想いなんて、身勝手で、私はそれを知らなくて。
だからこそ、こんなにも苦しくて、仕方なくて。
でも、だからこそ、こんなにも愛しい・・・。
あれから一週間が過ぎた。ユミは一度も薔薇の館にはやってこなかった。
ヨシノの話では、学校すらも最近休みがちだという。
セイにも、あれから一度も顔を合わす事がなかった。そしてもう一つ・・・気になる事がある・・・。
それは、シマコの事だった。
「志摩子、ここの件なのだけれど、これでいいと思うかしら?」
私はそう言って今しがたレイが配ってくれたプリントに目を通し、必要事項を書き込んでシマコに手渡す。
すると、シマコはそのプリントをチラリと見ただけで、コクリと頷き言う。
「ええ、それでいいと思います。紅薔薇様」
「・・・そう・・・ありがとう」
「・・・いえ・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
別にシマコに意見をきくような事でもなかった。
でも、ここ数日のシマコの私に対する態度が妙によそよそしい事に、私は気づいていた。
一瞬、頭の中をセイの顔が過った。もしかすると、私がセイに言ったことを、セイがシマコに言ったのだろうか。
そんな告げ口するような事をセイがしないことは十分わかっているのに、
どうしてこの時こんな風に思ったのかは・・・私自身にも判らなかった。
ただ、セイが憎くてしょうがなかったのだと思う。
ユミの気持ちが私には向かない事や、ユミがセイを庇ってマリア様の前であんな事を言ったのも・・・全てセイの所為だ。
そう・・・思えてならなかった・・・。
だから、シマコがこんな風に私を避けるのも・・・きっとセイの所為・・・。
そう思えば思おうとするほど、私は醜く汚くなってゆく。
でも、その反面気持ちがほんの少し楽になるのも・・・許しがたい事実だった。
私は多分、一生セイを許せない。いや、許さないと言った方が・・・きっと正しい。
一週間前にセイを見たとき、その顔はひどく狼狽してるように見えた。
ユミを諦めると言ったときのセイは、酷くみじめそうな顔をしていた。
それなのに・・・それなのに『祐巳ちゃんでなきゃ駄目なんだ!』と言い切った時のセイの顔は・・・とても綺麗で・・・。
でも、セイはユミを諦めるという。きっと、あの日の宣言をどこかで・・・もしくは誰かに聞いたのだろう。
それを聞いたとき、私はホッとした。ユミが盗られなくてすむ。そう思った。
けれど、セイはまだユミのことを諦めてなど居ないと気づいたとき、私は・・・。
「祥子?・・・祥子ってば!!」
「えっ!?あ、ああ・・・令・・・どうかしたの?」
私はギュっと握り締めていたハンカチをポトリと床に落とした。
それはユミとおそろいのハンカチで、この世にたったの三枚しかない大切な物だった・・・。
「もう皆帰ったわよ・・・って、祥子?落としたわよ・・・もう、大丈夫?」
レイはそう言って私にその宝物とも言えるハンカチを拾ってくれた。
・・・けれど、私はそのハンカチを受け取る事が出来なかった。
真っ白でシミ一つ無いハンカチは、今の私の心に比べてなんて純粋なんだろう。
そう・・・このハンカチをユミに渡したとき、この繋がりは一生だと思った。
でも・・・案外繋がりなんて薄くて脆かったことに・・・気づいた・・・。
所詮、血の通わない三年だけの期間限定の姉妹など、それぐらいのものでしか無かったのだ。
「さっ、祥子!?」
「・・・・・・・・・っく・・・ひっく・・・」
気づけば、私はハンカチを薔薇の館のゴミ箱に押し込んでいた。
こんなものもういらない。あってもしょうがない。隣にユミは・・・もう居ないのだから・・・。
身内を失うよりも辛い事が、この世にあるなんて思ってもみなかった。
