強くなりたいと願えば願うほど、
人は自分の弱さを思い知る。
その弱さに鍵をかけ、気づかないふりをしていれば、
どれほどまでに楽だろう。
いつまでもその弱さの中に身体を預けていられれば、
どれほどまでに幸せだったろう・・・。
運命の水曜日。
そんな風に大袈裟に言ってしまえば、一体どんな事なんだろう?って皆期待するかもしれないけれど、
あんな事は実際にはよくある話で、想いのすれ違いなんて日常生活にはつきもので。
だから泣いたりしない。問い詰めたりしない。
また一人、大切な人を失ったからと言って・・・私はもう、壊れたりなんかしないから・・・。
でも、今日だけは、今日だけはどうか1人にさせて・・・誰も私に構わないで・・・。
なんとなく足が向いた。ただそれだけの事なのに、どうしてこんなにも後悔しているんだろう。
銀杏王子と話して得た結果、私に絶対的に足りないものは、本当の心を愛してもらう勇気。
私は授業をサボってそんな事を考えながら歩いていた。
ふと気がつけば、高校の校舎が目の前にある。
「会いたいのかな・・・それとも会いたくないのかな・・・」
懐かしい校舎を見上げてポツリと言った言葉は、すぐに数人の生徒の声に掻き消された。
「これから始まるらしいよ!!祐巳さまの弁解!!」
「早く行かなきゃ!!肝心な事聞きそびれちゃうっ!!」
・・・・・・・・・・・・・・。
今、何て言った?ユミの弁解???一体何の事だろう。
私は誰にも見つからないように銀杏並木の間をくぐって、マリア様の前にぞろぞろと集まる集団に目を向けた。
人だかりが出来ていて、ここからではよく見えないけれど、遠目でも分かる。
台の中央に立っているのは間違いなくユミで、その隣にはユミを支えるように立っているサチコの姿。
「・・・これから何が始まるの・・・」
そう思った矢先、突然姿は見えないけれど、レイの声が聞こえた。
多分、山百合メンバーは皆あの台の下らへんに居るのだろう。
「えー、それでは、これから紅薔薇の蕾から今回の件について、詳しい説明をしてもらいます。それじゃあ祐巳ちゃんお願い」
「あ・・・はい・・・」
そんなに会っていなかったわけではないのに、何かが胸の底から込み上げてきて、気持ちが悪くなる。
声を聞いただけでこんな気持ちになって、こんなにも遠くからなのにユミに元気が無いのが分かる。
どうやらユミレーダーはまだ健在のようだけれど、何をそんなに思い詰めた顔をしているのかがわからない。
「えっと・・・まず初めに、今回の事で、私はお姉さまや皆様に本当に迷惑をかけてしまったことを、深くお詫びいたします。
そして、新聞部の内容については、全てが事実とは異なったもので、
私の意志とは全く違ったものだと言う事を先にお知らせします。
後にも先にも、私が佐藤聖さまの事を好きだなんて言った事は無いですし、どこから出た噂なのかは分かりませんが、
こんな噂が流れると、きっと聖さまにもご迷惑がかかるでしょう。
ですから、この件は私の言葉が真実で、リリアンかわら版に書いていた事は全く事実とは違うということを・・・どうか皆さん、
分かってください。お騒がせして・・・本当に申し訳ありませんでした・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
頭が真っ白になって、私はその場に立ち尽くすしかなかった・・・。
ユミの言葉を聞いて、チラホラと拍手があがる。でも、その拍手は一体なんの拍手なのだろう?
