儚く散る花のように、儚く消える雪のように、
想いが消えるものだとしたら、
どんなに楽だった事だろう。
どんなに寂しかった事だろう。
ユミに会わなきゃ。そう思ったのは今朝の事だった。
前の晩散々悩んでずっとモヤモヤしたままで、何かあと一つ答えが出ない。
咽の辺りまで・・・もうすぐ解けそうな・・・そんな気がするのに、どうしても解けなかった。
「もういいや。諦めよう・・・」
ようやくそう思えたのが午前三時。明日は一限目から授業がある。
退院したばかりなんだから、と母親は言うけれど、ケイもきっと心配してる。
そう思うと、明日こそは大学に行かなければ、と思った。
確か夢は見なかった。気がついたら朝で、目覚めた途端・・・何故かユミに会わなければ、と思った。
どうしてかは分からない。ユミと出会ってから、突然誰かに目隠しされたみたいに自分が見えなくなって、
今もこうして迷子みたいにウロウロするばかりで・・・。
ただ漠然と今朝、どうしてもユミに会わなきゃならないような、そんな気がして。
理屈じゃない。理由もない。ただそうしたい。それだけの感情。
逢いたいけれど逢いたくない。物事を決めるのにこんなにも迷う事なんて無かった。
けれど今、私は迷ってばかり。いつ出られるのかも分からない鏡で出来た迷宮をこうして彷徨っている。
鏡の中で色んな私が笑う。嫌な私、意地悪な私、綺麗な私、幼い私。
そのどれもこちらを見て・・・笑っていた。こんなにも沢山の自分は知らない。
私はどの自分も・・・知らないでいた。ずっと・・・。
この鏡の世界から出るためには誰の力も借りず、自分と向き合うしかないのだと、そう悟ったのはほんの数日前。
ヨウコに会った時だった。
ヨウコに素直に自分の想いを伝えてから新しく出てきた思想は、少しづつ・・・でも力強く確実に私の中に根を張る。
今まで出会ってきた様々な自分。でも・・・二人足りない・・・私は、私をずっと探していた・・・。
「聖さま!!おはようございます!!もうお体の調子はよろしいんですか!?」
「佐藤さん、おはよう〜。もう大丈夫なの〜?」
「あら、佐藤さんごきげんよう。あまり無理しないほうがいいんじゃなくて?」
大学につくなりやたらと沢山の人に声をかけられた。
その顔ぶれは私には見覚えのない人だったり、高校で同じクラスだった人だったり実に様々。
私が入院していた事なんて、ほんの数人にしか教えていないのにどうしてこんなにも沢山の人が知っているのか。
まぁそんな事は今更どうでもいいのだけれど。そんな事よりも今は、ただユミに逢えればそれでいい。
私は寝不足で今にもくっついてしまいそうな目をゴシゴシとこすりながら足早に教室へ向かった。
大学の席はいつだって自由だったけれど、私の愛用の席には相変わらず誰も座っていない。
この席から毎朝ユミを探すのが日課になっていた私にとっては、とても運がいいのかもしれない。
「ねぇ、加東さん。この席ってほんとに人気が無いよね」
私は今日もやっぱり先に大学に来ていたケイに適当に挨拶をすませて隣に腰掛けた。
「あら、おはよう佐藤さん。久しぶりね、レポートちゃんとやってきたの?」
「もちろん。おかげでヒマな入院生活が潤ったわ・・・と、一応言っておくわ。どうもありがとう」
私はかなり皮肉たっぷりにそう言ったのに、ケイはそんな事知らん顔してサラリと言う。
「それは良かった。わざわざ持っていった甲斐があったわ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
こんな会話をしていると、あぁ、私は帰ってきたんだな、なんてシミジミ思う。
