちゃんをすり抜けてしまう。

「・・・聖さま・・・」

「・・・っ」

いくら触れようとしてもすり抜けてしまう体・・・虚しさが心を埋め尽くす。

大きく深呼吸をした私に、今度は祐巳ちゃんが触れようとした。けれどやっぱり触れる事が出来ずに・・・。

立ち尽くす祐巳ちゃんの幻、そしてそれを見つめる私。こんなにも哀しい恋を、私はしたことが無い。

触れたいのに相手は幻で、それでも傍に居てほしくてどうしようもなくて。

本物の祐巳ちゃんはちゃんと居るのに、本物には伝えることが出来なくて・・・。

だから幻で我慢しようだなんて・・・間違ってると分かってるのに、どうしても振り払えない。

たとえ触れられなくても、それでも私の傍に・・・私の中に祐巳ちゃんは居る。

私は朝早くからやっているいきつけの美容院に足を運んだ。

この美容院からはリリアンの校舎がよく見えた。祐巳ちゃんも穏やかな表情で私の隣に立ちリリアンを見つめている。

一束、また一束と落ちてゆく髪を、私は直視することが出来なかった。

今まで失ったものと、落ちてゆく髪がどうしても重なって見える・・・。

失ったものはもう二度と私の所には戻らない。そんな事分かってるのに、どうしてもそれを許せなくて。

だから私はじっと目を瞑っていた。じっと、髪を切り終えるのを・・・待っていた。

やがて美容師さんの手が止まり、私は鏡の中の自分を見て小さく笑った。

その時、ちょうどリリアンの鐘が鳴った。きっと今から終業式が始まるのだろう。

ほんの目と鼻の先なのに、そこに本物の祐巳ちゃんが居るのに・・・私はこんな所で一体何をやっているのだろう?

髪を切って、何が変わるというのだろう?

「聖さまは・・・そうやって今までの自分と決別したんでしょう?」

隣に居たはずの祐巳ちゃんは、いつの間にか美容院の外に居た。けれど不思議なことにその声ははっきりと私に聞こえる。

慌てて祐巳ちゃんを追って店を飛び出した私は、近くの公園にたどり着いた。

「そう・・・だよ。私はそのつもりで髪を切ったんだ・・・でも・・・もう、遅いかもしれない」

「そうでしょうか?私は・・・ずっと待ってたんですよ?聖さまが来てくれるのを・・・ずっと」

「嬉しい事言ってくれるね」

私の中の祐巳ちゃんは、そう言う。でも・・・じゃあ本当の祐巳ちゃんは?

今でも私を待ってくれているなんて・・そんな事言えるの?

「ほら聖さま!いつまでグズグズしてるんですか?このままで・・・一生このままで・・・いいんですか?」

「・・・一生?」

そんな・・・一生このままだなんて・・・そんなのは嫌だ。

伝えたいときにちゃんと言えないまま一生を過ごすなんて・・・そんなのは嫌だ・・・。

その時だった。唯一持ってきていた携帯が鳴ったのだ。

「はい、もしもし?」

『ちょっと聖っっ!!一体どこに居るの?!早く来なさい!!!』

電話の主は蓉子だった。珍しく切羽詰った感じ物凄い剣幕。

思わず私はたじろいだけれど、そんな私を幻の祐巳ちゃんは穏やかに微笑んでいる。

「何よ・・・私が居なくても終業式は出来るでしょ?」

『終業式は出来るわよっ・・・でもっ・・・でも・・・あの子は・・・あの子はあんたでないと止められないでしょ!!』

「一体何の話?」

『祐巳ちゃんよ!!今ちょうど先生方からの挨拶をしてる所なんだけど・・・突然祐巳ちゃんが今日付けで学校を辞めるって・・・』

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

やっぱり。何となくそんな予感はしてたんだと思う。それか、物凄くショックだったかのどちらかだろう。

『聖?聞いてるの??あんたが何したか知らないけどね、今度こそ承知しないわよ!?

いい加減あんたも腹くくってその手で大事なモノを掴みなさい!!でないとあんたを代わりにクビにするからねっ!!』

そして電話は一方的に切られてしまった・・・。

「蓉子ってば・・・言ってる事が滅茶苦茶だよ」

「でも・・・大切な聖さまの親友でしょう?それに・・・私の事もこのままで・・・いいんですか?」

優しくそう言う祐巳ちゃんの瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「今更・・・どの面下げて会えるっていうのよ・・・」

「言ったでしょう?私は・・・そのままのあなたが・・・好きなんですよ・・・。

聖さま、もうあまり時間がありません。さっきの鐘は、始まりの鐘です。聖さまと私を繋いでいる最期の鐘なんです。

もしもう一度最後の鐘が鳴れば、私達は・・・きっと終わり。そう・・・思いませんか?

それでもあなたは、ここから動きませんか?それでもあなたは、まだ迷いますか?

