私はいつも鏡の中の自分に支えられていた。
でも少女はいつからか鏡の中には居なくなった。
少女は自分で幸せを見つけ、私はまた一人。
そう思っていたのはもう、遠い昔。
海ほど深くて、空より広い心が欲しいと願ったあの日から、
私たちは別の人間になった。
心は無限。
あの子を愛し始めたその日から。
そう思ったら突然、私の心は寂しくなくなった。
海にはまだ遠い。
空にもまだ及ばない。
鏡にはもう誰も居ない。
それでも、私は一人じゃない。
「祐巳、今すぐ帰りましょう!風邪が悪化したら大変だわ!!」
パラソルの下に帰るなり、サチコがユミの手を引いて半ば強引に隣に座らせる。
「お、お姉さま!?私は大丈夫ですから!!」
必死になってサチコに自分はこんなにも元気だと伝えようとすればするほど、
サチコの中ではどうやらユミが気を使って言っているように受け取られてしまう。
・・・もうダメだ・・・そう思ったその時、以外な所から助け舟が出された。レイだ。
「まぁまぁ祥子。祐巳ちゃんだって遊びたいんだから、もうちょっと様子みてみるのもいいんじゃない?ね、祐巳ちゃん」
「は、はい!!」
髪をかきあげながらキラリと白い歯をのぞかせて笑うレイ。
これはヨシノが夢中になるのもわかるな、と思えるほど格好良い。
「なに、なに?どした?」
そう言ってユミよりも少し遅れてパラソルに到着したセイがこちらを覗き込んで皆の顔を見渡した。
「いえね、祥子が祐巳ちゃんを連れて帰るって言ってきかないものだから・・・」
心配そうな顔のヨウコ・・・多分ユミよりもセイの心配をしているのだろう。
シマコの言った事を完全に信じたわけではないにしても、シマコが嘘をつくとは思いがたい。
・・・いや、そう信じたい・・・。
「え〜・・・今から祐巳ちゃんのうきわ引っ張るって約束したのに〜。ねえ?祐巳ちゃん」
「あ・・・はい」
そう言ってレイ同様チラリと白い歯をのぞかせて笑うセイ。
同じ笑い方なのに、何故だろう・・・ユミはそんなセイの笑顔に釘付けになる。
レイの笑顔は爽やかで格好良い。
それに比べてセイの笑顔はどちらかといえば、どこか含んだような何か企んでるような・・・妖艶さ。
昔は確かに王子様に憧れてた。王子様はとても爽やかで優しくて格好良い・・・そう、まるでレイみたいなタイプ。
でも、いつからかそんな王子様には憧れを抱かなくなった。銀杏王子が良い例かもしれない。
今はどうだろう・・・いつの間にか好きになったのは、爽やかとは遠い人物で・・・。
どこか影を落とすその佇まいとか、何かを隠しているような眼差しとか。
王子というよりはどちらかと言えば悪者に近い気がする。
相変わらず意地悪な笑みを浮かべているセイの顔をジッと見つめていたユミだったが、
やがてセイがフイに視線を逸らした事に気がついて顔を赤らめた。
「いいなぁ・・・祐巳さんいいなぁ!!!令ちゃん、私も引っ張って」
「え?え?」
「あら、じゃあ私も引っ張って欲しいわ」
「え・・・ええ〜?お姉さままで?」
おろおろするレイを横目にヨシノとエリコは楽しそうに浮き輪を膨らまし始める。
それを見ていたサチコは、ようやく諦めたようにため息をつきユミの手をとった。
「祐巳、絶対に無理はしないこと!いいわね?」
「はっ、はい!!お姉さま」
こんなにも些細な事なんだけれど、こんなにもサチコに心配されているなんて・・・。
そう思うと涙が溢れそうになってくる。セイに抱く感情とはまた違う所でユミの心が反応するのだ。
ユミはそれを隠すようにクルリと後ろを向いて自分の浮き輪を力いっぱい膨らましはじめた。
息がつまるように胸が苦しい・・・ただの酸欠なのか、セイとサチコへの想いなのかはわからない。
ただ、どちらも失いたくない・・・わがままだと思われようと構わない。どちらもとても大切で、どちらもとても愛しいのだ。
「祐巳ちゃ〜ん、早く膨らませないと置いてくよ〜」
「・・・・・・・・・・・・」
浜辺に腰をおろしてスポーツドリンクを飲んでいたセイが、縮こまって浮き輪を膨らませるユミをからかう。
「・・・聖さま、あまり祐巳に無茶させないで下さいね」
「わかってるって。そんなに心配しないしない」
サチコが素直にユミの体を心配しているのか、それともセイに警戒しているのかは解らない。
ヘラヘラ笑ってユミにちょっかいをかけるセイに、サチコがどんな感情を抱いているのか・・・。
それを考えると、とても怖くなる。きっと自分には良い感情など持ってはいないだろうから。
もし逆の立場だったらきっと、自分もユミを守っただろうから・・・。
「出来ました!!・・・お姉さまも行きますか?」
ようやく浮き輪が完成したユミは、嬉しそうにそれを頭の上に掲げてみせる。
