小さな花一つ贈ったところで何か変わっただろうか?
明日はもう卒業式…。
3年になった時はまだ1年間もあるのか、とうんざりしていたのに
いざ卒業間近になるとあっけないほど早く時が経ったように感じるのはきっと気のせいなのだろう。
特にこの半年は何もかもが目まぐるしく過ぎ去って…。
セイはただぼんやりと誰も居なくなった教室でたたずんでいた。
何を見ているわけでもなく、何も待っていない。ただそこに立っていただけ。
『これはウソだ。待ってるんだ…私は』
セイはこの日一つの賭けをした。
『もし、今ここにあの子が現れたなら私はこれから一生をかけてあの子を守ろう…』
と。でももし、現れなかったら?
『…その時は助けない。あの子はあの子の人生を。私は私の人生をお互いに進む。
そうでもしなきゃこの想いに決着がつうかないまま、一生をムダにしてしまうかもしれないから…』
セイはシオリの事を思い出した…。
あの時、消化不慮のまま終わってしまった想いは未だに胸の中に傷として残ってしまっていた…。
それを思い出に変える事が出来るのは、一体いつになるのか、検討もつかない。
セイは机をそっと撫でると大きなため息を一つ落とした。この机ともこの教室とも今日でお別れ。
『…やっぱり来ないかな…』
でもセイはその場から動こうはとしなかった。なんとなく、そうなんとなくだけど来てくれるような気がしたのだ。
その時、廊下から誰かの足音が聞こえてきた。やがて扉が静かに開く・・・。
「忘れ物ですか?」
『やっぱり…。来てくれた・・・』
声の主の方を振り返るとわざとらしく返事をする。
「あぁ祐巳ちゃん」
セイは小さく微笑むとおいでおいでと手招きをした。
「悪い、閉めて」
2人っきりになりたかった。誰にも邪魔されず話せるのはもしかしたらもうこれきりかもしれないから…。
ユミはセイの言葉に何の疑問もなくドアを閉めるとセイに近づいてきた。
『…ホント無防備だよね…キミは』
「忘れ物といっちゃ忘れ物かな」
セイは前髪をかきあげると小さく笑う。
「教室にね、お別れを言いたくて。図書館で時間つぶして、みんながいなくなる頃合を見計らって戻ってきた」
セイはそう言って笑っていいよ?と付け足した。
『本当は祐巳ちゃんを待ってたんだけどね…』
でもそんな事は言えない。今はただの先輩後輩の仲でしかないのだから…。
「三月いっぱいは籍があるにしろ、明日を限りにこの場所から出ていかなきゃいけないんだなぁ、
って考えたら、ちょっと感傷的になっちゃってね」
今までの卒業式は簡単にやり過ごしたのにね?
セイはそう言って笑った。今回の卒業はいつもとは違う。
きっと、いろんな意味での卒業になるのだろう…。学校を出るだけじゃない。
守ってくれた親友や、仲間。そういったものからも卒業しなければならないのだ。
「リリアンを去るからですか」
不意のユミの言葉にセイは言葉をつまらせた。笑いたいのか泣きたいのかよく分からなくなってくる…。
「いろいろあったからね」
「いろいろ」
言葉の意味を考えるようなユミの台詞がなんだか可愛らしい。
「楽しい事、苦しい事。後悔することもあれば、いい思い出になったこととか。
高等部の三年間が、これまでの人生の中で一番濃厚だったと思うんだ」
ツキンと何かがのど元に引っかかるような感じがする・・・。
『いい思い出…後悔…懺悔…それに恋情…本当にいろいろあったんだ…』
楽しくもおもしろくも無い学校生活はムダだと思っていた一年生の時。
初めて人を好きになって、追い詰めて壊したのは二年生。
親友やお姉さまに支えられて、どれほど周りの人達に愛されていたのかを知った…。
自分には妹なんて出来ないと思っていたのに、志摩子に出会った…三年生。
そして、また人を愛した…。
セイはふっとこの三年間の事を思い出していた。
セイがぼんやりと回想していると、突然ユミがセイの座っていた机をドン!と叩いた。
「白薔薇様、私!」
あまりにも唐突なユミの行動にセイは思わずピョンと跳ね上がる。
するとユミはそんなセイにはお構い無しに早口で話し始めた。
どうやらユミはセイに言い残した事はないか?と言いたいらしいのだが…。
『…言い残した事、ねぇ。でも祐巳ちゃんは私がわざわざ頼まなくてもいざって時は動いてくれるだろうし…』
セイは少し考えたが、やがてユミの頭を優しく撫でると呟いた。そんなものはないよ。と。
しかしユミは何やら考え込み、やがて顔を上げる。
「でも、私白薔薇様のために何かしたくて」
ナニカシタクテ…。ユミのこの言葉が何故か無償に引っかかる。
『…何をしてくれるとゆうの?私を愛してくれるとでも言うの?まだ何も気づかないの?ねぇ?答えてよ』
…今でも油断していると、こんな風に突然二年生の時のセイがフッと顔を覗かせる事がある。
でもあの時はこれで失敗したのだ。セイはそう自分に言い聞かせると、いたずらな笑みを浮かべた。
「餞別ってやつ?」
セイはおどけたように言うとユミに近づき手を伸ばした。
「そうねー。んじゃ、お口にチューでもしてもらおうかな」
「!?」
「お、逃げるか。何でもいい、っていったじゃない」
慌てて逃げようとするユミの肩をセイは抱き寄せると、そっと顎に手を添えた。
「あわわ」
ユミの顔は蒼白状態と赤面状態をいったりきたりしている。
