還りたい、還れない。


どうして?待ってるから。


誰が?あの子が。


一番に見つけて、私を。


他の誰の目でもない、キミのその瞳で。










「皆心配してるよ、そろそろ戻ろう?」

セイは繋いでいた小指を離すとユミの小さな手を取り立ち上がった。

ほんの少し戸惑っていたユミは、やがてコクンと頷きセイの手を握り返す。

「戻ったら何して遊ぼうか?」

セイは小さなユミの手を優しく握りながらゆっくりと歩き出した。

「そうですねぇ・・・って言っても私全然泳げないんですけどね」

ユミは斜め前を歩くセイに引っ張られるように歩いていたが、ほんの少し歩調を速めてセイの隣を歩く。

それに気づいたセイは、何も言わずただにっこりと笑っただけだった・・・。

・・・こんなセイの優しさがユミはとても好きだった。ストレートだけれど、どこか遠慮がちに、さりげなく。

いつでも困ってる時にはすぐにやってきてくれるセイ。

だからついいつも甘えてしまうけれど、もしセイが困ったその時には今度は自分がセイを助けたいと思う。

「じゃあ、浮き輪でも膨らませますか」

ユミが歩調を速めて自分の隣にピッタリと寄り添った事になんの意味があるのかはわからない。

それでも、何だかそれだけで先輩後輩の立場は崩れて対等になったような気がするのは、自分だけだろうか・・・。

いつまでも白薔薇様と呼ばれ、いつまでも手の届かない存在だと思われがちなセイ。

リリアンの大学に進んだのだからそれはしょうがない事なのかもしれないけれど、

それでもそういう風に扱われるのはとても嫌で・・・。

他の子達と自分は何も変わらない。白薔薇様なんて呼ばないで・・・名前で呼んで・・・。

何度心の中でそう叫んだかわからない・・・。

「はい!じゃあ聖さまが引っ張ってくださいね?」

こんな風に甘えられるようになるなんて、自分でも思わなかった。伝説の三薔薇なんて呼ばれていたうちの一人に。

でも、こんな風に甘えられるのはセイしか居ない。他の誰にだってこんな風には出来ないのだ。

じゃあどうしてセイになら甘えられるのだろう・・・ただ単に気が合うのかもしれない。

ノリが同じだけなのかもしれない・・・でも、それだけでは無いようにも思う。

ユミの中に、もしかすると出来ないのではなくてしたくないのかも?そんな考えが頭の中に浮かんだ。

他の誰かにこんな風に甘えたい?そう聞かれたら、きっと答えはNO。

出来ればいつでも笑っていたいし、気だって使う。でもセイには・・・セイにだけは・・・。

・・・胸が締め付けられるかと思った。自分の中でセイだけがいつの間にかこんなにも特別になっていた。

ユミはセイを見上げるといつもセイがするみたいに意地悪な笑みを浮かべる。

するとセイはその顔を見て一瞬目を丸くしたけれど、やがて困ったように笑うと言った。

「ええ〜・・・私が引っ張るの?」

ユミの表情はまるで自分みたいだった。何かを企むような含んだようなそんな顔。

よく、傍に居ると表情や仕草が似るという。

ユミの今の表情がわざとなのか自然に出たものなのかは解らないけれど、それでも少し似てきたのかな?

とか思うと単純に嬉しく思う自分は、相当ユミにまいってるな、と思う。

いつの間にこんなにも心の中にユミが住み着いていたのか・・・いつの間にシオリでは無くなったのか・・・。

たまにはシオリを思い出して落ち込む事もあるけれど、ユミの顔を見ればそんな気持ちはすぐにどこかへ行ってしまう。

たまに・・・シオリの事があったから今ユミをこんなにも愛せるのかもしれない、なんて思える・・・。

セイは意地悪に微笑むユミをしばらく見つめていたけれど、

やがてその小憎たらしい笑顔に観念したように大袈裟に頭を落とした。

「そうですよ、聖さまが引っ張るんです。私は浮いてますから」

「じゃあ私ばっかり疲れるじゃない」

「えへへ、でも聖さまはやってくれるんですよね?私も沖の方に行きたいなぁ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