傷つくのを恐れて、そうやってずっと生きていくんですか?!」

「・・・祐巳ちゃん・・・」

祐巳ちゃんは足元から消えかかっていた。

その事を一番よく理解していたのは、きっと今目の前に居るこの幻の祐巳ちゃんなのだろう。

泣きそうな・・・でも、笑って私を叱咤して・・・どこまでも祐巳ちゃんは祐巳ちゃんだ。

「聖さま・・・時間が・・・無いんです・・・」

「待って・・・祐巳ちゃん・・・置いていかないでっ」

「それは・・・私に言う台詞じゃありませんよ」

「・・・そう・・・だったね・・・」

私は苦い笑みを浮かべて幻の祐巳ちゃんの手を取った。やっぱり触れる事は出来ないけれど、それでもいいや。

「ありがとう、出てきてくれて。ここからは・・・一人で決めるから」

私の最後の言葉に、祐巳ちゃんはただ笑っただけだった。そのまま幻は日の光にすっと溶けて、やがて私の中へと帰ってゆく。

私はゆっくりと目を閉じ、一つの恋の終焉の鐘を・・・そこでじっと聞いていた。






第六十五話『終わりと始まりと』




大きな鐘の音とともに、終業式が始まった。

生徒達と教師達が皆席についたのを確認して、蓉子さまが立ち上がり大きな舞台に上がる。

『えー・・・それではこれより、第二学期終業式を始めます。皆さん、起立、礼、着席。

それでは、理事長の私からまずは簡単に挨拶を・・・今日で二学期は終わり、明日から夏休みですが、

あまり休みの間に気を抜きすぎて、どこかのバカみたいにこんな大事な日に遅刻なんてしないよう、気をつけてくださいね』

蓉子さまはそう言ってチラリと空席の教師陣の席に視線を移すと言った。

その言葉に教師も生徒も一斉に笑い出し、なかなか好調な終業式の始まりの幕開けになった。

それからしばらくは校長先生の話が続き、それから格教科担当の先生方からの短い挨拶と注意。

終業式も終盤にさしかかってきた所で、ようやくその順番は私に回ってきた。

『それじゃあ最後に、保健室の福沢先生からご挨拶です。祐巳ちゃん先生、どうぞ』

そう言って放送部の生徒は私を舞台の上に案内してくれた。全校生徒と教師達の目が一斉に私に集まる。

・・・うぅ・・・どうしよう・・・緊張してお腹痛くなってきちゃった・・・。

『あ、ありがとう・・・』

舞台に上がった私は体育館の中をグルリと見渡し、大きく深呼吸する。

さぁ、いよいよ終わりの挨拶だ。私はゆっくりと目を閉じた。大好きなこの学校。大好きな生徒達。

大好きな先生方に・・・私の愛した・・・一人の教師。

『皆さんに、今日は一つお話したいことがあります。どうか・・・最後まで私の話を聞いてください。

今日、本日を持ちまして、私、福沢祐巳は、このリリアンを去る事を決意しました。

短い間でしたが、生徒の皆さんとの出会いや、教師の方々との出会いを、私は一生忘れません。

それほどこの学校での生活は楽しくて、素晴らしくて・・・言葉に・・・言葉にならないほど・・・で・・・』

あぁ、ダメだ。やっぱり泣いてしまった。私の突然の辞職宣言に、体育館の中は静まり返っている。

教師も、生徒も・・・皆、凄く・・・・静かだ・・・。

「ゆ、祐巳さんっっ?!一体どういうこと!?どうしてっ?どうして辞めちゃうとか言うの!!??」

一番に立ち上がったのは、由乃さんだった。気がつけば蓉子さまの姿はない。

「そ、そうよ・・・一体どうしたの?祐巳さん・・・そんな事一言も・・・」

『・・・志摩子さん・・・』

「祐巳っっ!!一体どういう事なの?!どうしてそんな事を・・・」

『ごめんなさい・・・祥子さま。私、祥子さまには本当に感謝してるんです。

でも、今回ばかりは、どうか私のワガママを聞いてもらえませんか?』

「そんな・・・そんなの・・・許せるわけないじゃない・・・」

ふらついた祥子さまを支えたのは、令だまだった。良かった・・・私が居なくても、ちゃんと守ってくれる人は居る。

本当の事を言うと、祥子さまの事は少し心配だったんだ・・・。でも、大丈夫そう・・・ちゃんと・・・皆居るもんね・・・。

「祐巳ちゃん!!一体何があったの?まさか・・・聖が何かしたんじゃ・・・」

『SRG・・・それは違います・・・聖さまは何も関係ありません。これは私が勝手に決めた事なんです。

私・・・本当に幸せでした・・・っ短い・・・っく・・・間だったけど・・・ぅぅ・・・本当にたのしく・・・て・・・』

「だったらどうして!!どうして辞めるなんて言うの?!それで聖はどうなるの!?」

『・・・聖さまは・・・ちゃんと相手が居ます・・・っだから・・私が居なくても・・・平気。

・・・でも私はこんな気持ちのままここには居られない!!これ以上皆に迷惑なんて・・・かけられないよっ・・・』

「そんな・・・迷惑だなんて・・・」

SRGが脱力したように椅子に腰を下ろした。私の言葉を聞いて由乃さんや志摩子さんもその場に泣き崩れるように座り込む。

一方不思議そうな顔をしているのが生徒達だった。

そりゃそうだろうな・・・私も、もし生徒ならきっと皆と同じように唖然とした顔してたと思うもの。

そんな生徒達の静寂を破ったのは、前に私に、世界で一番大事なモノは何?と聞いてきた少女だった。

「祐巳ちゃん先生!!ちょっと待ってよ、突然そんな事言わないでよ!!

