言えない言葉はいつだって胸の底で眠っている。
沢山の意味を成さない言葉たち・・・。
いつか弾けてキミに届けば、少しでも私の心を理解してくれる?
その時キミは黙ってそれを聞いていてくれる?
葉が紅く染まり、空は高く、どこまでも澄んで。心の中は空っぽで、虫の声だけが心を動かす。
夕暮れ時の紅い時間が頬を染め、潜んでいた狂気が姿を現した時、きっと世界は変わる。
もうすぐやってくる冬の訪れに、何を想い何を感じる?寒さに震え痛みと引き換えに何を望む?
こんなにも辺鄙な場所にあるくせに、この遊園地は案外広かった。
セイはユミの手を引き、さっきから何度も何度もパンフレットを見返している。
「だからこっちですってば!」
「いいや、こっちだよ!ほら、アレがココにあるでしょ?」
セイはユミに見えるようパンフレットを目の前まで持ち上げボートの場所を指差した。
「うー」
「ね?」
頬を膨らませて上目遣いでセイを睨むユミ。
その表情は子猫が甘えるときの顔にとてもよく似ていて、ついつい構いたくなってしまう。
「ほら、拗ねない拗ねない。でもさー祐巳ちゃん。もし前みたいにアヒルさんボートしか無かったらどうするの?」
「う・・・そ、それは・・・ボートに乗るのは断念します・・・もう漕ぐのは嫌です・・・」
ユミは昔公園でセイと二人必死になってボートを漕いだのを思い出した。
夏だったこともあって汗だくになって最後まで漕ぎきったけれど、あんな思いをするのはもうごめんだ。
どうせならセイとの二人きりの時間を楽しみたい。ゆっくりと流れる時間に身を任せたい。
「そうだね・・・それが賢明だよね」
セイもまた、ユミと同じようにあの時のボートを思い返していた。
せっかくユミとボートに乗ったのに、結局ボートを漕ぐのに必死になって肝心のユミの事を何も考えられなかった。
大勢の人が居る中で世界には自分たちしか居ないと思えるような、そんなデートが今日はしたい。
世界は広いし大きいけれど、きっとこんなにも愛しく思えるのはユミだけだろうから・・・。
「ほら聖さま!!アレ!!ちゃんとしたボートですよ!!!」
「本当だ。良かったね、祐巳ちゃん」
「はい〜!!」
ユミは目の前に広がる大きな湖に浮かぶボートに思わず顔がニヤけた。
ここまではとても計画通りとはいかなかったけれど、ようやく計画通りに進みそうなそんな気がする。
だって、ボートの上でどうやったっておかしな事にはなりそうにないのだから。
「聖さま!早く早く!!」
「分かってるってば・・・そんなに急がなくても逃げやしないよ、ボートは」
「いいえ!時間がもったいないじゃないですか!せっかく聖さまと遊園地来たのに!」
「・・・祐巳ちゃん・・・」
セイはポツリとそう呟いた。繋いだ指先が熱い。何故だろう、些細な事でこんなにも嬉しくなるのは。
嬉しそうなユミの顔。始終ニヤけっぱなしでちょっと気持ち悪いぐらいなのに、
どうしてこんなにも自分まで笑顔になってしまうのだろう。
当たり前の事なんだろうけど、これが恋っていうものなのだろうか・・・。
つられて笑ってしまう自分はきっと相当締まりが無い。
いつも思い描く格好いい自分とは酷くかけ離れているけれど、それでも笑わずにはいられない不思議な気持ち。
それも全部ユミがくれたもので、かけがえのない感情なのだ。
恥ずかしくて愛しい不思議な感情・・・自分にはずっと縁のないものだと思っていたモノ。
「聖さま?せ〜いさ〜ま〜」
ボートを待っている間、ピタリと言葉を発しなくなったセイの袖を、ユミは軽く引っ張った。
そう、ボートの順番が回ってきたのだ。
セイがこうやって立ち止まって無言になるのは別に今日に始まった事ではない。
ちょっと前ならこんな風にセイが無言になってしまえば、セイが怒ったのだとよく勘違いしていたが、今は違う。
こうやって立ち止まるとき、セイは何かまた途方もない想いに考えを巡らせているのだ。
だからユミはそれを邪魔しなかったし、むしろセイの事が少しだけ理解出来たみたいで嬉しかった。
ユミはまだ思考の世界に留まったままのセイを引っ張るようにボートに乗せると、はりきってオールを手にした。
二〜三回オールを漕いだ所で、ようやくセイは現実に戻ってきたらしく一瞬ハッとした表情を見せる。
「ご、ごめん!!私が漕ぐから!」
セイはいつの間にかボートに乗っている事に驚いたようにユミの手からオールを取ろうとした。
けれど、ユミは頑としてオールを放そうとはしない。
「いえ、私一度これ漕いでみたかったんですよ!」
「そ、そう?本当にごめんね。ちょっとボーっとしてた」
「別に構いませんよ、ところで何考えてたんです?」
「いやー、幸せってこういう事なのかな?って考えてたら・・・本当にごめん!」
「聖さまってば・・・そんな事考えるほど私のデート楽しいですか?」
ちょっとだけ自意識過剰になってユミはセイにそう聞いた。
きっとこんな風に言ったら、セイは笑い飛ばして自分をからかうに違いない・・・そう思っていた。
けれど、セイはユミの質問に表情を和らげただ笑うと言った。
「うん、楽しいよ。多分、相手が祐巳ちゃんだからなんだろうね」
「・・・・・っ!」
珍しくセイはユミをからかわなかった。物凄い笑顔で凄く素直な事を言う・・・。
また新手の嫌がらせなのだろうか?それとも何も考えていないのだろうか・・・?
