冷たい水が心を冷やす。
どれほど太陽は暖かくても、
体ごと奥深くに沈んでしまえば、
太陽の光さえ届かない所まで沈んでしまえば・・・、
きっと、もう元には戻らないのかもしれない。
そう・・・流れがあるその間は・・・。
「お姉さま!!だ、大丈夫ですか!?」
シマコは突然海の中に姿を消したセイに駆け寄った。
浅瀬ではあるけれど、水が5センチでも溜まっていれば人は窒息するという。
「へ?志摩子?ど、どうしたの?」
シマコの切羽詰った声にセイはザブンと海の中から姿を現し立ち上がった。
慌てて駆け寄ってくるシマコの後ろには、やはり心配して駆け寄ってきたユミが心配そうな顔でこちらを見ている。
そしてセイの顔を見るなり手をグーにして目に涙をためていた。
「どうしたの?じゃありませんよ!!突然居なくなるからどうしたのかとおもっ・・・」
今にも泣き出しそうなユミ。自分のせいで泣きそうなのだと思うと、胸が苦しくなる反面嬉しくもなる。
「・・・祐巳ちゃん・・・ごめんね?だからそんな顔しないで・・・」
セイはユミの傍まで来ると、そっとユミの頭を撫でる。
そんなセイにシマコは後ろから微笑ましそうに眺めていたが、やがて何かに気づいたようにそっとセイに近寄った。
「お姉さま、今お姉さまが居なくなった事、一番に気づいたのは祐巳さんだったんですよ」
「え・・・・・・・・」
小さな・・・ユミに聞こえないような微かな声だったけれど、シマコのその声は確かにセイの心に染み渡った。
頭で理解するよりも先に、心臓が先にドクンと大きく打つ。
そうか・・・一番先に気づいてくれたんだ・・・
セイはただそんな風に思いながらさっきからずっと俯いて、肩を震わせている少女の姿を愛しげ抱きしめていた・・・。
やがてパラソルの下にいた山百合メンバー達がわらわらとこちらに寄ってくる。
「ちょっと聖!あなたね、あまり心配かけないでちょうだい!!」
「あら、私は面白くて良かったけど・・・」
そう言ってからからと笑うエリコをキっと睨みつけたヨウコは、セイにすがりついて離れようとしないユミに視線を移した。
「祐巳ちゃん、もう大丈夫だから・・・ね?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ヨウコの優しい声にユミはコクリと頷くと、セイから体を離す。
どうしよう、と思った。視界から突然セイが消えて、頭が真っ白になった。
不安で怖くて、ほんの一瞬の事だったのにかなりの時間が経ったようにさえ思えた。
そして改めて自分の気持ちに気づく・・・ああ、やっぱりこの人が好きなんだな、と。
知らない間に目はいつもセイを追っている・・・手はセイと繋ぎたがっている・・・。
気づけば、体が・・・心がセイを求めてしまう・・・。
『聖さまが!!』
それまでサチコと話していたのに、何故かセイが見えなくなった事がわかった。
目は確かにサチコを見ていたはずなのに・・・。
ユミの声に反応したシマコが、ユミの手をとり波打ち際まで連れて行ってくれなかったら・・・。
きっと今も一人パラソルの下で恐怖に震えていただろう。
大袈裟だと思うかもしれない。・・・自分でも大袈裟だと思う。でも、理屈ではないのだ・・・。
「祐巳・・・いらっしゃい」
サチコの声が遠くから聞こえる。こんなにも近くに居るのに・・・何故か遠くにいるセイの声の方が近くて・・・。
「あ、えと、お姉さま・・・私ちょっとお手洗いに行ってきますね・・・」
「ちょ、祐巳?!一緒に行きましょうか?」
サチコの手をスルリと避けたユミ・・・どうして?そんな疑問符が頭の中を過る。
あんなにもユミは自分を慕ってくれていたはず。ユミには自分しか居ないと思っていたのに。
いつだってユミの中の一番は自分だと思っていたのに・・・。
気づけばユミの目は自分を追ってなどいなかった。そしてうすうす感じていた違和感。
いつもユミを勇気づけ、励まし、傍に居たのはセイだった・・・。
