未熟な魂は、辛さの数を数えるのだという。
私はずっと辛さばかりを数えてきた。
でも、今なら変われそうな気がする。
これからはきっと、幸せだけを数えて生きてゆく。
ユミにはあれから会ってない。会えそうもない。こんな想いじゃ・・・。
だって、私はユミの気持ちを知ってしまった。どうしようもない脱力感と、孤独感。
ユミがそこで笑ってくれているだけで、私は辛い事も嫌な事も受け止められていたんだと知った。
どれほどまでにユミの存在が大きかったのか、今になって思い知るなんて・・・。
行かないで・・・いくらそう叫んでも、私の声はもう、君に届かない。
「独りにしないで・・・」
真っ暗な部屋の中で蹲って、朝から何度もそう呟いた。
机の上に置きっぱなしの携帯電話。何度も何度も空耳のベルが私を呼ぶ。
それはいつだって、ユミからの着信音で・・・。
夜もロクに寝られない。ご飯も少ししか食べられない。食べたくない。最近は大学にもあまり行っていない。
それでも電話の一つもよこさないケイは・・・きっと何かを察しているに違いなかった。
あの人はそういう人だ。人の事は言えないけれど、あまり他人のために必死になるタイプではないから・・・。
そういうところが、今はとても有難い。
「聖ちゃーん。ご飯よ!!また食べないの!?」
階下から母親の声がする。でも、最近顔すらまともに見ていなかった。
どうせまた、顔を合わせればあれやこれやと聞き出されるに違いないのだから・・・。
「聖ちゃんっ!?居るんでしょ!!出てきなさい!!!」
母親お怒鳴り声がドアのすぐ前で聞こえてくる。私は大きなため息を一つ落とすと、シブシブドアを開いた。
「・・・悪いけど・・・いらないから・・・」
ボソリとそう呟く私に、母親は怪訝そうな顔をしている。
この顔は知ってる。何かまたいらぬ心配をして、私を叱る時の顔だ。咄嗟にそう思った。
いや、叱るというよりは、感情に任せて私を怒ると言った方がいいかもしれない。
いつだって理屈ではないのだ。この人が私を叱る時は。
「・・・聖ちゃん・・・あなた最近どうしたの?何かあったのならお母さんに・・・」
「言ったってどうせ理解できないよ」
冷たくそう言い放つ私にも問題はある。どうしてもっと要領よく受け流す事が出来ないのか。
そんな私の態度に母親は眉間にギュっと皺を寄せ、私を上目遣いで睨みつける。
「聖ちゃん、いい?もしまた前みたいな事だったら・・・お母さんは許さないからね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
この人はエスパーなのだろうか。それとも私はそんなにも分かり易いのだろうか。
どっちにしろ母親が言った言葉は私の傷に塩を塗りこむようなもので、少しも救いにはなりそうになかった。
それどころか、どんどん気が滅入っていく。話したくない。話してもどうせ真剣には捉えてくれないのだから。
いつからだろう、こんなにも親を信用しなくなったのは。
いつからだろう、こんなにも親を疎ましく思うようになったのは・・・。
これを超えれば、また昔みたいに笑えるのだろうか。それとも、このまま一生こんな関係のままなのだろうか。
黙りこむ私に、母親はさらにムキいなって続ける。
「聖ちゃん、どうしちゃったの!?小さい頃はそんなじゃなかったじゃない?
それなのに・・・突然女の子と・・・一体どうしちゃったのよ!?あなた変よ!?」
「・・・・・・・もう・・・黙ってくれない?頭・・・痛いんだけど・・・」
私はそれだけ言うのがやっとだった。変・・・そうか、変か。確かにそうかもしれない。
サチコといい、母親といい、どうして誰も理解してくれないんだろう。
もしかすると、案外ユミもそんな風に思ってたのかもしれないな・・・。
「っつ!!」
そんな考えが頭を過った途端、胃のあたりに微かな痛みが走り、私は力なくその場に崩れ落ちた。
「聖ちゃんっ!?聖ちゃんっっ!!??」
どんどん意識が掠れてゆく・・・遠くから聞こえるのは金切り声の母親の叫び声。
そして・・・空耳のユミの着信音だった・・・。
気がつくと真っ白なシーツの上に、私は仰向けに寝かせられていた。
何故か手には携帯電話を握り締めている・・・。
「ここ・・・どこよ・・・。どうして私携帯なんか・・・」
握り締めた携帯電話の電源は入っていない。しかもここは・・・どこだろう?
