中篇

「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

すっかりこの挨拶にも慣れた。そりゃそうだ。だって、もうこの学校に勤めだしてすでに半年も経っているのだから。

どこを見渡しても女の子、女の子、女の子ばかり。教師陣も女性ばかりで、正直ここで一生を終えるとしたら、

私は生涯恋する事が出来ないんだ、なんて悲観していたけれど・・・。

恋ってのは、いつか由乃さんが言ってたみたいに唐突に、あっけなくやってくるものなのだ、と知った。

しかも誰だ、恋は甘酸っぱいだなんて言ったのは!!片想いの間が一番楽しいだなんて、全くの嘘だ!

あるいは、相手があんな風に遊び人でなければ、片想いも楽しいのかもしれないけれど、

一歩歩けば誰かしらを落とそうとしてるのか、それともそれが地なのか・・・。

口説きたおして歩いている後姿を見て、私の胸はなんともいえない痛みを覚えるのだ。ついでに怒りも。

はぁ〜あ・・・恋なんて知らなきゃ良かった。そしたら今まで通り、聖さまと顔を合わすことだって、平気だったのに。





第二十話『恋に落ちたら何かが変わる?』





何かが変った?って聞かれた事がないところを見ると、どうやら私は何も変ってはいないみたい。

恋一つで綺麗になる人も居れば、そうでない人もいる。どうやら私は後者のよう。

まぁね、別に何も期待してなかったけどさ・・・それでも少しぐらいはねぇ!?

「祐巳さ〜ん!!いたいた!!もう、うろちょろしないでよ〜」

うろちょろって・・・これが私のお仕事ですから・・・。私は救急カバンを持ち歩きながら、ゆっくりと振り返った。

そこには息を弾ませた由乃さんがいる。

「どうしたの?」

「明日忘年会じゃない?もちろん参加するわよね?」

「あー・・・うん。どうして?」

「やぁねぇ!忘年会といえば一発芸じゃない!!王様ゲームじゃない!!!」

王様ゲームは違うんじゃ・・・私はそう思ったけれど、黙っておくことにした。

「それでね!今志摩子さん達とも話し合ったんだけど、私達も何かしようよ!!」

「何かって・・・何を?」

「だから、何か、よ。祐巳さん何か良い案ない?」

そんな突然言われてもなぁ・・・生まれてこのかた一発芸なんてしたことないし・・・。

私が黙ったまま首を捻っていると、由乃さんは少しイライラしたように言った。

「まぁ、一発芸は別に無くてもいいんだけど、王様ゲームは絶対だからね!これはもう決定!!」

「決定って・・・皆賛成するの?」

「多分ね。ここぞとばかりにまず聖さまは賛成するでしょ?SRGも喜びそう。それに江利子さま。

この三人が賛成したら誰も嫌とは言えないもんね」

「なるほど」

なかなかの策略家ですな、由乃さん。それにしてもどんなお題を出すつもりなのか、と。

妙にはりきってるあたりを見ると、きっととんでもない事を言い出すに違いない。

しかし・・・王様ゲームか・・・初めてやるな・・・。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

部屋に帰ると、何故かウチのドアの前で聖さまが蹲っていた。

「ど、ど、ど、どうしたんですか!?」

私がそう声をかけると、聖さまはグッタリと頭を上げて弱弱しく笑ってみせた。

「祐巳ちゃん・・・遅かったじゃない・・・」

「今日は私遅番だったので・・・ていうか、何してるんですか?聖さまのお家はここじゃありませんよ?お隣ですよ?

それともまた呆けてるんですか?」

「失礼ねー・・・鍵をね、どっかにやっちゃって家に入れないの・・・だから祐巳ちゃんを待ってたんじゃない。

お腹減って倒れそうだし、寒いし・・・」

聖さまはそこまで言ってゆっくりと立ち上がった。

つうかさ、そんなの携帯電話とかでほかの誰かに連絡入れれば良かったんじゃ・・・。

ドアに鍵を差込み、回したと同時にすでにドアノブに手をかけていた聖さまは、

私よりも先に部屋に転がり込んでコタツに入ってスイッチを入れている。

ちょっと!!主よりも先に家に上がりこんで!!・・・まぁ、いいか・・・。

ところで、恋って不思議だよね。

前なら絶対憎まれ口の一つもたたいてたと思う事でも、こんなにも素直に許せるようになった挙句、

むしろこんな事が嬉しいと思うんだから。

私は聖さまに続いてコタツの中に入ると、はぁぁぁ、と安堵のため息を落とす聖さまをじっとりと見つめた。

多分相当寒かったんだろう。コタツの中で当たった手はかなり冷たい。

「どれだけ待ってたんですか・・・全く・・・」

「んー・・・二時間ぐらい?だって、誰に電話しても繋がらないんだもん!祐巳ちゃんは今時携帯も持ってないし!!」

・ ・・何だ・・・一応皆にも連絡したんだ・・・。

・ ・・ほらね、恋って不思議。空高くまで舞い上がらせたかと思うと、次の瞬間にはもう奈落の底にいるんだから。

「祐巳ちゃんも携帯もとうよ、でないと不便でしょうがない」

「それは・・・聖さまの都合でしょ?」

「えー、メールとかしようよ〜長電話とかさー」

・ ・・家が隣なのに?電話なんか無くたって夜中でも平気でやってくるのに?

私の呆れたような怒ったような顔を見て、聖さまにはきっと何が言いたいのか解ったのだろう。

小さく肩をすくめ、すまなそうに笑った。

「まぁ、でも、便利だよ?何かと」

「・・・そうでしょうか・・・」

「うんうん!だから買おう?私のために!!こんな時の為に!!」

「結局聖さまの為なんじゃないですか!!嫌ですよ、絶対に買いません!」

「ちぇー、せっかく祐巳ちゃんとメール出来ると思ったのにー」

「何言ってんですか。そんなのしなくてもしょうもない事でやってくるじゃないですか、聖さまは」

そう・・・本当にツマラナイ事で・・・。そんな事の為に夜中に叩き起こされる私の身にもなってほしい。

ほんと・・・私この人のどこが好きなんだろう・・・。

「まぁいいや。それよりも・・・ご飯・・・まだ?」

「・・・今から作ります・・・」

どこまでもわがままで、自由奔放で、飄々としていて・・・捉えどころのない聖さま。

この人を繋ぎとめてた栞さんて、実はかなりすごい人なのかもしれない。

しかも、今も・・・ずっと聖さまの心を独り占めしてるなんて・・・羨ましいとしか言いようがない。

ちょっとはこっちも振り向いてよねー!!そう叫べば、ほんの少しぐらいこっちを見てくれるんだろうか?

私はニコニコ笑顔の聖さまを見て、諦めたようにため息を一つ落とす。

・ ・・ありえないか・・・。

ほんのちょっとで、いいんだけどなー。

恋したからって、何かがガラリと変る訳でも・・・ないんだなぁ。

もっと劇的に何かが変るもんだと思ってたんだけど・・・どうやらそうではなく、小さな変化しか起きなかったようで。

ただ、心の片隅に聖さまがずっと居るって事ぐらいだな、なんて思った。

目を閉じればいつでも聖さまの顔を思い浮かべる事が出来る。もう、似顔絵とか、見なくても描けそうなほどに。

恋って・・・そんなもんなんだ・・・今はまだ。




第二十一話『恐怖?焼きもち!?王様ゲーム』



由乃さんははりきっていた。尋常じゃないほどに。はっきり言って、この忘年会・・・何かが起こりそうな・・・そんな気がする・・・。

忘年会会場は普通のカラオケ屋さんの、一室だった。ミラーボールまでついている。多分、この会場を選んだのは・・・。

「歌ってもいい?歌ってもいい??」

「まだですよ、お姉さま!とりあえず乾杯しましょう、先に、ね?」

・ ・・間違いなくSRGだろう。聖さまはマイクを持って離さないSRGをようやく座らせると、蓉子さまに何やら目で合図した。

「それじゃあ、皆さん、今年も一年お疲れ様でした。今年もいろいろありましたが、新しい仲間も増えました。

あー・・・えっと・・・とりあえず乾杯?」

「どうして疑問系なのよ。ここは大声でかんぱーい!ぐらい言う所じゃないの?」

確かに・・・江利子さまの言う通りだ。皆苦笑いを浮かべながら、蓉子様の音頭を待ち、ようやく乾杯出来た。

とは言っても、私はジュースだったんだけど。

しばらくは皆それぞれに飲み会を楽しんでいた。

すると、突然隣にやってきた乃梨子ちゃんが私の飲んでいるものを見て、真顔で言った。

「祐巳さまはお酒は飲めないんですか?」

「うん・・・私家族から禁酒令が出てるのよ・・・」

何故かは自分でも分からないのだけど。乃梨子ちゃんは私の答えに納得したように頷いた。

どうして頷くのよーーーーー!?

「なんとなく祐巳さまお酒弱そうですもんね・・・」

「そ、そうかな?」

「はい・・・何かとんでもない事になりそう・・・ですよね」

勘のするどい乃梨子ちゃんが言うのだから、きっとそうなのだろう・・・。

私はガックリと頭を落とし、チビチビとオレンジジュースを飲んだ。

しかし・・・こうやって見ると、お酒の飲み方って皆全然違うんだなぁ・・・何ていうか、面白い。

異様にピッチの早い江利子さま・・・と、音楽担当の静さま・・・。かなりのハイペースだけど、二人とも全然平気そう・・・。

楽しいお酒なのは由乃さんに蔦子さん。楽しい・・・というよりは、二人とも普段の性格に拍車がかかったように思える。

至って普通なのが蓉子様で、やっぱりこんな時でも理事長なんだな〜・・・疲れないのかな・・・。

癇癪を起こしている祥子さまを止めに入るのは、涙ぐんでいる令さま・・・。

泣き上戸と、怒り上戸・・・あまり近づきたくはない、そう思った。

以外なのは志摩子さんで、顔色一つ変えずに日本酒をガンガン飲んでいる。人は本当にみかけによらないもんだ・・・。

乃梨子ちゃんはちゃんと自分の分量をわきまえているようで、それをきっちり守っているという感じ。

そうそう!肝心の聖さまはと言えば・・・一番うるさそうなのに、部屋の一番端っこの席で、

SRGと微かな談笑を交えながら静かに飲んでいた。

そこだけ見ればどっかのおしゃれなバーの一角みたい・・・。それだけこの二人は独特な雰囲気を醸し出している。

そんな聖さまと、一瞬目が合った。けれど、聖さまは小さな笑みを浮かべただけで、それ以上は何も起こらなかった。

ちょっと寂しい・・・そんな風に思ったといったら、聖さまは困るだろうか。

私は自分が教師仲間以外の何者でも無いことにガッカリした・・・。

忘年会も中盤にさしかかってきた時、ようやく由乃さんが思い出したようにカバンの中から何かを取り出した。

「みなさ〜ん、ちゅうもく〜〜〜!!」

由乃さんのマイクを通した大声に、会場はシーンとなった。皆が由乃さんに注目する。

マイクを突然奪い取られた令さまは、唖然とした顔をして由乃さんを見つめていた。

「えっと〜、由乃はこの日の為にこんなものを作ってきました!!」

そう言って由乃さんが取り出したのは人数分の割り箸だった。皆何が始まるのか、興味津々といった顔だ。

「王様ゲームで〜〜す!!はい、端っこの人から順番に一本づつ引いていってくださいね!」

由乃さんは意気揚々と割り箸を持って皆に一本づつ引かせてゆく。

あれ・・・?絶対反対するだろうと思っていた蓉子様が反対・・・しない??

私は蓉子様をチラリと見て言葉を失った・・・完全に目が・・・目がすわっているではないか。

そうか・・・すでに酔ってたんだ・・・。

皆が割り箸を一本づつ配り終えたのを確認すると、由乃さんが言った。

「王様だ〜れ?」

すると一人がスクっと立ち上がった。志摩子さんだ。

良かった・・・志摩子さんなら、そんなにおかしな命令はしないだろう・・・そう、思っていた・・・。

「そうですね・・・それじゃあ・・・十番の人が・・・五番の人にキス・・・で、お願いします・・・」

な、な、なんですとーーーーーっっっ!??

キ、キスって・・・志摩子さん??自分の言ってる事、ちゃんと分かってます??

私は急いで自分の割り箸を確認すると、ホッと胸を撫で下ろした。良かった・・・六番だ・・・。

そしてホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、立ち上がった人を見て、ショックを受けた。

「十番は私だけど・・・五番って誰?」

聖さまはまだ酔ってない。ちゃんと分かってる・・・と思う。それなのに、本気でキスするつもりなの!?

「・・・私・・・ですけど・・・」

そう言って手を挙げたのは・・・人魚姫・・・もとい、静さま・・・だった。

静さまは頬を赤らめている・・・お酒のせいなのか、どうなのかはわからないけれど・・・。

「そう、静なんだ。じゃ、ちょっと失礼して・・・」

聖さまはそう言って静さまの顎を人差し指と親指で軽く持ち上げ、静さまの唇に自分の唇を押し当てた。

ヤダ・・・見てられない・・・私は思わず目を覆った。そうなんだ・・・聖さまは・・・こういう人なんだ・・・。

周りから歓声が上がって、蓉子様と祥子さまは怒っている。

「全く・・・本当にするなんて・・・」

「はしたないですわっっ!!こんな公衆の面前でっ!!!」

そして私もうんうんと頷いた。これ以上聖さまを見ている事に耐えられなくなったのだ。

でも聖さまは・・・そんな私の考えなんて思いもよらないのだろう。

目が合った瞬間、唇の端をペロリと舐めて、不敵な笑みを浮かべただけだった。

まるで、次は祐巳ちゃんだよ?とでも言いそうな勢いで・・・。

「はい、じゃあ二回目いっきま〜す!!」

「まだやるつもりなの!?もう止めなさい、由乃!!」

「えー・・・じゃあ後一回だけ!!」

由乃さんはそう言ってまた皆に割り箸を配りだした。

私は割り箸を一本選ぶことがなかなか出来なくてもたもたしていると、由乃さんは最後の一本を私に手渡した。

「王様だ〜れ?」

「あら、私だわ・・・」

そう言って立ち上がったのはSRGだった。そしてその唇に何かを企むようなそんな表情がみてとれた。

私の番号は・・・八番・・・どうか、どうか当たりませんように・・・。

するとSRGは皆を見渡してまるで楽しむかのように、笑みを浮かべた。

「それじゃあね〜・・・三番・・・いえ、七番・・・これも違う・・・じゃあ九番・・・よし、九番がー・・・そうね・・・五番・・・あ、違う。

六番に・・・いえ、今の無し・・・えっと・・・八番・・・これだ!八番にさっきよりもすんごいのを!!」

「SRG〜ズルイですよーそれは・・・」

「何?何か文句あるの?由乃ちゃん」

「い、いえ・・・別に・・・ところで九番って誰です?」

由乃ちゃんはそう言って周りを見回した・・・すると・・・。

「お姉さま・・・謀りましたね?」

「あら、そんな事は全然なくてよ」

「えっ!?また聖さまなんですか??じゃあ八番って一体・・・」

私は固まっていた。まさかこんな事になるなんて・・・嘘でしょう?一体SRGは何を考えてるの!?

聖さまは呆れたような怒ったような顔でSRGを睨みつけている。

・・・そっか・・・私にもキスしてくれるんだ・・・それもさっきよりもすんごいのを・・・。

聖さまはゆっくり私の前までやってきて、何やら複雑そうな顔をしている。

一方私はといえば、困惑とかそういうのを通り越して憔悴していた。そしてそれがやがて怒りに変って・・・。

「祐巳ちゃん・・・怒ってる?」

「・・・別に・・・さっさとすればいいじゃないですか、さっきみたいに」

「・・・本当にいいの?」

どうして私にはそんな事聞くんですか!?静さまには何も聞かないうちに速攻でキスしたくせに!!

それとも私にはキス出来ないって事!?

「祐巳ちゃん・・・嫌なんでしょ?こんな風にキスされるのは・・・」

「・・・それは・・・当たり前です・・・」

違う・・・聖さまは私の為にそう聞いたんだ。私がきっと凄く嫌そうな顔しているから・・・。

「だよね。私だって本当はこんな風に祐巳ちゃんにはキスしたくない。

だから・・・とりあえず私を突き飛ばして逃げればいいと思うよ。そしたらこんな茶番は終わるから」

聖さまはそう言ってゆっくりと私の頬に手を添えた。逃げろって・・・どこへ・・・どうやって・・・?

こんなにも間近に聖さまの顔があって、どうして逃げられるっていうの!?

私は聖さまとキスしたいのだろうか?それともしたくないんだろうか・・・?

そうこう考えてるうちに聖さまの顔はどんどん近づいてくる・・・ど、どうすればいいのっ?

周りの叫び声とか、囃し立てる声とかは、今はもうまったく聞こえない。まるで世界に聖さまと私しかいないように・・・。

私はゆっくりと瞬きをした。聖さまは驚いたような顔をしている。そして・・・唇に一瞬何かが当たった。

それが聖さまの唇だと気づくのに、そう時間はかからなかった。

そして次の瞬間・・・パーンと物凄い音が部屋中に響き渡った・・・。

「・・・あ・・・ご、ごめんなさいっっ!!」

私は今自分がしでかした事に、頭が真っ白だった。部屋を飛び出してトイレの個室に駆け込む。

どうして?どうして私は逃げなかったの?ただ聖さまとキスがしたかったから?

でもそれならもっとじっとしていれば良かった。そして冗談にしてしまえば良かったのに・・・。

これじゃあもう部屋に戻れないじゃない・・・。しかもしらないうちに涙が溢れてくるし。

しばらくして、コンコンと個室のドアを誰かが叩いた。

私はてっきり誰かがトイレに入りたいのだろうと思って、

涙を腕でゴシゴシ拭いて俯いたまま足早にトイレを後にしようとしたのだけれど・・・。

ドスンと誰かに正面衝突してしまった。その人は何故かそのまま私をそっと抱きしめようとしたものだから、

私は驚いてその人を突き飛ばして逃げようとした・・・けれど。

「待って、逃げないで!祐巳ちゃん」

ん?この声は・・・。

「せ、聖さま!?どうして・・・」

聖さまの頬は微かに赤くなっていて、それがさっき私が思い切り叩いた所だと分かると、余計にバツが悪くなった。

「祐巳ちゃん・・・ごめん・・・絶対逃げると思ったんだよ、祐巳ちゃんは・・・」

「・・・そうですね。私もそう、思ってましたよ・・・」

「だったらどうして・・・」

「分かりません。逃げられなかったんです・・・だから・・・ごめんなさい・・・思い切り叩いてしまって・・・」

私は聖さまの頬にそっと触れた。良かった・・・これぐらいの事は出来るみたい。

キスされて、もう二度と顔も見れないと思っていたから・・・ちょっと安心した。

聖さまは私の手にそっと自分の手を重ね、苦い笑いで言った。

「いや、大丈夫だから、心配しないでいいよ」

「・・・でも・・・」

「本当に、大丈夫だから。それより・・・どうして今はそんなに怒ってるの?」

「えっ!?」

私別に怒ってなんか・・・そう思いながらふと鏡を見ると、なるほど・・・確かに怖い顔してる。

でも、原因は分かっていた。簡単な事だ。これはただの焼きもちなんだ。

でも、そんな事言えないよね、流石に。だって、私はただの同僚だもの。

「そ、それよりも・・・聖さまは誰とでも平気でキス出来るんですね」

あ・・・今の言い方にはちょっと棘があったな・・・。

でも、聖さまはまるでそんな風には感じなかったとでも言うように肩をすくめて見せた。

「そうでもないよ。本当に好きな人には何も出来ないんだから、意味ないよね」

「・・・そうなんですか・・・」

「うん。だから栞とも結局何も出来なかったしね」

聖さまはそう言って平然と笑った。どうして笑えるんだろう?

本当に好きな人にキス出来ないのに、そうじゃない人にはいくらでも出来るだなんて・・・そんな哀しい事、

どうして笑えるんだろう・・・。

「祐巳ちゃんは・・・どうだった?お姉さまにファーストキスを奪われてセカンドキスは私だなんて・・・、

やっぱり怒ってる?」

聖さまにそう聞かれて私は首を振った。聖さまの言葉を聞いて、答えが出たのだ。

私が聖さまを叩いた理由も、逃げ出した理由も。

「私は・・・感情のこもってないキスはキスとは呼びませんから。別に何とも思ってませんよ」

聖さまが私の事を何とも想っていないことなど明らかで、そんな聖さまにただのお遊びのキスをされても、何も感じなかった。

あえて言えば、とても哀しくて・・・苦しかった。それなのに聖さまは私に言ったのだ。

本当に好きな人には何も出来ない、と。それはもう、私の事など何も想っていない、と言うのと同じ事ではないか。

それを聞いた途端、私の中に出来たキスをしたという事実は消えていた。

想いの通わないキスなど、キスとは呼べないのだから。

「・・・そう・・・分かった。じゃあどうして怒ってるのか、聞かせてくれる?」

「いえ・・・それは個人的な事ですから・・・それじゃあそろそろ会場に戻りましょうか」

私はそう言って手を洗い、トイレを後にした。

その時チラリと横目に入った聖さまの顔は、何故かとても傷ついているように見えた。

部屋に帰ると、皆が私を心配してくれていた。でも、私は上手く笑えなかったかもしれない。

そして何よりも周りが全く見えていなかった。

私はひとしきり皆に励まされた後、自分のグラスを手に取り、それを一気に飲み干した。

そして・・・気づいた。それは自分のグラスではなかった事に・・・。

え?どうして気づいたって?だって・・・それを飲んだ途端に、私の世界が大きく揺らいだから。

そしてその直後に聞こえてきた乃梨子ちゃんの叫び声。

「祐巳さま、それは由乃さまの・・・お酒ですよっっ!!」

うそでしょー・・・それを早く言ってよ〜・・・。

ほんと、お酒を飲んでさほど時間も経ってないのに体が熱くなって、もうどうしようもなくなってきた。

「う〜・・・何だかこの部屋・・・暑くないれすか?」

「ゆ、祐巳さん?大丈夫?乃梨子、祐巳さんにお茶を頼んであげて!!」

「お、お茶っすね?お茶!!」

乃梨子ちゃんがそう言って添えつけの電話に向かって物凄い剣幕でお茶を注文しているのが見える。

けれど、皆ボヤけていて、どれが誰だかわからない。

そうこうしているうちに、どんどん暑くなってきてとうとう耐えられなくなってしまった。

着ていた上着を一枚脱ぎ、そしてカーディガンも脱ぐ。するとどうだろう、随分涼しくなったではないか。

でも、そんな私を止めるのは志摩子さんと乃梨子ちゃんだけで、

他の皆はすでに相当飲んでいたので私のストリップショーに拍手をしている。

「えへへ。何だか気持ちよくなってきました〜乃梨子ちゃん、志摩子さん!もっと飲みましょ〜」

多分いつもはこんなにもお酒弱くない・・・と、思う。でも、今日は妙にハイテンションになってしまう・・・。

大方の見当はついているんだけど、ね。

嫌な事があればあるほど、私のお酒を飲んだ時のテンションは上がる。

だから・・・きっとさっきのキスの事が相当響いているんだろう。だって、本当は物凄くショックだったんだもん!!

「祐巳さん!風邪引くから早くこれを着て!!」

「いやれ〜す!うー・・・まっだあっつい・・・これも脱ぐ〜〜」

私がYシャツのボタンに手をかけると、皆大歓声を上げる。少なくとも、私にはそう聞こえていた。

ボタンを一つ、また一つと外してゆくうちに、もう何が何だか分からなくなってしまって・・・。

隣に座って歌っていたSRGの膝の上にコツンと頭を下ろした。普段なら絶対にこんな事出来ない。

でも・・・お酒を飲むとどうしても見境がつかなくなってしまう。

「やだ祐巳ちゃんってば・・・色っぽいわね〜」

SRGはそんな事を言いながら私の頭をよしよしと撫でてくれた。

「でも・・・これはちゃんと閉めましょうね〜でないと・・・お姉さんが今夜祐巳ちゃんを持って帰っちゃうぞ〜」

「SRG!!何を仰ってるんですか!!はしたない!!!祐巳もちゃんと起きなさい!!」

あー・・・遠くで祥子さまが怒ってる・・・でも・・・起きれそうに・・・ない〜・・・。

SRGは私を長いすに寝かせると、私のYシャツのボタンを一つ一つはめはじめた。

その時だった。

「何やってるの!?」

「あ、聖が帰ってきた〜」

SRGは私の胸元でピタリと手を止め、そう言った・・・なのに・・・。

「離れてくださいっ!!」

「・・・はい?」

「祐巳ちゃんから離れろって言ってるのよ!!」

聖さま・・・仮にもお姉さまにタメ口なんて利いちゃって・・・いいんですか・・・?

ていうか、どうしてそんなに怒ってるんです??