私・・・私・・・あの時の答え、まだ聞いてないよっ!!」

『・・・あ・・・あの時の質問・・・あの時の質問の答えは・・・』

あの時、聖さまは何て答えたっけ?確か、想いだと答えた。栞さんを思う想いが世界で一番大切だったモノだって・・・。

うん・・・そうだね、聖さま・・・今の私もきっと、そう答えると・・・思うよ。

『あの時の答え・・・それは・・・誰かを想う、想い・・・私にとって、それが今の一番の大事なモノよ・・・』

「・・・想い・・・?」

『そう。私、この学校で色んな想いに触れてきた。あなたの想いや、皆の想い。

どれも形は違ってたけど、どれも凄く素敵だった・・・私の中にも、少し前まで同じような想いがあったの。

それが・・・一番の・・・宝物だった・・・でも・・・失くしちゃった・・・あっという間に・・・壊れて・・・』

私はそっと瞳を閉じた。望んでもいないのに涙が零れてくる。これで本当に終わる。

長いようで短かった教師生活が・・・初恋が・・・もしもまた、どこか違う学校に行ったとしても、

これ以上の思い出は出来ないだろう。だって、そこには皆や、仲間、それに聖さまも居ない。

私たちはすれ違って、ただの一度も交わる事なく終わる。

触れることの無かった指先、伝わることの無かった想い。

流した涙の数も、零した愚痴の数もそのうち思い出に変わる。全てのものには始まりがあり、そして終わりがある。

こんな風に終わる恋が、一つぐらいあってもいい・・・。いつか笑える日が来るのなら、それでもいい。

子供の頃思い描いた未来とは随分違う場所に私は今立っている。

この先の不安や恐怖は計り知れないし、きっと後から込み上げてくる悲しみや痛みは想像もつかない。

でも・・・私は決めたんだ。始まりの日、私はあの日もここに立って言った。

ドキドキしながら皆を見渡して、出来るだけ笑顔で、ごきげんよう。今日からよろしく・・・と。

だから最後もちゃんと・・・それで決めよう。

そして次の鐘が鳴ったら・・・私の教師生活と、この悲しい恋はもう、終わりにしよう。

私は意を決したように涙を拭くと、ここに来た日のように真っ直ぐに皆を見詰め、大きく息を吸い込んだ。

そしてゆっくりと話し出す。

『由乃さん、志摩子さん。旅行、本当に楽しかったね。

この歳になって親友と呼べるような友達が出来るなんて、思ってもみなかったよ。

いつも相談にのってくれて、笑顔を沢山くれてありがとう。

祥子さま・・・どうか、私が居なくても泣かないで。それと、ヒステリーは三回に一度ぐらいに抑えてください。

でないと、私心配で夜も眠れませんから。でも・・・祥子さまは誰よりも私の事を心配してくれていましたね。

本当に・・・ありがとうございます。

令さまと乃梨子ちゃん、どうかこれからも由乃さんと志摩子さんをずっと隣で守っていてあげて。

あの二人、本当にお二人の事を大事にしてるんです。だからどうか、ずっと傍に・・・。

SRGは聖さまの事、誰よりも愛してるんだなぁってずっと・・・ずっと、思ってました。

実を言うと、何度かあなたに焼もちを妬いた事もあるんですよ。

それほど・・・あなたが羨ましかった。でも・・・それも今日で終わりです。今まで、ありがとうございました。

蔦子さんに静さま、お二人とはあまり話すことが出来ませんでした。けれど、私はあなたたちが大好きでした。

蔦子さんの撮る写真・・・皆が一番輝いている瞬間ばかりを納めるその感性。

静さまのその心にひたひたと押し寄せるような歌声・・・痛みを伴うほどのその声が、私は大好きでした。

そして・・・蓉子さま、江利子さま・・・お二人はずっと聖さまの親友で居てくださいね。

最後に聖さまが頼るのは・・・きっとあなた達だと、思うんです。だからどうか・・・聖さまをこれからも支えてあげてください。

もしも聖さまが壊れそうなその時は、どうか・・・彼女を・・・守ってあげてください・・・。

最後に・・・ここには居ませんが・・・聖さま・・・私の、初恋の人です。

どうかあなたは、いつまでもそのまま・・・ワガママで自分勝手で、でもどこまでも優しくて・・・そんなあなたで居てください。

そして、どうか幸せに・・・私が羨むような幸せを・・・きっと掴んでください・・・。

沢山の感情を、沢山の想いを、最高の思い出を、ありがとうございました・・・それでは・・・ごきげんよう』

私は深く、深く頭を下げた。皆に、感謝の気持ちで一杯だった。

胸が熱くなって、涙が零れる。こうして・・・私の最初の恋は、幕を下ろした・・・。










筈だった。

私が深々と頭を下げ、感傷に浸っていた。多分、皆もそうだったんじゃないのかな。

ところどころから、グス・・・って、鼻をすする音とかが聞こえてきたりしてたし、私の涙も止まらないし。

由乃さんに至っては子供みたいに大声で泣いてる・・・。

その時だった。突然体育館の後ろの扉がバーンって大きな音を立てて開いた。

だから皆思わず何事!?って振り返ったんだけど、生憎私たちには逆光でその姿が見えなくて・・・。

でも、声だけは・・・この大きな体育館にその聞きなれた声だけが響き渡った。

「どうやって・・・一人で幸せになれっていうの?」

・ ・・まさか・・・この声・・・嘘でしょ?どうして?どうして・・・聖さまがここに・・・。





第六十六話『ラスト・ラブ』



幻の祐巳ちゃんが消えた今、私の手の中に残るものは何も無かった。

けれど、それが寂しいとは思わなくて、むしろ空っぽの心が軽くて気持ちいいぐらいで・・・。

でも・・・すぐにそんな気持ちは一蹴された。幻は私に言った。一生このままでいいの?と。

もしも一生このままだったとして、私の両手には何も残らないまま時だけが過ぎてゆくのだとしたら、

それほど淋しいことはない。そんな事を考えると、途端に怖くなった。

まるで長い綱渡りの先のロープが突然切られたみたいな、そんな恐怖・・・。

そんな時、頭の中から声が聞こえた。幻の祐巳ちゃんの声だ。

『ねぇ、聖さま。私は最後に何て言いました?あなたに幸せになれ・・・と、そう言いませんでしたか?

でも・・・幸せって・・・一人でなれるものでしょうか?一人きりで・・・満たされるものでしょうか?』

・ ・・そうなんだ・・・祐巳ちゃんは私に言った。ていうか、手紙に書いていた。幸せになれ、と。

いつまでもグズグズするな・・・と。でも、それって一人で叶えられるもの?少なくとも私には違う。

いつだって私は・・・誰かに恋焦がれていたんだから。

それって、つまりは寂しがりやって事で、私には誰かが必要って事だ。

前に私は何て思った?なんて祈った?その相手が祐巳ちゃんであればいいと、そう願ったんじゃなかった?

「・・・行かなきゃ・・・終わっちゃう・・・これで、終わっちゃう・・・」

気がつけば私は駆け出していた。幸い目と鼻の先にリリアンはある。時計を見ると今9時45分。

10時に終業式の終わりの鐘が鳴る。それが鳴れば、私たちは終わり・・・本当に・・・終わり。

誰が決めた訳でもない。多分、これは一種の賭けだったのかもしれない。だから私は走った。

たった一つの幸せを掴む為に・・・これを逃したら、チャンスはもう二度とないんだって、自分に言い聞かせて・・・。

「はぁ・・・はぁ・・・っ・・・ま、間に合った・・・?」

体育館の扉はもう目の前、私は大きく息を吸い込みその大きな扉に手をかける。

バーン・・・と、思ったよりも大きな音がして、体育館のドアは開いた。

壇上に立つ祐巳ちゃんの姿がここからでも見える。深々と皆に頭を下げて、あちらこちらからすすり泣く声がする。

そんなシンとした空気の中、一斉に皆の視線が私に集まった。

「どうやって・・・一人で幸せになれっていうの?」

『せ・・・聖さまっ?!』

私の問いに祐巳ちゃんは驚いたような顔をしてこちらを見て言った。あぁ、そうか・・・逆光で見えないのか・・・。

「当たり。ねぇ、どうして突然居なくなったと思ったら、今度は学校辞めるとか言う訳?」

私はゆっくりと後ろ手に扉を閉め、ゆっくりと舞台に近づいてゆく。そう・・・私は怒ってるんだから。

けれど、祐巳ちゃんも教師陣も、生徒たちでさえ私の質問よりも、どうやら私の髪に驚いたようで・・・。

皆目を丸くして私を見つめている。

「ちょ、ど、どうしたのよ、聖?!そりゃあのざんばら頭にも驚いたけどっ!!」

・・・蓉子・・・お願いだから今は水差さないでよ・・・私は祐巳ちゃんと話したいんだよ。

『か、髪・・・聖さまの髪が・・・』

・ ・・なのに肝心の祐巳ちゃんまでもがこんな事を言う。あのねぇ、私は今私の髪の話をしたい訳ではなくて。

「そんなもの今はどうでもいいでしょ。それよりも・・・私の質問に答えてよ。

どうやって私にたった一人で幸せになれだなんて言うの?」

『それは・・・だって、聖さまには栞さんが・・・居るじゃないですか・・・』

目に涙を一杯溜めて、祐巳ちゃんは言った。

「私と栞は随分前に終わってるよ」

『で、でも・・・じゃあどうしてあの日・・・あんな所で・・・そのキ、キ・・・』

「・・・キス?」

『そう!してたんですか?!』

あぁそうか・・・あのキスの事を言ってるのか・・・。会話までは・・・聞こえてなかったんだ。

だから変に誤解して私の前から姿を消したんだ・・・。

「でも、私と栞はとっくの昔に終わってる。祐巳ちゃんが見たのは、だからお別れのキスだよ」

『・・・それでも・・・それでも・・・私は・・・悲しかった。

凄く辛くて・・・どうしようもなくて!もしこれからもまたあんな想いをするのなら私は聖さまの傍には居られない・・・。

私・・・それほど・・・聖さまが好き・・・ずっとずっと・・・好きだったのっ!!!!』

そう言って泣き崩れた祐巳ちゃん。ねぇ、気づいてる?