真っ白な部屋・・・真新しいシーツ・・・どこかで見たような気がする・・・。
でも、いくら考えても何も思い出せない。さっきまで確かに自分の部屋に居たのに・・・そのときだった。
「っつ・・・」
胃の辺りにまた激痛が走って、思わず私は胃を押さえ込んだ。なんだろう・・・この痛みは。
「あなた倒れたのよ」
突然の声に、私はビクンと肩を震わせた。誰だっけ・・・この声、聞いた事がある・・・。
私はチクチクと痛む胃を押さえながら、ゆっくりと顔を上げた。
そして声の主を確認するなり、私は大きく目を見開く。どうしてこの人が・・・?
いくら考えても全く判らない。そう・・・目の前に立っていたのは・・・。
「・・・お姉さま・・・」
あまりの出来事に私は思わず唾をゴクリと飲み込んだ。
どうしてお姉さまがここに居るのか・・・いや、それよりもここは一体どこなのか・・・。
倒れた?私が・・・?どうして・・・。
全てが困惑する要素になってしまって、私はパニック寸前だった。何から切り出していいものやら分からない。
考えれば考えるほど、胃の痛みは増してゆく・・・。
「ぅっく」
胃の辺りを押さえながら身体を前のめりに倒す私に、お姉さまは慌てて背中をさすってくれる。
「ほら、ちゃんと寝てなさい。ここは病院よ、聖。あなたは、昨日の夜胃炎で倒れてここに運ばれたのよ。覚えてる?」
「・・・・・・・昨日・・・の夜・・・?」
窓の外はすでに夕日が傾きかけている。という事は、私はほとんど丸一日ここで眠っていたらしい。
必死になって昨夜の事を思い出そうとしても、何も思いだせない。
ただ・・・一つだけ覚えてるのは、ユミからの着信音・・・。これだけはしっかりと覚えている。
だって、今もずっと、頭の中で鳴りっぱなしなのだから・・・。
「やっぱり、何も覚えてなにのね・・・じゃあその携帯電話を離さなかったのも・・・覚えてない?」
「・・・・・・・・・・」
私はゆっくりと頭を振った。覚えているのは着信音の事だけで、他には何も覚えてなどいなかった。
でも確かに携帯電話は私が握り締めていて、アンテナの痕がくっきりと手の平に残っている。
それを見れば、一体どれほどの力で私がコレを握り締めていたのかが容易に分かる。
多分、私は相当不思議そう顔をしていたのだろう。お姉さまはベッドの脇に置いてあったイスに腰掛け苦笑いをしていた。
「小母さまの話だと、あなたが自分から携帯電話を取りに戻ったそうよ?
で、その後、崩れるみたいに倒れたって言ってたけど・・・本当に覚えてないの?
さっきもうわ言で、着信音が・・・って呟いてたけど・・・頭でも打ったのかしらね」
お姉さまはそう言って私の後頭部にたんこぶが出来ていないかを念入りに調べる振りをする。
その顔はホッとしているような、呆れているようなそんな顔だった・・・。
「・・・そうでしたか・・・でも、どうしてお姉さまがここに居るんですか・・・」
いくら携帯電話を無意識に取りに行ったとはいえ、流石に無意識に助けを呼んだ訳では・・・ないだろう。
お姉さまはカタンと小さな音を立ててイスから立ち上がり、ベッド脇の机に置いてあったリンゴを一つ剥き始めた。
「聖はまだ食べちゃ駄目だそうだから、見てるだけね」
「・・・はあ・・・」
そう言って意地悪に笑うと小さなウインクをする。カシュ、と爽やかな音とともに、部屋にリンゴの甘い匂いが立ち込める。
食欲は相変わらず無かったけれど、リンゴの甘い匂いは私の鼻腔をくすぐる。
やがてリンゴを剥き終えたお姉さまは、またイスに座りなおして綺麗に切り分けたうちの一つを口に放り込んだ。
「お姉さま・・・で、お姉さまはどうしてここに・・・?」
「私は・・・聖の小母さまに呼ばれたのよ・・・。酷くパニックになってたみたいだったから、飛んできたんだけど・・・。
あなたったら少しも目を覚まさないんだもの・・・本気で心配したわ」
「・・・・・すみません・・・・・・・」
「謝る相手が違うでしょ?小母さまに謝りなさい。あなたの事相当心配してたわよ?聖が死んじゃう!って」
お姉さまはそう言って私の頭を軽く叩いた。
母親がお姉さまを呼んだ・・・そうか・・・そんなに心配してくれていたのか・・・。
なんだかさっきまでは痛かった胃が、ほんの少しその痛みを和らげた。代わりに胸がキュっと痛む。
何だろう・・・私こそ、母親の事をなんにも見ていtなかったのかもしれない、なんて考えが頭を過る。
これじゃあ昔と何も変わっていない。求めてばかりで、自分から歩み寄ろうとするのを忘れていたあの頃みたいに・・・。