おばあ様を亡くした時、支えてくれたのはユミだった。だから私は今まで通り立っていられたのに、
支えがなくなった今、私は何を支えにすればいいというのだろう。
一体何がこの悲しみから救ってくれると・・・いうのだろう・・・。
泣き崩れる私の肩を、レイがしっかりと支えてくれる。
でも、今欲しいのはこの腕ではなかった・・・。私の支えになってくれるのは・・・レイではないのだから・・・。
「祥子・・・何があったの?どうしたの、突然」
優しく響くレイの声が、やたらと私の心を撫でる。優しいけれど、突き刺さるような痛み。
私は、ユミなしではきっと生きてゆけない・・・。一度でもあんな子が傍に居たら、きっと誰でもそう思うだろう。
それはセイも同じだったに違いない。
ずっと籠のような家で育った私にとっては、自由に大空を舞うユミが羨ましくて愛しくてしょうがなかった。
籠の中の鳥は羽を切られてあまり飛べない。
けれど、自由な空に憧れ飛びたいと強く願えば願うほどその羽が邪魔をしていた。
この羽さえ動けば、この羽さえ切られなければ・・・幼い頃からずっとそんな風に思ってた。
けれど、一度身に染み込んだ甘えや習慣からはそう易々と逃げられない。
鉄格子の中から見る四角い窓の外には、スズメや鳩が飛んでいる。
でも、私は鳩やスズメじゃない。だから逃がしてもらえない。
私はずっと、ずっとスズメや鳩になりたかった・・・こんな狭い牢獄のような檻からずっと・・・出たかった。
ある日私のところに一羽のスズメが飛び込んできた。そのスズメは愛らしく鳴いて、こんな私に話しかけてくれた・・・。
一人ぼっちだった私に、ようやく光が見えた気がした。
スズメはいつも自由で、些細な事に気を揉んでいたけれど、私はスズメの話を聞くのが楽しかった。
スズメの話を聞いてる間だけは、私は自由になれた。見たことのない景色や、建物。友人や家族・・・。
私には無いものを沢山持っているスズメ。どこにでも居るようなその平凡さが、私は大好きで。
少しも飾らず、毎日を必死に生き抜くその姿。私には何も不自由など無い。
けれど、私にはこのスズメのようには・・・生きられない・・・。
「私ね・・・酷い事を・・・言ってしまったの・・・」
私は窓の外を二羽仲良く飛んでいるスズメを見ながら、ポツリと呟いた。
「誰に?」
レイもスズメを見つめて目を細めている。そして言う・・・仲良しだね、恋人同士かな?なんて。
私はその一言に妙に引っかかった。恋人・・・セイはユミとどうしたいのだろう。
恋人同士にでもなりたいというのだろうか。
同姓同士で恋人になっても、子供は作れないし不毛なだけなんじゃないのだろうか・・・。
「それは・・・言えないけど・・・でも、私本当に酷い事を・・・」
「じゃあ祥子はそれでここ最近元気が無かったのね」
「・・・そう・・・なのかしら・・・」
「そうなんじゃない?誰に何を言ったのかは知らないけど、少しでも悪い事をしたと思うなら早く謝った方がいいよ。
相手もきっと、苦しんでると思うし。何より祥子が・・・苦しいでしょ?」
「・・・ねぇ、令、女の子同士で恋人って・・・なれると・・・思う?」
私は一体何を言ってるのだろう。レイにこんなことを聞いてどうしようというのだろうか。
不意について出た私の言葉に、レイは案の定キョトンとしている。
「そうね・・・世間の目はやっぱり厳しいと思うけど・・・でも、私は別に構わないと思うよ?」
「ど、どうして!?だって、子供も出来ないし、結婚も出来ないじゃない!!」
違う。こんな事を言いたい訳じゃない!!それなのに、口が勝手に言葉を吐き出す。
「それは違うと思うよ、祥子。
子供が出来なくたって結婚出来なくたって、好きな人が傍に居るだけで幸せでしょ?
恋人って、好きだから一緒に居たいと思う人の事を言うんでしょ?
