汚い私。
こんなにも汚れて・・・。
私に未来なんて・・・あるんだろうか。
リリアンかわら版が出回ってからどれぐらいの時間が経ったのだろう・・・。
私はそんな事もわからないぐらい、落ち込んでいたし、気分も滅入っていた。
お姉さまにもちゃんと伝えなければならないのに、どう伝えればいいのかわからない。
昨日、薔薇の館でお姉さまは私に、多分セイの事を聞こうとしたんだと思う。
でも、それを途中で止めてしまったのは、きっと私が許せないから・・・。
きっとこんな私はお姉さまに嫌われてしまう。解ってるのに、思い出すのはセイの顔ばかり。
どうしてこんなにも苦しいのか・・・どうしてこんなにも辛いのか。
その答えなんて、本当は自分でもよく解ってる。お姉さまを裏切ったと思われてもしょうがない事など・・・。
実際、私は裏切ったのかもしれない・・・いや、それはどうだろう。
本当は初めからお姉さまはただの憧れだった・・・それは恋心なんかでは無かった・・・。
でもそれをどうやってお姉さまに伝えればいいのかが解らない。
「・・・私・・・お姉さまに嫌われちゃうのかな・・・」
ポツリと言った言葉は、どうやら隣でお茶を飲んでいるお姉さまには幸いにも聞こえてはいなかったらしい。
「祐巳さん、元気だして!!皆分かってるよ、祐巳さんが好きなのは紅薔薇様しか居ないって事ぐらい!!」
そう言って私に紅茶のおかわりを淹れてくれたのは、いつも元気なヨシノだった。
そんなヨシノとは裏腹に、シマコは何故か哀しそうな顔でこちらを見ている。
「志摩子・・・さん?どうかしたの?」
出来るだけ優しく言ったつもりだったけれど、私の言葉を聞くなり、突然シマコは薔薇の館を飛び出してしまった。
シマコの後を追うようにノリコがこちらにペコリとお辞儀をして、部屋を出て行く・・・。
「志摩子さんもショックよね・・・大切なお姉さまがこんな噂立てられたんだもの・・・」
「・・・うん・・・」
ヨシノの話にとりあえず相槌を打っては見たけれど、本当にシマコはそう思っているのだろうか?
多分・・・もっと別な意味でこの部屋を出たんじゃ・・・ないのかな・・・。
そしてきっと・・・私の想いにも・・・気づいてるような・・・そんな気がしてならなかった。
お姉さまも本当は解っているのだと思う。私は、それほどセイの事が・・・大切で失いたくなかった・・・。
一体どうすればいいの?セイは大切だけれど、セイは私を見てなどいない。
何よりも今回の事でショックだったのは、セイが好きな相手がスグルだと言う事だった。
別にセイが誰を好きでも、私には何も言えないのは解ってるけれど、でも、ほんの少しだけ・・・期待をしていた。
心のどこかで、セイは私が好きなんだろうと・・・思っていた。そんな風に一瞬でも考えた自分が、とても浅ましくて醜い。
そして気がつけばセイの事しか考えられなくなっていた自分が・・・酷く滑稽で・・・。
でも、私には答えなど出せない・・・。
今全校生徒の目の前でお姉さまを裏切る事が出来るほど・・・私は強くない。
それに、こんな気持ちをセイにぶつけて、一生の親友をなくすぐらいなら・・・黙っていた方がいい。
このままで・・・いい。
「祐巳、大丈夫?」
「・・・はい、お姉さま・・・」
自分でも気づかないうちに流れ出す大粒の涙。
お姉さまが心配そうに私の肩を抱いてくれるけれど、その手は氷のように冷たく、私の心に突き刺さった。
どうしてこんな事になってしまったのか、いつからこんな道を歩いていたのか・・・もう、解らない。
お姉さまに支えられるように薔薇の館を出て、マリア様の前で記事の弁解をする。
そう決めたのは私だったのに・・・どうしてだろう・・・今になって、気持ちが揺らぐ。
セイへの想いに蓋をすると、そう決めたのに・・・そんな事がこんなにも怖い事だったなんて・・・思ってもみなかった。
昨日一晩中考えて、それを決めたのは私なのに!
もう、後少しでマリア様の前にたどり着く。と、そのとき、突然誰かが私の手を握った。シマコだ。
シマコのどこにこんな力があるのだろう?というぐらい強く強く握られた手・・・とても痛い。
「祐巳さん!ちょっと・・・」
シマコはそう言って私の手を引っ張って銀杏並木の中へと走ってゆく。
そして、皆が見えなくなった辺りまで来ると、ようやくシマコ小さな声で呟いた。
「本当に・・・本当にいいの!?ねぇ、これでいいの?」
微かに震えた声が、私の胸の中に染み付いて離れない。
「・・・志摩子さん・・・」
「だって・・・だって・・・祐巳さんは・・・お姉さまの事・・・本当は・・・」
シマコはそこまで言うと、そっと私の手を離した。きっとシマコは私の気持ちを知ってる。
どれほどまでに、私がセイの事を愛しているのかを・・・。でも・・・。
「ありがとう、志摩子さん・・・でも、私聖さまに迷惑かけたくない。それに、お姉さまにも・・・皆にも」
そして・・・自分をこれ以上惨めにしたくは・・・ないんだ・・・。
「そんなっ!!迷惑なんて!!!祐巳さん、間違ってる・・・そんな偽りの心なんて・・・私、欲しくない」
か弱いシマコの肩を、スッと抱いたのはノリコだった。そんな二人を見て、思う。
ああ、私にも、こんなにも真っ直ぐセイの事を見る事が出来ればいいのに・・・と。
「祐巳さま、私は祐巳さまの判断、正しいと思いますよ」
「乃梨子っ!?」
「だって、そうでしょう?祐巳さまはまだ迷ってる。
だからこそ聖さまにも紅薔薇様にも迷惑がかかると、そう思ったんでしょう?」
「・・・乃梨子ちゃん・・・」
この子は本当に勘がいい。そう、私はまだ迷ってる。
お姉さまの妹を止める覚悟ならとっくに出来てる。セイに告白して、玉砕するのも全然構わない。
けれど・・・それをして、私は平気だろうか?セイへの気持ち・・・これは本当に恋なのだろうか・・・?