頑張ったユミへの拍手なのだろうか?それとも、ユミが好きな相手が私では無かった事への安堵の拍手なのだろうか・・・。
不思議と涙は出ない。
どんな新聞が出回ったのかは知らないが、こんな風に当事者では無い人間達にメチャクチャにされてしまった想いは、
一体どうすればいいというのだろう。
行き場のない怒りとか、憎しみが、誰にともいえず込み上げてくる・・・。
黒灰色の汚い感情が私を、足の爪の先からジワジワと全身を蝕んで、やがて全身を覆う。
「こんな所で何をしてらっしゃるんですか?」
突然の声に、私は思わずビクンと体を震わせた。
ゆっくりと振り返ると、そこには背後霊ちゃんと、あの時、サチコの隣を歩いていたドリルちゃんの姿。
「何もしてないよ、ただ、今私が出てったら間違いなくパニックになるでしょ?」
いつもの調子を装ってそんな風に言ってみるけれど、きっと私をよく知る友人達には分かってしまうだろう。
今の私がどれほど無理をしているのかが・・・そんな事に自分でも気づくぐらい、今、心は弱っている。
「そうですね、その通りですわ。流石、元白薔薇様ですわね」
そう言ってフフンと鼻で笑うドリルを、背後霊が制した。
「今の・・・聞いてたんですか」
「うん、聞いてたよ。
一体どんな新聞が出回ったのか知らないけれど、祐巳ちゃんにとっても私にとっても、いい迷惑だよね。
これじゃあいつもみたいにうかうか抱きつけないじゃない」
とんでもない事を言ってると自分でも思う。でも、これ以上ユミに迷惑はかけられない。
そして、何よりも自分の想いがこれ以上ズタズタにされるのは・・・もう嫌だった・・・。
「本当ですわ!聖さま以上に祐巳さまに迷惑がかかってますもの。見ました?あの祐巳さまの顔。
あんなにも祥子お姉さまの事を想ってらっしゃる方が、どうしてこんな噂なんて立てられなければならないのかしら」
ドリルはそう言って、既に居なくなっているユミに視線を向ける。
分かってる、そんな事言われなくても、十分に分かっている。
ユミにはサチコが居て、それが一番自然だって事ぐらい・・・私にだって、分かってる。痛いぐらいに。
「あの・・・こんな事もあったので、聖さまはもう祐巳さまには・・・その」
背後霊がそんな事をいう。隣でドリルも頷いている。
何を言いたいのか大体分かる・・・そしてそれを理解した瞬間、私はもう仮面をつけられなくなっていた。
昔の・・・とっくに封印した私が、目を覚まし、少女達に牙をむく・・・。
「もう、何?もう会うなって?」
私の声に、少女達はビクンと体を強張らせ、こちらを見ている。とても不安げに。
「そ、そうです!!せめて祥子お姉さまがご卒業されるまでは・・・」
さっきまでのドリルの威勢が、今はもう無い。
多分この子は私への牽制のつもりだったのかもしれないけれど、私はそんなに甘く・・・ない。
「卒業したら何が変わるの?誰かの想いが変わるの?」
「い、いえそういう意味ではなくて・・・これ以上祐巳さまを苦しめるのはどうか・・・と」
「誰が苦しめてるか、貴方達ちゃんと解ってる?私にしても祐巳ちゃんにしても、貴方達皆に苦しめられてるのよ。
誰かの心の中に、土足で入り込んで覗き見してるのは・・・貴方達でしょ」
自分が被害者だとは思わない。むしろユミを苦しめているのは、私だって同じなのだから。
でも、どうして誰もそっとしておいてくれないのだろう・・・私はこんな結末を待ってた訳じゃない。
自分で動きたかった・・・今度こそはそう、決めたのに。
「そ、それは・・・」
「私は別に構わないよ、いくら言われても。ただ、これ以上祐巳ちゃんを苦しめるのなら・・・誰であったも容赦しない。
それともう一つ、誰かの心なんて、そう簡単に見えやしない。
今さっき祐巳ちゃんが流した涙の理由なんて、祐巳ちゃんにしか解らないんだから。
私にも、貴方達にも、祥子にすら、ね。
それが心というものよ、どんなに理解したtるもりで居てもそれはただの自己満足でしかない。
嘘なんていくらでも言えるのよ、人はね。よく覚えておきなさい」
それだけ言って私はそこを立ち去った。足早に校舎の裏をすり抜け、あの温室に・・・。
誰も居ないはずなのに、温室には二つの人影。
一つが一つを抱きしめるように寄り添っていて、それがサチコとユミだと言う事に気づくのに、そう時間はかからなかった。
とてもとても愛しそうにユミの頭を撫でるサチコ。二人の間に割り込む隙間なんて、これっぽっちもない。
思えば私は一体ユミに何をしてやれただろう。
相談役としていつもユミを見てきたけれど、それはいつもサチコとの間を取り持っただけではないか。
「・・・そうだ・・・私は・・・結局何も出来なかった・・・あの時と同じ、何も・・・何も・・・」
幸せそうに重なる二つの影・・・私はただそれを見つめる事しか・・・出来なかった。
聞きたくなかった言葉とか、見たくなかった光景とか・・・沢山ありすぎて、もうどうしていいのかわからない。
足の先から冷たくなって、やがて凍りついたようにその場から動けなくなって・・・。
全てこのまま終わってしまえばいい。何もかも無くなればいい。
・・・いや、無くなればいいのは私か。
「はは・・・こんな終わり方・・・一番したくなかったのにな・・・」
ポツリと、血の気を失った手のひらに雨が落ちる。冷たい・・・頬を伝う涙はこんなにも暖かいのに。
いつの間にか溢れ出していた涙は、後から後からとめどなく流れてくる。
心の中をこんなにもグチャグチャにされて、それでも立っていなければならなくて・・・。
好きな子に直接傷つけられるなら、こんなにも痛くなかった。こんなにも、こんなにも・・・苦しくなかった。
灰色の空が、ちぎれた雲が、冷たい雨が、私の心をこんなにも、汚す。
汚い私。
こんなにも汚れて・・・。
私に未来なんて・・・あるんだろうか。