「聖・・・あなたいい度胸ね・・・私に命令するなんて百年早いわよ?」

「だったらどうだって言うのよ!こんな所でそんな事してただですむと・・・何よ、志摩子!?」

聖さまが言い終わらないうちに、志摩子さんが聖さまに全ての事情を話した。

すると・・・よくは見えなかったけれど、聖さまの顔が赤色から青色になり・・・やがて真っ白になってゆくのが見えた。

そしてその後はひたすら聖さまはSRGに平謝りだ。

「ほんっとうに申し訳ありませんでしたっっ!!」

「ほんと、あなたも偉くなったものよねぇ?大体ね、どこの誰がこんな所でそんな事おっぱじめるってのよ。

いくら私でもそこまでしないわ。本当にしたいなら速攻で持って帰ってるわよ、祐巳ちゃんを」

えー・・・そういう意味だったんですか〜?さっきのは・・・。危機感が全くないのは、多分酔ってるからなんだろうなぁ・・・。

その後の事は全く私の記憶にはない。多分、寝ちゃったか、完全につぶれちゃったかのどっちかだと思う。

気がついたら、私は自分のベッドで寝てて、そして自分が何か握っているのに気づいた。

「・・・ん・・・なん・・・だろ・・・」

私が掴んでいるものの元を探って声も出ないほど驚いたのは・・・いうまでもない。

そう・・・掴んでいたのは誰かの手で、その手の持ち主はベッドにもたれかかるようにして眠っていた。

「せ、せ、聖さまーっ?」

「んぁ?あ・・・起きたんだ・・・おはよ・・・」

「お、おはよう・・・ございます・・・」

私はそこでハッとなった。だって、服はちゃんと着替えてる・・・。ど、どういうこと??

「さてと、それじゃあ私はそろそろ帰るよ・・・じゃね、また新学期に」

私の驚きとか、不安とかをよそに、聖さまはそう言ってゆっくりと立ち上がると、私の頬を軽く抓って自室へと帰って行った。

フラフラとおぼつかない足取りが、昨夜の飲み会の疲れを物語っている。

一体・・・どうして聖さまがここに居たんだろ・・・多分、それは永遠の謎・・・だと、思う。

そして心の中に固く誓った。王様ゲームなんて、もう二度としない!!と。







第二十一話『勘違いの代償』




どうしてこんな所に居るんですか!?多分朝起きたら祐巳ちゃんにそう言われるんだろうな・・・。

私はそんな事を考えながら苦い笑みを浮かべた。実際自分でもどうしてこんな事になったのかよくは分からないのだ。

頬は叩かれるしお姉さまは怒らせるし。

でも、誰がどう見てもあれは勘違いすると思う。絶対にそんな事してるんだと思ったもん。

でも・・・そのおかげというべきか、そのせいというべきかは今の所分からないけれど、とにかく私は今、祐巳ちゃんちに居る。

そもそも由乃ちゃんの作った王様ゲームが元でこうなったのだ・・・。

私はそこでさっきまでのどんちゃん騒ぎを思い返してみた。

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・ ・・祐巳ちゃんは何故か私のキスを拒まなかった・・・。

というのは見せ掛けで、その直後思いっきり平手打ちをくらったんだけど。

「うわぁ・・・聖、痛そうねぇ〜」

「痛いですよ・・・全く、誰のせいなんですか・・・」

私はぶたれた頬をさすりながら、蓉子の差し出してくれたおしぼりで頬を冷やしていた。

頬はいつまでもいつまでも熱を持っているように思える。そしてふと思い出した。さっきの祐巳ちゃんの顔を。

目をしぱたかせ、不思議そうにこちらを見上げる祐巳ちゃん。まるで・・・そう、誘っているようだった。

本音を言えば、私は祐巳ちゃんとキスするつもりなんか全く無かったし、祐巳ちゃんだってもちろん無かっただろう。

それなのに・・・あの顔は反則だろう!?逃げなさい、とか言っておきながら、逃げられなくなったのは私の方だったのだ。

祐巳ちゃんに栞を重ねるのを止めた時から、私の中の祐巳ちゃんは一人の大切な友人になった。

なんというか、祐巳ちゃんのあの容赦ない突っ込みとかが、私にはちょうどいいのだ。

それなのに・・・友人なのに、キスするのを逃げたいと思うなんて・・・どうかしているとしか思えない。

ましてや自分から逃がそうとするなんて・・・。

「ちょっと、お手洗い行って冷やしてきます」

「ええ、そうしてきなさい。ついでに祐巳ちゃんにもちゃんと謝りなさいよ?」

「・・・分かってますよ。たとえ一番悪いのがお姉さまだとしても、私から謝っておきますよ」

「あら・・・聞き捨てならないわね」

「いえ、聞き捨ててください。それじゃあ、ちょっと行ってきます」

私はそう言って席を立った。ほら・・・まだぶたれた頬が熱い。

お手洗いの中には個室が二つあった。多分、祐巳ちゃんはこのどちらかに居るんだろうと思う。

私は閉まっている方の扉をノックした。すると、中から俯いたままのツインテールがピョコンと顔を出した。

そしてそのままお手洗いを後にしようとしたもんだから、私はそれを阻止して祐巳ちゃんの目の前に立ちはだかった。

案の定、祐巳ちゃんは私に正面からぶつかってきて、申し訳なさそうにぺこぺことお辞儀をしている。

私はそんな祐巳ちゃんの腕を捕まえ、逃げられないように羽交い絞めにすると、

祐巳ちゃんはきっと私の事をチカンか何かと勘違いしたのだろう。物凄い勢いで暴れだしたのだ。

ようやく祐巳ちゃんが私だと気づくまで、一体どれぐらいかかったのだろう。

いや、きっと実際にはそんなに経ってはいないのだろうが。

それからほんの少し祐巳ちゃんと話しこんだ。謝ろうと思ったけれど、祐巳ちゃんは私にハッキリと言い切った。

『私は・・・感情のこもってないキスはキスとは呼びませんから。別に何とも思ってませんよ』

と。

それを聞いて、私は拍子抜けだった。何だ、申し訳ないと思っていたのは私だけだったんだ。

自分でもどうしてこんなにも申し訳なく思うのかが分からない事はこの際置いておいて、

私はこの祐巳ちゃんの答えに少なからず腹が立った。

じゃあどうしてぶったのよ!?とか、それなら最後までやらせなさいよ!とか、そういう怒りではなく、

じゃあどうして怒ってるのよ?って事が聞きたかった。訳の分からないまま、何かを怒られたままでいるのは・・・嫌なのだ。

でもそれを聞いたらあの子・・・個人的な事だから教えたくない、とか言ったのだ!

何それ?って思ったと同時に、その答えが酷くショックだった。まるで仲間外れにされたような、そんな不思議な気持ちだった。

私の横をすり抜けていく祐巳ちゃんを見たとき、私はどんな顔をしていただろうか。きっと、酷い顔をしていたに違いない。

祐巳ちゃんは言った。感情のこもらないキスなど、キスのうちには入らない、と。

それは、私の事など何とも思ってないから、別にキスされても平気・・・と、そういう意味だったのだろうか?

「まぁ、しょうがないよね・・・」

私だって祐巳ちゃんの事を友人以上には見ていないのだ。それなのに・・・どうしてこんなにもショックだったのだろう。

どうしてあの時、逃げたいと思いながらもキスしてしまったのだろう・・・。

その時、ようやく私は口の中が鉄くさい事に気づいた。

「・・・切れてたんだ・・・」

鏡を見ると叩かれた時に少し当たったのだろう、唇の端に血が滲んでいた。

しかし・・・私の頬を叩くなんてなかなかいい度胸だ。

自慢じゃないけれど、今まで付き合った人にも、親にすらも叩かれた事なんてない。

きっとこの先何があっても、この祐巳ちゃんの一発は絶対に忘れないんだろうな。

皮膚的な痛みよりも、何故か精神的なダメージの方が多いもんなんだ・・・。

「まぁ、これはキスの代償って事にしとこ・・・」

私はそう言ってお手洗いを後にした。

部屋に帰って一番初めに目に飛び込んできたのはお姉さまが祐巳ちゃんの服を脱がしているところだった。

いや、正しくは私にはそう見えた、というだけだったんだけど。

それが勘違いだと知ったのは志摩子から説明を受けたときで、

その時初めて自分がお姉さまに対してかなり酷い態度をとっていたことを後悔するはめになった。

本当に・・・どうして祐巳ちゃんはこうやって次から次から私に初めてをもたらしてくれるのだろう!?

それも良くない事ばかり!!

本気で怒るお姉さまに、私はただひたすら謝るしかなくて、その間に肝心の祐巳ちゃんは完全に夢の国の住人だった。

「ほんっとうにすみませんでした!!」

「・・・全くよ。お酒の席じゃなかったらもっと怒ってたわよ。それにしても・・・そう・・・聖には私がそんな人間に見えてたのね」

「いや・・・でも、お姉さまには前科が・・・」

「おだまりなさい」

「・・・はい・・・」

「まぁいいわ。それよりもこの子、聖が送ってやってね?」

お姉さまはそう言って膝の上で気持ちよさそうに寝ている祐巳ちゃんの頬を人差し指でツンツンとつついた。

「えっ!?ど、どうして・・・」

私がそこまでしなきゃならないのよ。そんな言葉を私は飲み込んだ。冗談じゃない。今日は車で来てないのだ。

眠ってる祐巳ちゃんを担いで帰れ、とでもいうのだろうか!?私があからさまに嫌そうな顔をしたのだろう。

お姉さまは私をキッと睨んだ。

「あなた祐巳ちゃんちの隣に住んでるんでしょ?私達の中の誰よりも近いじゃない。はい、けって〜い」

「けって〜い・・・って・・・本人の意思無視して・・・」

「この際聖の意見はどうでもいいわ。そんな事よりもこの子が無事に帰りつけるかどうかの方が心配だもの」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

嫌、とは言えない雰囲気だった。だって、皆がこっちを見てたんだもの。

はぁ・・・これ担いで帰るのか・・・まぁでも、祐巳ちゃん軽そうだしな。それがせめてもの救いか。

私は祐巳ちゃんの肩を揺すると、どうにか起こそうと試みた。だって、自分で歩いてくれれば何の文句も無いわけだから。

「祐巳ちゃん、ほら、起きて!!祐巳ちゃんってば!!」

「ん・・・ぅ〜ん・・・もうちょっと・・・」

ダメだ。完全に寝ぼけてやがる。ほんっとうにめんどくさいなぁ、もう!!

私はきっと何かに物凄くイラついてたんだと思う。だって、いつもはもう少し紳士的だし。

でも、何故か今日の祐巳ちゃんには無性にイライラしてしょうがない。それにこの周りの空気にも・・・もうウンザリだ。

私は強引に祐巳ちゃんの腕を引っ張ると、無理やり立たせようとした。

けれど、祐巳ちゃんはヘニャへニャと足元から崩れ落ちてゆく。

「もう!いい加減起きてよ!!置いて帰るよ!?」

私のその一言がきいたのか、それとも微かに覚醒しかけていたのか、祐巳ちゃんはうっすらと目を開けた。

その大きな目は涙ぐんでいる。多分、これは酔ってるせいだと思うけど。

「いやぁ・・・おいてかないで・・・」

祐巳ちゃんはそんな事言って私の手を両手でキュっと握った。

な、何?この愛らしさ・・・こんな切り札持ってたんだ・・・この子・・・。

「置いてかれたくなかったら、ほら、シャンと立って!」

「はいぃ・・・」

ヨロリ・・・そんな感じでかろうじて立ち上がった祐巳ちゃんは、私に抱きつくようにもたれかかってくる。

人に抱きつくのには慣れてるけど、抱きつかれるのは慣れてない私にとって、これはなかなか新鮮だった。

おぼつかない足でふらふらと歩く祐巳ちゃんを支えるのはなかなか大変で、私も何度かよろめいた。

「それじゃあ、先に帰りますね。休み明けにでも支払いは請求してください」

「ええ、そのつもり。それじゃあ二人とも気をつけて帰るのよ」

「は〜い、皆さんごきげんよ〜〜」

「ごきげんよう」

「それじゃあね、聖。しっかり送ってくのよ。くれぐれも・・・送り狼にはならないように!」

お姉さまは祐巳ちゃんに手を振るのを止めて、代わりに私を軽く睨んだ。

とはいっても、どこか楽しげな笑みを浮かべていたけれど。

「なりませんよ。酔ってる子をどうこうするのは私の趣味じゃありませんから。それじゃあ、失礼します」

それに好みでもないしね!!私は心の中でそう、付け足した。

道中、何を話したのか正直あんまり覚えてない。もしかしたら何も話さなかったのかもしれない。

ただ、私の腕に絡み付いてくる祐巳ちゃんの胸に、ちっさいなぁ・・・と思ってた事だけはよく覚えてるんだけど。

家について、靴を脱がせて、祐巳ちゃんの言うとおりにパジャマに着替えさせて、

ベッドに寝かしつけるまでに多分30分はかかったと思う。

「それじゃあね、もう帰るからね?」

私がそういうと、祐巳ちゃんはまた目に涙を溜めて言った。

「・・・やだぁ・・・」

と、小さい声で。じゃあどうしろってのよ!?私にここに居ろって事?

「祐巳ちゃん、そんな事言ってたら襲っちゃうよ?」

冗談めかして言う私に、祐巳ちゃんは一瞬ポカンとしていたけれど、やがて恥ずかしそうに頷いた。

いやいやいや・・・マジで!?嘘でしょ?

ていうか、そもそも今のは思いっきり冗談だったわけで、私だって本気で言った訳じゃない。

私は慌てた。ガラにもなく。でも次の瞬間、祐巳ちゃんはあっという間に静かな寝息を立て始めた。

どうやらただ寝ぼけていたらしい・・・もう!!焦らせないでよっっ!!

どうして自分でもこんなに動揺してるのかは謎だったんだけど、この際そんな事はもうどうでもいい。


とりあえず帰ろう。そして頭を少し冷やそう。私はそう思って立ち上がろうとした・・・のに、何かが引っ張って立ち上がれない。

ふと自分の手を見ると、祐巳ちゃんの手がしっかりと握っているのが見えて、私は大きなため息を落とした。

「・・・どうしろってのよ・・・勘弁してよ、もう・・・」

私はベッドの脇に腰を下ろし、幸せそうな寝顔の祐巳ちゃんを見ていた。なんか・・・幼いなぁ・・・。

それに細い・・・簡単に折れちゃいそう・・・でも、学校じゃよくちょこまかと走り回ってて、まるでおもちゃみたいで。

その時初めて私は気づいた。今自分が微笑んでいることに。目を細め、口元が緩んでいる自分に。

「どうかしてるわ・・・私」

ボソリとそう呟くと、瞳を閉じた。

夢の中から誰かが手を差し伸べてくる。それは栞の手ではない。お姉さまのものでもない。祐巳ちゃんの、小さな手だった。






第二十二話『アイ・ラブ・スキー』




スキーに行きたい。どうしてもスキーに行きたい・・・行きたいって言ったら行きた〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い!!!!

何とかして蓉子ちゃんを落とせないかしら・・・もうこの際学校から行けなくても個人的にでも・・・。

あの子・・・結構好みなのよね・・・。

「ふ・・・ふふふふふふ」

私は机に肘をついて手を組み、微笑んだ。どうしよう・・・何だか楽しくなってきたわ・・・。

翌日、私は聖に電話をした。昨日の忘年会の疲れだろうか、聖の声に元気がない。

この様子じゃ祐巳ちゃんには何も出来なかったみたい。全く、気に入った子には奥手なんだから。

「ところでね、聖。スキーって・・・好き?」

「は?駄洒落ですか?正直あまり面白くないんですけど・・・」

「違うわよ!!スキーよ、スキー!滑れるかって聞いてるの!!」

私がそんなしょうもない駄洒落なんて言うものですか!心の中でそんな突っ込みを入れながら私は言った。

しばらくして、ようやく聖の答えが返ってくる。

「・・・滑れますけど・・・どうしてです?」

「そう、ならいいのよ。じゃあとりあえず聖は行く方向で」

「な、何がですか!?スキーにですか??」

「そう。皆で行きましょ?」

そう、どうしても行きたいのだ、スキーに。ゲレンデで皆と戯れたいのだ。

そのためにはもうどんな事だってしてみせようじゃない。

私は聖の答えを待つ間、色んな作戦を考えていた。それこそ犯罪スレスレのものまで。ところが・・・聖ときたら・・・。

「別にいいですよ。でも・・・二人じゃないですよね?まさかとは思いますけど」

「何よ、私と二人きりは嫌だっていうの?」

「そういう訳じゃないですけど・・・女二人でスキーって・・・あからさまじゃありませんか?」

「まぁ、そうね。じゃあ聖も誰か誘ってよ。それでいいでしょ?」

「分かりました。皆に連絡まわしときます。それじゃあお姉さまは宿の方、探しておいてくださいね」

「OK。分かったわ。それじゃあいい報せを待ってるわ」

そう言って私達は電話を切った。聖に誘わせれば流石の蓉子ちゃんもやってくるでしょ。

周りから囲めば、あの子は絶対に落ちるはずだから!!

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「もしもし?お姉さま?全員つかまりましたよ」

「あら!よくやったわ、聖!日程は・・・三泊四日ぐらいを希望したいんだけど・・・どうかしらね?」

「一応皆の予定も聞いておいたんですが、皆の暇な日が重なるのは一月3日過ぎたら、でしたよ。

それ以降なら結構大丈夫みたいです」

流石聖!!私の妹!!ちゃんと予定まで聞いておいてくれるあたりが気がきくわね!

この恋愛以外にはどこも非の打ち所のない妹は、私の自慢だった。いつだって。

顔は陶器で出来た人形みたいだし、スタイルもいいし、性格にやや難があるけど、それは私次第でどうにでもなる。

それに・・・基本的にはとても素直でいい子なのだ。これ以上の妹が、果たしてこの世にいるだろうか?

いえ、居ないわ。どこを探しても聖ほどの妹はいない。蓉子ちゃんみたいに几帳面でしっかりしていない。

江利子ちゃんみたいに好奇心が旺盛でもない。でも、聖には聖の良いところがちゃんとある。

私は聖のそんな所が大好きだった。いつも何かを諦めたように人生を斜に見ていて、何かを知っているかのような顔をして。

でもそれが栞ちゃんに出会って少し変わって、振られてからはそれが酷くなって・・・。

でも、最近祐巳ちゃんに出会ってまた少し聖は変わった。誰かに守られてばかりの聖ではなくなった。

少なくとも、祐巳ちゃんの事は世話を焼きたいと思っているみたいだった。

そんな妹の変化をこんなにも近くで見ていられる私はなんて幸せものなのだろう。

「聖・・・ありがとう」

「な、何です?急に・・・」

「いいえ、何となく。言いたくなったの」

「・・・そう、ですか・・・それじゃあ詳しい日程は・・・どうしましょうか?」

「そうねー・・・じゃあ5.6.7.8でどうかしら?四日の夜中に出発って事でどう?」

「5.6.7.8ですね。分かりました。それじゃあ皆に伝えておきます」

「ええ、お願いね。ところで・・・聖が皆に伝えてるの?」

私は少し不思議だった。だって、聖はいつもこんな面倒な役回りは決して引き受けないから。

でもちゃんと皆の日程を聞いてるぐらいだから、どうやら伝言ゲームをしたわけではないようだ。

「いえ。殆どは祐巳ちゃんがやってくれてますけど・・・それが何か?」

「祐巳ちゃんが?なるほどね・・・それで謎は解けたわ・・・」

やっぱりね・・・こんな役聖がする訳ないわよね・・・。それにしても・・・祐巳ちゃんか・・・。

あの子も相当面白い子よね、ほんと。

大概外部から来た人間はあまりリリアンには馴染まないのに、あの子は何の苦労もなく馴染んでしまって・・・。

今じゃ昔から知っていたみたいな、そんな錯覚すら覚えてしまうのだから。何よりも聖が異様になついてるし。

今まで外部から来た人間にはあれほど近寄ろうとしなかったのに・・・これは進歩だわ!

多分、祐巳ちゃんでなければ聖はこうもなつかなかったに違いない。祐巳ちゃんさまさまだ。

「祐巳ちゃんも行くって?」

「ええ。半ば強制的にでしたけど」

聖はそう言ってクスリと何かを思い出したように笑った。きっと、半ば、じゃなくて、かなり、だったに違いない。

そして聖はこう、付け加えた。

「それに・・・祐巳ちゃんが言えば皆ついてきますから」

「・・・なるほど・・・」

私は納得した。確かに、皆祐巳ちゃんにメロメロなのだ。裏表のない彼女に。

あの蓉子ちゃんですら、食堂の件で重い腰を上げたのだから。

祥子ちゃんは祐巳ちゃん命って感じだし、由乃ちゃんも志摩子ちゃんも今や祐巳ちゃんの立派な親友だ。

乃梨子ちゃんも悪くは思っていないみたいだし、令ちゃんもそう。江利子ちゃんは・・・微妙だけど。

「祐巳ちゃんは皆のアイドルだものね」

私は一瞬、しまった、と思った。

こんな言い方をしたら、もしかして聖はまた栞ちゃんと祐巳ちゃんを比べるのではないか、と思ったのだ。

けれど、聖の答えはちがった。

「そうですねー。生徒にもかなり人気みたいですし。いつ行っても保健室に人が居ますからね」

だなんて、まるで気にしていないような言い草だった。

これがお芝居なのか、素なのかはわからないけれど、どちらにしても以前の聖ならば間違いなく突っかかってきていただろう。

ああ、これがあの聖なのかしら?あのガラス細工のように脆かった、あの聖なのかしら?

透き通るような美しさはそのままに、固さは確実に増しているように思う。

このままダイアモンドになる時がいつか・・・いつか来るのだろうか・・・?

私はそんな感動を聖には知られないよう、話し続けた。

「あなたまだ通ってるの?保健室に」

「だって、あそこ居心地いいんですよ。お茶とお菓子も出してくれるし」

いや・・・それは多分祐巳ちゃんが食べたいだけなんじゃ・・・とか思ったのは口にしないでおこう。

きっと聖もうすうす感づいているだろうし。

「まぁ、あれよね。何にしても祐巳ちゃんはいい人材だわ。色んな意味で」

そう、とてもいい人材!皆にとっても、学校にとっても・・・聖にとっても。聖は私の言葉に笑った。

「確かに!なかなか居ませんよね、あんな子。蓉子もよく探してきたもんだ」

「ほんとよね。蓉子ちゃんに感謝しなきゃだわ。さて、それじゃあ、祐巳ちゃんを使ってまた連絡網お願いね、聖」

「分かりました。また祐巳ちゃんに伝えておきますね、それじゃあお姉さま、ごきげんよう」

「はい、ごきげんよう」

電話を切った後、私は何故か笑っていた。

それがスキーに対してなのか、聖の成長ぶりが嬉しかったのかはわからないけれど。

どっちにしても、スキーに行ける!!念願のスキーに!!!それにはまず、ウェアーとか手袋とかを買い揃えにいかなきゃ!

「うふふ、楽しみになってきた!」

私は電話を切って、小躍りしそうな勢いでその場で2〜3回ターンした。

でも・・・と、私はここで我に返った。一つだけ重要な選択肢をしなくてはならない事にようやく気づいたのだ。

今しがた切ったばかりの電話に向かって、ボソリと言う。

「スキーにしようかしら・・・スノボにしようかしら・・・悩むところだわ・・・聖はどっちにするのかしらね・・・」

と。

まぁ、また明日でいっか!とりあえず宿探し宿探し!!だって、念願のスキーに行けるんだもの!

これははりきって探さないとねっ!





第二十三話『スキーはお好き?』




「祐巳ちゃんってさ、やっぱりどんくさそうだからスキーは嫌い?」

突然、家にやってきたお客人はそう言った。いや、お客人とかそんないいものではない。ていうか、聖さまなんだけど。

いきなり押しかけてきて、お茶とお菓子まで勝手に出してコタツの中でくつろいでいる隣人・・・これってどうよ!?

昨日の今日で、顔とかほんとは合わせたくないんだけどなぁ・・・。

どうやって家に辿り着いたのか、とか、どうして私は着替えてたの?とか、聞きたい事はやまほどある。

それに・・・私何か失礼な事しなかっただろうか・・・それが一番心配だった。

「・・・なんなんですか・・・急に・・・」

それにしても・・・だ。どうしてこの人はこんなにも失礼なんだろ。

そしてどうして私はこんなヤツの事好きになっちゃったんだろ・・・。

もう自分の心が不思議で不思議でしょうがない。むしろ呪ってしまいたいぐらいだ。

でも・・・一度恋ってものを知ってしまうと、そうそうの事じゃ醒めないみたいで、多少何を言われても気にならなくなってくる。

「それがね、ついさっきお姉さまから電話があって、

教師達でスキーに行かないか?って誘われたんだけど・・・祐巳ちゃんどうする?」

ほらね、この人は私の気も知らないでこんなにも淡々と話を進めるんだから。

それにしてもスキーか・・・SRG・・・どうしても行きたかったんだ・・・。

教師達を誘ったあたり、学校から行くのはどうも諦めたらしい。でも、その方が正解かも。

だって、学校から行ったら生徒の面倒とかできっとあんまり遊べないだろうしね。

「どうする?と言われても・・・私スキーなんて出来ませんし・・・」

「まぁ、そうだろうとは思ってたけど、それなら大丈夫。私がちゃんと教えてあげるから」

「聖さまって・・・一言余計ですよね、ほんと」

どこまで失礼なんだか!!そりゃね、滑れませんよ、確かに!でもね、それが聖さまに迷惑かけましたか、っての!!

