「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

まだ聞きなれない挨拶がそこらかしこに飛び交っている。

私福沢祐巳は今日この学校に配属になった新米教師だ。

科目は・・・というか、ぶっちゃけ保健医なんだけど。

正直言うと、この学校に来る前は凄くドキドキしていた。そう、不安だった。

だって、女の子ばかりの学校で、果たして自分なんかが保健医としてうまくやっていけるのかどうかが。

しかも高校生なんて一番多感な年頃で、正直どう扱っていいものかも分からない。

それぐらい私は新米なのだ。何せついこの間大学を出たばかりなのだから・・・。

噂に聞いていたこのリリアン女学園というところは、なんだかとても評判が良く、

困った生徒も居ないし初めてにしては運がいい、と周りには言われてきたけれど・・・。

本当のところはどうなのだろう・・・。

「でも・・・やってみなくちゃ分からないよね」

私は心配事を振り払うように頭をブンブン振った。

綺麗に並べられた銀杏並木が、私を応援してくれてるみたいにザワザワとざわめく。

パンパンと頬を叩き、気合をいれ歩き出す。

「さて、頑張るぞっ!!」

校舎はもう目の前。沢山の生徒が私に軽い会釈をして通り過ぎてゆく。

私は思い切って勇気を出して、まるで合言葉のようなあの言葉を言った。

「ごきげんよう!」

と。

そう言った瞬間、私の足元を冷たい風が吹き抜けた。



第一話。『保健医の祐巳ちゃん』



とにかく広い。第一印象はそれだった。

流石に幼稚舎から大学まで付属となると敷地はめまいがするほど広く、うっかりしていると迷子になってしまいそうなほどだ。

「覚えられるかな・・・」

私が少しばかり不安になってきたちょうどその時、

目の前から一人の女の人がまっすぐこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

制服を着ていないところを見ると、誰かの父兄か私と同じ教師だろう。

私はその人に向かってペコリとお辞儀をすると、その人も微かに微笑んでお辞儀を返してくれた。

肩の辺りでばっさりと切りそろえられた髪がフワリと上品に揺れる。

なんて綺麗な人なんだろう・・・私は思わずその人に見とれてしまって挨拶する事すら忘れていた。

「アナタ転入生?制服はどうしたの?」

「・・・へ?」

私はちょっと慌てた。どうも転校生と間違われたらしいのだ。

「い、いえ・・・あの、私は・・・」

「あっ!分かった!!誰かここの生徒の妹さんか何か?

クラスが分かっているのなら呼び出ししてあげるけれど、お姉ちゃんのクラス分かる?」

「え、えーと・・・」

「どうしたの?何か届けに来たんでしょ?」

「いえっ、あの・・・ですね。私はその・・・」

「なぁに?ハッキリ言わなきゃ分からないわよ?」

「えと、私は今日からこの学校で保健医として配属になった、その・・・福沢です・・・」

私はもう、頭が真っ白だった。だって、しょっぱなから中学生・・・もしくは小学生に間違われたのだ!!

怒りを通り越して呆れも通り越して、なんだか悲しい。

やっぱりこのツインテールが子供っぽすぎたのだろうか・・・?

私の答えに女の人は一瞬頬を強張らせた。・・・ように見えた。

そして次の瞬間、驚きと申し訳なさそうな顔がいっぺんに浮かんだかと思うと、私の前にスッと手を差し伸べてきた。

「え、えっと?」

「ごめんなさいね、私はここの理事長の水野蓉子。今日からよろしくね、祐巳ちゃん」

・・・ん??理事長・・・?この人が?こんなにも若くて綺麗なのに理事長・・・という事は・・・一番偉い人って・・・事??。

「ええーっ!?り、理事長っっ!!??」

「ええ、本当にごめんなさいね。てっきり中等部の子が紛れ込んだのかと思っちゃって」

そう言って理事長はまだ固まったままの私の手を半ば無理やり握ると強引に握手をして、そのまま私の手を引いた。

ヤバイ・・・理事長に私かなり失礼だったんじゃないだろうか・・・。

それにしても・・・いつまで手を繋いでいるつもりなんだろう。別に逃げやしないのに・・・。

私は黙って繋がれたままの手をじっと見た。細い指にはシミ一つない・・・顔だけじゃなくて手まで綺麗だ・・・。

「でも助かったわ。あなたが来てくれて。

ついこの間保健医の先生が辞めちゃったもんだからどうしようかと思ってたのよ」

「辞めちゃった・・・?」

どういう事だろう。この学校の評判はかなりいいのに・・・寿退社とかそういうのだろうか?

私が不思議そうな顔をしていると、理事長は振り返って私の顔を見るなりプっと噴出した。

「言っておくけど寿退社じゃないからね?」

「えっ!?ど、どうして・・・」

私、今声に出してた??思わず両手で口を押さえる私に、理事長はさらに笑う。

「声じゃなくて顔よ、顔。あなたの考えが顔に全部出てたわよ」

「・・・はぁ」

そうか・・・顔か・・・。

保健医になる時、周りの人たちは皆それを止めた。

お前は顔に考えてることがすぐに出るんだから絶対に向いてないって。

その時はそんな事ない!!

って思ってたけど・・・やっぱり私はどうやら考えてることが全部顔に出るらしい。

まだ出会って何分も経たない人にそう言われたのだから、これはもう認めるほかなさそうだった。

「ウチは生徒には何の問題もないのよ。ただね・・・」

理事長はそこで口を噤んだ。気になる・・・そんなとこで止められたら思いっきり気になるじゃない!!

私が何か聞こうとするよりも先に、理事長が先に口を開いた。

「まぁ、大丈夫だと思うわ。きっと。しっかりやってちょうだいね、祐巳ちゃん」

「えっ!?は、はぁ」

なんだか腑に落ちない。というよりもそこで話は終わりかいっ!!

生徒たちは問題ない。でも、何かが原因で前の保健医は辞めてしまった・・・。

一体何が問題だったというのだっっ!!!

私の不安はさっきまでのとは比にならないほど膨らんで、今や破裂しそうなほどだ。

そうこういってる間に既に職員室の前。もう逃げられない・・・そう、ここは多分、戦場に違いない・・・そう、思った。




第二話『理事長の蓉子さま』


一週間前一人の保健医が辞めた。原因は・・・アイツだ。

誰も何も言わないのは、アイツが彼女に何かしたのだ。そう・・・多分いつもの悪い癖が出て。

結局彼女はこの学校を去り、アイツだけは我知らん顔をしているのだ。

理事長として、これは放っておくわけにはいかない。もちろん、親友としても。

私はいつもよりも早く学校に向かい、アイツが来るのを待っていた。

アイツはいつも腰まである長い髪を束ねる事もせず、ヒラヒラと風に泳がせて、

まるで釣りをするときの浮きみたいにそれを餌にしていた。

例えるなら熱帯魚のような見た目の美しささえ武器にして、いつだってやりたい放題なのだ。

まだ生徒には手を出した事がないのは、不幸中の幸いなのか、

それがヤツのモットーなのかは分からないけれど、どちらにしても今回はやりすぎだった。

付き合うのなら付き合えばいい。もう大人なのだ。

でも、いつもヤツは相手が焼け付いてしまうまで追い詰めては、逃がす。

というよりも、逃げられる・・・と言った方が正しい。

「ほんと・・・一体何を考えてるのよ、あのバカは」

私は職員室にまだアイツが来ていないのを確認すると、足早にその場を後にした。

なんと言ってもアイツは遅刻の常習犯だ。まさかとは思ったけどやっぱり来ていない。

しょうがないから私は教師専用の駐車場まで迎えに行くことにした。

それでなくても彼女の辞めたあの日からアイツは無断欠勤しているのだ。

いつまでもそれをズルズルと放っておくわけにもいかない。

とはいうものの、今日来るという確信もないのだけれど。

「どうしたものかしらね・・・」

私は昇降口から外を眺め大きなため息を落とした。白い息が冷たい空気にさらわれて溶ける。

その時だった。チラリと目の端に一人の少女が映った。

こんな時間なのに何故か制服を着用していない少女は、私と目が合うとすぐにペコリとお辞儀をする。

私もそれに習い小さくお辞儀を返すと、笑みを浮かべようと努力したがうまくいかなかった。

「アナタ転入生?制服はどうしたの?」

近寄ってそう尋ねた私に、少女は少なからず戸惑ったような表情を浮かべた。

おかしいな・・・今日誰か転入してくるなんて話無かったのにな・・・。

そう思いながら私は少女と少し話しをした。

てっきり中学生だと思っていたその少女は、実は新しい保健医だと知ったのはそれからすぐの事だった。

私はなんだか申し訳なくなって苦笑いを浮かべる祐巳に簡単な自己紹介をして手を差し伸べたが、

祐巳はやはりまだ戸惑っている。

そりゃそうだ。普通理事長と言えばもっと年老いた人を思い浮かべるだろう。

多分、この中学生みたいな少女もそう思ったのだろう。

「でも助かったわ。あなたが来てくれて。

ついこの間保健医の先生が辞めちゃったもんだからどうしようかと思ってたのよ」

本当に・・・どっかの誰かのせいで一人、また一人とこの学校を辞めていくのだ。

一体今回で何人が辞めていってしまったか、もう数えるのも嫌なほどに。

「辞めちゃった・・・?」

この話を聞いて祐巳の表情は一瞬曇ったけれど、それはすぐに笑顔に変わり、

また不思議そうな表情に戻った。

多分、辞めた理由についてあれこれと考えたのだろう・・・顔が全てを物語っている。

私はそんな祐巳がおかしくて思わず噴出してしまった。

重ね重ね失礼だとは思うけれど、どうにも分かり易すぎていけない。

「言っておくけど寿退社じゃないからね?」

「えっ!?ど、どうして・・・」

「声じゃなくて顔よ、顔。あなたの考えが顔に全部出てたわよ」

「・・・はぁ」

急いで両手で口を押さえる少女・・・いや、れっきとした保健医の祐巳は、顔を真っ赤にしている。

さっきまであんなにもイライラしていた気分も、今はもうどこかに行ってしまったみたいに和らいでいた。

「ウチは生徒には何の問題もないのよ。ただね・・・」

教師の方に少し問題があるのよ・・・とは、口が裂けても言えなかった。

だって、言える訳がない。髪の長い西洋美人には気をつけなさい、だなんて。

私はそこまで言って口を噤むと、もう一度少女を見てにっこりと笑った。今度はちゃんと自然に笑える。

「まぁ、大丈夫だと思うわ。きっと。しっかりやってちょうだいね、祐巳ちゃん」

そう、きっとこの子なら大丈夫だろう。

この何とも言えない呑気な空気とか、愛らしいというべきこの愛嬌とかは、

アイツの好みではないはずだから。

それに・・・この子はどこか不思議な力がある。きっと、保健医という職業には無くてはならない何かが・・・。

私は職員室の前まで来て足を止めた。祐巳と繋いだ手をそっと離し、軽く背中を押す。

頑張ってね、祐巳ちゃん。ここの教師達は皆一癖も二癖もあるけれど、きっとあなたなら大丈夫。

でもその日、私はヤツを見て息を呑んだ。そして何も言えなくなった。

ただ一言、祐巳に心の中で呟いた一言以外は。

・・・祐巳ちゃん、髪がざんばらの西洋美人には気をつけなさい・・・。





第三話『一癖も二癖もある連中』



何となく・・・何となくだけど、前の先生が辞めた理由が分かった気がする。

まだ初日、しかも何時間も経ってない・・・それなのに、だ。

何故かって?理由は簡単。それはこの学校の先生達のせいなのだ、きっと。

だから蓉子さまはあの時口を噤んだに違いない。いや、それ以外にありえない。

とりあえず簡単な自己紹介をした私に、一番にちょっかいをかけてきた人。

まずこの人には要注意が必要そう。

名前は佐藤聖さま(何故か皆がさまづけしているので)。担当は英語・・・らしい。まぁ確かに、顔は凄くいい。英語も話せそう。

でも、人間として何かが間違えているような気がしないでもない。

だって、紹介が終わったと同時に私に抱きついた挙句、ほっぺにキスまでされたのだ!!

ありえない!!ココが日本だって事を忘れそうになるぐらいスマートというか、慣れてるっていうか・・・。

とにかく!!この人にはあまり近づかない方が良さそうだと、私の狩られる動物みたいな本能がそういった。

次に鳥居江利子さま。担当は数学。

とりあえず眠そうな顔。でも美人。ここ重要だと思う。

一見害が無さそうだけど、何考えてるのか分からないから・・・ちょっと怖い。

どうやらヘアバンドが彼女のトレードマークらしい。

これは後から由乃さんに聞いた話だけれど、実はあのヘアバンドは言うことを聞かない生徒たちの、

首を絞めるためだとか何とか言ってたけど・・・まぁ、流石にそれは嘘だろう。

次に国語担当の小笠原祥子さま。

切れ長の目と長い黒髪がすごく綺麗で印象的だけれど、その話し方とかを聞いてる限りじゃ相当お嬢様っぽい。

それに、ちょっと神経質そうだった。

会って何分もしないうちに呼び捨てにされたのには、流石にちょっと面食らったけど・・・。

次に社会担当の支倉令さま。この人がなんだか一番マトモそう。

一瞬男の人かな?とも思ったのだけれど、女の人だった。

でも、丁寧な話し方とか物腰が柔らかそうなので、なんとなく好感が持てたのは言うまでも無い。

でも・・・この中じゃちょっと影が薄そうっていういか何ていうか・・・ゴニョゴニョ。

そして私と同い年の島津由乃さん。家庭科担当・・・らしいんだけど・・・。

ちょっと話した感想ではあまりむいてそうにない。

でも、人には隠れた才能ってものがあるのかもしれないし、それには触れないでおいた。

さて、この中でもとりわけ美少女なのが藤堂志摩子さん。古典担当だそう。

ふわふわで綿菓子みたいに甘そうな、可愛い人。何と私と同じ歳!

憧れちゃうなぁ〜って感じ。

で、この志摩子さんの隣で鋭い視線を投げかけるのが道徳担当の二条乃梨子ちゃん。

歳は一つ下なんだそう。でも・・・すごく志摩子さんの事が好きみたい。

それに、話し方とか物腰とかが妙に淡々としていて、ちょっと冷たいイメージ。

そしてカメラ小僧・・・もとい理科担当の武嶋蔦子さん。

ていうかね、なんか物凄く写真撮られちゃったんですけど・・・皆も苦笑いしてるし。

何でもカメラは蔦子さんの体の一部なんだそう。相当好きなんだろう。写真が。

音楽担当なのは蟹名静さま。

ちょっと意地悪っぽい笑みが可愛らしい。でも、声はすんごい綺麗!!流石音楽の先生!!

でも同じ意地悪な笑みなんだけど、聖さまとはまた違う笑い方だ。

なんていうか、子供みたいな笑みというか、それが凄く印象に残った。

最後は・・・まだ来てない・・・。

ていうか、それでいいのか!?リリアン女学園!!

