理性では分かってる。
頭では分かってる。
決してアナタを好きになってはいけない事を。
心は求めてる。
身体が求めてる。
決して好きになってはいけないアナタを・・・。
タイトなスカートから覗いた膝の上に、涙が一粒おちた。
涙は膝に当たった瞬間、弾けてただの水滴になり、雨と一緒に真っ黒のコンクリートに吸い込まれてしまった。
どれぐらいここでこんな風に蹲って泣いていたのかはわからないけれど、どうやら傘の意味などすでになさそうだった。
私は空を見上げ、大きく息を吸い込む。
ふと、私はいつかのセイの言葉を思い出す。
『雨ってさ、全部洗い流してくれるから、私は好きだなぁ』
あの時、私は何て言ったかしら?
確か、クルクル傘を回して遊ぶセイにただ、そう?と答えただけだったんじゃないだろうか。
・・・でも今なら解る。あの時、セイが何を言いたかったのか。私にどんな答えを求めていたのかを・・・。
私はセイが好きだ。でもセイは少しも私を見ようとはしない。どうしてだろう?私の何が・・・いけないのだろう・・・。
いくら考えても答えが出ないのは、まるで途方もない質問を突然つきつけてくる哲学にとてもよく似ている。
でも哲学なら皆で話しう事が出来る。でも心は・・・それが出来ない。
結局自分で考えるしかなくて、挙句の果てには妄想に近いような気さえする。
いや、それは哲学でも同じ事かもしれないけれど・・・。
実際は答えなんて無いのかもしれない。もしかすると案外簡単な事なのかもしれない。
誰かがある時、突然答えを出してくれる事だって・・・あるのかもしれないのだから。
ああ、そうか。だから私は誰かに言いたいんだ。この想いを・・・この感情を。
ただとにかく、もう全てをぶちまけて、楽になりたい。少しでも楽に・・・。
私はセイに一方的に告白をして、一方的に突き放した。今考えれば、なんて身勝手な事をしたのだろう。
セイは何も言わなかった。ただ私に謝っただけで、何も言わなかった・・・。
多分、最後のセイの言葉が、私にはお別れの言葉のように聞こえて。
『いらない。蓉子が持ってって』
そう言ったセイ。突然、傘と私が・・・重なった。いらないのは、傘?それとも・・・私?
私はもう一度空を見上げ、さっきよりもずっと大きく息を吸い込んだ。
「ほんとだわ・・・聖。世界が・・・ほんの少しだけ・・・綺麗に見える・・・」
「・・・何かいいものでも見つかった?」
突然視界がさえぎられた。私は驚いて後ろを振り返って声の主を確認する。
「・・・江利子・・・おどかさないでちょうだいよ・・・」
「ごめんごめん。ただ真剣に空見上げてるから邪魔しちゃ悪いかなって思ったのよ」
私はまだバクバクする心臓を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
長い間座っていたからだろうか、立った瞬間、ほんの少しよろけてしまう。
「ちょっと、大丈夫?蓉子・・・しっかりしてよ」
「ええ・・・大丈夫、ちょっとした立ちくらみだから・・・」
エリコに支えられるように私は心の中で何度も何度も呟いた。
大丈夫・・・私は大丈夫・・・と。
喫茶店に、こんなにもずぶ濡れで入るのは、かなり気が引けた。
けれど、エリコは半ば無理矢理私をここに引きずり込んだ。
『そのままじゃ風邪ひくでしょ』
決して強い口調ではなかったけれど、その言葉には妙に納得してしまう。
でも、心のどこかでは、このままいっそ風邪でも引いて寝込んでしまいたい、という希望もあった。
それを言うと、きっと怒られてしまうだろうけど・・・。
私はエリコに引きずられるままに、店の一番奥の席につく。
ずぶ濡れの私を心配したのか、マスターあ奥からやってきて、タオルとビニールシートを貸してくれた。
そんな何気ない優しさが、今の私にはホッとする。こんなにも何気ない優しさが・・・私には今とても有難い。
しかしエリコは・・・。
「・・・そんなにもイスが心配だったのかしら・・・」
エリコはそんな事を言いながら、私の下にビニールシートをしいてくれる。
エリコの言葉を聞いて、私はなるほど、と思ってしまった。
言葉の意味なんて・・・捉える人によっては、こんなにも違うんだな・・・なんて、思わず感心してしまう。
私とエリコ・・・そしてセイ・・・今迄仲良くやってこれたのは、
きっとこんな風に価値観が違うからなんだ、と改めて思った。
きっと、セイならまた違う見解を示すのだろう。不意にセイを思い出し、心はまたズキンと痛む。
「・・・聖・・・」
決して声に出したつもりは無かったけれど、思わずついて出た言葉は、やがてエリコの耳にも届いた。
「・・・蓉子・・・」
エリコはポツリとそう言って、俯く私の代わりに、暖かいココアを注文してくれた。
ココア・・・それはさっき私がセイに買ったものと同じ・・・。私はギュっと目を瞑り、また涙が出るのを必死に堪えた。
しばらくして、暖かいコーヒーとココアが運ばれてくる。
甘い匂いが鼻腔をくすぐって、気持ちがほんの少し落ち着くような気がした。
さっきのセイも・・・私のあげたココアに、こんな風に思ってくれたのだろうか・・・?