今、祐巳ちゃんは全校生徒の前で、教師達の目の前で・・・物凄い告白をしてるって事。

そんな風に言われたら、私はどうしようもないじゃない。

言いたいことが沢山あったのに、確かに私は怒ってたはずなのに・・・全てふっとんじゃうじゃない。

「「祐巳さん・・・」」

「・・・祐巳・・・」

「「「「祐巳ちゃん・・・」」」」

ほら、皆に聞こえちゃった・・・生徒達は皆ポカンとしてるし、一部の教師も呆気に取られてる。

何よりも驚いてるのは・・・そう、私・・・。用意してた沢山の言葉も、伝えたかった想いも、全てどうでも良くなった。

駆け引きとか、打算とかこの子には通用しない。だから、ハッキリ伝えるしか・・・ない・・・。

そう思った途端、私の口からとんでもない言葉が漏れた。

「私、幸せって誰かと掴むものだと思う。少なくとも、私の幸せの類は全部そこに繋がってる。

でもさ、その幸せを掴むのって、誰でもいいって訳じゃない。祐巳ちゃんもそうでしょ?」

私の問いに、祐巳ちゃんはコクリと頷いた。涙はもう完全に止まってしまっている。

ゆっくりと壇上への階段を上る私をずっと目で追いながら、それでも私の目の奥を窺っている。

探るように・・・私の言葉が、信じられるのかどうかって。

こんな祐巳ちゃんの顔が私は好き。私の中の本心だけを覗こうとする祐巳ちゃんの仕草が・・・凄く好き。

「もしも祐巳ちゃんが今でも私に幸せになれって言うんなら、その責任はしっかりとるべきだと思うんだよね。

私が幸せになる所を、ちゃんと見届ける義務があると思うのよ」

『そ、それは・・・聖さまのワガママでしょ?』

「私がワガママなのは嫌っていうくらい知ってるでしょ?」

『・・・うー・・・それはそうですけど・・でも、やっぱりそれは出来ません!!

だって、私は聖さまの事好きなのに、他の誰かと幸せになっていく聖さまなんて・・・。

そんな聖さまなんて・・・・見てられません・・・』

そう言って、祐巳ちゃんはそっと視線を伏せた。この顔も・・・私は好き。

恥ずかしがった時とか、ちょっとだけ拗ねたとき、それに・・・悲しいときもこんな顔をする。

だから私は言った。ハッキリと。その顔を、その声を、その身体すら私のものにしてしまいたい。

心も、記憶も、想いも・・・全て。祐巳ちゃんの全てを・・・私は欲しがってるから・・・。

「うん。だからさ、祐巳ちゃん・・・結婚しよう?」

一瞬、体育館内はシンとなった。

でも、一番に口を開いたのは・・・やっぱり蓉子だ。それと江利子の笑い声。

「はぁ?!ちょ、せ、聖・・・?な、何言ってるか自分で分かってる??」

「あは・・・・あははははは!!!聖、それさいっこう!!!」

つかつかと歩み寄ってくる蓉子の形相は物凄い。江利子はお腹を抱えて笑い転げていて、なんだか腹が立つ。

つうかさ私そんなにおかしな事言った?

他の皆も祐巳ちゃんの告白を聞いた時よりもずっとポカンとしてる。

「もちろん分かってる。だって、私の恋はこれで最後だから」

『・・・あ・・・あの・・・』

案の定祐巳ちゃんも口をパクパクさせている。目を白黒させて、私から目を逸らそうとしない。

「聞こえたでしょ?二度も同じこと言わないよ、私は」

『え・・・えと・・・』

ザワザワと生徒達がざわめきだした。ヒソヒソと話す声・・・何故か叫び声も混じってるけど。

それでも私は今、最高に気分が良かった。皆の前で、祐巳ちゃんにちゃんと想いを伝えられたのだから!

それに・・・好きとか、愛してるとか、そんな言葉じゃ全然足りなかったって事もよく分かった。

いっそ結婚したい、祐巳ちゃんと。本気でそう思った。

壇上で皆の前で告白する祐巳ちゃんを見て、泣き崩れる祐巳ちゃんを見て・・・だって、本気でそう思ったんだもの。

出来るか出来ないかは別として、私は一生続く愛を祐巳ちゃんに与えてあげる。

財産も全て譲ってあげる。多分そんなに無いけど。お墓だってもちろん一緒に入ろう。

そして・・・近いうち、結婚式もあげよう?

夢の中で見た祐巳ちゃんは本当に綺麗だったから・・・その隣に立つのは私がいい。

私でないと・・・絵にならない。ねぇ・・・そう、思わない?




第六十七話『ハッピーエンドの足音』




心臓が、危うく停止するところでした。あまり私を驚かせないで下さい。

カチンコチンに固まる私のすぐ目の前に、聖さまは立っていた。短く切り揃えられた髪が微かな風にフワリとなびく。

少し長めのショートカット・・・でも、凄く聖さまに似合ってる。元々端正な顔立ちだから、それが余計に引き立った感じ。

でも・・・今はそれどころじゃないと思うの。さっき、聖さまは何て言った?