何でも数々の伝説を作ってきた人で、担当は体育らしいんだけど・・・・。

皆が言うには一番の権力を持っている・・・らしい。それについては蓉子さまも頷いてたから・・・多分本当なんだろうな。

しかも誰も名で呼ばないらしい。じゃあ何て呼ぶのかって?それは・・・SRG・・・だそう。

なんじゃそりゃ・・・何だかロック歌手みたいで笑える。でも・・・それは言わない方がいいみたい。

とりあえず皆が皆我が強いっていうか、よくいえばとても個性的。

でも、そんな中で平々凡々なこの私がやっていけるのかどうか・・・それは怪しいかもしれない。

だって、よくよく話を聞けば、ここにいる全員がこのリリアン女学園のOBなんだそうで・・・。

すると私は・・・。

「祐巳さん・・・アウェーね」

「よ、由乃さん!?」

ボケっとしている私にいつの間にか後ろに立っていた由乃が耳元でこっそりと囁いた。

・ ・・周りを見渡すと皆興味津々といった感じでこちらを見つめている。

なるほど、私は今、ここでは宇宙人みたいなものなのだ。

誰かの手によって解剖されるのをただじっと待つ・・・もしくはうっかり狐の群れに迷い込んだ狸といったところか。

いつ化かされるか、それともこちらが先に化かすのか・・・いや私にそんなスキルはないけども。

でも・・・考えようによっては、なかなか楽しそうだった。とりあえず取って食われるって事はないだろう。

それならば、種族の違うもの同士でも仲良くなる術だってあるはずだ。

特に・・・気をつけなければなさそうな人を除いては・・・どうにかやっていけそうだし。

私はもう一度大きくお辞儀をして、今度はハッキリと言った。

「どうぞ、よろしくお願いしますっっ!!」

と。


第四話『涙が出ない訳』



昨日、彼女に振られた。正しくは彼女だと思ってた人に、振られた。

これでもう何回目だろう。もう数えるのも止めた。

誰も信じてくれないかもしれないけれど、今回は本気だった。自分ではそう思ってたつもりだった。

でも、相手はそうじゃなかったみたい。珍しく手も出さず大事にしてたのに手を出そうとした途端に引っかかれた。

彼女は私の事を罵りはしなかったものの、哀れむような、悲しい瞳で言った。

「マリアさまがみてるから・・・」

と。

彼女は私よりも一つ下で高校からの付き合いだった。

でも、実際彼女に告白したのは最近のことで、それまで私はずっと自分の気持ちに嘘をついて生きてきた。

ようやく心の準備が出来たと思って告白して、それを受け入れられた時、私は嬉しくてしょうがなかったのに、

今は気持ちを打ち明けた事をこんなにも悔やんでいる。

でも、もし彼女との友情が続いたとして、彼女が他の人にさらわれてゆくのをきっと私は見ていられなかったから、

これで良かったとも思う。

どうしようもなく乾いた気持ちとか、虚しさとか、吐き出したい気持ちは一杯あるのに、

どれ一つとして出てこようとはしなくて、結局私は泣く事も出来ず、忘れる事も出来なかった。

よく保健医の彼女のテリトリーである保健室に入り込んでは、他愛も無い話をして過ごした時間が、

全ては無駄だったのだと思うと、こんなにも乾いた気持ちにも納得がいく。

それほど彼女を想った時間は長く、辛いものだった。

私は軽薄で、嘘も平気でつく。けれど、彼女に嘘を言った事はなかったし、これからもきっと無いだろう。

二度と会うことが無いと分かっていても、それだけは誓える。

高校時代、彼女に会うまでは私はもっと擦れていて、他人など、自分ですらどうでもいいと思うような節があった。

より他人を遠ざけるためには無口で居るよりも軽薄でいたほうがいいと悟ったのは、もう少し大人になってからのことだった。

それからはもう、人生がこんなにも楽だったなんて知らなかった私にとっては目から鱗が落ちるようだった。

その中でも彼女だけは特別で、いつもずっと近い場所に居た。

私は彼女を愛する為に彼女を遠ざけたのに、彼女はいつでも傍にいた。

例えるなら彼女は猫のようだった。しなやかに私の心を振り回し、近づくとそっと離れる。

そんな静かな猫のようだった。今考えれば私と彼女は同じ穴のなんとやらで、決して上手くいくはずもなかったのだ。

何度も失恋を繰り返しては彼女の元に戻る私を彼女は咎めることもなく、慰めるでもなかった。

ただじっと座って言うのだ。

「聖は泣かないのね」

と、静かに言う。そう、私は泣かない。誰にも心は見せない。ずっとそうやってきたのだ。

泣けばきっと皆が慰めてくれるのだろう。けれど、それは子供のすることだ。私はそう、思っていた。

少なくとも、私は大人でいたかった。大人になりたくてしょうがなかったのだ。強い大人に。

結局静かな猫が見せた、たった一度の爪は、私に深い傷を残すことになった。

癒えそうも無い痛み、でも泣かない。

私が登校拒否を始めて次の日、親友は電話口で言った。

「彼女は辞めたわ」

それがどんなに絶望的な言葉だったのかは、私にしか分からないだろう。

けれどただ一つ言えるのは、私の中の不可解な感情のことだ。私は悲しみとか混沌の中に小さな安堵を見た。

彼女はもう居ない。私はこれで本当に自由なのだ。もう誰にも縛られない。

虚しさと安堵は代わる代わるやってきて、残された情熱のようなものもやがて消えていった。

そして私は空っぽになった。前にも増して軽さが増した。もっと、もっと軽くなろう。

そう思ったのは登校拒否を始めて一週間後の事だった。

腰まであった長い髪を自分で切り落とし、幾分やつれた鏡に映る自分に微笑みかけた。

「久しぶり、私」

私はもう一度生まれたのだ、この世に。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

福沢祐巳という少女。彼女の後釜にやってきたけれど、これがまたパっとしない、どこにでもいそうな少女だった。

彼女のような神聖さも気高さもない。間違いなく猫ではない。あえていうなら狸のよう。顔が。けれど、親しみは湧く。

私に対する警戒心も尋常ではないけれど、そう、それでいい。

安心して寄ってきたら、きっと私はまた食べてしまう。彼女のように、他の皆のように。

そう、彼女が猫ならば、私は汚い路地裏にいるやせっぽっちの野良猫にすぎなかったのだから・・・。

無くなったと思っていた情熱が、ほんの少し顔を見せる。

でも、私はそれを無視する事にした。





第五話『新生活、万・・・歳・・・?』



一週間の疲れを癒すのは昔からお風呂と決まっているのだ。少なくとも私はそう思う。

私はリリアン女学園からさほど遠くないマンションに部屋を借りていた。

と言っても、住み始めたのは実際には三日前からなのだが。生まれて初めての一人暮らし。

もう夜中まで起きていても誰にも怒られる事もない。

ちなみにこのマンション、何部屋かはリリアン女学園からの援助が出るので、かなり格安で入れたのだ。

でなければこんないいところに私が住めるはずもないよね、うん。

私は部屋の鍵を開け、まだ荷解きの終わっていないダンボールの山をよけながら歩いた。

週末にでも片付けなきゃなぁ〜とは思っていたけれど、やっぱりそんな気力はなかった・・・。

今週の事を思い返してみて、どっと疲れがやってくる。

「とりあえずお風呂入ろう、お風呂」

お湯を湯船に張ってる間、私はすることもないのでダンボールの中を少し開けることにした。

実家から持ってきたのはぬいぐるみとか、写真たてとかそんなものばっかりで、大したものは何一つない。

でも、どれも私にとっては大事なモノばかり。

やがてお湯もそろそろ溜まってきた頃、突然玄関のドアを勢いよく叩く音が聞こえた。

私は驚いて自分が下着姿のままだって事も忘れて、恐々ドアの小さな穴から外を見て・・・息を呑んだ。

「だ、大丈夫ですかっ!?・・・って、あなた!!」

勢いよく開いたドアによりかかるようにして倒れていたのは、他の誰でもない佐藤聖、その人で・・・。

あれほど近寄りたくないと思っていたのに、まさかこんな形で近づく羽目になるなんて、一体誰が予想してたと思う?

きっと神様でさえ思ってなかったと思うよ。

「ちょ、と、とりあえず中入ってください・・・寒いんですから」

下着姿・・・というか、キャミソール一枚にホットパンツなんて格好、あまり人に見られたくないし。

悪いかな?とも思いながら私は一向に動こうとしない聖さまをズルズルと引きずり無理やり部屋の中に入れると、

聖さまの顔に顔を近づけてみた。

ガクンとうな垂れてピクリとも動かない。けれど、息はちゃんとあるし、お酒が入ってるわけでもない。

そのとき、聖さまの口からポロリと言葉が漏れた。

「・・・栞・・・」

と。

つうか、誰よ、それ?

「あの・・・聖さま?ここどこだか分かってます?ていうか、私が誰だか分かってます?」

私の言葉に、聖さまはゆっくりと顔を上げ私を確認するみたいに虚ろな目だけを動かした。

「・・・祐巳・・・ちゃん・・・」

「そう、正解です。一体どうしたんです?」

何か雰囲気が尋常じゃないんですけど・・・むしろ怖いんですけど・・・。

私の質問を聖さまは聞いているのかいないのか、乱れた髪を直そうともせず何やらブツブツ呟いた。

「・・・帰ってくるわけない・・・よね・・・バカだ・・・」

「は?誰がバカですって?」

「私だよ・・・バカなのは私・・・いつまでも忘れられない・・・私が・・・」

「聖さまがバカなのは分かりましたけど、とりあえずどういう事か説明してもらえますか?

私にはどうして突然聖さまがここに来たのかさっぱり分からないんですけど・・・」

私は聖さまをとりあえずリビングまで連れて行って、お茶を差し出した。

だって、こんなにもボロボロな人追い出せないし・・・ね。

聖さまは出されたお茶を一気に飲み干すと、はぁ、と大きなため息を落とす。

「・・・お腹減った・・・祐巳ちゃん、何か作って・・・」

「はい!?」

な、何てあつかましい!!でも、でも・・・何故かそれを拒否できなかった。

この時の感情は完全に同情だったと思う。多分。

何だか学校で見るよりも随分と聖さまが幼く見えて、放っておけなかったのだ。

「聖さま・・・案外、子供みたいですね」

私の一言に聖さまはピクリと肩を震わせた。ヤバイ、怒らせたかな?そう、思った。

でも、聖さまはフンと軽く鼻で笑っただけで、怒りはしなかった。

「どうせ子供だよ、いつまでたっても大人になりきれないのよ、私は。文句ある?」

睨むような目には生意気なガキ大将を思わせる色が浮かんでいる。

「別に文句なんてありませんよ、ただ誰だってそうだと思いますけどね、私は」

「・・・誰だって?」

「ええ、だって何が大人の定義かなんて分からないじゃないですか。私だって大人になりきれませんし」

「例えば・・・このぬいぐるみ達とか?」

「うっ・・・ま、まぁ、そうですね」

聖さまはベッドの脇に置いてあった大きなクマのぬいぐるみに、まるで猫がそうするように頬を摺り寄せた。

耳を澄ますとゴロゴロと喉とか鳴らしそうな勢いだ。

私はゆっくりと立ち上がり、キッチンへと向かった。大きな子供・・・もとい、職場の先輩に食事を作るために。

そして気づいた。何かを忘れていることに・・・そう、お湯だ!!

「どうしたの?」

何も知らない聖さまは私の表情を見て不思議そうな顔をしている。

誰のせいで・・・慌ててお風呂に直行すると、お湯はもはや滝の如く湯船から流れ出していて・・・。

「うわぁ・・・ドンくさいなぁ〜祐巳ちゃんは」

後ろからその様子を見ていた聖さまは呆れたような声で言う。

でもね、誰のせいでこうなったと思ってるんですか?アナタですよ、アナタのせいですよ!!

「・・・もったいない・・・」

グスンと鼻をすすった私に、聖さまはよしよしと頭を撫でてくれた。

その手は、もう子供の手ではなく、まるでお姉さんのようだった。

それから・・・聖さまといろんな話をした。どうでもいい話とか、ちょっと真面目な話とかを一晩中。

気がつけば朝で、お風呂のお湯はすっかり冷めてしまっていた。

時折見せる聖さまの真面目な顔は、私には計り知れない痛みとか憂いを秘めていた。

でもお互いに腹を割って話した訳じゃなかった。多分それはお互いが一番よく理解していた。

でも、聖さまについて分かった事がある。聖さまは人に甘えるのが上手で、間違いなく私をおもちゃにしている事と、

ただ軽薄なだけではないということ。

そうなった背景には何かがあるようだったけれど、それを私が知るにはまだまだ時間がかかりそうだった。

少なくとも、私には出会った時の嫌悪感はすでにどこかに行っていて、案外付き合いやすいのかな?なんて思っていた。

例え、それが聖さまという人のいつもつかう手だったとしても。

腹のうちが全く知れない・・・どこまでも計り知れない人、佐藤聖。

でも、なかなか味わいぶかそうな人。

・・・だと、思うよ?多分。




第六話『恋は何色?』



この学園にやってきて一ヶ月。めまぐるしく過ぎ去りすぎて、殆ど記憶がない。

とりあえずあの日以来ちょくちょく聖さまはウチにやってきては、晩御飯を食べて帰ってゆき、

学校でも顔を合わせ、暇さえあれば私のいる保健室にやってきてはお茶を飲み、お菓子を食べて帰ってゆく。

聖さまって・・・一体学校に何しに来てるんだろう・・・。

でも生徒たちの間では佐藤先生はかなり評判がいいみたいで、

この一ヶ月の間に八人は悩める子羊ちゃんたちがやってきた。

中には私に媚薬を作って下さい!!なんて言う子もいて・・・私は魔女じゃないっての!!

私はこの可愛い子羊ちゃんたちにアドバイスしてあげることなど殆ど出来ない。

だって、教師と生徒だし、それ以前に女同士な訳で・・・。個人的には別に構わないとは、思うんだけどね。

恋をする相手が男だろうが、女だろうが、犬だろうが、猫だろうが、その人が幸せならそれでいい。

ただ・・・私には恋の相談にのるにはちょっとした問題があった。

「えー!!じゃあ祐巳さんは恋したことがないの!?」

例によって保健室に遊びに来ていた由乃さんが突然そんな事を言うもんだから、私は飲んでいたお茶を少し噴いてしまった。

「や、やめてよ!!声が大きいってば!!」

「あ、ごめんごめん。でも・・・それ、マジ?」

「うん、大マジ」

「うわぁ〜・・・貴重だねぇ・・・いるんだぁ、今時恋もしたことない人間・・・」

ムっ。ちょっとカチンとしましたよ?だって、しょうがないじゃない!暇とゆとりが無かったんだから。

いつもギリギリの点数でやりくりしてたもんだから、そんなものにうつつを抜かす暇などなかったのだ。

だから、あの子羊ちゃん達の方が断然私よりも大人だと思う。

だってあんなにも綺麗に涙を流せるなんて・・・ちょっと羨ましい。そして聖さまは罪作りだ。

「でもさー、高校生ぐらいの頃の気持ちってやっぱり変わるもんだよ。

中には聖さまに擬似恋愛をしてる子もいるだろうしさ。

だから祐巳さんのその答えは別に間違ってないと思うけど・・・当たりでもなさそうよね」

「う〜ん・・・擬似恋愛とかそういうのってよくは分からないけど、そういう風には思ってあげたくないんだよね。

だって、彼女たちは彼女たちなりに一生懸命聖さまを想ってる訳で、それが偽者かどうかなんて、どうだっていいと思うのよ。

肝心なのは今、どうしたいか、って事じゃないのかなぁ・・・これって偽善的かな?」

「まぁ、いい子ちゃんの回答だとは思うけどね、それが真理って気もするし・・・う〜ん・・・志摩子さんでも召喚するか」

「召喚って・・・そんなゲームみたいに・・・」

由乃さんの台詞に私は思わず苦笑いした。

でも、志摩子さんには何となく召喚って言葉があっているようにも思えるから不思議。

何となく天使とか妖精みたいなイメージだもんね、志摩子さんって。

でも・・・妖精や天使を呼び出すと大概一人ではこないんだよね・・・。

「あら、楽しそうね」

「失礼します」

「「・・・・・・・・・・・・・」」

ほらね。大抵ナイトとかがくっついてくるわけよ。そんで、先に進みたければ俺を倒せ!とか言う訳。

・ ・・ていうのは冗談で、乃梨子ちゃんは志摩子さんが由乃さんの隣に座ったのを確認すると、そっと私の隣に腰を下ろした。

相変わらず無表情だがちょっと不本意そう・・・に見えなくもない。

「どうしたの?突然・・・」

「それがさー、ちょっと聞いてやってよ、志摩子さん!!祐巳さんったら、この歳になってもまだ恋した事ないって言うのよ!!」

「あらー・・・そうなの?」

志摩子さんに別に悪気があるわけじゃないけど・・・でもその言い方ってまるで親戚のおばあさんみたいだ。

まだ彼氏一人作らない孫に対しての言葉みたい。いや、まぁ、実際そうなんだけど。

困ったわねぇ、と小首を傾げる志摩子さんに対して、乃梨子ちゃんは優雅にお茶などすすっている。

何となく恋とかって・・・この子にも無縁そう・・・。

「乃梨子ちゃんは・・・その、恋とかしてるの?」

おずおずと尋ねた私に、乃梨子ちゃんは少し言葉を選んで言った。

「してると言えば・・・してるかもしれません」

「「えっ!?」」

その答えに驚いたのは、私だけではない。由乃さんもまた、相当に驚いたようだった。

「ほ、本当に?それって本当に恋なの?あの恋なの!?池に泳いでるやつじゃなくて!?」

おいおい、それは流石に失礼だろうよ、由乃さん・・・。

「失礼な。私だって恋ぐらい分かりますよ。それに・・・仏像以外にこんな気持ちになったのは生まれて初めてなんです。

これが恋じゃなかったら、何だっていうんですか」

ぶ・・・仏像・・・仏像に対する思いと恋を一緒にしてもいいものなのだろうか・・・。

「う、う〜ん・・・それは余計に話をややこしくしそうな回答だわね・・・どう?祐巳さん、参考になりそう?」

「いや〜・・・どうかなぁ・・・」

私は咄嗟にお茶を濁したけれど、実際の所何にも参考になりそうにない。

だって、仏像だよ?これが参考になると思う??

「う〜ん・・・じゃあ志摩子さんはどうなの?恋ってどう??」

由乃は隣で猫みたいに目を細めながらお茶をすすっている志摩子さんに聞いた。

志摩子さんの意見なら私にも分かりそう!!なんとなくそんな気がしたんだけど・・・。

「そうねぇ・・・私も最近これが恋なのかしら?と考える事があるわ・・・」

「おお!!それでそれで??」

「だって・・・マリア様以外にこんな気持ちになるのは・・・初めてなんですもの・・・」

「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」

なんだよっっ!!結局同じ答えじゃない!!ていうか、なるほど。この二人がいつも一緒に居る訳が今判った。

似たもの同士なんだ、この二人は。それも変なところで・・・だから話が合うんだな、きっと。

「あー・・・祐巳さん・・・どう?わかった?」

「いや・・・正直、あんまり・・・」

「だよね。多分この二人に聞いたのが間違いだったのかも・・・そうだ!!恋の事ならこの人に聞いていよう!!」

由乃さんはそう言って、また携帯電話で誰かにメールを打ち出した。

一体今度は誰を呼び出すつもりなのか・・・。しばらくすると、保健室に二人お客がやってきた。

一人は嬉しそうに・・・もう一人は不機嫌そうに・・・。ていうか、皆一体授業はどうしたんだろう・・・。

「なぁに?由乃ちゃん」

「由乃〜ずっと探してたんだよ?どこに行ったのかと思ってたらこんな所でお茶してるなんて」

「だってここ居心地いいんだも〜ん」

「もう!あんまり祐巳ちゃんに迷惑かけちゃダメじゃない。ごめんね、祐巳ちゃん」

「あ、いえ・・・授業中は割りと暇ですから・・・」

「そう?ならいいけど・・・」

「とりあえず令さまも祥子さまも、座られたらいかがです?」

乃梨子ちゃんがそう言って席をちょっと詰めた。ほんと、こういう時この子は本当にしっかりしてるな〜って思う。

妹さんが居るって言ってたから、そういうのが身についちゃってるのかも・・・て、あれ?確か私にも弟が一人・・・。

うん、きっと性格の違いなんだろうな。そういうことにしておこう!それがいい!

それから皆で井戸端会議が始まった。どこでも女ばかりが集まるとこうなるんだな、って思った。

「令ちゃんは恋ってどんなものだと思う?この恋をしたことない祐巳さんに聞かせてやってちょうだい」

「よ、由乃さん!!それは言わなくていいから!!」

「恋・・・ねぇ・・・恋は、そうね、例えるならピンク色かな・・・。甘いお菓子っていうか・・・柔らかそうっていうか・・・」

ほう!ピンク!!いわゆる一般的に言われる色ですな!!そしてファーストキスはレモン味。

本当なのかどうなのかは分からないけど。

「あら、令。違うわ、恋は赤色よ。真っ赤な薔薇みたいな色に違いないわ。そしてとても情熱的なものなのよ!」

赤とな!まぁ、でも確かに情熱的なイメージが無くもないもんな・・・。

それにしても一つ違うだけでこんなにも大人っぽいんだ・・・。

「・・・そうでしょうか・・・恋は茶色だと思いますけど・・・そう、ご神木で出来た仏像のような・・・」

・ ・・いやー・・・それは聞いたことないなぁ・・・ていうか、茶色って!!しかも仏像の色って!!!

多分乃梨子ちゃんはどこまでも仏像に近い想いを抱いてる人がいるんだろう。

無表情だけど、どこか幸せそうに見えるのはきっと、そのせいなのだ。

「あら、乃梨子ってば嫌だわ。恋は白色よ、白亜みたいな色なの」

う、う〜ん・・・志摩子さん?それって多分、マリア様の事なんでしょうね・・・。

やっぱり志摩子さんと乃梨子ちゃんは近い想いを抱いてるのだろう。誰かに。

皆の話を聞いていて、私は少し羨ましくなった。恋っていいなぁ・・・。

だって、なんだかすごく楽しそう・・・。

私はガヤガヤと賑やかな保健室に目を細めた。恋が何色なのかは、きっと人それぞれなのだろう。

私がいつかする恋の色は、何色ですか?ねぇ、神様?