全く・・・どっちかっていうとスキーは苦手なのよ・・・寒いし、痛いし・・・。

「そう?多分正直なだけなんじゃない?それよりも肝心なのは祐巳ちゃんはスキーに行きますか?って話しなんだけど」

「そうですねー・・・スキーは・・・いいです。やめときます。聖さまの言う通り私どんくさいですから」

「えー!祐巳ちゃん行かないの〜?どうして?滑れないから?それとも寒いから?」

「いや・・・まぁ、ぶっちゃけどっちもですけど・・・。私冷え性なんですよ。だから寒いの辛くて」

雪山なんかに行ったら凍えるのがオチだ!!それに青アザだらけで新学期登校なんて、恥ずかしくて出来る訳がない。

「でも・・・祐巳ちゃん居ないと多分誰も来ないよ・・・」

聖さまはそう言って小さなため息を落とした。ていうか、流石にそれはないでしょ。皆は行くって言うと思うけど・・・。

「そんな事ないですよ。皆私が居なくても行ってくれますよ」

「私はそうは思わないね。多分祥子は、祐巳が行かないのなら、私も行きませんわ。とか言うだろうし、

蓉子だって、私、新学期の準備で何かと忙しいのよ。とか言ってこないでしょ?

江利子は・・・聖とSRGの仲を邪魔出来ないわ。とか言って来なくて志摩子と由乃ちゃんだって、

私とお姉さましか居ないのに来るとは思えないし、令は由乃ちゃんが来ないなら来ないでしょ?

それに乃梨子ちゃんだって・・・言わなくてもわかるよね?

かろうじて来そうなのは・・・静と・・・カメラちゃんだけか・・・。ねぇ、このメンバーって・・・楽しい?」

そ、そんな事真顔で聞かれても・・・私にどうしろと・・・。

「でもね、ここに祐巳ちゃんが加わってくれたら話は変わる訳よ。まず祥子が来るよね?それに、蓉子も来ると思うのよ。

何故か蓉子は祐巳ちゃんには甘いみたいだから。それに・・・志摩子と由乃ちゃんは確実よね?

そしたら令と乃梨子ちゃんも当然来る。そのメンバーなら間違いなく江利子もやってくるだろうし。

静とカメラちゃんは絶対に外れない。ほらね、こっちのメンバーの方が楽しそうじゃない?」

「それはそうですけど・・・でも・・・やっぱり寒いですし・・・こけたら痛いし・・・」

正直ちょっと気が変わってきそうだった。ちょっと楽しそう!とか思ってしまったのだ。

でも、それを今言ったら聖さまの思い通りじゃない。それは何だか面白くない。何かこう、極めつけ!みたいなの・・・無いかな。

「うーん・・・せっかく温泉なのにな・・・それに料理だって美味しいって噂だし・・・。

もし祐巳ちゃん来てくれたら私が付きっきりで教えてあげるのに」

・ ・・もしかして私声に出してたのかな・・・それとも顔に出てた??ていうか、かなり魅力的な条件なんですけど!!

今まで私ってば自分の事しか考えてなかったけど、よく考えたらスキーだよ?雪山だよ?白銀の世界だよ??

それに・・・スキー、もしくはスノボをする聖さまを想像してごらんなさいよ・・・超格好いいじゃないっ!!

そんな人が私に付きっきりで教えてくれたとしたら・・・うははは、何だか照れるわ・・・。

それに・・・温泉だってあるらしいし・・・これってかなり耳寄り情報だったんじゃ・・・。

「・・・わかりました。じゃあ私は誰に連絡すればいいですか?

後・・・詳しい日程とかも教えていただけると嬉しいんですけど・・・」

あれほど嫌がっていたのに、私は気がついたらあっさりスキーに賛成していた。弱いなぁ、私・・・。

私の答えに聖さまはまるで最初からそうなる事が分かっていたかのように満面の笑みを浮かべている。

「そうねー。それじゃあ、静と蓉子と江利子は私が受け持つわ。

残りは・・・祥子と由乃ちゃんと志摩子とカメラちゃんに回せば勝手に回るでしょ。

でね、お願いなんだけど、皆の暇な日聞いといてくれると嬉しいな。答えが皆返ってきたらまた私に連絡ちょうだい?

詳しい日程はまたお姉さまから連絡があったら祐巳ちゃんに伝えるから」

「わかりました。それじゃあ、早速皆に連絡します」

「お願いね、祐巳ちゃん」

「はい!」

そう言って聖さまは帰って行った。何だかまるで初めから仕組まれていたみたいな気がしないでもない。

でもまぁ、それでもいいか。皆で旅行、なかなか楽しそうだもんね!

スキーは好きじゃないけど・・・今回はちょっとだけワクワクする!






第二十四話『例えるなら、彼女は白』




志摩子さんと買い物にやってきた。とはいっても、近所のデパートなんだけど。

志摩子さんはデパートの見取り図みたいなのを真剣に見ている。

「ねぇ、乃梨子・・・スポーツ用品の所でいいのかしら?」

「ええ、だと思いますよ」

「そうよね・・・スポーツですものね。私ったら何も知らなくて・・・」

恥ずかしそうに顔を両手で覆う志摩子さんは凄く可愛い。いいんですよ、志摩子さん!!あなたはそれでいいんですっっ!!

自分でもどうかしてると思う。高校に入るまではずっと共学に通っていた。

けれどその間他の男子には目もくれなかった・・・。

志摩子さんに出逢って世界がこんなにも一変するなんて、思ってもみなかった。

「乃梨子・・・これは一体何に使うのかしら?」

「ああ、それはストックと言ってですね、スキーをするのに使うんですが・・・志摩子さんはレンタルされるんでしょう?

それならこれは向こうで貸してもらえますから必要ありませんよ」

「あら、そうなの?てっきり私これは・・・ふふふ」

志摩子さんはストックをしげしげと眺めながら何やら笑っている。一体何を想像したのだろう・・・。

「・・・なんです?なんだと思ったんですか?」

「いえね、てっきりこれはほら、ゴルフクラブの仲間かと・・・」

「・・・・・・・・・」

いや・・・いやいや・・・それには見えないよ、志摩子さん・・・。

大体どこでどうやって打つのさ。しかも仲間っていうのが微妙に怪しいし。

こんな時、私はいつも志摩子さんの距離を遠くに感じてしまう。でもこれは志摩子さんには秘密だけど。

私の愛情は志摩子さんに出逢うまでは主に大仏に注がれていて、それ以外には向かなかった。

それなのに、今は大仏よりも志摩子さんへの愛情の方が重いように思う。

なんというか、こう、守ってあげたくなるのだ。志摩子さんを見ていると。

こんな気持ち・・・きっと志摩子さんは知らないんだろうなぁ・・・。

「とりあえず、志摩子さんに今必要なのはスキーウェアーと、手袋と帽子ですね。それを見に行きましょう」

「ええ、そうね。良かった、乃梨子がいてくれて」

「いえいえ。こんな事ぐらししか役に立てませんけど・・・」

「あら、そんな事ないわ!乃梨子が居てくれる事で私は随分助けられていてよ?」

「そうですか・・・?」

こうやって嬉しい事を言ってくれるのに、何故か私の心にはズドンと重いものが落ちてくる。

結局私はいつまでたっても、志摩子さんの妹でしか無いと解っているからなんだろう。

ああ・・・いけないいけない。とりあえず今は志摩子さんとの買い物に集中しなければ・・・でないとまた・・・。

「ねぇ乃梨子〜!これは何かしら?」

ほら・・・またとんでもない物を持ち出した!!

「志摩子さん・・・それはただの寝袋ですよ」

「寝袋?なんだか蓑虫みたいね・・・これはいるかしら?」

「いえ。雪山でそんなもの使ったら間違いなく次の日の朝マリア様がお迎えにこられます」

「あら・・・残念」

残念、とか言いながら志摩子さんの顔はどこか楽しそうだった。多分、今までスポーツ用品店になんて用がなかったのだろう。

目新しいものが一杯って感じだ。志摩子さんが次に手に取ったのは非常食用のフリーズされたイチゴのパックだった。

興味津々って顔でそれを見つめて、クルリとこちらを振り返る。

「ねぇ、乃梨子、これって美味しいのかしら?」

「・・・どうなんでしょうか・・・あまり美味しそうには見えませんが・・・」

完全に水分のぬけ切ったイチゴなど、果たして美味しいものなのだろうか・・・。

「これも買ってはいけないかしら?」

「いいんじゃないですか?車の中でオヤツ代わりに食べるとか・・・」

「そうね!そうしましょう!じゃあ・・・イチゴと・・・あら、カレーですって・・・」

「カ、カレーは止めときましょう!それはオヤツじゃありませんっ!!」

「そう?美味しそうなのに・・・」

志摩子さんは時としてとても面白い。でも、たまに暴走するからブレーキをかけるのも一苦労だ。

でも、こんな風にブレーキをかけられえるのはこの先ずっと私だけであってほしい。他の誰にも譲りたくないのだ。

こんな風に考えるのは間違いだとマリア様や仏様は仰るかもしれない。でも・・・これだけは譲れない。

「志摩子さん・・・そろそろウェアーを見に行きましょう」

「そうね!肝心の物をすっかり忘れるところだったわ」

志摩子さんはそう言って更に奥へと足を運んだ。

シーズン真っ只中って事もあって、スキーやスノボのコーナーが異様に広い。

志摩子さんと私は立ち止まってその量の多さに圧倒された。

「乃梨子・・・どこから見ればいいのかしら・・・」

不安そうにそう呟く志摩子さん。でも・・・ここで怯むわけにはいかない!先はまだ長いのだ!

「そうですね・・・とりあえず志摩子さんは何色が好きですか?」

「私?私はやっぱり白色が好きかしら」

でしょうね。私は志摩子さんの言葉に頷いた。志摩子さんには白が一番よく似合う。むしろ白以外ありえない。

「じゃあ白色のウェアーを探していきましょう。きっと気に入るものがありますよ、これだけあれば」

「そうね。頼もしいわ、乃梨子」

「ありがとうございます」

何だか・・・私、志摩子さんのナイトみたいになってない??ねぇ、大丈夫???

誰に聞くわけでもなく心の中でそんな突っ込みを入れつつ、白いウェアーを探す。

すると・・・あるわあるわ・・・真っ白なのが一杯・・・。

「デザインとかは・・・」

「出来るだけシンプルな方が・・・」

「そうですよね。あっ・・・これなんてどうです?帽子も手袋もセットになってますよ!」

「あら本当。こんなのもあるのね。どうかしら?私に似合うかしら?」

そう言って志摩子さんはコートの上から真っ白のウェアーを合わせた。

「ええ、凄く似合ってますよ!」

ほんと・・・恐ろしいくらいに・・・私はそう言いそうになるのをぐっと堪えた。だって、本当に物凄く似合っていて・・・。

結局他のどれよりもそのシンプルなウェアーが志摩子さんには一番よく似合っていた。

私がそう言うと志摩子さんは少し笑って、じゃあこれにしましょ、とレジに向かった。

いいのかな・・・こんなにも簡単に決めてしまって・・・。志摩子さんにそう言うと、志摩子さんは笑った。

「だって、これが一番私に似合うと乃梨子は思ってくれたんでしょ?なら問題ないじゃない」

それって・・・そんな事言われたら私は・・・。

「・・・期待しちゃうじゃないですか・・・」

顔を真っ赤にしてボソリと呟いた私の声は、志摩子さんには届かなかった・・・。

真っ白なスキーウェアーと同じぐらい、志摩子さんはきっと白いんだ。だからこんな私の想いはきっと、届かない。






第二十五話『バス!ガス!爆発!!』




いーやーだーーーー!!!降ろしてーーーーーー!!!!

私は心の中でそう叫んだ。でももう高速道路に乗ってしまっている。絶対に降りられそうに・・・ない。

まさかこんなにも・・・こんなにも・・・祐巳ちゃんが運転下手くそだったなんて!!!

私はシートベルトがしっかり締まっているかを何度も何度も確認した。

で、肝心の運転手は・・・顔が真っ青だ。多分運転するのも久しぶりなのだろう。額にはうっすら汗まで滲んでいる。

「せ、聖さま!あ、汗がっっ!!」

「は、はいよ!!」

私はそう言って緊急オペさながらに持っていたハンカチで祐巳ちゃんの額の汗を拭った。

ていうか、どうしてこの子に運転させる羽目になったのよ!!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それは二時間前の出来事だった。最初はお姉さまが運転して一人一人をワゴン車で拾って、高速道路に乗ったのだ。

そこまでは良かった。そこまでは。ところが・・・。

「ねー、私もう疲れちゃったー。誰か運転代わってーー」

お姉さまはそう言って助手席にいる私に向かって言った。いや!こっち見なくていいから!!前見て、前っっ!!

そんな私の祈りが通じたのか、お姉さまは視線を前に戻すと、はぁ、と大きなため息を落とす。

「えっ!?も、もうですか!?」

まだ走りはじめて一時間しか走ってないのに!?そんな私の想いなんて無視してお姉さまは更に続けた。

「聖は免許持ってたわよね?」

「ええ、持ってますけど・・・私は嫌ですよ!何しろ眠いですし」

「私だって眠いのーー。誰か起きてないの〜?」

まぁわからないでもないけどね。まだ深夜4時だし・・・。でも、こんな真っ暗な道を眠いのに運転するのは無謀というものだ。

そんな事ぐらい私にも分かっている。私はチラリと後ろを見て、呆気に取られた。皆・・・寝てるじゃない・・・。

「お姉さま・・・残念ですけど皆寝てますよ・・・」

「じゃあやっぱり聖が運転してーー」

「えー・・・あ!祐巳ちゃん!良かった、祐巳ちゃん起きてたんだ!!」

私がもう一度振り返ると、ばっちり祐巳ちゃんと視線が合った。

ところが・・・祐巳ちゃんはビクンと肩を震わして私から視線を逸らしたのだ。

「祐巳ちゃん?祐巳ちゃんは免許持ってたよね?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「祐巳ちゃんっ!?」

「スー・・・スー・・・」

「・・・狸寝入りなんてしても無駄だってば。今思いっきり目合ったでしょ?」

私はそんな祐巳ちゃんがおかしくて思わず笑った。お姉さまも隣で笑っている。

祐巳ちゃんはようやく観念したようにチラリとこちらを見ると、少々緊張した面持ちで言った。

「・・・持ってますけど・・・どうなっても・・・知りませんよ・・・?」

「ど、どういう意味?」

「別に・・・そのまんまです・・・」

思わず私は今から怪談話でも始まるのかと思った。それだけ祐巳ちゃんの声は低く、恨めしそうだったのだ。

「だ、大丈夫だって。隣に私もいるからそんな滅多な事にはならないって!ね?お願い!!」

ここまで頼んでるんだ・・・お願いだよ祐巳ちゃん・・・私もう眠くて・・・。

私は欠伸が出そうなのを必死に堪えながら両手を顔の前でパンと合わせた。

「祐巳ちゃん、私からもお願いよ・・・もう眠くて車線も見えなくなりそうなのよ」

「「えっ!?」」

「ていうのは冗談だけど・・・近いうちそうなりそうな予感はする」

おいおいおい・・・どうしてしっかり寝てこないんだよ、この言いだしっぺは!!

私はふつふつと湧き上がる怒りを押し殺し、祐巳ちゃんに言った。

祐巳ちゃんの顔は暗くてよく見えないけれど、きっと顔面蒼白って感じだろう。

「ね?お姉さまこんな事言ってるから・・・祐巳ちゃんお願い出来ないかな?私もそろそろ限界っぽいし・・・」

「うぅ・・・わかりました・・・本当に・・・ほんっとうにいいんですね?どうなっても知りませんからねっっ!?」

「うん!大丈夫大丈夫!ちょっと暗いだけだし!!」

「・・・それがヤなんですよ!!」

祐巳ちゃんはそう言って渋々承知してくれた。お姉さまが道路の脇に車を止め、祐巳ちゃんと運転を交代する。

私はといえば、相変わらず助手席のままだ。やがて・・・ゆっくりと車は走り出した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして今に至る・・・というわけだ。まぁ、祐巳ちゃんが運転する羽目になった経緯は大体こんなもん。

でも・・・本当の恐怖はそれからだった。

「ゆ、祐巳ちゃんっっ!!み、水・・・水が出てる!!!」

「えっ!?ど、どれで止めるんですかーーー!?」

「そ、それじゃない!!それはウィンカーだってば!!早く切って!!」

「きゃあぁーーーもう嫌ぁぁ」

祐巳ちゃんはそう言ってあろうことかハンドルから手を離し両手で顔を覆った。

ぎゃーーーーーーー!!!ハンドルから手を離すなーーーーーっっ!!!

私は慌ててハンドルを押さえると、かろうじて中央分離帯に突っ込むのを免れた。そして思う。今が夜中で本当に良かった・・・。

もしこれが昼間で交通量が多かったら・・・間違いなく皆仲良くご臨終だ。

「祐巳ちゃん・・・どうやって免許取ったのよ?教官を脅したの?」

「しっ、失礼な!!ちゃんと取りましたよ!!3回ほど落ちましたけど・・・」

「三回も!?どうしてその時免許取るの辞めなかったの!!」

私が少し声を荒げると、祐巳ちゃんは鼻声でボソリと言った。

「だって・・・だって、運転したかったんですもん・・・」

と。

その前によく家族に止められなかったもんだ。どうやって親を説得出来たのか、それが知りたい!

「聖さま・・・あれって・・・サービスエリア・・・ですよね?」

「んぁ?・・・ああ、そうだね。ちょっと入って休憩しようか」

私の言葉に、祐巳ちゃんは頷いた。頷いた・・・のに。

おいこら、ちょっと??どこ行くの??祐巳ちゃん????

「ゆ、祐巳ちゃん・・・?入らない・・・の?」

「そ、そうしたいのは山々なんですが・・・ウィンカーが・・・ウィンカーが・・・」

「は!?」

「どれかわかんないんですっっ!!!」

「あーーーー・・・・」

過ぎちゃった・・・サービスエリア・・・つうか、さっきウィンカー出してたじゃない!!どうして肝心な時に出せないのよ!!

しかもウィンカー一つ出せないのに、どうやって免許取ったのよ!!!

「もう!もう!もう!!!どうしてくれるんですかーーー」

「ちょ、私のせいなの?ねぇ、そうなの!?」

「だって・・・聖さまが横からごちゃごちゃごちゃごちゃー」

もう祐巳ちゃんは半泣き状態だ。むしろ泣きたいのは私の方だと言うのに・・・。私はもう黙っている事にした。

心の中で念仏でも唱えていれば、きっと神様が助けてくれるはずだ。

ところが・・・しばらくすると祐巳ちゃんが口を開いた。

「あの・・・聖さま?寝ちゃいました?」

・ ・・寝れるわけがない・・・こんなにも怖い運転手生まれて初めて会ったわよ!!

「いいや?何?」

「お、怒ってます・・・よね?やっぱり・・・」

「いいや。怒ってはないよ」

怒りよりも不安なのだ。この先何があるのかと思うとヒヤヒヤして・・・。

「あの・・・ごめんなさい・・・さっきは酷いこと言っちゃって・・・そのうるさくなんかないですから・・・。

もっとバンバン喋ってください・・・でないと私・・・」

「眠くなる?」

「うぅ・・・はい、その通りです・・・」

「・・・いいよ。付き合ってあげるから、とりあえず次のサービスエリアで止まる事!いい?」

「は、はい・・・がんばります・・・」

「よろしい」

それから私達は他愛もない話で盛り上がった。いや・・・無理やり盛り上げた。途中何度か祐巳ちゃんの汗を拭きながら。

しばらくして、緩いカーブに差し掛かった。

「祐巳ちゃん!前!カーブカーブ!!」

私は咄嗟に祐巳ちゃんのハンドルを持つ手に自分の手を重ねた。

「ひゃぁっ!」

突然、祐巳ちゃんは短く叫んで肩をピクンと震わせ、戸惑ったみたいに一瞬こちらを見た。

ツインテールがふわりと揺れて、また肩に落ちる。

「な、何!?」

び、ビックリさせないでよ!!ていうか・・・どうしてそんな真っ赤なのよ・・・。

こんなにも暗いのに解るほど、祐巳ちゃんの頬は紅潮している。ど、どうして?私何かした??

ほんの少し手を重ねただけだ。それだけだ。それなのに、どうして祐巳ちゃんはそんな顔するの?

何かに怒っているのか・・・いや、違う。何かを堪えるかのように口を真一文字に結んでいる。

眉毛をキッと吊り上げ、目は潤んでいて・・・。

ちょ、ちょっと・・・そんな顔しないでよ・・・こっちまでドキドキしてくるじゃない!!

そう思った途端、胸が不意に早まってゆくのが解った。ど、どうして?どうして私こんなにドキドキしてるのよ!?

今しがた祐巳ちゃんに重ねた手の平が熱を帯びているのがわかる・・・。

な、なに・・・これ・・・顔が・・・上げられない・・・。

しばらく私達はずっと無言だった。あれほど私に喋ってくれと言っていた祐巳ちゃんも、今は無言の私を許してくれていた。

どれぐらい走っただろう・・・祐巳ちゃんがボソリとバツが悪そうに呟いた。

「・・・聖さま・・・サービスエリア・・・ありましたよ・・・」

と。私はまだ、顔が上げられないまま、小さく言った。

「うん・・・今度は・・・止まれる?」

「・・・がんばります・・・」

今度こそ止まってもらわなければならない。何としても。そして降りたら一番にお手洗いに駆け込むだろう。

何が何だか解らない感情を、どうにか押さえ込むために。

だからお願い!!今度はちゃんとウィンカー出してね、祐巳ちゃんっっ!!!





第二十六話『雪の上の一点のシミ』




雪の上では30%ほど人を美しく見せるというけれど、あながちあれは間違いではないと思う。

超がつくほどの初心者の私と志摩子さん、そして由乃さんは最初は下の方で練習してたんだけど、

後の皆はさっさと中級者コースに行ってしまった。

「私達だけだなんて・・・皆滑れたんだ・・・」

「みたいだね・・・なんか・・・切ない・・・」

「まぁまぁ、二人とも。帰るまでには少しは上手くなってるように頑張りましょ」

志摩子さんはそう言ってさっきから愚痴ばかりの私達を慰めてくれた。

それにしても・・・普段志摩子さんにべったりの乃梨子ちゃんまで皆と一緒に行ってしまうとは・・・。

実は相当楽しみにしていたのだろうか・・・。

私は聖さまの勧めでスノボを。志摩子さんは乃梨子ちゃんと一緒でスキーを。

由乃さんは令さまとは違うのがいい!と言い張ってスキーをそれぞれ選択していた。

でもこれが・・・なかなか・・・難しいのね・・・。

「ぎゃうっっ!!」

「だーいじょー・・・いやぁぁぁ!!!どいてぇぇ!!!」

「そ、そんな・・・無理よーーー」

私は由乃さんを避けようとかろうじて体を捻ったけれど、その甲斐も空しく由乃さんは真っ直ぐ私に突っ込んでくる。

「「ぎゃあぁぁぁ」」

「ふ、二人とも大丈夫!?きゃぁ!!」

その様子を見ていた志摩子さんもゆっくりとこちらにやってきて私達を助けようとしてくれたけど、

雪が板に積もって上手くいかず、結局志摩子さんまでもが私の上に倒れこんできた。

私達は団子になったまま木の傍でまごまごしていると、誰かが颯爽と上から滑り降りてきた。

「また派手にこんがらがってるね〜大丈夫?」

そう言って私に手を差し伸べてくれたのは聖さまだった。ゴーグルを左手でおでこの位置にズラし、凄く爽やかな笑顔だ。

はう・・・格好いい・・・雪に反射する太陽の光で聖さまがなんだかキラキラして見える。

「せ、聖さま・・・もう降りてきてたんですか?」

「まぁね。中級者コースぐらいならこんなもんでしょ。それよりも・・・何だか三人とも悲惨そうだね・・・」

聖さまはそう言って私の腕を掴もうとしたけれど、何故かそれを直前で止めた。

代わりに志摩子さんの手を取り立ち上がらせると、次に由乃さんを引っ張り起こした。

あ・・・あれ・・・?わ、私・・・は??ていうか、この手・・・引っ込みつかないんですけど・・・。

私はまだ伸ばしたままの手をじっと見つめた。やがて、志摩子さんと由乃さんが私を引っ張り起こしてはくれたものの、

私の中には何かがズンと重くのしかかる。

「さて、それじゃあ三人とも、どうにかあそこまで降りられる?」

聖さまはそんな私に気づかないようで、さっと麓を指差した。なんだ・・・もしかすると私の手に気づかなかっただけなのかな?

私はまるで自分に言い聞かせるみたいに、心の中でそう呟いた。

「ゆ、祐巳さん先に行って!私後からゆっくりついていくから!」

「え、ええ!?」

由乃さんに背中を軽く押され、途端に私はその気もないのに滑り出す。しかも結構なスピードで・・・。

「いやぁぁぁ!!!!!と〜め〜〜て〜〜〜〜〜」

「祐巳ちゃん、大丈夫だから!ゆっくり体を前に倒してごらん」

「む、無理ですよ!!怖くてそれどころじゃ・・・ぎゃうっっ!!!」

もう・・・もうスノボなんてだいっきらい!!!私はその場に尻もちをついて雪の上に仰向けに寝転がった。

そんな私の無様な姿を聖さまがすぐに追いついてきて、見下ろして笑っている。

「へーき?」

「う・・・まぁ・・・なんとか・・・」

「そ、なら良かった。さぁ、次は志摩子ここまで降りておいで!足はハの字ねー」

聖さまはそう言って私の横に立って志摩子さんに向かって手を振っている。

ちょっと?私の事は無視ですか?ていうか・・・もしかしてまだ車での事怒ってるのかな・・・?

