はっきりと聞いたら、何かがきっと壊れてしまう。
でも、はっきり聞かなきゃ、きっといつまでたってもこのままなのだろう・・・。
「祐巳・・・紅茶を淹れてくれないかしら?」
「はい、お姉さま」
いつも通りの会話に返事。それでも何か以前と違って見えるのは、きっとユミが何かを私に隠しているからだ。
「こうして・・・あなたとここで仕事するのも後もう少しなのね・・・」
私は窓の外に目をやるとフウ、と小さなため息を落とした。
思えばユミを妹にしてからというもの、本当にいろいろな事があった・・・。
マリア様の前で月明かりの下のロザリオ交換。
体育祭に文化祭・・・そうそう、喧嘩をした事もあったっけ。
その時、ユミは何の迷いもなくセイの胸に飛び込んでいった・・・。
あの時は何も思わずただセイにユミを預けたけれど、思えばあれが一番初めにおきた間違いだったのかもしれない。
あの時、私は自分が一番でユミの気持ちなど全く考えなかった。
どれほどユミが寂しい想いをしていたのか、とか、どれほど私との約束を大事にしていたかなんて知らずに、
ただ私はセイにユミを預けたのだ。
それが今一番後悔しているのだ、と言ったらユミは泣くだろうか?
まだ、私の為に泣いてくれるだろうか・・・?
・・・いいや、きっともう泣いてくれはしない・・・。
私は丁寧に紅茶を淹れるユミの後姿を見つめながらそんな事をボンヤリと考えていた。
「お姉さま?どうかされました?」
「えっ?・・・ああ、ごめんなさい・・・ほんの少し考え事をしていたのよ・・・」
「そうですか・・・それよりも・・・さっきみたいな事・・・もう言わないで下さい・・・口に出されると私・・・」
途端にそう言うユミの瞳が潤む。そんなユミの顔を見て、私はホッと胸を撫で下ろした。
良かった・・・まだ私の事を忘れずに想ってくれているのだ・・・そう思うと嬉しかったのだ。
「いやね、この子ったら・・・まだ泣かなくていいのよ。涙は私の卒業式までとっておいてちょうだい」
私はそう言って隣に腰を下ろしたユミの頭を優しく撫でる。
ユミはといえばただコクリと頷いて、私の差し出した白いハンカチで涙を拭う。
グス、と鼻をすするユミに私は思わず苦笑いをすると静かに言った。
「祐巳・・・一つ聞いてもいいかしら・・・?」
「・・・はい、なんでしょう?」
私の声に、ユミの身体は途端に固くなる。大方この後の言葉を予想しているのだろう。
私は小さく深呼吸すると、空気を静かに吐き出し言った。
「祐巳は・・・その・・・」
しかし・・・どうしても私にはこの後の言葉が続けられなかった・・・。
どう聞けばいいのかも解らなかったし、何て答えられるのかも怖かった。
全てを聞いてしまえば、きっと何もかも壊れてしまう。
いつからユミがセイの事を好きなのかは分からないけれど、
確かにユミはセイの事を友人以上には思っているのは確かで・・・。
それをユミの口から聞いたとき、きっと私は私では居られなくなってしまう、そう思った。
ユミは少し俯き加減で私の次の言葉を待っている。
小さな肩がほんの少し震えて見えるのは、きっと怒られると思っているからだろう。
私を上手に扱うユミ。それは昨日今日で培ってきたものではない。
元々の才能もあるのかもしれないけれど、きっとユミはいろいろと私の事を考えながら、
私が一番動きやすいよう対処してくれてたのだ。
それほどまでに私を想ってくれていたのに、私はといえば・・・。
ユミの恋を応援する事が、きっと出来ない。
セイにユミを盗られてしまうようで怖くて、情けなくて・・・そんな事ばかり考える自分が酷く汚くて・・・。
「・・・お姉・・・さま・・・?」
搾り出すみたいなユミの声は小さく震えて、今にも泣き出してしまいそう。
私はそんなユミ耐えかねて・・・というよりは、やはり自分の身を守ったのだろう・・・。
それ以上ユミに聞くのを止めた。
「いいえ、いいわ。何でもないの、忘れてちょうだい」
「・・・はい・・・」
小さな掠れた声が薔薇の館の中に木霊する。
ホッとしたような・・・ほんの少しガッカリしたような・・・そんな声だ。
「今日はもう・・・帰りましょう」
「・・・はい、お姉さま・・・」
ティーカップをカチャカチャと戻すユミ。その後姿はこんなにも小さくて儚かっただろうか。
以前はもっと元気で愛らしく思えたのに、今は消えてしまいそうな程儚くて小さくて・・・とても綺麗だ。
恋をした人は美しくなるというが、ユミもやはり恋なのだろうか・・・。
でもその相手は私ではない・・・そんな事を思うだけで胸がギュっと締め付けられるように痛んで、
涙が溢れてきそうになる。
私のこの想いは、一体なんなのだろう・・・こんなにも苦しくて切ないこの想いは、一体・・・?