それが解らない。こんな半端な気持ちでセイに告白をしても、きっとセイは喜ばない。
お姉さまだってそう。今私が迷ってる事をきっと知ってるだろうから・・・だから何も言わないんだと思う。
もし私がお姉さまを裏切る事があるのなら・・・それはセイと一生幸せになる、という確かな確信がなければ。
でないと、お姉さまは・・・きっと悲しんでしまうから・・・。
「・・・祐巳さん・・・そうなの・・・?」
「うん。乃梨子ちゃんは凄いね、私にすら解らなかった事なのに・・・」
「いつだって自分が一番見えないものですよ」
「そう・・・うん、そうかもね。志摩子さん、私、確かに聖さまの事好きだよ。
でもね、この気持ちが本当に一生続くのかどうかが・・・解らないんだ・・・」
「でも!恋愛なんてそういうものでしょう?一つの恋が一生続くとは限らない」
「うん、分かってる。でもね、出来るなら一生想いが続くだろうな、って思えるほどの人と、私は一緒になりたいよ。
それは・・・わがままって事も分かってるんだけど・・・本当はもっとちゃんとこの想いを見つめ直したかったんだけど。
ほら、今回こんな事になっちゃって・・・だから・・・私、どうしたらいいか・・・わかっ・・・ない・・・」
最後の方はちゃんと言えなかった。
頭の中で考えてた事を実際に口に出すって、こんなにも辛いんだってようやく解った。
本当はセイの事も、お姉さまの事も、もっとちゃんと考えたかった・・・それなのに・・・。
私の不注意で・・・ちょっとしたハズミで出た言葉がこんな事態を招いてしまって、もう取り返しもつかなくなっていた。
河の上流に居た私は、知らぬ間に随分と流されていて、もう岸など見えない。
泳いでも泳いでも誰も助けてはくれないし、流れが自然に止まることなどない。
だから・・・私は自分でこの河の流れを止めるしかないんだと思った。
それがたとえ、大きなモノを失う結果になったとしても・・・。
「・・・それじゃあ・・・そろそろ行くね」
「祐巳さん・・・私・・・どんな結果になっても・・・祐巳さんとはずっと親友だから・・・それは、忘れないで」
シマコの大きな瞳に涙が浮かぶ。長い睫毛に水滴が光って、とても綺麗だった・・・。
「・・・ありがとう・・・志摩子さん・・・」
私は独りじゃない。いつだって応援してくれる仲間が・・・ちゃんとここに居る。
そう思うとほんの少しだけ、心が軽くなったような・・・そんな気がした。
「えー、それでは、これから紅薔薇の蕾から今回の件について、詳しい説明をしてもらいます。
それじゃあ祐巳ちゃんお願い」
レイはそう言って私にマイクを差し出した。肩に乗せられたお姉さまの手は、相変わらず冷たい。
「あ・・・はい・・・」
足が震える。頭が痛い。胃のあたりがグルグル回ってるみたいに気分まで悪くなってくる。
それでも、ちゃんと言わなければならない。本当の気持ちを伝える事は出来ないけれど・・・。
「えっと・・・まず初めに、今回の事で、私はお姉さまや皆様に本当に迷惑をかけてしまったことを、
深くお詫びいたします。
そして、新聞部の内容については、全てが事実とは異なったもので、
私の意志とは全く違ったものだと言う事を先にお知らせします。
後にも先にも、私が佐藤聖さまの事を好きだなんて言った事は無いですし、どこから出た噂なのかは分かりませんが、
こんな噂が流れると、きっと聖さまにもご迷惑がかかるでしょう。
ですから、この件は私の言葉が真実で、リリアンかわら版に書いていた事は全く事実とは違うということを・・・、
どうか皆さん、分かってください。お騒がせして・・・本当に申し訳ありませんでした・・・」
言い終えて、私は頭を下げる。
涙が溢れる。
『・・・マリア様、ごめんなさい・・・嘘をついてごめんなさい・・・本当は私、聖さまの事・・・』
心の中で、皆に伝える事の無い言葉をずっと呟いていた。
自分の気持ちを偽る事は大嫌いだったはずなのに・・・どうして私こんな事言ってしまったんだろう・・・。
今になっても後悔しても仕方の無いことなのに、涙がとめどなく溢れてくる。
マリア様の前で嘘をついた罪悪感と、セイへの想いが壊れた瞬間、
私はもう自力でそこに立っていることは出来なかった。
お姉さまに支えられ、台から降りた私の耳元で、お姉さまがそっと呟く。
「祐巳、話があるの」
と。
私はただ頷いて、そのままお姉さまに抱きかかえられるようにその場を後にした。
理由の分からない拍手だけが、後から後からずっと・・・今もついてくる・・・。
本当はあなたに伝えたい事、沢山あるんです。
学校の事とか、友達の事、
そんな事ではなくて、もっともっと・・・大切な事を・・・。
どうしてもあなたに、伝えたかったんです・・・。
でも、ごめんなさい・・・もう、伝えられそうにありません。