・・・そんな風に言われたらやるしかないじゃない・・・。

「・・・ダメ・・・ですか」

「・・・分かった。引っ張りましょ・・・その代わり浮き輪は自分で膨らませてね」

「さすが聖さま!!」

「はいはい、おだてても何も出ないよ。それより祐巳ちゃん今日はやけに甘えるね〜。お姉さんは嬉しいなぁ」

これは本当。甘えられるのが、頼られるのがこんなにも心地いい。こんな感情は生まれて初めて。

誰でもかもしれないけれど、ユミは自分からはこんな風に甘えてはこないから・・・。

「そうですか?もしかすると海に来たからかもしれませんね」

「それは・・・開放的な気分になるってこと?」

「う・・・う〜ん?何か違う気もしますけど・・・小さいな、と思って」

「なんとなく解る気はするけどね」

言葉には出来ないけれど、ユミの気持ちはよく解る。こんなことでいちいち悩む自分はとても無力で小さい。

「解りますか!?」

こんな風に自分のよく解らない感情を伝えられる人なんてきっとそうは居ない。

ましてや一生をかけても巡り合えるかそうか解らないのに、セイにはいとも容易く伝わるのだ。いつも。

「うん、なんとなくね。でも・・・私たちはどうやったって海にはなれないし、ましてやこんなにも大きな存在にはなれない・・・。

だからこそ、この海よりも大きなものを探してしまうんだ。きっと」

「海よりも大きなもの?そんなものあるんですか、人の心に」

・・・そんなモノ何も思いつかない。セイの喩えはいつも抽象的で・・・。

「あれ?祐巳ちゃん、人の心は無限大だよ?何にだってなれるし、何にもなれないんだから」

「はあ」

ますます解らない・・・セイのこんなところも・・・好き。普段あまり使わない頭には良い刺激になる。

ユミが何を考えているのかわかったのか、セイは繋いでいた手を離し代わりにユミの肩に腕を回す。

「そんなに難しく考えなくてもいいって。ほら、皆待ってる!」

セイはそう言って前方を指差して手を上げると、向こうからおさげの少女がこちらに向かって走ってくるのが見えた。

「あ・・・由乃さん」

なんとなくセイとまだ離れたくなかった・・・なんてヨシノには失礼だけれど。

でも、この腕を解かれたらそれで終わりのような気がして・・・。

そんなユミの想いがヨシノに伝わるはずもなく。

「祐巳さ〜ん!聖さま〜〜!!」

「お〜!由乃ちゃん、お迎えごくろ〜」

セイは片手を上げたまま正面から嬉しそうに走り寄ってくる少女をただ見つめる。

やがてヨシノは二人の前までやってくると、大きく深呼吸をしてから一気に話し出した。

「祐巳さん、聖さま大丈夫!?なかなか帰ってこないから皆ほんとうに心配して・・・。

祥子さまは救急車呼ぼう、なんて言い出すし・・・蓉子様までうろたえてるしで大変だったんだから!!」

「ご、ごめんなさい、由乃さん。でも大丈夫だから・・・それよりもお姉さま・・・怒ってる?」

切羽詰ったヨシノの顔の後ろになんとなくサチコの怒った顔が見えた気がした。

「ううん。それよりも心配してる。祐巳を連れて帰るとか言い出しちゃって、とにかく大変だったんだから!!」

「あ、あはは・・・そう・・・」

「聖さまは大丈夫ですか?お腹の調子は!?」

苦い笑いをこぼしているユミに目もくれず、ヨシノはグルンと首を上げ今度はセイに詰め寄る。

そんなヨシノにタジタジだったセイだったが、チラリと後ろからやってくるシマコが頷くのが見えてセイはにっこりと微笑んだ。

「うん、もう大丈夫。やっぱりあのソフトクリームがダメだったのかな」

・・・志摩子、ありがとう・・・

セイは心の中でそう呟くと、ヨシノに笑顔で言った。

その笑顔にヨシノは安心したのか、吊り上げていた眉を下ろしホっとため息を落とすと、ユミの手を握る。

「ほら!祐巳さん、元気になったんなら遊ぼうよ!!」

「う、うん」

ユミはそう言ってヨシノに引っ張られるがまま、引きずられるようにそのまま行ってしまった。

「・・・あ、祐巳ちゃん・・・」

一人その場に残されたセイは、行き場のない腕を下ろすとやがてやってきたシマコに困ったように笑いかけた。

そんなセイの顔を見て、シマコもまた困ったような笑顔を浮かべている。

「置いていかれちゃった」

「私が居ます、お姉さま」

「そうだね・・・ありがとう、志摩子」

セイはさっきまでユミに回していた腕とは反対の、腕をシマコの肩に回すと、ゆっくりと歩き出した。








私はいつも鏡の中の自分に支えられていた。


でも少女はいつからか鏡の中には居なくなった。


少女は自分で幸せを見つけ、私はまた一人。


そう思っていたのはもう、遠い昔。


海ほど深くて、空より広い心が欲しいと願ったあの日から、


私たちは別の人間になった。


心は無限。


あの子を愛し始めたその日から。


そう思ったら突然、私の心は寂しくなくなった。


海にはまだ遠い。


空にもまだ及ばない。


鏡にはもう誰も居ない。


それでも、私は一人じゃない。















想いの所在    第八話