「お待たせしました、お姉さま」
「いいえ、ありがとう祐巳。それじゃあいきましょうか・・・」
「はい」
そうして二人だけのお茶会を終わらせると、私たちは薔薇の館を後にした・・・。
「・・・お姉さま・・・今、お時間よろしいでしょうか?」
『ええ、構わなくてよ。どうしたの?何かあったの、祥子』
夜、私はお姉さまに電話をした。
何故か無性に声が聞きたかったのだ。
そして教えてほしかった・・・私はこれからどうすればいいのか・・・ユミに対してどう接すればいいのかを。
本来ならばこんな事お姉さまに聞くほどでもないのかもしれない。
それでも、誰かの声が聴きたくて・・・でも、誰でも言い訳ではなくて。
散々迷った挙句、不躾だとは思いながらこんな時間にお姉さまに電話をしてしまったのだ。
「あの、ちょっとした相談事なのですが・・・その・・・」
『なぁに?何か嫌な事でもあったの?』
「いえ・・・そういう訳では・・・な・・・」
お姉さまの優しい声・・・高校に居た時と何も変わってなどいない、優しくて強い声・・・。
私はきっとホッとしたのだろう。
突然目から大粒の涙が零れ落ちて、一瞬で視界がぼやけた。
もう、何が言いたかったのかも分からない。何を言おうとしたのか、
何故お姉さまに電話をしたのかさえも分からなかった・・・。
『祥子?泣いているの?』
「お・・・ね、さま・・・私・・・もう、どうしたらいいのか・・・」
『・・・何があったの・・・?』
私はお姉さまの優しい声に促されるように、延々と話した。
後半はきっとしゃくりあげてばかりだったから、何を言っているのかも分からなかっただろうが、
それでもお姉さまはただ黙って聞いてくれていた。
時々聞こえるお姉さまの相槌すら耳に入らないほど私は話し続けた。
しばしの沈黙が続く・・・私の涙はまるで止まる事を知らないみたいに後から後から流れ出る。
『そうだったの・・・それでこんな時間に電話をしてきたのね』
クスリと小さく笑うお姉さま。
「はい・・・申し訳ありません・・・」
『あら、いいのよ。ただ突然泣き出すんですもの。どうしようかと思っちゃった』
「はあ・・・すみません・・・」
優しく笑うお姉さまの声が耳にとても心地よい。
そして、一呼吸おいてお姉さまは静かに・・・呟くように言った・・・。
『祥子・・・辛かったわね。よく頑張ったわね』
「おねえ・・・さ・・・ま」
その言葉にようやく止まったかと思っていた涙がまた溢れ出す。
・・・辛かった・・・黙っているのは。独りで抱えるのは、とても苦しかった。
でもこんな話誰にも相談出来ない事はわかっていたし、
ましてやセイの事が好きなお姉さまには絶対にしてはいけなかったのに、私はもう限界だった。
誰かにこんな風に言ってもらいたかったのかもしれない。
大丈夫だよ、と頑張ったね、と・・・。
お姉さまはようやく泣き止んだ私に、まるで諭すように問いかける。
『でもね、祥子。姉妹だからと言って必ずそこから恋愛に発展するものでは・・・ないのよ?