サチコはそれを見て笑顔で首を振ると、ユミの胸のあたりのリボンをキュっと結びなおした。
「気をつけて行ってくるのよ、祐巳」
「はい、お姉さま」
ユミはコクリと頷きながらそう言うと、波打ち際で待っていてくれたヨシノ達の元へ駆け出した。
もう、ここには居られなかった。これ以上は・・・。
「聖さま・・・」
「分かってるって、大丈夫」
心配そうにユミの背中を見つめるサチコに、セイはそう言って小さくウインクするとシマコの方を振り返る。
「気をつけてくださいね、お姉さま」
「うん、じゃあ行ってくる」
セイはそう言って片手を上げると、波打ち際で手を振っている少女達の所まで走った。
「志摩子は行かなくて良かったの?」
セイが走り去る背中を切なげに見つめていたヨウコが突然口を開く。
「ええ、私はもう少ししてから行きます・・・それに沖の方は怖いですし・・・」
「そうね、いえてるわ。・・・それにしても皆元気ね」
そう言ってフっと目を細めるヨウコが、シマコにはとても綺麗に見えた。
サチコもヨウコに見惚れている・・・。
シマコはやりきれない空気にそっと目を閉じると、波打ち際で遊ぶ5人に目を細めた・・・。
「時に祐巳ちゃん・・・」
「はい?」
セイはプカプカ浮かぶユミの浮き輪を引っ張りながらポツリと呟いた。
「その水着、可愛いね?」
「な、なんですか、急に」
「べつに。ただそう思っただけ・・・ただ・・・」
「・・・ただ?」
「もうちょっと胸が欲しいところだね」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
顔を真っ赤にして沈黙するユミを尻目にセイはケラケラと笑う。
こんな風にしか出来ない自分がくやしくて腹が立つ。そして思う・・・シオリの時はどうだったっけ?と。
シオリとはこんな風に接する事が出来なかった。こんな風にすら接する事が出来なかった・・・。
あまりにも短い時間に近づきすぎた距離は、シャボン玉のように儚く消えてしまった・・・跡形もなく。
激情にかられて距離をつめて、逃げられる事も無視して追い詰めて。
やがて自分の手で全てを壊した。天使のように綺麗で儚かったシオリ。
真っ白なモノを憎み、綺麗なモノを恨んでたあの頃、どうしてシオリに恋をしたのか。
本当はどこかでそれを望んでいたのか、本当はうらやましかったのかは分からないけれど、
今目の前でふくれている少女はただただ愛しくて可愛くてしょうがなくて・・・。
あの時のような気持ちはどこに行ってしまったのか、と思うほど穏やかな恋を今はしている。
もしもシオリと今も付き合っていたなら、きっと今の自分はいないしこの少女の事など気にも留めなかっただろう・・・。
その代わり、大切なモノを全て失っていたかもしれない・・・そう、シオリ以外の全てを。
それも幸せだったかもしれない・・・でも、確実に目の前にはいつも死があった・・・。
「さま・・・聖さま!!!」
「ぅあっ!!」
一瞬目の前がぼやけて体が水に溶けるような錯覚に陥った・・・と思ったら、次の瞬間小さな手がセイの腕を掴み、
無理矢理引っ張り上げようとしている事に気づいた。
「っは・・・はぁ・・・はぁ・・・びっくりした・・・死ぬかと思ったよ」
「びっくりしたのは私の方ですよ・・・もう、止めてくださいよ、驚かすの」
「あ、ありがとう、祐巳ちゃん・・・はは・・・ははは・・・あははははは」
「な、何がおかしいんです?」
突然笑い出したセイに、ユミは目を丸くしている。
「いや、ちょっと、ね。あまりにもタイミングが良かったから」
「はあ」
「ふふふ・・・やっぱり祐巳ちゃんには敵わないなぁ」
セイはそう言ってユミの頭をガシガシ撫でると、自分も浮き輪に掴まった。
「・・・私は聖さまに敵いませんけどね・・・本当に計り知れない人」
「お、それは褒め言葉?それともけなしてるの?」
「さあ?どうでしょう」
「・・・・とりあえず、ありがとう祐巳ちゃん・・・・・・・・」
さっきのバチが当たったんですよ〜、などと笑っているユミ。
その笑顔にふとさっきの白昼夢を思い出す。生きやすい生き方を教えてくれた少女。そして仲間・・・。
これら全てを今は愛しいと思う自分。これらは全て大切で、今はもう失う事など考えられない。
今は、ただ・・・この少女と生きてゆきたいと・・・そう思う。
真っ黒な夢を見た。
何も見えない何も見たくない、そんな夢。
暗くて静かな世界に居るのは自分だけ。
それでもいい。それがいい。
真っ白な夢を見た。
何もなくて何処でもない、そんな夢。
綺麗で何も無い世界に居るのは自分と一人の少女だけ。
それでもいい。心地よい。
虹色の夢を見た。
乱雑で沢山のモノで溢れている、そんな夢。
ゴチャゴチャした世界に居るのは自分と愛しい人たち。
それがいい。・・・それでなければ。