それならそんなもの関係ないと私は思うけど。女同士だろうが男同士だろうが、男女だろうが関係ないよ。
好きだから一緒に居る、その人と居ると幸せだから一緒に暮らす。そういうもんじゃないの?」
「・・・でも・・・世間の目とか・・・その、いろいろあるじゃない・・・」
そう・・・同性愛は世間体があまりよく無い・・・どうしたってそれは一つの事実なのだ。
だからこそ、あえて苦しむようなことをしなくても・・・そう思うのは間違っているだろうか?
私は一体どんな答えを望んでいるのだろう・・・。私は何故こんなにも苦しいのだろう・・・。
「まさか、祥子・・・そんな事誰かに言ったの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
コクリと頷く私を見て、レイは呆れたように微笑んだ。
そして、しょうがないな、とばかりに私の隣に腰を下ろす。
「世間の目とかさ、常識とかの立場で言えば、それは辛いと思うけど、でも、それは何も見えてないからそう思うんだよ。
本当にその人は辛そうだった?綺麗には・・・見えなかった?
祥子がどんなイメージを持ってるのかは知らないけど、私は応援したいな。その人を。
確かに茨の道ではあると思うけど、でもそんな茨よりももっと素晴らしいものが・・・きっと見えてるんだろうと思う。
私はちょっと羨ましいかな・・・そんな風に一生懸命恋愛する人が」
レイはそう言って私の手をギュっと握ってくれる。
「祥子・・・祥子は本当はそんな事思ってなかったんでしょ?
好きになる気持ちが理屈どうりにはならない事ぐらい、祥子だって分かってるんでしょ?」
「・・・・・・・・っく・・・・っう・・・・」
瞳から涙が溢れた。そうだ・・・私は知っている。どうしようもない気持ちを・・・止められない想いを・・・。
本当は分かっていた。セイもユミもそんな事など考えていない。
たまたま好きになったのが、同性だったというだけの事。その他になんの理由もない。
そんな事ぐらい分かっていたのに・・・結局私の汚い独占欲でユミを・・・セイを傷つけてしまった・・・。
好きになれば触れたいと思うなんてこと・・・当たり前なのに・・・どうして私はあんな事!!
全てをセイの所為にして、真実が見えないように蓋をして・・・。
何も解決なんてするはずもない。私はあの二人の事など、何も見ていなかった。
ユミはセイでなければいけない。そしてセイもまたユミでなければいけないのだ・・・。
そんな二人の想いを妨げるものなど・・・何一つ無いというのに。
「祥子・・・祥子もその人の事・・・すごく大事にしてるのはよく分かった。
でも、それが恋愛ではない事も、気づいてるよね?」
「・・・・・・・・・・・・・ええ・・・・・・・・今・・・気づいたわ・・・」
そう・・・今、気づいた。私とセイのユミに対する想いの違いが・・・。
どうしてユミがあんな風に言ったのかも、どうしてユミがあの時泣かなかったのかも・・・ようやくわかった。
だから私は・・・。
「ちゃんと・・・謝らなくてはね・・・二人に・・・」
「・・・そうね」
レイはそう言って小さい子供にそうするみたいに私の頭を、いいこいいこしてくれた。
「ありがとう・・・令・・・」
「どういたしまして。そろそろ帰ろうか」
「ええ・・・そうね」
窓の外にスズメはもう居なかった。きっと、仲良く家に帰ったのだろう・・・。
夕焼けが、紅く空を染めてゆく。
私はさっきゴミ箱に捨てたハンカチを拾って、軽く埃を落とすとそれを大事にポケットにしまった。
そして私はもう一つ、大切な事に気づく。今必要だったのは、きっとレイだったのだと言う事に。
未熟な魂は、辛さの数を数えるのだという。
私はずっと辛さばかりを数えてきた。
でも、今なら変われそうな気がする。
これからはきっと、幸せだけを数えて生きてゆく。