こんな他愛も無い会話を、私は誰とも随分していなかったから。
「ところでさっきの質問なんだけど。この席人気ないよね。それとも誰も加東さんの隣に座りたがらないだけ?」
「さあ。私はあなたが居ない時はずっと前の席に居たけど・・・やっぱりこの席には誰も座らなかったわよ。
ていうよりも、ここは佐藤さんの席だって皆思ってるんじゃない?ほんと・・・皆佐藤さんの何がそんなにいいのかしら」
「・・・どういう意味よ、それ・・・」
私は苦笑いを浮かべながらケイの話を聞いていた。そして知った。皆の温かさとか、そういうのを。
ケイだってそうだ。今日私が大学に来なかったら、きっと前の席に移動していたのだろう。
そんな些細な事。でも穏やかな優しさが、こんなにも心地よく素直に受け入れられるのはどうしてかな。
私もほんの少しぐらい周りが見れるようになってきたのだろうか・・・。
私の痛みとか、憎しみとか苦しみなんて他の誰も知らないけれど、それでも皆こうして気遣ってくれる。
いつだって、私は守られていたんだ。真綿のように優しく、傷つかないように。
そんな事を思うと、何だか急に今までの自分が恥ずかしくなってきた。
たった独りで立っていたつもりで居た自分が酷く滑稽で・・・誰も頼りにならないと思ってた自分は、
どれほど自分という人間を過信していたのだろうか、と思う。
愛されたいのは愛されてなかったからじゃない。愛してなかったからだ。私が誰も愛してなかった。
だから私は誰かに・・・愛を教えてほしかったんだと、思い知った。
「どうしたの?気分でも悪いの?なんなら代返しといてあげましょうか?」
いつも表情を揺らさないケイが、珍しく眉毛をハの字にして心配そうにわたしを覗き込んでくる。
「ううん、大丈夫。ありがとう!」
「・・・何か・・・あった?」
満面の笑みで笑顔を返されたケイは、ほんの少し面食らったような顔をする。
私はそんなケイの顔がおかしくて、必死に笑いを堪えた。
特に何もない。けれど何かが確実に変わる・・・そんな気がした。
私はまだまだ、これから変わってゆける。もっともっと自由に、優しく、強くなれる。
そして、ずっとユミを守る。私が皆に優しく守られていたように、今度は私がユミを守ってゆく。
そう思った途端、沢山あった鏡の一枚に小さな歪が出来た。
ピシ・・・と微かな音を立てて・・・もうすぐこの迷宮も終わる。長かったこの世界から、ようやく抜けられる。
「何もないよ。ほんと、何にも無かったんだ。今までずっと」
「・・・ふーん・・・ならいいけど」
ケイは私の答えに納得したのか、それっきり私に会話をふってくる事はなかった。
それはきっと、相変わらず私が窓の外をじっと見つめユミ探しを始めたからだろう。
私は、今日ユミに逢うと決めた。何を話したいのか、何を話さなければならないのか。
そんな事はどうでもいい。ただ、逢いたい。それだけだった。
大学の授業は早く終わる日もあれば、やたらと遅い日もある。生憎今日は、とても遅い日だった。
せっかくユミに逢うと意気込んで来たのに、授業が終わってすぐに先生に捕まって、あれこれと話し込まれてしまった。
まず退院おめでとう、から始まって、何か悩み事かい?とか聞かれてとりあえず笑ってごまかしてたら、
今度は先生の家庭での生活を延々聞かされて・・・挙句の果てのは奥さんや子供の愚痴を言い出したところで、
私は逃げ出してきた。
かなり強引に逃げ出してきたけれど、ああでもしないときっと永遠に放してくれなかったに違いない。
時計の針は午後六時半を回っていた。こんな時間じゃ、もうきっと誰も高校になんて居ない。
「はぁ〜あ・・・また逢えずじまいか・・・」