「どれか参考になった?」

「う〜ん・・・よくは分からないけど・・・多分、皆それぞれ違うものなんだなって分かった。

でもそれ以上のことはやっぱり・・・」

「うん、私も。だからさ、多分、さっきの祐巳さんの答えでいいんだと思った。アレ以上を他人に望んでも・・・多分無理」

由乃さんはそう言ってニヤリと笑った。

それは私に対してなのか、誰に対してなのかは分からないけれど、とりあえず私も笑っておいた。

あと五分でチャイムが鳴る。さて、今日はどんな子が悩み相談にやってくるのかな。




第七話『マイ・ハッピー・ライフ』





あー・・・つまんない。どっかに何か面白い話落っこちてないかしら・・・。

窓の外には白い雲が一つ、また一つと千切れてはくっつきをずっと繰り返している。

「せんせーい・・・鳥居せんせ〜い!!」

生徒の声に私は我に帰った。そうだった、今は授業中なのだ。

すっかり忘れてまた物思いにふけってしまっていたわ。でも・・・このクラス退屈なのよね・・・。

だって、皆出来が良過ぎてつまらないわ。それに素直だし・・・。

「ごめんなさい。ところで・・・何かしら?」

「えっと、この問題なんですけど・・・」

「どれ?」

私はその子の指差す先を見つめてその子には聞こえないように小さなため息をついた。

ほらね、どこも間違えてない。○ばかりのノート・・・つまらないわ。

「ここはこの公式を当てはめてごらんなさい」

「えっと・・・こうやって・・・あっ!本当だ!!ありがとうございました」

少女はペコリとお辞儀をしてまた自分の席に戻っていった。

はぁ〜あ・・・つまらない。退屈だわ・・・。

私にはおよそ面白いというものがない。いつだって退屈で、何か変ったことばかりを求めていた。

こうやって生徒たちにとても解けそうに無い難しい問題を考えている間は少しは楽しめるのだけど、

それも長くは続かない。だからといって学校が嫌いな訳ではないけれど。

この学校には顔見知りばかりで気を使わなくても済むし、私の事をある程度は放っておいてくれる。

それに最近小さな狸が入ってきてなかなか面白いんだけど・・・でもやっぱり何かが足りない。

そう・・・もっとこう、刺激的な何かが。

と、そのときだった。一人の生徒が突然勢いよく席を立ち、顔を真っ青にして窓の外を見て短く叫んだ。

「ひ、ひ、火――――っっ!!!!」

生徒の指差す方向を見ると、なるほど、確かに窓から火のついたカーテンがゆらゆらと踊っているのが見える。

「・・・あら・・・火事ね・・・」

面白そう・・・一瞬そう思ったのだけれど、いけないいけない。生徒たちの安全の確保が先だった。

「はい、皆整列してゆっくり廊下に出てそのまま運動場に出なさい」

生徒が整列するのと同時に火災報知器がけたたましく鳴り響いた。私はそれを合図に生徒たちに小さく手で合図する。

「え、でも・・・先生は・・」

「私は火事の元を見にいかなきゃ」

多分、あの教室は・・・家庭科室。ということは・・・由乃ちゃんの仕業だろう、きっと。

由乃ちゃんてば・・・今度は本当に火を出したのね・・・。

スリルともいうべきドキドキが胸を締め付ける。本当にあの子は昔から・・・。

「バカな孫ね・・・」

クスリと口の端に笑みが漏れていることに気づいた私は、一目散に家庭科室に走った。

家庭科室の前は騒然としていて、手のつけようがないといった感じだ。

蓉子と祥子が一生懸命生徒たちを安全な場所に避難させようと躍起になっていた。

その後ろでは令が消火器を手に四苦八苦している。

その背中にへばりついているのは由乃ちゃんで、燃えているカーテンを唖然として見ていた。

「先生!お願いです、中に入れてください!!あれが燃えちゃったら私・・・私・・・」

「ダメよ、どんなに大事なものでも命よりは軽いでしょ!?」

生徒の目には涙が浮かんでいる。そこに駆けつけたのは、聖と祐巳ちゃんだった。

「一体何事!?」

「火事よ、ただの」

「ただのって事はないでしょう!?ほら、皆早く外に出なさい!!」

聖はそう言って野次馬たちの群れに声をかけ、最後尾の子の背中を軽く押した。

聖はいつもちゃらんぽらんで軽い感じだけど、やるときはやる。

聖の声を聞いた生徒たちは、渋々それに従うように非常階段からノロノロと外に出だした。

「怪我をしてる人はいませんでしたか!?」

祐巳ちゃんが大声でそう叫ぶと、皆は一様に首を振った。

「そうですか・・・良かった・・・あれ?あなた何してるの!?」

祐巳ちゃんは私の足元に蹲ってその場を動こうとしない少女を見つけ、血相を変えた。

「早く外に出なさい!!」

「い、嫌です!!私・・・おばあちゃんの形見が・・・どうしよう・・・お守りが・・・」

「・・・お守り・・・?」

私がそう尋ねると、少女は小さく頷いた。そしてポツリポツリと話し出す。

少女が言うには、自分の席に置きっぱなしにしてある赤い鈴のついた袋の中に、

亡くなったおばあちゃんに貰った大事なお守りが入っているらしいのだ。

それは唯一おばあちゃんと自分を結ぶものだっただけに、どうしても諦められないという。

「なるほど。でもね、あなたがここで死んでしまったら意味が無いと思わない?」

私が慰める訳ではないけれど、そう言うと、その子は一瞬理解したように頷いた。

けれど、次の瞬間・・・。

「やめなさいっっ!!!」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

女の子は一直線に燃え盛る火の中に飛び込もうとした。

そんなに大事なもの・・・私は知らない。ちょっとその子が羨ましくて・・・。

「・・・私がいきます!」

「「「はっ!?」」」

突然の声に、私たちは皆耳を疑った。その声は、確かに祐巳ちゃんの声だった。

「な、何言ってるの!?ダメよ、祐巳ちゃん!!」

蓉子はまだもがいている少女を祥子と二人がかりで押さえ込みながら、祐巳ちゃんの提案を否定したけれど、

祐巳ちゃんは廊下に置いてあったバケツに水を汲んで、それを頭からかけた。

「ちょ、ちょっと!頭おかしくなったの!?」

聖がそう言って祐巳ちゃんの肩をつかんだ。けれど、祐巳ちゃんはその手をそっと振り払った。

「そうよ、無理だわ。止めておきなさい」

どう考えても無理に決まってる。それに、運が悪ければもう燃えてしまっているかもしれないのに。

もっと運が悪ければ、祐巳ちゃんだって、きっと無事ではすまない。けれど。

「私・・・この子の気持ちすごく分かるんです・・・だから・・・放っておけない!!あなた、席はどこだったの!?」

「え、えと・・・一番後ろの窓際・・・です・・・」

「分かった。心配しないで、必ず持って帰ってくるから!!」

祐巳ちゃんは皆が止めるのも聞かず、あっという間に火の中に飛び込んだ。

「「「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」」

「・・・あのバカ!!」

後ろに立っていた聖は、呆然と今しがた火の渦の中に消えた少女を見ていた私たちを尻目にそう呟くと、

何を思ったのか、自分も頭から水を被り颯爽と火の中に飛び込んでいった・・・。

「ちょ、せ、聖!?」

「・・・行っちゃった・・・」

私と蓉子は多分同じ気持ちだったに違いない。それに・・・多分、祥子も。

何が何だか分からない間に、祐巳ちゃんと聖は火の中に消えて、そうさせた張本人である少女ですら、

口をポカンと開けていた。

その時、向こうで消火器と格闘していた令が大声を上げた。

「出ました!!出ましたよ!!」

「早く、早く消して!!令ちゃんっ!!」

「う、うん!!」

そんなぐらいの消火器で何が出来るというのか。多分、そこに居た誰もがそう思ったに違いない。

けれど、生徒たちを落ち着かせてやってきた応援部隊(他の教師達)が合流した途端、みるみる間に火は小さくなっていき・・・。

やがて、火の中に飛び込んだ二人も無事に姿を現した。いや、一人はどうやら完全に意識を失っているようだったけど。

聖は祐巳ちゃんを抱いて火の中から現れ、その場に祐巳ちゃんを下ろすと、彼女の手の中から何かを取り出し、

怯えきった表情の少女に小さな鈴のついた赤い袋を手渡した。

「もう、手放しちゃ駄目だよ?」

「は、はいっ!!ありがとうございました!!本当にありがとうございました!!!」

「お礼は祐巳先生にね」

「はいっっ!!」

少女はその場に泣き崩れると、小さな袋をギュウっと握り締めていた。

そしてそれを見た聖は・・・。

「はぁ・・・疲れた・・・誰かこのバカ保健室に運んでやって・・・」

聖はそう言って祐巳ちゃんを指差し、その場に座り込むと、苦い笑みを浮かべる。

「聖、あなたも一緒に保健室よ」

「えー」

「えーじゃないの。怪我してるでしょ?」

私は聖を支えるように立ち上がらせると、引きずるようにその場を後にした。

残りの皆は燃えた挙句真っ白になった部屋の後片付けを始めていた。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「どうしてあんな無茶したのよ?あなたらしくもない」

私は聖のおでこと腕に消毒液をたっぷりすり込んで言った。聖は顔をしかめながら苦笑いしている。

「んー・・・わかんない。でも、誰かが行かなきゃ確実にお陀仏だったと思うよ?」

そう言って聖はチラリとベッドの上で寝息を立てる祐巳ちゃんを見た。聖といい、祐巳ちゃんといい、全く何て無茶するのだろう。

確かに私はいつだって面白いことを望んではいたけれど、こんなのは楽しくない。

「もしも、もしも助からなかったら、とか考えなかったの?」

「いや、どうだろう・・・何も考えず飛び込んだから・・・」

・ ・・そう、体が勝手に動いた、とそういうのね、聖?それなら私はもう何も言わない。

少なからず聖の中の祐巳ちゃんの存在が大きくなっているのは確かで、そのせいで今まで何人もここを辞めていった。

聖は追わないし、相手も帰ってこない。祐巳ちゃんは・・・どうなんだろう・・・。

やっぱり今までの子たちのように、聖から逃げるのだろうか。また聖は一人になるのだろうか。それは嫌だ。

「大丈夫よ、聖。私はずっと、ここに居るわ」

「・・・何それ。変な江利子・・・」

聖はそう言って笑った。私も笑った。退屈だと感じるのは今が幸せだからなのだと、気づいた。

毎日が退屈で退屈で死にそうなほど幸せだから・・・。

「飛行機雲だわ・・・どこへいくのかしら」

私は窓の外に目をやり言った。真っ青な空に白い筋が一本。

「さぁね。どっか遠くだよ、きっと」

そう言う聖の口元は、少し寂しそうに見えた。

それでも、私はこんな退屈な日常を愛している。私の生活全てにかかわってくる、皆の事も、全て。




第八話『人生最悪の日』  




誰がこんな事予想してたと思う?多分、誰にも予測出来なかったよ。

突然、火災報知器が学校中に鳴り響いた。幸い授業の無かった私は、視聴覚室の準備室で昼寝をしていた。

初めはただの悪戯だろうと思って慌てなかったんだけど、

チラリと目の端に渡り廊下の向こう側を必死の形相で走ってゆく白衣が見えた。

この学校で白衣を着てるのなんて祐巳ちゃんしかいない。保健医があんな勢いで走っていくということは、

どうやら本当にどこかで火災が起きたらしいということは、私にもすぐに理解できた。

廊下を走るよりも、ここを突っ切った方が早い。

そう思った私は、準備室の窓から飛び降りると、そのまま祐巳ちゃんの後を追った。

祐巳はサンダルをペタペタ言わしながら、それでも全力疾走で、その姿はペンギンを思わせる。

「祐巳ちゃん!一体何事!?」

「あっ!聖さま!それが家庭科室から火が出たそうなんです!!」

「家庭科室?調理実習か何かあったのかな・・・ていうか、どうして祐巳ちゃんが知ってるの?」

「生徒の一人が知らせに来てくれたんです。怪我人がいないかどうか、私は先に運動場に行ってきます!」

「あ、それなら私も行くよ」

「えっ・・・でも・・・」

「他の皆は授業中だっただろうから、多分他の人たちが行ってると思う」

「・・・そうですか。それじゃあ、お願いします」

はぁはぁ、とすぐ隣で荒い息をする祐巳ちゃん。細い肩の上でしっかりと結ばれた髪が跳ねる。

「大丈夫?」

あまりにも苦しそうなので、何だか気の毒になって私は祐巳ちゃんにそう声をかけた。

「だ、大丈夫です!それよりも・・・これ持って先に行ってもらえませんっ・・・か」

祐巳ちゃんはそう言って私に工具箱みたいな大きさの救急箱を手渡し小さく手を振った。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

運動場に出た私が目にしたのは、呆然とする生徒たちと、その生徒を並ばせている先生方だった。

「聖!ちょうど良かったわ、この子たちは怪我してるみたいなの。手当てしてやって」

体育担当の白薔薇さまがそう言う。ちなみに私のお姉さまだ(以後、お姉さまと呼ぶ)。

「はい!」

お姉さまに指示を出された通り、私はテキパキと数をこなした。けれど・・・後からやってきた祐巳は言った。

「ダメですよ、聖さま。ちゃんと一人一人声をかけてあげなきゃ」

「・・・声?そんな暇ないでしょ?」

「暇がなくても、そうするんです。でないと後で怖かった気持ちだけがずっと残っちゃいますから、ね?」

祐巳ちゃんはそう言って私の隣に腰を下ろすと、怪我をした生徒たち一人一人に声をかけながら手当てして回る。

それを見て、それまで不安そうだった生徒たちの顔にやがて笑顔が戻り始めた。

へぇ・・・大したもんだなぁ・・・とか、普通に感心してしまう。そう言えば、栞がこんな風に手当てしてるのを見たことが無かった。

彼女はいつもマリア様みたいな笑みを浮かべながら手当てしていた。

それは生徒たちには・・・一体どう映っていたんだろう・・・。

「祐巳ちゃん!ここは私たちがやっとくから、中の様子見てきなよ!もしかしたら中にも怪我した人とかいるかもよ!」

一人の生徒がそう言って、祐巳ちゃんの手から救急箱を受け取り、皆を手当てし始めた。

ちなみに・・・祐巳ちゃんは、多くの生徒から祐巳ちゃんと呼ばれている。

本人はちゃんと先生として扱ってほしいらしいけど、私には皆が祐巳ちゃんの事をとても慕っているように見えた。

「祐巳ちゃん、行こう。あの子の言うとおりだ」

「そう・・・ですね。それじゃあ、ここは任せたわね」

「はーい!気をつけてくださいね、佐藤先生、祐巳ちゃん!」

「うん、ありがとう」

私たちはそう言って校舎の中に駆け込んだ。

幸いにもあまり延焼はしていないらしく、どうにかまだ火は家庭科室で止まってくれていたようだった。

その後だ。このバカな保健医がとんでもない暴挙に出たのは!

何でも、祖母の形見を教室の中に置いてきてしまったという少女のために、彼女は水を被って火の中に飛び込んだのだ。

私は頭の中が真っ白になった。だって、どうやったらそんな事が出来るのかわからない。

他人の為に必死になるという事が出来ない私にとって、祐巳ちゃんの行動はあまりにも理解し難かった。

分からない・・・分からないはずなのに・・・次の瞬間、何故か私まで水を被って祐巳ちゃんを追いかけていたのだ・・・。

多分、この日の事は一生忘れないだろうと思う。

死というものを、あんなにもすぐ傍に感じたのは、これが生まれて初めてだったから。

まさに焼け付くと言うのが正しい。火の粉があちらこちらから飛び出してくる。

火の海に飛び込む前、確かに私は水を被ったのだけれど、この熱のせいであっという間に乾いてしまいそうだった。

口元をハンカチで押さえ、出来るだけ煙を吸わないように努力するけれど、それがなかなか難しい。

とりあえず祐巳ちゃんを捜さなくては。私の頭の中はそのことで一杯だった・・・。そして、見つけた。けど・・・。

「せ、聖さ・・・ま!?」

「・・・・・・・・・・・・」

言いたいことは沢山あったんだ、本当は。でも、どれも言えなかった。

「ど・・・して・・・」

「・・・わかんない・・・多分、祐巳ちゃんを助けに来たんだと思う・・・けど・・・」

「・・・はぁ?」

そりゃあね、呆れるのも分かるよ、そうやって。だって、私にも何がしたかったのか全く分からないんだから。

「聖さま・・・もしかして煙吸っておかしくなっちゃったんですか?」

「・・・失礼ね・・・それよりも早く行こう」

私は祐巳ちゃんの手を取り引っ張った・・・けれど、祐巳ちゃんはその場を動こうとしない。

「だ、ダメですよ!まだ見つかってないんですから!!」

それどころか、まだあの少女のお守りとやらを探すつもりでいるらしい。

火はどんどん大きくなって、すでに私たちのすぐ傍に居るというのに。

「何言ってるの!!それどころじゃないでしょう!?」

「でも!」

「でもじゃない!ほら、行くよ!!」

どんなに引っ張っても彼女は動かないし、どんどん苦しくなってくるしで、もうどうしていいか分からない。

「い、行きません。聖さま一人で行ってください」

「・・・本当にバカなの!?死んだら元も子も無いでしょうが!」

とうとう声を荒げ怒鳴った私を祐巳ちゃんは一瞬思い切り睨んだかと思うと、次の瞬間その大きな瞳から大粒の涙が溢れた。

「だって・・・約束・・・したんだもん・・・あの子と・・・約束したんだもん!!」

ふぇ〜ん・・・って・・・子供みたいな泣き方・・・。しかもどう考えても泣いてる場合じゃないしね。

「あーもう!探すよ、探せばいいんでしょ!?」

「はい〜」

だから泣くなっての。あー・・・そんな目で見ないでよ・・・。

パチパチと火が弾ける音がする。そんな中、ずっと這いつくばって探し物をする二人のバカな教師。

その時だった。私と祐巳ちゃんは同時に叫んだ。内容は全く違っていたけれど。

「祐巳ちゃん!!危ないっっ!!!」

「聖さま!!ありました!!!」

いや、それどころじゃないんだ!!真剣に!!私は考える間もなく力の限り祐巳ちゃんにタックルした。

「ぎゃうっっ?!」

ゴン!

ゲッ!!い、今物凄い嫌な音がした・・・。

鈍い音がしたと同時に祐巳ちゃんの口から恐竜みたいな鳴き声が聞こえた。

「祐巳ちゃん?ゆ、祐巳ちゃんっ!?」

ヤバイ・・・やりすぎた・・・祐巳ちゃんは完全に意識を失っていて、ピクリとも動かない。

でも、手にはしっかりと小さな鈴のついた赤い袋を握り締めている。

「祐巳ちゃん・・・でかした」

私は祐巳ちゃんを肩に担ぎ上げると、そのまま四つんばいでドアを目指す。

ちょうどその頃、ドアの外から令の『出ました!!』という声が聞こえてきた。

あぁ・・・良かった・・・どうやら助かりそうだ・・・。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「おはよう」

私は皮肉をたっぷり込めてそう言った。祐巳ちゃんもバツが悪そうだ。そしてそっと後頭部をさすって顔をしかめる。

「痛い?」

「はぁ、まぁ・・・何があったのか分かりませんけど・・・多分聖さまは私を助けてくれたんですよね?」

う〜ん・・・本当は小さな火の粉が上から降って来ていただけだった、って言ったら・・・祐巳ちゃんは怒るだろうか?

「ま、まぁ・・・そうね・・・危なかったんだから」

「・・・ええ、分かってます。本当にありがとうございました」

うわっ、どうしよう・・・もう後に引けそうに無い・・・いいや、このままにしとこ。

「いいえ、どういたしまして」

「あ、そうだ!聖さま、足・・・見せてください!」

「えっ!?」

「捻ったでしょう?どこかで」

「・・・よく・・・分かったね・・・」

「そりゃ、保健医ですから!」

「そう・・・」

ビックリした。上手く隠したつもりだったのに。誰にもバレなかったのに。私は渋々足を祐巳ちゃんに差し出した。

祐巳ちゃんは私の足を右や左に傾けながら、言う。

「それにしても・・・さっきはちょっと格好良かったですよ」

ふふふ、と小さく笑う祐巳ちゃん。さっきって・・・いつだろう・・・。

「ほら、聖さまが火の中まで来てくれたじゃないですか?あの時です。でも・・・」

「でも?」

「その後の台詞が意味不明でおかしかったですけど」

あー、あれね。自分でもそう思うよ。とは、口に出して言わないでおいた。

「きっと・・・私もパニクってたんじゃない?それか・・・祐巳ちゃんの言ったみたいに煙吸いすぎたのかもね」

「ふふ・・・きっとそうですよ。でも、うん。ちょっとだけドキドキしちゃいました」

祐巳ちゃんはそう言って、にっこりと笑って手当ての終わった私の足をゆっくり下に降ろした。

「なぁにー?私に惚れた?」

なんてね・・・ありえないか。それでもどこかで期待してしまうのは、多分いつもの悪い癖なのだろう。

「さてね、どうでしょう?内緒です」

唇に人差し指を当てて悪戯っぽく笑う祐巳ちゃんが、何だか可愛らしい。

「ふ〜ん。ざ〜んねん。私今フリーなのに」

こんな事言ったって、寂しさが増すだけなのに。傷口に塩を塗りこむような真似を自らしてるんだ、私はいつも。

「そうなんですか?それじゃあ・・・」

「・・・それじゃあ?」

ほんの少し、期待してしまう愚かな心。誰でもいい、この寂しさを紛らわせてくれるのなら・・・。

でも、祐巳ちゃんの答えは全く・・・。

「それじゃあ、私と一緒ですねっ!」

見当はずれもいいとこだった。まぁ、人生こんなもんだよね。

とりあえず・・・今日は人生の中で最も最悪な日なのには違いなかった。




第九話『世界で一番好きなモノ』




沢山あるけど、とりあえずはぬいぐるみとか、お花とか・・・そういう可愛いものが好き。

一番を決めるとなると、これはなかなかやっかいだ。

どうして突然こんな話をするのか。それは、ついさっきの事だった。

「祐巳ちゃんセンセー、先生は世界で一番好きなモノってなに?」

バスケ部のエースで、キリリとした顔の少女が言った。バスケの練習中に足首を捻って、今保健室に居るのだが、

手当てをしている私に突然そんな事を聞いてきた。

「な、何?突然・・・」

「んー・・・なんとなく。私は今のところ一番好きなのはバスケなんだよね。でもさ、たまに下駄箱の中に手紙とか入っててさ、

よく書いてあんの。『私の世界で一番好きなモノは先輩です。 ハート』って。

でもさー・・・世界で一番好きなモノが人間ってありえるのかなぁ?私にはよく判んないだよねー」

少女はそう言って皮肉気に笑った。しかし・・・これはなかなか難しい質問だぞ・・・。

世界で一番好きな人・・・ならわかる。でも、それが世界で一番好きなモノ・・・となると・・・。

彼女はきっと、この小さなニュアンスの違いについて言っているのだろう。

そんなに深くは考えなくてもいいんじゃない?とか正直思うけど、でも、言われてみればこれって結構重要な違いかもしれない。

モノの部分に何を当てはめるのか・・・それが問題だ。

「む、難しいね・・・」

「でしょう?祐巳ちゃんセンセーなら何を当てはめる?」

「私なら・・・そうね・・・少なくとも人は当てはめないかなぁ、きっと。モノって言われるとやっぱり素直に物を考えちゃう」

アハハ、と乾いた笑いを浮かべる私に、彼女もコクリと頷いた。

「そうだよねー?私もそうだよ、だからバスケとかしか思いつかないんだけど・・・。

何だかあんまりいい気しないんだよね、そういう風に言われるのって」

少女はポリポリと頭をかきながら忌々しげにそう言った。う〜ん・・・言葉って本当に難しい・・・。

それから一日中私はその事について考えていた。でも、やっぱりどんなに考えても物しか思い浮かばない。

ブツブツ言いながら保健室の中をウロウロする私に、オリの中のおさるさんみたい、と聖さまは言った。

少女が出て行くのと入れ違いにやってきた聖さまは、私の淹れた紅茶を目を細めながら飲んでいる。

「そうそう何かお菓子ない?あ、甘くないやつね。ところでどうしてさっきからずっとウロウロしてるの?」

へんなのー、と笑う聖さまの前にドンと乱暴にお気に入りのお菓子を置く。

「ちょっと考えごとしてるんです!もうどうして横から茶々入れて邪魔するんですかー。

せっかくもうちょっとでまとまりそうなのに!」

とは言ったものの、これは八つ当たりだ。本当は考えはちっともまとまらず、余計にこんがらがってきているのだ。

あーもう!ダメ!わかんないっ!!