今から思えばどこで間違えたのかさえも解らない。ただ言えるのは、ユミはセイが好きだと言う事。
そして多分セイも・・・でもこんな話、誰に相談出来るというのか。
お姉さまであるヨウコに話そうにも、ヨウコの想い人であるセイも絡んでいるのだ。決して言えない。
何も気づかない振りをして、自分を優先したくなどないのだ。お姉さまを傷つけない為にも・・・。
「悪い、私もちょっとトイレ!」
「あっ、聖!?」
「すぐ戻る!!」
聖はヨウコの手を優しく振り払うと、一目散に走り出した。
きっと泣いてる・・・そう思った。
その光景をボー然と見つめているサチコが途中チラリと視界に入ったけれど、
サチコの事はきっとヨウコがなんとかするだろう。
他人任せで本当に申し訳ないとは思うけれど、きっと自分の想いにもユミの想いにも気づいているサチコを、
自分がどうこう出来るとは思わない。
・・・それに・・・ユミの事だけはどうしても誰にも任せたくなかった。
きっと、勘のいいヨウコやエリコは気づいてしまっているかもしれない・・・それでも、今、ユミの傍に居たい。
・・・出来れば隠し通したかったけれど・・・。
「大丈夫かしら・・・お姉さまに祐巳さん・・・」
セイが走り去った後を、シマコはボンヤリと見つめながら呟いた。
「え?祐巳さんと聖さまどうかしたの?志摩子さん」
「ええそれがね、実はお姉さま昨夜からお腹の調子が良くないと言ってらして・・・。
祐巳さんは風邪気味だと言っていたし・・・それにさっき二人してソフトクリームを食べていたから・・・。
ちょっと心配になって・・・」
「え!?そうなの?!だったら海なんて止めた方が良かったんじゃ・・・」
「でもお姉さまも祐巳さんも、とても楽しみにしていたみたいだから・・・だって皆が集まるんですもの」
シマコはそう言って物憂げにため息を一つこぼすと、二人とも困ったさんよね?と苦い笑いをこぼした。
ヨシノはシマコからそれを聞くと、それをレイに伝え、レイはエリコに、エリコはヨウコに、ヨウコはサチコに・・・、
といった具合にあっという間に皆に知れ渡った。
「・・・本当なの?志摩子」
ヨウコとサチコが真剣な顔でシマコに詰め寄ってくる。
「・・・どうして祐巳は私に黙っていたのかしら早く言ってくれれば良かったのに」
「それは・・・多分心配かけたくなかったからじゃないでしょうか・・・皆に。祐巳さん優しいですから」
「ええ、祐巳ちゃんはそうかもしれないけれど・・・聖は・・・」
「お姉さまも同じです・・・きっと。今日をとても楽しみにしていましたから」
「「・・・そう・・・」」
「ええ、そうですわ。私、お薬とってきますね」
「え、ええありがとう志摩子。悪いわね」
「いいえ、お姉さま達の為にも今日は楽しまないと」
「そうね、志摩子の言う通りだわ。ね?祥子」
「ええ、そうですわね、お姉さま」
「それじゃあ、ちょっと行ってきますね」
シマコは二人を残してロッカーの方へと歩き出した。目に涙を溜めながら・・・。
・・・ウソをついてしまった。それも思いっきり。してはいけない事と解っていながら、ウソをついた。
でも、セイを守りたかった。ずっと心の中で暖めてきたモノを壊されたくなかった。
いつだって支えてくれていた・・・優しくて脆くて・・・時に狂気めいたセイ。
セイの心の中にある狂気をうまくコントロールしてくれるのは、きっとユミしかいない。
シマコにもノリコしか居なかったように・・・。
「マリア様・・・どうか、どうか、こんな嘘をついてしまった私をお許しください・・・」
シマコは空を眺めながら、ポツリと呟いた。空はどこまでもまっすぐ青く伸びている。
シマコは瞳に溜まった涙を一筋こぼした。
「・・・乃梨子・・・会いたいわ・・・」
お手洗いに行くと言って出てきたものの、肝心のお手洗いがなかなか見つからなくて、
ユミはしょうがなく浜辺の端にあった小さな展望台のベンチに腰を下ろした。
遊泳禁止になっているその区域には当然だけど、誰も泳いではいない。
