例えば、全てが終わる時、誰か私の傍に居てくれると思えたなら、
私はきっとこんなにも苦しくなかった。
でも、私には誰も居ない。
そんな人、誰一人居ないまま・・・きっと私は終わる。
教室の隅で、私は一人で泣いていた。自分で決断した事がから、誰にも文句は言えない。
誰かを責めても心は晴れそうにないし、何の解決にもならない。
どうして私はこんなことをしてしまったのだろう・・・。
今更だけれど、深く深く後悔している。
お姉さまにも、セイにも親友にも皆にも真実を隠して・・・私は一体何をやっているのだろう・・・。
シマコに聞かれた時、私は一生愛する自信がないから、と告げた。
でも、あれは結局逃げにすぎない。そう言って、私は自分を守ったのだ・・・。
醜い心・・・いつだってそう・・・真実から目を逸らして逃げてしまう。
お姉さまの時はあんなにも素直に正面からぶつかっていけたのに、
どうしてセイにはそれが出来なかったのだろう・・・。
・・・多分・・・怖かったのだ。
セイが居なくなる事が・・・。友情すらも壊してしまうのが・・・。
でも、どっちみちきっと、我慢出来なくなっていただろうと思う・・・このままいけば・・・きっと。
そして結局・・・友情すらも壊していたに違いない・・・。
もしセイが、他の誰を好きでも構わない。幸せになってくれればそれでいい。
なんて、そんな風に思えるほど私は大人じゃない。
そんな風に逃げる事など・・・きっと出来ない。
「かといって・・・ぶつかる事も出来ないんじゃない・・・」
ボソっと言った言葉が、四角い箱庭みたいな教室の中に響く。
教室にはいろんな人のいろんな感情が混じっていて、私の感情ぐらい簡単に飲み込んでくれる。
お姉さまが卒業して、私は薔薇様になるかもしれない。
その時になれば、何か変わるだろうか・・・少しは強くなれるだろうか・・・?
こんなことなら・・・こんな事なら、山百合会になんて入らなければ良かった・・・。
あの時、セイに言われた賭けなど承諾しなければ良かった・・・。
嗚咽とともに溢れ出す涙の粒が、教室の床にポトリと落ちてジンワリと広がる。
瞳をつぶれば、耳元でセイの声が聞こえるような気がする。
『ゆ〜みちゃんっ』
なんて、弾んだ声で私を呼んで、その後必ず抱きついてきて・・・。
驚きと恥ずかしさ・・・甘酸っぱい胸の痛み・・・鮮明に思い出せる笑顔・・・。
どこを切り取っても、私が好きな人はセイしか居ない。お姉さまに対する感情とは全く違う所で、セイが好き。
唇をギュっと噛むと、ほんの少し血の味がした。
どうしてセイなんだろう・・・何がひっかかるんだろう・・・。
小さい頃描いていた将来の夢は、月並みだけれど、お嫁さんだった。
まぁ、花屋さんとかもあったけれど・・・一番叶えられそうなのは・・・今も昔も変わらない。
普通に学校を卒業して、普通に働いて、社内恋愛か何かをして、素敵な人を見つけて・・・。
ただ漠然とそんな風に思っていたけれど・・・いつから私はこんな茨の道を進んでいたのだろう。
足元には道がなく、トゲばかりがそこら中に食い込んで・・・。
光も何も無い手探りで進むしかないような道を、私はいつから歩み始めたのだろう・・・。
男の人が嫌いな訳じゃないけれど、今はセイ以外には考えられない自分。
誰ともお付き合いした事なんてないけれど、もしも恋で傷つくならセイがいい。
でも、もう一人の私が心の中でその考えにストップをかける。
理性というものが、私の行動を制限して動けなくなってしまう。
二人の私が心の葛藤を育ててゆく・・・。
間に挟まれた私は、ただなす術もなくこうやって泣き続けるしかなくて・・・。
ガラ・・・っと教室の扉が開く音がした。私は慌てて零れる涙を拭ってゆっくりと振り返る。
「祐巳さん・・・大丈夫?」
「・・・由・・・乃さん・・・?」
声の主は、ヨシノ。心配そうな顔でこちらをじっと見ている。
どうやら近寄って慰めようかどうしようか悩んでいるらしい。いつもイケイケなヨシノにしては・・・珍しい。
「大丈夫だよ・・・ちょっとだけね、胸が苦しくて・・・」
そう言って無理に微笑もうとする私にヨシノは駆け寄ってきて強く抱きしめてくれた。
「ばか・・・無理してるでしょ?」
そう言うヨシノの声こそ震えていて、なんだかかえって申し訳ない気持ちになってしまう。
「ありがとう、由乃さん」
私はズズっと鼻をすすって、ヨシノに体を預けた。心地よい人の体温・・・ほのかに香るのはフローラル。
そういえば、セイは爽やかなミントの香りがしたっけ・・・あれは今でも変わらないのかな・・・。
何をしてても、誰と居ても、全てがセイに繋がって・・・私はいつも飛び損なう。
セイを忘れようと羽ばたいても、すんでのところで何かが私を止める。
ああ・・・私はいつからこんなにも・・・セイの事が好きだったんだろう・・・。
フッと目を細める私に、ヨシノがほんの少し驚いたように目を丸くした。
「どうしたの?何かいいことでも思い出した?」
「ううん・・・ちょっとね、考え事」
そう言って私はヨシノからそっと体を離し、もっていたティッシュで鼻をかむ。
「ねぇ、祐巳さん・・・ほんとのところ、あの噂って何だったの?」
「・・・どういう意味?」
「別に祐巳さんを疑う訳じゃないけれど・・・でもほら、火の無いところに煙は立たないと思うの」