暖かくなる心・・・何かが溶かされるような・・・そんな気持ちに・・・。
エリコはしばらくコーヒーの中に渦巻くミルクをじっと見つめていたけれど、やがてコーヒーを一口すするなり、言った。
「さて、それじゃあ話、聞きましょうか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
私は全てをエリコに伝えた。出来るだけ心を震わせないようにしながら・・・。
ずっと、ずっとセイを好きだったこと。本当は一生打ち明ける気は無かった事。でも、そろそろ我慢の限界だった事。
今までセイの事を友達とは見ていなかったこと。そして・・・ついさっき、告白をして・・・お別れを言った事を・・・。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
黙り込む私とエリコ。エリコはまたコーヒーの中を覗き込んでいる。
まるで、その中に何かが詰まっているみたいに・・・。
改めて言葉に出してしまうと、何とも単純な出来事だった。
まるで一生分のエネルギーを使ったようにも思えたのに、話てしまえば一瞬で終わる。
あまりにもあっけない・・・何年間も築き上げたものが壊れる瞬間なんて、ほんの一瞬に過ぎないのだから。
決壊したものは二度と同じようには戻らない。前と同じものには・・・決してならない・・・。
深く抉るような痛みが胸を走る。死刑宣告を言い渡したのは私。それなのに、心はこんなにも苦しくてしょうがない。
そんな私にエリコは何も言わない。私も何も言わない・・・ただ時間だけが、規則正しく過ぎて行く。
先に口を開いたのは、エリコだった。
「・・・解らないわ・・・」
あまりにもあんまりな台詞だった。
私は多分、相当キョトンとしていたに違いない。
じっとコーヒーを見つめていたと思ったら、突然言い出した言葉が・・・わからないわ・・・。
エリコが何を言いたいのか・・・私の方こそ、分からなかった。
私の大好きな人と、大切な親友は、本当に訳がわからない。
あれこれ理屈で考える私と違って、二人はとても直感的で、鋭い。
「・・・どういう・・・意味?」
おずおずと質問する私に、エリコは頬杖をつきながらじっとこちらを見つめている。
私の目の奥の、何かを見透かすようにじっと・・・。
「どうして聖と友達には戻れないの?私にはそれが解らないのだけど・・・」
「・・・どうしてって・・・だって、私は振られたのよ・・・?」
「ええ、さっき聞いた。でも、振られたら友達で居られないなんて・・・誰が決めたの?聖?それとも蓉子?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
それは・・・私だ。私が勝手に突っ走っただけの事。ろくにセイの話も聞かず、ただ逃げてきた。
セイは言った。もう戻れないの?と。私は答えた。私に気を使うでしょ?と・・・。
でも、本当にそうだったのかしら。私はそう言って、ただ傷つくのが嫌で、セイから逃げたんじゃないだろうか・・・。
「蓉子・・・私は結果だけ言えば、貴方達が親友になろうが、恋人になろうが、永遠に離れようが、どうだっていいの。
だって、私は蓉子の親友であり、聖の親友でもあるのだから。
でもね、それは結果よ。物事には過程も大事だわ。貴方達、その過程をすっ飛ばして結果を急いだでしょう?」
「・・・そう・・・かもしれない・・・聖は・・・何も言わなかった・・・」
私はさっきの事をよく思い出そうとした。セイは・・・何と言っていた?
「過程を飛ばした結果なんて、本当の結果じゃないわ。仮縫いみたいに危なっかしい状態でしかない。
早く修繕しなきゃ、そこからどんどん糸はほつれてしまうわよ。
まぁ、もうこのまま終わってしまっても構わないのなら私は何も言わないけれど・・・それじゃあ私が・・・寂しいわ」
寂しいわ、と言ったエリコの表情は、とても穏やかだった。きっと、エリコには未来が見えているに違いない。
さっきコーヒーの中には、私達の未来が映っていたんだ、とさえ思ってしまいそうで。
セイは、何も言わなかった。私は本当に自分勝手に想いを伝えて、逃げてきた。
今、セイは何を思っているのだろう・・・たった独りぼっちで、一体何を考えているのだろう・・・。
私は何て事、してしまったんだろう・・・。
「私・・・本当は・・・せ・・・いと・・・ともだちで・・・いたかっ・・・ぅ・・・っく・・・」
そう・・・私は本当は、ずっとセイとエリコと友達で居たかった。セイを友達として見るよう、努力してきた。
それは、私が、セイが、築き上げてきたものだった・・・。
でも、想いは止められなかった。気持ちが溢れてしまった。だから・・・全て壊れてしまったと・・・思った。
セイの心には、もう住めない。セイに直接聞いた訳でもないのに、勝手にそう思ったのだ。
「ねえ、蓉子。好きな気持ちはどうしようもないものよ。
自分の気持ちをちゃんと打ち明けた蓉子は正しかったと思うわ。
まだ、蓉子が友達で居たいと願うのなら・・・そして聖もそう思っているのなら・・・。
きっと、前よりもずっと、いい関係になれる。
時間はかかるかもしれないけれど、きっといつか笑えるようになるから。
ちゃんと自分の心を見て、そして聖の心も・・・ね。・・・頑張ったわね、蓉子」
エリコはそう言ってコーヒーを一気に飲み干した。
私は、甘いココアを一気に飲み干す気には・・・いつまでもなれなかった。
何故だろう・・・心は少しづつ解けてきてるのに、どうしてだろう・・・心が・・・苦い。
エリコの言葉は、私を突き刺した。全身を駆け抜けて、一気に空へと舞い上がる。
私は・・・私達の未来は・・・どこへ繋がるのだろう・・・。
想いなんて、身勝手で、私はそれを知らなくて。
だからこそ、こんなにも苦しくて、仕方なくて。
でも、だからこそ、こんなにも愛しい・・・。