結局私は聖さまの向かいに腰を下ろすと、一緒になってお菓子をつまみはじめた。

そうだ!この人にそれとなく聞いてみればいいんだ!!

「聖さまは世界で一番好きなモノってなんですか?」

「何?突然・・・」

「いえね、さっき生徒に聞かれたんですよ。でも私すぐに答え出せなくて・・・で、聖さまならどうかな〜?と思いまして」

突拍子も無い質問に、聖さまはてっきり考え込むかな?とも思ったのだけれど・・・。

「世界で一番好きなモノねぇ・・・そうねぇ・・・もうないな。ちょっと前に壊れちゃったから」

「こ、壊れちゃったんですか?セトモノかなにかだったんですか!?」

それはそれは・・・ご愁傷様です・・・。

「うん。私の世界で一番好きだった想いがね、壊れちゃったの。だから今はもう無いの」

ズズズとお茶をすする聖さま・・・今、何だかサラっとすごい事言いませんでした??

「・・・想い・・・ですか?それは、そのぅ・・・失恋・・・とかそういった類・・・だったり?」

もっと私にオブラートに包むという芸当が出来たら!!心底そう思った。だって、今の言い方って、かなり直球じゃない?

「はっきり言うね〜。まぁ、簡単に言えばそうだけど・・・でも、そんな簡単にはいいきれないな。

あの想いは私の中の一部だったからね。腕とか足とか心臓とか、もう私自身だったんだよ」

「それは・・・辛いです・・・ね?」

誰かを好きになった事すらない私にとって、それがどんなに辛いのか想像出来ない。

でも、ある日突然腕がなくなったら・・・当分は立ち直れないだろうと、思う。

「辛いよー?ずっと引きずってさ、探してるのよ、体の一部をさ。もう見つかる事も取り戻せる事もないのにね。

それでも必死に探すの。そんな風に想うほど、私はその子の事が好きだった・・・その想いが私は世界で一番好きだったな・・・」

「そんな自分が好きだった・・・って事でしょうか?その人が、ではなくて?」

「そう。まぁ、ある意味ナルシストだよね。

その人がっていうよりは、今祐巳ちゃんが言ったみたいにそんな想いが自分の中にあるっていう自分が好きだったって事かな。

誇りに思ってたって言ってもいいかもしれない。

まぁでも?もしかしたらまた私に誇りを取り戻させてくれる人がいつか現れるのかもしれないけど・・・」

バチリと聖さまと視線があった。意地悪・・・というよりは、どこか挑戦的だ。

誇り・・・そうか、聖さまは自分の中にある誇りが一番好きだったんだ・・・。

「・・・なんか・・・いいですねーそういうの・・・」

やっぱ答え方が違うな!なんかいいな!私にも何かないかなー・・・誇りかぁ・・・。

「祐巳ちゃんは何が好きなのさ?」

それが答えられてたらあんなサルみたいにウロウロしてませんよー。

「私は・・・普通ですよ?聖さまみたいな高度な答えはやっぱりどんなに考えても出ません」

「うん。それでいいじゃない。で、何なの?」

「うー・・・ぬいぐるみ・・・とか?お花・・・とか?でも世界で一番って訳じゃないんですよねぇ」

「ふむ。難しいわけだ、祐巳ちゃんにとっては」

「そうですねー・・・難しい質問されちゃいましたよ、ほんと。小さな好きなら一杯あるんですけどねぇ」

「例えば?」

「例えばですか?そうですね・・・こうやって聖さまとお茶する時間もとても好きですよ」

「!?」

「それにー・・・皆とワイワイおしゃべりするのも好きですし・・・このお菓子だって私のお気に入りです!」

「・・・なんだ・・・ビックリさせないでよ・・・」

「・・・?」

何にビックリしたというのか・・・ていうか・・・お菓子・・・ナイ・・・。

私は大好きなお菓子に手を伸ばして愕然とした。私まだ一個しか食べてないよね!?

「ところでこのお菓子美味しいねー・・・どこで売ってるの?」

「・・・・お菓子・・・・」

なんてこった・・・まさか全部食われてしまうとは・・・。確かこのお菓子のストックはこれが最後だったはず・・・。

「ん?どうしたの?祐巳ちゃん?おーい、祐巳ちゃ〜ん」

このお菓子・・・大好きなのに・・・聖さまもそれ知ってるくせに・・・何も全部食べる事ないじゃないっ。

・ ・・やっぱり、さっきの言葉は取り消そう。全然羨ましくなんかない。絶対真似しないっ!

完全に目の据わってる私に、聖さまはすでに逃げる体制に入っていた。そそくさ保健室を出て行こうとする。

私はそんな聖さまの袖をむんずと掴み言った。

「さっき、どこで売ってるのかって・・・聞きましたよねぇ・・・?

このお菓子・・・結構遠くのお菓子屋さんにしかナイんですよ・・・。

場所教えますから・・・とっとと買ってきてくださいっっ!!今すぐにっ!!!」

「えーっ!?どうしてよ〜?」

「どうしてもですっっ!!」

私はお菓子の袋を聖さまに握らせて、お菓子屋さんの住所をメモして手渡すと、保健室から追い出した。

かなりわがままを言ってるのは分かってる。でも、それを渋々でも聞いてくれる聖さまも・・・好きですよ。

ちょうどストックが切れてたから、ついでに余分に買ってきてもらおう・・・そう、思った。

世界で一番好きなモノ。今のところ、答えは出ない。一番を決めるなんて、やっぱり出来そうにない。

でも・・・それでいいや。今はまだ。




第十話『それぞれのやり方』



ある日の午後。私は子守唄を歌っていた。

「どう?眠くなってきた?」

「う、う〜ん・・・正直、あんまり・・・」

「やっぱり・・・」

ダメか・・・そりゃね・・・私の歌なんかで眠れたら苦労なんてしないよね・・・。

「ごめんねー祐巳ちゃんセンセー・・・変な事頼んじゃって・・・」

「ううん。これもお仕事の一環ですからね!」

「おー、祐巳ちゃん頼もしいねぇ」

そう言って隣のベッドの上でくつろいでいるのは相も変らず保健室に意味なく入り浸っている聖さま。

何故私が上手くもない歌なんか歌っているのかっていうと・・・。

「ねぇ、先生・・・最近本当に眠れないの・・・これって何か変な病気なのかな?ねぇ、先生どう思う?」

全ては不眠症に悩むこの子の為だった。この二〜三日ずっと眠れなくて辛いらしい。

不安そうな彼女に、私は言った。

「成長期って何かと不安定なものだから、こういう事もあるよ。もしかしたら何かがストレスになってるのかも・・・。

最近何か我慢してるものとか、嫌なことってあった?」

高校生なんて、不安の塊みたいなものだ。ストレスも多分大人よりずっと抱えているに違いない。

親や学校に縛られてなかなか自由もきかないし・・・。

「我慢か・・・どうだろう・・・私三年だから受験勉強とかそういうので、ずっと眠るのを我慢してたんだ・・・。

それが癖になっちゃったのかな・・・後・・・友達との長電話とかも控えてたし・・・」

彼女がいうには、三年生になってからというもの、

受験勉強や塾のせいでそれまでずっと楽しみにしていた友達とのお話も控えていたのだという。

まぁ多分、暇が無くなった、とそういう事なのだろう。

それって、なかなか辛い。話すことで楽になることや、バカな話しかしてなくてもかなりストレス解消になるものだ。

友達と出かけたり、ショッピングをするのだって、ストレス解消にはもってこいなのに・・・。

「そっか・・・じゃあちょっと休憩が必要なのかもね。勉強に。一週間勉強は学校と塾以外ではしないようにしてみたら?

そうすれば大分楽になると思うよ?」

「でも・・・それで私大丈夫かな?ただでさえ頭あんまり良くないし・・・ママにも毎日言われるんだよね。

テレビ見る暇があったら勉強しなさい!って・・・でもさーやる気がないのにやっても頭になんか入んないよ。

でも、やらなきゃいけないのも分かってるし・・・だから一応は夜中までやるわけ。で、いざ寝ようと思ったら・・・」

「眠れないんだ?」

聖さまが枕に頬杖をつきながら、哀れそうに呟く。

「そう!そうなんです!!もう私どうしたらいいか・・・。

やっぱり前の保健医の先生が言ってたみたいにちゃんと病院行ってお薬とか貰った方がいいのかな・・・」

「栞が?そう言ったの?」

「はい・・・それは不眠症ね、って、ちゃんと病院で診てもらった方がいいって・・・」

「ふむ・・・言いそうだね・・・」

聖さまはそう言って苦い笑みを浮かべた。

「お薬を飲むのは・・・最終手段として・・・分かった。休み時間友達連れて今度ここにおいで。

お茶飲んでお菓子食べてお話しよう?ていうか、この学校の不思議なシステム教えてほしいのよ・・・。

あの姉妹制度って一体何なの・・・?本当の姉妹って訳じゃないんだよね?」

「えっ!?祐巳ちゃん・・・まだ知らなかったの?ていうか、学校のシオリみたいなの貰ったんでしょ?」

「あー・・・分厚くって読んでないんですよ、まだ・・・」

「センセー・・・ダメじゃんっ!!しっかりしてよね〜」

少女は布団を頭から被ってケラケラ笑っている。良かった・・・笑う元気はあるみたい。

今日ここにやってきたときはゾンビみたいな顔してたけど、しばらく横になっているうちに少しはマシになったのだろうか。

それにしても・・・そんなに笑わなくてもいいじゃない・・・。

「ちゃんと読もうね、祐巳ちゃん。たとえいくら分厚いとしても」

「そうだよー?ちゃんと読まないと!

じゃあセンセーもしかしてリリアン七不思議も知らなかったりする?佐藤先生は知ってますよね?」

七不思議・・・学校にはつきものだ。そうか・・・このリリアンにもあったんだ・・・。

「うん、一応は。でも、同じじゃないかもね。随分年数経ってるし」

「あー・・・かもしれませんよ?聖さま以外に歳ですもんね?」

私よりも二つ上・・・ということは・・・。

「失礼なっ!!そんなに変らないでしょ!?たかだか二つ差じゃない!!」

「いや〜・・・この歳になると二つ差は大きいですよ。体力とかにも差が開きますしね」

いや・・・これは嘘だな。明らかに聖さまよりも私の方が体力ないもんな。

私たち二人の会話をベッドの中で聞いていた少女は、お腹を押さえながらさっきからずっと笑っている。

そして・・・笑い声が突然止んだ。その代わりに聞こえてきた小さな寝息。

「・・・寝ちゃった・・・」

「みたいですね。そっとしておいてあげましょう」

彼女の頭をよしよしと撫でる私に、聖さまはコクリと頷いた。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

結局少女は残りの授業をずっと保健室で過ごした。そう、爆睡していったのだ。

帰る頃には頬にすっかり顔色も戻っていて、まるで別人のようだった。

辛くなったらまたおいで?そう言った私に、彼女は嬉しそうに頷いて出て行った。

聖さまは相変わらずベッドに腰掛けて紅茶を飲んでいる。

紅茶のお供は・・・もちろんこの間聖さまが買出しに行ってくれたあのお菓子だ。

「それにしても・・・よく寝てたよね、あの子」

「そうですねーやっぱりちょっとしたストレスが原因だったんでしょうね」

「でも・・・そっか、前の先生には病院に行けって言われたのか・・・」

聖さまはどこか悲しげにカップの中を見つめている。何故そんなに悲しそうな顔をするのか私には判らなかったけれど、

きっとそっとしておいた方がいいのだろう。頼られない限りは動かない。それが私の信条だ。

「お薬は・・・確かに一番早いですけどね。でも・・・出来るだけ使わない方がいいんですよ。本当は」

「そう・・・だね・・・じゃあ前の保健医の先生はどうして薬を勧めたんだと思う?」

どうして・・・と言われてもなぁ・・・。それぞれ人によってやり方って違うしなぁ・・・。

「もしかしたら・・・凄く慎重な先生だったのかもしれませんね。

もしも本当に不眠症だったら、早めに治療した方がいいですから・・・。

そういうのを見越しての事だったんじゃないでしょうか?

私たちはお医者さまではありませんから、本当は大した事出来ないんですよ。

せいぜいちっちゃい怪我の治療や、生徒たちの話を聞くくらいの事しか。

だから手遅れになったりしたら大変だと思ったんじゃないでしょうか?

現に私も後二〜三ヶ月しても彼女の不眠が続くようだったらやっぱり病院に行くのを勧めたと思いますし・・・」

誰を救う事も出来ないかもしれない。でも、気安く相談とかしてくれるようになればいいなぁ、と思う。

私の仕事は、そういう仕事なんだ。怪我に包帯を巻くだけの仕事では・・・決してない。

私の話を興味深そうに聞いていた聖さまは、やがてにっこりと笑った。

「なるほど。そういう考え方も出来るんだ。ありがとう、祐巳ちゃん」

「は?何です、急に・・・気味悪いですよ」

「まぁまぁ、もう一杯お茶どう?」

「ど、どうも・・・」

差し出された手の上にカップを置くと、素直にお礼を言った。あまり聖さまの顔をマジマジと見た事はなかったけれど、

こうやって見ると、この人って本当に綺麗な顔してるんだなぁ、って思う。

でも、この人の甘い罠には決してかからないけどね!そこはほら、最近蓉子さまにしっかりと注意されましたから!

「祐巳ちゃんはさー、この仕事好き?」

「そう・・・ですね。周りには散々反対されましたけど、私は好きですね、このお仕事」

「だろうね・・・私はこの仕事、祐巳ちゃんにピッタリだと・・・思うよ」

そう言って聖さまは熱いお茶を顔をしかめながら飲んだ。柔らかそうな前髪がちょっと鬱陶しそう。

「・・・ありがとうございます・・・聖さまはどうなんです?このお仕事好きですか?」

「そうだな・・・多分、ね。好きだと思うよ?でないと嫌いな学校に毎日来たりしないし、

何よりここでこうやってお茶を飲むのは楽しいしね」

聖さまはそう言って小さくウインクをした。少しだけ見せた歯が胡散臭いくらい爽やかだ。

「でも・・・私が生徒なら・・・多分、祐巳ちゃんみたいな保健医の先生の方が好きだよ」

「・・・・・・・・・・」

聖さまはそれだけ言うと保健室から出て行った。私は、顔が真っ赤になるのを感じた。

やり方は人それぞれで、皆一緒じゃない。誰かと比べるのは間違ってるのかもしれないけれど、

でも、そうやって言ってくれるのはとても嬉しくて・・・。

これでいいんだ。私はこのままでいいんだ。・・・なんて、根拠もないのに、妙な自信に満ち溢れたある日の午後の事。




第十一話『私の願い』




本当のところ、私は栞の事、何も分かっていなかったのかもしれない。

私はよく保健室に通っていた。そう、今よりもずっと頻繁に。

よくベッドに転がって、栞とずっとおしゃべりをしていた。

あの頃・・・あまり保健室に出入りする人は居なくて、だから余計に私は栞をずっと見つめていられた。

でも今はどうだろう。私は相変わらず保健室に入り浸ってるけど、祐巳ちゃんと二人きりになることなんて、殆ど無い。

それだけ毎日誰かが保健室に来ては、悩みを打ち明けたり、クスリを貰いに来たり、ベッドで休みに来るのだ。

栞の時には無かった賑やかな空間・・・あの時のような幸せな静けさが今はもう無い。

それなのにどうして私はまだあの保健室に通うのだろう。皆はどうしてあの頃保健室にあまり来なかったのだろう・・・。

栞は別に冷たい訳じゃなかった。かと言って、祐巳ちゃんのような愛嬌は無かったが。

祐巳ちゃんは栞が慎重だったから病院に行くのを勧めたのではないか?と言っていたが、

たとえそうだとしても、生徒からしてみればそれはあまり嬉しくない答えだったのかもしれない。

きっと栞だって生徒の事を一番に考えていたに違いない。けれど、怒ることもなかったし、慰めることもなかった。

いつでも中立で、ただそっと微笑むのだ。優しく、慈悲深く・・・。そして諭す・・・まるで天使のように・・・。

私は栞のそういうところがとても好きだった。自分には無い神聖さが羨ましかったのかもしれない。

でも、祐巳ちゃんは違う。生徒に本気で怒ったり、生徒と一緒になって平気で泣いたりもする。

そしてそれを私が慰める事もしばしばあったんだけど・・・。

もし自分が生徒だったなら・・・きっと私は祐巳ちゃんを選んだだろう。

高みから出される答えよりも、同じ視線で答えを一緒に考えることを。

私は栞の事を、何にも知らなかった。知っていたのは、彼女の表面の部分だけだったのだ。

彼女がどんな思想を抱いて生きていたのかは今となっては想像のしようもない。

けれどたった一つ言えるのは、彼女はきっとこの仕事には向いていなかった。

やっぱり、彼女は彼女の夢でもあったシスターになるのがきっと一番合ってたんだろう。

そして、行方の分からない彼女がその道を選んだことを、私は今、心の底から・・・願っている。

どんなに時間がかかっても、いつか彼女の言っていたようなシスターになれている事を・・・。

私は明日もまた、きっと保健室に行くと思う。もう少ししたら、祐巳ちゃんに話してみよう。

いろいろな話を・・・私の事を・・・その時、祐巳ちゃんはどんな顔をするだろう?