あの後・・・サービスエリアについた途端、聖さまは車から逃げるようにお手洗いに駆け込んで、しばらく帰ってこなかった。

帰って来たときは何とも思わなかったんだけど、その後の車の中では始終無言で・・・少し怖かった。

どう考えても・・・私に非があるんだよね・・・きっと。

私はどうにか立ち上がると、聖さまの腕に捕まろうとして止めた。

また拒否されたら・・・そう思ったら聖さまに触れる事さえ出来なくなってしまったのだ。

「あの・・・聖さま・・・」

「ん?なぁに?」

ほんの少しだけ取り繕ったような笑顔で聖さまはこちらを向いた。やっぱり・・・私何かしたんだ・・・。

「そのぅ・・・もしかして聖さま何か怒って・・・」

私が言い終わらないうちに、聖さまの視線が私から外れた。そして上からやってきた志摩子さんに向けられたのだ。

「お!志摩子えらいじゃん!今度は転ばなかったね!」

「はい!お姉さま!」

「はい、じゃあ次は由乃ちゃんね〜。えっと・・・それで、何だったっけ、祐巳ちゃん?」

「・・・いえ・・・なんでも・・・」

そう言って私は早くその場を去りたいがために、ワザと滑り出してしまった振りをした。

こうすれば聖さまと離れられる・・・そう思ったのだ。

ところが・・・スノボって、ほんのちょっとした事でかなりスピードが出るのね・・・。

「んぎゃぁぁぁぁぁ!!!!!」

思ったよりもずっと早いスピードが出てしまい、方向転換も出来ず、真っ直ぐ木の元に突進する私。

ヤバイ!これじゃあ完全にぶつかる!!!私はもう木まであと少し!というところでギュっと目を瞑った。

ゴーーーーーーン!!!という衝撃に備え、一応頭はガードしないと!!!咄嗟にそんな考えが頭を過ぎる。

けれど、思考から体への伝達よりも早く、衝撃はやってきた。

ボスン!!・・・あ、あれ・・・?い、痛く・・・ない・・・?

次の瞬間聞こえてきた安堵のため息は私のものではなかった。

「はぁ・・・びっくりした・・・もう!気をつけなきゃダメでしょ!?」

なんと、私は宙に浮いていた。いや、正しくは聖さまに抱きかかえられていたのだ。木は後数メートルほどの所にある。

どうやら聖さまは私が勝手に滑り出して木にぶつかりそうになっていたのを助けに来てくれたらしい。

「あ、ありがとう・・・ございます・・・」

もしあのまま木と正面衝突していたら・・・私はそんな事を考えて、突然怖くなってきた。

足や手が小刻みに震える。聖さまはそんな私をゆっくり雪の上に降ろし、耳元で囁いた。

「大丈夫だよ、もう大丈夫だから。私に捕まっていればいいから・・・ね?」

聖さまはまだ震えのおさまらない私に、スッと自分の腕を差し出す。

私はその腕をじっと眺め、次に聖さまを見上げ、胸が痛んだ。

下らない私の妄想で、聖さまを振り回したのだということに気づいたのだ。

私・・・何やってるんだろ・・・。下手をすれば聖さまも私も助からなかったかもしれないのに・・・。

慰めてもらえるような立場ではないのに・・・。あ・・・ダメだ・・・泣きそう・・・。

私の目が潤んでいるのに気づいた聖さまは、何も言わずそっと私の腰に手を回し、しっかりと支えてくれた。

止めて・・・お願いだから・・・そんなに・・・優しくしないで・・・。

ほんの少しの嬉しいと思う気持ちと、大半の申し訳なさが余計に涙を煽る。

「・・・聖さま・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」

もう何に対して謝っているのかも解らない。けれど、どれほど謝っても、少しも気持ちは晴れそうに無かった。

「いいよ。怪我が無かったんなら、それでいい」

ぶっきらぼうにそういう聖さまの横顔が、とても綺麗に見える。それに比べて私ときたら・・・。

落とした涙が真っ白のゲレンデに灰色のシミを作った。






第二十七話『スキー場の正しい楽しみ方』





スキー場で何が一番楽しいかって言えば、そりゃお昼ご飯でしょう!

そう言ったら珍しく由乃が賛成してくれた。なんでもこの寒い中でどうしてもラーメンが食べたかったのだとか。

スキー場の麓にあるレストランは一杯だったため、山の中腹ぐらいにある小さなレストランに入る事になった。

そのレストランはリフトで上らなければならないため、初心者の三人は相当嫌がっていたけれど、

あそこのラーメン美味しいらしいよ?と聖さまが一言言っただけで三人ともすっかりその気になっていたから、

流石聖さまだと、心の中で思った。私にもどうにかして由乃を上手く操縦する方法を伝授してもらいたいものだ。

最近の由乃ときたら本当に反抗期で私の言うことを何一つ聞いてくれない。

そどころか、必ずその逆をしてくれるものだからたまったものではない。

小さなレストランにようやくのことでたどり着くと(ここに来るまでにもいろいろとあったのだ)、流石に全員では座れないので、

三つのテーブルに別れることになった。

一つ目のテーブルには蓉子様と祥子とカメラちゃん。二つ目のテーブルには志摩子とSRGと何故かお姉さまと静。

そして三つ目にはこれまた何故か聖さまと私と由乃と祐巳ちゃんだった。

まぁ、それもこれも由乃がどうしても祐巳さんと座る!といってきかなかったからなんだけど。

でも、そういえば祐巳ちゃんとはあまり話した事がないから、ちょうどいい機会かもしれない、と思って由乃の提案を呑んだ。

「祐巳ちゃんはどれにする?」

私はそう言って祐巳ちゃんにメニューを手渡した。本当は聖さまに一番に見せるべきだったのかもしれないけれど、

もう見せてしまった後ではしょうがない。祐巳ちゃんは真剣にメニューを見ながら、表情をコロコロと変えていた。

なるほど!お姉さまが面白いと言っていたのも頷ける。

「えっと・・・私は・・・それじゃあコレで!聖さまは?」

「そうねー・・・別に何でもいいんだけど・・・祐巳ちゃん何にしたの?」

聖さまはめんどくさそうにメニューにチラリと視線を移しただけで、またフイと外に目を向けてしまった。

そして祐巳ちゃんに自分のメニューも決めてくれといわんばかりの態度だ。

こんな聖さまは初めて見るかもしれない。いつもなら率先して自分のメニューを選ぶのに・・・。

「私ですか?私はこの熊殺しラーメンっていうのを・・・」

「・・・熊殺しって・・・またすんごいの選んだね・・・じゃあ私も同じので」

結局聖さまは祐巳ちゃんと同じものにした。そして私は最後に由乃に聞いた。

・・・良かった・・・後回しにした事大して怒ってないみたい。

「分かりました、じゃあ由乃は・・・」

「私はこれ!!」

「はいはい。それじゃあ食券買ってくるからね」

「「「はーい」」」

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

食券を買って席に帰ると、祐巳ちゃんが居なかった。どうやら皆の分のお水を取りに行ってくれたらしい。

「祐巳ちゃん・・・一人で持てるのかな・・・」

聖さまはポツリとそう呟くと、お水のコーナーの方を心配そうに見つめながら言った。

「大丈夫でしょう、きっと。四つなら何とか持てると思いますし・・・」

「そうかな・・・だって、祐巳ちゃんだよ?」

聖さまはそう言ってなおも心配そうな視線を泳がせた。そして、やっぱり心配になったのだろう。

スックと席を立ち、祐巳ちゃんの後を追って行ってしまう。

「聖さまって・・・あんなに面倒見良かったっけ?令ちゃん」

「う〜ん・・・どうだろ。聖さまの事って私もよくは知らないし・・・」

由乃は不思議そうに首を傾げて、何か考え込んでいる。こんな時の由乃は邪魔をすると怖いからそっとしておくに限る。

しばらくして、二人がようやく帰ってきた。聖さまが二つ、祐巳ちゃんが二つづつコップを持っている。

「助かりました、一人では持てなくてどうしようかと思ってたんですよ〜」

「でしょ?そう思ったんだよね」

祐巳ちゃんは席につくなり私と由乃の前に一つづつコップを置きながらそう言った。

どことなく祐巳ちゃんの頬が赤くなってるように見えるのは、きっと寒さのせいだろう。・・・か?

・ ・・しかしなぁ・・・このメンバーで一体何を話せというのか・・・。

私は恨みがましく由乃を見たけれど、当の本人は全く私の視線に気づいてなどいなかった。

聖さまは聖さまでさっきからずっと外ばっかり見てるし、祐巳ちゃんはちょっと居心地が悪そう。

「そういえば・・・聖さまにはまだ話してませんでしたよね?」

由乃はメニューを丸めて遊ぶのを止めて、おもむろに聖さまに言った。

「何が?」

聖さまも由乃の声にようやく外ばかり見るのを止めて由乃を見る。

「聖さまは私が今まで見る限りじゃ本当にたくさんの方とお付き合いしてたじゃないですか?」

よ、由乃っ!?一体何を言い出すのかと思えば!!そんな事いきなり聖さまに聞いたら失礼じゃない!!

で、でも・・・私もちょっと聞きたいけど・・・。でも!ダメダメ!!そんなプライベートの事は!!

「由乃!突然何言い出すのかと思ったら!!いい加減にしなさいってば」

「あら、令ちゃんだって本当は聞きたいくせに!」

「う・・・そ、それは・・・」

ど、ど、どうしよう・・・聖さまの反応が怖くてまともに聖さまの顔見れないじゃない!!

そんな私達の反応に、聖さまはクスリと小さな笑い声を漏らした。ホッ・・・良かった・・・怒ってはないみたい・・・。

「なぁに?何がいいたいの?」

「えっとですね。その人たちの事全員が好きだったんですか?それとも・・・」

由乃はそこまで言って口を噤んだ。そうそう!その先が聞きたい!!是非ともっっ!!

「それとも何?ただの遊びだったのかって?」

「・・・まぁ・・そういう事です・・・良かったら教えてもらえません?」

「別にいいけど・・・どうしてそんな事突然聞くの?」

「それはですねー。ここに居る祐巳さんが今まで一度も恋をした事が無いそうなんで、

是非とも伝授してやって欲しいな、と思いまして」

ゆ、祐巳ちゃんの話をここで出すの!?それってちょっとどうかと思うんだけど・・・。

私はチラリと祐巳ちゃんを見て、ああやっぱり・・・、と思った。案の定祐巳ちゃんは目を白黒させている。

ごめんね、祐巳ちゃん・・・由乃って本当にいっつも・・・。

私は心の中で祐巳ちゃんに何度も何度も頭を下げた。多分これっぽっちも伝わってないだろうけど。

一方聖さまはシゲシゲと隣のすっかり縮こまってしまった祐巳ちゃんを見て、ニヤリと笑っている。

こ、この顔は・・・絶対に何か良くない事を考えている顔だ・・・。

「へぇ〜そうなんだ。祐巳ちゃん今まで恋した事ないんだぁ〜。ふ〜ん。へ〜」

「な、なんなんですか!!べ、別にいいじゃないですか!!そんなに珍しい事じゃないでしょう!?」

おお!祐巳ちゃんが言い返した!!強くなったねぇ、祐巳ちゃん・・・。

でも聖さまはそんな攻撃じゃ怯まないと思うなぁ・・・。案の定聖さまはまだニヤニヤしている。

そして由乃の顔を見てニッコリと微笑む。

「まぁ、そういう事なら話してあげないでもないけど・・・でも・・・私の意見なんか役に立つかなぁ」

「大丈夫ですよ!経験豊富な聖さまの意見なら!ねっ、祐巳さん!!」

いや・・・ねっ!て言われても祐巳ちゃん困るだけだと思うよ?

「よ、由乃さん!!私の話はもういいから!!何か別の・・・ほら、メニューの話でもしようよ!!」

そ、それは苦しいって、祐巳ちゃん・・・。もう何だか祐巳ちゃんがいたたまれなくなってくる。

でもいくら由乃に目で合図しても、由乃は絶対分かっちゃくれないし・・・どうすれば・・・。

「まぁまぁ、祐巳ちゃん。私の話で良かったらいくらでもしてあげるから」

「い、いりませんよ!!聖さまの話なんて!!」

「あれ〜?そうなの〜?でもそれじゃあ祐巳ちゃんこれから困るんじゃない?仮にも保健医でしょ?

生徒に恋の相談とか持ちかけられたら・・・どうやって対処するの?」

クスリと笑う聖さまの横顔は、憎たらしいぐらいに輝いている。きっと楽しくてしょうがないのだ。

でもそれもこれも全部・・・よ〜し〜の〜〜〜〜!!!

私は由乃を軽く睨みつけると、祐巳ちゃんに同情の目を向けた。だって、もう見てられなかったから。

「由乃、いい加減にしなよ。もう十分でしょ?祐巳ちゃん困ってるじゃない!」

「何よー祐巳さんの肩ばっかり持っちゃってさ。令ちゃんはいっつもいい子ぶろうとするんだから!!」

いい子ぶるって・・・それはいつも由乃が余計な事するからでしょー?と、どれほど声に出したかったか!

でも・・・ここは我慢我慢・・・我慢だ、令!!

「聖さまも、もういい加減にしておいてあげてくださいよ」

「ちぇー、楽しかったのにー」

「祐巳ちゃん、ごめんね?由乃が余計な事言ったばっかりに・・・」

私はそっと祐巳ちゃんの肩に手をかけ、励ました。すると祐巳ちゃんも涙目で首を振った。

あぁ・・・いい子だなぁ・・・こんな妹だったらこんなに苦労する事無かったんだろうなぁ・・・。

私は、はぁ・・・と大きなため息を落とし、チラリと不貞腐れている二人を見た。

「祐巳ちゃん、お詫びと言ってはなんだけど、ご飯食べ終わったらスノボ教えてあげるよ」

「えっ!?い、いいんですか!?」

パァっと顔を輝かせた祐巳ちゃん。そしてそれを聞いて驚いた・・・いや、違うな。

明らかに動揺する聖さまと由乃。

どうして聖さままでもがこんな顔をするのかは分からなかったけれど、由乃にとってはたまにはいい薬になるだろう。

「私でよければ、の話だけど」

私はそう付け加えて祐巳ちゃんの反応を待った。すると祐巳ちゃんは・・・さっきよりもずっと顔を輝かせてにっこりと笑う。

「もちろんです!!良かった・・・いいコーチが見つかって!!由乃さん、令さまを少しだけ貸してね?」

「え、ええ・・・もちろんよ・・・いくらでも・・・むしろこき使ってやってちょうだい!」

「うん、ありがとう!それじゃあ令さま・・・えと・・・よろしくお願いしますっ!」

「こちらこそ、よろしく。至らない所とかあると思うけど」

「令根性あるねー。祐巳ちゃんに教えようだなんて。多分明日筋肉痛で動けないよ?」

聖さまはそう言って笑顔を見せたけれど、その笑顔はどこか寂しそうで。

「ははは、覚悟しときます」

「そ、そんなに下手くそじゃありませんよ!!」

「どうかな〜?だって祐巳ちゃんだよ?あぁ〜楽しかった。ここ暑いからちょっと外行ってくる」

そう言って聖さまは私達を残し席を立った。

祐巳ちゃんは聖さまが外に出るまでずっと、聖さまの背中を切なそうに見つめていた。

あれ・・・?これってもしかして・・・?私がそう思ったのも束の間、しばらくむくれていた祐巳ちゃんは、

すぐに機嫌をなおし既に由乃とおしゃべりに夢中になっている・・・。

そして聖さまは・・・ラーメンが来てもまだ、外から戻ってはこなかった。





第二十八話『恋かどうかも・・・』




ラーメンは・・・さほど美味しくなかった。ていうか、味がしなかった。でも、祐巳ちゃんは喜んで食べてた。

何度も何度も美味しい美味しいと言って。私はそんな祐巳ちゃんがラーメンを一生懸命すするのをずっと見ていた。

ああ・・・思った通り、やっぱりラーメン食べるの下手だなぁ・・・なんて、そんな事考えながら。

ていうか、多分すするのが下手なんじゃないだろうか。ラーメンに四苦八苦している祐巳ちゃんを見て、

心のどこかで可愛いな、なんて思う自分に、何よりも私が一番驚いた。

だからさっき、令の一言に小さな違和感を感じたのは・・・しょうがないから大人しく認める。

でも、それが恋かどうか?なんて聞かれたら・・・それは分からない。ただ、そうだ、ほら!

よくペットとかに抱く感情に似てるかもしれない。私以外に懐かないでよ!みたいな、そんな感情に。

そうはいっても、祐巳ちゃんは人間だ。それはよく分かってる。分かってるけど・・・。

「聖、どうかしたの?そんなに初心者コースが気になるの?」

「べ、別に?それよりそっちこそどうしてこんな所に居るのよ?」

突然背後に現れた江利子に、私は尋ねた。

ついさっき蓉子たちと上に登っていったくせに、いつの間にここまで下りて来たんだ?

「私は・・・ほら、アレ」

江利子はそう言って初心者コースで仲良さげに手を取り合って練習しているカップル・・・もとい、令と祐巳ちゃんを指差した。

「仲いいなぁ、と思って。ここは雪山だし・・・雪山といえばロマンスじゃない?何か無いかしら、と思って」

「ロ!?」

ロマンス!?あの二人が!!??私はもう一度令と祐巳ちゃんを見た。

うすうす感づいてはいたけれど、あの二人以外に気が合うようで、さっきから何だか物凄く楽しそう。

「でも、令には由乃ちゃんが居るじゃない」

負け惜しみ。そんな訳ない、とどこかでそう言い聞かせている自分は、一体なんなのだろう?

「由乃ちゃんは乃梨子ちゃんと志摩子と三人で楽しそうだもの。ほら、今は雪だるまなんて作ってる」

江利子の言うとおりだった。

令が祐巳ちゃんの練習に付き合うと言った時、一番反対しそうな由乃ちゃんが反対しなかったのだ。

こんなにもモヤモヤした気分で雪山に居るのは、多分私だけだろう。

「ほんとだ・・・私も混ぜてもらおうかな」

私がそう言うと、江利子が少し笑った。

「そうすればもっと近くであの二人を監視出来るから?」

「なっ!!」

「確かに、ここでそうやって立ってるあなたは嫌でも目立つし、かなり不気味よ。いっそあっちのチームに混ぜてもらえば?」

そういって江利子は令と祐巳ちゃんの方を指差し、去って行ってしまった。

「私が?あそこに?」

冗談じゃない!私はスノボをやりに来たんだ。あんな下手くそに付き合いに来た訳じゃないんだから。

心の中でそんな言い訳をしながら、私は志摩子たちのいる麓へと向かった。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「寒い・・・」

「そうですね、ちょっと体を動かした方がいいかもしれません」

「う、うん・・・賛成・・・」

私と志摩子、そして由乃ちゃんに乃梨子ちゃんはお互いの顔を見合わせてうんうんと頷いた。

結局、私はこの三人と一緒にあれからずっと雪だるまを作っていた。半ばヤケになっていたといってもいい。

もう足元には雪だるまの大きいのやら小さいのがゴロゴロしている。これは言わば、私の嫉妬の塊なのだ。愛犬に対する。

そして肝心のあの二人はといえば、今は麓の小さな喫茶店で楽しそうに談笑していた。

「私達もあそこにお邪魔しませんか?」

そう言ったのは乃梨子ちゃんだった。よし!でかした!!

「そうだねー。恐ろしく寒いしね」

「さ、さんせ〜い」

由乃ちゃんはガタガタしながらもうすでに喫茶店へと向かっていた。

でも私は知ってる。本当は由乃ちゃんもあの二人が気になってる事ぐらい。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

喫茶店の中は本当に暖かくて、雰囲気もすごく良かった。

私達は令と祐巳ちゃんの席まで行くと、事情をすっかり話し仲間に入れてもらった。

「あ、祐巳ちゃん砂糖いる?」

「あ、はい、ありがとうございます!」

隣で何やら楽しそうにコーヒーとカフェオレをすする令と祐巳ちゃん。

そして令は祐巳ちゃんの事をさっきからしきりに褒めている。姿勢がいい、だの、センスはある、だの。

そんな令の言葉に祐巳ちゃんは嬉しそうに頬を赤らめて・・・何よ、コイツら。

「聖さまは何にしますー?」

「あー・・・コーヒーで」

「了解です!」

「聖さまって・・・いつもコーヒーですよね?」

私の想いが通じたのか、突然愛犬が・・・いやいや違う。祐巳ちゃんが私に話を振ってきた。

「まぁ、だいたいは」

「じゃあ朝もやっぱりコーヒーですか?」

「まぁ・・・そうねぇ。どうして?」

「いえ・・・似合いますよね、コーヒー!」

「そ、そう?」

誰でも似合うんじゃない?別に私に限らずさ。私がそんな事を考えていたのも束の間、祐巳ちゃんは言った。

「でも、令さまも似合いますね、コーヒーが」

「ええ〜?そうかな〜?祐巳ちゃんはカフェオレとかココアって感じだね」

おいおいおい。話もってかれちゃったよ・・・何いまの。私はただの枕詞だったってこと?

そしてまた二人で盛り上がり・・・私と由乃ちゃんはそれをヤキモキしながら聞いていた。

だって、志摩子と乃梨子ちゃんは完全に二人だけの世界って感じだし。とても割っては入れそうにない。

「それより祐巳ちゃん、少しは上達した?」

私は強引に話を戻そうと試みた。飼い主だって、黙っていてはいけないのだと分かったのだ。

「ええ!祐巳ちゃんはすごく筋はいいんですよ!」

令・・・あんたには聞いてないって・・・。私はたしなめるように令を睨み、もう一度祐巳ちゃんを見た。

祐巳ちゃんはモジモジしながらチラリと私を見て、ただ微笑んだだけだった。

その笑顔が一体何を意味するのかは分からなかった。残念ながら。でも、それは・・・間違いなく恋する少女の顔で・・・。

「そう。やっぱりコーチがいいと祐巳ちゃんでもちゃんとすべれるようになるんだね〜」

そしていつものように振舞う私・・・これじゃあまるで道化師だ。嫌味とか言いたい訳じゃないのに。

本当は素直に喜んでやれば祐巳ちゃんだって悪い気はしないだろうに。

案の定祐巳ちゃんはフイとそっぽを向いてしまった。そして今度は由乃ちゃんと楽しく話している。

だって、祐巳ちゃんは私にはそんな顔しないじゃない!だから私だって・・・。

なんて、いくらそんな事言っても、悪いのは私なんだけど。あの車の中で見た祐巳ちゃんの顔が、私には忘れられなくて。

ヤバイと思ったらすぐに防護策を取ってしまう私は、結局栞の時から何も進歩していないのだ。

「まぁでも・・・良かったね、祐巳ちゃん。少しは滑れるようになって」

私にはそう言うのが精一杯だった。そんな私の言葉に、祐巳ちゃんは私をマジマジと見て言った。

「はい!自分でもビックリです!」

と。キラキラした笑顔で。その答えに令も嬉しそうに頷いている・・・。

もともと、その役目は私のものだったのに。でも今更そんな事言ってももう遅い。その権利を手放したのは私自身なのだから。

しょうがない。私の権利を自力で取り戻すか。

「それじゃあ祐巳ちゃん。明日は私がコーチしてあげよう」

「え、えー・・・・?」

「何、嫌なの?」

「いえ、そういう訳じゃありませんけど・・・一体どういう風の吹き回しですか?」

「・・・そんな事言うならもう教えてやんない!!」

「じょ、冗談ですよ!!ありがとうございます!よろしくお願いします」

「よろしい。私は厳しいからね。覚悟してなさい」

そう・・・覚悟してるといい。私をこんなにもモヤモヤさせた罰を受けるといい。

恋ではないけれど、恋に似た感情を味あわせてくれた罰を!







第二十九話『夜のテラスで・・・パヤパヤ!?』




SRGが予約してくれた部屋は大部屋一つで、皆で楽しく出来るように、との配慮だった。

まぁ、多分そっちの方が安かったんでしょ、という聖さまの意見もありうるんだけど。

旅館で休憩する間もなく皆で大浴場に向かった。何しろ皆結構遅くまで滑ってたもんだから汗だくだったのだ。

それにしてもスキーやスノボのブーツって・・・どうしてあんなに重いの!?信じられない!!

おまけに歩きにくいし・・・脱ぐとなんともいえない開放感に、皆ホッとした顔をしていた。

温泉に入って一番に目がいくのは、やっぱり聖さまな訳で・・・。

「ねぇねぇ、祐巳さん!聖さまってやっぱり色素薄いよね〜」

隣で体を洗っていた由乃さんが、みっつほど向こうで頭を洗っている聖さまの姿をうっとりするように見つめながら言った。

「う、うん・・・う、羨ましいよね」

「祐巳さんってば、なにどもってんのよ・・・いやらし〜い!!」

「ち、ちがっっ!!そうじゃなくて!!!」

私は必死になって言い訳を考えたけど、やっぱり私も見惚れてた訳だから何も言えなくて結局否定できなかった。

真っ赤になって俯く私に、由乃さんは嬉しそうに笑ってからかう。

「なぁに?お二人さん、随分楽しそうじゃない」

「あ、聖さま!聞いてくださいよ〜祐巳さんってば、今聖さまをね・・・」

「ストップーーーーー!!!由乃さん?それ以上は言わなくていいから!!」

私は慌てて由乃さんの口を押さえ、何とか黙らせた。

聖さまは怪訝な顔をしてこちらを窺っていたけれど、やがて諦めたように湯船に向かっていってしまった。

「っぷはっ!!ぺっ、ぺっ・・・もう!何するのよ、祐巳さん!!石鹸が口に入っちゃったじゃない・・・うぇー」

「ごめんごめん。でも由乃さんが悪いんじゃない!」

「まぁまぁ。でもほんと、皆綺麗だよね・・・はぁ・・・」

由乃さんはそう言って周りを見渡して、自分の胸元を見るなり大きなため息を漏らした。

うんうん。わかるわかる、その気持ち・・・皆・・・胸・・・おっきいよね・・・。

私も一緒になって自分の胸元を見て大きなため息を落とした。そんな私を見て、由乃さんはニヤリと笑う。

「まぁでも・・・祐巳さんとはトントンかなぁ〜?」

「ぎゃうっっ!!!な、ど、どこ触って・・・や、やだ!くすぐったいってば!!」

いきなり由乃さんは私を背後から抱きしめて、なんと胸を触り始めたのだ!!