『ふふ。祐巳ちゃんまるで信号機みたいでおもしろい』
セイは心の中でクスクスと笑った。…いつの間にか二年生のセイはまた心の奥の方に隠れてしまっていた。
「ほら、おとなしくして目閉じて」
セイはさらにユミをからかった。今日でこうやってじゃれあうのも終わり。
毎日会えなくなってしまうし、後ろから不意に抱きつく事も容易に出来なくなってしまうのだ・・・。
セイはだんだんと顔を近づけてゆく・・・。一方ユミは一瞬ポ〜っとなっていたが、やがて大声で叫んだ。
「カーット!」
セイは一瞬驚いたが、すぐにユミの体を離した。
『…良かった…』
残念だと思うのと同時にそんな考えが頭をよぎった。
あのままキスしてしまっていたらきっと想いが口から溢れて止まらなくなってしまいそうだったのだ。
セイがその場に固まってしまっているうちに、
ユミはさっさとセイから離れて既に後ろのドア付近まで走り去ってしまっていた。
セイがようやく我に返り、ユミの方に目をやると、ユミはその場に立ち尽くし何やら考え込んでいる。
「どーした?」
しかし、ユミはセイの言葉には答えず相変わらず俯いたままじっとしている。
「さっさと帰らないとまた襲っちゃうよ」
ユミはその言葉にかろうじて振り向くとこちらをじっと見つめている・・・
セイはわけも分からずとりあえずいたずらな笑みを浮かべる。
「何考えてるの」
『・・・祐巳ちゃん・・・?』
ユミの表情で大抵の事はいつもわかるのだが、今日は全く読めない。
一体何を考えているのか、何を思っているのか。セイはそれが知りたかった。
と、突然ユミは勢いよくこちらに走ってくるとセイの前でスピードを落とし、背伸びをした…。
「えっ・・・!?」
一瞬フワリとシャンプーの香り…。甘い花の香りがした。
そして唇の横あたりに柔らかい衝撃が走った・・・。
『…キス…?』
ユミは、恥ずかしいのか、すぐにクルリと向きを変えてまたドアの方へと向かおうとする。
『待って・・・!話を聞いて・・・』
セイは思わずユミの腕を引っ張ると、その反動で抱きしめた。
「改めて言う事もないと思ったから黙っていたけど、私、祐巳ちゃんと知り合えてよかったとおもってる」
「え」
『…どうしよう…泣きそうだ…』
何の涙なのかわからない。でも悲しい訳じゃない・・・かと言って嬉しい訳でもなくて・・・。
ユミがしてくれたキスはセイの心の奥の静かな水面に、確実に波を立てた。
「私、同年代の女の子とはあまりなじめなかったんだ。
でも、祐巳ちゃんを見ていて、生まれて初めて普通の女の子をうらやましくおもえたの」
セイはユミを抱いていた腕の力を少しだけ緩めた。きっと逃げないだろうと思ったのだ。
「高三の一年間でね、私はいい意味で変われた。
好き嫌いはわからないけど、今の自分の方がだいぶ生きやすくなった。
私を今の私にしたのはいろんな要素があるけれど、でもね祐巳ちゃんの存在は大きいよ。
祐巳ちゃんがしてくれたのは、だからチューだけじゃないんだ」
『ねぇ、祐巳ちゃん。キミがそこに居てくれるだけでどんなに私が救われたか知ってる?
キミの存在が私をどれほど変えたか知ってる?』
「私が、何を」
ユミは震えた声で呟くセイの言葉に耳を傾けている。
セイは大学に行くことを決めたきっかけはユミがいたからだと伝えると、
今度はユミが泣き出してしまいそうな顔をした。
そんなユミをセイはもう一度抱きしめ、そっと体を離した。そしてドアの方へと押し出すように背中を押す。
「愛しているよ、祐巳ちゃん。キミとじゃれ合っているのは、本当に幸せだった。
祐巳ちゃんになりたい、って私は何度か思ったよ」
セイはそう言ってにっこりと笑った。苦しくなる心とはうらはらに・・・。
『愛しているよ…もう本当にこれっきり…何十年経ってもキミと居られたらどれ程幸せだろう、って思うんだ。
死についてばかり考えてた一年前の愛してるとは違う・・・』
「愛している、ってみんなに言ってるんでしょ」
ユミはそんなセイの気持ちなど知るはずもなくあきれた様子でこちらを見ている。
「うん」
セイもその調子で返事を返した。
「チューありがとね」
「いえいえ、単なるお餞別ですから」
ユミの言葉にセイは思わず苦笑いした。
「単なる、ね」
そこまで言ってふとセイは思った。
「ところで、祐巳ちゃん。私が通う大学どこか知っている?」
「は?」
「いや、いい。
祐巳ちゃんのことだから、大学名耳に入れないように逃げ回っていたんじゃないかなーなんて思ってね。
大好きな白薔薇様を大学に取られるみたいでさ」
セイのその言葉に、ユミはあきれた顔のまま苦笑いしている。
自惚れてますね、と。
ユミはそう言って教室を後にした。
セイは机にもう一度座りなおすと、窓の外に目をやった。そして薄く笑う。
『自惚れるよ、そりゃ。そうでもしなきゃ人を好きになんてなれないよ。こんな苦しい想い出来ないよ・・・。
でもね、苦しいばっかりじゃないんだよ?
愛しいと思うのも会いたいと願うのも、このドキドキする感じも苦しい想いも
キスをする以上に快感なんだ・・・これ以上ないぐらい幸せでもあるんだよ・・・』
水面に落ちた一滴の雫。
どこまでも湖面に広がって波を立てる。
その波はやがて、大きな津波となって私を襲うのだろう・・・。
それでも私は逃げずにただ巻き込まれるのを待つんだ。
一人っきりで静かに・・・。