昨日は重い。明日は遠い。


今日は真っ暗な海の底。


いつになったら光が差すのか、いつになったら暖かくなるのか。


それはきっと・・・キミしか知らない。







帰り道。誰も居ない。重い雲が私の頭上から太陽を消した。

独りでバスを待つ私は、今皆にどんな風に映っているのだろう。

突然、ザワザワと騒ぎ声が後ろから聞こえてきた。

私はゆっくり振り返って、それがリリアン大学の生徒だと判るや否や、

さっとバス停から離れた。

どうして逃げるのか・・・私にもわからない。ただ、もしその群集の中にセイが居たら・・・。

そう思ったら足が勝手にその場を離れていたのだ。

会いたい・・・会いたくない・・・全く反対の方向を向く同じ強さの気持ち。

私は結局バスを一本見送って、またバス停でバスを待った・・・。

いい加減学校を休み続けるのもどうか、と思って今日は学校に来たけれど、

何よりも気がかりだったのはお姉さまの事だった。

でも、結局今日も薔薇の館には行けなくてお姉さまと顔を合わす事は・・・なかった。

そして思う。あれからどれくらいが過ぎたのだろう・・・と。

ぶたれた頬は、今はもう熱を持ってなどいない。

でも、その痛みは心の底に根を這うようにしてジワジワと私を追い詰めていた。

ヨシノが言うように、私のしていることや、想いはやはり浮気になるのだろうか?

何が浮気の定義かわからない。恋愛は姉妹でないといけないという考えも納得いかない。

誰が決めたわけでもない。多分、それはリリアンの伝統なのだろう。

でも、そうじゃない生徒も中にはやっぱり居るのだ。

あの日、マリア様の前で皆の前で話す前、ゲタ箱や机の中に沢山の手紙が入っていた。

その大半は、裏切り者とか浮気するな!とかが多かったけど、中には応援してます!というのも・・・あった。

私はそう言われる事が何故か苦しくて切なくてたまらなくなって、他の手紙と一緒に小さな箱の中にしまいこんだ。

ヨシノにそれを言ったら、バカなんじゃないの?なんてあっさりと一蹴されてしまったけれど、

シマコはその手紙を見て、ただ微笑んだだけだった。

どうしてセイを好きになってしまったんだろう・・・どうしてセイなんだろう・・・。

いくら考えても答えなんて出なくて、結局現実から目を逸らそうとしたけれど、

やっぱり思い出すのはセイの顔ばかりだった。

どうしても頭の中から・・・心の中から出て行かないセイ。私には決して手の届かない、大切な人。

お姉さまに言ったように、もっと一緒に居たいのは・・・セイしか居ない。

もっと触れたくて、触れられたくて・・・傍に居たくて・・・抱きしめてほしくて・・・。

あの困ったような笑顔や、意地悪な口元とか、子供みたいな仕草や、的確なアドバイス。

困ったときには必ず駆けつけてくれた。どこに居ても・・・誰と一緒でも。

でも、本当は傷ついた猫みたいな瞳をしていることや、

心の中の闇とか・・・表には決して出せない弱さとか・・・全てがセイで。

その全てが愛しかった。私がどうこう出来るとは思わないけれど、でも・・・少しでもセイの心に触れたくて。

どんなに抗っても拭う事など出来ない強い強い鎖・・・細かった鎖が、今はこんなにも・・・成長して・・・。

「ほんと・・・まいっちゃうなぁ・・・」

苦しいはずなのに何故か笑みがこぼれる。私はどうかしてしまったんだろうか・・・?

散々泣いて、夜になったら夢にまでセイが出てきて・・・でも、夢の中のセイはただの一度だって私を見なくて。

毎日毎日同じ夢を見続け、泣きながら目を覚ます。

そんな事の繰り返しばかりで、もしかすると頭がどうにかなってしまったのかもしれない。

恋は心を奪われるのだ、とそういえば誰かが言っていたっけ。心を奪われるって、きっとこういう事なんだろうな。

四六時中セイの事を考えてる訳じゃないけれど、ふとした瞬間にセイの事を思い出して苦しくなる。

全てを振り切ってセイの所に飛び込める日が、いつかは来るのだろうか?