生徒たちにそうするように、優しく頭を撫でてくれるだろうか。それとも叱られるだろうか。

願うなら、一緒に泣いてほしい。私の痛みを、ほんの少しだけ受け入れてくれれば・・・私はどんなに救われるだろう。

栞には慕情を、祐巳ちゃんには友情を、私は今、感じている・・・。



第十二話『ハンカチと心の支え』



「だから!どうしてこれが出来ないのっっ!?」

私は教卓の上に置いてあったハンカチをぎゅっと握り締めた。そしてそれをギリギリと締め上げる。

もう、これで何枚のハンカチを破り捨てただろう。

そもそも一体私はいつからこんなにもハンカチを破くようになったのかしら・・・。

それは私が新任教師としてやってきてから半年ほど過ぎたころだった。

それまでは生徒たちに八つ当たりと言ってもおかしくないほどわめき散らして叫んでいたのだけれど、

ある日聖さまに言われたのだ。

「祥子、それじゃあ、あまりにも生徒たちが可哀相だ。…そうだ!ハンカチをいつも教卓に置くようにしなさい。

そしてイライラしてきたら、ハンカチに怒りをぶつけなさい。分かった?」

そう言われてからというもの、私の怒りの矛先は全てハンカチに向いた。

毎日毎日ハンカチを千切っては投げ、千切っては投げ・・・。

流石にハンカチが可哀想だと思い始めた頃、あの子がここにやってきた。そう、祐巳だ。

何故か初めて見た時から気になっていた・・・ころころと変わる表情とか、素直な言動とかが私を随分楽にしてくれる。

今までは保健室に入る機会があまり無かった私。でも、最近はよく保健室に行く。何故ならそこには祐巳がいるから。

いつも笑顔で出迎えてくれて、私の情けない愚痴を文句ひとつ言わず聞いてくれる。

どこの誰がそう言い始めたのかは分からない。

けれど、最近では私が少しでも癇癪を起こしそうになると、クラスの保健係の子が突然教室を出て、

祐巳を連れてきては言うのだ。

「やっぱり小笠原先生を止められるのは祐巳ちゃんだけだから」

と。私は憤慨した。だって、そうでしょう?それではまるで私が祐巳なしでは一人で教壇に立てないみたいじゃない。

でも・・・生徒の方が正しかった・・・。

私は祐巳の顔を見ただけで、自分の気持ちがすっと晴れていくのを感じるようになってしまった。

でもやはり、保健医の先生をずっと教室に置いておくことも出来ないし、どうすればいいかしら?と考えていたら、

今度は江利子さまが言った。

「それなら・・・祐巳ちゃんの写真をいつも持ち歩けば?で、授業が始まったらその写真を教卓に置く。

ね?いいアイデアでしょ?」

なるほど、それはいい案だわ・・・そうすれば私は一人でも教壇に立てる。

さっそく蔦子ちゃんに頼んで祐巳の一番いい写真を貰った。もちろん他の写真も何枚かと一緒に。

本当は全部欲しかったのだけれど、生憎ネガは全て自宅にあるというので、仕方なく諦めた。

でも本当・・・どうしてこんなにも愛らしいのかしら・・・祐巳ってば・・・。

私はその足で保健室に行き、すでにそこに居座っていた聖さまを追い出し祐巳と二人で話しをした。

「これで本当に大丈夫かしら・・・まだ少し不安だわ・・・」

「祥子さま、大丈夫ですよ。イライラしたらすぐにこの写真の中の私に怒ればいいんです!

なんなら破いても構いませんし!私はいつだって祥子さまのお傍にいますから、ね?」

「ええ、そうよね・・・大丈夫よね・・・ありがとう、祐巳」

私の手をとってニッコリと笑う祐巳。

あぁ・・・なんて可愛いのかしら・・・。祐巳の写真を破くだなんて・・・出来るわけないじゃない・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こうして・・・私のパスケースの中にはいつも祐巳の写真が数枚入っている。

そのパスケースを教卓の上に置いて、今日も沢山の生徒たちに授業を教えるのだ。

「はい、それでは今日の授業を始めます」

「きりーつ、れーい。おはようございます」

「はい、おはようございます」

祐巳・・・今日もどうか、私をそこから見ていてね・・・。




第十三話『蔦子のパラダイス』



夜七時。学校はとっくに閉鎖されて誰もいないはずなのに今日はとても賑わっていた。

約一クラス分の生徒たちが私の秘密の天体観測に来てくれたのだ。

月に一度開くこの天体観測は、有志を集めて毎月開催されている。

お菓子を持ってくる子もいれば、おにぎりやお茶といった夜食にちかいものを持ってくる子もいる。

皆楽しそうに望遠鏡を覗き込んで月や星を見てはそれぞれの意見を出し合う。

私はそれを聞きながらも、しきりにカメラのシャッターを押し続け、きっかり二時間で解散するのだ。

皆の思い出をこのカメラに全て収め、卒業式にアルバムを作って皆を送り出すのが、

理事長である蓉子様に任命された私のもう一つの任務なのだ。

それにしても・・・月明かりの中で煌く青春を謳歌する少女達の美しさといったら・・・。

「はい、じゃあそろそろ解散しましょうか。くれぐれも一人では帰らないように!いいわね?」

「は〜い、お疲れさまでした〜」

「お疲れ様〜また来週、学校でね」

私は誰も居なくなった後の屋上をグルリと見渡した。月だけがポッカリと私を見下ろしている。

そう、私の趣味は写真を撮ること。星や月や景色も撮るけど、人間では女性限定。

今まで撮った写真は大事に大事に家の膨大な量のアルバムに収められているのだ。

そこはもう、私のパラダイスと言ってもいい。むしろ私の人生の集大成が収められているのだ。

しかもそれは今も着実に増え続けている。この趣味を知っているのは、一部の教師仲間だけだ。

ところが、そんな私のアルバムに、最近物凄い勢いで増え続けている項目があった。それは・・・祐巳さんと聖さまだ。

あの二人の写真・・・一緒にいるところが多すぎる。祐巳さんを撮ろうと思えば必然的に聖さまもいる・・・そんな感じなのだ。

「これは・・・怪しい・・・」

私は家に帰り祐巳さんのアルバムを引っ張り出し一枚一枚調べた。するとほら、やっぱりどれにも聖さまが写ってる。

聖さまの方もそう、ほらね、やっぱり祐巳さんが写ってる・・・。

聖さまといえば、ついこの間までは必ず栞さまのそばにいたと思う。

でも、栞さまの方は・・・ピンで写ってるものが結構ある・・・。

それにこの時と比べると、聖さまの表情は今のほうが随分明るく、楽しそう。

「んん・・・?これは・・・もしや・・・」

私の頭の中でカシャカシャとシャッター音が鳴る。

これは私のメモリーレーダーが反応する時に鳴る私にしか聞こえない音なのだが・・・それがこんなにも鳴り響くなんて・・・っ!。

祐巳さんの方は表情の違いとかあまり分からないけど、聖さまは、随分違う。

これは・・・ふふふ・・・そのうちもっといい写真が撮れるかもしれない・・・。

私の中のカメラ小僧魂がムクムクと頭をもたげ、それはやがて確信にかわった。

これを逃すチャンスはないでしょ!カメラ係に任命してくれた蓉子さま!今、私は本気で感謝してます!

私の財産ともいえるこのアルバム達、乙女の煌く瞬間ばかりを集めたこの秀逸な作品・・・。

そして私の腕が遺憾なく発揮できる場所、ここは私のパラダイス。




第十四話『波乱の引越し』



私のマンションのお隣さんは、聖さま曰くずっと空き家だったらしい。何故聖さまがそんな事を知っているの?

って聞いたら、ただ笑っただけで教えてくれなかったんだけど。

どうにも聖さまは初めて私の部屋にやってきた時から間取りとか全部分かっているみたいで怪しかった。

その理由を本当はとっ捕まえてでも聞きたいんだけど、そうは問屋が卸してはくれないみたい。

まぁ人それぞれ事情があるんだろうって事でスッキリまとめてしまいたいけど・・・何かくやしいじゃないっっ!!

私でも気づかなかった添え付けのタンスの中にある秘密の引き出しとか、

トイレの換気扇のスイッチとか、どうして聖さまが知ってるのよ!?

それってやっぱり、あの日聖さまが漏らしたあの名前・・・栞さんって人と関係あるのかなぁ・・・。

栞さんって言えば、由乃さんが微妙に詳しく教えてくれた。

何でも私の前の保健医の先生で、聖さまとは特に親しくしていたらしいんだけど、ある日突然辞めてしまったんだとか。

聖母マリア様を思わせる微笑でファンも多かったとかなんとか・・・。それだけ聞くと何だか物凄い謎な人なんですけど。

まぁ、その栞さんって人は置いといて・・・今重要なのは聖さまが異様にこの部屋に詳しいって事だと思うんだよね。

私の推理したところによると、その栞さんって人がここに住んでた!とか安直な事しか思いつかないんだけど、

いくら聖さまが栞さんと仲良かったからって、タンスの中の秘密の引き出しまで知ってるかなぁ?

何にしても、お隣さんは相変わらずずっと前から住んではいないらしい。

そんなお隣に変化がおきたのは、ある日の土曜日、私が志摩子さんと由乃さんと乃梨子ちゃんとショッピングを楽しんで、

晩御飯まで食べて帰ってきた時の事だった。

初めて・・・そう、初めてお隣さんの門灯に明かりが点いていたのだ!

「誰か引っ越してきたんだぁ・・・」

私はどんな人が引っ越してきたのか凄く気になってたんだけど、まぁ、そんな都合よく出てくる訳もなく・・・。

「っくしゅん!!ぅぁ・・・鼻水が・・・」

お隣さん見たさに玄関の前で15分ほど見張ってたら、案の定冷えてしまった。風邪なんて引かなきゃいいけど・・・。

結局その日は疲れてた事もあって、お風呂に入ってそのままバタンキュー。お隣さんの事なんてすっかり忘れてしまっていた。

翌朝、若いお兄さんの元気な声で目が覚めた。

「それじゃあ、ありがとうございあしたー!!またごひいきに!!」

「ご苦労様、ありがとね」

家の主らしい人の声も聞こえたけど・・・声だけじゃ男か女か分からない。ただ、結構好みの声だ。

「今日が引越しだったんだぁ〜・・・ふぁ・・・そろそろ起きよ・・・」

私はノロノロと布団から這い出して家用のかなりラフな格好に着替えた。やっぱり家ではこれが一番おちつく。

素肌にサイズの大きなダボダボのセーター・・・ちょっとチクチクするけど、まぁ、楽だしね。

お昼過ぎ、突然インターホンが三回も続けて鳴った。こんな事するのなんて・・・あの人しかいない。

「は〜い」

覗き見から確認する事もなくドアを開けた私。

「祐巳ちゃん・・・ちゃんと確認はしようよ・・・」

「だって、あんな風にインターホン押すの聖さまぐらいでしょ」

「・・・まぁ、いいけどね・・・」

「で、どうしたんです?今日は何の御用ですか?」

「御用って・・・私が今までに何か用事があって来た事なんてあった?」

「・・・・・・・・・・・・・・」

嫌味のつもりで言ったのに・・・どうもこの人には全くこたえてなかったらしい。

いっつもいっつも突然やってきてはご飯食べたりテレビ見たりしていくこの人・・・。一体何がしたいのか・・・。

「あ!でも今日はね、お土産持ってきたよ!」

聖さまはそう言って右手をヒョイと顔の高さまで上げた。手には老舗のお店のおまんじゅうが・・・。

「こ、これは・・・一日に50個しか出ないというあの幻のっ・・・。

どうぞ!よく来てくださいましたね!大歓迎ですよっ!!すぐにお茶の準備しますね!」

食べたかったんだよ・・・これ・・・!

「大歓迎なのはおまんじゅうでしょ?色気より食い気・・・祐巳ちゃん本当に正直だねぇ」

聖さまは呆れたみたいに笑いながら、ブーツを脱いで部屋に上がりこみ早速テーブルの上でお菓子を開け始めている。

普通、自分の持ってきたお土産って自分で開けるかな・・・。

「そのおまんじゅう・・・よく買えましたねー。私なんていつ行っても売り切れですよ」

「うん、私も。でも今日は親切なお姉さんが譲ってくれたんだ。まっ、いわゆる人徳?」

「・・・それ・・・脅したんじゃないでしょうね?」

「失礼な!ちゃんとお願いしたのよ。そしたらくれたの」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

嘘だ・・・どうせ顔に物言わせたんだ・・・そうに違いない。この人はどれだけ自分が格好良いかきっと知ってるもの。

お姉さんも気の毒に・・・食べたかっただろうにな・・・このおまんじゅう・・・。

「その顔は疑ってるわね?私を」

「いえいえ、まさか!疑うだなんてとんでもない!確信してるんですよ!」

「ひどっ!!もう知らない、祐巳ちゃんには一つもあげないっ!!」

「えっ!?や、やだ・・・ごめんなさい!!嘘ですよ、冗談に決まってるじゃないですか〜」

何としても食べたい・・・そのおまんじゅう・・・お姉さんには悪いけれど、おまんじゅうには罪はないもの。

「じゃあ・・・ごめんなさいのチューしてくれたら許してあげる」

「は!?」

「ほら、早く!!」

トントン、と自分の唇を叩く聖さま。しかしだ。どうして私が聖さまにキスしなくてはならないのか、と。

「・・・わかりました。それじゃあ・・・目を・・・瞑ってください」

「えっ!?」

「ほら、早く・・・恥ずかしいじゃないですか・・・」

少しづつ、私は聖さまに顔を近づけた。最初は驚いていた聖さま。けれど、私が本気だと思ったのか、ゆっくりと目を閉じた。

もちろん私は本気でキスするつもりなんか無い。ないんだけど・・・でも・・・どうしてこんなにドキドキするの!?

静かに目を瞑って私の口付けを待つ聖さま・・・なんて、綺麗・・・それに睫なが・・・。

これは聖さまの引力なのか、それとも私は本当は聖さまにキスしたいのか・・・もうわけわかんないっっ!!

本当はすぐに冗談ですよ!って言うつもりだったのに、

あまりにも聖さまが素直に言うことを聞くもんだから、後に引けなくなってしまった。

どうすればごまかせる!?どうやったらこのドキドキは納まるのっ!?誰か、教えて!!

その時、ふと目の端に写ったおまんじゅう・・・これだっ!!私はワラにもすがる気分だった。

おまんじゅうの蓋を乱暴に外すと、綺麗に並べられたおまんじゅうを一個口に放り込んだ。

ガサガサ、という音にパチリと目を開けた聖さまは、愕然とした顔をして私を見ている。

「ず、ずるい!!!私が目、瞑ってる間に食べるなんてっっ!!!」

「らっへ、ひふはんへへひふはへはひゃはいへふはっっ!?」

「何!?ぜんっぜんわかんない!!!何言ってんのか、全然わかんない!!」

「ははは、ひふはんへ・・・っぐふっ」

「・・・何がおかしいの?」

いや、笑ってる訳ではなくて・・・私は胸をドンドンと叩いた。おまんじゅうがノドに詰まったのだ。

「ちょ、ちょっと大丈夫!?」

「ごほっ・・・んん・・・っぐ・・・」

く、苦しい・・・お、お茶・・・。私がお茶に手を伸ばすよりも先に、聖さまが水を汲んできてくれた。

そっか・・・お茶は炒れたばっかりで熱いもんね・・・聖さま気がきくなぁ・・・関心しちゃう・・・でも・・・く、苦しい・・・。

「ほら、これ飲んで!そう・・・ゆっくりね・・・どう?もう大丈夫?」

私は聖さまに抱きかかえられるみたいにして、お水をゆっくり喉の奥に流し込んだ。もう、恥ずかしさと苦しさで涙が出てくる。

「・・・ごめんなさい・・・」

「いいよ、もう。あービックリした・・・飽きないねぇ、祐巳ちゃんは・・・色んな意味で」

あはは、と笑う聖さま。いいよ、もう。笑うだけ笑えば・・・。

「それにしても、だ。どこであんな技覚えたのよ?」

「へ?」

「私てっきり本気にしちゃったじゃない!」

「あ、あー・・・あれは・・・引っ込みがつかなくなってしまって・・・咄嗟に・・・」

「じゃあ初めからしないつもりだったの?」

「え、ええまぁ・・・ところがその・・・」

途中でしたくなっちゃって・・・とは、口が裂けても言えない。聖さまは真面目な顔して私をじっと見つめている。

お願い・・・そんな顔で見ないで・・・でないとまた・・・。何だろう、この感情・・・。

私はどうしようもなくなって、俯いた。それ以上聖さまの顔は見ていられなかった。

私はそこから先の言葉が見つからず、聖さまも先を聞こうとはしなかった。何とも言えない気まずい沈黙・・・。

早く時間よ、過ぎろ・・・そればかり考えていた。すると聖さまはゆっくりと立ち上がり大きく伸びをして言った。

「さて、それじゃあ私はそろそろ帰ろうかな。片付けもまだ残ってるし」

「あ、そうですか・・・片付けが・・・年末ですもんね」

「いや、それだけじゃなくってさ。あれ?私言わなかったっけ?引越ししたのよ」

「えっ!そ、そうなんですか?」

つっても、前の聖さまの家知らないんだけどね、私。

「うん。で、それは引越しの挨拶」

聖さまはそう言ってテーブルの上のおまんじゅうを指差した。

ていうか・・・どうして聖さまが引越しをして私がおまんじゅうを貰うの??普通こういうのって・・・お隣さんに持って・・・ん?

ちょっと待てよ・・・ま・さ・か!!

「そう!今日からよろしくね、祐巳ちゃん」

聖さまは口元を右手で抑え、肩を震わせながら部屋を後にした。

しばらくすると、隣の部屋からバタンとドアが閉まる音が聞こえてくる。

「え・・・えええーーーーーーーっっ!!?」

嘘でしょう?ねぇ、お願い、嘘だと言って・・・誰か!!!

隣人は聖さま。きっと今まで以上に頻繁にウチにやってくるに違いない・・・多分。





第十五話『ファーストキスはノーカウント?』





「ちょっとごめんなさいね〜、はい、どいたどいた〜〜!!」

何やら廊下が騒々しい。一体なんだろうと思って保健室のドアを開けたら、

目の前に誰かが仁王立ちしていて、思わず私は小さな悲鳴を上げて一歩後図去った。

おそるおそる顔を上げ、それがSRGだと分かった時にはもっと驚いてしまった。

だって、多分直接話しした事ないんじゃないかな・・・。

「ちょうどよかったわ、今ノックしようとしてたところなのよ」

ノックって・・・どう見ても両手塞がってるんですけど・・・一体どこでノックしようとしてたんだろう・・・。

いや、それよりも今は抱きかかえられて涙ぐんでるこの子の方が重要だろう。

「どうしたんですか!?」

「それがね〜ハードル飛びそこなって思いっきりころんじゃったのよ」

見ると、抱きかかえられた少女の腕や足に大きな擦り傷がある。

そこから血が出ているけれど、見た目ほどの怪我ではなさそうだ。

「えと・・・それじゃあ、あのイスまでお願いできますか?」

「ええ、分かったわ」

SRGはよいしょ、っと少女を抱えなおして保健室のイスに座らせると、自分も隣のイスに腰をおろす。

あ、あれ??まだ授業中だよね!?いいのかな・・・。

「ああ、今自習にしてきたから、皆好きにやってるでしょ。それより・・・この子擦り傷だけですんでるかしら?」

多分、私の表情で言わんとしている事が分かったのだろう。全く・・・自分の事ながら私はどこまで分かりやすいんだろう!!