祥子が祐巳ちゃんを想う気持ちは本当に恋愛感情なの?それとも、誰かに盗られるのが嫌なの?』
「・・・それは・・・」
正直に言えば盗られたくない。誰にもユミを渡したくない。
それはセイばかりじゃない。たとえユミの相手が男の人だとしても、そうだっただろう・・・。
恋愛感情かどうかと言われれば、それは分からない。
ユミとどうこうしたいとかは思わないし、むしろユミにはいつまでも綺麗なままで居てほしいから。
そりゃユミだっていつかは結婚して子供も産むだろう。
でもそれはもっと未来の話で、今ではないのだ。
未来になれば私はもっときっと大人になっているかもしれない。
こんな風にちっぽけな独占欲など・・・きっと抱かない・・・。
そんな私の心の中を見透かすようにお姉さまは言葉を続けた。
『祥子・・・祥子が今辛いように、きっと祐巳ちゃんも苦しんでいるわ。あなたと同じように・・・。
祥子にとっては辛いかもしれない。でもね、祐巳ちゃんは決してお人形ではないのよ?
自分で考えて、動く事ができる。それを見守れるのは・・・祥子、あなたしか居ないでしょう?
もしも、祥子が祐巳ちゃんに抱くものが恋愛感情だというのなら、決して止めはしないわ。
もちろん応援もする。
でもね、もしそれがただの独占欲であるというのなら・・・姉として、祐巳ちゃんを応援してあげなさい。
それが姉の役目というものよ。与える訳でもない。奪うわけでもない。ただ見守るのも・・・姉の務めなのだから』
どこまでも優しいお姉さまの声は、私の涙を製造する元なのかもしれない・・・。
「・・・ぅ・・・っく・・・でも・・・わた・・・し・・・ぅぅ・・・きっと、おうえ・・・なんて・・・」
応援なんて出来ない・・・。そう言いたかったのに、言葉は途中で途切れてしまった。
お姉さまの言葉が私の中に染み渡って、大きな水溜りを作る。
解っているのだ。頭では。それでも・・・納得できない。納得したくない。
ユミは私の妹だ。可愛い可愛い妹なのだ。恋愛感情かそうでないかなんて、解らない・・・。
ただ、誰にも奪われたくないのだ。私だけをみていて欲しいのだ。
でも・・・きっと私がいくら泣いたところでユミの心はもう私には帰ってこないだろう。
そして私はきっとユミを傷つけてしまう・・・。
私はユミの姉だ。いつでも堂々としていなければならない。
間違えた道にユミが行きそうになったなら、それを止めなければならない。
ずっと・・・ずっとそう思ってきたけれど・・・ユミの心はいつの間にか私から離れてしまっていた・・・。
いつの間にかユミの心はセイに奪われていた・・・。
強くなりたい。ユミを守れるような、ユミの恋を心から祝福できるような、そんなお姉さまのような強さが欲しい。
もう逃げない、逃げられない・・・そう、今強く思う。
この先、たとえどんな未来が私達を待っていようとも・・・。
そして翌日・・・私がユミに真相を聞くよりも先に、事態が大きく動いた。
ユミの気持ち。セイの気持ち。そして私の気持ち。
・・・全ての歯車が今、噛みあう・・・。
強くなりたいと願えば願うほど、
人は自分の弱さを思い知る。
その弱さに鍵をかけ、気づかないふりをしていれば、
どれほどまでに楽だろう。
いつまでもその弱さの中に身体を預けていられれば、
どれほどまでに幸せだったろう・・・。