捨て去ってもいい思い出など、どこにもない。


全ての事を記憶出来るほどの脳と身体が、


生まれて初めて、今欲しいと思った。


どれほどそれが、辛い事でも・・・。






日は傾き辺りはオレンジ色に染まっていた。秘湯から出た二人は体をうんと伸ばし伸びをする。

狭い湯船の中で、縮こまって入っていたせいだろうか。体中のあちこちから、ギシギシと音がしそうなほどだ。

とりあえず2人は一旦宿に帰り、今日は地元のお店で晩御飯を食べる、と決めた。

「明日はさぁ、あれに乗ろうよ!」

セイは宿までの帰り道、丘の上にある大きな何かを指差した。

「なんですか?あれ」

セイの指差した先を眺めると、何か大きな丸い物が空にポッカリと浮かんでいる。

遠めでもその大きさがわかるぐらい、何か大きい物なんだろうけれど、それが何かまではわからない。

「気球なんだってさ。名物らしいよ」

セイはそう言って、隣で自分の肩を抱きしめながら震えているユミに自分のジャケットをかける。

するとユミはクルリとこちらを見上げ、えへへ、と照れたように笑ってくれた。

そろそろ暖かくなってきたとはいえ、まだ五月。しかもあんなにも狭いお風呂だったものだから、そりゃ湯冷めもするだろう。

そういうセイも、クチュン、と小さなクシャミをして、ユミに笑われた。

「聖さまも寒いんじゃないですか!いいですよ、ジャケットお返しします」

ズズ、と鼻をすするセイに、ユミはジャケットを返そうとしたが、セイにそれは拒まれてしまう。

セイ曰く、寒いわけではないらしい。でも、クシャミは出る。アレルギーかな?などとのんきな事を言うセイに、

ユミはポケットティッシュを手渡した。

「はい聖さま、せめてコレ、使ってください」

「ん、ありがと」

ユミに手渡されたティッシュを一枚つかみ、チーンと鼻をかむ。

あんまりこういう所は見られたくないんだけどな・・・セイはそう思いつつ横目でチラリとユミを見た。

でも、ユミは首を傾げながら笑顔でこちらを見ているところを見ると、どうやらユミは何も気にしていないらしい。

鼻をかんで少し気分はスッキリして、ティッシュをユミに返し、手を繋いだ。

寒い、と言ってただけあって、ユミの手はひんやりと気持ちいい。

「大丈夫?祐巳ちゃんこそ風邪引いたんじゃないの?」

「いえ、ただの冷え性なんだと思います。聖さまの手、あったかいですね」

「そう?普通じゃない?祐巳ちゃんの手がつめたすぎるんだよ」

セイはそう言って、セイの手を気持ち良さそうに頬に当てているユミに苦笑いをこぼした。

手の平からユミの熱が直に伝わってくる・・・大した事ではないのだけれど、妙にドキドキする。

自分から触れる時はこんなにもドキドキしないのに・・・。

そしてセイは笑う。あまりにも自分に正直な心臓と、あまりにも簡単な思考に。

些細すぎる・・・見落としてしまいそうなほどの小さな事にでも、セイの心はこんなにも揺れる・・・。



旅館について鍵をもらって、部屋に帰ろうするとカウンターのところで仲居さんに止められた。

「あの・・・佐藤さま・・・ですよね?」

と。

何だろう?と思いながらもセイはコクリと頷くと、隣でユミも同じように頷いたのでセイは思わず笑ってしまう。

「こらこら、君は佐藤さんじゃないでしょう?」

「え・・・あっ!つ、つい・・・あはは」

ユミは顔を真っ赤にしてセイから鍵を奪い取ると、クスクスと笑う仲居さんの横をすり抜けてその場を後にした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