「多分擦り傷だけだと思いますが・・・どう?足は動く?」

「はい・・・どうにか・・・だから先生、平気だってば!もう一ヶ月も経ってるし、完治もしてるんだって!!」

「そうは言ってもねー・・・一応見ておいてもらわないと」

ん??一体何の話をしているのだ???私は不思議そうな顔してたんだろう。

SRGが説明してくれた。一からバカ丁寧に。

何でもこの子はちょうど私がやってくる前の日に体育の授業で派手に転んで、靭帯を痛めたのだという。

幸い切れてはいなかったものの、それでも念のためという事で体育はずっとお休みしていたらしい。

そして今日、久しぶりに出た体育で・・・またこけた・・・と。

「なるほど・・・それじゃあ一応・・・痛かったら言ってね?」

「は〜い」

私は少女の細い足首を右に捻ったり左に捻ったりして少女の反応を窺った。けれど、全く反応がない。

「大丈夫そうですね。見た目ほど怪我も深くありませんし。傷の手当てだけしたらまた体育できますよ!」

「ほらね〜、だから言ったのに〜。祐巳ちゃん、ありがと〜〜」

私は少女の怪我の手当てをしながら、ずっと視線を感じていた。そう・・・熱い視線を。

多分それはSRGからなのだろうが・・・これは睨んでいると言った方がいいかもしれない。

手当てが終わった後、私は保健室でSRGと二人きりになった。

「え、えと・・・お茶・・・飲みます・・・?」

「ええ、ありがとう」

私はいそいそとお茶を淹れてSRGの前に置いた。しかし・・・一体何を話せばいいのか・・・。

どうしよう・・・間が持たない・・・。

「祐巳ちゃん、と言ったかしら?」

「は、はい!えと・・・初めまして・・・?」

「・・・初めましてではないでしょう?・・・ふふ。噂通り面白い子ね」

噂って・・・誰に何を聞いたというのか・・・変な噂じゃなければいいけど・・・。

「聖はここによく来るの?」

まるで獲物を見つけた猛禽類みたいにSRGの黒い瞳がキラリと光った。

怖い・・・怖いよぉ〜・・・。

「聖さま・・・ですか?そうですね・・・しょっちゅう来てますね」

「どれぐらい?例えば週に二〜三日・・・とか」

「週に・・・そうですね、だいたい四日は来てます・・・けど・・・」

そう、聖さまがここに顔を出さない日など殆ど無いのだ。

授業が無い時間はここか視聴覚室に居るらしく、いつ職員室に行っても居ないと志摩子さんがボヤいていた。

私の答えを聞いたSRGは目を丸くして声のボリュームを上げる。

「四日!?殆ど毎日じゃない!!何してるの、あの子ここで」

何・・・と言われても・・・特に何もしてないような気がする。

生徒から取り上げた・・・もしくは借りた漫画読んでたり、お菓子食べたりお茶飲んだり、ベッドが空いてたら寝たりとか・・・。

それを全て正直に言うと、SRGはふっと表情を緩めた。

「あの子らしいわね。それで祐巳ちゃんは追い出さないの?」

「いえ、別に邪魔にもなりませんし、楽しいですから、私も」

特に追い出す理由もないし、何よりも私はあの時間が好きだった。

最近では祥子さまや由乃さん、志摩子さんや江利子さままでしょっちゅうやってくる。

皆理由もなくフラリと現れては、また帰ってゆく。そしてそこに生徒たちも加われば、もううるさくてしょうがない。

けれど、そんな時間が私は好きだった。

「ここからはいつも笑い声が聞こえているものね・・・いいわね、楽しそうで・・・」

「ええ、楽しいですよ!今度是非SRGもいらっしゃってください!お茶とお菓子は沢山ありますから!」

「ふふ、そうね・・・今度お邪魔するわ・・・それにしても・・・そう、聖はそんなにもよくここへくるの・・・私てっきり・・・」

「?」

「いえね、てっきり祐巳ちゃんを追い出すんじゃないかと思ってたのよ。なんせここはあの子と彼女の・・・」

追い出す!?私を??そいつはおだやかじゃないな!!これはきちんと聞いておかなければ!!

そう思ったのだけれど、SRGはそれ以上話してくれなかった。その代わり、こんな話しをしだしたのだ。

「祐巳ちゃんは、恋って楽しいものだと思う?」

来たよ・・・恋バナ・・・やめてよー私の最も不得意な分野なのよー。

「ど、どうでしょう・・・よく分かりません・・・」

「そう。私はね、恋ってファンタジーだと思うの」

「ファンタジー?」

なんつうファンシーなお答え・・・さすが皆が恐れるSRGだ・・・。

「そう、ファンタジー。ロマンあり、冒険ありのドキドキワクワクが一杯の」

「はあ・・・」

「でもね、決して楽しいばかりではないと思うのよ。苦しかったり辛かったりもすると思う。

かと言って辛いばかりでもない。それが恋だと思うのね?」

「はい」

「でもね。中にはシリアスな恋ばかりを選んでしまう人もいるのよね」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

それって、誰のことを言ってるんだろう。もしかして・・・。

「そう、正解。これは聖の話なのよ。あの子は何故かいつも辛い恋ばかり選ぶのよね。

だから恋の楽しさも知らないし、多分本気で誰かを愛した事なんて無いんじゃないかしら。

いつも相手を追い詰めて傷つけて・・・そしてそれ以上に自分を傷つけて・・・本当にバカな子よね」

「どうして・・・そんな話しを私に?」

「さあ・・・どうしてかしら。ただなんとなく聞いて欲しかったのかもしれないわ。

あなたなら聖から逃げずにいてくれそうだから」

「聖さまから…逃げない?」

「そう。逃げずに戦いそうじゃない。祐巳ちゃんって。だから聖も懐くのかもしれないわね。

今までとは違うタイプだと思ってるのかも」

SRGはそこまで言って小さく笑った。さっきまであんなにも怖かったのに、何故だろう・・・今はこんなにも優しく見える。

「それは・・・嬉しいのか悲しいのか微妙ですねー。

それに私何だか完全に聖さまにおもちゃにされてるような気がするんですけど」

あはは、と笑う私に、SRGも笑った。

「おもちゃはいいわね!確かに祐巳ちゃん、からかい甲斐がありそうだからねー。

祐巳ちゃんを見て何かが変ればいいんだけど」

SRGはそう言ってズイっと私に近寄った。そして・・・一瞬の隙をついて私の唇に軽くキスする。

「っ!!??」

い、今のは・・・今のは紛れもなく・・・キ、キ、キス!?

ど、ど、ど、どうしてっっ!?

「ふふ、これはお礼よ、私からの」

「・・・・・・・・・・・・・」

お礼って・・・私何にもしてませんよ?それに・・・やっぱり姉妹だわ・・・この人と聖さま・・・。

頭の中が真っ白になる。もう、何も考えられそうにない・・・。

私が口を押さえながら、顔を真っ赤にして俯いていると、突然勢いよくガラガラガラとドアが開いた。

「やっほー!来たよ〜・・・って・・・お、お姉さま!?何してるんですか・・・っていうか・・・祐巳ちゃん!?

どうしたの、顔真っ赤だよ!?まさか・・・お姉さまに何かされたんじゃ・・・」

いや、まぁ・・・されたと言えばされましたけど・・・でもこれはお礼な訳で他意はなくて、だからえっと、

これは・・・き、キスだけどキスではなくて・・・ああああああ!!!!もう何言ってのいいのかわかんないっっ!!!

「祐巳ちゃん!?やっぱり・・・お姉さま祐巳ちゃんに何したんですか!!」

「何って・・・キスしただけじゃない」

「キ、キスーっ!?ほ、ほんとなの!?祐巳ちゃん!!」

聖さまが私の肩をぶんぶん揺するけど、私は頷く事しか出来なかった。

私のファーストキス・・・味なんて分からなかった。ただ頭が真っ白・・・。

「ま、まさか口にしたんじゃないでしょうね!?」

「何言ってるの聖ったら。普通キスっていったら口でしょう?」

「う、うそでしょ!?な、何てことするんですかーーーっっ!!!」

「何そんなに怒ってるのよ。別に祐巳ちゃんにキスしたからって聖が怒る事じゃないでしょ?」

「そ、それはそうですけど・・・でも・・・でも!!」

「でも、何?何か文句あるの?」

文句ありますよーーーー!!!少なくとも私はっっ!!ファーストキスですよ!?ファーストキス!!

乙女にとってどれだけ重要か!!!まぁ、正直全くといってもいいほど感覚なんて残ってませんが。

本当に一瞬で、もしかしたら当たらなかったのかもしれない、と思うほどのキスだった。

いや、むしろ当たらなかったという事にしておきたい。

「文句なんて・・・もう・・・いいです・・・失礼しました」

聖さまはそう言って保健室を出て行ってしまった。

聖さまが何か怒ってるのはわかるんだけど、どうしてここで聖さまが怒ったのかは分からない。

もしかして私に焼きもち妬いたんだろうか。大好きなお姉さまが私にキスをしたから・・・。

・ ・・なんだ・・・つまんないの・・・私がキスされた事に怒ってるんじゃないんだ・・・。

って・・・あれ?私どうしてこんなにも悲しいんだろ。別に聖さまの事なんて何とも思ってないのに。

聖さまはただの友達なのに・・・。

ボンヤリと聖さまが出て行った後姿を見ていた私は、SRGの言葉で我に返った。

「全く。本当にしょうがないんだから。ごめんね?あの子の事は私が何とかするわ。それじゃあまた」

「あ・・・はい・・・すみません・・・」

SRGはそういって保健室を後にした。一人ポツンと保健室に取り残された私は、消毒液の匂いにむせそうになった。

感触の残らないSRGとのキスは、不意に私と聖さまの溝を深めたような気がする。

でもね、どうしてこんな気持ちになるんだろう。心にポッカリ穴が開いたような、そんな寂しい気持ちに。

聖さまはただのウマの合う友達で、SRGが言ってくれたみたいに、聖さまは私と仲良くしてくれていて、

でもそれだけだ。私は聖さまの事を何も知らないんだ。だから今みたいに聖さまが何に怒ってるのかも判らないし、

SRGみたいに聖さまを追いかける事も出来ないんだ・・・。

なんか・・・寂しい・・・な。

とりあえず今回のキス・・・これはノーカウントって事で!!




第十六話『気に食わないアイツ』




私は大の字に寝転がって流れの速い雲を見つめていた。

立ち入り禁止となっているこの場所にやってくるようなリリアン生徒は誰一人としていない。

それは、教師達も例外ではなかった。

誰も来ないこの場所は、私だけの特別な場所だ。

私は、はぁ、と小さなため息を漏らし、頭の中を駆け巡る様々な事を思い起こした。

そもそも初対面から気に食わなかったのだ、あの子は。

栞が居なくなってポッカリ空いた穴にズカズカと乗り込んできて、さっさと後釜に座ろうとしたんだから。

祐巳ちゃんがやってきて半年が過ぎ、皆の記憶から少しづつ前の保健医の記憶は薄れてゆく。

私にはそれが我慢ならなかった。だって、どうして私が栞を忘れられるというのだ。

鮮烈な想いだけを残し突如私の目の前から消えた彼女。

私は覚えている。私だけは、ずっと。

目の端を見慣れた白衣が通り過ぎるたびにイライラして、ついちょっかいをかけてしまう。

『ぎゃうっ!?』

だなんて可愛らしくもない悲鳴を上げて彼女は驚き、私を睨む祐巳ちゃん。

別に誰にでもこんなことをしている訳ではない。もちろん祐巳ちゃんに非があるわけでもない。

ただ、誰かしらに対する復讐なのだ、これは。

出来るだけ祐巳ちゃんに接近して、いつものように捕まりそうになったすんでの所で身を翻す。

私はひたすら待つのだ。張り巡らせた糸に小ざかしい蝶がかかるのを・・・。ただひたすらに・・・。

・ ・・なんてね。これじゃあまるでチープな小説みたい。嫉妬に狂った女郎蜘蛛といったところか。

本当は分かってるんだ。どうして私が祐巳ちゃんに固執するのか。

ただ、祐巳ちゃんに・・・その職業と彼女の白衣に栞を重ねているだけなのだ。

栞は毎日あの保健室に居て私を待ってくれていた。意味ありげな微笑を浮かべ、瞳を猫のように細めて。

私は祐巳ちゃんを見てなどいない。ただ、私は彼女と・・・栞とこんな風に付き合いたかった・・・。

苦しく辛い話しばかりではなくて、楽しく幸せな話しを・・・もっと。

一つづつ積み木を積み上げるように祐巳ちゃんとの関係を詰めてゆく私を、きっとお姉さまは悟ったのだろう。

あれはいわば、私の歪んだ愛から祐巳ちゃんを守るためだったに違いない。

その時だった。突然背後で誰かの気配がした。

「聖・・・話があるの」

ほらきた・・・お姉さまだ。

「・・・なんです?」

「分かっているでしょう?私の言いたいことが」

「・・・なんとなくは」

「でしょうね。ならもう止めなさい。こんな事を続けていても、あなたの大事だった彼女は帰ってきやしないわ」

・ ・・分かってる・・・そんなこと。私のやっている事全てが無駄だなんて事、私が一番よく分かっている。

でも・・・どうにも抑えられない衝動を、じゃあ私はどうすればいいの?誰にぶつければいいの!?

「どうして・・・お姉さまは祐巳ちゃんにキスを?」

「さあ、どうしてかしら?それは聖が一番良く知っているんじゃないの?」

「私が!?」

「ええ。聖はどうしてあの火事の時、祐巳ちゃんを追って火の中に飛び込んだの?」

「そ、それは・・・」

私は言葉に詰まった。だって、今でもよく分からないのだから。

ただ一つ言えるのは、私はあんな私を知らなかったという事だけだった。

いつも誰かに救いを求める私が、誰かを救おうだなんて・・・ありえない。

「分からないでしょ?私も同じよ、聖。どうして祐巳ちゃんにキスをしたのかなんて分からない。

でも、あなたの中には・・・きっと私が祐巳ちゃんにキスをした理由が分かっているのでしょう?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

これは誘導尋問だ。咄嗟に私はそう思った。お姉さまは私の心の中なんて完全に知っている。いつだって。

「ねえ、聖。あなたが栞ちゃんをどれほど愛していたのかなんて私には分からない。

でもね、それは彼女に果たして伝わっていたのかしら?」

「それは・・・伝わってたと思います・・・」

多分・・・。私の愛はいつだって狂気じみていると言った彼女に伝わっていなかったはずがない。

「そうかしら。聖はいつだって自分の殻に閉じこもっているじゃない。

栞ちゃんにはそれがどれだけとてつもない壁に見えていたのかしらね?

あなたの行動全てを彼女はどんな思いで見ていたのかしらね?」

「・・・・・・・っ!」

栞が私をどんな風に見ていたかって!?そんな事今となってはもう知る由もない。

だって・・・栞はいつだって私を笑って出迎えてくれていた。そう・・・いつだって・・・。

「本当は・・・もっと聖に何か言いたかったんじゃないかしら?でも・・・彼女にはそれが出来なかった。

あなたに飛び込む勇気は・・・彼女には無かった。

あなたの欲するものを、彼女は与えられないと、彼女は悟ったんじゃなくて?」

「嘘よ・・・そんなのは・・・全部、嘘・・・」

頭を何かに思い切り殴りつけられたようだった。不意に襲ってきた漆黒の雲は今、私の頭上にあるとさえ思った。

それでも、お姉さまは話しを続ける。ゆっくり・・・淡々と。

「そうね、栞ちゃんの気持ちを私に分かるはずもない。ただね、聖。

祐巳ちゃんに栞ちゃんは見つからないわ。どこを探しても、祐巳ちゃんの中には栞ちゃんは居ない。

いいえ、誰の中にも栞ちゃんは居ないの。いい加減気づきなさい」

ピシャリとお姉さまは言い放った。私の一部が・・・たった今、死んだ。

フラフラとおぼつかない私を、お姉さまは何も言わず抱きしめてくれた。強く、強く。

何度も私を慰め、癒してくれたこの腕も、今はただ生暖かい鎖のように思える。

誰が憎い訳でもない。ただ・・・全てを見誤っていた自分だけが果てしなく愚かだ。

私はお姉さまの腕をすり抜けると、そのまま真っ直ぐにドアへ向かった。

どこへ向かうかは・・・大体見当はついている。私は謝らなければならない。あの子に、栞に・・・皆に。

ドアノブに手をかけた私に、お姉さまが後ろから声をかける。

「聖は・・・こんな時でも泣かないのね。誰の前なら涙を見せるの?」

「・・・・・栞にも・・・以前そう、言われましたよ・・・」

全く・・・よりによって、栞と同じ台詞をお姉さまが言うとは・・・。私は苦い笑いをかみ殺した。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

保健室に入ると、祐巳ちゃんは窓の外をボンヤリと見つめていた。私よりももしかすると放心状態なのかもしれない。

私が入ってきた事にも気づかないのだろうか・・・いや、そんな事はないだろう。きっと、気づいている。

それでもこちらを振り向かないのだ。

「聖さま・・・でしょ?何の用です?」

「私が・・・何か用事があってここに来た事なんて今までに一度でも・・・あった?」

これは前にも言った台詞だ。でも、今はこんなにも重い。

「・・・ないですね。でも・・・いつも泣きそうな顔してらっしゃいました。私に・・・何が言いたいんですか?」

祐巳ちゃんのこの台詞に、私は驚いた。今初めて祐巳ちゃんという人間に出会ったような気分だ。

「嘘だよ・・・私いつも笑ってたでしょ?」

「ええ、笑ってましたね。でも、酷く怒ってもいた。いつでも」

「・・・そう」

「はい」

祐巳ちゃんは相変わらず私に背を向けたまま、どこかボンヤリと呟くように言う。

「私ね、すごく好きな人が居たの。でもね・・・半年前・・・ちょうど祐巳ちゃんと入れ替わりにここを出ていっちゃった」

しばらくの沈黙の後、祐巳ちゃんが口を開いた。少しだけ聞こえる笑い声は、失笑のよう。

「それが・・・栞さんですか」

「・・・そうよ。彼女は私の全てだった。少なくとも、私には・・・だけど。

私はずっと栞を探してる。今も、ずっと・・・でもね・・・でも・・・どこにも居ないの・・・。

この学校のどこにも彼女は居ない・・・祐巳ちゃんの中にも、私の中にさえ・・・」

「・・・いつまでそうやって栞さんを探すんです?一生ですか?」

祐巳ちゃんの言葉は辛辣だった。まるで容赦なく降り注ぐ雨みたいに、どんどん私に降り注いでくる。

「・・・わからない・・・でも、私の心のどこかでは、彼女がもう戻って来ない事を知ってる。

忘れなきゃならない事も・・・でも・・・その方法が分からない・・・どうしたらいいのか・・・分からないのよ!!」

ポツン・・・と、何かが膝の上で握った拳に落ちた。私はハッとして顔を上げ、頬を指先で触って驚いた。

涙だ・・・私が・・・泣いてる・・・の?

「忘れるなんて事、出来ませんよ、聖さまには。

それほど愛した人なんでしょう?そう簡単に忘れられる訳がないじゃないですか」

「じゃあ・・・どうすれば・・・」

「それは聖さまにしか分かりません。他の誰かと新しい恋をするのもいいでしょうし、栞さんを実際に探しに行ってもいい。

でも、あなたが変らないうちは何も変らないと思いますよ」

変る・・・そんな事容易く出来ない事など私は知っている。多分、祐巳ちゃんも知っているだろう。

「ねぇ、聖さま。私には栞さんがどんな人だったか全く分かりませんが、皆はちゃんと栞さんを覚えています。

栞さんは消えて無くなった訳じゃないんです。皆の中にも聖さまの中にもちゃんと居ます。

かなりチープな台詞だとは思いますけどね・・・いい加減、聖さまも思い出の中で生きるのは・・・止めてください。

ちゃんと皆を・・・仲間を見てください」

「・・・思い出の中だなんて・・・軽々しく言わないで!!私にとっては・・・私にとっては・・・」

その時、突然祐巳ちゃんが振り返った。その瞳は真っ直ぐ私を睨みつけている。

そして、その瞳からは大粒の涙が零れていた。

「どうして・・・祐巳ちゃんが泣くの・・・?」

「泣けない聖さまの・・・代わりにです・・・」

そういう祐巳ちゃんの肩は小刻みに震えていた。頼りなさげな華奢な肩は、栞よりもずっとか弱そうに見える。

どうして・・・そこまでして・・・。私の苦しみを、この子は受け入れてくれるというの?私の痛みが・・・分かるというの・・・?