栞さんとはもうとっくに終わってるって、そう言った?ううん、それじゃない。もっと後のほう・・・そう、結婚がどうとかって・・・。

私は一瞬さっきの幻を見ているのかと思った。また自分に都合の良い甘い夢を見ているのかと。

だからそっと手を伸ばして、聖さまも私に手を伸ばしてきた時、指先が触れた瞬間・・・夢ではないのだと悟った。

『・・・あ・・・』

思わず手を引っ込めたのは、私だけじゃなかった。そう・・・手を引っ込めたのは聖さまも同じだったんだ・・・。

どうしてかは分からないけど、何だか凄く嬉しそうな顔をしてる聖さまが目の前に居て、私まで何だか嬉しくって。

「私の幸せを一番近くで見たいんでしょ?それほど私に幸せになってほしいんでしょ?」

『・・・はい・・・』

小さく呟いた声をマイクが拾う。でも、そんな事今更どうでも良かった。

今はただ、目の前のこの人の言葉を聞き逃さないようただ全神経を耳に集中していた。

「それならずっと私の傍に居なきゃ。違う?」

『・・・いいえ、違いません』

「だよね。じゃあやっぱり、さっきの台詞しか思いつかないんだけど」

どこまでも不遜な態度。それに飄々としてて相変わらず掴み所がない。

子供っぽく意地悪に笑う顔も、偉そうな言葉遣いも、それが聖さまなんだ。その全部で聖さまなんだ・・・。

だからこんな態度の裏に隠れた照れは、この際気づかない振りをしてあげる。

偉そうに・・・半ば強引に私にプロポーズしたんだと、そう思っておいてあげます。

だから私は言った。小さな声で・・・でも、ハッキリと。

『・・・そうですね・・・』

「それじゃあ、さっきの質問の答えはイエスととっていいの?」

少しだけ不安そうな瞳が揺れる。でも、この人はこんな大衆の面前で絶対にそんな素振りは見せないだろう。

だから私も知らんふり。そして笑って・・・言う。

『・・・・・・・・・・・・・・はい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

私がそう言った瞬間、身体が宙に浮いていた。そして耳元で小さな声で、やった、と喜ぶ声が聞こえる。

本当は聖さま凄く不安だったんだ・・・私と同じように・・・だって、私に触れる手が微かに震えているから・・・。

私は気がついたら聖さまに抱きかかえられていて、そして・・・驚く間もなく皆の前で口付けをされていて・・・。

「んっ?!・・・んん・・・っん・・・ふぁ・・・」

どこか遠くの方で蓉子さまの声が聞こえて・・・でも私の耳には何も届かなかった。

だって、こんなキス・・・初めてで・・・何度も何度も重ねられる唇が、器用に動く聖さまの舌が、私の意識をさらってゆく。

「ぎゃーーーーーっっ!!!せ、聖―――――っっっ!!!」

『おおおおおおおおおお!!!!!!』

「・・・全く・・・どうしようもないわね・・・聖ったら。どれだけ我慢してたのよ」

「あわわわわわ・・・祐巳が・・・私の祐巳が・・・」

「うっわー・・・さすが聖さま・・・少しは令ちゃんも見習ったらどう?」

「えっ?!そ、そんな事言われても・・・聖さまと比べないでよ・・・」

「ねぇ乃梨子・・・今度は私たちもあんな風に皆の前で告白してみましょうか・・・?」

「はい、志摩子さ・・・えっ?!マ、マジっすか?!」

皆の声が・・・想い想いの声が聞こえる・・・。でも、私には聖さまの息遣いが今は何よりも大事で・・・。

そんな中、ポツリと聞こえた声があった。それは・・・静さまの声・・・。

「二人とも・・・末永くお幸せにね・・・さよなら、聖さま・・・」

え・・・?静・・・さま?大反響する体育館の中で、静さまが出て行った事に気づいたのは、

私と、SRGと、そして多分聖さまだった・・・。

うっすらと目を開けようとしたけれど、聖さまに目配せされてしまう。きっと、こうなることを予想してたんじゃないのかな。

それは多分、SRGも同じみたいで・・・。

SRGは一瞬哀しそうに微笑んで静さまを見送っていたけれど、やがて誰よりも大きな声で私たちを囃し立てていた。

「んん・・・ぷはっ・・・も・・・無理・・・」

聖さまはそう言って、ようやく唇を離してくれた。

いや〜・・・つうかさー、それはこっちの台詞でしょ。

私、普通のキスすらまともにした事ないのに、普通そんな人間にこんなキスするか〜?

へへ、と子供みたいに笑って唇を一舐めする姿は、まるで獲物を捕らえた猫のよう。

「あ・・・あれ?祐巳ちゃん?うわっ!!祐巳ちゃんっ?!やば・・・やりすぎたか!」

「だから言ったでしょ、このバカたれがーーーーっっ!!!誰か、担架をっっ!!!」

「は、はい!ただいま!!」

そうですねー・・・やりすぎでしょうねー・・・ほら、こんなにもクラクラする。酸欠?それとも気持ちよかったから?

やがて・・・私はなんだかフワフワする夢の中にいる感じで・・・意識が遠のいて、やがて何も聞こえなくなった・・・。

・ ・・遠くの方からカツンカツンって靴音が聞こえる。それと、終業式の終わりのを告げる鐘の音。

最初の恋はここから始まった。

終わりだと思っていたその瞬間から・・・聖さまは私を捕まえて、私は・・・ある意味では賭けに勝ったのかもしれない。

あぁ、きっと・・・これが幸せの足音ってやつに違いない。だってほら、こんなにもこの音は心地よくて優しい。

ハッピーエンドと呼ぶにはまだ始まったばかりの物語・・・。だからこれで終わり!・・・って訳にはいかない訳で。

保健室のベッドの上で目覚めた私は、心配そうに私を覗き込んでいる聖さまに向ってゆっくり微笑んだ。

「大丈夫?」

心配そう、というよりはどこか楽しんでいるような聖さまの声に、私は小さく笑ってしまった。

「全然大丈夫じゃありませんよ」

「そう?全然元気そうじゃない」

「・・・そう見せてるんです!」

「ふーん。ところで・・・どうしてこんな所に冷めた紅茶とお菓子が落ちてるの?」

聖さまはそう言ってベッドの下に転がっているお菓子を拾って私に寄越す。

そのお菓子を受け取って不意に泣き出した私を、聖さまは何も言わず頭を撫でてくれた。

「…まぁいいや。このお茶飲んでいい?」

「はい・・・それは、聖さまに淹れたお茶ですから・・・それと、このお菓子も・・・」
「・・・?」

私はそう言って聖さまにお菓子を手渡した。冷めてしまった紅茶、落ちてよごれたお菓子・・・。

幻の聖さまはそれを受け取る事が出来なくて・・・でも、今は本物の聖さまがそれを飲む。

不思議そうな顔をしながら・・・全てを飲み干して。

「さっきの言葉・・・取り消すね」

ボソリと呟いた言葉は、どうやら聖さまの耳には届かなかったらしい。

その代わり、どこからか私にしか聞こえない聞きなれた声が聞こえて・・・。

『これからも・・・よろしくね』

その声は凄く優しくて、とても強くて・・・。

「ねぇ聖さま・・・私、聖さまの事・・・大好きですっ!」

突然の告白に聖さまは少し戸惑ったように微笑む。持っていたカップを机の上に戻し、それから真顔で言った。

「私も」

少しづつ聖さまの顔が近づいてくる・・・だから私は反射的に瞳を閉じた。

チュ、ってちっちゃい音と聖さまの笑い声がいつまでもいつまでも耳から離れる事は・・・なかった。

ハッピーエンドの足音が聞こえる。今まで一人称で進んでいたお話がようやく終わり、これからは二人称になる。

だからどうか・・・これからのお話の結末もハッピーエンドでありますように・・・。




第六十八話『可愛い恋人』




長い夏休み。初めての夏休み。それなのにどうしてこんなにも学校に来なくてはならないのか。

「それはね・・・聖さまが当直だからですよ!」

「・・・分かってるよー、そんな事」

相変わらず保健室に入り浸っている私は、もうじき終わる夏休みの事を思って溜息をついた。

だってさ、せっかくあんなにも素敵な一世一代の大告白をしたのにさ、

どうして皆気を利かせて私達を二人きりにしてくれないのよ?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まず蓉子は言った。

「聖、どうせ夏休み暇でしょ?悪いんだけど私の当直と代わってもらえない?」

「えー!嫌だよ、だって蓉子の当直って凄く多くなかった?」

「多いわよ。でも私田舎に顔出さなきゃならないのよ。その…ほら、聖は毎日家でグータラしてるだけでしょ?」

・ ・・う・・・それはそうかもしれないけどさ・・・でも・・・祐巳ちゃんと付き合いだしてから初めての長期休暇だよ!?

こりゃ何も起こらない訳が無いと思うんだよね!!

「私だっていろいろと都合が・・・」

でも、多分蓉子は私の考えてた事なんて全てお見通しだったのだろう。一枚の紙切れを私の目の前につきつけて言った。

「でも、祐巳ちゃんはほぼ毎日学校よ?」

「えっ?!」

蓉子からひったくった紙を見ると・・・確かに。ど、どうしてっ!?どうして祐巳ちゃん毎日学校なの??

「それはね、聖。祐巳ちゃんは保健医さんだからよ。残念ね」

くっそー!!・・・そういえば栞も毎日休みの日に出てたっけ・・・。

大体何だって休みの日にまで部活なんてするのよ?休みの間ぐらい大人しく休んでろっつうの!!

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そんな訳で私達は今日もお決まりの保健室に居た。まぁ、クーラーも効いてるし居心地はいいんだけどさー。

「ほら聖さま、そろそろ見回りに行く時間ですよ?」

「あー・・・そうだ!祐巳ちゃんも一緒に行く?」

場所が場所だけど、これもある意味ではデートと呼べない事もない!・・・そう思い込むことにするっ。

でも、私の意見はあっさり却下されてしまった。

「残念ですけど・・・私はここに居ないと。だから聖さま・・・出来るだけ早く帰ってきてくださいね!」

「・・・はーい・・・」

ところで最近よく思うんだけど、祐巳ちゃんって私の扱い上手いよな・・・。

だって、たった一言なのに私はこんなにも嬉しくなって素直に言う事をきけるんだもん。

笑顔で手を振る祐巳ちゃんを後に残して、私は保健室を後にした。

まずは家庭科室・・・そう言えば今日は調理部が何か作るとか言っていたけど・・・大丈夫なのかな?