私はトボトボと並木道を歩いていた。誰も居ない静けさと闇と月明かりだけが私を包む。
季節は冬。そろそろ雪が降り始めるだろう。シンとした空気に耳が痛い。
私はポッカリと浮かぶ月を見上げると、大きなため息を落とす。
と、その時、ふと視界に建物の明かりが目に入り、私は勢いよく振り返った。
「薔薇の・・・館・・・?」
そう、薔薇の館にはまだ明かりがついている。
一瞬、電気の消し忘れかな?とも思ったけれど、そう思うよりも先に私は薔薇の館に向かって走り出していた。
『祐巳ちゃんでありますように・・・』
心の中で何度も何度もそう呟きながら・・・。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・っよし!頑張れ、私!!」
私は薔薇の館のドアに手をかけながら、素早く呼吸を整えた。
そして、ゆっくりと薔薇の館に足を踏み入れる。
ギシ・・・ギシ・・・と、今にも踏み抜いてしまいそうな階段を出来るだけ静かに登って・・・。
ビスケットのような扉の前まで来て、もう一度大きく深呼吸をした。
何故か逃げ出したい衝動をグッと堪え、私はゆっくりとドアノブを回す。
そしてギュっと目を瞑り、そっと・・・ドアを開けた。
しかし・・・中からは誰の声もしない。驚いた声もしないし・・・。
やっぱりただの電気の消し忘れか。そう思った私はゆっくりと目を開けて・・・息を呑んだ。
「ゆ・・・祐巳ちゃん・・・」
ユミを驚かせるはずが、逆にユミに驚かされてしまった。
ユミは机の上にうつぶせになってスースーと微かな寝息など立てているではないか。
まさかこんな所で、こんな時間にユミが寝ているなんて予想もしてなかった私にとって、
これがどれほどの驚きだったか・・・とてもじゃないが口では言い表せない。
私はゆっくりとユミに近寄って、静かに隣の席に腰を下ろした。
無防備に眠りこけるユミ。本当に・・・どうしてキミはこんなにも・・・。
「・・・っ!」
今まであれこれ悩んでいたのが、まるで嘘みたいに去ってゆく。
声にならない叫び・・・伝えたい想い・・・痛んだ心・・・軋む胸・・・。
まるで全ての感情が全て混ざったみたいに、溶けて流れる。
「ん・・・ぅん・・・」
私が隣に座っているとも知らずに、ユミは可愛らしい声を出す。
その瞬間・・・私の中で、さっきひずみの入った鏡が音を立てて割れた。
鏡の中から流れ出した沢山の中の私が、ここに居在る私の中にドッと流れ込んでくる。
色を失った私に、ほんの少しだけ色がついて・・・そして・・・。
「祐巳ちゃん・・・ごめんね。私、祐巳ちゃんが・・・好き・・・」
言えた・・・相手は寝ているけれど、初めて心の底から自分の気持ちが言えた・・・。
不思議と零れる笑みは、安堵の笑みなのか、至福の笑みなのか・・・それとも哀しみの笑みなのか。
気がつけば、私はそっと眠っているユミの唇のすぐ傍に口付けていた・・・。
ユミの好きな甘いミルクティーの香りがする。
それはきっと、ついさっきまでユミが飲んでいたものの香りだろう。
「相変わらずだなぁ・・・祐巳ちゃんは」
恥ずかしさと、嬉しさが入り混じった不思議な感情。甘くて・・・溶けてしまいそうな程の想い・・・。
私はゆっくりとユミの肩を揺さぶった。
「祐巳ちゃん・・・ほら、起きて・・・こんな所で寝てたら風邪ひくよ?
ほら、早く・・・私が祐巳ちゃんに、とびっきりのお茶を淹れてあげるから・・・」
ねぇ、だから早く・・・目を覚まして?
だんだん霧が濃くなってゆく。
霧の中で探すのは、もう一人の私。
私は私に追い越され、もう随分と彷徨った。
私に追い越された私は、未だに私を追いかけて、
後どれぐらい、彷徨うのだろう。