不意に、私は祐巳ちゃんの中に栞の中にも見た尊大なモノを見た気がした。

でもそれは、栞のように冷たく凍るような慈悲ではなく、もっと暖かくて心地よいものだった。

「私・・・祐巳ちゃんに・・・皆に・・・酷い事してた・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」

どれだけ謝っても、きっと許される事ではない。今となっては栞にすら酷い事をしていたのだという気持ちで一杯だった。

その場で泣き崩れる私を、そっと包み込んだのは他の誰でもない、祐巳ちゃんだった。

「もう・・・いいですよ・・・初めから、やり直しましょう?」

パタパタと冷たい涙が私の腕に落ちる。これは私の涙ではない。祐巳ちゃんのだ。

彼女もきっと、ずっと私の中にある大きな壁に戸惑っていたのだろう。

大きな壁はそう簡単には破れない事を、私はよく知っている。なんせ物心ついた頃から築きあげてきたものだ。

そう簡単には壊れない。でもきっと・・・いつかこれが壊れたら・・・私は変る。きっと・・・。

「うん・・・そう・・・だね・・・やり直そう・・・ちゃんと、友達に・・・なろう・・・」

「はい、聖さま」

泣きはらした目で微笑む彼女の顔は、到底綺麗とは言えなかった。でも・・・私はこの子の顔が結構好きだと、気づいた。

多分、初めて祐巳ちゃんの顔を、見たのだと・・・思った。





第十七話『姉妹の絆』






お姉さまの様子が少し変った・・・そう、思ったのは私だけかしら?

乃梨子に聞いても「そうですか?」なんて首を傾げているし、他の誰に聞いても皆の反応は乃梨子と大して変らなかった。

相変わらず生徒や祐巳さんにちょっかいをかけて怒られているのは変らないのだけれど、でも何かが以前とは違う。

そう感じているのは、どうやら私だけではなかったようだった。

「志摩子ちゃんもそう思う?妹のあなたが言うのだから間違いないわね、きっと」

SRGは静かにそう言って笑っている。どうやら何かを知っているらしいのだけれど、でも何も教えてはくれなかった。

何にせよお姉さまは以前と違って随分と楽しそう・・・。

誰のおかげかは分からないけれど、これは感謝すべきだろう。

「あ、いたいた!志摩子―ちょっと手伝ってー」

聞きなれた声に振り返ると、そこには今しがた考えていた人の姿があった。

「お姉さま・・・どうしたんです?それ」

「これ?ちょっとおつかいに行ってきたの。でも持ちきれなくてさー」

「持ちきれないって・・・これお菓子ですよね?」

お姉さまは大量のお菓子を両手に持って、重そうに顔をしかめる。

「そうよ」

「全部・・・ですか?」

「そう。ほら、早く持って!!落としちゃう!!」

「は、はい!」

私はお姉さまの片手から二つほど大きなお菓子の袋を受け取ると、その中身をチラリと覗いた。

全部同じ店のそれぞれ違うお菓子らしいのだけど、

一体こんなにも大量にお菓子を買い付けたのは・・・多分祐巳さんだろうな、ということは何となくだけど予想がついていた。

しばらく無言で歩いていた私達・・・けれど、先に口を開いたのはお姉さまだった。

「志摩子がさー、妹になってくれた時の事覚えてる?」

「・・・お姉さま?」

「ねぇ、覚えてる?私ね、あの時本当に嬉しくてしょうがなかったのよ。

これで誰かを守れるかもしれないって、本気でそう思ったの。厚かましいよね、守られてるのはいつも私だったのにね」

お姉さまはそう言って、ふふ、と小さく笑った。でも、私は笑えなかった。

どうして突然そんな話しをお姉さまがしだしたのか分からなかったのだ。

それに、守られていたのは、私だ。いつだって。

「私ね、志摩子を妹にしたのは自分の為の罪滅ぼしだとずっと思ってたの。

志摩子を守る事でずっと何かから逃れられるような、そんな気がしてたんだと思う」

「どういう・・・意味ですか・・・?」

それは、私でなくても良かったと、そういう事なのだろうか。そんな話ってない・・・胸がギュっと苦しくなってくる。

「分からない?志摩子を使って、栞を忘れようとしたのよ、私は」

「・・・・・・お姉さま・・・・・・・」

そんな・・・そんな事を・・・どうして今、言うのです・・・?目から知らぬ間に涙が浮かび上がるのを私は感じた。

「・・・泣かないで、志摩子・・・」

お姉さまはそういってお菓子を下に置いて、私の頬をそっと右手で撫でてくれた。その手はとても冷たく、氷のよう。

「っだって・・・おね・・・っさまが・・・そんな事・・・」

私はお姉さまに選んでもらえた事を一度だって、ただの一度だってそんな風に考えた事はなかった。

お姉さまは困ったように私を抱き寄せて、まるで小さな子供をあやすように背中を撫でる。

「この話しには続きがあってね、私はそういうつもりで志摩子を妹に選んだ。

でもね・・・志摩子と居るうちに、私が志摩子を選んだのは、偶然なんかじゃなかったんだと、思うようになったの。

どうしてだか・・・分かる?」

そんなの・・・分かりっこない・・・私には、今のお姉さまの気持ちなど何一つ・・・分からない。

あんなにも近い存在だったお姉さま・・・誰よりも私の事を分かってくれるお姉さま。

私はお姉さまの腕の中で頭を左右に振った。よく耳をすますと、トクントクンと、お姉さまの心臓の音が聞こえてくる。

「私と志摩子はまるで半身のようだと・・・分かったからよ。

私には志摩子の想いが、志摩子には私の想いが分かっていたように。

それは今でも変わらない。私の大切な妹は、これから先、ずっと志摩子だけなんだ。

志摩子は、もし私が何か重大な過ちを犯しても・・・ずっと私を見捨てないでいてくれる?」

そんな事・・・分かりきっている。

「・・・当たり前です・・・私にとってお姉さまは、私自身のようなものなのですから・・・」

「うん。ありがとう。きっと、そう言ってくれると思ってた。志摩子・・・いつも私をそっとしておいてくれて・・・ありがとう・・・」

お姉さまは少しだけしゃがんで、私の頬に口付けると、そう言って笑った・・・。

やっぱり・・・お姉さまは何か変った・・・どこが、とは言えないけれど・・・何かが・・・確実に・・・。

「お姉さま・・・私、お姉さまの妹で本当に良かったと、今心から思います・・・」

「私もだよ、志摩子」

お姉さまは私の体をそっと離し、お菓子の袋を持ちなおすと、苦笑いして言った。

「遅くなっちゃった。行こう、志摩子」

「はい、お姉さま」

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「お待たせ〜」

「あ!お帰りなさい、聖さま!それに志摩子さんも!今すぐお茶の用意、しますね」

祐巳さんはそう言って私達を交互に見比べてクスリと小さく笑った。

「何?何がおかしいの?」

「いえ、ただ・・・やっぱり姉妹って、一緒に居ると似てくるものなんですか?」

祐巳さんの思いがけない言葉に、私はキョトンとした。多分、お姉さまも。

「だって、今保健室に入ってきた時、一瞬だけど、二人がそっくりに見えたんです。

まるで、本物の姉妹でしたよ」

それって・・・私はお姉さまと顔を見合わせて、思わず笑ってしまった。

そっか・・・本物の姉妹か・・・こんなにも嬉しい言葉があるなんて、私は知らなかった。

「何です?二人とも・・・気持ち悪いですよ?」

「いや、ありがとう、祐巳ちゃん」

「ありがとう、祐巳さん・・・それ以上の褒め言葉は私達にはないわ」

「はあ・・・とりあえず・・・飲みます?」

意味がわからない、という祐巳さんの顔を見て私達はまたおかしくなった。

だって、これは二人だけの・・・お姉さまと私だけの姉妹の絆だから・・・。







第十八話『学食開放大戦争』






正直、聖さまが泣くなんて思ってもみなかった。

少しは私達の距離は縮まったかな?な〜んて思ってたけど・・・。

「ゆ〜みちゃん!今日のお昼ご飯はなぁに?」

「・・・何なんです、毎日毎日・・・言っておきますけどあげませんからね!」

「えー・・・いいじゃない、一口ぐらい・・・どうしてもダメ?」

「・・・どれがいいんですか・・・一口だけですよ!?」

「やた!じゃあ玉子焼きちょうだい!」

「・・・どうぞ」

そんなこんなでどうやら相変わらずのようだ。

つうかさ、毎日毎日私のお昼ご飯にたかりにくるのいい加減止めてもらえないかな!?

そんな愚痴を由乃さんにもらしたら、由乃さんは首を捻っていた。

「そんなの私の所にはしにこないよ?」

でも、これを聞いていた志摩子さんは・・・。

「私の所にはいらっしゃるわ・・・ここ最近の話だけど・・・」

「そうですよね、何故か突然毎日現れますよね・・・。

あ、私にはそんな事ないですけど、志摩子さんと毎日お昼食べてますので。嫌でも毎日顔合わせますね」

「そうなんだ・・・どういう基準なんだろう・・・」

「さあ・・・」

何となく気になってみたから他の人にも聞いてみると、どうやら聖さまのお昼ご飯の餌食になっているのは、

蓉子さま、令さま、志摩子さんに・・・私みたい。

これは・・・もしかして・・・。

「聖さまって・・・人を選んでるわね・・・ちゃんと餌付けしてくれそうな人ばっかりじゃない・・・」

私と同じ事を由乃さんは思っていたらしい。そして志摩子さんも・・・乃梨子ちゃんまでもが。

「お姉さまってば・・・相変わらずよく人を見ていらっしゃるわ・・・」

「餌くれそうな人の所にばかり行くなんて、野良猫ですね、まるで」

「・・・言えてる・・・」

そして私の胸はズキンと痛む。わけのわからない感情だけど、何故か苦しい。

私、こないだから一体どうしちゃったんだろう・・・。

「でもさー・・・どうして聖さま皆の所でお昼貰ってるんだろ・・・」

「あ!それについてはね、私も不思議になって聞いてみたんだけど・・・」

毎日毎日お昼をたかりにくるので、いい加減腹が立って直接本人に聞いてみたところ・・・。

『えーだって、蓉子が教師は学食で食べちゃダメって言うんだもん。私早起き苦手なのよね。

だからお弁当も作れないし、どっかで買おうにも買ってたら遅刻しちゃうしさ。蓉子ってケチだよね、全く』

だそうで・・・全ての謎は解けた訳だが・・・結局何も変らないではないか!

「なるほどね・・・聖さまらしいっていうか、なんていうか・・・」

「お姉さまってば、もう!」

「どこまでも恥ずかしい人ですね・・・」

「結局全部聖さまのせいなんじゃない!!とか思わず突っ込み入れちゃったよ、心の中でだけど・・・」

「心の中で、っていうのが祐巳さんらしいわね」

由乃さんはそう言って私をからかった。志摩子さんと乃梨子ちゃんまで笑っている。

うー・・・どうせ私は弱いですよ!!

「でもほんと・・・どうにかならないかなぁ・・・」

「そうね・・・私は別に構わないけれど・・・祐巳さんや蓉子さまや令さまにはとんだ災難ですものね」

「そう!そうなの!!志摩子さん分かってもらえる!?」

毎日毎日私の大好きなおかずを取っていくのだ、あの人は!から揚げ・・・卵・・・おにぎり・・・デザート・・・その他もろもろ。

最近では私も学習してお気に入りのおかずは少し大目に持ってゆく事にしているけれど・・・。

そんなもんじゃ聖さまはもちろん撃退など出来ないわけで・・・。

「でもどうすればいいのかしら。聖さまじゃないけど、学食私達も使えたらかなり便利になるんだけどなー」

「それは言えてますよね。私も毎日作るのはめんどうで・・・」

「そうだよね・・・学食か・・・私学食のある学校って通った事ないんだよね・・・」

「うん、それは祐巳さん、論点がずれてる」

由乃さんに鋭い突っ込みを入れられて、私は黙り込むしかなかった。そして結局・・・。

「「「それじゃあ、学食開放願いに行きましょう!おー!!」」」

「あれ?志摩子さんは?」

一人だけそれには乗らなかった志摩子さんを由乃さんは怖い顔で睨んだ。

「だって・・・私の好きなもの・・・学食には無いから・・・」

「・・・そりゃね、流石にゆりねやら銀杏やらは無いわよね・・・」

「ええ、そうなの・・・でもどうせならそれも提案してみようかしら・・・」

「「「いや、それ需要ないから」」」

志摩子さんの質問はあっさり却下された。

だって、どこの高校に給食でもないのにゆりねとか銀杏をすすんで食べたがる高校生がいるというのか、と。

いや、実際志摩子さんはそういう高校生だったらしいんだけど・・・。

そんな訳で私達四人・・・正しくは三人で学食解放運動をすることになった。

「あら、なかなか面白そうじゃない。私も混ぜて」

そう言ってこの話に一番に飛びついたのは江利子さまだった。随分とはりきっていらっしゃる。

「ねぇねぇ、プラカードとか作る?のぼりとかたてる??」

いや・・・そこまではちょっと・・・。流石にそんなもん持って学校中練り歩くわけにはいかないでしょ。

「なになに?何の話してるの?」

そう言って嬉々としてやってきたのはSRG。

この人もきっと参加するとか言うんだろうなーとか思っていたら、案の定参加するとの事。

なんだか・・・どんどん集まってくるんですけど・・・でも、肝心の聖さまは居ない。

もとはといえばあの人の為にやっているのに、何故か今日は見当たらないのだ。

まぁ、別にいいけどね・・・でも、学食かぁ・・・憧れだったんだよなぁ・・・。

結局この運動に参加するのは六人になって、一同全員で蓉子様のお部屋・・・理事長室に乗り込んだ。

うわぁ・・・理事長室になんて入るの初めてだよぉ〜・・・何か・・・ドキドキするなぁ!!

「失礼します」

礼儀正しくそう言って入ろうとしたのは私と志摩子さんと由乃さんと乃梨子ちゃんだった。

けれど、他の二人は私達が挨拶する前にズカズカと勝手に乗り込んでいる。

「あら、皆揃ってどうしたの?何だか珍しいメンバーね・・・」

言われてみれば。このメンバーってなかなか無いよなぁ。蓉子様は私達をグルリと眺めて笑った。

「あのさー蓉子―学食の話なんだけどね」

「ダメよ。それはダメ。何度も言ったでしょ?」

江利子さまがまだ言い終わらないうちに、蓉子様は顔をしかめて言葉を遮った。

もしかして前にも誰かがこうやって蓉子様に頼んだりしたのだろうか・・・。

「でも蓉子様?私達聖さまにお昼ご飯を毎日取られるんです!せめて学食が使えたら聖さまはもう取らないと思うんですよね」

なんていうのは由乃さん。・・・オイオイ、お前は取られてないだろうが・・・。

「あなたたちも皆取られてるの?」

「いえ・・・それは・・・私と志摩子さんだけです・・・」

私と志摩子さんは顔を見合わせてバツが悪そうに微笑んだ。蓉子様はそれを聞いて何とも複雑そうな顔をしている。

「聖ってば・・・相手を選んでるわね・・・全く」

なんて、どこかで聞いたような台詞を蓉子様は言う。そしてやっぱり苦笑いだ。

「それで・・・あなたたちは学食を開放してほしい、と・・・そういう事?」

「はい、そうです。それに私達も楽ですから」

乃梨子ちゃんは物怖じもせずハッキリそう言い切った。おお!格好いいぞ、乃梨子ちゃん!!流石乃梨子ちゃん!!

「志摩子もそうなの?」

「いえ・・・私は・・・学食にもゆりねとか銀杏を置いていただければいいな・・・と」

「志摩子さん・・・」

まだ言ってるよ、この人・・・どうやらこちらも切実らしい。

「・・・志摩子・・・それは無理よ・・・」

「・・・やっぱり・・・銀杏やゆりねは迫害される運命なのね・・・」

いや・・・多分違うと思うけど・・・ダメだ。志摩子さんに任せていたら話が全部ゆりねや銀杏になってしまう・・・誰か軌道修正を!

「ねぇ、蓉子ちゃん。私からもお願いよ。生徒達と楽しくお昼ごはん、素敵じゃない!

やっぱり教師も生徒とのコミュニケーションが大事だと思うの。

ついでに、今年こそはスキーに行きましょう?」

SRG・・・本当の狙いはそれなんですね?そうなんですねっ!?

スキーに行きたい、だからついでにこれに参加したんですねっ!?

「SRGまで・・・そんな事今まで一言も仰らなかったじゃないですか・・・それにスキーはダメですよ」

「・・・やっぱりダメかー」

「ねぇ蓉子。多数決にしたらどうかしら?他の先生達も皆集めて多数決を取るの。それが一番公平だと、そう思わない?」

「そ、そうですよ!そうしましょうよ、蓉子さま!!」

私は江利子さまの意見に大賛成だった。だって、ざっと計算したら余裕で勝てるんじゃない??

江利子さまの意見に、蓉子様はう〜ん、と頭を捻った。そしてしばらくして・・・。

「多数決?でもねぇ・・・今まであった伝統を多数決なんかで決めてもいいものかしら・・・」

蓉子様は完全に困り顔だ。何だか・・・理事長さんって大変なんだな・・・。

「いいわ。じゃあ全員が賛成したら・・・という事でどうかしら?」

えっ、江利子さま!?そ、それは流石に難しいんじゃないでしょーか・・・。

でも私の心配をよそに、その意見を聞いて蓉子様はニヤリと笑った。どうやらそれは勝つ自身が相当あるらしい。

「分かったわ。それじゃあ皆が賛成したら、開放するわ。

皆それでいいわね?それじゃあ今日の放課後それについて話し合いましょ」

「「「「「はーい」」」」」

けれどやっぱり志摩子さんとSRGは不服顔だ。

「あの・・・食堂の片隅で蒸してもらえればそれでいいんですっ!蒸すだけで!!蒸気を・・・蒸気を当てるだけで!!」

こんなにも必死な志摩子さんは初めて見た。そんなに好きなの・・・。

何だかむしろこっちを優先させてあげたくなってきちゃったじゃない。

由乃さんも哀れそうな顔で志摩子さんを見つめている。一方SRGも・・・。

「スキーは有志だけでいいのよっ!!バスもちっちゃいのにギュウギュウでいいからっ!!

ギュウギュウのパンパンでいいからっ!!なんなら私車出すしっっ!!!」

こっちも必死・・・多分毎年こうやって却下されてるんだろうな・・・お気の毒だわ・・・。

「二人ともしつこい!!」

蓉子様はそんな二人にピシャリと言った。確かに!!でも・・・ちょっと不憫だ。

最後の最後まで諦めなかった二人に乾杯・・・。私は心の中で二人にエールを送った。

いつか叶うといいですね・・・、と。

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そして待ちに待った放課後・・・。皆今日の報告が一通り終わった後、蓉子様が言った。

「えー・・・今日何名かの先生方が私の所にこられて、食堂を教師陣にも開放してほしい、との要望がありました。

それについては以前も言ったように却下したんですが、どうしても、

という強い希望で・・・仕方がないのでもしここに居る皆さんが賛成したら食堂を開放する事に決めました。

皆さん、よろしいでしょうか?」

蓉子様はそう言って皆を見渡した。誰もそれを反対する人はいない。

「へぇ〜ようやく蓉子も重い腰あげたわけだ」

聖さまはそう言ってニヤニヤしている。まぁ、元はと言えばあなたのせいなんですけどねっ!!