ユミは部屋に帰るなり、セイの大きめのジャケットを脱いで畳の上に寝転がると、大きな伸びをする。

「あぁ〜・・・やっぱり日本人は畳よね〜」

ゴロゴロと畳の上を転がって井草の匂いとか、肌触りを堪能していた所為で、

セイが部屋に帰って来ていた事に全く気付かなかった。

「ごめんね、ウチはフローリングで」

「ひゃあっ!?い、居たんですか!?」

「うん。さっきから居たんだけどね」

セイはそう言ってユミに下で買ってきた暖かいミルクティーを手渡すと、ユミの隣に腰を下ろす。

「あ、ありがとうございます。・・・で、何だったんです?さっきの・・・」

「ん?ああ・・・いや、大した事じゃないよ」

セイは怪訝そうな顔をするユミには見えないよう、ポケットにしまった紙切れを押さえる。

「・・・本当に何でもない?何か隠してません?」

「い、いや、祐巳ちゃんは聞かないほうが・・・いいと思うけど」

すでに何か変な事考えてるんだろうなぁ、とは思うのだけれど、コレを見せたらきっとユミは・・・。

しかし、セイがそう言ったのを聞いてユミの表情がコロコロと変わりだした。

「・・・まさか・・・う、浮気・・・とか・・・」

ユミは自分の中のドロドロした部分を少しでも隠せるように、恐る恐るそう聞いてみた・・・けれど。

そんなユミの考えなど、きっとセイにはお見通しなのだろう。セイは引きつった笑顔でこちらを見ている。

「・・・どうしてそこにたどり着くかな。いいよ、その代わり私に怒らないでよ?」

セイはそう言って、しょうがないな、と頭を振ってユミにさっき仲居さんにもらった紙切れを見せた。

そしてそれを見たユミはといえば・・・。

「な、な、な、なんーっ!?」

ユミはそこに書かれていた文字を見て、日本語にならない日本語を叫ぶ。

そして涙まじりで勢いよくセイを見たが、フイと視線をそらされてしまった。

「ま、あれだよね。あの場所をお姉さまに聞いたって時点で気付くべきだったよね」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

そういうセイの横顔は明らかにバツの悪そうな顔をしている。ユミはもう一度噛み切れに視線を落とし、

ゆっくりと文章を読む。

『祐巳ちゃんて、本当に可愛い声よね。そりゃあなたもガマンできなくなるわ。ご愁傷様(ハート) 

                                            温泉の上よりお姉さまから愛を込めて。』

こ、これはあれだろうか・・・。さっきの秘湯でのやりとりは、全て地上に筒抜けだった・・・と、そういう事なのだろうか・・・。

血の気が引く、というのはきっとこういう事なんだろうな・・・、とユミは思った。

体中から力が抜けて、その場にペショリと倒れこんだ。

「まぁまぁ。ただのお姉さまの嫌がらせだってば。そんなに落ち込まなくても大丈夫だよ、祐巳ちゃん」

「・・・でもね、聖さま・・・秘湯ですよ?温泉ですよ?途中で誰か入ってきても良さそうなものですよね?」

ユミはズズズ、とセイに近寄って太ももにアゴを乗せセイを見上げると、そう言った。

「ん・・・まぁ、そうね。でもただ運が良かっただけ・・・とか!ダメ?無理がある?」

「・・・無理でしょう・・・やっぱり筒抜けだったんですよ!!ヤダ!!私どうしよう!?もうお姉さまにあえな〜いっ!!」

ユミはその場でジタバタと腕を振り回して恥ずかしさのあまり転げまわってみたけれど、チラリとセイを見て不思議に思った。

さっきから動揺しているのは自分ばかりでセイはあまりそんな風には見えない。

今も平然と紙きれを丁寧に折りながら缶コーヒーなどすすっている。

「・・・聖さま・・・どうしてそんなに余裕なんですか?」

「だって・・・私別に他の人に祐巳ちゃんとの事どうこう言われても困らないもん。

出来れば世界中の人に祐巳ちゃんの事自慢したいぐらいなのに・・・だから別に平気」

セイはそう言い切ると、残りのコーヒーを一気に飲み干した。そしてユミの隣にゴロリと転がると、ユミに言う。

「祐巳ちゃんは何が恥ずかしいの?同性なのに、とかまだそんな事思ってる?それともこれがお姉さまだったから?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