「こうやって見ると、やっぱり地球は丸いんだぁ・・・」
目の前に広がる海を邪魔するものは何も無い。地平線はどこまでも遠く丸みをおびて見える。
「何当たり前の事言ってんの。もう、捜したじゃない」
「ぎゃうっ?!」
突然後ろから降ってきた声と腕に、ユミは驚いてその場で座ったままピョンとはねてしまった。
「せ、せせ、聖さま?!ど、どどどうしてここがっ!?」
「トイレ行ったら祐巳ちゃん居ないからもしかしてこっちかなー?なんて・・・単なる当てずっぽ」
「はあ」
ニッコリと笑顔を浮かべているセイに、ユミは目を丸くしている。
こんなに広い海に居て、果たして勘だけで一人を捜し当てられるものだろうか・・・。
ユミはきっとまた百面相をしていたのだろう。セイは楽しそうに笑っている。
「さっきはごめんね?」
「いえ、もういいですよ。ただ・・・本当に驚いたんですからね!!」
「うん。なんとなく・・・還りたくなって・・・」
「還りたい・・・?」
「そう。海にね、沈んだら還れるかなって・・・そう思ったの」
「はあ」
「まあ、結局引き戻されちゃったけどね」
「当たり前ですよ」
そう言って笑い声を上げるセイの横顔は、どことなく寂しそうだった・・・。
本当に・・・還れると思ったのだろうか・・・本当に還りたかったのだろうか・・・。
「うん、当たり前だよね」
「・・・私・・・気づかない方が良かったですか?」
こんな事聞くのはバカげている。・・・でも、あまりにもセイの顔が辛そうで聞かずにはいられなかった・・・。
ユミがそう言うと、セイはニッコリと微笑んで首を傾げる。穏やかな、まるで子供のような笑顔だ。
「どうかな・・・解らない。私はどうしたかったんだろう・・・どうしてほしかったんだろう、ね?」
「・・・それは・・・私に聞かれても・・・」
解らない。どうすれば良かったのか。
「そうだよね・・・う〜ん・・・助けて欲しかったのかも。誰かに気づいて欲しかったのかもしれない。
だって、もし本気でそう思ってたら皆の前でわざわざあんな事しないよ。海だって一人で来るだろうし」
たとえワザとじゃなくても、一瞬でも還りたいとそう願った自分。
ただ、試したかっただけなのかもしれない、なんて自分勝手な事を考えてしまう。
「・・・そうですね・・・でも、もし放っておいて欲しいなんて言われても私は放っておきませんけど」
「そうなの?」
キョトンとした顔でセイはユミに尋ねた。
「当たり前ですよ!!今度海に来たくなったら絶対に誘ってくださいよ!?」
「ええ〜?海に一人で来るの禁止?」
・・・どうしよう・・・嬉しい・・・。
ただの友達かもしれない。ただの先輩かもしれない。でも、こんな風に心配してくれる誰かがいる。
こんな事が、こんなにも嬉しいなんて・・・。
「禁止です!!私が一緒についてきます!!でないと聖さま危なっかしくって」
偉そうだな、と思う。自分にそんな権利など無いのも分かってる。
これはきっと、自分の為に言ってるのも分かってる。でも、セイが居なくなるのは・・・離れるのは嫌だから・・・だから・・・。
「だから・・・お願いですから、もうあんな事しないで下さい・・・」
「・・・祐巳ちゃん・・・」
涙ながらにそんな風に訴えるユミ。何も本気で還りたいなんて思ったわけではないと自分でも思う。
それでも、こんな風に涙を溜めて引き止められたなら・・・。
「わかった。約束する。もう二度としないし、もし海に来たくなったら必ず誘うから」
「約束ですよ?」
「うん、約束ね」
そう言ってセイが右手の小指をユミの方へ差し出すと、ユミも恥ずかしそうに笑って小指をそっと差し出した。
指きりは約束。繋いだ小指から、お互いの熱が伝わる。
その熱は全身をかけめぐり、二度と離れない絆になってゆく・・・。
還りたい?還れない。
どうして?待ってるから。
誰が?あの子が。
一番に見つけて、私を。
他の誰の目でもない、キミのその瞳で。