そして、奪われた心はいつか私の元へ戻ってくるのだろうか・・・?

それとも・・・ずっとセイの元に?

「・・・聖さま・・・会いたいよ・・・」

ゆ〜みちゃん!って言って、いつもみたいに私を驚かせてよ。

そんな恐竜の赤ちゃんみたいな声出さないでよ、って困ったように笑ってよ・・・。

そして・・・私を見て・・・夢の中みたいに、私から・・・目を逸らさないで・・・。

バス停のベンチに腰を下ろし、今にも振り出しそうな空を見上げる。

ポツンと冷たいものが頬を叩くのと同時に、温かいものが頬を伝う。

それが自分の涙と雨が混じったものだと言う事に気づいたのは、雨足が早まってからの事だった。

「祐巳ちゃん!?」

呆然と空を見上げていた私の視界を遮ったのは、いつかの大きな紳士ものの傘だった。

私はその傘に見覚えがある。黒い大きな傘に・・・。

「聖さまっ!?」

慌てて振り返った私の目に飛び込んできたのは・・・セイではなかった。

確かにセイの傘なのに、セイではない・・・。ホッとしたようなガッカリしたような言いようも無い気持ち・・・。

「ごめん・・・佐藤さんじゃなくて・・・」

セイの傘を持つその人は申し訳なさそうに頭を下げると、苦い笑みを浮かべている。

「いえ・・・こっちこそ間違えってしまって・・・すみません。お久しぶりです、加東さん・・・」

カトウケイ・・・今多分セイと一番の仲良しなんじゃないだろうか?

この人のきっぱりした所は、きっとセイにはちょうどいいのだろう。案外あの人は優柔不断なところがあるから。

レポートがぁ!!とか言いながらケイに泣きついているセイを想像するのは、思ったより容易で思わず笑ってしまう。

「何がおかしいの?」

ケイは不思議そうに私の顔を覗き込んで、小さく笑ってくれる。でも・・・その笑顔はどこか不安そうで・・・。

「聖さまは・・・元気ですか・・・?」

私は何となくその表情がセイと関係しているようなそんな気になって、ケイにそう尋ねてみた。

しかし、ケイは俯くばかりで何も言ってくれない。

「・・・加東・・・さん?」

「あのね、祐巳ちゃん、よく聞いて。佐藤さんね・・・今、入院してるの・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え・・・・?」

それ以上、何も言えなかった。いや、意味がよく判らなかった。

誰が?どうして?聞きたい事は山ほどあるのに、ケイの言った事を消化する事が・・・出来なかった・・・。

「佐藤さんね・・・一昨日の夜自宅で倒れて・・・それで・・・」

ケイの言葉の語尾が心なしか震えている。

「・・・う・・・そ・・・・」

「嘘なんて言ってどうするのよ・・・それで、私今から病院行くんだけど・・・祐巳ちゃんも・・・一緒に行く?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

ケイは相変わらず無表情だけれど、声はやっぱり少し震えている。

・・・どうして・・・一体セイに何があったというのだろう・・・。

何故倒れた?何か重い病気だったら・・・どうしよう・・・もし・・・もしも・・・助からなかったら・・・?

頭の中を悪い考えばかりが過る。今日は・・・エイプリルフールだったかな?