「それで・・・今、お母さんは・・・」
病室の中に母親の姿はない。
ただ、テーブルの上に置いてある着替えとかお菓子とかを見ると、少なくともここに居たのは確かなようなのだが。
「私が無理矢理帰したの。あんまりにも憔悴してたから、何だか気の毒で。ずっと聖の手・・・握ってたわよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
私はじっと自分の手を見つめた。今はもう母親の温もりは無いけれど、微かに残る石鹸の香りは、確かに母親のもので・・・。
どんな想いで私が目を覚ますのを待っていたのかは・・・わからない。
けれど、私が思っている以上に母親は私の事を想っていたのかもしれない。
母親の香りの染み付いた手を、私はギュっと握った。胸の中に何か暖かいものが込み上げてくる。
涙までは出ないけれど、でも、ほんの少しだけお母さんが近くなったような・・・そんな気がした。
テーブルの上に置かれたお菓子の一つを、私は手に取る。
「それは、小母さまが置いてったんだけど・・・聖はまだ食べられないのにね」
クスリと小さく笑うお姉さま。そんな風に笑うお姉さまに、私達親子はどう映ったのだろう・・・。
「このお菓子・・・小さい頃好きだったやつ・・・」
今はもう、甘ったるくて食べられないんだけどな。
心の中で私がそう呟くと、お姉さまはまた優しく笑みを浮かべた。
「小母さま聖の好きなものちゃんと覚えててくれたのね、きっと」
「・・・本当ですね・・・」
私は母親が置いて行ったお菓子の袋をじっと見つめながら、笑った。
そうだ・・・小さい頃、よくこのお菓子を買ってもらった。夕方に一緒に手をつないでスーパーによく行ったっけ。
晩御飯のお手伝いをすると言って、よくお母さんをヒヤヒヤさせた事もあった。
怪我する度に心配そうに私の顔を覗き込んで、大丈夫よ、と励ましてくれた。
幼い私の頭を撫でる温かいお母さんの手・・・今もよく・・・覚えてる。
不意に幼い頃の事を思い出した私の目から涙が溢れ出した。
何が哀しいのかわからない。何も哀しくないのかもしれない・・・それはとても、温かい涙だった。
「はは・・・やだな、私・・・どうしたんだろう・・・」
涙が止まらない私の頭を、お姉さまは優しく撫でてくれた。
その手は私の覚えているお母さんの手と同じぐらい・・・温かかった・・・。
「聖、あなたは孤独なんかじゃないのよ。皆居るでしょ?あなたの事、ちゃんと見てくれてるでしょ?
聖がどうして胃炎になるほど悩んだのかは解らないけれど、でも・・・皆待ってるわ。あなたがちゃんと言ってくれるのを。
小母さまにしてもそうよ。すぐには聖の事、受け入れられないかもしれない。
でもね?いつかきっと、理解してくれる日が来るわ。だって、あなたのお母様でしょう?大丈夫よ、聖。
もっと・・・自信持ちなさい。後・・・祐巳ちゃんという子の事も・・・もう少し頑張ってみなさい。
ちょっとやそっとの事で諦めてしまうのは・・・あなたらしくないわ」
「・・・お姉さま・・・どうして祐巳ちゃんの事・・・」
「だって、聖ったら、祐巳ちゃん・・・祐巳ちゃん・・・、ってずっと言ってたもの。そりゃ解るわよ」
「えっ!?ほ、本当に!!??」
まさか、そんな事を口走っていたなんて・・・私は恥ずかしさのあまり顔面を両手で押さえた。
しかし、お姉さまはそんな私の反応を明らかに楽しんでいる。そして意地悪な笑みを浮かべて言う。
「う・そ。嘘よ、聖。安心して。これはちょっとしたツテで聞いたの。あなたの口から聞いたんじゃないわ」
「な、なんだ・・・びっくりした・・・って、誰から聞いたんですか!?」
本当に、一体誰から聞いたのだろう?私がユミの事を好きだなんて事、殆ど誰も知らないはずなのに・・・どうして?
私の頭の中は疑問符で一杯になった。でも、きっとお姉さまはその答えを教えてはくれないだろう。
案の定、企業秘密よ、なんて言って笑っている。
そんなお姉さまを見て私は、まぁいいか、なんて思ってしまう。今も昔も。
今だけは何も考えずに、こうしてここで笑っていよう。
どうしたって明日はまたやってくるんだから。そうしたら考えたくないこともまた考えなければならない。
ヨウコの事や、サチコの事、そして母親の事や・・・ユミの事を。
だから・・・今だけは・・・ここで、こうして笑っていよう・・・。
昨日は重い。明日は遠い。
今日は真っ暗な海の底。
いつになったら光が差すのか、いつになったら暖かくなるのか。
それはきっと・・・キミしか知らない。