何気に覗いてみた家庭科室からは、モクモクと黒い煙が上がっている。そして聞こえてくるのは叫び声・・・。

「きゃーーー!!!」

「せ、先生!!は、早く、しょ、消火器をっっ!!!」

あーあー・・・またやったんだ。由乃ちゃん。

私は廊下に添えつけてあった消火器のピンを抜き、右往左往する生徒達と由乃ちゃんを押しのけて消火活動した。

辺りは粉で真っ白・・・料理はもちろんおじゃん。申し訳なさそうな顔で由乃ちゃんが言った。

「いやー・・・本当にお騒がせしました!」

「由乃ちゃんってさ・・・いつか学校丸ごと燃やしそうだよね」

「そ、そんな事はっっ・・・ないと思います・・・以後気をつけます・・・」

「よろしい。それじゃあ、他の皆も気をつけて」

「「「はーい」」」

うんうん、皆素直で可愛いなぁ。その時、数人の生徒が私の周りに駆け寄ってきた。

「あの、さ、佐藤先生・・・これ、食べてくださいっ!!」

そう言って差し出されたのはピンクのリボンのついた可愛い包みが三個。中身は・・・クッキーか何かだろうか。

「ありがとう」

「い、いえっ!そ、それではっ!!」

そう言って生徒達はまた家庭科室の中に戻って行ってしまった。

あれほど派手な告白劇を見せたのに、何故かあれから私は突然モテるようになった。

・ ・・何でだろ・・・不思議だ・・・。まぁいいや、後で祐巳ちゃんと食べよう。

さて・・・次は・・・運動場か。私は踵を返し歩き出した。運動場まではこの窓から出た方が早いんだよなぁ。

誰も見ていないのを確認して昇降口に出ると、外からお姉さまの怒鳴り声が聞こえてくる。

「コラそこーーーーっ!!ちんたら走らない!!豹よ、豹になったつもりで走りなさい!!」

・ ・・おいおい・・・そりゃ無茶だろうよ・・・。ほら、案の定生徒達困ってるじゃない。

「お姉さまは相変わらずですね」

「あら、聖。なぁに、見回りの最中なの?」

「ええ、まぁ・・・お姉さまは相変わらず生徒をビシビシしごいてるみたいですね・・・」

「そうよー!目指せ国体よっ!最近のお嬢様は皆身体が鈍っていると思うのよ。

ここらで一人ぐらい国体選手にでも選ばれれば皆にも覇気が出るでしょうよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