どれも当たりでどれもハズレ・・・そんな感じがした。確かに同性だというのはいくら拭っても振り払えない。

偏見なのかもしれないけれど、結局多数決みたいなものなのかな・・・と思う。

男女のカップルが一般的に多いこの世の中。どうしたって白い目で見られる事だってあるのだから・・・。

でも、セイと居るとそんな事はどうでもいいように思える。

だから最近はあまり気にしなくなったし、外でも平気で手を繋げるようにもなった。

お姉さまの方もそう。知り合いに・・・少なくとも会ったばかりの人にそういう所を見せるのは・・・やっぱり恥ずかしい。

第一にどう思われるのかも・・・わからないから・・・。

こうやって冷やかされると、たとえ相手がセイでなくとも・・・やっぱり恥ずかしく思ったのではないだろうか。

「どちらも・・・違います。ただ・・・普通に・・・その、恥ずかしかった・・・だけで」

しどろもどろにそういうユミを見て、セイは安堵のため息を落とした。

「まぁ確かに。恥ずかしいのは私だって恥ずかしい。でも過ぎた事言ったってしょうがないよ、祐巳ちゃん。

これがお姉さまのただのイタズラにせよ、ホントに聞こえたにせよ、そこに誤解が無いのなら私は解かないよ。

誰が何を言っても私が好きだと思うのは祐巳ちゃんだし、それは真実だもの。だから、私は別に何を言われても構わない」

だって、本当の事を否定するのは虚しいし、バカな事だと分かっているから。

もう諦めて認めて、それがどんなに楽な事かも知ってる。自分にはユミしか居なくて、他の誰も愛せない事も解っているのだから。

その気持ちにウソついて幸せを手に入れる事など・・・きっと出来ない。それがたとえ、道徳から外れているといわれても・・・。

「だからね、私は祐巳ちゃんとなら・・・どんな噂されたって構わなかったよ・・・ずっと」

セイはそう言ってユミを抱き寄せた。

「・・・聖さま・・・私も・・・本当は聖さまとなら・・・どんな噂も怖くない・・・」

そう・・・恥ずかしいというのは、その反面嬉しくて恥ずかしくなる事だって・・・あるのだから。

今回のこれも確かに恥ずかしい。でも、嫌というのとはまた違う・・・不思議な感情。

胸が熱くなって、キュンってなるような・・・そんな言いようの無い感情で・・・。

セイがそんな風に言ってくれたおかげで、ユミの心の中の何かが解けたような気がした。

セイとユミが今こうして抱き合っているのは紛れも無く真実で・・・。




「そろそろお腹減ったね〜。何食べに行こうか?」

「う〜ん・・・海鮮はちょっと飽きましたね」

ユミはそう言ってセイの腕に自分の腕を回した。通りはすっかり暗くなって、街灯の灯だけが暖かな光で道を照らしている。

2人はゆっくりと歩きながらいろいろな食べ物の名前をあげていった。

そして結局・・・。

「じゃあ、海鮮丼ということで!」

「・・・結局魚なんですね・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

「ねぇねぇ、祐巳ちゃん。ちょっ、これ見て!!」

「?」

「ほらほら、面白そうじゃない?鍾乳洞で保管!まろやかな味にびっくり!!だってさ」

「・・・お酒・・・ですか?」

ユミはセイの嬉しそうな顔に、思わずそう呟いた。セイの指差した先にはデカデカとそう書かれている。

町外れの一軒に入った2人は同じ物を注文して、料理が来るのを待っている間テーブルの端に置いてあったメニューを見ていた。

セイの面白そう!と言ったお酒は、どうやら泡盛の一種のようで鍾乳洞で長年保管していたという地酒らしい。

そしてさらにセイが言う面白さというのはそこではなく、どうやらこのお酒、ボトルキープが簡単に出来るらしい。

「面白そうじゃない?未来の私たちへのプレゼントって事で!どう?」

「どう?って聞かれても・・・」

セイのあまりの喜びように、ユミは思わず笑顔を引きつらせる。

「・・・そんなにやりたいんですか?でも、聖さまってそんなにお酒好きでした?」

「んーん。そんなに好きじゃないけど・・・これしといたらまた祐巳ちゃんと来れるかなって・・・」

セイはそう言って顔を赤らめた。自分でも何言ってるんだろうと思う。案の定ユミの目は点になっているし・・・。

「なんだ・・・それならそうと言ってくれればいいのに・・・どうしてもこのお酒が飲みたいのかと思いましたよ」