ヨシノの猫みたいなまっすぐな瞳が、私の心をじっと見つめる・・・。私はヨシノからフイと視線を外す。
「べ、別に・・・本当に何もないの。
確かに聖さまと偶然バッタリ会う事とかはあったけど・・・本当にそれ以外何もなくて・・・」
しどろもどろになる私の言葉を、ヨシノが本当はどう思ったのかは分からなかった。
でも、ヨシノはそれ以上セイとの事を聞こうとはしなかった。
「でもさー、本当にビックリしたよ〜!まさか祐巳さんと聖さまが噂になるなんて思ってもみなかったもん。
確かに祐巳さんは聖さまのお気に入りだったかもしれないけどさー。
だからってそこだけとってくっつけようとするのは、ちょっと強引すぎるよね〜。
そもそも姉妹でもなんでもないのにさ」
「・・・そう・・・だね」
私は下唇をギュっと噛んだ。
まるでヨシノに釘をさされたみたいだった。貴方達は姉妹じゃないんだよ、と・・・それは間違ってるよ・・・と。
「それにさー、あんな事書いたら祥子様が可哀想じゃない。あんなにも祐巳さんの事好きなのにさー」
「でも・・・お姉さまは私の事・・・多分妹として・・・見てるんじゃないかな・・・」
私は何かに縋りつくみたいに、オドオドとそう言う。
するとヨシノは、一瞬目を見張ったけれどやがてケラケラと笑い出した。
「そりゃそうでしょ!それ以外にどう見るのよ、もう、祐巳さんてばー!」
「で、でも・・・姉妹愛と恋愛は違うでしょ!?」
自分でもよく分からない。何が違うの?って言われたら上手く説明できないけれど・・・確かに違う。
「そうかな〜?どちらも好きには違いないじゃない。祐巳さん難しく考えすぎだよ。
私は令ちゃんの事大好きだよ?だから姉妹になったんだし、これからもずっと一緒。何か間違ってる?」
「間違ってなんか・・・。でも・・・じゃあ由乃さんは令様と・・・その・・・キスとかしたいと・・・思う・・・?」
・・・私は一体何を考えているのだろう・・・。こんな事を聞いてどうしようというのか。
私の質問に、ヨシノは案の定キョトンとしてこちらを見ている。
「あっ!う、ううん、やっぱりいい!!なんでも無いの!!!」
私はそう言って顔を真っ赤にして大きく首を振って見せた。
でも、ヨシノはそんな私を無視して話し始める。
「私の場合・・・キスしたいっていうか、赤ちゃんの頃からずっと一緒だから、
そういう祐巳さんみたいに初々しい感情って既に無いわ。ごめんね、祐巳さん。参考にならなくて。
でも・・・そっか・・・祐巳さん祥子様とキスとかしたいの?」
「えっ!?う、ううん!!祥子様はそのっ!!憧れっていうか、そういうんじゃなくてっ!!!」
「・・・じゃあ祐巳さん・・・誰としたいの・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
誰としたいの?そう聞かれて、私は即答できなかった。
お姉さまではない、と言い切れるのに、セイとしたいとは言い切れない自分。
自分の中では答えがハッキリと出ているのに、どうしてその一言が出ないのだろう・・・。
黙り込んだ私を、ヨシノが怖い顔をしてみている。
ヨシノには悪いけれど、私とお姉さまの間には恋愛感情なって一つもなくて、ただそこには純粋な姉妹愛しかなくて・・・。
でも、それをどう言えばいいのかが分からない。
「祐巳さん・・・まさか、祥子様を裏切るつもりじゃ・・・ないわよね・・・?」
「・・・そんな事・・・お姉さまは・・・ずっと私のお姉さまだよ・・・」
裏切る・・・やっぱりそうなってしまうんだろうか・・・?
姉妹以外の人を好きになったりしては・・・いけないのだろうか・・・?
私の中でまた一つ矛盾が増える。
お姉さまと誓いを交わしたのは、ただ純粋にお姉さまに憧れていたから。
憧れと恋愛は違う。でも、それは・・・間違っているのだろうか・・・。
それとも・・・そもそも同性同士だから・・・いけないのだろうか・・・。
もう、どうすればいいのか分からない。答えなど・・・見つからない。
私の中の葛藤がどんどん膨らむ。もう、元には戻れない・・・きっと。
どうすれば楽になるのか・・・どうすれば心が救われるのか・・・もう、わからない。
「ねえ由乃さん・・・どうしてこんなにも・・・心が苦しいんだろう・・・」
私は誰かに縋りつきたかったのかもしれない・・・望んでいた答えが・・・欲しかったのかも・・・しれない。
私の問いにヨシノは、少し考えるような仕草をして、言った。
「それは・・・生きてるからじゃない?」
・・・と。
そう、私は生きてる。ここに、こうして蹲って小さくなって、ずっとここに居る。
誰かがこの硬い殻を突き破ってくれるのを・・・私はずっと待っているだけ。
自分から動く事が出来ず、誰かが手を差し伸べてくれるのを、ずっとただ待っていて・・・。
痛さとか、醜さとか、葛藤とかが渦巻く小さな殻の中で、私は独りぼっち。
それでも私は・・・ここで息をしてる・・・。セイやお姉さまの事を想いながら・・・。
恋愛を知ると、人は綺麗になるだなんて・・・そんなのは嘘だと思った。
だって、私はこんなにも醜くて汚い。
いつまでも逃げ続けて・・・ここからどこへ行くというのだろう・・・。
理性では分かってる。
頭では分かってる。
決してアナタを好きになってはいけない事を。
心は求めてる。
身体が求めてる。
決して好きになってはいけないアナタを・・・。