リリアンから国体なんて・・・どんなお嬢様だよ。つうか、嫌だよ。そんなお嬢様・・・。

呆れかえる私に、お姉さまは微笑む。

自信に満ちた微笑・・・多分近いうち、確実にリリアン生徒から国体に出るものが現われるだろう・・・きっと。

最後に写真部。あー・・・ここ、な〜んか苦手なんだよなぁ・・・。

薄暗い部屋の中から小さな話し声が聞こえてくる。どうやら今は皆暗室に閉じこもっているらしい。

「あれ、聖さまじゃありませんか」

「あ、ああ・・・蔦子ちゃんか・・・びっくりした」

真っ暗な部屋の中から一人の人間が突然顔を出した。ほらね・・・ここなんか怖いんだよ・・・。

だって、何だか皆気配が無いんだもん。それにシャッターチャンスは逃すまいといつも必死だし。

「見回りですか、お疲れ様です」

「まぁね。でもここが最後だよ」

「そうですか・・・あ、そうだ。じゃあついでにコレお渡ししときますね」

そう言ってカメラちゃん(心の中ではそう呼んでいる)は茶封筒を私に握らせ、またあの何かの巣のような場所に帰って行った。

そしてまた聞こえてくるヒソヒソ声・・・つうか、どうして皆そんなに小声なんだろう・・・。

写真現像する時って、そんなに静かにしなきゃいけないもんなのかな?どうでもいいけど、それが余計に怖さ倍増なんだよね。

まぁ、とりあえず今日の見回りはこれで終わりだ。さっさと祐巳ちゃんとこに戻ろっと。

ようやく保健室に戻ってきた私を待っていたのは、祐巳ちゃんの笑顔と冷たいアイスティーだった。

「お帰りなさい、聖さま!」

「はい、ただいま。いやー、外はあっついねー」

「そうでしょうね。お疲れ様でした・・・あれ?それなんです?」

祐巳ちゃんは私の持っていた茶色い封筒と、お菓子の詰まった袋を指差す。

「ああ、これね。これはカメラちゃんに貰ったの。多分写真でしょ、いつもの。それとこっちは・・・料理部の子達に貰っちゃった」

えへへ、と笑う私に祐巳ちゃんは、へー、なんて言いながら微かに微笑んだ。

でも、少しだけ頬を膨らませている・・・あれ?これってもしかして・・・。

「何?祐巳ちゃん、もしかして焼もち妬いてるの?」

「別に・・・妬いてなんて・・・」

そう言いながらも頬はさっきよりもずっと膨らんでいる。ふふ、可愛いなぁ・・・。

どんどん好きになる気持ち、どうしようもない。愛しくて仕方ない気持ちは、留まる事を知らないように私を困らせて。

あぁ・・・ほら、また。心よりも身体が先に反応する。

そっと伸ばした指先はしっかり祐巳ちゃんの顎に添えられていて、

それを咎めるような祐巳ちゃんの瞳が余計に私の行動に拍車をかける。

ほらね、もう止まらない。気がつけば私は祐巳ちゃんの唇をいとも容易く奪っていた。

祐巳ちゃんは驚いたような目で私を睨んでいて、でも少しも怒ってなくて・・・。

どちらかと言えば恥ずかしそうに睨んでいる祐巳ちゃんが可愛い。

「も・・・もう!そんなんじゃ、私はだまされませんからねっ!」

「そう?じゃあもっと凄いのしたら機嫌なおる?」

「そっ、そういう問題じゃありませんっっ!!」

「はいはい」

私は笑って祐巳ちゃんの頭を撫でると、お菓子の包みと封筒を祐巳ちゃんに手渡した。

祐巳ちゃんがこれをどう扱うかは・・・祐巳ちゃんの自由だ。

だって、私には祐巳ちゃん以外の人に何かを貰っても、嬉しくはないのだから。

でも・・・祐巳ちゃんは封筒以外は私に返してくれた。

「それは・・・ちゃんと聖さまが食べてあげてください」

なんて、笑顔でそんな事を言う。

祐巳ちゃんは可愛い。今まで色んな人に出会ったけれど、そのどの人たちよりも・・・可愛い人。

ドジだけど、私は大好き。心が広くて、そんな所が凄く羨ましい。でもね、それだけじゃない。

そんな簡単に見えるような部分で私は祐巳ちゃんを好きになったんじゃない。

きっと、本当に大切な部分はずっと奥底に隠れていて誰にも見えないんだろうけど、

私は祐巳ちゃんのそんな奥深くにとても惹かれた。見えない・・・それなのにこんなにも愛しい。

まだ祐巳ちゃんの大半は隠れていて見えないけれど、それでも私はこれからも、もっともっと好きになると思う。

「写真、いつのだった?」

私の質問に祐巳ちゃんは封筒の中身を確認して顔を真赤にした。

固まって動かない祐巳ちゃんの手からずり落ちた写真は・・・。

「あらまー」

「あ・・・あらまーじゃありませんよっっ!!ど、どうするんですか?!」

「どうするも何も・・・どうしようもないと思うけど・・・」

体育館の中で、私は祐巳ちゃんを抱き上げこんなにも嬉しそうに微笑んでいたんだ。

カメラちゃんの写真にはあの日の二人が鮮明に写しだされていた。

その何枚か後の写真には、ばっちり二人のキスも写っている。

「そ・・・そうだ・・・ネガ!ネガ貰いに行かなきゃ!!ほら聖さま、行きますよっっ!!!」

「え・・・えー?」

腕を引っ張られた私は思わず椅子からずり落ちそうになった。

ようやく立ち上がって保健室を出るとき、祐巳ちゃんは一瞬私を見上げ、言う。

恥ずかしそうに・・・でも、はっきりと。

「・・・次からは私も・・・一緒に見回りに行きますから・・・」

と。

あぁ・・・思ってたよりもずっと祐巳ちゃんは焼きもちを妬いていたんだ。

「お好きにどうぞ?」

意地悪く笑う私を軽く睨む祐巳ちゃん。その目にはうっすら涙が浮かんでいる。きっと恥ずかしかったんだろう。

「なんてね、嘘だよ。嬉しいよ、凄く。明日からは一緒に回ろう?」

「は・・・はいっ!」





エピローグ『皆と、私と、聖さまと』




夏休みが明けて、私達にはまた慌しい日常が戻ってきた。職員室で皆に会うのも久しぶり。

由乃さんは、今年の夏は令さまと二人して海に旅行に行ってきたらしい。

二人ともこんがり焼けて、まるで焼き鳥みたいで美味しそう、だなんて聖さまは言ってたけど。

二人は幼馴染ってのも手伝ってなかなかドキドキとは縁遠いなんて言ってたのに、

どうやら今年の夏は色々とドキドキ・・・いや、むしろハラハラの連続だったらしい。

というのも、由乃さんが短期で運転免許をとって、その練習に令さまはほぼ毎日付き合ったんだとか。

聖さま曰く『祐巳ちゃんと由乃ちゃん・・・一体どっちが怖いだろうなー。いや・・・どっちも遠慮したいけどね。出来れば』

なんて言って笑ってた・・・あれって、どういう意味だったんだろう・・・。

とにかく、二人は相変わらず元気だ。

志摩子さんは、私達の告白劇に感化されてすっかり自分の気持ちに気づいたらしく、今は乃梨子ちゃんとラブラブ。

というのも、一番当直の少なかった志摩子さんと乃梨子ちゃんは、ほぼ毎日どこかに遊びに出掛けてたらしく、

元々気の合う二人だったから、それはもう話は弾んだようで。

・・・とある旅館の一室で、乃梨子ちゃんから志摩子さんに告白したらしい。

それに感極まった志摩子さんは二言返事でOKを出したとの事。

でも・・・志摩子さんの言動や行動に右往左往する乃梨子ちゃんが少し面白い!

今は私達と同じぐらい・・・いや、それ以上にラブラブで少し羨ましい。

だって、聖さまはやっぱりあのまんまだし、割と私達の関係はあまり変わらないっていうか・・・ねぇ?