つうか、背中に胸・・・当たってるんですけどっっ!

「ほら!ね?やっぱり同じぐらいじゃない?」

「なっ!そ、そんな事ないもんっっ!!」

私の方がちょっとだけおっきいよ!!ほんのちょっとだけど!私はまだ抱きついている由乃さんを振り払おうと必死になった。

そしてふと我に返ると・・・この状況って・・・。

突然由乃さんが背中からはがれた・・・というよりは、何だか無理やりはがされたって感じだったけど。

恐る恐る振り返ると、そこには由乃さんを羽交い絞めにして立っている聖さま・・・そして一言。

「・・・あのさぁ・・・二人とも仲いいのは分かったけどそれぐらいにしておいたら?ほら、周り見てみ?」

聖さまにそう言われて周りを見渡すと、皆目を皿のように丸くしてこちらを見ている。

私は真っ赤になって俯くと、慌てて体についた泡を洗い落とし、出来るだけ皆よりも離れようと露天風呂に向かった。

由乃さんは・・・未だ聖さまに捕まったまま大人しくしている。

けれど・・・聖さまってば、あんなにも由乃さんにくっつかなくてもいいじゃない!!

モヤっとしたものが胸を締め付ける。あーあ・・・恋ってほんと・・・疲れるなぁ・・・。

こんな事にいちいち焼きもち妬いてさ。何が変わるわけでもないのにさ・・・。

しばらく私は恋についてあれこれ考えていた。

すると、ようやく由乃さんを離した聖さまがやってきて、当然のように私の隣に腰を下ろす。

濡れた髪が白い首筋に張り付いていて、蒸気した頬が凄く・・・その・・・色っぽい。って・・・私は変態かっっ!!

「あっついねー。ここのお湯」

「そ、そうですね・・・でも、ここはちょうどいいですよ」

「うん、そうだね」

「そ、そうです・・・よ」

ダメだーーー!!まともに会話が出来てないっっ!!

「祐巳ちゃんはさー、今日楽しかった?」

「へ?え、ええ・・・楽しかったですけど?」

「そう、なら良かった」

そう言った聖さまの横顔が、何故か酷く疲れて見えた。一体何だというのだろう。

「なんなんです?急に・・・」

「べっつにー。何となく。ところで祐巳ちゃん・・・さっきの事なんだけど・・・」

「さっきの・・・?」

「うん。さっき由乃ちゃんに後ろから抱きつかれてたじゃない?あの時の声がさー・・・」

聖さまは思い出したようにクックックッと肩を震わせている。こ、声・・・?何?そんなに変な声・・・出てた?

「いやらしかったよね!もう私ドキドキしちゃったよ〜」

「はっ!?」

「いや、だから、可愛い声だね、って褒めてるの」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

いや、それ、褒めてませんから。ぜんっぜん褒めてませんから!!ていうか、もう思い出させないでよっっっ!!!

ほんと、死ぬほど恥ずかしかったんだから!!!

「さて、そろそろ出ようかな〜。晩御飯までゆっくりしたいし。祐巳ちゃんはどうする?」

「あっ、わ、私も一緒に出ます!!」

「そ?なら一緒にあがろ」

私の答えに、聖さまは満足げに微笑み言った。

「やっぱり、そうやって髪上げてる方が綺麗だよ」

・・・と。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夕食はとても豪華で、なおかつ派手だった。伊勢海老バーン!魚介類ドーン!!きのこドバーーー!!お肉ババーン!

そんな感じ。皆お酒とか飲みながらそれぞれ楽しんでいた。

それなのに、どうしてか聖さまだけはさっきからずっと浮かない顔だ。

どうしたんだろう・・・そう思うんだけど、私がそれを聞くのもなんか変だし・・・誰かに言うのもどうかと思うし。

結局何も聞けないまま夜は更け、一人、また一人とダウンしてゆく。

そのうち私も眠くなってきて・・・気がついたら皆と一緒に布団の中で眠りこけていた。

夜中に目が覚めて、隣の布団に誰もいないことに気がついた私は、皆を起こさないようゆっくりと起き上がった。

小さな豆電球一つだけが点いている部屋の中で、誰が今ここに居ないのかを探すのは、思ったよりも簡単だった。

聖さまだ。

私は上からカーディガンを羽織って、部屋に添えつけられていたテラスに音を立てないよう出てみた。

「眠れないんですか?」

背後から声をかけた私に、聖さまは驚くこともなくゆっくりと振り返り小さく笑う。

「祐巳ちゃんは随分早起きじゃない。まだ夜中の三時だよ?」

「私は・・・その・・・お手洗いに行こうかと」

苦しいかな・・・この言い訳・・・。だって、他に何も思いつかないんだもん!!

でも、聖さまはそんな私の答えなど気に留める事はなかった。

「なるほど。冷えるもんね」

「はい・・・聖さまも風邪引いちゃいますよ?」

「私はへーき。寒いのは好きだし」

いや・・・そういう問題じゃなくてさぁ・・・この寒さ尋常じゃないよ!?

カーディガンを着ていてもあまりにも寒くてブルブルするのに。

「・・・どうしたんです?夕飯の時からずっとそんな顔してましたけど・・・」

「ん?そう?祐巳ちゃんはよく見てるね。でも別にどうもしないよ、ただ眠れないだけだから」

「・・・そうですか・・・?ていうか、どれぐらい前からここに居るんです?」

「う〜ん・・・小一時間ぐらい?」

こ・・・小一時間って・・・。

「ば、ばかじゃないですかっ!?風邪どころじゃないいですよ!!下手したら死んじゃいますよ!!」

「ひどいなー。もっと優しく心配してよ」

「バカにバカって言って何が悪いんですかっっ!!とりあえず中に入りましょう!!

熱いお茶淹れますから!!ね!?」

「祐巳ちゃんっ・・・ちょっと!!」

私はそう言って苦笑いを浮かべている聖さまの腕を掴みクルリと向きを変えようとした・・・変えれたと思った。

けれど、振り返った瞬間、私は浴衣の裾を思いっきり踏んづけたのだ。ヨロリと傾く体・・・どうしよう、倒れる!!

あー・・・だから嫌だったのよ〜!!Lサイズしか無かったからしょうがなく着たけど・・・明らかに私にはおっきいんだもん!!

私は自分のドン臭さを呪った。まぁ、呪ったところでこの体勢からじゃこけることは間違いないんだけど!

「危ない!!」

耳元で聖さまの切羽詰った声が聞こえてきた。あー聖さまの声・・・好きだなぁ・・・いや、そんな事言ってる場合じゃない!!

私は聖さまの声にうっとりしながら、目をギュっと瞑った。それにしても・・・今日はよくこけるなぁ・・・そんな事を考えながら。

「あ・・・あれ?」

「はぁ・・・一体何度私を驚かせたら気がすむの?」

ゆっくり目を開けた私の目の前に、聖さまの顔はあった。抱きかかえられるような体勢で、私は後ろ向きにエビゾリだ。

でも・・・そんな事よりも!!せ、聖さまのか、顔が・・・ち、ち、近い!!!

鼻と鼻がぶつかるんじゃない?っていうぐらい近くに聖さまの顔があって、私は気がついたら息を止めていた。

私は慌てて体勢を立てなおすと、カーッと熱くなる頬を思わず押さえた。もう放心状態だ。

あんなにも近くで誰かの顔など見た事は、今まで一度もない。・・・あのキスの時を除けば・・・だけど。

「す、すみませんでしたっっ!!」

「いいよもう。多分こういう運命なんでしょ。諦めるよ、私も。ほら、それより中に入ろ?熱いお茶淹れてくれるんでしょ?」

聖さまはそう言って私の背中を軽く押した。私はコクリと頷いて、まだ熱い顔を抑えながら部屋の中に入った。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

翌朝目が覚めて一番初めに目にしたのは、ニヤニヤ笑いの由乃さんの顔だった。

「お、おはよう・・・えっと・・・な、何?」

すごく嫌な予感がするんですけど・・・。私ははだけた浴衣を直しながら出来るだけ笑顔でそう言った。

すると由乃さんは、口元に手を当てて何やら赤い顔をしている。

「祐巳さん・・・昨夜聖さまとパヤパヤしてたんですって?キャー!!いっちゃった」

それだけ言って私の前から姿を消した由乃さん。ていうか・・・今何て言った??パ、パヤパヤって・・・そう言った??

部屋に残っていたのは、志摩子さんと、後乃梨子ちゃんと・・・静さま。

私はパヤパヤの意味を聞こうと志摩子さんに話すと・・・。

「ねぇ、志摩子さん・・・その・・・パヤパヤって・・・何?」

「えっ!?パ、パヤ・・・パヤ?ど、どうして?」

私の質問に志摩子さんは明らかに動揺している。な、何なの?そんなに変な意味なの!?

「よく分からないんだけど・・・昨夜私が聖さまとパヤパヤしてたんでしょ?って由乃さんが・・・」

「お、お姉さまと祐巳さんが!?そ、それは本当なんですかっ!?」

い、いや・・・だから意味が分からないんだから本当かどうか聞かれても・・・。

私が質問の返答に困っていると、志摩子さんはどうやらそれを肯定ととったらしく、

顔を真っ赤にして乃梨子ちゃんの所に行ってしまった。ちょ、ちょっと!!私の質問の答えはー?

「祐巳さま・・・その・・・本気なんですか?もしそうなら別に私は何も言いません。

ただ聖さまはその・・・ああいう人ですから、きっと後で後悔するかと・・・いえ!すみません!!出過ぎた真似をしました!!

申し訳ありません!!」

乃、乃梨子ちゃん・・・?ねぇ、皆どうしてそんなにも変な顔してるのよーっ!?

「あ、あのー・・・静さま・・・?そのぅ・・・パヤパヤって・・・」

うぅ・・・この人苦手なんだよぅ・・・何考えてるのかわかんないしさぁ・・・。

すると静さまはクスリと鼻で笑って言った。

「可愛い顔してなかなかやるじゃない。まぁ、聖さまは誰にでもああだから精々気をつけなさい」

「は、はぁ・・・」

これももしかしてリリアンの伝統なの!?もうイヤッッ!!!!

パヤパヤって・・・結局・・・なんなのよーーーーーーっっっ!!!!

私の心の叫び声は、誰にも伝わらなかった・・・。






第三十話『普通、ロッジって言ったら、する事は一つでしょ』





さ・・・寒い・・・寒すぎる・・・!!!!

私はブルブルと両腕で自分の体を抱きしめながら窓の外をチラリと見た。

外は真っ白・・・ていうか、何も見えない。そう・・・猛吹雪なのだ。

そしてここは小さな古びた山小屋・・・ちなみに一緒にいるのは・・・かなり頼りないけど祐巳ちゃんしか居ない。

どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。

ていうか、どうしてこの子といるとこんなにも次から次へと面倒に巻き込まれるのだろう!?

あの時大人しく令に祐巳ちゃんの面倒を任せていたら。

祐巳ちゃんがもう少しスノボ上手だったら、祐巳ちゃんにもう後ほんの少しだけ運動神経ってものがあったら!!

・・・こんな目にはきっと逢わなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

数時間ほど前の事だった。

昨日、明日は私が教えてあげよう!

と約束した通り私は祐巳ちゃんの練習に付き合うために楽しそうにリフトに乗り込む中級者、上級者組を見送った。

そして最初は祐巳ちゃんと志摩子、そして由乃ちゃん三人の相手をしていたんだけど、

やがて乃梨子ちゃんが志摩子とどこかへ行ってしまって、しばらくすると令もやってきて由乃ちゃんを連れて行ってしまった。

都合よく(?)祐巳ちゃんと二人きりになった私は何を話していいかも分からず、

とりあえず祐巳ちゃんのド下手くそなスノボに大人しく付き合っていた(昨日令が言ってたのは丸っきりの嘘だった!

全く、この子ときたら運動神経の欠片もないんじゃないか?と思うほどドン臭いのだから。今時幼稚園児でももっとマシだろう)。

え?どうしてこんなにも祐巳ちゃんへの言葉が辛辣だって?そりゃ私は今とんでもない事態におかれてるからに違いない!

いやいやいや、そんな事はこの際どうでもいいんだ。大事なのはこっから。

そもそも、事の始まりはそんなにも下手くそな祐巳ちゃんに私が嫌気がさしてきたというのが、多分原因なのだろう。

「ねぇ祐巳ちゃん、そろそろ次の段階に・・・行ってみる?」

「えっ!?も、もうですか!!??」

祐巳ちゃんは驚いたような顔をして私を見上げ、とんでもない!といわんばかりに両手を振った。

そりゃそうだろうね・・・だって、まだまともに滑れないもんね。

でもね、多少荒治療しないと君はいつまで経っても上達しないと思うんだ。

私は出来るだけ笑顔を作って(作れたと思うよ?多分)どうにか祐巳ちゃんを丸め込んだ。

幸いスキー場には林間コースというものがある。他のところよりは随分平坦だし、長いけれど景色もいい。

ずっと同じところを見ながら滑り続けるよりも、祐巳ちゃんにとってもいいと思った。

「だからさ、ね?行ってみよ?大丈夫、私がちゃんとついていくから」

「ほ、本当ですか・・・?絶対ですよ!?」

「分かってるってば。たまには私を信用しなさいよ」

まぁ、私なんかを信用出来ないのも分からないでもないけれど。

こうして、私達は(祐巳ちゃんにとっては初めての)リフトに乗る事になった。

「せ、せ、聖さま?こ、こ、こ、ここでいいんですよね!?」

「そうだよ」

「本当の本当にここでいいんですよねっ!?」

「そうだよっ!!もう!乗り遅れたくなかったらちょっと黙ってなよ」

祐巳ちゃんはおどおどしながら次のリフトがやってくるのを待った。ちなみに私は慣れたものだ。

そしてだんだんリフトが近づいてきて、やがて・・・膝をカクンとやられたと同時に・・・祐巳ちゃんは何故かこけて・・・。

・ ・・・・・・・・・・・・・リフトを止めた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

全く・・・恥ずかしいったらありゃしない。普通さ、降りる時に上手くいかなくて止める事はあるだろうよ。

でもね、乗るときに止めた人を見るのは・・・これが初めてだ。周りからクスクスと笑い声が聞こえる。

明らかに失笑だったんだけど、私は聞こえない振りをして祐巳ちゃんをどうにかリフトに乗せる事に成功した。

この調子だと、賭けてもいい。絶対に降りるときにもコイツはリフトを止める。

私の勘は正しかった。でも、直接リフトを止めたのはこの・・・私だ。

「聖さま・・・私・・・自信ないんですけど・・・」

「だろうね」

私はあきれ返りながらチラリと隣の祐巳ちゃんを見た。ブルブル震えて、まるで小動物のようだ。

降りる少し前まで来たとき、それまで私に触れようともしなかった祐巳ちゃんが、突然私の腕にしがみついた。

涙目で私を見上げ、どうにかして!と目で訴えてくる。が、どうしようもない。

「分かった、分かったから。いっそリフトを止めればいい。失敗しても全然大丈夫だから、ね?」

「ぅぅ・・・はぃ〜・・・」

私は祐巳ちゃんがしがみつく腕をそっと外すと、降りる準備をした。いつもならもっと楽に降りられるのに、

何故か今回は物凄く緊張する。多分、祐巳ちゃんのドキドキが移ったのだろう。

そして降りる寸前・・・私のボードが地についた瞬間・・・まさにその瞬間!

祐巳ちゃんはまだ自分の足がついてもいないのに勢いよく立ち上がり、案の定バランスを崩し・・・。

「ぎゃうっっ!!!」

「うわっっ!!」

ドスン!!!ビー・・・・。空しく山にこだまするリフトの止まる音。私は間一髪、リフトにはねられずにすんだ。

私は素早く起き上がり、無理やり祐巳ちゃんの腕を引っ張りそそくさとその場を離れる。

こんな事になるならやっぱり上に行こうだなんて言うんじゃなかった。これでは無事麓まで辿り着けるかどうかも怪しい。

「聖さま・・・その・・・ごめ・・・」

祐巳ちゃんが全てを言い終わらないうちに、私はグルリと振り返り祐巳ちゃんに言った。

「どうしてよりによって私を掴むのよ!!しかもどうやったら板履いてないのに転べる訳?」

「だ、だから嫌だって言ったんじゃないですかーーーっっ」

「だってまさかこんなにもドン臭いとは思わないでしょ!?もうちょっとマシだと思ってたのよ!!」

「ひ・・・ひど!!私がドン臭いのは知ってたでしょ!?」

「ええ、知ってましたとも!!でも何もない所で転べるほど器用だとは思わなかった!」

「私は・・・私はそれくらいドン臭いんですっっっ!!!これからはよく覚えておいてくださいっっ!!!!」

はーはー、と肩で息をしながら怒鳴りあう私達は、他の人にはどんな風に映っていただろう。

少なくとも、私はこんなにも誰かに怒鳴った事はなかったし、多分祐巳ちゃんもそうだろう。

顔は怒っていたけれど、傷ついたという感じではなかった。

「・・・言い過ぎた。ごめん。ついでに・・・祐巳ちゃんがそれくらいドン臭いって事もちゃんと覚えておくようにする」

私がそういうと、祐巳ちゃんは一瞬キョトンとしていたけれど、やがて苦い笑みを漏らし言った。

「いや・・・ある程度は忘れてください」

さて、それからはとても順調だった。お互い言いたい事を言い合ったからだろうか。

気を使うこともなく、いつも以上に気軽に話しかける事が出来た。

気がつけば、ここ二日ほど続いていた祐巳ちゃんに対するモヤモヤも、大分晴れたような気がしていた。

やっぱり一過性のものに過ぎなかったんだな!きっと。私はそのことについて、ホッと胸を撫で下ろした。

でもね、この話はここで終わらなかったんだ。むしろここからが始まりだったと言っても過言ではない。

林間コースをギャイギャイ言いながら滑っていると、突然祐巳ちゃんが言った。

「聖さま、あれ!鹿じゃないですか!?」

と。私は祐巳ちゃんの肩越しに祐巳ちゃんが指差した方を見て、首を傾げた。

「鹿?鹿にしちゃなんだか毛が多くない?」

「えー。冬だからじゃないですか?もさもさしてるんじゃ?」

「鹿は冬でも割とぺッタリしてない?あっ!もしかしてカモシカかな!?ほら!角も短いし!!」

「そうですかねっ!?うわぁ〜・・・凄いですねっ!聖さま!!こんな所でカモシカ見れるなんて、運いいですよ!きっと!!」

祐巳ちゃんは嬉しそうにその場でピョンピョン飛び跳ねた・・・そう、今時分が何を履いているのかも忘れて・・・。

そして私がほんの少し余所見をしていた隙に、祐巳ちゃんはそのまま後ろ向きに滑り出していたのだ。

私がそれに気づいたのは、祐巳ちゃんの叫び声を聞いてからだった。

「きぃぃぃやぁぁぁぁ!!!せぇ〜〜〜さまぁぁぁ〜〜〜〜〜」

「えっ!?ゆ、祐巳ちゃん!!??ど、どこ行くのよーーーー」

私がなんとも間抜けな質問をすると、祐巳ちゃんが力の限りに叫んだ。

「わかんなぁぁーーーーーーーい!!!!!!」

と・・・。いや、実際には多分二人とも気が動転してたんだと思う。

だって、でなけりゃあんな質問しなかったし、祐巳ちゃんだってバカ正直に答えたりしなかったはずだ。

呆気にとられていた私は、しばらくしてようやく祐巳ちゃんのピンチだという事を認識した。

「全く・・・あのバカ!!」

後ろ向きで上手い具合にスイスイ進んでゆく祐巳ちゃん。もしかすると、前を向いて滑るよりも上手いかもしれない。

でも・・・ここで私ははたと気づいた。あれ・・・?この先って確か・・・。

私は今朝見ていた地図を思い出して全身から血の気が引くのを感じた。そうだ・・・この先は崖なのだ・・・。

私は猛スピードで祐巳ちゃんを追いかけ、迷わず森の中に突っ込んでゆく祐巳ちゃんに必死に手を伸ばした。

でも・・・あと数センチのところで届かない・・・。そして・・・。

「きゃぁぁぁぁぁ!!!!!」

「祐巳ちゃんっっ!!!!」

すんでの所でガシっと祐巳ちゃんの腕を掴んだ。

・・・と、思ったのに・・・ほんの少しだけ祐巳ちゃんの方に重心があったらしい。

グラリと体は傾いた。私は咄嗟に祐巳ちゃんを引っ張って抱き寄せ、頭を庇う様にして・・・覚悟を決めた。

ああ・・・これで私の人生も終わりか・・・長いようで短かったな・・・。

そんな事を考えていたのも束の間、思っていたよりも早く地面に辿り着いた。

ドサっと頭の上から木に積もっていた雪が落ちてくる。

「・・・たすか・・・った?」

「・・・みたい・・・ですね・・・」

私は祐巳ちゃんと顔を見合わせ、お互いしばらく無言だった。無事だと分かった途端に恐怖と安堵が同時にやってくる。

「聖さま・・・頭に雪・・・積もってますよ」

先に口を開いたのは祐巳ちゃんだった。祐巳ちゃんは私の顔を見て小さく笑う。良かった、どうやら大丈夫そう。

「ひどいな・・・誰のせいよ?」

私が笑いながら頭を振ると、なるほど、頭から大量の雪が落ちてきた。

「さて、それじゃあ帰ろうか・・・祐巳ちゃん立てる?」

「はい、なんとか・・・」

私は今落ちてきた崖を見上げ、ため息をついた。どうやらここを上るのは無理そうだった。

「・・・仕方ない・・・他の道探すか」

それだけ言って歩き出す私の後を、祐巳ちゃんはまるで雛鳥のように無言でついてくる。とても不安そうに・・・。

しばらく歩くと、それまで無言だった祐巳ちゃんが突然口を開いた。

「あの・・・ごめんなさい・・・私のせいで・・・」

ああ、なるほど。それでさっきからずっと黙っていたんだ。私はフンと鼻で小さく笑った。なかなか可愛らしいところあるじゃない。

どれぐらい歩いただろう・・・多分、小一時間ぐらいだろうか・・・頬にちらほらと冷たいものが当たりだした。

「雪だぁ・・・」

祐巳ちゃんは空を見上げ嬉しそうに呟く。けれど、私には分かっていた。これがどれほどに絶望的な事なのかを。

多分、これだけ歩いても一向に麓はおろかどこのコースにも当たらないなんて・・・これは・・・間違いなく・・・。

「遭難・・・したんじゃない・・・?もしかして・・・」

「えっ!?・・・そうなんだ・・・とか・・・ダメですか・・・?」

クスリ・・・不覚にも少しだけ笑ってしまった・・・こんな古典的なギャグに・・・。

しかし今そんな事を言ってる場合ではない。これはマズイ!非常にマズイ!!!しかも何だかさっきよりも雪強くなってるし!!

「祐巳ちゃん、しょうもない駄洒落言ってないで、早く道探そう」

「しょ、しょうもない!?はっ!そ、そうですね!急ぎましょう」

私達は幾分スピードを上げた。でも、雪はだんだん強くなってくるし、それに寒い。

チラリと振り返ると、祐巳ちゃんはすでにヨタヨタしている・・・私は祐巳ちゃんの手を取り、一生懸命歩いた。

歩いて歩いて歩いたけれど・・・やっぱり道らしいものはどこにもない。というよりも、すでに吹雪になっていて何も見えない。

その時だった。祐巳ちゃんが前方に何かを発見したのだ。それは、小さな山小屋・・・つまりはロッジだった。

「とりあえず雪が収まるまであそこで休もう」

「え、ええ・・・」

私はもう今にも倒れてしまいそうな祐巳ちゃんの手を引っ張り強引に歩かせた。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・ ・・そして今に至る・・・。

ロッジに入って少しだけ冷静になれば、原因は私だけど、それを大きくしたのは全て祐巳ちゃんではないか!!

私は隣で一生懸命手のひらを擦り合わせて息を吹きかけている祐巳ちゃんをチラリと見た。

「寒い?」

「ええ・・・まぁ・・・聖さまは寒くないんですか?」

「寒いに決まってるでしょ。もっとこっち寄ってよ、どうしてそんなに離れてるの?」

「だって・・・聖さま何か変な事しません?」

・ ・・どういう意味よ・・・そんなにも私何かしそう?ていうか・・・確かにロッジで二人きりとかってある意味凄いチャンスよね。

いやいやいや・・・相手は祐巳ちゃんだ。落ち着け、私!!