だとしたら、こんなにも悪い冗談はない。でも・・・冗談な方がいい・・・。

「どうする?・・・祐巳ちゃん・・・」

「私・・・私は・・・」

バスが向こうからやってくる・・・ケイはきっとこれに乗って病院へ行くのだろう。

一緒にこれに乗ればセイに会える・・・でも・・・私は・・・・・。

「祐巳ちゃんっ!!」

ケイが少しキツイ声で私の答えを急ぐ。そしていつまでもグズグズ迷っている私の手を・・・引いた。

「迷うんならバスの中でしなさい!」




「私はね、佐藤さんが倒れた原因がなんとなく解るのよ」

ケイは私の手を引いたままバスの一番後ろの席に座るなり、そう呟いた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「多分・・・なんだけどね・・・佐藤さん、胃炎なんだって」

「胃炎・・・?」

「そう、胃炎。つまりは過度なストレス」

「・・・ストレス・・・」

どうしてセイが倒れるまでストレスなんて抱え込んでしまったんだろう・・・。

もしかすると・・・あのリリアンかわら版の記事の事で・・・?

「佐藤さんってさ・・・普段ちゃらちゃらしてるくせに、本当に困ったときは誰にも言わないじゃない?

今回もきっとそうだったんでしょうね。だから周りは誰も気づかなかった・・・。

でもね、それは強いんじゃない・・・弱さなのよね・・・誰にも言わないなんてのは」

「・・・・・・そう・・・かもしれませんね・・・・」

そう・・・セイはいつだって本心を言わなかった。

私の話を聞いてくれるだけで、あまり自分の事を話そうとは・・・しなかった。

だから私はセイの表面上の事しか解らない。かろうじて知っているのはシオリとの辛い別れぐらいで・・・。

今回の事だってそうだ・・・誰にも何も言わないで、一人でずっと悩んでて・・・挙句入院だなんて・・・。

「・・・ほんと、バカ・・・よね。そんなになるまで悩むなら、とっとと打ち明ければ良かったのに・・・。

どうせ佐藤さんの事だからウダウダ考えてたんでしょうね・・・先の事ばっかりを・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「祐巳ちゃんも・・・何か佐藤さんに会いたくない事情があるみたいだけど・・・。