多分・・・お弁当を聖さまに取られた事のある人はきっとそう思ったに違いない。

「誰のせいなのよ、全くもう・・・」

蓉子様がボソリとそう呟いたのを、私は聞き逃さなかった。

「それじゃあ・・・食堂開放に賛成の人、挙手してください」

令さまと祥子さま・・・そして何故か聖さまも手を上げなかった。・・・何故・・・。

蓉子様は手を上げなかった三人の顔を見てニッコリと微笑んだ。そして私達を見て不敵な笑みを浮かべる。

「残念ね、皆さん。それじゃあ今まで通り食堂は教師は・・・」

「待ってください!!反対の人たちの意見が聞きたいです!特に令ちゃんの!!」

由乃さんはそう言ってギロリと令さまを睨んだ。令さまは由乃さんの視線を感じたのかバツの悪そうな顔をしている。

「だ、だって、今まで通りで別に構わないと思ったんだけど・・・由乃は嫌なの?」

「そりゃ令ちゃんのお弁当は毎日美味しいし最高だけど、

たまには食堂で生徒達と一緒に新メニューとか食べるのも悪くないじゃない。

それに令ちゃん、食堂にはケーキやプリンもあるのよ!?私だって食べたいわよ!食堂のプリン!!

それとも令ちゃんが食堂のプリン作ってくれるっていうの!?」

「そ、それは・・・私のプリンじゃダメなの?」

「私は食堂のプリンが食べたいのっ!!」

うーわー・・・由乃さんすっげー・・・やっぱり私もこれぐらい見習わなきゃなぁ・・・。

令さまは諦めたように頷くと、ゆっくり手を上げた。かなり渋々・・・と言った感じだったけど。

さぁ、次は祥子さまだけど・・・どうすればいいんだ・・・?

私がチラリとあたりを見回すと、SRGが小さくウインクして見せた。これは・・・私に祥子さまを落とせって事なんでしょうか・・・。

私は小さくため息をつくと、祥子さまの方に向き直り言った。

「祥子さま・・・祥子さまはどうして嫌なんですか?」

「あら、当然じゃないの。教師と生徒、ちゃんとケジメはつけるべきだわ。祐巳はそうは思わなくて?」

「私は・・・私は生徒達と一緒にご飯を・・・同じものを食べて交流を深める事は、とてもいい事だと思います。

生徒の中には教師を信頼していない子だって、沢山いると思うんです。でもそれじゃあいけないと思うんです!

生徒が教師に近づくのではなくて、教師が生徒に近づかなきゃいけない、と私は思うんです!!」

どうだ!!これでやっぱり反対だったら・・・私にはもう何も出来ません!!SRG!!!

でも・・・私の心配は無用だった。祥子さまは驚いたような顔をして私を見つめ、そしてうっとりとして言った。

「そうだわ・・・祐巳の言うとおりよ・・・私ったらこんなにも簡単な事に気づかないなんて・・・。

祐巳、あなたってやっぱりなんて素敵なのかしら!私も賛成するわ、もちろんよ!」

「あ、こらっ、祥子!!」

「ごめんなさいお姉さま。私の祐巳の演説があまりにも素晴らしかったものですから・・・」

私の祐巳って・・・まぁ、別にいいけど・・・。私はチラリとSRGを見た。SRGは親指を立てて、笑顔を返してくれた。

さ・て・・・最後に残ったのは聖さまだ。この人を落とすのは・・・誰だ!?

「祥子まで落とされちゃったねぇ、蓉子。さて、誰が私を落としてくれるのかな?」

聖さまは自席で腕と足を組んで余裕の表情だ。そしてこの顔を見て分かった。

聖さまはただ楽しむ為だけに手を上げなかったって事が。

「お姉さま、どうして手を上げてくれないのですか?お姉さまも学食が開放されたらな、って祐巳さんに仰っていたのでしょう?」

「そんな事言ったっけ〜?私お弁当を食べたいんだよね。だから学食じゃダメなの。お弁当がいいの。

学食が開放されたら皆そっちで食べるでしょう?私はどうやってお弁当食べればいいのよ」

な、なんてわがままな!!それじゃあ何か?お弁当を食べたいばっかりに皆のを食べて回ってたって、そういう事!?

それを聞いて、SRGは言った。

「聖、子供みたいな事言わないの。

そりゃ楽しみがなくなるかもしれないけど、もしかしたら違う楽しみが増えるかもしれないじゃない」

「そうでしょうか?私にはあまりそうは思えませんけど・・・」

だ、だめだ・・・テコでも動かない気だよ、この人・・・。SRGは両手を挙げてお手上げのポーズをとった。

そしてチラリとまた私を見る。いや・・・無理ですよ、無理!!私に何言えっていうんですか!!

「さて、以外だったけど、どうやらこの意見はやっぱり却下の方向でいいかしら?」

蓉子様はそう言って小さな安堵のため息を落とした。けれど・・・。

「ちょっと待って、蓉子。祐巳ちゃんが何か言いたそうだから、それ聞いてから決めるわ。さ、どうぞ?」

「え、ええ!?わ、私ですか!?」

そ、そんな顔してました??絶対してないと思うんだけど!!でも、聖さまは私の言葉を待っていた。多分。

「え、えと・・・つまり聖さまはお弁当が食べられたら文句ないんですよね?」

「まぁ、そういう事になるね」

あ、あっさり認めやがった・・・。

「それじゃあ・・・聖さまの分のお弁当はこれから私が作ります!!それじゃあ・・・ダメですか?」

どうして私がそこまでしなきゃならないのよ・・・そう、思いつつ勝手に口がそう言っていた。

だって、こうでも言わなきゃこの人絶対賛成しないし・・・。

でも・・・時すでに遅し・・・聖さまはそれまでのニヤニヤ笑顔を止めてニッコリと微笑んだ。

「本当に?」

「で、でも・・・毎日、という訳にはいかないですよ?私がお弁当作らない日は聖さまも学食ですからね?」

「OK。それなら反対する理由もないよ。蓉子、そんな訳で私も賛成」

聖さまは手を上げた。上げたけど・・・。皆驚いたような顔でこちらを見ている。

そりゃそうだよね、自分でもビックリしてるもん・・・。

「祐巳さんチャレンジャーね・・・でも・・・やったー!!これで全員賛成じゃない!!」

「祐巳ちゃんってば自分を犠牲にしてまで・・・でかしたわ!!ついでにスキーの件も説得してくれない?」

どさくさに紛れてそんな事を言うSRG。それは・・・無理ですよ・・・。

SRGはそう言って向かいの席から私の頭をよしよしと撫でてくれた。・・・うう・・・こんなはずじゃなかったのに・・・。

「・・・しょうがないわね・・・それじゃあ明日から食堂は教師にも開放します・・・それでいいわね?」

「やったー!!!」

皆口々に喜んでいる・・・けれど素直に喜べない私・・・だって、どう考えても前より悪くなってるし・・・。

それなのに、心のどこかではウキウキしてて、余計に素直に喜べない・・・。

会議が終って解散した後、私は突然聖さまに抱きつかれた。

「ぎゃうっっ!!」

「祐巳ちゃ〜ん、ありがとう〜〜!!早速だけど、明日の献立はなぁに?」

「あ、明日から作るんですか!?」

「もちろんじゃない!楽しみにしてるからね!」

聖さまはそう言って走り去ってしまった・・・ポツンと取り残された私は・・・。

「・・・お弁当の買い物・・・いかなきゃ・・・」

食堂開放運動は、皆にとっては大成功に終わった。そう・・・私以外の皆にとっては。

そして今回の一番の役得は・・・多分、間違いなく聖さまだった。







第十九話『その瞬間』





知らなかったとはいえ、なんたる不覚!!よもやこの人と一緒に・・・この人と一緒に・・・。

学校から帰って、夕ご飯を食べて、少しまったりとしてからお風呂。これが毎日の日課だ。

「さ、て、と。そろそろお風呂はいろっかなぁ〜」

お気に入りの歌なんて歌いながらいそいそと私はお風呂の蛇口を捻って愕然とした。水が・・・出ない・・・。

「ど、ど、ど、どうして??もしかして壊れた!!??」

私は慌てて洗面所の蛇口を捻り、さらには台所の蛇口まで捻ってみたが、蛇口はうんともすんとも言わない。

「どーしてー??」

まさか・・・水不足・・・とか?マンションの貯水タンクに穴が開いてて水が全部出ちゃった・・・とか??

私は部屋着のまま外に飛び出すと、お隣の聖さまの部屋のインターホンを何度も何度も押した。

「はぁ〜い・・・だれ〜〜?」

眠そうな顔でノロノロとドアを開けてくれた聖さま。どうやらうたた寝していたらしく、目をしょぼしょぼさせている。

「せ、聖さま!!大変です、水が・・・水が出ないんですっ!!!」

「・・・はぁ?」

だから水が出ないんだってば!!私は握りこぶしを作ってそれにギュっと力を込めた。

「祐巳ちゃん・・・張り紙見てないの?エレベーターの中とかロビーに書いてあったでしょ?」

「え・・・?」

何が・・・??聖さまはようやく覚醒しはじめたのか、呆れたような顔をして私を見下ろしている。

「今日は断水しますって、ちゃんと書いてあったでしょ?」

「だ、断水・・・?で、でも私ご飯を・・・ご飯を・・・」

作ったはず・・・あれ??

「夜の九時から明日の朝五時まで・・・だったと思うけど・・・」

聖さまはそう言って何かを確認するように、目を泳がせた。そうか・・・夜九時から・・・。

私はチラリと腕時計を確認してガックリと肩を落とした・・・ただいまの時間九時三十分・・・。

「そうでしたか・・・失礼・・・しました・・・」

「どうしたのよ、そんなに落ち込んで。お茶沸かし忘れたとか、そういうしょうもない事言ったらはっ倒すわよ?」

どうやら聖さま、寝てるところを邪魔されたのが相当気に食わなかったらしい。

ヤベ・・・お風呂にまだ入ってないから、とか言ったらやっぱりはっ倒されるかな・・・。

「それがですね・・・お風呂に入り損ねちゃったんですよね・・・」

「・・・バカだね〜、ちゃんと読まないからそんな目に合うのよ」

良かった・・・どうやらはっ倒されなかったみたい。聖さまはケラケラ笑って私の頭を軽く小突いた。

その点聖さまはちゃんとお風呂に入ったのだろう。髪がしめっているのが何よりの証拠だ。

それにしてもお風呂・・・どうしよう・・・こんな事ならちゃんと読んでおくべきだった・・・。

そんな私の頭の中に、突然あるものが思い浮かんだ。

「そうだ!聖さまこの辺に銭湯とかないんですか?」

我ながら良い案だと思った。たまには銭湯とかなかなか乙じゃない!そうよ、名曲にもあるじゃない!!

赤いマフラー巻いて、石鹸とかカタカタ言わせてさ!!悲しいかな、一人でだけどさ・・・グスン。

それを聞いた聖さまは少し考えて言った。

「確かここから歩いて五分ぐらいの所にあったと思うけど・・・」

やった!!あるんじゃない、あるんじゃない!!銭湯が!!

「そうですか!!申し訳ないんですけど、場所教えてもらえますか?ひとっ走り行ってきますから!」

私はそう言って聖さまの答えを待った。けれど聖さまは怪訝な顔をして私を見ている。

「いいけど・・・一人で行く気?」

「もちろん!」

だって・・・他に一緒に行く人居ないし・・・。寂しいかな私・・・一人身なんですよ・・・誘う人なんていないんですよ・・・。

それを聞いた聖さまは、頭をポリポリとかきながら少し考えて言った。

「しょうがないな、私も一緒に行ってあげる」

「え?で、でも、もう入られたんでしょ?」

「まぁね。でも・・・」

「でも??」

聖さまは私からフイと視線を逸らしてポツリと言った。

「危ないじゃない」

・ ・・と。聖さま!!あなたって人は・・・あなたって人は・・・いいとこあるじゃないですか!!

私が嬉しくてニッコリと笑うと、聖さまはさらにボソリと言った。

「お弁当のお礼って事で」

「はい!ありがとうございます!」

「・・・どういたしまして・・・」

「それじゃあ私、ちょっと用意してきますね!」

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「最近はさー、ほら銭湯って流行ってるじゃない?なんかすんごい豪華な銭湯」

「ああ、至る所にありますよね。聖さまは行った事あります?」

私達は洗面器を持って薄明るい路地をクネクネと歩いていた。洗面器の中でカタカタと石鹸が音をたてる。

おお!これはまさにあの歌だ!!名曲だ!!

「いやー・・・私人の多いところはちょっとね。それに・・・風情がないじゃない」

「・・・そんなもんですか?」

「そんなもんですよ。銭湯っていったらさ、やっぱり番台に可愛い子が座っててさ、

そこから何かしらのロマンスが始まっちゃったりとかさ!そういうもんじゃない?」

「・・・それは・・・どうでしょうか・・・」

ていうか、それはテレビの見すぎなんじゃ・・・。

いざ銭湯についてみると、聖さまの夢は儚く散った。

番台に座っていたのは可愛い子ではなく、かなり高齢のおばあさんだったのだ。

まぁ、どっちかっていうと私にはこっちの方がしっくりくるんだけどね。

「ちぇー・・・引退しなよねーばあちゃん。孫とかにやらせりゃいいじゃんよー」

「またそんな事言って。孫は男の子かもしれませんよ?」

「うっわ・・・それは勘弁」

聖さまは苦い笑みを浮かべさっさとロッカーの所に行ってしまう。

平日だからなのか、皆豪華な銭湯に行ってしまっているのか、中はガラガラだった。

「空いてますねー」

「貸切状態ってやつ?ラッキー!」

聖さまはそう言ってかなり大胆に服を脱ぎだした。それにしても・・・うわぁ・・・スタイルいいなぁ・・・ほっそいし、しっろい・・・。

私が聖さまの下着姿に見とれていると、聖さまは熱い視線を感じたのだろう。チラリと私を見下ろした。

「何?ついてるもん同じでしょ?それとも・・・もしかして私に見とれてたのー?」

「うっ、そ、それは・・・」

「私に惚れないでね、祐巳ちゃん。それじゃあ、おっさきー」

聖さまはそう言ってタオル一枚持って中に入って行ってしまった。くっ・・・ほ、細さなら負けないもん!!

・ ・・ていうか・・・発展途上・・・?うぅ・・・やっぱり聖さまと一緒に来るんじゃなかった・・・。

『私に惚れないでね』

だって。惚れるわけないっつうの・・・惚れるわけ・・・ないよ・・・。

でも・・・でも・・・何気ない一言がこんなにも寂しくて悲しくて。

私はもうこれ以上考えないように、服を脱いでツインテールを解き、

持ってきてたピンク色のバレッタで髪を留めると、ほんの少しだけ気持ちがシャンとした。

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お風呂の中は湯気で真っ白だった。でも、奥に行くにつれて湯気は次第に薄くなってゆく。

「お!きたきた!こっちこっちー」

「聖さま・・・お風呂入ってきたんですよね?」

「うん。でもほら、お風呂って入ったら体とか洗いたくなるよね」

まぁ、解らないでもない。私は聖さまの隣にちょこんと腰を下ろすと、髪を洗い始めた。

聖さまも隣で髪を洗っている・・・聖さまの髪はまだ乾いてもいなかったのに。

髪を洗い終わって体も洗い終わって、私達はようやく湯船に浸かることが出来た。

「ああー・・・やっぱり広いお風呂はいいね〜」

「そうですね〜・・・将来はこれぐらい広いお風呂のあるお家に住みたいですね〜」

「そりゃ祐巳ちゃん、相当金持ち探さないと」

呆れたように言う聖さま。あはは、と笑っている。そしてふとこちらを向いてマジマジと私を見つめ言った。

「祐巳ちゃん髪そうやって上げてると大人っぽいね。ずっとそうしてればいいのに」

「そ、そうですか?」

「うん。うなじとか綺麗だよね」

「それって・・・セクハラですよ」

「ええー?正直な感想言っただけなのにー」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

照れてうつむく私に、聖さまはニヤニヤ笑っている。きっとまた私の反応を楽しんでいるのだろう。

「聖さまは髪とか縛らないんですか?」

「んー?めんどくさいしね。このままでいいよ。昔はさー腰まであったのよ、髪。でも、やっぱり切るとすっきりするよね」

「腰まで!?もったいないですねー」

「そう?祐巳ちゃんは伸ばさないの?」

「これでも伸ばしてるんですよ。でも私の髪硬いんですよね。だから伸ばすとゴワゴワになりそうで」

「あーなるほどね。今ぐらいがちょうどいいって事か。でも・・・そんなに硬いかなぁ?」

聖さまはそう言ってごく自然に私の髪の先に触れた。ドクンと胸が高鳴る。

慌てて俯く私に、聖さまは触っていた手をそっと離した。変に思ってはいないだろうか・・・。

「そんなに硬くもないじゃない。大丈夫だって、伸ばしなよ!私は髪の長い子の方が好きよ」

なんて聖さまは簡単に言ってくれる。その一言が、その態度一つがどんなに心に響くかもしらないで…。

もしかしてこれが恋!?いやいや、それはあるまい。だって、相手は聖さまだもの。どうせ誰にだってこんな風に言ってるのだ。

いちいち真に受けていたらそれこそ神経が磨り減ってしまう。

「でも伸ばすのも時間かかりますからねー」

「そうなのよ。長くなるにつれて毛先は痛むし、髪洗うのめんどくさいし・・・いいことないよね」

「・・・でも、髪が長い子が好きなんですよね?」

「そう」

・ ・・わがままだなぁ・・・。私がプッと噴出すと、聖さまも笑った。

「でも祐巳ちゃんは髪よりも・・・こっちを先にどうにかしなきゃだね」

「え・・・?な、なんーー!!??」

どさくさに紛れてどこ触ってんですか!!私は慌てて胸を両手で隠した。ていうか、どうしてさらっとそういう事が出来るのよ!

聖さまをキッと睨む。

「だってさー、祐巳ちゃん細すぎ!もっとちゃんと食べないから成長しないんじゃない?」

「た、食べてますよ、ちゃんと!!それでも成長しないんですっっ!!」

うぅ・・胸筋鍛える体操とかやってるのになぁ・・・。

私はチラリと自分の胸と聖さまの胸を見比べてみた。そして大きなため息を落とす。

「まぁ、女は胸じゃないよ、祐巳ちゃん!いつか大きくなるって!」

「・・・そうでしょうか・・・」

「そうそう。さて・・・そろそろ出よっかなー」

聖さまはそう言ってザブンと湯船を後にした。何やら鼻歌を歌っていたけれど、生憎曲名はわからなかった。

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「銭湯に来たらやっぱりコレだよね〜」

「うわ・・・聖さま、その飲み方親父そのものですよ・・・」

「えーこれが一番美味しい飲み方じゃない!」

聖さまはそう言って片手を腰に当て、コーヒー牛乳をいっきに飲み干した。

「ほら、祐巳ちゃんもやってみ?」

そう言って酷くすすめてくるもんだから、私も真似してみた・・・ちなみに牛乳を。胸の為に!!

「ぷはー、ごっつぁんです!!」

「・・・祐巳ちゃん・・・そっちの方がおっさんくさい・・・ていうか、お相撲さん?」

・ ・・うわ・・・まさか聖さまに言われるとは・・・かなりショックなんですけど。

番台のおばあちゃんにだみ声で「またおいで」って言われて、私達は銭湯を後にした。

ホカホカの体に冬の風がちょうどいい。

少し先に歩く聖さまから、フワリとミントの香りがして、何となくイメージぴったりだなって思った。

「聖さまのシャンプーはミント系ですか?」

「うん。祐巳ちゃんは・・・フローラルか。ぴったりだね」

聖さまは私の隣でフンフンと鼻を鳴らして笑った。その仕草に私もつい笑ってしまった。

外灯のせいで二つの影が一つに重なる。私はそれをドキドキしながら見ていた。

月明かりの元、聖さまの髪を風が不意にさらう。

聖さまは少しだけ顔をしかめ、髪を抑え、困ったように私を振り返って微笑んだ。

その瞬間。胸が苦しくて、妙にドキドキして、恥ずかしくて、嬉しくて・・・泣き出しそうになってしまった。

私の中に何かがストンと落ちてきて、心の隅に収まる。

・ ・・それは・・・恋だった・・・。














前編  終了。




学園、マリみて教師物語     前編