ユミは真っ赤なセイの顔を見て笑った。

未来の自分達へのプレゼントっていうのは口実で、本当はただまたユミとここに来たいだけなのだ。

そんな事恥ずかしがらずに素直にそういえばいいのに・・・。

でも、そんな風に言ってくれるセイだからこそ・・・ユミはこんなにもセイと一緒に居て楽しいのだろう。

「だって・・・将来なんてどうなるかわかんないし・・・直接口で言うとただの口約束みたいになるじゃない」

「そんな事・・・わかりました・・・ボトルキープしましょう。十年後の私たちに・・・どうですか?」

ユミは口をとがらせてそう言うセイが可愛らしくて思わず笑ってしまう。すると、セイはさらにスネてしまうのだけれど。

「いいよ、十年後ね。たとえ何があっても、十年後の今日、ここに居よう。2人で」

「解りました。約束ですよ?」

「うん、約束ね」

ユミが、約束、と言って差し出した小指に、セイは自分の小指を絡める。

そして店員さんを呼んでその旨を話すと、奥からセイとユミのイメージで選んでくれたであろう、

可愛らしいピンク色の瓶を持ってきてくれた。甘口で、飲みやすいらしいそれのラベルにはまだ何も書かれてはいない。

「こちらにタイトルをお願いします」

店員はそう言ってセイとユミにペンを差し出すと、また店の奥へ引っ込んでしまった。

「どんなタイトルがいい?祐巳ちゃん」

「そうですね・・・じゃあ聖さまの思う今の私たちを英語で!」

「・・・なかなか難しい事言うね・・・祐巳ちゃん・・・」

セイはう〜ん、と頭を捻り何か考え込んでいたが、やがてラベルに何かサラサラと書き出した。

そして、それを台紙から剥がしユミに手渡すとニッコリ笑って言う。

「はい!祐巳ちゃんが貼って」

「ええ・・・でも、これ・・・どういう意味なんですか?」

右上がりの癖のあるキレイなセイの字・・・ユミはそれを瓶に貼ると小首を傾げる。

「さて、どういう意味でしょう?宿題だよ、祐巳ちゃんへの。

十年後にはきっともっと大きくなってる事を願ってつけたからね」

セイはにっこりと笑ってユミの手から瓶を取ると、日付を入れてテーブルの端に置いた。

ユミはまだその文字を眺め頭を抱えている・・・そんなユミに、セイはただ目を細めるだけで何も言わなかった・・・。



『love in a cottage 』




「ところでさ、祐巳ちゃん・・・今日一緒に寝てもいい?」

遅めの夕食を食べ終え、旅館に帰る途中セイはポツリとそう呟いた。

「・・・変な事するなら・・・嫌です」

「いや、しない。誓ってしないから!!だからお願い!!!」

「・・・・・・どうしたんです?急に・・・何か変ですよ?聖さま・・・」

ユミはさっきからしきりに何かを確認するように何度も何度も振り返るセイに不信感を抱く。

「いあや、それがさ・・・なんかさっきからずっと嫌な感じがするんだよね・・・私・・・お化けとかそういうのダメなのよ」

セイはそう言って、ユミの手をギュっと握った。

お風呂から上がってからずっと感じる違和感・・・これは一体何なのだろう・・・。

「・・・聖さま・・・子供じゃないんですから・・・それに気味悪い事言わないでくださいよ・・・もう」

ユミはセイの手をギュと握り返すと、セイをチラリと見上げた・・・が、どうやらセイは本気らしい。

ユミはしょうがなくコクリと頷くと、溜息を一つ落とす。

「・・・分かりました。ただし・・・本当に変なことしないでくださいよ?」

「うんっ、分かってる!ありがとう、祐巳ちゃん」

セイは嬉しそうにパッと微笑むと、力の限りユミを抱きしめる。

「ゴホっ・・・そ、それより聖さま・・・さっきのあれ、どういう意味なんですか?」

さっきあからずっと考えているけれど、どうにも解けない。

単語単語の意味はわかるけれど、それらをあわせると全く意味が分からない・・・。

しかしセイは、そんなユミにただ微笑んで。

「祐巳ちゃんへの宿題だよ」

と、言っただけだった・・・。





love in a cottage    ささやかな愛の巣.





あなたのことが、好きなんです。


本当に好きなんです。


どうしようもないくらいの私の気持ち、


どうすればあなたに届きますか?





今日のお題:聖さまの言う嫌な気配・・・それは何!?






幸せな日々   第十三話