私は自分にそう言い聞かせるとチラリと祐巳ちゃんを見た。

かろうじて見つけた蝋燭の淡い光が、祐巳ちゃんの横顔をチラチラと映し出す。

その横顔は、幻想的とでもいいましょうか、まるで童話に出てくる妖精か何かみたいだった。

ほんの少しだけ伏せた目が、憂いを帯びて・・・ヤバイ・・・無くなったと思ってたのに!!

また私の心臓はドキドキし始めた。そう言えば誰かが言っていたけ。危険下に置かれた二人は恋に落ちやすいとかなんとか。

い、今ってまさにそれじゃないっっ!!ちょっと・・・ちょっと待ってよ!!落ち着けっっ、私の心臓!!

私のそんな心の中など知りもしない祐巳ちゃんは、我慢出来ないほど寒くなってきたのか少しだけ私に近づいてきた。

「聖さまって・・・以外にあったかいですね!」

そう言って私を見上げて笑う祐巳ちゃん・・・ヤバ・・・ど、どうしよう・・・どうすればいい!?って・・・何が!!??

混乱しきった私の頭の中は最早崩壊寸前だ。・・・でも・・・祐巳ちゃんは・・・令の事が・・・。

私はフッと昨日の事を思い出した。

あんなにも仲よさそうに笑っていた・・・令と・・・それに令は令で絶妙のタイミングで祐巳ちゃんを庇ってばかりいたし。

その事を思い出すと胸がチリリ、と痛んだ。所詮私はただの友達にすぎないのだ。

それに・・・そんなに祐巳ちゃんが好きなわけでも無かったじゃない。これという決め手もないし。

そうだ。気に病む事じゃない。これは焼きもちなんかじゃ・・・ない。

私は小さく笑って、祐巳ちゃんを見た。また胸が締め付けられるような想いに眩暈がする。

「あたたかい?」

「・・・はい」

少しだけ微笑んだ祐巳ちゃんは、何故か恥ずかしそうに俯き、そして私の腕をギュっと抱きしめたのだ!

「ほら、こうしてれば・・・もっと暖かい・・・」

止めて・・・もう・・・止めて・・・。

でも、そんな事は言えなかった。だから私はゆっくりと目を閉じ言った。

「・・・そうだね。暖かいね・・・」

と。

言えば言うほど、空しくなる心など、この際無視してしまおうと、自分に言い聞かせた。





第三十一話『ロッジの夜に・・・』





ロッジの中は壁や屋根があるとはいえ、酷く寒かった。

それでも私が悲観的にならずにすんだのは、間違いなくこの人のおかげだろう。

もしも一人ぼっちだったら、きっと今頃涙が枯れ果てていたに違いないのだから。

「聖さま・・・寝ちゃいましたか?」

私は聖さまの顔を覗き込むようにして呟いた。もし寝ていたら、起こしちゃ悪いと思ったのだ。

でも聖さまは寝てはいなかった。小さな欠伸を一つして、私の顔を見返す。

「いいや、どうしたの?」

いえ・・・別に・・・、というにはあまりにも不自然だ。でも・・・言葉がどうにも続かない。

「えと・・・その・・・さ、寒いですねっ!」

苦し紛れの私の言葉に、聖さまはピクリとも笑わずに言った。

「そりゃ、冬だからねぇ。おまけに外は吹雪だし?寒くなきゃ嘘だよ」

そ・・・そりゃそうだ。多分今のこの状況下で最もバカな質問をしたにちがいない。

それに寒いのは聖さまも同じで、これだけはどうしようもないし、多少聖さまも苛立っているように見える。

「聖さまは夏と冬ではどちらが好きですか?」

「・・・季節を好き嫌いで分けて考えた事なんてないけど・・・あえていうなら秋かな。

夕暮れが一番綺麗に見えるじゃない?」

聖さまはそう言って人差し指を天井に向け、何かをかき混ぜるようにくるくると回した。

まるで何かの魔法みたい・・・むしろ聖さまが魔法とか使えたらいいのに・・・。

こんな突拍子もない思いつきは、寒さのせいなんだろうな・・・きっと。

ていうかさ、私今、夏か冬かって聞いたよね!?どうしてこの人はいつもこうなんだろう。・・・もういいや、なんでも。

私は諦めたように笑うと、話を進めた。

「そうですか。私は春が一番好きですね・・・暖かいし、花も一杯!」

「春ねぇ・・・でも、虫も一杯だよ?」

聖さまはそう言ってニヤリと笑う。つうか・・・そうなんだよね。春の陽気は好きなんだけど・・・虫がね・・・。

そんな私の思考を読んだのだろう。聖さまは今度は声を出して笑った。

ほんの少しだけ空気が暖かくなったような・・・そんな気がした。

「でも聖さまのイメージって冬っぽくないですか?」

「そう?冬生まれだからかな?」

「そうなんですか!?いつなんです?誕生日」

し・・・知らなかった・・・私とした事が・・・どこの世に好きな人の誕生日も知らない人がいるというのだろう・・・。

いや、いるかもしれないけど、多分少数だよね。

「あれ?知らなかったっけ?私はクリスマス生まれなのよ」

「ええーっっ!!ロ・・・ロマンチックですね・・・随分と・・・」

「そう?でも行事事の日に生まれるとあんまりいいことないよ?」

「・・・そんなもんですか?」

「そんなもんですよ」

会話しゅ〜〜〜りょ〜〜〜・・・もっと上手く話を続ける方法って無いものなんだろうか、私!!

フイとまた視線を窓の外に移す聖さまの横顔を私は無言で見つめていた。

窓の外は相変わらず吹雪・・・時計の針は、午後四時を示している。

「あーあ。今日はここでお泊りかな。この調子だと」

聖さまはそう言って両腕をう〜んと伸ばした。ため息交じりにそう言う声は、どこか諦めのようなものを含んでいる。

ここでお泊りか・・・つうか、聖さまと一晩二人っきり!?ちょ、ちょっとそれでマズくない??

交際もしてない二人の・・・女子だけど!でもほら、聖さまは有名な女好きだし、私は・・・普通だけど・・・ロッジだし!

こ、これってもしかして・・・禁断の・・・その、ほら!ねぇ!?

「何さっきから一人で百面相してるの?」

「いっ、いえっ!別に何も!!」

私はそう言って出来るだけ聖さまの顔を見ないよう努めた。この人の瞳にはなんというか魔力のようなものがある。

・ ・・と、私は思っている。だって、安易に見つめてしまえば、口もきけなくなってしまうんだもの。そう、まるでゴーゴンのよう・・・。

「ふーん。変な祐巳ちゃん。それより誰か通らないかな・・・」

「いやぁ・・それはどうでしょう・・・」

こんな山奥・・・かどうかもわからないけれど、とりあえず今は誰も使ってないっぽいし。

私は立ち上がってお尻をパンパンはたくと、周りに何か無いか探してみることにした。

まだ夕方だというのに、こうも暗くては何も見えない。それに蝋燭だって一晩持つとは思えないし。

「何するの?」

私の行動を聖さまは不振に思ったのだろう。眠そうな目をこちらに向ける。

「何か無いか探そうかと思って・・・もしここで野宿する事になるなら、せめて毛布とかだけでもあれば有難いですし」

「それもそうか。祐巳ちゃんこういう時は冴えてるね」

・ ・・そりゃどうも・・・つうか、一言多いんだけどね、聖さまはいつも。

二人で一つの蝋燭を頼りにロッジの中を探し回るのは、とても非合理的だと気づくのに、それほど時間はかからなかった。

仕方がないので、私が蝋燭を持ち、聖さまが探す場所に明かりを送る事にした。

どれぐらいそうやって探していたのだろう。突然聖さまが何かを発見したように短く叫んだ。

「これ!毛布・・・だよね?」

そう言って聖さまが取り出したのは、くすんだピンク色のボロボロで小さな毛布だった。

「そうですよ!・・・随分小さいですけど・・・」

「多分一人用なんだろうね、きっと。しょうがないよ、あっただけでも有難い」

聖さまはそう言って戦利品を小さく折りたたみ私に手渡すと、またゴソゴソと何か探し始めた。

でも、いくら探してもそれ以上役にたちそうなものは何も出てこなくて、結局ロッジの中の探索は終わった。

元居た位置に戻った私達は、小さな毛布にくるまって暖をとる事にした。

でも、あまりにも体がピッタリと密着しすぎてどうにも落ち着かない。

少しづつ少しづつ離れようとする私に、聖さまは少し不機嫌そうに言った。

「そんなに私の事が嫌い?」

それだけ言うと、聖さまは毛布を私に投げてよこしさっと身を翻して私から一番離れた場所に行って腰を下ろした。

「ちがっ!!」

・ ・・違う・・・そういうつもりだったんじゃなくて・・・。

でも、もう遅い。聖さまはチラリとこちらを睨んで、そのまま顔を伏せてしまったのだ。

ただ恥ずかしかった・・・それだけなのに、どうしてこうなるんだろう・・・どうしてもっと可愛く出来ないんだろう・・・。

私は溢れそうになる涙を腕でゴシゴシと拭き取り、今聖さまが投げてよこした毛布をじっと見た。

どうしても被る気にはなれない。そりゃそうだ。自分だけ暖かくなるなんて、許せない。

どんなに考えても出てくるのは言い訳ばかり。それもうそ臭いものばかりだ。

いっそ告白してしまえば楽なのかもしれない。でも、果たして聖さまはそれを喜んでくれるだろうか?

・ ・・きっと・・・困った顔をするに違いないのだ・・・いつもみたいに軽く笑って、そしてそっぽを向いてしまうに違いない。

まだ傷つく準備など私には出来ていないし、どれぐらい聖さまの事が好きなのかも分からない私にとって、

そんな無謀ともいえる賭けに投じる事など出来なかった。

どうしよう・・・どうしたらいいんだろう・・・。私に少しでも聖さまの心が見えたなら、こんな事にはならなかったのだろうか・・・。

聖さまは今・・・何を考えているんだろう・・・。

「っくしゅん!!」

ふい〜・・・さむっっ・・・私がズズっと鼻水をすすって蝋燭の灯をぼんやりと見つめていると、突然聖さまが口を開いた。

「毛布・・・被れば?」

「い、嫌です・・・私だけ暖を取るわけにはいきません」

「・・・それじゃあ私に貸してよ。私は一人でも暖はとれるから」

聖さまはそう言って鼻をフンと鳴らした。その言葉に私はちょっとだけムカっとして、言い返した。

「な・・・なんて人・・・心配して損しましたよ!もういいです、私が被ります!!」

信じらん無い!!普通そんな事平気で言う?さいってー!もう聖さまなんか知らない!!

私は薄汚いピンクの毛布にくるまると、聖さまをキっと睨んだ。聖さまは苦い笑みをこぼしている。

「ちぇ、ざ〜んねん。毛布取り損ねちゃった」

台詞とは裏腹に、聖さまの声はどこか安心したような響きだ。

それが何故かは、もちろん超ニブチンな私には分からなかったんだけど。

こうして狭いロッジの中で対照的な位置に座った二人だけの時間は、あっという間に過ぎていった。

無言というものが、これほどに辛いだなんて知らなかった私は、今までどれほど幸せだったのかを思い知った。

一方聖さまは、こんな事にはもう慣れてるとでも言わんばかりにちゃんと時間の使い方を知っているようで、

特にイライラした様子もなく、窓の外をボンヤリと見つめ思考の中にどっぷりとはまっている。

私はといえば、そんな聖さまの横顔をじっと見つめるだけで、それだけで十分だった。

しかし・・・暇だな・・・何かやることないかな・・・それにお腹も減ったし・・・。

聖さまはどうなんだろ・・・お腹減らないのかな。そんな訳ないよね、聖さまも一応人間だし・・・。

ヤバイ・・・そんな事考えてたら余計にお腹減ってきちゃった・・・。

ぐ、ぐ〜う・・・。

突然ロッジ・・・あるいは外にまで聞こえてしまいそうなほど鳴り響いたのは、紛れもなく私のお腹の音だった。

突然の爆音・・・もしくは轟音に、何事!?と聖さまは顔を挙げ、恥ずかしくて俯いた私を見て声を上げて笑った。

「凄い音・・・そんなにお腹減ってるの?」

「べ、別に?そんなに減ってませんよ」

「ふ〜ん。あっそ。全く、祐巳ちゃんは素直じゃないね」

「ほ、ほっといてくださいよ!!」

ていうか、もうお腹の音には触れないで・・・後生だから・・・グス。

好きな人にお腹の音聞かれるのって、こんなにも恥ずかしいんだ・・・あぁ、穴があったら今すぐ入りたい・・・。

「そんな素直じゃない祐巳ちゃんにはもったいないけど・・・ほら、これあげる。

これで明日の朝までどうにか頑張ってよ」

聖さまはそう言って自分の上着の内ポケットから何かを取り出し、私の方に放った。

コツン、と頭に当たったのは、いちご味のキャンディーだ。

なんて用意のいい人なんだろう!私が感動して聖さまを見ると聖さまはクスリと笑った。

「感謝してよね。全く。最後の一個だったのに」

「えっ!?聖さまの分もあるんじゃないんですか?」

「無いよ、それが最後。でも・・・あれだけ大きなお腹の音聞いちゃったら・・・ねぇ?」

あげない訳にはいかないでしょ?と笑う聖さまの顔は、凄く優しく見えた。

そうなんだ・・・聖さまって、自分勝手で一言多いんだけど、結果としてはいつも凄く優しいんだよね・・・。

ここで私はハッと気づいた。まさか・・・この毛布も・・・?

「聖さま・・・もしかしてわざと私を怒らせて私に毛布被せました?」

「さぁねぇ。どうだと思う?」

聖さまはそう言って口の端を上げて目を細める。まるで私を試すかのように。

「・・・教えてくれないんですね?」

「・・・別にどっちでもいいじゃない。

私が本当に寒くて言ったのかもしれないし、もしくは私が祐巳ちゃんの事を心配して言ったのかなんて。

それってそんなに重要な事?」

「それは・・・そうですけど・・・」

私にとっては重大なんですよっっ!!その答えが!!

・ ・・でも、それ以上聞く事は出来なかった。だって、聖さまが違う話をし始めたから。

「ところで祐巳ちゃん。あれ本当なの?由乃ちゃんが言ってたやつ・・・」

「?由乃さんが言ってた?何のことです?」

「ほら、祐巳ちゃんはまだその歳になっても恋した事ないって言ってたじゃない。あれって本当?」

聖さまは気になってたんだ!と付け加えると、からかうように私を見た。

「事実ですけど・・・何か文句あります?」

私は仏頂面でそう答えた。だって、またその事でからかわれるのかと思ったら腹がたったんだからしょうがない。

でも・・・聖さまの反応は少し違った。いつもみたいにからかわずただ、ふーん、と呟いただけだった。

「どうしてです?いきなり」

「いや、聞きたかっただけ。今も?今も好きな人一人居ないの?」

聖さまのこの言葉に、私の胸は詰まった。・・・アメが・・・ごほっ・・・。

「な、なん・・・ゴホっ・・・とつぜ・・・ゲホッ・・・」

「ちょっと大丈夫?もったいないなぁ・・・せっかくあげたのに、もう」

だって、聖さまが突然そんな事言い出すから!!

涙目で睨む私に、聖さまは近くまで寄ってきて背中をさすってくれた。

聖さまの手は、こんなにも寒いというのに、とても暖かく感じられる。

ようやく咳が止まった私に、聖さまはもう一度同じ質問を繰り返した。

これは・・・どう答えるべきなのだろう。正直に言うべきか・・・それとも黙っておくべきか・・・。

私はあれこれ考えた。その間聖さまはじっとこちらを見詰めている。まるで私の心の中を見透かすように。

そうだ・・・どうせ嘘をついたってこの人にはバレてしまう。

どうせ聖さまは私の事なんてただの同僚としか思っていないのだから、

少しぐらい素直になっても、きっと事態は変わらないだろう。

「・・・いますよ。今は・・・」

私がそう言うと、聖さまは一つも表情を変えなかった。笑いもしないし、驚きもしない。ましてや悲しんでいる様子もない。

そして長い沈黙の後、聖さまが言ったのはたった一言だけだった。

「へぇ」

・ ・・って、それだけですか!?他にももっとなんか反応あるでしょ?普通!!

いくら自分の事だと思ってないにしても、からかうとか、応援するとかさぁ!!

一体何のために私が今勇気を振り絞ったと思ってるんですか!!

「あの・・・聖さま?」

「何?」

「えっと・・・それだけ・・・ですか?」

いや・・・この質問もおかしいな・・・ていうか、どうして私がこんなにもうろたえなくちゃならないのよ・・・。

「それだけ・・・とは?」

「い、いえ・・・だって普通もっといろいろ聞いたりしません?誰が好きなの?とか、どこが好きなの?とか・・・」

私の言葉に、聖さまは不思議そうに首を傾げた。その仕草が少し可愛いとか思ってしまう。

「・・・それって、聞いたら教えてくれるの?」

「いや、どうでしょう・・・多分教えないかと・・・」

「でしょ?じゃあ聞いたってしょうがないじゃない」

う・・・確かに・・・。でもそういうのって、通過儀礼みたいなもんじゃないの!?

こう、恥じらいながらモジモジしたりとかしてさ!・・・私って夢見すぎなんだろうか。

「じゃあ聞くけど、それって私の知ってる人?」

聖さまは、しょうがないな、って感じでようやく私の相手をしてくれた。かなり渋々って感じだけど。

もしかすると、私は気づいてほしかったのかもしれない。聖さまに私の気持ちを。

だから私はいつになく正直に答えることにした。

「はい。よく知ってる人ですよ」

と。

それを聞いた聖さまは、一瞬表情を曇らせた。何故かは分からないけれど。でも、それは本当に一瞬のことだった。

もしかしたら見間違いかな?と思うほど一瞬見せた、聖さまの切ない顔は、瞼の裏に焼きついた。

「そうなんだ。じゃあ学校の誰かって訳か。じゃあこれが祐巳ちゃんの初恋って事?

頑張れよ〜?初恋は叶わないっていうからね。現に私も叶わなかったし」

聖さまはそれだけ言って少し自嘲気味に笑うと、元居た場所に戻ってしまった。

果たして応援してくれたのか、それともその恋は叶わないよ、と遠まわしに言われたのか、それさえも分からない。

でも、まるで人生の全てを知っているような聖さまの言い草が何だか気に食わない。

せっかく人が素直に告白したというのに!

「じゃ、じゃあ聖さまはどうなんです?初恋は叶わなかったからって、もう二度と恋はしないつもりですか?」

「さぁね。どうかな。当分は無理かもしれないけど・・・未来の事はわかんないよ。

それにたまたま私の初恋は叶わなくて、世間でもそういうけど、そんなの本人の頑張りしだいだろうし」

それを聞いて、私は少し悪いことをしたな、と思った。そうだ、聖さまは私の気持ちなんて知るわけがないんだから、

聖さまに八つ当たりしたってしょうがないのだ。

「そうですね・・・私の頑張り次第・・・ですよね。でも、どうやったらいいのかなんて全然分からないんですよね」

なんせこんな気持ち初めてなのだから。苦しくて泣きたくて、甘くて切ない。

「私だってそんなに経験豊富じゃないよ。由乃ちゃんや他の皆は何か勘違いしてるみたいだけど。

本気で人を好きになるなんて、私だって栞が始めてだったんだから」

「そ、そうなんですか?」

「うん。だって、どうやったら他人を好きになれるというの?そもそも自分すら好きになれないのに」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

それは・・・そうかもしれないけど・・・。何だか寂しい事言うなぁ・・・。

「でもよく言うじゃないですか。自分を好きになれない人は他人を愛する事など出来ないって・・・」

「そうね。でも、自分が好きでなくたって人は愛せるよ。愛していくうちに自分が好きになる事だってあると思うし、

そういう自分もいるんだって気づく事だってある訳じゃない?逆に自分が嫌いだからこそ人を好きになれるのかもしれないし」

なるほど・・・そうか、そういう考え方もあるんだ。

私は聖さまの答えに妙に納得してしまった。誰だって心の底から自分が好きだなんて胸をはって言えないだろう。

だからこそ他人を求めるものなんだ・・・そうか・・・だから私は聖さまが好きなんだ。

私とは違う考え方が出来る聖さまが・・・。まぁ、嫌いな所だってある訳だけど。

でもほんと、その通りかもしれない。私の好きな人は・・・そういうのがちゃんと見える人なんだ。

「で?祐巳ちゃんの好きな人は素敵な人なの?」

聖さまは目だけをこちらに向けた。体育座りをして顔をちょこんと膝の上に置いている。きっと寒いのだろう。

「はい!とても!」

私は聖さまの質問に考える余地はなかった。だって、本当に今、心の底から素敵だと思ったのだから。

「聖さま、寒いでしょ?もう離れたりしませんから、そっち行っても・・・いいですか?」

私の言葉に、聖さまは少しだけ微笑んだ。そして黙ったまま自分の隣を叩く。

聖さまのお言葉(?)に甘えた私は、毛布を引きずって聖さまの隣に這っていくと、そこに腰を下ろし二人で毛布にくるまった。

ドキドキが伝わらなければいいんだけど・・・私は心の中でそう呟きながら、聖さまの肩にコツンと頭を当てた。

「どうしたの?」

「別に・・・ただ、いい枕だな、と思いまして」

「・・・ひっど・・・」

「ふふふ。聖さまももたれていいですよ?」

「・・・祐巳ちゃんに私を支えきれるとは思わないんだけど。まぁ、有難くお言葉に甘えましょ」

聖さまはそう言って私の頭の上に頭を置いた。何だかここだけみれば立派に恋人同士ではないか!

「あー・・・祐巳ちゃんはあったかいなぁ・・・」

「聖さまこそ、暖かいですよ。ところで聖さま?」

「なぁにー?」

眠そうな声を出す聖さま。どうやら今日一日散々だったからもうすっかりおねむなのだろう。

ふぁぁ、と欠伸をする聖さまに、私は小さく尋ねてみた。だって、ずっと気になってたんだもん。

「聖さまは今、好きな人居ないんですか?」

「そうね・・・今はまだ好きかどうか分からない・・・っていうのが現状かな」

「・・・好きかどうか・・・わからない?」

「そう。自分でもよく分からないよ。何せこんなのは私も初めてだから。栞の時とはあまりにも違いすぎて・・・」

聖さまはそこまで言って、小さな寝息を立て始めてしまった。きっと相当疲れていたんだろう。

多分その原因は全て私なんだけど。それにしても・・・そっか、聖さまには今気にかかる子がいるんだ・・・。

そりゃそうだよね。モテそうだもん。言い寄ってくる人もわんさかいるだろうしさ。

でも、ほんのちょっと聞きたくなかった台詞だったな。

「ねぇ聖さま?いつか・・・私の気持ちにも気づいてくれますか?」

私は眠ってる聖さまにそんな言葉を投げかけた。今は他の事は考えぬよう、私は私の恋を頑張ろう。

そしていつかきっと、聖さまを振り向かせてみせるんだから!

「覚悟しててくださいねっ!」

ポツリとそう呟くと、私は夢の中に身を投じた。

汚いピンク色の毛布が、いつの間にかピンクの飛行機になって私と聖さまをどこまでも運んでゆく、そんな夢のなかに。




第三十二話『ハンカチがなくて、祐巳もいなくて・・・』




どこ・・・どこに行ってしまったの・・・私の祐巳はどこ!?

右を見ても左を見ても可愛い祐巳の姿はない。

せっかくお昼ご飯を一緒に食べようと思って、物凄いスピードで山を降りてきたというのに!!

途中何かをスキー板ではねて轢いたような気もするけれど、それもこれも全て可愛い祐巳の為。

愛に多少の犠牲はつきものですもの。お母様もそう仰ってたし。

そんな事よりも・・・私の可愛い祐巳は一体どこへいってしまったのよーーーーーっっっ!!!!

「祥子!こんな所にいたの?そろそろお昼食べましょうよ」

「・・・お姉さま・・・」

「あら、どうしたの?そんな顔しちゃって・・・」

「それが・・・それが・・・私の可愛い祐巳がいないんですっっ!!!」

私はそう叫んでお姉さまの胸に飛びついた。涙こそ出ないものの、こんな気持ちは初めてだった。

「まぁまぁ、祐巳ちゃんは聖が責任持って面倒見るって言ってたから大丈夫よ、安心なさいな」

お姉さまは困ったように笑うと私をなだめるように優しく撫でてくれた。そのおかげで幾分私の心は軽くなったのだけれど・・・。

「・・・聖さま・・・また聖さま・・・」

「えっ?何?何か言った?祥子」

「いいえ、お姉さま。それなら安心ですわね」

・ ・・なんて・・・安心なわけないじゃない・・・よりによって聖さまと一緒だなんて・・・聖さまめ・・・。

私はここでハンカチを部屋に忘れてきた事を悔やんだ。だって、今すぐにでも何かに怒りを発散したかったのだから。

どうしよう・・もし祐巳がすでに聖さまの毒牙にでもかかっていたら・・・。

はっ!すでに聖さまにどこかに連れ込まれていたりして・・・いいえ!流石の聖さまも分別はあるはずよ!!

そこまでしないわよ・・・でも・・・分からないわ・・・聖さまは狼・・・祐巳は・・・どう見ても狸よーーーーっっ!!!!

明らかに捕食される側の動物だものっっ!!