後で後悔するぐらいなら、今会いなさい。

でないと、いつか佐藤さんみたいに・・・倒れてしまうわよ?」

優しく諭すような言葉が、耳に心地よく響いた。私は急に怖くなった。今、セイに会うのが。

そして・・・想いを止められなくなって・・・。

「わ・・・私・・・聖さまが・・・・っく・・・っひ・・・う・・・好き・・・なんです・・・っ」

「・・・そう・・・だから会いたくなかったの?」

「・・・・・・・・・・・・・」

コクリと頷く私の頭を、ケイは優しく撫でてくれる。大丈夫よ、と言いながら。

「祐巳ちゃんが何に悩んでいるのか解らないけれど・・・もしも佐藤さんみたいに先を見すぎて悩んでいるのなら・・・、

それは・・・間違いだからね?先の事なんて・・・想像出来るものじゃないんだから。

思い描く事は出来ても、決してシナリオ道りにはいかないのが未来。

何が待ってるかなんて・・・そんなのは誰にも判らないんだから。だから・・・後悔だけは・・・しないように」

ケイはそう言って私の背中を軽く叩いた。気がつけばいつの間にかバスは市内の病院の前で停車していた。

ケイに背中を押されたからだろうか?不意に勇気が湧いてくるような・・・そんな気がした。

セイが何を考え込んで倒れたのかは・・・結局解らないけれど、それでもいい。

今会わないと・・・きっと私は一生セイから逃げる事になるだろうから・・・。

自分の心を偽って生きても・・・そこにはきっと・・・寂しい未来しかないような・・・そんな気がするから。

そして・・・この時私の中で一つの答えが出たような・・・そんな気がした。

セイを想う気持ちに、偽りなどない。でも・・・今はまだ・・・セイに想いを伝える事は・・・出来ない。

それは契約の問題だけではない、お姉さまへの愛情。

お姉さまがちゃんと解ってくれるまで・・・私はセイの胸には飛び込めない。

「祐巳ちゃん?どうする?」

「・・・行きます。聖さまに・・・会います」

「・・・この短い時間の間に・・・何か変わった?」

「時間は・・・関係ないです。多分。

でも・・・何かが変わったようなそうでないような・・・よくは解りませんが、そんな気がします。

加東さん・・・私、ワガママですね・・・お姉さまも聖さまも大事だなんて・・・」

そう・・・これは随分と虫のいい話だと思う。でも・・・どちらも本当に・・・大切なのだ。

心の底から愛おしくて・・・しょうがないのだ。どちらも諦められない、だから諦めない。

さっきケイが言ったように未来なんてわからない。

悪い方へ転がっても、良い方へ転がっても・・・それは私の未来なのだ。

小さく微笑んだ私に、ケイは真面目な顔でこう言った。

「いいんじゃない?誰も皆ワガママなんだから。それに・・・それはワガママな訳では・・・無いと思うし」

「そうですか」

「そうよ。さ、行きましょ」

「はい!」




白いカーテンを風が揺らす。それに合わせてセイの髪もまた、サラサラと揺れている。病室はとても静かだった。

窓から差し込む光が、セイの髪をキラキラと透かす。

「聖さま・・・少し・・・痩せました?」

真っ白の箱みたいなベッドの上で固く目を閉じるセイに、私はそんな風に聞いてみる。

色素の薄い肌からさらに色が失われて、ホンモノの彫刻みたいに綺麗だった。

「駄目じゃないですか・・・ちゃんと食べないと・・・また・・・変なものばかり食べてたんでしょ?

本当に・・・しょうがないんだから・・・」

小さく笑うつもりだったのに、それは出来なかった。ポツリポツリと涙がセイの胸に落ちる。

涙はすぐにシーツに吸い込まれて、ジワリと広がった・・・。

セイの細い腕に繋がれた点滴から、何だかわからない液体が少しづつす少しづつ落ちる。

「ねぇ、聖さま・・・私、もう逃げません・・・ずっと・・・聖さまと一緒に・・・居ますから・・・」

泣くのを堪えて紡ぎだした言葉が、セイの心に落ちてくれればいいのに・・・。

そしてこの涙みたいに、セイの心に染み込んでジンワリと広がれば・・・。

私は点滴の繋がっていない方の手をそっと取って、自分の指に絡めた。

温かい・・・眠ってはいるけれど、ちゃんと息をしている。

たまに見せる苦悩の表情も・・・生きている証拠・・・。

私にはそれで十分だった。セイがここで息をしているだけで・・・それだけで良かった。今は・・・。

「聖さま・・・早く・・・私に会いに来て・・・待ってますから・・・いつか約束した私の話・・・聞いてください」

伝えたい言葉は沢山ある。自分勝手な言い分だけど、それでもセイにはちゃんと伝えたい。

たとえセイがそれを受け入れてくれなくても・・・たとえ他の誰をセイが好きでも。

それでも私は・・・セイが好き。この想いは・・・私の誇りだから・・・。

セイの手をキュっと握ると、私はゆっくりセイの顔に自分の顔を近づけた。

セイの息を鼻先で感じる・・・こんなにも近くでセイを見るのは・・・セイが卒業する前の日以来。

でもあの時は一瞬の事でよく覚えていないから・・・実際にはこれが初めてなのかもしれない。

「聖さま・・・好きです・・・貴女の事が・・・好きなんです・・・」

答えなど返ってこない。でも、微かにセイが微笑んだように見えたのは・・・きっと見間違いじゃないはず。



私はセイの淡いピンク色の唇に・・・そっと自分の唇を重ねた・・・。

初めてのキスは・・・苦いお薬の味だった・・・。

初めてのキスは、想像してたみたいにロマンチックなものでは全然なくて。

そして思った。ケイの言ったように、未来なんて、想像できないものなんだな・・・と。




未来を想像することは、容易いことではない。


必ずその通りにはいかないし、いつだって間違ってしまうから。


・・・創造することは、案外容易く出来るけど。











それぞれの告白   第十九話