そんな考えが頭を過るほど、セイの答えは率直だった。
どうしよう・・・なんだか目のやり場に困ってしまう・・・そして、今凄くキスがしたい・・・。
ユミはそっと俯き、そんな自分の感情を殺そうと必死になった。
けれど、一度芽生えた感情はなかなか消えてなどくれない。
「・・・聖さま・・・キス・・・してください・・・」
思い切ってユミは言った。こんな場所でこんなに大胆に自分からキスをせがむなんて、今までだったらきっと考えられない。
けれど、突然やってくる感情を抑える事は出来なくて・・・。
ユミは俯いたままキュっと目をつぶるとセイの次の答えを待った。
ところがセイの答えはユミにとって、とても苦しいものだった・・・。
「祐巳ちゃん・・・気持ちは凄く嬉しいんだけど・・・」
セイはそう言ってユミの肩にポンと手を置くと言った。
「・・・・・・・・・・・・」
ダメだ・・・やっぱりセイは全然そんな気分じゃなかったのだ・・・。
そりゃそうだ。こんな大衆の場でキスをせがむなんて、どうかしている。
けれど、どうしてもしたかった。今でなければならないような・・・そんな気がしたのだ。
ユミは儚く消える気持ちとあふれ出る切なさに胸が痛んだ。
もう泣き出してしまいたくて顔を上げることが出来ない・・・ユミはそう思った。
けれど・・・。
「あのね、言いたくないんだけど・・・さっきから同じ所グルグルグルグル回っててさ、ほら、全然進んでないでしょ?
それにね、今そんな事してたらきっと顰蹙かうと思うんだけど・・・」
「・・・へ?」
ユミの涙はセイの言葉に一瞬にして引っ込んだ。
顔を上げて辺りを見回すと、ボート乗り場のおじさんが困ったように笑いながら、
ユミ達のボートをオールで押してくれている。
その後ろには2〜3組程のカップルが苦い笑みをこぼしている。
そしてセイもまた、苦い笑みをこぼしていて・・・。
そう・・・目をつぶってオールを必死に動かしていたユミは、
ボートが前進せずにその場でグルグル回っていた事なんて全く知らなかったのだ。
動いてはいるから、勝手に前進していると勘違いしていただけだった・・・。
「ほら、オール貸して?私が漕ぐから」
セイはそう言って顔を真っ赤にして、
ボート乗り場のおじさんや後ろのカップル達にペコペコと頭を下げているユミからオールを取ると、
ゆっくり漕ぎ出した。
スイーっとボートは湖面を滑り、あっという間に岸から離れ、回りには水しかなくなった。
流石に平日という事もあってセイ達以外のボートもあまり出ていない。
「祐巳ちゃん!ほら、いい加減顔上げて、ね?綺麗だよ?」
「うー・・・だって・・・おじさんが押してくれてたなんて知らずに私ってば・・・」
「まぁまぁ、いいじゃない。あ!ほら、アヒルが居るよ!!」
「えっ!?アヒル?」
ユミはセイの言葉にパッと顔を輝かせ勢いよく頭を上げたけれど、そこには何も居ない。
「う・そ。居るわけないじゃない。こんなにも寒いのに」
セイはそう言ってユミの頭をクシャクシャと撫でると、イタズラな笑みを浮かべた。
どこか腑に落ちないと言った顔でこちらを睨むユミ。
そんなユミに、セイは上体だけをゆっくり動かし軽いキスをユミの唇に落とす。
「キっ!キス!?」
あまりにも突然なセイの行動に、ユミは思わず大きな声で叫んでしまう。
確かにさっきは自分から言い出したのだけれど、
実際にされると嬉しいような恥ずかしいような不思議な気持ちになる。
「だって、さっきしてって言ってたじゃない」
セイは元の位置に座りなおすと、顔を真っ赤にして口元を押さえているユミを横目に空を仰いだ。
はっきり言って嬉しかった。ユミがあんな風に言ってくれるのが・・・。
大勢の人間の中で、自分しか目に入ってないのだと気づいた時、独占欲が満たされたようなそんな気がしたのだ。
汚いとずっと想っていた感情は、本当はごく当たり前の感情だったと気づいた。
本来満たされないから独占欲は湧いてくるのであって、それが満たされた時、
人はこんなにも穏やかな気分になるのだと知った。
表面ではシレっとした態度をとっていても、中身はとても激しいセイ。
そんな事は自分でもよく理解している。いつしか暴走しそうな気持ちを抑える術など知らない事も。
けれど、ユミはいとも容易くそれを制御してくれる唯一の人。
そしてまた・・・自然と笑みが零れている自分に気がついた・・・。
騎士は、自分自身の事がとてもよく分かっていました。
そして、自分の感情に時として人を巻き込んでしまう事もとてもよく分かっていたのです。
だからそんな感情を全て押し殺し、無愛想を装っていたのですが、どういう訳か姫の前ではそれが出来ません。
姫はいつも太陽のように笑い、月のように泣きます。
素直で正直な姫の傍では、騎士はいつものクールさも鈍ってしまうのです。
初めはそんな自分に抵抗があった騎士でしたが、やがてそれでもいいと思える自分に気がつきました。
そして初めて知ったのです。自分は、自分の事など何も分かっていなかったのだという事を・・・。
沢山の人の中から私を選んで。
そして他の誰も見ないで私だけを愛して。
そうすれば、私はきっとキミに応えるでしょう。
キミだけをこの先ずっと愛するでしょう。