あんなにも可愛らしい狸が目の前をちょろちょろしていたらいくら聖さまが分別あっても・・・。

「無理だわ・・・我慢できっこないもの」

ポツリと私が呟いたのがお姉さまにも聞こえたのだろう。クルリとこちらを向いて、困ったように笑って言った。

「嫌ね、祥子ったら。我慢なんてしなくてもいいわよ。早く行ってらっしゃいな」

「・・・え?」

「いいわよ、席は取っておいてあげるから。お手洗いでしょ?我慢は体に良くないわ」

お姉さまはそう言って足早にレストランに体を滑り込ませた。

「・・・お姉さまったら・・・勘違いですわ・・・」

それにしても、どうして他の皆はあの二人が少しも心配にならないのかしら。

仮にも聖さまと一緒だというのに。私の可愛い祐巳は。それなのに誰も心配しようとしないなんて・・・あんまりよ。

ああ、どうしてこんな事に。もし私もスノボだったら祐巳に教える事が出来たのに・・・。

いえ、そもそも私スノボなんてした事がないんだったわ・・・。

でも!一緒に教わる振りをして聖さまを監視することぐらい出来たはずよ!!

「ああ・・・私ったらなんてバカなのかしら・・・」

「祥子!いつまでそこに居るの?早く我慢してないでお手洗い行ってらっしゃいって言ったでしょ?」

「お、お姉さま・・・いえ、私は別に・・・」

「何言ってるの!我慢してたら後から大変な事になるんだからね!」

お姉さまはそう言って私の手を引っ張り真っ直ぐにお手洗いへと向かった。

ああ・・・違うのに!私が行きたいのはお手洗いではなくて!!でも、お姉さまにはどうにもそれが伝わりそうにない。

出来れば今すぐ祐巳を聖さまの魔の手から救い出したいんですよ!!

「・・・それにしても聖と祐巳ちゃんは熱心ね。ちっとも降りてきやしないじゃない」

お手洗いを後にしたお姉さまは(結局私はお手洗いに行った。

でないとお姉さまは私をお手洗いに閉じ込める気でいたに違いないから)ゲレンデを見上げて言った。

そうでしょう?そうでしょう!?おかしいでしょう!!??

あの聖さまがそんなにも熱心に祐巳に教える事と言ったら・・・一つしかないじゃないですかっっ!!

ああ、なんて破廉恥なっっ!なんと不道徳なっっっ!!!よりにもよって聖さまに・・・祐巳がっっ!!!

「お、お姉さま?聖さまと祐巳はきっと山の上で何か良からぬことを・・・お、お姉さま!?」

「まぁあれよね。聖もこれぐらいもっと真面目に教師という仕事に打ち込んでくれたらいいのに。

ね?そう、思わない?祥子。ところであなた今何か言わなかった?」

お姉さまは私を置いてスタスタと歩き出していた。

そう聞き返してきたところを見ると、どうやら私の話など何も聞いていなかったに違いない。

キーーーーーーーーッッッ!!!!!!!!!

そうだわっ!お姉さまがダメなら江利子さまに話せばいいのよっ!!

私は喜び勇んで皆の待つレストランへ駆け込んだ。お姉さまは突然元気になった私の後姿を見て、

「ほら、やっぱりお手洗い我慢してたんじゃない!」

と言った事はこの際無視して。

席につくと、皆すでに集まっていた。そう、聖さまと可愛い祐巳以外は。

あの子が居ないというだけで、このメンバーが一気に色あせて見えてくるから不思議だ。

「江利子さま・・・あの、少しお話が・・・」

私が江利子さまの耳元でそう呟くと、江利子さまはつまらなさそうな顔を一瞬だけ輝かせた。

「何?何か面白い話?」

「いえ・・・面白いかどうかはわかりませんが・・・その、聖さまと祐巳が、居ないんです」

「居ない・・・わね、確かに。でもそれが面白い話なの?」

「だって、あの聖さまですよ!?それに祐巳も居ないんですよっっ!?」

どう考えても祐巳が危険じゃない!!

「でもねぇ・・・どっかで仲良く滑ってるんじゃないの?放っておいても大丈夫よ、二人とももう大人なんだから。

もしかしてそれだけ?」

「・・・ええ、まぁ・・・」

江利子さまは私の答えを聞くなり、な〜んだ、とまたつまらなさそうにそっぽを向いてしまった。

な〜んだ・・・って・・・大人だからこそ危ないのにっっ!!えっ?そんなにも聖さまが信用できないのかですって?

出来るわけないじゃないっっ!!!どんなによく考えても信用出来ないわよっっ!!

ダメだわ・・・そうだ!SRGはどうかしら?あの方は一応聖さまのお姉さまな訳だし。

「SRG・・・聖さまがどこに行ったかご存知ありませんか?」

私は出来るだけ波風をたてないよう、SRGにそう聞いた。すると、SRGは少し考えて笑いながらこう答えた。

「さぁ。でも聖のことだから案外どっかのロッジとかに祐巳ちゃん連れこんでたりして!」

それを聞いて笑う一同・・・笑えない私・・・。

「じょ、冗談・・・ですよね?」

「さぁね〜。でもほら、聖だから!」

聖だから!・・・聖だから・・・せいだから・・・セイダカラ・・・聖さまーーーーーーーっっっ!!!!

姉であるSRGがこういうのだ。間違いない!!やっぱり、私の勘は正しかったのね!?そうなのね!!??

私はハンカチの代わりに持っていた手袋をギリギリと締め上げた。それを見ていた令が笑う。

「祥子―、手袋は無理だってば。なんなら私のハンカチ貸してあげようか?」

「いいえ、結構よ!」

私は令の声など殆ど聞こえていなかった。ただ、怒りに任せて手袋を握り締めて・・・。

全く・・・どうして私以外の皆はこんなにも悠長にしていられるの?どうして誰も私の話を真面目に聞いてくれないの?

どうして誰も祐巳を助けに行こうとしないのっ!?いいわ、こうなったら私一人で意地でも探し出してやるんだから!

見てなさいよ、聖さま・・・それに・・・皆もっっ!!!

ぶちぶちぶち!!!

「「「「「「あ・・・・」」」」」」」

皆の声が重なった。私は自分の手元を見て、思わず微笑んでしまう。

「あら、私ったら嫌だわ・・・つい力をいれすぎちゃって・・・」

「さ、祥子!分かったわ!み、皆で手分けして二人を探しましょう!ね!?」

お姉さまはそう言って私を座らせ、水を一杯持ってきてくれた。他の皆もお姉さまの言葉にうんうん頷いている。

私は嬉しかった。なんだ、皆口には出さなくてもやっぱり祐巳が心配だったのね!

さっきの言葉は前言撤回しなきゃ!・・・覚えておきなさい・・・聖さま・・・。

もしも私の可愛い祐巳になにかしていたら・・・その時は・・・。

ぶちっ!!

「「「「「あっっ!!!」」」」

最後の布があっけなく破れた。皆目を丸くしてこちらを見て、苦笑いしている。・・・というよりは、引きつっている・・・。

「皆様、それではお昼ご飯が食べ終わったら皆で二人を捜索してくださるんですね?」

「「「「「「「も、もちろんっ!!」」」」」」」

今、私達の心は一つだわ!なんて素晴らしいのかしら!!美しい光景だわ・・・今ここに祐巳が居たら・・・。

きっと感動して前が見えなかったかもしれないわね!でも待っていてちょだい、祐巳!

きっと私があなたを探し出して見せるからっっ!!!







第三十三話『呪いのキス』




どうやら・・・生きてるみたい。私はうっすらと目を開け、窓の外から差し込む光の束の眩しさで思わず眉間に皺を寄せた。

肩には・・・祐巳ちゃんの頭・・・ふんわりと香るのは・・・フローラルブーケ?

流石!春が好きだと言っていただけの事はある。

私は隣でまだ呑気に寝息をたてている少女に感心するように見入ってしまった。

昨日の吹雪は、確実に何かを変えたような、変えないような、何とも曖昧なものではあったけれど、

私にはそれで十分だったような気がしていた。

そっと祐巳ちゃんを起こさぬよう、私はゆっくりと祐巳ちゃんの体を横たえると、上から毛布をかけてやる。

ついでに私の上着も。

それにしても・・・よく寝てるなぁ・・・。

私がそんな事を考えながら祐巳ちゃんの寝顔をマジマジと見つめていると、

突然どうしてもキスしてしまいたい衝動にかられた。どうしてそんな事を突然思い立ったのかは私にも分からない。

でも、どうしてもしたかった。触れたい、とかそんなものじゃない。ただ祐巳ちゃんとキスがしたいのだ。それも今すぐに。

「まいったな」

私はポツリとそう呟くと、頭をポリポリとかいた。

自分でも何を不謹慎な!とは思うんだけど・・・どうしてもしたいんだからしょうがない。

今までの私なら間違いなくしてた。きっとびっくりして相手が飛び起きてしまうような熱烈なキスを。

そしてその後に言うのだ。歯の浮くようなセリフをさらりと。そうすれば相手はぐっと私を身近に感じてくれる。

いや、身近に感じてくれるどころか、中には私を本気で好きになってくれる子もいた。

・ ・・私・・・サイテーじゃん・・・。

いや、そんな事ずいぶんまえから知ってるけど。

・ ・・でも今はどうだろう・・・キスがしたいのはしたいんだけど、いつもとは違う。

ただキスがしたいのだ。純粋に。起きてほしい訳でも、私を好いてもらうためでもない。ただ・・・そう、普通のキスがしたかった。

それもこっそりと。まるで眠り姫を起こすときのようなそんなキスを。

眠り姫は、決して王子がどうやって自分を起こしたのかなんて知らなかった。いや、知ってはいけなかったのだ。

だって、王子はただ自分の欲望のために姫に口付けたのだから。

「今ならあの王子の気持ちが痛いほどよくわかるよ・・・さぞ苦労したんだろうね、あんたも」

きっと、姫にキスするにいたるまで随分長い間悩んだのだろうな、なんて事を考えると、ほんの少し王子が気の毒になった。

とはいっても、私と王子じゃ随分と状況は違うんだけどさ。

まず第一に今私の目の前にいるのは、思わず一目ぼれするほどの美人じゃないって事。

第二にいつ目を覚ますかわからないって事。ねぇ、これってかなり重要だと思わない?

キスするならするでさっさとした方がいいんだろうし、しないならしないでこの胸のモヤモヤを何かではらさなければならない。

「・・・・・・・・・・・・・・」

私はじっと隣の、自分の唇の危機に全く気づくこともなく健やかな寝息を立てている少女を見つめた。

ああ・・・ダメだ・・・なんなの、これ・・・。

私はゆっくりと、でも確実に祐巳ちゃんに顔を近づけて様子を見た。

よし、起きる様子はない・・・いける!!

目を伏せ、あと数ミリで唇が触れ合う・・・いや、一瞬触れたかもしれない。

微かに甘いキャンディーの味がしたような気がしたから。

でも・・・これ以上口付けてしまったら、きっと離れられない・・・そう、思うのに体が、顔が、心が離れたくないという。

僅かな距離でギリギリに保たれる理性が、もうあと少しで弾ける・・・そう思ったその時だった。

ばーーーーーん!!!!!

物凄い音がして、私は思わず祐巳ちゃんから体を離した。突然ドアが開いたのだ。

外から冷たい外気が雪崩のように流れ込んできて、私は思わず身震いする。

そして次に聞こえてきたのは物凄い怒鳴り声だった。

「祐巳っっ!!!!」

「さ、祥子?」

「聖さまも!!じゃ、じゃあやっぱり・・・まさか、そんな・・・遅かったというの・・・」

一体何の話をしているのだろう?祥子は。いや、今はそれどころではない。

私は心の中で、密かに祥子に感謝していた。ありがとう、ほんっとうにありがとう!!!祥子が私の理性を保ってくれたのだ。

良かった・・・ケダモノにならずにすんだ・・・。

私は満月なのに運良く月を見上げずにすんだ狼男のような気分だった。もしかすると、ひどく狼狽して見えたかもしれない。

祥子の物凄い声を聞いて、ようやく祐巳ちゃんの気配が動いた。うっすらと目を開け、私と祥子を交互に見ている。

多分、事情がまだ把握できてないんじゃないかな、この子は。

もしかすると、昨日の事をすっぽりと忘れてしまっているんじゃないか?というほど不思議そうな顔をしている。

ところが次の瞬間、祐巳ちゃんは私の顔を見るなり、ポっと頬を染めて唇を押さえた。

ヤバっっ!!!もしかして・・・バレてた・・・の?

ところが、祐巳ちゃんは私を責める訳でもなく、ただ恥ずかしそうに顔をふせていったのだ。

「お、おはよう・・・ございます・・・あはは、私ったら変な夢見ちゃってもう・・・」

それだけ言うと、祐巳ちゃんはもう一度私の顔を見て、恥ずかしそうに笑った。

良かった。どうやらバレてはいないみたい。・・・ん?バレてなくてホッとしてるはずなのに、どうしてこんなにも寂しいんだろう。

何か心にポッカリ穴が開いたような、そんな気がする。

冷たい風がドアから入ってきて、やがて私の心を撫でて去ってゆく・・・なんだ・・・風のせいか・・・。

私は安堵のため息をつくと、そっと祐巳ちゃんにかけていた上着を着て、まだ呆然としている祥子と祐巳ちゃんに目をやった。

「祥子、どうしてここが分かったの?もしかしてここって麓から結構近かったりする?」

私がそう聞くと、祥子はチラリとこちらを見て軽蔑するような視線を私に送った。

ていうか、何でこの子こんなに怒ってるのよ?

私は祥子のその視線の意味がわからず負けじと睨み返していると、続いて蓉子がやってきた。

その顔色は最悪といって良かった。真っ青を通り越して真っ白だ。

蓉子はドアの入り口で仁王立ちして握った拳を震わせている。怒っている、というよりは、心配しすぎた、という感じだ。

「聖・・・あなたがついていながら・・・」

蓉子はどうにかそれだけ言うと、私を怒鳴る代わりに、勢いよく私に抱きついてきた。

いつもは肩のところで綺麗にまとまった髪が今はボサボサだ。

私は蓉子を抱きしめ返そうとしたけれど、そこでふと祐巳ちゃんの顔が視界に入った。

「・・・心配かけてごめん。この通り私たちは大丈夫よ」

私はそれだけいうと、そっと蓉子の体を離した。

別にやましいことなどない・・・というよりは、そんな風に見せなければならない相手もいないのに。

何故か凄く祐巳ちゃんの視線が気になったのだ。いつもなら絶対に役得だ!とかいって喜んで抱きつき返すのに・・・。

ああ・・・私は一体どうしてしまったんだろう・・・もしこれが、私が今までにしてきた事の報いだとするなら、

間違いなくそのスイッチを入れたのは・・・私はチラリと祐巳ちゃんを見た。

祐巳ちゃんはどこか引きつったような笑顔をしてこちらを見ている。

それは多分、私が引きつった笑顔をしていたからだろう。

そう・・・私への報いのスイッチをいれたのは、間違いなく祐巳ちゃんで、あのキスだ!

うかつに眠り姫に手をだした王子は、結局身を滅ぼした。私はその事を考えてゾっとした。

私にふりかかる災厄は・・・一体なんなのだろう・・・。

いや、それはまぁいい。とりあえずは、この身に待ち受けるこれからの運命など、長い人生の中でも一瞬の事だと思ったから。

私はもう一度祐巳ちゃんを見て、今度は上手に微笑んだ。

「お、おはよう・・・祐巳ちゃん。よく・・・眠れた?」

・・・・・・・・・声は明らかに動揺してたけど・・・・・・・・・・・・・。






第三十四話『ひねくれ者』





あんな夢を見た後で、どうやって聖さまの顔を見ればいいのか分からなかった。

だから聖さまの笑顔が妙に引きつっていたのはきっと、私のそんなやましい気持ちを察したからだと思う。

由乃さんに言わせれば聖さまは根っからの女好きで、今まで何人もの女の人が聖さまのせいで学校を辞めたとか何とか。

でも私はそんな話を聞いても何故か胸は痛まなかった。自分でもどうしてなのかわからなかったんだけど。

もしかすると心のどこかで聖さまのそんな性格を理解していたのかもしれない。

「祐巳、大丈夫なのね?本当に何もなかったのね!?」

祥子さまが私の震える肩を抱きながら優しく耳元で囁く。ドキドキするけれど、やっぱり聖さまへの想いとは違う。

「はい。聖さまにはとても良くしていただきました。だから心配しないでください」

私はにっこりと微笑んで出来るだけ落ち着いて言った。だって、私の変な夢のせいで聖さまの株が落ちたら大変!

「祥子はほんとに失礼ね!そんなに私が信用できないわけ?」

「あら、聖・・・あなた自分で自分を信用できる?」

「・・・蓉子まで・・・全くどこまでも失礼な姉妹ね」

聖さまは蓉子さまがせせら笑ったのを見逃さなかった。

でも、聖さまは確かに私に何もしなかったんだから、以外に紳士なんだ。

だから祥子さまはどうか分からないけれど、きっと蓉子さまはわかっていて言ってるのだろう。

聖さまよりもたちが悪いのはむしろ私だ。あんな夢を見るなんて・・・本当にどうにかなっちゃったとしか思えない。

「祐巳ちゃん元気ないわね。寒いの?旅館についたらすぐにお風呂に行って温まってくるのよ?」

「あ、はい。そういえば他の皆さんはすでに遊んでらっしゃるんですか?」

私は時計を見て時間を確認した。ただいま朝の10時。きっとそろそろ準備をしだしてる頃だろう。

案の定蓉子さまは少し笑って頷いた。

「そうなの。皆今日は最終日だからってすごくはりきってるのよ」

「皆薄情よねー。私たちが遭難してたってのに探しに来てくれたのは祥子と蓉子だけだなんて。

ねぇ?そう思わない?祐巳ちゃん」

聖さまはそういって私の肩に腕を回し、もたれかかるように歩き出した。

「聖さま!!祐巳から離れてくださいっっ!!!」

「いやだよ〜ん。悔しかったら祥子もやってみれば〜?」

・ ・・ああ、私ってば完全におもちゃだ・・・。それ以上でも、それ以下でもない・・・切なくて涙出そう・・・ふふふ。

「でも、本当にありがとうございました!!あのまま誰にも見つからなかったらどうしようかと思ってたんです。

だから・・・本当にありがとうございました!!」

私はペコリと蓉子さまと祥子さまに頭を下げた。すると二人とも気にしないで、と言って笑ってくれた。

いやー、ほんと、一時はどうなることかと思ったけど・・・無事助かって良かった良かった!

でも・・・と、私は思いとどまった。確かに遭難したんだけど、それはそれで幸せだったのだ。

聖さまと二人きりのロッジで、喧嘩とも呼べないような喧嘩をして、

毛布を取り合って・・・でも、結局は一緒に寝ちゃったりして・・・ふ・・・ふふふ。あ、ダメダメ!顔がニヤけちゃう。

「祐巳ちゃんが気持ち悪いよ〜」

聖さまはそういって不気味に笑う私の肩から腕を解き、ようやく目の前に見えてきた旅館へ一目散に走って行ってしまった。

「それじゃあ、準備が出来たら連絡ちょうだい。私たちは先に滑ってるから」

「あ、はい!本当にありがとうございました!!」

「「いいえ、どういたしまして」」

そして蓉子さまと祥子さまと別れた私は、聖さまを追いかけた。

「聖さま〜〜〜〜〜!!待ってくださ〜〜〜〜い!!!」

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ねぇねぇ、大浴場行くでしょ?」

「は?」

「お風呂だよ!まさかこんな狭いところで入るなんて言わないよね?」

「え、えーと・・・」

ここで済まそうかと・・・思ってたんですけど・・・。私はチラリと横目で部屋についているお風呂に目をやった。

すると聖さまは、メッ!と顔をしかめて私のおでこを軽く小突く。

「駄目、ちゃんと湯船に浸かって温まらないと」

まぁ確かに。聖さまの言うことは一理あるんだけど・・・。

だって、朝から聖さまと一緒にお風呂だなんて!そんなの!!!ねぇ!?

いや、多分こんなにも意識してるのは私だけなんだけどさ・・・ぐすん。

「うぅ・・・わかりました・・・」

「よろしい」

聖さまは意気揚々とお風呂の支度を始めた。私もそれに習って支度する。

そして5分後には二人とも素っ裸だった。・・・あぁ・・・聖さま・・・目の保養だわ・・・でも、ちょっと毒にもなりそうよ・・・。

「祐巳ちゃんは華奢だねー。細いしさー、胸ないしー、童顔だしー・・・」

「ちょっ、童顔は関係ないでしょう!?」

華奢って言われたのは嬉しい気もするんだけど・・・でも何故だろう。素直に褒められているような気がしないのは。

「あはは。まぁいいじゃない。可愛いねって言ってるんだから」

「そ、そうですか?」

「うんうん。親戚の子みたいで」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

あっそう。しょせん私はおこちゃまですよ。ええ、ええ、そうでしょうとも!!

私は思いっきり頬を膨らませて聖さまを睨んだ。けれど聖さまは全く堪えてなどいなさそう。

でも親戚の子かー・・・ちぇー・・・。

胸に刺さる棘とまではいかなくても、何か寂しいような痛みが走る。

結局、聖さまはやっぱり私の事など何とも思っていないのだ。

「聖さまなんて・・・だいっ嫌いですよーだ!」

「ひどーい!!そんな事いうやつにはもうお年玉やらないぞー?」

「・・・フンだ」

だいっ嫌い!!聖さまなんてだいっ嫌いなんだから!!ほんとなんだからね!

聖さまなんて!!・・・聖さまなんてーーー!!!

聖さまなんて・・・だい・・・好きなんだよ、本当は・・・。・・・聖さまの・・・バカ・・・。






第三十五話『ミラクル、ミラクル!』





きゃーーーーー!!!のーーーりーーーーこーーーーー!!!!

私は声にならない叫び声をあげた。風が顔面にバチバチ当たる。

痛いわ・・・すごく痛い・・・やっぱりあの顔面マスクも買っておくべきだったのよ・・・。

でも・・・この後おこるミラクルは、私のこんな些細な記憶をすっかりと塗り替えるほどの威力を持っていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨日から祐巳さんとお姉さまが行方不明になっていたけれど、今朝無事に蓉子さまから無事発見したと聞いて、

私は胸をホッと胸を撫で下ろした。最初は皆で探しに行こうと言っていたのだけれど、

結局祥子さまと蓉子さまが朝から探してくれたおかげで二人は無事発見された。

二人は相当凍えていたそうで、少し旅館で休んでから来るらしい。

という訳で、私は乃梨子と一緒に初めてリフトに乗って上まで行ったのだけれど・・・。

「乃梨子やっぱり駄目よ・・・私怖いわ・・・」

「大丈夫だよ志摩子さん!志摩子さんなら絶対に滑れるから、ね?ゆっくり降りよう?」

「・・・そうかしら・・・とてもそうは思えないのだけど・・・」

私は山の頂上から麓を見下ろした。いくら初心者コースとはいえ、やはりここは山。結構急勾配だ。

隣には由乃さんが下を見下ろし同じく大きなため息を落としている。

いつもは怖いものなしの由乃さんだけれど、流石にこれは怖いみたい。

「よしっ!私は行く!!志摩子さん!先に行くね!!」

「由乃さん!!き、気をつけてね!」

「ええ、大丈夫!!転んでも下は雪だし・・・そんなに痛くはないと思う!・・・多分・・・」

そう言って由乃さんはそろそろと滑り出した。そうよね!由乃さんの言うとおりだわ。

私もいつまでもここに居る訳にはいかないんですもの!!

私が板を前にゆっくりと滑らせようとしたその時、先に滑り出した由乃さんの壮絶な悲鳴が聞こえてきた。

「ぎゃーーーーーーーっっっ!!!!やっぱりだめぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!!」

・ ・・と。

ど、どうしよう・・・また怖くなってきちゃったわ・・・ど、どうすればいいのかしら・・・。

「志摩子さん、大丈夫?やっぱり来ない方が良かった?」

乃梨子が申し訳なさそうに私の顔を覗き込んで言った。私ったら・・・妹にこんな顔させるなんて・・・。

「だ、大丈夫よ。少し怖いだけだから。それにこうでもしなくちゃいつまでたっても乃梨子の足手まといになってしまうものね」

私がそう言って微笑むと、乃梨子も柔らかく笑ってくれた。キュンと胸が締め付けられる。

あぁ、また・・・マリア様・・・この気持ちは一体なんなのでしょう・・・。

「それでこそ志摩子さんだよ。大丈夫、私がついてるから!」

「ええ、心強いわ乃梨子」

乃梨子は私の手を強く握って、さらに笑った。眩しいほどの笑顔で。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「し、志摩子さん・・・ま、まだ無理そう・・・かな・・・?」

乃梨子はガタガタ震えながら私の腕を掴んだ。

「ご、ごめんなさ・・・でも・・・こ、怖くて・・・」

本当に申し訳ないと思う。でもね、でも・・・怖いのよ・・・本当に・・・。

かれこれ一時間も私たちは山の頂上に居た。

その間何度も何度も乃梨子に説得されたけど、どうしても私は滑り出すことが出来なかった。

「い、いいよ・・・志摩子さんに・・・合わせるか、から・・・」

歯をガチガチ言わせながら涙ぐむ乃梨子。あぁ・・・なんて私は罪深いんだろう・・・。

そしてどうして私はこんなにも勇気がないのかしら。その時だった。今度は後ろから怒鳴り声が聞こえてきた。

「だから!!どうして私を掴むのよっっ!!!転ぶんなら一人で転べって言ったでしょ!?」

「だ、だってーーーー、そんな事言われても、とっさに掴んじゃうんだからしょうがないじゃないですか!!」

「あー!!もう!!!ほら、グズグズしない!!・・・あれ?志摩子と乃梨子ちゃんじゃない。こんな所で何してんの?」

「・・・お姉さま・・・と、祐巳さん?」

物凄い大声で言い合いしていたのは他の誰でもない。さっきまで遭難していたお姉さまと祐巳さんだった。

もう滑ったりしていいのかしら・・・。

私はそんな事を考えながら二人がこっちへやってくるのを見守っていると、乃梨子は祐巳さんを見て小さく微笑んだ。

「祐巳さま・・・危なっかしいですね。あれじゃあ聖さまは大変だろうな」

「あら、でもお姉さまは楽しそうよ、とても」

そうなのだ。不思議な事に、私はお姉さまがあんな風に誰かと言い合いしているのを初めて見た。

それが何故かとても楽しそうに見えて・・・いつもは格好良いお姉さまが、

祐巳さんといるとどうもそれが上手くいかないみたいで。

「ほら、ちゃんとバランスとらなきゃまたこけるよ?」

「そんな事言われてもー・・・わっ、とっ、はっ!」

「・・・ぶっさいくだなぁ・・・」

「お姉さまったら」

私は乃梨子と顔を見合わせてお姉さまの一言に思わず笑った。

別に祐巳さんが本当に不細工だった訳ではないいのだけれど、お姉さまの哀れそうな声が何故かとてもおかしかった。

一生懸命バランスをとる祐巳さんを、ハラハラした様子で見守るお姉さまは、とてもりりしい。

「わわわ!!せ、聖さま・・・と、とめ・・・っっ!!!ぎゃうっっ!!」

「うわっ!こ、こっち来なくていいから・・っ!!!」

ドスン!!!