祥子さまは、あの告白・・・いや、むしろキスの後しばらくは全く口を利いてくれなくて・・・私はそれが悲しかったんだけど、

ある日聖さまの言った一言でどうやら立ち直ったみたい。

聖さまに何て言ったんです?って聞いたら、聖さまは案外簡単に教えてくれた。

『あのね、悔しかったら私から祐巳ちゃんを奪ってみなさい、って言ったの。効果テキメンだよね』

・ ・・だって。

もし本当にそんな事言って私が祥子さまの所にいっちゃったらどうします?って聞いたら、聖さまは少し考えて言った。

『そんなの・・・ありえないでしょ?だって、祐巳ちゃんを私が逃がすと思う?』

って言われちゃった・・・嬉しいけど・・・今思い出しても恥ずかしい。まぁ、聖さまの話は置いておいて。

それから完全復活した祥子さまは、今はもう前みたいに接してくれる。最近では聖さまに次ぐ保健室の常連さん。

SRGはプールが終わっちゃったって凄く悲しそう。だって・・・凄かったもんね・・・。

SRGってば、何を思ったかプールの補習に紫のビキニで登場して、生徒の一人を失神させてしまったんだから。

それでね、私は思いだしたの。SRGには沢山の伝説があるって前に由乃さんが言ってたのを。

何だか妙に納得だった。だって、普通学校のプールにビキニは無いでしょう。

その事を注意したらSRGは悪びれもせず、言った。

『あら・・・しょうがないわね。それじゃあ今度はスクール水着にするわ・・・それでいいかしら?』

・ ・・と。・・・ねぇ・・・それってさ、ある意味犯罪だよね。

聖さまはそれ聞いて完全に呆れてたけど、その後ポツリと言った一言を、私は絶対に忘れない。

『でも・・・祐巳ちゃんのスクール水着なら・・・ありだな・・・』

全く、この姉にしてこの妹ありだよ、ほんと。

さて、次は江利子さま。

江利子さまは目下面白いことを探索中らしく、いろいろと私の所にやってきては色んな噂話を聞きに来る。

それで少しでも面白そうな話を見つけると、皆を巻き込んで大騒動にしようとするから大変だ。

それでも一応は聖さまの親友って事もあって、聖さまには優しいのかと思いきや、それがそうでもない。

私と聖さまの告白劇を面白おかしく勝手に脚色しては、今もそれを思い出して時々笑ってる・・・。

そんな江利子さまは、やっぱり誰にも止める事は出来ないみたい。

蓉子さまは相変わらず学校の中の色んな所を毎日毎日忙しそうに走り回っている。

まぁ・・・その大半は聖さまを追いかけてる訳だけど・・・。だから時々保健室にやってきては聖さまの愚痴を零して帰ってゆく。

そんな蓉子さまの愚痴を聖さまに伝えるのが私の役目なのだろう、と今では勝手にそう思っている。

蓉子さま・・・大変だなぁ・・・だって、江利子さまと聖さまの面倒・・・ずっと見てきたんだもんなぁ・・・。

私には絶対に真似出来ないだろうな、うん。

そして蔦子さんは・・・相変わらず毎日どこかでシャッターをきっている。

この間たまたま撮った聖さまが猫とじゃれている写真をカメラ専門の雑誌に送ったら、何とかって賞をとったと喜んでいた。

勝手に写真を使われた聖さまはちょっとふてくされてて、家に帰ってからその雑誌を見ながらポツリと言った。

『これってさ、絶対80%はモデルのおかげだよね?賞金で何かおごってくれないかな』

なんて事を言っていた。全く、どこまでも聖さまは聖さまだ。

でも、本当は恥ずかしかったからそんな事言ったんだろうって事ぐらい・・・分かってるんだけどね。

最後に・・・終業式に体育館から出て行ってしまった静さま。

静さまはあの後、本当にリリアンを辞めて海外に行ってしまった。

これは志摩子さんに聞いた話なんだけれど、実は静さまはずっと海外からお誘いがあったらしい。

でも、ここには聖さまが居るから行くのをずっと先送りにしていたんだとこの間初めて聞いた。

そんな事少しも知らなかった私は、何だか凄く無神経な事をしていたと思って静さまにお手紙を書いた。

すると、手紙には本当はずっと昔からの夢だったから、ちょうど良かったんだと書かれてあって・・・。

手紙の最後には『二人であなた達だけの幸せを掴んでね』と書かれてあって、少しだけ泣いてしまった。

まぁ、そんなこんなで今は静さまとは時々メールをする仲になった。

とりとめも無い話ばかりだけど、この関係は聖さまには・・・内緒なんだ。



さて、近況をまとめるとこんな感じ。

・ ・・え?私はどうなんだって?それは・・・私は実は夏休みの途中から聖さまの家に何度か泊まりに行ったりしていたんだけど、

ある日聖さまが言った。

『ねぇ、祐巳ちゃん。いっそこのままここで一緒に暮らさない?』

って!初めはそりゃ戸惑ったけど、でも・・・別に断る理由もないし、ていうか、実を言うと相当嬉しかったんだけどね。

結局私の荷物を聖さまの家に運び込んで、そのまま聖さまと暮らしている。だから相変わらずの日常って感じかな。

毎朝お弁当と朝ごはん作って、聖さまと出勤。帰りは一緒に晩御飯とお弁当のおかずを買って帰る。

たまに銭湯に行っては聖さまにチクチク嫌味を言われて・・・そんな感じ。

でも私、毎日がとても幸せです!

平凡だけれど、刺激は無いけれど、それでもいい。私は、今と未来を・・・このままずっと聖さまと一緒に生きたい。

あ・・・ほら、噂をすれば・・・。

「せーーーーーいーーーーーー!!!あんたはまたっっ!!今日提出だって言っておいたでしょー?!」

「うるさいなー、蓉子は。そんなに怒ってばっかりいたら皺が増えるよ?」

あ・・・聖さま・・・それは言わない方がいいんじゃ・・・。

「・・・なんですって・・・?今あんた・・・何て言った?・・・誰のせいで私が毎日毎日・・・」

ほら・・・やっぱりね・・・私しーらないっと。

蓉子さまは廊下の向こう側で紙をグシャリと握り締め、ふるふると震えている。

その少し手前で聖さまはヤバイって顔して蓉子さまを覗き込んでいたけれど・・・。

キッと顔を挙げた蓉子さまの顔を見るなり短い悲鳴を上げた聖さまは、こっちに向って走ってきた。

「ゆ、祐巳ちゃん!ちょうどいい所に・・・お願いっ!蓉子を止めて!!」

パンって目の前で手を合わす聖さま。でも・・・自業自得だよね。

「知りませんよ、今のは聖さまが悪いです」

「そんな〜・・・」

「聖ちゃ〜ん・・・いい子だからこっちにいらっしゃいな」

何だかどす黒い空気が蓉子さまの足の辺りから流れ出す。

漫画とかによくある、掛けあみとかああいう感じのオーラが。霊感が全くない私にもうっかり見えそうなほどだ。

「ゆ、祐巳ちゃんっ」

「知りません。まぁ・・・頑張って逃げてください。お茶、保健室で用意しておきますから」

「せ〜い〜・・・いいから早くこっちいらっしゃい・・・来ないならこちらから行くわよ・・・」

ドス黒いオーラは少しづつ少しづつこちらに近寄ってくる。聖さまもそれに気づいてジリジリと逃げ始める。

そして・・・。

「それじゃあ、祐巳ちゃん!また後でっっ!!!」

そう言って聖さまは去り際に小さなウインクをして、全力で駆け出した。ていうか・・・こんな時思うことが一つある。

聖さまって、どんな時でもちゃんと私を特別に扱ってくれるって事。

どこに居ても、何をしてても絶対に私に一番に駆け寄ってきてくれる。

・・・そんな時、私はどうしようもなく嬉しくて泣きそうになって・・・。

でも、今はそんな事言ってる場合じゃないか。だって、物凄い剣幕で蓉子さまがアキレス腱を伸ばしてるもの。

こりゃ走る気まんまんだわ・・・。

「ふ・・・ふふふ・・・この私から逃げられると思ってるのかしら・・・」

禍々しいオーラと共に、蓉子さまは笑い声を上げながら聖さまを追いかけて行ってしまった。

ていうか・・・ちょっと怖い・・・。

「・・・行ってらっしゃい・・・」

ポツリと呟いた私の足元に、何かが落ちている事に気づいた。それは大量の紙の束だったんだけど・・・これって・・・。

慌てて紙を開くと、それはさっき蓉子さまが言っていた今日提出しなければならない書類だ。

どうやら蓉子さま、聖さまを追いかけるのに必死で持っていた書類を全部ここに置いて行ってしまったようで・・・。

「た、大変!!よ、蓉子さまー!!聖さまーーーー!!!!!待ってくださぃぃぃ・・・」

パタパタパタパタパタパタパタ・・・・・・・・・・・・・



そんな訳で、私の私立リリアン女学園の生活はまだまだスタートしたばかり!

可愛い生徒達は相変わらず私を先生としては見てくれてないみたいだし、教師陣は揃いも揃ってみなどこかおかしい。

でも・・・私はここで大切な人と出逢った。一生をかけられるような恋を知った。

いつもの日常、幸せの時間。ふと立ち止まった時、あなたはいつも私を待っていてくれる。

手を伸ばし、私がその手を掴むまでずっと。

だから私は安心してあなたの手を掴む事が出来る。いつもいつまでも、私の隣を歩いていて。

全ての軌跡がここにたどり着くと、信じているから・・・。

リリアン女学園、高等部。保健室の陽だまりの中、私は今日もあなたの寝顔を見つめる。

皆の居るこの学校が・・・私、大好きです。

でもね、聖さま。世界で一番好きな場所は・・・あなたの隣・・・なんですよ?

だから、いつまでもここに居てくださいね。私の隣に・・・ずっと、ずっと・・・。



「祐巳ちゃんセンセーいる〜?」

ガラリと保健室の扉が開いた。まだ授業中なのに、一体どうしたんだろう。

「あら、どうしたの?」

「ちょっと相談ごとなんだけど・・・あーあー、また佐藤先生寝てんじゃん」

少女は保健室のベッドを占領している聖さまを見て苦い笑みを浮かべる。

「ははは・・・まぁ、いつもの事よね」

やっぱり苦笑いする私に、少女は言った。

「ホント、いつもの事だよね」

・ ・・と。

いつもの事、かけがえのない毎日。今日も一日がここから始まる。

ごきげんよう。







学園!マリみて教師物語  完




















学園!マリみて教師物語   後編