二人の声が私たちの目の前で重なった。そして次の瞬間二人の姿は視界から消えていた。

「いたた・・・だからどうして寄ってくるのよ・・・」

「わ、わかりません〜・・・」

「大丈夫ですか?お二人とも・・・」

「お怪我はありません?お姉さま、祐巳さん」

私たちが手を差し伸べると、二人は照れたように立ち上がった。

「さて、それじゃあ祐巳ちゃん覚悟はいい?」

お姉さまはそういって祐巳さんの肩をポンと叩いた。祐巳さんの顔は怯えきっていて声も出なさそう。

「それじゃあ行くからね」

「えっ!?い、いきなりですか!?も、もう少し練習しましょうよ!!」

そう!そうなのよ、祐巳さん!!たった一日や二日でスキーやスノボが出来るようになる訳ないのよ!!

分かるわ、祐巳さんの気持ちが今私痛いほどよくわかる!!

でも、そんな祐巳さんの提案をお姉さまはあっさりと却下してしまった。

「ダメ。そんな事言ってたら祐巳ちゃんいつまで経っても降りられないでしょ?」

「うぅ・・・」

「ほら、教えた通りにすれば大丈夫だってば!下は雪しかないんだから痛くない痛くない」

「い、痛いからいやなんですよっっ!!もう何回も痛い思いしたんですっっ!!」

「じゃあいい加減慣れたでしょ?ほら、もうグズグズ言わない!」

そして次の瞬間、お姉さまはなんと祐巳さんの背中を押したのだ!

「きぃぃぃやぁぁぁぁぁ!!!!せーさまのバカぁぁぁぁぁ!!!!!!」

「おー、早い早い!」

「お、お姉さま?だ、大丈夫なんですか?」

祐巳さんの悲鳴が山にこだましてまた返ってくる。お姉さまは楽しそうに笑いながら、私の質問に肩をすくめた。

・・・大丈夫じゃ・・・ないんですね・・・。

「志摩子もあんまりグズグズして乃梨子ちゃんを困らせないようにね」

「え・・・は、はい・・・」

お姉さまはそれだけ言って小さくウインクすると、多分派手に転んで動けなくなっている祐巳さんの元へ向かって行った。

「し、志摩子さん、大丈夫ですよ!私困ってなんか・・・」

「いいのよ、乃梨子。分かってるの。私に意気地がないからいけないのよ。私・・・いくわ!」

私はそういってストックを構えた。乃梨子に言われた通り腰を落とし、膝を内側へ・・・。

「志摩子さん!そうです!!それで少しづつ前に進んでいってください!」

乃梨子の応援が聞こえる・・・頑張らなきゃ・・・祐巳さんも由乃さんも頑張ったじゃない!行くのよ、志摩子!!

ゆっくり・・・ゆっくり・・・そろそろと滑り出した・・・と、思ったのは最初だけだった。

気がついたら目の端を呆気にとられる祐巳さんとお姉さまの姿が横切って、そして追い越した。

後ろから乃梨子の慌てた声が聞こえる・・・けれど、止まれそうにない。そして事件は起きた。

「志摩子さーーーん、止まってくださーーーーい!!!前、まえーーーーっっ」

「・・・え・・・?前・・・?よく見えな・・・っっっ!!!???」

突如目の前に現れたのは、それはそれは見事なジャンプ台だった。

多分スノボの技とかを練習するためだろう、と昨日乃梨子が言っていたっけ・・・。

って・・・ちょっと待って・・・このままのスピードで突っ込んだら私・・・そう思った時にはすでに遅かった。

気がついたら私は山を登っていた。

そして、怖くて体を丸めていたのが幸いしたのか、気がついたら雪に埋もれてその場にペタンと座り込んでいたのだ。

何がおこったのか全く分からない私の元へ一番に駆けつけてくれたのはやっぱり乃梨子。

「志摩子さんっ!!だ、大丈夫ですか!?どこか打ったりしてませんか!!??」

あまりにも慌てている乃梨子の顔を見て、私はきょとんとした。どうしてこんなにも慌てているのかしら。

だって、私は何ともないし、どこも打ってなどいない。それにはっきり言って何も覚えていないのだ。

「ええ、大丈夫よ。心配かけてごめんなさいね」

「ほんとですよ・・・心臓止まるかと思いましたよっ!」

乃梨子は胸をホッと撫で下ろし私を立たせてくれる。次にお姉さまと祐巳さんが一緒に駆け寄ってきた。

とはいっても、祐巳さんはお姉さまにしっかりと捕まってお姉さまが引っ張っているという感じだったけど。

「ちょ、志摩子・・・大丈夫なの!?」

「志摩子さん平気!?どこも痛くないの??」

「ええ、平気よ。どうしたの?三人とも・・・そんな幽霊でも見たような顔して・・・」

私は三人の顔を代わる代わる見つめて首を傾げた。何故か三人とも目を丸くしてこちらを見つめているのだ。

やがて最初に口を開いたのはお姉さまだった。

「いや〜物凄いアクロバットだったよ、志摩子。感動したわ・・・」

「お姉さま?仰ってる意味があまりよく分からないのですが・・・」

「何言ってんの・・・もしかして志摩子・・・あんた無意識のうちに?」

無意識のうちに?私・・・何かしたのだろうか・・・。全く何も思い出せない。

気がついたら私はジャンプ台に飛び乗り、次の瞬間には雪の中に埋まっていたのだから。

「そっか・・・無意識か・・・もしかしたら祐巳ちゃんにも秘められた才能が・・・」

お姉さまはそう言って私の顔を見た後祐巳さんをじっと見て首を振った。

「ある訳ないか。どう?祐巳やんも飛んでみる?」

「い、いえっ!!遠慮しときます!私がやったら確実に即死です」

「・・・だろうね。キミには地道な努力が一番だ」

お姉さまは祐巳さんの肩を慰めるようにポンポンと叩くと、こちらに向き直った。

「どこも怪我してないのね?一人で下まで行ける?」

お姉さまの言葉に、私は頷いた。どこも怪我はしていないし、それに私には・・・。

「大丈夫です、お姉さま。私には乃梨子がいますし、お姉さまは祐巳さんの練習に付き合ってあげてください。

乃梨子は何があっても私を支えてくれると信じていますから」

「・・・志摩子さん・・・」

「了解。それじゃあ祐巳ちゃん、下まで降りたらもう一度上まで行くよ!」

「えーっっ!?し、志摩子さ〜〜〜ん」

「頑張ってね、祐巳さん」

私はお姉さまに引っ張られながらだんだん小さくなる祐巳さんに手を振る。

お姉さまはやっぱり楽しそうに祐巳さんを引きずっていた・・・。

「志摩子さん・・・その、さっきの言葉・・・本当ですか?」

乃梨子が真剣な顔で私の目をじっと見つめる。私がコクリと頷くと、乃梨子も少しだけ照れたように頬を染めて頷いた。

何も言わなくても伝わる心。乃梨子は私の気持ちをとても理解してくれているのだと、私は思う。

時には、私の気づかない私の本心さえも・・・。だからこそ怖いと思うし、嬉しいとも思うのだ。

私は真っ青な空を見上げ、深呼吸すると笑顔で言った。

「さ、乃梨子!私たちもいきましょう!」

「え、ええ・・・それはいいんですけど・・・本当にどこも痛く・・・ないんですか・・・?」

恐々私を上から下まで見下ろす乃梨子。

「ええ。一体どうしたの?お姉さまといい乃梨子といい・・・一体私何をしたの?」

「本当に覚えてないんですかっ!?」

「ええ、全く」

「そうですか・・・それなら知らない方がいいんじゃ・・・」

そう言って乃梨子は口を噤んだ。何かを考え込むように口元に手をあてた真剣な眼差しは、とても頼りがいがある。

それにしても・・・私ってば一体何をしでかしたのかしら・・・皆本当に変な顔して私を見ていたけれど・・・。

「気になるわ、乃梨子!いいから言ってちょうだい!」

「で、でも・・・」

「乃梨子ってば!」

私はある程度の事は予測していたつもりだった。

「・・・分かりました・・・あのですね、志摩子さんはさっき・・・」

・ ・・ところが、乃梨子の言葉は私の想像の範疇を超えていた・・・。

「・・・ジャンプして一回転したんですよ・・・それはそれは見事な一回転でした」

「っ!?・・・・・ふ・・・ふふふ・・・ふふふははははは!!!」

乃梨子の言葉を聞いて、私は何故かおかしくてしょうがなかった。決して面白かった訳じゃない。

「し、志摩子さん!?大丈夫ですか!!??やっぱりどこか打ったんじゃ・・・」

乃梨子の慌てる様を横目に、まだ私の笑いは止まらなかった。

・ ・・人間って、怖すぎると笑えるものなんですね・・・マリア様・・・。







第三十六話『幸せの時間泥棒』



この旅行で二人の間に一体何があったのかはわからないけれど、少なくとも以前とは違う何かを私は感じていた。

「それにしてもよく寝てるわねー。蔦子ちゃん、その二人の写真ばっちり納めておいてちょうだい」

そう言ったのはSRG。助手席から後ろを振り返ってニヤニヤしている。

「任せておいてください!」

重大な指令を受けた蔦子さんはビシっと敬礼をして、カメラを構えている。

フン。何よ、こんな保健医・・・まだ子供じゃない。聖さまはもっと・・・もっと・・・。

そこまで考えて私は考えるのを止めた。

「・・・バカバカしい・・・」

「何か言った?静ちゃん」

私の言葉に反応したのはSRGだった。挑むような挑戦的な眼差しをこちらに向けている。

「いえ、別に」

私はそれだけ言って窓の外に視線を移した。聖さま、聖さま、聖さま・・・一体いつまで私はこの人を想い続けるのよ!!

はっきりしない聖さまの態度は大っ嫌い。けれど、いつまでもモヤモヤしている自分も大っ嫌いだった。

初めて聖さまと出会ったのは高校一年生の時。たまたま廊下ですれ違ったのがきっかけだった。

あの頃の聖さまはもっとずっと髪が長くて、歩くたびに淡い色の髪が光を含んで一本一本がきらめくように透き通っていた。

私は目の前を通り過ぎてゆく髪をじっと見つめていた。ただじっと・・・。

聖さまの顔を初めて見たのはオメダイを受け取った時だった。

髪と同じように透き通るような白い肌と、澄んだグレイに近い垂れ気味の瞳が印象的だった。

「ごきげんよう」

「ご、ごきげん・・・よう」

初めて声を交わしたのはたったのこれだけ。冷たいような、寂しそうな、そんな不思議な声だった。

でも、恋に落ちるには十分だったのかもしれない。

それから私は合唱部に入って、恋の歌を多く歌うようになった。

先生からは感情の幅が広がったと褒められたけれど、私はそんなものでは納得出来なかった。

だって・・・いつまでたっても片思いの歌しか歌えなかったんですもの・・・。

それからずっと、私は見つめるだけだった。ただ遠くから聖さまを見つめるだけの存在。

そこらへんの生徒たちと同じように、声をかけることもできず、その存在を見守るだけの・・・。

ある日を境に聖さまの表情が変わった。何というか、とても嬉しそうだったのだ。

でも、どこか痛みを帯びた嬉しさだったのかもしれない。今から思えば。

その時だった。物思いにふけっている私の肩を突然誰かが叩いたのだ。

「静―・・・悪いんだけどそこの毛布取ってくれない?」

私の心臓は飛び出しそうになった。たった今考えていたその本人が突然体を起こしたのだ。

「起きたんですか?」

「ん・・・何か肩が重くて・・・って、祐巳ちゃんか・・・全くもう」

聖さまはそう言って自分の肩に置かれた頭の持ち主を見て微かに目を細めた。

途端に私の脳裏を高校二年生の時の記憶が蘇る。

そう・・・あの時の顔だ・・・栞さんと一緒にいた時の・・・。でも・・・少しだけ・・・違う・・・?

そうだ・・・痛みが無いんだ・・・今の聖さまの顔には、痛みというか、棘が無い。

私は無言で、丸めて脇に避けてあった毛布を取ると聖さまに手渡した。

「どうぞ・・・」

「サンキュ!あーもう、重いなぁ・・・」

聖さまはそう言いながらも祐巳さんの頭を避ける事はなく、むしろ起こさないようにそっと体を動かして毛布をかける。

ちゃんと祐巳さんも入るように・・・そっと。

「祐巳さんと仲・・・いいんですね?」

「ん?そうかな?別に、普通じゃない?」

ウソだ。貴女は決してそんな事しなかったじゃない。いつだって・・・そうだったじゃない。

誰にでも優しくて、誰にも優しくない・・・そんな人だったじゃない・・・。

だから私はいつも我慢していられたの。あの栞さんにさえ・・・特別だった人にさえ優しくなかった貴女だったから・・・。

「仲いいですよ・・・とても・・・仲良さそうに見えますよ?」

「そううかなー?だって、こんな顔して寝られたら起こせないでしょ?」

そう行って聖さまはチラリと祐巳さんの顔を覗き込んだ。ついつい私もつられて祐巳さんを見てしまう。

プ・・・っと、いけないいけない。笑っちゃうところだったわ。なるほど、私は頷いた。

「・・・確かに、起こせませんね」

「でしょう?ほんと、何の夢見てんだか・・・」

聖さまは肩を揺らさないよう気をつけながら笑った。祐巳さんはうっすらと笑みを浮かべ、幸せそうな顔をしている。

罪のない、無垢な笑みだ。・・・無垢と言えば・・・あの人もとても繊細で無垢に見えたっけ。

私は聖さまの唯一の想い人だった栞さんを思い出した。白のイメージのとても美しい人だった。

いつも穏やかに微笑んで、物静かな・・・そう、まるで天使のような・・・。

聖さまはきっと栞さんのそんな所に惹かれたのだろう。人間の持つ暗い部分は、彼女には無縁そうだったから。

でも・・・それも終わってしまった。

聖さまは結局、私や他の生徒たちのように、栞さんに想いを告げず、ただ見守る方を選んだのだ。

聖さまは以前とは比べ物にならないほど、ひょうきんで明るくなった。

いや・・・そんな仮面を被った。

でも、私にはそんなものお見通しだったし、それがただの強がりでしかなかった事も分かっていた。

だから聖さまがリリアンの教師になると聞いた時、私は素直に驚いた。

てっきりどこかリリアンには全く関係のないところへ行くとばかり思っていたから。

「静はさー、彼氏とか作んないの?綺麗なんだからモテるでしょうに」

「・・・そうでもありませんよ」

「嘘だー。気づかないだけなんじゃないの?」

「その台詞、聖さまにそっくりそのままお返ししますわ」

「何、それ?変な静」

ふぁ〜、と大きな欠伸をする聖さま。そして今度は祐巳さんの頭に自分の頭を乗せるような形で瞳を閉じた。

そんな些細な行為なんだけど、羨ましくて羨ましくてしょうがない。当時は栞さんが、今は祐巳さんが。

私ってば、一生こうやって誰かを羨んで生きるのかしら・・・。バカみたい。

高校二年の時にはっきりと振られたのに、ごめんね、といわれたのに。未だに未練がましくこんな風に聖さまを見つめて・・・。

きっと聖さまにはもうわだかまりは少しも残っていないのだろう。いえ・・・初めからそんなもの無かったのかも・・・。

だからきっと平気であんな事言えるんだわ。

「静ちゃん、聖起きてる?」

聖さまの寝顔をじっと見つめていた私に、SRGは言った。周りを見ると、私の他には誰も起きていない。

「いえ・・・また眠ってしまいましたけど・・・」

「あら残念。折角運転代わってもらおうと思ってたのに」

「起こしましょうか?」

「いいわ。もう少し頑張れるわよね?蓉子ちゃん?」

そう言って肩を叩かれた蓉子さまは明らかに嫌そうな顔をしているんだけれど、何も言わずただ頷いた。

「本当に大丈夫ですか?蓉子さま」

「ええ、どうにか・・・でも、そろそろ限界よ・・・」

「やっぱり誰かに代わってもらった方がいいんじゃ・・・」

聖さまを起こすか・・・生憎私は免許持ってないし。私が聖さまに手をかけようとした瞬間、SRGがそれを止めた。

「静ちゃん、起こさないであげて。もう少し寝かせてあげましょ。だってほら・・・」

SRGは聖さまを指差し優しく微笑んだ。私は聖さまを振り返る。

「あんなにも幸せそうなんですもの・・・」

なるほど、頷けた。聖さまは祐巳さんにもたれて、何とも言えない笑みを浮かべていた。

まるで今が一番幸せだといわんばかりの笑顔を浮かべて・・・それに祐巳さんも。

そして私は、自分でも信じられない行動に出ていた。

気がつけば携帯を取り出し、幸せな夢の中にいる二人にカメラを向けたのだ。

パシャリ。

小さな音が幸せの瞬間を切り取る。あっけないほどに、簡単に。

「内緒ですよ?」

私は小声でSRGに言った。SRGも小さく笑い言う。

「もちろんよ」

と。

私は画像をそっと鍵のついたフォルダにしまった。誰にも見られないよう、まるで宝物を隠す少年のように。

これは私だけの瞬間。私が何かを振り切る為の、大事な大事な・・・一瞬なのだから。




第三十七話『雨降り、どしゃ降り、天気雨』



新学期が始まってもまだ、あの奇妙な感覚はずっと続いていた。

スキーから帰ってきてから一度も祐巳ちゃんの家には行っていないし、できるだけ保健室も避けていたのに。

できるだけってことは、つまりはせいぜい行く回数を週五日から三日に変えたってだけの話なんだけどさ。

だって、今まで毎日顔合わせてたのに突然顔が見れないと思うと、余計にモヤモヤしてくるんだから仕方ない。

多分これがきっと災厄の始まりに違いないんだと思う。

祐巳ちゃんがこの学校にやってきて半年、一度だって栞の事を忘れた事はなかった。

祐巳ちゃんと栞を比べようもないけれど、いつもどこかに栞を探していた私は、今までどれほど愚かだったのだろう。

お姉さまに言われたからじゃない。いや、多少はあるかもしれないけれど、でもそれだけじゃない。

栞と祐巳ちゃんは似ても似つかなくて、でも追い出してやろうという気は起きなくて、だからといって仲間という感じでもない。

不思議な距離感が私たちにはあるんだと思う。でもそれが近づくことは・・・きっとない。いや、そうでなければならない。

でないと私はまた、大事な何かを失うような・・・そんな気がするから・・・。

「あの・・・先生、ちょっと分からない所があるんですけど・・・」

クラスの中でもとびきりの美人が手を挙げて私を呼んだ。腰まである長い髪を1つに束ね、前髪をまっすぐに切りそろえてある。

どことなく雰囲気が栞に似ているこの子は、私のお気に入りでもあった。

いやいや、教師がそんな事言っちゃいけないんだけど。

私は彼女のノートを覗き込み、耳元で囁くように言った。

「どれ?」

「え、えと、これです・・・」

そういってノートを指差すしなやかな指は微かに震えている。ふふ・・・可愛いなぁ・・・。

私はそんな考えを打ち消すように彼女のシャーペンを手から取り、サラサラとノートにヒントを書き出した。

すると彼女は実に少女らしく頬を染め小さな声で、ありがとうございます、と呟いた。

「いいえ、どういたしまして」

そう言ってその場を去ろうとした私に、彼女はポツリと言った。

「あの・・・佐藤先生、もう1つ聞いても・・・いいですか?」

「ん?何?」

「えと、あの・・・その・・・祐巳ちゃ、祐巳先生とお付き合いしてるって噂・・・その・・・本当ですか?」

は!?

私は声にならない声を飲み込んだ。ちょ、ちょっと待って、一体どこからきたの?その話??

ていうか、そんな噂になってんの!?

私はゴクリと唾を飲み込むと、周りを見渡した。するとクラスの中の何人かと目が合った。

「えっと・・・どっからきたの?その話」

「どこからというか・・・誰から見ても・・・って感じですけど・・・」

「えっ!?」

「だって、先生保健室によく行くし・・・祐巳ちゃ・・・祐巳先生とよく一緒に帰ってるし・・・」

「そ、それはそうだけど・・・でも私たちは家が隣同士だから一緒に帰ってるだけよ?

それに保健室に行くのはお菓子とかお茶が出るからで別に他意は・・・」

そこまで言って私はふと思った。本当に?ねぇ、本当に私はお菓子やお茶が目当てなの?と。

もしかしてそれは、ただの口実なんじゃないの?そんな考えがどこからともなく湧いて出てくる。

「そうなんですか?それじゃあデタラメなんですね!?」

「え?ええ、まぁ・・・そうね」

「なんだ!良かった!!・・・あ・・・」

彼女は慌てて口を噤んで顔を赤らめたけれど、私はそれには気づかなかった。

ていうか、それどころではなかった。

ちょっと待ってよ、どうして栞の時にはそんな噂話1つも出なかったのに、

よりによって祐巳ちゃんとそんな話になってるっていうのよ。

胸の中に、冷たい雨が降り注いだ。まるでバケツをひっくりかえしたみたいなどしゃ降りの雨が。

でもこの雨が何を悲しんでいるのかは分からない。

私には栞しかいないのに、という雨なのか、それとも祐巳ちゃんとの関係に気づかない自分への雨なのかが。

私にとって、祐巳ちゃんとは一体どういう存在なのだろうか。

友達?同僚?仲間?それとも・・・想い人?まさかね、それはないか。

それに祐巳ちゃんも言ってたじゃない。今好きな人がいる、と。

とりあえずはっきりしてるのは、もうこれで当分祐巳ちゃんの顔を見ることが出来そうにない、という事だけだった。

「ほら、そんな事より早く問題解いてね。でないと私ヒマでヒマで寝ちゃいそうだから」

私はそういって教室の中を見回した。クラスの中の数人はまだ私の顔を見ていたけれど、私はそれを無視することにした。

だって、これ以上あれこれ詮索されるのは、とても不愉快だったから。

授業が終わって、ジョシコウセイに解放されてもまだ私の心の中には雨が降っていた。

少しづつ勢いは弱くなってはいるものの、まだまだ降り続きそうだった。

帰り間際、蓉子に会った。蓉子は昇降口のところで困ったようにため息をついていた。

「どうしたの?ため息なんかついて」

「あら、聖も今帰り?」

「うん。蓉子も?今日はヤケに早いじゃない」

「ええ、ちょっとね。用事があって・・・でも、困ったわね・・・」

蓉子はそう言って私の顔をしばらく見つめていたけれど、やがて何かを諦めたようにため息を落とした。

「何よ?感じ悪いなー」

「いえね、雨が降ってるのよ・・・天気雨みたいなんだけど・・・でも、貴方どうせ傘なんて持ってないでしょ?」

ああ、なるほど。それで私の顔見てため息ついたんだ。それにしても失礼極まりないけど。

「残念でした。ところが私傘持ってるんだよね」

そう言って私は鞄の中からガサガサと折りたたみ傘を取り出した。それを片手でポンと広げる。

「・・・どうして聖が・・・そりゃ雨も降るわよね・・・」

「ほんとに失礼ね!私だってたまには傘ぐらい持ってるわよ」

なんてね。ほんとはずっと入れっぱなしにしてるだけなんだけど。

私はその傘を蓉子に手渡すと、靴を履き替え空を見上げた。ほんとだ・・・天気雨だ。

空は青空なのに、雨粒がパタパタと頬を打つ。まるで今の私の心を表しているかのよう。

「ちょっと、聖!?」

「貸したげる!」

「貸したげるって・・・聖はどうするのよ!?」

「私はいい、ちょっと濡れたい気分なの。それじゃあ、また明日ね!」

そう言って私は水溜りを避けながら走り出した。内側も外側もずぶ濡れになってしまえば、少しは気分が晴れると思ったのだ。

冷たい雨に、冷たい心・・・一体私はどうしてしまったんだろう。どうしてこんなにも・・・泣きたいんだろう・・・。










続く・・・